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2010年9月12日 (日)

エペソ5章15-33節 「御霊に満たされ、互いに従う」

                                                2010912

  ある男性が、妻との関係に悩んで教会に来て、「妻たちよ、あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」というみことばに出会って、喜び感動し、牧師に向かって、「先生、ぜひ、家内にこのみことばを教えてやってください。するとうちの問題は解決します!」と熱く迫ったという話を聞いたことがあります。なかなか家庭の力関係は、二千年前の夫婦関係からは大きく変わっています。この手紙が記された当時、妻に向かって、「夫に従いなさい」などという命令は必要ありませんでした。当時の女性に基本的人権は適用されませんでした。彼女たちは夫に従わざるを得なかったのです。パウロはそのような文化的背景の中で、「従う」ということにキリストにある新しい意味を持たせようとしています。彼は本当に注意深くことばを選びながら、感動的なことばを綴っています。

エペソ書522節以降は、しばしば、結婚式の聖句としてばかり読まれます。しかし、今回、この書を初めから読んできて改めて感動したことがあります。それは、夫婦の関係は、何よりも、「どのように歩んでいるかを、よくよく注意し・・」という日常の信仰生活の中での、「御霊に満たされなさい」という命令の具体例として捉えるべきということでした。創世記2章にはエデンの園の調和が描かれ、そのシンボル的な表現が、「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(2:25)という記述です。ところが、彼らが食べてはならないと言われた木の実を取って食べたとき、互いに裸を恥じるようになり、被害者意識に満たされ、互いを非難しあう関係になりましたそのふたりの間から最初に生まれた子供は、カイン、弟殺しです。それは互いに自分を神とする生き方の必然的な結末でした。カインの末裔から、ありとあらゆる悪が広がっていきました。しかし、立ち返ってみると、すべてはアダムとエバが、自分の弱さを隠し、互いを責め合ったことから始まっています。簡単にいうと、人間のすべての不幸は、一組の夫婦関係から始まっているということです。結婚をするということは、この不幸の再生産をするという可能性が極めて高いのです。そして、事実、幸せになりたいと思って結婚したカップルが、互いばかりか、周りの世界を不幸のどん底に陥れるということが後を絶ちません。結婚ほど、恐ろしい冒険はありません。

しかし、『御霊に満たされなさい』という文脈から始まるキリストにある結婚は、この世界に幸せを広げる原点になりえます。そして、これは、すべての人間関係の基本です。問われているのは、伴侶の出来、不出来ではなく、あなた自身の生き方です。ですから、今回の箇所は、自分に関しては当面の間、結婚は無関係と思うような方にもぜひ聞いていただく必要があります。なぜなら、男女が一体となるという営みなしには、だれもこの世に生を受けることはなかったからです。つまり、今回の教えと無関係に生きられる人は誰もいないということが断言できます。

1.御霊に満たされなさい           

 15節は、原文では、「そういうわけですから、よくよく注意しなさい、どのように歩んでいるかを。賢くない人にようにではなく、賢い人のようにしているかを」と記されています。これは、キリストにあって「賢い人」にされているとの自覚のもとに、「賢い人として歩みなさいという意味です。それは具体的には、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(5:16)という勧めとして表されます。これは原文では、「時を贖いなさい。この日々は悪いから・・・」と書いてあります。「時を贖う」とは、一日一日の時間を神の贈り物として受け止めるということです。

そのような中で、「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(5:17)と勧められますが、これは一瞬一瞬、一日一日の積み重ねの中で問われていることです。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(5:18)とは、飲酒の禁止であるよりは、酩酊してはならないという警告です。そして、ここでは不思議にも、それと御霊に満たされることに共通点を見出しています。

酩酊は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされるときも、私たちはこの世の人の評価や人の自由を抑圧するようなしきたりから解放されることができます。両方とも、それは人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。なお、この勧めの背後には、当時のエペソにおけるディオニソスというぶどう酒の神への礼拝の様子が意識されていたのかもしれません。酒を飲み、歌い踊りながらディオニソスをたたえますが、そこには恍惚状態とともに性的な無軌道が生まれていました。

ところで、「御霊に満たされる」ことは、ある人にとっては御使いの異言を話すこと、不思議なわざを行うこと、また、恍惚状態の味わうことかもしれませんが、ここでは御霊に満たされることの四つの側面が記されています。

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語る」(5:19)ことです。賛美の基本は、歌うこと以前に、「互いに語る」ことです。それは何よりも、「詩」つまり、詩篇の交読が基本です。「賛美」とは信仰告白としての賛美歌のようなもの、霊の歌」というのは、パーソナルな証しの歌を指すのかもしれません。これは、公の礼拝のすべての部分に関わってくることでしょう。個人の証しとは、まさに、賛美であり霊の歌でもあります。

そして、第二に、「主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」とは「歌う」ことや楽器で主を賛美することを含めます。これは礼拝音楽すべてにかかわることだと思われます。

そして、第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(5:20)です。つまり、御霊に満たされるとは、自己満足に浸ることではなく、神がイエス・キリストにおいてなしてくださったすべてのことに対しての「感謝」が生まれることなのです。

そして最後の第四は、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。それが具体的には、続けて、夫婦関係として表されます。つまり、御霊に満たされるとは、何よりも、夫と妻の関係に表されるというのです。

2.主に従うように、夫に従う・・・とは

 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(5:22)とありますが、これは厳密には、「妻たちよ。主に向かうように自分の夫に」と記され、不思議なことに「従いなさい」という動詞は原文にはありません。これはあくまでも、すべての信仰者に命じられている「互いに従いなさい」という枠の中で、妻に率先してその命令を夫との関係の中で実践するようにと勧めるものです。これは、社会的にすでに服従を強いられている女性に向かって、被害者意識から自由になって、従うということをキリストの視点から見直すという発想の転換を迫るものです。

しかも、互いに従う」は分詞であり、主動詞は「御霊に満たされなさい」です。つまり、妻は、主を心から礼拝し、賛美し、感謝をささげるという信仰生活の中で、心から夫に仕えるという創造的な生活が勧められているのです。決して、自分の意思を押し殺して、夫に盲従するのではありません。そのことが、「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです」(5:23)と記されます。ここではまず、「夫は妻のかしら」と描かれています。先に、「教会はキリストのからだ」(1:23)とも描かれていましたから、夫と妻の関係は、「頭」「からだ」で描かれているのです。つまり、人間の中で「頭」「からだ」が争うことがないように、夫と妻の関係は何よりも、互いが互いを生かし合う関係なのです。しかも、ここでは、「キリストが教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように」と説明されています。教会はキリストのロボットのような存在ではありませんし、教会はキリストなしには存在することはできません。それと同じように、妻は夫のロボットだというのではなく、妻を本当の意味で生かすことができるのは夫であるという意味ではないでしょうか。

神は創造のはじめにおいて、土から男性を創造し、彼に土地を耕させ、すべての生き物に名前をつけさせるという創造的な責任を全うさせた上で、彼に深い眠りを与え、彼のあばら骨から女を作り上げました。つまり、夫の目の前には初めから、土地を耕し、獣を治めるという仕事があったのに対し、妻が目覚めたときには夫がおり、夫の主導の語りかけによって女が妻とされたという経緯があります。以来、夫は、仕事に生きがいを感じる傾向が強いのに対し、妻は何よりも夫の愛情を求める傾向があります。どこの家庭でも夫と妻の不満には同じような傾向が見られます。たいてい、夫は、「妻は僕がどれだけ仕事で苦労しているかわかろうともしない・・・ただでさえ疲れているときに、結論の見えない自分の話をだらだらとしたがる・・・」というものであり、妻の不満は、「夫は、私に関心を向けてくれない。私の話を聞いてくれない。利用することばかり考えて、私の人格を無視している・・」というものです。まして、この手紙が記された二千年前は、徹底的な男尊女卑の社会でした。妻は、夫の財産の一部であるかのように見られ、家の中に閉じこもり、家事と子育てに専念することが求められていました。残念ながら、夫は、妻に気遣うこともなく好き勝手に外に出て、帰ってきたら自分の欲求だけを満たそうとするのが一般的でした。

そのような中で、創造主は、妻に向かって、夫が創造された後で、妻が創造されたという創造の秩序に立ち返り、すべてにおいて夫を立てるという生き方を全うするように求めたのです。なぜなら、最初の人間が、善悪の知識の木の実を食べて以来、夫も妻も、自分を基準に人をはかるようになっているからです。夫には夫の理屈があり、妻には妻の理屈があります。そして、愚かなプライドに囚われている男性に限って、妻の意見に従うことに強い抵抗を感じます。妻が、ことばで相手を屈服させようとすると、言語能力に劣っている男性は、暴力で相手を屈服させようとします。それに対し、神は女性に、キリストの生き方に習うことにおいて主導権を持つように命じたのです。キリストの生き方とは、徹底的に人の気持ちに寄り添い、仕えるという生き方です。当時の宗教指導者が、ことばだけで人を動かそうとしたときに、イエスは無言で弟子の足を洗うという行動で、弟子の心を変えようとされました。つまり、妻は、夫との権力闘争に打ち勝って主導権を取ろうとするのではなく、キリストに従って夫に徹底的に仕えるという生き方で、夫の心を変えることを勧めたのです。そして、それでこそ、妻の心が夫の愛で満たされるのです。

なお、ここで、「教会がキリストに従うように、妻もすべてのことにおいて夫に従うべきです」ということばも、厳密には、「教会がキリストに従うのと同じように、妻は夫に向き合いなさい、すべてにおいて」と記されており、妻は夫に「従う」という動詞はありません。ここでも、「教会がキリストに従う」という例に、妻が夫に率先して従い、教会の一部とされている者としての模範を示すという意味が強く出ています。それは、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません」(ガラテヤ3:27,28)と記されているとおりです。そして、実際、コリント第一の手紙七章においては、当時においては天地をひっくり返すほどに画期的な形で、夫婦関係における男女同権を語っています

神は、決して、すべての妻に、家の中に閉じこもって、家事と育児に専念するように命じているわけではありません。実際、女性の社会進出が際立っているのは、基本的にすべてキリスト教国ではないでしょうか。妻と夫の役割分担が逆転したってよいのです。ただし、妻は、夫がいなければ家庭が成り立たないということをまず認め、権利を主張する前に、尊敬の心をもって互いに仕え合うということでの主導権を発揮するように命じられたのです。

女性によっては、途方もなく横暴な男性に仕えなければならないということもあるかもしれません。しかし、そのような中でも、しばしば、女性がキリストに出会うことができた後で、こんなことを言われます。「こんな最低の男に仕えなければならないなんて・・・と苦々しい思いで一杯だったけれども、私は愛するイエス様にお仕えすることの一環として、キリストへの礼拝の一部として、夫に仕えるのだ・・・と言い聞かせることができるようになりました。キリストに仕えるということを思い浮かべると、夫に仕えることがさほど苦痛ではなくなりました。それどころか、そのような気持ちで夫に接していると、夫の表情も変わってきました。顔も見るのも嫌だったのに、夫の良いところがわかるようになりました・・・」と。これは、どこかの特別な証ではなく、ほんとうに、クリスチャン女性によくある証しなのです。

3.キリストが教会を愛したように、妻を愛する・・・とは

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(5:25)とありますが、妻の場合にはとは対照的に、夫に対しては、「妻を愛しなさい」という絶対的な有無を言わせない命令形が記されています。そればかりか、キリストが教会のためにご自身のいのちを犠牲にされ、それによって栄光の教会をご自身の前に立たせてくださるという途方もない救いのみわざを示しながら、「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(5:28)と命じられています。これは厳密には、「だから夫には、妻を愛するという負債、または責任がある」と記されています。つまり、夫が妻を真心から愛そうと努めないということは、キリストへの何よりの不従順になるという断固とした迫りが記されているのです。

そして、パウロは「主の救い」を、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」(5:26、27)と描いていますが、ここにはパウロのジョークがあるような気がします。「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」ということばは、教会の美しさというよりは、女性の美を意識させる表現だからです。多くの夫は、結婚した後、妻の美しさにかげりが出ることに幻滅し、「お前は、醜くなったな・・・」などということを平気で言う場合さえあります。しかし、神の愛は、エゼキエル16章1-14節にもあるように、滅ぶべき女を、女王に育て上げることとして描かれています。そこで主は、「野原に捨てられ・・・自分の血の中でもがいている・・・あなたに『生きよ』と言い・・・野原の新芽のように育て上げ・・・飾り物であなたを飾り・・・あなたは金や銀で飾られ・・・上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた」とご自身のみわざを描いておられます。そして、神であるキリストはそれと同じように、罪人の集まりを、「聖く傷のない・・・栄光の教会」へと導いてくださいます。夫たちは、その圧倒的な主のみわざと約束に思いを向けながら、そのキリストの愛に習うように招かれているのです。もし、すべての夫が、このキリストの愛に感動し続けることができるなら、あなたの妻は、年を経るにしたがって、内側から湧き上がるような美しさに満たされることでしょう。そうすると、妻の美しさにかげりが出てくるのは、夫に責任があると言えないでしょうか。

その上で、パウロは、「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです」(5:28、29)と言います。つまり、「キリストが教会を愛されたように・・自分の妻を愛しなさい」という絶対命令は、自分自身を大切にすることと同じだというのです。妻を奴隷のように扱っている男性は、自分の身を憎んでいるのと同じです。女性には、一般的に、子育ての能力が男性以上に与えられています。それは、ひとりに人に仕え続けることができるという能力です。男性はしばしば、自分は何人の人に影響力を与えることができた・・・などという数で自分の能力を測ります。しかし、母というひとりの女性が、徹底的な献身をもって自分を育ててくれたのと同じように、妻は、徹底的に愛する夫に仕える能力があります。ただ、母の愛情は、かなり本能的な部分から生まれますが、妻の夫に対する愛情は、夫がどれだけ妻を大切に扱い、世話をしてきたかにかかっています。多くの男性は、自分の責任を果たさずに、妻に、母親代わりを期待しますが、それは本末転倒です。妻が夫を養い育てるのではなく、夫が妻を養い育てる責任があるのです。多くの男性は、仕事を引退した後、自分が妻を愛してこなかったことのつけを支払わされます。社会的な立場を一切失った男性は、なんとも言えない惨めさを味わいます。そのとき心の支えになるのは、妻しかいません。そして、妻は母ではありませんから、あなたを無条件に愛することなどできないのです。妻を愛するものは自分を愛し、妻を憎むものは自分を憎むという真理をそのときに悟っても遅すぎます。

  その上で、「私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(5:30-32)と記されますが、キリストと教会との神秘的な一致は、何よりも夫婦の一致として証しされます。実際、イエスは、「もし、互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13:35)と言われました。つまり、クリスチャンホームが愛の交わりとして形成されていることこそ何よりも最も効果的にキリストの愛を証ししているのです。反対に、どれほど聖書知識があっても、互いに愛し合っていない夫婦は決してキリストの愛を明かしすることはできません。キリストの愛は、目に見える夫婦関係の中に現されます。

 

最後に、「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」(5:33)とはこの部分の結論ですが、「妻もまた自分の夫を敬いなさい」「敬う」とは「恐れる」ということばと同じです。これは次の子供のことにもつながりますが、妻が夫を軽く見ていると、子供も父親を軽く見るようになります。しかし、父親は神が家庭に立てた最高の権威です。妻が、夫を恐れ敬うこともなく軽く扱っていると、子供もこの世の権威を軽く見るようになり、また神の権威をも軽く見るようになります。現代の日本は、権威喪失の時代です。福音が届かないことのベースに、そのような権威喪失の時代背景があるのかもしれません。

 アダムとエバが神に背いた結果は、互いに自分を被害者に仕立てて、相手を非難するという生き方の始まりになりました。それは、神の最高傑作でありながら、自分を神の競争者にしたいと思ったことから始まっています。

 それに対して、パウロは、キリストの生き方を美しく描いています。それはピリピ2章3節以降の勧めとキリスト賛歌において、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と描かれています。これは決して、相手の能力が自分よりも優れていると思い込むことではなく、目の前の人を自分が仕えるべき主人のように無条件に尊敬することの勧めです。様々な技能は主人ではなく奴隷にこそ必要だからです。そして、その上で、「それはキリスト・イエスに見られるものです。キリストは神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えずに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくして・・実に十字架の死にまで従われました」というキリストの模範が示されます。御霊に満たされるとは、この生き方に習うことにほかなりません。互いの正義や権利を主張しあって争う人間関係ではなく、キリストにある平和を求めるのです。ただし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。なぜなら、御霊に満たされる」ための大前提こそが、自分の心の貧しさ、無力さ、意思の弱さに嘆くことにあるからです。自分で自分を変えられないと認める人の中にこそ、創造主である御霊のみわざが現されるからです。

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2010年9月 5日 (日)

イザヤ51章1節~52章2節 「さめよ、さめよ」

                                                 201095

 「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)、たった四はいで夜も眠れず」という、宇治の高級茶と黒船をかけた狂歌が、江戸時代の末期の日本の現実をよく現しています。現代の日本も、目覚める必要があると言われています。しかし、なかなか方向が見えていないという現実があるのではないでしょうか。本日の箇所では、三重の「さめよ」という呼びかけがなされています。その第一は、不思議にも、まるで眠っているように見えた「主の御腕」に向かっての「さめよ」という語りかけです。多くの人が祈りの時間も惜しんで忙しく動き回っています。しかし、真剣に神に訴え続けることこそすべての始まりです。第二は、酒に酔って現実を見ていない人への「さめよ」という語りかけ、そして、第三は、絶望に打ちひしがれている人に希望を生み出すという意味での「さめよ」という呼びかけです。

1.「わたしに聞け・・わたしに心を留めよ」

51章の最初のことばは、「わたしに聞け」から始まります。その上で、「義を追い求める者、主(ヤハウェ)を尋ね求める者よ」(1)と言われます。彼らには、エルサレムの滅亡という悲劇の中で、神の義を見失い、神に失望する恐れがあったからです。そのような中で、主の恵みのみわざを思い起こすようにという訴えが、目を向けよ。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴にと記されます。これは、神が、アブラハムとサラを、偶像礼拝の民の間から選び出し、「神の民」を創造してくださったという原点に立ち返らせるものです。それは、彼ひとりをわたしが呼び出し、祝福し、その子孫をふやしたのだから2節)とは、アブラハムの信仰を導き、その子孫を増やして行ったすべての働きが、神の一方的なあわれみによるということを示すためです。

そして、まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、荒地を主(ヤハウェ)の園のようにするとは、主ご自身が神の都エルサレムを再興し、そこをエデンの園のような祝福で満たしてくださるという約束です。神の民の歴史は、エデンの園から始まって黙示録に預言されている「新しいエルサレム」として完成されます。そして、そこには楽しみと喜びが見出され、感謝と歌声とがある」というのです。

この世界の歴史は、神による創造の喜びから始まり、神による完成の喜びに向かっています。神の世界の歴史は喜びに始まり、喜びに向かっています。この世の悲しみは一時的な通過点に過ぎません。

わたしに心を留めよ。わたしの民よ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしのさばきを国々の民の光として現す(4)とは、私たちが「世界の光」とされ、用いていただくために必要なことは、何よりもまず自分の心を神に向け、神の御教えに耳を傾けることから始まるという意味です。

わたしの義は近い。わたしの救いは出ている。この腕は国々の民をさばく(5)とは、先のエルサレムに対する約束が既に実現に向かっていることを指します。そればかりか、島々はわたしを待ち望み、この腕に拠り頼む」とは、神の救いがイスラエルばかりか全世界に及ぶことを示しています。

そして、目を天に上げよ。また下の地に目を向けよ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者も同じように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」(6節)とは、目に見える世界のはかなさと、神の救いのご計画の永遠性が対照的に描かれたものです。私たちはたとえば、光の速度で五十億年もかかる遠い銀河団の暗黒物質を撮影することさえできます。大宇宙は私たちの想像を超えた広がりを持っています。しかし、この宇宙はビッグバンとか呼ばれるどこかの時点から始まり、どこかの時点で崩壊するというのは多くの科学者にとっての定説となっています。多くの科学者は、この宇宙は137億年前に、太陽は46億年前に始まったと言います。ちなみに太陽のエネルギーは、水素原子4個がヘリウムに変わるという核融合によって生まれていますが、どこかの時点でこれが燃え尽きるというのは、誰もが認めざるを得ません。

つまり、目に見える世界は、人の感覚には永遠に続くように見えても、始まりと同時に終わりがあるというのは誰もが認めざるを得ないことなのです。後に使徒ペテロは、「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:12,13)と告白しました。しかも、目に見える世界が滅びるのは、「神の正義」が全世界を覆う「新しい天と新しい地」を迎えるための前提に過ぎないというのです。私たちの信仰とは、世界の完成を待ち望むことにあります。そのことを、主は、イザヤを通して、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」と言っているのです。

7節では、1節と同じように、「わたしに聞け」という訴えがなされ、「義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ」と語りかけられます。ここでは、「義」が「わたしの教え」と言い変えられています。そして、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と言われながら、しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす」と神の民の敵の滅亡が預言されます。そして、そのように断言される根拠が、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(8)と記され、神の義と神の救いの永遠性が再び強調されています。

Great is Thy faithfullnessという賛美がありますが(Ⅱ賛美歌191)「神の義」とは、主を待ち望む者を、主は決して裏切ることはないという真実さを表しています。「人のそしり」とか、「ののしり」に一喜一憂してしまう私たちに、神はご自身の真実を示しながら、「わたしに聞け」と言われます。あなたの目と耳は、どこに向けられているでしょうか。昔いた会社では、「会社はきちんと君のことを長い目で見ているから、あせらなくても大丈夫・・・」などと言われましたが、今、その会社は、驚くほど多くの外国人の専門家を雇い入れ、社員の評価システムが劇的に変えられたと言われます。そこでは、多くの外資系企業のように、自分をアピールしなければ認めてもらえないようになってきているのかも知れません。しかし、それを信仰の世界でしてしまうと、パリサイ人と同じになってしまいます。彼らは、神の恵みは、自分の信仰または真実への報酬かのような誤解をして自分の信仰をアピールしていました。

しかし、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)とあるように、神の救いのご計画に耳を傾けることこそがすべての始まりです。私は長らく、自分の信仰を計りながら一喜一憂するという歩みをしていました。しかし、聖書を読めば読むほど、私の救いは神の一方的な選び、神のあわれみに始まるということがわかりました。私は自分の真実には信頼できません。しかし、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とあるように、神は不信仰、不真実な私に信仰を与え、それを完成へと導いてくださいます。そして、この世界もエデンの園の喜びと祝福の回復という完成に向かっています。そして、成長の原動力は、常に、自分で「掴み取る」という姿勢ではなく、「力を抜いて聞く」ことに始まるのです。

2.「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ」

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように」(9節)とは不思議な表現です。これは救いをもたらす神の御腕が眠っているように見えているという訴えだからです。「さめよ」という動詞は、504節の「主のしもべ」の「主が・・私を呼びさまし、この耳を呼びさまし」という告白と同じです。そして、「それはあなたではないか」と繰り返しながら、「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」というエジプトに対する神のさばきを思い起こしています。なお、307節で「ラハブ」はエジプトの別名、また「竜」とはエジプトの王パロを指します(エゼキエル29:3別訳)。その上で、再び、「それはあなたではないか」と問いかけながら、「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて贖われた人を通らせた」という、「主の御腕」が紅海をふたつに分けて民を通らせたという不思議な救いを思い起こしています。その両方において、主の御腕が偉大な救いをもたらしてくださいましたが、今は、それがまるで眠っているように見えているので、「さめよ」と失礼な訴えがなされているのです。

ただ、そのような訴えの直後に、救いを確信した喜びが表現されます。ここでは、そのような全能の「主(ヤハウェ)の御腕」が目を覚ます結果として、「主(ヤハウェ)に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは歓喜のうちにシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく」と、バビロン捕囚にされていた神の民がエルサレムに帰還する様子が描かれ、そのときには、「楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(11)と美しく描かれています。

詩篇4423節には「起きてください(さめよ)。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください」という祈りが記されていますが、これを読んだとき、何か、心がすーっと楽になった気がしました。そのように作者が訴えたのは、その前の節に、「あなた()のために、私たちは一日中殺されています。私たちはほふられる羊と見なされています」と嘆かざるを得ない絶望的な状況があったからです。しかし、使徒パウロも、主の福音のために、死の一歩手前までの鞭打ち刑を受けたことが五度、船が難破しかことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあり、「たびたび眠られない夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と告白しています(Ⅱコリント11:23-27)。パウロは、そのような苦しみの中で、いつも、「ハレルヤ!」と主に感謝していたのでしょうか?たぶん、彼は、そのような中で、この詩篇44篇を開きながら「起きてください。主よ」とか、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ」と訴えていたのではないでしょうか。しかし、このイザヤ書にも明らかなように、主への必死の祈りの直後には、歓喜が生まれるのです。ですから、パウロも、自分の苦しみを先の詩篇4422節で表現しながら、「しかし、これらすべてのことの中にあっても」と言いつつ、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となっている」(ローマ8:37)と断言しています。つまり、主に向かって疑いを含めた正直な気持ちを訴えるところから、圧倒的な勝利の確信が生まれてくるというのです。

そして、12節では、わたし、このわたしこそがあなたがたを慰める者と、主ご自身の一方的な主導権によって救いをもたらすと宣言されます。そして、主は神の民に向かって、何者なのか、あなたは。死ななければならない人間や、草のように置かれた人の子を恐れるとは」と問いかけます。これは、神の民としてのアイデンティティーを忘れていることへの警告です。先に主は、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」(49:16)と言っておられました。私たちはこのような主の語りかけを忘れた結果として、人の脅しに屈するようになります。そのことを主は、「そして、あなたは主(ヤハウェ)を忘れている。あなたを造り、天を引き延べ、地の基を定めた方を」と訴え、そして、その結果として、「それで、一日中、絶えず、おびえている。まるで滅ぼす備えができているかのようないたげる者の憤りを前にして」という事態になります。創造主を恐れることを忘れた者は、この世の権力者を恐れるようになるからです。そして、再び、しかし、しいたげる者の憤りはどこにあるのか。押さえつけられている者はすぐに解放される。死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠くこともない(14)という民の解放が告げられます。そして、1516節の、わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主(ヤハウェ)。わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を植え、地の基を定め、『あなたは、わたしの民だ』とシオンに言う」と言われます。これは、十のことばを与えた神のパーソナルな語りかけと同じ表現から始まっています。創造主を忘れることこそ、罪の根本です

主はここで、「何者なのか、あなたは」と問いかけてくださっています。人の憤りを恐れて、それに屈しながら、主を忘れるような生き方、それが問われています。自分で自分に向かって、「恐れるな!」と励ますのではなく、主の永遠のみわざに思いをめぐらすことこそ、「恐れ」から解放される道です。自分のうちに沸きあがってくる恐怖感情を抑えるのではなく、それを主に正直に訴えることこそ、すべての始まりです。

 

3.「さめよ。さめよ。立ち上がれ、エルサレム」

17節の始まりは、先の「さめよ」と同じ動詞の再帰形を用いながら、「さめよ(自分をさませ)。さめよ。立ち上がれ。エルサレム(17)と告げられます。それは、エルサレムに対する神からの必死の語りかけです。私たちのまわりにも、非常に危険な状況に置かれていながら、とてつもなく呑気に生きているという人がいるかもしれません。「そんなことしていて大丈夫なの・・・」と心配しても、本人は、「どうにかなる・・・」と悠然と構えています。そうなるのは、幼いときから、何か失敗するたびに親が尻拭いをして、しっかりと責任を取らせてこなかったからかもしれません。それにしても、責任を取らせることと、助けの手を差し伸べることのタイミングは驚くほど難しいものです。なぜなら、それは神と神の民との関係でも起こっていることだからです。イスラエルの民も、何度も神にそむき、自業自得で苦しみを招いたのですが、そのたびに神が御手を差し伸べる必要がありました。しかし、その繰り返しの中で、彼らは、主を甘く見るようになりました。それに対して、主は、彼らに警告したとおりの苦しみを与え、自分がそれだけ愚かな生き方を続けてきたかに目覚めるように迫っています。まず、自分の絶望的な状況をきちんと直視できないと、本当の意味で、創造主に助けを求めるということができません。真剣な祈りは、絶望感から生まれるからです。

ここでは彼らが目を覚ますべき状態にあることが、主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した者よ」(17節) と描かれています。これは、エルサレムが神の怒りを真っ向から受けていることを意味します。神の怒りとは、多くの場合、神ご自身が直接の罰をくだすというよりも、やりたいようにやらせ、生きたいように生かすことによって、自業自得による自滅を導くということに表されます。それは、毎日、酒びたりになりながら、自己破産に向かって行く人を、そのままにしておくことです。彼らは酒によって現実を見ることができないのか、現実を見たくないから酒に逃げるのかわかりませんが、とにかく当人は、神のさばきを受けているという自覚がまったくないままに滅びに向かっています。その様子をパウロはローマ人への手紙12426,28節で、「それゆえ、神は、彼らの欲望のままに汚れに引き渡され・・・情欲に引き渡され・・・良くない思いに引き渡され」と描いています。

しかし、神はここで、彼らが自分の愚かな生き方に目覚めるように望み、「さめよ、さめよ」と語りかけ、現実を直視させようとしておられます。その彼らの悲惨な現実が、まず、彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者がない」(18節)と描かれます。これは、エルサレムに生まれ育った者が、そこを導くことができないという指導者不在、また、エルサレムを守るために戦う者がいないという状況です。これは現代の日本の課題ともいえましょう。日本は非常に危ないところに立たされています。ところが、明確なビジョンを示す指導者がいないとばかりか、国民もみんな評論家気取りで、国を守るために立ち上がるなどという気概がどこにも見られません。神はそんな日本人に、「さめよ」と言っておられます。

その結果、「滅亡と破滅、ききんと剣」という二組の悲惨が、エルサレムとその住民に襲いかかります(19)

そのような中で、「だれが、あなたのために嘆くだろうか・・・だれが、あなたを慰めようか」と問われます。

そして、その住民の絶望的な状況が、「あなたの子らは気を失う。網にかかった大カモシカのように、すべての町かどに倒れ伏す」と記されます。野生の大カモシカは逃げ回ることに俊敏ですが、一度、つかまってしまうと気力が萎えてまったく動けなくなるということのようです。そして、そのような絶望感に襲われているもともとの原因は、「主(ヤハウェ)の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている」ためです(20)

その上で、「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ」(21)という語りかけがなされますが、これは、先の、「憤りの杯・・を飲み干し」て、悩み苦しんでいるエルサレムの住民を指します。そして、22節では、「あなたの主、ヤハウェは、こう仰せられる」から始まり、その方は、「ご自分の民を弁護するあなたの神」と描かれ、その慰めのことばが、「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げたあなたはわたしの憤りの大杯を二度と飲むことはないです。これはイスラエルに対する神のさばきが終わったことを指します。彼らは、酔いから覚めて、主の救いを真剣に求めなければなりませんが、茫然自失の状況です。それに対して主は、ご自分の主導権によって、彼らを酔いから覚ましてくださるというのです。

イエスはゲッセマネの園で、「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさってください」(マタイ26:42)と祈られましたが、これはイエスご自身がイスラエルの王として、主の憤りの杯を飲み干してくださったことを示しています。それはイエスが私たちの身代わりとしてこの「憤りの大杯」を飲んでくださったことを意味します。私たちはイエスにつながることによって、この「憤りの大杯」を二度と飲む必要はありません。私たちはそのしるしとして、イエスの契約の血としての祝福の杯を、聖餐式において受けさせていただきます。

「それを、あなたを悩ます者たちの手に渡す・・・あなたは背中を地面のようにし・・彼らが乗り越えて行くのに任せた(23)とは、エルサレムを踏みにじったバビロンが、代わりに、主の憤りの杯を飲まされて苦しむことを意味します。そしてこれは後に、イエスを十字架にかけたユダヤ人たちが悔い改めなかったことによって主の憤りの杯を飲むことになったことを指すものでもあります。イエスの十字架と復活の約四十年後、エルサレムがローマ帝国によって滅ぼされ神殿も廃墟とされましたが、それは神の御子を不当に苦しめた者たちへの神のさばきでした。

52章初めでは、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレムと呼びかけられますが、これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたエルサレムを、喜びの祝宴へと招いている優しい語りかけです。「無割礼の汚れた者が、もう入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がれ。もとの座に着け、エルサレムよ。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」(1,2)とは、エルサレムが神の都としてすべての国々の上に立つことを意味します。これは、明らかにバビロンの支配から解放されることを意味しますが、現実には、エルサレムはその後も、ギリシャ帝国やローマ帝国の支配下で苦しみ続けました。

イエスの時代の人々は、エルサレムが無割礼の汚れたローマ人の支配から解放されることを切望していました。そして、黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから出て、天から下ってくる」(21:2)と記されますが、それこそ、この預言が成就するときです。

神の民は、昔、エジプトに苦しめられ、またこのときはアッシリヤによって、そして後にはバビロンによって次々に苦しめられます。それによって、イスラエルの神、ヤハウェの御名も世界中で侮られることになっていますが、それは神が無力だからではなく、その民が神に逆らい続けた結果です。

イエスは、最後の晩餐において契約の杯をお与えになった後で、「わたしの父の御国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29)と言われました。これはイエスによる断酒宣言ではありません。かえって、天の御国の祝宴が間近に迫っているという励ましのことばです。イエスご自身も私たちといっしょにこの天の祝宴を待ってくださっています。そして、私たちが守る聖餐式は、天の祝宴を先取りして祝うものです。聖餐式のたびに、私たちは「はるかにそれを見て喜び迎える」という心の姿勢が問われています。そして、その契約の杯で覚えられることは、私たちの意志表明ではなく、イエスによる約束なのです。

イエスがゲッセマネの園で苦しんだのは、「主の憤りの杯」を飲むことの恐怖を心から知っていたからでした。それを知らずに滅びに向かっている人が何と多いことでしょう。それにしても、そのとき弟子たちは、眠りこけていました。彼らは自分たちの置かれている状況を知ろうとはしていなかったからです。イエスはそんな彼らに、「さめよ」と言われました。そこには最初に述べた三重の意味で、「さめよ」が含まれているのではないでしょうか。

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