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2010年10月31日 (日)

ヘブル2:5-18 「いつくしみ深き兄なるイエス」

                                           20101031

  多くの人は、「死ぬ」ことを、意識が麻痺できることと捉え、それほど恐れてはいません。それどころか、激しい不安と恐れを抱いている人は、自分の意識を無くするために、死ぬことを自分から願ったりさえします。

しかし、それこそ、サタンの策略です。誰も、死んだ後のたましいの状態を見た人はいないからです。神から与えられたかけがえのない「いのち」を意図的に粗末に扱った人は、神の厳しいさばきを受けざるを得ないと聖書は一貫して書いてあるからです。

そこで大きな誤解があるのは、私たちの不安は、何かを失うことへの「恐れ」であるはずなのに、「死」を、すべてを失うことのシンボルとは見ていないことです。死において人は、人は孤独です。やがてすべての人から忘れ去られます。財産があったって相続争いの原因になるだけかもしれません。

しかも、肉体の死に恐怖を感じない人でも、死を腐敗のプロセスと見ると嫌悪と恐れを抱きます。「腐ってゆく」というのは何とも嫌なことです。肉体の衰えを防ごうとスポーツクラブに通う人が増えていますが、私たちは「心が腐ってしまう」ことにも注意を向けなければなりません。

それに対して、キリストにある者の人生は希望に満ちています。私たちの内なる人は日々新たにされ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてゆくと約束されているからです。神は、私たちを、腐敗ではなく、栄光へと導いてくださいます。

1. 神が多くの子たちを栄光に導くために

  人はすべての生き物の中で、最もひ弱なものかも知れません。しかし、全宇宙の創造主である神が、ひとりひとりを「みこころに留められ」「これを顧み」(6)ておられ、すべての人が、本来「栄光と誉れの冠(7)を受けるために創造されたのです。

しかし、多くの人は、自分に価値を与えてくださる方を忘れて、傲慢になったり、卑屈になったりしています。私自身も、しばしば、この人との対比で見られる「私」に注目し、目を留めてくださる方を忘れ、自分の力で栄光と誉れの冠を掴み取ろうと頑張って来ました。そして、自分に問題が降りかかることを恐れ、問題を起こしそうな人を避けたい、小心者の自分が見え隠れしています。

   ところがイエスは、「万物の相続者」「世界を造られ」「万物を保っておられる」方でありながら(1:2,3)「さげすまれ、人々からのけ者にされ」(イザヤ53:3)、十字架で死にました。

彼はその際、すべてから見捨てられ、ひとりぼっちとなった者の仲間ばかりか、その代表者となり、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。

しかし、神は彼を三日目によみがえらせ「栄光と誉れの冠」(9)を与えてくださいました。しかも、それは、彼が、完全な人として生きる模範を示されたばかりでなく、その死を、「すべての人のために味わわれた」とあるように、「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げる」ためでした(9:12)

「多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」(10)とありますが、「子たち」とは原文では、「息子たち」と記されています。これは、神が私たちを、ご自身のひとり息子であるイエスと同じように見ておられることを意味します。しかも、「救いの創始者」とは、イエスのことですが、彼はご自身の血によって、私たちを聖めてくださいました。

三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、高校の教科書にも出てくるほどです。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。

その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは聖書が、私たちに与えられた救いを、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4)と描いていることを基にしています。

これは、私たちに与えられた約束です。「ことば」と呼ばれるキリストが人となり、十字架にかかってくださったのは、この私たちがイエスと同じような神のご性質を持つ者に変えられるためだというのです。

それに続いて、「聖とする方」(イエス)も、「聖とされる者たち」(私たち)も、「すべて元はひとつです」(御父に由来する)と、不思議な表現が記されています(11)。これは、私たちが、このままでイエスの妹、弟とされているという神秘を表すためのものです。事実、イエスは私たちを「兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう』」(12)と言われるというのです。

これは詩篇2222節からの引用ですが、その詩篇の冒頭のことばこそ、上記にあるようにイエスが十字架で叫ばれた「わが神、わが神・・」です。私たちもこの詩篇と同じような絶望感を味わうことがあるかもしれません。しかし、イエスご自身が私たちの兄としてこの気持ちを先立って味わい、そして、よみがえり、ご自身を死の中からよみがえらせてくださった父なる神の御名を、妹や弟である私たちに先立つワーシップリーダーとして、「わたしはあなたを賛美しよう」(12)と言っておられるというのです。

私たちの信仰とは、このままの私たちがイエスの妹、弟とされ、御父のかけがえのない娘、息子と見られているという途方もない特権を覚えることなのです。それを思い巡らすことから、真の心の平安が生まれ、この世の困難に立ち向かい、人を愛する力が生まれます。

2. 私たちの兄となり死の力を滅ぼしてくださった方

「わたしは彼に信頼する(13)とは、イザヤ8:17,18を引用されたイエスご自身の告白です。これは、まわりが暗闇に見え、神の御顔が隠されているように思える中で、なお、神に信頼し、望みをかけるという意味です。

そして、続く、「神がわたしに賜った子たちは」「子」とは、原文では「幼子」で、イエスが私たちをご自身が世話すべき無力な妹、弟と見ておられるという意味です。つまり、イエスご自身ばかりか、神が彼にゆだねてくださった幼子たち自体が神の救いの偉大さのしるしとなっているのです。

人は、だれしも、一度や二度は、「教会に行って神様を礼拝したって、状況は何も改善しない!」とぼやきたくなることがあります。その時イエスは、そんな私たちを叱責する代わりに、ご自身の十字架と復活を振り返りつつ、「心配せずに、私の父なる神をともに賛美し、信頼しながら歩んで行こう。わたしと同じように、お前たちも神の救いの偉大さを証しするのだから・・・」と、私たちを励ましておられるのです。

なお、真の指導者は、自分に従ってくる者たちの苦しみを体験している必要があります。火の中に飛び込む救助隊の指導者が、火の中をくぐり抜けた体験を持っていないなら、どうして隊員は彼の指示に従おうという勇気が湧いてくるでしょう。

それと同じように、キリストは私たちと同じ苦しみを体験されたことが、「子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになられた」(14)と記されています。

イエスは「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(1:3)であられ、また、私たちの創造者であられるのに、私たちと同じ「血と肉」のからだをお持ちになりました。

これは、王様が奴隷になるよりも、はるかにすごいことです。「血と肉」を持つとは、飢え渇き、病になり、やがて死んで行く、不自由な身体を意味します。本来、永遠に死を味わうことがない方が、私たちと同じ死の苦しみを体験しようとされたのです。

ところで、人間が死に支配されるようになった経緯を、聖書は、人類の父アダムが、欲に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、滅びる者となったことにあると説明します。その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。

事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました

それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗してゆく肉体を持つ身体となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださいました。

すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。

先の「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じようにこれらのものをお持ちになりました」にはそのような意味も込められながら、同時に、「これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)と驚くべき説明がなされます。

その意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。

ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして最後の大迫害の後まもなく、ローマ帝国はイエスの前にひざまずきました。

現在の日本に、幸い、そのような大迫害はありません。ただ、たとえば、重度の癌の苦しみに会う人は数多くいます。しかし、イエス・キリストを信じる人は、その死の苦しみの中で不思議なほどの平安に満たされ、いのちを輝かして行きます。それは、キリストのいのちが、死の力に打ち勝っているしるしと言えましょう。

「私は死など恐れない!」という人でも、自分の評判が傷つくことや孤独を恐れ、財産が失われることを恐れてるなら、それこそ、「死の恐怖につながれて奴隷となって」いる状態にあると言えます。

もし、本当に、死に打ち勝った結果として、死の恐れから解放されているとしたら、その人は、もっと余裕を持って、人のことも配慮しながら生きていられるはずなのです。

もしその人が、この死の恐怖を単に押し殺しているだけなら、自分で知らないうちに、恐れに支配され、まるでネズミのように、刺激や衝動に反応するだけの生き方をしてしまいます。

3. あわれみ深い、真実な大祭司となられた方

  このように、イエスが私たちと同じ血と肉を持たれたのは、「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」(17)でした。「神のことについて」とは、「神との関係に関することについて」という意味で、イエスが、父なる神と、罪人である私たちとの、「仲介者」としての「大祭司」となられたことを意味します。

「あわれみ深い」とは、私たちの痛みや悲しみを、ご自分のことのように一緒に感じてくださる感覚を意味します。また、「忠実」とは、「真実」とも訳され、頼ってくる者を決して裏切らない真実さを意味します。

アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。

キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。そればかりか偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て・・・平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。

それは、ひとりひとりが、イエスの「あわれみ」「真実」に触れることによって、その価値観が根本から変えられたからです。イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。

不思議にも今、キリスト教会やクリスチャンの悪口を言う人はいくらでもいますが、イエスご自身のことを悪く言う人はほとんどいません。みな一様に、「イエスは立派だけど、教会は駄目だ・・」と言ってくれます。居直ってはいけないことは重々わかりますが、それはキリストの教えが広まった証しとさえ言えましょう。

クリスチャンは、自分が馬鹿にされても、キリストの御名があがめられることを、いつでもどこでも求めるべきなのですから、これは喜ぶべきことかもしれません。

イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。不条理や不正と戦うのではなく、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。

ところで、イエスは、「あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で、ご自身の兄弟たち(妹や弟である私たち)同じようになられた(17)と記されていますが、それはどんな意味を持つでしょう。

人間の場合の兄は、妹や弟と同じ親のもとで同じ所に住み、同じ物を食べて育ち、しばしば通う学校まで同じです。妹や弟は、それを見ながら育つことができます。イエスはそれと同じような意味で私たちと同じようになられたのです。

その上で、イエスは私たちの代表者としての大祭司となられました。大祭司は、民に代わって、民の罪のために、神の怒りをなだめるためのいけにえをささげるのですが、イエスは動物の代わりに、何と、ご自身の身をいけにえとされました。つまり、彼は、私たちの罪の身代わりになるほどに、私たちの側に立ってくださったというのです。

しかも、創造主であるキリスト・イエスが人となられたのは、私たちにふりかかるすべての「のろい」をご自身で引き受け、担うためだったのです。

「のろい」とは不気味ですが、働いても生活が楽にならないばかりか、ある日突然、職場を追い出されてしまうという社会の構造は、確かに、「のろい」のもとにあると言えましょう。

そして、その始まりは、アダムが善悪の知識の木から取って食べた時、神が彼に「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)と言われたことにあります。

イエスの十字架の意味を聖書は、「キリストは、私たちのために、のろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)と語っています。イエスは私たちの創造主であり、王ですから、私たちすべてののろいをご自身で引き受けることができたのです。

アタナシウスは、「主の死は、すべての者のための身代金であり、この死によって『隔ての壁』が取り壊され、異邦人の招きが実現し、イエスは一方の手で旧約の民を、もう一方の手で異邦人からなる民を引き寄せ・・われわれのために天への道を開いてくださった」と語っています。

「隔ての壁」とは、神と私たちを隔てる壁、人と人とを隔てる壁の両方です。主は十字架でご自身の手を広げながら、私たちをご自身の中に招いておられます。ただ、それは不思議にも、私たちすべてをまずご自身の死とのろいの中に招きいれることから始まります。

そのしるしがバプテスマ(洗礼)で、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られましたと言われます。ところがそれによって、「死んでしまった者は、罪から解放されている」という死と罪の支配からの解放がもたらされました(ローマ6:4,7)。将来の肉体の死は、私たちの霊的ないのちを損なうことはできません。

今、私たちはキリストとともに死んだことによって、キリストとともによみがえる者とされています。バプテスマは、キリストにあるいのちをその身に着ることの象徴です。私たちはすでに、「死からいのちへ」「のろいから祝福へ」と移しかえられているのです。

サタンは、私たちの罪や汚れを指摘しながら、「お前のようなものが神の祝福のもとに入れられたなどというのは嘘だ。実際、お前はずっと昔の失敗を引きずって生きているだろうが・・・」などとささやきながら、キリストによる救いを否定しようとします。サタンは今も、私たちがのろいを受け、天への道が閉じられているように見せ、「どんなに頑張っても、頭の上には暗雲がただよっている・・・」と思わせようとします。

しかし、イエスは十字架に上り、空中で死ぬことによって、天への上昇路を開いてくださいました。十字架を見上げるとき、私たちはもう、すべての労苦が無駄になる「のろい」の下にはないことを知らされます。それは、「ですから、愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記されている通りです。

「ことばが人となられた」のは、私たちが神の愛とあわれみを知ることができるようになるためでした。そして、私たちは「ことばの受肉」を信じることによって、腐敗から不滅へ、のろいから祝福へ、死からいのちへと移されるのです。

二千年前に、私たちの創造主が、滅び行く人間となってくださいました。それは、「私たちがみな、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆく」(Ⅱコリント3:18)ための第一歩でした。

ところで、ここでは最後に、イエスご自身が弱い肉体を持つ人となり、「試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」(18)と記されています。そのようなあわれみに満ちたイエスにとって最も悲しいことは何でしょうか?それは、私たちが、心の底で味わっている悲しみや不安やさみしさを認めないことではないでしょうか。

たとえば、私は、長い間、自分の内側にいる寂しがり屋の声を圧迫してきたとふと気づかされました。自分では、心と心の交わりを築いてきたつもりでした。しかし、今思うのは、「私は交わりを築くことによって自分の寂しさと戦ってきた」ということです。それが戦いである以上、心の底には緊張があります。

イエスは、私のうちに住む、寂しがりやの私と交わりを築きたいと願っておられるのに、私は、「イエス様。どうかそばにいて、私がどうするかを、ただ見ていてください。」と言いながら、イエスの語りかけを心で味わう前に、自分で動き出してしまいます。そして、知らないうちに、自分のうちにある名誉欲に駆り立てられているのです。

  今、改めて思います。この私が母の胎のうちにいる時から、神は私を「わたしの息子よ」と目を留めておられ、時が来たときに、私にイエスを救いの創始者として示してくださいました。イエスは私を「私の弟よ」と呼び、私を礼拝者の交わりに加えてくださいました。

イエスは私に代わって死の力を持つ悪魔と戦い、勝利を得られ、「大丈夫だから、わたしについてきなさい」と招いておられます。たとい、様々な過ちを犯していても、イエスは大祭司として、私たちの側に立って、父なる神にとりなしてくださいます。

ですから、恐れることなく、すべての思い悩みを、いつくしみ深いイエスにお話ししましょう。私たちの兄となるためにイエスは人となられたのですから。

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2010年10月24日 (日)

エペソ6章10-24節 「主にあって強められなさい」

                                                  20101024

最近、格安航空が流行っていますが、今年の夏、アメリカに行ったとき、たまたま航空会社の都合で、ビジネスクラスに回してもらうことができました。僕はそのとき心から、「お金の心配などせずに、毎回、この待遇を受けられたらな・・・」と思いました。それどころか、ファーストクラスで飛んでみたいとさえ思いました。私は、そのとき、自分の内側に眠っている願望の強さに驚かされました。

多くの人々はクリスチャンとしての成長を望みながら、内側では、「もっと尊敬されるような人物でありたい」「もっと豊かに生きたい」「もっとこの世に影響力を発揮したい」という思いに駆り立てられてはいないでしょうか。日々、主の前に静まるというディボーションにおいてさえ、この「もっと、もっと・・」という罠にはまる恐れがあります。

しかし、主の前に静まることの目的は、何よりも、神の子とされたという誇りのうちに生きることではないでしょうか。そのことをパウロは、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました光の子どもらしく歩みなさい」(5:8)と勧めます。「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。

  ただし、私たちはある意味で、「御霊に満たされなさい」(5:18)という命令を実行するために、日々、静まりのときを持つのではないでしょうか。その際、昔から言われているように、すべての始まりは、主を賛美することにあります。賛美には詩篇の祈りや自分の心にぴったりとくる賛美が有効でしょう。そして、感謝が次に来る必要があります。

ルターは、「日向の石に熱くなれと命じる必要はない」と言ったとのことですが、主を賛美し、主に感謝しているとき、不思議に、私たちの心に力が与えられます。自分で自分を元気付けようとする代わりに、たとえば詩篇103篇などを朗読し、主がなしてくださった恵みのみわざのひとつひとつを数えてみると良いのではないでしょうか。

  その上で、示されている罪を主に告白します。ただ、賛美と感謝が先立たなければ自己嫌悪を加速することになりかねません。私たちは、主の前に静まってみことばをいただく前に、この「賛美」、「感謝」、「告白」という三つのプロセスを経るということが大切ではないでしょうか。それこそが心を静めるためのプロセスとも言えましょう。

1.私たちの格闘

パウロは手紙の終わりに当たって、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」(6:10)と言いました。命令の中心は、「強くなりなさい」ではなく、「主にあって強められなさい」です。

パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言っていますが、そこでの「できる」ということばと、ここでの「大能」ということばの語源は同じです。

また、「強められる」ということばは、主がパウロに、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)というときの「力」と同じことばの語源です。

つまり、ここはすべての人間的な思いを超えた力が私たちをおおうということによって起こる不思議が記されているのです。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」(6:11)とありますが、悪魔の策略の基本は創世記3章に記されています。そこでサタンは、自分を隠しながら、最も賢い被造物の姿で現れ、神のみことばに対する疑いを起こさせました。

それはまず、うるおぼえの神のみことばを曲げて解釈させることでした。みことばは、正確に暗誦していることが大切です。しかも、文脈をきちんと読むことが大切です。

サタンは、目の前の善悪の知識の木の実を、「目に慕わしく・・いかにも好ましい」ものとして見せ、「神のようになり、善悪を知るようになる」という願望を刺激しました。私たちも同じ誘惑を受け続けています。

事実、イエスを誘惑したサタンも、パン(富)と、奇跡的なパーフォーマンス(人気)と、この世を治める力(権力)の魅力を見せました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(6:12)とありますが、最初の二語は新共同訳では「支配と権威」と訳されています。この世には、どうあがいても抗しがたい「支配」、また、目に見える様々な恩恵を施し、また災いをもたらす「権威」があります。

また、「暗やみの世界の支配者たち」というときの「支配者」とは、先の「大能の力」と言ったときの「力」と同じ言葉です。さらに、「天にいるもろもろの悪霊」とは、人間的な力ではなく、天的な霊の力を指しています。

つまり、この四つの項目で言っていることは、私たちは、どれほど自分を鍛えても、決して対抗できない「支配」、「権威」、「力」、「天からの霊」を、敵として戦っているということです。私たちはその力に決して抗することも勝つこともできません。私たちがこれらの力に勝利できる秘訣は、自分の無力さを心から知るということです。

大塚野百合さんは百万人の福音10月号でルターの有名な讃美歌の日本語訳に関し、讃美歌267番では、「よみの長も など恐るべき」、聖歌では、「くらきのおさ、秘術を尽くし攻めきたるも など恐るべき」と訳していることに関し、「日本の教会は、ルターのように悪魔の恐ろしさを感じていなかったのではないでしょうか」と憂慮を示しながら、ヘンリ・ナウエンが、「神があなたを召しておられると感じれば感じるほど、あなたは自分の魂の中に、神とサタンとの宇宙的規模の戦いがなされていることに気付くのです」と記したことばを引用しています。

ちなみに、この部分を、私は、「古き悪魔 知恵を尽くし 攻め来たれば 地のたれもが かなうこと得じ」と訳しました。

世界最大級の宣教団体OMFの創始者ハドソン・テーラーは、ほとんど何の経済的保証もない中で、ただ主に信頼し、働き続けたような人でした。しかし、彼は記しています。

「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と。

そんな絶望の時、友からの手紙が届き、そこに「信仰を強められるため、どうしたら良いのだろう。それは信仰を求めて努力するのではなく、忠実なお方によりかかることだ」と記されていました。

その時彼は、「私にはすべてが分かった。『たとい、私たちは不真実であっても、彼は常に真実である』(Ⅱテモテ2:13)。私は主を仰ぎ、『決してあなたを見捨てない』(ヘブル13:15)と言われる主を見た!」と感動を味わい、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という信仰の事実の中に憩うことができたのです。

信仰の始まりはキリストの愛の語りかけに心を開き、やすらぎ憩うことです。主は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です・・・わたしを離れては・・・何もすることができない」と言われました(ヨハネ15:5)

しかし、残念ながら多くのクリスチャンも、自分の力で実を結ぼうと必死になってはいないでしょうか。ぶどうの枝は、木から養分を受けようと必死になりはしません。ただ、枝を通して実をならせようとする木の力に、身を任せているだけなのです。

2.「しっかりと立ちなさい」

  「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(6:13)とありますが、ここでの中心は、「神のすべての武具を取りなさい」ということであり、その目的は、「対抗し・・・堅く立つことができるように」という点にあります。中心点は、サタンの攻撃に屈して退却することのないように堅く立つために、神の武具を着けることです。

ダビデとゴリヤテとの戦いの際に、ダビデはサウル王からもらったよろいを脱ぎ捨てました。それは彼の体には重すぎたからです。人の成功談を聞きながら、お仕着せの武具などを身に着けようとしてはいけません。人の成功談を鵜呑みにしてまねようとしてはいけません。だいたい、「あのようなクリスチャンになりたい・・・」などという憧れが、神を見えなくする場合だってあるのです。

この文脈での中心的な命令は、「では、しっかりと立ちなさい」(6:14)です。これが本動詞で、それに四つの分詞形が続きます。これは、私たちが「しっかりと立つ」ことができなければサタンとの戦いに勝つことはできないのですが、そのために神の武具をどのように身に着けるかが次の四つの観点から記されています。

第一は、「腰には真理の帯を締め」ながら「立つ」です。重い物を持ったり労働する時、しっかりと腰に帯を締める必要があります。「真理」とは「まこと」とも言われます。

イエスは、「わたしが真理です」と言われました。私たちはイエスをその身に着ているのです。ガラテヤ3章27節では、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」と記されています。それを思い起こしながらしっかりと立つのです。

第二は、「胸には正義の胸当てを着け」ながら「立つ」ことですが、胸当てはサタンの攻撃を防ぎます。「正義」とは自分自身の正義ではなく、「神の正義」です。それは神がご自身の子に対して尽くしてくださる正義です。

サタンは私たちを失望させるようなことばを常にぶつけてきます。「おまえはそれでもクリスチャンなのか?おまえは何も変わっていないではないか・・・。おまえの通っている教会には、つまらない人間ばかりがいるではないか・・・」などと、今までの信仰生活が無駄だったようなことを言って、私たちを神と神の教会から引き離そうとします。

  第三は、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(6:15)とありますが、「平和の福音」とは、神がこの地に平和(シャローム)を完成してくださるという「希望の知らせ」です。それはイザヤ52章7節にあるように、争いと混乱に満ちた世界で、神の救いが近いことを告げ知らせ、神により頼むことの幸いを告げる足のことです。

決して自分の力で人と人との和解を実現しようと動き回ることを勧めるものではありません。そこから人への隷属が始まります。

第四は、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」(6:16)とありますが、「大盾」とは、扉のようなものを自分の前に立てて、その後ろに身を隠すためのもので、その目的は、飛んできた「火矢を」刺さったままにして「消す」ことにあります。

「信仰」とは何よりも、神の約束に対する信頼です。それは、目の前の現実が期待通りにならない中での希望です。多くの人は目の前に悲惨の中で、エレミヤ29章11節の主の約束に慰めを受けています(Jeremiah29:11という名の店をシンガポールで発見)。

そこには、主ご自身が、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだー主の御告げーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と記されています。

そして、そこで記されている悪魔の「火矢」とは、根拠のない楽観的で安易な望みであり、現実の厳しさを忘れさせ夢に逃避させるような淡い期待です

「大盾」の後ろに隠れ続けることは「忍耐」が必要です。自分で火矢を消すこともできません。それが燃え尽きるのを待つしかないのです。同じように人生には、ただじっと身を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つしかないときがあります。それを可能にしてくれるのが神の真実に頼る信仰です。

 

3.御霊の剣と祈り

6章17節は、厳密には、「救いのかぶとを受け取りなさい。また、御霊の剣である神のことばを」(6:17)と記されています。そこでは、「受け取りなさい」という本動詞が記されており、ここから「祈り」に結びつく新しい展開が始まっているのだと思われます。まず、「かぶと」は私たちの頭を守るものです。

多くの人々がエペソ書から「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(2:5)というみことばに慰めを見出しています。そこでは、「救い」が既に完了したかのように記されていますが、これは私たちの最終的な救いの完成、キリストの姿にまで変えられるということが確かに保障されているという意味です。

そして、そのことが、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保障です」(1:14)と記されています。ですから「救いのかぶと」とは、何よりも聖霊に満たされることに他なりません。

「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(6:17)とありますが、みことばがサタンに対する唯一の攻撃の武器です。しかも、それは御霊によって与えられるものです。

マルティン・ルターの「神はわがとりで」の歌詞に、「悪魔世に満ちて よしおどすとも などて恐るべき 神ともにいます この世の君 ほえたけりて 迫り来とも 主のみことば これに打ち勝つ」(私訳)とありますが、この最後の原歌詞は「たったひとつのみことばが彼を押し倒すことができる」です。あなたにも、ひとつのみことばによってサタンに勝利した記憶が無いでしょうか。

淵田美津夫さんという太平洋戦争開幕の真珠湾攻撃の飛行隊長だった方が戦後まもなく信仰に導かれました。彼は、勝者が敗者を一方的に裁くという極東軍事裁判の不条理に怒りを感じながら、日本兵が米国でどのような扱いを受けたかを調べ初めましたが、そこで二十歳前後のマーガレット・コヴェルという女性がどれほど献身的に日本兵の世話をしてくれたかを耳にしました。

実は、その彼女の両親は日本に派遣されていた宣教師で、フィリピンに避難している最中に、日本兵によってスパイ容疑で惨殺されたというのです。しかし、両親は日本刀の下に引き据えながらも、心を合わせて熱い祈りをささげていました。マーガレットにはその祈りがどのような内容かが想像できました。それで、両親の思いを引き継ぐようにして日本兵のお世話をしようと思ったというのです。

この話を伝え聞いた、淵田は、憎しみから愛が生まれるという不思議を必死に知りたいと思いました。そのような中で、米国兵で日本の捕虜とされ、日本人を深く憎み、獄舎で聖書を読んで回心し日本の宣教師となったディシェイザー師の証を読み、謎が解けました。

その鍵は、イエスが十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」と祈ったことにありました。淵田はその時、まさに自分は47年間、自分が何をしているか分からずに生きてきたということに気づかされました。

それから二十年間、彼は、米国中を駆け回るような伝道旅行をしながら、「十字架こそが和解を生む」という真理を語り続けました。彼は決して謝罪はしませんでした。戦争は正義と正義のぶつかり合いであり、どちらにも必ず正義と非の両方があります。それよりも戦争の愚かさと憎しみの連鎖の危険を訴えました。

サタンは憎しみの連鎖を生み出すことを仕事としています。しかし、たったひとつのみことばがこの憎しみの連鎖を止める大きなうねりを起こしました。それこそが御霊の剣です。

「御霊の剣」としてのたったひとつのみことばというのは、人によって違います。ルターにとっては、それは「神の義」でした。神がご自身の一方的な恵みで自分を義としてくださるということがわかったからこそ、彼は当時のカトリックの束縛と圧制から自由になり、その誤った教えと戦うことができました。

たとえば、私の場合は、「神が私たちを一方的に選び、恋い慕い、偶像礼拝をねたむ方であることを示すみことば」のリストを味わうようにしています。

  ところで、18節の中心は、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」ですが、これは直接的には「救いのかぶとと御霊の剣を受け取りなさいという主動詞を修飾すると同時に、間接的には、14節の「しっかり立ちなさい」を修飾する分詞です。つまり、「祈り」こそ、サタンの力に対抗する生き方の核心なのです。最近、「私はお祈りをしなくなった・・・」ということがあったとしたら、まさにサタンの思う壺です。

そして、ここでは、「すべての祈りと願いとを用いて」とありますが、これは様々な祈りのパターンを現しているのかもしれません。口頭の祈り、黙想の祈り、観想の祈り、忘我的な祈りなどがあります。また口頭の祈りでも、嘆願もあれば、主の祈り、平和の祈りなどがあります。

これらの祈りがすべて、御霊によってなされる必要があります。そのためにはまず自分自身の内側に抑圧されている思いに霊の耳を開きながら、「御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって・・・とりなしてくださる」(ローマ8:26)という御霊の導きの世界に心を開く必要があります。それは、時間のかかるプロセスではないでしょうか。

そして、「そのためには、絶えず目をさましながら」という訴えがなされ、そこに「忍耐の限りを尽くし」という継続性「すべての聖徒のための願い」という広がりに目を向けるように勧められています。

ここにある四つの「すべて」に目を向ける必要があります。それは、「すべての祈り」「すべてのときに」「すべての忍耐」「すべての聖徒のため」です。ここに私たちにとっての祈りの方法、時間、献身、対象の広がりが強調されています。

若い信仰者は自分のことしか祈れないかもしれません。しかし、いつまでたっても自分の身の回りのことしか祈れないとしたら、その人は、自分がキリストの愛に生きているかどうかを反省すべきでしょう。私たちは自分の家族、友人、職場ばかりか、政府のため、また世界のためにも祈るように召されています。あなたの祈りは、あなたの世界の広がりを示します。

そして、それに加えて「私のためにも」(6:19)とパウロは付け加えます。そしてその内容は、「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」というものです。

そればかりか、「私は鎖につながれて・・大使の役を果たしています・・・語るべきことを大胆に語れるように」(6:20)というものです。パウロは自分が「福音の奥義」「知らせる」ための「大使とされている」ことを告げ知らせていますが、それは「鎖につながれて」という不思議な状態に置かれたままでの使命です。

彼はやがて当時の世界の支配者であるローマ皇帝の前に立とうとしています。彼はそこで裁判を受けるのですが、彼は自分の無実が証明されるようにというのではなく、「語るべきことばが与えられ・・・語るべきことを大胆に語ることができるように」と祈ってほしいと願っています。

大使の役割は、自分自身の立場を守ることではなく、自分を遣わした方の意思を伝えることにあります。

同じように私たちもこの世にキリストの大使として遣わされます。そこで私たちが祈るべきことは自分の利益や安全が守られることではなく、キリストの御名があがめられることではないでしょうか。

現在の日本でもNHK大河ドラマ「龍馬伝」が人気を博しています。彼の魅力は、日本のために自分の身を投げ打っているところにあります。そして、その姿に、福音を知らない多くの日本人が感動しています。

パウロの語ることばが多くの異邦人に届いたのも、彼が自分の身を捨てていたからです。というより、彼は自分のいのちがすでにキリストのうちにあって決して失われることがないように守られているという安心感をもとにして、福音のためにいのちを賭けることができたのです。

 パウロにとって、御霊の剣である神のことば」は、彼自身の能力や知恵によってではなく、人々の祈りによって用いられるものでした。そして、彼は自分とエペソの信徒のとの交わりを深めるためにテキコを遣わします。そして、その最大の目的は、自分のために祈ってもらうことと同時に、エペソの人々がパウロの様子を聞いて「心に励ましを受ける」ためでした。それは、彼らがパウロのうちになされている神の恵みのみわざを聞くことができるからです。

そして、パウロは最後に、エペソの人々への祝福として、「平和」と「信仰に伴う愛」が豊かに注がれるようにと祈っています。しかも、神の「恵み」が注がれる対象に関して、「主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に」という制限がついています。パウロは、コリント第一の手紙の末尾では、「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」とさえ祈っています(Ⅰコリント16:22)。

ただし、キリストへの愛は自分の内側から自然に生まれるものではありません。それは、父なる神と主イエス・キリストから与えられた平安と信仰に伴う愛が、ひとりひとりのうちに注がれ、その結果として、彼らが真心からイエスを愛するようになるという前提の下に記されています。

それは、愛のキャッチボールのようなものです。キリストの愛を確信すればするほど、キリストへの愛が生まれ、それがまた、神の恵みを招く力となります。私たちもそのような愛の交わりの広がりにいつも目を向けたいものです。

 

宗教改革者マルティン・ルターは改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態になりました。彼はその時、特に詩篇46篇に慰められ、讃美歌「神はわれらが砦」を記しました。

これは宗教改革の進軍歌とも呼ばれますが、実際は、祈りの歌です。そこではサタン勢力の圧倒的強さと私たちの無力さの対比が描かれ、私たちに「代わって」(「共に」ではない!) 戦ってくださる万軍の主キリストへの信頼が歌われます。

この世の人に対し、肉の力によって戦う者は、人の奴隷になってしまいます。より強い人の助けに頼らざるを得なくなるからです。サタンは、人を自分の土俵に入れて戦わせ、自分の手下を増やそうと常に画策しています。しかし、私たちは祈ることによって、彼らを、神の前に立たせることができるのです。そのとき初めて、彼らに勝ち目はなくなるのです。

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2010年10月19日 (火)

イザヤ56章1節~57章16節 「神の安息への招き」

                                       20101017

  ニック・ブイジッチという28歳のオーストラリアの男性がいます。彼は生まれたときから両手両足がありません。あるのは、たったひとつの足の先だけです。しかし、彼はずっと普通の学校に通い続け、大学で会計学の学びを修了しています。彼は音楽の才能があり、たった一つの足先でドラムマシーンを操作します。しかも、ゴルフ、釣り、水泳が好きで最近はサーフィンをさえ楽しんでいます。しかし、それでも一番苦労するのは起き上がることです。ひっくりかえったら首と頭で体を支え何かを頭の台にしてようやくひざの上に立つことができるに過ぎません。そんな彼が、どのようにサーフィンボードに立つのでしょう。しかし、仲間が立たせてくれます。前向きにチャレンジを繰り返す彼にはいつもすばらしい助け手が与えられます。彼は苦労して頭を使って立つ姿を見せながら、「人生は決して諦めてはならない。なぜなら、決して、神はあなたを諦めないのだから・・・『主を待ち望む者は新しく力を得,鷲のように上って行く』とあるように、私は状況を変える必要はない。腕も足も必要もない。私に必要なのは、ただ聖霊の翼だけです。そして私は飛んでいます。イエスが私を支えてくださるからです」と言います。

七分あまりで、日本語の字幕もついてます。そこから彼の他の証も探すことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=oOHD8OqBVYs&feature=player_embedded

私たちにとって一番難しいのが、このチャレンジする気力を湧かせることかもしれません。本当にやる気にさえなれば、両手両足がないままでも海でサーフィンを楽しむことができるのです。なぜなら、真剣に生きようとする人の周りには必ず助けがやって来るからです。では、どのようにしたら良いのでしょう。

その教えの鍵が安息日です。安息日の教えこそが、聖書の最もユニークな核心です。そして、その中心は、この世界のすべてが、聖書の神、主(ヤハウェ)によって始められ、主こそがすべてのいのちの源であることを覚えることです。気力さえも、いや真の気力こそが、神の霊によって与えられます。残念ながら多くの人は自己憐憫や恨みに苛まれて、本当の意味で自分の絶望感を主に告白することができていません。主に自分の心を変えていただく必要があると心から認めることができません。それは、日々の忙しさから離れて、主の前にただ静まるというときを自分で作り出し、また、主を礼拝するためにともに集まるという積み重ねをしてゆくしかありません。しかも、それをできるように、主に祈る必要があります。

イザヤ56章から新しいテーマが始まります。それは、敗北意識を捨てて、主の御教えを実行させていただこう、それによってこの社会にさえ変革をもたらそうという、主にある勝利者としての生き方です。

1.「安息日を汚さないように守り」

56章は、主ご自身による、「公正(さばき)を守り、正義を行なえ。なぜなら、わたしの救いが来るのも、わたしの義が現われるのも近いからだ」ということばから始まります。「神の救い「神のが並行して記されているのが興味深いことです。「神の義」は、何よりも、「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32)ということの中に現されるからです。そして、その希望に満ちた確信こそが、「公正を守り、正義を行う」ことの動機になります。

その上で、「幸いなことよ。このように行う人、これを堅く保つ人の子は。彼は、安息日を汚さないように守り、どんな悪事も行わないようにその手を守る」(2節)と記されます。神の「救いが・・近い」ということは、何よりも安息日の中で覚えられる現実だったのです。そして、「安息日を汚す」ということの中心は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ・・・あなたは、どんな仕事もしてはならない」(出エジ20:8,10)という労働の禁止です。

そして、ここでの「悪事を行う」とは、何よりも、安息日に労働をする、また労働をさせるということになります。労働自体が「悪事を行う」ことになる日があるというのは、何とも驚きです。私たちは無意識のうちに、労働が絶対的な美徳である社会の中に生きています。しかし、何が良くて何が悪いかを決めるのは神のみことばであって、社会の常識ではありません。ですから、聖書の原則によれば、たとえば、「仕事が忙しくて礼拝に出られません」などというのは、悪事を正当化しているということになりかねません。ただ、そうは言っても、私たちは、既に、仕事を休むこと自体を悪と考えるような日本の社会組織の中に、深く深く、組み込まれているのです。信仰者の個人的な決心だけでは安息日律法を守ることはできないということも決して忘れてはなりません。また、人それぞれが抱えてきた問題があまりにも違います。ですから、これをもって、安息日を守れない人を責めるなどということはあってはなりません。義務化した安息日ほど空しい戒律はありません。イエスはそのためにいのちを賭けられたのですから。

この安息日律法は、何よりも社会の構造を、神の視点から作り直すということにありました。それは何よりも、安息日には、奴隷や家畜をも働かせてはならないと命じられていたことに現されています。もちろん、その中には、主婦の家事労働も含まれます。週に一度、労働をしてはならないという日があるということにこそ、聖書の教えのユニークさがあります。労働を絶対的な美徳とするのはこの世の支配者の論理です。自分の手の働きが富を生み出すという幻想が、ワーキング・プアなどと呼ばれる社会的な弱者を追い詰めます。この安息日律法によると、雇用者は、七日間のうちの一日を休んでも生活できる給与を労働者に支給する義務があるということになります。

私たちがいた頃のドイツでは、日曜日にはすべての商店が閉まっていました。例外的に開いているのは空港にあるスーパーマーケットぐらいでした。その日は家族がともにゆっくりとした時間の流れを楽しむことができました。日曜日の午後は、教会でも基本的に何のプログラムもありません。役員会を日曜日に開くなどというのは論外です。ただ、いっしょにどこかを散歩するというプログラムぐらいはありました。しかも、そのような考え方の延長として、基本的に、最低四週間の夏休みというのが労度基準法で保障されています。ですから、安息日律法は、社会的な弱者を絶え間のない労働に駆り立てるということを防ぎ、奴隷や外人労働者や主婦などの社会のすべての人が、そろって豊かさを分かち合い、喜ぶことができるという枠組みだったのです。

ところで、不思議なのはここで突然、その安息日の教えに、「主に連なる外国人」とともに、「ああ、私は、枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます(3節)。「宦官」はこのイザヤ書と深い関係にあるペルシャ帝国において政治制度として確立していました。当時の多くのユダヤ人の運命は、外国人であるペルシャ帝国の支配下で、特に、王の身近で仕える宦官に左右される面がありました。宦官はもともと、後宮に仕えるために男性器を切り取った者でしたが、跡継ぎの子供を設けることができないことで、後継者争いが激しい王族や貴族にとっては脅威ではなくなり、世襲されることのない高級官僚として重用されるようになりました。ですから、外国人、特に宦官が神の民となり、安息日律法を守るようになったら、当時のユダヤ人社会が安息日律法を守る上での大きな保護勢力になり得たのではないでしょうか。もちろん、割礼の儀式を何よりも大切にする当時のユダヤ人の感覚からしたら、男性器を切り取った宦官などが神の民に加えられるなどということは到底信じられないことでしたが、神はそのようなユダヤ人の意識変革を迫っておられるのではないでしょうか。確かに、申命記には、「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない」(23:1)と書いてありますが、そのような制限は、神ご自身がもたらす新しい時代には意味を失います。それはたとえば、その直後に、「モアブ人は主(ヤハウェ)の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に入ることはできない」と書いてあるにも関わらず、モアブの娘ルツが神の民に加えられ、その四代目にダビデが生まれ、彼がイスラエルの王となったということから見ても、この排除の原理が一時的なものに過ぎなかったということが明らかになります。

そして、この宦官が主の民に加えられるということが、「なぜなら、主(ヤハウェ)はこう仰せられるのだから。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる記念と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える』」(56:4、5)と記されています。

そして、ここでも神の契約の中心として、「安息日を守る」ことが記されています。なお、「宦官」は、「息子、娘たち」を持つことはできませんが、「永遠の名」という名誉が与えられるという約束が記されています。これは宦官自身にとっての福音であるとともに、当時の社会を根本から変える希望となっています。

安息日律法を守ることが非常に困難な日本において、多くの経営者たちが信仰に導かれ、安息日律法の意味に目が開かれてくるなら、この日本社会にももっと余裕が生まれるのではないでしょうか。神の民からは永遠に排除されていると思われた「宦官」さえも、「安息日を守る」ことによって永遠の祝福に預かることができるのです。どんな人にも偏見を持つことのないようにしましょう。あなたのまわりの野蛮な人をも救いに招いておられます。

 

2.「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」

6節では、「主(ヤハウェ)に連なる外国人」とはどのような人を指すのかということが、「主に仕え、主(ヤハウェ)の名を愛し、そのしもべとなっている人」として説明されます。そして、続けて、ユダヤ人と外国人の区別を超えた神の民の概念が、「安息日を汚さないように守り、わたしの契約を堅く保つすべての人」と表現されます。つまり、「神の民」とは、血筋である前に、「安息日を汚さないように守る」人のことを指しているのです。そして、主は、当時のユダヤ人の常識を超える形で、神の民から排除されていた人々にも、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(7節)と言われました。そればかりか、イエスの時代の神殿では、いけにえをささげる祭壇に近づくことができるのはイスラエル人の成人男性でしたが、ここでは、外国人を含むすべての主の民に向かって、「彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる」と記されています。そして、その理由が、「なぜなら、わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」(56:7)と説明されました。そして、イエスはこのみことばを成就するためにこそ、あの大胆な宮清めの行動を取られたのです。

たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた「宦官」が、エルサレムに礼拝に来たことが記されていますが(8:27)、当時の規定では、彼は、多大な時間と労力をかけても、神殿の中庭に入れてもらえないばかりか、自分で祭壇にいけにえを献げることも許されず、異邦人の庭から神殿の中心を仰ぎ見ることが許されるだけでした。ただ、そこには、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。彼らは、外国人を、特に「宦官」を軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかりを考えていました。そして、イエスが神殿の中を歩まれた時も、同じく、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、心を痛められたに違いありません。

それでイエスは、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒す」という乱暴な実力行使をしたあげく、この7節のみことばを引用し、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われました(マルコ11:15-17)。確かに神殿内での商取引を許す制度は合理的な面がありました。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれていたため人々は両替して献金しましたし、神殿内部で売られた動物は保証つきで、いけにえとして不適格にされる心配はありませんでした。しかし、主を求める異邦人の礼拝者は、この利便性の追及の影で、静かな礼拝の場を奪われていたのです。一方、祭司たちは、この商売の許認可権によって特別収入も得られました。しばしば、イエスの宮清めの意味を誤解し、教会でバザーや信仰書の販売をしてはいけないという人がいますが、イエスの頭にあったのは何よりもイザヤ56章を成就させることでした。問題は、宮での商取引ではなく、自分たちのカルチャーに会わない人に静かな礼拝の場を提供することにあります。人を見かけで判断せずに、この教会が「すべての民の祈りの家」と呼ばれるようになることこそが、主のみこころです。

ところでマタイ福音書では、イエスの宮清めの直後、「また(すると)、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(21:14)という新しい展開が起こったことが記されています。主が世的な利便性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができました。盲人や足なえは、神にのろわれた者と見られ、神殿に居場所がありませんでした。しかし、彼らは、イエスのあわれみを知っており、みもとに迫り、癒されました。まさに、神殿は弱者を排除する場から、いやす場へと変えられたのです。これに続いて、もう一つの大きな変化が起きました。それは、宮の中に、子どもたちの、「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです(21:15)。子どもは伝統や慣習から自由で、みわざを素直に感動しました。この地上のキリストの教会も、この世的な利便性の論理を追求しながら、様々な障害者の方や、病の人や子どもたちを礼拝の場から締め出してきたということがないでしょうか?これは心の宮の問題でもあります。牛がいる所に盲人は安心して入ってこられません。同じように、大きな理想を追及するあまり、自分の弱さを締め出してはいないでしょうか。精神的な弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。両替人の台に、子どもは邪魔者です。

同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。「あなたがたのからだは・・神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6:19)とあるように、神の前で沈黙によって心の宮清めをも行なう必要があります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。

3. 「わたしは、高く聖なる所に住む。砕かれて、へりくだった霊とともに」

  569節の野のすべての獣よ。食べに来い。林の中のすべての獣も」とは、猛烈な皮肉です。それはイスラエルの指導者が、みな役に立たない番犬と同じだからです。彼らは、「夢見て横になり、眠りをむさぼる」ばかりか、「この犬どもは貪欲で、足ることを知らない」、その上、「彼らは、悟ることも知らない牧者だ・・だれもがみな、自分かってな道に向かう。ひとり残らず自分の利得に」という状態にありました。そして、酒宴に明け暮れ、そのことに何の反省もないばかりか、その堕落を加速させているというのです(56:12)。

 一方、 57章初めで、「義人が死ぬ。しかし、だれも心に留める者はいない。誠実な人が取り去られる。だれも、義人がわざわいの前から取り去られることを悟ることがないまま。彼は平和に入る。まっすぐに歩む人は、自分の寝床で憩う」と記されています。これは、「義人」「誠実な人」は、しばしば、人には認められることがなくても、神が最終的な平安に導いてくださるという約束です。しかし、続けて、3節から13節には、姦淫と偶像礼拝にふける人の姿が描かれています。彼らは、カナンの偶像礼拝の様々なみだらな習慣を採用しながら、6節にあるように、それによって愚かにも、主ご自身を「慰めよう」としているというのです。また、10節にあるように、彼らは偶像礼拝のための「長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった・・・手の活力を回復し、弱らなかった」というのです。これは、しばしば現代の元気に満ち溢れた偶像礼拝者に適用できることです。そして、11節では、このように偶像礼拝の習慣を混ぜ合わせて主を礼拝する人に対し、「このわたしが、久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか」と警告を発しておられます。そこには主のさばきが迫っていることが示唆されています。

  そして、12節では、「このわたしが、おまえの義とおまえの行いの数々を告げよう」(57:12)と言われます。これは、皮肉を込めたさばきの宣言です。彼らは、自分にこそ「義」があると思っています。偶像礼拝者は自分たちが正しいことをやっているという誇りがあるからこそ元気なのです。日本でも宗教の寛容ということで、信仰を混ぜ物にすることを正当化してきたという経緯があります。「義」とは、神の基準であって、人の勝手な自己正当化ではありません。そして、その偶像礼拝のむなしさは、やがてすべての人に明らかになるというのです。

  ただし、13節では、主は、さばきの宣告と合わせて、「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」という大胆な希望を語ってくださいました。主に身を寄せる者は、この世でいかに不遇な目に会い、虐げられていても、最終的には、天国で慰められるというのではなく、目に見える現実の世界の祝福を体験できるというのです。これは、この地上の生活と、来るべき「新しい天と新しい地」を含めての概念です。イエスはこれをもとに、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイ5:5)と言われました。

  そして、主は仰せられる。盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の前から、つまずきを取り除け」57:14)とは、これらの箇所における転換点です。これは、イザヤ40章にあったように、主への道を整え、神の民の前から、つまずきを取り除くようにという命令です。私たちは常に、互いのために、主の招きを受け入れやすい環境を整える必要があります。それは、心の中に主のみもとに近づくための道を整えることです。

その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「高く聖なる所にわたしは住む。砕かれて、へりくだった霊とともに。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(15節)と語られます。なお、ここで「へりくだった人」とは、自分から謙遜になったというより、結果的に「低くされた人」を指します。福音が広まった結果、謙遜が美徳とされ、謙遜なふりをする人が多くなっていますが、神が目を留めてくださるのは、本当に自分の惨めさや弱さに打ちひしがれている人であり、自他共に認める尊敬されている人格者のことではありません。この世では、しばしば、10節にあったように、偶像礼拝者のほうが元気に見えるという現実があります。しかし、イエスはこのみことばを前提に、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。それはまさにイザヤ53章に描かれていた「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿です。そのことが詩篇37:11でも、「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう」と描かれています。

そして、主は「なぜなら、いつまでもわたしは争わず、いつも怒ってはいないから。それは、霊がわたしの前で衰え果てるから。わたしが造ったいのちの息が」(57:16)と言われます。ここでは不思議にも、主の怒りを受けながら、自分の道を改めようとしない頑なな者の心をさえも主ご自身が癒してくださると約束されています。

 私たちの最も大きな問題は、自分で自分の心を変えられるはずだと思い込むことにあります。そのような中で、ある人はますます傲慢になり、ある人はますます自己嫌悪に陥ります。せっかく良い教えを聞いても、それを自分や人を失望させる「ねた」にしてしまいます。それでは真の意味で、聖霊の翼をいただくことはできません。イエスは、自分に絶望している人に向かって、「心の貧しい者は幸いです」と言われたのです。最初に引用したニックさんは、「今あなたは自分の苦しみを、(両手両足のない)私の苦しみと比べているかもしれない。でも希望とは、自分よりも苦しい思いをしている人がいると考えるところにあるのじゃない。希望とは、神の御名の中に、主イエス・キリストの中にあるのです。希望とは、自分の苦しみを、神の無限で測り知れない愛と恵みとに比べるところにあるのです。」と言っています。その神の無限で測り知れない愛と恵みを覚える日こそが安息日であり、また、日常の働きをやめて主の前に静まるというときです。

安息日の教えは、イエスの時代には厳しい戒律と化していましたが、本来は、人間に神のかたちとしてのあり方に立ち返らせる教えです。私たちは、神によって創造され、神からの「いのちの息」を受けて、神の創造された世界の管理をするために遣わされています。神から与えられた仕事を、神のリズムでするのです。それは、すべてが神の一方的なあわれみによるということを覚えることができるための神が与えてくださった「安息」です。しかも、そこにこそ隣人愛の基本が現されるはずでした。私たちには、最も身近な隣人を、また社会的な弱者を一週間に一度休ませる責任が嫁せられています。安息日ごとに創造の原点に立ち返り、また、キリストの復活によって私たちがのろいから祝福へと移されたことを思い起こし、この世界の人々を神の安息へと招くために遣わされます。まず、私たち自身が神の安息を味わっていなくて、どうして他の人に神の安息を紹介できるでしょうか。すべてが神のあわれみから始まっているということを自分自身の心の奥で味わう、そんな安息日を過ごしたいものです。

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2010年10月10日 (日)

イザヤ54章1節~55章13節「奴隷根性から自由な生き方」

                            20101010日     

日本は不思議な国です。自国通貨の価値をアメリカの視点で計り、「円高!」と表現します。ユーロもオーストラリアドルもスイスフランも韓国のウォンも、それぞれ円に対して一ヶ月あまりで一割から7%近くも上がったことなど見向きもせずに、ドルとの比較ばかりに注目して「円高だ、輸出産業の将来は・・・」と騒ぎ立てます。円高にプラス面があったとしても、楽観論はすぐに打ち消されます。どう考えても、「ドル安」と言う方が、客観的に余裕のある見方ができるはずなのに、被害者意識を煽る報道の方が好まれ、過剰な危機意識をあおる学者が人気を集めます。

終わりの日の予言などという話題が出ても、戦争や天変地異のような悲観論話がもてはやされます。まるで日本中が脅しと恐怖で萎縮しているかのようです。そして、そのような発想が、聖書理解にも影響を与えているかもしれません。残念ながら、神のさばきに怯え、間違いを起こさないように、人から後ろ指をさされないようにと生きている信仰者が意外に多いのではないでしょうか。しかし、聖書が示す世の終わりの記述は、驚くほど希望に満ちています。しかも、そこで描かれる神のさばきとは、あなたの敵がさばかれ、あなたの労苦に豊かな報いが与えられるという約束です。そればかりか、不信仰に悩む人に、神がご自身を現し安心させてくださると記されています。

「イエスを信じて永遠のいのちを受けた」ということは、死んでも天国に行けるということを超えて、現在の生活に生きる気力と希望を生み出すものです。なぜなら、それは、私たちがあらゆることへの怯えに追い立てられる「のろい」から、すべての労苦が無駄になることはないという「祝福」の世界に移されたことを意味するからです。人がどんな評価を下そうとも、あなたは大胆に、神から促された道に向かって羽ばたいてゆくことができます。あなたの人生のゴールは神の平和(シャローム)で満たされています。それを自覚しながら生きるとき、私たちは、被害者意識、自己憐憫、悲観主義、人の顔色を伺ってばかりいるなどという奴隷根性から自由に生きることができるようになります。「神の子」としての誇りのうちに、神から与えられた人生を自由に堂々と、希望に満ちて生きることができます。

1.「あなたの夫はあなたを造った者」

  54章最初の、「歓喜せよ。子を産まない不妊の女よ・・・」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、その後の希望を語ったものです。それは「主のしもべ」によって実現する祝福でした。その確信のゆえに、「歓喜の声をあげて叫べ」(1)と勧められます。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」とは、神の祝福は人間の力がもたらす祝福をはるかに上回るという意味です。

当時の妻の豊かさは、徹底的に夫の力に依存していました。無力で怠惰な夫を持つ妻、また何よりも夫のいない女性は悲惨でした。今も、この世の多くの人々は、自分を保護してくれる権力者を求めています。しかし、主ご自身こそがすべての祝福の源です。私たちはこの世で自分の立場を守るための様々な方策を考えるよりも、すべての祝福の源である主との関係を深めることに心を集中すべきです。

その上で、「あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を張り伸ばせ・・・綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」(2節)と命じられますが、その真ん中に、「惜しんではならない」という命令形が入っています。多くの人は、力の出し惜しみ、お金の出し惜しみをして、将来の安心を得ようとしますが、そのような人間的な計算が、神から与えられた祝福の広がりを自分で止めています。現在の日本は一人当たりの資産額では世界一だと言われます。その中心は、土地や預貯金、保険などで、統計に現れないタンス預金も驚くほど多いのではないかと思われます。簡単にいうと、世界一の富を持っていながら、なお将来に対する不安にとらわれて、お金の出し惜しみをして、本当に成長が期待できる分野にお金が回ってこないというのが日本の現実です。マスコミも不安ばかりをあおって、みんなを萎縮させるばかりです。そのような中で、私たちクリスチャンはもっと夢のある生き方をする必要があるのではないでしょうか。もっと今与えられている能力も富も出し切って、神にある冒険をする必要があるのではないでしょうか。もちろん、その際、「鉄のくいを強くせよ」とあるように地道な基礎工事を疎かにしてはなりませんが・・・。

「あなたは右と左にふえ広がり、その子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ」(3)とは、私たちキリストの教会こそ、この閉塞感に満ちた世界に希望を生み出すことができるという約束です。私たちが、福音を心の底から味わうなら、人々がその魅力に引き寄せられないわけはないのですから。

その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。はずかしめを受けないから・・(4)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で徹底的な「はずかしめを受け」た後の救いの約束です。そして、「まことにあなたは自分の若いときの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、二度と思い出さないとは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。

「なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)・・」(5)と述べられるのは、イスラエルの民が神にとっての花嫁であるからです。「実に、見捨てられ、心に悲しみのある女かのように主(ヤハウェ)は、あなたを呼んだが」(6節)とは、主が一時的にバビロン捕囚でイスラエルを捨てたように見えたからです。しかし、「若い時の妻を、捨てられようか」とあるように、主はご自身の花嫁イスラエルを決して見捨てたままにはなさいません

私たちは目先の損得勘定に惑わされ、私たちの真の保護者であり、夫である方のもとを自分から離れて、自業自得で苦しみを招くことがありますが、「あなたの夫はあなたを造った者」とあるように、あなたの不信仰、あなたの一時的な裏切りは神にとって想定外のことではありません(48:8)。私たちは何度でも、主のもとに立ち返ることができます。私たちは自分の誠実さと引き換えに、主の祝福を受けるのではありません。主がまず私たちに目を留め、私たちの保護者、夫のなってくださったのです。ですから、自分で自分の身を守ろうとして臆病になって自分の力の出し惜しみをしたり、またこの世の権力者のご機嫌を伺う必要はありません。主に信頼しながら、「あなたの天幕の場所を広げ・・・」とあるように、大きな夢を抱きながら、明日に漕ぎ出すことができるのです。

2.「ほんのひととき、あなたを見捨てたが・・・永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」

そして、私たちの永遠の夫であられる主ご自身の語りかけが、「ほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(7、8)です。これは試練の中にある人を繰り返し慰めてきたみことばです。ここでは、怒りが短期間であることと、愛の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセッド」で、新改訳では原則、「恵み」と訳されており、神が、ご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。これはイスラエルの民がその不信仰のゆえに神のさばきを受け、苦しんだ後で、神がその繁栄を回復させてくださるというプロセスです。彼らは、主の祝福がどれほど豊かであるかを、それを失うまでは理解できていませんでした。

そして、そのことがなお、ノアの日の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられます。それが、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」10節)と言い換えられます。つまり、この目に見える世界に何が起ころうとも、主の私たちに対する愛は変わることなく、主はこの世界を平和に満ちた世界へと導いておられるという意味です。本当に、今の世の中、目に見える世界は驚くほどの速度で変化を続けていますが、神の救いのご計画は決して変わることがないのです。ここでの「変わらぬ愛」というのも先の「ヘセッド」の訳で、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。そして、これこそが聖書の中心思想、神がご自身の契約、約束を変わらずに守り通してくださるという意味です。

先日、当教会員の家に生まれた子が、「契祐(けいすけ)」くんと命名されましたが、これは聖書のストーリーをひとことで表現した名前とも言えましょう。それは、神は、ご自身が立てた「契約」を守りとおしてくださり、自業自得で苦しむ者を、繰り返し「天から助けてくださる」()ということに現されるからです。

私たちの人生にも、祈りが答えられないように感じ、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。パウロは福音を宣べ伝えるために想像を絶する苦しみに会いましたが、そのなかで彼は、今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)と語りました。また主ご自身が、わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ヘブル13:5)と保障してくださいました。

1112節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録2118-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれます。

あなたの子らはみな、主(ヤハウェ)の教えを受け」(13)とありますが、これは「主(ヤハウェ)の弟子となる」とも訳することができます。私たちはキリストの弟子として成長しますが、それは人間の努力ではなく、主ご自身のあわれみによるものです。また、「あなたの子らの平和は豊かになる」とありますが、「平和(シャローム)」豊かにしてくださるのも主ご自身のみわざです。そして、「あなたは義によって堅く立てられる」(14)という表現も、「神の義」の本質を現しています。「神の義」は、神の真実とも言い換えることができます。「私の義」ではなく、「神の義」が私たちを不動の者にするのです。信仰とは、自分が不動の者となるように努力することではありません。

「しいたげから遠ざかっていよ・・・恐怖から遠ざかっていよ」(14)とは、「しいたげ」も「恐怖」もあなたに触れることはないという保証として理解できます。私たちを攻めてくる破壊者も、私たちを責めたれる舌も、私たちの敵とはなり得ません。「これが、主(ヤハウェ)のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける義である」とは、私たちが自分の正義や真実によって神の祝福を受けるのではなく、すべてが神の一方的な恵みであるという意味です。

私たちの救いがすべて、神の一方的な恵み、真実、義に基づくということは、決して、私たちが何の責任も果たさず、何もしなくてもよいという意味ではありません。そうではなく、これは私たちに希望と勇気を与えることばです。多くの人々は、なぜ、目の前の課題から逃げたり、すぐに成長をあきらめたりするのでしょうか。それは、失敗することを恐れたり、また、「出る杭は打たれる」などのように、人からの中傷におびえているからではないでしょうか。確かに、目に見える現実としては、私たちの目の前には、大きな障害が立ちふさがっていたり、私たちに敵対する圧倒的な力があるように見えます。しかし、それらはすべて、神の御許しなしには私たちに手を触れることはできません。しかも、私たちは、神にある勝利のすばらしさを、何の問題も起きない平凡な毎日の中では味わうことができません。神は、ご自身の真実を証するためにこそ適度の「軽い患難」を与え、それを通して「重い栄光」を見られるようにしてくださいます。私たちが遭遇するすべての人生の嵐は、神にある勝利を体験させていただけるための舞台に過ぎないのです。それは、パウロがユダヤ人たちの激しい攻撃を受けながら、福音のためにいのちを賭けつつ、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(ローマ8:31)と告白したとおりです。

3.「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる」

55章では、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」という呼びかけから始まりますが、54章ではエルサレムへの語りかけであったのが、ここでは、「みな」とあるように、それが全世界への招きとなっています。イエスはこれをもとに、だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(ヨハネ7:37)と言われました。

その上で、この世の富に支配され、そのために労苦することの空しさが語られ、「わたしによく聴け」(2)という訴えが記されます。これは、原文では、「聴いて、聴け」と、神に心から聴くようにという命令です。それによって、私たちは、「良い物を食べ、たましいを脂肪で元気づけよ」という恵みを体験することができます。そしてそれがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聴け。すると、あなたがたのたましいは生きる」(3)と言い換えられます。神のみことばに聴くということを疎かにして、この世の富や成功を追い求めても、それはまるで、海の水で喉を潤そうとする事に似ています。飲めば飲むほど渇きが激しくなります。それこそ依存症の罠です。

そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と約束されながら、その契約の内容が、「ダビデへの変わらない愛(ヘセッド)の真実を」と言い換えられます。そのことがまた、「見よ。わたしが立てた諸国の民への証人を。諸国の民の君主、司令官を」(4)と展開されます。これは、ダビデの子孫としての「主のしもべ」が全世界の王として立てられることを意味します。なお5節で「見よ・・あなたが呼び寄せる。すると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」とあるのは、主のしもべの命令が人々を動かすという王の権威を現しています。そのことが黙示録では、「キリストとともに、千年の間王となる」(20:4,6)と、私たちにも約束されています。

「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。呼び求めよ。近くにおられるうちに(6)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった・・私の・・うめき・・から・・遠く離れておられる」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。そして、「悪者」「不法者」に対してさえも、「主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(7)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。

わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ・・天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(89)とは、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるとの宣言です。当時の人々にとって、イスラエルの神が、ご自身の神殿を捨てることを通して、神の民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できないことでした。これは、放蕩息子のたとえに通じます。父は弟息子が放蕩三昧をして一文無しになるのを見越した上で、彼の失敗を見守ろうとしました。挫折を通してしか分からない恵みがあるからです。

私たちは自分の人生を振り返って、とんでもない回り道をしたと思えることがあります。私も、神の導きを必死に求めながら野村證券に入社したはずなのに、その決断をずっと後悔し続けていました。その思いは神学校に入っても消えませんでした。ギリシャ語やヘブル語の学びについてゆけず、もっと若く神学校に入っていれば・・・と思いもしました。しかし、そんな私が今、聖書翻訳に関わっています。そして、その仕事を心から楽しむことができています。毎日のように為替や株式相場の見通しを考えながら、その見通しは毎日のように変わってゆきました。それに比べて、今、私が取り組んでいる聖書の真理は、二千七百年前から何も変わっていません。そして、その大昔に記されたことばが、現代の人の生き方を変えることができるのです。これがどれだけ感動的かは、回り道をしたからこそ分かることといえましょう。人によっては、就職、住まい、結婚さえも、「あのことのせいで、もう夢も希望も私にはない・・・」という後悔の対象となることがあるかもしれません。しかし、神の導きのすばらしさは、二十年、三十年単位で初めてわかることが多いものです。この89節のみことばこそ、それを理解させてくれる鍵です。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ・・・パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ずわたしの望む事を成し遂げ、言い送ったことを成功させる」(10,11)とは、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったのに、その後の歴史を動かしているという事実に証明されています。イザヤは神がエルサレムをさばかれることを預言しました。当時の人々は、それを理解しかなったばかりか、ヒゼキヤの後継者マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したほどでした。ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエス・キリストご自身が、このイザヤのことば、「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられました。つまり、イザヤのことばがイエスを動かし、私たちのための救いを成し遂げたのです。

「まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く」(12)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。これは現在は、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることを意味します。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」12,13節)と描かれます。「いばら」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。つまり、ここは、「のろい」の時代が過ぎ去って、「祝福」の時代が来るという意味です。そして、このような自然界の変化こそ、「主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」というのです。これこそ、「新しい天と新しい地」のシンボル的な表現です。残念ながら、かつての私も含めて多くの人は、12,13節のみことばの深みを十分に味わうことができていないように思います。

それは私たちの救いが、全被造物の救いにつながるからです。それはアダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされるという希望の表現です。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です(ローマ8:19,21)

多くの人々が、期待はずれの人生の中で、「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:9)というみことばに慰めと希望を見出しています。キリストにある信仰とは、この世の暗い現実を、神にある「高い」視点から見直すことができるようになることです。そして、それは、「主のみことば」こそが、人のこころを動かし、歴史を変えて行ったという歴史に現されています。イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。また、イエスのことばこそが、ひとりひとりのいのちの尊さを教え、奴隷制度を廃止させ、人種差別をなくしてゆきました。そして、主は、「わたしの口から出ることばも・・・必ず、わたしの望むことを成し遂げ、言い送ったことを成功させる」と断言しておられます。この世界の歴史は、一見、不条理に満ちているようでありながら、神のご計画通りに進んでいるのです。それは私たちを怠惰にする教えではなく、明日に向かって自分のすべてを差し出す勇気と希望を与えることばです。私たちは、この世界が完成するときの喜びの声を、霊の耳で聞きながら、この世の不条理のただなかに入って、この世界を完成に導く神のみわざの一部に参加させていただけるのです。

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2010年10月 3日 (日)

エペソ6章1-9節 「創造的に仕え合う」

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  第二次大戦後の日本では社会のあらゆる面で、「権威」が機能しなくなっています。その結果、忍耐心のない刹那的な刺激を求める自己中心的な生き方が正当化されるようになっています。そして、信仰生活も、平安で喜びに満ちた生き方を得るための「手段」かのように混同され、無意識のうちに、イエスに祈ることを、アラジンの魔法のランプにすがることや、のび太にとってのドラえもんかのように誤解している人がいるかもしれません。しかし、信仰の核心とは、「神を恐れる」ことです。平安と喜びは、神の権威に従う生き方から生まれる副産物に過ぎず、それ自体を目的とする者は不安と不満に襲われます。しかも、聖書は極めて権威主義的な文化の中で記されています。たとえば、イエスの時代に愛読され、カトリック教会では第二聖典として扱われているシラ書30章には次のような子育ての知恵が記されています。これは部下や弟子を育てることにも適用される教えだったと思われます。

わが子を愛する者は、しばしば鞭で懲らしめる・・・子をしつける親は、その子のお陰で楽ができ、知人の間でも自慢ができる・・・父親がこの世を去っても・・・父親そっくりの子が、後に残っているからだ。父親は・・この世を去るときにも・・敵に報復してくれる者を後に残し、友人に恩返ししてくれる者を後に残す。子を甘やかす者は、傷の手当に明け暮れ、子がわめき叫ぶのを聞く度に、心を煩わす。馬は馴らさなければ手に負えなくなり、子はしつけなければ、わがままになる。子供は、放任すればお前を驚きあわてさせ、溺愛すれば、お前を嘆かせることになる。子供と一緒になって笑い興じるな。さもないと、共に悲嘆に暮れることになり、最後には歯ぎしりをして後悔することになる。若いときには気ままなことをさせるな。子供のうちに体罰を与えよ。さもないと強情になり、言うことを聞かなくなる。お前の子供をしつけ、子供のために苦労せよ。さもないとその子は非行に走り、お前を困らせる」

この教えは、キリストの光に照らすと、問題点が自ずと明らかになりますが、同時に大切な真理も含まれています。「箴言」では、これをたった一言で、「むちを控える者は、その子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24)と記します。また、イエスも、怠惰なしもべが主人の帰りはまだ遅いと思いながら下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだりし、酒に酔っていると、主人が帰ってきたとき、そのしもべは、「きびしく罰せられ・・・ひどく鞭打たれる」のが当然であると語っています(ルカ12:45-48)信仰生活に、訓練は不可欠です。ただ、私たちには、懲らしめに対する「恐れ」の前に、神がキリストにおいてどのような素晴らしい救いをくださったかが繰り返し記されています。神への服従も、その愛への応答として命じられているということを忘れてはなりません。

私たちの地上の生涯で受けるストレスの大半は、人間関係から生まれます。その最高のものが夫婦関係、次に、親子関係、そして職場の関係です。しかし、信仰者は、物分りの悪い伴侶も、親も、上司も、神からの訓練のための賜物と受け止めることができます。先にパウロは、神の国に入れられている者としての誇りを味わいながら生きることの勧めを、「賢い人のように歩んでいるかをよくよく注意しなさい」(5:15)と語りました。それは主体的で創造的な生き方です。その上で、「御霊に満たされなさい」と言いつつ、その具体的な方法として四つのことを語りました。その最後が、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」という勧めです。つまり、人と人との関係の中に、キリストを置くということが人間関係の秘訣なのです。マザーテレサは、道端で死に行く人の中にキリストを見たことから、あのような偉大な働きができました。その中心は、相手への嫌悪感に振り回されずに、相手に仕えるということです。それを身近な人に適用すると、罰を恐れて嫌々ながら従う代わりに、創造的に仕え合うということになります。

1.「あなたの父と母を敬え・・そうしたら、しあわせになる」

  私たちはしばしば、「神様。私にお与えください。変えられないことを受け入れる、平静な心を。変えられることは変えてゆく、勇気を。そして、二つのものを見分ける賢さを」と祈っていますが、変えられないことの代表は、あなたのあの親です。そして、変えられることの代表は、親に対する私たちの態度ではないでしょうか。

あるキリスト教系の大学でキリスト教入門のクラスを担当しておられる方が、聖書の教えの核心、十戒の中で最も未信者の学生の心を惹く教えが何かを語ってくれました。それは何だと思いますか・・・それは、「あなたの父と母を敬え」です。現代の日本社会では、すべての権威が軽んじられ、最も基本的な倫理さえも忘れられている中で、学生たちも親に感謝し、尊敬すべきであるという教えを聞いて、はっとさせられるからでしょう。

 「あなたの父と母を敬え」という教えの申命記バージョン(5:16)では、そこに、「あなたの神、主(ヤハウェ)が命じられたとおりに」という補足のことばと、それを守る者への約束が、「それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主(ヤハウェ)が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」と記されています。

  パウロも、それを前提に、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です(エペソ6:1-3)とわかりやすく語っています。

  ビクトール・フランクルは私の心の教師のような精神科医です。彼はヒトラーがウィーンに進軍してきた時、既に尊敬を集めていましたが、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では働きを続けることができないのが明白であったため米国行きのビザを申請していました。数年かかってビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっており、強制収容所への抑留が間違いない状況になっていました。しかし、彼には年老いた両親がいました。その両親のビザはありません。彼は迷いました。彼がウィーンに残ったところで両親を救うことができるわけではないことは明白でしたが、両親を置き去りにして自分だけが渡米することに後ろめたさを感じていました。

  迷いながら家に帰ってみると、父親が破壊されたユダヤの会堂の瓦礫から拾ってきた大理石がテーブルの上に置いてありました。そこにはヘブル語のカフというアルファベットが刻まれていました。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。彼は、この文字を見たとき、自分の使命は、両親とともにウィーンに残ることにあると決断しました。しかし、それは彼も強制収容所に抑留されることを意味しました。彼は自分の医療技術を用いて、秘密警察の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができましたが、まもなく両親とともに強制収容所に抑留されました。父は、そこで肺水腫を患って死の床につきます。

彼は医師として、父に最後の痛み止めの注射を打つことができました。彼は、そのときのことを、「私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった」と書き残しています。母はその後、アウシュビッツのガス室送りになりましたが、移送される直前に、彼は母に祝福の祈りを請い、まさに心の底からの祝福のことばを母から最後に受けることができました。彼はその後のアウシュビッツの中で、母への感謝の思いで心がいっぱいになっていました。

  フランクルは奇跡的にアウシュビッツの苦しみの生き残り、そこでの体験を証ししました。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることが可能だという証しでした。彼は、「何のために生きるのか・・・」という問いに答えを持っている人間は、最後の瞬間まで、真の意味で生きることができると言っています。彼自身、あらゆる損得勘定や現実的な計算を捨てて、両親とともに強制収容所に入るということ決めたことは、一瞬一瞬、人生の問いに答えながら歩むことを、身をもって証することになりました。その後、彼は、生きる意味の心理学によって、多くの人に希望を与えながら、平安のうちに92歳の長寿を全うしました。まさに、父母を敬うなら、あなたはしあわせになり、地上で長生きするという約束のとおりでした。

  私たちはそれぞれ、まったく異なった環境で育ってきました。ですから、「父母を敬う」ということが具体的に何を意味するかは、その人その人によって異なります。人の模範に習うことも、画一的な答えを求めることも、無意味である場合が多いと思われます。それにしても、父母を敬うとは、神から人間に与えられた教えの根本であることは間違いありません。このヘブル語の「敬う」ということばを名詞形にすると「栄光」ということばになります。形容詞では「重い」という意味になります。ですから、父母は、神を敬うように、敬わなければならないというのです。

そこではあらゆる現実的な計算が意味を失います。どれほど、社会に役に立っていると思われる人でも、父や母を軽く扱っているなら、神の前にその人は軽い存在としか見られません。神は、「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」(Ⅰサムエル2:30)と言われましたが、それは、親との関係においても当てはまります。ここで、「尊ぶ」ということばは、「父母を敬え」というときと同じことばが用いられています。

2.墓守娘の生き方からの解放者イエス

  しかし、「父と母を敬え」という命令は、しばしば、「あなたは、自分の人生を歩んではならない」というメッセージに聞こえることがあります。しかし、フランクルの例にも見られるように、それは神の前での自由な決断が保障されている中で生きてくることばで、親の期待という呪縛に生きることではありません。一昨年、「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」という本がベストセラーになりました。その副題には、「進学、就職、結婚、介護・・・どこまでもついてくる母から、どう逃げおおせるか。Noと言えないあなたに贈る、<究極の傾向と対策>」と書いてありました。

  ある女性が、田舎の母親の呪縛から逃れるように、東京の出版社に就職し、それなりの仕事を任され、外国人の恋人もでき、母親の様々な介入もうまくかわせるようになった33歳のとき、祖父の法事で久しぶりに実家に帰りました。穏やかに法要を終えて東京に帰ろうとしたそのとき、母が耳元でささやきます。「もう何も言わないからね、ただ、私たちが死んだら墓守りは頼んだよ」と。多くの日本人は、どんなに親から自由に生きていても、このことばには勝つことができないようです。そこから、「墓守娘の嘆き」というタイトルが生まれています。

  ある人は、「父と母を敬え」ということばを聞くと、どうしても、「お母さんは私のしあわせだけを望んでいる」と善意に解釈しなければと思い、辛くなっていました。しかし、ギリシャ語の「敬う」に、「評価する」という意味も込められていることから、「敬う」ということばに、主体的な意思の働きがあるということが分かって安心できたとのことです。

  親は、多くの場合、偏った価値観に縛られています。そこには様々な矛盾した思いがあります。子供が親を深く愛しながら、同時に、憎しみを抱くという矛盾を、心理学用語でアンビバレントと言いますが、親だって子供にアンビバレントな気持ちを持つものです。子供には自分の人生を生きてもらいたいと思いながら、同時に、自分のもとからは決して離れてほしくないと願っています。親は、無意識に自分の価値観を押し付けて、子供をコントロールします。簡単に言うと、「親はだれも、めちゃくちゃ身勝手」という部分があるものです。

しかし、イエスは私たちに、断固として、親に「No!」という権利を保障してくださいました。イエスは、弟子たちに向かって、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29,30)という有名なおことばを語られた直後に、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません・・・わたしは剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たのです・・・わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません(10:34-37)と、耳を疑うようなことを言われました。

  しかし、私たちは、このことばの背後に、イエスの深い愛情を感じることができます。これは、墓守娘に向かって、「親の期待や、親の価値観から、自由になって、神ご自身が、あなたひとりに期待しておられる人生を大胆に生きて良いのだよ・・・」という励ましのことばになるからです。また、親に対してアンビバレントな気持ちを抱き、真心から親を尊敬することができない人に向かって、「おまえが最初から、自分の父と母を敬うことができるぐらいなら、わたしが十字架にかかる必要はなかった。まず、わたしを信頼しなさい。」と語っておられるように思われます。

  ただし、イエスは、その前に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するためにきたのです」(マタイ5:17)と言われました。つまり、イエスが、あなたと親との関係を引き裂くのは、あなたと親との関係を永遠に回復させるための、一時的な外科手術だということを決して忘れてはなりません。親切の押し売りとも思われる親の身勝手なことばを聞きながら、いやいや親に従うような生き方ではなく、親の人生を本当の意味で真心から重く受け止め、親を愛することができるために、イエスはあなたと親の関係に一時的な剣をもたらしてくださるのです。父母を敬うとは、親を美化することではなく、親の中にある矛盾した思いを、親の中にある身勝手さや不安を、やさしく見るようになることではないでしょうか。それは、親の罪深さを認め、なおも親を愛することです。そのために、助けになるのは、親の人生の歩みを、熱心に聞くことです。

しばしば、親が味わってきた葛藤が理解できるなら、親の様々な問題を優しく見ることができます。そして、それはその親のもとで育ってきた自分自身を優しく見ることです。幼児期に様々な痛みがあったとしても、それとセットに、神はその痛みを乗り越える力を与えていてくださいました。それはあなた固有のいのちの輝き方です。

親に似ている自分を愛することができるようになるとき、あなたは自分自身の身体も性格も気質も、神によってユニークに創造された存在として受け入れることができるようになります。そのとき、あなたはあなたらしい方法で神に喜ばれる生き方ができることでしょう。あなたの創造主との交わりを喜ぶ生き方、それこそが、「しあわせになる」ということに他なりません。誰も自分の親を軽蔑して心のしあわせを味わうことはできません。

3.「子供たちを怒らせてはなりません」

 「父たちよ。あなたがたも、子どもを怒らせてはなりません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(6:4)とありますが、「怒らせる」とは、426節では「憤る」と訳され、「苛立たせる」とも訳せる言葉です。これは、親が子供の事情や気持ち、葛藤などを無視して、権威を振りかざして従わせようとするときに起きる反応です。

子育ての核心にも、「キリストを恐れ尊んで」という心の姿勢がなければなりません。「怒らせる」代わりにすべきことが「主の教育と訓戒」です。これは、「主の懲らしめと警告」とも訳すことができます。本来、「懲らしめ」「警告」も、怒りを引き起こすことが多いものです。つまり、親の責任は、子供の怒りを引き起こしても不思議ではない「教育と訓戒」をもって子供を育てることなのです。欧米の親たちが、日本の子育てを見て、「まるで、子供を王様扱いしている」と驚きます。子供の怒りを宥めることばかりを考え、子供に振り回されている親が何と多いことでしょう。それは、子供の気持ちに寄り添うことと、わがままを聞くこととの混同から生まれているのではないでしょうか。子供を「苛立たせる」のは、何よりも、親の関心が子供に向けられていないことから生まれます。子供の気持ちを理解しながら、しかも、恐れや悲しみ、無力感のようなマイナスの感情に振り回されることがないように指導するということが「主の教育と訓練」です。子供には、大人を振り回す天才的な罪人の才能が備わっているのですから。

 子供は主から親に一時的にあずけられている神のかたちに造られた高価で尊い存在です。子供を親の所有物と見ることも、また反対に、子供に振り回されることも回避しなければなりません。「主の教育と訓戒」というときの、「主の」ということばに注目しましょう。自分と子供との間に、主キリスト・イエスを置くことが何よりも大切なのです。

4.「恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」

  当時の奴隷と主人の関係は、現代の日本の会社の上司と部下の関係に似ています。私たちは、真に自分のことを気遣ってくれる上司には、心から従いたいと思います。しかし、何と多くの上司が、自分の身を守ることばかりを考えていることでしょう。それでいて、口では、「僕は君の将来のためを思って・・」などと言います。そればかりか、部下の功績を、自分の功績として宣伝する上司さえいます。顔を見るのもいや・・・ということが起き得ます。

 しかし、御霊に満たされるとは、そのような偽善に満ちた上司に、キリストに従うように、「恐れおののいて真心から・・・従う」ことです。上司とは、あなたに仕事や課題を与える権威を持つ存在だからです。パウロはコリント教会が自分の使者であるテトスを受け入れたときの様子を、「あなたがたは・・・恐れおののいて・・迎えてくれた」と賞賛しています(Ⅱコリント7:15)。それは彼らがテトスを神の使いとして尊敬をもって受け入れたことを示しています。

私は野村證券フランクフルト支店で働いてきたとき、主の召しによって退職を決意しましたが、会社から留学をさせてもらっていたときの契約で、その後、三年半は働き続ける必要がありました。しかし、辞める覚悟ができると、尊敬できない上司に堂々と、自分の感じていることを言えるようになりました。自分の仕事を、主から与えられたものと受け止めなおしながら、私は、残り少ない会社生活の中で、このような仕事をしてみたい、そして、それはこの会社のためにもなると思うと、図々しい提案をしました。すると支店長は、この私の働きがその支店内において、どのような重要な意味を持ち、何が期待されているかをやさしく説明しながら、私の提案を断固として退けてくれました。そのとき、私は反対に、心からこの支店長の判断に敬服できるようになりました。別に、この支店長の人格を尊敬できるようになったわけではありませんが、この人は自分よりもっと大きな視点から仕事を見ているということが良くわかって、まさに、主がこの方を通して、自分に仕事を与えてくださっているということが納得できたのです。

私たちは、自分に課せられた仕事を、より高い視点から見直す必要があります。そのとき、自分がどれほどまじめに仕事をしても、あの嫌な上司の功績になるだけだ、などという考え方から自由になることができるでしょう。

  最近は、転職が可能ですが、昔は、職業選択の自由はありませんでした。私たちは、自分が職場を選ぶことができると思うからこそ悩みが深くなるという面もあるのかもしれません。転職を否定するわけではありませんが、目の前の仕事を、まず、主から与えられたものとして見るという生き方ができなければ、どのような仕事についても、同じような不満を持ってしまうことでしょう。パウロは続けて、「地上の主人」に対する姿勢を、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい(6,7)と命じています。ここでは、地上の「主人」も、天の「主」も、キュリオスという同じことばが用いられています。私たちは地上の主人の背後に、天の主を見るように召されています。もちろん神は、あなたの地上の主人は、多くの場合、尊敬に値しない罪人であることをご存知でありながら、なおこのように薦めておられるのです。それは、俗物の塊のような上司の背後に、慈愛に満ちた主の訓練を見ることです。

  そして、このような勧めが合理化される根拠は、何よりも、8節に記されています。それは、あなたがたは知っています・・・それぞれの報いを主から受けることを」ということばです。これこそ信仰の核心です。キリスト者とは、主が、私たちの労苦を正当に評価し、それを報いてくださる方であるという確信のうちに生きるからです。

5.「主は人を差別することがないことを知っている」

 奴隷の主人に対する勧めは、上司が部下をどのように指導するかに関しての勧めとして適用することができます。その際、何よりも、「脅すことはやめなさい」と記されています。これは、自分の権威を振りかざして、恐怖心を起こさせて仕事をさせるというやり方です。脅しは、短期的には確かに効果がありますが、長期的な目で見ると仕事に対する部下の意欲を殺ぐばかりか、何よりもそれでは部下の能力や創造性を引き出すことはできません。

ここでも、「主人たち」ということばも、「彼らとあなたがたとの主が天におられ」というときの「主」も、同じキュリオスです。地上の主人たちは、常に、天の「主」のまなざしを意識して部下を指導することが求められているのです。

 上司は部下を、神のかたちに創造された高価で尊い存在として見る必要があります。そして、ここでも、あなたがたは知っている・・・主は人を差別することがないことを・・・」と記されています。これもキリスト者が持っているはずの確信、または常識です。主はひとりひとりに目を留めておられます。ですから、目の前の人を自分の奴隷のように思うままに身勝手に扱うことは、そのしもべの真の主人であられる主の主権を犯すことになります。

 御霊に満たされる生き方とは、すべての人間関係に、「キリストを恐れ尊んで・・・」という心の姿勢を適用することです。主のまなざしを意識して、自分の家族や職場の人間関係を見直しましょう。すべての人の背後に、主を見るということは、目の前の人を理想化するという意味では決してありません。親も上司も、罪人の頭(かしら)です。それにも関わらず、神が与えた権威として尊敬することが求められています。また、子供も部下も、驚くほどずる賢いかもしれません。しかし、あなたも彼らも、神の前に同じような罪人です。そして、私たちの主キリストご自身が罪人に仕える生き方を全うし、ご自身のいのちをささげてくださいました。私たちのうちにはそのキリストの御霊が宿っています。そこには、すべての人に謙遜になりながらも、主体的で創造的な自由な生き方が開かれるのです。

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