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2010年11月28日 (日)

ヘブル10章32-11章13節 「待ち望みつつ、今を生きる」

                                              20101128日                                 

 北朝鮮が韓国の島の民家を攻撃したことで、戦争は起きないはずだという信仰?が揺るがされています。しかし、戦争が起きないと思うのは希望的観測であって信仰とは無関係です。それどころか、聖書は終わりのときが近づくに連れて世界に争いが広がるとさえ語っています。

もしある人が、「信仰をもって傘を持たずに出かけよう」と言って雨でずぶぬれになったとしたら、そんな風に「信仰」ということばを使うのは愚かだと誰もがわかります。ところが、意外に、信仰という名のもとに楽観的な見方が正当化されてはいないでしょうか。

しかし、信仰ということばは、常に神の約束に結びついています。神の明確な約束のないところに聖書の「信仰」という概念は生まれません。

そして、信仰の核心とは、神の約束の実現を「待ち望む」ことです。しかし、多くの人にとって最大のストレスは待たされることです。待たされると不安が募ります。その不安定な状況を打開し、自分で積極的に状況を支配しようと戦いを始めることがあります。

今日からアドベントですが、それは救い主の到来を昔の人々が「待っていた」ということを思い起こすときです。私たちは今、「待ち望む」ということに込められた創造的な意味を思い起こすべきではないでしょうか。その中で、神のみわざが私たちのうちに現され、今を喜ぶ平和な生き方が生まれるからです。

1.「苦難に会いながら激しい戦いに耐えた」

ヘブル人への手紙は、ユダヤ人クリスチャンに向けて記されています。イエスはユダヤ人から偽預言者と断罪されて十字架にかけられました。イエスの弟子となるということは、ユダヤ人にとっては異端の教えに従う者となることを意味しました。そのような中で、ユダヤ人クリスチャンは誰よりも同胞のユダヤ人から激しく迫害されていました。そして、彼らの中には苦しみに耐えられなくなってもとの信仰生活に戻ろうとする者が出てきました。

著者はそのように忍耐が限界になりそうな人に向かって、「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい」(10:32)と、回心直後の忍耐を思い起こすように勧めています。「耐える」ということばは「忍耐」と同じことばです。そして、忍耐」とは不安定な中に身を置き続けることを意味します。

そして、その当時の信仰者たちが置かれた状況が、「人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました」(10:33,34)と描かれています。

彼らは様々な迫害を受ける中で、互いの間の愛を成長させることができました。そればかりか、「財産が奪われても、喜んで忍ぶ(受け止める)ことができたというのです。

イエスの時代には、ローマ軍を力で打ち滅ぼして「神の国」を実現しようという運動が盛んで、この手紙が記された頃には、ユダヤ人の過激派の武力闘争が最盛期を迎え、その攻撃の矛先がクリスチャンにも向けられました。そのような中で彼らは、イエスのことばを思い起こしていました。

それは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をもやりなさい」(マタイ5:39,40)というものです。

それは非暴力、無抵抗の教えというよりも、神ご自身が「神の国」をもたらしてくださる、そのときを「待ち望み」ながら生きることの勧めでした。事実、彼らが自分の財産が奪われることすら喜んで受け止められたのは、「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので」と説明されています。これこそが信仰の核心と言えましょう。彼らは目の前に神の豊かな報酬を見ていたからこそ、苦しみを受け止めることができたのです。これはたとえば、豪勢な夕食を前に、空腹を我慢することに似ています。

「信仰」とは、不条理のただ中でも、霊の目をもって神の約束が実現しつつあるということを「見る」ことです。

私たちがいつも、自分の身を守ることに夢中になり、ときには過剰防衛さえしてしまうのは、将来への不安があるからです。神が私たちのために祝福に満ちた世界を用意しておられるという確信が強くなればなるほど、苦しみに耐える力が生まれてくるのです。不安に耐えられるなら、世の中から戦いは格段に減ることでしょう。

それを前提に、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」(10:35)と記されます。これは、キリストのために不当な苦しみを耐え忍ぶなら、そこには豊かな報いがあるという確信にとどまり続けるようにという勧めです。

ただし、天での報いを待ち望みながら、この地上の苦しみに耐え続けるということは容易ではありません。とくに昨今は、「待つ」ということが非常に難しくなっている時代です。私も待たされるというのは好きではありません。そして、世の中も、待たせないということを何よりも大切にしています。私たちは、「待つ」ことができないように馴らされてしまっているのかもしれません。それこそサタンの誘惑ではないでしょうか。サタンは今、待つことができない人間を作ることに大きな精力を費やしています。

しかし、今朝、信号待ちをしながら、これは神様に向かってお祈りできる恵みのときに変えられるのではないかと思わされました。

2.忍耐がもたらす救い

そのような中で、私たちの信仰生活にとって何よりも大切なことばが、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10:36)と記されます。これこそこの書の中心的な勧めではないでしょうか。ただし、そこには、神のみこころを行っていても、すぐに報酬が与えられるわけではないという前提があります。

「忍耐」とは、もともと軍隊用語だったようで、敵の最前線に留まり続けるというようなニュアンスで使われたと思われます。この反対の意味が、38節に記されている「恐れ退く」ことです。たとえば、最前線の砦に立てこもった軍隊は、援軍の到着を今か今かと待っています。しかし、前線から退却してしまえば今までの苦労が一瞬のうちに水の泡になります。援軍の約束を待ちながら、前線に留まるのには何よりも「忍耐」が問われています。

 そして、10章37,38節では、ハバクク書2章4節の有名なことばが自由に引用され、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない」と記されます。

なお、「義人は信仰によって生きる」とは、パウロが、ローマ人への手紙1章17節、またガラテヤ人への手紙3章11節でも引用している福音の核心です。しかも、「生きる」とは生き方の問題ではなく、「滅びる」こととの対比で、「救われる」ことと同じ意味を示します。

そのことが続く39節では、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(10:39)と改めて強調されます。38,39節では、「信仰によって生きる」「恐れ退く」「恐れ退いて滅びる」「信じていのちを保つ」という交叉法の表現が用いられています。

  ヘブル書の著者にしてもパウロにしても、なぜハバクク書をわざわざ引用したのでしょう。ハバククはユダ王国で最も尊敬されたヨシヤ王の時代に活躍した預言者だと思われます。ヨシヤのもとでユダの民は偶像礼拝を捨て神に立ち返りました。ただ、そのような中で、多くの偽預言者楽観的な希望的観測ばかりを語るようになりました。しかし、イスラエルの罪はそれまで積もりに積もり、一時的な悔い改めでは神の怒りは静まらないところにまで来ていました。そしてハバククには、エルサレムに対する神のさばきは避けることができないと示されていました。

彼は、そのことを深く悲しみながら、この書の冒頭で、「主(ヤハウェ)よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまでも聞いてくださらないのですか・・・なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか・・・」(1:2,3)と述べています。

しかし、そのような訴えの中で、神は「終わりの日の幻」を彼に与えてくださいました。ただそれは、神がまずバビロンを用いてイスラエルの民の不信仰をさばき、その上で、また自分の力を誇っているバビロンを初めとする国々をさばくという、期待はずれの遠回りな救いのご計画でした。

これはたとえば、今から七十年近く前に、「大日本帝国が敗北して初めて、新しい日本が生まれる・・」と語るようなものです。さしあたりは理解してもらえません。しかし、実際に悲劇が起きたときに、そのことばが生きて、人々に勇気を与えます。

  つまり、神は預言者ハバククを通して、今、エルサレムが滅びようとしているけれども、その苦しみを通して神の民は生まれ変わることができるという希望を語ったのです。それは、目に見える状況は、イスラエルの神が何もできないかのような現実を表しているけれども、それでも神の真実は変わることがなく、神はご自身に信頼する者を、わざわいの中で守り通し、救い出してくださるという希望です。

信仰によって生きる」の「信仰」とは、「真実」とも訳すことができます。ヘブル語では、「アーメン」と同じ語源のことばです。私たちがお祈りの後に、「アーメン」と入れるのは、「本当にこのとおりです」「この祈りは私たちの真実からのことばです」という意味がこめられています。

  聖書のテーマは、「神の真実」です。目の前にどれほどの苦しみや不条理があっても、神の真実は変わることがありません。神は必ず、神に頼る者を救い出してくださいます。その「神の真実」は、しばしば、悲劇を通して明らかにされます。また、何度も死に目にあいながら、生かされているということを通して現されます。

その意味で、ひとりひとりが、人生のどこかでそのような神の真実を体験させていただいているのではないでしょうか。そして自分の人生に現された神の真実の原点に立ち返ることから、あきらめそうになったときの「忍耐」が生まれます。

私は以下のような話しを母から聞かされ続けてきました。私は19533月に北海道の大雪山のふもとで生まれました。大変な難産で、自宅で僕を産んだ母は、大量の出血を助産師さんに雪で止血してもらいながら、死にかけたとのことです。

どうにか命を取り留めた母は、休む間もなく農作業に出ました。ひとり家に置かれた幼児の僕は、泣くばかりでした。あるとき、声がしないと思ったら、おくるみで鼻と口が塞がり、窒息しかけていました。それで、一歳を過ぎた後の田植えの時期には、父が持ち運びできる小さな屋台を作ってその中に寝せ、あぜ道に置きながら父母は農作業をしていました。ところが、僕は風邪をひいて四十度以上の高熱が続き、喉の奥全体を腫らし、ついには呼吸困難に陥りました。

どうにか、30kmあまりも離れた旭川の市立病院にバスを乗り継いで運ばれました。幸いその分野では北海道一と言われる院長先生に診てもらえましたが、「あきらめてください」と言われるほどの重症でした。

しかし、懇願する母の願いで荒療治が行われました。三人の医者と、何人かの看護師の方のもとで、一歳の僕は逆さにされ、喉が何度にも分けて切開されました。そのたびに大量の血が流れ、脈がストップしたとのことです。しかし、そのたびに母が抱くと、心臓が再び鼓動を始めました。それが何度も繰り返され、命を取り留めたとのことです。

その後も、何度も、死ぬ寸前の危険に会いました。そのため発育が極端に遅れ、小学校に入った頃は、三月生まれだったことも相まって、運動も勉強でも「落ちこぼれ」という状態でした。

幼児期の苦しみは、心にもマイナスの陰を落します。また、発育の遅れは、強い劣等感の原因になりました。僕の記憶にかすかに残っているのは、ひとり泣きじゃくる自分の姿です。その後も、何をやっても遅れを取る落ちこぼれ意識を培ってきました。どうにか小学校高学年からめきめきと成績が良くなりましたが、幼児期の心の傷は、僕の心に暗い影を落し続けていました。

社会的には成功を収めているかのように見える中でも、いつも心の中には漠然とした不安が巣食っていました。イエスを救い主として信じた後も、「信仰によって不安を克服しよう!」などと思い、かえって自分の不信仰に悩まされてきました。

しかし、あるときから、自分の不安定さの原因をさかのぼるよりも、神がそのような苦しみのただ中で現していてくださった「真実」を見るようにと目が開かれました。苦しんだと同じ分だけ神によって守れていたのです。それは、苦しんだと同じ分だけ「忍耐」が養われたとも言えます。

このヘブル書では、「信仰」とは、不動の心を持つというようなことではなく、何よりも「忍耐する」こととして描かれています。そして、不信仰とは、心が揺れることではなく、「恐れ退く」こととして描かれています。

私は結構、怖がりなところがあります。しかし、怖がりは不信仰ではありません。不信仰とは、目の前の危険を見て、持ち場を放棄して退くことを意味します。

怖がりながら、「神様、助けてください!」と叫びながら、逃げずに留まるという姿こそ、信仰の本質です。私は自分の心の不安定さをもてあます事があります。しかし、神は、「不安」「忍耐」をセットに与えていてくださいました。あなたの人生にも同じような恵みがあるのではないでしょうか。

3.「はるかにそれを見て喜び迎え」

  11章1節では「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と記されています。これは、「信仰は望んでいることの実体であり、目に見えない事実の証明である」とも訳すことができます。

「信仰」とは、自分の夢が実現すると信じ込むということや、目に見える事実を無視して、向こう見ずな冒険をできるというようなことではありません。それは、目に見える現実が、神の約束とあまりにも異なるように見える中でなお、神の約束が実現することを待ち望むことができる力です。

また、目に見える悲惨な現実の背後に「神の真実」を認めることができることです。そして、著者は、まず最初に、12節まで「信仰によって」ということばを七回繰り返しながら、信仰が「昔の人々」(11:2)の人生にどのように働き、「称賛され」たかを記して行きます。

第一は、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る」と描かれます。たとえば、科学は目に見えるものの成り立ちを分析することですが、この世界がなぜ存在し、どのような方向に向かっているかを説明することはできません。

小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワから宇宙のちりのようなものを採取してきました。それは人間の身体を構成する原子と何らかの関連があることでしょう。しかし、それで人間の心やたましいが分析されるということはありません。人間が単なる宇宙のちりに過ぎなかったら、人を殺すことに躊躇する必要はないという結論だって導きえるのです。

ですから、20世紀最高の科学者と称されるアインシュタインは、「宗教のない科学は凶器であり、科学のない宗教は盲信である」と語りました。信仰とは目に見える現実の背後にある霊的現実を見ることなのです。

 第二に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」(11:4)と言われます。「信仰」は、「真実」と訳すこともできますが、神は、目に見えるささげ物の背後にあるアベルの真実を喜ばれたのです。カインの不真実はその後の行動に現れています。信仰とは、神の真実に対する私たちの真実な応答です。 

第三に、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました」(11:5)とありますが、このエノクがそのような特別な恵みを受けることができたのは、「神に喜ばれている」ことの結果であったと説明されています。

そしてその上で、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(11:6)という信仰生活の核心が描かれます。

「信仰」とは神に向かって祈ることです。パリサイ人は自分の立派さを神にアピールしましたが、取税人や遊女ややもめたちは、神に必死にすがりました。そしてイエスはそのような信仰を称賛されました。

立派な行いができることよりも、自分は神のあわれみなしには生きることができないことを認め、神にすがることこそ信仰の本質です。

第四に、「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り・・・」(11:7)とあるように、信仰とは神のさばきを真剣に受け止めることです。

  第五に、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(11:8)とありますが、信仰とは、神の約束を信じて、目の前に開かれている道を一歩一歩進むことです。

アブラハムは神が示してくださった約束の地があることは知っていましたが、その地でどのような生活をすることになるのかなどという事前情報を知らずに歩み出しました。私たちも自分の人生がこれからどうなるかを知らないまま、神が最善に導いてくださるという約束にすがって歩むのです。

第六に、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」(11:9、10)とありますが、信仰とは、目に見える現実が自分の期待したものと違うような中にあっても、この肉体的ないのちを越えた神の約束を信じて生きることです。

この地上の生活がすべてだとしたなら、目に見える土地の所有に縛られ、土地を奪い取るための戦いをしなければならなくなります。

第七に、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」(11:11)と記されますが、この「真実な方」の「真実」とは「信仰」と同じ語根のことばで、サラの信仰とは神が真実だと思ったことです。不信仰とは神の真実を疑うことです。

サラの信仰は確かに報われ、「死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれ」(11:12)ることになりました。

ただし、彼女はこの地上では、たったひとりのイサクしか産むことしかできませんでした。しかし、彼女の信仰は、後の世代を作り出しました。信仰は世代を超えて働きます。

そして、最後に、これらをまとめるようにして、「これらの人々はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13)と描かれます。

ここで「はるかにそれを見て喜び迎え」ということばは、最初の、「信仰は望んでいることの実体であり、目に見えない事実の証明である」ということばに結びつきます。

そして、その結果として、「地上では旅人であり寄留者であることを告白」するという生き方ができます。それは地上での目に見える結果に固執しない生き方です。地上的な報酬がなくても、ひとときひとときを誠実に生きる力です。

 

信仰とは、多くの人々が思うように、期待通りに物事が進むという確信ではなく、不条理に満ちた目に見える現実に振り回されることなく、神の真実に信頼して、神の真実に応答して生きる私たちの真実なのです。

「信仰」ということばは、しばしば、「真実」と訳し変えたほうが良いかもしれません。それは神の真実から生まれるものです。

私たちは、「神がおられるならどうしてこんな悲惨が・・・」と思うことがありますが、神の御子がわざわざ人生の悲惨と不条理とを身をもって味わうために人となってくださいました。救い主はこの世の不条理を正す前に、不条理をその身に背負い、自ら十字架にかかって死なれたのです。

この不思議な恵みは、不条理のただ中に身を置きながら、神を「待ち望む」という中でこそ理解できるものです。それを通して私たちは自分の願望から自由になるように導かれます。すると、自分の願望を押しと通そうとして戦う必要がなくなります。そこに平和が生まれます。

そればかりか、日々の生活の中に、すでに神が与えてくださっている様々な恵みを天国の前味として発見することができるようになります。このように、「忍耐」して神の救いを「待ち望む」ことは、「今を生きる」ことでもあります。

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2010年11月21日 (日)

イザヤ59章1節~60章9節「世のやみの中で私の光を見る」

                           20101121

 人はみな自分の努力が正当に報われることを心から願います。しかし、大学新卒者の就職内定率が五割という状況の中で、そのような成功志向が、ますます目先の損得勘定に敏感な品格のない人間を育てることになってはいないでしょうか。高度経済成長の時代は、努力がそれなりに報われたかもしれませんが、それは長い歴史の中ではほんの一瞬でした。

イスラエルの歴史においても、モーセ、ヨシュア、ダビデの時代が例外的に見えるほどです。それは今の日本と似ているのかもしれません。イザヤの預言は、そのような閉塞感の中で語られています。

ある牧師が、「人に勝つなどという小さな勝利に酔っているその浅ましさが、何か醜く感じられることがある。美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きなければならない」と書いていました。「How to・・」を身につけても解決できない問題と取り組み続けることが、その人を、本当の意味で輝かせ、美しくするというのです。

私たちの信仰、それは自分の人生をコントロールできる手段ではなく、変えようのない現実を、神の御手にあって受け入れ、そこにおいて誠実に生きられるように、生かされるということではないでしょうか。

1.「主(ヤハウェ)の手が短くて救えないのではない・・・あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり」

59章1,2節は私たちにイエスの十字架の必要性を認識させてくれる中心聖句です。そこでは、「見よ。主(ヤハウェ)の手が短くて救えないのではない。その耳が重くて、聞こえないのではない。それは、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからだ」と述べられます。

イエスが十字架で息絶えられたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)と記されますが、その「幕」とは、聖なる神と罪人である私たちを隔てる「仕切り」でした。しかし、それがイエスの十字架によって取り払われ、今、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる」(ヘブル10:19)のです。

私たちは今、イエスの御名によって、イエスの父なる神を、「アバ、父」と呼び、自分の祈りが天の父なる神に届いていることを確信することができます。それこそが私たちに与えられた救いの本質です。多くの人は、自分の祈りが願いどおりに叶わないことに不満を覚えますが、イエスの父に向かって、信頼を込めて、「お父様!」と呼びかけることができるということ自体が、私たちの世界観を変える出来事なのです。

先の57章18,19節の解説の際、神は深く悲しむ者たちに、くちびるの実である賛美の歌を与えることによって、平安を回復させてくださるという話をしました。讃美歌520番はスパフォードというシカゴの法律家の作詞によるものです。彼は家族とともにヨーロッパで休暇を過ごそうとして、奥さんと四人のお嬢さんをアーヴル号という大型客船で先に送りました。しかし、この船は鉄運搬船に衝突され12分間で沈み、226人の乗客が命を落としました。その中に四人のお嬢さんも含まれていました。

失意のため命を絶ちかねない奥さんを迎えに行くために彼は船に乗ります。そして、沈没した辺りを通り過ぎる中で、神からの深い慰めが彼の心の奥底に届き、この歌が生まれました。

私たちの人生には何が起こるかわかりません。しかし、どのような悲しみに会おうと、たとえ、この目に見える天と地が滅び去ると思えるような中でも、私たちのたましいは神の御手の中に守られ続けています。それは、十字架にかけられ、三日目によみがえられたイエス、その父なる神、全能の神が、あなたの父となってくださったからです。

2.「害毒をはらみ、不義を産む」

59章3-8節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれます。4節最後の「害毒をはらみ、不義を産む」とは、母体の中で胎児が成長するように、心の中で害毒が育まれ、時が満ちて産み出され、人々に災いをもたらすという罪の成長の様子です。

5節の「まむしの卵を彼らはかえし、くもの巣を織る」とは、人に苦しみを与える毒蛇の世話をし、また人をわなにかける「くもの巣」を織り上げながら、当人自身が毒蛇によって死ぬばかりか、彼らが織り上げたくもの巣は、自分の身体には何の役にも立たないという皮肉な描写です。

7,8節では、罪の広がりの速さが、「彼らの足は悪に走り、無実の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅がその大路にある。平和の道を彼らは知らず・・・」と描かれますが、これはローマ書3章15-17節で引用されます。

その結論が、すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(同3:23,24)と記されています。

私たちが自分の心を神のあわれみに対して閉ざし続けているときに、心の中で「害毒」が育まれます。それはまるで、「まむしの卵」を温めているようなものです。人への恨みに駆られることも、「くもの巣」を織り上げるようなもので、無益なことです。それは復讐の連鎖を引き起こすばかりです。

静かに船を走らせていてもぶつかってくる船があります。私たちは、そのような罪に満ちた世界で、どのように生きるべきかが問われているのです。

3.「真実は失われてしまった。悪から離れる者も、そのとりこになっている」

9-13節には、イスラエルの民を代表するように、預言者イザヤ自身の悔い改めが表現されます。そこでは、まず自分たちの悲惨が自業自得であるとの告白が、「それゆえ、さばきは私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない」と記されます。

「さばき」とは、虐げる者たちに対するもので、私たちにとっては「救い」を意味しますが、それが「遠ざかり」、私たちを義とする神の恵みも追いつかないというのです。

そのような中で、「私たちは光を待ち望んだ。しかし、見よ、やみ。輝きを・・・。しかし、暗やみの中を歩む。盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずく、強健な者の中にあって、死人のようだ」と描かれます。

これは申命記28章29節で警告されていたことで、そこでは、神の御教えを軽蔑する者に対して、「あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでもしいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない」と記されています。

 その苦しみの様子がさらに11,12節では、「私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。さばきを待ち望む。しかし、それはない。救いを・・・、しかし、それは遠く離れている」と描かれながら、その理由が、「それは、私たちのそむきが御前に数多くなり、その罪が私たちに不利な証言をするから」と記されています。

その上で、イザヤは12節の後半で、自分たちを支配している罪の現実を、「まことに、そのそむきは私たちとともにあり、自分の咎を私たちは知っていると表現します。これは詩篇51篇3節に見られるダビデの告白につながる表現で、悔い改めの基本となる告白です。

そして13節では、「咎を私たちは知っている」という内容が、「そむきながら、主(ヤハウェ)を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆とを語り、偽りのことばをはらみ、心からつぶやいているのを」と描かれます。

ここでも、4,5節にあった、「はらんで、産む」という描写を用いながら、「偽りのことばをはらみ」それを心に蓄え、それを口に出して「つぶやいている」というプロセスが描かれています。

私たちも神の真理のみことばの代わりに、たとえば、「力こそすべてだ。あわれみや誠実さなど役に立たない。人に利用されるだけだ。力がない者は、強い者に頼るしかない・・・」などという「偽りのことば」を心に蓄え、それを始終「つぶやいている」ということがないでしょうか。

武力とお金で動くこの世の論理に心と身体を任せ、静まって神を待ち望み、今ここで誠実を尽くすことを空虚な道徳のように受け止める誘惑に負けることがないでしょうか。

そして、そのような「偽りのことば」に身を任せた結果が、14、15節で、「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。それは、真実が広場でつまずき、正直は中に入ることもできないから。真実は失われてしまった。悪から離れる者も、そのとりこになっていると描かれます。

最後のことばは衝撃的です。社会から「公正」「正義」の基準が失われてしまうとき、せっかく自分の生き方を改めようとした人も、自分の「真実」が報われないのを見て、「正直者はバカを見る・・・」という気持ちになり、以前よりもますます堕落してしまうという悪循環です。

4.「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた・・・そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし」

それに対し、15節後半から16節にかけて主の不思議な救いのご計画のことが、「主(ヤハウェ)はこれを見て、さばきのないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、その義を、ご自分のささえとされた」と、神ご自身の心の痛みとともに記されます。

神は民を救いたいと願っておられるのですが、彼らの中には、「真実」「正義」「正直」も見られなくなっており、悔い改めようにもその基準すら失われているのです。これはたとえば、最低限の衣食住を持つことができない家族の中に育った子供が、親から万引きやスリの仕方を教えられて、どうにか食べ物を得ているようなところに行って、上から目線で「万引きは犯罪です」と諭したところで意味がないようなものです。

同じように、罪の中に生きている人は、本当の意味で悔い改めることが困難になっています。残念ながら、不道徳な生き方にはそれなりの刺激と興奮があります。タバコを止めたいと思いながら止められないのと似ています。そのような中で、上から目線で「心から悔い改めたら、神はあなたを赦してくださいます」と杓子定規に言われても、かえって、「こんな私は救われようがない・・・」というあきらめか、その反対に、そのような弱い心を造った創造主への憎しみが生まれます。

「主は・・・とりなす者のいないのに驚かれた」とありますが、「とりなす」とは、イザヤ53章の「主のしもべの歌」の最後では、「彼は・・・そむいた人たちとともに数えられ・・・そむいた人たちのためにとりなしをする」と言われていたことばと同じです。

つまり、主は、上から罪人に悔い改めを迫る代わりに、罪人の仲間となる救い主を遣わそうとされたのです。そして、ここでは続けて、「そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし」と描かれていますが、これは、悔い改めようともしない罪人を、神ご自身が一方的にあわれんでくださるという意味です。

そして今、私たちにとって、イエスこそが「主(ヤハウェ)の御腕」(イザヤ53:1、ヨハネ12:38)であり、「世の罪を取り除く神の小羊」です(ヨハネ1:29)。イエスはイスラエルの罪ばかりか、全人類のすべての罪をその身に負って、父なる神にとりなしをしてくださいました

私たちは十字架に、罪に対する神の怒りとさばきを見ると同時に、神がご自身の御子を犠牲にして私たちの罪をご自身の側から赦してくださろうとする、燃えるような愛を見ることができます。

  なお、17節では、「主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり」(59:17)と描かれますが、これは主の御腕としての「救い主」の姿であると解釈できます。

なお、これをもとに私たちがイエスの代理としてサタンが活動する世に遣わされるときの姿も、「胸には正義の胸当てを着け・・・救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6:14-17)と描かれています。

しかも、この方は、復讐の衣を着て、ねたみを外套として身をおおわれた」とありますが、これはキリストが再びおいでになるときのさばき主の姿です。

 その主の「さばき」のことが18節では、「彼らのしうちに応じて主は報いる。その仇には憤りを、その敵には報復を、島々にも報復をする」と記されますが、「報復」「平和(シャローム)」ということばは同じヘブル語の語根から生まれています。

多くの人は、不当な扱いを受けるときに、「こんな不正をまかり通らせてはならない!」と怒り、また、不条理な悲惨が起こるときに、「神がおられるなら、なぜこのような悲惨が起こるのか・・・」とつぶやきますが、神の「報復」とはそのような不条理に正当な「さばき」をもたらし、真の「平和」を実現してくださるという創造的な意味があるのです。

その結果として、19節では、「そうして、西のほうでは主(ヤハウェ)の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。それは、主が激しい流れのように来られ、その中で主(ヤハウェ)の息が吹きまくっているからだ」と描かれます。これは、主が長い眠りから覚めて、再びモーセやヨシュアの時代のような偉大な力を現されるという意味です。

多くの人は、神の沈黙に不審を抱きますが、主は、眠っておられたのではなく、世界の罪に対して、忍耐に忍耐を重ねておられたのです。しかし、主は必ず見える形でこの地に正義を実現してくださいます。

5.「これが、彼らと結ぶわたしの契約である」

その上で20節では突然、「しかし、シオンには贖い主として来られる。そむきから立ち返ったヤコブの中の者たちに」と述べられます。「シオン」とはエルサレム神殿の立てられていた丘ですが、キリスト者の共同体である教会こそが今、神の神殿です。イエスは私たちのための「贖い主」として来てくださったのです。

 21節の始まりは原文で、「そして、わたしは」という不思議な書き出しになっています。その上で、「これが、彼らと結ぶわたしの契約である」と記されます。これは、主ご自身の主導によって「新しい契約」を神の民と結んでくださるという意味です。それが救い主イエスによって明らかにされました。

そのことが、「あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口から離れることはない、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに」と述べられます。

これは、新約の時代は、イエスの上に神の霊があり、またその口には神のことばがありましたが、それがイエスの子孫である私たちにも受け継がれていると解釈できます。

イエスの時代、聖書の教えは人々を矯正するための律法と捉えられていましたが、イエスはその誤解を正し、神の愛こそが核心であると言われました。

また、弟子たちはイエスの教えにさえ従うことができずに、一番弟子のペテロは三度もイエスを否認しましたが、イエスはそんな弟子たちにご自身の霊を与え、内側から造り替えてくださいました。神の御教えを守ることができない者を、守ることができるように変えるというのが新約の核心です。

多くの人は新約の福音を誤解しています。私たちは確かに、キリストの模範に習い、キリストと似た者になることを目指さなければなりませんが、その前提を忘れてはなりません。バプテスマとは、キリストにつぎあわされるというキリストとの結婚式のようなものです(ローマ6:3-5)。

私たちは既に、キリストと一体とされたのです。夫婦は一緒に暮らすうちに、「似たもの夫婦」へと成長します。また、夫婦は財産を共有しますが、私たちはキリストと結ばれたとき、そのすべての罪がキリストのものとされ、キリストのすべての聖さが、私たちのものとされました。その霊的な現実を、目に見えるように現すというのが、キリストに似た者にされるというプロセスです。

6.「あなたの光が来て、主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝いている」

そして、60章1、2節で、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおっている、暗やみが諸国の民を。しかし、あなたの上には主(ヤハェ)が輝き、その栄光があなたの上に現れる」と描かれます。

そして今、イエスは、「あなたの光」として世に来てくださいました。この世界は、今も「やみ」におおわれています。しかし、イエスはすでにこの世界を照らしています。やみが深く見えるのは、光が強いほど陰も濃くなるのと同じです。やみよりも、あなたの上に輝く「光」にこそ目を向けるべきです。

そして、さらに、イエスはひとりひとりの心を照らしていてくださいます。私たちはイエスを知る前は自分の心の闇に気づいてはいませんでしたが、主を深く知るにつれ、自分の中に住む罪の性質に唖然とするようになります。

自分の内側の汚れが照らし出されることを恐れる必要はありません。心のやみを隠すことこそが罪の始まりでした。そして、罪を照らし出す光は、同時に、罪によって病んでいるアダムの子孫をいやす光でもあるからです。

なお、3節は、「国々はあなたの光に向かって歩んで来る。王たちもその輝きの明るさに向かって」と訳すことができます。これは、やみの中に住む人々が、「あなたの光」に吸い寄せられるようにして近づいてくるという意味です。

伝道とは、相手の誤りを指摘し、救い主を信じるようにと「説得する」ことではありません。あなた自身がイエスにしっかりつながっているときに、周りの人々が、吸い寄せられてくるというプロセスです。証しという名のもとに人の評価を恐れる必要はありません。いつでもどこでも、イエスだけを見上げて生きればよいのです。

4節からは、やみの中に住む人々が、光に吸い寄せられてくる様子が、「目を上げて、あたりを見回せ。みなが集められ、あなたのところに来る・・・そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。それは、海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのもとに来るからだ・・・」と描かれています。

私たちは自分の無力さや貧しさに気を落とすことが多くありますが、世界中の富は、神のものです。私たちはそのすべての富を相続するのです。私たちが富を獲得しようとしなくても、富のほうが向こうからやってくるというのです。なお、イエスの誕生のとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をささげたのは、この預言が成就しはじめたことのしるしです。そして、イエスの国は今も広がり続けています。

私たちは自分たちの教会堂の貧しさを嘆く必要はありません。「金は天下のまわりもの」と言われますが、お金自身が、魅力的な投資先を求めています。証券会社にいたとき、株式投資のもっとも大切な尺度は、会社の社風というような、数値化できない魅力にあると教わりました。教会堂建設に関しても、人間的な計画よりも、主の光を仰ぎ見ることを第一に考える必要があります。

なお、60章7節、9節の最後で、主は、「わたしの美しい家をわたしが美しくする」、また、「主があなたを美しくされたからである」と描かれています。私たちは霊的にはすでに主の「美しい家」ですが、それを目に見えるように「美しく」してくださるのも、私たちの努力というよりも、神の一方的なあわれみのみわざなのです。

 私たちは知らないうちに、信仰の世界すら、努力と報酬の関係で見てしまいます。しかし、私たちは自分で自分を変えようとしても変えられないくらいに、罪の束縛の中に生きています。モーセやヨシュアの時代は、目に見える敵に勝利することで、神の栄光が現されました。

しかし、イザヤの時代は、アッシリヤやバビロン帝国という異教の国に敗北しながら、なおそこで、神の栄光を見るようにと導かれました。目に見える状況が人間的には暗闇のようでありながら、なお、そこで神の栄光を見るというのが今の時代に問われている生き方ではないでしょうか。

主は、とりなす者のいないのに驚かれ、ご自分の御腕で救いをもたらしてくださったのです。それこそイエス・キリストの救いです。私たちが自分で神の好意を勝ち取るのではなく、神が罪人の仲間になるまで降りてくださいました。「飼い葉おけの傍らに」(賛美歌107)というドイツの詩人ゲルハルトの名曲は、世界の創造主が、誰よりも貧しい姿で、しかも、卑しい罪人の仲間となるために世のやみの只中に下りてきてくださったことを黙想する曲です。

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2010年11月14日 (日)

箴言18,19章 「主が望まれる生き方とは?」

                         20101114

  私たちはみな、「人の役に立ちたい」「少しでも世界を住みよくしたい」という動機を内側に持っています。しかし、そこには、キリストに似た者とされるという「聖化」の代わりに、目に見える「成果」を最優先するという落とし穴があります。西ヨーロッパからアメリカに広がった信仰には、そのような成果主義の危険があると、東ヨーロッパ系の教会は指摘しています。また、多くの人々の心の底には、自分の存在を認めてもらいたいという絶え間ない渇きがあると言われます。しかし、渇きに駆り立てられた信仰生活には、依存症の罠が潜んでいます。これらの成果主義から生まれる渇きや依存症の渇きは、決して満たされることはありません。それは、しばしば、「神への怒り」、または、「神へのあきらめ」として現れてきます。これは、少なくとも私にとっては他人事ではありません。いつも、成果がでないことにばかり目が向かってしまいます。しかし、主の望まれる生き方は、今、ここで、キリストに習うことです。

1.「理解することを、まず、第一に求めなさい。その上で、理解されることを・・」

「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す」(18:1、2) とは、自分の心を閉ざし、人の意見に耳を傾けなくなることの危険を語ったものです。興味深いのは、愚か者は・・・自分の意見だけを表すという描写です。皆さんのように、主を礼拝し、主のみことばを聴くために、主の教会に足を運んでこられる方は、この面で、主から喜ばれています。

原文では、「仲たがいする」「意見を表す」が、ほとんど同じ発音になっており、このふたつの節が密接な関係にあることが分かります。世の中には、いわゆる、「教えたがり・・」という人種がいます。牧師や教師などは注意しなければいけませんが、人々との交わりの中に入るたびに、いつも教える立場に立ちたがる人は、皮肉にも、「おのれを閉ざす者」になっている可能性があります。多くの人は、聞いてくれる耳を求めています。「伝道」という名の下に、人に何かを教えたがるということは危険です。信仰はこの目に見える世界が、目に見えない神によって支配されていることを知ることです。神は、しばしば未信者の口を通しても語られのですから、信仰の名の下に、独善的な生き方を正当化してはなりません。とにかく、「自分の意見だけを表す」者は、神の目には、「愚かな者」であり、「自分の欲望のままに求めている」者だということを決して忘れてはなりません。

イエスは、多くの人々の必要を瞬時に見分けることができましたが、新興宗教の教祖のように、「あなたの問題は・・」などと指摘する前に、まず、人の心の声がことばとして発せられるのを待った上で、いやしのみわざを行われました。人の訴えや意見を聞く必要のない方が、まず、人の声に耳を傾けられたのは、聞くことこそが愛の始まりだからです。そして、イエスがそのような人への接し方を見せてくださったのは、人のことばに耳を傾けない人が、神に対しても心を閉ざし、自滅に向かうという危険があることを教えるためでもあったのではないでしょうか。

「愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる」(18:6、7)というのも、人と人との関係を保つ上での貴重な知恵です。ここでは、「くちびる」「口」「口」「くちびる」という交叉法の表現が見られます。たとえば、目の前の人に自分の過ちを認めてもらいたいと願うあまり、ことばが過ぎてしまうことがあります。しかし、人は、自分のプライドを守るためなら命さえも賭けることがありますから、追い詰めすぎることは、必然的に、相手の暴力を引き出す可能性があります「そのくちびるはたましいのわな」とは、自分のくちびるが自分のたましいを滅びに招く「落とし穴」になるという意味です。一言で相手を屈服させようなどと考えている人は、自分の滅びを招くことになるのです。

「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」(18:8)というのは陰口の魅力?を正面から語っているという点で画期的です。実際、陰口は、人と人との潤滑剤のような役割を果たします。話す方も聞く方も、優越感を味わうことができるからです。それは人の心の奥底に入ってゆきます。しかし、それは甘い駄菓子(ジャンクフード)が長期的には身体の害になるのと同じように、陰口はキリストの身体としての共同体を壊します。このみことばは、話したいという誘惑、聞きたいという誘惑、その両方に対する大きな警告です。

 「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」(18:12、13)とありますが、最初の文節は、16章18節の「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」を短くしたものであり、続くことばも、15章33節で、「謙遜は栄誉に先立つ」と言われていたのと同じですが、ここでは、それが、「よく聞かないうちに返事をする・・・」という人と人との会話に結びついています。

高慢な人は、ほんの少し聞いただけで、わかったつもりになって話し出す「教えたがり屋さん」です。でも、そのような人は、そのうち、「そんなこと、私だって分かっていますよ。そんな程度の答えしか言えないあなたなんかとは、もう話したくない・・・」などという「侮辱を受ける」ことになります。人は、それぞれユニークな人生を歩んできています。それを自分の枠で簡単に理解した気持ちになる人は「高慢」な人です。そのような人は人と人との関係を壊してしまいます。しかし、謙遜な人は、人の話にじっくり耳を傾け、その人固有の問題を理解することができます。

イエスは、神との関係に関して、「神の国を、まず、第一に求めなさい」と言われましたが、人と人との関係では、「理解することを、まず、第一に求めなさい。その上で、理解されることを・・」という原則が大切でしょう。

2.「人の心は、人の力によっては変えられない」

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」(18:14)とは、「人の霊は病苦を支えるが、傷ついた(砕かれた)霊を、誰が担うのか」と訳すこともできます。神を知らない方々の中にも、想像を絶する苦しみの中で、人としての優しさを失うことのない人格者がいます。それは、人の霊」が、神によって創造されたかけがえのない宝物であることを示しています。人の霊には、途方もない力が秘められていますが、しかし、人間のたましいの中核である、霊」が、傷つき、砕かれてしまうとき、誰が人を統合することができるでしょう。ですから、その霊の部分が力を傷つき果てるとき、人はしばしば、自分で自分の命を絶つことを選ばざるを得なくなります。

ところが、人にはできないことを、神が可能にしてくださいます。そのことがイザヤ66章2節では、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」と記されます。そこでの「心砕かれ」ということばと、ここでの、「ひしがれた心」というのは基本的に同じ原語に由来し、神のあわれみの対象とされています。

つまり、ここは、神に創造された人の心の力を賞賛しながら、その心が力を失ってしまうとき、その心は神によってしか癒されないということを示しています。とにかく、しばしば、言われるように、生きる気力をなくしてしまっている人には「頑張って!」ということばは禁句です。そこで求められているのは、その方の痛みに寄り添い、その痛みをともに味わい、その人の気持ちを引き受けるようにして、人の霊の創造主である神に祈ることです。

「悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める」(18:15)とは、「悟りのある心」「知恵のある耳」は、自分から進んで「知識を獲得し」また「追求する」という意味です。つまり、「知識」を次々と与えることよりも、「知識を求める」ことができる「心」「耳」を育てられているなら、人は自ずと成長することができるのです。私は両親から勉強を教えてもらったり、「勉強しろ!」などと言われたことがありません。父などは、一人息子の私が農業の跡継ぎになることを願って、「あまり高学歴になられても困る・・・」という思いさえ抱いていたようです。しかし、私はそれに深く感謝しています。なぜなら、学びたいという意欲は、外から言われれば言われるほど、しぼむ傾向があるからです。私は、すべての点で、不器用で、のろまで、知能指数も決して高くはありません。しかし、お勉強をするのは大好きです。それは、神が私にこのような環境を備えてくださったおかげです。とにかく、「知識を求める心」こそが、神からの最大の贈り物なのです。そして、この多くの人は、この点を誤解しています。人は、一方的に教えられれば教えられるほど、「学びたい!」という意欲を失う傾向があります。そして、学びたいという意欲は、外から教え込むことはできません。敢えてできるとしたら、何よりも一緒に感動することではないでしょうか。

私はこの点で最近反省しています。一方的に、お教えしたいと思い、過大な情報量を提供し、かえってみことばを学びたいという意欲を減退させてしまったかもしれません。今回、メンタリングというプログラムを始めましたが、その核心は、おひとりおひとりの主体的な学びへの意欲をとことん尊重してゆくということにあります。

私たちは、14、15節を通して、何よりも、人の心は、人の力によっては変えられないという現実に目を向ける必要があります。生きる気力を失った人や学ぶ意欲のない人を、叱咤激励することは愚かなことです。それはかえって逆効果にしかなりません。必要なのは、そのような人に寄り添いながら、神のみわざを待つということでしょう。

3.「依存症的信仰の罠」

「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主(ヤハウェ)に向かって激しく怒る」(19:1-3)とありますが、最近、ある方との対話の中で、「依存症的な信仰の危険」ということを考えさせられました。たとえば、薬物依存から信仰に導かれた人は、ときに、主を賛美しながらそこに恍惚体験を求める傾向が生まれるかもしれません。宗教的な熱心さの落とし穴というのもあるのではないでしょうか。なぜなら、そこには「もっと、もっと」という駆り立ての力が働くからです。たとえば、私の中には、何とも言えない寂しさの感情が潜んでいます。そして、「信仰を深めることで、寂しさをなくすことができるはず・・・」などという幻想を抱いていました。しかし、そのような発想にこそ、依存症の罠があると気づかされました。それはたとえば、「寂しさを感じるのは、信仰が薄いから」と自分を責め、そして、「自分で自分を変えよう!」と励み、思うようにならなくて、自己嫌悪に陥るという悪循環です。そこには、「今、ここで(here and now)与えられている神からの恵みを感謝する」ということが欠けています。

しかし、「貧しくても、誠実に歩む・・」とあるように、欠乏を感じながら、それを満たすことよりも、今ここでの生き方での誠実さを目指すことこそが、神のみこころなのです。しかも、「熱心だけで知識のないのはよくない」とありますが、熱心な人に限って、気力のなえた人や学ぶ意欲のない人を、かえって精神的に追い詰め、落ち込ませることがあります。また、依存症の背後には、底知れぬ怒りや恨みがありますが、それを抱えたまま、伝道や奉仕に励んでも、回りの人々を振り回したあげくに、自分の日常生活を滅ぼすことになりかねません。そして、その結果、「その心は主(ヤハウェ)に向かって激しく怒るなどということになります。とにかく、性急な結果ばかりを求める信仰は危険です。自分の不信仰を責めすぎてもいけません。神の恵みは、「今ここで」、味わうべきものです。信仰の核心とは、何かを獲得することよりも、今ここでの歩み方、生き方が、主によって正されて行くことにあるのですから。

「思慮を得る者は自分自身を愛する者」(19:8)とは、厳密には、「心を獲得する者は、自分のたましいを愛する者」と訳すことができます。私たちは、「自分のたましいを愛する」必要があります。そのために最も大切なプロセスは自分の心の動きを把握できることだというのです。多くの人は自分の心の状態にあまりにも無知なまま、衝動に駆り立てられるようにして生きて、自分のたましいを粗末にしてしまいます。これと並行して、「英知を保つ者は幸いを見つける」と記されますが、英知を侮る人は、既にこの世においても不幸であると言われています。

「命令を守る者は自分のいのちを保ち」(19:16)とは、「命令を守る者は、自分のたましいを守る」とも訳すことができます。このように言われるのは、神が私たちの「たましい」の創造主であり、聖書の教えは、自分のたましいの取扱説明書のようなものだからです。神に背いて、「自分のたましいを守る」ことはできません。そして、それとセットに、「自分の道をさげすむ者は死ぬ(19:16)と記されています。これは、自分の日々の歩み方に注意を払っていない者は、永遠の死に向かっているという意味です。なお、多くの信仰者が、様々な決断をする際に、「主のみこころは・・・」と問いかけますが、主のみこころとは、何よりも、「神を愛し、隣人を愛する」という、今ここでの生き方に関わることです。そして、その二つの愛には、矛盾がないということが、「寄るべのない者に施しをするのは、主(ヤハウェ)に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(19:17)と描かれます。「主に貸すことだ」というのは露骨な表現ですが、私たちの目は、黙っていても自分の必要を満たすことに向かい、あらゆる理屈をつけてそれを正当化します。だからこそ、主はこのような露骨な表現で、物惜しみをする心の方向を変えようとしておられるのです。

4.「神の国の完成を待ち望み、今ここで、誠実に生きる」

 「人の心には多くの計画がある。しかし主(ヤハウェ)のはかりごとだけが成る」(19:21)とは、長い歴史の観点から見る必要があります。なぜなら、短期的には、力のある者、賢い者だけが成功を収めているように見えるからです。そして、その歴史的な見方が、詩篇33:9,10では、「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる」と記されています。

ここでの「主のはかりごと」とは何でしょうか。それは、「神の国(神のご支配)の完成」です。そのプロセスで、人間の力によって成り立つ王国のむなしさが明らかにされる必要があります。人間的な知恵や力によって成し遂げた働きは、ときが来ると消え去ります。そのことをイエスは、「岩の上に建てた家」「砂の上に建てた家」との対比で説明されました(マタイ7:24-27)。しばしば、砂上の楼閣と言われますが、自分を誇るためになされたような働きは、すべて、簡単に崩れ去ります。自分の計画が、世界に対する主のはかりごとと調和することが何よりも大切です。そのために必要なのは、常に、主の前に静まりながら、自分の動機を吟味することではないでしょうか。

その上で、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(19:22)と記されていますが、「変わらぬ愛」とは、ヘブル語の最も美しいことばのひとつ、「ヘセッド」です。これは、「失敗しない愛」「真実の愛」「忠実さ」「誠実さ」とも訳すことができます。聖書に記されているストーリーの中心とは、「神のご自身の計画に対するヘセッド、誠実さ」です。そして、その対比として、「貧しい人は、まやかしを言う者にまさる」と述べられます。「貧しい人」は、役に立たない人の象徴的表現です。つまり、一見、あなたにとって何の利益ももたらさない人であっても、「まやかしを言う者にまさる」というのです。それは、人が心の底で、何よりも、真実な愛を求めているからです。私たちは、この地上で、貧しく愚かで役に立たない人間と見られることがあるかもしれません。しかし、そんな評価に一喜一憂する必要はありません。あなたのまわりの人が、本当に、心の底から求めているのは、誠実な友、何があっても裏切らないと信頼できる友だからです。もちろん、私たちの心は揺れやすく、いざとなったら人をも裏切る弱さを持っています。しかし、そんな不誠実な私の心を、主の誠実が守ってくださるということがわかるとき、私たちは誠実を全うすることができます。主の「変わらない愛」を受けて初めて、私たちも「変わらない愛」を全うできるのです。

「主(ヤハウェ)を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」(19:23)というみことばも、長期的な視点から見る必要があります。残念ながら、「神様を第一にしようとしたのに、わざわいに会わないどころか、次から次と、問題ばかり起きてしまう。神様は嘘つきだ・・・」と思う人がいます。しかし、そのような人は、イエスの十字架を見る必要があります。誰よりも神を恐れ、誠実に生きられた方が、十字架という恐ろしいわざわいに会ったからです。しかし、そのような悲劇に対し、詩篇34篇19節では、まず、「正しい者のわざわいは多い」と、一見、箴言と真逆なことを言いながら、それに続いて、「しかし、主(ヤハウェ)はそのすべてから救い出してくださり、彼の骨のことごとくを守られ、そのひとつさえ砕かれることはない」と記されています。イエスが、十字架で骨を折られることはなかったのは、このみことばが成就するためでした。そして、イエスはその三日目に死人の中からよみがえりました。私たちも同じように、わざわいにあって命を落とすかもしれません。しかし、キリストにつながる者は、すべて、終わりの日に復活の栄光の身体を与えられ、新しい天と新しい地に入れていただけます。そのときに、「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」という約束の成就を見ることができます。

このように聞く人の中には、「そんな、天国で成就する約束なんて、無意味だ・・」と言う人もいるかもしれません。しかし、私たちがイエスを救い主として受け入れたときに与えられた「永遠のいのち」とは、この「新しい天と新しい地」における「いのち」を、「今、ここで」味わい続けることができるという意味です。そのように見ることができるとき、私たちがこの地で出会う、病も災害も裏切りも、「わざわい」ではなく、私たちを成長させるための主の訓練として受け止めることができるのではないでしょうか。私たちは痛みの中でこそ、神の恵みを知ることができます。    

本田美奈子さんという五年前に白血病で亡くなられた歌手は、私たちはみな、「当たり前病にかかっている」と言いました。「病気をした人や、ケガをした人、友達を失った人や、家族を失った人、そんな人たちが前を向いて歩き出した時あたりまえ病に気付く人がいるのではないでしょうか!!私は、ただ時を過ごす、平和な生活におんぶしてしまっている人をあたりまえ病と言っています。 こんなエラそうなことを言っている私もあたりまえ病のひとりなんですけど・・・でも気がついたんです。眠りから覚め、暖かいふとんで眠れた幸せ、お母さんが作ってくれる美味しい朝食。自分たちがなんの気なしに毎日している事、又してもらっている事、全部もう一度振り返ってみてください。私たちの身近にある小さな幸せが本当はとても大きな大きな幸せだということに!」

私たちも、「今、ここで」での生活を、当たり前と思ってはいないでしょうか。しかし、そこには驚くべき神の恵み(Amazing Grace)が満ちています。それを数え上げてゆくことが、「今、ここで」、誠実に生きることができる鍵ではないでしょうか。人の望むものは、変わらない愛(ヘセッド)です。それをともに味わう交わりが、今ここにあります。

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2010年11月 7日 (日)

イザヤ57:13-59:4 「こころを神に開く」

                                                2010117

  ある教会の青年が、「教会で出会う人たちは、みんな神を身近に感じているように見えるけど・・」と自分の不信仰を恥じていました。私は、とっさに、「みんな、信仰生活が長くなるにつれ、クリスチャンらしい言葉使いや、振舞い方が身についてきているだけで、心の内側はあまり変わっていないと思うよ・・・」と言ってしまいました。すると彼は、「あっ、そうなんだ・・」と笑っていました。ただ、私は同時に、「不信仰だからこそ、教会に来て、みことばを読みます。その習慣化も大切です」とも付け加えましたが・・・。

実は、信じたばかりのときの方が、信仰が純粋かもしれません。そのとき、本当に素直に自分の罪と無力さを認め、ただ神の前に自分のこころを開こうとしていたのではないでしょうか。しかし、人は、信仰生活が長くなるにつれ、信仰をはかるようになりがちです。

すると、神がまず私たちを愛してくださったという「初めの愛」を忘れて、神への愛をアピールし始めるということになります。しかし、ことばと行いで、敬虔なクリスチャンのふりをするのがうまくなればなるほど、心は神から離れてしまいます。しかし、そんな自分を神の目から隠そうとしてはいけません。罪の始まりとは、神から自分を隠すことにあったからです。信仰の成長の鍵は、自分の偽善性を認めることにあるのではないでしょうか。

1.「悪者どもは・・・静まることができず・・・平和がない」

  573節から13節には、カナンの偶像礼拝の様々なみだらな習慣に惑わされる人の姿が描かれています。そのような者たちに対する主のさばきは避けがたいものになりますが、主はここで、それ以前に、「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」(13節)という希望を語ります。

 その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「高く聖なる所にわたしは住む。砕かれ、へりくだった霊とともに。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(15節)と語られます。

私たちは、自分の無力さ、心の醜さに深い悲しみを覚えることがありますが、そのようなとき、イエスは、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と慰めてくださいます。

人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。

しかも、主は「なぜなら、いつまでもわたしは争わず、いつも怒ってはいないから。それは、霊がわたしの前で衰え果てるから。わたしの造ったいのちの息が」(16節)と言われます。これは子供を叱責する親の気持ちに似ています。子供が心の底から反省できるように、厳しくその問題を指摘したいと思うのですが、生きる気力をなくするほどに追い詰めてしまっては本末転倒になります。

その神ご自身の葛藤が再び、「むさぼりの咎のためにわたしは怒った。わたしは顔を隠して彼を打ち、怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。その道をわたしは見たが、彼をいやそう(17、18節)と言われます。

ここでは不思議にも、「むさぼりの咎」のために主の怒りを受けながらも、自分の道を改めようとしない頑なな者をさえ、主が癒してくださると約束されています。 

ところで、主はどのようにして私たちを癒してくださるというのでしょう。そのことが原文で難解な次の文章に記されているのだと思われます。ここは、「彼を導き、彼と悲しむ者たちに慰めを回復させよう、くちびるの実を創造しながら」と訳すことができます。

多くの信仰者は、深い悲しみに沈むようなときに、何よりも「くちびるの実」である賛美の歌によって慰めを受けています。霊的な名曲は多くの場合、絶望的な状況の中で、神からの不思議な啓示のように、一瞬のうちに生まれています。それはまさに神の創造のわざです。

そして、それがまた、他の人の心の琴線に触れ、信仰にある慰めを回復させてくれます。私たちは信仰を回復した結果として、「くちびるの実」としての賛美をささげることができるのではなく、神によって創造された賛美の歌が、私たちの信仰を回復させてくれるのです。

私たちの神への賛美は、神ご自身によって生み出されるものです(詩篇22:25)。

その上で主は、「平和が、平和があるように、遠くの者にも近くの者にも。わたしは彼をいやそう」(20節)と仰せられます。これは、「砕かれ、へりくだった霊」への語りかけです。それと正反対なのが「悪者ども」です。新共同訳はこのことばを一様に、「神に逆らう者」と、その意味を分かりやすく訳しています。それはこの世的には有能な善人と見られるかもしれません。

しかし、彼らは自分の力で生きようとして神を求めないという意味で、「悪者ども」と呼ばれるのです。つまり、聖書によると、「私は神の助けがないと生きてゆけない・・・」と思う人が「善人」で、「神に祈らなくても、どうにかやって行ける・・・」と思う人こそが「悪者」なのです。

私は自分を振り返ってみると、神に立ち返った後でも、悪者の心の状態であったことが多かったと思います。ドイツにいたときなどは、気分が沈んでくると、愛車BMWのカーステレオのボリュームを最大にしてビートルズを聞き、制限時速のないアウトバーンを時速180キロで車を走らせ、トヨタやVW車を追い抜いて良い気分になっていました。

神学校で学ぶようになっても、神学議論で仲間を圧倒することで心の平衡を保とうとしていた面があります。

そんな私にとって何よりも苦手だったことが「静まる」ということでしたが、あるとき、「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平和がない』と私の神は仰せられる」というみことばが心に迫ってきました(21節)。

当時の私は、静まろうとすると、心の奥底に押し込めようとしていた不安や孤独、怒りやねたみなどのマイナスの感情が沸きあがって来るばかりでした。

その頃の私は、「この世で成功することがクリスチャンとしての証になる・・」などと強がり、自分が善意で行動しながら人を傷つけてしまうような者であるということが分かっていませんでした。

ところが、自分の中には神に喜ばれる信仰すらもないということが思い知らされ、静まることができない自分を、イエスにあって受け入れることができたとき、静まることが苦痛ではなくなりました。

神の目からは、自分の気持ちに蓋をしていることができるようなこの世の善人こそが「悪者」なのです。その隠された正体は、静まろうとするときに明らかになります。

では、私たちはどのようにしたら静まることができるのでしょう。それは、たとえば、「主よ、私は静まることができません!」と言うことから始まるかもしれません。また、「主よ、私は、このことが気になってたまりません・・」「主よ、私の心にはこんな醜い思いが湧き上がっています・・」と、湧き上がるすべての思いを正直に打ち明ければ良いのです。

「悪者」とは、自分で自分の問題に整理をつけようとする人のことであり、「正しい者」とは、自分のすべての問題を主に祈ってゆく人のことです。

多くのまじめな信仰者は、どのようにしたら自分の祈りの時間を増やすことができるかと悩みますが、解決は簡単です。いろんなことを迷ったり悩んだりするたびに、その頭に、「主よ、どうしましょう・・・」とくっつければよいのです。そうすると、すべての悩みの時間が祈りの時間になります。

そして、そのようにして自分の心の内側にあるすべての醜い思い、抑圧された不安などを、ひとつひとつ主に明け渡して行くとき、結果として、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:7)という不思議を体験できるのです。

2. 「わたしの好む断食はこれではないか・・・」

58章初めでは、「せいいっぱい大声で叫べ・・わたしの民にそのそむきを、ヤコブの家にその罪を告げよ」と述べられた直後に、「ところが、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行なっている国であるかのように、神の公正を捨てたことのないかのように」(2節)と言われますが、そこには皮肉が込められています。

なぜなら、彼らは自分たちの偽善を認めずに、「なぜ、私たちが断食したのに、ご覧にならなず、身を戒めたのに、認めてくださらないのですか」(3節)と、自分たちの正当性を神に訴えているからです。

それに対して主は、「見よ。断食の日にお前の好むことをし、お前たちの労働者をみな、圧迫している。見よ。争いとけんかのために断食をしている、不法にこぶしを打ち付けるために」とその偽善を責めています。

その上で、彼らの断食をあざ笑うように、「お前たちは今、その声がいと高きところに届くような断食はしていない」と指摘しながら、彼らの断食が心の伴わない外見を整えるだけの空しい儀式になっている様子を描いています。

これは、まさにイエスの時代のパリサイ人の姿そのものです。彼らは、主を全身全霊で愛しているように見せかけていますが、それは主に対して自分の敬虔さをアピールする手段にしかなっていませんでした。

そればかりか、身近な人の苦しみを見て、「あれは自業自得だ・・神にのろわれているのだ・・」と軽蔑していました。

そのような偽善に対し、主は、わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親から身を隠さないことではないか」(6、7節)と仰せられます。

しかし、主のあわれみを知ることこそが、主を愛することの核心ですから、主を愛することと隣人を愛することは、本来必ず並行して進むはずなのです。

実際、イエスは、何度にもわたってイザヤとほぼ同じ時代に記されたホセア66節を引用しながら、パリサイ人に向かって、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んできなさい」と、神のあわれみを知ることこそが信仰の核心であると、彼らの聖書解釈を正されました(マタイ9:13)

そして、隣人愛の伴った礼拝をするときの希望が、「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの健やかさがすみやかに現れる。あなたの義があなたの前を進み、主(ヤハウェ)の栄光が、あなたのしんがりとなられる」と記されます(8節)。神に属するはずの「光」「健やかさ」「義」のすべてが私たち自身のものであるかのようにされるというのです。

かつて、「主(ヤハウェ)があなたがたの前を進み」と言われたことばが、「あなたの義」となり、「イスラエルの神が・・しんがりとなる」が、「主(ヤハウェ)の栄光」と言い換えられています(52:12参照)。

つまり、そのとき私たちは自分の良心に恥じないことを堂々と行い前進しながら、私たちの後には、自分の栄光ではなく、「主(ヤハウェ)の栄光」が見られているという真の証しの生活ができ、福音が広まってゆくのです。

 しかも、「そのとき、あなたが呼ぶと主(ヤハウェ)は答え、叫ぶと、『わたしはここにいる』と仰せられる」という主との親密な交わりが回復されます(9節)。

また、それに続いて、6節以降のことが言い換えられながら、繰り返され、「もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、偽りのことばを除くなら、また、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」と美しく描かれます(9、10節)。

しかも、「真昼のようになる」ことが、灼熱の太陽をイメージさせることがないように、「主(ヤハウェ)は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、たましいを満たし、骨を強くしてくださる。あなたは、潤された園のように、水の枯れない水の源のようになる」とも言われます(11節)。

「たましいを満たし」とは、どのような厳しい状況に置かれていても、神ご自身がたましいの奥底に喜びと潤いを与えてくださることを意味します。

イエスはサマリヤのスカルの井戸で、孤独なひとりの女性に、「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13,14)と言われました。

私たちはいつでもどこでもイエスの御名を呼ぶときにいのちの喜びを体験することができます。いのちのみなもとである聖霊ご自身が宿っているからです。

3.「そのとき、あなたは主(ヤハウェ)を喜びとしよう」

そして、最後に、主は安息日律法を回復するようにと勧め、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことをせず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主(ヤハウェ)を喜びとしよう。『わたしは地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地で養う』と主(ヤハウェ)の御口が語られたからである」と述べられます(13,14節)。

これは、安息日を守ることによって、ダビデ王国が回復されると解釈できます。このみことばをもとに、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、安息日を守ることに必至になり、たとえば、敵の攻撃を受けるような中でも礼拝をし続けて剣で殺されたということが美談になるほどでした。そのような中で、安息日に歩いて良い距離を規定するなどという規定を数多く作るようになりました。

しかし、そのような表面的な熱心さを求める中で、先の断食の場合と同じように、貧しい人々がかえって苦しむということが起こっていました。しかし、このイザヤの記述では、「喜びの日」「はえある日」という祝祭の面が強調されています。

イエスが安息日に敢えて人々を癒されたのは、そのような安息日の喜びを回復するためでした。ところが、当時のパリサイ人たちは、ローマ帝国の支配という現実を憎みながら、ダビデ王国の復興を夢見ていました。

しかし、安息日は、神が既に創造してくださった世界を「喜ぶ」ことを何よりも大切にしながら、同時に、様々な世界の悲惨にしっかり目を向けて「心の中でうめきながら」(ローマ8:23)、世界のために祈る日です。

本来の安息日には、喜びと悲しみが同居しています。喜びの反対は、悲しみや「うめき」ではなく、無感動ではないでしょうか。パリサイ人は、生まれつきの盲人の目が開かれたときにも、感動する代わりに、イエスが安息日に医療行為という労働をしたと責め立てました。

私たちに求められているのは、目の前の現実に不満を抱きながら、「自分でどうにかしなければ・・・」と動き出す前に、すべての問題を神に祈って委ね、同時に、神が「わたしは新しい天と新しい地を創造する」という約束に思いを向けることです。

そして、それが既に実現したかのように、「だから、わたしの創造するものをいついつまでも楽しみ喜べ」ということを、「今ここで」実践します(65:17、18)。安息日にすべての労働から身を引く必要があるのは、神の恵みを思い起こし、神のみわざに心を開くためです。

そして、このようにすることが、他の六日間の仕事をより充実したものにすることにもつながります。私たちが日々の仕事を、創造主であられる神からの課題として受け止めることこそが、信仰の核心であるからです。

 59章の初めでは、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が重くて、聞こえないのではない。それは、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、「救い」が何よりも、「咎」「罪」の問題が解決され、神との交わりが回復されることにかかっていると説明されます。

絶望的な状況になったとき目の前の問題を解決することばかりに夢中になることがありますが、何よりも大切なのは、すべてを支配しておられる創造主との関係をきよく保つことにあります。それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)とある通りです。

神にとって不可能なことはありません。問われているのは、その方が味方になっておられるかという、神との関係です。そして、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった神との和解こそ、この問いに対する答えでした。

その上で、3、4節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれています。特に、「義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない」とは、人々が自分の身を守ることばかりに夢中になり、人の権利が踏みにじられているのを見過ごすようになっている現代の日本にそのまま適用でします。

積極的に人を傷つけはしない人でも、この点では自分の正義を主張できなくなる人が多いのではないでしょうか。

ところで、58章2-4節では、イスラエルの民が、自分たちが正しいことをしていると思いながら、実は、神の怒りを買うようなことをしていたということが記されていましたが、ここで問われているのは、そのような偽善をすなおに認め、神の前に自分たちの罪を告白することです。

自分の正義を主張し、それに頼るということこそが、ここで記される、「不毛なことに頼り、むなしいことを語り、害毒をはらみ、不義を産む」(4節)ということの本質です。

人は、自分を正当化するための議論ならいくらでも出てきます。しかし、それは所詮、それは「不毛」で「むなしい」ことであり、その結果、人は心の奥底に「害毒をはらみ」、目に見える「不義」を産むということになるのです。大切なのは、何よりも、神の前で自分の心を開いてゆくというプロセスではないでしょうか。

最初の人間アダムは、明白に神に背きながら、自分の罪を認めることができませんでした。イエスの時代のパリサイ人も、自分を正当化することに長けているばかりでした。主の御手を妨げる最大の罪とは、自己義認です。自分の罪と咎と偽善、醜い思いのすべてを認めることができないことこそが、最大の救いの障害になるのです。

創造主の前に心と思いを開くとは、秋のやさしい光のもとでの日光浴のようなものです。私たちは自分の心の傷も、神に対する疑いも、罪責感も、恥の思いも、すべて神の愛の光のもとに開いてゆきます。そこで、イエスの十字架に思いを向けると、このままの私たちに神が大きな口付けをしてくださっているのがわかります。

信仰の核心とは、問題を抱えたままのこの私が神の愛の光にとらえられていることを覚えることです。そして、その神の愛のまなざしをもって、自分の隣人を見るようになることです。そこから真の隣人愛が生まれます。

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