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2010年12月26日 (日)

マタイ2:1-23 「手探りの歩みの中で宇宙大の救いを見る」

                                                                                             20101226

ローザンヌ世界宣教会議に出席した友人が、「宇宙大で考え、その地域で行動せよ」ということを示されたと言っていました。マタイ福音書におけるイエスの誕生をめぐる記事はまさに、宇宙大の出来事が記されています。それは旧約聖書の要約とも言えるダビデの子の系図から始まり、救い主の誕生を知らせる星の出現、東方の博士の訪問、エジプトへの逃避、バビロン捕囚の思い起こし、そして、ひなびた村のナザレに住むという展開です。

しかも、その経過をよく見ると、イエスの父親となったヨセフは、わけも分からずに時の権力者に翻弄されているようです。御使いも目先の進むべき方向を破滅の一歩手前で、しかも夢で必要最低限のことを語ったに過ぎません。ヨセフは、生まれる子は「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれると聞きましたが、人の目には、「神がともにおられるなら、どうして、こうも苦しく、不安で、見通しのないところを通らされるのか・・・」と見られます。

しかし、イザヤ7章でのインマヌエル預言自体が不思議に満ちていました。そして、インマヌエルの現実は、手探りの人生の中でこそ感じられるということがイエスの誕生の物語を通して明らかになります。

 

1.「ユダヤ人の王」を拝みに来た東方の博士たち…新しい時代の幕開け…

   「イエスが、ヘロデ王の時代にお生まれになったとき」とありますが、ヘロデはユダヤ人と敵対関係にあったイドマヤ人(エサウの子孫)で、ローマ帝国を後ろ盾に、現在のイスラエルをはるかに上回るばかりかダビデ王の時代に匹敵する広大な領土を支配する王として君臨していました。

彼はユダヤ人を手なずけるためエルサレム神殿を大改築し、自分こそが預言された救い主であるかのようにふるまっていました。彼が増改築したエルサレム神殿の荘厳さに関しては、イエスの弟子も、「これはまあ、何とすばらしい建物でしょう!」(マルコ13:1)と感嘆したほどでした。

しかし、そこに神の栄光はありません。それは見かけだけの輝きでした。しかも、ヘロデ自身の権力基盤はローマ皇帝の心ひとつで崩れる危ういものでした。

   イエスが、救い主、ダビデの子として誕生するということはヨセフとマリヤ以外にはだれも理解できないことだったと思われます。ところが、このマタイ福音書では、イエスが救い主として誕生したということがはるか東方において知られたと、不思議なことを描いています。

マタイ1章の系図はユダヤ人以外にはほとんど理解できないものだったと思われますが、2章ではそれが世界を変える出来事であるということが報じられます。それが、東方の博士たちの訪問の記事です。

   預言者イザヤはかつてシオンの丘に向かい「主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝く」(60:1)と預言し、エゼキエルは終わりの日に神ご自身が偉大な神殿を建て「主(ヤハウェ)の栄光が東向きの門を通って宮に入ってくる」(43:4)と預言しました。そして、イエスの時代の人々は、新しく生まれる「ユダヤ人の王」とともに「主(ヤハウェ)の栄光」が戻ってくると期待していました。

東方の博士たちはそのような新しい時代の到来を、不思議な星の出現によって知りました。彼らは当時の文化の中心地バビロンの地から来たのだと思われます。かつてユダヤ人はそこで捕囚となっていたので、博士たちは、聖書の預言にも通じていたはずです。

なお、皮肉にも将来的な救い主の誕生を、ヤコブからひとつの星が上りイスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く」(民数記24:17)と預言したのはモーセの時代の異教の占い師バラムでした。ここに登場する「博士」も占星術師のような存在です。彼らは異教社会の最高の知識人という意味で「博士」と訳すことはできますが、彼らがどこまで聖書を理解していたかは不明です。

バラムも、この東方の博士の場合でも、主導権は彼らの知識や探究心である前に、神ご自身の導きであることを忘れてはなりません。とにかく神は、イエスの誕生の出来事に異教の知識人を招き入れることで、キリストの救いは異邦人に及ぶということを最初から示されたのです。

東方の博士たちは、エルサレムに行けばすべてが分かると信じて来ましたが、そこに栄光の王の誕生のしるしを見ることはできませんでした。それで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」(2)尋ねまわり、それがヘロデの耳にも入ってきました。

その反応として、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人もヘロデと同じであった」(3)と描かれるのは、このような問いかけが、エルサレム神殿を建てたヘロデはイスラエルを復興する真の王ではないということを内外に明らかにすることを意味し、エルサレムの権力基盤を崩すことになるからです。

それで祭司長たちは、ヘロデの質問に聖書から答えることはできましたが、その方を拝みに行こうとは思いませんでした。不思議にも、当時の宗教指導者たちは、救い主の誕生を確かめることよりも、自分たちの身の安全を優先したというのです。  

   預言者ミカ(5:2)は、ダビデの生誕地ベツレヘムに「イスラエルの支配者になる者が出る」と預言していました。そして、その方は、「アッシリヤが私たちの国に・・踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救うと言われていました。多くの人々が救い主の誕生を、この世の出来事を離れた霊的なことかのように考えますが、ミカ書を初めとするすべての預言書は、この地に神の救いが実現することを語っています。東方の博士が、遠い道のりのかけてきたのも、ヘロデがそれを聞いて恐れたのも、現在のクリスチャン以上に、預言を身近に感じていたからです。

救い主は、神の民の敵を滅ぼすことによって世界に目に見える平和を実現すると描かれ、そのとき「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(ミカ4:3)というような完全な平和が実現すると約束されていました。

博士たちはが、その町に近づいたとき、東方で見た星が再び現れ、彼らを幼子イエスのところに導きました。それは、人の知恵による発見ではなく、神の一方的な導きでした。イザヤ書60章では、神がもたらす新しい時代には、諸国の民が、黄金、乳香をたずさえ、神の祭壇にささげると(6,7)と預言されていましたが、その祭壇はヘロデが建てた神殿ではありませんでした。

彼らは、「家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」とありますが、これは当時、王にささげる最高の贈り物の組み合わせでした。

「乳香」は当時の神殿で用いられる最高級の香料であり、エジプトでは王だけしか使うことが許されませんでした。中世のペストの大流行のときその拡大を止めるような殺菌力を発揮したと言われます。「没薬」はミイラを作る際に大量に用いられ、イエスの葬りの際にも用いられましたが、通常は祭司や貴婦人たちの化粧品や皮膚薬。香料などに用いられました。

それにしても、イエスの最初の住まいは家畜の餌を入れる「飼い葉おけ」で、それは村はずれの洞窟の中だったと思われますが、このときは、博士たちは「家に入って」と記されています。これは、イエスの誕生から二年近く経っていたときのことだからです。

なぜなら、ヘロデ王は、「星の出現の時間」を博士たちから「突き止め」、後に「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである」(16)と記されているからです。少なくとも、この博士たちの訪問は、クリスマスのときよりかなり後のことであるのは明らかです。

   真のユダヤ人の王の誕生が、世界の歴史の転換点であることを、異邦人は認めましたが、ユダヤ人の支配階級は自分の身の安全を考え、確かめようともしませんでした。しかし、それは預言者たちが語っていたように、神の栄光がイスラエルに戻って来たことを意味します。それは、ユダヤ人ばかりか異邦人にとっても新しい時代の幕開けを意味したのです。

2. 真のユダヤ人の王として、その歴史を再体験した方  

  博士たちは、「それから夢で、ヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の家に帰って行った」(12)とありますが、ヘロデにとって、博士たちが自分の前を通りすぎてベツレヘムに向かったことは、途方もないショックでした。彼は、自分の三人の息子さえ、競争者と疑って殺したほどですから、その赤ちゃんを殺すのに躊躇はしません。

それで、博士たちが帰ったあと、主の使いが再び夢の中でヨセフに現れ、「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を探し出して殺そうとしています」(13)と言います。

このとき博士たちがくれた宝物がこの長い旅の必要を満たすことができたことでしょう。主はあらかじめ必要を満たした上で、困難な命令を下したのです。そして、「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた」と描かれていますが、ここに改めてヨセフの従順さが強調されます。

彼としては、何がなんだかわからないまま、ただ、御使いの命じられるままに未知の世界に歩み出しています。

そして、そこで興味深いのは、「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われたことが成就するためであった」と記されていることです(15)。これは、ホセア111節にある記事ですが、それはイスラエルの原点、出エジプトのことに他なりません。

神は、かつて、飢饉の最中、ヤコブ一族をエジプトに逃れさせ、そこで増え広がらせ、新しい民とするためにエジプトから呼び出しました。つまり、幼子イエスのエジプト逃亡は、イスラエルの歴史をやり直す意味があります。それは、イエスこそがイスラエルを代表する王であられる方だからです。

   ヘロデは、自分の競争者の息の根を確実に止めようと、博士たちの報告を待っていました。彼はその期待が裏切られたと分かると、「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとりの残らず殺させ(16)ます。このときイエスは誕生から二年近くたっていたと推測されたからです。当時の村のサイズからしたら、該当する幼児の数は10人から30人ぐらいでしょうが、ヘロデにとっては心を痛めるほどのことでもなく、また、幼子が平気で遺棄される当時のカルチャーの中では何の話題にもならなかったことでしょう。

しかも、このことが、「そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した」(17)と解説されているのにはやりきれない気がします。この悲劇も神の御手の中にあって起こったというのですから・・・。

しかし、それがあるエレミヤ3115節前後の全体の文脈には、暗闇を通しての希望が記されています。そこでは、「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」と記されていますが、これはイエスの誕生は、神がイスラエルの民の悲しみのただなかに降りてこられたという意味を持っています。

「ラマ」はエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(エレミヤ40:1)。

ラケルはヤコブの最愛の妻でベニヤミンを産むと同時に息絶え、ベツレヘムに葬られました。彼女は悲劇の人ですが、同時に、後に続く祝福の母でもあり、彼女からヨセフが生まれ、それがエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれました。しかし、北王国は滅ぼされ、その民は強制移住させられ、残るベニヤミン族もバビロンに捕囚とされてゆきます。それを彼女は嘆いているというのです。

ただし、エレミヤ書では続けて、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・あなたの将来には望みがある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)という希望が告げられます。そればかりか、続けて主は、そこで今、裏切りの民、エフライムに対するご自身のお気持ちを、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない(31:20)と描かれます。

日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵は、この不思議なみことばと、先のホセア11章の続きに記されている「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(8節)いうみことばを思い巡らす中から、「神の痛みの神学」という名著を生み出しました。それが拙著、「哀れみに胸を熱くする神」の出発点となりました。それはご自身に背き続ける者のために、ご自身の御子を十字架にかける神の痛みでもあります。

「神が全能ならば、なぜ、この世にこれほどの不条理や悲劇があるのか?」という問いに明確な答えはありません。しかし、「私たちが痛んでいるとき、神もともに痛んでおられる」ということと、「私たちの悲しみには必ず終わりがあり、神は私たちの将来を開いてくださる」ということは明らかです。イエスに信頼する者の人生の不思議とは、どんな苦しみの中にも望みを見出すことができるということにあります。

   旧約聖書の二大テーマは出エジプトとバビロン捕囚ですが、マタイは、その両方をホセアとエレミヤの預言をもとにイエスの誕生に結びつけました。そして、それぞれの引用箇所のテーマは、神がご自身の民の苦しみを見ながら、哀れみで胸を熱くし、ご自身のはらわたをわななかせているというものでした。

人間的に見ると、幼子イエスのエジプト亡命も、ベツレヘムの幼児虐殺もサタンの使いとも言えるヘロデの残虐さに翻弄されている悲劇でしかありませんが、聖書全体からすると、それはイエスがイスラエルの王として、それまでの悲劇を生まれるとともに背負ってくださったことを意味します。

それにしても、「イエスがベツレヘムに生まれなかったら、そこの赤ちゃんは殺されずに済んだのに・・・」と思いたくなります。しかし、残念ながら、祝福の傍らで、悲劇も同じように生まれるというのは、この世の現実です。たとえば第二次大戦におけるドイツの敗北は、194466日の連合軍のノルマンディー上陸作戦で決定的になりました。

しかし、そのときから1945430日のヒトラーの自殺に至るまでの11ヶ月間、想像を絶する犠牲の血が流されています。戦いの勝敗が決まったのはノルマンディー上陸作戦ですが、戦いが終わるのはそれから一年後です。イエスの誕生はサタンの敗北の始まりでした。しかし、それ以降、自分の終わりを知ったサタンは、イエスの救いを見えなくするために、このベツレヘムの幼児殺しに始まりあらゆる手段を尽くしています。

夜明け前が一番暗く感じられるとか、光が強いほど影も濃くなるとも言われるように、イエスの誕生にともなう悲劇は、サタンの最後の悪あがきの始まりです。それは黙示録のテーマでもあります。

3. キリストが支配する新しい時代に入れられている恵み

  この悲劇の直後に、「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。『立って、幼子とその母とを連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました』」と記されています(20)。ヘロデは、必死に自分の競争者を殺そうとしましたが、そのとたん、彼自身の命が尽きました。

現在の暦はイエスの誕生を起点にしているはずですが、後に誤差が発見され、降誕は紀元前4年だと言われています。それがヘロデの死の年だからです。しかし、先にあったようにイエスはヘロデの死の二年前には生まれていたと思われますから、するとイエスの誕生は紀元前5年から6年ということになります。

どちらにしても、ヘロデは自分の死の年が、新しい時代の幕開けとなったことを夢想だにしなかったでしょう。神殿を復興したと自負していた人が、もっとも忌み嫌われた人となりました。

   ヨセフは家族とともにイスラエルに戻りましたが、そこでは、「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行って留まることを恐れた」(22)と記されます。アケラオはヘロデにまさって残酷な王で、ローマ皇帝は後に、民の反乱を恐れてアケラオを王座から退けたほどです。

そして、「夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ち退いた。そして、ナザレという町に言って住んだ」と記されます。

ヨセフは夢のお告げのたびに、それに従っているというのは何とも不思議です。ふと、「どうして、目を覚ましているときに御使いが現れてくれないのか・・・」とも思いますが、それはヨセフの主体的な行動を尊重しているからかもしれません。

人によって、「神がもっと私の進むべき道を明確に教えてくれたら・・・」と願うかもしれませんが、幼子のイエスを保護するという重大な責任を負っていたヨセフでさえ、夢を通してしか語っていただけなかったことを考えれば、神はどれだけ私たちの主体性を重んじているかが分かるのではないでしょうか。

とにかく、彼らが住んだのは辺鄙な田舎のナザレでした。そして、「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言は、旧約聖書のどこにも記されていませんが、それは、預言された救い主に関して「彼はさげすまれ…(イザヤ53:3)と言われていたことを指していることばだと思われます。

これは、ダビデ王国の栄光を復興したと自負していたヘロデ王の栄光と何と対照的でしょう。

  本日の箇所では、預言がひとつひとつ成就して行ったことが強調されています。東方の博士たちが贈り物を届けてくれたこともそれに含まれます。それは、ノストラダムスの大予言のように、いつ、どこで、何が起こるかを告げることではなく、神の救いの計画の全体像を知らせることが中心です。

神がご自身の御顔を隠される「のろい」の時代のことは、ずっと以前に警告されていました。その通りのことが起きて、彼らは、「恐怖にとらわれ・・心がすり減り・・種を蒔いても無駄になり・・あなたの力は無駄に費やされる」(レビ26:16-20)、また、「やまいが癒されず・・婚約者を寝取られ、家を建てても住むことができず・・ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない」(申命記28:27-37)という悲惨を味わっていました。

   しかし、神はご自身の民をあわれみ、御子キリストによって新しい時代を開いてくださいました。それは、古い時代と対照的に、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作ってその実を食べる・・自分で作ったものを存分に用いることができ、無駄に労することがない(イザヤ65:21-23)という祝福の時代です。

目に見える現実はまだ完成していませんが、イエスとの交わりのうちに生きる者はすでに、そのような御国の民とされています。

ですから、パウロは、「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と言いました。

それは、キリストにある「いのち」を生きている者は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)確信をもって告白することができるからです。

  ヘロデは、政治的には、大王と呼ばれるのにふさわしい業績を残しました。ローマ帝国の信任を勝ち得て広大な国土を治め、神殿を初めとする多くの建造物を後の世に残しました。しかし、彼はそれらをあらゆる権謀術数を尽くしてやり遂げました。それで彼には、信頼できる人がだれもいませんでした。ほとんどの国民から毛嫌いされ、ひとりぼっちで、自分が作ったもので自分を慰めるナルシズムの世界に生きていました。

一方、イエスはまったく無力なようでありながら、何の縁もゆかりもない東方の博士たちの礼拝を受けました。彼らのささげものは、エジプトに下るための資金になりました。全能の神は、赤ちゃんとなりマリヤとヨセフに抱かれて逃亡する道を選ばれました。彼は片田舎で人知れず育ちましたが、父なる神の御手の中で生かされていました。そして、その交わりが私たちにも及びました。

イエスの名が、「インマヌエル」と呼ばれたように、神はたしかに私たちの味方となられ、私たちとともにおられます。それは、具体的には、父なる神が、イエスをマリヤの腕に抱いて守ったように、私たちがこのキリストにある交わり(教会)に包まれて生かされていることを意味します。この目に見える交わりは、やがて実現することが確定している「新しい天と新しい地」のつぼみです。ヘロデと反対に、私たちは交わりに生きるのです。 

 村上春樹の小説、「ノルウェーの森」の最後の問いかけに、「僕は今、どこにいるのだろうか・・・」というのがありました。人間的に考えると、幼子イエスを守ったヨセフの歩みは、そのような手探りの歩みでした。しかし、彼にはそのような歩みの中で、その時その時に、神の明確な導きと守りを体験していました。

今、私たちのために、「新しい天と新しい地」への道が開かれています。しかし、五年後、十年後のことがどうなるかは、まったく分かりません。しかし、手探りながら、今、ここでなすべき働きは示されているのではないでしょうか。

私たちの前には、今日なすべきことと、永遠のゴールだけが分かっています。しかし、それこそが、ヨセフの歩みであり、すべての神に用いられた人の歩みではないでしょうか。イエスの救いを永遠の観点から宇宙大に考えることが、かえって、目の前においての自分の果たすべき責任として見えてくるのではないでしょうか。

神はこの世界をご自身の平和で満たしてくださいます。私たちはその過程の中にいます。それであれば、私たちの使命はおのずと明らかになります。私たちは今、平和の完成に向けての一里塚を、踏みしめるように召されているのです。

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2010年12月19日 (日)

マタイ1:1-25 「神の約束の成就をこの地で見る」

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「約束」という漢字には、目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があります。そして、これはヘブル語の「契約」ということばでも同じです。当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。

人は基本的に束縛されることを嫌いますが、たとえば、結婚はいろんな意味で束縛しあうことです。そして、子供が生まれれば子供に束縛されます。しかも、その束縛から逃げようとすると、家庭が壊れ、子供も傷つきます。しかし、どんなに困難な中でも、互いの約束を守り通そうとするときそこに祝福が生まれます。つまり、契約に伴う「祝福」と「のろい」は身近な関係でも確認できることでもあるのです。

神はイスラエルの民と契約を結びましたが、彼らは神を裏切りました。その結果、彼らに「のろい」が実現しました。しかし、神はその豊かな哀れみのゆえに、彼らをその「のろい」の束縛から救い出すためにご自身の御子を遣わしてくださいました。イエスを救い主と信じる者は、その受けるべきのろいをイエスに引き受けていただき、イエスが受けるべき祝福を受け取らせていただけます。そして、イエスは私たちと新しい契約をご自身の十字架の犠牲によって保障してくださいました。

多くの信仰者はクリスマスのたびにイザヤ11章を朗読しますが、そこには救い主が、私たちを狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和((シャローム)が満ちた世界を創造してくださると約束されています。

神の御子は、私たちにその約束を成就するために人となってくださったのです。そして、その神のシャロームの完成の約束は、必ず実現します。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。

    

1.新しい創世記としてのキリストの系図

  この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。

なお、英語(ESV)でも、The book of the genealogy of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham. ということばから始まるように、確かに、最初に記されているのは系図なのですが、それは血筋ではなく、契約の歴史を語るのが主題です。だからこそ、「系図、イエス・キリストの」ということばの後に、「ダビデの息子の」ということばが記され、その後に「アブラハムの息子の」という順番で続きます。

キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」という意味で、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。

ただ、ダビデのスキャンダルを知る人にとっては、「救い主のことをダビデの子と呼ぶなど、失礼では・・・」と思う方もいるかもしれません。しかし、それは血筋を尊重した見方であって、「契約」という概念に対する無知から来ています。

そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。

私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、血筋による系図ならイエスを産んだマリヤの系図を書くべきなのに、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されます。ヨセフは契約によってイエスの父とされた者です。これは現代的に言えば養子縁組で親子関係が作られることに似ています。そして、聖書の親子関係では、血筋よりも法律上の親子関係の方が重視されています。

実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使っています。

しかも、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。イスラエルの民はエジプトで四百年間、寄留していましたが、その間は、34節の「アラム」という名しか記されていません。また、5節のサルモンとボアズの間には二百年間近い士師記の時代が挟まっています。

そして、アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的だったということが最近の研究で明らかになっていますが、それは歴史的というよりはダビデという名前を構成する三つのヘブル語のアルファベット子音(デレク、ワウ、デレク)に由来するもので、それぞれのアルファベット上の順番は、4、6、4になります。これを合わせると14という数字になります。この系図が血筋ではなく契約を受け継いだ系図なので、系図にギャップがあるのは何の問題でもありません。だからこそ、イエスは、契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。

  なお、この系図には、明確な血筋の関係を表す四人の女性の名が登場しますが、それはみな忌まわしい過去を持っています。ダビデはヤコブの第四男のユダの子孫です。

ユダの子を産んだタマル(3)は、本来、息子エリの妻として迎えられましたが、彼は神のさばきを受けて死にます。タマルはその弟のオナンを通して子を設けようとしますが、彼はオナニーの語源となる行為によって神に裁かれて死にます。ユダはタマルを迎えた息子たちが次々に死んだのを恐れて、彼女を別の息子に嫁がせるのを恐れ、やもめのまま残そうとします。

それに対し、タマルは遊女の姿をして義父を欺き、子を設けました。しかし、父と息子の嫁が関係を持つことは本来、死罪にあたる罪でした(レビ20:12)。しかし、神はタマルの信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。ユダヤ人はタマルという名を見たら、すぐにこれらの物語を思い起こします。

ラハブ(5)は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを、命がけで逃したエリコの遊女です。神は滅ぼすべきエリコの住民、しかも遊女のラハブの信仰を喜ばれサルモンに嫁がせました。なお、彼女がダビデの家系に名を連ねるということは旧約のどこにも記録のない隠された話だったようで、神がマタイに特別に示してくださった事実だと思われます。

ルツはモアブの女でした。申命記233節ではモアブ人の子はその十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れてはならないと警告されていた「のわれた民」の娘でした。

しかし、神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。そして、その関係からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。

そして、ダビデの契約上の跡継ぎとなったのはソロモンですが、その母の名はここでは敢えて「ウリヤの妻」であるとのみ記されます。ウリヤはユダヤ人ではありませんでしたが、ダビデの忠実な家来になりました。

この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にしています。しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。

キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

2.神がダビデと結んだ契約

  ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」までの歴史に関しては、列王記や歴代誌に詳しく記されています。その間、20人の正式な王が立っていましたが、そのうちの14名だけがこの系図に記され6人の王の名は省かれています。省かれた理由はわかりませんが、ここに名を連ねている王も問題に満ちています。

ソロモンの子の「レハブアム」は傲慢さのために国を分裂させました。「ウジヤ」はユダ王国の最盛期を導きましたが、傲慢になって神のさばきを受けます。その孫のアハズは何と、エルサレム神殿に異教の神への祭壇を建て、神の怒りを引き起こしました。

なお、その子の「ヒゼキヤ」と、ヒゼキヤのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、このふたりの間に在位した「マナセ」「アモン」は最悪の王です。伝承によれば、預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺されました。その子のアモンは何と宮殿の中で家来に殺されるほどに無能な王でした。

このふたりの名を省くと、この系図は少しは美しく見えるのですが、マタイは敢えてこのふたりの救いがたい王の名も記しています。それは、神の救いのご計画は、そのような無能で愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。

「バビロン移住」の際の最後の王として記されている「エコニヤ」は、実際は最後から二番目の王ですが、バビロン帝国にすぐに降伏したため、捕囚の地バビロンで優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで不思議にも「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。

サムエル記第二7章には、かつてダビデが、主の神殿を建てようと思い立ったとき、主ご自身がダビデに、彼から生まれる子が神殿を建て、たとえ、その子が罪を犯しても、彼を懲らしめはしても、サウルのようにはしないという意味で、「わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つと約束してくださいました(15、16節)。

一方、神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記287節以降に詳しく警告されていたことでした。しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません

そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとしているエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。

簡単言うと、目の前にはとてつもない悲惨が見えるけれども、それは神の約束が反故にされたということを意味しない。この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。その神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きを見ればわかるだろうと、二千六百年前から言われていることだというのです。

なお、血筋から言えば、12節の「ゾロバベル」は、エコニヤの子の「サラテルの子」ではなく、サラテルの甥です。また歴代誌では、ゼルバベルの子の中に「アビウデ」という名はありません(第一3:17-19)

それはこの系図が、血筋によるものではなく、ダビデ契約を受け継いだという神の目からの系図だからです。そしてアビウデからヨセフに至る名は、この福音書以外のどこにも出てきません。その期間は五百数十年があったと思われますから、これ以外の名も存在したことでしょう。

その上で、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。そして、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあるようにイエスがダビデの正当な子孫であることの保障は、マリヤではなくヨセフにあることが明らかに記されています。

17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期はアブラハムからダビデで苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。

それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。

  18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、ここにはベツレヘムへの旅も、飼い葉おけも、羊飼いも、天の軍勢の賛美もありません。これは1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

しかも、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」と、マリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰が神に喜ばれたものであったことは確かなのでしょうが、神のみわざをただ忠実に啓示しようとするマタイにとっては重要なことではありませんでした。

  イエスが誕生したころのユダヤでは、宗教指導者たちが自分たちの信仰を人間的な基準で競い、評価しあっていました。神の約束を見る前に、人間の信仰が神を動かすかのような発想の人々が多くいました。それは現在にも通じます。

「あの人は信仰深いから・・・」とか、「私の信仰は、まだ未熟だから・・・」などということばが現在も飛び交っていますが、そのような言葉遣いは注意すべきではないかと思います。とにかく、ここでは、マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰以前に、彼女が、「ダビデの子」の「ヨセフ」の婚約者であったということが何よりも大切なことであったというのです。

3.その名はインマヌエルと呼ばれる

  ここであり得ないようなことが記されます。それは、「ふたりがまだいっしょにならないうちに・・・身重になったことがわかった」というのです。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。

そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれますが、それは神の御教えに忠実な人という意味ですから、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚はあきらめざるを得ないと考えるのが当然でした。そして、当時の正当な手続きとしては、その際、彼女の浮気を祭司に訴え出るという手続きがとられました。なぜなら、当時の婚約は現在の結婚と同じ拘束力を持っていたからです。律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。

ただ、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」というのです。なお、「決めた」という表現は少し強すぎます。この趣旨は、杓子定規にマリヤの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだ」という意味だと思われます。

そして、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます。御使いの最初のことばは、「ダビデの子のヨセフ」というものです。当時、普通の人に名字はありませんでしたから、「ヤコブの子のヨセフ」などと、父親の名前をつけて似たような名前を区別しましたが、一介の大工に過ぎないヨセフを「ダビデの子」と呼ぶのは途方もないことです。天使が現れ、ヨセフを「ダビデの子」と呼んだということ自体が、ヨセフにとっては驚きであり、恐れ多いことでした。

彼は奇想天外な神のご計画が自分のうちに成就しようとしていることを瞬間的に悟ったことでしょう。その上で御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(20)と言います。ここで彼は、マリヤが不倫をしたわけではないことを示されます。

そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。なお「イエス」という名は、当時の結構ありふれた名前でした。それは、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。

つまり、この場面を通して、マリヤから生まれた子が、見たところごく普通の子として生まれながら、なお、普通の人間にはできない途方もない働き、ヨシュアに匹敵する働きをするという意味が示されているのではないでしょうか。

その上で、御使いはヨセフに、イエスに与えられた使命を、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。神は、捕囚に向かおうとする民に、「彼らの時代の後に・・イスラエルの家と結ぶ契約…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる…わたしはかれらの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない(エレミヤ31:33-34)と語りましたが、それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。それが、今、イエスによって成就しようとしているというのです。

しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。つまり、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。

  そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22)と記されます。つまり、「救い」とは、多くの人が思い浮かべるイメージではなく、イスラエルの民に与えられた預言の成就という観点から見る必要があるのです。そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というものでした。これはイザヤ714節のみことばでした。

これは、エルサレムの王アハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。それは、神の救いは、人間の思いをはるかに超えているということを現すことばです。

これは理解不能な表現です。だいたい、女性が身ごもったら、その人はもう処女ではないというしるしでしかありません。しかも、インマヌエルという名の意味は、その文脈を見るとわかりますが、困窮と不安と敗北の中で理解できるものであるということです。つまり、「神がともにおられる」ということばの意味は、人間的な救いの期待が裏切られた後で見えてくるという不思議な救いです。目に見える現実が、期待通りにはならなくても失望する必要がないということのしるしがインマヌエル預言の確信なのです。それは、ときを経て初めてわかる神の救いです。

  これはヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。なぜなら、すべての目に見える出来事は、ヨセフにとって都合悪くしか展開していないからです。しかし、ヨセフは、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた言葉に信頼しました。かつてのエルサレムの王ダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れました。

そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されています。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた当時のアハズ王とは対照的でした。それは、彼が心から主のご計画の実現を期待していたからでもありますが、同時に、ここでは、主ご自身がヨセフの決断に介入して、ご計画を実現しようとする意志が見られます。

バビロン捕囚直前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、同じダビデの子孫であるヨセフは、葛藤を味わいながらも、神の計画を実現する器になることができました。これこそ、私たちに求められている信仰の応答です。ここで「インマヌエル」と呼ばれている方は、その後、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりを受けている中でこそ、理解されるという霊的事実なのです。

 かつてイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領することができましたが、そこにはいつも全能の主がともにいてくださいました。私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、かつてのような武力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

たとい、悪人たちがのさばっても、神がともにいてくださるのですから、自分で悪に復讐する必要はありません。イエスご自身、無力な赤ちゃんとして生まれながら、ヘロデの攻撃から守られ、十字架で殺されながら三日目によみがえらされたのですから。

  私たちのまわりには、約束を平気で破るような人々が多くいるように見えるかもしれません。しかし、キリスト者として生きるとは、何よりも、神の約束に信頼し、人に裏切られても、自分は約束を裏切らない者として生きることです。そこに人生の美しさが生まれます。そこに人生の喜びが生まれます。

この世の人々は、愛に飢えています。富や権力に動かされながらも、本当は、約束を守り通してくれる誠実な友を求めています。しかし、恐怖のために、つい自分の身を守ることばかりを優先し、互いに傷つけあってしまいます。それは、神の真実を知らないからです。

多くの人々がとまどいを覚えるマタイ福音書の系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証です。のろいを祝福に変えてくださったということの証です。旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証です。私たちは、これを味わうとき、神はこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。

しかも、「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、しばしば様々な苦しみの中でこそ味わうことができるものです。インマヌエル・・それは、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。

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2010年12月12日 (日)

イザヤ62章4節~63章17節「諦めることなく、主に訴える」

                             20101212

  「あきらめ」には良い面と悪い面があります。これは、本来、「明きらむ」から生まれた言葉のようですが、そこには、「心を明るく楽しくする」という意味がありました。依存症の原因に、自分では変えようのない過去への後悔や恨みがあると言われますが、目の前の現実を明らかに見るときに、断念すべきことがわかります。

そして、そこから明るい心が生まれるということで、「あきらめ」に「思い切る」という意味が込められたようです。そして、諦めのうまい人は、日々の生活に喜びを見出すことができますから、多くの人は、「主にゆだねる」ということを「あきらめ」と同じような意味で使います。

しかし、聖書における「ゆだねる」ことの中心的な意味は、抱えている問題を主に祈るという主体的な行動です。私たちの人生には、決して諦めてはならないことがあります。そして主は、諦めずに、祈り続けることを求めておられます。諦めが早すぎる人は、自分の人生を開くことも、この世界をより良くするために貢献することもできません。聖書の信仰とは、どんな逆境の中でも諦めずに希望を持つことに結びついています。

日本では自分の希望を前面に出さないことがお行儀の良いこととされますが、日本のクリスチャンはしばしば、神の前でお行儀が良すぎて、聖書が勧める祈りの世界の豊かさを味わいきれていないのかもしれません。

1.「主に休みを与えてはならない」

イザヤ書61章1節の「主、ヤハウェの霊がわたしの上にある」以降の文章は、多くの場合、父なる神によって立てられた救い主、キリストご自身のことばとして理解できます。それは62章4節においても同じです。

キリストはエルサレムに対し、「あなたはもう、『見捨てられている』と言われず、その地はもう、『荒れ果てている』とは言われない。かえって、『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれる。あなたの地は『夫がある』と・・・。それは、主(ヤハウェ)の喜びがあなたにあり、あなたの地が夫を得るからである。」と言われます。それは、エルサレムがバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことと対照的です。

それはたとえば、自分の欲望を抑えることができず、借金に借金を重ね、自己破産し、夫にも見捨てられ、ホームレスとなってしまったような人に対する語りかけです。自業自得で社会的に見捨てられたような人に向かって、主ご自身が、「わたしの喜びは、彼女にある」と言われました。それは、「わたしはあなたを妻に迎え、今までの借金を返済し、すべての必要を満たす」と言ってくださるようなものです。

使徒パウロは問題だらけのコリント教会の信徒たちに対し、「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」(Ⅱコリント11:2)と言っています。私たちはイエスの父なる神を、「アバ、父」と呼ぶ特権が与えられたばかりか、キリストの花嫁ともされているのです。

  6,7節は不思議な表現ですが、これは「あなたの城壁の上に、エルサレムよ、わたしは見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていることはない。主(ヤハウェ)に思い起こしていただく者たちよ。休んではならない。主に休みを与えてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまではと訳すことができます。

見張り人は本来、敵の襲撃を告げ知らせる役割ですが、ここでは、主に必死に訴える働き手として描かれています。これは、王宮において家臣たちが、王に向かって、状況に左右されずに、王の最初の約束を政策として実行することを訴え続けるようなイメージとして記されています。キリストご自身が父なる神に訴え続ける者としての「見張り人を置いた」と言っておられるのです。

「主に休みを与えてはならない」とは不敬虔とも言える表現ですが、最近のほとんどの英語訳でも、「Give Him no rest until He establishes Jerusalem」と記されています。

ルカ18章でイエスは、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」ご自分の弟子たちに「たとえを話され」ました。それは、「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『・・・どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないからこの女のために裁判をしてやることにしよう・・・』と言った」というものです。

私たちは悩みを抱えたとき、身近な人に自分の不満を聞いてもらおうとはしても、神を恐れず、人を人とも思わない」ような裁判官のような立場の人には近づきません。しかし、この「やもめ」は、この「裁判官」こそが、この問題にさばきをつけることができる立場にあることを見極め、何度拒絶されても訴え続けていたというのです。彼女は裁判官に休みを与えませんでした。その結果、この裁判官も重い腰を上げざるを得なくなります。

このたとえ話をもとに、主は、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(6-8節)と言われました。

私たちもこの地に神の平和が実現するように、真に権威のある方に、恐れおののきつつ訴える必要があります。

主の祈りでは「御国が来ますように」と祈るように教えられています。これは、主のご支配が目に見える姿で実現することを被造物に過ぎない私たちが祈るという不思議で、この「見張り人」に課せられた使命と似ています。主はご自身の支配を完成するという救いのご計画の中に私たちの祈りの働きを参加させてくださっています。

そして、このように祈る者は、次第に、この世界を自分ひとりの観点ではなくて、主のご計画の観点から見ることができるように変えられてゆきます。

あなた個人にとっては都合悪く見えることでも、神の国の完成という観点から必要な働きがあります。自分の視点からしか神のみわざを見られないのは、神の民として未成熟と言わざるを得ません。

イエスの誕生のとき、救い主を待っていた「女預言者のアンナ」が登場します(ルカ2:36)。彼女は短い結婚生活の後「やもめ」となり、当時としては高齢の84歳になって、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えて」いました。神殿の祭司たちが偽善と謀略の中に生きているのを見ながらも、ただ神に望みを抱き、神殿に留まって、ただ「神に仕え(礼拝し)、神の正義、神の救いが実現するようにと必死に祈り続けていました。

それはイザヤが預言した「見張り人」の姿そのものでした。そして、その結果として、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に」、この幼子の誕生の中に神の不思議な救いがあるということを告げることができました。

しばしば、大きな理想ばかりを掲げる人は、目の前に争いを引き起こし、かえって問題をこじらせてしまいます。エデンの園の外の世界では、ひとつの矛盾の解決は、次の矛盾を生み出すということを決して忘れてはなりません。大切なのは、人間的な解決を急ぐのではなく、神のさばきを待つという姿勢です。

もちろん、積極的に改革のために立つべき時がありますが、それは「神に仕える(祈る)」という日常生活を基本として起こるべきことです。

2.「見よ。あなたの救いが来る・・・復讐の日が・・・」

主がご自身の「右の手と、力強い腕によって誓われた」ことの内容が、「わたしは再びあなたの穀物を、敵に食物として与えはしない。あなたが労苦した新しいぶどう酒を、外国人が飲むことはない。取り入れをした者がそれを食べて、主(ヤハウェ)をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む」(62:8、9)と描かれます。これは一言で、自分たちの労苦が無駄にならない世界を神ご自身が実現してくださるという約束です。

これはその逆の悲惨がバビロン捕囚の際に起きることを前提に記されていますが、それはあらかじめ神が申命記28章で警告していたことであり、同時に、申命記30章では神ご自身の主導によって祝福が回復されると記されていました。それこそ、新しいエルサレムで実現する祝福です。私たちにはその永遠の都の市民権が与えられています。

それを前提に使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と言いました。

  そして、「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」(62:11)という呼びかけが主からなされます。そして、イエスのエルサレム入城は、「救い」が文字通り「シオンに来た」ことを表すものでした(マタイ21:5)。そして、主は私たちの労苦に正当に報いてくださいます。

63章では先の59章17節の「復讐の衣を着て・・」のみことばの意味がより具体的に描かれています。「エドムから来るこの者はだれか。ボツラから深紅の衣を着て・・・」とは、主(ヤハウェ)が遣わす救い主が、イスラエルに敵対し続けるエサウの子孫のエドムとその首都ボツラをさばいて来たという記述です。

そして、「なぜ、あなたの装束は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」(63:2)という問いに対して、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ・・・わたしは怒って彼らを踏み・・・それで、彼らの血のしたたりがこの衣にふりかかり、わたしの装束を、すっかり汚してしまった。それは復讐の日がこの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ」(63:3,4)と残酷な表現があります。

これは、主ご自身がイスラエルの味方となり、その敵を滅ぼしてくださるということを意味します。

そして、「見回しても、助ける者はだれもいない。支える者がだれもいないことに、わたしは驚いた。それで、わたしの腕がわたしのために救いをもたらしわたしの憤り、それがわたしを支えた。わたしは怒って、民たちを踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血のしたたりを地に流した」(63:5,6)とありますが、これは59章16節の「ご自分の御腕で救いをもたらし、その義をご自分のささえとされた」を、特に主の復讐と言う面に焦点を当てて再度記したものです。つまり、神の民の救いとその敵の滅亡はセットになっているということです。

イエス・キリストは二千年前、ひ弱な赤子として生まれ、私たちとまったく同じ人間となり、私たちすべての罪を負って十字架にかかられました。そして、主の復活と昇天は、主が再びこの世界に来られることのしるしでした。黙示録6章9-11節には、主への信仰のゆえに殺されたたましいが主の祭壇の下で、大声で叫びながら、「聖なる真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」と訴える場面が描かれています。それに答えるのが主の再臨であると記されています。

そして、それは私たちに愛する力を与えるためのものでもあります。パウロは、「自分で復讐してはなりません。神の怒りに任せなさい」と言い、それを前提として、「もしあなたの敵が飢えたら・・食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」と勧めました(ローマ12:19,20)。

つまり、神のさばきを信じることと、敵を愛することは矛盾することではなく、かえって、さばきを主にゆだねているからこそ、敵を愛するという行動を取ることができるというのです。

私たちは、「こんなことを許していては、悪人がつけあがるだけだ・・」と思い、自分が必殺仕置き人にでもなって悪人をさばかなければというような思いになることがあります。しかし、そんな先走りは必要ないのです。

3.「私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」

63章7節は、「主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)を私は思い起こそう」から始まっており、節の始まりと終わりがともに、「恵み(ヘセッド)」ということばが記されています。それは、主(ヤハウェ)がイスラエルの家と結んでくださった契約への真実さを強調するためです。

その「恵み」は同時に「主(ヤハウェ)への賛美」と言い換えられます。そして、どのように「思い起こす」のかという説明が、「主(ヤハウェ)が私たちに報いてくださったすべてのこと、すなわち、イスラエルの家への豊かないつくしみ(良いこと)に従って」と描かれます。

そして、改めて、「主が報いてくださった」と言われながら、その動機が、主の「あわれみ(ラハム)」と、「主の恵み(ヘセッド)」であると説明されます。

そして、8節の、「主は仰せられた」ということばから、主のみこころが美しくが描かれます。その最初は、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という語りかけです。それこそ「主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)」の動機であり、放蕩三昧をして落ちぶれて帰って来た息子を迎える父の気持ちです。

そして、「こうして、主は彼らの救い主になられた」という表現と共に、まず、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の御顔の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。

ここで「主の御顔の使い」とあるのは、単にご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるという意味です。しかも、主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。

  今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。

イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

なお、イスラエルの民がシナイの荒野において金の子牛を作って拝んだ時、主(ヤハウェ)は、「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と仰せられましたが、それに対しモーセは、「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」食い下がりその結果として、主ご自身が彼らの真ん中に住み、彼らを約束の地に導かれたと描かれています(出エジ33:2,3,15)。

つまり、主は御使いをイスラエルに遣わしたのではなく、民の反抗に耐えながら、ご自身が彼らの真ん中に住んで、彼らを救い出されたのです。

ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。

その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました。約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それは、まるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたような印象を与えます。

そして、このような中で、「そのとき彼は思い起こした。モーセと彼の民のいにしえの日々を」と記されます。「彼」とはイスラエルだと思われ、現在の悲惨な状況との対比で、「その群れを牧者たちと共に海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか」(63:11、12)と繰り返し尋ねます。それは、今のイスラエルにはモーセのような牧者もいなく、主が彼らの間から離れ、主の神殿も破壊されていたからです。

そして、彼は昔の出エジプトの際の主のみわざを、「その方は、美しい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた」と思い起こし、それをまとめて「家畜が谷に下るように、主(ヤハウェ)の御霊が彼らをいこわせた」(63:14)と結論付けます。

なお、ここで、主のみわざが何よりも、主ご自身が彼らの真ん中に「聖なる御霊」を置かれ、「主(ヤハウェ)の御霊が彼らを憩わせた」という聖霊のみわざとして描かれています。これは旧約では極めて珍しい記述です。

なお、パウロは反抗的なコリントの教会に向かって、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることをあなた方は知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と語りましたが、今、主ご自身が私たちの交わりのただなかに住んでおられ、私たちを新しい天と新しい地、新しいエルサレムへと導いておられます。私たちは聖霊が宿っているという教会の交わりを軽蔑して約束の地に達する事はできません。

  その上で、イザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる美しい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と御力はどこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」(63:15)と、主ご自身が「たぎる思いとあわれみを」、今、敢えて、「押さえておられる」と表現します。

それは、イスラエルの悲惨が、主の無力さのあらわれではなく、主ご自身のみわざによるものであり、主のみこころひとつで、すべてが変わるという希望を示すためです。「たぎる思いとあわれみ」と同じことばを用いながらエレミヤ書で主は、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と言っておられます。

さらにイザヤは、「まことに、あなたは、私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、あなたは、主(ヤハウェ)よ、私たちの父です(63:16)と告白します。旧約において主(ヤハウェ)を「父」と呼ぶのは珍しいことです。

後にパウロはこの箇所における「御霊」また「父)」という表現を用いて、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:14,15)と記しています。

その上でイザヤは、イスラエルの不信仰が主ご自身に由来するものであるかのように、「なぜ、主(ヤハウェ)よ、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。どうかお帰りください」(63:17)と訴えます。つまり、イスラエルの不信仰は、主が彼らからご自身の御顔を隠し、彼らの間に住まわれなくなったことの結果でもあるというのです。

私たちは自分の不信仰のゆえに様々な悲惨を招きますが、自己嫌悪に陥る代わりに、自分たちの不信仰は、主にも責任があるかのように大胆に訴えることができるなら、もっと気が楽になるのではないでしょうか。私たちはこのように、自分の不信仰を責める代わりに、「主よ、私を変えてください」と祈るべきなのです。

そして、主はそのように祈る私たちのために、創造主ご自身である御霊を遣わしてくださいました。私たちが御霊に心を開くなら、御霊ご自身が私たちを内側から造り変え、私たちの信仰を成長させてくださいます。そして、私たちが神との交わりを深めた結果として、神の平和の器として用いていただけます。

 128日は、中高年の人にとっては、太平洋戦争の始まった真珠湾攻撃の日としてよりは、ビートルズの元リーダー、ジョン・レノンの命日として記憶されているようです。彼は、昔は反キリスト者と見られていましたが、今や、平和への夢を語り続け、歌った人として評価されています。

それに比べて、福音的なクリスチャンは、しばしば、いたるところで争いを引き起こす人と見られています。どうしてこんなことになってしまったのでしょう。それは主の救いを待つ代わりに、自分が動き出し、また、主に祈り続ける前に、人を説得することばばかりを発するからではないでしょうか。

私たちはどれだけ心を込めて、「御国が来ますように(神のご支配が現れますように)」と祈っているでしょうか。主ご自身が教えてくださった祈りを忘れて、動き出してはなりません。

それにしても、世界の創造主は、この世の不条理を力で正そうとする前に、ご自身が不当な苦しみを引き受けることができるためにひ弱な人間の姿となってくださいました。それは、この不条理な世界のただ中において、私たちの祈りを導くためではないでしょうか。私たちの周りに神の平和が少しでも広がるように、諦めずに祈り続ける者とさせていただきましょう。

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2010年12月 5日 (日)

イザヤ60:10-62:3「神の救いがもたらす大逆転」

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  多くの人々は、「大切な何かを失うこと」を恐れて生きています。この恐れは豊かになるほど大きくなります。福音を聞き、それに感動しながらも、何か大切なものを失うことを恐れて決断できない人もいます。これは江戸時代からのキリシタン迫害のトラウマが日本人全体の心に深く染み込んでいるためでしょう。そればかりか、イエスはご自身に従う者が、この世で大切な家族や財産を失う可能性があるとさえ言われました。

しかし、不思議にも、歴史を見る限り、迫害があればあるほど、その後のクリスチャン人口は爆発的に増加しています。第二次大戦後の韓国の教会の成長はその代表例ですし、文化大革命後の中国でも福音が驚くべき勢いで広がっています。

ところが、日本の場合は、迫害を受けるたびに人々の心が臆病になってはいないでしょうか。それは、多くの日本人が信仰を「キリスト道」のような生き方としてとらえ、ご利益宗教ではないと強調する余り、神にある逆転を語ることが少ないからかもしれません。

その点、イザヤの表現は露骨です。簡単に言うと、「何かを失ってもそれは一時的なことに過ぎない。神は常にご自身にすがってくる者の味方であり、あなたを虐める者たちに神は報復し、繁栄を回復してくださる・・・」というものです。イスラエルは国を失うことによって神の民として整えられてゆきました。それは、このイザヤの預言を悲惨の中で味わったからです。

失うことを恐れながら生きる人は、生気を失います。しかし、「何が起こっても大丈夫・・・」という確信を抱きながら生きられるなら、様々な可能性が開けます。

私たちは、何を失っても、信仰さえ失わないなら、すべてが挽回できます。そして、その信仰を失わない秘訣とは、自分の心を信じるのではなく、自分の信仰が神のあわれみから始まり、神によって完成されるということを見ることです。

1.「主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、嘆きの日々が終わる」

イザヤ預言は、神の都エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされることを前提に記されています。そのとき、城壁は崩され、壮麗な神殿も破壊され、その宝物はバビロンに運び去られました。

60章10節の「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える」とは、かつて外国人に滅ぼされた神の都が、外国人の王たちの積極的な協力によって建て直されるという逆転です。

それはすべてイスラエルの神のみわざであり、そのことが、「なぜなら、わたしは怒ってあなたを打ったが、恵みをもってあなたをあわれんでいたからだ」と描かれます。

そしてエルサレムの繁栄の様子が、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが連行されてくるためである」(60:11)と描かれます。

これは都が敵の攻撃を恐れる必要がないばかりか、かつてエルサレムから運び去られた財宝とは比較にならないほども財宝が運び込まれるとともに、エルサレムを攻撃した国々の王たちが捕虜として連行されてくるという大逆転です。

その上で、ソロモンの時代にエルサレム神殿がレバノンの美しい木々によって建てられたことを思い起こしながら、それが再び起こるということが、「レバノンの栄光はあなたのもとに来る。もみの木、すずかけ、檜がそろって、わたしの聖所を美しくする。わたしの足台にわたしが栄光を与える」(60:13)記されます。

そればかりか神の民を虐げた者たちが神によって低くされる様子が、「あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもはみな、あなたの足の裏にひれ伏す」(60:14)と描かれます。徹底的に人に屈服した姿が「足の裏を舐める」と表現されますが、その語源がここにあるのでしょうか。

そして、神の都エルサレムが諸国民の上に堅く立てられること様子が、「彼らはあなたを主(ヤハウェ)の町、イスラエルの聖なる方のシオンと呼ぶ。捨てられ、憎まれて、通り過ぎる人もいなかったのに代わりに、わたしはあなたを永遠の誇りとし、代々の喜びの町とする・・」(60:14b、15)と描かれます。

そして、これらの圧倒的な主のみわざを見た結果として、シオンの民が、「主(ヤハウェ)」を、「ヤコブの全能者」として知るというのです。信仰は道徳ではありません。私たちは神の逆転劇を見ることによって、神を知るようになると預言されているからです。

17,18節では引き続き神ご自身がエルサレムの繁栄と平和を実現してくださる様子が記されますが、その中で特に、「平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする」という表現が際立っています。周辺の国々に略奪され、不正がまかり通っていた都が、今や、「神の平和」と「神の義」によって支配されるというのです。

しかも、そこでは、「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさず、かえって主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの美しさとなる。あなたの太陽はもう沈むことがなく、その月はかげることがない。それは、主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となり、嘆きの日々が終わるからである」(60:19、20)という驚くべき世界が実現します。何と、神ご自身が直接に神の都を照らしてくださるというのです。

信仰」とは、太陽や月の背後に創造主を見ることです。太陽はしばしば恵みと同時に、熱過ぎて災いの原因にもなりますが、それこそ、この目に見える世界の矛盾です。それは、人が神にそむいた結果、世界がのろわれてしまったからです。

現在の世界は、神の創造の美しさと同時に、神ののろいを現しています。私たちはその両方を見る必要があります。しかし、私たちが神の恵みに包まれるとき、恵みとセットになっていた災いはすべて消えてなくなります。

神は創造の四日目に、太陽と月を創造されました。新しい世界では、太陽や月を媒介することなく、神ご自身が世界を照らしてくださるというのです。不思議なのは、エルサレムの繁栄の回復の話が、「新しい天と新しい地の創造」に結びついているということです。

そのときの様子が黙示録では、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じられることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の栄光と誉れとをそこに携えて来ると描かれています(21:23-26)。

この黙示録に描かれた「新しいエルサレム」の姿は、明らかにこのイザヤ書を元に記されたものです。なお、そこでは続けて、この都に入ることができるのは「いのちの書に名が書いてある者」だけであると記されます。それはイエスを救い主として信じるすべての人です。つまり、イザヤの預言は、肉のイスラエル民族のためというよりは、彼らを含め、神の救いを信じるすべての民のために成就するのです。

なおイザヤは続けて、そのとき、神の民も内側から造りかえられということを、「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。わたしの植えた枝、この手のわざは美しさを現すものとなる」(60:21)と描きます。

つまり、神の民はすべて、キリストに似た者、神の創造の冠としての「美しさ」を現す者として完成され、キリストとともに新しい世界を治める王とされるのです。実際、黙示録では引き続き、「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る・・・神である主が彼らを照らされる・・・彼らは永遠に王である」(黙示22:3-5)と記されています。

またイザヤは、「わたしは主(ヤハウェ)、時が来れば、すみやかにそれをする」(60:22)と記しますが、それをもとに黙示録では、イエスが、「しかり、わたしはすぐに来る」(22:20)と言っておられます。私たちは世界を少しでも住みやすくするため努力しますが、光と同時にやみも強くなってゆくということを忘れてはなりません。

政治は所詮、様々な利害関係を調整する仕組みに過ぎません。世界が変わる前提は人間にあります。人を変えるのが福音の力です。そしてキリストの再臨の時、この世界が新しくされるという以前に私たち自身が新しくされているのです。

神は何度もご自身を裏切り続けたイスラエルの民とその都エルサレムをご自身の一方的なあわれみによって建て直してくださると約束してくださいました。人間の敬虔さや能力ではなく、神のあわれみこそがこの世界を新しくする鍵です。私たちに求められているのは、その神に信頼することだけです。

この世界の混乱が増し加わっても、キリストが支配する神の国は、今も成長過程にあり、完成に向かっているということを忘れてはなりません。

2.「貧しい者に良い知らせを伝えるため」

61章では最初に、「主、ヤハウェの霊が、わたしの上にある。それは、主(ヤハウェ)がわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝えるためである」と記されます。「油をそそぎ」とは、神がご自身の働きのために任職の油を注ぐことで、ここでは救い主を立てることを意味します。

キリストとは「油そそがれた者」のギリシャ語訳です。イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき主の霊がくだったのはその任職式でした。それは、「貧しい者」、すなわち、霊的ばかりか肉体的な貧しさ、あらゆる種類の貧しさを感じている人に「よい知らせを伝える」ためです。

それは、新しい教えをことばで述べ伝えるというよりは、貧しさを覚えている人を根本から造りかえる恵みの働きです。

そして、「主はわたしを遣わされた」ということばとともに、その働きの内容が六つの観点から描かれます。それは、「うちひしがれた心を包み、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるため、主(ヤハウェ)の恵みの年とわれらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆く者を慰め、シオンの嘆く者たちに施すため、すなわち、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの霊の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」と記されます。

「うちひしがれた心を包む」とは、1章6節でイスラエルは「打ち傷を・・・包んでももらえず」と記されていたことに対応します。傷つき、打ちひしがれた心は、外科的な治療以前に、包帯で優しく包む必要があります。

「捕らわれ人の解放」の「解放」とはヨベルの年の奴隷解放や負債の免除に使われたことばで、その人に新しい人生への歩みを保障するものです。

「囚人には釈放」とある「釈放」はここにしかないことばで、盲人の目を開けたり、難聴の人の耳を開いたりすることばと関連があります。ギリシャ語70人訳聖書では、「盲人の目が開かれる」と訳され、ルカ4章でのイエスのことばは、その訳が用いられています。

また、「主の恵みの年とわれらの神の復讐は本来セットになっています。それは、この書でも繰り返し、神のさばきが、神の民の敵への復讐として描かれ、それが神の民にとっての「救い」と同義語になっているからです。たとえば、自分の愛する子のいのちを奪われた親は、加害者に対する正当なさばきが下されることを切に望みます。それこそ、彼らにとってのせめてもの救いになります。

ルカ福音書4章によると、イエスが宣教の初めに、ナザレの会堂で朗読された箇所で、主はこの箇所をお読みになりながら、その解説としてひとこと、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われました。イエスがなされた様々なみわざと説教のすべては、イザヤの預言を成就させるものでもありました。

初代教会の時代に、イエスの弟子たちが読んだ福音書とは、イザヤ書であったということもできます。彼らは、この書を読みながら、イエスがこれらの預言をひとつひとつ成就されたことを知って神をあがめたのです。

ただし、主は、このとき、イザヤ書には記されている「われらの神の復讐の日を告げ」の直前で、朗読を止めておられます。それは「神の復讐」は、ご自身の十字架と復活の後の、再臨で成し遂げられることだからです。

  そして、イエスは、「灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代りに喜びの油を、憂いの霊の代りに賛美の外套を着けさせ」(61:3)てくださいました。三種類の人生の嘆き苦しみの表情が、栄光と喜びと感謝と変えられるというのです。主はすべてを逆転させてくださいます。これは理屈ではなく、信仰生活で体験させていただける恵みです。

 「主の霊がわたしの上にある」ということばは既に私たちに実現しています。復活のイエスは恐れ閉じこもっていた弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われ、弟子たちを、イエスの代理として、世の人々を罪の支配から解放するための働きへと遣わされました(ヨハネ20:22,23)。神はご自身の力で、この「天と地」を、「新しい天と新しい地」へと変えてくださいます。そのとき世界には神の平和と喜びが実現します。

それは一方的な神のみわざですが、その働きの一部を私たちに担わすために、私たちにご自身の霊を与えてくださいました。これは将来の成功が約束された働きへと参画させていただけるという途方もない特権です。

なお、「貧しい者に良い知らせを伝える」とは、ことばによる宣教以前に、何よりも、「うちひしがれた心を包む」という寄り沿いのミニストリーから始まっています。これは訓練を積めば、誰にでもできる働きです。人々に行動の変化を促す以前に、絶望を味わっている人に寄り添うという行為が必要です。

現在のインターネット社会で、人々がますます孤立して行っています。情報はあふれるほどありますが、寄り添ってくれる人がいません。そこに私たちの働きの場があります。

3.「そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる」

ところで、これに続いて、「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は立ってあなたがたの羊の群れを飼い、外国人はあなたがたの農夫、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主(ヤハウェ)の祭司と呼ばれ、われらの神に仕える者と言われる(61:4-6)と記されますが、これも虐げられていたイスラエルの民がエルサレムを復興し、この世界を治める立場へと引き上げられるという約束です。

不思議にも使徒ペテロはこの最後の表現をすべてのクリスチャンに当てはめ、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です・・・・以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今は、あわれみを受けた者です」(Ⅰペテロ2:9,10)と記しています。

 そして主は、イスラエルの民に豊かな祝福を与える様子を、61章6-9節で、「あなたがたは国々の財宝を味わい、その富を誇る。恥に代えて、二倍のものを・・・。彼らは侮辱に代えて、その分け前に歓喜する・・・」と描きます。イザヤ40章2節ではイスラエルに約束された救いが、「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」と記されていましたが、それがいよいよ成就するというのです。

しかも、イスラエルの民は繰り返し「不法な略奪」を受けて苦しんできましたが、主は「真実をもって彼らに報酬を与え、とこしえの契約を彼らと結ぶ」というのです。

イエス・キリストこそこの「とこしえの契約」を、ユダヤ人ばかりか異邦人をも含む新しい神の民と結んでくださいました。それは、私たちに聖霊が注がれ、内側から造りかえられ、神の民として完成されるという約束です。

 61章10節の「わたしは主(ヤハウェ)にあって大いに楽しみ、このたましいも、わたしの神にあって喜ぶ」とは、主に油注がれた救い主のことばとして記されています。イザヤ50章や53章での「主のしもべの歌」では、救い主の苦難が描かれましたが、ここではそれと対照的な「喜び」が強調されます。

ヘブル書では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)と記されますが、イエスは神から与えられた使命に伴う苦しみと同時に喜びをも味わっておられました。

喜びの伴わない使命感は、人を息苦しくさせるだけです。私はかつて、伝道者への召しを受けたとき、ヨーロッパ日本人キリスト者の集いの準備会のリトリートで、十字架の犠牲の尊さを熱く長々と語りました。でも、そのときの信仰の友の不快そうな表情が今も忘れられません。それは僕が余りにも押し付けがましかったからでした。

救いは喜びとして伝わってゆくということを忘れてはなりません。そのように福音が広まる様子が、「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」(61:11)と描かれます。

62章1節も油注がれた救い主のことばとして受け止めることができます。「シオンのために、わたしは黙っていない(働くことをやめない)。エルサレムのために、黙りこまない(休まない)」(62:1)と記されますが、そこに込められた意味の中心は、エルサレムの救いを全うするという断固たる意思ではないでしょうか。

そして、「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは新しい名で呼ばれる。主(ヤハウェ)の口が名づけた名で」(62:2)とは、エルサレムが神の義と栄光を表わす都となり、それは「新しい名」で呼ばれるというのですが、それはバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことの対照であり、その新しい名には、「わたしの喜びは、彼女にある」という意味が込められています(62:4)。

アブラハムもヤコブも、主によって新しい名を与えられました。私たちにも、「主(ヤハウェ)の口が名づける新しい名」があるのではないでしょうか。イエスが洗礼のときに、天の父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われたように、イエスの御霊を宿す私たちに対しても、「あなたの神はあなたを喜ぶ」(62:5)と言われます。私たちはもちろん、自分の罪深さを認めて、それに涙を流す必要がありますが、それと同時に、イエス・キリストによって与えられた新しいアイデンティティーを発見し、喜ぶべきでしょう。

「新しい名」とは、たとえば、「鈍感に対する敏感」「恩知らずに対する感謝の心」「自己中心に対する愛の人」などのように、自分の問題点を人間的な意味で逆転させるような努力目標ではありません。それは、神が一方的な恵みによって与えてくださった神による大逆転の新しい名です。

たとえば、私は、「不安と孤独」に動かされている自分を発見し、「愛と平安」に満たされる状態を憧れ、それを新しい名にいただきたいと思ったことがあります。しかし、それでは、今もなお、不安と孤独感に襲われる自分の気持ちとの戦いを強化し、自己嫌悪を増すということになりました。

しかし、このままの自分が神にとらえられ、支えられていると分かったとき、その葛藤から少しは自由にされたような気がします。そのような私にとっての新しい名とは、「抱擁されている者」とか「支えられている者」という名でした。

イエスはルカ6章20-26節にある「平地の説教」で不思議な逆転を語られました。この背後に今回のイザヤ書のみことばがあるのではないでしょうか。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら」次のように言われました。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。/ いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。/ いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。/ 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき・・・あなたがたは  幸いです。その日には 喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」

それと同時に、イエスは続けて、「富む者」「食べ飽きている者」「笑う者」「ほめられている者」は「哀れ」だと語りました。なぜなら、彼らはこの世の幸せの中で神を求めていないからです。

受胎告知などの絵で有名な15世紀のフラ・アンジェリコは次のような詩を残しています。
 「私達が試練、悲しみ、義務と呼ぶすべてのものは、そこに天使の手があり、贈り物があり、神の存在の神秘があるのだ。人間的な喜びそのものに満足してはならない。人生には多くの意味と目的が隠されていて、その包みの下に美しさが満ちていることを悟るとき、この世は天国を隠していると悟るだろう。あなたがたには勇気がある。あなたがたは、見知らぬ国を通って我が家に歩み進む巡礼者である。だから、勇気を持って人生に立ち向かいなさい。」  

今もし、あなたが、何かの苦しみに会っているなら天使の手に触れるチャンスではないでしょうか。

しかも、主の大逆転の救いは既に始まっています。何と全宇宙の創造主がひ弱な赤ちゃんとなられました。私たちはこの無力な赤ちゃんに神のみわざを見るようにと召されています。この世で強い者が神の前には弱く、この世で誰よりも弱い者が神の救いのみわざを現すというのです。

それは単なる精神的な慰めではありません。世界は二千年前から神の救いの大逆転の中に足を踏み入れています。クリスマスは救い主の初臨を意味します。そして、そこには再臨の約束が伴っています。

それは、「神の復讐の日」であり、この世の不条理がなくなる日です。それはこの「天と地」が「新しい天と新しい地」こ変えられ、私たちが「主の手にある美しい冠」へと変えられる日です。

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