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2011年1月23日 (日)

イザヤ66章7節~24節 「神が創造してくださる礼拝」

                                                2011年1月23日

新渡戸稲造は「武士道」という著書で、日本の武士道とキリスト教精神に共通点があることを描き、それは国際的なベストセラーになりました。小生も同じ大学の大先輩であるという理由だけで、尊敬とともに親近感を覚えますが、そのような視点の危なさを感じることもあります。武士道精神では、どのような状況下でも心の平静さを保つことができるように自分で自分を律することが大切にされます。しかし、ふと、「自分で自分を律することができるなら、どこに信仰の必要があるのだろう・・・」とも思います。

私は長い間、心を平静に保つことができない自分の信仰の未熟さを責めてきました。しかし、誰からも勇士の代表と見られるダビデの祈りを知ったとき、ほっとしました。彼は、驚くほど赤裸々に自分が味わっている不安をそのまま神に祈ったばかりか、それを後代の人々への祈りの見本として残したからです。

ダビデは自分の弱さを表現することによって、神からの平安をいただき、勇士となることができました。自分で自分を律したのではなく、神に心を開くことによって、神からの圧倒的な力を受けたのです。信仰を人間的な意志の力と誤解してはいないでしょうか。信仰も礼拝も、神が創造してくださる神のわざです。

1.「立ち返って静かにすればあなたがたは救われ・・・」 

預言者イザヤは、イスラエル王国が圧倒的な大国から攻撃を受けるという中で、人間的な解決を求める前に、何よりも神の前に静まり、神に助けを求めることを優先しなければならないということを繰り返し強調しています。

その代表的な表現が、3015節では、立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」という招きです。

「立ち返る」とは、放蕩息子が父の家に帰ったような方向転換を意味します。「静まる」とは、「憩う」(28:12)とも訳せ、「エジプトの陰」(30:3)の代わりに全能の神の御翼の陰に安らぐ勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そうするとき、彼らの神が救ってくださるというのです。

そして、「落ち着いて」とはまわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは「望みをかける」という意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、アッシリア帝国にさえ立ち向かえるというのです。

ところが、彼らは「これを望まなかった」、そして、絶望的な状況からの逃亡ばかりを考えました。それを皮肉ったのが16、17節ですが、レビ記26章8節には、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)と約束されていましたが、そのまったく逆のことが起こるというのです。

それは、彼らが主を忘れて、目に見える敵に対する恐れに圧倒されるためです(申命32:30参照)。つまり、主との関係こそが何よりの勝敗の分かれ目になるのです。

 なお、「立ち返って静かにする」とは、決して現実逃避ではありません。後にヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。

その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

  私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

その上で、「主(ヤハウェ)は、あなたがたに恵もうと待っておられ (Yet the LORD longs to be gracious to you)(30:18NIV)とは、主(ヤハウェ)はイスラエルの民がご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられるという意味です。

そればかりか、放蕩息子の姿を遠く見つけた父が「走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)ように、主は「あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」というのです。

  神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考える人がいますが、たとい目を見張るような成功があったとしても、それは私たちの功績である前に、神の恵みの結果です。自分の働きを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて祈った取税人は神のあわれみを受けました。

信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと待ち焦がれておられるのですから。

2.「見よ、わたしは・・創造する」

  ただ、ヒゼキヤ王が体験したような神にある圧倒的な勝利は、この地上の生活ではめったに体験できないかもしれません。そればかりか、「祈っても、祈っても、何の希望も生まれない・・・」ということがあるかも知れません。そのようなときに大切なのは、神の救いのみわざをもっと広く、長い視点からとらえるということです。

たとえば、この世界では、あなたの願望が叶うという喜びの傍らで、多くの場合、失望の涙を流す人が生まれます。受験にしろ入社にしろ、常に、定員という枠がありますから、あなたが選ばれる傍らで、選ばれない人が必ず生まれます。

それに対して、神は、神を求める人すべてがそろって喜ぶことができる世界を創造しようとしておられます。

その驚くべき神の約束が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返されています。

「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(65:17)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まり、同時に、「エデン(喜び)の園」での祝福を神ご自身が回復してくださることに及びます。

それが、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとするからだ」と保障されます。しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。

私たちは今ここで、それが実現したかのように生きることができます。それが「永遠のいのち」の意味です。神は既に今、キリストのからだである教会を「喜び」、そこに集う私たちをご自身の民として「楽しんで」おられるのではないでしょうか。

さらに66章7節からは、一瞬のうちに「のろい」をもたらした神が、一瞬のうちにエルサレムに「祝福」をもたらすことができるという約束が、「産みの苦しみをする前に、彼女は産んだ。陣痛が彼女に来る前に、男の子を産み落とした」(7節)と描かれます。

そして、それに伴って出現する新しい世界と新しい民の誕生の様子が、「地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは産みの苦しみと同時に子らを産んだのだ」(8節)と驚きをもって描かれ、それが確実に成就することが、わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか・・・わたしは、産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」と、主ご自身のことばで保障されます(66:9)。

そして、エルサレムに訪れる祝福の事が、「エルサレムとともに喜び祝え。彼女のことを喜べ。すべて彼女を愛する者よ。彼女とともに楽しみ、楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ。それは、彼女の慰めの乳房からあなたが飲んで飽き足りるためだ。それは、その栄光の豊かな乳房から吸って喜びを得るためだ」(10、11節)と劇的に描かれます。

エルサレムへの繁栄の回復のことが、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。

そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のような平和を彼女に差し伸べよう。あふれる流れのように国々の栄光を。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

  信仰生活とは、この神の圧倒的な約束にいつも思いをめぐらしながら生きることに他なりません。残念ながら多くの人々がせっかく信仰に導かれながら、どこかで失望を味わい、神から離れてしまうのは、神が約束してくださった祝福の世界のことをリアルに思い巡らすことができなかった結果なのかもしれません。

3.「すべての国民と舌とが集められる時が来ようとしている」

 「あなたがたはこれを見て、心が楽しみ、その骨は若草のように生き返る。主(ヤハウェ)の御手は、そのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに」(14節)とありますが、この書では、神の圧倒的なあわれみによる救いと、神の憤りによるさばきは交互に描かれています。

なお、イスラエルという名前は、ヤコブに神が与えた新しい名前ですが、ヤコブは決して神のあわれみを受けるのにふさわしい人ではありませんでした。彼は兄のエサウを二度もだまして長子の権利を自分のものにしました。しかし、神はそんなヤコブをあわれんで、彼からイスラエルの十二部族を生まれさせ、神の民を創造してくださったのです。すべてが神の一方的なあわれみに基づいています。

「神の怒り」とは、イスラエルの民がそのような神のご恩を仇で返したことに対する復讐です。イザヤは、それを、「見よ、主(ヤハウェ)は火の中を進んで来られる・・・その戦車はつむじ風のようだ。激しく燃える怒りと火の炎による叱責とを返すために。実に、主(ヤハウェ)は火をもってさばきに臨まれる。その剣ですべての肉なる者に対して。主(ヤハウェ)に刺し殺される者は多くなる」(66:15)と描きます。

そして、ご自身の民を恋い慕ってやまない神の愛を軽蔑し、浮気を繰り返す者の姿とそれに対するさばきが、「園のために自分の身を聖別し、きよめる者たち、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみなともに、絶ち滅ぼされる(66:17)と描かれます。

この世では何かに熱心であること自体が尊敬されがちですが、世の中を悪くするのは間違ったことに情熱を傾ける人々です。神は、独善的な情熱家、特に浮気に熱を上げる人を滅ぼされます。

「愛」「ねたみ」はセットになっています。そのことは雅歌において、「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことはできません」(8:6,7)と描かれています。神の怒りは、神の愛の裏側にある「ねたみ」から生まれています。そして、「愛」の強さは、「ねたみ」の強さで表現されるというのです。

この点で、多くの日本人は神の愛を誤解しています。しばしば、日本では、夫の浮気に寛大に振舞うことができる妻が尊敬されますが、それは、もともと二人の間に親密さがなかったことの証しに過ぎないのかもしれません。少なくとも、聖書が描く「愛」は、相手の浮気に動じないような心を意味はしません。

66章18節は、「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。すべての国民と舌とが集められる時が来ようとしている。彼らは来て、わたしの栄光を見る」と訳すことができます。それは、神がご自身にそむいたイスラエルに代わって世界中の民族と言語の中から新しい神の民を集める、そのような新しい時代が来ようとしているという意味です。

45章22節で、主は、「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22)と招きました。

パウロはそれを前提に、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめすべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)と語ります。

そこでは、自分の正義を振りかざし、自分の世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従われた」神の御子の姿が示されます。

そして66章19節では、「彼らの中にしるしをわたしは置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国民に遣わす」と記されますが、これはそのようにご自身を低くされたキリストの十字架のしるしに他なりません。そして、「彼らのうちののがれた者」とは、たとえば、最初のイエスの弟子たちを指すことになると思われます。

イエスは繰り返し、ご自身の招きを拒絶したエルサレムに対する神のさばきを宣告しておられ、そのとおりに紀元70年にエルサレムは廃墟とされましたが、エルサレムにいたクリスチャンはすべて、その前に、イエスの言葉に従いエルサレムを離れ、近隣諸国に散らされてゆきました。

それがここでは、「タルシシュ(スペイン)、プル(リビヤ)、弓を引く者ルデ(エレミヤ46:9、北アフリカの地)、トバル(トルコ)、ヤワン(ギリシヤ)、そして、わたしのうわさを聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない遠い島々に。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう」と描かれているのだと思われます。

そして、続けて、「彼らはすべての国民の中から、あなたがたの兄弟たちをみな、主(ヤハウェ)への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主(ヤハウェ)は仰せられる。「それはちょうど、イスラエルの子らが初穂のささげ物をきよい器に入れて主(ヤハウェ)の宮に携えて来るのと同じである」(66:20)と記されていますが、ここで描かれた「ささげ物」は、申命記26章2節にあるように、神が与えてくださった地の産物の初物をかごに入れて神の神殿に携えてくる様子を示しています。

しかもここでは、その運搬手段が出発地によって多岐に渡ることが描かれます。砂漠を通過する際には「らくだ」がふさわしく、起伏の激しい地は「騾馬」、整えられた道は「車」で通ることができますが、それらによって世界中から神の民が集められます。

後に使徒パウロは、この箇所を前提として、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです」(ローマ15:16)と記しています。

そして、ここで、主は、「さらにわたしは彼らの中から取って祭司とし、レビ人とする」(66:21)と言ってくださいましたが、これは、本来アロンの子孫やレビ族の中から立てられていた神への献身者を、異邦人の中から立ててくださるという意味です。ここにおいて、神の民はイスラエルの血筋という枠から完全に自由にされるというのです。

使徒ペテロはそれを前提に、私たちすべてに向かって、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自身の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2:9)と語りかけています。

4.「父は、真の礼拝者を捜し求めておられる」

主は最後に、「なぜなら、わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように・・・そのように、あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続くのだから。毎月の新月の祭り毎に、毎週の安息日毎に、すべての肉なる者がわたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。

神が創造してくださる「新しい天と新しい地」とは、もう決して朽ちることも、滅ぼされることもない、永遠の祝福の世界です。それと同じように、私たち自身と私たちの子孫たちも、永遠に神の民としての祝福を享受することができます。

私たちと私たちの子孫に与えられた「永遠のいのち」は決して失われることがありません。なぜなら、私たちの信仰とは、人間的な信心の力ではなく、神によって創造され、神によって守られ続けるものだからです。現実的には、確かに、信仰を失って行く人が数多くいるように見えます。

しかし、私にとっての信仰とは、「私はいざとなったら何をするか分からない軟弱な人間だけれども、神が私の信仰を守り通してくださると信じます」というものです。私は自分で自分を守る必要はありません。なぜなら、「いのちは・・・神のうちに隠されてあるから」(コロサイ3:3)です。

それゆえ、私が今から何よりも優先すべきことは、いつでもどこでも、ただイエスの父なる神だけにおすがりし、その神だけを礼拝し続けることです。そして、私たちが招き入れられる「新しいエルサレム」とは、主が喜ばれる礼拝の完成のときです。

イエスはサマリヤの女との対話で、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として(捜し)求めておられるからです」といわれましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える「霊」とご自身の十字架に表された「まこと」によってイエスの父なる神を礼拝することに表されます。

しかも、この文章の核心は、「父は、真の礼拝者を捜し求めておられる」とまとめることができます。この世では人の価値が、どれだけ人の約に立つ働きができたかによって測られますが、神は、そのような働きの成果以前に、「真の礼拝者」を何よりも求めておられるというのです。多くの信仰者もその点で優先順位を間違っているように思われます。

確かに、この世の人々に役に立つ働きができることは大切ですが、それを「礼拝」から分離してはなりません。マザー・テレサは、貧しい人々への慈善の働き自体が礼拝であると言いました。

そして、宗教改革の基本とは、この世のどのような仕事でも、神への祈りのうちになされるなら、仕事自体が神への礼拝となるということです。それはパウロが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と語ったとおりです。

しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。

「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。

 新渡戸稲造は「武士道」の中で、バラと桜を比較しながら、「バラは、その甘美さの陰にとげを隠している・・その生への執着は死を厭い、恐れているようである・・・桜は、その美しい装いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を捨てる用意がある」と言っています。

たしかに、武士道とはいつでも、義のために自分のいのちを捨てる覚悟を持つ潔さに表されるのでしょうが、キリストは十字架にかかる前の夜、血の汗を流しながら、父なる神に祈った結果として、自分のいのちを雄々しく明け渡すことができたのです。

多くの私たちは、桜のような生き方にあこがれながら、バラのようにとげを隠しながら生きています。とげのない生き方ができるのは、人間のわざではなく、神のわざです。そして、礼拝とは、何よりも、神のわざがなされる機会です。そして、神は、明快に、ご自身にすがってくる者を、その内側から造り替え、祝福を与えてくださる一方で、ご自身のあわれみを軽蔑する偽善者には「のろい」をくだすと言っておられます。

信仰とは、自分で自分を律することではなく、神に生かしていただくように自分自身を神に明け渡すことです。新渡戸と同時代の植村正久は「演劇的なる武士道」という書を書きながら、武士道には「体裁を繕い見栄えを飾る気風が染み込んでいる」という偽善性を指摘しています。

聖書の信仰の中心とは、神の前に自分の内側にある毒やとげを隠すことなくあらわすことです。イザヤは、神ご自身が世界を新しく、神ご自身が人間を新しくし、神ご自身が新しいエルサレムと神の民とを創造してくださるということを強調しています。人間のわざではなく神の圧倒的なみわざを待ち望む礼拝を続けたいものです。

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