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2011年1月23日 (日)

イザヤ66章7節~24節 「神が創造してくださる礼拝」

                                                2011年1月23日

新渡戸稲造は「武士道」という著書で、日本の武士道とキリスト教精神に共通点があることを描き、それは国際的なベストセラーになりました。小生も同じ大学の大先輩であるという理由だけで、尊敬とともに親近感を覚えますが、そのような視点の危なさを感じることもあります。武士道精神では、どのような状況下でも心の平静さを保つことができるように自分で自分を律することが大切にされます。しかし、ふと、「自分で自分を律することができるなら、どこに信仰の必要があるのだろう・・・」とも思います。

私は長い間、心を平静に保つことができない自分の信仰の未熟さを責めてきました。しかし、誰からも勇士の代表と見られるダビデの祈りを知ったとき、ほっとしました。彼は、驚くほど赤裸々に自分が味わっている不安をそのまま神に祈ったばかりか、それを後代の人々への祈りの見本として残したからです。

ダビデは自分の弱さを表現することによって、神からの平安をいただき、勇士となることができました。自分で自分を律したのではなく、神に心を開くことによって、神からの圧倒的な力を受けたのです。信仰を人間的な意志の力と誤解してはいないでしょうか。信仰も礼拝も、神が創造してくださる神のわざです。

1.「立ち返って静かにすればあなたがたは救われ・・・」 

預言者イザヤは、イスラエル王国が圧倒的な大国から攻撃を受けるという中で、人間的な解決を求める前に、何よりも神の前に静まり、神に助けを求めることを優先しなければならないということを繰り返し強調しています。

その代表的な表現が、3015節では、立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」という招きです。

「立ち返る」とは、放蕩息子が父の家に帰ったような方向転換を意味します。「静まる」とは、「憩う」(28:12)とも訳せ、「エジプトの陰」(30:3)の代わりに全能の神の御翼の陰に安らぐ勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そうするとき、彼らの神が救ってくださるというのです。

そして、「落ち着いて」とはまわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは「望みをかける」という意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、アッシリア帝国にさえ立ち向かえるというのです。

ところが、彼らは「これを望まなかった」、そして、絶望的な状況からの逃亡ばかりを考えました。それを皮肉ったのが16、17節ですが、レビ記26章8節には、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)と約束されていましたが、そのまったく逆のことが起こるというのです。

それは、彼らが主を忘れて、目に見える敵に対する恐れに圧倒されるためです(申命32:30参照)。つまり、主との関係こそが何よりの勝敗の分かれ目になるのです。

 なお、「立ち返って静かにする」とは、決して現実逃避ではありません。後にヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。

その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

  私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

その上で、「主(ヤハウェ)は、あなたがたに恵もうと待っておられ (Yet the LORD longs to be gracious to you)(30:18NIV)とは、主(ヤハウェ)はイスラエルの民がご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられるという意味です。

そればかりか、放蕩息子の姿を遠く見つけた父が「走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)ように、主は「あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」というのです。

  神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考える人がいますが、たとい目を見張るような成功があったとしても、それは私たちの功績である前に、神の恵みの結果です。自分の働きを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて祈った取税人は神のあわれみを受けました。

信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと待ち焦がれておられるのですから。

2.「見よ、わたしは・・創造する」

  ただ、ヒゼキヤ王が体験したような神にある圧倒的な勝利は、この地上の生活ではめったに体験できないかもしれません。そればかりか、「祈っても、祈っても、何の希望も生まれない・・・」ということがあるかも知れません。そのようなときに大切なのは、神の救いのみわざをもっと広く、長い視点からとらえるということです。

たとえば、この世界では、あなたの願望が叶うという喜びの傍らで、多くの場合、失望の涙を流す人が生まれます。受験にしろ入社にしろ、常に、定員という枠がありますから、あなたが選ばれる傍らで、選ばれない人が必ず生まれます。

それに対して、神は、神を求める人すべてがそろって喜ぶことができる世界を創造しようとしておられます。

その驚くべき神の約束が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返されています。

「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(65:17)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まり、同時に、「エデン(喜び)の園」での祝福を神ご自身が回復してくださることに及びます。

それが、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとするからだ」と保障されます。しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。

私たちは今ここで、それが実現したかのように生きることができます。それが「永遠のいのち」の意味です。神は既に今、キリストのからだである教会を「喜び」、そこに集う私たちをご自身の民として「楽しんで」おられるのではないでしょうか。

さらに66章7節からは、一瞬のうちに「のろい」をもたらした神が、一瞬のうちにエルサレムに「祝福」をもたらすことができるという約束が、「産みの苦しみをする前に、彼女は産んだ。陣痛が彼女に来る前に、男の子を産み落とした」(7節)と描かれます。

そして、それに伴って出現する新しい世界と新しい民の誕生の様子が、「地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは産みの苦しみと同時に子らを産んだのだ」(8節)と驚きをもって描かれ、それが確実に成就することが、わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか・・・わたしは、産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」と、主ご自身のことばで保障されます(66:9)。

そして、エルサレムに訪れる祝福の事が、「エルサレムとともに喜び祝え。彼女のことを喜べ。すべて彼女を愛する者よ。彼女とともに楽しみ、楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ。それは、彼女の慰めの乳房からあなたが飲んで飽き足りるためだ。それは、その栄光の豊かな乳房から吸って喜びを得るためだ」(10、11節)と劇的に描かれます。

エルサレムへの繁栄の回復のことが、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。

そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のような平和を彼女に差し伸べよう。あふれる流れのように国々の栄光を。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

  信仰生活とは、この神の圧倒的な約束にいつも思いをめぐらしながら生きることに他なりません。残念ながら多くの人々がせっかく信仰に導かれながら、どこかで失望を味わい、神から離れてしまうのは、神が約束してくださった祝福の世界のことをリアルに思い巡らすことができなかった結果なのかもしれません。

3.「すべての国民と舌とが集められる時が来ようとしている」

 「あなたがたはこれを見て、心が楽しみ、その骨は若草のように生き返る。主(ヤハウェ)の御手は、そのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに」(14節)とありますが、この書では、神の圧倒的なあわれみによる救いと、神の憤りによるさばきは交互に描かれています。

なお、イスラエルという名前は、ヤコブに神が与えた新しい名前ですが、ヤコブは決して神のあわれみを受けるのにふさわしい人ではありませんでした。彼は兄のエサウを二度もだまして長子の権利を自分のものにしました。しかし、神はそんなヤコブをあわれんで、彼からイスラエルの十二部族を生まれさせ、神の民を創造してくださったのです。すべてが神の一方的なあわれみに基づいています。

「神の怒り」とは、イスラエルの民がそのような神のご恩を仇で返したことに対する復讐です。イザヤは、それを、「見よ、主(ヤハウェ)は火の中を進んで来られる・・・その戦車はつむじ風のようだ。激しく燃える怒りと火の炎による叱責とを返すために。実に、主(ヤハウェ)は火をもってさばきに臨まれる。その剣ですべての肉なる者に対して。主(ヤハウェ)に刺し殺される者は多くなる」(66:15)と描きます。

そして、ご自身の民を恋い慕ってやまない神の愛を軽蔑し、浮気を繰り返す者の姿とそれに対するさばきが、「園のために自分の身を聖別し、きよめる者たち、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみなともに、絶ち滅ぼされる(66:17)と描かれます。

この世では何かに熱心であること自体が尊敬されがちですが、世の中を悪くするのは間違ったことに情熱を傾ける人々です。神は、独善的な情熱家、特に浮気に熱を上げる人を滅ぼされます。

「愛」「ねたみ」はセットになっています。そのことは雅歌において、「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことはできません」(8:6,7)と描かれています。神の怒りは、神の愛の裏側にある「ねたみ」から生まれています。そして、「愛」の強さは、「ねたみ」の強さで表現されるというのです。

この点で、多くの日本人は神の愛を誤解しています。しばしば、日本では、夫の浮気に寛大に振舞うことができる妻が尊敬されますが、それは、もともと二人の間に親密さがなかったことの証しに過ぎないのかもしれません。少なくとも、聖書が描く「愛」は、相手の浮気に動じないような心を意味はしません。

66章18節は、「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。すべての国民と舌とが集められる時が来ようとしている。彼らは来て、わたしの栄光を見る」と訳すことができます。それは、神がご自身にそむいたイスラエルに代わって世界中の民族と言語の中から新しい神の民を集める、そのような新しい時代が来ようとしているという意味です。

45章22節で、主は、「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22)と招きました。

パウロはそれを前提に、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめすべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)と語ります。

そこでは、自分の正義を振りかざし、自分の世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従われた」神の御子の姿が示されます。

そして66章19節では、「彼らの中にしるしをわたしは置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国民に遣わす」と記されますが、これはそのようにご自身を低くされたキリストの十字架のしるしに他なりません。そして、「彼らのうちののがれた者」とは、たとえば、最初のイエスの弟子たちを指すことになると思われます。

イエスは繰り返し、ご自身の招きを拒絶したエルサレムに対する神のさばきを宣告しておられ、そのとおりに紀元70年にエルサレムは廃墟とされましたが、エルサレムにいたクリスチャンはすべて、その前に、イエスの言葉に従いエルサレムを離れ、近隣諸国に散らされてゆきました。

それがここでは、「タルシシュ(スペイン)、プル(リビヤ)、弓を引く者ルデ(エレミヤ46:9、北アフリカの地)、トバル(トルコ)、ヤワン(ギリシヤ)、そして、わたしのうわさを聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない遠い島々に。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう」と描かれているのだと思われます。

そして、続けて、「彼らはすべての国民の中から、あなたがたの兄弟たちをみな、主(ヤハウェ)への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主(ヤハウェ)は仰せられる。「それはちょうど、イスラエルの子らが初穂のささげ物をきよい器に入れて主(ヤハウェ)の宮に携えて来るのと同じである」(66:20)と記されていますが、ここで描かれた「ささげ物」は、申命記26章2節にあるように、神が与えてくださった地の産物の初物をかごに入れて神の神殿に携えてくる様子を示しています。

しかもここでは、その運搬手段が出発地によって多岐に渡ることが描かれます。砂漠を通過する際には「らくだ」がふさわしく、起伏の激しい地は「騾馬」、整えられた道は「車」で通ることができますが、それらによって世界中から神の民が集められます。

後に使徒パウロは、この箇所を前提として、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです」(ローマ15:16)と記しています。

そして、ここで、主は、「さらにわたしは彼らの中から取って祭司とし、レビ人とする」(66:21)と言ってくださいましたが、これは、本来アロンの子孫やレビ族の中から立てられていた神への献身者を、異邦人の中から立ててくださるという意味です。ここにおいて、神の民はイスラエルの血筋という枠から完全に自由にされるというのです。

使徒ペテロはそれを前提に、私たちすべてに向かって、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自身の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2:9)と語りかけています。

4.「父は、真の礼拝者を捜し求めておられる」

主は最後に、「なぜなら、わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように・・・そのように、あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続くのだから。毎月の新月の祭り毎に、毎週の安息日毎に、すべての肉なる者がわたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。

神が創造してくださる「新しい天と新しい地」とは、もう決して朽ちることも、滅ぼされることもない、永遠の祝福の世界です。それと同じように、私たち自身と私たちの子孫たちも、永遠に神の民としての祝福を享受することができます。

私たちと私たちの子孫に与えられた「永遠のいのち」は決して失われることがありません。なぜなら、私たちの信仰とは、人間的な信心の力ではなく、神によって創造され、神によって守られ続けるものだからです。現実的には、確かに、信仰を失って行く人が数多くいるように見えます。

しかし、私にとっての信仰とは、「私はいざとなったら何をするか分からない軟弱な人間だけれども、神が私の信仰を守り通してくださると信じます」というものです。私は自分で自分を守る必要はありません。なぜなら、「いのちは・・・神のうちに隠されてあるから」(コロサイ3:3)です。

それゆえ、私が今から何よりも優先すべきことは、いつでもどこでも、ただイエスの父なる神だけにおすがりし、その神だけを礼拝し続けることです。そして、私たちが招き入れられる「新しいエルサレム」とは、主が喜ばれる礼拝の完成のときです。

イエスはサマリヤの女との対話で、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として(捜し)求めておられるからです」といわれましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える「霊」とご自身の十字架に表された「まこと」によってイエスの父なる神を礼拝することに表されます。

しかも、この文章の核心は、「父は、真の礼拝者を捜し求めておられる」とまとめることができます。この世では人の価値が、どれだけ人の約に立つ働きができたかによって測られますが、神は、そのような働きの成果以前に、「真の礼拝者」を何よりも求めておられるというのです。多くの信仰者もその点で優先順位を間違っているように思われます。

確かに、この世の人々に役に立つ働きができることは大切ですが、それを「礼拝」から分離してはなりません。マザー・テレサは、貧しい人々への慈善の働き自体が礼拝であると言いました。

そして、宗教改革の基本とは、この世のどのような仕事でも、神への祈りのうちになされるなら、仕事自体が神への礼拝となるということです。それはパウロが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と語ったとおりです。

しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。

「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。

 新渡戸稲造は「武士道」の中で、バラと桜を比較しながら、「バラは、その甘美さの陰にとげを隠している・・その生への執着は死を厭い、恐れているようである・・・桜は、その美しい装いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を捨てる用意がある」と言っています。

たしかに、武士道とはいつでも、義のために自分のいのちを捨てる覚悟を持つ潔さに表されるのでしょうが、キリストは十字架にかかる前の夜、血の汗を流しながら、父なる神に祈った結果として、自分のいのちを雄々しく明け渡すことができたのです。

多くの私たちは、桜のような生き方にあこがれながら、バラのようにとげを隠しながら生きています。とげのない生き方ができるのは、人間のわざではなく、神のわざです。そして、礼拝とは、何よりも、神のわざがなされる機会です。そして、神は、明快に、ご自身にすがってくる者を、その内側から造り替え、祝福を与えてくださる一方で、ご自身のあわれみを軽蔑する偽善者には「のろい」をくだすと言っておられます。

信仰とは、自分で自分を律することではなく、神に生かしていただくように自分自身を神に明け渡すことです。新渡戸と同時代の植村正久は「演劇的なる武士道」という書を書きながら、武士道には「体裁を繕い見栄えを飾る気風が染み込んでいる」という偽善性を指摘しています。

聖書の信仰の中心とは、神の前に自分の内側にある毒やとげを隠すことなくあらわすことです。イザヤは、神ご自身が世界を新しく、神ご自身が人間を新しくし、神ご自身が新しいエルサレムと神の民とを創造してくださるということを強調しています。人間のわざではなく神の圧倒的なみわざを待ち望む礼拝を続けたいものです。

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2011年1月16日 (日)

マタイ6:5ー15 「三位一体の神の愛に包まれた祈り」 

                                                                                     2011年1月16日

祈りにはその人の性格が明確に現れます。たとえば、感情の激しい表出が自然な人もいれば、静かにポツリポツリと思いを語るほうが自然な人もいます。また、そのときの気持ちによっても祈りのかたちは変わることでしょう。イエスはここで、祈りに関してふたつのことを避けるように命じています。第一は、人に見せるための祈りです。当時は、みんなの前で、美しい言葉で、長々と祈るということが、その人の日頃の敬虔さをあらわすこととして大変な尊敬を受けました。それに対してイエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」(6:6)を意識して祈るように命じました。第二は、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような態度です。それはかつて、バアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的なことばを繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。

  これに対し、イエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられるからです」(6:8)と言われました。祈りは、神ご自身だけとの親密な交わりの時です。それは最愛の人との出会いの時です。最愛の人に向かって、その人の心の声を聞こうともせずに、自分の願望ばかり一方的に語るということがあるでしょうか? 

ルカ11:1では、この祈りの別の背景が、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った」と記されていますが、それはヨハネが弟子たちに教えたのと同じように、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を見せてくださるものでした。そこでイエスは、私たちの「兄」として、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と教えてくださいました。そこでは、最初に、「パテール(お父様)」という呼びかけが記されています。それは、「アバ」のギリシャ語訳です。 

神は、この世界を美しく創造してくださったのに、アダムの罪によって、この世界は矛盾と混乱に満ちたものとなりました。しかし、イエスは、第二のアダムとして、私たちと同じ葛藤を味わう人間となって、私たちの救いのために祈ってくださいました。本来、罪のないイエスが「負い目を赦してください」と祈る必要はありませんが、彼は私たちのすべての罪を負い私たちの負い目」と言ってくださったのです。私たちは、この祈りを自分の祈りとすることによって、イエスの弟子として、このままの姿で「地の塩、世の光」とされ、この世界の再創造に関わる名誉ある働きに加えていただけます。主の祈りこそこの世の奇跡であり、奇跡を生み出す祈りです。

1。アダムの祈りと主の祈り

  主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。私たちの肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

この世の幸せを私に与える神様! (永遠の世界の話より目の前のことが・・)

 私の名前が大切にされますように(私は誤解され、傷ついています・・・)

 私の権威が認められますように。 (私の立場がないのです・・・)

 私の意志が行なわれますように。 (思い通りにならないことばかりだから・・・)

 私の一生涯の経済的必要が保障されますように。 (一切の経済的不安から自由になれたら・・・)

 私は悪くないと理解されますように。彼らは仕返しをされて当然ですが・・。(私は特別です・・)

 私が誘惑などを恐れずに、悪魔のことなど気にしないでいられますように。(恐れがなくなれば・・・)

  私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ではないでしょうか」 (私が王なら・・・)

このような思いは私たちの心の中にいつもあるのではないでしょうか。その思いをヘンリ・ナウエンも自分の日記の中で次のように告白しています(大塚野百合著「あなたは愛されています」より抜粋)

「私は神と語るよりは、神について語っていたのではないか。」

「私は祈っているとき、誰に祈っているのでしょうか?

私が、『主よ』と言うとき、私はどういうつもりで言っているのでしょうか?」

「私は主イエスを愛している。しかし、私は自分自身の友人たちにすがりついている。彼らが自分を主イエスにより近く導かないと分かっていても。

 私は主イエスを愛している。しかし、自分が自主的にことを運ぶことを欲している。その自主性は私に自由をもたらさないのだが。

 私は主イエスを愛している。しかし、自分の同僚たちの尊敬を失いたくないのだ。彼らに尊敬されても、霊的にはなんの価値もないと分かっているのだが。

 私は主イエスを愛している。しかし、自分の著述や、旅行や、講演の計画を止めようとは思わない。これらの計画は、神の栄光のためというよりは、私の名誉のためのものである場合が多いのだ。」

  しかし、第二のアダム、私たちの救い主イエスの祈りは、それとは全く反対のものです。それは以下のように訳すことができます(原文からの私訳)。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊の導きがどうしても必要です。ゆっくりと、こころを御霊に明け渡して、意味をかみしめて祈りましょう!

(複数)におられる私たちのお父様!

 あなたのお名前が聖くされますように。  (私の心の中で、人々の間で)

 あなたのご支配が現われますように。    (私の内に、人々の間に)

 あなたのご意志が行なわれますように。  (私の心の中に、人々の間に)

     天のように地の上にも。        (上の三つすべてにかかるとも考えられる)

 

パンを、私たちに必要なものを今日もください。 (一日一日の糧のため)

 赦してください!私たちの負い目を。        (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

   私たちが自分に負い目ある人を赦すように。  (人を赦すことができるこで、神の赦しを確信できる)

 陥らせないでください!私たちを誘惑に。     (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

   救ってください!私たちを悪い者から。      (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

 

永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン」 (父なる神こそが真の王)

2。父なる神のための祈り

 人は神に向けて造られました。ですから、私たちの「幸い」は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことにあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

★「天にいます私たちの父よ。

  イエスがゲッセマネの園で「アバ。父よ。」と祈られたように、今、私たちは、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の子とされた特権を味わいつつ祈ります。

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者は、キリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです。」と言ったそうです。彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その類まれな美しさに胸を打たれ、数日の間、それを繰り返さずにはいられませんでした。それは「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が私たちのお父様」であり、また「天(複数)におられる」と続きます。彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わうことができました。

 私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この私自身が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちをこの地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

 

★「御(あなたの)名が あがめられますように

  最初のエデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝するべきだったのに、その代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

そして、私たちの心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。この心が、主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

「御(あなたの)国(ご支配)が来ます(実現します)ように」

  神は、「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と呼ばれる美しい世界を創造され、人を祝福に満ちたエデンの園に住まわせてくださいました。ところが今、それが失われ、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈るのです。それは、私たち自身が神の支配に服する忠実なしもべとなることができるように祈ることでもあります。

様々な試練に会い、深い孤独を感じるようなとき、それは、私たちにとっての祈りの学校ではないでしょうか。敢えて言えば、孤独から逃げ出すことを考えるのではなく、「孤独を深める」ことが必要なのかもしれません。それは神との交わりを深めるという意味においてですが・・・。私自身、孤独を味わう中で詩篇69篇や詩篇22篇の意味が深く心に迫ってきました。そこにおいてイエスが私の悲しみや孤独感を軽蔑なさらないばかりか、それをはるかに深く味わってくださった方であるということがわかりました。イエスはその孤独と悲しみのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれたのです。試練や孤独を通して、神のご支配の真実が私たちのうちに根付きます。その上で、神はご自身のご支配をこの地に広げるために私たちを用いてくださいます。

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、天のように地の上にも」

 神に背いたアダムは、自分の裸を恥じて、主の御顔を避けて身を隠しました。何と、「土の器」(Ⅱコリント4:7)に過ぎない者に「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けたのです。

しかし、私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出しつつ、自分自身が小さなイエスとされ、天の平和が、この地にも実現するようにと祈るように招かれています。

なお、私たちはしばしば、絶望と思える状況を通り過ぎるただ中で、私たちの肉の意思が砕かれ、私たちのうちに神の意思が生きるようにされます。そして、神の意思とは何よりも、私たちが自分の惨めさを認め、イエスにすがり、イエスとの交わりを第一にして生きることです。私はあるとき自分の働きを振り返りながら、「神の働きを阻害しているのは、私自身だ・・」と感じました。そのような中で導かれたのが、ただ主の御前に静まるという祈りです。それは「掴(つかみ)み取る」という生き方から、「既に与えらている恵みを感謝する」ことへの転換、また、自分の必要をただ訴えることから、「主の願い」を「私の願い」とすることを目指すという発想の転換でした。

3。私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 主の祈りは、突然、「パンをください。」という現実的な祈りへと展開されます。神はそのような現実的な叫びをも聞きたいと願っておられます。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が私たちを支配しています。ですから、私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と謙遜に祈ります。それは、箴言で微笑ましいレトリックとともに、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(ヤハウェ)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30:8、9)と祈られているのと同じです。

しかも、これは、自分たちの生活のことばかりではなく、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

 善悪の知識の木の実を取って食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・」と答え、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます。そして、その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦し、新しい人とされたのは、この私が「キリストの使節」とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあることを覚える必要があります。

なお、14,15節では、「人の罪を赦す」ということと、「天の父の赦し」を受けることがセットして記されています。

多くの人はこの警告に怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように・・・」と祈りだしますが、それは本末転倒どころか、自分を神とする傲慢な祈りにもなりえます。罪を裁いたり赦したりするのは、神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、それに関係なく、神はその人を赦したり、裁いたりしておられるという面もあるのです。

また、それ以上に、「赦させてください・・」などと祈れば祈るほど、いつまでたっても、人の罪を赦せない「自分のこと」ばかりが見えてきて、赦すことが必要以上に難しくなります。自意識過剰はあらゆる空回りの原点です。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります。その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に、心がその人の方向に向かいます。これは私たち自身が、恨みから解放されるための祈りでもあります。人を恨んでいる人は、顔が暗くなります。喜びが消えます。そして、やることなすことがうまく行かなくなります。人を赦すのは、何よりも自分の精神の健康のために必要なことです。

  昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式があります。水子供養などもそのひとつです。またカトリックでは罪の赦しを確信させるための免罪符などという悪習もありました。しかし主は、私たちが人と関わり人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと私たちを導いてくださったのです。私たちは、赦せない人を赦したという体験の中で、14節のみことばに基づき、自分の罪が赦されていることを確信できるのです。

「私たちを試み(誘惑)に合わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

  人類の母であるエバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、得意げに質問に答えながら、自分の欲望に身を任せてしまいました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があるのです。

ただし、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。この世界にある痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、世の終わりに臨んで、多くの誘惑が私たちを取り囲んでいますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

   

私たちは、主の祈りの前半で心からの賛美へと導かれ、後半では、自分と兄弟姉妹の貧しさを覚えて、主の御前に謙遜に導かれます。そして最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」と賛美します。これは、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。主の祈りを心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神の愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられている喜びです。その時私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。

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2011年1月 9日 (日)

イザヤ6516節~6614節 「わたしは新しい天と新しい地を創造する」

                                        201119

私たちは今、「すぐに結果を出さなければ・・」というプレッシャーの世の中に置かれています。私自身もかつてそのような職場に身を置き、その発想を身に染み込ませて牧師になりましたが、そのために信仰生活が苦しくなった時期があります。なぜなら、あまりにも結果が見えなさ過ぎるからです。それは目に見える教会の成長のことばかりではありません。「これだけ神のみことばに親しんでいるのに、どうしてこうも僕は成長できないのだろう・・」と思ってしまいます。久しぶりに会った友人が、僕の若さをほめる意味で、「お前は何も変わっていないな」と言ってくれても、ふと、「お前の人格には昔から何も成長が見られない・・」と言われたような気になることがありました。

しかし、私たちは今、2,700年前に記されたみことばを読んでおり、ここには、神は最終的に、一瞬のうちに私たちも世界も変えてくださると約束しておられます。変化は一瞬のうちに起きます。そのときまで、自分の成長などを測る代わりに、神から与えられた課題に地道に誠実に対応していればよいのです。私たちは壮大な神の救いのご計画の中に身を置いています。よく考えてみれば、「すぐに結果を出さなければ・・」というプレッシャーこそが、ますます心の余裕を奪い、愛の冷めた世界を作り出しているのです。しかし、この途方もなく偉大な神の救いのビジョンに心を留めるとき、何か、とてつもなく、心が軽くなるような気がします。そして、永遠へのことに目を向けることで、かえって、今、ここに既に実現している神の恵みを感謝し、喜ぶことができるようになってきます。

1.「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを。」

「この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)とありますが、「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。それは、信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していた」(ヘブル11:13)というような憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

 そして、神が驚くべき約束が、「なぜなら、見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造するからだ・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。

これは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンへの捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らはアッシリヤやバビロンとエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました。かつてモーセは彼らに、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と繰り返し語っていたのに、彼らはのろいを選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と招いてくださいました。

  私たちの人生はしばしば失望の連続ですが、私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17節)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。人の心が過去の痛みにとらわれるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、「今、ここで」の神のみわざではなのではないでしょうか。

その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まります。それは新しいいのちの誕生から、新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。それは同時に、「エデン(喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。そのことを、神は、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとするからだ」と保障してくださいました。私たちはそれが実現したかのようにこの地で生きることができます。つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での「新しいエルサレム」の「いのち」を、今から体験することなのです。

しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる私たちをご自身の民として楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り変えてくださるからです。

つまり、主(ヤハウェ)が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしがエルサレムを創造して喜びとし」と語られたことは、キリストによって既に実現し始めたことなのです。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。

2.「彼らはむだに労することはない。」

 「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない」(19節)とは、それ以降の文章の要約でもあります。そして、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない、それは、幼子が死んでも、百歳になっており、罪人がのろわれても、百歳になっているからだ」(20節)という不思議な説明が描かれています。これは、新しいエルサレムには死ものろいもないということを詩的に表現したものです。すでに25章8節で、「万軍の主(ヤハウェ)はこの山の上で・・永久に死を滅ぼされる」と記されているとおりです。これらは全て、預言された神のさばきとの対比で考えられるべきです。バビロン捕囚によって、「あなたの身から生まれる者も・・のろわれる・・主は、疫病をあなたの身にまといつかせ・・あなたを打たれる」(申命28:18ー22)という「のろい」の預言が実現しました。それに対し、のろいの時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来るというのです。

なお、のろいの時代には、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・あなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」(申命記28:30ー33節)という預言が成就しました。それと対照的に、ここでは、新しい「祝福」の時代は、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」(21、22節)と描かれています。そして、悲劇の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました

わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節)とは、このような「祝福」は、神ご自身が選んでくださった神の民に実現するという意味です。私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。

そして21,22節をまとめて、「彼らはむだに労することがない」と力強く宣言されます。パウロはこのみことばを前提に、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました

ここでは続けて、「また、恐怖に会わせるために子を産むこともない」と記されますが、義人ヨブでさえは激しい苦しみの中で、「自分の生まれた日をのろった」(ヨブ3:1)とありました。しかし、新しい世界では、「生まれてこなければよかった・・・」という嘆きがなくなるというのです。そして、「彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」(23節)と呼ばれますが、それが既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。その新しい天と新しい地のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています

また、「そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは、答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは、聞く」(24節)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、「わたしは・・」という主ご自身の意思が強調されていますが、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。それはレビ記26章36,37に描かれた「おびえ」の支配からの救いでもあります。残念ながら、今も、神との交わりを知らず、いつも何かを怯えながら生きている人々が多くいます。

私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教するかのように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前で、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

  そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない」(25節)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。この同じことが11章6-9節でも描かれながら、そこでは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と記されています。そして、その約束はキリストによって実現する救いであると保障されていました。

私たちはこの世界に平和が満たされることを願います。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行い、平和を守るという団体が、自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。実は、人間の力で平和を実現できるという楽観主義が、自分の政治信条を絶対化し、他人の意見を軽蔑するという争いの原因となっているのです。すべての戦争は、自分にとって好ましい平和を実現しようと急ぎすぎる結果として生まれています。しかし、神がご自身のときに、この世界に完全な平和(シャローム)を実現してくださるということを信じるなら、私たちは自分にとって不都合な不安定な状況の中に身を置きながら「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という最も大切なキリストの教えを地道に実行し続けることができます。神はご自身の平和をこの地に静かに広めるためにご自身の御子を遣わしてくださいました。そして、キリストが再びこの世界に来られるとき、この世のすべての不条理が正し、目に見える形での神の平和(シャローム)で世界を満たしてくださいます。

「新しい天と新しい地」目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。そして、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながら、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します。私たちは、ここで、地の塩、世の光として、新しいエルサレムの音楽を、先取りして奏でるのです。それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。このように私たちは、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。主は今も、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人に向けて、「見よ、わたしは新しい事を行う」(43:19)という約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。

3.「母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める」

66章の初めで、主(ヤハウェ)は、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのため建てる家とは、何なのか。わたしのいこいの場は、何なのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべては、そうして成った」と仰せられますが、これは当時のイスラエルの民が、まるで自分たちの力で神の家を建て、神に恩を売り、神の好意を勝ち得ることができると信じている偽善的な礼拝の姿勢を非難したものです。しかし、神にとっての「いこいの場」とは、黄金の建造物というよりは、神を恐れる人々の交わりのただ中に他なりません。そのことを主は、「わたしが目を留める者は、へりくだって、打たれた霊、わたしのことばにおののく者だ」(66:2)と表現されます。

 それに対し、イスラエルの自己満足的で偽善的な礼拝の姿が、「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血を。乳香を記念とする者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ」(66:3)として描かれます。彼らは主を喜ばせるつもりでいながら、実際には、主の忌み嫌われることを平気で行っているというのです。

そして、彼ら自身が偽善的な礼拝で主の怒りを招いたことに対し、主は、「それで、わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ」(4節)と応答されるというのです。

 なお、イザヤを初めとする真の預言者たちは、人々の偽善的な礼拝を指摘することで、当時の支配者たちの迫害を受けていました。その預言者たちに対し、「主(ヤハウェ)のことばを聞け。主のことばにおののく者たちよ」という語りかけとともに慰めが啓示されます。彼らの敵は皮肉を込めて、「主(ヤハウェ)に栄光を現させよ。そうすれば、お前たちの楽しみを見てやろう」とあざけっていました。私たちも神のみことばがなかなか実現しないことに落胆を味わい、また、周りの人も、「お前の神は、お前を幸せにできないのか・・・」などと嘲るかもしれません。しかし、それに対して「彼らは恥を見る」という主の復讐が一瞬のうちに実現するというのです(66:5)。そして、その圧倒的な様子が「町からの騒ぎの声だ!宮からの声だ!敵に報復しておられる主(ヤハウェ)の声だ!」と描かれます。

その上で、一転して、一瞬のうちに「のろい」をもたらした神が、一瞬のうちにエルサレムに「祝福」をもたらすことができるという約束が、「産みの苦しみをする前に、彼女は産んだ。陣痛が彼女に来る前に、男の子を産み落とした」(7節)と描かれます。本来、出産が苦しみになったのは、エバの罪に対するさばきでしたが、それが取り去られるのです。このような誕生はありえないことのように思えますが(8節)、神にとって不可能はありません。

そして、それに伴って出現する新しい世界と新しい民の誕生の様子が、「地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは産みの苦しみと同時に子らを産んだのだ」(8節)と驚きをもって描かれ、それが確実に成就することが、わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか・・・わたしは、産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」と、主ご自身のことばで保障されます(66:9)。

そして、エルサレムに訪れる祝福の事が、「エルサレムとともに喜び祝え。彼女のことを喜べ。すべて彼女を愛する者よ。彼女とともに楽しみ、楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ。それは、彼女の慰めの乳房からあなたが飲んで飽き足りるためだ。それは、その栄光の豊かな乳房から吸って喜びを得るためだ」(10、11節)と劇的に描かれます。エルサレムへの繁栄の回復のことが、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。

そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のような平和を彼女に差し伸べよう。あふれる流れのように国々の栄光を。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

  五世紀のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父に、長老の幾人かが行って、「兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りしているのを見たら、目を覚ますように揺り起こすべきだとお考えですか」と尋ねました。それに対し、彼は、「私ならば、兄弟が居眠りをしているのを見たら、彼の頭を膝の上に置いて休ませる」と答えたとの事です。そのような答えは、この箇所から生まれているように思います。幼児が母親のひざの上でかわいがられ、安心するように、神は私たちを慰めてくださるというのです。この世的に考えると、「主のことばにおののく」という観点と礼拝での居眠りは、決して相容れないものでしょう。しかし、疲れやその他の理由を抱えながら、なおも、礼拝に来られる方は、神の目には「主のことばにおののく者」に他なりません。

聖書の神は、私たちにとっての権威に満ちた父であるとともに、慈愛に満ちた母のような方です。そして、このような新しい神のイメージをいただく事によって「あなたがたの骨は若草のように生き返る」と約束されるのです。イエスは当時の人々の、忘れられていた母としての神のイメージを表してくださったのではないでしょうか。

  「へりくだって、打たれた霊」、「主(ヤハウェ)のことばにおののく者」に対して、主が乳飲み子を慰める母親のような姿で現れてくださる一方で、偽善の礼拝者たちに対しては「のろい」が宣告されます。パウロも、人間の肉の力によって神の好意を勝ち取ろうとする者たちに対し、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:1415)と言いました。今、神は私たちの交わりの真ん中に御霊を遣わし、主を、「アバ、父」と呼ぶことを可能にし、私たちを内側から造り変え、「新しい天と新しい地」を創造しようとしておられます。私たちは既に神の御霊による「新しい創造」の過程に入れられており、それがやがて目に見える姿で実現します。これらすべてを、イエスの七百年も前にイザヤが預言していました。

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2011年1月 2日 (日)

イザヤ63章18節~65章16節 「アーメン(真実)の神によって祝福される歩み」

                             201112

クリスチャンは天国にあこがれながらこの世の不条理をしのび、悔しいことがあっても微笑みながら生きる・・・そんなイメージがあるかもしれません。しかし、そんな生き方では、息が詰まってしまいます。義兄が私たちの信仰のあり方を尊重しながら、「お前たちの所は、アーメンだからな・・・」と言ってくれますが、今日の箇所には、「アーメン(真実)の神」という不思議な表現があります。それは、神にはご自身のことばと現実の行いの間にいかなるギャップもないということを意味します。

なお、日本人の一般的な考え方としては、どの神を拝んでも同じで、その人の信仰心自体が、誠実な生き方の源泉になると見られています。しかし、聖書の神は、何よりも、不信仰な者に真実な信仰を生み出してくださる創造主です。そのことをイザヤは、「私たちは粘土で、あなたは、私たちの陶器師です」と表現します。

私たちが自分の内側にある偽善的な暗闇を見るなら、どうして自分の信仰を人に紹介することなどできようかと思います。しかし、私たちは自分の生き方ではなく、私たちを造り変えてくださる陶器師としての神を紹介するのです。しかも、信仰生活とは、天国への憧れを生きるという以前に、この地での生活が、「のろい」から「祝福」へと変えられるものです。「アーメン(真実)の神」によって祝福される歩みの原点に立ち返ってみましょう。

1.「あなたが天を裂いて降りて来られると・・・」

預言者イザヤの時代は、イスラエルの国が繁栄から滅亡に向かう転換点の時代でした。人々が自分たちの将来をなお楽観的に考えている時代に、神はイザヤに約150年後に実現する悲劇の幻を見せました。

「あなたの聖なる民が少しの間受け継いだ後、私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました。私たちはとこしえからあなたに支配されたことも、御名で呼ばれたこともない者のようになりました」(63:18,19)とは、イスラエルの民が、本来、神の聖なる民であり、聖所であるエルサレム神殿は彼らのために建てられていたのに、そこがあまりにもあっけなく廃墟とされ、神の民が他の小民族と同じように大国に踏みつけられているという悲劇を描いたものです。私たちも、ときに、クリスチャンとされている祝福を完全に見失ってしまうようなことがあるかも知れません。

64章の初めでは、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、御顔のゆえに山々は揺れ動くでしょう。火が柴に燃え尽き、火が水を沸き立たせるように、御名はあなたの敵に知られ、御顔のゆえに国々は震えるでしょう。予想もしなかった恐ろしい事を行われるとき、あなたが降りてこられると、御顔のゆえに山々は揺れ動くでしょう」(64:1-3)と主の御顔が迫って来ることの恐怖が描かれています。

これと似た表現が詩篇18篇にありますが、そこでは、ダビデがサウル王から命を狙われ逃亡し続けているときに、神ご自身がダビデを救うため圧倒的な力をもって降りてきてくださる様子が、「主は天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」(9節)と描かれていました。

つまり、人間の目にはどのように強力な敵であっても、神の前には無に等しく、神はご自身のみこころひとつで、天から降りてきて、神の民を救い出すことができるというのです。イスラエルは、自分たちを虐げた大国の上におられてすべてを支配する全能の神の救いをこそ待ち望むべきなのです。

そのことが、「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が、ご自分を待ち望む者のためにこのようにするのを」(64:4)と告白されます。当時は、国ごとに異なった神々が礼拝されていました。その中でイスラエルは自分たちよりも強い国の神々を求める誘惑にさらされていましたが、イザヤは、イスラエルの神を天から降りてきてくださる神として描き、他の神々と比べようがないということを改めて強調します。私たちも、神が私たちを救うために天から降りてこられるというイメージを思い浮かべるべきでしょう。

2.「御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」

そして、5節では突然、あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道であなたを覚える者を」という希望が告白されます。神にとっての正義とは、私たちがどこにおいても神のご支配を認め、神の救いを慕い求めることに他なりません。しかし、イスラエルの民は近隣の神々の機嫌を取ることによって隣国との平和を保とうとしました。

日本の会社には、新年はそろって神社に行くという習慣を守っているようなところさえあります。上司が善意に満ち溢れて部下を引き連れて参拝に行こうというとき、それに逆らうと角が立つかもしれません。しかし、目に見える権力者を恐れて他の神々を拝むなどというのは信仰者にとって自殺行為です。

そのことが、「ああ、あなたは、怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、月のもので汚れた衣のようです」(64:5,6)と告白されています。それはイスラエルの民が、何度も神を裏切り続けてきたことを思い起こしたものです。

なおここで「月のもので汚れた衣」という露骨な表現があるのは、レビ記などで女性の生理の期間が、神の目に「汚れ」と見られていたからです。この世の基準では自分を「」とできることでも、神がそれをどのように見られるかが問題なのです。

何が「正義」なのかは、自分がどの共同体に属しているかによって決まるという面があります。私たちの場合で言えば、私たちは日本人である前に、「神の民」であるということを忘れ、神の目に「汚れ」ということを恐れなければなりません。別の神々を求めることほどに自分を汚す行為はありません。イスラエルはその結果として国を失い神殿を失いました。そして、「木の葉のように枯れ、吹き上げ」られる軽い民となってしまいました(64:6b)。

しかも、それにも関わらず、イスラエルの民は、御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」(64:7)という状況のままに留まっているというのです。士師記はイスラエルの暗黒時代を描いたものですが、少なくとも当時の彼らは、苦しみに会うたびに主を呼び求めました。

ところがイザヤの時代には、自分たちに苦しみが迫っている中ですら、主を求めようとはしなかったというのです。つまり、私たちにとって何よりも絶望的な状況とは、主の御名を呼び求める事をやめてしまう事ではないでしょうか。

しかも、イザヤはそのことを不思議にも、「それは、あなたが私たちから御顔を隠し、私たちの咎の手の中に溶かされたからです」と、まるで、それが神ご自身の責任であるかのように記しています。これは、人が神に逆らい続けた結果、良心が麻痺してしまう状態を指します。

パウロもローマ人への手紙の中で、「造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え」続ける者たちに対しての神のさばきを、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡したと描いています(1:25,26)。これは、人が自分で自分を罪の泥沼に追いやってしまったような状態を指します。ここで「溶かされた」と表現されていることばは、自分で自分の行動を改める力を失ってしまった状態を指します。

3.「これでも、主(ヤハウェ)よ。あなたはじっとこらえ、黙って、こんなにも私たちを苦しめるのですか」

しかし、そのような中で突然、64章8節で、「しかし、今、主(ヤハウェ)よ。あなたは、私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは、私たちの陶器師です。私たちはみな、御手で造られたものです」という信仰告白が記されます。当時の「父」は家庭の中での絶対者であり、また同時に、安心の源でした。

しかも、主は創造主であられますが、ここでは当時の人々に親しみやすい粘土と陶器師の関係から、自分たちの抱える問題は主の創造のみわざの結果であるかのように、ご自身の被造物に責任を持つようにと、大胆に嘆願をしてゆきます。

それをもとにした祈りが、「主(ヤハウェ)よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、目を留めてください。あなたの民、私たちすべてに」(64:8、9)というものです。これは、救いの主導権は、私たちの心以前に、陶器師である主のみこころにあるという告白です。だからこそ、主のあわれみに必至にすがることが大切なのです。

 そして、預言者イザヤは自分達をやがて襲う悲惨を予見しつつ、「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの聖なる美しい宮、先祖があなたをほめたたえた所は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」と生々しく描きます。

ただ、その上で、そのときの主ご自身の葛藤を思い浮かべるようにして、不思議にも、これでも、主(ヤハウェ)よ。あなたはじっとこらえ、黙って、こんなにも私たちを苦しめるのですかと問いかけています(64:10-12)。主はご自身の民の悲惨を冷たく見下ろしておられるのではなく、彼らの痛み合わせてみこころを痛めながら、なお助けたい気持ちをこらえておられるというのです。

これとほとんど同じ表現が、63章15節でも「あなたの熱心と御力はどこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですかと記されていました。これはルカ15章に記されていた放蕩息子の父親の気持ちを描いている表現と言えましょう。私たちは何度失敗しても、とことん、神の豊かなあわれみに期待し、すがり、祈ることができるのです。

多くの学者は、紀元前七百年のイザヤがこのような祈りをすることはできないはずで、これは紀元前586年以降の別の預言者が記したと言いますが、それは余りにも人間的な見方です。実際は、主がイザヤに将来のエルサレムの悲惨を告げ知らせ、それと同時にこのような祈りを与えられたからこそ、彼らはバビロン捕囚という苦しみを通して、強国の神々にひざまずくことなく、イスラエルの神ヤハウェに立ち返ることができたのではないでしょうか。

4.「一日中、反逆の民にわたしの手を差し伸べた」

65章1節では、主がご自身の民イスラエルに拒絶されながら、敢えて異邦人を招く様子が、「わたしに問わなかった者たちにわたしを尋ねさせ、捜さなかった者たちにわたしを見つけさせた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った」と描かれます。

私たちがイスラエルの神を自分の父と告白できるようになったのは、私たちが誇ることができる功績ではなく、神の一方的なあわれみによります。 

一方、イスラエルの民に関しては、「一日中、反逆の民にわたしの手を差し伸べた。自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに」と記されます。これをもとにパウロは、主が異邦人を招く事によってイスラエルにねたみを引き起こし、最終的に「イスラエルはみな救われる」という計画を成就してくださると記します(ローマ10:20,21、11:26)。そこでパウロは、救いが主の一方的な選びによるものであると強調しています。

私は自分で自分の心を信じることができずに悩んでいました。ですから、「信仰によって救われる」と言われても、かえって、「自分には救われるに価する信仰はあるのか・・・」と悩みを深めてしまいました。しかし、信仰が神の一方的な選びによるということを知って、本当に安心することができました。

しかも、それはルターやアウグステヌスのような偉大な信仰者たちが抱いていた葛藤でもあったということもわかって、さらに安心できました。選びの教理はカルヴァンに始まる一部の教派の教理ではなく、聖書全体を貫くもっとも大切な教理です。

なおここで、イスラエルの民の偽善に満ちた礼拝の様子が、「この民は、いつもわたしの顔に逆らってわたしの怒りを引き起こしている。園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、隠れた所に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、『そこに立っておれ。私に近寄るな。お前にとって私は聖すぎるから』と言う」(65:3-5)と描かれます。

彼らはイスラエルの神を礼拝する傍らで、それと並行しながら、周辺諸国の神々の礼拝の習慣を取り入れて、自分たちの信仰が昔より発展しているように誤解していました。

預言者イザヤの南王国ユダの王アハズは当時の大国アッシリヤ王のご機嫌を採りながら、エルサレム神殿の大改造を行いました。何と彼はヤハウェの神殿の中に、ダマスコにあった異教の神の祭壇に習った祭壇を作り、異教の神へのいけにえなのかヤハウェに対するいけにえなのか、わからないような混合宗教のいけにえを熱心にささげました。彼はそれがどれだけイスラエルの神を怒らせたかを知りませんでした。

これは、日本の教会でもつい65年前までは、神社参拝と共存できる日本的キリスト教なるものを誇っていたことに似ています。

彼らは主(ヤハウェ)の御こころに思いを寄せようともせず、皮肉にも、主の目にまったく汚れた者になっていながら、自分達は「聖なるもの」であると言い張っていました。それに対して主は、「これらは、わたしの鼻への煙、一日中燃え続ける火である」と言われます(65:5b)。これは、主がご自分の嫌われる香りをかがされながら、怒りを増幅させている様子を、痛みを込めて表現したものです。

しかも、「見よ。これはわたしの前に書かれている」とあるように、消すことのできない記録として積みあがって来ています。そして、それに対して主は、「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復すると繰り返されます。

しかも、そこには、「お前たちの咎と、その先祖の咎ともどもに」と付け加えられながら、改めて彼らの礼拝の様子とそれに対する主の怒りが、「彼らは山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしった。わたしは彼らのふところに向けて、先のしわざを量る」と描かれます(65:6,7)。これは、主がご自身の民の霊的な浮気にご自身の怒りをつのらせている様子を描いたものです。

5.「そのように、わたしのしもべたちのために、その全部を滅ぼしはしない」

ところが、65章8節から、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」ということばとともに新しい展開が、「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言う。そのように、わたしのしもべたちのために、その全部を滅ぼしはしない」と記されます。

これは、神がご自分の民を厳しく罰しながらも、民を滅ぼし尽くすことなく、一部を残して、そこから新しい神の民を再創造しようというご計画しておられるという意味です。これをもとにパウロは、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)と告白しています。

そして神のご計画が、「わたしはヤコブから子孫を生まれさせよう。ユダからわたしの山々を所有する者を。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。わたしを求めたわたしの民にとって」(65:9、10)と記されます。神はかつて、シャロンを荒地に(33:9)にし、アコルの谷にアカン一族を石で撃ち殺させ、石の山を築かせましたが(ヨシュア7:24-27)、今や、選び残された神の民にとって、「のろい」の時代が過ぎ去り、祝福の時代が始まるというのです。

このことがイザヤと同時代のホセア書では、「アコルの谷を望みの門にしよう」(2:15)と簡潔に表現されています。イスラエルの民にとって「アコルの谷」は神の怒りのシンボルでしたが、そこが希望に満ちた地へと変えられるというのです。

あなたの人生にも、思い出すだけで心が痛み、自分を恥じざるを得ないという記憶があるかもしれません。しかし、神の御手の中で、そのような「のろい」の記憶が、祝福の始まりとなり得るのです。私たちはある意味で、失敗すべくして失敗するのです。それに真剣に向き合うとき、そこから新しい歩みを始めることができます。

ただ、一方でそれと同時に、「しかし、お前たち、主(ヤハウェ)を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、幸運の神のために食卓を整える者、運命の神のために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。わたしはお前たちを剣に渡す。それでお前たちはみな、虐殺されて倒れる。なぜなら、わたしが呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ」(65:11、12)と、主の招きを拒絶するものへのさばきが記されます。

カナンには「ガド」という「幸運の神」、「メニ」という「運命の神」がありましたが、それらに酒をささげる者たちは、皮肉にも彼らの願いとは反対に、「のろい」と運命的な「死」を招くというのです。

6.「主・ヤハウェは、お前たちを殺し、ご自分のしもべたちをほかの名で呼んでくださる」

その上で、主は、残された神の「しもべ」と、悔い改めようとしない「お前たち」との対比を、四対の「祝福」と「のろいの観点から、「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、お前たちは、飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、お前たちは、渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、お前たちは、恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって歓喜する。しかし、お前たちは、心の痛みによって叫び、霊が砕かれて泣きわめく」(65:13、14)と劇的に生き生きと描きます。

私たちはこのような表現を頭で分析する前に、これを声に出して味わい、この対比を全身全霊に刻み込むことが必要ではないでしょうか。

そして、その対比が、改めて、「お前たちはその名をわたしの選んだ者のためにのろいとして残す。主・ヤハウェは、お前たちを殺しご自分のしもべたちをほかの名で呼んでくださる(65:15)と描かれます。私たちは自分の名を「のろい」として残すか、主からの新しい「ほかの名」で呼ばれるものとなるかの分かれ道に立たされています

神は私たちの信仰の歩みの中で、「新しい名」を与えてくださいます。それは、鈍感な人が敏感になるとか、のろまが俊敏になるとか、愚か者が賢くなるというような、人間が思いつく変化を表す名ではありません。神があなたにまったく別の観点から新しいアイデンティティーと使命を与えてくださるという意味です。

そして、祝福の名を受ける者に関しては、「この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)と約束されています。「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。

私たちはしばしば、自分の思いと神のみこころのギャップに悩みますが、来たるべき「新しい天と新しい地」においては、私たちの祈りは、神にとっても「アーメン」と保障されるものとなるというのです。それは、この地が神のあわれみと平和で満たされるからです。

それは、信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11:13)と描かれるような憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

 明治時代以降の日本の歩みには、常に、目指すべき他国の模範がありました。しかし、20年近く前のバブル経済の破綻以降、世界の先頭を走っています。それは、しばしば、デフレ経済と呼ばれる収縮に向かう経済です。イザヤが活躍した時期は、多くの人々が自分たちの国はまだまだ大丈夫だと楽観していた時代でした。

しかし、現実は、どんどん国が傾いて行きました。そのたびに彼らは、対処療法的なこの世的な解決ばかりを求めました。そのひとつが近隣諸国の偶像礼拝を取り入れるという解決でした。しかし、それはますます、国を破滅に追いやりました。彼らは国が滅亡して初めて、イザヤの預言の意味を理解しました。神は、ご自身の民の罪の怒りを発しながらも、ご自身のあわれみの御手を伸ばし続けておられました。

年の始まりにあたり、敢えて自分たちがどのような意味での「祝福」を待ち望んでいるかを見直す必要があるのではないでしょうか。バブル以前のような右肩上がりの成長に見られる祝福ではなく、今ここで、不安な現実を前提とした上での神にある祝福を体験させていただきましょう。

今ここで、陶器師であられる神を真心から礼拝し、互いに愛し合う祝福を、神は実現してくださいます。そそて、この地での祝福は、「アーメンの神」からの招きのことばに、真心からアーメンと応答することから始まります。

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2011年1月 1日 (土)

イザヤ41章~43章 抜粋 「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」

                                                 201111

AKB48の 「Beginner」を聞いて、これを書いた秋元康さんは本当にこの時代を見ていると妙に感心しました。「昨日までの経験とか、知識なんか荷物なだけ、風はいつも通り過ぎて、後に何も残さないよ、新しい道を探せ! 他人(ひと)の地図を広げるな! 伏せた目を上げた時に 0(ゼロ)になるんだ・・・今 僕らは夢見てるか、子どものようにまっさらに…支配された鎖は引きちぎろう Change your mind 何も知らなくていい Beginner! チャレンジは馬鹿げたこと? リスク回避するように愚かな計算して何を守るの? 僕らは夢見てるか? 未来を信じているか? 何もできない、ちゃんとできない、それがどうした? 僕らに可能性があるんだ、君は生まれ変わった Beginner!

私たちは今、過去の体験がなかなか生かされない前人未到の世界に向かっています。過去の成功や人の成功に学ぶのではなく、すべてを支配しておられる神が道を開いてくださることに信頼して歩みたいものです。

1.恐れるな。わたしが、あなたを助ける恐れるな。虫けらのヤコブ』

 418-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8節の始まりには、「お前」という神からの呼びかけが記され、それが転換点になっています。そして主は彼らを、「わたしのしもべ」「わたしが選んだ」「わたしの愛するアブラハムのすえ」と繰り返し呼びかけます。

そこには、全世界の創造主である方がイスラエルをかけがえのないご自分の宝物と見て、世の権力者たちの手から守るという、主の熱い思いが込められています。

彼らは「地の果て(41:9)に追い散らされていても、神が彼らをとらえ、約束の地に連れ戻してくださいます。そのことが、「わたしはあなたを選んで捨てなかった」といわれています。それは神がこれまでひとりのアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出して下さったという歴史に現されています。

このような神の一方的な愛を前提として、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(41:10)と語られます。

人間的な誇りにより頼むのではなく、天地万物の創造主から「わたしのしもべ」と呼ばれることに喜びを見出す者に対し、神は、わたしはあなたを強め、また、助け、さらに義の右の手で、あなたを守る」と言われます。

私たちが神の救いにあずかることができるのは、私たちの側に罪の自覚があるからでも、また反対に、正義があるからでもありません。一方的に神の義の右の手が差し伸べられたことから救いが始まります。罪の自覚や本当の意味での自分の弱さの自覚は、救いを受けた結果として生まれるものです。

救いの主導権は、私たちではなく神の側にあります。そのことが先の「わたしはあなたを選んで、捨てなかった」という語りかけになっているのです。

そして、「見よ。あなたに対していきりたつ者はみな恥を見、はずかしめられ、争う者たちは、無いもののようになって滅びる」(41:11)とは、神がイスラエルの味方になってくださるという意味です。パウロも、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言っています。

その上で、主は、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』」(41:13、14)と言われます。イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のようにちっぽけな存在でしたが、主が彼らを選び彼らの味方となってくださいました。「わたしが」ということばは、その主の主導権を明確にすることばです。

その上で、主ご自身が彼らをしっかりととらえていてくださるので、彼らは周囲の大国をも圧倒することができるということが比喩的に15,16節で述べられます。「鋭い・・・打穀機」とは、神の民が敵を圧倒する様子を描いたものですが、これは大国から踏みつけられている弱小民族にとっては身近な表現でした。

そしてこの部分の最後に、8節の「お前」という呼びかけから始まった神の慰めのことばが、「あなたは、主(ヤハウェ)によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」41:16)と締めくくられます。これは、自分の無力さに絶望している民にとっての何よりの希望です。

2.「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛してしてる」

43章では燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が」(43:1)と優しく呼びかけつつ、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と言われます。 

「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって自分の身を奴隷に売らざるを得なくなった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します(レビ25:48)。

イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。

そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。

それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づきます。ヤコブはそれに値する人間ではなく、父や兄を騙すようなことをしたにも関わらず、主ご自身が、彼の生まれる前から、彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。

また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。

そして、主がイスラエルを贖ったということが「あなたの名をわたしは呼んだ」と言い換えられます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。

そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。

海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

そして、この選びによる創造は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10)と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。そして、私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。

ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。確かに、私たちはこの地で様々な災いに会います。

しかし、その災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3,4)と断言しました。

与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。これも一言一言、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

そのことが、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシャがイスラエルの民の好意を得てエジプト支配を容易にするためでした。これは、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在だったからです。

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。

「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのないひとり子であり、イエスは、神にとってかけがえのないひとり子でした。

また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。このように、人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、そのふたりの陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。

それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方がはるかに重い存在とされているのです。

それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほどかけがえのない存在かを意識しながら生きたいものです。

ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

そして、この世の大帝国や権力者たちを恐れる人々に対し、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」(43:5)と言われました。そこでは、「わたし」と言われる方の存在の大きさを味わうような語りかけがなされています。

そして主は、「東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。北に向かっては、引き渡せ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う」(43:5、6)と言われます。これは、主が四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めてくださるという約束です。

そして、それを命じる主のことばが、「来させよ。遠くからわたしの子らを、地の果てからわたしの娘らを」と記されます。

そして、主は、43章1節のことばを繰り返しながら、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、これを創造し、形造った」(43:7)と言われ、すべてをまとめるように、「確かに、わたしがこれを成した」と、すべてが主ご自身のみわざであることが強調されます。

3.「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。」

 43章10節で、主は、「あなたがた」ということばを強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人、─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしが選んだわたしのしもべ」(43:10)と言われます。

私たちこそ、神がどのような方かを証するために立てられている「ヤウェの証人」なのです。

ただ、私たちはその責任の大きさの割には神を知っていないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」と言われます。私たちは自分たちの人生の体験を通して、主を深く知り、深く信頼し、主がどのような方であるかを悟るのです。

なお、10節後半では、「その者」というあいまいな表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しています。そして、主は、あえて「わたし」ということばを二回重ねながら「わたし、わたしが主(ヤハウェ)」(43:11)とご自身の名を紹介しておられます。

そして再び、ご自身のことを、「わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせた」(43:12)と紹介しながら、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」と、10節のことばを繰り返しながら、「主(ヤハウェ)の御告げ─わたしは神だ」と断言されます。

そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13)と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。

その上で主は、不思議な救いのご計画を分かち合ってくださいます。14節の「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という表現は、4316節でも用いられますが、そのたびに、その方が、どのような方かが描かれます。

ここでは、まず、「その方は、あなたがたを贖うイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださった方、また、この世を超越したという意味で、「聖なる方」と呼ばれます。

そして、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から」と描かれます。

この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている亡命者の立場になっていましたが、その立場が逆転するというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出されるような悲惨な状態に追いやられるというのです。

そして、その根拠を、主は、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(43:15)と述べておられます。

これらの箇所で、イスラエルやヤコブという名前を、自分と置き換え、バビロンやカルデヤ人ということばを、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。

  そして、再び、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」(43:16)と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(43:17)と描かれます。 

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(43:18)と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。「柳の下に二匹目のどじょうを探す」というような笑い話だったら良いのですが、彼らは過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていました。

たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に、「成功は失敗のもと」になることをいつも注意深く現実を見る必要があります。私たちは、常に、神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19)と言われました。私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。

そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。しかし、彼らは南の大国エジプトの政治情勢にばかり目が向かっていました。イスラエルの民は、エジプトから解放されるときは、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20)と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。

なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在でした。「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。

「ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。

つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことであるというのです。そして、そのことが、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(43:21)と描かれています。

  福山雅治作「道標」に次のような歌詞がありました。「愛に出逢い愛を信じ 愛に破れて、愛を憎み 愛で赦し また愛を知る 風に吹かれ 迷いゆれて 生きるこの道、あなたの笑顔 それは道標・・・傷もためらわず 痛みもかまわず 「勝つこと」ただそれだけが正義と 壊れてもまだ走り続けるわたしにも、あなたはやさしく…」 

この一年、勝つことばかりを考えて人を押しのけて生きるのではなく、神の愛に信頼し、互いに愛し合いながら、何度裏切られても人を愛し続け、自分の笑顔を人の道しるべのようにできたら幸いです。私たちはそのように生きることができます。

それは、天地万物の創造主が、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」と言ってくださるからです。

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