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2011年3月27日 (日)

箴言20、21章 「矛盾を抱えたまま、神と人に仕える」

                                                2011年3月27日

  何かに真剣に取り組んだり、犠牲も厭わずに人に尽くすことは本当にすばらしいことです。しかし、ときに、「どうせ、自分のためにやっているのでしょう・・・」となどと言われることもあります。そのとき人はみな、自分の動機の純粋さを弁明したくなります。

遠い昔のことですが、私も様々な批判にさらされたことがあります。そのとき、私は必死に自分の正当性を訴えましたが、その後、「自己弁護excuseしている人は、自分を責めaccuseている」という逆説に気づいたとき、何か自分の心の底にあることが見えた気がしました。私は自分の心にいつも不真実なものがあることに気づき、それを責めていました。だからこそ、批判されると、必死に、自分が真実な思いで行動していると言いたくなったのです。

先日、仙台への支援物資を送ってくださった方が、ふと、「何かをする機会を与えていただいて、少し、気が楽になりました・・・」と漏らしておられました。私はその正直さに感動しました。

私たちの愛の行為には、必ずと言って良いほど自己満足的な思いが伴っているものです。しかし、それを正直に認めることができる人は、他の人を責めたり、また、「自分の親切を吹聴する」ようなことはしません。

不信仰を抱えたまま主に仕え、また、自己満足を抱えながら人に尽くすことは、その矛盾に気づいている限り、神に受け入れられます。しかし、必死に自分の正当性を訴える人は、イエスに批判されたパリサイ人の仲間となっているのかもしれません。

  隣人愛の実践を絶対化して行動しない人を責め、自分を誇ってはなりません。しかし、同時に、隣人愛に燃えて必死に行動する人を皮肉な目で見ることはさらに危険です。人も自分も優しく見る目を養いたいものです。

                                                       

1.「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」

「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」(20:5)とありますが、多くの人は、「人の心にあるはかりごと」をわかっていません。それは「深い水」のように理解しがたいものですが、「英知のある人はこれを汲み出す」とあるように、英知のある人は、その心の奥底にある深い水を汲み出すように、その心の動機を理解できるというのです。

先に、「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」(16:2)とあったように、人はみな自分が正しい道を歩んでいると思い込んでいますが、主は心の奥底にある動機を見ておられます。そして、「英知のある人」とは、そのような主の視点を持つ人です。

ところで、私たちの心の中にはどんな動機があるのでしょう。イエスが荒野で40日間受けた誘惑にあるように、多くの人は、確かに、富、名声、権力を求めています。しかし、そのもっと奥には愛への渇きがあるのではないでしょうか。それからすると、富も名声も権力も、愛の代替物に過ぎないということがわかります。

英知のある人は、人の心の奥底にある渇きを理解できるというのです。たとえば、あなたの隣人が、お金儲けに一生懸命になっているとき、「あなたはお金のことばかり考えているね・・・」と言ったら、その人はどう答えるでしょう。「そうです。そのとおりです」と答える人はまずいないことでしょう。そうではなくて、その人の心の奥底に隠された「愛への渇き」を意識した「優しさ」を、ことばと行いによって示すなら、その人はあなたのことばに耳を傾けてくれることでしょう。

大切なのは、まず、自分の心の中にある「深い水」の状態を見ることです。イエスは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)と言われました。

私はかつて自分の中に、人からの愛を強く求める気持ちがあるのを恥じていた面があります。しかし、イエスでさえ、弟子たちの愛を求め、また、ご自分の頭にナルドの香油を注いでくれた女性を絶賛していたのです。弟子たちは、これから十字架にかかろうとするイエスの気持ちをわかっていませんでしたが、彼女はその気持ちを理解していたからです。

箴言19章22節では、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(19:22)と記されていましたが、「変わらぬ愛」とは、ヘブル語の最も美しいことばのひとつ「ヘセッド」です。これは、「失敗しない愛」「真実の愛」「忠実さ」「誠実さ」とも訳すことができます。聖書に記されているストーリーの中心とは、「神のご自身の計画に対するヘセッド、誠実さ」です。あなたのまわりの人が、本当に、心の底から求めているのは、誠実な友、何があっても裏切らないと信頼できる友なのです。

もちろん、私たちの心は揺れやすく、いざとなったら人をも裏切る弱さを持っていますが、主の「変わらない愛」を受け続けることによって、「変わらない愛」を全うできるように変えられます。

そのような中で、「多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう」(20:6)と記されていますが、ここでの「親切」ということばもヘブル語の「ヘセッド」です。人は自分が誠実で親切な人間であると見られたいという強い欲求があります。たとえば、大地震で苦しんでいる人を助けたいという熱い愛の心の中にも、自分が誠実で親切な人間でありたいという自己満足的な思いが潜んでいることでしょう。

ただ、そのように指摘されたとき、「何という失礼なことを言うのか!私は純粋に無私なこころで行動しているのに・・」などと言い張る人は、危ない人です。そのように自分を弁護する人は、人一倍、誠実な人間と見られたいという欲求を持っています。そして、そのような人は、多くの場合、他の人の愛の足りなさを責めてしまいがちです。

しかし、逆説的ですが、「私の中には、そのような自己満足的な思いがあるかもしれません。でも、何かせずにはいられないのです・・・主よ、あの方々を助けてください・・・」と祈るなら、その行為は、主に受け入れられます。

主は偽善を嫌われますが、自分の心の貧しさを嘆きながらする愛の行為は受け入れてくださいます。とにかく、偽善性を隠している人間に限って、「自分の親切を吹聴する」という傾向があります。

そして、「だれが忠実な人を見つけよう」とあるように、自分の親切を吹聴する人に、本当の意味で忠実な人を見出すことはできません

ただし、自分の動機に不純な自己満足を求める思いがあるからといって、何もしないというのも主のみこころに反します。愛とはしばしば、自分の気持ちに反してでも、また自分の敵であっても助けようとする行動に現わされるからです。

あなたの動機が不純であったとしても、目の前の人が助けられること自体に大きな意味があります。もし、あなたの隣人が飢えているとき、「ごめんなさい。私の中には自己満足的な不純な思いがあるから、あなたを助けることはできません・・・」などと言ったとしたら、その人は、「それこそ自己満足ではないでしょうか。私には助けが必要だということをどうして見ようとしないのですか・・・」と反論するのではないでしょうか。

「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」(20:7)とありますが、「潔白」とは「完全」とも訳せる言葉ですが、決して、何の傷も欠けもない完璧を意味しているのではなく、目的にかなった生活をしているというような意味です。それは自分に課せられていると思う責任を黙々と果たすような生き方です。そうするときに、子孫が幸せになるということは当然のことでしょう。

それに反して、自分の口で自分の誠実さを吹聴しながら、行動が伴っていないような人は、その子孫に経済的な損害ばかりか、人間不信の種を蒔いていることになります。そして、人間不信で凝り固まった人は、決して幸せな生涯を送ることはできません。

 「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられたと言うことができよう」(20:8、9)と記されていますが、これは中心的には、私たちが最終的に全世界の王である神のさばきの御座の前に立たされることを指します。そのとき、私たちは誰も、自分が完全無欠で、誠実と親切に満ちた愛の行いをし続けてきたなどと言うことができません。

私たちをさばくのは、主ご自身です。私たちはただ、「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るしかできません。そして、そのように自分の不誠実さや罪深さを正直に認め、神のあわれみにすがる者こそが、神に喜ばれるのです(ルカ18:13,14)

  「聞く耳と、見る目とは、二つとも主(ヤハウェ)が造られたもの」(20:12)とは、私たちが自分の心に隠された動機を聞くことができる耳や、見たりできる目が与えられているので、自分も人も、表面ではなく、その内面に隠されている思いをしっかりと見るようにとの勧めです。

ただ、これは決して、人にだまされないように、人の行動の裏を見るようにという勧めではありません。そうではなく、かえって、人や自分の内側にある矛盾した思いをやさしく受け止めることが大切だという意味ではないでしょうか。

人を悪く見すぎることは、人を良く見すぎるのと同様に危険なことです。しばしば、人を理想化してみる人は、同時に、ある人を徹底的に悪く見る傾向があります。完璧な悪人も完璧な善人もいません。All or nothing 、白か黒かに二分するような見方ほど危ないものはありません。

2.「主の時を待つ」

「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主(ヤハウェ)を待ち望め。主があなたを救われる」(20:22)とは、中心的には、復讐を戒めるための勧めです。私たち自身や大切な家族がひどい目に合わされたとき、復讐をしたいと思うのは当然の人情です。それは正義への渇きでもあります。

そのとき、「主を待ち望め。主が救ってくださる」とは、主があなたの心の痛みを理解して、あなたに変わってさばきを下してくださるという意味です。

多くの人々は、「主のさばき」と、「主の救い」を同じ次元で考えることができません。そのため、復讐したい気持ちを必死で押さえ込もうとして恨み」を心の奥底に溜め込みます。「恨み」は恐ろしい力で、しばしば、自分の心も人の心も窒息させます。

なお、多くの人は「神の救い」を、「死んでも天国に行ける・・」などとこの世離れした次元で考えますが、「神の救い」は、しばしば、あなたの敵を主が代わって裁いてくださることとして現されます。

私たちが自分で手を下そうとすると、多くの場合はかえって自滅せざるを得なくなります。それこそサタンの思う壺です。私たちはただ、「神の時を待つ」という忍耐が求められているのです。

しかも、「主を待ち望め。主が救ってくださる」とは、生活のあらゆる面に適用することができます。すべてにおいて、性急な解決を求めることほど危ないことはありません。

救いには、主の時があるということを心に刻みましょう。詩篇の作者は、「あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります」と告白しています(詩篇31:14,15)。

「人の歩みは主(ヤハウェ)によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」(20:24)とありますが、厳密には原文で、「人(勇士)の歩みは主(ヤハウェ)から・・・、人はその道をどうして見分けられよう」(A man's steps are from the LORD; how then can man understand his way?と記されています。

人は自分の人生を本当の意味で理解しているでしょうか。しばしば、人は、自分の人生を勝ち負けの基準や、成功者に対する憧れや、親の期待に縛られて、自分らしい人生を生きることができていません。だいたい、自分の出生や体形や気質や能力を人と比べて卑下している時点で、人は自分らしさを失っています。それらに関して、人に選択の余地はありません。ただ、それらをすべて神の賜物として受け止めることができるときに、その人は、真にその人らしい歩みをすることができるのです。

しかも、そのように自分らしい人生に気づくまで、多くの人は様々な試行錯誤を続ける必要があります。誰も最初から自分の人生の意味を悟ることなどできません。それに気づくまで、多くのつまずきがあって当然です。そして、それはあなた自身の創造主との絶えることのない交わりの中から見出されるものです。

  「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ」(20:25)とは、善意から出ていても、自分の限界をわきまえずに神に約束することは危険だという意味です。

約束を簡単にやぶる人は、人間関係を壊しますが、同じように神との約束を破ることは神との関係を壊します

たとえば、現在、東北地方には未曾有の危機的状況が生じています。これを見ながら、何かをしたいという気持ちになることは当然でしょう。しかし、そこで自分ができもしない約束をしてしまい、後で、「あれはつい口から出てしまいましたが、やはり、できません」などと言うことは許されません。すでに深い失望感に圧倒されている人に、できもしない約束をすることは、その方を更なる絶望に追いやるだけです。

援助には、何よりも相手への継続的な配慮が求められます。たとえば、先日の支援物資のことでも、浦和教会では関東の福音自由教会からすでに仕分けして集められた物資の再度の仕分けに六時間もかけられたという報告を聞いて感動しました。仙台の教会の立場に立って、援助の名の下に彼らに負担をかけることがないようにとの深い配慮が見られるからです。

3.何にあこがれ、何を愛して生きるのか・・・

悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない」(21:10)とは、「悪者」はその人の行動以前にその心自身が悪事をあこがれるという心の方向の問題が描かれています。そして、悪者の目は、隣人の痛みに共感するという方向には向かわないということを示しています。「悪者」とは、心の方向の問題なのです。

  「あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る」(21:11)とありますが、「知恵」とは箴言の鍵の言葉ですが、その本来の意味は「熟練によって悪を避ける」ことで、この世で成功するためというより、「正義と公義と公正」(1:3)「体得する」ためのものでした。

つまり、「あざける者」が罰を受けるのを見ると、わきまえのない者」でさえ、「悪を避ける」方向に心が動くという意味で「知恵を得る」というのです。

そして、そのように自分の人生をわきまえる「知恵」をベースに学ぶとき、その人はますます知識を得ることができます。つまり、何かを学ぶという「熱心さ」の前に、その人の「動機」が問われているのです。

   「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」(21:13)というのは非常に印象的な表現です。たとえば、年老いた親が何かを訴えているときに、「どうせ、老いぼれの言うことばだから・・・」などと耳を傾けようとしない人は、そのうちに、「あんな、ろくでなしの訴えなんか、取り合うことはない・・」と無視されるようになると日本でも言われてきました。

なお、ここでは、「耳を閉じる」ということが強調されていることを忘れてはなりません。困っている人の叫びに耳を傾けながら、「自分は何もできない・・自分には愛がないのかな・・」と悩む人は神に愛されるのではないでしょうか。

問題なのは、悩むことを避けようとして、「耳を閉じてしまう」ことです。「聞かなかった・・・」ということにしたら、自分を正当化できるからです。

ただし、罪の根本は、自分を正当化することにあります。自分の愛の足りなさを嘆く人は、神の愛を知っている人です。その人の訴えに神は、耳を傾けてくださいます。イエスも、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:6)と言われました。

「公義が行われることは、正しい者には喜びであり、不法を行う者には滅びである」(21:15)とありますが、「公義」は、厳密には、「さばき」と訳すべきかと思われます。これは神がこの世界を公平におさめておられるという意味での「さばき」です。そこでは、「正しい者」には「喜び」が、「不法を行う者」には「滅び」がもたらされます。

私たちの人生に途中で判断を下すのは危険です。飛ぶ鳥を落とすような勢いで傍若無人に振舞っていた人が、破滅してしまったとき、その人の絶望感はどれほど大きくなることでしょう。

目に見える結果を出せなくても、誠実に生きている人に神は豊かに報いてくださいます。それは、「主(ヤハウェ)に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3,4)と記されている通りです。

私たちは自分を吹けば飛ぶようなちっぽけな存在に見ているかもしれませんが、主が与えてくださった人生を、誠実に、地道に歩み人は、神にとってのかけがえのない宝物なのです。目先の損得勘定で自分のたましいを売ってしまうような生き方は、必ず、深い後悔に至ります。

  使徒パウロはコリントを初めとする異邦人中心の教会が健全に成長できるようにと、まさに命がけで労苦していましたが、コリント教会の一部の人から不当な批判を受け、それが自分の伝えた福音への不信につながることを恐れ、自分ではなく福音を弁護するために熱い手紙を書きました。

そこで彼は、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません」(Ⅰコリント4:3-5)と不思議な書き方をしています。

私たちはしばしば、余りにも内省的になりすぎて、自分の心が神と人とに向かわなくなるということがあります。神と隣人の思いにあなたの心を開き、その訴えに耳を傾け、それに自由に応答するという心の動きが大切ではないでしょうか。

たしかに私たちの心には様々な矛盾した思いが隠されています。しかし、パウロは、「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」と怖いことを言いながら、すぐに、「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」とそれを前向きな方向へと導いています。

人を貶めるつもりでやった偽善に満ちた行為は明らかにさばかれます。しかし、心の矛盾を抱えながらも、神と人のために何かをしたということ自体を神は称賛してくださるのです。

この世界は、根本的に、「愛」に飢え渇いています。今回の大震災が心の変革の契機にされるように祈りましょう。

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2011年3月20日 (日)

マルコ2章1-12節 「罪を赦す権威を持つ方」

                                                 2011320

この一週間余りに日本で起こったことは誰も予想のできなかった大惨事でした。想定外の大津波で何と多くの人々の命と財産、生活の場が失われ、将来の夢が奪われたことでしょう。そして、関東の地においても、観測史上最大の地震が、世界で最も安全と評価されていた原子力発電所を破壊し、電力不足を起こし、交通機能を麻痺させました。

そこでは、まず、JR東日本の対応が、次には、東京電力の対応が非難されました。しかし、JRは、その路線にひとつでも停電の可能性があれば電車を止めざるを得ません。東京電力は、送電基地は管理していますが、それは行政区画や電車路線とは関係ありませんから、人々の期待に沿った説明ができません。そして何よりも、東京電力は原発を冷やすために自衛隊を動かすことも米軍の協力を仰ぐ権威もありません。

ようやく一週間が経過して、内閣総理大臣の権威のもとに様々な協力関係ができるようになってきています。いつも、マスコミは首相を馬鹿にし続けていましたが、その権威がなければ日本の行政も民間も協力を築くことが難しいのです。

この悲惨を契機に、人を押さえ込む「権力」ではなく、人を動かし協力させることができる「権威」について目を開く必要がありましょう。今日のテーマは、「罪を赦す権威」です。

多くの宗教の基本は、この「罪の赦し」を教理の根幹に据えていますが、聖書は、この点に関しては、極めて一貫性があります。その「権威」は天地万物の創造主に帰されます。そして、十字架にかかってくださったイエスこと、この権威を授けられていた方でした。

1.「この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」

重い皮膚の病(ツァラアト)に侵され、社会から隔離されて生きていた人が、イエスに手を触れていただき、癒されたとき、彼はイエスの意に反し、劇的ないやしのみわざを言い広めました。その結果、イエスは表立って町の中に入ることさえできなくなり、町はずれの寂しいところに身を潜めておられましたが、人々はあらゆるところからイエスのもとにやってきます。

そのような中で、数日たって、イエスがカペナウムにまた来られ」(2:1)ますが、そのとき、「家におられることが知れ渡った」というのです。この家とは、ペテロの家なのか、イエスご自身の家なのか、見解が分かれるところですが、どちらにしても、ただ「家」と書いてあるところからみると、カペナウムにおけるイエスの常駐場所であったことは確かです。

その上で、「それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」という混雑の様子が描かれます。つまり、普通の方法では、外の人はもうだれもイエスに近づくことができないという意味です。

そのような中で、「この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」(2:2)とありますが、イエスはここで、悪霊追い出しをはじめとするいやしのみわざよりも、「神の国(支配)」が彼らの目の前に来ているということを語っていました。イエスが聖書のどの箇所を中心に語っておられたかは、非常に興味深いことですが、福音書全体から推察すると、イザヤ書40章―66章の箇所が圧倒的に多かったことは確かでしょう。

その中でも、私自身が旧約から見るイエスの救いに関して大きく目が開かれたのは特に以下の二つの箇所です(私訳)。

なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は・・・。

その足は、平和を聴かせ、幸いな福音を伝え、

あなたの神が王となる』とシオンに告げる救いを聴かせる。

あなたの見張り人たちの声。声を張り上げ、共に喜び歌っている。

彼らは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ」(52:7、8)

そして、このイザヤの預言がイスラエルの民の心に響くようになったのは、彼らが国を失った後のことでした。彼らは目に見える出来事がすべて期待はずれになってゆくような中で、次のようなみことばを理解しました。

「主(ヤハウェ)を求めよ・・・悪者はおのれの道を捨てよ・・・。

主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。

─主(ヤハウェ)の御告げ─

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、

それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させる

まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。

山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。

これは主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」55:6-13)。

イザヤは、神の救いのご計画は人間のあらゆる思いを超えた形で進んでゆくことを力強く語りました。そして、主がご自分の民のもとに帰ってきてくださったことはイエスにおいて明らかになりました。それが以下の不思議ないやしのみわざによって明らかになっています。

2.「イエスは彼らの信仰を見て・・・」

  「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした」(2:3、4)とありますが、多くの人はこの四人がイエスの住まいを破壊したかのような誤解をします。

しかし、当時の家には、玄関からの入り口と、屋上からの入り口の両方があったと言われます。実際、たとえばペテロが百人体長のコルネリオを訪ねる前に、使いの者たちがヨッパの町の近くに来たころ、「ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった」と記されます。

そして、彼らがペテロの泊まっている家の戸口に立っているとき、ペテロは、「その人たちのところに降りて行って・・・」と記されています。これは、屋上にいたペテロが屋上の入り口から家の中に入って、彼らを迎えたというのが最も自然な解釈だと思われます。

しかし、このときのイエスの家には、人が一杯になっていましたから、当然、屋上は閉じられ、屋上の入り口の階段ははずしてあったことでしょう。中風の人を床に乗せたまま運んできた人は、イエスに近づくことをあきらめることなく、屋上に上って、その屋上の入り口を開いて、彼を床に乗せたまま吊り下ろそうとしました。

なお、「屋根をはがし」ということばは、「屋根を開いて」とも訳すことができます。「穴をあけて」というのも必ずしも破壊行為で穴を開けたという意味ではないと思われます。ルカの平行箇所では、「屋根の瓦をはがし」(5:19)と訳されていますが、これはかなりの意訳で、厳密には、「タイルを通して(through the tiles)と記されています。

またマタイの平行箇所では、簡単に、「人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」(9:2)と描かれています。

  とにかく、イエスが話している最中に、屋根を破壊する音が聞こえ、様々なものが落下し、そのような中で、この中風の人が下ろされてきたというイメージを持ってしまっては興ざめです。そんなことをしたら、集まっている人々は彼らの乱暴さを責めて騒ぎ出し、イエスがこの中風の人に権威をもって語りかけることもできなくなったことでしょう。

たぶん、そのときのイメージは、イエスが話に夢中になり、また人々が静かにイエスのお話に耳を傾けていたときに、突然、静かに、上から一人の人が床に寝かされたまま下ろされてきたという感じなのでしょう。

すべては静かに起こったのではないでしょうか。彼らはイエスのお住まいを尊重する思いも持ちながら、同時に、必死に、この中風の人をイエスのみもとに運ぼうとしたという彼らの熱い思いがそこにいる人々にも伝わったはずです。

 そこで不思議なことがおきます。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた」(2:5)のです。イエスは「彼らの信仰を見た」と描かれますが、主はこの中風の人を運んできた四人の人がご自分のメッセージの妨害をしたとか、秩序を壊し、皆に迷惑をかけたと思う代わりに、彼らの熱く真剣な思いを評価してくださったのです。

昔からこれは、人は、その友人の信仰のとりなしの祈りによって救いを受けることができるということのテキストとして用いられてきました。実際、この四人の人がイエスを信頼していなければ、屋根に上って、そこから中風の人を吊り下ろすということ行動にはいたりませんでした。

私たちも、自分がイエスの恵みを知ることができるようになった背後に、どれだけ多くの人々の祈りが積まれていたかを知ると驚きます。

 そればかりか、「彼らの信仰」の中に、この中風の人の信仰も含まれていたことでしょう。なぜなら、この四人の友人は、彼の意思に反して運ぶことはできなかったはずだからです。

人には、「この人だったら喜んで助けてあげたい・・・」という雰囲気を出す人と、「こんな不平ばかりを言っている人のそばには近寄りたくない・・・」という感じを与える人との二通りがありますが、この人は前者のタイプでした。

ですからイエスは、「中風の人」に向かって、まず、「子よ」とやさしく語りかけられたのです。私たちもそのように助けてもらいやすい信仰を持っているなら幸いです。

3.「あなたの罪は赦された」

  ただし、厳密に言うと、イエスは彼らの信仰の熱心さに動かされた結果として、「あなたの罪は赦された」と言ったわけではありません。「罪の赦し」は、人間の悔い改めの真剣さによって獲得されるものではなく、神の一方的な恵みだからです。実際、悔い改めても赦してもらえなかった例が聖書には数多く出てきます。

  しかも、これは別に、この中風の人が特別に罪深く、その罪が原因で中風になったので、「罪の赦し」を必要としていたという意味ではありません。基本的に、すべての病は、人類の父祖アダムが神に逆らってエデンの園から追い出されたことに始まります。

また、イスラエルの民は、神に逆らったことによって、神の怒りを受け、様々なわざわいに会いました。しかし、だからと言って、ある人が特別なわざわいに会っているのは、その人が特別に罪深かったからというのはあまりにも短絡的です。

残念ながら、東京都知事が、今回の東日本全体を襲った悲惨を指して、「天罰が下った」などと言ったとのことですが、それはきわめて短絡的な発言です。

しばしば、人は自分が大きなわざわいに会ったとき、自分の罪深さに対して特別な神のさばきが下ったと思いがちです。その意味でこの人は、三重の意味で苦しんでいたことでしょう。

その第一は、病から生まれる苦しみです。第二は、病は天罰だという人々の冷たい視線です。そして、第三は、神の怒りを受けて病になってしまったという絶望感です。この病が神のさばきであるなら、人間にはなんとも変えようがないからです。

しかし、イエスの「あなたの罪は赦されました」という宣言は、これらすべてを逆転させる「希望」のことばです。彼はこれによって、病の中でも、神が自分に微笑みかけているという眼差しを感じることができるようになるのです。

  原子力発電所から五kmに福島第一バプテスト教会があります。この教会は辺鄙なところにありながら二百人あまりの会員が集まり、日本全国から注目されていた教会です。

その主任牧師の佐藤彰先生は小生の神学校の先輩ですが、ご自分の教会が、地震、津波、放射能漏れによる強制退去と三重の災害を受けて、教会の民が出エジプトのイスラエルの民のように漂流状態になっている様子を教会のホームページに更新しておられます。

「もう一度、あの教会堂に戻ることができるのだろうか・・・」という絶望的な状況の中で、その日その日に、主の恵みを体験し共に泣き、共に喜んでいる姿が描かれています。

彼らは、今、日本的な感覚では、「何の因果でこんなことになったのか・・・」とつぶやきたくなるような中でも、決して、それを「何か自分たちの特定の罪が、特別の神の怒りを買ったのか・・・」などと悲観することなく、苦しみのただ中で、主がともにいてくださることを体験しておられます。 

私たちイエスの弟子は、様々な悲惨の中で、イエスご自身がともに苦しんでくださることを知ることができます。この世は、問題の原因をなくすことで、問題を解決しようとします。それがしばしば、悪者探しに向かってゆきます。しかし、キリストにある者は、どのような苦しみのただ中でも、「希望」を持つことができます。

小説家、村上龍がニューヨークタイムス誌に寄稿した文章が多くの感動を呼んでいます。その終わりで彼は次のように書いています。 

「私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。『この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない』と。  

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。   

だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに、希望の種を植え付けた。」 

私たちの信仰の核心こそ「希望」です。神の御子は全ての人間の罪を背負うために人となり、十字架にかかって死にましたが、神はこの方を三日目に死人の中からよみがえらせました。

それは、苦しみには必ず出口があることを示します。その根拠を与えるのが「罪の赦し」です。イザヤ43章25節で、主は、

「わたし、わたしがそれだ。あなたのそむきを拭い去る者。

それはわたし自身のためだ。

もうあなたの罪を思い出さない」   と語っておられます。

ここには、罪を赦すことは、神にしかできないということと、罪の赦しの理由は人間の側の悔い改めの真実さという以前に、神ご自身の栄光のためという、人間にははかり知ることのできない神のご計画とご意思に基づくということが記されています。

多くの人は、「罪の赦し」を、人間の側の信仰の結果と考えますが、すべては神のあわれみに基づくものです。信仰とは、その神のあわれみに対する私たちの側の応答に過ぎません。

4.「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」

  「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った」(2:6)とありますが、これはいわゆる屁理屈のようなことを指しているのではなく、「心の中で思いを巡らしていた」と訳すことができます(新共同訳:「心の中であれこれと考えた」)。

そして、彼らが心の中で、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(2:7)と思い巡らしていたことは当然でした。

それは先のイザヤ書の当然の結論であり、彼らが真剣に神の栄光を願っているなら、そこにいる人々の信仰を正すためにも、イエスのことばを真正面から否定するべきでした。それこそ律法学者の責任でした。

しかし、彼らはイエスの評判があまりにも良すぎるため、人々の手前、それを口に出さずに、心の中で思いをめぐらしただけで終わったのです。

彼らは神の前に熱心に見えても、実は、信仰熱心に見てもらいたいという誘惑に負けていたのです。

イエスは彼らの偽善を見抜いていました、そのことが、「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いた」(2:8)と記されます。

そしてイエスは、「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」と彼らの心の声に、真正面から明確に問いかけます。

ただ、イエスはご自分が人の罪を赦す権威を父なる神から与えられているというご自分の神としての性質を正面から弁明する代わりに、不思議な質問をします。それが、

「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、

『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」(2:9)という問いかけです。

人間的に考えるなら、「あなたの罪は赦された」という方が簡単ですが、それは律法学者がいうように、罪を赦すという神の権威を人間のものとするという冒涜になります。ですから、このことばは、神の視点からすると、「ちりから出て・・ちりに帰る(伝道者3:20)に過ぎない肉なる人間が決して言ってはならないことです。

それに比べて、「起きて、寝床をたたんで歩け」というのは人間的には不可能を言っていることですが、預言者エリヤやエリシャが行った様々な不思議なわざの数々からしたら、真の預言者であればできても不思議はない奇跡のひとつに過ぎません。

つまり、人間的には「あなたの罪は赦された」という方がやさしいのですが、神の視点からしたら、「起きて、寝床をたたんで歩け」というほうがずっとやさしいのです。

そして、イエスはこの中風の人の足を瞬時に癒すことで、ご自分がエリヤやエリシャに劣ることのない特別な権威を神から授けられているということを証しできます。

その上でイエスは、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(2:10)と言いながら、「中風の人に」向かって、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(2:11)と言われます。

これは随分、乱暴なことばです。「起きなさい」というだけでも大変なのに、「寝床をたたみなさい」「歩きなさい」立て続けに三つの命令を述べているからです。普通だったら、「そんな無理なことを・・・」というつぶやきが帰ってきても不思議ではありません。

しかも、イエスはこの前の記事では、わざわざツァラアトに冒された人の身体に「さわって」、その上でことばを発せられたのに、ここでは単に、ことばを発せられただけでした。それは、ここではイエスのことばの「権威」が問題にされているからです。

そして、このイエスの命令は、この人に考慮も躊躇の余地も与えない絶対的なことばでした。これは、神が「光があれ」と仰せられると、「すると光があった」という天地創造の神のみことばの「権威」を思い起こさせる出来事です。

そして、実際に、イエスのことばは奇跡を生みました。そのことが、「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った」(2:12)と記されています。

ここでは、この中風の人の信仰に関しては何も描かれていません。これも普通なら、「彼はイエスのことばに信頼して・・・」とか記しても不思議ではありませんが、イエスのことばに自動的に身体が反応したかのように、「すると彼は起き上がった」ばかりか、マルコが好んで使う「すぐに」ということばが付け加わり、「すぐに床を取り上げ・・・出て行った」と描かれます。

これは、イエスの三つの命令が、そのとおりにすぐに現実の行動を生み出したということを示しています。

そして、このことの結果が、「それでみなの者がすっかり驚いて、こういうことは、かつて見たことがないと言って神をあがめた(2:12)と描かれています。

「こういうことは、かって見たことがない」という表現は、イエスがただことばを発するだけで、そのことばの権威が、病をたちどころに癒したという不思議です。

昔から様々な奇跡的ないやしの話がありますが、多くの場合はそこに魔術的な手続きが伴っています。しかし、イエスの場合はこの人の身体にふれることもなく、また何かの不思議な薬を使うこともなく、ことばひとつで彼を癒されました。

それはすべて、「あなたの罪は赦された」というイエスのことばが、単なる気休めではなく、神から与えられた権威による基づく絶対的なものであることを示すためでした。

ルカではその前に、この中風だった人も、「神をあがめながら自分の家に帰って行った」と描かれています。とにかく、このイエスが住まいとしていた家に集まっていた人々は、みな一様に、このイエスのみわざに「心から驚嘆し」ながら、イエスをたたえる代わりに、「神をあがめたというのです。

その様子をマタイは、「群集はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた」(9:8)と描いていますが、人々は、神がこのような「権威を与えた」ということを見ていたのです。

それは、イエスが先に、この中風の人の癒しの目的を、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを・・知らせるため」と、「権威」について何よりも語っておられたからです。

つまり、イエスがことばひとつで病の人を癒すことができたという「権威」を見せることによって、彼らは、神がイエスに、特別な権威を授けておられるということを見たということなのです。

イエスは、罪を赦す権威をお持ちの方なのに、ご自分で人間すべての罪をその身に負って十字架にかかってくださいました。それは、罪の赦しが簡単なことではなく、どれだけ大きな犠牲が伴うかを私たちに示すためです。

しかも、イエスは、ご自分を十字架にかけたユダヤ人指導者のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。罪を赦す権威をお持ちの方が、ご自分の権威を否定する者のために祈ってくださったのです。

この現在の悲惨のただ中で、すべてを支配しておられるはずの神の権威に疑問を持つ方が多くおられることでしょう。しかし、神の御子イエスは、悲惨にあっておられる方々とともにいてくださいます。そして、そこに不思議な愛を生み出してくださいます。残念ながら、人間は、苦しみに会わない限り、恵みを理解できないというところがあります。電気のありがたさや水やガスのありがたさは、それを失って初めて見えてくるものです。

ただし、電気はなくても人は生きられます。しかし、神の赦しと、互いの赦し合いがなければ、誰も真の意味で生きることはできません。

神の御子イエスが与えてくださった「罪の赦し」こそ、すべての「希望」の源です。私たちは、罪を赦された者として互いを赦しあい、愛し合うことができます。悲惨の中でも、「」が生まれさえしたら、日本は変わります。

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2011年3月13日 (日)

イザヤ56-66章「新しい天と新しい地での礼拝を目指して」 

 イザヤ書の朗読を中心にメッセージしました。原文のリズムを生かした私訳ですが、文章としては公開できません。当教会のホームページから音声で聞いていただくことはできます。以下は、それぞれの箇所の朗読の間にお話した内容です.

                                                2011313

  日本の歴史上、最大級の地震が起きて、多くの方が苦しんでおられます。そして、世界中の多くの私たちの兄弟姉妹が、この日本のために祈っていてくださいます。フィリピンやシンガポールや香港、アメリカの兄弟姉妹から安否のお問い合わせと、何かできることはないかとの支援のお申し出を受けています。

私たちキリスト者は、不思議にも、問題が大きければ大きいほど、多くの犠牲を払ってでも、ともに集まり、ともにお祈りししようとします。実際、多くの方々が、自分は何をして差し上げることができるだろうかと、もどかしく思っているかもしれません。しかし、このような中で私たちキリスト者にできる最高の奉仕は祈りではないでしょうか。

私たちはこのような悲惨と不安の中でも、主を礼拝するために教会に集まってきます。そこには多くの時間と財の犠牲が伴います。この世の多くの人々は、これを途方もない無駄と考えています。実際、毎週礼拝に集っている人がわざわいに会ったり、また、問題行動を起こしたりすると、「礼拝に行くことが何の益にもなっていないのでは・・・」と多くの人々は言います。

しかし、礼拝は、幸福になるための手段ではありません。礼拝は手段ではなく、目的なのです。それは世界の完成とは、礼拝の完成だからです。もちろん、毎週、礼拝のために時間を聖別することを実践している方々の生活はいろんな意味で、安定していることは確かでしょう。しかし、それは副産物に過ぎません。私たちの幸せは、主との交わりのただ中にあるからです。主を礼拝すること自体が幸せなのです。

イエスはエルサレム神殿の中で商売をしている人たちを力づくで追い出され、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と言われましたが、それはイザヤ567節のみことばでした。イザヤ56章の初めには、当時のユダヤ人から人間として見られていなかった宦官や外国人が、エルサレム神殿でユダヤ人とともに礼拝にあずかるということが預言されていました。これは当時としては奇想天外なことでした。

今、私たち異邦人が神の民として受け入れられているのは、このイザヤの預言のおかげと言えましょう。561節から7節の朗読。

イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われましたが、その背後に571521節のみことばがあったと思われます。聖書が言う「悪者」とは、「自分には神など必要がない」と思いながら、肩で風を切って歩くような人を指します。しかも、皮肉にも、しばしば、この世で尊敬されるような人が、神の前では「悪者」である場合があります。

そして、悪者の特徴とは、主の前に静まることができないということです。私自身もかつては、静まることが苦手でしたが、このみことばに出会い、方向転換をすることができました。

 イザヤが活躍した時期は、エルサレムを中心としたユダ王国が繁栄を誇った直後の時代です。経済的な豊かさを背景に、礼拝儀式にお金をかけることができました。しかし、一方で、北からアッシリヤ帝国の脅威が迫り、政治も混乱し、国全体が閉塞感に満ちていました。まさに、現代の日本のような状況です。

そのような中で、多くの人々は自分の都合や利益ばかりを優先するような自己中心的な礼拝に熱心でした。断食をすることやいけにえをささげることが神との取引のような様相を呈していました。その傍らで、国力はどんどん失われ、国の衰弱は特に、貧しい人々をますます貧しくするように作用しました。

それに対して、主は、隣人へのあわれみの心が伴わない礼拝は、かえって神の怒りを買っているだけだと言いました。それは安息日の守り方にも現れていました。後にイエスの時代には、安息日に出歩くことをやめるようにというイザヤの預言が、窮屈な規則を作り出してしまいましたが、本来の趣旨は、神への愛と隣人愛は切り離せない関係にあるということです。

しかも、神への礼拝を口実に貧しい人々が虐げられるような状況では、神ご自身が助けの御手を差し延べることができなくなります。586節-593節の朗読をお聞きください。

多くの人々は、人間の側の悔い改めや信仰が神の祝福を生み出す原動力であると考えますが、人間が自分で悔い改められるぐらいなら、救い主がこの地に送られる必要はありませんでした。救いは徹底的に、神の主導権によるものです。5916節から602節をお聞きください。

その上で6018-21節には、主の救いが完成する様子が描かれています。黙示録の終わりに描かれる「新しいエルサレム」または「新しい天と新しい地」の情景は、このみことばをもとに記されています。しかも、興味深いのは、神が太陽や月を変えてくださるとき、人間の心も変えてくださると約束されていることです。

611-3節は、イエスがナザレの会堂での礼拝のときに読み上げたみことばです。イエスはこの前半部分を朗読された後、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたが聞いたとおりに実現しました」(ルカ4:21)と言われました。

イエスの様々な不思議なみわざは、基本的にこのイザヤの預言を成就させるという意味があったのです。イエスご自身がこのみことばを朗読している場面を思い浮かべながらお聞きください。

637節から17節では、主の恵み(ヘセド)による出エジプトの際の救いのみわざが振り返られます。ここには主の御霊の働きが美しく描かれています。そして、イスラエルの悲惨は、主の聖なる御霊を痛ませた結果であると描かれます。

そして、興味深いことに、イスラエルの民の不信仰は神ご自身に責任があるかのような訴えがなされた上で、主に「どうかお帰りください」という祈りで閉じられています。

648節は、主を私たちの陶器師として描きながら、主がご自身のみこころを変えてくださるようにと祈っています。パウロは651,2節を引用しながら、救いはすべて神の一方的な選びによるということを語っています。

6511節からは「主を捨てる者」に対するさばきと主を慕い求める者たちへの救いが描かれます。

特に6517節以降は、「新しい天と新しい地」の姿が感動的に描かれています。これこそ世界の歴史のゴールです。聖書の歴史は、「初めに、神が天と地を創造した」から始まって、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」ということばで完成を迎えるのです。

イザヤ6517-25節こそ、私たちの希望です。漠然と天国について思い巡らす代わりに、これらのみことばを思い巡らすことこそ、神のみこころです。

6612-14節には神の救いが母のイメージで描かれています。そして、6618節から24節は、世界中の人々が新しいエルサレムに主を礼拝するために集まってくる様子が描かれています。世界のゴールは主への礼拝が完成するときです。

ただし、そこでは同時に、主を礼拝することを拒絶する民へのさばきも警告されています。この書には主の一方的なあわれみによる救いと、主の救いを拒絶する者へのさばきが並行して記されています。

この会堂での礼拝が始まった二十年余り前と現在の間には、驚くべき変化が見られます。それは何よりも、インターネットの普及により、情報もお金も、一瞬のうちに世界を駆け巡るようになったことに現れています。ウィンドウス95が発売されたとき、それを、感動をもって迎えたものでした。しかし、今や、それは化石扱いです。今回の地震の深刻さを、少なくとも私は最初わかっていませんでした。私は時間に終われるように三千年前のことばと格闘していました。この深刻さを知らせてくれたのは香港福音自由教会からいただいたメールのお見舞いでした。日本での互いの安否を問い合うメールはその直後でした。

この礼拝メッセージを地球の裏側で聞いておられる方もいます。今から二十年後には、この教会の礼拝の様子を映像で見られるようになっていることは間違いないことでしょう。

しかし、それはあくまでも、どうしても礼拝に来られない人にとっての補助的な手段に過ぎません。イザヤの語るとおり、礼拝は、ありとあらゆるところから、様々な交通手段を用いて集まってくる場なのです。

私たちのこの会堂における礼拝が、新しいエルサレムでの礼拝を期待させるような感動に満ちた時間となるように、これからも互いに協力をし合いましょう。礼拝は人生を豊かにするための手段ではなく、人生の目的です。

そしてそこには、互いを思いやるという目に見える隣人愛が伴っている必要があります。自分の霊的満足だけを求めるような礼拝を、主は退けられます。主のみこころにかなった礼拝をこれからも求めさせていただきましょう。

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2011年3月 6日 (日)

マルコ1章21-45節 『この世に神の国をもたらす』

                                                 201136

  大学時代の友人が、「今になってみると、お前が輝いて見える・・・。お前が元勤めていた会社の勧めで買収したアメリカの子会社が倒産しそうだ。身辺を整理できたら、お前のところに教えを請いに行こうか・・」などと言っていました。残念なのは、教会はこの世のしがらみから自由になってから行くところと思われていると誤解されていることです。

しかし、プロテスタントの原点は、修道士であったマルティン・ルターが修道院を出てこの世の仕事に励む人々の仲間になったことから始まっています。真の意味で信仰を生かす場は、この教会の交わり以前にそれぞれが遣わされている職場や家庭なのです。私たちは礼拝の場から日々の生活の場へと遣わされるのです。

1.「イエスは・・・権威ある者のように教えられた」―神の国の福音―

「それから、一行はカペナウムに入った」(1:21)とは、イエスが先にご自身の弟子として召した四人の男たちを引き連れてガリラヤ湖の北西岸にある町に入ったということを描いたものです。カペナウムにはローマ軍の駐屯地があり、商業が栄えていました。そしてイエスはこの町をご自身の活動の拠点にされました。

当時のユダヤ人はみな、「神の国」の到来を待ち望んでいましたが、それはほとんどの人にとって、ローマ帝国から独立したダビデ王国の再興を意味しました。そして、そのためにはまず信仰復興が必要と思われていました。その観点からしたら、本来イエスはエルサレムを活動拠点とすべきと思われます。

しかし、イエスはエルサレムの宗教指導者たちと神学議論をする前に、この世の矛盾が渦巻いているただ中に生きている人々に神の国の福音をもたらそうとしたのです。

イエスの神の国の福音は、漁をしている最中に、まだ税金を集めているその場で、ローマの兵隊が目の前にいる矛盾のただ中で、生きるだけで精一杯になっている人々に向けて語られました。しかもイエスは、聖書教育を受けた人の代わりに、四人の漁師を最初の弟子としました。

日本の教会でもマーケット・プレイス・ミニストリーということばが受け入れられるようになっていますが、神の国の福音はこの世の生活のただ中でこそ味わうものでなければなりません。私たちの教会では毎月のバイブルクラスで、それぞれの方々の仕事の分かち合いをしてもらっています。それは、イエスの宣教が、エルサレムではなく、カペナウムから始まったということを前提としています。

「そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた」(1:21)とありますが、この会堂の遺跡は発掘され、現在も見ることができます。礼拝堂の中心部分は長さ20m幅10m程度であったかと思います。そこに何人の人々が集まったかはわかりませんが、百名に満たなかったと考えても間違ってはいないと思います。そこでイエスは福音を語られました。その際の反応が、「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(1:22)と記されています。

イエスのメッセージの例は、たとえばマタイの山上の説教などのようなところに書いてあります。イエスはたとえば、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」当時の一般的な解釈を覆すような大胆なことをご自分の権威で語られました。イエスのように語ることができるのは彼が神の御子であるからです。

現代の牧師も基本的に、当時の律法学者のように聖書の解説はできても、イエスのように語ることは許されてはいません。なぜなら、権威をもって大胆に語るのは、神からの直接啓示を受けた預言者か、偽預言者だからです。そして、その権威が本物か偽者かの区別は、その人の実際の行動によってしか判断できません。

今も昔も、口ばかりが達者で、やたら断言口調で語るのは偽預言者です。そして、イエスの権威が本物であることは、誰よりも、神に敵対する勢力がすぐに理解できました。そのことが、「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。』」(1:23、24)と描かれます。

悪霊はこの人の中に隠れ住んでいましたが、イエスを目の前に、自分を現し、この人の言語能力を用いて語りだしたのでしょう。悪霊はイエスがどのような方かを理解して、恐れ惑ったのです。

ただし、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」ということばは、悪霊がイエスを自分のことばで名づけるという誤った権威の行使を表しています。たとえば、自分の子供に名をつけるというのは親の権威であり、他の人には許されていません。しかし、悪霊は、父なる神の権威を侵害し、「神の聖者」というある意味であいまいな表現によって、イエスに対する解釈をそこにいる人々に印象づけたと言えましょう。

それに対して、「イエスは彼をしかって、『黙れ。この人から出て行け』と言われた」(1:25)とあるのは、イエスはご自分がどのような方であるかの説明を悪霊には決してさせず、ご自身を明かしする機会はご自分の権威で決めるというという意思を表したものです。悪霊はこの人への支配権を失ったとたんにことばを発することができなくなります。

そして、「すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」(1:26)とは、イエスが悪霊をさえ従える権威があるということが証明されたということを意味します。

それに対し、「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ』」(1:27)という反応が起こったというのは、イエスが権威をもって話されたことの、「権威」が本物であることが認められたことを意味します。ことばの権威は、行動の権威によって裏付けられるからです。

イエスは「神の国」、つまり、神のご支配をもたらす救い主として来られました。イエスが「汚れた霊」からこの人を解放したということは、この人が「サタンの国」から「神の国」に移されたことを意味します。それは人間ではなく、サタンよりも権威のある方によって始めて可能になります。

たとえば、当時のガリラヤ地方の支配者はヘロデ・アンテパスというヘロデ大王の息子でした。このカペナウムも彼の支配地域でしたが、彼はローマ皇帝から許された範囲でしか支配権を行使できませんでした。ユダヤ人はヘロデの命令どおりに動く必要がありましたが、もし彼がローマ皇帝からその横暴な支配に関して叱責を受けたらパニックに陥ったことでしょう。

イエスがこの男を悪霊の支配から解放したということは、イエスの権威が当時のローマ皇帝と同じように、その地の目に見える支配者に勝ることを証明したことになります。イエスは悪霊に支配されていた人を解放し、神の国に入れてくださったのです。

  そして、「こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった」(1:28)と描かれているのは、このようにイエスの権威が人間的なものではないということが知れ渡ったということを意味します。

2.「イエスは・・・福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」-神の国の実現―

 「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られた」(1:29)とありますが、現在、カペナウムのシナゴーグに近いところに、ペテロの家と思われるところが発掘されています。

安息日の礼拝の後の午後は家族がともにゆっくりと前日に用意してあった食事を食べ、静かに過ごすというのが当時のパターンでした。しかし、そこに行ってみると、安息日の平和をともに楽しむはずの家庭が、「シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていた」(1:30)という混乱状態にありました。

その中で、「イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされ」ますが、「すると」、不思議にも、「熱がひいた」ばかりか、「彼女は彼らをもてなした」というのです(1:31)。これは病み上がりですぐ働かなければならなかったというような意味ではありません。彼女は家の女性たちのリーダーでしたから、客を迎えて何もできないということは恥ずべきことであり、彼女がもてなしの主導権を持つことができることは特権に満ちた喜びでした

これはペテロの家に安息日の平和が実現したことを意味します。

 「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た」(1:32)とは、日没とともに安息日が終わったので人を運ぶとか人を癒すという労働行為が自由にできるようになったという意味です。

すると、「町中の者が戸口に集まって来た」のですが、「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである」(1:33、34)という劇的な変化が起きました。

これは、ヘロデ・アンテパスがローマ皇帝の権威を肌で実感しているのと同じように、悪霊がイエスの権威を認めざるを得なくなったという意味です。

  イエスは夜遅くまで、人々の必要に答えておられ、どのくらいお休みになることができたかもわかりませんでしたが、翌朝のことが、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1:35)と記されています。

この世では、自分で判断し自分の力で行動できる人が尊敬されますが、イエスは父なる神との交わりなしには何もできないかのように、祈りの時間を大切にしておられました。私たちも忙しければ忙しいほど、祈りの時間を大切にする必要があります。

そのような中で、「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った」(1:36、37)と記されています。ペテロはまだイエスにとってどれだけ祈りの時間が大切であったのかがわかっていなかったのかもしれません。

 ところが、イエスは弟子たちに、「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」(1:38)と言われます。イエスはまさに睡眠時間を削ることによって祈りの時間を確保しながら、より多くの人々の必要に答えようとしていたのです。

そして、その様子が、「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」(1:39)と記されます。

これはイエスが神の御子としての権威によって神のみこころを知らせ、人々をサタンの支配から解放し、神の国の中に招き入れられたことを意味します。イエスの働きで悪霊追い出しが強調されているのは、それこそが、神のご支配が広がりをあらわすことだからです。

マタイ12章28節で、イエスは、「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と語っておられます。つまり、悪霊を追い出すことは神の国の実現を何よりも証しすることだったのです。

「神の国」とは、「主(ヤハウェ)こそが王なる支配者である」ということが認められている領域です。サタンとその手下の悪霊はこの神のご支配に反抗する勢力で、私たちの心をまことの神から引き離そうとします。

彼らの働きの目的は、災いをもたらしたり、心を錯乱させるという以前に、神を礼拝したり神に向かって祈ることをやめさせることにあります。わざわいに会いながら、その中で必死に神に向かって祈るとき、そこでサタンは敗北をし、神の国は実現しています

しかし、「神様に祈っても何の意味もなかった・・・礼拝に行くのは時間の無駄だった・・・」などと思うとき、その横でサタンは自分の勝利を喜んでいます。

3.「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、かれにさわって」-神の国の民とされるー

  1章40節では、「ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て」と記されますが、「ツァラアト」とはどのような病かは明らかではありません。ギリシャ語原文は「レプロス」と記されており、それを「らい病」と訳すことは可能ですが、一方でこれはレビ記13,14章の病を指しており、そこには「らい病」とは明らかに異なった症状が見られるので、ギリシャ語の訳ではなくヘブル語そのままを新改訳第三版では音訳します。

詳しくは拙著「主があなたがたを恋い慕って」のレビ記13,14章の解説をお読みください。少なくともその解説は、長らく「らい病」と呼ばれてきた病の方に深く関わって来られた牧師も評価してくださいました。

この病の悲しみは何よりも、社会から厳しく隔離されことでした。それで、施しを受けるため人に近づく際にも、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない」(レビ13:45)と命じられていたほどです。

  ところが、ここでその病に冒されている人が、自分を「汚れている」と呼びながらイエスに近づく代わりに、イエスの前にひざまずきながら、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と語ったというのです。ここにこの人の驚くべき信仰が見られます。

それに対し、イエスは、「深くあわれみ」(1:41)ます。これは、「人の痛みに共感してはらわたを震わす」という意味のことばで、しばしば、イエスのこのお気持ちが奇跡的なみわざの前に記されています

イエスの同情には目の前のことを変える力があります。そればかりか、イエスは「手をのばして、彼にさわった」というのですが、これは、当時の宗教指導者にとってのタブーでした。なぜなら、汚れた者に触れるものは自分自身も汚れてしまい、本来の宗教活動ができなくなるからです。しかし、イエスがこの人に直接さわったということは、イエスはこの人をすでにきよくされた人として見たということを意味します。

イエスはその上で、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、「すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった」(1:42)という驚くべきことが記されています。ここでは、このツァラアトの人は、「あなたが望んでくださるなら・・」と言い、イエスは、「わたしは望む」と応答されたのです。つまり、イエスの意志ひとつで、絶対的な隔離を必要とする不治の伝染病でさえも、たちどころに癒されるというのです。

そして、この病の癒しは何よりも、この人が、社会の中に戻ってくることができることを意味しました。人はすべて、関係の中に生きるように創造されています。隔離を命じられるということは、本来の人間として見られないという恐ろしいことでした。しかし、イエスはこの人の人間性を回復してくださったのです。

  ところで、「そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい』」(1:43、44)という記述は、イエスがこの人にレビ記の規定に従って静かに社会復帰の手続きを踏むようにという勧めです。

イエスはこの人をご自分の広告塔にしようとも思いませんでしたし、この人が昔の病から完全に自由にされて、日常生活に戻ることができることを願っておられました。

このレビ記の規定には、この重い皮膚病のような病が誤診であった場合や、癒される可能性を前提に、社会復帰の手続きが記されています。これをよく読むと、今から三千数百年前にこれほど配慮に満ちた規定が記されていることに感動を覚えざるを得ません。

なお、そこではその病が癒されたしるしとしてのきよめの儀式として、全身に水を浴びるということがありました。これは現在のバプテスマに結びつくものでもあります。バプテスマというのは、神の家族、神の民として受け入れられるという意味があります。旧約聖書の規定に従えば、異邦人であることは、このツァラアトに冒された人と同じように神の民の外にいた存在です。今から三千年前の時代には、日本人であることは、ツァラアトに冒されているよりもさらに望みのない状態であったのです。

ところが、その後の彼の行動が、「彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た」(1:45)と記されます。

この人はまさに喜びに満ちた善意で、イエスのみわざを宣伝したことでしょう。しかし、それによって、イエスのことを興味本位で見たいという人々が増えてしまい、本当にイエスの救いを求める人が、イエスに近づくことができなくなりました

そればかりか、当時の人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれるような独立運動の指導者を求めていました。イエスのまわりに多くの群衆が集まれば集まるほど、イエスがそのような指導者として誤解されることになります。

私たちも、しばしば、善意に満ちすぎて、人の気持ちに無頓着になり、自分の行動の影響を見誤ってしまい、人の心を傷つけてしまうことがあります。

  イエスの働きの目的は、人々を神の国に招きいれることでした。ひとりでも多くの人が、真心からイエスの父なる神を自分の人生の主と認めるようになって、彼らが神を真心から礼拝するようになることでした。多くの人々が誤解していますが、いわゆる天国とは、安楽に満ちた場所というよりは、神の御顔を直接に仰ぎ見て、神を喜び、神を賛美するところです。それは礼拝が完成するところです。

このツァラアトに冒されていた人がイエスによって与えられた最も大きな救いとは、神の民に再び受け入れられるということだったのです。しかし、この人は、礼拝の民として静かに復帰できるための聖書の規定のプロセスを無視してしまいました。

世の人々は身体の癒しとか、豊かになることとかの目に見える救いを求めますが、身体が癒され、豊かな食事にありつけたところで、人は必ず死を迎えなければなりません。この世で豊かに暮らせても、終わりの日に神のさばきを受けてしまっては、すべては無意味なのです。本当の救いとは、神の民とされ、神を礼拝する者に変えられることにあります。

  多くの人々は、悪霊を追い出すことや絶望的な病のいやしという超自然的な現象に憧れますが、それらはすべて「神の国」が広げられるということの手段やしるしに過ぎません。救いのゴールとは神の国の完成です。この地においては、私たちは神の国を不完全にしか見ることができません。

私たちはいつも目の前の問題の解決を望みますが、この世においてはひとつの問題の解決は必ず新しい問題の芽生えでもあります。ただそれでも私たちは神ご自身が神の国を完成に導いてくださることを信じて、一歩一歩、神から与えられた生活を生きてゆくのです。

その際、この世界を神の視点から見ることができるように、常に心の方向性を変える必要があります。礼拝の場は、私たちが神の視点からこの世の生活を見ることができるようになるためにあります。

超自然的なことに憧れるよりも、この地の矛盾と問題と争いに満ちた生活を、イエスの視点から見るように心がけ、この世に愛が枯れているように見えても、枯れ木と思える中に春の花のつぼみを見るようなあたたかい眼差しを持たせていただきましょう。

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