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2011年6月26日 (日)

ダニエル8章 「権力者の脅しは長く続きはしない」

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 この世の多くの人々は、イエスが、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われたことばを知っています。しかし、それがしばしば、「泣き寝入り」の勧めかのように誤解されていないでしょうか。

8年ほど前にシンガポール日本語教会で奉仕させていただいたとき、他の人から不当な虐げを受けたとき、その人を愛するように勤める前に、たとえば、「神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、不真実な民の言い分を退けてください」(詩篇43:1私訳)というように祈ることをお勧めしましたが、今回、何人もの方から、そのことを改めて感謝されました。

なぜなら、不当な苦しみに会いながら、恨みを抱いてはいけないと自分に言い聞かせ、愛のない自分を責め、心が病んでしまうような方々が非常に多いからです。しかし、神のさばきを訴え、それを信じることができるようになるとき、私たちは自分で復讐する必要も、恨みを抱く必要もなくなります

イエスの時代のユダヤ人にとってのヒーローとは、ギリシャ帝国からの独立運動の指導者のユダ・マカベオスです(BC164年の神殿のきよめ)。賛美歌130番「喜べや」は、ハイドンが彼を主人公の書いたオラトリオの中心的な歌であり、ドイツで最も愛されている賛美歌のひとつです。そして、ユダが戦った敵であったギリシャ人の王アンティオコス・エピファネスを示唆する記事がこのダニエル8章にあることから、イエスの時代の多くの人々は聖書の預言が文字通り成就したこととしてこの書を愛読していました。

そして、当時のユダヤ人が待ち望んでいた救い主とは、ローマ帝国からの独立運動をユダと同じように導いてくれる軍事的な指導者でした。しかし、そのような期待は、ここから本当に導き出せるのでしょうか。

この中心は、「権力者の脅しは長く続きはしない」こと、神が遅くなりすぎないうちに、横暴な権力者をさばいてくださるから、自分で剣を取る必要はないということでないないでしょうか。

1.「この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったとき、あの大きな角が折れた」

「ベルシャツァル王の治世の第三年」(8:1)とは、5章にあったバビロン帝国最後の支配者の治世で、紀元前550年頃のことと思われます。このとき東のペルシャ帝国の王クロスが北のメディアを統合して、弱体化しつつあったバビロン帝国を呑み込もうとしていました(BC538年バビロン滅亡)。

そして、ダニエルに一つの幻が現れた場所は、ペルシャ帝国の発祥の地、「エラム州にあるシュシャンの城」で、その町は「ウライ川」からの運河を外堀として建てられていました。そのような中で、ダニエルに現された「幻」のことがまず、何の解釈もなく述べられます。

7章では、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマという四つの帝国の興亡を示唆することが預言され、その四つ目の「鉄のきばを持つ」帝国の時代に、聖徒たちを打ち負かす強大な王が現れるが、「ひと時とふた時と半時の間」の後、神のさばきが行われ、永遠の神の国が実現すると預言されていました。

ですから、ダニエルには既に、神の国の完成にいたる全体像と人の子のような」救い主の現われのことが知らされていました。それを前提とした上で、それに至るプロセスのことがより詳細に示されるのがこの「幻」の意味であることを忘れてはなりません。

「私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。

私はその雄羊が、西や、北や、南のほうへ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまって、高ぶっていた」(8:3,4)とありますが、これは20節にあるようにメディヤ・ペルシャ連合帝国のことを指します。

この国はユダヤ人のエルサレム帰還を助けた良い国と見られていますが、ここでは「思いのままふるまって、高ぶっていた」ということが強調されています。

 そして、続けて、「私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。

この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、これに走り寄った」(8:5,6)とありますが、これは21節にあるように「ギリシャの王」、具体的には13年間でギリシャからエジプト、インド北西部まで支配をしたアレキサンダー大王を指します(BC336-323)。ここでは彼の攻撃のスピードが強調されて描かれています。

そして、それに続けて、「見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった」(8:6、7)と記されますが、これはペルシャ帝国があまりにもあっけなくアレキサンダー大王に打ち負かされる様子を預言したものと言えましょう。

ペルシャ帝国は紀元前559年のクロス王の即位から紀元前330年の滅亡まで二百年余りにもおよぶ繁栄を謳歌しましたが、その末期は内部の腐敗が進行していました。まさに、「思いのままふるまって、高ぶって」、自滅寸前だったと言えましょう。

これを滅びしたアレキサンダー大王は、史上最高の哲学者アリストテレスを個人教授にできた神の選びの器でした。彼のゆえにギリシャ語が世界の共通語になりましたが、たった33歳で病に倒れ急逝します。

これは「この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったとき、あの大きな角が折れたと記されている通りです(8:8)。残念ながら人はみなあまりにも短期間に成功を収めると、自滅してしまうものです。彼の世界制覇への夢は尽きず、インドを短期間に支配しようとしてあまりにも無理をして病に倒れました。

箴言では、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(16:18)と記されていますが、どの王国も、高慢によって自滅への道を歩んでしまうものです。

2.「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す」

アレキサンダー大王の死後、この巨大な帝国は四つの国に分かれますが、そのことがここでは、「その代わりに、天の四方に向かって、著しく目立つ四本の角が生えた」(8:8)と描かれます。特に、旧ペルシャ領を支配したセレウコス朝シリヤとエジプトを支配したプトレマイオス朝がイスラエルの支配権をめぐって争うようになります。

その中で、紀元前200年前後に現れたアンティオコス三世がエジプトを打ち破りますが、新興国のローマ共和国との戦いに敗れて急速に衰退に向かいます。

その後、彼の二番目の息子のアンティオコス4世(エピファネス)は、エジプトを圧倒し国力を回復した後に、イスラエルのギリシャ化を押し進めようとして、エルサレム神殿の中にはゼウス・オリンポスの巨大な像が置かれ、祭壇には汚れた動物の代名詞ともいえる豚のいけにを捧げるように強要します。

その様子が驚くほど生々しく、「そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、軍勢の長にまでのし上がった。

それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた」(8:9-12)と描かれます。

紀元前6世紀に生きたダニエルがその約四百年後に起こることをこれほど詳しく知らされるのは、何とも不思議ですが、紀元前700年頃の預言者イザヤも150年後のペルシャ王クロスの出現を預言しています。多くの歴史学者はそのようなことは不可能と見ますが、私たちはこのような預言があったからこそイスラエルの民は諸外国の神々の方が力あるように見える中で、主(ヤハウェ)への信仰を全うすることができたと言えましょう。

イエスとほぼ同時代の歴史家ヨセフスも、ユダヤ古代誌で、「神殿の荒廃は、480年前?に、ダニエルが預言したとおりにおきた。というのは、彼は、マケドニア(ギリシャ)人がこの神殿を破壊するであろうと言っていたからである」と記録しています。

つまり、少なくともイエスの同時代の人々は、自分たちの歴史をダニエルの預言の成就と見ていたのです。

そして、ダニエルは御使いどうしの会話を聞きます。そこで、「もうひとりの聖なる者」が、「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう」と尋ねたという設定の中で、「ひとりの聖なる者」が、御使いではなく、「私」(脚注)と呼ぶダニエルに向かって秘密を解き明かすように、「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す」と言います(8:13,14)。

 ダニエルは、「この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願って」いました(8:15)。彼を悩ませたのは、救い主が現れる四つ目の帝国の前に、なお、神殿を汚す横暴な王が現れるという預言でした。彼がこの幻を見たときには、エルサレム神殿はすでに廃墟とされていましたが、その神殿の復興の見通しを告げられる前に、神殿が汚されるという幻を見せられるというのは何とも不思議です。

しかし、14節にあったように、「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」という限定的な苦しみの後に、「聖所はその権利を取り戻す」という神殿の完成の希望が告げられます。

これは、7章25節の「ひと時とふた時と半時の間」という表現と同様に、神に敵対する勢力の支配は長く続きはしないことを現しています。「二千三百の夕と朝」とは二千三百日という六年あまりのときを指すのか、「夕と朝」を別々に数えて1150日、つまり「三年間あまり」を指すのか、二通りの解釈がありますが、それは重要ではありません(後者の方が史実に合うが文法的には困難)。

注目すべきは、「常供のささげ物や・・・聖所・・が踏みにじられるという幻はいつまでのことだろう」という問いかけに対する答えが明確な数字として記されていることです。これは、聖書で繰り返し、聖徒が受ける激しい苦難の時期はごく短期間に過ぎないと言われていることに対応します。

イエスも最後の晩餐で弟子たちに、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言われましたが、それは私たちが患難に会うということが、決して意外なことや、因果応報によるものではなく、神の御許しの範囲内の中でのみ起こり得るということと、その苦難は決して長く耐えられないようなものではなく、キリストにあって勝利が約束されたものであるという意味です。

3. 「彼自身の力によるのではない・・・人手によらずに、彼は砕かれる」

そこで神が御使いガブリエルに向かって、「この人に、その幻を悟らせよ」と呼びかけます(8:16)。ガブリエルは、ダニエルに向かって、「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである」(8:18)と言います。

彼はそのとき、「意識を失って、地に倒れ」ますが、ガブリエルは彼を「立ち上がらせ」、「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ」と言います(8:17、18)。これは、神がこの世の傲慢な支配者に最終的なさばきを下すということで、神の民にとっては救いの完成を意味します。

そして、アンティオコス・エピファネスの登場のことより詳細に、「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす」(8:23、24)と描かれます。

先に述べたようにアンティオコス三世は王国の勢力を復興しましたが、最後に当時のローマ共和国との戦いに敗れます。そのため、次男のアンティオコスは27歳でローマに人質に送られます。彼の兄が王位を受け継いだとき、その兄の息子が身代わりにローマへの人質になり、彼は国に戻ることができます。しかし、兄が家来によって暗殺されたことによって、期せずして彼が後継者になる可能性が生まれました。

彼は権謀術数を図って、実権を握り、兄の息子を殺して40歳で王になります。その後、彼はエジプトとの戦いに決定的な勝利を収めますが、ローマ共和国の介入に譲歩せざるを得なくなります。

その間に、ユダヤでの独立運動が起こり、彼は紀元前167年にエルサレムを急襲し、三日間で4万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷にします。そして、エルサレム神殿をゼウス・オリンポスの神殿に作り変え、安息日を守っていた人々を虐殺しました。これは、まさにダニエルに示された「幻」の通りのできごとでした。

ただし、これは、彼一人のことを預言したこととばかりとは言えません。なぜなら、歴史上、政治権力の衰退期にはこのような狡猾な王が現れて、残虐の限りを尽くすということがたびたびあるからです。たとえば、紀元64年にローマの大火の責任をクリスチャンたちに負わせペテロやパウロを殺害した皇帝ネロの場合も同じです。

「彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる」(8:25)とあるように、横柄で狡猾な」人が絶対権力を握ると、自分が神であるかのように振舞います。アンティオコス四世は自分を「エピファネス」と呼ばせましたが、これは神の顕現を意味することばで、彼は自分をまさに現人神と見させたのです。

彼が一時的にこれほど横暴な振る舞いをすることができたのは、「彼自身の力によるのではない」とあったように、天の神が一時的に許したからに他ならないのですが、彼はその神の神殿に平気で立ち入り、多くの宝物を奪い去りました。

しかし、「人手によらずに、彼は砕かれる」(8:25)とあるように、彼は突然の病に倒れ52歳のとき、あっけなく息を引き取ります。ただ、その直前に、ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人がエルサレム神殿をアンティオコスの軍隊から解放し、神殿を本来の姿に戻すことに成功しています。結局、エルサレム神殿がゼウスの神殿とされ、徹底的に汚されていたのは、たった3年間のことに過ぎませんでした。

そして、「先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから」(8:25)と閉じられます。つまり、この幻の中心は、先の、「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」とあるように、神に敵対する権力の横暴が続くのがごく限られた期間であることをさしています。

そして、不思議にこの章は、「私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである」(8:26)で閉じられます。

ダニエルは将来の神殿復興の希望どころか、その先の荒廃のことまでを知らされ、心が乱れ、病気になりましたが、その後、起き上がって、バビロン帝国の王に仕える事務の働きを誠実にこなしたという記事で終わります。

このダニエル8章が、ユダ・マカベオスに導かれた独立運動のときにどのように読まれていたかは明確ではありませんが、それにしても、神の最終的なさばきを語っていることから、彼らの独立運動を励ます方向に働いたことは間違いがないでしょう。

しかし、この箇所の中心は、あくまでも、神に敵対する勢力が力を持って復興された神殿を汚すことがあっても、それは「二千三百の夕と朝が過ぎるまで」という限定的な期間に過ぎず、「横柄で狡猾な王」の支配は、「人手によらずに・・砕かれる」ということです。

簡単に言えば、ユダ・マカベオスが立ち上がらなくても、彼は自滅していたということです。歴史に、「もしも」ということはありえませんが、もしもユダヤ人がこのダニエル書の預言の意味を別の形で理解して、武力によらずに抵抗していたとしたら、その後の展開はまったく違っていた可能性もあるのではないでしょうか。

しかし、ユダヤ人は、後に、ユダ・マカベオスのような救世主を持ち望んで、ローマ帝国に無謀な戦いをしかけ、二千年間近くにもわたって約束の地に住むことができなくなったのです。

 

 確かに、このダニエル8章には、ペルシャ帝国の勃興と滅亡、アレキサンダー大王によるギリシャ帝国の劇的な拡大と、その後の四国への分裂と、その後の、神に逆らう横暴な王の出現のことが描かれていることは確かでしょう。しかし、その王は、「人手によらず・・砕かれる」(25)と預言されています。

これは、ユダ・マカベオスによる軍事的な勝利ではなく、傲慢な王に対して神のさばきが下されることを語ったものです。実際、アンティオコス・エピファネスはユダ・マカベオスに打たれたのではなく、神によって打たれ、病気になって死んだのです。ユダの勇気は優れたものでしたが、軍事的な勝利は彼の功績以前に、神ご自身による直接的な介入によるものでした。

パウロは後に、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち、自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:18,19)と命じています。「神の怒りに任せる」とは、自分に向かって「怒ってはならない」と責めるのではなく、自分の怒りの感情を神に訴え、神のさばきを願うことです。

ユダ・マカベオスは確かに、圧倒的な敵に対しての劇的な勝利を勝ち取って、約三年間にわたって汚されていた神殿をきよめることができました。そしてそれを記念して毎年のユダヤ暦で1225日に相当する日に光をテーマとしたハヌカ(宮清め)の祭りが行われるようになります(ヨハネ10:22)

クリスチャンがその祭りをイエスの降誕日に意味を変えたと言われます。それは戦いの指導者の祝勝から平和の君の誕生を祝うという意味への変化です。

しかし、しばしば見落とされますが、紀元前164年のユダ・マカベオスの勝利は一時的なもので、彼は三年後にアンティオコスの後継者の軍隊によって殺されます。彼は死の直前に、ギリシャ人の帝国への対抗策として、当時、地中海世界に支配を広げていたローマ共和国と同盟を結びます。

そして、宮きよめから20年たって戦いの連続の後に、ようやく独立王朝ができますが、その後は、王権をめぐって兄弟どうしが殺しあうような事態が続き、紀元前63年には権力闘争に負けた王自身がローマ軍を招き入れ、ユダヤはローマ帝国の属国になります。

つまり、ユダ・マカベオスが導いた独立王朝は、権力に飢えた後継者たちによって自滅してしまったのです。

イエスはそのような権力闘争の空しさを思いながら、「剣を取る者はみな剣で滅びます(マタイ26:52)と言われたのです。そして、ダニエルの預言の核心は、聖所を汚すような傲慢な王が出てきても、「二千三百の夕と朝が過ぎる」のを待つとき、「そのとき聖所はその権利を取り戻す」という明確なご計画があるということと、「聖徒の民を滅ぼす」ような横暴な王も「人手によらずに・・砕かれる」という、神のさばきの確かさを告げることにありました。

もとよりダニエルは、エルサレムを滅ぼしたネブカデネザルに誠実に仕え、その後のペルシャの王にまで誠実に仕え続けた人間で、自分の神への忠誠のためにライオンの穴に投げ込まれる危険は犯しても、権力者に力で対抗しようなどという思いのかけらもなかった人です。そのダニエルが書いた書を、戦いの正当化のために用いるなどということがあってよいわけはありません。

イエスの時代はダニエル書が誤って読まれていました。しかし、イエスこそは、この書の真の意味を復興し、ご自身の十字架と復活でダニエルの預言を成就された救い主なのです。

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2011年6月12日 (日)

マルコ4章1-34節 「百倍の実を結ぶ神のみことば」

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誰かの講演を聞いたとき、「先生のお話はとってもわかりやすく、実生活に役立つものでした」というのは、最高の賛辞になります。しかし、聖書のお話しでそれを望むことは、ときに、邪道に陥ります。なぜなら、イエスはときに、敢えて、簡単に理解されることがないことばを話されたからです。しかし、それは不思議に、心に残ることばでした。

ヨハネの福音書の冒頭には、「初めに、ことばがあった・・・すべてのものは、この方によって造られた・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:1,3,14)と記されています。神は、「ことば」によって世界を創造し、「ことば」によって世界を贖い、「ことば」によって世界を完成に導いておられます

ある意味で、聖書のことばはわかりにくくて当然とも言えます。わかりやすく訳そうとしすぎることは、神の言葉を人間のことばに変えてしまうことになりかねません。今はわからなくても、何とも言えず、心に残るみことばがあります。そのみことばは世界を創造した神のみことばの一部です。そして、それがあるとき、心の底に落ちて、あなたを再創造することができるのです。

  私はメッセージのたびに、「この感動をわかってほしい!」という思いが先行しがちだったかと反省しています。しかし、そのようになればなるほど、みことばの権威が隠されてしまう可能性があるかもしれないとも思いました。

ある先生がメッセージの最初に、「眠い人はどうぞお休みください。しかし、人のじゃまにならないように、いびきはお控えください・・・」と言っていました。そこに隠された深い意味が、今、改めてわかった気がしています。

今日はペンテコステですが、聖霊の働きは人間的なはからいを超えたところで、みことば自体を通して見られるからです。 

1.「心をかたくなにするメッセージ

 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた」とは、イエスご自身がより多くの会衆にご自身のことばを伝える工夫をされたことを示しますが、不思議にも、同時に、「イエスはたとえによって多くのことを教えられた」と記されています(4:1、2)。

これは、イエスが、敢えて聴衆がすぐには理解できない話をされたという意味です。特に、この種まきのたとえは、日常的なことばが用いられ心に残り易いのですが、解釈は極めて困難です。

 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。そしてイエスは言われた。『聞く耳のある者は聞きなさい。』」(4:3-9)。

 イエスは話の最初と最後で、「聞きなさい」ということばを強調しておられます。これを聞いた人々は、イエスがなぜ、このようなたとえを用いて話されたかの意図はわかりませんでしたが、それは忘れられないような強い印象を残したのではないでしょうか。

せっかく種が蒔かれたのに、「道ばた」「岩地」「いばらの中」に落ちた種は無駄になってしまいました。それは何とも言えない失望感を残すたとえです。しかし、「良い地」に落ちた種にはダイナミックな希望が生まれ、それが、「三十倍、六十倍、百倍」の実を結んだというクライマックスを生む表現で記されます。

このようなたとえは、神が、しばしば、夢や詩文を通して語られたことに似ているかもしれません。

そしてこの後のことが、「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた」と記され、それに対するイエスの答えが、「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です」と記されています(4:10-12)。

この引用は、イザヤ6910節の要約です。それは、「心をかたくなにするメッセージ」と呼ばれています。ただ、その前に、預言者イザヤはセラフィムの賛美とともに神の栄光を拝し、燃え盛る炭によってくちびるがきよめられ、罪を贖っていただいた様子が描かれています。その上で、主が、「誰を遣わそう。誰がわれわれのために行くだろう」と言っておられる声を聞いて、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答しますが(6:8)、その上で託されたメッセージは奇想天外なものでした。

それは、「聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな」(6:9)という矛盾に満ちたものです。それによって、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。

つまり、敢えて、理解されることがないように語れというのです。しかも、その目的は、彼らが「自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないため」だというのです。つまり、彼らが、「私は洞察力が鋭いから、自分の力で悟った!」などと自分を誇ることがない状態を作り出すことです。

この不思議なみことばは、四つの福音書すべて、また使徒の働きとローマ人への手紙の二箇所で引用されているほどで、イエスやパウロによって語られた福音が実を結ぶことのなかった理由の説明に用いられています。それによって「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ローマ11:5)によるということが明らかにされます。

宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。イザヤの働きが、その時代には何の理解も得られず、その労苦は実を結ばなかったのは、まさに主のみこころだったのです。

イザヤの預言の意味が理解されるようになったのは、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を体験した後のことでした。ただ、彼はその前にマナセ王に殺されました。またイエスの弟子ペテロが、神の国の福音を真に理解できたのは、イエスを三度知らないと否認するという挫折体験の後でした。

残念ながら、人は、自分の無力さや罪深さを思い知らされるまで、福音を「心で」理解することができない傾向があります。私たちも、みことばを学び、またそれを伝えながら、何の変化も見えなくて空しくなることがあります。しかし、それは、みことばが無力なのではありません。イエスのみことばは、分かり易く、心に残り易いのですが、時が来なければ心の底に落ちないのです。

たとえば、イエスは、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」と不思議なことを言われましたが、どう考えても、「心()が貧しい」ことや「悲しむ」ことを「幸い」と言うのは言葉の矛盾です。これは簡単に納得してはいけないことばです。しかし、ふと、自分の心の貧しさに打ちひしがれたり、圧倒的な悲しみに直面したとき、この逆説に込められたイエスの愛と慰めが迫ってくることがあります。

しかし、本当に落ち込んでいるときには聖書を開く気にもならないということがありますので、普通の状態のときにみことばを蓄えて置く必要があるのです。

2.「みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」

しかし、イエスは弟子たちを責めるかのように、「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう」(4:13)と言います。イエスはある意味で、弟子たちがまだそれを理解できなくても当然と思える状態の中で、彼らが必死に理解しようと心を集中するようにと、注意を喚起するような言い方をします。イエスのひとつひとつのことばには眠った心を目覚めさせるような言い回し(レトリック)が満ちています。

まずイエスは、このたとえの中心が神のことばにあることを、「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(4:14)と言います。実は、旧約聖書に一貫して流れるテーマは、神からすばらしい「教え(律法)を与えられ、それを守れば幸せになれるはずだったのに、それができなかったということです。その理由が、ここで三つの観点から描かれます。

第一は、空の鳥が種を食べるように、サタンが人の心に蒔かれたみことばの種を持ち去ったということです。これは、アダムとエバの最初の堕落が代表例です。今も、新興宗教は、聖書のみことばを、文脈を無視して、数多く乱用して信用を失わせながら、「蒔かれたみことばを持ち去ってしまう(4:15)ことを続けています。

第二は、岩の上にまかれた種のように、すぐに芽を出しますが、根をはることができないで、試練がくるとすぐに枯れてしまうということです。事実、イスラエルの民は最初に律法を受けたとき、「主の仰せられたことは、みな行ないます」(出エジ24:1)と、「すぐに喜んで受け(4:17)ましたが、驚くべきことに、そのように約束した直後、金の子牛を作って拝み、また、カナン人の強さを知ってエジプトに帰りたいと言い出してしまいました。今も、涙を流してみことばに感動したはずの人が、いつのまにか「つまずいて」(4:17)、消えているということがあります。

第三は、いばらの中に落ちた種のように、その成長が押しふさがれてしまうということです。イスラエルの民は、約束の地で豊かになったとたん、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで」、神の恵みを忘れてしまいました。モーセはそれに対し、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」(申命記8:17,18)と警告していました。

それは、現代的な危険でもあります。何か問題が起きても、すべてハウ・ツーで解決しようとばかりしてしまい、主にすがり、主のみことばに聞くということを忘れてしまいがちではないでしょうか。なお、「みことばをふさぐので、実を結びません」(4:19)とは、「みことばを窒息させ、生み出せなくなる」とも訳せる言葉です。残念ながら、外面的には敬虔な信仰者に見えても、内面では、霊的ないのちが窒息しているということがあります。

このたとえは、しばしば、みことばを聞く人間の姿勢を正すために用いられますが、そのような勧めばかりが先行すると、このたとえの本質を見失います。そればかりか、みことばの力よりも、自分の信仰の姿勢ばかりに目を向けると言うナルシズムに陥りかねません。

たとえば、「あなたの心は、道ばただ、岩地だ、いばらで満ちている」などと責めても、どうして、自分の心の土地の改良を自分で行うことができるでしょう。岩地は岩地でしかあり得ないのです。それを責めるなら、かえって、人を自己嫌悪に追い込むだけではないでしょうか。

これは何よりも、イスラエルの歴史を振り返えるためのたとえではないでしょうか。そのようにみことばを受けながらも堕落をして行く民を見られた神は、預言者イザヤを通して、雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させる(イザヤ55:10、11)と、みことば自身が歴史を動かしているという驚くべきことを言いました。

そして、そのようにして神は、「まことに・・・山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える・・」(イザヤ55,12,13)という新しい世界をご自身のみことばが造り出すと約束されました。

そのことを思い浮かべながら、ここで、イエスは、今、ご自身の弟子たちによって、新しい時代、みことばが豊かな実を結ぶことができる時代が到来しつつあることを、「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」(4:20)と言ったのではないでしょうか。そしてイエスは、ご自身こそ、それをもたらすことができる救い主だと宣言されたのです。

ですから、「良い地」(8:15)とは、キリストに結びついている弟子たちのことを指しているのです。肉のイスラエルができなかったことを、彼らはできるようになり、神の民が全世界に増え広がりました。イエスが遣わされた聖霊は、彼らのうちに「正しい、良い心」を創造し、みことばを「守るたくわえることを可能にします。それは、イエスの母マリヤのように、みことばを「心に納めて、思い巡らす」(2:19)ことです。

そして、初代教会の人々は迫害に「よく耐えて」、その結果、福音が爆発的に広がりました。つまり、イエスは、弟子たちに対して、「良い地になれ!」と命じたというより、神のみことばが百倍の実を結ぶ時代が到来したことを告げているのです。私たちは、ペンテコステの日に与えられた聖霊の働きと、みことばにある神秘的な「力」を、余りにも軽く扱ってはいないでしょうか?

 

3.「持っている人はさらに与えられる」

イエスは「神の国の奥義」を隠して伝えるために「たとえ」を用いられました。それは、禅宗における公案に似ているのかもしれません。たとえば、「片手で拍手するときの音を聞いて教えよ」などという問いがあったとき、不思議に心が動かされ、日常的な常識感覚を超えた発想を求めようとする契機になるかもしれません。

ただし、禅宗では基本的に公案を大量に印刷して配布するなどということはあり得ませんが、イエスの教えはたとい理解されなくても、より多くの人々に知られることが求められます。

そのことをイエスは、「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか」(4:21)と言いました。これは、自分が示されたみことばの真理を、自分だけの心にしまいこみ、隠してしまうことにならないようにという警告です。私たちは何よりも、みことばの「光」を分かち合うことが求められています。

なお、「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです」(4:22)というのは不思議な表現です。これは、厳密には、「現されるということ以外のために、隠されているものは何もなく、また、明らかにされること以外のために、秘密にされることはない」と訳すことができます。

これは、「かくれんぼ」の遊びに似ています。人は、見つけてもらうために隠れます。同じように、神は、真理を心から理解してもらいたいと願っているからこそ、簡単には理解できないように、敢えて「隠し」、また「秘密にしておられるのです。

たとえば、イエスは、何の罪もないのに、無力な犯罪人の姿で十字架にかけられました。この逆説はまさに、人のあらゆる想像を超えた神の愛と痛みを現すためでした。十字架の神秘は簡単にはわからないからこそ、罪の自覚を持った人に驚くべき感動を与えるのです。

同じように、世界の悲惨の背後に神はご自身を隠しておられますが、それは、私たちが自分を越えた神の視点から神のみことばこそが歴史を動かし、支配していることを知るためなのです。

そして、イエスは再び、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました(4:23)。これは9節と基本的に同じ表現ですが、この両者とも、厳密には、「聞く耳のある者には、聞かせなさい」と訳すことができます。単に、「聞け!」と迫るのではなく、「心の耳を存分に働かせてあげなさい」とチャレンジしているのです。

イエスのたとえは、何よりも、「神の国の奥義」を知りたいという渇きを起こさせ、心から知りたいと願う人にだけ「奥義」を知らせるものです。

またイエスは、「聞いていることによく注意しなさい」と念を押しながら、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」(4:24)と言われました。これは翻訳上の問題があります。「人に」ということばは原文にはありません。新共同訳では、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる」と訳されています。これは、みことばを軽く受け止めるような秤を持っている人は、その同じ基準で神から軽いものしか量り与えてもらえないということを意味します。

つまり、みことばの重さを理解できる人は神から豊かな恵みを受け取ることができるばかりか、その恵みはどんどん増えて行くという意味です。その反対に、みことばを軽く受け止める人は、本当に損な生き方を自分で選んでしまっているというのです。

そのことがさらに、「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」(4:17)と言われます。つまり、みことばを自分のものとして「持っている人」はますます豊かにされる一方、神の恵みによって豊かにされながら、それを忘れる人は、持っているものまで取り上げられてしまうということを指しています。

イスラエルの民が、約束に地で豊かになったあとで、神の恵みを忘れ自分の力を誇ってしまったことに対し、神のさばきが下され、彼らはすべてを失ってしまいました。それは、私たちにとっての大きな警告です。

これは、また、聖霊を受けている」人が、一見貧しいようでも、ますます豊かにされるという約束と理解できます。一方、どんなに豊かな知性を持っていても、聖霊を持たない人は、神のみことばの奥義を知ることはできません。なお、聖書によると、イエスは主です」と告白させてくださるのは、聖霊ご自身ですから(Ⅰコリント12:3)、全てのクリスチャンは聖霊を受けています。

私たちはもはや、実を結ばない旧約の時代の民ではなく、今は、豊かな実を結ぶことが可能にされました。私たちは聖霊によって、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい・・・」(6:27)というみことばを実践できます。

しかも、それは不思議に、「私には無理です!」と、神に向かって叫んでいる時に可能になるという逆説もあります。そうして、私たちのまわりに「神の平和」、「神の国」が広がります。

 またイエスは、「神の国」の成長の不思議さをふたつのたとえで話します。第一は、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」(4:26-29)と言われました。私たちはみことばの種を蒔きますが、しばしばその成長のプロセスは「人は知りません」とあるように隠されています。

しかし、「良い地」に落ちた種は、時か来たら必ず実をならせることができます。それは小さな種自体の中に成長の力が込められているからです。ですから、私たちは、失望することなく、種を蒔くべきなのです。大人になってからイエスを主と告白するようになる人の多くは、昔、日曜学校に通っていたとかミッションスクールに行ってことがあると言っています。

  またイエスは、「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります」(4:30-32)と言われました。

小さな種の中に、驚くほど大きな力が秘められています。それと同じように、人の心の中に根付いたみことばは、人の行動を変え、その集まりである神の国を驚くほどダイナミックに成長させることができるのです。

 そして最後に、「イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた」(4:33、34)と記されます。これは、イエスが弟子たちの理解力に応じながら、彼らに寄り添うようにして彼らの成長を導かれたことを指しています。

イエスの弟子たちとは、イエスのみことばを聞くことを喜びとしている人たちです。教会では、しばしば、聖書のみことばを、聞きたいとも思っていない人に必死に解説をし、みことばの意味を知りたいと願っている人に十分に時間を割くことができていないという現実が見られますが、それは本末転倒です。

 アジア最大の福音自由教会がシンガポールにあり、その主任牧師はエドモンド・チャンという私より若い牧師です。彼は多くの人に一対一で個人的に関わることを大切にし、彼によって導かれた人が次から次と、別の人々を個人的に導くというすばらしい連鎖が起きています。それで、私はチャン先生に、その秘訣を尋ねました。彼の答えは、それは、自分の力ではなく、学びたいという人の側の霊的な渇きにあるというものでした。

イエスは、「聞く耳のある者(に)は聞きなさい(聞かせなさい)」繰り返しています。イエスご自身も、あくまでも、「聞く耳のある人」にこそ、真に聞いてもらいたいと思われて、敢えて「たとえ」を用いて語っておられるのです。私はどんなに忙しくしていても、みことばへの渇きを持つ人には、最優先して対応させていただきたいと心から願っています。

そして、みことばに感動した人は、どうかそれを繰り返し味わってみてください。「それがどの箇所だったか忘れた・・」などとは決して言わないようにしながら、前後関係をしっかりととらえ、別の翻訳なども参照にしつつ、心に刻み込んでください。「神の国」はそのみことばによって成長し、全世界が神の愛で満ちる完成のときがきます。

そのつぼみが、既にあなたの心に宿っています。マリヤのように、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を差し出すとき、そこに神の奇跡が行われます。それは、あなたの力ではありません。みことばの種が、あなたを土として、成熟し、実を結ぶのです。神は、力によってではなく、みことばによって、世界を動かされます。それは、右から左に抜けることが多いように見えますが、神のみことばは確かに、人々の心をとらえ、造り変えてきました。どうか、失望することなく、みことばを心に蓄え、また、聞く耳のある人に、みことばを宣べ伝えましょう。

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2011年6月 5日 (日)

ダニエル7章 「キリストの勝利は既に現れている」

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私たちの周りには、キリストのご支配を見えなくさせる様々な不条理が日々おきます。しかし、聖書をよく読むと、すべての悲惨は神の御手の中にあるということが分かります。

  私たちは自分の人生を自分で把握していたいと思いますが、そう思えば思うほど、不安に圧倒されることでしょう。大切なのは、キリストの勝利は既に明らかになっており、キリストの支配は既に歴史の中に現され、完成に向かっているということを知ることではないでしょうか。

 なお、イエスはご自身のことを「人の子」として紹介されましたが、当時は、それを聞くときにダニエル713節を思い浮かべる人が少なからずいました。まさにイエスの福音はダニエル7章を抜きには語りえないのです。

1.「天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た」

 バビロンの王ベルシャツァルの元年に」とありますが、これは5章に記された出来事の少し前の時代で、紀元前552年頃のことと思われます。それはバビロン帝国が538年に滅びる14年前のことです。

そこで、「ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った」(7:1)とありますが、これはそれまでと違い、ダニエル自身がイスラエルの民に向かって語り聞かせる夢のような意味があります。

まずダニエルは、「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた」(7:2、3)と記します。これは2章に記された「四つの国」に対応するものです。

ここでは、「天の四方の風が大海をかきたて」とありますが、「風」とは「」とも訳すことができます。これはまさに「天の風」、「神の息」である聖霊によって大海がかきたてられ、「四頭の大きな獣」が上がって来たというのです。それは途方もなく恐ろしい情景ですが、それを起こしたのは神ご自身の「だというのです。

最近ドイツからの異端的なグループが被災地を回って、今回の悲惨が神のさばきであることを認めるようにと説いて回っていますが、災いの意味を合理的に説明するということは神の領分を侵すことです。

ヨブ記などに明確なように、災いの意味を論理的に説明できた友人たちは神の怒りを買ってしまいました。ヨブは神に必死に問いかけますが、神はヨブに災いの原因を説明しようとはされません。

私たちに本当に必要なのは、災いの理由を知ることではなく、災いが私たちを愛する神の御手の中で起こっていることを知り、神に立ち返ることです。そして、私たちに与えられている確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)という揺るがない希望です。

 「第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた」(7:4)とありますが、これは明らかにバビロン帝国を指します。獅子は百獣の王と呼ばれるように、強さの代名詞です。そして「鷲の翼」とは襲いかかる速さを象徴していると思われます。

不思議なのは、「見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた」という描写ですが、これは先にネブカデネザル王がその傲慢さをさばかれ、野の獣と同じように理性を失った状態にまで落とされた後で、再び理性を取り戻したということを指しています。

ブレーズ・パスカルは、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と言いましたが、それはしばしば誤解されるように、人間の理性の力を称えるという意味ではありません。これは、まさにその反対に、人間のすばらしさは、自分の頼りなさや弱さを知ることができるということを意味していました。

自分の強さをアピールして周りを威嚇するというのは、動物的本能であって、神のかたちに創造された賢い人間のすることではありません。真に知恵ある者は、神と人との前に謙遜になることができるはずです。

 そして、「第二の獣」は「熊に似」ていて、その不思議な姿が、「横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった」と描かれます(7:5)。これはメディヤとペルシャの連合国を指すと思われ、ペルシャの方がはるかに強いのが「横ざま」に寝る姿に現れ、その「口のきばの間」に「三本の肋骨」があるのは、三つの国々を次々に滅ぼしたことを指すと思われます。

そして、「それに、『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった」とありますが、これはバビロン帝国をも飲み込むようにとの勧めだと思われます。

  この後、突然」に現れるのが、第三の獣で、それは「ひょうのような」姿でした(7:6)。それは足の速さを示します。そればかりか、「その背には四つの鳥の翼」があって、自由に飛び回ることができ、「四つの頭」によって四つの方向を一度に見て襲いかかることができることを現します。

これはギリシャのアレキサンダー大王がたちどころに当時の世界を支配して、それが四つの国に分かれることで成就したとも思われます。そして、「それに主権が与えられたとは、この驚くべき支配が、この大王の天才に帰せられるというよりは、天の神の導きによるということです。

古代世界の公用語がギリシャ語になったのは、ひとえにそのためです。そして、旧約聖書も紀元前250年前後にギリシャ語に翻訳される(七十人訳)ことによって、世界中で読まれるようになってゆき、それがイエス・キリストの誕生の舞台となってゆきます。まさに神のみわざです。この第三の国については、8章でなお詳しく描かれます。

 この書では特に、紀元前330年前後のアレキサンダー大王の支配から紀元前170年前後のアンティオコス・エピファネスまでのことが詳細に描写されているように見えます。それで、多くの学者は、この書はこれらの出来事の後に、ダニエルの名前を借りて記されたと解釈します。

確かに聖書の預言の本質は、後の時代の流れを詳細に描写することにはありませんし、神が予めダニエルにその後の歴史を語って聞かせ、歴史がその通りに動いたということであれば、まるで神が人間を将棋のこまのように動かしているとも誤解されます。それではそこで悩みながら、いのちをかけてでも理想を実現しようとする人間の努力があまりにも軽く見られていることになってしまいます。

しかし、よく見ると、この預言は極めて象徴的なもので、現実の歴史の動きの後で初めて意味がわかるという性格のものです。

しかも、それが実現する時代の記述もありませんから、ノストラダムスの大預言などという未来予測の書とは根本的に異なります。基本的には、それぞれの王国の変遷には人間の罪の性質が現れています。

バビロン帝国は全土をひとつのカルチャーの下にまとめるという強権政治によって成り立っていましたが、ペルシャ帝国はその反動で、各民族の自主性を尊重する政策によってより広い領土を支配しました。しかし、そこでは宮廷儀式や政治的な権威が形骸化して、現実への対処能力を失い、組織の硬直化が起こり、有能な独裁者を人々が待ち望むようになります。

しかし、独裁者の後には必ず、複数の独裁者による領土の分割と領土争いが生まれます。神はダニエルを通して、人間の歴史がそのようなことの繰り返しであることを示したと言えましょう。

そして、その原則は現在の日本の政治にも適用できます。今、多くの日本人は、硬直化した体制を崩す有能な独裁者を求めているのかもしれません。しかし、そこには同時に、その後の内紛や戦争の危険が伴います。

  私たちはやはり、神が、エルサレム神殿が廃墟とされた時代に生きた現実のダニエルを通して、歴史の流れをより広く高い視点から見るようにと、その後のことを生き生きと記させたと理解したいと思います。

実際には、イエスが誕生した頃のユダヤ人の間では、ダニエル書が非常に愛読されていました。それは、ダニエルの預言が、まさに恐ろしいほどに正確にバビロン捕囚後の世界の歴史を描いていたからです。

しかし、ここに記された預言は、この時代だけに適用されるものではなく、今の私たちの時代をどのように見るべきかの指針でもあります。

  

2.「第四の獣は殺され・・・燃える火に投げ込まれる」

  「その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた」(7:7)とありますが、これは2章に記されていた鉄と粘土で成り立っている第四の国に相当します。

そして、その獣の様子が、「それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた」と描かれます。これは無敵のローマ軍の攻撃力を示唆するものです。「十本の角」とは、通常の動物の二本の角の五倍の威力を持つという圧倒的な力の象徴表現です。

しかも、「私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった」(7:8)と描かれます。

これはその強大な王国の中で、人知れず新しい王が生まれ、この国の三人の王をもしのぐ勢力となり、「大きなことをかたる口」という傲慢さこそがこの新しい王の特徴となるということです。

そのような中で、ダニエルは、「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた」と全世界の創造主であられる方が、王座の中心にただひとり座り、この世界にさばきを下すという様子が描かれます(7:9)。「その衣は雪のように白く」とは、この世のすべての汚れを超越した神の聖さを現し、「頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった」とは、神の知恵がこの世のあらゆる知恵を凌駕する純粋なものであることを示します。また、「御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から流れ出ていた」(7:9、10)とは、ローマ軍の戦車隊をたちどころに追い散らすような神の攻撃力を示す表現です。

そしてそこには、「幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた」と、この世の王がおびただしい家臣を従えているのにまさる神の権威が示されます。

その上で、この方のさばきの様子が、「さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた」と描かれます。これは、神のもとには、この世の王や支配者の行いが正確に記された文書があり、神はその人の行いに従って公平な、誰もが納得せざるを得なくなるようなさばきを下すということを表します。

  そして、神の明確なさばきのことが、「私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た」(7:11)と描かれます。これは第四の獣から生まれた三人の王をしのぐ強力な王が、自分を神であるかのように傲慢に誇ったことへの報復です。

なお、「残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた」(7:12)というのは不思議です。なぜなら第一の王国がバビロン帝国、第二の王国がペルシャ帝国、第三の王国がギリシャ帝国を具体的に指していたすとすれば、これらの王国はそれぞれに続く王国によって滅ぼされ、消え去ったはずで、残っていることが不思議だからです。

ですから、この預言の中心は、紀元前六世紀から紀元一世紀にわたる具体的な期間を指すというよりは、この世に繰り返し現れる異なった王国の特徴を描いたものということができるのではないでしょうか。

 

3.「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ・・・」

7章13節の「私がまた、夜の幻を見ていると」という書き出しは7章2節の「四頭の大きな獣」の現われと並行関係にあります。獣が四頭の獣が海から上がってくるのに対して、ここでは、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた」と描かれます。

しばしば、「天の雲に乗って来る」ことが、天から地に降るイメージと誤解されますが、「来られ」とは場所の移動以上に「現れ」を指す言葉と理解できます。しかも、「天の雲」とは、孫悟空の場合のような移動の手段ではありません。聖書では、「天の雲」というのは「神の栄光の現れ」を意味します。

ですからここでは、「獅子のような」また「ひょうのような」獣の「現われ」との比較で、「人の子のような方」の「現われ」が、「天の雲」という栄光に包まれている様子が強調されています。

そして、その方は、天から地に「下る」のではなく、「年を経た方のもとに進み、その前に導かれる」という栄光の御座に引き上げられるという「上昇」の動きを指し示しています。

そして、そのことの具体的な意味が、「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:14)と描かれます。

「ひょうのような獣・・に主権が与えられた」(7:6)とは、何よりもアレキサンダー大王のような支配のことでした。彼はギリシャ北部のマケドニア地方の王として即位して六年もしないうちにペルシャ帝国やエジプト王国を次々と滅ぼし世界帝国を築きますが、彼はその七年後には病死し、その王国は分裂します。世界史上これほどはかない王国はありません。

それに対して、「人の子のような方・・・に、主権と光栄と国が与えられた」ときの支配は、この方が当時の別の文化圏であったインドや中国を含む文字通り全世界に及ぶ王となり、また、その方の支配は、「永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と言われているのです。

私たちは「人の子のような方」として現れるキリストの支配を、この世離れした霊的なことと矮小化して捉えてはいないでしょうか

  イエスの時代の人々は、ダニエル7章13節に描かれた救い主の現われを待望していました。彼らは、そこに大帝国の具体的な興亡が描かれていることに感動し、アレキサンダー大王に勝る救い主が現れ、イスラエル王国を中心に世界がまとめられることを夢見ていました。

イエスも、そのような期待を否定するどころか、ダニエル書のことばを用いてご自分を「人の子」と紹介していました。事実、イエスは、エルサレム神殿の壮麗さに感動する弟子たちに、神殿の崩壊に続く苦難の時代に起こる救いのことを、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:30)と、ダニエル7章13節を引用しつつ、ご自身が神の国を完成に導くという過程を描いています。

そしてイエスは、ユダヤの最高議会で裁判を受けられたとき、大祭司が彼に、「あなたは神の子キリストなのか、どうか、その答えを言いなさい」と迫ったとき、「あなたの言うとおりです」と言ったばかりか、「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と言われました。そして、大祭司はこのことばを聞いたとたん、これが神を冒涜することばであると断言し、満場一致での死刑が確定したのです。

つまり、イエスが死刑になった最大の理由は、ご自分をダニエル7章13節が描く救い主であることを明言したことによるのです。しばしば、これはキリストの再臨を現すことばとしてのみ理解されますが、ダニエルの文脈でも明らかなように、またイエスご自身が、「今からのち」と強調されたように、救い主の栄光はすぐに現れました。それは十字架上の姿であり、何よりも、栄光の復活を表します。

初代教会の最初の殉教者ステパノは裁判の席で、聖霊に満たされながら、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見えます」(使徒7:56)と証ししたとたん、人々は、冒涜のことばを聴くまいとして「耳をおおい」ながら、彼に殺到して石で打ち殺しました。

それほどに、ダニエル7章13節のことばは、イエスを救い主と認めるか、また反対に神への冒涜者であると断罪するかの分かれ道になる決定的なみことばであったのです。

4.「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる」

この幻は、ダニエルの心に希望や喜び以前に「悩み」をもたらし、彼に「脅かし」をもたらしました(7:15)。そのことがこの幻の解き明かしのあとに再び記されます(7:28)。それは、この幻は、地上的な意味での楽観論を否定し、当面の世界に戦いが続くことを示しているように思えたからではないでしょうか。

なお、2章4節から続いたアラム語表現は7章の終わりで閉じられます。そして、ここではまず、この幻の「解き明かし」がダニエルに示されます。

まず第一に、この幻が示していることの結論部分が、「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く」(7:17、18)と要約され、神の国の完成への希望が大胆に告げられます。私たちも「いと高き方の聖徒たち」として、キリストとともに王とされます(黙示20:6、22:5)。

多くの人々は、「世の終わり」などということばとともに、世界的な戦争や飢饉や地震や大津波や火山の噴火などを思い浮かべがちかもしれませんが、聖書が描く世界のゴールは、神の平和(シャローム)が全世界を覆い、愛の交わりが完成するときであるということを決して忘れてはいけません。

聖書が示す真の意味での「終末」とは、世界の「終わり」というよりは、歴史の「目的地」を現す概念なのです。

  その上で「第四の獣」のことが、改めてその破壊力の強大さが強調され(7:19)、その上で、第四の獣の内部で権力闘争が起き、最後に三人の王を打ち倒した者が、反キリストとして聖徒たちを一時的な敗北に追いやる様子が、「その角には目があり、大きなことを語る口があった・・その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った(7:20、21)と描かれます。

しかし、その直後に、「それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」(7:22)と記されます。それは、神の民が一致団結して反キリストに勝利を収めるのではなく、神ご自身が第四の獣をたちどころに滅ぼすからです。

  その後、第四の獣の一時的な勝利と最終的な滅亡へのプロセスのことが再び描かれながら、ここでは特に、反キリストのことが、「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる」(7:23-26)と記されます。

「ひと時とふた時と半時の間」とは、黙示録などにも繰り返されるサタンの勢力が全地を混乱に陥れる「三年半」という短い期間の象徴です。

それに対して、神がサタンの勢力を縛る期間が「千年の間」と表現されます。これはサタンの力が猛威をふるう期間が短く限定されている一方で、サタンを徹底的に抑える期間は途方もなく長いということを示します。

実際の歴史でも、大迫害の期間は「束の間」に過ぎませんでした。たとえばローマ帝国では皇帝ディオクレチアヌスのもとでの大迫害は有名ですが、それは約二年間にも満たない期間の後に皇帝は引退し、その直後、キリスト教を擁護する皇帝コンスタンチヌスが勢力を持ち、帝国をキリスト教化します。

日本でも第二次大戦中に大迫害がありましたが、それも数年間のことで、戦後はすぐにキリスト教会の爆発的な成長に転じます。

ですから、しばしば「大患難期」として恐れられる時期は、世の終わりの特定の期間を指すという以前に、この歴史に中に何度も起こった大きな苦難の時期が、神の御手の中で、常に限られた短い期間であったことを示すものです。

最後に、私たちの希望が、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(7:27)と描かれます。キリストに従う聖徒たちはすべて、この永遠の祝福の中に招き入れられます。これこそが「永遠のいのち」です。

私たちは苦しみに会うとき、その期間が永遠に続くような錯覚に陥ります。しかし、本当に苦しい時期はほんの一瞬に過ぎません。それに耐えさえしたら、後には永遠の祝福が待っているのです。

そのことを思いながらパウロは、「ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Ⅱコリント4:16,17)と告白しています。

  多くの人々は、自分の理性と努力で、環境をより住みやすく平和なものに変えることができると信じて休む間もなく働き続けてきました。確かに、前向きな考え方には、人生をより美しくする力があります。しかし、そのような発想では、解決できない問題があります。

そればかりか、それでは、努力が正当に評価されない事態に陥ったときに、かえって出口のない絶望に追いやられます。私たちはもっと長い目で、キリストの支配の現われを見る必要があるのではないでしょうか。

努力自体が必然的に実を結ぶのではなく、キリストご自身が、私たちの思いを超えた時間の流れの中で、人の想像を超えた形で、私たちの努力に実を結ばせてくださるという真理を覚えたいものです。

キリストはダニエル7章を用いて、ご自身の救いの壮大さを語ってくだったということを改めて感謝しましょう。

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