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2011年7月24日 (日)

ダニエル9章 「苦難が続く中での希望」

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  今から三十年近く前、私はドイツ銀行が集めてくれた一般投資家を前に、日本株投資の魅力を熱く語っていました。実際、そのとき日本株に投資したドイツ人は、通貨と株価の相乗効果でその後の五年余りのうちに少なくとも投資資産を三、四倍に増やすことができました。しかし、この教会が始まって間もなく、日本経済の成長は止まり、現在の株価も最高値の四分の一近くのままです。

私たちは聖書を誤りなき神のことばと信じる福音的な教会ですが、しばしば、聖書解釈が時代の影響を受けてきました。その反省が、昨年、南アフリカで開かれた第三回ローザンヌ会議で確認されました。

多くのキリスト教会は、右肩上がりの株価のような、繁栄の神学の影響を受けていました。クリスチャン人口がアジアやアフリカで爆発的に増加しましたが、それが自由で公正な社会の実現には結びつきませんでした。実際、アメリカでも南アフリカでも、しばしば、福音的な教会は人種差別を擁護する勢力としてさえ機能していました。それは、教会がこの世からの分離を何よりも強調してきたことと切り離せません。

そして、そのような保守的な教会の神学は、ダニエル書9章の解釈に特徴がありました。それはイエスの時代のユダヤ人たちの解釈の影響を受けたものです。イエスの時代にもこの箇所は愛読され、それはローマ帝国からの独立運動に結びついていました。しかし、イエスはそれに対して目の前の問題をなくすることを目指す代わりに、目の前の苦しみを担ってゆく「十字架の神学」を示されたのです。

今、世界中の多くの福音的な教会が自分たちの神学を振り返ろうとしています。そして、その鍵は、何よりもダニエル書の解釈にあります。それにしてもダニエル9章には聖書の歴史の全体像が記されています。ともにこの書から神のみこころを探りましょう。

1.「主(ヤハウェ)はそのわざわいの見張りをしておられ・・・」

「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年」(9:1)とは5章30,31節に記されていたバビロン帝国滅亡の年、紀元前539/538年を指すと思われます。

そして、このとき、ダニエルは「預言者エレミヤにあった主(ヤハウェ)のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」というのですが、エレミヤ書では、「この国は全部、廃墟となって・・・バビロンの王に七十年仕える」(25:11)、また「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだー主(ヤハウェ)の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10,11)と約束されています。

つまり、ダニエルはエレミヤの預言によって、これからのイスラエルに大きな希望を見出すことができたからこそ、真剣に神に祈ったのだと思われます。

そこでダニエルは、イスラエルの民を代表して、自分たちの罪を告白します(9:5、6)。そして、同時の常識では、エルサレム神殿の崩壊は、主(ヤハウェ)の無力さ、主の不面目を周囲の国々に現すことになりますから、そのことを意識しながら、彼は、「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので・・・不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです」(9:7-9)と告白します。ここでは、民の不面目と、主の「正義」と「あわれみと赦し」が対比されます。

つまり、「主の正義」とは、罪に対するさばきと同時に、「主のあわれみと赦し」として現されるというのです。

その上でダニエルは、彼らの罪の根本を、「主(ヤハウェ)の御声を聴かなかった」(9:10)こととして描きます。ここで、「律法に従って歩む」という動詞は不定詞で、聴くという主動詞を修飾するものです。私たちは誰でも、自分の心で納得したことは進んで実行できますから、具体的な行動よりも大切なのは、主の御声を真心から聴き、その背後にある神の愛を知るということです。

敢えて言えば、「トーラー」を「律法」と訳すこと自体が問題かもしれません。「トーラー」の中心的な意味は「教え」ですが、その背後には、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれ」(申命記7:7)という神の一方的な愛があります。イスラエルの罪の根本とは、この神の愛の語りかけを軽蔑したことにあるのです。

たとえば、多くの専業主婦の方々は、夫が高い給与を稼いでくるよりも、夫が自分の話に真剣に耳を傾けてくれることを願っていると言われます。神への愛の始まりは、神に高価ないけにえをささげることよりも、神のみことばに真剣に耳を傾けることです。そのとき、行動は必然的に伴ってきます。

しかも、主のさばきに関しては、「律法を破り、御声に聴くことを拒絶した」(私訳)イスラエルの民に対し、「神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが・・ふりかかりました・・・神は・・・みことばを、成就されたのです」(9:11、12)と、描かれています。

神は、ご自身の愛を語るとともに、神の愛を軽蔑する者が、どのようになるかということを繰り返し警告しておられました。それが特に、レビ記26章や申命記28章15節以降に、驚くほど生々しく描かれていました。それらは「のろいの誓い」(申命記29:12,14,20,21)とも呼ばれます。そして、イスラエル王国が滅亡したのは、まさにこれらのみことばの成就だったのです。

神は怒りの感情にまかせてイスラエルをさばいたというよりは、「哀れみに胸を熱くしながら」、その「のろいの誓い」を成就させざるを得なかったのです。さばきの背後にある神の熱い思いを忘れてはなりません。

ダニエルは続けて、「このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは・・・あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした」(9:13)と当時のイスラエルの民の問題を描いています。

わざわいが、神の御手の中で起こっているのなら、それからの回復も神によってのみ可能になるということを彼らは信じ、真剣に祈るべきだったのに、そうしてこなかったというのです。

そして、そのことをここでは、「主(ヤハウェ)はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました」(9:14)という不思議な表現で描かれます。

エルサレムを滅ぼしたのは、実際には、バビロン帝国の軍隊です。しかし、神はこのわざわいをもたらすバビロン軍の「見張り」をしておられました。それは、神は、バビロン軍を止めようと思えば止めることができたという意味です。その意味で、これは神のさばきであると言われるのです。

2.「あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているから・・・」

そして、今、ダニエルは、エルサレムの復興を願って、「主よ。あなたのすべての正義のみわざによってどうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム・・からおさめてください・・・ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください」(9:16-18)と驚くほど大胆に神にすがっています。

 そして、そのように必死に祈っているときに、8章16節にも登場した御使い「ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき」(9:21)、そして、「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た・・・あなたは、神に愛されている人だからだ(9:22)と告げます。

先にもダニエルは御使いガブリエルからの知らせによって、「病気になったまま・・驚きすくんでいた」(8:27)という状態になりましたが、このときも、ガブリエルの幻は彼を深い悲しみに陥れるものでした。

神の愛は、地上での安楽な生活を保障するものというよりは、厳しい現実に直面するための生きる力となるものです。エレミヤの預言だけを見ると、七十年の苦しみのあとに、栄光に満ちた時代が実現すると思いますが、そのように歴史は動かないということを御使いは知らせに来たのです。

モーセの預言とエルサレムの滅亡の間には、罪と罰という因果関係を確かに認めることができます。そこから、わざわいは、罪に対する神の罰であるという見方が生まれます。イエスの時代の人々もその見方で凝り固まっていました。

イエスの弟子たちも、生まれつきの盲人を見たとき、イエスに向かって、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねましたが、イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と不思議な答えを言われ、その上で、この盲人の目を不思議な方法で癒してくださいました。それによって、神の栄光が現されました。

イエスは、わざわいの原因を説明するのではなく、わざわいを通して神の栄光が現されるということを言われたのです。

実は、エルサレムの陥落とバビロン捕囚も、イスラエルの罪に対する神のさばきという以前に、「みことばの成就」、神の栄光の現れという点では同じなのです。そして、それはエレミヤ預言でも同じです。

ダニエルが、「主(ヤハウェ)はわざわいの見張りをしておられ」と言った時、神はわざわいを止めることができると告白していたのです。

罪に対する罰という考え方は、原因結果ですべてを説明するという論理につながります。そこでは、実は、神は原因結果の背後に隠されてしまいます。しかし、聖書の神は、ご自身のことを、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)と紹介しておられます。神は、この世の因果律を越えて、すべてのわざわいを支配しておられるのです。

ですから、大切なことは、わざわいの原因をさぐり、その原因を正すことよりも、神の救いを求めて祈ることです。実際、ダニエルは、「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください」(9:19)と大胆に祈りながら、その根拠を、「私たちは深く反省していますから・・」などと、自分たちの信仰に結びつけるのではなく、「あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです」(9:19)と、イスラエルの民を救い、エルサレムを回復することこそが神ご自身の栄光につながると祈っています。私たちは苦しみの中で、自分の心に目を向ける前に、ただ神に目を向け、すがるべきなのです。

3.「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている」

 ガブリエルはまず、「あなたの民・・聖なる都については、七十週が定められている」(9:24)と言いますが、「七十週」は原文では、「七(複数形sevens)を七十」(NIV訳Seventy 'sevens'と記されています。

レビ記では、ヨベルの年の始まりが、「七年の七倍」(25:8)と表現され、それは49年を意味していましたが、これはそのヨベルの年の十倍の時を意味します。ダニエルはエレミヤ預言の七十年が終わったので、これからは祝福の時代がやってくると期待したのに、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐため」という、神の救いのご計画が完成するまでに、なお、「七の七十倍」の時が、必要だと告げられてしまいました。

これはダニエルにとってはショックでした。レビ記26章には、神のさばきを受けながら、なお、神のことばに心を開かないなら「七倍の懲らしめ」が来ると警告されていましたが、ダニエルはそれを思ったかもしれません。

また、イエスは「七度を七十倍するまで」赦すということで(18:22)と、これを無限の意味で用いました。

黙示録では大バビロンの滅亡は終わりの日のハルマゲドンの戦いと結びついています。多くの人は、バビロン捕囚は七十年で終わったと思っていますが、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配と、バビロン捕囚のような状態は続いていったのです。

そして、この「七の七十」は三つに区分されます。第一は、「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週」です。これは先の「七年の七倍」というヨベルの年に相当します。

油注がれた者」というのは、「救い主」という以前に、民のリーダーが立てられること、つまり、エルサレムでの礼拝と政治が正常化するということが、すべての借財がゼロになり、最初の秩序が回復されるという意味で民の解放を告げるヨベルの年として実現することになります。しかし、それで問題は解決するわけではありませんでした。

その後、「また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」(9:25)とありますが、これは、その数字に象徴的な意味のない七年の六十二倍」で、この期間にはエルサレムの再建は進みますが、苦難は続きます。これは、あまり意味づけのしようもない、だらだらとした年月が過ぎることを意味すると思われます。

しかし、その後に、「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」という悲劇の時代が訪れます。これは、ダニエル8章に記されていた「常供のささげ物は取り上げられ」(8:11)というのと同じことを意味すると思われます。これは、神の民が徹底的に苦しめられる時期を指します。

それに続いて、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」(9:26、27)と記されます。

これはしばしば、七年間の大患難の時期と言われ、その中でも特に、「半週」、つまり、三年半が「いけにえとささげものをやめさせる」という信仰の大迫害の時期を指すことになります。

ただし、「一週」とは厳密には、「ひとつの七」と記され七十分の一という短期間を、また「半週」も、苦しみの期間が限定的であることを指します。

ただ、「荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」と、この神に反対する勢力が権力を完全に掌握したと思われる直後に、その権力が神によって滅ぼされると描かれます。

4.イエスの時代の人々のダニエル書解釈、キリスト教原理主義者のダニエル書解釈

イエスの少し後の時代のヨセフスは、この預言が、ギリシャの王アンティオコス・エピファネスが紀元前167年にエルサレム神殿を荒らし、いけにえが三年間、差し止められ、その後、ユダ・マカベオスのもとで神殿がきよめられたことをさすと述べながら、同時に、「ダニエルはまた同じ仕方で、ローマ人の帝国について、すなわち彼らの手によるエルサレムの陥落と神殿荒廃について書き記した」(ユダヤ古代誌10:276)と述べています。

そして、イエスの時代のユダヤ人たちは、このダニエルの預言を根拠に、エルサレム神殿が一時的にローマ軍によって占拠されるようなことがあっても、神は最終的な勝利を与えてくださると信じて、ローマ軍に対する独立運動を激化させ、結果的に、紀元七十年にエルサレム神殿が廃墟とされてから今に至るまで、神殿を永遠に失っているのです。

  ところで、七週と六十二週とを合わせると69週(483年)になりますが、前世紀の保守的なアメリカの学者たちは、ネヘミヤ2章に記されているエルサレム城壁の再建をペルシャ王アルタシャスタが命じた年の紀元前445年から、イエスの十字架の年までが、一年を360日と計算すると丁度483年になると言います。そして、キリストの十字架こそが「油そそがれた者が絶たれた」ことを現すと言います。

そして、最後の「一週」、七年が、イスラエルの民のために、エルサレム神殿が再建された後に、一時的に崩壊し、その後、完成されるという時期として残されており、その前に、クリスチャンはこの大患難の時期の前に天に引き上げられると言います。

そして、1948年のイスラエル国家の再建こそ、この終わりの時代への入り口を示していると言います。そして、このような神学を信じていたのがアメリカのブッシュ前大統領を支えていたグループで、キリスト教原理主義とも呼ばれることがあります。そして、彼らは一方的にイスラエル国家を支持し、イスラム原理主義との対立関係を深めてしまいがちです。

5.イエスはダニエル書をどのように解釈したか

しかし、地上の神殿は「本物の模型にすぎない」(ヘブル9:24)と言われるように、イエスはご自身の十字架と復活で本物の神殿を完成されました。ですから、キリスト教原理主義者が目に見えるエルサレム神殿の再建を預言の成就として期待することは正しい聖書解釈だとは思われません。

イエスご自身もこの書を未来予告としてよりは、目の前の弟子たちへの行動の指針と励ましとして引用されました。そこではまず、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば・・・ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(マタイ24:15、16)と言われます。

これは、エルサレム神殿がローマ軍によって汚されるようなことがあっても、決して戦おうとしてはならないばかりか、反対に、速やかに神殿から離れることを勧めたものです。

続けてイエスは、「そのときには・・いままでかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある・・もし、その日数が少なくされなかったなら、ひとりとして救われる者はいないことでしょう。しかし、選ばれた者のためにその日数は少なくされます」(同24:21,22)と、苦難の日数が短くされるので、戦う代わりに忍耐して救いを待つようにと勧めました。

そして、「これらの苦難に続いて太陽は暗くなり・・天の万象は揺り動かされます。そのとき・・・地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(同24:29,30)と、世界の終わりと思われるときにこそ、キリストの栄光が現されるときであると言われました。

そして、イエスは、「これらのことが起こり始めたら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(ルカ21:28)と言われました。これは、苦難が激しくなるのは、救いの完成が近づいているしるしであるという意味で、これこそダニエル書のテーマです。

実際、ダニエルの友人が偶像を拝むことを拒否して燃える炉の中に投げ入れられなければ、イスラエルを滅ぼした王ネブカデネザルがその神をあがめるようにはなりませんでした。またダニエルがライオンの穴に投げ込まれなければ、ダニエルを救う神の栄光は現されませんでした。バビロンがエルサレムを破壊しなければ、ユダヤ人を救う神の栄光は現されませんでした。クリスチャンが迫害されなければ、死をも恐れない復活信仰は表されませんでした。神の民の苦難こそは、神の栄光の現れのときなのです。

つまり、イエスが示したダニエル書の正しい解釈とは、神の勝利を確信して敵と戦うことではなく、神が苦しみのときを短くしてくださることを信じて、苦しみにひたすら耐えることなのです。神の民を迫害する圧倒的な神の敵が勝利したと思えた瞬間、その神に敵対する勢力は神ご自身によってさばかれるからです。

この世の権力が私たちを迫害するのを神が許しておられるのは、神の力がこの世の権力を徹底的に圧倒していることを示すためです。

私たちを津波や大地震が襲うことがあるのは、そのような苦難を通して、神の栄光が現されるためです。

もし、私たちが、苦難を神のさばきととらえるなら、そこには、互いを非難するさばきあいが生まれるのではないでしょうか。しかし、それを神の栄光を現す機会と理解するなら、そこに苦難をともにする者どうしの愛が生まれます。

ダニエルは七十年間の終わりに神の大いなる祝福の時代が来ると期待していましたが、それに対し、御使いは救いの完成までには、新たな七の七十倍の時が必要であることを示しました。これは私たちの人生に当てはめることができます。イスラエルの民が自業自得で七十年間のバビロン捕囚の苦しみを通ったと同じように、私たちも自業自得で苦しむことがあります。そして、そこで私たちも神の前に悔い改め、神の救いを慕い求めました。そして、あなたはキリストの十字架によって「救われた」と宣言されます。

しかし、ふと現実を見ると何も変わっていないように思えることがあります。そこで、「七十週」の時間のことが示されます。最初の七週の人生の建て直しの期間を終えても、なお多くの問題が残っています。そこに劇的な成長の見えない六十二週が続きます。

そして、長い信仰生活の後、突然、とんでもない苦難に会うことがあります。しかし、その期間は、七十分の一またはその半分という短期間で終わります。

その苦難に耐えているとき、神は突然、劇的な救いを実現してくださいます。そして、この最後の苦難は、罪への罰ではなく、この世の悪に対する神の劇的な勝利の宣言のときなのです。

私たちは、この最終的な救いの完成のことを思いながら、「約束された方は真実である」ことを思い、「しっかりと希望を告白」しながら、「互いに勧めあって、愛と善行を促すように注意し合う」ことができるのです(ヘブル10:23,24)。 

  バビロンに捕囚とされたダニエルに、神の民はバビロン滅亡後も、次々と起こる大帝国の下で苦しみ、その後で、最終的な救いを受けると示されました。それは人間の期待を一見裏切るような、神の救いのご計画なのです。

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2011年7月18日 (月)

マタイ5章1-16節「主にすがり、地の塩、世の光として生きる」

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 「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。そして、「すがる」ということばをネットで調べたら、「誰かにすがるしかできない・・」とタイトルで、「ひとりでいることが辛くて睡眠薬を大量に飲んでリストカットして気を失った・・・」などという女性の痛々しい記事がすぐに出てきました。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴なのかも知れません。しかし、聖書では、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)にすがらなければならない、そのとき、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」と記されています(ヨシュア23:8,10)。人が人にすがることは、ときに破滅への道となります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、千人をも圧倒する力を持つことができます。

「すがる」という心理には、基本的に、自分が「変わりたい」と願いなどはないように思います。実際、人にすがる者は、人を振り回すだけで終わる場合が多くあります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、不思議にも、変わり始めることができるのです。それは、ちょうど、愛する人から、「そのままのあなたが好き!」と言われるときに、かえってその人を喜ばせるような行動をとりたくなるのと同じです。私たちは、「変わりたいと思わなければ・・」などと自問しているとき、心の目は自分に向かっています。そこには、空回りしか起きません。私たちが主(ヤハウェ)にすがり、心の目が主(ヤハウェ)に焦点を合わせられるとき、私たちは初めて変わり始めることができるのです。

1. 「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者」が「幸い」であるとは? 

イエスは、大ぜいの群集がつき従ったのを見た」上で・・「山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで」(4:25,5:1)全く新しい教えとして、ご自身に従う者の「幸い」を九つに分けて語ってくださいました。それは、あくまでもイエスに従うことを既に決意している弟子たちに向けてのことばです。つまり、これは、「幸せに生きるための教科書」のような教えではありません。反対に、多くの人々が憧れるような、自立した人間としての立派な生き方なら、イエスからではなく、パリサイ人や律法学者から聞くことができたのです。

彼らは、自分の努力で幸せをつかむ方法を教えましたが、イエスは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」、そして、ご自身のために「迫害されている者」という、この世で苦しみ損をしている人への「幸い」を保証されました。これらはすべてイエスなしには決して実現できないものです。ところが彼らは、自分たちが「教師」、「父」、「指導者」になり、人々がイエスに直接につながるのを邪魔しました。イエスが彼らに対して驚くほど攻撃的なのは、彼らが人々に、イエスと父なる神に「すがる」ことを邪魔したからです(8-10)。それは、海で溺れている人に差し出された救命ボートを取り去って、泳ぎ方を大声で教えるようなものです。

  イエスは、「私は天の御国からはほど遠い・・」と思っているような人たちに向かって、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。イエスは宣教の初めに、「天の御国は近づいた」と言われましたが、ここでは、「天の御国は(既に)その人のものだから」と断言しておられます。つまり、「自分は大丈夫だ」と思っている人は「天の御国」に入っていないのですが、「自分は何と惨めな人間なのだろう・・・」嘆きながら、「自分はイエスにすがることしかできない」と思っている人は、すでに「天の御国」に入っているというのです。

米国大統領就任式の祈祷を導いたリック・ウォレン師は、アルコールや薬物その他の様々な依存症の方々の自助グループを教会の中で導き、Celebrate Recoveryというプログラムを開発しています。その第一は、「心の貧しい者は幸い・・」の意味を心から理解することから始まります。そのテキストⅠのタイトルは、Stepping out of Denial into God’s Grace「否認から抜け出て神の恵みの中に足を踏み入れる」です。依存症は「否認の病」と言われ、たとえば、自分にアルコールや薬物をコントロールする力がないということを認められなくて、どんどん深みにはまり、問題の原因を自分の周りのせいにするからです。彼らは人を振り回すようなすがり方はしますが、本当の意味で自分の無力さを認めてはいません。私たちもみな、心の奥底で同じような問題を抱えています。しかし、自分の弱さや汚れを正直に認めることこそが、神のみわざが心のうちに始められる第一歩なのです。そして、その人は、その問題を抱えたままの状態で、今、既に、「天の御国」(神の国)に入れられているのです。

「悲しむ者は幸いです」「悲しむ」とは、他の人には慰めようもないほどに深く嘆いている状態の人を指します。その人が「幸い」であるはずはないのですが、「慈愛の父、すべての慰めの神」(Ⅱコリント1:3)と呼ばれる方が、やがて慰めてくださるという保障があるからこそ「幸い」なのです。たとえば、ギャンブル依存症の人は、「今に必ず大儲けできる!」と信じて同じ過ちを繰り返し、自分の周りの人々を不幸に引きずって行きますが、このような人は、周りの世界を恨み、怒ってはいても、本当の意味で自分の惨めさを嘆いてはいません。深い悲しみを押し殺しているだけなのかもしれませんが・・・。しかし、本当に自分に絶望しながら、神に向かって嘆くとき、「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)を体験できるのです。これこそ信仰の神秘の世界です。

「柔和な者は幸いです」「柔和」とは、自分の正当性を訴えて争う生き方と対照的です。パリサイ人たちは議論の天才でした。確かに短期的に見ると、効果的に争うことができる人こそが、得をしているようにも見えます。ただし、伝道者の書に、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」(7:16)とあるように、一見「強い人」は、人の反感を買い、争いを広げることによって自滅してしまうということがあります。それどころか、イエスは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。それは報復の連鎖を断ち切る教えであるとともに、神がこの地を支配しておられるとの前提で語られたことです。それをもとに、イエスは、「柔和な者」こそが「地を受け継ぐ」と言われたのです。そこで問われているのは、自分の力に頼って争うか、神の力にすがって「柔和」に生きるかの選択です。

2. 「義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者」の幸いとは?

「義に飢え渇く」とは、この世の不条理に心を痛めながら、「神の正義」がこの地の実現することを強く憧れながら生きることです。イエスは、パリサイ人たちが本当に小さなことの一つ一つにこだわりながら、律法の核心である「正義もあわれみも誠実もおろそかにする」者であると非難しました。彼らは、真の意味で、「義に飢え渇いて」はいません。それゆえ、神によって「満ち足りる」ことを味わうこともないというのです。

「あわれみ深い」とは、隣人の痛みや悲しみに、心の奥底が共鳴して震えるような状態です。私たちは人の痛みにいちいち自分の心が反応しないほうがこの世では楽に生きられます。パリサイ人たちは、貧しい人を心の底では軽蔑しながら、頻繁に「施し」を実践しましたが、心の底では人の尊敬を得ることばかりを願っていました。あなたも人の悲しみを聞きながら、「優しい人に見られたい」という気持ちに動かされている場合がないでしょうか。それは、「あわれみ深い」のではなく、人の賞賛ばかりを求めるパリサイ人の心です。

ここでは、「義に飢え渇く者は・・・満ち足りる」「あわれみ深い者は・・・あわれみを受ける」と、神の報いがまっすぐに約束されています。ただしそれは、自分でコントロールできる世界ではありません。自分の心は単に、この世の不条理に痛み、また人の苦しみに合わせて心がふるえているだけなのです。その際、電車のつり革につかまると自由に揺れることができるように、神にすがる者は、自分の心を、一時的に渇いたままに、また、震えるままに開いておくことができます。そして、そのとき、神ご自身がその心を満たし、あわれみを注いでくださいます。

「心のきよい」とは、心の中が神の聖さで満たされているという意味ではなく、自分の醜さを認める正直さです。英語ではしばしば、「pure in heart」(心の中が純粋)と訳されます。先のセレブレイトリカバリーでも、この部分に最も多くのページが割かれ、自分の過ちを正直に神に告白することと同時に、信頼できる人に告白するようにと勧められています。「心のきよい」とは何よりも、「透明さ」を指すことばです。自分の心を透明に見ることができることと「神を見る」ことは切り離せない関係にあるのです。なお、「神を見る」とは、何かの恍惚体験であるよりは、「心の目がはっきり見えるようになって」(エペソ1:18)と、神が私たちに約束しておられる恵みの大きさに感動できるようになることです。それは、不思議にも、自分の心の闇が明らかにされることに比例して起こることです。

3. 「平和をつくる者、義のために迫害されている、ありもしないことで悪口を浴びる者は幸い」

  しばしば、真理のために命を賭ける人は、争いを作ります。パウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いました。それに対してイエスは、「平和をつくる者」こそが「幸い」であり、その人こそが「神の子どもと呼ばれる」と語りました。ここにある九つの「幸い」の中で唯一の積極的な行動が、「平和を作る」という教えです。私たちは自分を被害者に仕立てる天才ですが、「平和の祈り」にあるように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす」ような積極的な生き方を求めるべきなのです。そしてそのように生きる者は、「神の子」と呼ばれるのですが、このことばはイエスを、「神の子」と呼ぶときと同じことばです。私たちは、平和を作る者」として生きるとき、名実ともに、小さなイエス、イエスの弟、妹とされ、イエスに結び合って(すがって)いる者とされています。

  「義のために迫害されている者は幸いです」(5:10)と、イエスはご自分の弟子たちに不思議なことを言われました。当時の律法学者やパリサイ人は、質素に暮らしていましたが、パンに困ることもなく、社会的な尊敬を受けていました。そして、その既得権益を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを迫害する側になっていました。それに対して、イエスは、「天の御国は」迫害されている者たちの側にあると断言してくださったのです。

そればかりか、イエスは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(5:11,12)と約束してくださいました。なぜなら、それは人々があなたをイエスに結び合わされた者と見たことの最大の証だからです。私たちが心から目指すべき目標とは、イエスと一体とされることではないでしょうか。迫害者はそれを手助けしてくれているのです。なおこれは、厳密には、「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ばかりではありません。マタイは、「天」を、「目に見えない神のご支配の現実」という意味で用いています。イエスに従う者は、今、ここで、命を落すような迫害のただなかでも「喜びおどる」ことができるのです。

 私たちに求められていることは、誰からも非難されることがないような立派な人間になることではなく、イエスに従い続けることなのです。その中で、あなたは結果的に造り変えられて行きます。そして、それは神がなしてくださることです。「そのままの姿で、留まる」ことと、「そのままの姿で、従う」ことには天と地の差があるのです。

4.「あなたがたは、地の塩です。世界の光です」

イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたは、地の塩です」と断定してくださいました。塩が当時は防腐剤として用いられていたように、すべてのクリスチャンは地上の腐敗を防ぐ役割を持っています。しかも、ここでは、地の塩に「なる」ことの命令ではなく、塩けをなくすことへの警告が述べられています。誰にとっても、キリストに従うことは、人生でもっとも重大な決断を意味しますから、どんなクリスチャンであっても、「地の塩」としての役割を果たす十分な資格を持っているのです。ところが、私たちは、せっかくイエスに従うと決断したのに、しばしば、「この世と調子を合わせる(ローマ12:2)という誘惑に負けてしまいます。しかも、そこには、伝道のためには人の好意を得ておいたほうが良いという言い訳が生まれます。しかし、それは自分から塩けをなくしてゆく行動に他なりません。あなたは、すでに、「地の塩」にされています。その意味は、キリストに従おうとした原点に立ち返るとわかります。そのとき、あなたは世の人々ではなく、キリストにすがろうとしたのです。それこそ塩けの原点です。

あなたが塩けを出すのではなく、あなたのうちにおられるキリストが塩けを出しておられるのです。それなのに、私たちは、しばしば、人の期待に沿うことばかりを優先してしまいます。しかし、それこそ、塩けを失う道、つまり、「外に捨てられ、人々に踏みつけられる」(5:13)という自滅への道なのです。

さらにイエスは、「あなたがたは、世界の光です」と言われました(5:14)。ここでもイエスの命令は、光に「なる」ことではなく、光を「隠してはならない」ということです。ここで、「山の上にある町は隠れることができません」と記されますが、当時の町は、ほとんど山の上に建てられていました。同じように、クリスチャンは、何もしていないようで、おのずと目立った存在にされているのです。自分が望まなくても、おのずと証をする機会は与えられるものです。そこでは自分を卑下するような謙遜や、虚勢を張ったような証などはまったく必要ありません。

あかりをつけて、それを枡の下に置く(5:15)というのはアイロニーです。当時のあかりは、皿のような器に油を入れて、その先に芯をつけて燃やすような簡単なものでした。そのため、安全のためには、直ぐに火を消すことができるように「枡」のような覆いが不可欠でした。つまり、ここでは、苦労して火を灯したあげく、誰がそれを火を消す道具の下に置くだろうかという、当然の反語が記されているのです。

これは私たちにとっては、ようやくクリスチャンとされたのに、その喜びをわざわざ消すような愚かなことをしてはならないという警告です。神があなたを救い出してくださったのは、あなたを通してご自身の栄光を現すためです。あなたがクリスチャンであれば、あなたが隠そうとしない限り、おのずと、光はあなたの中から発せられているのです。それは、「栄光の望み」であるキリストご自身が、あなたの心の中におられるからです(コロサイ1:27)。多くの人々は、自分の能力が発揮でいているとき、輝いていると思いますが、それは必ずしも「いのち」が輝いていることを意味はしません。得意において褪せる「いのち」もあれば、失意の中で輝く「いのち」もあるからです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい(5:16)ということばは、しばしば誤解されます。これは前節までの流れと不可分であり、「光を隠してはならない・・・」ということが全体的な趣旨です。確かに、「輝かせなさい」という命令が強調されていますが、それは、良い行いを人に見せることでも、人々に天の父をあがめるように説得することでもありません。しかも、キリストに従う者は、おのずと輝きだすのですから、「輝かせなさい」とは、人々の前で自分のクリスチャンとしてのアイデンティティーをあらわにしておくことに他なりません。

しかも、「あなたがたの良い行いを見て」とは、すでに起こっている「良い行い」で、これから、人々が感心するような良い行いをするようにという勧めではありません。良い行いの基準は、神が決めるものです。それによれば、私たちがこのように日曜日、ともに集まって、天地万物の創造主を礼拝していること自体が、神に喜ばれる最も良い行いです。その他の行いは、礼拝する姿勢から自ずと生まれてくるものです。

私たちはしばしば、この世の基準による「良い行い」、すばらしい働きや成果を追い求めますが、実は、そのとき、心の奥底では、神ではなく自分の名声を求めているということがあります。もし、私たちが、あくまでも、礼拝や日々のディボーションを大切にするなら、人々は、はじめは理解できなくても、やがて、神を礼拝することの大切さを知り、「人々が・・・天におられるあなたがたの父をあがめるように」変えられるのです。

 私たちは、他のクリスチャンと比べて、「こんな自分はイエス様から愛されない!」と勝手に思い込んで落ち込むことがあります。しかし、イエスは、このままの私たちを愛して、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを聖徒としてくださいました。「もっと用いられたい」「もっと輝きたい」という願いを持つ前に、キリストがこのままの私たちを、このままの姿で、「地の塩」「世の光」としてくださったことを覚えましょう。

私たちはクリスチャンとしての歩みの中で、自分の心の奥底にある醜い思いに唖然とさせられ、「イエス様は、こんな私をお用いになることはできない」と自分を卑下することがあります。しかし、イエスが語れる「良い行い」とは、人々に気に入られるようになることではなく、自分の罪深さに涙を流しながら、イエスに従うことです。あなたを輝かせてくださるのは、あなた自身ではなく、イエスがなさってくださるみわざだからです。

塩と光には共通する点があります。当時のイスラエルの塩は、一般的に、死海から取られたものですが、それは不純物が混ざった塊として採取されます。塩として役立つためには、砕かれ、不純物が取り去れなければなりません。また光は、燃焼によって生まれますが、それは油が自分を失ってゆく過程に他なりません。そのようにイエスが私たちの内で働くことができるためには、まず、私たちのアダムのままの自分が砕かれる必要があります。

私たちは、何のために生かされているのでしょう。それは、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜び楽しむため」に他なりません(ウエストミンスター小教理問答)。それがイエスに従う歩みです。そのとき私たちは自分ではまったく輝いていないと思いながら、現実には「世界の光」としてますます輝きを増して行くことができます。

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2011年7月 3日 (日)

マルコ4:35-41「わたしがあなたとともにいるから」

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 福島原発5kmに立つ福島第一バプテスト教会から避難民をリードして来られた佐藤彰先生が、今回、自分たちが流浪の教会にならざるを得なくなったことをとおして、初めて、イザヤ431-4節が本当に心の底に落ちてきたと言っておられました。

彼は当然ながら、何度もそこを読み、またその箇所からメッセージをしてきましたが、本当の意味ではわかっていなかったように思うと言っておられました。そこには、次のように記されています(私訳)

 「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。

―ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が。―

『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだから。あなたの名をわたしは呼んだ。

あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる。

川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。

だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする。

恐れるな。わたしがあなたとともにいるから。』」   

残念ながら、私たちはごく平凡な生活の中では、神が私たちとともにおられるということの意味を心の底から味わうということができません。その意味で、私たちには適度に、人生の海の嵐に遭遇する必要があるのではないでしょうか。

福島第一原発で作業しておられる方のご家族が、佐藤先生の一行とともに奥多摩に避難して来ました。夫は、家族のことを思いながら、仕事をやめることも考えておられましたが、家族が教会の輪の中にいるから、その過酷な職場にも安心して行けると思えるようになりました。

そしてこの教会は、何人ものそのような方々を、このイザヤ書のみことばを朗読しながら、涙を流しつつ、被爆の大きな危険をはらむ作業場に送り出しておられます。

原発に関しては様々な意見がありますが、現在の放射能漏れを防ぐためには、身の危険を侵してでも現場で作業する人が必要だということだけは明らかです。

私たちの人生に必要な知恵は、人生を襲う嵐を避けることよりも、嵐の中でも、落ち着いて、なすべき責職場にも任を果たすという勇気ではないでしょうか。それこそ信仰です。

1.「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」

  ガリラヤ湖は南北21km、東西13kmの広さで、ヨルダン渓谷に位置し、湖面は海抜-210mの低さにあり、回りを海に囲まれた美しく豊かな湖です。ただ、この特殊な地形のため、夜になると突風が陸から海に向けて吹くことがありました。

イエスはその日、西の湖畔で「おびただしい数の群集に」に向かって、「湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ」ながら、「たとえ」をもって話され、その後、身近な弟子たちにだけその意味を解き明かしておられました。

その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに」、「さあ、向こう岸へ渡ろう(4:35)と言われます。

そして、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした(4:36)と描かれますが、「舟に乗っておられるままで」という表現は、41節の「舟に乗り、そこに腰をおろされ」ながらお話しされた、その延長のままということを指しているのだと思われます。

410節では、「イエスだけになったとき」とありますが、これはそのときのことではなく、後の日のことを指しているのだと思われます。とにかく、イエスはその日、ずっと、舟に腰掛けたままで、たとえをもって、印象的でありながら意味のわからないお話をし続けておられたのではないかと思われます。イエスがどれだけお疲れになったかは、想像にあまりあることです。

なお、ここでは、「他の舟(複数)もイエスについて行った」とありますから、ひとつの舟だけに、弟子たちが乗り切れなかったことは明らかです。

1986年にガリラヤ湖の西北岸の昔のマグダラの町のあたりで、イエスの時代のものと思われる舟が発見され、世界的な話題になりました。それは長さ8.2m、幅2.3m、高さ1.3mという大きさのもので、多くの学者が、これはイエスの時代の漁師たちが用いていた舟と同じものではないかと推測しています。

そのような中で、この舟を襲った危険のことが、「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」(4:37)と描かれます。ところが、そのとき、「イエスだけは、とも(船尾)のほうで、枕をして眠っておられた」4:38)というのです。

ここではわざわざ、「枕をして」と記されていますが、これは単なる、居眠りではなく、イエスが意図的に、熟睡しようとしておられたことを示しています。これは別に、ご自分の安心感を弟子たちに模範として示そうとされたというより、私たちと同じ弱い肉体を持っていることの生理的な必要から出ていたことと思われます。

しかし、それにしても、舟が波をかぶって、水浸しになっているのに、敢えて眠り続けることができるというのは不思議です。そこには深い安心感が見られます。

たとえば、私は、旅行に行くと眠ることがなかなかできません。ところが、床屋さんに行くと、不思議に眠ることができます。自分でも不思議なほどです。それはたぶん、心の底に、「ここでは眠っても大丈夫」というプログラムができているのかもしれません。

同じようにイエスは、どんな大波が襲おうとも、この舟は沈むことなどありえないという安心感を持っておられたのだと思います。

ところが、そのとき、生まれながらガリラヤ湖に親しんできている漁師のペテロをはじめとする弟子たちが、あわてふためいて、「イエスを起こし」たばかりか、「先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけながら、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」(4:38)と訴えます。

これは厳密には、「私たちが滅びて行くのがあなたには気にならないのですか」と訳すことができます。普通うならば、漁師である弟子たちの方が、イエスを気づかってしかるべきなのに、彼らはパニックのあまり、イエスの無関心を責めることばを語ったというのです。

それほどまでに、イエスの眠っている表情には、安心感が満ちていたということではないでしょうか。

それにしても、ここに弟子たちの信仰が見られます。彼らは、イエスが何かができることを期待しているからこそ、自分たちが経験したこともないような嵐に襲われ、何にもできないと思う中で、このような発言をしたとも言えましょう。

私たちは、人生が制御できないと思うと、不安で眠られなくなります。しかし、イエスにとって、この嵐は制御不能ではありませんでした。主は、父なる神との深い交わりの中で安心しておられたからです。

私たちも、眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守りください。この身体、たましい、すべてのものをあなたの御手にゆだねます・・悪い敵が私を害しませんように」と祈ることができます。

そして、イエスは、この嵐も父なる神の愛の御手のなかで起こっていることを知っておられました。それをイエスは別の機会に弟子たちに向かって、「そんな(安っぽい)雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われました。

2.「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」

そして、そのときイエスは起き上がってすぐに、「風をしかりつけ」、湖に向かって、「黙れ、静まれ」とお命じになられました。これは、「落ち着け。沈黙しろ」とも訳すことができることばです。

これはまるで、騒いでいる子供をたったひとことで黙らせることができる教師の権威あることばのようです。すると何と、「風はやみ、大なぎになった」というのです(4:39)

なお、「しかる」とは、親が子供をしかるとか、悪霊を厳しく「責める」というようなときのことばです。それは、イエスのことばに「光があれ」と言って、光を創造された創造主の権威があったことを示します。

その上でイエスは彼らに、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(4:40)と言われます。これは、「何と臆病なことか。まだ確信がないのか?」とも訳すことができます。それは、彼らが、イエスも父なる神をも、本当には知っていなかったからです。

タイタニックは沈まない船と言われていましたが、映画の中で、「鉄は沈む・・」と言われていたのが印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があります。しかし、この舟には神の御子イエスがいっしょに乗っているのです。それが沈むのを、父なる神が許すはずはありません。

そして、弟子たちはこのことを通して、「彼らは大きな恐怖に包まれ」、そして、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と、「互いに言った」というのです(4:41)。これは、イエスが単なる律法の教師(ラビ)ではなく、「風も水も、お命じになれば従」わせる権威者だと知ったという意味です。

彼らが、もし、イエスがどのような方であるかを本当に知っていたとしたら、イエスをどんな嵐よりも恐れたことでしょう。そして、真にイエスの権威を恐れていたとしたら、イエスが乗っている舟が沈むことはないという確信を持つことができたに違いありません。

私たちは真に恐れるべき方を恐れない結果として、恐れなくてもよいことを恐れてしまうのです。

私たちの回りにも、様々な不安な材料があります。何よりも怖いのは、自然よりも、人間かもしれません。それは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(エレミヤ17:9)とある通りです。

しかし、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われたように、真に恐るべき方は、神おひとりです。

神への恐れを、「畏敬」と言い換えたほうが良いという意見もありますが、ヘブル語でもギリシャ語でも、人への「恐れ」と神への「恐れ」を区別するような言葉使いはありません。

多くの人は、真に恐れるべき方を恐れないことの結果として、恐れなくても良いことを恐れるようになります。それは心理的な現実でもあろうかと思います。

たとえば、大きな戦争の恐怖にあるときには、人は小さな心配のことは忘れます。それと同じように、私たちを滅ぼす力を持つ神を真に恐れることは、人への恐れをなくする力になります。

  ただし、神は、ご自身にすがってくる者を退けることは決してないというのが、聖書全体を通して知らされている私たちの確信でもあります

しかも、私たちの傍らには、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエスがいてくださいます。主がともにおられるのですから、どんな人生の嵐に直面しようとも、私たちは恐れる必要はないのです。

恐れてはならない」のではなく、主にすがる者は、この世の恐れに惑わされる必要がないという意味です。

3.人生の海の嵐の中での平安

この記事で興味深いのは、イエスがともにおられながら、プロの漁師の目にも、舟が沈没寸前になってしまったということです。しばしば、多くの人がこの世を超越した神のような存在を礼拝する理由に、「罰が当たるのが怖いから・・・」というのがあります。しかし、もし、「どんなに誠実に礼拝生活を守っていても、あなたの人生には、必ず何らかの災いが起きる・・・」と言われたら、どうでしょう・・・。

そんな中で、「神を信じて、何になるのか・・・」と思う人もいるかも知れません。ただし、地震や津波や放射能漏れは、善人も悪人も問わずに襲ってくることがあります。そのとき、神を信じていなくて、どうして、誠実に生きようとする気力が湧いてくるのかと、私は反対に思います。

  イエスが現れる六百年前、エルサレム神殿がバビロンの軍隊によって徹底的につぶされ、その高価な器具が運び出されたときに、ユダヤ人は心から救い主を待ち望むようになりました。彼らは、「メシヤ(救い主)のおられるところ、不幸はない」と期待するようになりました。

ところが、現れた救い主は、十字架にかけられて殺されたのです。しかし、その方は三日目に死人の中から復活しました。苦しみをなくする代わりに、それを正面から引き受けた上で、奇想天外な脱出の道を開かれたのです。

それ以来、イエスの弟子たちは、「メシヤのおられるところ、不幸はない」という代わりに、「痛み苦しみのあるところに、メシヤはおられる」と言うようになりました。

2001年のスイスでのセミナーの最後に、チューリッヒの教会でシャガールのステンドグラスを見ながら黙想したときに、ユダヤ人が自分たちの苦しみの歴史をどのように見ているかが少しわかった気がしました。シャガールはユダヤ人として、常に、ナチス・ドイツによって六百万人もの同胞が虐殺されたことに心を向けていました。

彼が描いた五つのステンドグラスには、イスラエルの悲劇と同時に、「新しい天と新しい地」への栄光に満ちた希望の両面が鮮やかに描かれていました。

左端のステンドグラスは、下から上に鮮やかな赤で天に昇るエリヤの火の車からエルサレム崩壊の様子とエレミヤの嘆きが描かれていました。それは、血の色で、人間の罪の悲惨さを表します。それを見ただけで、私の心には何とも言えない不安と悲しみが迫ってきました。

一方、右端の窓には、最上部に十戒を受けるモーセが記され、そこから新天新地の預言を受けるイザヤまでの歴史がブルーで描かれています。この窓の下に座るとき、最初の赤い窓にこの青い窓が映って見えます。

それは、地上のどんな悲劇も、すでに聖書に書いてある預言の成就の一部分であることを示します。神は最後まで私たちの歴史の支配者であられます。そして、私たちはイスラエルの歴史に自分の人生を重ねて見ることができます。

  左から二番目の窓にも、鮮やかなブルーでヤコブの生涯のふたつの出来事だけが描かれていました。ヤコブは兄のエサウを出し抜いて祝福を奪い取りいのちを狙われ、ひとり寂しく旅に出ます。彼が旅の途中で石を枕に寝ているとき、天から地に向けてはしごが立てられ御使いが上り下りしているのが見えました(創世記28:10-19)

シャガールはリラックスして夢を見ているヤコブを御使いがはしごを上り下りする様子を窓いっぱいに描きました。神はこのときヤコブの傍らに立ちながら、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(創世記28:15)という保障を与えてくださいました。これこそすべてのクリスチャンにとっての確信の基本です。

その窓の真ん中には、それから二十年たって郷里に帰る途中、ヤボクの渡しで御使いと格闘し祝福されるヤコブの姿が描かれていました。それは、ヤコブが格闘というより、抱擁されている姿でした。この窓の色は、私の心の奥底に優しさに満ちた慰めとして迫ってきました。ヤコブの生涯に自分の生涯が重なって見えます。

そのセミナーで、改めて、寂しさと不安に駆り立てられている自分の姿が際立って見えました。しかし、先行きが見えないと思う中でも、「天の門」が開かれ神の祝福が取り次がれ続けています。そして、傷つき必死にすがりつこうとしている自分が神の御手であたたかく包まれています。

これは、私たちが理性を超えた腹の底で体験するものです。

右から二番目の窓は、ダビデ王国が、「新しいエルサレム」、また、「新しい天と新しい地」として完成する姿が描かれています(黙示録21)。ガラスの色は、黄色ですが、後ろから透き通って入ってくる光によって、栄光に輝く金色に見えます。それを見るとき、私たちの人生とこの世界が、まさに、栄光に輝く完成に向かっているとの確かな希望が心の底に迫って来ます。

私たちの地上の生涯にはいろんなことが起きますが、すべてのことが益に変えられ、目の前には喜びの賛美に満ちた世界が広がると約束されています。

私たちは自分の人生を、この世だけで終結させるわけではありません。どんなに成功に満ちた人生を歩んでいるような人でも、恥と苦痛に満ちた人生の最後を遂げるという人がいます。しかし、反対に、波乱万丈の人生を歩みながら、「私はやるべきことをやった。あとは神の御顔を仰ぎ見るときを待つのみだ」と平安に満たされて人生を閉じられる人のどちらがよいでしょう。

最後に、真ん中の窓の地の色は、落ち着いた希望を表す明るいグリーンでした。そこには、十字架の上にかかりながらそこから浮きあがっている復活のキリストが、私たちを高いところから慈しんで見ておられるように描かれています。それは、十字架と復活を同時に描くという画期的な絵です。

それは、私たちの生涯も、苦難と栄光がセットになっているということを語っています。まさに、「私たちはキリストとともに栄光を受けるために苦難をともにする(ローマ8:17)とある通りです。

私たちはこの世の不条理を嘆きますが、神の御子の十字架こそ、最大の不条理です。しかし、それこそが神の勝利でした。私は、この十字架と復活のキリストを仰ぎ見ながら、神ご自身がこの世界の痛みを担い、私たちに生きる力を与えてくださるという真理が心の底に迫ってきました。

  私たちの人生は、生れ落ちたときから私たちのコントロールの外にあります。そんな中で、自分の過去を、生まれ育った親や環境を恨みながら暗い人生を送る人がいます。一方、恵まれた環境に育ったことを自分の功績であるかのように誇りながら人の痛みに鈍感な人がいます。どちらのタイプもこの世をますます住みにくくします。

しかし、私たちが自分の人生を、上記の五つの窓の光を通して見るときに、自分自身が神の愛に包まれていることを確信し、他の人を愛とあわれみの眼差しをもって見ることができるのではないかと思わされました。実は、これこそ、そのセミナーの結論でした。言われてみれば何も新しいことはありません。

しかし、私たちの問題は、頭で理解していることが人生の実感となっていないことです。私自身、不安を持った自分自身が、神の愛の御手に抱擁されているということを、理屈では分かっていましたが、腹の底に落ちてくるという実感を味わうことができずにいました。しかし、そのきっかけをそのセミナーで受け取ることができたように思います。ヤコブ自身も一生かかってようやく理解した霊的な事実です。

シャガールは神に抱擁されるヤコブを繰り返し描いていますが、それを彼自身も心の底で体験し、それがこのステンドグラスになったのだと思わされました。

たったひとことで、嵐を静めることができる方が、あなたの人生の同伴者となってくださいました。何という恵みでしょう。イエスがともに歩んでくださるからこそ、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことができます

父なる神と御子イエスは私たちひとりひとりに、「恐れるな。わたしがあなたとともにいるから。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)と仰せられます。

多くの人は、しばしば、恐れに囚われるあまり、語るべきことを語れず、なすべきことをなすことができません。自分の小さな世界の平安を求めるのではなく、神が私たちに期待しておられる人生を堂々と歩んで見ましょう。小さな損得勘定に囚われると、神が約束しておられる向こう岸にある大きな祝福を逃すことになりかねません。

ある人がユダヤ人のラビに、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じることができるのですか」と聞いたところ、ラビは長い沈黙の後、聞き取れないほど小さな声で、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じないでいられるのですか」と反対に聞いたとのことです。

どちらにしても、この世には常に、痛みや悲しみが尽きることはありませんが、それを神はともに担ってくださるからです。

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