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2011年11月13日 (日)

エズラ記9,10章 「この世と調子を合わせてはいけません」

                                              20111113

  私たちは今、新しい会堂の候補地を探していますが、物件が少ない中、予算と敷地面積から可能性のあるのは、競輪場の隣接地と、立川駅南口の場外馬券場を経由するのが近道という場所です。この数ヶ月、様々なご意見も聞きながら本当に悩んできました。

この世の中ではしばしば、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という葛藤の中で、より悪影響の少ない方を選び、最高のものは来たるべき世界まで待つという苦しい決断を迫られます。

本日の箇所も、これを文字通り私たちの指針とするには注意深くなければなりません。なぜなら、異教徒の妻を娶った人に、妻と子供を追い出すように命じられているからです。教会の歴史の中では、しばしば、教会がこの世と妥協しすぎたことの反動として、厳しい分離を強調することがありました。

たとえば、未信者との結婚を奨励するようなキリスト教会が増えてくると、その反動として、未信者との結婚を決めた人を除名するような教会が生まれました。日本の福音派は、後者のようにこの世との明確な分離を強調するアメリカの教会の影響を少なからず受けています。聖書に従うなら、同じ信仰に立つ人との結婚を勧めるのは当然のことです。しかし、その指導に反する行動をした人を教会から締め出すようなことは、より大きな問題の引き金になります。

イエスは、この世との分離ばかりを主張するパリサイ人から、「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と非難されるほどでしたが(マタイ11:19)、それは決して、この世の悪と妥協することを意味はしませんでした。ですから使徒パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)と、すべてを原点に立ち返って自分で考えるように勧めています。この世との境界線を杓子定規に指導することは、より大きな悪のパリサイ主義を招くことになるからです。

多くの信仰者は、「主のみこころがわからない・・・」と悩みますが、迷いながら祈っていること自体が主のみこころの中にあります。

1.「忌みきらうべき国々の民と・・・混じり合ってしまいました」

「これらのことが終わって後」とは、紀元前516年にエルサレム神殿が再建された約60年後、「ペルシヤの王アルタシャスタの治世の第七年」(7:7)紀元前458年にエズラがペルシャ王の勅令を受けて、エルサレムの住民の信仰生活を建て直すために遣わされ、王からあずかった多額のささげものを神殿にささげた後の時代を指します。そこでエルサレムに既に住んでいた指導者たちから、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです」(9:1、2)という訴えがなされました。

それを聞いたエズラは、「着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわって」(9:3)しまいました。このような激しい反応は、エルサレムに既に戻っていた同胞たちが自分たちの歴史をまったく理解せず、まったく同じ過ちをしようとしていたことへの失望と怒りを示します。

私はモーセ五書の解説書のタイトルを、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って・・」とさせていただきましたが、それは申命記7章7節のみことばです。ただ、その直前には、神が約束の地の先住民との戦いに勝利を与えて、その地を占領させてくださるときには、「彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない」(同7:2,3)と厳しく命じられています。

これは結婚の誓約に似ています。聖書に基づく結婚式は、互いの愛を誓い合うことによって初めて成立します。そして、その誓約の基本は、結婚によってたとい自分に不利な事態が生じるようなことがあっても、相手を愛し続け、決して浮気はしないと約束することにあります。

ですから、神の愛を受ける民とされることと表裏一体に、他の神々を決して拝まないばかりか、そのような風習を断固退けると約束することが求められます。そして、日本の法律でさえ、浮気によって結婚が壊れた場合には、浮気をした方が慰謝料を支払わなければなりません。まして、神との約束を軽く見て、霊的な浮気をする者は、厳しいさばきを受けるのは当然です。ところがイスラエルの民はなおも、神が何に対して怒っているのかが見えていませんでした。

ところで、モーセ五書においては、約束の地の先住民の罪をさばく手段としてイスラエルの民が用いられていますから、そこでは俗悪な偶像礼拝によって退廃していた「カナン人やヘテ人」などの先住民族を容赦せずに絶滅することが命じられていました。それは、癌細胞が広がるのを徹底的に抑えることができなければ健全な細胞が生き残れないことに似ています。まして、その地の先住民と結婚するなどということは論外でした。

ところがイスラエルの民は先住民たちとの共存の道を探りました。その結果が士師記に見られるおぞましいイスラエルの民の歴史です。しかし、神は彼らを繰り返し苦難の中から救い、民を導く指導者を立ててくださいました。その最高の指導者がダビデでした。しかし、彼の後継者のソロモンは、エルサレム神殿を建てた後、近隣諸国の美女を集め、彼女たちのそれぞれの偶像礼拝を支援しました。その結果、イスラエルの民全体が偶像礼拝に流れ、神の怒りを買ってしまい、神はご自身が民の真ん中に住まわれるという象徴としてのエルサレム神殿を捨て去り、民はバビロンの地に奴隷として引っ張って行かれました。

エズラはその歴史をイスラエルの民がまったく理解していないことに驚きながら、「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです・・・」(9:6)と心から祈っています。

聖書全体のストーリーを読むと、イスラエルの民の何よりの問題は、神の愛の語りかけを忘れ、神の明確な命令を非現実的なことと軽蔑したことにあります。彼らは先住民との戦いのただ中にありましたから、彼らと戦うよりも結婚関係を結ぶことによって共存の道を選ぶほうが、現実的に思えます。しかし、そのようにするとき、彼ら自身が現地の悪い習慣に染まってしまい「地の塩」としての役割を失ってしまいます。目の前のことに現実的に対応しようとすることが、神がイスラエルを選んでくださったということの原点をまったく無に帰させてしまうのです。

河合隼雄が以前、「日本人という病」という本を書きましたが、その中で、震災のときに暴動も略奪も起こさず静かに助け合っている日本人の姿と政治のリーダーシップの欠如ということは表裏一体であると書いてあって、妙に納得しました。以心伝心で合意を形成する文化は明確なビジョンを示す指導力を排除する傾向に結びつきます。かつての日本が一致団結して第二次大戦の悲惨に突入して行った姿と、原発安全神話をコンセンサスにして今回の大事故に至ったプロセスは非常に似ています。その場その場での人と人との結びつきを大切にするために、将来を見据えた決断ができずに問題を先送りしてしまうのです。

その結果が、たとえば現在の年金問題や国民総生産の二倍にも及ぶ国家債務の問題になっています。村社会の和を乱すこと自体が最大の悪とされる文化の中では、長期的にはベストの選択ではあっても、当面の痛みを伴う外科手術のような問題解決は困難になります。

聖書の適用も日本では、「日本人という病」の影響を受けます。しかし、私たちは神との交わりを第一とするために、どこかで対決をしなければならないことがあります。

たとえば私は入社一年目の札幌支店営業時代に、本社の人事部の要請で新入社員の採用のお手伝いをしました。命令系統を超えた依頼でしたので、本社の次長から、「もしできたら、日曜日に出勤して採用の手伝いをしてほしい」と優しく要請されました。私は、「日曜日の朝は礼拝に行くことにしていますから、そちらを優先させてほしいのですが・・」とお断りしました。人事部の要請を断る新入社員ということで強烈な印象を与えたように思いますが、それを言えた事は、自分の立場を明確にする大きな契機になりました。おかげで、「それでもクリスチャンか・・」と罵倒されることもありましたが、基本的に、周りの人々が私の休日の生活に理解を示してくれるようになりました。社費でドイツに留学させてもらえたのもその流れがあったからかなとも思います。

ただし、私の場合は、仕事や会社のお付き合いよりも礼拝生活を第一としていたという割には、礼拝中は居眠りをしたり、日々のデイボーションも疎かであるといういい加減な信仰生活でした。しかし、敬虔な行いができることよりも、どなたとの関係を優先するかという点で、私の信仰は守られてきたと思えます。

私たちもどこかで、この世との区別を明確にする必要があります。この世との融和ばかりを優先すると、何のためにクリスチャンとされているかが見えなくなります。

イエスも、「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(マタイ10:33)と厳しいことを言われました。この世に埋没してしまうクリスチャンは、自分でイエスの助けを拒絶し、自分で自分の首を絞めているのです。

2.「私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるため」

イスラエルの民は、自分から神を捨てたのですから、この地から消えてしまっても仕方がありませんでした。実際に北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされた後、他の地域に強制移住させられ、移住先の住民に同化させられ、民族としてのアイデンティティーを失ってしまいました。

しかし、南王国ユダの民は異なりました。そのことをエズラは、「しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主(ヤハウェ)のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした」(9:8)と述べています。ここでの「釘」とは天幕を張るときの杭のようなものを指し、最近のフランシスコ会訳では、「聖なる所に住処(すみか)を与えられました」と訳されています。これは神が、バビロンにおいてご自分の民を守り通し、エルサレムへの帰還を導き、そこに住処を与えてくださったことを指します。

そればかりか、主は「ペルシヤの王たち」を用い、「神の宮を再建させ」てくださいました。ところが彼らはその神のあわれみを軽蔑し、神の民としての独自性を捨てようとしていたのです。

エズラは9章11節から、まずレビ記18章24,25節を引用します。その中心テーマは「地の汚れ」です。彼らはその地の偶像礼拝によって汚れた地をきよめる必要がありましたが、その汚れに呑み込まれるなら、彼ら自身もその地から吐き出されてしまわざるを得ません。

その上で、先の申命記7章の記事が引用されますが、そこではその地の住民と交じり合って偶像礼拝の悪習に流れるなら、「主はあなたをたちどころに根絶やしにする」(4節)と警告される一方、主の愛に応答して生きるなら、「あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる」(14節)と約束されていました。

しかし、彼らはこのように明確な警告と約束があったにも関わらず、その汚れた地の風習になじみ、また「忌みきらうべき国々の民」と混じり合い、滅びを招いてしまいました。

それなのに彼らは、せっかくエルサレム神殿が再建されたというのに、「再び・・(主の)命令を破って、忌みきらうべき行いをする・・民と互いに縁を結んで」しまいました。それでは主が彼らを、「絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされる」可能性があります(9:14)。

そこでエズラは、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)。あなたは正しい方です」と呼びかけ祈ります。それは主がご自身の「正しさ」(真実)のゆえに彼らを「のがれた者として残され」たからです。8、13-15節では「逃れた者」という言葉が四回繰り返され、神がイスラエルの「罪過」にも関わらず、彼らを主の「御前に立つ」ことを許してくださっていることが強調されます(9:15)。エズラはその主の正しさとあわれみにすがろうとしていました。

  エズラは神のあわれみによって自分たちが今、なお生かされ、エルサレム神殿までもが再建されたことを心から神に感謝しながら、同時に、その神のあわれみを軽く見ることの危険を心から悟っていました。「神の仕事は、罪人を赦すこと・・」などという傲慢な態度ほど危険なものはありません。私の神学校の恩師は、「キリストの十字架を罪の消しゴムのように甘く捉えてはならない」と繰り返しておられました。

私たちはみな、罪に満ちた世界のただなかに生かされており、この世は富と力によって、私たちを支配しようとします。私たちもこのときのイスラエルの民と同じように、自分で自分の行動を決めることができない部分があります。いわゆる「この世のしがらみ」の中に生かされているからです。しかし、同時に、そこには深い神のあわれみとご配慮があります。私たちが信仰に立つことができるようにと、神ご自身が立たせてくださっています。その神のあわれみを決して軽んじてはなりません

 アジアの文化においては、親分子分のような序列の関係がいたる所に生きています。それを否定的に見ては、この社会で自分のやりたい仕事すらできなくなるということも忘れてはなりません。

ただ、どんなに目をかけてくれる権力者がいても、神との関係よりもそれを優先してはなりません。最高の権力者を忘れてしまっては、すべての働きは最終的に無に帰してしまいます。目に見える人間の恩義よりも、神の恩義の方がはるかに重いからです。

3.「この地の民と、外国の女から離れなさい」

そして、「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた」(10:1)というのです。これは捕囚から帰還した民が、エズラの嘆きに合わせて自分たちの罪を深く嘆いたことを示します。そればかりか彼らは、「これらの(外国の)妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください」(10:3、4)と驚くべき提案をしました。

そこで、彼らは、「捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように」と命令を出すとともに、「三日のうちに出頭しない者はだれでも、その全財産は聖絶され、その者は、捕囚から帰って来た人々の集団から切り離される」という警告までつけていました(10:7、8)。

その後のことが、「それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちに、エルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった。こうして、すべての民は神の宮の前の広場にすわり、このことと、大雨のために震えていた」(10:9)と記されます。これは私たちの暦では12月ごろのことで当地の最も寒い季節でした。彼らは寒さと恐れで震えていました。これほど大規模で悲しみに満ちた集会はなかったことと思います。

 その中で「祭司エズラは立ち上がって」、「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、主(ヤハウェ)に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい」(10:10、11)と命じました。

それに対して、「全集団は大声をあげて」、「必ずあなたの言われたとおりにします」(10:12)と応答しました。ただ、そこに集った民はあまりにも多く、また主の命令に背いている民もあまりにも多いため、それぞれの氏族の代表者だけが残り、議論を重ねました。

そこに「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤだけは、メシュラムとレビ人シャベタイの支持を得て、これに反対した」と記されますが、それがどのような意味での反対であったかは明らかにされていません。ただ、妻も子もすぐに追い出すという提案に異論が出るのは当然のことと言えましょう。

それ以上に、大多数の者がエズラのことばにそのまま従ったということ自体が驚きです。それは彼らが、自分たちの罪の深刻さを悟ったからです。

 その上で、「祭司エズラは・・一族のかしら・・をみな、名ざしで選び出し」ました(10:16)。それは調査チームをエズラの権威の下でまとめるためです。そして、会議は「第十の月の一日」から始まり、「第一の月の一日まで」に、「外国の女をめとった男たちについて、みな調べ終え」ました。何とすべてを調べるのに三ヶ月も要したというのです。その上で、外国の女を娶った祭司の名が記されます。彼らは民を指導する祭司の立場でありながら、自分も同じ罪を犯し、民を誤った道に引き入れてしまいました。

それで「彼らはその妻を出すという誓いをして、彼らの罪過のために、雄羊一頭を罪過のためのいけにえとしてささげ」(10:19)ました。その上で、外国の女をめとった人々の名が記されます。調査に三ヶ月がかかったにしては短いリストですから、これは抜粋と言えましょう。

その上で最後に、「これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた」(10:44)と記されています。これは本当に心が痛む記述です。しかし、それにしても、このように罪を明確にすることによって、二度と同じ過ちを繰り返さないという決意の現れです。

しかし、ネヘミヤ記13章を読むと、この約25年後にはるかに小さな規模にせよ、イスラエルの民は再び同じ問題に直面せざるを得ませんでした。

  なお、私たちは当時のイスラエルの民とは異なり、聖霊を受けることによって新しい神の民とされています。その証として私たちはレビ記で食べることが堅く禁じられている豚肉もイカもタコも食べることができます。ですから、エズラによる分離の命令を、そのまま新約の時代に適用する必要はありません。

そのことをパウロは、Ⅰコリント7章12-14節で、自分の個人的な見解と注意しながら、「これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです」と言っています。つまり、エズラ記の記述は、新約の時代には文字通りは適用する必要はないというのです。

しかし、続けてパウロは、「しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか」とも記しています。それは、神と自分との関係はいかなる夫婦関係にも優先するという意味です。聖書は基本的に、夫婦の関係をすべての人間関係の基礎と見て尊重しています。しかし、それを守ろうとすることが、神との関係を壊してしまうことになるなら、離婚もあり得るという点ではエズラとパウロに矛盾はありません。

  エズラの命令は、あくまでも、「主があなたがたを恋い慕って・・」と記されている申命記7章との関係で理解される必要があります。それを新約のことばで言うと、「この世と調子を合わせてはなりません」という原則になります。私たちは自分を愛し、選んでくださった方を喜ばせるために生きるのです。決して、この世の人々の歓心を得ることやこの世と衝突しないことを優先してはなりません。

イエスも、「塩が塩けをなくしたら・・踏みつけられるだけ」だと警告されました(マタイ5:13)。私たちを支えてくださる神を忘れて、この世の人々の歓心を得ようとしても、最終的には、神と人から見捨てられ、踏みつけられるだけです。

しかし、神は、ご自身との交わりを大切にしようとする者は、どんな非道な罪を犯した人であっても、赦し、守り通してくださいます。神の命令の背後には、主があなたがたを恋い慕っておられるという、主の熱い愛の語りかけがあることを決して忘れてはなりません。周りの人から敬虔なクリスチャンと評価されることよりも、神にすがり、神のあわれみに感謝しながら生きることを第一に求めましょう。

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