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2012年3月25日 (日)

箴言22章1-23章11節 「主をおのれの喜びとせよ」

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  多くの信仰者の愛唱歌に、「キリストには代えられません」(I’d rather have Jesus than silver or gold)という名曲があります。ただその内容を吟味して歌わないと、富や名誉をさげすむ禁欲的な生き方こそが、信仰者の歩むべき道であると誤解されることになります。

富も名誉も、この世界では非常に大切な宝です。それを軽蔑する者は、どこかで人にとんでもない迷惑をかけることでしょう。そこでは、富や名誉はこの地において確かに大切であるということを前提に、キリストを知ることはすべての地上的な宝に勝ると歌われているのです。すると、この曲は、キリストを知ることのすばらしさを知らない者にとっては、非常に危険な歌かもしれません。

なお、詩篇374節には、「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されています。そして、キリストを知るということの中に、私たちがなかなか意識することができない「心の願い」のすべてが込められているのです。

 

1.「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」

22章1節は、「名声は多くの富よりも望ましい」と新改訳で訳されますが、「名声」というと、何か名誉欲を肯定しているように誤解される可能性があります。原文では、「名は多くの富よりも選ばれるべきもの」とも訳すことができます。武士道では、「命惜しむな。名をこそ惜しめ」と言われましたが、それに似せて、「金を惜しむな。名をこそ惜しめ」とい言い換えることができましょう。

「名は体(たい)を表す」と言われますが、多くの富が目の前に積まれたときに自分の信念を曲げるような人を誰が信頼できるでしょう。そして、そのことが、「愛顧は銀や金にまさる」と言い換えられます。

金銀を第一に考える人は、他人の信頼を得ることができません。しかし、信頼を大切にする人のもとには結果的に金銀も集まってくるということがあります。その意味で、「愛顧は金銀にまさる」と言えましょう。

 

「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である(22:2)とは、富む者と貧しい者を、主の創造という観点から見ることの勧めです。残念ながらこの世界では必然的に富む者と貧しい者の格差が広がる傾向があります。主はそれを出会いの機会に変えてくださいます。

富む者はしばしば心に余裕がありません。しかし、彼らは貧しい者を助けることによって心が豊かにされます。貧しい者は、失う物が少ないということで心の自由を持っています。彼らはそこから生まれる笑顔によって豊かな者を助けることができます。

たとえば、豊かな日本の子供はいつも何かに駆り立てられて心に余裕がなく、フィリピンの子供は伸び伸びと生き、笑顔が豊かであると言われます。神はその出会いを通してご自身の創造の豊かさを示してくださいます。

 

 利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける」(22:3)ということばは、「君子危うきに近寄らず」ということわざに似ています。

それに対して、「わきまえのない者」は自分の欲望に引きずられるかのように、自分から進んで危険に飛び込み、自業自得で罰を受けることになりがちです。

 

  「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(22:4)とありますが、「謙遜」とは「苦しむこと」とも訳すことができます。詩篇11971節には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と記されていますが、「謙遜」は自分の努力で身に着ける徳というより、苦しみの中で自分の弱さに向き合い、そこで主のあわれみがなければ生きてゆけないことを悟るということです。

私たちは誰しも苦労を避けたいと思いますが、それを通してしか「謙遜」「主を恐れること」は学ぶことができません。しかし、それを身に着けるとき、しばしば結果的に、主が与えてくださる「富と誉れといのち」を楽しむことができます。

「富」を第一とするものは主を見失いやがて自滅せざるを得ません。しかし、目先の富の誘惑を退けて、貧しさの中で主を恐れることを学ぶ者は、「富と誉れといのち」という目に見える豊かさをも受けることができるというのです。

 

  しばしば、新約の福音が誤解されて、「富」や「名誉」を期待すること自体が悪であるかのように言われることがありますが、聖書が語る「祝福」の中心には、必ず、富や名誉、家族や友人関係などという地上的なことが含まれています

問われていることの中心は、名を選ぶか富を選ぶかとか、富を選ぶか主との交わりを選ぶかという優先順位の問題です。富も名誉も大切だからこそ、私たちにとっての偶像になるということが警告されているのです。

 

2.「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」

 「曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる(22:5)とは、詩篇1篇で「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人」と歌われるのと同じように、神に逆らう者と一線を画して、悪から遠ざかることの勧めです。

 

 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない(22:6)とは、自分の行動の結果責任を担うことができるように訓練するという意味です。

たとえば子供の怠慢を口で矯正しようとしながら、子供が恥をかくことがないようにと親が子供の代わりに責任を負ってあげるなどということは、子供をダメにするだけです。

子供の社会や学校という交わりの中で、子供自身がそれなりの制裁を受けるということを経験して初めて、子供は自分の行動に責任を持つということを学ぶことができます。子供には子供の負うべき責任があります。それを子供のうちに身に着けることができなければ、大人になってからとんでもない苦労をすることになります。

 

 その関連で、「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる(22:7)ということばを理解する必要があります。これは社会の厳しい現実を描いた表現です。「借りる者は・・しもべとなる」とは、自分を律することができなくて、いつも人の援助を仰ぐような生き方は、自分を奴隷の立場に追いやることになります。

 

その一方で、他人を騙したり、脅したりして自分の道を開こうとすることの愚かさが、「不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる」(22:8)と記されます。そこで、「怒りの杖はすたれる」とは、「怒り」によって人を動かそうとする人は、結局、人との信頼関係を損ない、自滅するという意味です。

その一方で、「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから」(22:9)と言われます。神はその人の善意に報いてくださる方です。そして、「寄るべのない者」に尽くすような行為に神は豊かに報いてくださいます。

 

  22章15節で、「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」とあるのは、6節との関連で理解される必要があります。残念ながら、よくよく見ると、子供の心には大人を利用ようとする自己中心で狡猾な心が宿っているという現実があります。しかし、それらは今まで見てきたように、自滅につながる愚か者の道です。それは「懲らしめの杖」によって断ち切る必要があります。

しばしば、性善説か性悪説かという議論がなされますが、それは儒教的な背景から生まれた議論に過ぎません。聖書は生まれながらの神のかたち」としての子供の心に宿るすばらしい性質と同時に、生まれながらの罪人としての性質の問題を扱っています。

 

しばしば、ドイツ語で「教育」は、Erzieungと記されるように、そこには子供の才能を引き出すという意味が込められていると言われます。それはその通りで、それがシュタイナー教育やモンテッソーリー教育などに現れています。

しかし、ドイツ語の「教育」にはAusbildungということばもあります。これは外から形作るという意味で、師匠が弟子を厳しく訓練して育てるような教育を指すとも言われます。聖書の人間観は性善説や性悪説などという枠に収まるものではありません。

「教育」においては、「個性の尊重」と「懲らしめの杖」の両面が大切にされていると言えましょう。キリストの教会はどんな人にも優しくという原則が大切にされますが、怠惰な人や無軌道な人を甘やかすことは決して、神の愛ではありません。子供をともに厳しく訓練するという姿勢も大切にしなければなりません。

 

また16節では、「自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる」と記されますが、これも一節からの流れと同じ関連で理解されるべき言葉ですが、ここでは「必ず」という言葉が印象的です。損得勘定によって動くような人は、人との信頼関係を損ない、最終的には自滅への道を歩むのです。

 

聖書の教えの核心は、イエスも言われているように、「聞きなさい。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい(申命記6:4,5)というみことばにあります。

そして、そこには続けて、「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい(6:7)と記されます。

子供の自主性や個性を引き出す教育の原則は、日本においてはまだまだ不足しているとは思いますが、それと並行して、聖書の核心を「教え込む」ことは、親に課せられた最大の義務であることを忘れてはなりません。

聖書は決して体罰を否定はしません。そこに子供を主の道に育てようとする親としての愛があるかどうかが問われているのです。

 

3.「他人の負債の保証人となってはならない??」

2217節から24章の終わりまでは30の箴言としてまとめることができます。そして、そこでは今までのように各節ごとにひとつのまとまりの意味があるのではなく、ほとんどの場合、ふたつ以上の節がまとまった意味を示すように記されています。つまりこれからの箇所では、文脈が今まで以上に大切になるのです。17-21節はその前書きの部分です。「勧告と知識についての三十句」とありますが、この「三十句」ということばの解釈については諸説あります。ただ、ここではより標準的な解釈として24章までを三十のことばに分けて解釈してみます。

 

 第一は、「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。【主】が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ(22:2223)と記されます。

聖書に記された「神のさばき」とは、権力者の横暴をやめさせ、貧しいやもめの訴えに耳を傾けるという趣旨で繰り返し説明されています。

 

第二は、「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから(22:2425)という勧めですが、これは第三の「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」(22:2627)ということばとセットに解釈されるべきです。

激しやすい者」は私たちの周りにいくらでもいます。彼らと交わるなと言われても、それは不可能です。問題は、激しやすい人の「わな」にはまることの危険です。

そして、27節は、他人の負債の保証人になることを全面的に禁じる勧めでは決してありません。これは何よりも激しやすい人のペースに巻き込まれて、保証人になることの危険を十分に調査もせずになってしまい、無制限の保証をして、結果的に住む家まで奪われてしまうようにならないようにと戒めたことばです。

 

 612節でも、「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによってあなた自身がわなにかかり・・捕らえられたなら・・」(6:1,2)と警告されていました。

また、「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ」(11:15)とか、「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」(17:18)などと記されていました。

しかし一方で、「良きサマリヤ人」のたとえでは、他国人である彼が、強盗に襲われたユダヤ人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、出がけに、十分な手当ての費用を宿屋の主人に払ったばかりか、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」保証した姿が、模範として記されます(ルカ10:35)

また、創世記では12部族の中でユダが主導権を持ったきっかけが記されています。そこでエジプトの宰相となっていたヨセフは、自分の正体を隠しながら、兄たちに弟のベニヤミンを連れて来なければ人質のシメオンを返さないし、食糧も与えないと脅します。しかし、父のヤコブはベニヤミンを連れて行かせることを渋りました。

そのときユダは、「私自身が彼の保証となります(43:9)と断言したばかりか、ベニヤミンが捕らえられたとき、「このしもべをあの子の代わりに奴隷としてください」と身代わりを願い出ました。そして、その後の展開を見ると、ユダ族の繁栄は、ユダがベニヤミンの保証人、身代わりとなったことから始まったと言えましょう。

 

聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました・・ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっていることでしょう」(Ⅰヨハネ3:16)と記します。

しかし、この場合の「」とは、見返りを期待せずに援助するということを意味しています。ところが、私たちが保証人となる場合、「いのちを捨てる」までの覚悟を決めて人を助けるというよりは、「この人は大丈夫・・・」という希望的観測があると思われます。ですから、裏切られたと思うときそれが恨みに転じます。

私たちは人との関係を築く際に、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(心は何よりも欺くもので、癒しがたい)(エレミヤ17:9)というみことばをも、同時に覚えるべきでしょう。

私たちはそれぞれ、「私の中には、いざとなったら何をしでかすか分らない罪の性質が宿っている・・」と自覚するからこそイエスにすがっています。それなのに、人を安易に信頼できるのでしょうか・・・。

 

覚悟を決めずに保証人となるのは、ギャンブルと同じでしょう。私たちはときに、保証人になる必要があります。その際、どの範囲の保証をするか、どのような人の保証人となるかを冷静に判断する必要があります。おこりっぽい者」「激しやすい人」の勢いに押し切られるような約束をすることは厳に戒めなければなりません。

 

4.「富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く」

 第四の、「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」(22:28)とは、土地の相続こそが神から与えられた使命であったことを背景に記されています。これは自分の目先の都合で、昔から受け継がれてきた原則をないがしろにすることを戒めたことばとしても適用できます。

第五は、じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない(22:29)とは、長期的にはその人の仕事の能力は、誰も目にも明らかになるということです。この二つは長期的な視野に立った生き方を勧めたものでしょう。

 

第六は、231-3節がまとまりで、権力者の接待には気を付けるようにという勧めで、「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから」と説明されます。

 

第七は2345節で、富を追求することの空しさが、「富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く」と描かれます。これは依存症的な生き方を戒めたことばとも言えましょう。

821節では、「わたし(知恵)を愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす」と断言されていました。私たちは「」ではなく、神の「知恵を得ようと苦労」するべきです。」はその「知恵」に付属してついてくるものです。

たとえば、あなたが人に何らかの大切な仕事をお任せるとき、何を重視するでしょうか。血筋や学歴、パソコンや語学能力よりも明らかに重視する基準が「知恵」ではないでしょうか。そして、人の信頼を得ることができる人は、黙っていても仕事が回ってきて、結果的に豊かさを手にすることができます。それは少し立ち止まればすぐに分ることです。

 

  多くの人は、目先のことに心を奪われて、最も大切なことを忘れてはいないでしょうか。たとえば、人はだれしも幸せを味わうことを求めています。しかし、自分のことしか考えないような人が幸せを感じることができないのは明らかです。

幸せ」は、富や権力に比例して増えるわけでもありません。そのことをソロモンは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1)と語っています。幸せは、何よりも神と人、人と人との交わりから生まれるものではないでしょうか。

そして、この世の仕事においても何よりも信頼関係こそが大切です。驚くほど豊かな能力や感性を持っていながら、信頼されない人もいます。

しかし、自分の弱さや愚かさを知ると同時に、神を恐れることを知るということこそ最高の「知恵」です。そして、そのような「知恵」を求める者は、確かに、良いものに何一つ欠けることがなく(詩篇34:10)、今ここで幸せを味わうことができます。

 

第八は236-8節がまとまりで、第六の戒めと同じような意味を込めて、「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうをほしがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする」と記されます。富に心を奪われることも空しいですが、同時に、富に心を奪われた人との交わりも同じように空しいものです。

マザー・テレサは、「富は悪であるというよりも不幸ではないでしょうか。富は人の気前の良さをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまいます。金持ちの客間にいると窒息するような気がします」と言っています。

ただ同時に、「金持ちを裁けるというなら、そういう私たちは一体何なのでしょう。私たちのなすべきことは、貧しい人と富める人たちとを向い合せ、両者の出会いの点となることです」とも言っています。不幸な金持ちの心を豊かにすることもキリスト者の使命です。

 

第九は、「愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ(23:9)とあります。残念ながら、こちらの善意の話がまったく通じない人はどこにでもいます。それをわきまえた付き合い方も大切な知恵です。

ただし、それもすべて隣人愛の原則から考え直す必要もあります。これで「愚か者」を無視することを正当化してはいけませんが、話が通じないからと言って落胆する必要もありません。それは人生につきものだからです。

 

第十は1011節で第四と関連が深いですが、権力を用いて自分の土地を広げようとする貪欲を戒めたことばで、「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑に入り込んではならない。彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ」と記されます。

神はこの世で無力なやもめや孤児の味方となってくださいます。社会的弱者を敵に回すことは神を敵に回すことだということを、権力者は心に留める必要があります。

 

権力や富は、この世を住みやすくするために非常に有効な手段ですが、同時に、そこには大きなわながあります。それらは人を傲慢にし、神を忘れさせてしまいます

そして、この世的な道徳においては、人間としての誇りとか信念とかが何よりも大切にされます。誇りも信念も持っていない人を親しい友として生きることほど危険なことはありません。しかし、それを警戒しすぎていては、もっと大切なものを見失ってしまうことになりかねません。

 

パウロはかつて、誇りと信念の人でした。しかし、伝道者として召されたとき、最も大切な人々の裏切りや中傷にさらされ続けます。

彼はその中で、自分の人間的な誇りを振り返りながら、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています(ピリピ3:7,8)と告白するようになりました。

ここで、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」ということばに何よりも注目する必要があります。この世では、富も名誉も権力も非常に大切な宝です。しかし、それはしばしば、神と隣人の大切さを見失わせる方向に働くことがあります。

一方、神とキリストとの交わりの中に入れられることは、私たちに必要なすべての宝が含まれます。より大きな宝を得るために、小さな宝を捨てるというのが信仰の選択と言えるのではないでしょうか。

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2012年3月18日 (日)

マルコ9章30-50節「神の国を今から生きる」

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 多くのクリスチャンの心の中に、「イエス様を信じて、良い人間になって、天国に入れてもらおう・・」という思いがあるかもしれません。しかし、そこでの天国とは、しばしば「極楽」の言い換えに過ぎないのではないでしょうか・・・

聖書は、「新しい天と新しい地」を待ち望むことを勧めています。それは、この世の様々な矛盾が解決された平和に満ちた世界です。労苦が無駄にならない世界です。生きることが楽しく、私たちの個性や独創性が自由に発揮される世界です。「人と自分を比べてばかり・・・」という比較地獄はもう存在しません。

そして、クリスチャンとして生きるとは、そのような神の国の価値観を、今、ここから生きるとういことです。それこそが神の国の平和を証するという生き方です。私たちは知らないうちに、神の国をこの世の論理の延長でとらえたり、また反対に、この世から逃避する場所と理解していないでしょうか。神の国は逃げ場でも、この世の価値観の延長の世界でもありません。

 

1.「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていた」

「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った(9:30)とは、ピリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白、ヘルモン山でのキリストの変貌、山を下ってからの引きつけを起こしていた少年の癒しの後のことですが、イエスはこのときガリラヤでの宣教活動を終えて、十字架にかかるためにエルサレムに上ろうとしていました。

その際、「イエスは、人に知られたくないと思われた」と不思議なことが書いてあります。イエスはそれまで驚くほど多くの人々の病を癒し、悪霊を追い出し、神の国の福音を宣べ伝えていましたが、これからは、そのような幅広い活動に終止符を打ち、エルサレムに向かうことと、弟子たちにご自身のことを明かすことに集中しておられたからです。

そして、イエスは弟子たちに向かって二回目の受難予告をするという意味で、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたというのです。「引き渡される」ということばに、神のご主権の中で人々の支配下に置かれるという意味が込められています。それは人間的には、人々をつまずかせる弱さのしるしです。これに関して、後にパウロは、「確かに、(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなた方に対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱコリント13:4)と記しています。

 

ところが、「弟子たちは、このみことばが理解できなかった(9:32)ばかりか、「イエスに尋ねるのを恐れて」いました。人は自分にとって不都合な真実からはなるべく目をそらしていたいと思うものです。しかし、いやなことから目を背け、現実を直視することができないような信仰は、知らないうちにこの世の力に流されてしまうのです。

一方、彼らはカペナウムに着く間、イエスの受難予告とはかけ離れたことを話し合っていました。それでイエスは、「家に入った後、弟子たち」に、「道で何を論じ合っていたのですか」(9:33)と尋ねられました。その際、彼らは自分たちが話し合っていたことを恥じて「黙っていた」というのです。それは彼らが、「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたから」でした(9:34)。

私たちから見ると、イエスがご自身の受難を予告しておられるときに、どうしてそのような愚かな議論ができるのかと不思議に思いますが、その時代に生きていたら同じような関心を持ったことでしょう。なぜなら、イエスのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった(1:15)というものでしたが、それは弟子たちにとってダビデ王国が再興されることが間近に迫っていることとしか思えなかったからです。

この約200年近く前に、エルサレム神殿がギリシャ人の王によって汚された時、ユダ・マカベオスをリーダーとする独立運動が起こり、ユダヤは一時的な独立を勝ち取りました。そして、当時の人々は、メシヤ(救い主)が現れたとき、今度こそ永遠に続くダビデ王国が実現すると期待していました。

イエスがご自身の受難を予告した時、彼らにはたぶん、ユダ・マカベオスのときと同じような厳しい戦いがローマ軍との間に起きるということとして聞こえたのでしょう。ですから、彼らはイエスの話を聞きながら、かえって独立戦争への勝利のイメージを膨らませ、新しい神の国において、イエスを頂点とする政権が誕生した時に、誰が右大臣、左大臣になることができるかと真面目に考えていたのです。

 しかし、イエスが神の国は近くなったと言われたことばは、最新の英語訳では、「the time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand」(時は満ちた。そして、神の国はすぐ間近にある)と訳されています。つまり、神の国は、イエスとともに実現し始めたという意味なのです。イエスが病を癒し、悪霊を追い出されたのは、預言された神の国が今ここに実現したということを示すことでした。

今も、世界には不条理が満ちています。しかし、イエスに対するハレルヤコーラスはすでに天において響き渡っています。キリストの支配はすでに始まっているのです。ただ、それは弟子たちが期待したような目に見えるダビデ王国ではありませんでした。

ただし、それは世にいう天国というようなものでもありません。神の国は最終的には、この地に完成します。それは、小羊が狼とともに宿り、乳飲み子がコブラと戯れるような、弱肉強食などがない、真の平和が完成する世界です(イザヤ11章,65)

 

2.「だれでも人の先に立ちたいと思うなら・・・」

 とにかく、イエスは彼らの身勝手な会話を強く非難する代わりに、そこに「おすわりになり、十二弟子を呼んで」、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら」と彼らの気持ちを受け止めたうえで、不思議にも、「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい(9:35)と言われました。

本来なら、「神の国」を実現するために自分の願望など捨てなさい、「人の先に立ちたい・・」などというさもしい根性を持ってはいけないと諭すべきところを、そのような望みを否定することなく、それを達成する逆方向の道を示されたのです。

考えてみたら競争意識を否定したら、ほとんどの運動競技は成り立たなくなります。マラソンに参加する人が、人より先になりたいと思わなければ競争になりません。一番になりたいと思わなければサッカーも野球も見ていて楽しむこともできません。

ただし、それはこの地の価値観です。そして、弟子たちの問題は、この地の価値観を神の国に持ち込んだことにあります。神の国にはこの世と逆の価値観があり、しんがりがトップになり、仕える者が偉い人という逆説があるのです。

 

それから、イエスは、この神の国の逆説を目に見える形で示すために、「ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて(9:36)、彼らに、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(9:37)と言われました。

ここでは「受け入れる」ということばを四回繰り返しながら、幼児を受け入れることはイエスを受け入れること、イエスを受け入れることは父なる神を受け入れることという関係を明らかにされました。このことばは、客人を歓迎しもてなすことを意味します。

人は、自分に益をもたらす者を懸命にもてなします。ところがイエスは、何の見返りも期待できない幼児を「もてなす」ことを命じたのです。お年寄りは仕事ができなくなっても、それまで生きて来られた実績がありますが、幼子は自分の価値をまだ証明できていない、未熟な存在と見られていました。

しかも、幼児はしばしば、まわりの空気を読むことができずに、静寂を破ってしまいます。ですから弟子たちですら、イエスの説教の場から子供を退けようとしました。また多くの教会も大人だけで礼拝を守ろうとしました。しかし、では、この弟子たちを含め、大人たちはイエスの話を、本当に理解できていたのでしょうか?

また、当時の人々は数多くの子供を産みましたが、生まれてきた子供を捨てるようなことは残念ながら珍しくはありませんでした。それに対し、キリスト教会はこのイエスのことばを受けて、捨てられた幼子を次から次と受け入れ、教会の交わりの中で育ててきました。イエスが「幼子」を受け入れるようにと勧めたことばは、心身の障害を持った方を受け入れる、生産活動に貢献できない人を受け入れるということばとほとんど同じ意味があります。

そればかりか、イエスを受け入れることは、イエスを遣わされた父なる神を受け入れることだと言われました。それは、後に、イエスが犯罪人として捕らえられたときに弟子たちができなかったことです。自分の身に危険をもたらす人を、「主」として認め続けることは、決して容易なことではありません。

 

ルカ948節では、イエスは「あなたがたすべての中で一番小さい者一番偉いのです」と言われました。私たちは、無意識にも、「私とお付き合いすることはあなたの益となり・・」とか、「私を採用することはあなたの会社にとって得です・・」とアピールする思いがあるものです。しかし、イエスは、子供のように、誇るものを何も持たないものこそが、「一番偉い」と言われたのです。

私の中には、「あなたは重要な存在です」と言ってもらいたい思いがあります。それで自分の有能さを証明しようと頑張っています。しかし、イエスは、この世的に能力の劣った「小さい者」にこそ、最も大きな存在の意味があると言われたのです。それは、子供が、直感的に、自分が人の助けなしには一瞬たりとも生きてゆけないことを知っているからです。

子供はストレートに助けを求め、身体全体で満足を表してくれます。子供は何よりも、大人に「誇り」を与え、比較地獄の中で緊張している心を和らげてくれるのではないでしょうか。その意味で、彼らの無力さや弱さこそが、最高の贈り物になり得るのです。

反対に、見るからに立派な人の傍にいると、緊張し、劣等感に苛まれるという体験がないでしょうか。イエスに敵対したパイサイ人などはその典型で、神に対してさえも自分の信仰深さを誇っていました。しかし、神が私たちに何よりも望んでおられることは、私たちが自分の無力さを認め、幼児が親のふところに飛び込む姿に習うことではないでしょうか。

 

3.「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」

その後、ヨハネがイエスに「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」と言いましたが(9:38)、それに対してイエスは、「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」と言われました(9:3940)

なお、「私たちの仲間ではないので」ということばは、多くの英語訳で、because he was not following us.と訳されるように、「私たちに従って来ないので」と訳した方が正確です。弟子たちにしたら、イエスに従うことなく、良いとこ取りしているように思えたのでしょう。

しかし、その悪霊を追い出していた人は、イエスの弟子には従わなかったかもしれませんが、イエスに従おうという気がまったくなかったのでしょうか。この少し前にイエスの弟子たちは引きつけを起こしていた少年から悪霊を追い出すことに失敗しています。それなのに、この人は、悪霊追い出しができたというのです。これはこの人が、イエスがどのような方かを知っていたことを示唆します。つまり、この人は、これからイエスの弟子になろうと願っている人である可能性があるのです。

ところが弟子たちは自分たちの基準で、「お前はまだイエスの弟子を名乗る資格がない・・」と退けたのです。イエスの弟子となるとは、何かの作法を身に着けることではなく、イエスをより深く知ることで、より多くの犠牲を払ってでも従いたいと思うようになることです。

世の中には、私たちの信仰の枠にはまらないまでも、キリストに好意を持っている人は数多くいます。そのときに、彼らの信仰を非難するのではなく、わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方ですと言える寛容さが必要ではないでしょうか。

 

 そればかりか、イエスは、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」(9:41)と言われました。

これはたとえば、あなたの家族や友人が、あなたの信仰生活を応援してくれているときに適用できることばです。そのようなときには堂々と手伝ってもらえばよいのです。神がアブラハムを召したとき、神は彼に、「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と言われました。あなたを祝福してくれる人を、神が祝福してくださるというのは、まさに信仰の基本中の基本なのです。

私たちは人を助けることによってばかりか、助けてもらうことによってさえ、神の祝福を取り次ぐことができるのです。

 

 一方、イエスはその反対に、「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです(9:42)と言われました。これは、周りの人が、せっかくイエスにすがろうとしてきたときに、それを邪魔をすることへの警告です。

特にこれは当時のパリサイ人に適用できます。彼らは自分たちの信仰の枠によってイエスが救い主であることを徹底的に否定しました。

私たちは自分が人の期待を裏切った時に、人につまずきを与えてしまったのではないかと気遣いますが、私たちは自分で自分を律することができないからこそイエスを求めているのです。ですから、人の期待を裏切ってしまったこと自体を恐れる必要はありません。「それでもあなたはクリスチャンなの・・・」と言われたら、「はい、私はあなたの期待を裏切るような弱い者だからこそ、イエスにすがっているのです」と答えれば、それこそが証しになります。

しかし、「私はイエスを信じてこんなに立派になれました!」などと自慢しながら、それが見せかけである場合には、あなたは人につまずきを与えています。偽善に満ちた嘘の信仰ほど恐ろしいものはありません。

 

4.「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら・・・」

 その上でイエスは43節から48節までを印象的なレトリックを用いて一気に話されたのだと思います。じっくりと耳を傾けてみましょう。

「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」

なお、ここで「いのちに入る」ということばは、「神の国に入る」とも言いかえられながら、燃えるゲヘナに投げ込まれることと対比されています。これは確かに、死後、神のさばきを受けて、天国と地獄に分けられるとも理解できますが、「いのちにはいる」とか「神の国に入る」ということばは、死後のことという前に、今ここですでに実現し初め、完成に向かっていることです。

いのち」とは、何よりも、今ここでの父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに中にあります。そして、ゲヘナとは、神を礼拝することを拒絶した者の行く場所です(イザヤ66:24)。つまり、これは善人は天国に、悪人は地獄にという枠で理解すべき教えではありません。

実際、「つまずかせる」ということばは、「罪を犯させる」というよりは、「邪魔をする」という意味が中心にあります。つまり、「私の手が、万引きに走らせるから」とか、「私の手が暴力に駆り立てるから」などというよりは、先に「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにつまずきを与える」とあったように、私たちの手や足や目が、私たちがイエスを信じることの障害になるのなら、それを捨てるようにという勧めであることがわかります。

これは罪を犯すと天国に入れてもらえずに地獄に落とされるという話ではありません。かえって、立派すぎる手や足や目が、人を傲慢にし、神を忘れさせる可能性があります。

 

申命記81718節では、あながの生活が祝福された時、「『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、(ヤハウェ)を心に据えなさい」と警告されていました。反対に罪の誘惑に負けやすいあなたの手や目は、あなたを謙遜にして、イエスのもとに導く原動力にもなり得るのです。

たとえば、三世紀の初めにキリスト教哲学者として名声を博したオリゲネスという人がいます。彼は様々な厳しい迫害に耐えた人で、性の誘惑に抗するために自分で自分の男性器を切り取った言われるほどの強い意志の人ですが、しかし、彼はあまりにも心が自由になりすぎて、聖書の教えと新プラトン主義の教えを混ぜ物にして、死後数百年たって、偽りの教えを広めた教師として公に断罪されます。彼は、誘惑の種を自分でなくすことで、自分の弱さにうめきながら、ひたすらイエスにすがるという信仰の基本から外れてしまったのではないでしょうか。霊的に傲慢になりすぎたのではないでしょうか。これも、イエスが批判したパリサイ人の問題と言えましょう。

 

 そしてイエスは最後に、「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい(9:4950)と言われました。

火によって塩けをつけられるとは、私たちの信仰が試練によって純化されることを指しています。弟子たちはこの世の延長としての神の国の実現を求め、神の国の中にこの世の優劣の基準を入れました。しかし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。つまり、この世的な成功者、強い者ではなく、「私はイエス様なしには生きては行けません」という人こそが、神の国で最も喜ばれる人なのです。

そして、そのように生きる時に、私たちは塩けを保ち、互いに許しあい、和合して、平和のうちに生きることができます。しかし、強がる人は互いに競争ばかりして、そこに争いを作り出してしまいます。神の国のいのちとは互いに愛し合う生き方です。

この世の人々から尊敬される立派な人間になろうとすることよりも、神と隣人の支えがなければ一瞬たりとも生きることができないことを心から自覚することこそが信仰の基本です。それこそが、幼子のようになるということです。

 

 N.T.Wrightという英国の神学者は、この箇所に戦いのイメージを見るように勧めています。イエスはエルサレムにおける戦いに向かっています。弟子たちはそれをこの世の戦いの延長で理解し、互いに競い合っていました。しかし、イエスの戦いは、十字架というこの世的な意味では敗北のしるしを通して罪と死の力に勝利することでした。当時のユダヤ人はローマ帝国との無謀な戦に戦いに向かって行きましたが、後のイエスの弟子たちは互いに愛し合うことにおいて犠牲を厭いませんでした。

戦いには犠牲が伴います。自分や仲間のいのちを救うためには、自分の大切な手や足や目を犠牲にする必要があるかもしれません。私たちはキリストを信じる生き方を、悩みや葛藤のない心の平安を達成する道と誤解していないでしょうか。しかし、私たちは新しい天と新しい地」を実現しようとする神の戦いの中に招き入れられたのです。

ただしそれはこの世的な力の戦いではありません。この世の優劣の基準ではなく、互いに仕えあう神の民の共同体としての勝利です。ですから、今日の最後のことばは「互いに和合して暮らしなさい」と記されています。戦いにおいては敵が誰か、味方は誰かを見極める必要があります。

昨年の東日本大震災以来、日本は戦いのただ中にあります。それは目に見えない放射能との戦いでもあります。瓦礫処理を巡っての戦いでもあります。

福島の方々は、ある意味で東京に電力を供給するために犠牲になられました。私たちも何らかの犠牲を払う必要がありましょう。

私たちが向かう「新しい天と新しい地」は、戦いを避けて到達する世界ではなく、戦いを経て招き入れられる世界です。

神の民の共同体として成長して行くためにも戦いがあります。戦いには犠牲が伴います。あなたは何を犠牲にしようとしているでしょうか。神の国は、今既に始まり、完成に向かっています。それを先取りしながら、神の国の論理を証しする生き方を目指したいものです。

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2012年3月11日 (日)

ネヘミヤ13:4-31 「人の心の限界を超える神の救い」

                                                  2012311

 昨年の東日本大震災以来、日本では絆という言葉に代表されるような糸偏のことばが好まれています。日本は、団結力によって難局を乗り切るなどという国民意識の高揚も見られます。そのような中で、ふと、そこに息苦しさを感じる人もいます。なぜなら、はずれた見方をする人は排除されがちだからです。そして、人間関係を何よりも大切にする意識こそが、原発の安全神話を作り、想定外の危機への対処を怠るという構造を作ってきたと思われるからです。

それでも、海外に行くと、同じ日本人というだけで安心できるような、日本人固有の価値観が厳然と存在することを感じることがあります。そして、日本ではすべての生きとし生ける物に神々の御霊が宿っているという汎神論的な見方が支配的です。そのような発想は、危なさとともに、安心感の源ともなっているように思えます。

それに対し、キリスト教の価値観は、絶対的な基準が神によって設定され、すべての人間は終わりの日にさばきを受け、イエス・キリストを信じない者は、自分の罪の刑罰を負って地獄に落とされ、イエスを救い主として信じる者のみが、罪を赦されて天国に引き上げてもらえると説明されがちです。そこでは、神の領域である天と、罪人が住む地上とは隔絶しており、十字架だけが天と地をつなぐ架け橋になると言われます。

そこでの救いとは、この混乱に満ちた世界から天国に招きいれられることです。ただそれでは、救いは人間の心がけしだいになるという点で、新約の福音の画期性が隠されてしまいます。しかも、その場合、異教徒が支配するこの世界は神のさばきのためだけに残されているということになりかねません。

しかし、そのようにこの世界を軽蔑するような見方をする信仰者と汎神論的な見方をする異教徒のどちらがこの社会に影響力を発揮できるかと言えば、明らかに異教徒でしょう。

昨年以来、ふと、神を信じていない人々の善意が身に染みる機会が多くなってきました。そして、信仰者であっても、不信者であっても、あまり変わりはないのであれば、「神を信じて何になるのか・・」というささやきが聞こえるようになってきました。信仰が、良い人間になるための道であるとするなら、その問いは当然のことと言えましょう。

 

イエスは私たちに、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マルコ8:34)と言われました。それは、人々から尊敬される生き方というよりは、この世の人々が忌み嫌う生き方とも言えましょう。しかし、十字架の後には復活があります。そして、この復活のゆえに、神の救いは人間の心の限界を超えることができるのです。私たちのうちには、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいるのです(ローマ8:11)

御霊とはすべてを可能にする創造主ご自身です。私たちはキリストの御霊によって自分を超えることができます。だからこそ、忌み嫌われる十字架をさえ担うことができるのです。

そして、それを体験するきっかけは、地震や津波に現れるようなこの世のうめきに合わせて、神の御前でうめくことです。そのとき私たちの内側で御霊ご自身がともにうめき、そこに圧倒的な神の力が働きます。神ご自身が私たちの心を動かしてくださる、これこそ新約の福音です。

 

1.「ご覧ください。私たちは今、奴隷です」

エルサレム神殿がバビロン帝国に破壊されたのは紀元前586年、ペルシャがバビロンを滅ぼしユダヤ人の帰還を許したのはそれから約50年後の紀元前538年、エルサレム神殿の再建はその約20年後の紀元前516年のことでした。ネヘミヤの時代はそのさらに70年後のことです。そして、この時代にこそ、現代のユダヤ人の出発点があり、その問題は最近まで続きました。彼らはそのときからいつも大国の支配下で翻弄され続けてきたからです。

ネヘミヤはこの書の18,9節で、申命記2864節、301-5節を要約しながら、神がイスラエルの民に、「あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る」と約束されたことを、敢えて、「思い起こして(覚えて)ください」と訴えます。

そこには、神の命令を軽蔑したものを諸国に散らすというさばきと同時に、神に立ち返り、神にへりくだった者たちを約束の地に戻すという約束が記されていました。そこでは、神の命令を再び守り行うなら、という条件が記されていました。それは先の律法の原点に立ち返ることを意味します。過去に守ることをできなかった命令を再び守るということは決して容易なことではありません。

 

 イエスの時代のユダヤ人の律法学者の中には、もしすべてのイスラエルの民がたった一日でも律法を守ることができていたなら、来るべき世界(神の国)は始まっていたであろうに、と宣言する人がいたとのことです。

ネヘミヤも同じような気持ちを抱きながら、イスラエルの民が外国の支配から自由にされることを望んでいたのではないでしょうか。ユダヤ人のエルサレム帰還から90年余りも進んでいなかったエルサレム城壁の再建工事が、ネヘミヤのリーダーシップで、たった52日間で完成した後、ユダヤ人たちは、ヨシュアに導かれて約束の地に入ってきて初めてとも言われる盛大な仮庵の祭りを祝いました。

そしてその後、祭司やレビ人たちはイスラエルの民全体の悔い改めの祈りを導きましたが、その結論として、主に向かって、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です・・・私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが・・・彼らは私たちの身体と・・家畜を思い通り支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります(9:36,37)と訴えながら、神がイスラエルの民を外国の支配から解放し、平和と喜びと栄光に満ちた新しい神の国に入れてくれるようにと嘆願しました。

 その上でイスラエルの民は堅い盟約を結びましたが、その内容は1030-39節に記されていました。それは、第一に異教徒である外国人と婚姻関係を結ばないこと、第二は、安息日に異教徒との商取引をしないこと、第三は、「七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない(10:31)ということ、第四は「神の宮の礼拝のため」のささげもののこと、第五は、「祭壇の上で燃やすたきぎのささげ物」(10:34)に関しての約束、第六は初穂のささげものに関しての約束(10:35)、第七は十分の一を主のものとするという約束です。収穫の十分の一は、神殿で奉仕をする人々の手に渡り、奉仕者の十分の一が神殿に直接ささげられました。このシステムが機能するとき、礼拝は常に祝福され、主への礼拝を中心として神の民が祝福を受けることができました。

 

2.「レビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせた」

 ところが、13章では、ネヘミヤが一時的にエルサレムを離れてペルシャの王宮に戻っている間に、とんでもないことが起きたと記されています。そのことがまず、「これより以前、私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビヤと親しい関係にあった(13:4)と記されます。

アモン人を治めていた役人のトビヤはネヘミヤの仇敵でしたが、彼はユダヤ人の指導者たちと裏で結びついて、裏からネヘミヤの改革運動を妨害し続けていました。そして、ネヘミヤが一時的にペルシャに帰っている間にエルヤシブは、ユダヤ人の敵である「トビヤのために大きな部屋を一つあてがった(13:5)というのです。しかも彼はネヘミヤに協力して城壁再建を率先して行ったユダヤの大祭司でした(3:113:28)

そして、「その部屋にはかつて、穀物のささげ物、乳香、器物、および、レビ人や歌うたいや門衛たちのために定められていた穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、および祭司のための奉納物が保管されていた」と説明されます。つまり、礼拝を守る最高責任者が10章の36-39節に記されていた非常に大切な宝物倉の部屋の一つをユダヤ人にとっての最大の敵のトビヤのために明け渡していたというのです。

それが起きたのは、ネヘミヤが、「バビロンの王アルタシャスタの三十二年に、王のところに行き、その後しばらくたって、王にいとまを請い、エルサレムに帰って来た」(13:67)という合間を縫ってのことでした。この大祭司はネヘミヤがもうエルサレムには戻ってこないと思い込み、敵に便宜を図ることによってエルサレムを守ることができると思ったのかもしれません。また、彼は、ネヘミヤが貧しいイスラエルの民に味方して、上流階級の人々に大きな犠牲を強いたことに反発していたのかもしれません。

しかし、ネヘミヤは意外に早くエルサレム再び戻ってきて、「エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づい」(13;7)、「トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し、命じて、その部屋をきよめさせ・・神の宮の器物を、穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納め」させたというのです(13:89)

  実は、その宝物倉の大きな機能のひとつに、神殿内の様々な仕事をするレビ人や歌うたちの生活を支えるための民からの十分の一のささげものを保管し、レビ人たちに分配するということがありました。その部屋がユダヤ人の敵に使われてしまっていたので、「仕事をするレビ人と歌うたいたちが、(生活に困り)それぞれ自分の農地に逃げ去った」ということになりました(13:10)

それでネヘミヤは代表者たちに、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と詰問し、「レビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせ」ました(13:11)。それと同時に、「ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を宝物倉に持って来た」ということが再び実現しました(13:12)。そして、ネヘミヤは信頼できる人に、「宝物倉を管理させ」、祭司やレビ人への「分け前を分配する」ようにさせました。

 

  このような働きの後に、ネヘミヤは、「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください(13:14)と祈っています。

これはネヘミヤが城壁再建工事の間、驚くほど大量の食糧を私財を投じて用意し、また総督としての手当ても要求をしなかったという記述の後に、「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください」(5:19)と祈ったことと基本的に同じです。彼は自分の神だけを見上げて、これらの大きな犠牲を払って行動していました。

しばしば、何の報いも求めずに働くことが美徳とされますが、「自己満足・・」ということばがあるように、基本的に人は何かを達成すること自体に喜びを見いだします。要は、自分で自分の褒めることを求めているのか、それとも神の評価を求めているのかという違いではないでしょうか。

案外、「私は何の報いも求めずに頑張っています」という人が、人を振り回し。結果的に、はた迷惑な行動を取っているなどということがあります。

正義感の前に、人は沈黙せざるを得ません。しかし、大切なのは、人の正義が実現されることよりも神の正義が実現されることです。しかも、ネヘミヤは、イスラエルの真の回復を願っていました。そして、そのためには、イスラエル全体が律法を守ることに熱心になる必要があると思われました。

彼は、個人的な報いを求めているようでありながら、いつも、神がイスラエルの民全体にあわれみを注いでくださることを待ち望んでいたのです。

 

3.「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか」

ネヘミヤはさらに、「ユダのうちで安息日に・・ろばに荷物を負わせている者・・ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけ・・・食物を売ったその日、彼らをとがめ」ました(13:15)。

「また、そこに住んでいたツロの人々も、魚や、いろいろな商品を運んで来て、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた」というのです(13:16)。そこでネヘミヤは、「ユダのおもだった人たちを詰問して」、「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか」と言いました(13:17)

そして、かつてエルサレムがバビロンによって廃墟とされた理由を、「あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの町の上に送られたではないか」(13:18)と詰問しながら、「それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている」と彼らを断罪しました。

エレミヤ1719-27節では、「安息日をきよく保つこと」が何よりもイスラエル王家の継続と繁栄の基となると語られると同時に、安息日を汚すことが国の滅亡につながると警告されていました。しかし、エレミヤの時代の人々は、安息日を守ることよりも、目先の利益や外交によって、国の繁栄や安全を保とうとしていました

 それで、ネヘミヤは、強制力によって安息日を守らせようと、「安息日の前、エルサレムの門に夕やみが迫ると・・とびらをしめさせ、安息日が済むまでは開いてはならないと命じ・・・若い者の幾人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにし」ました(13:19)

その結果、最初は、「それで、商人や、あらゆる品物を売る者たちは、一度か二度エルサレムの外で夜を過ごした」(13:20)という事態が生じましたが、それに対して彼は、「再びそうするなら、私はあなたがたに手を下す」と厳しく警告し、「その時から、彼らはもう、安息日には来なくなった」ということになりました(13:21)。

そして彼は、「レビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせ」、その後で、先ほどと同じ趣旨の祈りを、「私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください」とささげます(13:22)。これも彼が自分自身の祝福を求める以上に、イスラエルが真に神の国として復興することを望んだ言葉です。

 

4.「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。」

その上でネヘミヤはまた、「そのころまた、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人たちのいるのに気がついた(13: 23)と記します。これも、かつて堅く誓った盟約を破る行為でした。エズラの宗教改革の中心は異教徒との結婚を断固として排除することにありましたが、数十年もたたないうちに、また同じスキャンダルが起きてしまったのです。

しかも、そこでは、「彼らの子どもの半分はアシュドデのことばを話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤのことばがわからなかった(13:24)という事態にまで至ってしまいました。それは当時、聖書の教えを聞くことも、神に向かって祈ることもできない、信仰を捨てたことと同じ意味でした。

 そこで、ネヘミヤは再び、「彼らを詰問し」ます。このことばが三度目ですが、ここでは「のろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせるということまでして、「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない」と厳しく迫りました(13:25)

そしてその理由を、「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行っていることを聞き流しにできようか」(13:2627)と説明しました。

  そして再び、トビヤに便宜を図った大祭司エルヤシブのスキャンダルが、その孫のひとりがトビヤと並んでユダヤ人の敵となっていた「ホロン人サヌバラテの婿」となっていたと記されます。イスラエルの復興を願っているときに、大祭司がエルサレム城壁の再建を徹底的に妨害し続けたトビヤとサヌバラテと通じ合っていたというのは、何とも恐ろしいことです。ネヘミヤは断固として、この大祭司の孫をエルサレムから追い出しました(13:28)。

なお、エルヤシブはかつてネヘミヤの呼びかけにすぐに呼応して、城壁再建のために動き出した人でもありました(3:1)。人の心は何と変わりやすいことでしょう。これでは、ネヘミヤの改革は、まるでもぐらたたきのようなことになってしまいます。

ひとつの問題を解決したと思って安心していたら、その背後で次の問題の種が育ち、より大きな問題に育ってゆきました。残念ながら、ネヘミヤからイエスの時代に至る450年余りはそのようなことの繰り返しでした。

  そのような中でネヘミヤは、「私の神。どうか・・・思い出してください」と祈りながら、「彼らは祭司職を汚し、祭司やレビ人たちの契約を汚したからです」(13:29)と訴えます。彼の落胆は、驚くほど深かったことでしょう。彼は、改革における人間の力の限界を、ひしひしと感じていました。そして、必死に神のさばきを求めたのです。

なお、彼は自分の働きを、「私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた」(13:3031)と述べます。

それは総督としてできる最大限のことでしたが、彼は、それもやがて民の不従順によってないがしろにされることを予感していたのではないでしょうか。彼は大祭司の裏切りに耐えながら、改革を進めていました。

彼は深い孤独を味わっていたのではないでしょうか。そのような中で、神ご自身からの慰めを求めました。その祈りが、この章で四度目の「覚えてください」ということばとともに、「私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください」と祈られます。

 

 ネヘミヤの改革は、一進一退を繰り返します。それは旧約の限界を示すものでもあります。人々は非常に熱心に神に立ち返ります。しかし、その傍らで、大祭司自らが、その信仰の復興を台無しにするようなことをします。そして、民の熱意も急速に冷めてゆきます。そのような中でネヘミヤはますます強権的に、人々に律法を守らせるような動きをします。これは、後のパリサイ主義に結びつく面があります。

彼は、イスラエル全体が主の律法を熱心に守ることによって、神のあわれみに訴えることができると考えていました。その祈りが、「どうか・・・覚えてください」ということばとして繰り返されます。彼はイスラエルに神の国が実現することを待ち望んで改革運動を勧めました。

彼のそのような祈りを真の意味で実現したのがイエス・キリストです。ネヘミヤはイスラエルの総督という絶対的な政治権力を持つ立場で改革を行いましたが、イエスは社会的には何の資格もない者でありながら、父なる神の全面的な委託を受けて、神のみわざを行い、人々を神の国へと招き入れました。

それは上からの改革ではなく、人々の心の底に神への愛と人への愛を生み出し、この世界を根本から変革する神の働きでした。この世と調和するのでもなく、この世をさばくのでもなく、この世の痛みやうめきを担いながら、神のみわざに身をゆだねました。

イエスはそのために私たちのすべての罪を負って十字架にかかりましたが、神は三日目にこの方を死人の中からよみがえらせました。私たちも十字架を負うことによって、復活への道を歩むことができます

ただ現実には、そこで私たちは自分の不信仰と無力さに悩みます。しかし、そのような者に、神はご自身の御霊を与えてくださいました。それはイエスの御霊でもあります。私たちは自分の情熱や仕組みを作ることによって神の国を実現するのではなく、御霊によって神の国の民とされ、そして、この社会に神の国を広げてゆくのです。

この社会の矛盾を上から見下ろすのではなく、社会の矛盾のただ中に入って、そこでうめきながら、神のみわざを待ち望むのです。人間の限界を超えたことを創造主である御霊は可能にしてくださいます。それこそ真の新約の福音です。 

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2012年3月 4日 (日)

マルコ9:14-29 「信じます。不信仰な私をお助けください

                                               201234

  人は誰しも、毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っているのではないでしょうか。書店に行くと、そのように生きることができるため様々な方法(How to)を書いた本が平積みにされています。しかし、すべてがHow to で解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。

私は今まで、数えきれないほどの失敗を繰り返し、人に迷惑をかけてきました。そして、そのたびに、「今度は、このようにしたら良いのでは・・」などというアドバイスをいただいてきました。どうも、人から何かを言われやすい性格なのか、いろいろなことを言っていただけます。しかし、正直、それを聞きながら落ち込んでしまうことがあります。どうしても、「あなたは愚かですね・・」というニュアンスに自分の中で解釈してしまうからです。

 

しかも、多くの場合、そこで根本的に見落とされている問題があります。それは、すべての人間は、日々数多くの失敗を繰り返しており、すべて前向きにチャレンジしようとする人は必ず、何度も失敗しているということです。本当に大切なのは、目先のHow toではなく、その人の根本的な生き方であるということです。

 

聖書のメッセージはある意味で簡単です。それは、人はみな神に向けて創造されており、神を忘れては、神の望まれるような人生を歩むことができないということです。目先の方法よりも、人生の方向とあり方が問われているのです。

 

イエスの弟子たちは、イエスの身近にいて、イエスがどのように問題を解決するかをつぶさに見ていました。そして、イエスが三人の弟子たちと一時的に山に登っているときに、残された九人の弟子たちはイエスの方法を試してみました。ところがそれは機能しませんでした。それは、彼らが最も大切なことを見落としていたからです。

 

それは、マルコ135節に、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられたと書いてある記事です。イエスと父なる神との交わりを忘れてはすべての方法は空しい結果に終わります。

 

 

 

1.「お弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした」

 

イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて山に登り、一時的に天の栄光の姿を表されました。ところが、彼らが山から降りて、「弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた(9:14)というのです。それは残された弟子たちが人々に失望を与えていたからでした。

 

そこで、「群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをし」ましたが、イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」(9:16)と聞かれました。

 

すると群衆のひとりが、イエスに答えて」、「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした(9:1718)と答えたというのです。

 

 

 

少年の病は、「てんかん」(マタイ17:15)と訳されることもありますが、マタイでの原文は、「月に打たれた」と書いてあります。確かにそれは「てんかん」と訳すことができる当時の表現であり、このマルコに描かれた「倒れ、あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせ」という症状は「てんかん発作」のように見えます。

 

しかし、これを「てんかん」と訳すことには慎重でなければなりません。最新のカトリック・フランシスコ会訳では、「引きつけを起こして」とのみ訳しています。この病は原因を特定できない場合も多く、脳で発生する何らかの電気信号のようなものの異常から起こるとも言われ、百人にひとりぐらいの発症率がある珍しくない病です。

 

ただ、残念ながら、日本では狐に憑かれたなどと見られ、差別を受けてきました。二千年前のパレスチナでも悪霊に憑かれた者として忌み嫌われていたと思われます。しかし、このマルコではあくまでも「口をきけなくする霊」と記されています。

 

 

 

なお、三人の弟子を除くイエスの他の弟子たちがこの少年から悪霊を追い出すことができなかったからといって、それが律法学者たちを巻き込む議論になり、それがまた多くの群衆を寄せ集めていたということ自体が不思議です。それは、弟子たち自身が、自分たちには悪霊を追い出す力があると思い込み、また、群衆もそれを期待していたからでしょう。

 

67-13節で、十二弟子は「汚れた霊を追い出す権威」をイエスから授けられてガリラヤ地方の村々を巡り歩き、「悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした」と描かれていました。ですから、弟子たちはこのとき自分たちにはこの少年を癒すことなど、簡単なことだと思えたのではないでしょうか。彼らは五千人のパンの給食、四千人のパンの給食でも、イエスの手の中で増えたパンを人々に配るという特権にあずかっていました。群衆はイエスの弟子たちを、期待を持って仰ぎ見るようになったことでしょう。

 

そして、731節以降の記事では、イエスが、耳が聞こえず口のきけない人をいやした様子が描かれていました。そこでイエスは、「その人の両耳に指を差し入れ・・つばきをして、その人の舌にさわられ・・・天を見上げ、深く嘆息して、その人に『エパタ』すなわち、『開け』と言われた」と記されていました。人は、そのような特異な癒しのみわざを見ると、それと同じ方法を試したいと思うものです。

 

ひょっとしたら、このときの弟子たちは、少年の舌に自分たちのつばきをつけ、「エパタ!」と叫んでいたのかもしれません。しかし、何も起きませんでした。弟子たちも群衆も、この少年はすぐに癒されると思い込んでいたからこそ、これが大きな騒ぎになってしまったと言えましょう。

 

しかし、よく調べると、イエスの癒しのみわざは毎回ユニークで、まったく同じ方法の繰り返しはありません。ただ、そこに共通している原則があります。それは目の前のひとりひとりに心から注目していたということと、そこにいつも父なる神への祈りがあり、神の栄光を求めていたということです。How toではなく、主の目の方向を見ましょう。

 

 

 

2.「ああ、不信仰な世だ」

 

イエスは、このような弟子の失敗の様子を聞いて、「ああ、不信仰な世だ・・」(9:19)と深く嘆かれました。イエスはいつも人々に優しく接する方というわけではありません。特に、ご自身の十字架のことを予告されてからの弟子たちに対することばには非常に厳しいものがあります。イエスはペテロの傲慢な態度に対して、「下がれ。サタン」と、厳しいことばを返されました(8:33)

 

「世」ということばには、弟子たちを含めたそこにいるすべての人への叱責が込められています。イエスは彼らの「不信仰」を責めておられます。しかし、弟子たちの失敗自体を責めているのではないと思われます。それより問題は、弟子たちが自分たちには悪霊を追い出す力があると思い込んだこと、また群衆が、イエスの弟子たちにはそのような力が宿っていると期待したこと自体にあるのではないでしょうか。

 

多くの人々は、「不信仰」ということばを誤解しています。人によって、悲観的な見方や、期待通りの結果を生み出すことができない消極性を指します。その裏には、信仰が深くなれば、目の前の道がどんどん開かれ、期待通りの結果を出すことができるはずだという誤解があるように思えます。しかし、聖書が語る「不信仰」とは、不真実とも訳すことができます。神の真実を信じる代わりに、神を不真実と見ることを指します。

 

人間の能力や心構えの問題ではなく、神のみわざに目を留めることが信仰です。「あの人は、信仰深いから・・・」などという言い方は正しくありません。神をどのような方と見ているかが、問われるべき信仰の基本です。

 

残念ながら、人は神のみわざを人間的な能力ととりかえてしまう落とし穴があります。そこにいる人々は、悪霊追い出しを神のみわざとしてよりは人間の働きかのように誤解していました。また弟子もかつての成功体験にあぐらをかいていたのかもしれません。

 

 

 

続けてイエスが弟子たちに向かって、いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と言われたのは、イエスの人間としての感情を表しています。イエスはご自分の気持ちが通じなくて、悲しんでおられたのです。

 

この福音書を書いたマルコの背後にペテロがいると言われますが、ペテロはこのときのことばが心に突き刺さったことでしょう。そして、後にイエスとの交わりを思い起こしながら、自分がどれだけ主のみこころを傷つけ、苦しめてきたかを深く反省したことでしょう。

 

なお、パウロはコリントの教会の人々が恩を仇で返すような態度を取った時、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるようになるのでしょうか(Ⅱコリント12:15)と自分の痛みを表現しましたが、人を援助する働きには、必ずそのような局面がどこかでやって来ると言えましょう。

 

人の痛みに寄り添い、誠心誠意尽くしたつもりで、その気持ちが誤解されるなどというのは耐え難い苦しみですが、その痛みはイエスご自身が弟子たちとの関係ですでに味わっておられたことです。私たちの人間関係から生まれる苦しみは既にイエスご自身がすべて体験してくださいました。

 

人間関係の悩みのただ中にイエスはともにいてくださいます。そのような嘆きを味わっているとき、あなたは要領が悪いのではなく、イエスの御跡を従っているという誇りを持って良いのです。

 

 

 

ところで、イエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。イエスはご自身の心の痛みを表現されながら、決して目の前の必要から目を背けるようなことはなさいませんでした。

 

そして、「そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た」(9:20)というのですが、「その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った」と症状がかえって悪化しました。それは悪霊がイエスを恐れていたからです。

 

イエスの聖さが迫ってくると、人の中のみにくいものがクローズアップされます。それによって、一時的に問題は悪化したように感じられます。しかし、それは癒しのプロセスの始まりに過ぎません。私たちもイエスのみもとに近づくときに、同じようなことが起こるかもしれませんが、慌てる必要はありません。

 

 その様子をご覧になったイエスは、その子の父親に、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と尋ねます(9:21)。それは、父親の絶望感に寄り添いながらも、その気持ちを敢えて引き出すような質問をされたと言えるのではないでしょうか。

 

それに対し、父親は、「幼い時からです」と答えたばかりか、「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」(9:22)と答えました。これを見る時に、この少年の病は、「てんかん」というよりは、悪霊の働きであるということが明確になります。

 

悪霊の働きは、何よりも人を自暴自棄や破滅に追いやるものです。しかも、この霊は、取りついた人を公衆の面前で激しく苦しめるものでした。悪霊は、この子を通して、人々を恐怖に落とし入れ、神よりも悪霊を恐れるように仕向けたのだと思われます。

 

 

 

悪霊の働きを表面的にとらえてはなりません。世田谷区にお住まいだった湯原和子さんは16歳の時、編み物を習っている最中に突然ばったりと倒れ、口からあわを吹きだし昏睡状態に陥りました。彼女はその後何度も発作に襲われますが、その苦しみ以上に、人々の前で惨めな姿をさらすかもしれないという恐怖のゆえに家に閉じこもり、劣等感に悩み、何度も自殺を試みました。

 

しかし、あるとき死ぬために向かった松江で、礼拝の讃美歌の声に引き寄せられて教会に入りました。そして、そこで出会った男性と結婚に導かれ、男の子を出産し、愛に満ちた家庭が与えられ、日本てんかん協会でカウンセラーを長く続け、最近は、その協会から特別功労賞を受けております。

 

彼女は「私は、ある時期から、発作が起こった時には、神様が私を訓練したもうのだ、と思うようになっていました・・私にとって「てんかん」とは、すばらしい人生の巡りあわせだったと言って良いでしょう」と語っています。

 

 

 

悪霊の働きの目的は、何よりも、わざわいを通して、人が神をのろい、自滅するように追いやることです。ある病が、悪霊によるものかどうかなどを、軽々に判断してはなりません。大切なのは、その病がその人をどの方向に向かわせているかを見ることです。

 

現代は、多くの場合、悪霊を追い払うことよりも、その人が神に向かって祈ることができるように導くことが大切です。なぜなら、悪霊は神に祈っている人のもとから去らざるを得ないからです。そして、敢えて言うと、悪霊の働きは、何よりも、人に祈ることを止めさせることにあるのではないでしょうか。

 

 

 

3.「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで・・」

 

この父親は、それまでの弟子の失敗を見、しかも、イエスの前に連れてこられたことでこの子の症状が「あわを吹きながら、ころげ回る」ようなことになったので、かえって主の御力に対しても疑問を抱いてしまいました

 

その思いが、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください(9:22)という表現に現されています。ところが、そのように聞かれたイエスは即座に、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と厳しく迫りました。

 

しかし、「信じる者には、どんなことでもできる」と保障されているにも関わらず、私たちの目の前には、「できないことばかり」のように思えます。「なすべき働きがたくさんあるのに、時間が足りない・・能力が足りない・・」とか、「どうしてもこの交渉は成立させたいのに、相手が・・・」と嘆きたくなることばかりです。

 

しかし、イエスはここで基本原則を語っているのです。真の信仰とは、神の思いと私たちの思いが一つになることです。

 

そのとき、神が全能であられるからこそ、神の思いと一つになった私たちの願いはすべて成就することになります。つまり、真に信じるということは、何よりも困難なことで、それはイエス以外にはできないのかもしれません。

 

 

 

ただし、これは、信仰がない者にはイエスの癒しのみわざは実現しないという意味では決してありません。イエスはそれまで何度も、信仰の持ちようのない人の痛みに寄り添い、癒して来られました。

 

イエスがここで父親に問いかけているのは、「もし、おできになるものなら」という逃げ腰の中途半端な態度です。父親からしたら、もう何度も失望を味わっていますから、期待通りにならなかったときの備えをしているような気持かもしれません。

 

しかし、私たちの信仰の基本とは、「神にとって不可能なことはひとつもありません(ルカ1:37)、また、「それは人にはできません。しかし、神にはどんなことでもできます(マタイ19:26)と告白することではないでしょうか。天地万物の創造主を信じるとは、この広大な宇宙が、神のことば一つで生まれたということを信じることです。

 

そして、さらに大切なのは、それをするのは、イエスであるというよりも、天地万物の創造主がイエスの父なる神であり、イエスの願いならすべてかなえてくださるということを信じることです。

 

この父親は、不可能を可能にしてくださるのは、創造主であられる神であることを忘れて、「弟子もできなかった・・だからその先生もできないかもしれない・・・」と、悪霊を追い出すという働きを人間のわざとして見てしまっていたことにあるのです。

 

これと似た表現で、「もし、みこころならば・・」と、控えめに付け加えながら、自分の願いを神に訴えるということがあるかもしれません。しかし、祈りの基本は、そのようなことばを一切付けることなく、ただ、「主よ。この私をあわれんでください」と訴えることです。自分の切迫した気持ちをただ訴え、また、主に期待することを真正面から訴えることが信仰です。

 

みこころならば実現するし、みこころでなければ実現しません。それは神の領域に関わることですから、そこにまで配慮を表現するというのは、神に対してのよそよそしすぎる表現とは言えないでしょうか。

 

 

 

「するとすぐに、その子の父は叫んで」、「信じます。不信仰な私をお助けください」と答えます(9:24)。まず父親は、慌てて叫びました。それは自分の問題を真正面から認めたというしるしです。そして、その後のことばは、多くの英語訳では、「I believe; help my unbelief!(信じます。私の不信仰を助けてください)と訳されています。

 

それは、「信じます!」と叫びながら、自分の心を変え、信じることができるように助けてくださいと願うことです。私たちの信仰自体が神の賜物です。ただ、その神のみわざに自分の心を開きますという意味で、まず「信じます」と告白する必要があります。

 

私たちは自分の不信仰を認めざるを得ません。しかし、正直にそれを認めながら、なお「私の不信仰をお助けください」と祈る者は幸いです。自分の不信仰に悩む暇があったなら、このように祈りましょう。

 

 

 

4.「多くの人々は、『この子は死んでしまった』と言った」

 

 そして、「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって」、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな」と言われました(9:25)。イエスの神としての御力とご性質は、何よりも、悪霊を追い出すということを通してあらわにされました。

 

そして、その結果が、「するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになった」(9:26)というのです。それはこの子の心が悪霊に完全に支配されていたために、悪霊が出て行った後に、たましいの抜け殻のような状態になったと理解することもできましょう。

 

とにかくここで、「多くの人々は」、「この子は死んでしまった」と言ったというのです。そこにいた多くの人々は、さらに深い失望を味わいました。しかし、イエスは、絶望の中に希望を生み出してくださる方です。

 

そのことが「しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった」(9:27)と簡潔に記されます。これはかつてイエスがヤイロの娘を生き返られた状況に似ています(5:35-43)。イエスの悪霊追い出しの働きは、死人をよみがえらせる働きとも比較できます

 

 イエスはヨハネ福音書52425節で、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」と言っておられます。

 

 

 

ところで、その後のことが、「イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに」、「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」と尋ねたと記されます(9:28)。それに対して、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」9:29)と言われました。

 

これは当たり前のことを言っているようですが、私たちの誤解を正す最も根本的なことです。今も昔も、人々の心はハウツーに流れます。当時はたとえば、「シェマー(聞きなさい)。イスラエル」から始まる申命記64-6節を唱えることが悪霊を追い出すことにつながるとか、詩篇3篇、詩篇91篇を唱えることが悪霊に対する戦いになると言われていました。そして、中世の物語の中では十字架をかざすことがドラキュラを退けることになると言われていました。そこで忘れるのは、不可能を可能にするのは、私たちの信仰や技術ではなく、天地万物の創造主ご自身であるということです。

 

 

 

ルカではその結果が、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した」と記されます(9:43)。つまり、人々の目が、イエスのご威光ではなく、父なる神に向かったということが何よりも驚きではないでしょうか。人々は、「神の国」、つまり、神のあわれみに満ちたご支配が、この地に戻ってきたことを感謝できたのです。それは、様々な預言者たちの預言が成就したことを意味します。

 

私たちも「あの人の信仰が立派だから・・」などと、人の信仰心とか人格とか賜物にばかり目を向けて、神のご威光」をともにあがめるというところに行き着かないことがないでしょうか。

 

なお、マタイの記事では、弟子たちの質問に対しイエスは、「あなたがたの信仰が薄いからです。まことにあなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」と言われたと記されています。

 

これは非常に解釈が難しいことばですが、ひとつはっきりしていることは、いまだかつて誰も、これを文字通り実行できた人はいないということです。ですから、これは結果的に、すべては人間のわざではないということを示すことになります。

 

私たちはからし種ほどの信仰を自分の力で獲得することはできません。このように見てくると、この子の父親が、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んだことは、途方もなくすばらしい信仰告白であるということがわかります。

 

 

 

私たちが神の子供とされたのは、自分の願い通りの人生を歩むことができるためではなく、神の願う働きをするためです。そこに真の生き甲斐があります。この世の多くの人々に決定的に欠けているのは、生きる目的と、生きることの意味です。神の救いとは、それが明らかにされることに他なりません。

 

「生きていて良かった!」というような真のいのちの感動は、神と人のため、この世界をより良くするために自分の人生を神に差し出している結果として生まれる副産物としての感動です。

 

イエスは、「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。しかし、だれが真の意味で信じることができるでしょう。誰が、神の思いを、真に自分の思いとすることができるでしょう。だからこそ、私たちは心を開いて「信じます。私の不信仰を助けてください」と祈り続ける必要があるのです。

 

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