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2012年7月22日 (日)

マルコ11章11-21節 「すべての民の祈りの家として」

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 米国では昨年、繁栄の神学を提唱していたロバート・シューラー師が導いたクリスタル・カテドラルが財政破たんし売却されることが話題になりました。また、ヨーロッパでも歴史的な教会堂が売りに出されたり、コミュニティーセンターに変わったりする例が見られます。

教会は建物ではないというのは私たちの常識ですが、では、教会堂とはどのように定義できるのでしょう。イエスはそれを「すべての民の祈りの家」と呼んでくださるのではないでしょうか。

教会が「祈りの家」であることを止めた時、それはこの世で競売にかけられる建物の一つに過ぎなくなります。

 

1.「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えた」

本日の箇所では、イエスがエルサレム神殿の中から商売人を追い出したという宮清めの記事が、いちじくの木がのろわれて枯れたという記事にはさまるように記されています。多くの人々は、お腹を空かせたイエスが実のないいちじくの木に腹を立てて、その木を枯らしてしまったかのように見えるこの記事にとまどいを覚えます。しかし、それは前後関係を理解していないことから生まれる誤解です。

いちじくの木のことは、イエスがacted parable(演出したたとえ話)としてエルサレム神殿に対する神のさばきを弟子たちにわからせようとするためでした。

 

イエスはエルサレムに大変な歓呼をもって迎えられましたが(しゅろの日曜日)、これは、すべての人から見捨てられる十字架の五日前のことです。そして、イエスがその日に宮に入った様子が、こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた」(11:11)と記されています。それはこの時期は過ぎ越しの祭りのために世界中からユダヤ人がエルサレムに集まっており、市内に宿を取ることができなかったからかと思われます。

イエスはベタニヤのマルタ、マリヤとラザロの家に泊まられました。そして、イエスは、宮の現状に心を痛めて一晩を過ごされたことでしょう。

 

そして、翌朝再びエルサレム戻った時の様子を福音記者ルカは、エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣い」たと記しています(19:41)。

そして主は、エルサレムのために泣く理由を、「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」(19:42-44)と言われました。

これは主の十字架と復活から40年後に起こる悲劇の予告でした。当時の人々は、イエスのエルサレム入城を、「神の訪れのとき」と見ることはできませんでした。イエスは、力を捨てた主のしもべの姿を生きることで神の平和が実現できると説きましたが、彼らは平和の救い主を拒絶することによって自滅に向かって行こうとしていました。

事実、当時のユダヤ人たちは武力による独立運動を激化させ、ついに、ローマ皇帝自身による攻撃を招いてしまいました。つまり、イエスはご自身を拒絶する人々が、武力闘争によって自滅することを見通されたからこそ、「涙を流された」のです。

 そしてイエスの悲しみを別の観点から表現しているのが今回の記事です。そのことが、「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた」11:12,13)と描かれます。

イエスはご自分の空腹を契機に、人々を惑わすいちじくの木に弟子たちの目を向けさせました。葉だけが繁っていて実のないいちじく木は、イスラエルの民のみせかけの信仰の象徴であり、それは神のさばきの対象と見られていたからです(ホセア9:10f、ミカ7:1f、エレミヤ8:13f)。

 

なお、「いちじくのなる季節ではなかったからである」と追加で記されていますが、それはこの木の問題を示すためです。いちじくの木の実の収穫は通常6月ですが、普通は過ぎ越しの時期(34)には、葉を繁らせ、青い実をつけています。ところがこのいちじくの木は、葉を異常に繁らせながら、青い実さえもつけていなかったのです。まさにみせかけだけで、枯れるのを待つだけの何の希望もない木でした。

それでイエスはその木に向かって、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われましたが、「弟子たちはこれを聞いていた」というのです(11:14)

そして、翌日には、いちじくの木が根まで枯れていました。それは、イエスがこの木をのろったことの結果でした。弟子たちはイエスのことばの力に驚きました。

 

  ところで創世記を読みと、禁断の木の実を取って食べた人間が最初にした行為は、いちじくの葉をつづりあわせて腰の覆いを作ることでした。ここから人間の洋服が始まりますが、それはしばしば、外面を飾ることによって自分の弱さを隠そうとすることにつながります。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、このいちじくの木のように実質のない見せかけは、やがて来る主の厳しいさばきの対象とされます。

 

2.「イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め・・・」

そして、イエスによる宮清めの記事が、「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」11:15-17)と描かれています。

この最後の「強盗の巣にした」ということばは、エレミヤ書からの引用です。

 

主はかつて預言者エレミヤを通して、生き方を改めなければ、彼らはこの都に住み続けることができないと何度も警告しておられました。

ところが彼らは、「これは主(ヤハウェ)の宮、主(ヤハウェ)の宮、主(ヤハウェ)の宮だ」と言う「偽りのことばを信頼して」いました(エレミヤ7:4)。彼らは、エルサレム神殿を指しながら、「これは主(ヤハウェ)の住まいなのだから、主ご自身がこの町を守ってくださる!」と言い合っていましたが、それこそ「偽りのことば」でした。

 

主(ヤハウェ)は、主を恐れ、主を愛する人々の中に住んでくださるのであって、主の宮は人々の心の目を、主ご自身に向けるためのシンボルに過ぎません。

ところが、彼らは、「盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き・・・ほかの神々に従って」いながら(同7:9)、主(ヤハウェ)の「名がつけられている」家の、主(ヤハウェ)の前に「やって来て立ち」、「私たちは救われている」と言っているというのです(7:10)。

これはたとえば、主が忌み嫌われるあらゆる悪行を重ねながら、荘厳な礼拝の場で気分が高揚され、救われているような気持ちを味わうことと似ています。私たちはみな、どこかで後ろめたさを抱えながら礼拝の場に集っているかもしれませんが、自分の罪深さを嘆くこともなく、罪に居直ったままという反省のなさこそが、主に忌み嫌われることなのです。

 

 そして、そのようなイスラエルの民に対する主のさばきのことばが、「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた」(同7:11)と記されます。

イエスはその同じことばを用いて、当時のエルサレム神殿がもはや「主(ヤハウェ)の家」ではなく、「強盗の巣」になってしまっていると言われました。そこには神の燃える怒りの気持ちが描かれています。

そして、このときのイエスも怒っておられました。その様子が、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった」と描かれています。

これは柔和で謙遜な主の姿と対照的です。それにしても主は、このような乱暴な実力行使をなぜなさったのでしょう。

 

当時のエルサレム神殿の最も外側に異邦人の庭があり、二つの壁を隔てて、祭壇、至聖所がありました。たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた宦官が、エルサレムに礼拝に来たことが記されていますが(使徒8:27)、彼は、多大な時間と労力をかけても、自分で祭壇にいけにえを献げることも許されず、異邦人の庭から神殿の中心を仰ぎ見られるだけでした。

そこには、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。彼らは、宦官を軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかり考えていました。

イエスが神殿の中を歩まれた時も、同じく、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、彼らが、このような喧騒の中でしか神を礼拝できないことに、心を痛められたに違いありません。その心の痛みこそが実力行使の理由でしょう。

 

  ただし、この制度はイスラエル人にとって経済的、合理的でした。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれており、人々は両替して献金しました。また、神殿内部で売られた動物は、保証つきでした。もし遠路、動物を連れてきて、いけにえとして不適格となったら大変です。

しかも、祭司たちは、この商売の許認可権によって特別収入も得られました。しかし、主を求める異邦人の礼拝者は、この便利性の追及の影で、静かな礼拝の場を奪われていたのです。

それでイエスは、イザヤ567節に記された主のことばを、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあると引用されました。ユダヤ人たちは自分たちの都合を優先していましたが、そこは何よりも「神の家」なのです。そこは、人が便宜を受ける場ではなく、神ご自身が主人公となり、礼拝される場なのです。

 

神は、この教会堂をも「わたしの家」、「祈りの家」と呼ばれます。「祈り」とは、「礼拝」であり、その模範は「主の祈り」です。この場の主人公は人ではありません。騒がしく自分たちの願い事ばかりを訴えたり、反対に、静けさばかりが優先されれば良いというのでもなく、聖書の神ヤハウェのみが神としてあがめられるべき場なのです。

私たちは、この礼拝の場を、そのような恐れの気持ちを持って見ているでしょうか?その心が、今、問われています。  

 

3.「すべての民の祈りの家」

  マタイの記述によると、イエスの宮清めによって、「また(すると)、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(マタイ21:14)という新しい展開が起こりました。

主が世的な便利性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができました。盲人や足なえは、神にのろわれた者と見られ、神殿に居場所がありませんでしたが、この時、神殿は弱者を排除する場から、いやす場へと変えられたのです。

 

  そればかりか、これに続いて、もう一つの大きな変化が起きました。それは、宮の中に、子どもたちの、「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったというのです(21:15)。これは、癒しの奇跡を見た子供たちが、イエスを預言された救い主としてたたえる叫びでした。

祭司長や律法学者は、そのような賛美に腹を立てました。その記事の意味は、一見、聖書知識が豊富なようでいながら自分の力により頼む者が神の敵となる一方で、幼子や乳飲み子のように、心の底から自分の弱さを知っている者を通して、神はご自身の栄光を表わされるということでした。

 

  地上のキリストの教会も、この世的な便利性の論理を追求しながら、様々な障害者の方や、病の人や子どもたちを礼拝の場から締め出してきたということがないでしょうか?

それは心の宮の問題でもあります。牛がいる所に盲人は安心して入ってこられません。同じように、大きな理想を追及するあまり、自分の弱さを締め出してはいないでしょうか。精神的弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。

両替人の台に、子どもは邪魔者です。同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。

「あなたがたのからだは・・神から受けた聖霊の宮である(Ⅰコリント6:19)とあるように、神の前で沈黙によって心の宮清めをも行なう必要があります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。

 

この福音書では、盲人や足なえ、子どもの記述がない代わりに、「祈りの家」「すべての民の」と付加されます(11:17)。この方が正確なイザヤの引用です。

神は「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(イザヤ56:7)と、外国人や、自分を枯れ木としか呼べない宦官たちを礼拝に招くと約束しました。それは世の完成のしるしであり、その時、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」のです。

 

イザヤは、豊かな者たちの自己満足の礼拝を非難し続けていました。それが正される時、主(ヤハウェ)は、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように・・・毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と仰せられました(イザヤ66:22,23)

つまり、すべての民を含む礼拝の完成こそ、世界のゴールなのです。この地の礼拝は、天で実現するこの理想の礼拝を、目に見えるように表わそうとするものです。

 

  ただし、「すべての民」を迎えようとする時、様々な困難があります。それぞれの感性、習慣等が余りにも異なるからです。互いへの尊敬がなければ一緒に礼拝はできません。

ひとりひとりに聖霊の賜物が与えられるのは、異なった背景を持つ人々が互いに仕え合うためです。そこではひとりひとりに使命が与えられています。「私などが・・・」と互いに遠慮し合うことで、孤立感を味わう人もいます。

また、奉仕への無責任によって、礼拝全体の雰囲気がしまりのないものになる場合があります。安易な甘えは、御霊の働きを消すことになります。それは小さなことから始まります。あなたと並んで礼拝している人に無関心であって良いでしょうか?

「家庭に、くつろぎを期待したら互いのわがままがぶつかり合う。家庭は仕え合う場である」と言われます。互いに仕え合おうとする時、結果的にやすらぎが生まれます

この「祈りの家」も同じです。くつろぎを期待するなら、わがままがぶつかり、人を退け、自分の弱さをも退ける結果になります。ひとりひとりが「すべての民の祈りの家」を建てるために召されています。

 

4.「わたしはシロにしたのと同様なことを行おう」

 ところで、このイエスの言動を聞いた「祭司長、律法学者たち」の反応が、彼らは、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである」(11:18)と記されています。

そのような目先の損得勘定に目が向かう信仰に対しては、引き続きエレミヤ書のことばが印象的です。そのとき主は、「主(ヤハウェ)の宮」の幻想に浸っている人に、「それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ」(7:12)と言われます。

これはサムエル記の最初にある記事を指します。祭司エリの息子たちは当時、シロにあった幕屋で人々が主にいけにえをささげて礼拝するシステムを、私腹を肥やす手段と変えてしまいました

それに対し、主は、何とご自身の契約の箱がペリシテ人に奪われることを許すことまでして、当時の礼拝システムをご自分で壊してしまわれたのです。主ご自身が定めた幕屋礼拝を、主ご自身が一時的に捨てられたのです。

 

そしてそこで、主は、今、あなたがたは、これらの事をみな行っている・・・それで、あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家・・に、わたしはシロにしたのと同様なことを行おう」(エレミヤ7:13、14)というさばきを宣告されました。

エルサレム神殿を建てられたのは、ソロモンである前に、主ご自身でした。しかし、それが社会的弱者を虐げるシステムとなったとき、主はこれを捨てることを自ら決めらました。

神殿で何よりも問われているのは、私たちがどれだけ多くのいけにえをささげるかではなく、主ご自身の語りかけを、恐れをもって聞き、それに応答するということでした。

神殿の心臓部に納められていたのは、主ご自身の手で書かれた「十のことば」でした。しかし、「主(ヤハウェ)のことば」に耳を傾けなくなった者は、神の民であることを自分で捨てた者です。

 

  イスラエルの民は、神の御教えを本来の姿から捻じ曲げてしまいました。いけにえは、神の恵みへの応答としてささげられるものなのに、それが神を動かす手段、また祭司の特権を維持するシステムになったのです。

人間的な損得勘定が前面に立つとき、神の御教えが退きます。宗教とイデオロギーは紙一重です。たとえば、20世紀の共産主義国においては、貧しい者の味方であるはずの共産党が、人々を虐げる力となりました。彼らは自分たちの理想を実現するために、人を手段化したのです。

また、日本でも、大東亜共栄圏というアジアの繁栄を築こうという大義を掲げましたが、軍費の調達に困ったあげく、中国人にアヘンを栽培させ、中国人にアヘンを売りつけて、軍費を賄いました。

残念ながら、人間的な理想を絶対化する人は、意識の奥に潜む自分の損得勘定の思いをごまかし、平気で他の人の痛みや悲しみを無視できるようになります。人の心の闇の深さを知るべきでしょう。

 

律法の中心は、いけにえではなく、神の教えをへりくだって聞き続けることです。みことばを心から味わうということを素通りした教会の奉仕活動は、ひずみを生み出します。

忙しすぎる教会活動や様々なことを断定する教えによって傷ついている人がいつの時代にもいます。目に見える働きと静まりのときはともに成長する必要があります。

 

 その後のことをマルコは、「夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに」、「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました」と言ったと記されています(11:19-21)

それはまさにエルサレムが主によって廃墟とされるということを象徴したことでした。イエスはこのことを通して弟子たちに大切な教訓を残されたのです。

 

  ヨーロッパの教会堂はどこにおいても静寂が尊重されていました。しかし、その傍らで、子供や乳幼児を抱えた若い母親はほとんどいなかったように思えます。静寂が子供を排除した中で守られるとしたら、それは決して「すべての民の祈りの家」ではありません。

また、多くの教会では、良き市民となるための道徳教育が強調されていましたが、一方で、病の癒しや生活苦などのような日常的な課題はあまり前面には出てきませんでした。また、神が今も生きて働いて、不思議なみわざを示してくださるというような証しの場もほとんどありませんでした。そこでは、ただ一人ひとりが神の前に静まることばかりが強調されてきたのかもしれません。

しかし、神との交わりを深めることと、信仰者どうしの兄弟愛を深めることは、車の両輪のように、いっしょに進む必要があります。イエスが、神殿を「すべての民の祈りの家」と言われたことの意味の広がりを考えてみましょう。

神と人、人と人との生きた交わりが見られない会堂は、単なる建物に過ぎなくなります。今この時から、「祈りの家」の意味を掘り下げてゆきましょう。

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2012年7月17日 (火)

出エジプト33章12節~34章10節 「主の臨在に導かれる」

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 私たちはひとりひとり、神との個人的な出会いをした結果として信仰生活を始めることができました。しかし、多くの人々が、「あの感動をもう一度・・」と求めながら、それを見失って行きます。それは神が私たちを神秘体験の奴隷にしないためでもあります。

そして神は私たちをキリストのからだという交わりの中に招いてくださいました。私たちはこの中での様々な人々との出会いを通して、さらに生ける神のみわざを見てゆくことができます。神の神秘に飢え渇いている人は、この神秘的な教会の交わりに距離を置こうとしてはいないかということを問うべきかもしれません。なぜなら神は私たちの交わりのただ中に住むと言われたからです。 

もちろん、この罪人の集団に自分の理想を求める人は、必ずつまずきます。なぜなら、それぞれがどうしようもない心の傷を負ってこの場に集っているからです。ですから、教会の交わりはときに、大変な苦痛の原因になります。しかし、それでも、生ける神のみわざを見続けたいと願う者は、教会にとどまるしかないのです。

しばしば、神は、これでも聖徒の交わりと言えるのかと言う絶望的な状況の中にご自身の臨在を現してくださいます。それはイスラエルの歴史を見るなら明らかです。

 

1.「これ(金の子牛)が・・あなたの神だ」という民への神の怒りとモーセのとりなし 

  モーセは、幕屋の設計図と礼拝についての教えを受けるため四十日四十夜シナイ山にいました。しかし、皮肉にも、ふもとでは、それにまったく反することが行なわれました。

民はアロンに、「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」(32:1)と迫りました。

アロンはその声に圧倒され、民の望むままを行うことにしました。そして彼が声をかけると民は自主的に金の耳輪を持ち寄り、たちまち金の子牛ができあがったというのです。

 

彼らは、「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(4)と言いました。彼らは、このことばによって、自分たちをエジプトから連れ上った方を、モーセとか、子牛の偶像だとか言っているのではないでしょうか。彼らは、別の神々を拝もうとしたのではなく、目に見えない方に信頼するということができなかった結果、「彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた(詩篇106:20)のでした。

神は人をご自身の「かたち(image)」として創造してくださいました。それなのに彼らは、神のイメージを牛の姿で現してしまったのです。これは神ご自身を辱めるとともに、自分たちが神のかたちとして創造されたという恵みを軽蔑する行為でした。

 

このときアロンも同調し、「あすは(ヤハウェ)への祭りである(32:5)と宣言しました。それを見る限り、別に「バアルへの祭り」を祝ったわけではありませんでした。しかし、彼らはいけにえを供えた後、「すわっては、飲み食いし、立っては戯れ」(31:6)たという様子こそ、当時の放縦な喜びに満ちたバアル礼拝の姿そのものです。牛はその偶像で豊穣のシンボルだったからです。

後にパウロはこの箇所を引用しつつ、「偶像礼拝者となってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った』と書いてあります(Ⅰコリント10:7)と記録しています。

 

  神は、民のあまりにも早急な堕落に怒りを燃やされ、モーセに向かって、あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった」(32:7)と嘆き、わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを断ち滅ぼす」(32:10)と言われながら、同時に、モーセから再び神の民を生み出すと新しいご計画を提示されました。

それに対してモーセは、イスラエルをモーセの民と呼ぶ矛盾に注目しつつ、「あなたが・・連れ出されたご自分の民に向かって、どうして・・」(32:11,12)と、真正面から疑問をぶつけ、「あなたの民へのわざわいを思い直してくださいと迫りました。これは本来、神に悔い改めを迫ることばです。

その上で、「あなたのしもべアブラハム・・」(32:13)との「契約」にさかのぼり、神ご自身の救いの計画の全体像を思い起こして欲しいと願います。

すると主(ヤハウェ)は「・・思い直された(32:14)というのです。すべてを支配し、歴史を導く神が、何と、肉なる者の訴えを聞かれて、みこころを変えられました!全世界の創造主が、ひとりの人の訴えを受け止められたのです。

詩篇作者は、このことを、「もし・・モーセが、御前の破れに立たなかったら、どうなっていたことか」(106:23)と歌っています。

多くの人は、人の破れを指摘だけはしても、それを神に向かってとりなすことができません。しかし、モーセは、神ご自身の救いのご計画を心から理解し、神の立場に立つような話し方ができました。そのように彼を整えたのは神ご自身ですが、これを通して、神は何よりも、人との率直な対話を喜ばれることが明らかになります。

 

2.「あなた自身がいっしょにおいでにならないなら」

ただしモーセは、民の乱れの実態を見ていませんでした。それで、彼が山を降り「宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり」(32:19)、何と、神の贈り物の「石の板」を砕いたというのです。その「契約の板」は、神がイスラエルの真ん中に住んでくださることの象徴でした。

このときになって、先に主に向かって、「どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか」(32:11)と訴えた当人であった「モーセの怒りは燃え上がった」のです。

 

  モーセはアロンを詰問しますが、彼は「私がこれ()を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」(32:24)と言い逃れをしました。それで、モーセは民全体の責任を正すために「だれでも、主(ヤハウェ)につく者は、私のところに」(32:26)と言いました。

モーセと同族のレビ族はみな彼のところに集まりました。何と、彼らは、剣をもって宿営の入り口を行き巡って三千人を殺しました。彼らは自分の身を切るような思いで、神への熱心を証しました。それは、民全体が滅びることがないように、神の教えに従って偶像礼拝者を裁くという行為です。

 

モーセはその上で、再び神に嘆願します。今度は「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・・(32:32)と心からへりくだって赦しを願いつつ、「しかし、もしも、かないませんなら、どうか・・・私の名を消し去って」と、自分を民全体の身代わりとして欲しいと願います。

神はモーセから新しい民を創造すると言っているのに、彼はあくまでも民全体の破れ口に立ち続けようとしています。 

 

それで主は、モーセに民を導くように命じながら、不思議にも、「わたしは・・ひとりの使いを遣わす・・・わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない・・(33:2,3)とも言われました。

それは、彼らが「うなじのこわい民」、つまり、自分の願望に縛られて、対話が成立しない民であり、そのため、主ご自身が彼らを絶ち滅ぼす結果になると思われたからです。

つまり、神にとっても、民の真ん中に住むということは無理なことと思えたというのです。

 

ただし、このときの会見の天幕における主とモーセの対話の様子が、「(ヤハウェ)は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られました」(33:11)と印象的に表現されます。

神はイスラエルの罪に激しく怒っておられましたが、その民の身代わりにさえなりたいと申し出たモーセには友のように接してくださったのです。

 

なお、このときモーセは、神が民と共には歩んでくださらないと聞いてショックを覚え、「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください(show me Your waysと、必死にすがりました(33:13)

それに対し主は、「わたし自身がいっしょに行って・・(33:14)と、何とみこころを変えてくださったのです。それで彼はすぐに「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないで・・」(33:15)と念を押し、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか」(33:16)と、主がともに歩まれるということの本質を訴えます。 

 

  後に預言者イザヤは、「モーセの日(63:11)を思い出しながら、「彼らが苦しむときには、いつも主もともに苦しみ、主の御顔の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い抱いて来られた」(63:9私訳)と語っています。

金の子牛は、人の荷物になり、運ばれる必要がありますが、反対に、真の神は人を担い、運んでくださるのです。私たちも、神によって背負われ、運ばれ、救い出されるのです。

ここでは「主の御顔の使い」という不思議な表現が敢えて用いられています。新改訳は「ご自身の使い」と訳し、脚注をつけていますが、ここでは先の主とモーセとの対話を思い起こすことが大切です。

主はご自身が彼らの真ん中に住む代わりに、御使いを遣わすと言われましたが、モーセは主ご自身が民の真ん中に住んで、彼らを導くことを願いました。主はその訴えに耳を傾け、ご自身の御顔、つまり神の臨在が民の真ん中に住んで、彼らを救うと言われたからです。

この表現をもとに、「足跡」という有名な詩が生まれました。振り返って足跡が一組しか見えない所、人生で最も苦しかった時は、イエスが離れていたのではなく、私たちを背負って歩いておられたのです。

 

3.「どうか、あなたの栄光を私にみせてください」 

  ところが、モーセはそのようなあわれみに満ちた主の約束に満足することなく、さらに、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(33:18)と大胆に願います。彼は、民の心がいかに当てにならないかを知っていました。彼らは、必ず、神の怒りを買うような罪を犯します。その時、主がイスラエルから離れ、彼が取り残されるのではないかと不安だったからです。

そして主は、この大胆な願いをもかなえてくださいました。ただし、主はまず、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから(33:20)と言いながらも、「わたしの栄光が通り過ぎるときには・・この手であなたをおおっておこう(33:22)と言われます。

 

私たちにとっては、イエスこそは、神が差し伸べて覆ってくださった御手です。神は私たちを、御子の十字架の影に隠しながら、交わりを築いてくださいます。

ですから、もう私たちは問題の直中に置き去りにされる心配もありません。イエスは、三日目に死の中からよみがえり、神の右の御座に着座され、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と語っておられます。  

 

 そればかりか、主(ヤハウェ)は、ご自身が民の真中にあって歩んでくださる象徴として、再び同じ「石の板」を与えると言われました(34:1)。この度は、石の板をモーセ自身が切り取って用意して行く必要がありましたが、今回も、主ご自身が書き記してくださいました(34:28、申命記10:4)

本来、一度失ったものを取り戻すことはできませんが、神は、モーセが一度砕いてしまった石の板を、回復されたのです。神の前で取り返しのつかないことはありません。

 

モーセがシナイ山に登ると、「主(ヤーウェ)は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主(ヤハウェ)の名によって宣言された」34:5)とありますが、これは主がモーセと同じレベルにまで降りてきてくださったということを強調する表現で、その後に記されている「(ヤハウェ)は彼の前を通り過ぎるとき・・・」(34:6)という全体にかかる解説だと思われます。

主はその時、「(ヤハウェ)」というご自身の名を繰り返しながら、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵み(契約を守る愛)とまこと(真実さ、アーメンの語源)に富み、恵みを千代も保ち、とがとそむきと罪を赦す者」であると改めて証しされました。これは神ご自身の決定的な自己紹介の啓示です。

 

福音記者ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た・・この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描きましたが、イエスこそ、目に見えない神の栄光の現れでした。

 

イエスは、罪人、取税人、遊女の友となられました。そして、失敗した弟子たちを立ち直らせてくださいました。しかし、一方、自分を義人だと主張し、他の人を見下しているパリサイ人には驚くほど厳しく立ち向かわれました。それは、彼らが、金の子牛を作った先祖と同じように自分たちの勝手な神の栄光のイメージを作り上げたからです。

神がモーセに現された栄光の核心とは、「恵みとまこと」でした。神が怒るのは、神との対話を勝手に閉じることです。神は、モーセの大胆な訴え、神に思い直しを迫るほどの対話を、喜んでおられました。それこそ私たちが取るべき態度です。神との対話を通して、神の思いと私たちの思いが一致します。

 

なお、347節後半には、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という恐ろしい警告も記されています。多くの人は、この部分に恐怖を覚えますが、ここでは「恵みを千代(約2万年に相当)に保ち」ということと、「咎は・・三代に、四代に」ということが対比されています。

モーセはこの神の語りかけに心から感動し、「地にひざまずき、伏し拝んで」、改めて、「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように」(34:9)と願います。

 

それに対して主は、「今ここで、わたしと契約を結ぼう」(34:10)と言われます。すべての契約には、祝福の約束と共にそれを破った者へのさばきが記されます。

ここでは「咎は・・三代に、四代に」という「のろい」の連鎖が神のあわれみを軽蔑する者へのさばきとして記されています。後のイスラエルのバビロン捕囚が歴史的には約七十年で終わったということは、一代を二十年とすると、三代、四代に相当します。その意味で、バビロン捕囚というのは、神の契約の成就というように見ることができます。

なお、神の怒りは、何よりも、神の「あわれみ深さ」や「情け深さ」に対して感謝も感動も覚えないような恩知らずに向けられているということを忘れてはなりません。自分の弱さや罪深さに嘆き、神のあわれみにすがるしかないと思っている人に向かって神が怒りを発することはないのです。

 

4.「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう」

主はモーセに向かって「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう。わたしがあなたともに行うことは恐るべきものである(34:10)と言われました。

その後、モーセは主が与えてくださった設計図に従って幕屋を建てます。そして、その中に、主ご自身の指で書かれた「十のことば」の契約の板が置かれます。

幕屋が完成したとき、「(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ち」ます(40:34)。そして、「イスラエルの全家の者は旅路にある間、昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのをいつも見ていた(40:38)という神の臨在がイスラエルを導くことになります。

そして、彼らは四十年間もの間、天からのパンによって支えられ、敵の攻撃からも守られ、最後には彼らよりもはるかに強力なカナンの原住民と戦い勝利を体験して行きます。

 

 そして、現在の私たちにとっての「雲の柱」「火の柱」という主の臨在に導かれて歩むとは、教会の交わりの中に生きることを意味します。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。

パウロは教会を建てることに関して、「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(Ⅰコリント3:1011)と記しています。その際、私たちはどのような材料を用いて建てるかが問われています。

 

そのことが、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります・・もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(同3:12-15)と記されています。

ただし、これは教会堂建設の事ではなく、キリスト者どうしの交わりをどのように築いて行くかということです。人と人との交わりには様々な問題が起きますが、その真ん中に主ご自身がいてくださるときに、その交わりはこの世のいかなる組織にもまさる力を発揮します。

私たちはそれを人間的な手段や組織力によって築くのではなく、ともに主のみことばを味わうことを通して築くのです。その材料の良さとはみことばの味わい方を指しています。

 

そして最後にパウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」(3:1617)と言いました。

ここでは「あなた」という単数形ではなく、「あなたがた」という複数形が強調されています。この教会の交わりこそが神殿であり、神の臨在はこの場にあふれているのです。

神とともに歩むということと、教会の交わりの中に生きるということは切り離せないことです。この教会の交わりを軽蔑したり、それを破壊したりする者は、神によって滅ぼされるのです。私たちは何よりも、教会堂を建てるということよりも、みことばを土台とした教会の交わりを建てるということを最優先する必要があります。

 

ただし、教会堂建設は、主のみわざを見させていただく絶好の機会でもあります。それは祈りを学ぶ学校でもあります。神がすばらしいことをなさってくださいます。そのみわざをともに体験するチャンスです。

そこでは、ひとりひとりが何らかの形で、その働きのために貢献することができます。何の貢献もできないという人はいないはずです。なぜなら、人間的に何もできないという人こそ、真の意味で祈りを深めることができるからです。

 

主のご臨在が私たちの交わりのただ中に降りてきて、私たちの歩みを導いてくださるということは、何とすばらしいことでしょう。ドン・モーエンがこの箇所をもとに、美しい祈りの曲を作っています。ともに味わってみましょう。

 

If Your presence doesn’t go with us, Lord, we don’t want to leave this place.

もし、あなたのご臨在がいっしょにおいでにならないなら、私たちはこの場を去りたくはありません。

Lord we need You near, as we go from here, to lead us by Your love and grace.

主よ。私たちはここから行く際に、あなたがそばにいて、その愛と恵みによって導いていただきたいのです。

May Your presence fill us every day, may your Spirit lead the way

どうかあなたのご臨在が私たちを日々満たし、あなたの御霊が道を導いてくださいますように。
Lord to You we call, let Your glory fall, and may Your presence go with us. (最初から繰り返し)

主よ、あなたを呼び求めます。あなたの栄光がこの場に降りて、ご臨在が私たちの歩みとともにいてください

 

if we have found favor in Your sight, show us Your ways, O Lord

もし私たちがあなたのお心にかなっているなら、あなたの道を示してください。主よ。

Cause we want to know You and live in Your light, for all of our days show us Your ways.(最初の繰り返し)

なぜなら、私たちはあなたを知り、あなたの光の中を歩んで、日々あなたの道を示していただきたいからです。

We have our hopes and we have our dreams, but we cannot go where You will not lead (最初の繰り返し)

私たちには自分の希望や夢があります。しかし、あなたが導いてくださらないところに行くことはできません。

Lord to You we call, let Your glory fall , and may Your presence go with us.

主よ。あなたを呼び求めます。どうかあなたの栄光が降りて、あなたのご臨在が私たちとともにありますように。

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2012年7月 4日 (水)

箴言23章17節~24章34節「ただ主をいつも恐れていよ」

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 しばしば教会では、「どんな罪人であっても信仰によって救われる」と強調するあまり、神は、「おのおの、人の行いに応じて報い」を与えられるという当然のことが忘れられることがあります。そして、神が怒りを発せられる最も悪い行いとは、神の善意を疑い、自分を善悪の基準にして神をさばくことです。

つまり、不信仰こそ、最も悪い行いなのです。信仰と善行は決して相反することではなく、表裏一体のことです。事実、私たちは、自分の善意が誤解され、こちらの純粋な思いの背後に悪意あるかのように思われるときに、本当に悔しい思いを味わいます。

神がご自身のひとり子を犠牲にするほどにこの世を愛してくださったそのみわざを軽蔑する者は、さばきを免れません

 

 「神は愛です」が、その裏には「ねたみ」があります。神の愛は、私たちに迫ってくる神の情熱でもあるからです。神の愛を信じることと、「神を恐れる」ことも表裏一体のことです。

神はあなたの内側に隠されている様々なみにくい思いのすべてを見ておられます。神を恐れるとは、それを意識しながら生きることです。

人を恐れるとき、私たちは自分の心の内側を隠しますが、神を恐れる者は、自分の心を開いて十字架にすがるのです。神を恐れることと、神の赦しを信じることも矛盾しません。神を恐れることは、何よりも、神の赦しと公平なさばきを信じることです。

 

1.「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない」

2317,18節には、「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主(ヤハウェ)をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない」と記されていますが、これは極めて現実的な教えです。

ねたみ」とは、嫉妬心とか羨ましがる思い、浮気に対する怒りなど、人間の心の奥底にある強烈な感情です。ここではとくに、神に逆らう者たちが幸せに生きている姿を見て「ねたみ」を覚えることを戒めたものです。

詩篇73篇では、「悪者の栄えるのを見た」著者が、「誇り高ぶる者をねたんで」、主に訴える様子が描かれます(3)。聖書には繰り返し、神に逆らう者は平安を味わうことができず、滅びに向かっていると語りますが、残念ながら目に見える現実としては、「悪者は・・いつまでも安らかで、富を増している」(12)と思えることが多いからです。

 

しばしば箴言3章、56節のことば、「心を尽くして主(ヤハウェ)に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」は、信仰生活の黄金律であると言われます。

そこで、「主はあなたの道をまっすぐにされる」ということばは、「成功させる」という約束と理解することができます。しかし、現実には、主にまっすぐに従っているつもりでありながら、いろんなことがうまく行かないばかりか、とんでもないわざわいに会うことさえあります。そのときに、いろんなことが順調に行っている人に対して「ねたみ」を感じるのは、当然の人間の心理です。そのような感情を決して否定してはなりません

 

「ねたみ」は、「神のかたち」に創造された者が、当然のように感じる激しい感情です。「十のことば」の核心として、主はご自身のことを、「わたしは(ヤハウェ)、あなたの神、ねたむ神(私訳)と紹介しておられるからです。つまり、「ねたみ」は、神の愛と表裏一体にあるご自身の所有に対する強い感情なのです。

そのことを前提に、主は、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と、「のろい」と同時に「祝福」を語っておられます。「主を恐れる」とは、この神の「のろい」と「祝福」を真剣に受け止め、いつでもどこでも、主との交わりを第一に求めることなのです。

 

なお、この1718節は英語のNew King James訳では、「Do not let your heart envy sinners, But be zealous for the fear of the LORD all the day; For surely there is a hereafter, And your hope will not be cut off.」と訳されています。つまり、罪人の成功に「ねたみ」を感じる代わりに、「主を恐れる」ことにおいてねたむ」ほどの情熱を持つことの勧めであるというのです。

原文は、「罪人をねたむな」の「ねたむ」という「熱心さ」が、いつでもどこでも「主を恐れる」ことにおいて発揮されるようにと勧められているのです。

それは、「終わり」があるというよりは、「この後」のことが期待できるからという意味です。今はたまたま、罪人が成功しているように見えるかも知れないけれども、「この後」には、神がきちんと、神に対するあなたの熱心な思いに、答えてくださると約束されているのです。

 

ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神医学者は、ナチス・ドイツの強制収容所の体験を、「夜と霧」という有名な著書に記録しています。彼は、収容所の中で、真冬の朝、まだ暗いうちに整列させられて作業場に行進していました。

彼は朝焼けの中に、愛する妻の面影を思い浮かべることができました。彼は心の中で妻の語りかけを聞き、また、その微笑みを見ました。そのとき彼女は実際には既に殺されていたのですが、彼女の眼差しは、そのときに昇りつつあった太陽よりも自分を照らしました。

彼は、そのとき「愛は死のように強い(雅歌8:6)という真理を悟ったと記しています。その箇所には続けて、「ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です」と記されています。

愛は、具体的な関係に生まれる感情です。そして、愛の強さは、それと表裏一体の関係にある「ねたみ」の感情として現されます。あなたの人生の伴侶の浮気にねたみを感じないとしたら、それはふたりの愛が冷めていることのしるしでしかありません。

なお、この愛の気持ちは、妻や夫の代わりに、父や母であっても同じですが、愛する人の顔を思い浮かべることで、どのような悲惨の中でも喜んでいられるというのは、人間の特権です。

そして、私たちの信仰とは、何よりもイエスに対する恋愛感情として表現することができます。

 

つまり、「罪人をねたんではならない。ただ主(ヤハウェ)をいつも恐れていよ」という勧めで、あなたに問われていることは、あなたは罪人の成功や幸福に「ねたみ」を感じるというその熱い感情を、あなたの創造主である神に向けているかということなのです。

そして、自分の人生をより長い視点から見たときに、「心を尽くして主(ヤハウェ)により頼め・・あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」という約束の真実さが分かることでしょう。

私たちはいつでもどこでも、主の眼差しを意識し、主に向かって祈るというただ中で、幸いを体験することができるばかりか、主があなたのためにすばらしい将来を開いてくださることを信じることができます。

恋人や伴侶の浮気をねたみ、また他人の成功にねたみを感じるのは、神のかたちに創造された人間として当然の感情です。問われているのは、その感情を否定する代わりに、その熱い思いを主に向けることです。

 

2.「大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな」

19-21節では、「わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ」と記されています。

これは、勤勉の大切さと共に、誰との交わりを優先するかについて良い示唆を与えてくれます。大酒飲みや大食漢は、互いに影響しあって人を堕落に導きます。

その点、信仰者はしらふで真面目な話をすることができます。私たちは、神を恐れる者との交わりを何よりも大切にする必要があります。

 

 そして、29節では大酒飲みの危険が、「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか」と、六回の「だれか」という問いかけがなされながら、そのような愚かな歩みをする者は、「ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ(30)と答えられます。飲酒は何よりも私たちの自制心を麻痺させてしまうからです。

 

そして、酒を飲む代わりに、酒に飲まれてしまう様子が、31-35節で、「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。 あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。『私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ』」と記されています。

これはアルコール依存症の罠を生き生きと描いたものと言えましょう。 聖書は、飲酒自体を禁止しているわけではありません。しかし、ちょっと一杯のつもりで飲んだ酒が、理性を麻痺させ、心と感情がお酒に動かされてしまうということが何と多いことでしょう。

 

ところで、自分の殻をやぶることができるという意味では、聖霊に満たされることと、酩酊することに、まったく逆の方向ながら共通点があり、そのことをパウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい(エペソ5:18,19)と記します。

そこでは、「酒に飲まれてしまう」ことと、「御霊に支配されること」が対照的に描かれています。酩酊はしばしば、この世の空しさを忘れさせ、人を陽気にする力がありますが、御霊に満たされることは、それにもまして、私たちにこの世の悲惨や空しさを超えた希望を見させ、目の前の状況に左右されない喜びを与えてくれます。

お酒の誘惑に勝つための秘訣は、お酒を止めようと自分に言い聞かせることではなく、それにはるかにまさる「御霊に満たされること」の幸いを味わうことにあります。私たちはよりすばらしいものを知ることによって、より劣ったものの誘惑から自由になることができるのです。本物の喜びを求めさせていただきましょう。

 

そして、2412節では再び「ねたみ」ということばが用いられながら、「悪い者たちをねたんではならない。彼らとともにいることを望んではならない。彼らの心は暴虐を図り、彼らのくちびるは害毒を語るからだ」と記されています。

私たちが「ねたみ」を感じる対象は、身近にいる人です。見知らぬ大富豪には「ねたみ」などは感じないことでしょう。人は、だれも一人で生きることはできません。問われているのは、あなたは誰との交わりを第一にして生きているかということです。主との交わりは、同時に、主にある兄弟姉妹との交わりをも含めるものです。

 

3.「この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか」

2456節には「知恵」が真の力の源であることが、「知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る」と描かれます。

何事でも力任せでは結果を出すことができません。その上で7節には「愚か者には知恵はさんごのようだ」と不思議なことが記されます。これは、「愚か者」にとって「知恵」は「さんご」のように高価で、手の届かないものであるという意味です。

この世では、「頭の良さ」が評価されがちですが、何よりも大切なのは、「人のいのちがどなたによって創造され、私たちは何者で、人生のゴールがどこにあるかを」知ることではないでしょうか。

つまり、知恵ある者と愚か者との根本的な違いは、心の目を向ける方向の違いなのです。私たちは自分の遺伝子を変えることはできませんが、心の目の方向は変えることができます。そして、あなたの心の中に知恵を求めたいという心があるならば、あなたは聖書の基準からしたら「知恵ある者」であり、決して「愚か者」ではありません。

 

そして、ここではその愚かさの具体例が、「彼は門のところで、口を開くことができない」と描かれます。門の前の広場は、しばしば、裁判の席に用いられましたが、「愚か者」はそのような大切な場で、口を開くことができないというのです。

イエスは、「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言われました(10:19,20)

私たちの内側に聖霊が住んでおられます。そのことの恵みは、何よりも、人間的な知恵や力の限界に直面するような危機的な状況の中でこそ体験させていただけるのです。ですから、私たちはわざわいを恐れる必要はありません。

 

そのこととの関連で、10節では、「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」と記されます。私たちの命が危険にさらされた時、そこで自分のいのちを守ることに必死になる代わりに、自分の身を犠牲にしてでも、使命を全うしたいという熱い思いが湧いてくるとしたら、そこにこそ聖霊のみわざが現れています。

 

そして、神を恐れる生き方の具体例が、1112節では、「捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、『私たちはそのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか」と記されています。

神は、私たちが自分の隣人に対してどれだけの関心を持っているかを見ておられます。隣人に対して無関心な者は、神のさばきを免れません。

 

ここでは特に、「あなたのたましいを見守る方」ということばに注目すべきでしょう。私たちは、様々な悲惨な話から目をそらすことによって自分の責任を回避しようとしますが、しばしば、「知らなかった」ということばは、「知ろうとしなかった」と言い代えた方が的確かもしれません。

しかし、私たちのたましいを見守ってくださる方に心の目が向けられるなら、私たちは勇気を受けて、この世の様々な悲惨に対して目を開いて行くことができるようになります。

そして、「この方は・・行いに応じて報いないだろうか」という表現を前提にパウロは、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります・・・神にはえこひいきなどないからです(ローマ2:6-11)と記します。

 

私たちは自分の善意や善行が誤解されるばかりか、そこに下心があるかのように非難されるとき、眠られなくなるほどの悔しさを覚えます。パウロもコリントの教会に向けて、自分の嘆きを、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(12:15)と訴えているところがあります。

人は誰しも、自分の行いが正当に評価されることを望みます。反対に、偽善を取り繕うことが上手な人が、不当に高い評価を受けているのを見る時に「ねたみ」を感じます。人はみな、心の底で、神が自分の行いに公平に報いてくださることを求めています。神がひとりひとりの行いに従って正当に報いてくださるということこそ、福音の核心とは言えないでしょうか。

 

 1718節の、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主(ヤハウェ)がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから」という表現は、一種のジョークと考えて良いでしょう。

私たちの心の中には、自分の敵の不幸を喜びたい気持ちがあります。しかし、あなたが自分の敵を辱めるなら、敵はそれでさばきを受けたことになってしまいます。神はそれ以上のさばきを必要がないと思われるかもしれません。そうなれば、あなたの敵はやがて力を回復し、さらに大きな問題を引き起こすことになりかねません。

これは、さばきを主にゆだねることの方が、真の平和を実現することにつながるという意味です。

 

それとほぼ同じような意味で、再び「ねたみ」ということばを用いられながら、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから(24:19,20)と記されます。これも、神の最終的なさばきに任せて、隣人との和解を進めさせることばです。

 

また、2829節では別の角度から、「あなたは、理由もないのに、あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。あなたのくちびるで惑わしてはならない。『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない」と記されます。

使徒パウロはこれと同じ思いで、「誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:17-19)と記します。

 

私たちが仕返しをしたい気持ちから自由になれないのは、神のさばきを信じていないことの結果に過ぎません。「敵を許さなければ・・」などと、自分を駆り立てるのではなく、神が悪者をさばいてくださるということを信じましょう。それが信じられるようになるとき、結果的に、「敵が飢えたなら・・食べさせ・・渇いたなら、飲ませ・・善をもって悪に打ち勝つ(ローマ12:20,21)という、敵を愛する行動を心から進んで行うことができるようになります。

そればかりか、主のさばきを知れば知るほど、自分に関してはイエスの十字架にすがるしかないということが分かってきます。つまり、「主を恐れ」さえするならば、敵を愛することもできますし、主の十字架の恵みも分かるようになるのです。

 

  神の愛は、親が子供を愛することに似ています。子育てにおいて、親はどれだけの犠牲を払っているでしょう。多くの親は、子供が与えられた能力を延ばしながら、人生を楽しむこと自体を望んでいます。まだ成人もしていない子供が、家計を支えなければと思って、勉強するよりも働く方が親孝行になると勝手に思い込んでいるときに、多くの親は悲しむのではないでしょうか。

しばしば、「私は神のために、社会のために、身を粉にして労苦している」と言いながら、周りの人をさばきまくって、自分の正義を振りかざして行動するような人を神は喜ぶでしょうか。

 

神のすべての恵みのみわざを思い起こし、自分の信仰以前に、神が不信仰な者に信仰を与えてくださったという原点に立ち返りましょう。

神の愛があなたに迫ってきたという体験を、誰もが持っているものです。自分の不信仰を悩む以前に、神の愛を思い起こし、神のみことばを味わってみましょう。信仰は、神から生まれます

ただし、神の愛が迫ってきたということは同時に、神は私たちの霊的な浮気に怒りを発せられるということでもあります。神の愛を知ることは、神の「ねたみ」を知ることでもあります。

神を愛することと神を恐れることは表裏一体です。人は、恐れ敬うべき人の話には真剣に耳を傾けます。「神を恐れる」とは、神のみことばを真剣に聞こうとすることです。

あなたが神のために何をするか以前に、神があなたに何をしてくださったかを思い起こすことが大切なのです。

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