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2012年8月19日 (日)

マルコ12章1-12節 「真の王を忘れた国の悲劇」

                                                  2012819日                               

  すべての国は、内側から滅びると言われます。日本が第二次大戦の始めた無謀さも確かに問題なのですが、誰も目にも敗北が明らかになりながら、戦争を終結させる指導力が日本の政治になかったということが、東京大空襲ばかりか二度の原爆投下を招いた原因とも言えましょう。誰のために政治権力を与えられているかを忘れた指導者が国を治めていた悲劇です。

そして、同じことは昨年の原発事故でも明らかになりました。組織が硬直化し、自分たちの組織を守ること自体が優先され、真の危機が見過ごされていました。国民を守ることよりも、自分たちの権益を守ることが優先されるということが、国が滅亡するときに共通して起こります。

 

イエスの時代のユダヤ人たちは自分たちの独立国を作ることを憧れてきました。しかし、かつて繁栄を極めたダビデ王国はふたつの王国に分裂し、互いの足の引っ張り合いによって滅びました。

その後、ペルシャ、ギリシャの支配下で細々と自治権を与えられ、ユダ・マカベオスによる独立運動によって築かれたハスモン王朝も、内部分裂によってローマ帝国の支配に屈しました。

そして、イエスの時代のヘロデ王朝も、内部分裂のあげくに愚かな独立闘争に走り、滅びました。地上の神の国を実現するはずが、みにくい権力闘争によって自滅したのです。

 

1.「ある人がぶどう園を造って・・・それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」

当時の宗教指導者たちは、自分に都合の悪い人を巧妙に排除する方策ばかりを考えて、ものの本質を見ることを忘れていました。今ここで、真に問われていることが何なのかを見ることができない人は、本当に惨めです。

 

 12章最初で「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた」と記されますが、イエスはまず宗教指導者たちに向けて語り出しました。なぜなら、聖書知識があっても、神から委ねられた責任を自覚しない者は教師にふさわしくないからです。

イエスはそこで、「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(1節)と言われますが、この背後にイザヤ5章の記事があります。

 

そこで神はまず最初に、「エルサレムの住民とユダの人よ・・・わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」(イザヤ5:3,4)と問いかけておられます。

つまり、ぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために必要なすべてのことを備えたので、その収穫の分け前はすべて主人に属するものであり、農夫たちには定められた賃金以上のものを受け取る権利はないということが、このイエスのたとえの前提にあるのです。事実、ここでは、ぶどう園の主人の働きが簡潔ながらも、ひとつひとつ描写されています。

 

また、ここで「それを農夫たちに貸して」とは、父なる神がイスラエルの民に約束の地の管理を任せたこと、「旅に出かけた」とは、神がしばらくの間、沈黙していたことを指すと思われます。

かつて神は、イスラエルの民のために、約束の地の真ん中にエルサレム神殿を与えてくださいましたが、それは神が彼らの真ん中に住んでくださるというしるしでした。ところが、彼らの心はしだいに自分たちの神から離れてしまい、特に宗教指導者たちは、エルサレム神殿を利用して私腹を肥やすようになって行きました。今も、昔も、宗教は金儲けの最も効率的な手段になりえるからです。

彼らの心が神から離れたとき、神も彼らから離れて行かれました。彼らが外国の軍隊によって苦しめられたのは、神が無力だったからではなく、主の栄光がエルサレム神殿から離れてしまった結果でした。

 

ただし、それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、忍耐をもって多くの預言者を遣わし、イスラエルの民に語り続けてくださいました。

そのことがここでは、ぶどう園の主人が、「季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした」と描かれます(2節)。これは神が、人間を働かせ、その労働の果実を獲る必要があるという意味ではありません。神は飢えることなどないからです。

これは、何よりも、イスラエルの民とその指導者たちに、主ご自身から委ねられた責任を自覚させるという目的のためでした。彼らは、世界に対して、神の栄光とあわれみを証しするために神によって選ばれた神の民だったからです。

 

人生には喜びよりも苦しみの方がはるかに多いと言われますが、そんな人生を人は、何のために生きる必要があるのでしょう。

その答えを使徒パウロは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)と言っています。これはすべての人に適用できることばです。

 

人はみな、誰かのために生き、誰かのために死ぬのです。それは、家族のため、共同体のため、国のためかもしれません。現代の日本人はその使命感を忘れてはいないでしょうか。その結果、自殺が広がる一方で、その場限りの快楽を求める刹那的な生き方が生まれます。

それはイスラエルでも同じでした。彼らは、ぶどうを主人に渡す代わりに、ぶどう酒を心行くまで飲みたいと願いました。彼らは約束の地という理想的な環境を手にしたとたん、それを可能にしてくださった神を忘れて、自分の快楽のためだけに生きるようになってしまったのです。

 

米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻した理由を、「それは強欲の故である」と言い放った人がいます。真のロマンを忘れた仕事は必ず行き詰まります。富は使命を果たすことへの報酬であることを忘れてはなりません。ここでも、「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。

これは、基本的に私たちのすべての仕事に適用できる原則です。私たちは数え切れないほどの恵みによって生かされています。土地も空気も水もすべて神の賜物です。仕事も神によって与えられたものであり、私たちは神に対して説明責任を負っています

そのことが先のローマ人への手紙では、「こういうわけですから、私たちはおのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(14:12)と記されています。ところが、多くの人々は、それを忘れて自分のためだけに生きようとして、自分を管理する方を心の中で消し去ろうとします

 

2.「私の息子なら、敬ってくれるだろう」

ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した」(3節)とは、たとえば、イスラエルの民が最初の預言者エリヤにとった態度です。彼の努力は何の実も結ばないように見えました。ただ彼は、多くの迫害は受けながらも、生きたまま神のみもとに引き上げられました。

 

ところが、その後、イスラルの状況は悪くなるばかりでした。彼らはますます神を忘れ、神が遣わした預言者を迫害しました。そのことが、「そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた」(4節)と描かれます。

預言者イザヤなどは、エルサレムがアッシリヤの軍隊に包囲されたとき、ヒゼキヤ王に対して決定的な影響力を発揮することができましたが、伝承によると、その後の王マナセのもとで、のこ引きの刑によって殉教しました。

また預言者エレミヤなどは、「嘆きの預言者」と呼ばれるほどに、その生涯は苦しみに満ちていました。

 

ぶどう園の主人は、この段階で農夫たちを追い出してもよかったはずですが、なおも別のしもべを遣わします。それに対し、「彼らは、これも殺してしまった」というのです(5節)。

そればかりか、「続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした」と、主人の忍耐と期待が次々に裏切られる様子が描かれています。

これは最後の預言者、バプテスマのヨハネに至るプロセスを指していると思われます。当時の民衆はヨハネを預言者として信じていましたから、イエスのこのことばの意味をよく理解できたことでしょう。

 

それにしてもぶどう園の主人は、ご自身の力を隠して、しもべに託した「ことば」だけで彼らを悔い改めさせようとします

そして最後に、ルカは、「ぶどう園の主人」が、「どうしたものか」と思案した様子を描いています(20:13)。そして、ここでは、「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった」と、息子を最後の切り札として送る様子が記されています。

その際、主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と思ったというのです。

 

ところが、「その農夫たちは」、そのことを恐れるどころか、「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」と、話し合ったというのです。彼らは、主人が軍隊を送ってこないことを、主人はすでに死んでしまったしるしと解釈しました。

そして、相続者のいない土地は、そこに住んでいる者の所有とされるという法律がありましたから、彼らはあと取り息子を殺すことで、ぶどう園を手に入れようと思いました。農夫の姿は、当時の宗教指導者たちがエルサレム神殿を利用して利得を得ていたことを示しています。

 

その後のことが、「そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた」(8節)と描かれますが、これは神の御子であるイエスが、エルサレムの城壁の外で十字架にかけられて殺されることを示しています。

 

このたとえはイエスご自身の十字架を早める効果がありました。これを聞いた宗教指導者たちは、イエスが自分を神から遣わされたあと取り息子に例えていることがわかったはずです。彼らにとっては許しがたい神への冒涜と思えたことでしょう。彼らはこれを聞いたことで、イエスへの殺意を正当化できました。

しかし同時にこれは、イエスの十字架と復活の後、彼らを悔い改めに導くためのものでもありました。彼らは、自分たちが神から遣わされたひとり子を殺害したことの報いがどれほど大きなさばきになることを思い起こし、神に赦しを請うこともできたはずです。少なくとも、このたとえを聞いた民衆の一部は、この意味を理解して、キリストの弟子となったことでしょう。

 

この世の不条理がなくならないのは、神が忍耐をもって、みことばによって人々の心を変えようと、さばきを遅らせておられるためです。そのことをペテロは後に、「主は・・・あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです・・主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:9、15)と記しました。

しかし、主の忍耐のゆえに、主をあなどってはなりません。主は、時がきたら、私たちひとりひとりが誰のために、誰への説明責任を意識して生きてきたかを問われるからです。

 

預言書の解説をまとめながら、改めて、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)というみことばこそ、その核心であるとわかりました。主は、世界の歴史を導いておられます。ですから、ペルシャやギリシャやローマ帝国の支配下にあっても、それらの大帝国からの独立運動をすることよりも、その枠組みの中で生きることこそ、主のみこころでした。

ユダヤ人にとっての英雄、ユダ・マカベオスは武力でギリシャの王を圧倒しましたが、それこそユダヤ人の悲劇の始まりとなりました。

 

日本の場合は、ロシヤとの戦いに勝利したことが、その後の悲劇の始まりとなりました。なぜなら、自分を東アジアの盟主だと思うほど傲慢になったからです。

しかし、日露戦争に勝利できたのは、ロンドンの銀行団やユダヤ人資本家から莫大な借金をして戦費を調達できたからです。日本政府は彼らの前に非常に謙遜でした。しかし、第二次大戦のときの戦費の調達の一部は、中国人にアヘンを栽培させ、それを中国人に買わせることによってなされました。それがアジアの盟主の素顔でした。

また、原発事故を起こした東京電力は、自分たちはすべてを掌握していると思い込み、警告に耳を傾けなくなっていました。つまり、すべての悲劇は、自分の知恵や力の限界を忘れ、自分が王であると傲慢になったことから始まっています

聖書が語る罪とは、人々の期待に沿う立派な行いができないことや、自己管理能力が弱きことなどではなく、真の王である方を忘れ、自分が王になってしまうことです。

預言者が繰り返し語っていることは、他国に負けない国力をつけることなどではなく、真の王である神に立ち返ることでした。自分が一人で生きているように思うことこそ、罪の根本なのです。

 

3.「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」

イエスは、ここでこの話を聞いてきた宗教指導者たちに向かって、「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう」(9節)と問いかけます。

人々は、「この後、どうなるのだろう・・・」と考えたことでしょう。その上で主は、ぶどう園の主人が「戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(9節)と言いました。それは、この約束の地からイスラエルの民が追い出され、別の民族がその地に住むようになるという意味でした。

 

その上でイエスは、「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか」と言われながら、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」と言われました(12:10,11)。これは詩篇118編からの引用です。

家を建てる者たちは、自分の計画に合った石を捜し出しますが、多くの場合、枠にはまりやすく、組み合わせやすい石を探し、規格外の石は捨てます

私たちの社会でも、枠にはまらない人間は見捨てられます。しかし、主は、そのような石をご自身の働きの「礎の石」として豊かに用いてくださるというのです。

なぜなら、枠にはまりやすい人は、周りに合わせることばかりを優先して、主だけを見上げることはできないからです。そのような人からは、社会を変えるような働きは生まれません。

 

同時にそこにはイザヤ8章の記事が背景にあります。そこでは、「万軍の主(ヤハウェ)、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ」(13節)と記されていますが、私たちはどの方を「恐れ」とするかが問われています。

そうすれば、この方が聖所となられる」とはイエスご自身が神殿となられるという事を指し示しています。それと同時に、「しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる」(14、15節)と記されています。

残念ながら、「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、それまでイエスに将来の希望を託していた民衆たちは、数日後、ローマの兵隊に無力に捕らえられている姿を見てつまずき、「十字架につけろ!」と大合唱してしまいました。イスラエルの民にとって、ローマ帝国の前に無力な救い主などありえなかったからです。

 

しかし、主は、意外な形でご自身の力を現しておられました。イエスは人々から罵られ、嘲られ、ひとりぼっちになる道をご自分から選ばれました。人は何よりも、孤独を恐れます。たとえば、人が生きる力を弱めているときに何よりも必要なのは、その弱さに寄り添ってくれる人です。

また、反対に、寄り添ってくれる人がいれば、人は強くなることができます。イエスの強さとは、何よりも孤独に耐えることができたことにあります。

ただし、誰もイエスのように孤独に耐えることができる人はいません。私たちはその点で、しばしば、大きな間違いを犯します。心が弱っている人に向かって、イエスの孤独に倣うように勧めることは心の暴力になります。

 

それにしても、弱い人は、人の前で強がります。しかし、真に強い人は、強がる必要はありません。自分の弱さだって自由に表すことができます。実は、神に支えられていることを自覚している者こそが、軽蔑されることを恐れずに、自分の弱さを現すことができるのです。

しかし、当時の人々は、イエスが神の御子であられるからこそ、すべての地上的な栄誉を捨てることができたという逆説を理解できませんでした。

イエスの表面的な弱さの背後に、途方もない強さが隠されていました。イエスは人々の期待という枠をはるかに超えた「礎の石」であられたのです。

 

ルカは、イエスが続けて、この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです」(ルカ20:18)と言われたことを記しています。これは、イエスに信頼する者は救われるという一方で、ご自身を救い主として認めないものは、自滅するということを語ったものです。

このイエスのことばから約40年近く経過した後に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされ、ユダヤ人はその後、約二千年間近くにわたって国を失うという形で実現しました。

そこには、目に見える権力者よりも神から遣わされた「礎の石」としてのイエス・キリストをこそ恐れなければならないという意味が込められています。

 

地上のすべての王国は、次から次と滅びてゆきました。しかし、イエス・キリストの王国は、二千年前にパレスチナの片隅で始まり、今も世界中に広がり続けています。

あなたの周りに百年以上にわたって活力を保ち、繁栄を続けているような会社があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの教会は今も活力を保ち成長を続けています。

 

なお、このイエスのことばの背景には、ダニエル2章で記されているバビロン帝国の大王であるネブカデネザルが見た夢のことがあります。そこではバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国などの歴代の巨大帝国のことが描かれていますが、最後の帝国には鉄の強さと粘度のもろさとが共存しており、一見、強いように見えてもその実態は、団結力のない国です。それが「一つの石」によって「打ち砕かれ、絶滅する」というのです(2:44,45)

これは当時の現実としては、祭司たちとヘロデの勢力の結びつきのようなものです。昔から敵の敵は味方であるというように、彼らは理念を共有しているのではなく、共通の敵であるイエスの前に結びついているに過ぎません。

それは現代の日本の政治状況であるとともに、私たちの周りにある現実です。鉄のように強い権力があったとしても、それは粘土と混ざっています。しかし、鉄と粘土が融合することがないように、この地上の権力はすべて、とてつもないもろさを抱えています。

キリストによって結びついている共同体に勝つことができる権力は存在しません。かえって、キリストに敵対する権力は、一時的な繁栄を誇っているように見えても、あっけなく消え去ってゆくのです。

 

  ところで、最後に、「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った」(12節)と記されています。

ここで興味深いのは、「やはり群衆を恐れた」という記述です。宗教指導者たちはイエスが自分たちを非難しているということを理解し、怒りに燃やされながらも、民衆を恐れてイエスに手出しをすることができません。

彼らは口先では、神への信仰のためならいのちをも捨てるべきだと説いていました。しかし、自分の身に関しては、少しの危険をも避けていたいと願うばかりでした。彼らは人の目ばかりを意識して、真に恐れるべき方から目をそらしていました。

 

  この世の権力機構などは、鉄と粘土の組み合わせのように、驚くほどに脆いものです。イエスは当時の宗教指導者たちから見捨てられた石です。しかし、それこそが、神の国の「礎の石」でした。それは私たちにも適用できることです。

この世の評価や力を恐れて生きる者は、強いように見えても驚くほど脆い存在です。私たちは今、経済的に驚くほど不透明な時代に生きています。しかし、そのようなときこそ、この世の評価を恐れず、主の目をだけを意識して、孤独に耐えるような生き方が求められています。

人を人とも思わない傲慢な生き方も問題ですが、人に合わせることばかりを優先するような生き方はもっと問題です。塩気を失ってしまっては信仰の意味がありません。

 

 なお、教会はキリストのからだとして、キリストのご支配のもと、この世界を治めるために置かれています。教会もひとつの組織体として、かつてのユダヤ人国家が世界への責任を忘れて自分の国の存亡ばかりを考えたように、自己保存本能が働く時があります。

私たちは地の塩、世界の光として、この世界に対する責任を果たすために召されています。教会が何のために存在するかという原点は、常に問い返す必要があります。

そして、私たちは何よりも、自分たちは王ではなく、真の王である方と、王のしもべたちによって支えられているということを決して忘れてはなりません。どの地域教会もひとりで立っているのではなく、協力関係の中で立たせてもらっているのです。

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2012年8月12日 (日)

詩篇37篇 (私訳)

                    ダビデによる

 

悪を行う者に対して熱くなるな(自分を燃やすな)。  (1)

 不正を行なう者をねたむな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、         (2)

 青草のように枯れるのだ。

 

(ヤハウェ)に信頼し、善を行なえ。          (3) 

 地に住み、誠実(真実)を養え(守り育てよ)

(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。          (4)

 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 

あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。        (5)

 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主はあなたの義を光のように輝かしてくださる。 (6)

 あなたのさばき(正義)を真昼のように・・・。

 

(ヤハウェ)の前に静まり、                (7)

忍んで主を待て。    

その道で栄え、

悪意を遂げる人に対して熱くなるな(自分を燃やすな)

 

怒りを手放し、憤りを捨てよ。              (8)

熱くなるな(自分を燃やすな)。それはただ悪への道だ。

なぜなら、悪を行なう者は断ち切られるからだ。   (9)

 主(ヤハウェ)を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ。

 

ただ少しの間に、悪者はいなくなる。         (10)

 彼の居所を調べても、もういない。

しかし、貧しい者は地を受け継ぐ。          (11)

 また、豊かな平和(シャローム)をおのれの喜びとする。

 

 

 

 

悪者は正しい者に陰謀を巡らし、           (12)

 歯ぎしりして彼に向かう。

(アドナイ)は悪者を笑われる。              (13)

 彼の日が迫っているのをご覧になるから。

 

悪者どもは剣を抜き、弓を張った。          (14)  

 貧しい者、乏しい者を倒し、

まっすぐな道の者を殺そうとする。 

 彼らの剣は自分の心臓を貫き、弓は折られる。 (15)

 

正しい者の持つわずかなものは、          (16)

 多くの悪者の豊かさにまさる。

なぜなら、悪者の腕は折られるが、         (17)

 主(ヤハウェ)は正しい者を支えられるからだ。

 

(ヤハウェ)は完全(正直)な者の日々を知っておられ、(18)

 彼らの受け継ぐものは永遠に残る。

彼らはわざわいの時にも恥を見ず、        (19)

 飢饉のときにも満ち足りる。

 

まことに、悪者は滅びる。               (20)

 主(ヤハウェ)の敵は、牧場の輝きのようだ。

彼らは消えうせる。

煙となって消えうせる。

 

 

 

悪者は、借りるが返さない。              (21)

 正しい者は情け深く、人に施す。

まことに主に祝福された者は地を受け継ぐ。    (22)

しかし、主にのろわれた者は断ち切られる。

 

人の歩みは主(ヤハウェ)によって確かにされる。   (23)

 主はその人の道を喜ばれる。

たとい倒れても、逆さになることはない。       (24)

 主(ヤハウェ)がその手を支えておられるからだ。

 

若かった時も、年老いた今も、私は見たことがない。(25) 

 正しい者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを。

その人はいつでも情け深く、人に貸す。       (26) 

 その子孫も祝福される。

 

 

 

悪を離れ、善を行なえ。                 (27)

 するとあなたは永遠の住まいを得る。

なぜなら、主(ヤハウェ)はさばき(正義)を愛し、      (28) 

 ご自分の聖徒(契約の者)を見捨てられないからだ。

 

彼らは永遠に守られる。

 しかし、悪者どもの子孫は断ち切られる。

正しい者は地を受け継ぎ、               (29)

 いつまでもそこに住みつく。

 

 

 

正しい者の口は知恵を語り、              (30)

 その舌は、さばき(正義)を告げる。

その心には神のみ教えがあり、             (31)

 その歩みはよろけない。

 

悪者は正しい者をつけねらい、             (32)  

 彼を殺そうとする。

(ヤハウェ)は、彼をその者の手の中に捨て置かず、 (33)

 さばきのとき、彼は罪に定められない。

 

(ヤハウェ)を待ち望め。その道を守れ。        (34)

 そうすれば、主はあなたを高く上げて、

地を受け継がせてくださる。

 あなたは悪者が断ち切られるのを見る。

 

 

私は悪者の横暴を見た。                (35)

 彼は野生の木のように生い茂った。

しかし、彼は過ぎ去った。見よ、彼はもういない。  (36) 

 彼を探したが、見つからなかった。

 

完全(正直)な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。  (37)

 平和(シャローム)の人には将来がある。

しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。      (38)

 悪者どもの将来は断ち切られる。

 

正しい者の救いは、主(ヤハウェ)から来る。       (39)

 主こそ苦難の時の彼らのとりで。

(ヤハウェ)は彼らを助け、解き放たれる。       (40)

悪者どもから解き放ち、救われる。

それは、彼らが主に身を避けるからだ。

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詩篇37篇  「地に住み、誠実を養え」

                                                  2012812

 人が自分の利害を超えたことで熱心な働きをしていると、周りの人の中には、ときに、「あの人には隠された動機があるに違いない・・・」などと邪推する人が出てきます。それどころか、「あの人はあの地位を得ようとして・・」などと、勝手に危機感を募らせ、権力闘争を仕掛け、足を引っ張ってくる人がいます。なぜなら、人に裏切られ続けた人は、人の善意を信頼できず、すべてを損得勘定でしか見られないからです。

そして、そのような不安に駆りたてられている人は、自分の身を守るために、人の手柄を横取りすることさえ平気でします。そのようなことはキリストの教会でも起きることがあります。なぜなら、教会にはしばしば、人間関係で傷つき、不安感でいっぱいな人が集うことがあるからです。しかも、教会ではすべてを正当化できるような建前が先行して、問題を複雑にすることがあります。

しかし、ちょっと冷静になって考えればわかることですが、恩を仇で返すような行為とか、目的のためには手段を選ばないなどという生き方が、いつまでもまかり通ることなどあり得ません。神は盲目な方ではないからです。

 

それにしても、私たちは自分がそのようなことでの被害者となったときには、「怒りで夜も眠られない」などということが起きます。そのようなときに、「仕返しをしてやりたい」と思うのは、自然な人間の感情です。

しかし、その感情に身を任せると、あなたはすぐに、まわりを不幸にする加害者に変わってしまいます。そこで信仰者に求められていることは、その怒りの感情を、神に差し出し、神の公平なさばきを期待して、自分に関しては、置かれた場で、誠実を貫く生き方を全うするということです。

そのことが、今日のテーマ、「地に住み、誠実を養え」という勧めです。

 

1.「悪を行う者に対して熱くなるな」

詩篇37篇は多くの聖書では40の節に分けられていますが、節の区分けはずっと後の時代につけられたもので、それには霊感された意味はありません。これは本来のヘブル語聖書では、22の段落に分けられ、その頭の文字は、ヘブル語のアルファベットの順番になっております。

たとえば、初めの段落はアル・ティトゥハール(熱くなるな)ということばのヘブル語のアレフから始まり、次の段落は、3節のブター・ブ・ヤハウェ(信頼せよ。主に)ということばのベートから始まり、第三の段落は5節の、グゥオール・アル・ヤハウェ(委ねよ。主に)ということばのギンメルから始まります。第四の段落は7節のドゥーム・ル・ヤハウェ(静まれ。主に)ということばのデレクから始まります。

 

そして、それぞれの段落は、一部の例外を除き、基本的に四行の詩から成り立っており、それぞれの段落ごとに意味のまとまりがあります。これは、人々がこの詩を暗唱するのを楽にするという意味があったのかもしれません。

とにかく、この詩は、しばしば1-11節までが愛唱されることが多くありますが、全体として精巧な組み合わせになっており、その全体の流れを見たうえで、3-7節などの意味を深く味わうべきでしょう。

 

最初のことばを、私は、「悪を行う者に対して熱くなるな」と訳しましたが、新改訳では、「腹を立てるな」と訳されています。しかし、狡猾な人の行動に腹を立てなくなったら、「神のかたち」としての人間をやめてしまうことになりはしないでしょうか。これは、「燃やす」ということばの再起動詞形で、「自分を燃やす」ことを諌めたものです。

私たちは怒りの感情を自分の中にたくわえ、自分で怒りの炎に油をかけ続けるというようなことがあります。「腹を立ててはならない」と思う一方で、「この不条理に腹を立てずにいられようか・・」と、自問自答しながら、怒りの火を激しく燃やすことがあります。

怒りの感情はつねにはけ口を求めていますが、それをため込むと、胃や腸に穴を空けるばかりか、自分の顔を暗くし、まわりに不機嫌をばらまくことになりかねません。すると、人々を自分の回りから退け、怒りはますます増幅してしまいます。

怒りは、自分で抑えるべき悪い感情ではなく、主に訴えてゆくべき人間としての自然な感情です。そのことが8節では、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな」と勧められています。

 

詩篇の中には、怒りの感情を主にストレートに訴えるものが数多くあります(代表例は詩篇94篇、109)。それこそが、「怒りを手放し、憤りを捨てる」道です。あなたの怒りの感情を優しく受け止めてくれる人こそ真の友であり、カウンセラーですが、私たちにとっては、主イエスこそが私たちの友、私たちのカウンセラーであられます。

私たちは、「悪を行う者に対して熱くなる」ことによって、また、「不正を行なう者」がその狡猾さによって目的を達成してゆく姿に「ねたみ」の感情を燃やすことによって、周りの人々まで傷つけてしまうことがあります。

人の不正によって自分が一時的に傷つくのは避けられませんが、それによって、自分の心と身体を傷つけ、周囲の人々にまで被害を広げるなどということがあってはなりません。怒りの感情を自分で「燃え立たせる」ことは非常に危険なことです。

 

私たちが悪人に腹を立てるのは、彼らが、目的のためには手段を選ばないような強引さによって、富を増し加え、権力を握るようなことがあるからです。だれしも、「正直者がバカを見る」ような世の中はあってはならないと思います。

それに対して、この詩篇は、彼らは「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2)と断言します。彼らの成功はごく一時的なものに過ぎません。そのことは10節、20節、3536節でも同じように繰り返されます。

「あのように邪悪な人間をのさばらせては、世の中のためにならない。私が思い知らせてやらなければ・・・」などと計画を練っているうちに、そのような悪人は自滅してしまいます。

そのことが、「悪者はいなくなる」(10)「彼らは消えうせる」(20)「彼はもういない」(36)などという表現で、そのことが繰り返されています。

 

人が不正な行為によって繁栄を享受しているように見えるとき、私たちはそれに怒りやねたみを燃やしたくなります。また、ひどい目に合わされたときには、それを同じ手段を使って、人に復讐したいと思うのが人情です。

しかし、それこそサタンを喜ばせることに他なりません。サタンは悪が広がって行く様子を何よりも喜んでいます。

 

2.「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」

そして3節では、それと正反対の行動が、「主(ヤハウェ)に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。「地に住み」とは、その場から逃避することや、天国への憧れを信仰の目標にする代わりに、今ここでの自分の生活の場を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。

しかも「誠実を養え」の「養う」とは羊を「飼う」というときの、羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳される言葉で、周りの状況に関係なく、主の前に正しいと思えることを黙々と実行できる心の在り方です。

私たちはそのような自分の誠実さを自分で見守り、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。

 

このことが4節では別の観点から、「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されています。

私たちは何かの成果や結果を生み出すことを喜びとしがちですが、期待した結果がいつも出てくるとは限りません。サッカーの試合のように、意外な展開が待っていることが多くあります。

そのときに、すべての働きを、主に対する奉仕として受け止め、主との交わりのうちにすべての働きを成し遂げることができるなら、何と幸せなことでしょう。しかも、「主を喜ぶ」ことは、いつでもどこでもできることなのです。

 

私は何をやってもうまく行かない時に、「イエスは私の喜び」と言う讃美歌が心の奥底に迫ってきたことがあります。私はイエスご自身ではなく、イエスがもたらしてくれる目に見える何かを求めていました。

しかし、その曲を通して、イエスご自身を思い起こすことの中に喜びがあるということが不思議に心に迫ってきたのです。

 

そしてここでは、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と約束されていますが、それは自分の期待通りにものごとが運ぶということではなく、私たちの心の底にある真の願いを神はご存じで、神はそれをかなえてくださるという意味です。

多くの人々は、自分の心の奥底にある真の願いを知ってはいません。それは神と人、人と人との間に生まれる愛の交わりではないでしょうか。神はあなたの誠実さに応えて、それをかなえてくださいます。

 

たとえば、私は冒頭に言ったような人の裏切りのようなものを体験したことがあります。それによって深く傷つきました。しかし、それを通して、より一層、詩篇の祈りの世界が身近になりました。私は傷つかなければ、詩篇の本を書くなどということを思いもしませんでした。家内は、「あなたは、あの傷のおかげで詩篇の本を書け、そこから新しい世界が広がったのね・・」と言ってくれます。

そして、それと同時に、それを通して、心の友の輪が広がりました。彼らは、少なくとも、私が損得計算を超えた誠実さを大切にしていたということをわかってくれた人々です。

 

それを前提に、56節は、人間的な計算を超えた私たちの心の誠実さを神は見ていてくださることの恵みが、「あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように輝かしてくださる。あなたのさばき(正義)を真昼のように・・・」と記されます。

「あなたの義」とは、人々が認めてくれないあなたの心の真実、「あなたのさばき」とは、あなたが心の底で望んでいる神の正しいさばき、神のご支配の現実です。

つまり、人があなたを誤解し、非難するようなことがあったとしても、神はあなたの心の内側の真実を正しく評価してくださって、それに豊かに報いてくださるのです。

ですから、私たちは、一時的に、自分の誠実さが通じなくても、へこたれる必要はありません。いつでもどこでも、「誠実」を養い育てることが大切なのです。

 

3.「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」

そして7節では、「主(ヤハウェ)の前に静まり、忍んで主を待て」と勧められています。物事が思い通りに進まない時に何よりも大切なのは、「主の前に静まる」ということです。

しかも、そこで求められていることは、すぐに、主からの答えや慰めが来ることを期待することではなく、何の変化も起きず、何も見えないなかで、なお黙って、主の答えを待ち続けるということです。先のことが見えない中で、主の答えを待つということが、「忍んで待つ」という一つの動詞として記されています。

しかも、そこでは、狡猾に振る舞っている人が、良い結果を出しているように見えることがあります。それによって私たちの心が動揺します。

たとえば、「教会に行って、主を礼拝しても、何も変わりはいなかった。一方、神の事なんか忘れて、自分のことばかりを考えて、気ままに生きている人が、結構、うまく生きている・・自分はとんでもない無駄なことに力を使っていたのではないか・・・」と思うことがあるかもしれません。

 

そのようなときにこそ、「その道で栄え、悪意を遂げる人に対して熱くなるな。怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな。それはただ悪への道だ。なぜなら、悪を行なう者は断ち切られるからだ。主(ヤハウェ)を待ち望む者、彼らは地を受け継ぐ」(8-11)というみことばを心から味わってみるべきでしょう。

 

神は最終的に、私たちの誠実さに豊かに報いてくださいます。そして、その報いは、多くの場合、この地において既に与えられます

カール・マルクスは、「宗教は、なやめるもののため息、非常な世界の情であるとともに、無精神の状態の精神でもある。それは人民のアヘンである。人民の幻想的な幸せとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである」と言いましたが、聖書の信仰は、決して、幻想的な幸せを提供することによって、この世の不条理を忘れさせ、この世の不条理を変えようとする気力を失わせる麻薬ではありません。

 

神に信頼する者が、既に、この世において真に幸せであることは多くの現実を持って証明できます。そのことはたとえば、16節では、「正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる」と記されています。

実際、大きな家に住みながら家族が互いに憎み合い、いっしょに食事もできないという例は数多くあります。しかし、昔は、六畳一間に両親と三人の子供が一緒に暮らして、笑い声が絶えないという家庭もありました。

 

この詩篇では、「悪者が断ち切られる」ということばと、「正しい者が地を受け継ぐ」という対比が繰り返し表現されます。

それはたとえば、22節では、「まことに主に祝福された者は地を受け継ぐ。しかし、主にのろわれた者は断ち切られる」と端的に記されています。

また、その同じ意味の表現が27-29節でも際立っており、そこでは、「悪を離れ、善を行なえ。するとあなたは永遠の住まいを得る。なぜなら、主(ヤハウェ)はさばき(正義)を愛し、ご自分の聖徒(契約の者)を見捨てられないからだ。彼らは永遠に守られる。しかし、悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住みつくと記されております。

 

ところで、ダビデは自分の体験として、25節では、「若かった時も、年老いた今も、私は見たことがない。正しい者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを」と記していますが、歴史を見ると、正しい者が見捨てられるということは数えきれないほど起きています。そして、無実の罪を負わされた者の子孫が飢え死にするということもありました。

しかし、私たちはイエス・キリストの十字架と復活を見る時に、すべての大逆転を知ることができます。イエスはまさに何の罪のない方なのに、神と人から見捨てられた状況になりました。そして、イエスご自身も、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

しかし、神はこの方を三日目によみがえらせてくださいました。見捨てられたと思った体験は、永遠の祝福の始まりとなったのです。

 

4.「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。」

3738節では、「完全な人に目を留め、まっすぐな人を見よ。平和(シャローム)の人には将来がある。しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの将来は断ち切られる」と記されていますが、この「完全な人」とは、イエス・キリストを預言的に指すことばでもあります。

私たちは自分の誠実さが報われないことに苛立ちを覚えます。しかし、イエスは誰よりも誠実な方であられたのに、のろいのシンボルとしての十字架にかけられました。しかし、神はイエスの誠実さに豊かに報い、死の中からよみがえらされたばかりか、ご自分の右の座にまで引き上げてくださいました。

イエスの十字架は、神との平和、人と人との平和を作り出すための不思議な神のご計画でした。イエスこそは「平和の人」でした。そして、私たちもイエスに習って、平和の人として生きるように召されています。

しかも、私たちはイエスを見る時に、「平和の人には将来がある」という希望に生きることができるようになります。

 

それにしても、私たちは自分を見る時に、完全とは程遠い状態にあると思わざるを得ません。18節などでは、「主(ヤハウェ)は完全な者の日々を知っておられ、彼らの受け継ぐものは永遠に残る」と記されていますが、それでは自分のようなものは、主に知っていただくことはできないと思ってしまいがちです。

しかし、ヘブル語の「完全」とは、罪のない完璧さを指すことばではなく、神のみ前にささげるいけにえとしての基準に達しているという意味です。

私たちはすでに、イエスの十字架によって罪が赦され、神に受け入れられている存在です。ですから、この完全」ということばは、十字架を通してみるときに、「正直」と再解釈することができます

神は自分の罪深さを正直に認め、自分を正当化しない人をこそ「完全な人」として受け入れてくださるのです。

 

そして、この詩篇で繰り返されている「正しい人」というのも同じです。パリサイ人は、社会的にはまさに正しい人の代表者でした。しかし、イエスの目からは、彼らは偽善者の代表であり、神の前に義と認められない人たちでした。それは、彼らが本当の意味で、神の救いを心から慕い求めていなかったからです。

彼らは自分の正義が自分を幸せにすると思っていましたが、信仰の基本とは、自分の欠けを認めて神にすがることに他なりません。

 

3940節では、それを前提に、「正しい者の救いは、主(ヤハウェ)から来る。主こそ苦難の時の彼らのとりで。主(ヤハウェ)は彼らを助け、解き放たれる。悪者どもから解き放ち、救われる。それは、彼らが主に身を避けるからだ」と記されます。

「救い」は、自分で獲得するものではなく、「主(ヤハウェ)から来る」ものです。私たちにできることは、「主に身を避ける」ということです。どこかで、私たちは「救い」を、功績に対する報酬と見てはいないでしょうか。

 

ところで、イエスはご自分の弟子たちに山上の説教で不思議な逆説を語られました。そこで主は、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイ5:5)と言われましたが、それこそこの詩篇の要約とも言えましょう。

そこでの「柔和な者」とは、悪者が自分の狡猾さで手に入れた権力を行使して、自分の地上の富を増し加えているような状態と対照的な生き方です。

しかし、イエスは、自分の我を張らないような柔和な人こそが、地を受け継ぐと言われました。それはこの世の論理とは逆です。それは、神が私たちの誠実さを見ておられるからです。

 

そして、イエスに従う者が「地を受け継ぐ」という約束は、黙示録20章では、「千年王国」として成就すると描かれています。この目に見える現在の世界では、誠実さが報われず、非業の死を遂げざるを得ないことがありますが、神は私たちを死の中からよみがえらせ、この地上の平和の世界に住まわせてくださいます。

神はこの地を愛し、私たちをこの地を受け継ぐものとしてくださったということの最終的な世界が、千年王国として実現されるのです。

 

もちろん、私たちは、人から不当な仕打ちを受けたときは自分の誠実さを、自信を持って訴えるようなこともありますが、静かになって自分のすべての歩みを振り返るときに、自分の不誠実さを恥じ入らざるを得ないことがあります。

しかし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから(マタイ5:3)と言われました。神の前に完全な人とは、自分の不完全さを正直に認め、神にすがる人です。自分の足りなさを知っている人は、神のあわれみがなければ自分は神の前に立つことができないと知って、神にすがります。そのような人こそが、神の目には誰よりもかわいい子ではないでしょうか。

それは、しばしば、親の目には、できの悪い子ほど可愛く映るのと同じです。私たちは、この世的な「正しさ」とか「完全さ」の枠を超えて、この詩篇を味わう必要があります。

 

私たちはこの世ではいつでもどこでも、人の評価が気になります。しかし、「地に住み、誠実を養え」と言われるときの「誠実さ」とは、人が評価するものではありません。

イエスが「心の貧しい者は幸いです」と言われたように、自分の不誠実を認めながら、なお、主のあわれみを乞い、少しでも、より誠実にさせていただこうと、成長を願い続けることが何よりも大切です。

人の評価ではなく、神の眼差しを意識しながら生きることこそが、「誠実を養う」ことの基本です。そして、神はそのような謙遜な誠実さに豊かに報いてくださいます。この世の損得勘定や人の評価を超えて、神の眼差しのみを意識して、この詩篇37編全体を心から味わってみましょう。

 

特に、人に裏切られと感じ、自分の将来に失望している人は、この詩篇を繰り返し、声に出して味わうべきでしょう。

全体を通して読むときに、不思議な慰めと希望が生まれます。これこそ、山上の説教の背後にあったイエスの愛唱詩篇ではないでしょうか。そして、これこそ、すべての信仰者にとっての最高の慰めと希望の歌です。

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2012年8月 5日 (日)

マルコ11章19-33節 「神殿を離れた信仰の始まり」

                                                  201285

  イエスはエルサレム神殿を指して、「すべての民の祈りの家」と呼ばれましたが、それと同時に、神殿の崩壊を告げました。そして、それから40年もたたない紀元70年に、地上のエルサレム神殿は廃墟とされ、今に至っています。そして、「すべての民の祈りの家」としての教会が全世界に広がっています。

しかし、今もイスラエルによるエルサレムの完全支配を旧約の預言の成就と考える多くの信仰者がいます。前米国大統領のブッシュ氏も、新たな大統領候補のロムニー氏も同じ立場に立っていると思われます。ブッシュ氏はキリスト教原理主義の影響を受け、ロムニー氏はモルモン教の背景を持っています。

私が書いた、「今、ここに生きる預言書」は、そのような民族対立を煽るような預言書の解釈を正し、神の平和を、今、ここで、地の塩、世の光として広げることこそ、神のみこころであることを示すための書です。

本日の箇所で、イエスは当時の人々の信仰生活を目に見えるエルサレム神殿から引き離そうとしておられます。そして今、私たちはいつでもどこでも、イエスの御名によって、イエスの父なる神に真実な祈りをささげることができます。それがどれほど大きな恵みであるか、その意味をともに考えましょう。

 

1.「神を信じなさい」

イエスは十字架にかけられる前の日曜日にエルサレムへの勝利の入城を果たしました。人々はイエスを、ローマ帝国の圧政から解放してくださるはずの救い主として、喜びを持って迎えました。そして翌日、イエスは再びエルサレム神殿に入り、そこから商売人を追い出すという実力行使を行いました。

それに先立ちイエスは、見せかけだけに葉を繁らせているいちじくの木に向かって、「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように」と、のろいとも言えることばをかけました(11:4)。それはイスラエルの民の見せかけの信仰を非難し、神がエルサレム神殿にさばきを下すことを警告する意味がありました。

その後、イエスと弟子たちは、夕方になると、過ぎ越しの祭りのために混雑しているエルサレムを出て、ベタニアに帰りました。

そして、翌日、彼らが、「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた」(11:20)というのです。それを見たペテロはイエスのことばを思い出して、「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました(11:21)と言いました。

 

それにイエスは答えて、「神を信じなさい」と、不思議なほどに当然のことを敢えて言われました。これはほとんどすべての英語訳では、Have faith in Godと訳しています。イエスの弟子たちは、既に、全財産を捨ててイエスに従うほどの信仰を持っていましたが、その彼らに、さらに真実な神への信仰を求めたのです。

それは、当時の宗教指導者のような見せかけの信仰ではなく、神の真実に応答した、真実な信仰を持つようにという勧めです。

 

私たちも確かに、信仰の質が問われることがあります。ただ、習慣的に信じているという人、また、何か悪いことが起きないようにと信じている人、より道徳的な生き方ができるための指針として信じているという人など、様々な信仰の状態があることでしょう。

しかし、聖書の神を信じるとは、何よりも、「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)ということばを信じることです。イエスの母マリヤは、御使いガブリエルがそのように言ったときに、「あなたのおことばどおりこの身になりますように(Let it be to me according to your wordESV,NKJ)と応答しました。つまり、マリヤは、自分の身を神に明け渡すことによって、救い主の母となることができたのです。

私たちは自分の願望に縛られてしまいがちですが、神のみこころを自分の意志として行くというのが信仰の基本です。

ただし、それは自分の心から湧き上がる様々な願望を否定するという意味ではありません。神にはどんなことでも可能であることを信じて、自分の気持ちを神に訴え続けることから、おのずと、神のみこころが明らかになるものです。

絶対に避けなければならないことは、神に期待しなくなることです。私たちは、どんな些細なことでも、どんなに大きなことでも、大胆に神に向かって祈ることが許されています。神にとって、大きすぎる問題はありません。

 

  ですからイエスはここでも、「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(11:23)と驚くべきことを言われました。これは、よく、「山をも動かす信仰」と、比喩的に解釈されます。確かに、たったひとことで全宇宙を創造された神に、山を動かすことなど、何の難しいこともありません。

しかし、ここでは、「心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら」とあり、私たちの信心の力が、不可能を可能にする要因であるかのように誤解されがちです。

実際、たとえば、高校時代の友人のお母様は熱心な「成長の家」の信者で、受験勉強の時に「合格!」と書いた紙を念じ続けることを勧めていました。確かにそのような信念の力には一定の効果があります。彼は念願の大学に合格し、不信心な僕は、初年度、念願の大学に合格することはできませんでした。

 

 しかし、ここではすべてに先立ち、聖書の「神を信じなさい」または、「神への信仰を持ちなさい」と言われていることを忘れてはなりません。

不可能を可能にするのは、私たちの信仰以前に、創造主である神ご自身のわざなのです。そして、私たちの「信仰」とは、その全能の神へと結びつく接点のようなものです。しかも、その「信仰」自体も私たちの中から生まれる何らかの功績のようなものではなく、神ご自身からの賜物です。

 

なお、ここで「疑う」と訳されている言葉は、「心がふたつに分かれる」という意味が込められています。それは、聖霊に導かれた心と私たちの肉的な思いのふたつを行き来するような不安定な状態です。

使徒ヤコブはそれを、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です(ヤコブ1:6-8)と描いています。

私たちの心はいつも揺れ動いていますから、これは極めて厳しい言葉のように思えます。しかし、ここに福音の恵みの基本があります。神に祈りを聞いていただくための前提にあるのは、何らかの功徳を積むことでも、神殿でいけにえをささげることも、多額の献金を納める必要もありません。ただ、自分の心を神に明け渡せばよいのです。神は、あなたの内側にある不信仰や疑いさえも受け止め、それをまっすぐに変えることができる方です。

 

2.「そうすれば、天におられるあなたがたの父も・・罪を赦してくださいます」

ただし、山に向かって、「動いて、海に入れ」と命じる必要がどこにあるのでしょう。そのような神のみこころはあるのでしょうか。

イエスはこのときゼカリヤ144節以降の預言を思い浮かべておられたと思われます。そこには、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北に移り、他の半分は南に移る・・・その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる」(ゼカリヤ14:4,8)と描かれています。

山が動くことによって、エルサレム神殿から湧き出た水が東の死海に向かって流れ込むことが可能になります。それによって、エゼキエル478-12節に記されたエルサレム神殿から川が東の死海に向かって流れ込み、その川の両岸には、あらゆる種類の果樹が成長するという壮大な預言が成就します。

また、黙示録22章に「都の大通り・・の川の両岸には、いのちの木があって十二種の実がなり・・・」という預言も成就します。つまり、山が移ることは、天の神殿が完成するときなのです。

 

その文脈で、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(11:24)とも言われます。これも、もちろん、「億万長者になれると信じたら、その通りになれる」などという可能性志向の話ではなく、神のみこころに沿った願いのことを指しています。

 

たとえば、現在の米国の黒人の地位向上に決定的な影響力を発揮したマルティン・ルーサー・キング牧師は、黒人と白人の和解が成立するということを信じ、非暴力でそれが実現できると訴えました。それからたった45年後に米国に黒人の大統領が誕生しました。

マザー・テレサはたったひとりでカルカッタのスラムに入り込み、その行動が世界中の人々の心を動かしました。彼らに共通するのは、神のみこころを真剣に求め、人間的な計算や可能性にとらわれることなく、大胆に神に信頼し続けたということです。

そして、イザヤを初めとする預言者が神から示されたビジョンの核心とは、神の平和(シャローム)が全地に広がるという世界でした。そのような祈りを真剣にささげる者は、それを地上においても実現させることができます。

多くの人々は、自分の可能性をあまりにも小さく見すぎています。神はあなたをご自身の平和の実現のために用いることがおできになるのです。

 

 その上で、イエスは、「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」(11:25)と言いましたが、これは当時の神殿でのいけにえを不必要にするような画期的な教えです。なぜなら、神殿でのいけにえの最大の目的は、「罪の赦し」にあったからです。

しかし、当時のユダヤ人たちは互いの憎しみを正当化し、人をのろうようなことをしながら、一方で、神に高価ないけにえをささげ、神の好意を勝ち取ろうとしていたからです。

それに対して、イエスは、神からの罪の赦しを得たいと思うなら、真心の伴わないいけにえをささげることよりも、隣人との和解を目指すべきだと言われました。神との和解と隣人との和解は、切り離せない関係にあるからです。

 

 イエスの時代の人々は、何か願い事をするときに、エルサレム神殿において高価ないけにえをささげながら、具体的な願いを神に訴えていました。

しかし、イエスはここで、「心の中で疑わず・・・信じるなら、そのとおりになります」、また、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」、また、「立って祈っているとき・・・赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も・・赦してくださいます」と、三度に渡って、祈りが父なる神に届く前提を、「そうすれば」と繰り返しておられます。

これは、ソロモンが神殿を完成した後の祈りと対照的です。そこでは繰り返し、「宮の方向に向かって祈るなら」と記されていました。

 

そして、ダニエルも異教の地で、日に三度、エルサレム神殿の方向に向かって祈っていたと記されています(6:10)。現代のイスラム教徒もメッカに向かって日に三度祈ります。

しかし、キリスト教会はどこも、エルサレムに向かって祈ることを教えはしません。それは、イエスがこの箇所において、祈りの際の姿勢や、祈りの方向、祈りに伴うささげものなどをすべて飛び超えて、神の真実に応答するという私たちの心の真実を何よりも強調したからです。

簡単に言うと、祈りにおいて何よりも問われているのは、あなたの心の状態だということなのです。

 

3.「何の権威によってこれらのことをするのか」

 その後、イエスと弟子たちはエルサレムに到着し、宮の中を歩いておられました(11:27)。そこで、「祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来」て、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか」と尋ねました(11:28)

祭司長は神殿の管理を神から委ねられているはずの立場ですから、イエスが神殿から商売人を追い出したり、民衆を教えたりしていることは、神が立てた権威を侵害していると考えられました。それも当然のことと言えましょう。たとえば、この教会の礼拝の最中に、見知らぬ人が入ってきて、突然、講壇から何かを教えようとするようなことがあるなら、私にはその人を排除する権威が与えられています。そのような目に見える権威を否定しては、礼拝も成り立たなくなります。

 

ところが、彼らは民衆がイエスに信頼を寄せている様子を見て、真正面からイエスを排除しようとする代わりに、罠をしかける質問を投げかけました。イエスが「父なる神から・・」と言うなら、目に見える神殿の指導者の権威を否定する偽預言者として告発できると思いました。

一方、「神の民である民衆が自分に権威を与えてくれた・・」などと答えるなら、イエスをローマ帝国の支配を覆そうとする革命指導者として訴えることができました。

 

しかし、イエスはすでにご自分の権威を明確に示しておられました。マルコ2章でイエスは、四人の友人によって、屋根の上から吊り下げられた中風の人に向かって、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。それを聞いた律法学者たちは、「神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう」と心の中で言っていました(2:7)。

それを見抜いたイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるため」と言いながら、その中風の人を癒されました(2:10)。つまり、イエスはそのとき、ご自分をエルサレム神殿にまさる方として示しておられたのです。

また、イエスは安息日を巡っての論争の中でも、「人の子は安息日にも主です」(2:28)と、ご自身こそが律法の解釈の権威を持っておられるということを明らかにしておられました。

 

実は、イエスがその働きの初めに、ヨハネからバプテスマをお受けになられた時、御霊が鳩のように天から下り、天から神の声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と聞こえましたが、それこそイエスがイスラエルの王、エルサレム神殿の支配者であるという任職を受けたときでした。

そして、イエスがイスラエルの王として即位されたのが、十字架におかかりになったときでした。この神秘を、イエスは説明することもできましたが、彼らにはそれを聞く準備もできていませんでしたし、それは神の時でもありませんでした。

 

それでイエスは彼らの質問に、真っ向から答える代わりに、反対に、一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう」と言いました(11:29)私たちも人から質問を投げかけられたとき、それに馬鹿正直に答える代わりに、質問者の意図を探る必要があります。

イエスの場合は、彼らの悪意を瞬時に見抜いていましたから、彼らが罠にかけようとした同じジレンマを引き起こさせるような質問をして、ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と尋ねました(11:30)

これは決して意地悪な質問ではありません。ヨハネのバプテスマの時から、王としてのイエスの働きが始まっていたのですから、その意味を理解することは何よりも大切なことでした。

しかも、ヨハネのバプテスマもエルサレム神殿でのいけにえを素通りして、罪の赦しを与えようとする意味が込められていました。

 

それに対し、彼らは、「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか」と言いながら、互いに論じ合ったというのです(11:31)。

彼らの正直な気持ちとしては、ヨハネのバプテスマは神殿の権威を否定し、民衆を惑わすものであると言いたかったはずです。しかし、彼らは別のことを気にしていました。

そのことが、「彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである」と描かれています(11:32)

ヨハネは当時、ヘロデ・アンテパスの不道徳な結婚を非難して首をはねられた殉教者として人々の尊敬を集めていましたから、当時の宗教指導者たちは、正直な意見を述べることは、民衆の怒りを買うだけであることを知っていました。

 

彼らは、人に向かっては命がけで信仰を全うするように勧めていながら、自分の事に関しては、人の目ばかりを意識する臆病者に過ぎませんでした

それで、彼らはイエスの質問に正直に答える代わりに、わかりません」と答えたというのです(11:33)。これによって人の顔色を見て自分の言動を決めようとする彼らの偽善性が暴き出されました。

 

そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われました(11:33)それは、彼らが真実を知ろうとしているのではなく、自己保全しか考えていないということが明確になったからです。

人は自分の惨めさに直面することがなければ救い主を求めることはできません。イエスは彼らの偽善を真っ向から指摘して追い詰める代わりに、彼らがそれを自分で気づくように導いてくださったのです。

私たちもイエスのみことばを聴くことによって、自分の罪を自覚させられるかもしれません。しかし、一見、冷たく感じられるイエスのことばの背後には、常に、私たちをご自身のもとへ招こうとされる熱い思いが込められています

 

イエスは、ご自身こそがエルサレム神殿にまさる存在であるということを、様々なことを通して明らかにしてこられました。イエスは目に見える神殿が、跡形もなく崩されることを知っておられました。

しかし、神殿の崩壊は、クリスチャンが全世界に散らされ、それぞれ置かれた場を、神のご臨在の場と受け止め、置かれた場において心から神に仕えるという信仰生活の新しいあり方を開くことになりました(渡辺和子著『置かれた所で咲きなさい』)。

私たちは、神殿に集っていけにえを献げなくても、ただ、イエスの御名によって、自分の祈りが神に届くことを確信することができます。神殿の真の主である方ご自身が、十字架と復活によって、神殿を完成してくださったのです。

 

イエスの時代のユダヤ人たちは、イスラエル王国の復興と共に、エルサレム神殿に神の栄光が戻ってくることを心から願っていました。

しかし、神の栄光の現れであるイエスがエルサレムに柔和な王として入城し、神殿をきよめたとき、当時の宗教指導者はそれを喜ぶどころか、イエスを十字架にかけようと団結して行きました。

イエスは、たとえば、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5;39)と言うことによって、当時のユダヤ人たちの武力蜂起を押しとどめようとされました。武力に訴える中に、既に、神のご支配に対する不信仰があります。

イエスを十字架にかけるということで目の前の問題を解決しようとした人々は、より大きな問題であるローマ帝国の支配に屈服せざるを得なくなりました。神殿の栄光を夢見た人々は神殿が廃墟となる姿を見ざるを得なくなりました。

 

「神の国」の完成は、武力によってではなく、キリストの生き方に習うことによって実現します。それは神の平和が全地を支配する状態を指します。私たちが「新しい天と新しい地」を待ち望むとは、神の平和が全地を支配することを待ち望むという意味です。目に見える戦争を正当化する様々な信仰の誤解があります。

その中で、私たちは神のみこころと自分の願いが一致すること、また、隣人との和解が広がることを待ち望んで日々の生活を過ごすように召されています。

イエスはイスラエルの王としてのご自身の権威を、人々の病を癒し、悪霊の支配から解放し、虐げられている人に心の自由を与えるということで示されました。イエスの権威は、何よりも神の愛として示されたのです。

昨年のアラブの春以降、イスラム原理主義者が政治的な勢力を持つようになっています。一方、米国ではキリスト教原理主義とモルモン教が手を携えようとしています。私たちは改めて、イエスがどのように旧約の預言を成就して行かれたかという原点に立ち返るべきでしょう。

人間にはすばらしい能力が与えられていますが、それが争いを加速するばかりか、原爆や原発事故を生み出しているという現実があることを忘れてはなりません

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