« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月23日 (日)

詩篇109篇 「恨みから自由になるための祈り」

 2012923

 今まで数えきれないほど多くの人々の相談に載ってきましたが、その中で、非常に多いのは、怒りの気持ちの処理の問題です。しかも、それはクリスチャンの場合に特に大きな問題になります。なぜなら、彼らは、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12:14)というみことばを知り、かえって、自分に不当な仕打ちをした人を憎んでいる自分を責めてしまうからです。

しかし、神への信仰のゆえに、自分のうちに湧き起こる自然な感情を抑え込むなどということは、本末転倒ではないでしょうか・・・。たとえば、あなたは自分の親友や愛する人には、軽蔑されることを恐れずに、自分の本音を語ることができることでしょう。

 

もし、あなたの神への祈りが、本音を隠した建前のようなものになっているなら、神はそれを悲しまれないでしょうか。

先のローマ人への手紙では、その直後に、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい(12:19)と書いてあります。それは、厳密には、「神の怒りに場所を空けなさい」と訳すことができます。それは、あなたが自分で復讐をすると、神からの復讐の余地を奪うことになるからです。そして、その理由として、主のことばが、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と記されています。

ですから、「神の怒りに任せる」とは、愛されて育った子が、信頼できる父に向かって語るように、自由に神に訴えることではないでしょうか。

 

1.「しかし、私自身は、祈りです」

詩篇109篇はダビデの詩ですが、しばしば、「のろいの詩篇」などと呼ばれることがありますが、全体を見ると、人からの不当なのろいのことばを受けている者が、自分の感情を顕にして、必死に、神にすがり、彼らののろいが、彼ら自身に返って来るように祈っているということがわかります。

ダビデはサウル王から不当な仕打ちを受け、命を狙われ続けました。ダビデには二度もサウルを殺す機会が訪れ、家来はそれが、主の導きであると言いましたが、彼は、「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう」と家来を戒めながら、「(ヤハウェ)は生きておられる。主(ヤハウェ)は必ず彼を打たれる」と断言しました(Ⅰサムエル26:9,10)。

ダビデが復讐を思いとどまることができたのは、神ご自身が彼に代わって復讐してくださるということを確信していたからでした。

 

ダビデは自分の将軍ヨアブに対してもその残虐さのゆえに深い憤りの気持ちを抱いていましたが、彼はヨアブの悪に報いる代わりに、自分の感情を横に置いて彼を用い続け、同時に自分の死後、彼が自滅するのを待ちました。

ダビデがサウルからイスラエルの王座を引き継ぐことができたのは、自分の怒りの感情に振り回されなかったからです。その秘訣は、彼が自分の正直な気持ちを神に訴え、神のさばきを信じることにありました。

 

 この祈りは、「神よ。私の賛美する方よ。黙っていないでください」ということばで始まります。黙示録610節には、殉教の死を遂げた者たちが神に向かって、「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」という祈りが記されています。

既に神のもとで永遠の平安に入れられているはずの人が、復讐を訴えるなど、とっても不思議な気がします。しかし、この世界の不条理を見ながら、「黙っていないでください」と願うことは、神の公平なさばきが目に見える形で現れることを願うことでもあります。

 

ダビデの敵たちは、彼についての根拠のない悪い噂を広め、人々がそろって彼を非難し、攻撃をしかけるように仕向けました。何よりも辛かったのは、「私の愛への報いとして、彼らは私をなじってくる」という現実です。

「なじる」とは、この詩篇の鍵のことばで、6節の「なじる者」とは、サタンとも訳されます。たとえば私たちが身近な人々に、それなりに誠意を尽くしたつもりでも、どこかで欠けが生じます。サタンはその部分を拡大し、神に向かって、「こいつは単に親切ぶっているだけで、実は、とんでもない偽善者なのです」などと、私たちを攻撃し、なじってきます。

 

それに対する対応が、4節の後半で、「しかし、私自身は、祈りです」と記されています。これは、何とも不思議な表現で、訳しようがありません。ヘブル語には、英語のBe動詞のような単語はありませが、ここは「私」「祈り」という名詞が並んでいるだけだからです。これは、ダビデが散々な悪口を言われながら、何も言い返しもせずに、ただ、神に向かっての祈りによって、問題を解決しようとしている姿勢を現しています。

不当な非難に対して自分の正当性を訴えることが、かえって問題をこじらせ、火に油を注ぐようなことがあります。そのときには口で応酬する代わりに神に解決を求め、ただただ祈り続けるということが大切です。ダビデにとっては、自分を不当に非難する者たちとの戦いは、まさに霊的な戦いと思えました。それゆえ、祈りこそが最大の自衛の手段になったのです。

 

しばしば、「私には、祈ることしかできません」と言われることがあります。そして、新改訳の「私は祈るばかりです」は、そのような意味に誤解される可能性があります。しかし、この趣旨は、「何もできないから、お祈りする・・」というのではなく、サタンに操られたような人々への戦いの最高の方法は「祈り」であるということです。

天地万物の創造主に向かって祈ることこそが、最善の戦い方であることを、ダビデは、「私自身は、祈りです」と表現したのです。

 

そして、彼は自分が受けている不条理を、5節で、「彼らは、善にかえて悪を報いてきたのです。私の愛にかえて、憎しみを・・・」と訴えています。

私たちも人生のどこかで、このような不当な仕打ちを受けたことがあるのではないでしょうか。ダビデは、それを「のろい」で返す代わりに、神に必死に訴えることで解決を目指そうとしています。

 

2.「なじる者(サタン)が彼の右に立つようにしてください」

そして、そのような非道なことを行なう者に対してのさばきの訴えを、6節では、「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者(サタン)が彼の右に立つようにしてください」と具体的に祈っています。

6節から19節は、「彼」という単数形になっており、特定の一人の人に向かっての「のろい」のことばのように思われがちですが、文脈は明らかに、自分に向かって不当な仕打ちをする数多くの人々へのさばきを、神に訴えることにあります。これを単数形で表現することで、その一人一人に対するさばきを訴えるという現実感が強くなります。

ここで、「なじる者」という単数形は、ヘブル語で「サタン」と呼ぶことができますから、古典的なキングジェームズ訳では、ここを「サタン」と訳しています。

ゼカリヤ31節では、サタンは被告の右側に立って、神に向かってその人の罪を述べ立てるという立場が描かれています。サタンは、人間の罪の告発者、「なじる者であるというのです。

それに対して、信仰者の右には、イエス・キリストご自身が弁護者として立ってくださいます。それこそ、福音の核心です。

 

78節は、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに当てはめることができます。そこでは、「さばかれるとき、彼は悪人とされ、その祈りは、罪となってしまいますように。その日数(ひかず)はわずかとなり、その仕事を他人が取ってしまいますようにと記されていますが、イエスの復活後、ペテロは使徒の働き120節で、この最後のことばを引用しながら、ユダに代わる使徒を選ぶことを提案しています。

少なくともペテロにとってユダは、神にのろわれた者の代表者となっています。聖書の中では、ユダに対する同情の余地はまったく記されていません。彼はイエスが捕えられた後、祭司長たちに向かって、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして(マタイ27:3)と言ったと記されますが、それは自己嫌悪の独り言で、神に届く祈りとはなっていません。

イエスも、「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は、生まれなかったほうが良かったのです(26:24)と言わざるを得ませんでした。「その祈りは、罪となってしまう」ということばは、ユダにおいて実現してしまいました。

神に選ばれた者には、決して、超えてはならない一線があります。しかし、そうしてしまったときには、あらゆる自己義認を捨て、徹底的にへりくだって、見せかけではなく真実の祈りをささげる必要があります。祈りの真実さが問われるのです。

 

9-13節のことばは、読むだけで気分が悪くなるかもしれません。そこには、「その子らはみなしごとなり、その妻はやもめとなってしまいますように。その子らは、さまよい歩いて、物ごいをし、困窮しながら、その荒れ果てた家を離れますように。債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように・・・」などと、自分を虐げた人の家族へののろいを願うようなことばが記されているからです。

これはダビデの未熟な霊性を顕しているとも考えられますが、実は、エレミヤも、彼の書いた預言書の182122節で、これの要約のような祈りのことばを神に向かって訴えています。しかも、このように祈ることの根拠は、神からの「十のことば」の第二で、神ご自身が、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし(出エジプト20:5)と言っておられることによります。

ダビデやエレミヤの祈りは、日本に文字が輸入される二倍も古い時代に記されたものです。当時は、家族はひとりの人のように見られていましたから、その家の家長の罪の責任を家族がともに負うというのは、極めて常識的な考え方でした。加害者が死ぬだけで、被害者の気持ちは収まりません。そのとき、加害者の家族にも、神のさばきがくだって初めて、被害者の気持ちがおさまるということがあったのではないでしょうか。

たとえば日本でもたった900年ほど前(聖書の歴史の三分の一)、平清盛の死後、「平家にあらずんば人にあらず」などと豪語した平家一族が、そろって没落し、身を潜めるように生きるようになったという現実があります。

 

私たちがこのような祈りに違和感を覚えるのは、人間の心が、キリストの福音によって養われ続けてきた結果とも言えましょう。事実、昔の日本では、家族のために身を売るなどということが頻繁にありました。個人が家族の犠牲になるなど、あってはならないということが常識となったのは、戦後のことに過ぎません。私たちは、まず、はるか昔の家族主義的な文化の中に自分の身を置いて、この祈りを味わうべきでしょう。

そしてまた、私たちの心が憎しみや恨みの気持ちでいっぱいになるときに、私たちよりもはるかに辛い状況に置かれた人の立場になって、この祈りを味わうべきでしょう。そして、そのとき、あなたは、自分の内側に鬱積する怒りや恨みの気持ちが、神にとって軽蔑すべき感情ではなく、そのまま受け入れられているということを感謝できるようになることでしょう。

 

日本の言霊(ことだま)思想では、悪い言(こと)は、悪い事(こと)と直接に結びつくと考えられます。たとえば、結婚式などで不吉な言葉が使われないようにと驚くほどの注意が払われます。その文脈で考えると、このように相手をのろうような言葉を発してそれがその通りになると、ことばを発した人自身の責任が問われるように感じられます。

しかし、聖書の世界では、将来を決める力は人間の言葉ではなく、神のご意志にあります。ですから、私たちは神の前で、もっと自由に自分の正直な気持ちを訴えて良いのです。すべては神の御心次第なのですから・・・。

 

しかも、「愛に代えて、憎しみ」を返してくるような人の家族が、平安な生活を続けることなどできないというのは、誰もが思うことです。

あなたに不当な苦しみを与えるような人は、その家族をも真の意味で愛することなどできません。親の愛を知らずに育った子供が、将来、自分の子供を愛せなくなるというのは、よくある現実です。

 

そればかりか、6-19節の祈りの言葉は、すべて、「なりますように」という願望というより、「なります」という直説法に訳すことも可能です。少なくともヘブル語ではその面での動詞の形の区別はありません。

ですから、ダビデは、自分に不当な仕打ちをしかける悪人たちの家族が物乞いになり、その家が断絶することを、確かに怒りの中で願いながら、同時に、彼の敵が自業自得によって、自分の家族を滅びに向かわせているのを目の当たりに見ていたと言えましょう。

実際、1718節はそれと反対に、新改訳では、「彼は・・のろうことを愛したので、それ(のろい)が自分に返ってきました・・・それは(のろい)は・・・水のように内臓へ、油のように・・骨々にしみ込みました」と、ダビデをのろっていた当の本人が、自分の身にのろいを招き、のろいで自分の身を滅ぼして行く様子が、原因に対する当然の結果として描かれていますが、新共同訳や多くの英語訳では、この箇所も、「のろいが・・・くだりますように・・・のろいがしみ込みますように」と訳しています。

日本語でも英語でもそれは大違いですが、ヘブル語では区別ができないというのは不思議なことであるとともに人間の心を理解する上で、大きな意味を持ちます。

 

たとえば、ダビデは、自分のいのちをつけ狙うサウル王が自滅することを、主の御旨と確信していたからこそ、サウルに手を下そうとする家来を押しとどめました。その際、ダビデは、サウルの家が滅亡に向かっていることを知りながら、サウルの息子ヨナタンに深い友情を抱きます。

ヨナタンは父サウルの罪の巻き沿いになるようにして、命を失いますが、ダビデはヨナタンの家族を守ろうと必死になります。つまりダビデは、サウルの家の滅亡を願っていたというより、その滅亡を目の当たり思い浮かべて、かえって彼の子に対する思い入れを強めたとも解釈できます。

 

イエスご自身も、十字架にかけられながら、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られましたが、その直前にイエスは、「彼らが生木(イエスご自身)にこのようなことをするなら、枯れ木(エルサレムの宗教指導者)には、いったい、何が起こるでしょう」と言われました(ルカ23:34,31)。それは、イエスがエルサレムを襲う神の厳しいさばきを目の当たりに見たからこそ、彼らに対する神の赦しを願ったことばであると解釈できます。

しばしば、私たちが自分の敵の祝福を祈ることができないのは、その前に、神があなたの敵にさばきを下してくださるということを思い浮かべることができないことの結果に過ぎません。

 

3.「御名に従って私を(優しく)取り扱ってください」

20節からは再び自分の敵を複数形にとらえた祈りが記されます。まず、「これが私をなじる者(サタン)たちへの、主(ヤハウェ)からの報復でありますように。私のたましいについて悪く言う者たちへの・・・」と記されますが、「私をなじる者たち」ということばは、6節でサタンと訳すことができたことばの複数形です。

サタンはひとりなので、サタンたちという訳はあり得ないのですが、これは、自分に危害を加える者たちの背後に、サタンの策略を見ながら、神の公正なさばきを期待したことばと理解できます。

そしてこれも、主からの報復を確信したことばと解釈することもできます。エレミヤ1120節では、彼が、「あなたが彼らの復讐するのを私は見ることでしょう。私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです」と述べながら、その直後に、主のことばが、「見よ。わたしは彼らを罰する。若い男は剣で殺され、彼らの息子、娘は飢えて死に、彼らには残る者がいなくなる」と記されます(2223)

 

そして、21節からは急にトーンが変わり、主を「あなた」と呼びながら、なお主ご自身の名ヤハウェと、「私の主」という親密な呼びかけのことばが記されます。そして、その上で、「御名に従って私を取り扱ってください」と訴えます。

これは新改訳では、「どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから」と、非常に美しく意訳されています。

主の御名とは、主のご性質を現しますが、それは聖書では「ヘセド」ということばでしばしば表現されます。それは翻訳が難しい言葉で、「恵み」「いつくしみ」「真実の愛」「変わらない愛」「失敗しない愛」などと訳され、神がご自分の民に約束したことを忠実に守ってくださることを現しています。

 

そして、神の救いを期待する理由として、22節では、「なぜなら、私は苦しみ、また乏しく、この心は、内側で、傷ついているからです」と自分の弱さを訴えます。「苦しみ、乏しく」ということばは、16節では、彼の敵が「苦しむ者、乏しい者を追い詰め・・失意の者を死に」追いやったという文脈で用いられたことばと同じです。

聖書全体でも、神は「苦しむ者」「乏しい人」あるいは、「悩む者」「貧しい人(新改訳)の味方であると繰り返されています。

 

著者は自分の悩みや貧しさを、23-25節で、「伸びていく夕日の影のように私は去り行き、いなごのように振り払われます。このひざは、断食のためによろけ、肉には脂肪がなく、やせ衰えています。この私は、彼らのそしりとなっています。私を見る者たちは、その頭を振っています」と描きますが、これは十字架のイエスの姿とも重なります(マタイ27:39参照)

ダビデは、自分の敵との戦いを霊的な戦いと見て、祈りに専念していました。彼は断食をしながら必死に祈ったことでしょう。しかし、その様子を、神を知らない人々はあざけり、ののしり続けました。

 

  そのような中で、ダビデはなおも必死に、「助けてください。主(ヤハウェ)私の神よ。あなたの慈愛(ヘセド)によって、私を救ってください。これがあなたの手であることを、彼らが知りますように」(2627節)と、神の御手のみわざが現れることを願いながら、「あなたが、主(ヤハウェ)よ、それをなしてくださいました」と最後に締めくくります。

これもヘブル語の不思議が現れています。ここでは、敢えて、「あなた」ということばが強調され、その方を「ヤハウェ」という名で呼びかけながら、「それをなしてくださいました」という一つの動詞で閉じられています。ダビデは必死に主に助けを求めながら、同時にそれがすでに実現したかのように言ったのかもしれません。

ヘブル語には英語のような明確な時制の区別はありませんから、新改訳のように、「あなたがそれをなされたことを彼らが知りますように」と将来にそれが完了することを期待する表現と訳すことも可能ですが、このように、先の見えない苦しみのただ中で、その苦しみから救われた状況を目の当たりに見て喜んでいる表現として訳すこともできるのです。

 

 そして、そのことが2829節では主がもたらしてくださる逆転の様子が、「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。私をなじる者(サタン)たちは侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ることになります」と描かれます。

この最後のことばも「侮辱をこうむり・・恥を・・着ますように」という祈りとしてよりは、主のさばきを確信した表現と理解すべきかと思われます。

 

その上で、ダビデは最後に、「この口をもって、大いに主(ヤハウェ)に感謝します。多くの人々の真ん中で、私は賛美します。なぜなら、主は乏しい者の右に立ち、そのたましいを裁く者たちから、彼を救われるからです」と主を賛美します。

6節では、サタンが自分の敵の右に立つように願われ、ここでは、主が「乏しい者の右に立つ」と歌われます。

私たちは、この世界で、自分の能力をアピールしながら生きる必要がありますが、主の前ではそうであってはなりません。この世にあっては、「祈ることしかできない」というのは、途方にくれた弱者のことばですが、主にあっては、自分の気持ちを主に正直に訴えるという祈りこそが、信仰者にもっともふさわしいことだからです。

 

 

 怒りと恨みで心が一杯になっている人の話を聞きながら、最後に、詩篇109篇を朗読して差し上げたことがあります。その方は、涙を流しながら、心が晴れやかになり、その恨んでいる相手の家族のことを親身に心配してくれるようになりました。それは、この詩篇を通して、神が私たちの抱く怒りや恨みの感情を優しく受け止めておられるということが心の底に落ちたからです。

人の心は不思議です。霊感された祈りによって、心の奥底に潜む憎しみを引き出すとき、そこから反対に、いたわりの気持ちが生まれます

パウロは、「あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい」と勧めましたが、それは、神があなたに代わって、あなたの敵に復讐をしてくださるということを知った結果としてできる行動なのです。

 

たとえば、映画、「踊る大捜査線」が人気を博しています。その最後に、「俺は正義を行なう!」などと言いながら、恨んでいる相手の幼子を拳銃で撃とうとする場面が出てきます。恨みが蓄積されると、そんな非道なことさえ、正義と言えるようになるのが人間の心です。

この詩篇には逆説があります。敵の子供をのろうようなことばを引き出すことで、そこにあわれみの心が芽生えてくるからです。

 

本当に人の話を聞くことができる人は、恨みのことばを引き出しながら、その恨みの下に隠されていたあわれみの気持ちを引き出します。それを可能にしてくれるのが、詩篇の祈りです。

詩篇の祈りは、人間の感情の解剖図であると言われます。神は詩篇の祈りを通して、私たちの中に鬱積された気持ちを解きほぐしてくださいます。

|

2012年9月16日 (日)

マルコ12章13-17節 「あれか、これか、を超えた神の視点」

                                                                           2012916

 私たちの世界ではしばしば、明確な対立軸を作りながら人々の心をまとめて権力を掌握し、変革を成し遂げるという手法が用いられます。しかし、根底に争いと憎しみを駆り立てる論理があることは次の問題を生み出す種となります。

この教会が始まったときと同じ1989年に消費税が導入されました。その頃の選挙では日本社会党が土井たか子党首のもとで大躍進を遂げました。消費税議論が盛んだった頃、僕が、「消費税は必要かもしれない・・・」という趣旨の発言をしたら、至る所で、「あなたはそれでもクリスチャンなの・・・」という反発を受けました。なぜなら、この税は、貧しい人ほど実質的な負担率が高くなるからです。

しかしながら、当時も今も、それに代わる効果的な税制は提示されていません。とにかく、消費税の悪い点ばかりがクローズアップされ、消費税に賛成する人は弱者切り捨てを平然と行う人と見られました。

しかし、その後の歴史はどうなったでしょう。消費税批判で社会党は大きくなりましたが、そのとたん党内抗争が激しくなり、その7年後にはこの党は歴史から消えてしまいました。簡単に言えば、自民党を攻撃する矛先が、内部に向かって、自滅に向かったとも言えましょう。

 

 現在は、原発再稼働の問題が大きな国民的な議論となっています。今回は、幸い、昔のようなイデオロギー対立にはなっていませんが、それでも気をつけなければならないのは、再稼働に賛成する人を、「お金の事しか考えていない人間!」などと一方的に非難する姿勢になってはいないかということです。また、原発に関わってきた人を一律に、悪人呼ばわりしてはいないかということです。対立を煽るような心の姿勢は、必ずと言って良いほど、後の時代に大きな別の問題を生み出します。

しかし、今の日本に、また、世界に本当に大切なことは、再稼働の是非以前に、使用済み核燃料の処理の問題ではないでしょうか。福島原発の四号機は非常に危険な状態にありますが、この地球の環境を破壊できるほど大量の使用済み核燃料の処理は、まだまだ目処が立っていません。まるで下水処理の目処が立たないままマンションを建てたようなものです。

そして、誰の目にも明確なのは、それらの問題に対処するためには、今までの原発に関わってきた技術者や作業員の方々に積極的に働いていただく必要があるということです。それらの方々を悪人呼ばわりするような単純な構図が一般化すると、この日本は滅亡に向かうことでしょう。

互いの憎しみを煽るような論調に対して、信仰者は距離を置くべきです。組織も国も、必ず、内部対立から崩壊するからです。それはイエスの時代のユダヤの問題でもありました。

 

1.「彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして・・・」

イエスはこの二日前に、イスラエル王国を復興する救い主と期待されつつ、群衆の歓呼を受けてエルサレムに入城しました。多くの人々は、これまでイエスが数多くの奇跡を行ない、新しい神の国の福音を宣べ伝えていることを知っていました。

そして、人々はイエスが新しいイスラエルの王として、この国をローマ帝国からの独立に導いてくれることを期待していました。当時の多くの人々が待ち望んでいた救い主の姿は、この約二百年前に、エルサレム神殿をギリシャ人の圧政から解放したユダ・マカベオスのような人でした。

 

1213節では、「さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った」と描かれていますが、この「彼ら」とは、イエスが神殿から商売人を追い出した後に、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか・・」と質問してきた「祭司長、律法学者、長老たち」のことです(11:27)

彼らはイエスから何かの政治的な発言を引き出して、訴えの口実を得るために、両極端の政治的見解を持つ「パリサイ人とヘロデ党の者数人を」送ってきました。

「ヘロデ党の者」とは、ローマ帝国の権力者に媚びへつらって自分の生活を守ろうとする体制派とも見られますが、国際政治の力関係を冷徹に見て行動する現実主義者と呼ぶこともできましょう。

一方、「パリサイ人」は、自分たちの信仰深さをアピールしたがる偽善者とも見られますが、神の教えを命がけでも守ろうとする理想主義者と見ることもできます。彼らは神の民イスラエルがローマ帝国の文化に同化されることがないように聖書の教えを日々の生活に適用することに熱心でした。ユダヤ人が今に至るまで、神の民としてのアイデンティティーを保ち続けることができたのは、彼らの功績と言うこともできます。

とにかく、彼らにはそれぞれ民衆に訴える明確な政治的スローガンがあり、当時のユダヤ人は、ヘロデ党に親近感を持つか、パリサイ人に親近感を持つかで二分されていました。これは現在の日本が、原発の再稼働、消費税、TPPの問題などで国論が二分されている状況に似ています。

 

ところが、イエスはそのような中で、どちらとも距離を置きながら、多くの人々の心をとらえていました。彼らはこの新しい政治勢力に対して連合を組みました。これは、「敵の敵は味方・・」という論理からでした。

 

 そして、ここではまず、「彼らはイエスのところに来て」、「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と言ったと記されています(12:14)。これは極めて皮肉に満ちた状況と言えましょう。

イスラエルの宗教指導者たちがイエスの権威について質問をしたとき、イエスは反対に、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と問い返されましたが、「彼らは群衆を恐れていたので」、正直に答えることができなかったからです。それで彼らはここでイエスのことを、「人の顔色を見ず・・・」という面から評価したのでしょう。

しばしば、お金のことを気にする人に限って、人前では、「私はお金には無頓着です」などとわざわざ言いたがります。同じく、人の目を気にする人に限って、「私は真実さや真理を大切にしています!」などと敢えて言います。でも、彼らからしたら、イエスはKYな人、「空気を読めない人」と言いたかったことでしょう。

 

彼らはとにかく、そのような批判めいたことばは横に置いて、イエスから本音を引き出そうと、リップサービスを並べたと言えましょう。

最近は、自民党の総裁候補が代わる代わるテレビのニュースに出演していますが、そのたびに、司会者は、それぞれの候補者から、不用意な発言や本音のことばを引き出そうと必死になっています。そのために有効なのは、褒め殺しか、相手の怒りを引き起こすようなことばです。

 

2.「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい

 そして彼らは、当時のホットな話題である、「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか」という質問をしました。

 

イエスにとっても、当時の宗教指導者にとっても、「主(ヤハウェ)は王である(詩篇96:10)という告白こそが信仰告白の核心でした。ところが、彼らの時代は、「ローマ皇帝こそが王である」と言わなければ生きられませんでした。その象徴が税金を払うということでした。

イエスのことを「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたエルサレムの群集も、ローマ皇帝の支配から解放されることを望んでいました。そのような中で彼らは、イエスを尊敬しているふりをして、本音を引き出そうとしました。彼らの目には、この質問には、二者択一の答えしかないと思われました。

 

ここでもし、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっている」と答えてしまうなら、宗教指導者たちはイエスをローマ帝国の支配にへつらう偽指導者として非難する、格好の証拠を引き出すことになります。すると人々はイエスに失望してしまうことでしょう。

しかし、反対に、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっていない」と明確に言うなら、イエスをローマ帝国への反乱を扇動する革命家としてローマ総督に訴えることができます。

彼らは、今までのイエスの言動から、イエスをローマ帝国の敵として訴えることができると期待し、そのような答えを引き出すためにイエスを持ち上げるようなことを最初に言ったのだと思われます。

 

実際、ルカによる福音書2312節の記事によれば、この数日後、イスラエルの指導者たちはイエスを最高議会において尋問し、イエスからご自分が神の子であるとの発言を引き出した後、ローマ総督ピラトのもとに連行して行きましたが、そのとき彼らはイエスを、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」と訴えました。

これは、決してまったくの嘘の訴えとは言えません。なぜなら、当時のローマ皇帝は自分のことを、「神の子」「最高の祭司」だと紹介しており、イエスは自分を「王キリスト」と宣言することで皇帝の権威を否定したと理解できたからです。そうして、当時の人々の常識感覚からしたら、イスラエルの救い主は、ローマ帝国からの独立を勝ち取る軍事指導者としか思えませんでした。救い主が、ローマ皇帝への納税を勧めるなどということは、彼らには「想定外」のことでした。

 

  とにかく、彼らの質問にはイエスを訴える明確な口実を引き出そうとする魂胆が見え見えでした。それでイエスは、「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」と反対に問いかけました(12:15)。

 

このとき彼らは、自分たちが嫌悪するものを持ち歩き、それに頼っていることを認めざるを得なくなりました。当時流通していたコインには、皇帝ティベリオスの肖像画の下に、「アウグストス・ティベリオス、神聖なるアウグストの息子」と記され、裏には「(ローマの宗教儀式の)最高祭司」と記されていました。それは、当時のユダヤ人にとっては、異教の神殿のお守りを持ち歩くような、嫌悪すべき現実でした。彼らはそんなものを一切持つことなく暮らしたかったことでしょう。

しかし、それは必需品でもありました。神殿に献げる時だけは、両替人を用いてその銀貨を偶像のない通貨に両替しましたが、それでは日常の商業取引はできません。しかも、彼らの多くは、ローマの軍隊が守る通商路の恩恵を受けていました。この銀貨は、生活を保証するシンボルのように見えました。

これは現代で言えば、個人商店が、消費税に反対しながらも、消費税分を価格に転嫁せざるを得ないようなもの、また、原発に真っ向から反対しながら、電力の出元を選ぶことができないようなジレンマです。

 

とにかくイエスは、彼らが持ってきたその銀貨を手にしながら、「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と尋ねました。それに対し、彼らは、しぶしぶ、カイザルのです」と答えざるを得ませんでした。

多くの人は他の人を批判するときには、自分の置かれている現実を忘れています。昔、ある大臣を、「あなたは、疑惑の総合商社だ!」と攻撃した女性議員が、後には、秘書給与流用問題で、「疑惑の人民公社!」と非難されるようになったように、偶像礼拝に関して人間的な厳しい規範を作っていたパリサイ人たちは、自分たちが嫌悪する対象を生活のために持ち歩いていることを認めざるを得ない状況に追い込まれました。

イエスは、彼らのそのような矛盾を、彼らにデナリ銀貨を見せるように要求することで人々の目に明らかにしました。実は、この時点で、彼らの敗北は明らかになりました。

注目すべきなのは、イエスは、彼らの矛盾を決して真っ向から非難をしてはいないということです。彼らを非難することなく、彼らが恥じ入らざるを得ないような状況を作って行ったのです。

 

3.「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に」

その上で、イエスは、「税金を納める」という表現を避けながら、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました(17節)。これは、表面的には、税金を納めることを正当化しているようでいて、「こんなカイザルの像のついたものは早くカイザルのもとに返してしまえ・・」と言ったとも解釈もできます。

これは当時の人々の革命のスローガンにも通じることばです。旧約外典のマカベア書上巻268節には、ユダ・マカベオスの父マタティアが息子たちに向かっての遺言として、「異邦人たちには徹底的に仕返しをし、律法の定めを堅く守れ」と命じたと記されていますが、当時の人々はこのことばをみんな覚えていました。

そして、イエスが「カイザルに返しなさい」と言った言葉は、「カイザルの銀貨を用いて仕返しをしなさい」と、解釈される可能性もあったのです。

 

つまり、イエスは、当時の「ヘロデ党」に歩み寄るような意味で、「あなたがたはローマ帝国の皇帝の支配下で経済的な便宜を受けているのだから、その現実を受け止め、つべこべ言わずに税金を納めるように」などと、権力への服従を訴えたわけではありません

イエスは一貫して、お金の奴隷になることを戒め、また、ローマ皇帝にたましいを売ってしまうような奴隷的な生き方を戒めておられました。

同時にイエスは、「ローマ皇帝の肖像がついた銀貨を持ち歩くことは偶像礼拝になる・・」などと、現実離れした偏狭なことを教えたわけではありません。

親に精神的に依存している人に限って、親の悪口を言うということがありますが、政治権力に対する姿勢も、パリサイ人のような反抗でもなく、ヘロデ党のようなへつらいの服従でもなく、もっと別の見方が必要なのです。

 

そしてイエスは続けて、「そして神のものは神に」と言われましたが、原文では「返しなさい」ということばはありません。これは不思議な表現です。当時の銀貨が、ローマ皇帝の像(イメージ)を刻印していたと同じように、聖書によれば私たち人間は、神のかたち(イメージ)に創造されています

人間はこの世界に、神のイメージを現すために置かれたのです。ところが人間は、自分を世界の善悪の基準、神としてしまい、神のイメージとして生きることをやめてしまいました。

それに対し、「神のものは神に」ということばは、ローマの銀貨をカイザルに返すのと同じように、自分が神のイメージに創造されたという原点に立ち返るようにと言う勧めと理解できます。

 

当時の「ヘロデ党の者」は、ローマ皇帝を自分の主人とすることが現実的な生き方だと居直っていました。一方、パリサイ人たちは、自分たちはローマ皇帝ではなく、イスラエルの神を自分の主として告白していると言いながら、心の中では自分を神のようにして、自分を正当化して生きていました。

それに対し、「神のものは神に」とは、自分の生活すべてが神のあわれみなしにはあり得ないということを謙遜に認めて、いつでもどこでも神にすがりながら生きることを指しています。

この世の権力に対しても、神が立ててくださったものという尊敬の心を持ちながらも、最終的には、神の権威と矛盾するときには神に従うという覚悟が求められています。

 

彼らはイエスに驚嘆した」(17節)とありますが、主はしばしば、「あれか、これか」の選択を迫る質問に、まったく別の角度からの答えを示されます。

今も、多くの人々が、「白か黒か」という二者択一の考え方の中でにっちもさっちも行かなくなっています。しかし、それこそサタンの罠です。どちらの選択にも問題が見えるときは、一呼吸おいて神の前に静まることが大切です。そして、問題を別の角度から見るという知恵を求めることです。

 

この箇所から、「カイザルの支配」と「神の支配」を区別する政治と宗教の分離の原則を読み取る人々が歴史上に多くいました。しかし、政治を動かしているのはその時代の集合的な国民意識のようなものです。

当時は政治的独立を熱望するユダヤ人の意識に対し、世界制覇を願うローマ人の意識があり、また現代的には領土問題を巡って対立を激化させるナショナリズムがありますが、真の神のご支配を信じる者は、もっと別の神の視点からこの世界の情勢を観察し、この世の政治に対しても冷静な見解を提示すべきでしょう。

政教分離の原則を絶対化することの危険を忘れてはいけません。かつての朝鮮半島支配や日中戦争や太平洋戦争は、すべて、当時の圧倒的な国民の支持を受けて進められたものでした。

現代の中国や朝鮮半島の人々の異常とも言える過剰な反応は、昔の日本人を動かした意識でもあり、日本の過去の過ちへの反発でもあると言えましょう。

 

 

イエスの時代の人々は、ローマ皇帝の支配から独立さえできればみんな幸せになれると期待していましたが、現実は、イスラエルはその百七十年ほど前に独立国家を形成しながら、内部の権力争いで自滅したばかりだったのです。

真の問題は、ローマ人の支配以前に、互いの憎しみを増幅させるような意識にありました。この後、歪んだ民族主義者の勢力がますます強くなり、無謀な軍事行動を生み出し、ついにローマ皇帝が直々にユダヤの独立運動を抑えるという軍事介入を引き起こしました。そして、ユダヤ人はその後、約二千年近くにわたって自分たちの国土を持つことができなくなってしまいました。

イエスが「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に」と言われたとき、権力への妥協でもなく、反抗でもない、新しい視点を示されたのです。

後に使徒パウロは皇帝ネロの支配下で、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです・・・彼は無意味に剣をおびてはいないからです(ローマ13:1,4)と、剣による支配にさえ理解を示していますが、それは、この世の権力を神のご支配のもとで見直すという視点を示したもので、権力者の横暴を正当化するものではありませんでした。

 

イエスの教えは、現在の経済制度にも適用することができます。たとえば、自由主義経済は、勝者と敗者が生まれる弱肉強食の世界とも言えますが、そのシステムを否定してしまえば、政治家が資源の配分から消費までをコントロールせざるを得なくなります。それは、権力者の横暴と腐敗という別のより大きな問題を生み出します。

本来、拝金主義にブレーキをかけるのは政治家の役割以前に、様々な宗教家の責任でした。かつての日本でも、それなりの職業倫理が社会的通念になっていたとも言われますが、それが通用しなくなりつつあるのが心配です。

アメリカではお金の管理に関する講座を教会が開き、多くの人々がそこで立ち直っているとも聞きます。聖書には驚くほど多くのお金の話が出てきます。それはお金の大切さとともに、限界と危険を教えるためです。

 

イエスは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません・・だから、神の国とその義とをまず第一に求め(捜しseek)なさい(マタイ6:2433)と言われました。

 

あなたの心の中で、神との交わりが常に第一とされ、神が神としてあがめられているでしょうか?イエスは、お金を「カイザルのもの」と呼びましたが、それは、社会のシステムを機能させるための道具に過ぎません。

私たちはそれに頼りながら日々の生活をしています。道具が良いか悪いかを論じる以前に、使いこなす知恵が大切です。その第一は、あなたの主人は誰なのか、あなたはどなたに仕えようとしているのかを問うことです。

 

私たちは日々、様々な問題を前にして、「あれか、これか」の選択を迫られていますが、地上的な問題の解決は、必ず、次の問題を引き起こすということを忘れてはなりません。それよりもはるかに大きな問いかけは、「問題を抱えたまま生きる力」ではないでしょうか。

「あれか、これか」の対立軸を見せて、人と人とを争わせることこそ、サタンの常套手段です。確かに目の前の問題に蓋をし、見るべきことを見なくなるのも非常に大きな問題ですが、原発の問題を巡って、徹底的に互いを非難し合うような状況は、より大きな悪を招く原因ともなるような気がします。

イエスは、目の前の問題を、根本的なところに立ち返って見るようにと私たちの心を導いておられます。

|

2012年9月 2日 (日)

詩篇91篇「危険に満ちた人生の中で」

                                                       201292

 私たちの人生は、日々、いろんな危険に満ちています。そのような中で、不安な要素を一つひとつ数え上げると、外に出ることさえできなくなるかもしれません。事故で首から下が動かなくなった星野富弘さんは、以下のような詩を、きびしい自然の中で育つ美しい紫色の花を咲かせる高山植物の「おだまき」の絵とともに記しています。

 

「いのちが一番大切だと思っていたころ

 生きるのが苦しかった。

     いのちより大切なものがあると知った日 

 生きているのが嬉しかった」

 

そして、これと対照的な詩が、母豚と四匹の子豚とともに描かれています。

 

「何だってそんなにあわてるんだ。 

 早く大きくなって何が待っているというんだ

 子豚よ そんなに急いで食うなよ  

 そんなに楽しそうに 食うなよ」

 

 詩篇91篇はその前の詩篇90篇と関係が深いと言われます。両方とも、主を自分の「住まい」と告白しているからです。私は、葬儀の時に必ずと言って良いほど、詩篇90篇を読みます。そこには、「あなたは人をちりに帰らせて言われます」と記されながら、人生のはかなさが描かれています。そして、その後、詩篇91篇を読むと、とっても嘘っぽく感じられることがあります。なぜなら、そこには、主が私たちをあらゆるわざわいから守ってくださると書いてあるのに、実際は、みな最終的には守ってもらえなくて死んだとも思えるからです。

しかし、それこそ、サタンの誘惑であるとわかって、詩篇91篇をもっと素直に味わうべきだと示されました。イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けられた後の公生涯の始まりにサタンの誘惑を受けられました。そのうちの一つは、悪魔がイエスをエルサレム神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」と言うものでした。その際サタンは、詩篇911112節のことばを用いて、「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにされる」と書いてありますから、と言いました。

イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると、申命記616節のみことばをもって応答し、その誘惑を退けました。

 

 多くの人は、自分がわざわいに会ったり、身近な人が悲惨な死を迎えたような時、「神がおられるなら、なぜ・・」と問いたくなります。そして、ときには、「神がおられるなら、目の前からこの困難を取り除いて見せてください。そうしたら、私の信仰は堅くなりますから・・」などと、主を試みるようなことを言ってしまいます。しかし、私たちに求められていることは、何よりも、今ここで、主が与えて下った人生の使命を生きることです。

自分の人生の意味を考えようともせずに、食べるために働くような生き方は、豚と同じです。そればかりか、星野富弘さんも言っているように、自分の人生を自分で守ろうとしていると、生きることが苦しくなってしまいます。しかし、いのちよりも大切なものがあると知って、神が与えてくださった使命のために自分の命を差し出すときに、生きているのが嬉しくなります

 

多くの信仰者は、詩篇91篇を、使命のために自分の命を危険にさらすような中で心から味わっています。ある方は、何度も命の危険にさらされるようなところに出向きながら、「私は大丈夫です。神様が、『お前は、もう生きなくても良い・・』と言われない限り、私は決して死ぬことはないのだから・・・」と言っておられました。

私たちのいのちは、神のみ許しがなかれば決して失われることはありません。あなたのいのちを守るのは神の責任であられ、あなたの責任は、神のみこころであるならば、いのちの危険をも冒すことです。

それは決して無謀なことではありません。少なくとも、キリスト教の結婚式では、夫は妻に対して、「あなたを守るためなら、命も賭けます」という趣旨の約束が求められています。実際、いざとなったら、自分を捨てて逃げそうな人と、誰が結婚したいと思うでしょう。

しかし、そうは言っても、みな、わざわいに会うのは、怖いですし、会いたくないのが人情です。だからこそ、神の徹底的な守りを保障しているこの詩篇は、豊かな人生を生きたいと願う者にとってはかけがえのない詩篇になるのです。

 

1.「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる」

1節は、「いと高き方の保護shelterのもとに座る者は、全能者(シャダイ)の陰に宿っている」と訳すことができます。「いと高き方」とは、神がこの地のはるか高くにおられて、全地の王としてこの世界を治めていることを示す神の呼び名です。

私たちが聖書の神を自分にとっての王、また保護者として告白するときに、その人は不可能を可能にすることができる「全能の神」(エル・シャダイ)の御守りの中に生きていることを告白していることになります。

 

そのような中でこの詩篇作者は、主(ヤハウェ)に向かって「私の避け所、また、とりで、信頼している私の神(2)と告白します。私たちは自分で自分を守るように小さいときから訓練をされていますが、最も核心的な部分では無意識的な信頼感がなければ電車に乗ることも、飛行機に乗ることもできませんし、人ごみの中に出ることもできません。

私たちは基本的に、いつも何かに信頼しながら生きています。たとえば、郵便局に自分のなけなしのお金を預けることだって同じです。しかし、経済学的に考えると、たとえば十年後や二十年後に、郵便局に預けたお金の価値が変わることなく戻ってくることを期待することは、まるで奇跡を信じることと同じかもしれません。何しろ、郵便貯金のほぼすべては国の借金の穴埋めに使われています。そして国家財政はすでにいつ破綻しても不思議ではない状態です。

これは、群集心理のなせるわざです。みんなと同じ行動を取っていることに不思議な安心感が生まれています。私たちは、もっと自分がどなたに信頼するかを意識する必要があります。

みんなと一緒であれば沈没の可能性が高い船にさえも乗ることができるかもしれませんが、そこにある安心感は幻想に過ぎません。私たちは、「光があれ」という一言で(創世記1:3)、光を創造された全能の神に信頼するように召されているのです。

 

その上で詩篇作者は、自分の体験から隣人に向かって、「まことにこの方が、あなたを救い出してくださる」と、「私の神」のことを紹介します(3)。そして、その救いを具体的に、「仕掛けられた罠から、また、恐ろしい疫病から・・・」と付け加えます。

私たちが何か積極的に人々を動かすような働きをするときに、必ずと言って良いほど、足を引っ張る人が出てきます。そのような人はリーダーシップを取ろうとする人に罠を仕掛け、その人を追い落とそうとします。

私たちはそのような工作に注意を払う必要がありますが、あまりそれを気にし過ぎても、人との協力関係を築くことはできません。私たちはそこでは、何よりも、そのような罠を無効にしてくださる神に信頼するのです。

 

そして、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている」(4)と約束されますが、これは親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿です。たとえば昔、丸焼けになった親鳥の羽の下からヒナが飛び出てくるというようなことがありました。

またルツ記で、ボアズは呪われた民であるモアブの娘のルツに向かって、「あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主(ヤハウェ)から、豊かな報いがあるように」(ルツ2:12)と語り、また、ルツはナオミの指示に従って、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから(3:9)と願います。

ルツは当時の常識では、イスラエルの神の保護を求める資格のない女でしたが、主はご自身の翼の下に救いを求めてきた者を退けることはないというのです。

なぜなら、罪の根本は、自分を神として、主の競争者になろうとすることだからです。主は、あなたがご自身の御翼の陰に身を避けてくるのを待っておられます。

 

その上で、「主の真実は、大盾であり、丸盾である」と告白されます。「大盾」とは体全体を覆うことができるような防具であり、その陰に隠れる時に矢を恐れる必要はありません。しかし、敵に囲まれているような中では、もっと身動きに手軽な「丸盾」が有効です。「主の真実」は、そのようなあらゆる敵の攻撃からあなたを守る盾なのです。

英語の有名な讃美歌に、「Great is Thy faithfulness(Ⅱ讃美歌191「主のまことはくしきかな」)がありますが、私たちは朝毎に、神が私たちの人生を守り通してくださるという真実をほめたたえ、世の荒波に向かうことができます。

 

そのような中で、この著者は、「夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも(5,6)と告白します。

現代の日本では、夜の恐怖も昼の戦争も疫病も、心配する人は、あまり多くいはいないかもしれません。しかし、最後のことばは、「真昼の悪魔」と訳されることもあります。これは私にとっても恐ろしい敵です。それは何とも言えない倦怠感として現れることがあります。それは、「こんなことを続けていて何になるのだろう・・自分の働きなど、あってもなくても同じだ・・・こんな人生は無意味だ・・」と思えてしまうような気持ちです。人によってはそのために、新たな興奮を求めて放蕩に走ったり、また、反対に自殺を考えたりします。

結果が出ても出なくても、目の前の課題に誠実に取り組むためには、「主の真実」を、繰り返し思い起こす必要があります。その際に大切なのは、しばしば、主の前に少しの間でも静まって、心と身体を休めることです。五分でも全身の力を抜いて休むことができたら、再び気力が湧いてくるということもあります。

 

「千人があなたのかたわらに、万人が右手に倒れても、あなたに、それは近づかない」(7)とは、先の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人があなたの回りに満ちるようなことがあっても、「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。ここでは「あなたに」ということばが強調されています。

 

そして、「ただ、あなたの目でそれを眺めるだけだ(8)とは、あなた自身に対する攻撃に対して、神が盾となってくださることを、あなたがその目で見るという意味です。攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。

 

なお、「悪者への報いをあなたは見る」とは、周りの人々の苦しみを、「あいつは自業自得で苦しんでいる」と軽蔑するような意味合いではなく、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。

それと対照的に、あなたが守られている理由が、「それはあなたが、私の避け所である主(ヤハウェ)を、いと高き方を、住まいとしたからである」(9)と告白されます。

この主を「住まいとする」と言う表現は、詩篇901節にもある珍しい表現です。それは、私たちの地上のいのち、日々の生活が、神の御手の中に守られていることを覚える生き方です。

そこにはもちろん、この肉体の命の終わりをも指す概念です。それはパウロが、「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです(使徒17:28)と言ったような生き方です。

 

2.主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださる

「わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病も、あなたの天幕に迫りはしない」(10)とは、67節を言い換えたものです。「疫病」「滅び」「わざわい」「伝染病」は原文でそれぞれ異なった言葉が用いられていますが、基本的には同じような意味で、人間のコントロールを超えたあらゆる種類のわざわいを指します。

しかし、現実には、津波も伝染病も、人を選ばずに襲ってくるようにしか見えません。しかし、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています(マタイ10:29,30)とあるように、私たち一人ひとりは、神の前に「十把一絡げ」のような存在ではなく、ひとりひとりその名を持って呼ばれている高価で尊い存在です。仏教的な運命論的なあきらめで自分の人生を見てはなりません。

 

実際、先にあったように、一万人の人が死ぬ中で、一人が助かるということもあります。その時、「たまたま運が良かった・・・」というのではなく、神によって守っていただいたと考えるべきなのです。

もちろんそれを反対に、わざわいに会ったのは、神の罰を受けたからとか、神に見捨てられたからだなどと、他人の人生を軽々に判断することは差し控えなければなりません。神は、どんな大天災の中でも、あなた一人のいのちに関心を持っておられます

 

そのことが、「なぜなら、あなたのために主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださるから。その手の平で、彼らはあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする(1112)と記されます。

これは先に述べたように、イエスが荒野の誘惑でサタンから投げかけられたみことばです。イエスは何の罪も犯していないのに、死刑判決を受け、忌まわしい十字架にかけられて殺されました。しかもイエスは、十字架上で、「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と、沈黙しておられるように見える神に訴えました。

しかし、イエスは確かに、神の御手に包まれながら十字架にかかって行かれたのです。

 

事実、イエスがゲッセマネの園で、苦しみ悶えて祈っておられた時、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:43)と記されています。

また、イエスが捕えられた時、ペテロは剣を取って大祭司のしもべに打ちかかりましたが、そのときイエスは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それともわたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:52,53)と言われました。神は確かに御使いを遣わして私たちを守ってくださる方なのです。

 

神は、ご自身のしもべを徹底的に守り通すことがおできになると信じるところから、非暴力の覚悟が生まれます。すべての戦争は、自己防衛の名のもとに行われることを忘れてはなりません。残念ながら、しばしば最も有効な防衛の方法は先制攻撃だからです。

イエスは当時のユダヤ人たちが武力によってローマからの独立を勝ち取ろうとしている中で、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい・・あなたに一ミリオン行けと強いる者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい(マタイ5:39,41)と言われました。

イエスはそのとき、ダニエルの三人の友人が燃える炉の中に投げ込まれながらやけど一つ負わずに救い出されたこと、また、ダニエルがライオンの穴に投げ込まれながら、無傷で出てくることができたことを、人々に思い起こさせようとしておられたことでしょう。

 

なお、「獅子とコブラをあなたは踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」(13)ということばは、詩的な表現で、私たちがあらゆるわざわいから守られるばかりか、攻撃をしかけてくる恐ろしい獣を、完全に服従させることができるという意味です。

イザヤ11章では、救い主が実現してくださる平和の世界を、「小さい子供がこれ(若獅子)を追って行く」「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」と描いています(68節)。

そして、私たちは今既に、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと(患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)の中にあっても、圧倒的な勝利者とされている(ローマ8:37私訳)と言えるからです。

 

私たちは被害者意識や自己憐憫に流れることを注意しなければなりません。人生に危険や苦しみはつきものです。私たちが何よりも考えるべきは、それを避けること以上に、その中でどのように生きるかということです。

 

ファニー・クロスビーという米国の賛美歌詩人は、生まれて間もなく失明しました。母は必死に癒しを求めて祈りつつ様々な手を尽くしましたがかないませんでした。祖母はそれに対し、「必死に祈っても主が与えてくださらないことは、あなたが持たない方が良いことなのですよ。神はご自身の働きのために聖別するために、この子が盲目になるのを許されたのです」と言いました。

そして、ファニーは人生の終わりに、「私は盲目であるがゆえに、いつもすばらしい夢を持ち続け、また目の前の人の最も美しい眼差しを意識しながら生きてくることができた」と、神に感謝しました。実際、彼女の書いた美しい詩の数々は、盲目とセットに与えられたヴィジョンに満ちています。

彼女は自分が盲目であることを卑下することなく、神に愛され守られている者としての誇りを持って生きたのです。

 

3.「わたしの救いを彼に見せよう」

14節からは神の語りかけに変わります。そこではまず、「彼がわたしを恋い慕っているから、彼を助け出そう。彼を高く上げよう。わたしの名を知っているから・・・」と記されています。この「恋い慕う」という動詞は、「(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは・・・」(申命記7:7、拙著のタイトル)などと言われるときの言葉で、感情的な結びつきを伴った愛情の表現です。

これと似た表現では「すがる」ということばもあります。これは、「私はあなたなしには生きて行けない」と言うような意味です。

私たちはどこかで、立派な信仰者とは、人の手をわざらわせず、いつでもどこでも、人の援助者として生きられるような自律した人間になることと思っていないでしょうか。しかし、神が喜ばれる信仰とは、「私は神様なしには生きて行けません!」と告白し続けることなのです。

 

そのように神を恋い慕い、神にすがる人に対して、「わたしを呼び求めれば、彼に答えよう。わたしは、苦しみのときに彼とともにいる」15節)と約束してくださいます。

ここでは、私たちが苦しみに会うということが前提とされています。多くの人は、「神がおられるならなぜ、このような悲惨が起きるのか・・」と問いますが、それに対する明確な答えは聖書のどこにも記されていません。

たとえば、パリサイ人は社会的にはとっても信頼できる人でした。しかし、彼らは、人生をすべて原因結果で考えてしまいました。もちろん、私たちのすべての行動には何らかの結果が伴いますから、いつでもどこでも、原因結果の関係を考えることは大切です。それが分かっていない人は人を振り回し、人に迷惑をかけてしまいます。

しかし、それよりもはるかに大切なことは、神が私たちの祈りを待っておられ、神がこの私一人の人生に深い関心を持っておられ、私と共に歩んでくださっていることを知ることです。

 

私たちが自分の決断で選ぶことができる分野というのは驚くほど少ない領域に過ぎません。親は子供を育てる時、すべての環境を整えてあげた上で、そこで子供ができた些細なことを大げさにほめて自信を持たせるというプロセスを経ます。

大人の目には、子供が自分でやっている部分はほんの小さいことですが、子供は世界を自分でコントロールできたような気になっています。

大人になるとは、自分が決して自分の力で生きているわけではないということを心の底から悟り、神と人とに感謝できるようになることです。それにしても、神は私たちの些細な祈りを聞いてくださることによって、私たちのすべてのいのちが神の御手の中にあることを知らせようとしておられます。

 

そのことが引き続き、「わたしは彼を救助し、誉れを与えよう。長いいのちで彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見させよう」16節)と記されています。この詩篇では、同じ概念を様々な異なったことばで表現しています。

神は、それを通してご自身が私たちの歩みに目を留めておられるということを知らせようとしておられます。

 

「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。信仰の基本は、神との個人的な関係です。神がこの私一人に目を留めておられるということを知ることです。

もちろん祈りは、アラジンの魔法のランプのようなものではありません。信仰生活が長くなるにつれ、自分の祈りがまったく届かないと思える現実は多くなるものです。

しかし、そのようなとき支えになるのが、「あの苦しみの中で、神は私を助けてくださった」という生きた記憶です。そして、「私の願いはかなわなくて、かえってよかった」と思えることさえ出てきます。そのとき、私たちは神との生きた交わりの中で、自分の願いではなく、神の願いが何かを知るように導かれているのです。

 

詩篇91篇は、私たちが困難の中に自分を差し出すときの祈りです。アメリカの軍隊では、希望者に聖書全巻が無料で配布されますが、その第一ページ目は、創世記ではなく、この詩篇でした。軍人は国や家族を守るために自分の身体を危険の中に差し出すことが求められています。それはとっても恐ろしいことです。戦争は絶対に避けるべきだと言っても、歴史を見るとわかるように、国を守るために戦わざるを得ないときが起きて来ました。

そこで何よりも励ましになるのがこの詩篇です。人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めが、ここに記されています。

|

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »