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2012年10月28日 (日)

マルコ12章35-44節 「神の救いはあらゆる常識を超えている」

                                                 20121028

イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。ただ、その際、主を愛する者に主は「祝福」を与え、主の御声に従わない者には「のろい」が与えられるという趣旨の教えを、あまりにも短絡的にとらえていました。

彼らはそれを逆転させ、すべてを因果律で判断するようになった結果、自分たちの生活が安定しているのは、自分たちの信仰のおかげと自分を誇り、反対に、貧しい人は、自分たちの不信仰に対する報いを受けているに過ぎないと解釈していました。

 

しかも、律法学者たちは、無知な民衆たちを正しい信仰に導き、神の国を復興するという熱い情熱を持っていました。また、民衆の側でも、ギリシャやローマの風習に染まらないユダヤ人の慣習の模範を示してくれる律法学者たちを必要としていました。

そして、ローマ帝国の総督やその権力に媚を売るユダヤ人指導者の権力に対抗するため、律法学者たちはいつも民衆の支持を得ることに腐心していました。彼らは互いを必要としていたのです。

 

それにしても、私たちも、神がキリストにおいて実現しようとしておられる「救い」を、自分の常識の範囲内でしか理解していないのではないでしょうか。

神の救いのご計画は、あまりにも大きすぎて理解できないというのが現実です。信仰の成長とは、自分の常識がひとつひとつはがされて行くプロセスとも言えましょう。

 

1.キリストはダビデの子であるばかりか、ダビデの主である

1235節は、「イエスが宮で教えておられたとき」という記述で始まりますが、これは十字架にかけられる三日前のことだと思われます。その直前に、イエスは復活を否定するサドカイ人との論争でも、また律法を日常生活に生かそうとするパリサイ人との討論にも勝たれ、その結果が「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった」(12:34)と記されていました。

そして、今度は、イエスの側から律法学者たちの問題点を指摘するようなお話をなさいました。その問いかけが、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という不思議なことです。それは、当時の人々が、自分たちを外国の支配から解放してくれる新しい王、「ダビデの子」としての「救い主(ギリシャ語では「キリスト」)」を待ち望んでいたからです。

実際、エリコの盲人バル・テマイはイエスが目の前を通り過ぎると聞いただけで、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び続けました。また、イエスをエルサレムに迎えた群衆も、「ダビデの子にホサナ」と叫びました(マタイ21:9)

イエスは確かに新しい「神の国」を実現する「ダビデの子」であり、「キリスト」です。ただ、弟子たちはイエスに向かって「あなたは、キリストです」と告白した時、主は「自分のことをだれにも言わないように」と、それを秘密にするようにと戒めました(82930節)。なぜなら、イエスがご自分の真実の立場を証ししたたん、当時の人々が期待していた「神の救い」のイメージによって、ご自分が神を冒涜する偽預言者または、ローマ帝国からの独立を画策する革命指導者として排除されることを知っておられたからです。

イエスが実現する救いは、当時の常識の枠を超えすぎていました。

 

それにしても、イエスはここでご自分がどのような方かを証する前に、人々が期待していた「キリスト」を「ダビデの子」と呼ぶことで生まれる誤解を正そうとしておられます。それは、聖書が預言するキリストは、ダビデの子として目に見えるダビデ王国を再興するというよりも、はるかに大きな救いを実現してくださる方だからです。

それでイエスは、ダビデが記した詩篇110篇で、キリストを「私の主」と呼んでいることを指摘し、キリストはダビデの子である前に、ダビデの主でもあると語りました。

イエスはまず、「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています」と言いながら、この詩篇を引用されました。これは、ダビデが自分でも理解できないことを、聖霊の導きの中で語ったという意味です。詩篇のことばには、人間的な感情表現が豊かに記されていますが、そこには、著者自身も理解できなかったような神の救いのご計画が記されています。

この詩篇は新約聖書に最も多く引用されています。ダビデはそこで、主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足の下に従わせる時までは、わたしの右の座に着いていなさい』」と述べています(36節)。

これは、主(ヤハウェ)が「ダビデの主(アドナイ)」であるキリストに向かって、主(ヤハウェ)がキリストの敵を、完全にキリストの支配下に服従させるまで、主(ヤハウェ)の「右の座」、宰相の地位にとどまっていなさいと言われたもので、神の救いのご計画の想像を絶する広がりを示すものです。

 

それによって、イエスは彼らのキリスト理解がいかに人間的で、浅薄なものかを示されたのです。彼らは、イスラエルがローマ帝国から独立し、ダビデ王国が復興されることで、神の救いが完成すると信じていました。しかし、それは歴史が証明するように、別の民族紛争の始まりでしかありません。

しかし、世界の平和が実現するのは、キリストが神の右の座、つまり宰相の地位について、すべての敵がキリストの足の下に従わせられるときです(36)

 

その時のことをパウロはコリント人への第一の手紙15章でこの詩篇を引用しつつ、「それから終わりが来ます。そのときキリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまでと、定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた』からです」(24-27)と記します。これこそ、世界の歴史のゴールです。

 

そして、キリストが「死を滅ぼす」ときの様子を、黙示録は、偶像を拝むことなく死んでいったすべてのキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」と記しながら、その千年の終わりには、サタンは牢から解き放たれ、諸国の民を惑わし、彼らは神の民に敵対しますが、天からの火が彼らを一瞬のうちに焼きつくし、その後、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」と記し、最後に、これらをまとめるように「それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」と描いています(204-14)

 

この世の帝国は、人に死をもたらす剣の力によって、人々を脅し、従えます。しかし、初代教会から古代教会にかけて、多くの信仰者は、ローマ帝国の脅しに屈することなく、皇帝を神として拝む代わりに、殉教の死を遂げました。ローマ帝国の剣の力は彼らには通用しませんでした。それは、キリストがご自身の十字架によって死の力に打ち勝ち、ご自身に従う者に栄光の復活を約束されたからです。

永遠のいのち」とは、この復活のいのちが、今から始まっていることを意味します。そして、世界の完成の時には、「」の恐怖で人々を惑わす悪魔自身が滅ぼされます。

つまり、聖書が語るキリストはダビデが果たすことができなかった全世界的な神の王国を立てるばかりか、最終的には、人々を惑わす死の力を無力化されるばかりか、「最後の敵である死も滅ぼされる」方なのです。

 

それを理解させるためにイエスは最初の問いかけを繰り返しながら、「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう」と、キリストとダビデの子との関係を問い直すようにと優しく語りかけます。そして、「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた」というのです(37)

 

彼らは、神の救いを、カイザルに税金を納めなくて済む独立国家を建てる程度にしか理解していませんでした。確かに、キリストは、「ダビデの子」として、目に見える神の国を実現してくださいました。それは現在、キリスト教会として全世界に広がっています。

しかし、イエスは同時に、ダビデの主として、ダビデが果たすことができなかった、全世界的な真の平和(シャローム)を実現してくださいます

この世界には、今もなお、サタンの惑わしと攻撃が満ちており、私たちは、「神よ、どうして・・・」とうめかざるを得ないことが多くありますが、キリストは、この戦いに対する勝利を、ご自身の復活によって確定して下さいました。それで私たちはすでに「圧倒的な勝利者(ロー8:37)とされています。

しかも神の救いのゴールは、目の前の問題の解決ではなく、世界の完成、愛の交わりの完成です。エデンの園にあった、祝福に満ちた神と人、人と人、人と被造物の交わりが、拡大された形で新しいエルサレムにおいて実現します。

今、私たちのうちには、復活のキリストの御霊が宿っています。私たちは何度も失敗し、落胆しますが、キリストの御霊は、あなたの中にご自身の愛を注ぎ、また神と人とを愛する力を生み出してくださいます。   

 

2.「律法学者たちには気をつけなさい」

38節からはイエスが引き続き、「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです」と言われたことが記されています。彼らからすれば、自分たちは敬虔な生活を無知な人々に証しをしていると弁明したことでしょう。

また律法の解釈に命を賭けている自分たちが尊敬を受けることは、聖書の教えの権威を守ることと不可分であると弁明したことでしょう。

しかし、彼らが見過ごしていたのは、人間にとって名誉また栄誉とは、最高の地上的な財宝であるということです。人は自分の名誉のためなら命を捨てることができます。彼らは人々への証しの生活という名の下に、無意識だったかもしれませんが、自分たちが名誉心の奴隷になっていたということを忘れていました。

 

そればかりか、それによって、「やもめの家を食いつぶし」(40節)ていたというのです。当時の律法学者はみことばを教える際に、お金を取ることは禁じられていましたが、感謝のしるしを受け取ることはできました。

彼らは、自分たちへの贈り物は神への感謝の表現になり、神が報いてくださるなどと言いながら、貧しいやもめから贈り物を積極的に受け取っていたようです。また揉め事に関与して口利き料や弁護料を取ったりしていたようです。

 

そればかりか彼らは、「見えを飾るために長い祈りをします」とあるように、神への祈りという信仰の本質的な部分に名誉心が入り込んでしまっていたというのです。イエスは、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」と言われました。後に使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別にきびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3:1)と述べましたが、キリスト教会の指導者も格別に厳しいさばきを受ける可能性があります。彼らが神に近いと考えるのは間違いです。

反対に、教師たちは非常に危ないところに立たせられているということを、あわれみの眼差しをもって見ていただく必要があります。

 

ドイツでの家庭集会時代の友人が、小生の本やメッセージ原稿を喜んでくださり、それを友人やご家族にも転送して下さっているのですが、以前、「高橋さんのメッセージのよさのひとつは、ありのままのご自分を見つめる謙虚な姿勢に支えられていると思います。御本やメッセージが用いられるにつれ、誘惑に陥ることなく、その謙虚さが形式的なものにならず、さらに深い洞察を与えられますように、余計なお世話かもしれませんが、古い友達として、祈っていこうと思っています」と書いてくださいました。

一瞬、「僕のことを謙遜にしてくれる人はいつも沢山いますから、ご心配なく・・・」とでも、書きたくなりましたが、「この方は、ほんとうに大切な友だな・・・」と、改めて心から感謝しました。「誘惑に陥ることなく、謙虚さが形式的なものにならず・・・」というのはまさに的を得ています。宗教指導者は、知らず知らずのうちに謙遜な振りをすることを身に着けてしまいがちだからです。

それにしても、イエスは、宗教指導者が陥りやすい罠を、このように弟子たちに告げ、また弟子たちがこれをこのように書き残しているということは驚くべきことではないでしょうか。ここにこそ、聖書の教えの真実さの証しがあります。

 

  今も、偽善に満ちた宗教団体が数多くあります。なぜ、人々は騙されるのかと不思議に思いますが、それは人々が見せかけに弱いからでもありましょう。

イエスは、ご自分の弟子たちがそのような宗教の罠に陥ったり、また人々をそのような罠に陥らせないように、宗教指導者の危なさを徹底的に知らせました。 

 

それによって、主は、ひとりひとりが、目に見える指導者を通してではなく、自分ひとりで神の前に立つことができるようにと導こうとしておられます。

確かに、聖書の教師を尊敬すべきことは当然のことであり、また聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は・・・あなたがたのたましいのために見張りをしているのです(ヘブル13:17)と命じています。

聖書の教師は一人ひとりを誤った教えから守り、それぞれが自分で聖書を読み、自分で神に向かって祈ることができるように助ける責任を果たしてきたかが問われるています。

 

たとえば、私の中には、「人から頼りにされたい・・」という思いがあります。しかし、心の中で人々から自分が「救い主」のように見られたいと願うような指導者は、神からさばかれます。主はその人の心の動機を見ておらます。

 

3.「この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れた」

41節からは、「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」と不思議なことが記されています。人の献金の様子を観察するなど、下品なことのようにも思われますが、イエスは一人一人の心に報いることができる方ですから、私たちはここに慰めを見いだすことができます。

お金は命の次に大切とも言われますから、献金には確かにそれぞれの信仰が現れますが、イエスはそれをどのような基準で見られるでしょう。

そのような中で、「多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる(4142)という様子が観察されました。

 

当時の献金箱は、使用目的別にラッパの形をした13もの金属製の器からなっていましたでしたから、その音から誰がどのくらい入れたかがわかりました。そこで人々が一日分の労賃に相当するデナリ銀貨などを入れていたことでしょう。

そこに最後に、ひっそりと貧しいやもめがレプタ銅貨二枚をささげたというのです。これは二羽の雀が一アサリオンで売っているといわれたアサリオンの8分の一の単位、1デナリの128分の1の単位、二枚でローマの銭湯の一回分の入浴料ぐらいであったと言われます。このやめの献金額は、想像を絶するほど少額でした。

 

  これはマルコでもルカでも、律法学者たちが「やもめの家を食いつぶしている」という記事とセットに記されていおり、律法学者たちの見せかけの姿と、金持ちの目立った献金は同じ意味があります。そしてイエスはここで献金のうわべの姿ではなく、そこに込められた思いをご覧になりました

そのことが43,44節では、すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた」と記されながら、その話の内容が、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」と記されます。

 

なお当時は、レプタ銅貨をささげる者はできれば二枚以上をささげるようにという言い伝えがあったようです。ですから、彼女は、精一杯、当時の教えに忠実でありたいと思いながら、自分の生活費の全部をささげたのです。イエスは、このレプタ銅貨二枚が、このやもめにとってどれほど貴重なものかをすぐに見分けました

 

イエスの言葉は、35節からの教えの継続です。当時の人々は、神の救いをあまりにも自分たちの常識の枠の中で理解していました。

そして、人の常識からしたら、彼女のささげものは誰よりも少なかったのですが、神の眼差しからは、誰よりも高額でした。私たちもすべてのことを神の視点から見るように正される必要があります。

 

それにしても、私たちはふと、「この後、このやもめは、どうやってその日のパンを得たのか・・・」と心配します。しかし、聖書の神は、「みなしごの父、やもめのさばき人」(詩篇68:5)、主の偉大さは、「みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」(申命記10:18)ことによって現されると記されています。

当時の律法学者たちは、貧しさを神のさばきの結果と見ていましたが、聖書は、貧しさを、神のあわれみと偉大さが現される機会として記しています。神は誰よりも、貧しい者の叫びに耳を傾けられる方なのです。

 

  以前、日本福音同盟という日本の福音派の諸教会の協力団体の総会に出席してきました。そこで日本長老教会の指導的な牧師の村瀬俊夫先生が感動的なメッセージをしてくださいました。

彼は二十歳で信仰に導かれ、牧師に召されましたが、記憶力には少なからず自信を持っていたとのことです。そのため人をさばくことが多くなり、また人の失敗がストレスとなり、何度も「牧師をやめたい・・」と悩んだとのことです。

ところが、還暦を越え、物忘れが激しくなり、自分に自信がなくなって来るにつれ、毎日が楽しくなりました。それは、自分の弱さや貧しさが身にしみてくるにつれ、イエスに生かされているという実感が強くなったからです。

それまでは、「いつも喜んでいなさい・・すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という聖書の基本的な命令を聞いても、会衆には、「これは、努力目標です」などと弁解がましく言っていたそうですが、80歳になるとそれが自然にできるようになったと生き生きと語っておられました。

 

この貧しいやもめのささげものの記事を読むたびに、人によっては、「私も比率的に、もっとささげなければ」などと思うかもしれません。

しかし、金持ちは全財産をささげることはできなくても、やもめは全財産をささげることは比較的容易なのです。それは、自分の力では何もできないということを、心の底から味わっているからです。

 

ですから、自分のけち臭さや、自分が不安から自由になれないことを悩む必要はありません。それよりも、目を大きく開いて、世界の大きさと自分の小ささに目が開かれるように祈るべきではないでしょうか。すると、自分が神の豊かさから見たら、レプタ銅貨二枚しか持っていない貧しい者と同じであることに気づくことでしょう。

しかも、あわてることはありません。神から与えられた使命を果たそうと生きだしたら、否が応でも、自分の弱さを実感せざるをえなくなるのですから・・・。

その意味で、「謙遜にしてください・・」と祈るよりも、「使命に生かしてください」と祈るべきでしょう。そして、神は、貧しいあなた自身をご自身へのささげものとして心から喜んでくださいます。

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2012年10月21日 (日)

創世記12章1-3節「あなたは祝福の基(もとい)となる」

                                          20121021

  今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、 われわれはどこへ行くのか』という長いタイトルの大きな絵を描きます。

私たちの人生には様々な予測不能なことが起きますが、これを理解しているとき、目の前の様々な問題を、もっと余裕をもって見ることができるようになるのではないでしょうか。そして、この問いに対する答えが聖書に記されています。

 

人間の歴史はエデンの園から始まります。それは、神の祝福に満ちた神殿でもありました。人はそこに、「神のかたち(image of God)として創造され、その園を管理する者として置かれました。この世の神殿には神々のイメージが飾られますが、エデンにおいて神のイメージを現すのは、何と、人間自身だったのです。

そしてエデンの園における礼拝の中心は、「善悪の知識の木」だったかもしれません。それは、神こそが善悪の基準であることを示すシンボルでした。人は、そこで神のあわれみに満ちたことばと、超えてはならない限界を示すみことばを聞きました。

しかし、人は、その限界を超え、自分自身を善悪の基準とし、自分を神としてしまい、エデンの園から追い出されました。つまり、人類の歴史の悲惨は、最初の人間が、神の宮から追い出されたことから始まったのです。

 

 その後、神はご自身の側からアブラハムを選び、神の民を創造し、彼らの真ん中に住むと約束されました。神がアブラハムを召し出したのは、「神のかたち」としての生き方を、彼と彼の子孫を通して目に見える形で現すためでした。

アブラハムは一人で神に従おうと決心しました。あなたもどこかで一人で神の招きに応答する必要があります。それは周りの人々には理解されないことでしょう。しかし、そこには次のような約束があります。

 

「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12:2,3) 

 

最初のことばは最新のフランシスコ会訳では「お前は祝福の基(もとい)となる」と訳されていますが、「基」ということばを付加した方が前後関係を明らかにし、「名」ということばを省く方が原文に忠実です。

あなたも一途にイエスに従おうとするとき、一時的に、「お前のせいで・・」と言われるようなことが起きるかもしれません。しかし、最終的には、「あなたのおかげで、みんなが助かった」と言われるような「祝福の基」となることができます。

 

1.「神のかたち」としての生き方

それでは、神がアブラハムに期待した、「神のかたち」として生き方とはどのようなものでしょう。

私の小学校四年生のときのことですが、どういうわけか、担任の先生がクラスの全員に、自分の欠点は何かということを言わせました。それぞれが、「寝坊する」とか「片付けができない」などと答えましたが、私は答えられませんでした。それは、「人の目が気になる」というのが自分の欠点であると強く自覚し、そんな自分を深く恥じていたからです。しかし、後に、それは多くの日本人にとって共通の問題であることが分かりました。

 

日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されており、その論理は「隣百姓」とも呼ばれます。隣が田植えを始めれば自分も始め、隣が刈り入れをすれば自分もするという、模範となる隣人を選んでそれに習って行動をするというパターンです。日本では四季がはっきりし、田植えや刈り入れの時期を間違えると悲惨なことになりますから、これは大切な生きる知恵でもありました。

私は北海道の稲作農家の長男として生まれましたが、稲刈りの時期に霜が降ったり、はさかけ(天日干し)の時期に雪が降り出すという災難にあわないように必死で手伝いをしたことがあります。

先日、百万人の福音の編集担当者から、「先生は、締め切りを守ってくださるので、助かります」と言われましたが、これは単に隣百姓の延長の行動に過ぎません。

 

しかし、人はそれぞれ異なった能力を持っていますから、皆が同じ行動をとるなどということは、しょせん不可能です。特に私の場合はいつも人より遅れがちでした。それに対し、「人の目など気にしなくていいんだよ……」などと言われると、人の目が気になる自分を許せなくなりました。

それで今度は、人の先を走ることができるように頑張りましたが、今度は人に勝って喜ぶ自分がさもしく思えてきました。いつも、「人と自分を比べてばかり……」という生き方から卒業したいと思っていました。

そんな私にとって、「私はいつも、私の前に主(ヤハウェ)を置いた」(詩篇16:8)というダビデの告白は素晴らしい導きのみことばになりました。人の目を気にしないようにするのではなくて、いつでもどこでも主の眼差しを敢えて意識して生きることです。そして、これこそ、本来の「神のかたち」としての生き方でした。アブラハムが父の家を出て、神に従うことができた原点です。

 

この時代は特に、革新的な発想がどこでも求められていますが、「目の前に主を置く」という生き方をする者こそが、ユニークでクリエイティブな発想によって、新しい道を開くことができます。現代の多くの人々は、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏の独創的な発想の恩恵を受けて生きています。

彼は、「ドグマ(教義)に囚われてはいけない…他の人の意見の雑音によって、内なる声をかき消させてはならない。自分の心と直感に従う勇気を持つことが最も大切なのだ」と言いました。彼は自分の心の声に素直に耳を傾けた結果、人々が自分でも気づかずに求めている物が何かということに目が開かれ、人の役に立つ製品を次々と生み出してきました。

 

なお、彼が否定するドグマの中にはキリスト教信仰も含まれていたように思えますが、少なくとも私の場合は、この言葉と自分の信仰に何の矛盾も感じません。信仰とは、人との比較や人の期待から自由になる道だからです。

 

私はずっと、他人の目を意識しながら生きてきました。そして、自分の感性に自信を持てず、「他の人はどう感じるのだろう…」と、いつも気にしていました。性格分析を受けた時なども、異常という結果が出ないかと恐れていました。せっかく信仰に導かれても、「私の信仰はどうしてこうも弱いのか」などと迷っていました。

しかし、自分の信仰は、全宇宙の創造主がこの私に目を留め、ご自身のことを知らせてくださった結果であるということが分かり、自分の存在価値と使命に目が開かれるようになりました。

最近は、聖書から教えられたことを自分の感性で受け止め、文章として公表するようになっていますが、かつては恥じていた自分の感性を表現するときに、驚くほど多くの人が、「私も同じことで悩んでいたので、慰められました」と応答してくださいます。

 

2.イエス・キリストこそ真の「神のかたち」

ところで、神はアブラハムの子孫をエジプトで増え広がらせた後、そこから約束の地へと導かれました。その際、神はご自身が彼らの真ん中に住むしるしとして、「幕屋」を建てさせました。神は、人間と同じレベルにまで降りて来られ、地上の幕屋から人間に語りかけてくださいました。それはカナンの地をエデンの園のような祝福の世界にするためでした。

しかし、イスラエルの民は神に逆らい続け、そのご計画は無に帰したかに見えました。そのときに、神の御子イエスがこの地上に現れて、このご計画を全世界レベルに引きあげてくださいました。

 

その神の壮大なご計画は、新しい天と新しい地」として実現されます。私たちの「救い」は全被造物の救いにつながり、アダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされた世界へと変えられるのです。

私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です(ローマ8:19,21)

 

  そして、イエスこそ真のアブラハムの子孫であり、真の神のイメージであり、真の「神のかたち」です。そればかりか私たちの王です。

イエスはご自分が「ダビデの子」、「救い主」であることを、エルサレム入城の際に明確に示されました。それはこの世の戦いの指導者ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」としての姿でした。

 

  この世界には、被造物の「うめき」が満ちています。世界は変えられる必要があります。そのためには権力を握ることが大切かもしれません。しかし、偉大な理想を掲げたはずの人が、かえってこの世に争いと混乱を広げてきたというのが人類の歴史ではないでしょうか。力は力の反動を生みます。

神の国」は、神の御子がしもべの姿となることによって始まったことを忘れてはなりません。あなたの隣人にどう接するかが何よりも問われているのです。私たちはこのキリストの生き方に習うことによって「祝福の基」となることができます。

 

3.「わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。」

なお、私たちが「祝福の基」となるためには、この心がキリストの愛によって満たされる必要があります。ヨハネ4章によると、イエスはサマリヤ経由で郷里のガリラヤに向かい、スカルという町のはずれにあるヤコブの井戸の傍らに腰をおろしました。

そこに、真昼(当時の6時とは正午)だというのに、ひとりのサマリヤの女がその遠い井戸まで水を汲みに来ました。まるで人目を避けているようにです。彼女は繰り返し結婚に失敗し、人々から軽蔑されていました。彼女には何とそれまで五人もの夫があり、今いっしょにいる人は夫ではないというのです。

 

当時、女性の側から離婚を申し立てることは原則不可能でしたから、彼女は幸せな結婚を望みながらも、夫から見捨てられ続けたのでしょう。彼女の問題は、愛に渇きすぎていて人との適切な距離を保つことができないという、ラブ・アディクション(愛情嗜癖)だったのかも知れません。

イエスは一目見て、彼女が愛に渇いていると分かり、「水を飲ませてください」(7節)と会話の糸口を開きました。彼女は、ユダヤ人の教師と見られるような人が、敵対するサマリヤの女に飲み水を願ったことに驚きます。

 

そこでイエスは、その井戸の水を指しながら、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」(13節)と言われましたが、それは、彼女が味わっている具体的な失望感を思い起させるものです。

彼女は、ひとり寂しく、暑い最中に遠いところまで水を汲みに来ていました。毎日同じ繰り返しの中で、生きることがどんどんつらくなるばかりです。

 

私も同じような心の渇きを覚えていました。僻地の小学校の落ちこぼれから始まり、良い高校、良い大学に進学し、国費留学までさせてもらっても、それは癒されませんでした。「もっと、もっと」という成功への渇きは強くなるばかりでした。そして、この世のものでは与えられない心の平安、救いを求めるようになりました。

 

 イエスは、大胆にも、「わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり・・・」(14節)と語られました。

人の中に永遠に枯れることのない泉を造り出す水とは、何という神秘でしょうか。これを文字通りにとらえるなら、まさに、この女にとっての最高の福音です。それで彼女は、「先生、私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」(15節)と言いました。

 

私も、「もう私が渇くことがないように・・・」という気持ちでイエスを救い主として信じました。しかし、何かしっくりしません。その後も、渇きはいやされてはいないからです。私は、柄にもなく、証券会社に入りました。それは、枠にはまらず自分の個性を生かせる環境にあこがれたからです。そして、神の導きで、ある程度は成功できたかも知れませんが、心の渇きはいやされませんでした。

それどころか、牧師になっても、今度は、自分の心のみにくさが見せつけられるばかりで、別の不安が生まれてしまいました。今も、私は渇いてばかりいます。

 

 しかし、イエスはここで、あなたの心の渇きが立ち所に消えるような魔法の話をしたのでしょうか?実は、彼はそれ以上のことを約束されたのです。「生ける水」とは、明らかに聖霊のことを意味し(7:38、39)ますが、その方は、御父、御子とともに世界を創造した神ご自身です。

ヨハネは、この世界の創造主ご自身が人の姿となって、人々の真ん中に住むという記述から始め、ここでは、何と、その神ご自身が私たち自身の内側に住んでくださると言ったのです。

しかも、イエスは、「わたしが与える水(御霊)は、その人のうちで泉となる」(14節)と言われ、もう神が私たちを離れ去ることはないと保証されたのです。

 

ですから、「渇くことがなく・・永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:14)とは、もう水を汲みに来なくてもよいとか、ひとりだけでも平安に満ちた生活を過ごせるようになるという意味ではありません。

たとえ渇きを覚えても、あなたのうちにおられる御霊ご自身が、いつでもどこでも、あなたの隠された願いまでも、父なる神にとりついでくださるので、あなたの渇きは、父なる神との永遠の愛の交わりで癒されるという意味なのです。

 

 人が自分の内側の空虚感を外界の人やもので埋めようと試みる背後に、見捨てられ不安があると言われます。それが私を世的な成功へと駆り立てていました。もっと敬虔で立派な人間になれば神からも人からも愛されるはずだと心の底で思っていました。

しかし、自分の祈りの貧しさを痛感したとき、自分の中で祈りを起こしてくださる方がおられ、また同時に、その方が、互いに強がる必要のない愛の交わりを導いてくださると分かりました。

 

渇くことがない」とは、何が起ころうとも心が動揺しないような状態では決してありません。そうではなく、父なる神への祈りを導いてくださる聖霊が、枯れることがない泉となってあなたのうちにおられるという意味です。

 

4.「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」

 そして、ヨハネ7章では、祭りの終わりの大いなる日(37)と記されますが、これは七日間の「仮庵の祭り(2)を締めくくる八日目を指します。

そして、祭りの終わりの日は、世界の終わりの日、完成の日を連想させます。神は預言者たちを通し(エゼキエル47章、ヨエル3:18、ゼカリヤ14:8)、その日、エルサレム神殿から水が湧き出ると約束されました。

その水は大きな川となって死海に流れ込み、そこに多くの魚が住むようになり、また、川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、あらゆる実をつけるというのです(エゼキエル47:1-12)。それはエデンの園の回復の情景です。黙示録は、それを新しいエルサレムとして描いています(黙示22:2)。当時の人々はそれを憧れていました。

 

そのような祭りのクライマックスで、イエスは立って大声で、大胆にも、だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)と言いました。なお、「飲みなさい」とは、「わたしを信じる者は」と続けて述べられているように、イエスへの信頼を促すことばです。

4世紀のクリュソストムスは、「イエスはだれも必然性や強制によっては引き寄せられない。そうではなくて、もしだれかが大いなる熱心さを持つなら、また、燃えるような願いを持つなら、そのような者をイエスは呼び寄せる」と言いましたが、イエスは、何よりも、私たちの心の渇きにやさしく語りかけられます。それは、イエスが山上の説教で、()の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです(マタイ5:3)と言われた通りです。

何と多くの人が心の底で誤解をしていることでしょう。教会は、聖人というよりは、愛に渇き、自分の愛の足りなさに心を痛めている罪人が集まる場所なのです。

 

  イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに・・・」と言われましたが、これは前述の預言を指します。不思議なのは、まわりの世界を生かす大きな川が、エルサレム神殿からではなく、「その人の心の奥底から流れ出るという点にあります。

イエスは、これらをまとめ、「その人の心の奥底から生ける水の川(複数)が流れ出るようになる約束されたのです。なお、「これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである(39)と解説されますが、私たちはすでに聖霊降臨後の時代に生きています。

「私は御霊を受けているのだろうか?」と迷う人がいますが、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)と記されているように、私たちは自分を「御霊を受けた人」と呼ぶべきです(ローマ8:15、ガラテヤ3:2)

 

生ける水の川が流れ出る」とは、まるで、エルサレム神殿から湧き出た水が大河となって不毛の地に豊かな果樹を育てるように、私たちがまわりのすべての人々を生かす者になることを意味します。

これは、「もっと愛に満ちた人になりなさい」という命令ではなく、「イエスがあなたを愛に満ちた人に造り変える」という約束です。

 

イエスへの信仰は、倫理や道徳である以前に、その約束を信じることです。「自分は人を生かすことも、人の役に立つ事もできない」と思うのは、謙遜ではなく、自己卑下であり、サタンが吹きこむ考え方です。

真の信仰とは、神がこのままの私たちを用いて、周りの世界を、エデンの園のように変えて下さると信じることなのです。イエスはどんな人をもご自身の目的のために用いられます。

 

 心の奥底から」とは、厳密には「腹から」と記されています。私たちの行動を変えるほどの神の愛は、頭よりは腹で感じられるものです。たとえば、「イエスは私の罪を赦すために十字架にかかられた」ということばを腹の底で感じたら、「この罪人のままの私が神様から抱きとめられている」という安心で満たされ、あらゆる自己弁明や自己正当化から自由になれるはずです。

ところが、私たちは、心のどこかでいつも、神は私がどのような成果を出したかに興味を持っておられるに違いないという、根拠のない呪縛にはまっています。

 

  私たちのうちには確かに、御霊ご自身がすでに住んでおられるのですが、自分の意思の働きによって御霊を消す(Ⅰテサロニケ5:19)ことができます。それは、御霊が、私たちの心の奥底で、ご自身のみこころを語るのを待たないことによってです。

私たちはしばしば、一呼吸置いて祈ってから始める前に、自分の意思で動き出してしまいます。また、人によっては、自分の意思にさえ従うことができず、条件反射的な反応をします。たとえば、人の些細なことばを非難と受けとめ、攻撃は最大の防御とばかりに、攻撃的なことばを言うことがあります。

 

  イエスは、「だれでも渇いているならと言われましたが、私たちの問題は、能力の不足でも信念の弱さでもなく、イエスとの愛の交わりへの渇きを感じないことにあるのではないでしょうか。人は、イエスとの交わりなしに多くの働きをすることができます。人を慰め、助けることばかりか、神のみことばを語ることだって可能です。しかし、そこにはイエスにある平安はありません。

私たちは、イエスがすべてをご自身を遣わされた方との交わりのうちで行なっていたと同じように、すべての働きを、私たちを遣わされたイエスとの交わりのうちで行なうのです。そのように生きるなら、そこには結果に左右されない、一瞬一瞬を喜ぶ平安が生まれ、一生懸命働きながらも人にプレッシャーをかけません。神の愛を心の奥底で感じ取り、自分を神の愛の通り良き管として差し出しているからです。

 

私たちは静まりの祈りの中で、生ける水の川が心の奥底から流れ出るのを体験し、そして、流れ出た川が人に向かうことで、まわりの人を生かすことができるのです。

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2012年10月14日 (日)

箴言251-11,16-2228節 「わからない世界で生きる」

                                                        2012年1014日 

  日本の電車の時刻の正確さは、世界に誇ることができるものです。私たちはどこに行くのにも、あらかじめ乗り継ぎ時間を調べながら、自分の時間を事前に管理できます。私の場合も、神経症的な性格のせいか、いろんなことを予定通りに進めたいと思います。そして、ある程度、それができます。毎週、「もう、無理・・」と、思いながらも、きちんとメッセージの原稿は仕上がり、出版社には期限通りに依頼された記事をお送りしています。

しかし、そこに大きな落とし穴があります。自分の予定や世界の動きは管理できて当たり前という幻想を抱くことになりがちだからです。原発事故を巡って想定外ということばが流行りましたが、そもそも私たちの世界は、想定外こそ日常であるということを忘れてはなりません。原発事故で顕になった日本の弱さは、想定外に対応する能力が驚くほどに未熟であるということです。

預言書をまとめた本を書きながら、ユダヤ人にとって、「神がおられるなら、なぜ、このような悲惨が起こるのか・・・」という問いかけは、そもそも愚問であるということがわかりました。なぜなら、預言書は、神の住まいである神殿が廃墟とされるという、まさに想定外の悲劇を巡って記されているからです。

私たちの住む世界は、想定外のことだらけで、世界が期待通りに動くということ自体が、神と世界の関係を知らない愚かさを現していると言えましょう。人間の堕落とは、自分を神としたことにあります。この世界は、自分を神とする人々で満ちているのです。それぞれが極めて身勝手な期待を抱きながら生きています。その中で、世界が、また、自分の回りの人が、期待通りに動くなどと思う方が間違っています。

この世界は、いつもわけがわからないことだらけです。そして、私たちの信仰とは、わけのわからないことが起きる世界で生きる勇気を生み出す力ではないでしょうか。

 

1.「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」

25章の初めでは、「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである」と記されますが、ヒゼキヤはソロモンの時代から約三百年後に人々の信仰を覚醒させた偉大な王です。彼は神の前に誠実に祈ることによって、また必死に神に向かって叫ぶことによって、世界帝国アッシリヤの攻撃からエルサレムを守ることができました。

それは国際政治のあらゆる常識を超えた神の奇跡でした。その王のもとで、ソロモンのときから語り継がれてきた箴言のことばが、現在の形に編集されました。なお、これは29章の終わりまで続きます。

 

 「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない」(25:23)とありますが、この「」ということばを、「良い指導者」という意味でとらえると、このことばは現代に適用できます。

イザヤ4515節に、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す」という表現があります。この地上の出来事だけを見ていると、神のみわざがわからなくなります。

たとえば、エルサレム王国はアッシリヤの攻撃を退けはしましたが、その後、バビロン帝国に征服され、神殿は廃墟とされ、ユダの民は捕囚とされます。そして、そのバビロン帝国をペルシャ帝国が滅ぼし、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿の復興が成りました。

そのような中で、人間の目に見えるのは、神の救いではなく、ペルシャ帝国によるユダヤ人の解放です。しかし、神は預言者イザヤを通して、そのような国際政治の背後に、神のご支配を見るようにと招いておられました。そして、「良い指導者」とは、目に見える現実を超えた神の視点、また神にあるビジョンを提示できる人です。

 

それにしても、「事を隠すのは神の誉れ」というのは本当に大切な知恵です。多くの人々は、「神がおられるなら、なぜ東日本大震災の津波被害や、原発事故による放射能汚染が、これほど悲惨になっているのか・・・」と問いかけますが、それに明確な答えを与えることができるということ自体が、神に対する冒涜になり得るのです。

私たちに必要なのは、わざわいの理由よりも、今、ここで、何をなすべきかという答えです。そして、「事を探るのは王の誉れ」とあるように、良い指導者は何よりも、そのような明日への道を探る者であるべきでしょう。

 

ただし、「王の心は測り知れない」とあるように、指導者になってみなければ見えない世界もあるということを覚えたいものです。僕も牧師になるまでは、ことあるごとに日本の牧師を批判するようなことばを繰り返していました。しかし、牧師になって見ると、その批判がいかに浅薄なものであったかが分かるようになりました。

使徒パウロは自分の後継者であるテモテに向けて、「まず初めに、このことを勧めます」と言いながら、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と記しています(Ⅰテモテ2:1)。リーダーを批判する前に、リーダーのために祈るべきでしょう。

 

  それとの関連で、45節では、「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる」と記されます。これは銀から不純物を除くとすばらしい器ができると同じように、指導者のまわりから、権力におもねるような人間を除くことで、王座が固くされるということです。

どのリーダーも、孤独に耐えなければ、働きを全うすることはできませんが、その孤独感を、自分に都合の良いことを言ってくれる人で埋め合わせたいと思うのも人情です。まわりの人は、リーダーの孤独を理解して、その落とし穴にはまらないように注意すべきでしょう。

リーダーの労に感謝し、その労苦をねぎらうことばを表現しながら、耳の痛い話を少しずつすべきです。戒めの言葉を言う時には、慰めの言葉を数多く語るべきでしょう。

 

 「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」というみことばは、私たちを傲慢の罪から守るキーワードになると言えましょう。

分からないことを、わからないと認め、神と神が立てたリーダーを尊敬し、リーダーに知恵が与えられるように祈りつつ、自分に問われている目の前の責任を果たして行くことこそ、最も大切な知恵でしょう。

 

2.「隣人の家に、足しげく通うな」

 7節の終わりから8節のことばは、「あなたがその目で見たことを、 軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか」と記されていますが、ユージン・ピーターソンはここを、「Don’t jump to conclusions—there may be a perfectly good explanation for what you just saw(性急な結論を出すな。あなたが今見たことに関して、完全に適切な解説がそのうち出てくるかもしれないのだから)」と意訳しています。わからないことに耐えられず、結論を急ぎ過ぎることは危険です。

 

 9,10節は、「あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる」と記されますが、「聞く者があなたを侮辱し」は、「聞く者があなたの恥をあらわにし」と訳した方が分かりやすいでしょう。

私たちは人との争いを起こしてしまったとき、つい、その人が隠している秘密を人に漏らすことによって、自分への同情を買いたいと思いがちですが、それは自分の評判を落とすことになってしまいます。

あなたの話を聞いた人は、あなたに同情する以前に、あなたに関して、「この人は、いざとなったら平気で約束を破る不誠実な人」という印象をあなたに対して抱くようになり、その評判は、取り返しのつかないほど落とすことになるからです。秘密を守られない人間は誰からも信頼されなくなります

 

 1617節には、「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないようにせよ」と記されていますが、これもひとつのまとまりとして理解すべき言葉です。

甘い蜜を見つける喜びと、心が通い合う隣人を得た喜びが並行して記されています。そこで戒められているのは、食べ過ぎること、また、近づきすぎることの危険です。甘い蜜も食べ過ぎると身体によくないのと同じように、親しい交わりが、依存的な関係になることは危険です。

 

人はそれぞれ、入り込んでほしくない領域、立ち入ってほしくない関係を持っています。たとい、親しい夫婦であっても、相手の親との関係に割り込み、相手の親の悪口を言うようになっては関係が壊れます。人間関係には適度な距離感が大切です。

そして、その距離感は、人によって異なります。自分にとって物足りない距離が、相手にとっては近づきすぎということだってあります。私たちが神を求めるのは、神にしか満たすことができない心の隙間があるからですが、実は、その隙間は、驚くほど深く広いものです。

ブレーズ・パスカルは、すべての人間の心の中には失われたエデンの園への憧れがあり、それはこの世のものでは満たされない渇きであると説明しつつ、「この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神自身によってしか満たされない」と言いました。

自分の心の隙間も、人の心の隙間も、それを人間的な方法で埋めようとすると、かえって別の大きな問題を生み出します。

 

  18節には、「隣人に対し、偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ」とありますが、多くの人々は、「偽りの証言」がどれほどひどい暴力になるかを知っていません。

聖書の核心「十のことば」では、「殺してはならない」「盗んではならない」と同じ重さで、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と戒められています。

あなたにどのような害を与えた人であっても、その人に関しての偽りの証言をしたとたん、あなたは神の前で、殺人者と同じレベルの犯罪人とされます。どんな悪人に対しても、偽りの証言でその人を貶めてはなりません。

 

  また、19節には「苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みとするようなもの」とは、どんなに困っていても、信頼できない人に助けを求めることは、より大きなわざわいを生むという警告です。

昔から、お金に困って高利貸しに頼り、すべてを失うという悲劇が繰り返し起きて来ました。私たちの人生に苦難はつきものです。苦難から逃げようとするのではなく、苦難の中でどのように振る舞うかが問われています。

  

20節の「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」ということばを、ユージン・ピーターソンは、「Singing light songs to the heavy hearted is like pouring salt in their wounds(重い心になっている人の前で明るい(軽い)歌を歌うのは、傷口に塩を塗るようなもの)と訳しています。

この点、クリスチャンはしばしば、過ちを犯しがちです。心配している人の前で、「いつも、喜んでいなさい」などと歌ったり、愛する人を失った人に向かって、「神は万事を益にしてくださる」などと明るい声で歌うことは、まさに傷口に塩を塗るようなことです。

ソーダの上に酢を注ぐようなもの」と記されているのは、ソーダはアルカリ性の代表、酢は酸性の代表のようなものですが、この二つを混ぜ合わせると、両方の性質を殺すことになってしまいます。

不用意にみことばを使うことは、人を神のみことばから遠ざけるという、とんでもない悪に通じることがあるのです。

 

11節では、時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」とありましたが、金のりんごとは、特性のアクセサリーのようなものだと思われ、それが銀の彫り物と調和して、美しさを際立たせることになります。

残念ながら、ときに教会では、悩み苦しんでいるときに、不用意なみことばを語られ、教会に来るのが嫌になってしまったという人がいます。私たちもあまり気にし過ぎても何も言えなくなりますが、酸味の効いたことばは、ソーダの上にではなく、励ましを求めている人の心にしか届かないということは肝に銘じるべきでしょう。

それぞれの人生は他人には、測り知れないものです。そこに土足で足を踏み入れるようなことをしてはなりません。

 

3.「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ・・・」

2122節には「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主(ヤハウェ)があなたに報いてくださる」と記されていますが、このことばはローマ人への手紙1217-21節で引用されています。

パウロはそこで、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさいと記しています。

 

多くの信仰者は、「敵を愛する」ということばを、「敵を好きになること」また「敵に親しみを覚えること」だと誤解しています。理不尽な理由で、あなたを憎んでいる人を、あなたが好きになったり、親しみを覚えることができたら、あなたは神のかたちに創造された者としての人格が麻痺しているとさえ言えましょう。

「怒りは、心の痛覚である」とも言われます。怒りを感じなくなったら、私たちは人に踏みつけられ、振り回されるままになってしまいます。

彼らには好意を抱くことができないからこそ、彼らは「あなたの敵」と呼ばれていることを決して忘れてはなりません。

 

「神が私たちの味方」であり(ローマ8:31)、「神があなたに代わって復讐してくださる」ということを前提にしているからこそ、パウロは、「あなたの敵が飢えたなら食べさせ、渇いたなら飲ませなさい」と言ったのです。場合によっては、その人の目を見るのを避けるようにしてでも、その人を助けることができます。

その人が困っている時に、「いい気味だ!」などと、あざけることは、かえって真の敵であるサタンの思う壺にはまります。それは、「悪に負ける」ことになります。なぜなら、サタンはいつも、復讐が復讐を生むという復讐の連鎖を生み出すことを生きがいにしているからです。

「彼の頭に燃える炭火を積む」とは、その人が、こちらの意外な反応に、慌てだし、逃げ出してしまうことを意味します。私たちは、辱めのことばによってではなく、愛の行為によって、人を恥じ入らせるべきなのです。

 

隣人愛とは感情を超えた行為であることが出エジプト記235節において、「あなたを憎んでいる者のろばが荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と印象深く記されています。

ここで、「それを起こしてやりたくなくて」というのは、「それを見捨てることを避けなければならない」ということばを意訳したものですが、事の本質を言い表しています。

愛とは、自分の感情に動かされることではなく、自分の気持ちに逆らってでも、具体的な助けを提供することだからです。

 

エーリッヒ・フロムという二十世紀中ごろに活躍した心理学者は、19世紀末から「ロマンティック・ラブ」という価値観が一般化する中で、愛は、魅力的な対象から生まれる自然な感情であるという考え方が広まり、社会の孤立感を深めていると警告を発しています。

彼は、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」と言っています。

彼は「the Art of loving(愛するということ)」と言う本の冒頭で、「愛は技術であり。知識と努力が必要だ」と記しています。そして、そのような知識と努力のみなもとは、根源的には、キリストの愛から生まれているものです。

 

そのようなキリストの愛について、パウロはローマ人への手紙56-8節で、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは…不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んでい死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と記しています。

そして、宗教改革者マルティン・ルターは、カトリック教会との討論の中で、「神の愛は、愛する相手を見いだすのではなく、創造する。人間の愛は、愛するに値する者を見いだすことの中にのみ生まれるが・・・」と言いましたが、聖書には愛するに値しない者を愛し続けた神の愛が最初から最後まで強調されています。

 

そして、最後に、「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ(28)と記されています。ただし、私たちは自分の心を制することができないからこそ、神の救いを求めているということを忘れてはなりません。

私たちは無意識のうちに、信仰を、仏教的な自己鍛錬の道、またはストア哲学的なセルフコントロールの道と混同しているのではないでしょうか。

詩篇の祈りの中には、私たちの中に湧き起こる、恐れ、不安、悲しみ、怒り、恨み、絶望感、孤独、など、あらゆるマイナスの感情を受け止め、神への祈りと変える道が示されています。霊感されたみことばによって、憎しみを神に訴えることから、愛が生まれるということがあります。

 

  私たちはだれしも、自分の人生を、自分の期待通りに過ごしたいと思うものです。そして、自分の夢を実現できる人こそ、この世の成功者として評価されます。それはそれとして、とっても大切なことです。そのような信念がない人は、信頼するに値しないとも言えましょう。

しかし、同時に私たちが心の底から理解すべきなのは、人生は想定外のことの連続であり、周りの人は、わけのわからない行動をする人が驚くほど多いということです。

 

私たちは活動範囲を広げれば広げるほど、わけのわからない人と出会う確率が高くなります。しかし、神は、それらすべてを把握しておられます。神にとっては想定外ということばはありません。

たとえば黙示録には、わけのわからないことが記されていますが、そのテーマとは、それらすべてを神は知っておられ、治めておられるということです。私たちはそのような神を自分の父と呼ぶことによって、わからない世界の中で、神の御霊を受けることによって、自分の心を制して生きることができるのです。全地全能の神が、あなたの心さえも守ってくださいます。

 

  わけのわからないことに対して、怒りを覚えるのは、人間として自然なことですが、「悪に悪を報いること」(ローマ12:7)は罪です。「主に信頼して善を行なえ、地に住み誠実を養え」(詩篇37:4)との教えを実践しましょう!

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2012年10月 7日 (日)

マルコ12章18-34節「原点に立ち返る」

                                                  2012107

 広島の平和公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。もう過ちは、繰り返しませぬから」と記されています。これは、まさに日本語らしい文章で、過ちを繰り返さないと誓っているのが誰かがぼかされている文章とも言われます。しかし、それはひとりひとりが静かに、戦争の原点に立ち返るきっかけを与える名文ではないでしょうか。

ただし、この公式な英訳は、Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evilとなります。そして、このとたん「私たち」とは誰なのかが問題になります。もし、アメリカ人がこの翻訳文を読んで、「日本人は、原爆投下は自分たちの罪のせいであると認めている・・」などと解釈するなら、それを思うだけで腹が立ちますが、広島市民はそのような誤解が起きる可能性にも耐えて、戦争の原点が、人が人を差別して憎しみ合うことに始まるという点に立ち返ろうとしています。

一方、平和記念館では、アメリカがいかに計画的に広島を原爆の人体実験のような場にしていったかということが冷静に解説されています。そこでは、米国への憎しみを駆り立てることなく、人間の残酷さ、罪深さに目が向けられて行きます。

今回の原発事故では、責任者が誰かが分からないことが大きな問題になっています。それを明らかにすることが今後の対策につながります。

しかし、そうであっても、誰かが誰かを一方的に非難しているうちは、戦いがやむことはないというのも事実です。それは現代の領土問題でも明らかです。中国や韓国の主張が冷静に報道されてこないといこと自体、とっても危ない気がします。

 

 イエスの時代の宗教指導者は、神の御教えを細かく分けて丁寧に研究していました。彼らは、毎日の具体的な生活の中で、何が神のみこころにかなうのか、何が神の御心に反することかを、ひとつひとつ区分けして行きました。それは、もう二度と、神の怒りを受けて、自分たちが約束の地から散らされるようなことがないためでした。

彼らは、大切な神殿をバビロン帝国に破壊され、自分たちの父祖がバビロンに捕囚とされた歴史を思い起こしながら、二度とそのようなことが起きないようにと、律法を守ることに熱心になっていました。しかし、その熱心さは、取税人や遊女のような罪人たち、異教の神を信じる者への軽蔑となっていました。

まるで、広島の記念碑に主語がないことを非難する人のように、人間の罪の原点を忘れていました。そして、彼らは、律法に対する歪んだ熱心さによって、ローマ帝国への独立運動を刺激し、国を守る代わりに、国を滅ぼす方向へと人々を駆り立ててしまったのです。

神への熱心さが、神の御教えの原点から離れてしまうということは、今も起こり得ることではないでしょうか。

 

1.「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」

 「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した」と記されますが(18)、同時期のユダヤ人の歴史家ヨセフスは、「サドカイ人は、魂は肉体とともに消滅するという教義を信奉している。彼らは書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない。この教義を知っている人は少数で、それは高位の人たちである・・彼らは無作法であり、乱暴であった」と記しています。

確かに旧約には、新約ほど明確には、死人の復活を保証している箇所はないように思えます。しかし、サドカイ人たちが復活を否定するのは、聖書の理解以前に、死後のいのちの祝福を期待する人が、現在の肉体の命を軽蔑し、権力者に戦闘を挑んでくるからだったと思われます。

当時の人々の中には、殉教の死を願う現在のイスラム過激派のような人がいました。サドカイ人たちは多くの既得権益を持って、額に汗を流して仕事をする必要がなかったので、革命主義者を恐れていたのです。

 

  そして、サドカイ人がイエスに持ち出した議論は、19-23節に記されていますが、彼らはまず、「先生。モーセは私たちのためにこう書いています」と言いつつ、申命記255-10節の要約を、もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない」とまとめました。

そこでは、子を残さずに死んだ夫の妻が、彼の兄弟との再婚によって夫の血筋を絶やさないことが、残された妻としての義務とされていました。それは、神から委ねられた土地を、責任を持って管理し続けるためでした。

 

  それをもとに彼らはイエスを困らせようと、「さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが」と質問しました。

これは当時の人々にとってあり得ないような話ではありません。なぜなら彼らは、旧約外典のトビト書にある、七人の男に嫁ぎながら初夜の前に先立たれ、八人目の男性との間で初めて子孫を残したサラという女性を英雄としてあがめていたからです。そして、その場合、復活の後、彼女は誰の妻なのかという疑問が出るのも無理からぬことです。

つまり、ある場合の再婚が義務として命じられているということは、復活がないということの何よりの証拠だと彼らは言いたかったのです。

 

それに対してイエスは、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです(24,25)と言いました。

当時のユダヤ人たちにとっては、神から与えられた土地を子孫に正しく相続させ、管理させるということが何よりも大切な神のみこころであると理解されていました。結婚は土地を子孫に残すための手段だったのです。それに対し、御使いは土地を所有せず、神との交わり自体を喜んでいます。

同じように復活後の世界では子孫を残す必要もなく、結婚は不必要になるというのです。当時は再婚に際してさえ、妻は最初の夫に縛られ続けましたが、主はこのことばによって、伴侶に先立たれた人に、新しい人生を始めさせる完全な自由を保障したのです。

 

  その上でイエスは、それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか(26)と言いながら、神がエジプトで奴隷とされているアブラハムの子孫に語りかけたご自身の紹介のことば、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(26節、出エジ3:6以降)を引用します。

その上で、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています」(27)と言います。これは何とも不思議な説明です。

 

 アブラハムもイサクもヤコブも、約束の地を与えるとの神の約束を聞きながら、旅人、寄留者として、地上の生涯を終えました。もし、彼らが、永遠に「死んだ者」であったとしたなら、神の約束は果たせぬ夢だったことになります。それで、イエスは、「神は・・・生きている者の神です」と言うことによって、彼らのための約束もずっと生き続けていると語ったのです。

来たるべき「新しい天と新しい地」は、この目に見える「天と地」をもとに、それが造り変えられる世界です。彼らの肉体は、新しい復活の身体の種のようなものです。彼らの肉体の死は、一時的な眠りのような状態と理解できます。彼らは、神の目には永遠に生きているのです。

私たちにとっての永遠のいのちとは、来たるべき新しい天と新しい地のいのちが、今から始まっていることを意味します。ですから、私たちも、自分に与えられた救いを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、今、私の神となられた。」と表現できるのです。

 

サドカイ人は目に見えるものに固執し、この世の成功を神の祝福、不幸を神のさばきと見ました。しかし、本当の幸せは愛の交わりにあり、それは目には見えにくいものです。この地での結婚は、愛を学ぶ学校です。愛することの難しさを体験し、天で完成する愛の交わりへの望みを育む関係です。

彼らの教えは地上の神殿と共に滅びました。復活を信じない者の末路はあわれです。損得を越えた愛の交わりの永遠性を信じないで、どこにいのちの喜びがあるでしょう。イエスの復活の教えは、死後の希望以前に、今ここでのいのちを喜ぶことにありました。

 

2.「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」

 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた」とありますが(28)、その律法学者とは、サドカイ人と犬猿の仲にあるパリサイ人でした。

なぜなら、マタイの並行記事では、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた(22:3435)と記されているからです。

 

サドカイ人とパリサイ人の考え方は対照的でした。ヨセフスは、「パリサイ人は、簡素な生活を営み・・数々の戒めを守ることに重点を置き・・・もし律法のために死ぬ必要があれば、喜んで死ぬような者にこそ神は復活を許し、より良い生を与えると信じている」と、彼らの高潔な道徳律を高く評価しています。

そのパリサイ人のひとりがイエスをためそうとして、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねたというのです。それは、当時の律法学者が、モーセ五書の戒めを613の部分に分け、どれが大切かについて熱い議論をしていたからです。

 

それに対してイエスは、「一番たいせつなのはこれです」と言いながら、申命記645節を引用して、「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と答えました(29,30)

ユダヤ人は毎日、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神(アドナイ・エロヒヌ)。主(ヤハウェ)は唯一である(アドナイ・エハッド)。あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい(ヴェ・アハヴタ・エット・アドナイ・エロヘハ)、あなたの心(心情)を尽くし、あなたの精神(魂、命)を尽くし、あなたの力を尽くして(ブコール・レヴァヴェハ、ブコール・ナフシェハ、ブコール・メオデハ)」と暗証しています。

 

このことばは、マタイの並行記事では、「聞きなさい・・」以下の部分が省かれて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と記されています(22:37)

また、ルカでは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と記されています(10:27)

このように異なった訳になるのは、ヘブル語の「力」に相当する言葉の翻訳が困難で、マタイでは「知力」、マルコやルカでは「知性」と「力」と訳されているからですが、これは本来、「満ち満ちて、あふれるばかりに」という意味です。

ですからこの命令は、自分の心、命、全存在を賭けて、何にも増して、あふれるばかりに「主を愛するという意味なのです。

 

紀元後135年、ユダヤ人の最高の律法学者として尊敬されていたラビ・アキバは、ローマ帝国からの独立運動に加担して殉教の死を遂げますが、彼は死の拷問を受けながら、朗々と「シェマー・イスラエル」と唱えつつ、にこやかに笑っていました。ローマ兵に「この老いぼれめが、こんな拷問にかかりながら笑うなんて・・・」と驚いて尋ねました。

それに対して彼は、「私は一生ずっとこのシェマーの祈りを唱えてきた。だがいつもこの命令を実行できているかどうか不安だったのだ。今、私はここに自分のいのちを神にささげる一方で、期せずしてこうしてシェマーの祈りを唱える機会に恵まれ、神への信仰を全うできているのを自ら確認できたのだ。だからこんな嬉しいことはない。どうして笑わずにおれようか」と答え、それを語り終えると同時に彼は息絶えたとのことです。

 

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということは、とてつもなく深い命令で、どこまでやってもきりがない安心が得られないという面があります。しかし、だからこそこの命令は、繰り返し、私たちを信仰の原点に立ち返らせてくれます。私たちは、この命令の前では、決して自分を正当化できなくなり、神の前に徹底的にへりくだるように召されるはずなのです。

これは人間的な熱心さでは全うできる命令ではありません。その点で、当時のパリサイ人たちは根源的な過ちを犯していました。確かにパリサイ人も、主への愛のゆえに命を賭けましたが、それは現代のアラブ人の自爆テロの心理に似ているかも知れません。そこには、自分の愛の崇高さを訴える思いと同時に、人をさばく思いや怒りがあります。彼らは自分自身から自由になる必要がありました。

 

3.「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

イエスは続けて、次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」と言われました。

この隣人愛の教えはレビ記191718節の最後の部分からの引用ですが、そこでは憎しみや恨みとの対比で隣人愛が説かれており、「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主(ヤハウェ)である」と記されています。

そこでは、隣人は「身内の者」や「あなたの国の人々」と理解することができました。

 

ヨセフスは、新約聖書の記述とは対照的に、「パリサイ人たちは、互いに愛し合い、共同体における調和を重んじた」と、彼らの生き方を高く評価しています。確かに彼らは隣人愛を実践していたのです。

ただし、ルカ10章では、彼らは、「隣人」の範囲を限定することで、自分の正しさを証明しようとしました。それで、イエスは、良きサマリヤ人のたとえで、通りがかりの人の「隣人になる」ことを勧めました(ルカ10:29-37)

イエスは、隣人愛を、肉のままの人間にとって不可能なレベルまで引き上げたのです。そして、ご自身、十字架にかけられながら、強盗の隣人となられたばかりか、自分を十字架にかけた人のために、父よ。彼らをお赦しください(ルカ23:34)と祈られました。

 

レビ記19章の文脈では、まず、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(2)と命じられています。それは、人間的な常識を超えた神の基準に従って生きることの勧めです。聖とはこの世界から隔絶した神の領域であり、その神の善悪の基準に従って生きることが命じられているのです。

そして、神の聖さにならう具体例が様々に記されますが、その中で特に、隣人を愛することが、「収穫の落ち穂を集めてはならない・・貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない・・日雇い人の賃金を朝まであなたのもとにとどめていてはならない・・目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない・・人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない・・・復讐してはならない・・・あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い・・」などと、極めて具体的な勧めが記されながら、最後には、「あなたがたといっしょの在留異国人・・をあなた自身のように愛しなさい(レビ19:34)と、隣人愛を在留異国人への愛として描いています。

石巻の金谷政勇先生は、在日韓国人としての差別に苦しみながら、このレビ記の記述に深く慰められ、それを卒論のテーマにされました。良きサマリヤ人のたとえは、実は、レビ記の必然的な適用例だったのです。

 

ただし、神の基準で隣人を愛するというのは、肉なる人間にとっては不可能の事のように思えます。それは、神の愛が私たちのうちに根づいて初めて実行できることです。

ですから、この隣人愛の教えは、自分自身を神に明け渡して初めて可能になることです。私たちが自分の弱さや自己中心性を心から認め、自分の力や知恵に頼る代わりに、自分の心を神に完全に明け渡して行くときに、イエスの御霊が私たちを造りかえてくださるのです。

 

4.「あなたは神の国から遠くない」

そこで、この律法学者は、イエスに向かって、「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と応答しました。

興味深いのは、神への愛と隣人愛を述べる前に、主が唯一であることを述べている点です。これこそ、聖書の核心であり、具体的な勧めはその必然的な結果として生まれるからです。

事実、レビ記19章では、「わたしはあなたがたの神、主(ヤハウェ)である」、また「わたしは主(ヤハウェ)である」ということばが繰り返されています。神への愛と、隣人愛は、私たちが私たちの神、主(ヤハウェ)を心の底から知った結果として必然的に生まれるものだからです。

 

そればかりか、この律法学者は、このふたつの愛を実践することは、「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と付け加えています。

人間はどうしても目に見える行為で自分や人を測りますが、何よりも大切なのは、私たちの心がどなたに、また、どこに向かっているのかということだからです。

 

そして、「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て」、「あなたは神の国から遠くない」と言われました(34)。このパリサイ人の答えは、まさにイエスの基準に達していたのです。

その後のことが、「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった」と記されます。これによってイエスと当時の宗教指導者たちとの対話は終わりました。イエスも彼らも、聖書の教えの核心は何かということでは完全に一致したのです。

 

では、イエスと彼らとは何が違うのでしょうか。イエスは、山上の説教の初めで、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。それは、自分の霊性の低さに悩んでいる者こそが、神の国にすでに入っているという逆説です。

パリサイ人たちは自分たちの霊性の高さを誇っていました。しかし、イエスは、「こんな罪人の私をあわれんでください(ルカ18:13)と祈った者が、神の前に義とされたと言われました。

 

 

律法の教えの核心とは、神を知ることです。知るとは、単なる知識ではなく、心の奥底からの体験を意味しています。私たちの神に対する愛も、隣人愛にも、必ず、自己中心性が潜んでいます。「私は真心から神を愛しています!」などと言い切れる人は、性格的に危ない面があります。それはパリサイ人への道です。

「人よ、罪に泣け」というドイツの讃美歌があります。それはタイトルとは違って、自分の罪深さを厳しく問うような歌詞ではなく、何よりも、神が自分の罪に泣く罪人のためにご自身のひとり子を世に遣わしてくださったという信仰告白の歌です。

 

すべての戦争は、「私たちは正しく、相手は間違っている」という発想から始まります。日本にいると韓国人の竹島の要求や、中国の尖閣諸島への要求が、理屈の通らない不当なものに聞こえます。しかし、中国人も韓国人も、日本こそ自分の過去の侵略戦争を正当化し、なおも、自分たちの領土に対する支配権を主張する傲慢な国だと思っています。そして、それぞれの国内では、過激な発言をする人の方が愛国者と見られ、他国の主張を正確に報道などしようものなら、売国奴のように非難されます。これはとっても危険な風潮ではないでしょうか。

相手の国の論理、相手の発想に共感できなくなったら、対話は成り立たなくなります。偏狭な熱心さほど危ないものはありません。

確かに、イエスの時代のサドカイ人は、理想を軽蔑し、ローマ帝国に妥協することで国の根幹を揺るがしましたが、パリサイ人は偏狭な理想を追求しすぎて、国を破滅に導きました。両者とも、信仰を人間的な働きとしか理解せずに、自分たちの立場を正当化していました。それこそ自分を神としたアダムの罪の問題です。

しかし、信仰とは、自分の弱さや愚かさを知る人のうちに働く神のみわざなのです。神の基準を人間的なものに下げるのでもなく、人間的な熱心さによって、理想を達成するのでもなく、神の理想を神のわざによって全うするのです。

 

イエスの母マリヤは受胎告知を受けたとき、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と答えました。これは、ESV訳では、Let it be to me according to your word."と訳されています。

Let it be とは、何よりも自分の力を抜くことの教えです。力を抜いて、神に自分の身を差し出す、そこに神の力が働きます。

マリヤのすばらしさは、何よりも、自分を神のしもべとして位置付け、自分の力や知恵の弱さを徹底的に理解しながら、神のみわざが自分のうちになされることを期待したことにあります。

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