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2012年11月25日 (日)

マルコ13章24-37節 「世界の終わりと思える中で」

                                                20121125

 マルコの福音書13章は、しばしば世界の終わりに関する預言として理解されてきました。しかし、文脈から明らかなように、直接的なテーマはエルサレム神殿の崩壊に関することです。

もちろん、これをキリストの再臨に関する教えと理解しても現代への適用は、基本的に変わりはしません。そのことを宗教改革者マルティン・ルターは、「たとい世界が明日滅びると分かったとしても、それでも私は今日、りんごの木を植えるだろう」と言いました。

 

 歴史上、世界の終わりとも思える悲惨は何度も繰り返されてきました。たとえば宗教改革から約百年後の1618年から48年に、全ヨーロッパを巻き込む三十年戦争が起きました。最初はチェコのプロテスタント貴族がオーストリアのハプスブルグ家のカトリック勢力による弾圧に反発したことから始まった小競り合いが宗教戦争を超えて領土争いに発展したものですが、これによってドイツの人口は1800万人から700万人へと半分以下に激減したと言われます。被害のほとんどは傭兵による略奪から生じました。

しかし、ドイツの教会が誇る最も美しい讃美歌の数々はこの時期に生まれたものです。暗闇のただ中で、キリストの福音は人々に生きる力と希望をもたらしました

 

そして、この13章に描かれた様々な苦難の預言もイエスの時代から40年以内に次々と実現して行きました。使徒パウロが、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)と書いたときのローマ皇帝は悪名高きネロの時代でした。彼はそれ以降、どんどん残虐になり実の母を殺し、自分の家庭教師だった哲学者セネカを自殺に追いやりました。

特に、紀元64年にはローマ市の大改造のために放火を命じたとも疑われていますが、その火は七日間燃え続けローマ市の三分の二あまりを焼き尽くしました。ネロはその責任を一方的にクリスチャンに押し付け、多くの信仰者を虐殺し、ついには使徒ペテロやパウロまでも殺します。

ただその後各地の軍団に皇帝への反乱の動きが広がり、彼は686月に自殺に追いやられます。その後、帝国は内乱状態に陥り、一年四か月あまりのうちに三人の皇帝が立てられては殺されます

なお、ネロ時代の末期の66年に大規模なユダヤ人の独立戦争が起きますが、将軍ウェスパシアヌスがそれを次々に弾圧することでローマ人の支持を集め、6910月には皇帝に推挙されます。それとともに帝国は安定に向かい、彼の息子ティトスが709月にエルサレムを滅ぼします。

 

イエスは当時の政治状況を見ながら、民族は民族に敵対し、弟子たちが迫害され、エルサレムがローマ軍に包囲されることを「前もって話し」てくださいました(23)

イエスは遠い将来のことを抽象的に語られたというよりは、目の前のご自分の弟子たちの身を案じながら、彼らが試練に耐えられるようにと語られたものでした。

 

しかも、この記述は現在の日本の政治の混乱と天変地異、原発事故、国家財政の危機という現実にも重なっていいます。

福島第一原発から5㎞のところにあった福島第一バプテスト教会の佐藤彰先生は、ご自分の誕生日が311日であったことを含め、神は自分をこの未曽有の危機の中で生かすために、すべてのことを整えていてくださったと言っておられます。彼が最初に書いていた本自体がこのマルコの福音書を読む手引きでした。

大患難の前に天に引き上げられるというのではなく、大患難の中でいのちを輝かせるための教えがここに記されています。

 

1. 「その苦難に続いて、太陽は暗くなり・・星は天から落ち・・」

 マルコ13章の記事は、ヘロデ大王が大拡張工事をしたエルサレム神殿の崩壊のことから始まります。この神殿は、当時の世界で最も美しい建造物と呼ばれ、エゼキエルに預言されていた神殿の二倍の広さの敷地を有していました。

そして神殿を巡る戦いは、14節の「荒らす憎むべきもの」によって神殿が汚されることを通して激しくなります。これはダニエル書で繰り返されていることばですが(9:27,11:31,12:11)、それは神の民に一時的な苦しみの時ではあっても、それを通して神の国が完成に導かれるという希望のときでもありました。

イエスの時代から約200年前には、アレキサンダー大王が築いた大帝国の中東部分の支配者となったアンティオコス・エピファネスが神殿を汚したとき、ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人の軍隊が神殿のきよめに成功しました。イエスの時代の人々が期待した救い主とは、ユダヤをローマ帝国の支配から解放するそのような軍事指導者でもありました。

しかし、イエスはここで、神殿を汚すのは異教徒とは限らないということを示唆し、そのようなことが起こったら、戦う代わりに一目散に逃亡することを勧めました。

しかも「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい(14)とは、エルサレムを包囲するローマ軍の本拠地が置かれるオリーブ山に逃亡し、ローマ軍に投降することを示唆しています。

 

  その上でイエスは、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう(13:1920)と言いながら忍耐を勧め、同時に、にせキリストや誤った教えを広げる偽預言者などに気をつけるようにと警告しています。

そして、その際に起きる天変地異に関して、「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます(13:2425)と描かれます。

多く人々がこの箇所を読みながら神の残酷さに恐れを抱いたり、また、ときにはこの目に見える世界はどちらにしても崩れるのだから原爆を投下したり、環境破壊が進むことに心を痛める必要がないと言う人さえいます。

残念ながら19世紀のアメリカでは、信仰者の望みは、このような地上の混乱や大患難が来る前に、天に引き上げられることであるなどと、目に見える世界に対する人間の責任を軽視する神学が生まれました。

 

しかし、それは旧約の預言書の描き方に対する無知から来る解釈です。神のさばきは何よりも、自分を神として神の民を苦しめる者に対して起こることと記されています。

たとえば、イザヤ13910節では、バビロン帝国の滅亡の様子が、「見よ。主(ヤハウェ)の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない」と描かれています。

またエゼキエル327節などでも、自分を神の化身と誇るエジプトの王パロに対するさばきに関してほとんど同じ表現が見られます。つまり、預言書の文脈では、「太陽が暗くなり・・星は天から落ち・・」というのは、物理的な現象であるというよりは、この世の栄華を誇る者に対する神のさばきの象徴的な表現と言えましょう。

そしてそのメッセージとは、神の民がこの世の悪の帝国と戦わなくても神が裁いてくださるというものです。

 

またイザヤ2421-23節では、その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる」と、サタンとその勢力、および地上の権力者に対する神のさばきが執行されるときの様子が、「月ははずかしめを受け、日も恥を見る」と描かれながら、それと同時に、「万軍の主(ヤハウェ)がシオンの山、エルサレムで王となる」と記されます。つまり、そのときはこの世の王国が滅亡する一方で、イスラエルの神ヤハウェが全世界の王としての栄光を現すときであるというのです。

また、ヨエル23132節では、「主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」と恐ろしいことが描かれながら、同時に、「しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」と記されます。パウロはそれを前提に、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と断言します(ローマ10:12)

とにかく、預言書によると、恐ろしい天変地異は、神がこの世界を新しくしてくださるという希望のときなのです。

 

2.「人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」

 そして、イエスはこのときのことを、「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」(13:2627)と描きます。これに関しても、しばしばこれがキリストの再臨と、約束の地に世界中のユダヤ人が集められるときの預言であると理解されます。

しかし、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る」とは、明らかにダニエル713節からの引用です。そして主はこの数日後に、ユダヤの最高議会に立たされたとき、大祭司の質問に対しご自身が「キリスト」であることを認めたうえで、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」と言われました(14:62)。そして、それを聞いた大祭司はこのことばを神への冒涜と唱え、全員一致でイエスを死刑にすることが決められました。

ここで大祭司は、イエスのことばを再臨預言と理解したからではなく、イエスは「今からのち」、ご自分こそが父なる神の右の座に着く者、神の栄光の座を共有する者であると言われたことを神への冒涜と受け止めたのです。

実際、ダニエル書では、「天の雲に乗って来られ」とは、この地への下降ではなく(「来る」は「行く」とも「現れる」とも訳される)「年を経た方(父なる神)のもとに進み、その前に導かれた」という上昇の動きであり、その目的は、「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった」という、キリストが全世界の王となるときを指しています。もともと、「雲」はキリストを運ぶ乗り物ではなく(孫悟空ではない)神の栄光に包まれることの象徴表現です。

そしてまた、イエスが言われた「四方からその選びの民を集めます」とは、この全世界の民がイエスに仕えるという異邦人宣教を含めたことを指しています。私たちキリスト者はすべて、自分の意志でイエスを主と告白するようになったという以前に、神によって選ばれ、聖霊によってキリストのからだである教会に集められた者です。

 

今、私たちの教会では新会堂の献堂式に向けてハレルヤ・コーラスの練習をしていますが、キリストが「王たちの王、主たちの主」となられたという賛美は、キリストの再臨という将来の希望を歌うものではなく、主の十字架と復活によって、キリストの支配が全世界に広がっていることを告白する、現在の霊的な現実を確認する賛美です。

 

その上でイエスは、「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(13:2829)と言われました。

「これらのことが起こる」とは、7節の「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こる」ということや、9-14節に描かれたキリストに従う者が「みなの者に憎まれます」という迫害や、神殿に荒らす憎むべきものが立つようになることを指しています。

そして、「人の子が戸口まで近づいている」ということばも、新改訳の脚注にあるように「そのこと」と訳すことができます。ルカではこのことばを、「神の国は近いと知りなさい」(21:31)と記録しています。

つまり、これはキリストの再臨ということ以前に、ダニエルが預言した「人の子の栄光の現れ」という広い意味のことを指しています。たとえば、この40年後にエルサレム神殿が滅ぼされることも、それを通して、イエスご自身こそがまことの神殿であること、また、福音が全世界に広まり、人々がそれぞれ置かれている場でイエスの御名によって、父なる神を礼拝するということが実現する契機となったことです。

神殿崩壊という悲劇は、キリストが全世界で王として認められる新しい時代の始まりでもあったのです。

 

ルカの福音書2120-28節では、より明確に、「エルサレムが軍隊に囲まれ・・・エルサレムは異邦人に踏み荒らされ・・人々は・・恐ろしさのあまり気を失い・・」と描かれながら、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る(現れる)のを見る」と記されます。

そして、「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と断言されます。不思議なのは、「人の子の栄光の現れ」が、人々が気を失うような恐怖の時とセットで描かれていることです。つまり、「人の子の栄光の現れ」で、この地のすべての問題が解決するわけではありません。それは「贖いが近づいた」ことのしるしに過ぎないのです。

なお、「贖い」とは、全世界が神の平和で満たされるという「新しい天と新しい地」に、私たちが復活の身体をもって入れられるという歴史のゴールのときを指しており、目に見える現実の世界では、キリストの栄光の現れと世界の混乱が同時並行して続くのです。それこそ黙示録のテーマです。

そして今、私たちに求められていることは、それらの苦難や恐怖のただ中で、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げる」ことなのです。私たちは世の中が暗くなればなるほど、反対に、世界の完成が近づいたと信じて、勇気に満たされてこの世に遣わされることができます。

 

3.「これらのことが全部起こってしまうまでは、この世代は過ぎ去りません」

そして133031節のイエスのことばは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この世代は過ぎ去りません。この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることがありません」と訳すべきでしょう。新改訳で、「天地は滅びる」ということばは、「過ぎ去る」と同じギリシャ語が用いられているからです。

ここでは、過ぎ去る」という言葉が三度用いられながら、「この世代」、また「この天地」が「過ぎ去る」ことと、イエスの「ことばが過ぎ去ることがなく永遠に残るということが対比されて記されています。

 

なお、「この世代」とは、闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える不条理が支配する時代を意味するとも考えられますが、より直接的には、イエスの十二弟子たちの「世代」を指すと解釈できます。つまり、エルサレム神殿の崩壊という悲劇は、イエスの最初の弟子たちの「世代」の間に起こるというのです。

 

そして、イエスの預言が次々と成就する中で、弟子たちは、この目に見える天と地が過ぎ去るというときの後の時代の実現をも確信することができました。この世界の歴史は、「初めに、神が天と地を創造された」から始まりましたが、様々な悲惨をくぐり抜けながら、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)という時代に向かっているからです。

神のみことばが、この世界の歴史を動かしています。ですから、私たちは、この世の流れに惑わされず、いつでもどこでも、神のみことばによって、世の流れを見定める必要があるのです。

 

  そしてイエスは同時に、この世界に苦難が来れば来るほど、誤った教えも広がるということを語っておられます。その点で、32節以降は偽預言者を見分ける最高の基準になります。

そのことをイエスは「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです」と言われました。

大きな苦難とキリストの栄光の現れのときである「その日」がいつであるかを、父なる神以外の誰も知らない、「子」であるイエスご自身も知らないというのは、驚くべきことです。

キリストすら知らないことを人間は知ることはできません。ですから、世の終わりを計算しようとすること自体が偽預言者への道であるということになります。

 

 イエスの時代にはダニエル書が愛読されていました。その9章では神の国の完成に至る七十週のことが記されていますが、当時の律法学者の中には、七十週が満ちるのがいつであるかを計算するのが盛んで、それが自分たちの生きている世代に実現すると思う人が多くいました。そこでは終わりのしるしとして「荒らす忌むべきものが翼に現れる」(9:27)と描かれながら、そのときこそ神の圧倒的な勝利が現れると記されていました。

それで彼らは皮肉にも、ローマ軍をゲリラ活動によって挑発することで、この終わりの時を自分たちのもとに引き寄せようとしていたのです。つまり、彼らはダニエル書の誤った解釈によって、独立運動を加速させ、自滅に向かっていたのです。

 

  それに対しイエスは、神の栄光の現れのときを待つとは、神から今ここで与えられている課題に誠実に向き合うことであるということを不思議なたとえで説明されました。

そのことが34節以降で「それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」と記されます。

 

なお、ここでは旅に立つ人が、「しもべたちに権限を与えた。それぞれの働きに対して」と原文では記されています。主人は、しもべたちそれぞれに課題を与えながらそこに、自由裁量権を与えたのです。

彼らには自分の知恵と力を発揮して、主人から与えられた働きを遂行することが求められており、その成果が問われています。

 

ただ、同時にイエスはその中で特に「門番」の働きに焦点を当てます。その責任は何よりも目を覚まして門を見張ることです。私たちには常に、適度な睡眠が必要ですが、ここでは「目を覚ましているように言いつける」「だから目を覚ましていなさい」「目を覚ましていなさい」とこのことばが三度も繰り返されます。

ただし、これは課せられた職務に忠実であることが求められている意味であって、緊張状態を保ち続けること以上に、いつ主人が帰ってきても働きの報告ができる状態にしておくということが命じられていると捉えるべきでしょう。

たとえば、銀行の仕事などでは、その担当者が突然いなくなっても、別の人がその仕事を継続できるという説明責任が問われています。それと同じように、私たちはいつでも神に対して、自分の働きを報告できるように準備しておく必要があります。

 

 なお、この「目を覚ましていなさい」ということばはキリストの再臨の時に結びつけて考えられがちですが、イエスの話の目的は、何よりも、目の前の弟子たちに向かって、エルサレム神殿の崩壊という未曽有の悲劇にどのように対処すべきかを「前もって話すことにあったということを忘れてはなりません。

ここに弟子たちに対するイエスの愛が見られます。不安が迫ってくるとき、多くの人々は浮足立ってしまい、目の前の小さな働きが疎かになってしまいがちです。

しかし、大切なのは、今ここで、主から任されている働きに忠実であることなのです。それは門番に何よりも問われていることが「目を覚ましている」ことと同じです。

ですから、「目を覚ます」という行動ばかりに目が向かうような解釈は問題でしょう。問われているのは、与えられた仕事への忠実さであることを忘れてはなりません。

 

 イエスは、この世界で自分たちの富と権力を誇る国々が必ず滅亡するという現実を告げられました。そして、そこで私たち自身もその混乱に巻き込まれて苦しまざるを得ないということを「前もって話し」てくださいました。この世の様々な混乱は、キリストがあらかじめ語ってくださった通りのことが起きていることでもあるのです。

そこで私たちに求められていることは、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げ」ること、また、「割り当てられた仕事」を、自由裁量権を生かしながら、責任を持って果たして行くことなのです。

神は、この世の混乱の中で、ご自分のしもべたちが光り輝いて生きることを望んでおられます。神の国はキリストの弟子を通して世界に広がって行きます。この世界の混乱の理由を尋ねる以前に、この閉塞感に満ちた世界で、どのように生きるかが問われているのです。

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2012年11月18日 (日)

ホセア4章1節~6章3節「主を知ることを切に追い求めよう」

                                                 20121118

  私は昔、浄土真宗に興味を持ったことがあります。その開祖親鸞は、自分の心の醜さや弱さに正面から向き合った結果、自分の修行の力によって悟りを開くことは無理であるということに気づき、ただ御仏のあわれみにすがるしかないという結論に達しました。その際、どんな罪人をも救ってくださる方が、阿弥陀仏として紹介されます。しかし、その方は歴史上の人物としては記録されてはいませんし、どのような方であるかもほとんど分かりません。浄土真宗では阿弥陀仏の実在性よりも、私たちのうちに救いを求める心が芽生えていること自体が大切なのだと説かれます。

そしてこのように日本の宗教では多くの場合、私たちを救ってくださる方がどのような方であるかよりも、人間の心に芽生えた信心の方に焦点が与えられます。そこから「いわしの頭も信心から」などという発想が生まれます。何をまたどなたを信じるかの大切さが脇に追いやられることから、日本的な混合宗教が生まれてきます。

 

 そして、かつて混合宗教を作って自滅した国が北王国イスラエルです。そのような民に対して神は、何よりも、「主を知ること」こそが、信仰にとって何よりも大切なのだと強調します。主はときに、圧倒的な恵みによって、また反対に、圧倒的な苦しみを通して、ご自身がどのようなお方であるかを私たちに示してくださいます。

 

1.「彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている」

4章は原文では「聞け、主(ヤハウェ)のことばを。イスラエルの子らよ」ということばから始まり、「主(ヤハウェ)はこの地に住む者と言い争われる」と言われながら、イスラエルの地における問題が、「この地には真実(エメット)がなく、誠実(ヘセド)がなく、神を知ることもないからだ」と描かれます。

「真実」、「誠実」、「神を知ること」は、神のかたちに創造された者に何よりも求められている生き方です。そして、これら三つの要素こそがこのホセア書のテーマであり、特に、「主を知る」ということばは、63節でも繰り返され本日の箇所の核心です。

 

当時の北王国イスラエルの問題は、ヤロブアム一世がソロモンの息子レハブアムからこの国を独立させたとき、自分の支配下の人々が南王国ユダの首都エルサレムの神殿に礼拝に行く必要をなくすために、金の子牛を二つ作り、北ノダンと南のベテルに勝手な礼拝の場を作ったことに始まります。

そして特にベテルではレビの子孫ではない者を祭司に任命し、彼らにベテルの祭壇でいけにえをささげる勝手な礼拝の形を作らせました。そのため北王国イスラエルではその最初の段階から、神のみこころに真っ向から反する、カナンの宗教と混合したような礼拝の形が発展して行きました。

彼らは神の望む礼拝ではなく、自分が満足できる礼拝の形を発展させて行きました。そのような中で、イスラエルの民は神のみこころをますます見失って行ったのです。

 

そして、「真実」、「誠実」、「神を知ること」との反対の現実がこの地に見られることが、「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる」(4:23)と描かれます。

 

そして、4節の初めは上記の悲惨な現実を前提として、主ご自身が、「誰にもとがめさせてはならない。誰にも責めさせてはならない」と言っておられるという意味に訳すことができます。

そして、主はその上で、「しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる」と言われます。イスラエルの民の中で、自分たちの道徳的退廃に心を痛め、それを正そうとする人々が出てきたことでしょうが、神は、その退廃の根本的原因は祭司にあるということを指摘します。

 

そして主は祭司たちに向かって、「あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく(4:5)と言っておられますが、これは彼らが預言者と共に自分たちがどこに向かっているかをまったく知ってはいないという現実を指しています。

そして主は、「わたしはあなたの母を滅ぼす」と言われますが、これは神がイスラエル民族を滅ぼすという意味です。そしてその理由が、「わたしの民は知識がないので滅ぼされる(4:6)と記されます。

 

祭司の堕落によって、イスラエルの人々が神を知ることができなくなりました。彼らは「知識がない」ために、神の怒りを買うようなことを平気で行いました。無知は言い訳になりません。それは特に祭司に当てはまります。神は彼らに向かって「あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう」と言われます。

忘れることが罪であるというのは、たとえば、第二次大戦の悲劇や原爆の悲惨さを忘れること自体が罪であると考えれば誰でもわかることでしょう。

 

そして、7節では「彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した」と記されますが、これは北王国イスラエルがヤロブアム二世のもとで全盛期を迎え、宗教活動が盛んになったことの結果を指します。そのような中で祭司の数もどんどん増えて行って、神の怒りを買うような礼拝の形をどんどん発展させてゆきました。

それに対し神は、「わたしは彼らの栄光を恥に変える」と、彼らの繁栄をたちどころに滅ぼすことを警告します。

 

  そのような中で8節の「彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている」という表現は、当時の祭司たちの問題を赤裸々に表しています。人々は罪を犯したときに、罪を償うためのいけにえをささげますが、祭司たちは人々がより大きな罪を犯して、より大きないけにえをささげてくれることを密かに望んでいたというのです。それは、「罪過のためのいけにえ」の肉は祭司のものとなりますから、彼らは豊かになります。

祭司たちは人々の「咎」によってより裕福になることができました。「だから、民も祭司も同じようになる(4:9)とは、祭司たちは民の堕落から利益を得るので、祭司も民もいっしょになって堕落することを指します。それに対して主は、「わたしはその行いに報い、そのわざの仕返しをする」と、彼らの堕落に対してさばきを下すと言われます。

 

 「彼らは食べても、満たされず、姦淫しても、ふえることはない」(4:10)とは、彼らが「もっと、もっと・・」という依存症の症状になっていることを意味します。「(ヤハウェ)を捨てて、姦淫を続け」ては誰も満足を得られません。

そして、依存症の典型がアルコール依存症なので、「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる(4:11)と記されます。

 

  1213節ではその混合礼拝の様子が、「わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。彼らは山々の頂でいけにえをささげ、丘の上、また、樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で香をたく。その木陰がここちよいからだ」と記されます。

 

日本でも本来まったく違った教えのはずの仏教と神道が同居している礼拝施設が数多くあります。本来、仏教は人生の空しさを説き、様々な欲望から自由になる道を教えるはずです。一方、神道は、人生の暗い部分に囚われず、人間の内側に隠された生命力や願望を徹底的に肯定します。

どちらも真理の一面をついているようですが、これを調和させようとすると、それをできる自分の価値観を肥大化させることになり、そのときの状況によりただ、「ここちよい」状態を求めることになりかねません。

しかし、それでは、信仰によって自分の囚われから自由になるという飛躍の力が失われます。異なった信仰の良いとこ取りをする者は、信仰のいのちを失ってしまうのです。

 

それは、当時のイスラエルでも起きました。聖書の教えとカナンの礼拝形式が混合された結果、創造主との交わりから生まれるいのちの喜びが失われ、人間の堕落をますます助長するような宗教が生まれました。

 

2.「わたしはエフライムを知っていた・・・彼らは主(ヤハウェ)を知らない」

「わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が姦通をしても罰しない」(4:14)というのは皮肉に満ちた表現です。親が子供に罰を与えるのは、子供がより大きな苦しみを味わうことがないようにと、子供を矯正するためです。

しばしば、会社生活の中で、「叱ってもらえなくなったら、あなたはもう終わりだよ・・・」と言われることがあります。それと同じことが神と人との関係にも言えます。神はこのときイスラエルを見放すことに決めたというのです。そして、その結果が、「悟りのない民は踏みつけられる」と記されます。

 

 「ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない」とは、それらの町にバアル礼拝の神殿があったからですが、「ベテ・アベン」とは、ベテル(ベト・エル「神の家」)を「悪の家」と読み替えたのだと思われます。そして、そこで「主(ヤハウェ)は生きておられる」と言って誓ってはならない」とは、バアル礼拝と主(ヤハウェ)の礼拝をまじりあわせることがないようにという勧めです。

そして、16節の後半は新共同訳のように「どうして主は、彼らを小羊のように広い野で養われるだろうか」と神のさばきの意味に訳した方が文脈に合っています。

 

 17節以降では、神がイスラエルを堕落するままに放置されたことがまず、「エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ」と記されます。エフライムとはヨセフの長子、北王国イスラエルの中心部族ですが、「彼らは飲酒にふけり、淫行を重ね、彼らのみだらなふるまいで恥を愛した(4:18)というのです。

また、19節では「風はその翼で彼らを吹き飛ばす」とありますが、「風」と「」とは同じヘブル語ですからこれは、12節の「姦淫の霊」を指しており、それによって彼らが自分を失って行く様子が、「自分たちの祭壇のために恥を見る」と描かれます。

 

5章の初めでは「祭司たち」、「イスラエルの家」、「王の家」それぞれに対し、繰り返し、神のさばきの警告に耳を傾けるようにと勧められています。「あなたがたはミツパでわなとなり、タボルの上に張られた網となった」とは、かつてイスラエルが勝利を収めた記念の町において彼らが敗北と途端の苦しみを味わうことが告げられます。

 

  そして34節で、主は、「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主(ヤハウェ)を知らないからだ」と嘆いておられます。

ここでは「知る」ということばが鍵です。それは単なる情報的な知識ではなく、主体的にその対象を深く愛し、そこに自分を賭けてゆくという意味があります。

神はエフライムを選び、彼に期待し、彼を通してご自身の栄光を周辺の国々に知らせようとしておられました。ところが、エフライムの側では主なる神を知ろうともしないというのです。ここでは、彼らが偶像礼拝にうつつを抜かし、それにおぼれ、「神に帰ろうとしない」理由が、「姦淫の霊が彼らのうちにあって・・主を知らない」と記されています。彼らが主の愛を知ろうとしていたなら、彼らは主のもとに帰ってくることができたはずです。

これは、放蕩息子が父の愛を知ろうとせずに、自由を求めて遠い国に行き、生活が行き詰まって初めて父の愛に気づくことに似ています。

しばしば、子供は親の愛を疑います。親がその子供の弱さを知り、その子の将来を心配して様々なアドバイスをすればするほど、子供は反対に、自分は親から嫌われ、信頼されてない、愛されていないと勝手に思い込んでしまうということがあります。

神とエフライムの関係も同じような悪循環に陥りました。そのとき神は、エフライムにやりたいようにやらせ、自滅するのを見守ることしかできないと思われたのです。

 

  5節では、「イスラエルの高慢はその顔に現れている」と記されますが、これは彼らが自分たちに注がれてきた神の愛を忘れ、自分の力で豊かになったかのように思っているからです。そしてその結果が「イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく」と記されます。

自分の知恵や力に頼っている者はどこかで大きくつまずいてしまうものです。その上で不思議にも、「彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主(ヤハウェ)を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ(5:6)と記されます。イスラエルの民が羊や牛のいけにえを携え、主を尋ね求めても、主がご自身を隠してしまわれるからです。

ヘブル36節では、「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」と記されます。福音が心に響くうちにそれを感謝して受け止めないと、その後に悲惨が待っています。

 

「彼らは主(ヤハウェ)を裏切り、他国の男の子を生んだ。今や、新月が彼らとその地所を食い尽くす」(5:7)とはゴメルが姦淫によってロ・アミ「わたしの民ではない(1:9)という名の男子を生んだことを思い起こさせます。

彼らは偶像礼拝の子孫を増やしますが、彼らは豊穣の神バアルを礼拝することで皮肉にもますます困窮して行きます。

 

3.「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう」

58節からは北王国イスラエルがアッシリヤ帝国によって滅ぼされてゆくプロセスが描かれます。ここに記された町ベテ・アベンはベテルの事ですから、エルサレムの北西の町ギブアから北に向かってラマ、ベテルと続くベニヤミン族の町が敵の来襲を知らせる角笛を吹き鳴らしながら、北のエフライムはパニックに陥るというのです。

 

 1112節では、「エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる」と記されますが、これは偶像礼拝にうつつを抜かした民にとって、神はしみや腐れのように、内側から彼らを滅ぼしてしまう敵となるという皮肉です。

そしてその上で、「エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、(ユダは)大王に人を遣わした」と描かれます。

並行法の原則からすると大王の前にユダという主語を入れて解釈すべきかと思われます。ユダの王アハズはアッシリヤの大王との同盟を画策したからです。その結果は、「しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない」と記されます。

 

続けて主は、「わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない」と言われます(5:14)。これは、エフライムやユダが真に恐れるべきはアッシリア帝国である前に神ご自身であるということです。

そして、15節では、「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていようと記されますが、これは神がしばらくの間、民の真ん中に住むことを止め、彼らから離れて、天の高い所から彼らが自滅するのを見下ろしているという意味です。

そして、「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」とは、彼らがとことん苦しんで初めて、カナンの神々がもう頼るに値しないということに気づき、神を捜し求めるようになるという意味です。

 

6章では、イスラエルの民が神に立ち返る様子が、「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ」と描かれます。これは51415節の主のさばきとは逆転した神の救いが与えられる様子を記したものです。

そして、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」とありますが、これは多くの英語訳では、「After two days he will revive us; on the third day he will raise us up, that we may live before him.」と訳されます。

二番目の文章は、「彼は三日目に私たちを復活させる」とも訳すことができることばです。これは聖書で最も古い復活の記事であると言われ、これがイザヤやダニエルの記述に影響を与えているとも言われます。

パウロが、「キリストは・・・聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた(Ⅰコリント15:4)と言ったとき、このホセアのことばを思い起こしていたという解釈もできます。

 

最後に、「私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主(ヤハウェ)を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される」と、イスラエルの民が、主を知ることを熱心に求めるようになる様子が描かれます。

ただ、ここには15節で期待された「自分の罪を認め」た様子が描かれていないので、彼らの回心は一時的なものに過ぎなかったとも言われます。

 

それにしても、本日の箇所では、「神を知ることもない」民が、「私たちは、知ろう。主(ヤハウェ)を知ることを切に追い求めよう」と告白するようになるという変化を遂げることが強調されているという点で、主が彼らを懲らしめたことの成果が見られます。主は無意味にご自身の民を苦しめはしません。

またここで主の現れが「」として描かれるのは、それこそ彼らが豊穣と嵐の神バアルに求めていたことだからです。イスラエルの民は自分たちの苦しみを通して、彼らの救い主は、バアルではなくて主(ヤハウェ)ご自身であることを認めるようになるというのです。

 

 私たちは様々な出来事を、神の存在を抜きにした原因結果の関係で考える癖がついています。しかし、信仰の世界の中では、人間の最大の罪とは、「神を忘れること」にあります。

そのことが、詩篇14篇では、「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている・・・彼らはみな、離れて行き、誰もかれも腐り果てている」と記されています。

神を求めようとしないことこそが最大の罪であり、私たちの様々な腐敗した行動は神を忘れたことの結果なのです。目に見える行動以前に、心の方向が問われています。

 

この世界で一番迷惑な人間は誤ったことに熱心になる人です、かつて日本を破滅に追いやった人は、みんな熱心な人でした。本当に大切なのは、熱心に奉仕に励むこと以前に、落ち着いて神の救いのご計画に思いを馳せることです。それは古代教会の砂漠の修道指導者が、「忙しさとは霊的な怠慢である」と言った通りです。

 

そして、「主を知る」とは、「主を愛する」ことでもあります。たとえば、あなたの身近な人は、親切の押し売りよりも、自分の話を理解し、必要に寄り添ってくれることを望んでいます。

しかも、ホセア書にキリストの復活を示唆する記事があるのは驚くべきことです。私たちの人生はこの目に見える世界だけで終わるものではありません。神は私たちの心の内側に永遠への思いを与えてくださいました(伝道者3:11)。ですから、私たちは主の救いのご計画を創世記から黙示録までの全体を通して理解する必要があります。それは決して難しいことではありません。その鍵がホセア書に記されています。

神はご自身の民を、何度も裏切られながらも愛し続けてくださった。そして、神は何よりも私たちがますます深く神を知ることを、また、繰り返し神のもとに帰って来ることを望んでおられます。

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2012年11月 4日 (日)

ホセア1章―3章「浮気女を怒り、愛する神」

                                                  2012114

 多くの人々は、自分の心の醜さや弱さに失望しながら、もっと輝いた人間に変わりたいと思って、神を求めるようになります。

また、人によっては、「あなたは毎週教会に行っているわりに、人格的な成長が見られないわね・・」などと言ってくれる人もいます。世の人々も、教会を、高潔な人間になるための修練の場かのように期待します。

 

ところが、聖書に最初から記されているのは、目を覆いたくなるような家族のスキャンダルであり、戦争の描写であり、様々な誘惑にすぐに負けてしまう人間の歴史です。そこに記されている物語の核心は、道徳ではなく、ラブ・ストーリーです。そして、その代表格こそホセア書です。

神が私たちに何よりも求めておられることは、私たちが世の人々から尊敬される人格者になること以前に、神との愛の交わりを築き、深めることです。そして、神が私たちに対して何よりも怒りを発せられるのは、私たちが霊的な浮気をして、別の神々に救いを求めることです。

 

神と人との関係は、夫婦関係に似ています。はたらか見たら、何とも不思議な組み合わせでありながら、当人たちは極めて幸せそうにやっているというのもあります。その機微は、部外者には分かりません。それは神と私たちの関係に似ています。

主イエスは、偽預言者、神を冒涜する者、ペテン師として十字架にかけられました。その弟子が周りの人から尊敬されなくて、何の不思議がありましょう。問われているのは、神との愛の交わり自体です。

 

1.「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ」

 ユダヤ人の伝統の中では、小預言書は「The Twelve(十二)」と呼ばれ、ひとつの巻物の中に、現在の私たちの聖書の順番で記されていました。それぞれ著者も時代のテーマも違うのですが、預言者イザヤのように神のさばきと救いに関して壮大なビジョンを語っています。

そして、これらの預言が語られた時代は、ダビデから始まってソロモンの後で二つに分かれた王国がそれぞれ、アッシリヤ帝国、バビロン帝国によって滅ぼされ、その後、ペルシャ帝国の下で小さいながらも神殿を再建し希望を見いだすという時代を指しています。

それは、1990年以降の閉塞感に満ちた日本の状況に似ています。ですから、今から2750年~2500年前という大昔、聖徳太子よりも二倍も古い時代に記されたことばは、現代の日本の社会や教会の現実にも深い関連性を持っていると言えましょう。

 

11 節は、原文では「ことば、主(ヤハウェ)の、ホセアにあった・・」という順番で、その時代が「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代」と記されています。

内容の中心は、北王国イスラエルが「ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム二世)」王の時代に全盛期の繁栄を謳歌しながらも停滞期に入った時代に、神が、北のアッシリヤ帝国を用いて、彼らの偶像礼拝の罪をさばくというものです。

 

ただ、その時代を南王国ユダの四人の王で描いていることに大きな意味があります。ウジヤはヤロブアム二世と時代が重なりますが、彼より約十年長生きし、続く三人の王の時代には北王国の王は半年から一か月や二年という単位で、王が変わり、歴史に名を残すような王は現れなかったからです(まるで現在の日本の政治に似ています)。

そして、この預言は、北王国に向けて語られたものでありながら、実際には、ユダ王国で読まれることを意識して記されていると言えましょう。混乱の渦中にいる人は、残念ながら預言のことばが耳に入りません。そこで流行るのは、超楽観的か超悲観的に揺れる占いのようなたぐいの未来予測のことばです。これも、現代の日本に似ています。そして、預言の意味は、国の滅亡後に、外の世界の人々の心に響くという性質のものでした。

 

そして、主が最初にホセアに語られたことは、奇想天外なことで、「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主(ヤハウェ)を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ(1:2)というものでした。それは、すぐに浮気に走りそうな女を敢えて妻とすることで、神がご自分の民から裏切られることの痛みを体験するようにという命令です。

これは、伴侶の浮気に耐えるようにという勧めではありません。律法の中では姦淫の罪は、石打ちの刑で死罪に定められていました。

私たちの多くは、自分の問題の解決のために神を求めますが、信仰の成長とは、神の視点からこの世界を見、また、ご自分の民から浮気をされる神の痛みを理解できるようになることです。

 

ホセアは神のことばに従って「ディブライムの娘ゴメル」を妻として迎えます。そして、「彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ」と記されます(1:3)。「彼に・・産んだ」とあるように、この長男は、明らかにホセアの子でした。主は彼に、「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ」(1:4)と命じます。

神はバアル礼拝を大々的に導入したアハブの家と預言者エリヤを迫害したイゼベルを、将軍エフーを用いてさばきましたが、エフーは当時の戦いの中心地「イズレエル」において、神の命令をはるかに超える残虐を行ない、流してはならない多くの血を流してしまいました。

そして、エフー家は四代目のヤロブアム二世の死後、権力闘争による内戦状態に陥り、多くの血が流されることになります。それこそ神のさばきの現れでした。

ホセアの長男の名にはそのことが現されています。そして、「その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る」(1:5)とは、イスラエルが滅亡する日が来ることを語ったものです。

 

ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ(1:5)とありますが、ここには3節と異なり、「彼に」ということばがありませんから、この娘はゴメルの浮気相手との関係で生まれた子ではないかと思われます。

そして、その子につけるように命じられた名は、「ロ・ルハマ」でした。これはラハム(あわれむ、愛する)の否定形です。その理由を主は、「わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」と言われます(1:6)

 

その一方で、主は、南王国ユダに関しては、「しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主(ヤハウェ)によって彼らを救う・・(1:7)と言われます。これはヒゼキヤ王の時に、エルサレムが奇跡的にアッシリヤ帝国の攻撃を退けることを預言したものです。その勝利は、人間の軍隊ではなく、御使いによる勝利でした(Ⅱ列王記19:35)

 

その後、「ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ(1:8)とありますが、これもゴメルの浮気から生まれた子だと思われます。

そして、「その子をロ・アミと名づけよ」と命じられます。これは「アミ(わたしの民)に否定形のロをつけたもので、その理由が、「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」と説明されます(1:9)。生まれた子がホセアの子ではないように、北王国イスラエルも神の民ではなくなるというのです。

ホセア自身も妻の浮気から生まれた二人の子に、神の命令によって不思議な名前を付けながら、妻の浮気の結果を引き受ける痛みを通して、神の痛みを理解できたのではないでしょうか。

 

2.「私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから」

ヘブル語聖書では私たちの聖書の110節が、2章の初めになっていますが、その書き出しは、「そして、なる」で、神ご自身が驚くべきみわざが、「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる」と約束されます。

これはアブラハムがひとり子のイサクをささげたときに、主が、「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・(創世記22:17,18)と言われた約束が決して無に帰すことがないという意味です。神の約束は、人の不従順にも関わらず全うされるのです。

 

そればかりか主は、イスラエルの民が、「生ける神の子ら」と呼ばれるようになると約束されながら、「ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る」と言われます(1:10,11)

これはエゼキエル3715-28節でより詳しく描かれることの走りで、「ダビデの子」と呼ばれる救い主キリストにおいて全世界の民に広げて実現される約束です。ユダヤ人はこの約束の実現を今も待ち望んでいます。

 

その後の、「イズレエルの日は大いなるものとなるからである」と21節の「あなたがたの兄弟には、『わたしの民』と言い、あなたがたの姉妹には、『愛される者』と言え」ということばはセットで理解すべきです。これは今までの三人の子の名前の意味が逆転されるという意味です。

つまり、イスラエル王国が血の海となるイズレエルの日が、「大いなる」祝福の日となり、また、「ロ・アミ」と呼ばれた者が「わたしの民」と呼ばれ、「ロ・ルハム」と呼ばれた者が「愛される者」と呼ばれるようになるという逆転です。キリストにあって「のろい」が「祝福」に変わるからです。

 

22節~5節には一転して、神の怒りに満ちたさばきのことばが描かれます。しかし、表面的な怒りの背後には彼らの回心を願う深い愛が隠されています。「あなたがたの母をとがめよ。とがめよ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから(2:2)とは、イスラエルの子らの悲惨は、偶像礼拝に走った彼らの母の罪に対するさばきであることを思い起こさせるものです。

続けて、「わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから」(2:4)と記されるのは、彼らが親の世代の偶像礼拝を受け継いでいて一向に反省しようとしないことを責めたことばです。

そして彼らの親たちがバアル礼拝に熱を上げていた様子を、彼らの母のことばとして、私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる」と言ったと描かれます(2:5)。

 

26節の「それゆえ」ということばは転換点です。これは、神ご自身がイスラエルの民がバアル礼拝にこれ以上走ることができないように道を塞いでくださるという意味です。そこで生まれる葛藤が、「彼女は恋人たちのあとを追って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない」(2:7)と記されます。

そして、そうなって初めて、自分たちの神に立ち返るという様子が、「彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから』」と記されます。

これは、酒やギャンブルにおぼれて、そこに喜びや興奮よりも、悲しみと絶望を見いだすようになって初めて、神に立ち返る姿です。これは放蕩息子が飢えに苦しんで豚のえさで腹を満たしたいと思うほどになって初めて、父のもとに返ろうと決断することに似ています。残念ながら、人間は、自分の欲望を、破滅を目の前にして初めて抑制できるようになることを示しています。

 

私は恋人たちの後を追う(2:5)と言っていた姦淫の女が、「私は行って、初めの夫に戻ろう」(2:7)と言うようになるのは、神が姦淫への道を塞いでくださったからに他なりません。それでも、この「戻ろう」ということばは、「回心」を意味することばであり、ホセア書の鍵のことばです。

放蕩息子のたとえにも共通しますが、神は私たちの悪への道を塞ぐことによって、私たちに悔い改めへの思いを導いてくださいます。多くの人が神に立ち返るのは、自分の求道心というよりは、肉的な願望を満たすことに失敗した結果に過ぎないとも言えましょう。

 

3.「わたしは・・アコルの谷を望みの門にしよう」

そして主は恩知らずなイスラエルの問題を、「彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、また、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった(2:8)と告げておられます。

 

9節では再び、「それゆえ」ということばとともに、神のさばきが、「わたしの穀物・・新しいぶどう酒を取り戻し・・裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう・・・彼女のすべての喜び・・すべての例祭を、やめさせる。それから・・彼女が『これは私の恋人たちが払ってくれた報酬』と言っていた彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒れすたらせ、これを林にして、野の獣にこれを食べさせる。わたしは、彼女が・・・わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる(2:9-13)と言われます。彼らは神からの賜物をバアルからの報酬と言った報いを受けます。

 

  ところが、14節からは三度目の「それゆえ」ということばとともに、神の祝福の計画が、「見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう」と語られます。

くどいて」ということばの原文は「魅惑する」とか「誘惑する」という意味に用いられることばです。イスラエルの民はバアル礼拝に魅惑されて自分たちの神から離れたのですが、今度は神ご自身が彼らを魅惑して、敢えて、何もない「荒野に連れてゆき」、そこで「優しく(原文では「心に」)語り」、その荒野をぶどう畑に変えてくださるというのです。

そして、ここでは「わたしは」という神の主導権が強調されながら、アコルの谷を望みの門にしよう」と告げられます。これは驚くほど感動的なことばです。

アコルの谷」とは、イスラエルの民がヨシュアに導かれて約束の地に入ってきたとき、アカンとその一族が、神のさばきを受けて石打ちにされ、埋められた場所です(ヨシュア7:24-26)。イスラエルの民は圧倒的に強いエリコの町を神の御手によって征服しましたが、アカンは聖絶すべき分捕り物を盗んで隠してしまい、イスラエルは神の怒りを受けてアイへの攻撃でまさかの敗北を喫します。彼らはアカンの罪によって、一転して民族滅亡の危機にさらされたのです。アカンは自分の罪を認めましたが、彼の一族がイスラエルの民によって絶滅させられるまで、神の燃える怒りはおさまることがありませんでした

それ以来、「アコルの谷」ということばは、「神ののろい」のシンボル的な意味を持つようになりました。すべての人の罪は、悔い改めれば自動的に赦されるというようなものではありません。神の怒りを侮ってはなりません。

 

 私たちの目の前にも「アコルの谷」があります。多くの人々は、そのような罪に真正面から向き合う勇気を持ちません。これはご本人の了解を受けてのお証ですが、以前当教会でずっと長く礼拝を守っておられた方が、今になって、「実はずっと、高橋先生のメッセージも本も、ちんぷんかんぷんでした。しかし、最近は送られてくるメッセージ原稿のことばが、あることを通して、「干からびた大地に水が いっきに染みていく」のように感じられるようになりました。私は、ずっと、「問題から逃げ、自分を守らなきゃ」という生き方をしてきたから、聖書の解き明かしに感動できなかったのだと分かりました」という趣旨のことを書いてきてくださいました。

私たちの周りにも、神の燃える怒りを受けるべき「アコルの谷」と呼ばれてしかるべき悪の世界があります。できたら、目を背けていたい問題があります。しかし、私たちがそれに正面から向き合い、神に向かって祈るときに、そこに「望みの門」が開かれます。

 

 そして、「その日」に起きることを、主は、第一に、「あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい・・」と言われます(2:17)。彼らは自分から進んで、バアル礼拝から離れるようになります。

第二に、主は、「その日、わたしは・・野の獣・・地をはうものと契約を結び・・戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる」(2:18)と言われます。彼らはもう野の獣からの攻撃も、弓と剣による人間からの攻撃からも自由になることができます。

そして、神が再びイスラエルの民に永遠の愛を誓ってくださるということが、「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主(ヤハウェ)を知ろう(2:19,20)と記されます。

「正義」とは神のまっすぐさ、「公義」とは公正なさばき、「恵み」とは契約の愛を意味するヘセドの訳、「あわれみ」とは先の娘の名「ロ・ルハマ」の反対の神のあわれみに満ちた愛、そして「真実」とは、信頼できるという意味です。これらのことばは、神がどのような方かを現す大切なことばで、神がご自身の民を決して見捨てることなく、守り通してくださるという神の側からの真実の約束を意味します。

 

221節~23節では、「わたしは天に答え、天は地に答える。地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え・・」と記されますが、これは神が再び天から雨を降らせ、地を潤し、豊かな作物を実らせてくださるという意味です。これはバアルが豊穣の神としてあがめられていることに対して語られています。

その上で、再び、ゴメルから生まれた三人の子の名前を逆転させるという意味で、神が「イズレエル」を豊かな実りの地に変え、『愛されない者』という意味のロ・ルマハという名を神の愛の対象とし、『わたしの民でない者』という意味のロ・アミを『あなたはわたしの民』と言う逆の名前に変え、その子も神に向かって『あなたは私の神』と呼ぶように変えられるというのです。

ゴメルの三人の子供の名には神の燃える怒りの思いが込められていました。しかし、その背後には、イスラエルの神がご自分に立ち返って来るのを待つ忍耐に満ちた神の愛が隠されていました。

三人の子供の名が祝福の名に変えられるということは、私たちひとりひとりが先祖伝来の悪習から自由にされ、新しくされることの象徴と言えましょう。

 

 その上で主は再びホセアに向かって、「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主(ヤハウェ)が愛しておられるように」と言われます(3:1)

最初の部分は「他人に愛され、姦通している女」とも訳すことができ、干しブドウ菓子とは生殖の女神アシュラ(天の女王)にささげる供え物でした(エレミヤ7:18,44:9)

神が「天の女王」に浮気をしている民を愛するように、ホセアは売春奴隷に身を落とした元妻を愛するように命じられます。そこで彼は、「銀十五シェケルと大麦一ホメル半で」彼女を奴隷状態から買い戻します(3:2)。これは当時の奴隷売買の相場です。彼女は身を持ち崩して奴隷になっていたのです。

そしてホセアは、「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう」ともう一度夫婦関係をやりなおすという約束をします。

 

そして、このホセアとゴメルの関係が、再び、神とイスラエルの関係にたとえられ、「それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ(3:4)と言われます。これは、イスラエルが長らく国を失うことを意味します。しかし同時に、イスラエルの最終的な回復の約束が、「その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主(ヤハウェ)と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主(ヤハウェ)とその恵みに来よう」(3:5)と描かれます。

帰ってきて」も、27節と同じく回心を意味することばです。イスラエルが神のもとに帰って来ることができるのは、神ご自身がイスラエルを支配する国をさばいたり、また、力づけたりしてくださるからにほかなりません。

姦淫の女のゴメルは、神の命令を受けたホセアによって初めて帰って来ることができました。私たちが神のみもとに帰ることができるのも、神の一方的な恵みのみわざです。

 

 しばしば、親密な人間関係では、「わたしがこれほどあなたのことを大切に思っているのに、どうしてそれをわかってくれないの・・」ということが何よりの怒りの理由になります。そこで、問われているのは、自分がどれだけ人を愛しているかよりも、自分がどれだけ愛されているかに気付いてほしいということです。

それは、神との関係でも当てはまります。信仰とは、何よりも、私たちが何度、神を忘れ、裏切っても、神が私たちを愛し続けてくださることを知ることです。

ホセアは神の命令により浮気女のゴメル娶り、三人の子供たちに忌まわしい名前を付けました。しかし、そこには、神が彼らに与えられた「のろい」を、「祝福」に変えてくださるという奇想天外な望みがありました。神はどれほど変わりようのない人間をもご自身の子供として受け入れ、造り変えることのできるお方です。

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