« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月27日 (日)

マルコ14章26-42節「強がりから自由になった祈り」

                                                 2013127

証券営業の仕事をしていた時、「上司からの余計な叱責を受けないための知恵」を教わりました。それは、営業目標の達成に関して少々不安があっても、「大丈夫です!お任せ下さい」と言い張ることでした。なぜなら、当時の営業店は、ノルマを果たせないと人間扱いされない世界でしたから、弱音を吐くと、上司を心配させ、自分の個性を殺すような介入を招いてしまうからです。

要するに、人の干渉を避けるためには、強がっているのが一番なのです。しかし、そのような態度が身についてしまうと、神の前でも同じような態度を持ってしまうことになります。神は人間とは違い、私たちの個性を全面的に生かすことがおできになる方です。神に対しても強がる者は、真の意味での神の力を体験することができなくなります

信仰の基本とは、神の前で子供のようになることです。幼子が泣いたり笑ったり不安に震えたりするように、神の前に自分の心の奥底にある感情をさらけ出すのが最高の祈りです。

 

多くの人は、「喜びとは悲しみのないことであり、悲しみとは喜びのないこと」だと考えがちです。しかし、神の子イエスは、悲しみのお方であり、また完全なる喜びのお方でもあります。

ヘンリ・ナウエンは、喜びと排除しあう関係にあるのは、悲しみではなく、「皮肉」であると言いました。皮肉屋はどこへ行っても闇を探し出し、小さな喜びへの感動を軽蔑するからです。

これは、「横着な心(「覆いかぶされた心」哀歌3:65)とも呼ばれます。自分の根本的な弱さに目をつむったり、罪を悲しむことに「横着な心」は、神の赦しを喜ぶことにも横着になることでしょう。

 

1.「あなたがたはみな、つまずきます」

イエスは弟子たちと最後の晩餐のときを過ごし、その後、「賛美の歌を歌ってから(26)とありますが、これは過越の食事を締めくくる賛美の歌です(詩篇114-118)。たとえば詩篇118篇のように苦しみの中から「主のめぐみ(ヘセド)」をたたえる讃美ではないかと思われます。詩篇朗誦には独特のメロディーが伴っていました。

イエスは「御名があがめられますように」と祈るように教えてくださいましたが、その模範をここに見ることができます。

そしてイエスと弟子たちは「みなでオリーブ山へ出かけて行った」とありますが、これはエルサレムの城壁の東側にあるエルサレムを見下ろすことができる山で、そのふもとのゲッセマネの園は神殿の東、ケデロンの谷の先にあります。

 

  その途中でイエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます(2728)と言われました。

弟子たちは主の権威や癒しのみわざに圧倒されていましたが、今やおぞましい十字架にかけられます。彼らがその「弱さ」につまずくのも当然でしょう。ユダの裏切りは、いち早くそれを察知した結果に過ぎません。

ただし、イエスはそれを、ゼカリヤ13:7に記された預言の成就として説明します。つまり、羊飼いが打たれ、羊の群れが散り散りになるのも、神のご計画だというのです。ゼカリヤでは続けて、「わたしは、この手を小さな者たちに向ける(私訳)と記されます。弟子たちは新しい神の国で大臣の地位に着くような事ばかりを夢見ていましたが、イエスは彼らが「小さな者たち」に過ぎないということを自覚させようとしておられたのです。

その預言の核心は、羊である彼らが目に見える飼い主を失うという試練を通して信仰が練られ、再び集められるということにありました。そしてイエスはここで、改めてご自身の復活を語るとともに、「あなたがたより先に、ガリラヤに行きます」と、弟子たちが散らされた後ガリラヤに集められ、そこから再出発すると言われました。

 

それに対しペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(29節)と言いました。彼は心の底で他の弟子たちを軽蔑し自分を誇っていたのです。

それを聞いたイエスはすぐに、「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います(30)と言われました。

 

そしてそれを聞いたペテロは、たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と「力を込めて言い張り」ます(31)。そして、「みなの者もそう言った」と描かれます。私たちは、ひとりになると極めて臆病なのに、仲間といっしょの時、自分の弱さを押し隠して勇気があるように振る舞う傾向があります。それはやくざでもイエスの弟子でも同じ心理です。

「挫折を知らない人ほど危ない人はいない」とも言われますが、自分の弱さを知らない者は、本当の意味でイエスに出会っていません。ユダもペテロも紙一重です。自分の期待が裏切られた時、簡単にイエスを裏切ってしまう者なのです。

しかし、反対に、「私はイエス様がいなければ何をするか分からないような者です」と告白する人は、イエスにつながり続けます。

 

 ルカの福音書223132節では、イエスは「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたと記されています。つまり、ペテロはイエスの祈りによって初めて信仰を保つことができるというのです。

 

それはペテロにとっての弟子訓練の最終段階を指しています。彼はこれによって文字通り、「心の貧しい者」とされました。彼は、そこでイエスの祈りなしには、自分の信仰がなくなっていたということを知りました。

彼は、それを通して、他の弟子たちの弱さを軽蔑する代わりに、共感できるようになります。彼は、福音を語るたびに、自分の愚かな失敗を証ししたに違いありません。彼の愚かさと、主のあわれみがセットになって、人を慰め励ましたのです。

 

キリスト者として生きるとは、聖霊に生かしていただくという歩みです。キリスト者とは聖霊を受けた人です。私たちがしばしば聖霊のみわざを感じることができないのは、自分の空虚さを心から味わうことができていないからです。

これはあくまでも逆説ですが、あなたが聖霊のみわざを知ることができないのは、信仰がないからではなく、ありすぎるからかもしれません

私はあるとき、自分の祈りをとてつもなく空虚なものに感じ、「もう、祈るのをやめよう・・」と思ったとき、反対に、自分の中で聖霊様が祈りを起こしてくださっているということが分かりました。ローマ人への手紙8章9-11節は次のように訳すことができます。これを繰り返し、じっくりと味わってみましょう。

 

「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです・・・

キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています・・・

それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」

 

2.「アバ、父よ・・・どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」

そして、32節では、「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに」、「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」と言われたと記されます。

その際、「ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた(33)と描かれます。「もだえ」とは、不安に圧倒される様子です。

 

そこでイエスは、三人の弟子たちに向かって、「わたしのたましいは深い悲しみのあまり死ぬほどです(34節私訳)とご自分の気持ちを表現されました。これはペテロの強がりと何と対照的なことでしょう。

この「深い悲しみ」とは詩篇4243篇で繰り返されている絶望感のギリシャ語訳と同じです。そこで詩篇作者は、「私のたましいは、私の前で、うちしおれ(「うなだれ」(新改訳第三版)、「絶望し」(新改訳第二版)ています(42:6)と告白しています。

そこで作者は、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれ(絶望し)ているのか。なぜ、私の前でうめいているのか。神を待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を」と、自分の気持ちに正面から向き合おうとしています(42:5,11,43:5)

つまり、イエスは詩篇の祈りの伝統の中でご自分の気持ちを表現されたのです。

 

その上でイエスは三人の弟子たちに、「ここを離れないで、目をさましていなさい」と言われました(34)。ここで主は、孤独のあまり弟子たちに祈りの支援を求めたというよりは、ご自身の密室の祈りに招かれたと解釈できましょう。

その祈りの姿が35節では、「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」と、イエスの想像を絶する「恐れ」の様子が描かれます。

それにしても、「深くもだえ」ながら、「悲しみのあまり死ぬほど」と弟子たちに言われ、「地面にひれ伏し」という姿に、イエスがご自分の気持ちを自分で抑えようとせずに、神と最愛の弟子たちにそのまま表している自由さに驚きを感じます。

 

多くの人たちは心が動じなくなることを願います。哲学者ソクラテスは、不当な死刑判決を受けた時、死は災いではなく自分にとっての幸せであると友人たちを説得して慰め、法を破って逃亡することよりも法に従って死ぬことに価値を認め、毒の入った杯を堂々と飲み干します。

何と英雄的な姿でしょう。イエスの姿は正反対に見えます。

 

そしてイエスは、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください(36)と祈られました。「アバ」とはアラム語で、当時の人々が自分の父親を「お父さん」と呼ぶときの自然な表現です。そこには親密さと共に信頼の気持ちが込められています。

イエスは全宇宙の創造主である方にそのように呼びかけながら、その全能の力によって、ご自分の目の前の苦しみを取り除いてくださるようにと率直に願ったのです。

主の祈りでも、「アバ(お父様)」から始まり、「御国(ご支配)が実現するように」と祈られます。

 

その上でイエスは、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(36)と繰り返し祈られました。これは主の祈りで、「あなたのみこころが行われますように」と祈るようにと言われた祈りと基本的に同じです。

それにしても、イエスですら、ご自身の肉体から生まれる意思と神のみこころとの間に矛盾を認められたのです。それは、イエスが人として私たちと全く同質であられた(カルケドン信条)からです。

私たちの罪の根本とは、人間の肉から生まれる願望を神のみこころに対して優先することです。最初の罪は、食べたいから食べたことでした。現代の多くの人々は、正義や聖さよりも、心地よさ(アメニティー)を優先する傾向があります。

 

なお、イエスは、最初から、「みこころのままに」と祈ったのではなく、「この杯をわたしから取りのけてください」というご自分の願いをまず率直に祈っています。私たちも、祈りにおいて、自分の葛藤を父なる神に正直に訴えることが大切です。

ただし、イエスの苦しみは、あらゆる人間的な苦しみの次元を超えています。イエスが言われた「この杯」とは、あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干す(イザヤ51:17)とか、「憤りのぶどう酒の杯を・・飲んで、ふらつき、狂ったようになる・・飲んで酔い、へどを吐いて倒れる(エレミヤ25:15,16,27)などとあるように、罪のないイエスが、すべての罪人の代表者となり、神の怒りを受けて、酒に酔いつぶれた人のようにあざけられながら死んで行くことを意味します。

また、主(ヤハウェ)はかつて、ご自身がエルサレムの住民を殺し、その町を廃墟とすることを、彼らに向かって、「あなたは酔いと悲しみに満たされる、恐怖と荒廃の杯・・あなたはこれを飲む」(エゼキエル23:33、34)と言われました。

つまり、イエスの十字架は、まず何よりも、神の都エルサレムが神の憤りをうけて滅ぼされるというような激しい苦しみを、たったひとりで引き受けることだったのです。

そればかりか、それは私たちにとって、全人類が受けるべき神の憤りを全世界の代表者、王として引き受けることでした。

 

なお、ヘブル書の著者は、「キリストは人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(5:7)と描いています。

この、「聞きいれられました」とは、十字架の苦しみを避けることができたという意味ではなく、何よりも、苦しみに耐える力が与えられたということです。そして、後には、復活として表されます。

そしてそれは、私たちにも当てはまることです。私たちも、祈りにおいて受けることができる勝利とは、自分の願いどおりに物事が進むということではなく、苦しみに耐える力が与えられ、最終的な肉体の復活という勝利が与えられるということです。

 

紀元200年頃、テルトゥリアヌスは、キリスト者を迫害するものに対して、「いかにあなた方の残酷さがより手の込んだものになったとしても、それはすべて何の役にも立たない。それはむしろわれわれの宗教の魅力となっているのだ。あなたがたがわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである」と言いました。

ソクラテスが、「悪法も法なり」と言いつつ、毒杯を雄々しく飲み干したように、多くの哲学者たちは、苦痛や死に耐えることを美徳としていましたが、それを実践できる人は稀でした。

しかし、無学なキリスト者が、脅しに屈することなく、神と隣人愛に献身している様子は、人々の心に深い感動を与えました。

 

イエスは、ゲッセマネの園で、十字架の死を先取りして、苦しみもだえました。それは十字架の苦しみの予行演習のような意味があるのかもしれません。

しかしイエスは、父なる神に、ご自分の気持ちを正直に訴えることによって、この恐怖に勝利し、十字架に向かって雄々しく進むことができました。

イエスのいのちが十字架上で輝くことができたのは、それ以前に、このゲッセマネの祈りにおいて十分苦しみ、それに勝利を収めたことの結果でした。

 

3.「心()は燃えていても肉体は弱いのです」

一方、このとき弟子たちはイエスの命令に反して眠り続けていました。そのことが37節では、「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに」、「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか」と言われたと記されます。

これはペテロが、「全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と豪語したことを思い起こさせる表現です。彼は自分に自信があったからこそ祈る代わりに眠ったのです。

それを見てイエスは、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心()は燃えていても肉体は弱いのです」(38)と言われました。

これも主の祈りの、「試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と基本は同じで、それは、「誘惑に陥らせないで、悪い者からお救い下さい」と訳すこともできます。

 

なお、「私は弱いから眠ってしまう」というのは、言い逃れ、居直りです。自分の肉体の真の弱さを知っていればこそ、目をさまして祈る必要があります。

ペテロは自分の力を過信して居眠りをし、誘惑に負け、三度もイエスを否認しました。これは、天地万物の創造主である神の御子イエスが、三度も同じように祈られたことと対照的です。

 

その後39節では、「イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた」と描かれますが、マタイ2642節では、二度目の祈りが「わたしが飲むことなしに、この杯が過ぎ去らないのであれば(私訳)と記されます。それは、この憤りの杯は、イエスが飲むことなしに、私たちの前を過ぎ去ることはないからです。

私たちが飲むべき杯をイエスが飲んでくださり、イエスはそれを「祝福の杯」(Ⅰコリント10:16)に変えて、私たちに与えてくださったのです。

 

その後のことが、イエスが「また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった」(40)と描かれます。

一方、ルカ22章45節では、「悲しみの果てに、眠り込んでしまって」いたと描かれます。彼らの眠りは、ストレスを回避するための無意識の自己防衛作用だったかもしれません。いわゆる現実逃避です。

ペテロは自分の内側にあった恐怖心に蓋をしていました。それが居眠りの原因かもしれません。しかし、いざとなったら、それが芽を吹き出し、その恐怖心に圧倒されて、誘惑に負けてしまいました。

自分の内側にある恐れの心に蓋をする者は、恐れに敗北します

 

そして、41節では、「イエスは三度目に来て、彼らに言われた」とありますが、そこで語られたことばを直訳すると、新改訳の脚注にあるように、「では、ぐっすり眠って休んでいなさい。終わりました」となります(マタイ26:45も同じように訳すことができる。最近のフランシスコ会訳もこの訳を採用している)。これは、「もう厳しい祈りの時間が終わったので、もう目を覚ましている必要はない」という意味だと思われます。

イエスは祈りにおいて戦いに勝利を収められましたが、弟子たちは、これからも霊的に眠った状態にとどまり、失敗するまで目覚めることがありませんでした

その上で、イエスは「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます」と言われました。

 

人としてのイエスにとっての最も厳しい戦いは、このゲッセマネの園での祈りでした。イエスはこの時、ご自分の肉の身体から生まれる願望を、御父に向かって包み隠さずに表現しました。その上で、「あなたのみこころのままをなさってください」と祈られました。そこには、究極の恐れの表現と、究極の献身の告白があります。

私たちは自分の肉の弱さを正面から認めないからこそ、恐れに振り回されるのではないでしょうか。イエスは、この祈りの戦いに勝利した結果、「罪人たちの手に渡される」ために雄々しく前に進まれました。その様子が42節ではイエスが、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と言われたことに描かれています。これは剣を振り回すよりもはるかに勇気の要ることです。

イエスがまだ話しておられる時、ユダに導かれた群衆が主をとらえにきました。一瞬のうちにイエスを見定めてとらえることで、イエスの信奉者を散らすためでした。

 

これこそ、すべてのキリスト者を襲う、「霊的な戦い」の現実です。その際、私たちは、人間的な力と方法によっては決して、暗やみの力には対抗できないということをわきまえる必要があります。

戦いの戦略は、「どんなときにも御霊によって祈る」ことです。その模範は、何よりも、詩篇の中に見られます。いつでも、どこでも、御霊の導きを求めつつ、詩篇を用いて自分の心を注ぎだすことが勝利の秘訣です。御霊にある解決方法が求められます。

 

復活のイエスは、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。私たちは矛盾と混乱に満ちた世に、イエスの代理として、救い主の代理として、日々、遣わされています。そこで問われているのは、何よりも、世界の痛みを自分の痛みとして感じることができる感性です。

パウロは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます」(ローマ8:23)と語りました。御霊を受けた者は「うめく」というのです。

私たちは様々な悲劇を聞きながら、その関係者をさばいたり、評論家のような議論をしてばかりで、真の意味で、「心の中でうめく」という謙遜さが足りないのではないでしょうか。神は誰より、謙遜な者を、みわざに用いられます。

 

ゲッセマネの祈りには、主の祈りの基本が現れていますが、イエスはそこで何よりもご自分の不安や悲しみを真正面から受け止めそれを父なる神に訴えた上で、「あなたのみこころのままに」と祈られました。

私たちが主のみこころを実行できないのは、不安や恐れや悲しみの感情に蓋をして強がってしまうからではないでしょうか。

|

2013年1月20日 (日)

ホセア11、12章「哀れみに胸を熱くする神」

                                                   2013120

 どの宗教においても、この世で犯した罪に応じて地獄のさばきを受けるという教えがあります。日本でも、嘘をついたら舌を抜かれる、人を殺したら何度も生き返りながら鬼に食われる、人を貶めたら崖から落とされて針の山で突き刺される、放火をしたら何度も火あぶりの刑で殺される、血も涙もない冷酷な人は血の池地獄に落とされる、などという地獄絵図が描かれて、人々に善行を促しました。

それに関してキリスト教の世界で最も有名なのは14世紀初めにイタリア・フィレンツェのダンテが書いた「神曲」です。そこでは、彼の地獄と煉獄巡りの旅が描かれます。地獄は9層に分かれ、煉獄は7層に分かれています。それぞれが犯した罪に応じて苦しみを受けます。滑稽なのは、金儲けに走った聖職者がお金を入れる壺に頭を逆さに入れられて火で焼かれるとか、争いを作り出した人が身体を何度も裂かれるとか、ダンテを騙した人が氷の海で踏みつけられているという描写です。

そして煉獄では、人の持ち物をうらやんだ人の目が針で縫われてきよめの訓練を受けるとか、美食飽食を繰り返した人が食べ物を見させられながら痩せ細って行くという描写があります。

この作品は、私たちの心の奥底にある罪の現実に真正面から向き合わせる古典的名著ではありますが、それを読みながら不思議に思ったことがあります。

そこではすべて、生前の罪に応じて、ほとんど自動的にそのさばきがなされるので、神がいてもいなくてもまったく同じだということです。どの宗教にも共通するというような教えの落とし穴とは、創造主と私たちとの交わりを見えなくすることです。

 

 しかし、聖書の神は、痛みも悲しみもなく、人の罪をさばく方ではありません。神は私たちの罪がどのような結果を招くかを予め明確に警告しながらも、そのさばきを下すとき、まるで親が自分の子を折檻するときのように、涙を流しながら懲らしめる方であられ、何よりも私たちの回心を待ち望んでおられる方です。

神の燃えるような怒りの背後には、私たちへの燃えるような愛、「哀れみに胸を熱くする神」の姿が隠されているのです(拙著タイトル)。神の愛は、何よりも自分の愛する人の帰還を待つ恋人の思いに似ています。主はあなたを「恋い慕って」おられます。

 

1.「彼らを呼べば呼ぶほど・・いよいよ遠ざかり・・・」

11章の初めで、主(ヤハウェ)は出エジプト以来を振り返りながら、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた」と言われます(1-4)

 

3節では、北王国イスラエルの中心部族であるエフライムと神との関係が、幼子に歩くことを教える優しい父親にたとえられます。幼子はだれも自分が一人で歩くことができるようになったように感じていますが、親は幼子が歩くことができるように優しく教えています。

また、幼子は自分が何度も病気にかかりながら親の必死の看病によって癒されたということを自覚してはいません。それと同じようにエフライムは神の慈愛を忘れているというのです。

 

4節では、エフライムと神との関係が牛と農夫にたとえられます。1011節では、エフライムが飼いならされた小牛の状態から成長するにつれて頑迷になり、首にくびきをかけて農耕に駆りたてられるようになった様子が描かれましたが、神は本来、牛にくびきをかけて動かす代わりに、牛を人間のように優しく扱い、「人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」というのです。

しかも、「あごのくつこ」をはずして「優しくこれに食べさせてきた」と言われます。
 

残念ながらしばしば人は神を、厳格な罰を加える父親や、牛をたたいて従わせる厳しい農夫かのようにとらえてしまっています。

確かに神は、私たちがあまりにも頑迷でかたくなになるときに、くびきと鞭で従わせることがあります。しかし、それは頑迷な者が滅びの道に向かって行くのをひたすらふせごうとする、燃えるような神の愛の現れであって、私たちを最初から頑迷な家畜のように扱おうとしているわけではありませんでした。

 

なおここでは、恩知らずなエフライムに対する神の嘆きと心の痛みが、「彼らを呼べば呼ぶほど・・いよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた」と描かれます(11:2)

子供は成長の過程で、親の愛を「うざったい」「うっとおしい」と感じることがありますが、エフライムは神の愛の語りかけを、そのようなものと受け止め、自分勝手な道に向かい、神を最も悲しませる行動を敢えて選んでしまったというのです。

たとえば、愛されれば愛されるほど浮気に走ってしまう人だっているかもしれません。残念ながら、人の心は気まぐれです。

 

パウロはコリントの教会の信徒に向かって優しい親の態度で接しましながら、「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(Ⅱコリント12:15)と嘆きましたが、これはしばしば人間関係で起こってしまう現実です。

私たちはそのような現実の痛みを通して、神ご自身の心の痛みに思いを馳せるべきでしょう。

 

2.「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」

しかし、神に対して恩知らずな行動を取り続ける者は、どこかでそのつけを払わざるを得なくなります。そのことを神はエフライムを指して、「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。剣は、その町々で荒れ狂い、そのかんぬきを絶ち滅ぼし、彼らのはかりごとを食い尽くす」と言われます(11:56)

エジプトとは、イスラエルがかつて奴隷として仕えた地ですが、ここでは彼らがエジプトよりもはるかに冷酷で残酷な剣の力を行使するアッシリヤの支配に屈せざるを得なくなるということが警告されています。それは彼らが自分たちの神にヤハウェに立ちかえることを拒んだからです。

 

 神は彼らの状態を、「わたしの民はわたしに対する背信からどうしても離れない。彼らはいと高き方(バアル)を呼び求めるが、彼(バアル)は彼を助け起こせない」と嘆いておられます(11:7私訳)。

バアルはカナンにおいて「いと高き方」とも呼ばれましたが、バアル礼拝はイスラエルの神を何よりも悲しませました。神の嘆きには、神の懲らしめが伴います

箴言1324節には、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」と記されているように、神はご自身の民を愛するがゆえに、厳しい態度を取られます。

しばしば、愛に満ちた親が子供をたたく時、子供の身体よりも親の方が痛みを感じると言われます。親は子供が憎いから懲らしめるのではなく、子供の誤った行いが、悲惨な結果を招くということを体験させるために懲らしめるのです。

 

そのことを神は、8.9節で、エフライムに向かって「あなた」と呼びかけるようにしながら、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。(どうして)わたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない」と語られます。

アデマとツェボイムとは、ソドムやゴモラと並んでその忌まわしい罪のゆえに天からの硫黄の火によって焼かれた町だと思われます(申命記29:23)

 

ここでは、神がエフライムをさばくときのお気持ちが、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と描かれています。

新共同訳では、「わたしは激しく心を動かされ、あわれみに胸を焼かれる」と訳されています。

これと似た表現がエレミヤ3120節では、「エフライムはわたしの大事な子なのだろうか・・・わたしは彼のことを語るたびに、いつも彼のことを思い出す。それゆえわたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と描かれています。

この箇所を北森嘉蔵は、「わがはらわたかれのために痛む」と訳し、そこから世界的に有名になった「神の痛みの神学」という書を記します。

 

神はエフライムの罪を、怒りや憎しみの感情に駆り立てられて罰しようとするのではありません。「わたしは神であって、人ではなく」と言われている通りです。しかも、ご自身を、「あなたのうちにいる聖なる者」と紹介しておられます。

人の想像を超えた「聖なる」かたが、ご自身の聖さから生まれる葛藤を抑えながら、罪人のただ中に住んでおられるというのです。主はエフライムに対して、自分の子供の痛みを自分の痛みとするような母親のような葛藤を味わい、ご自身の心を痛め、はらわたをわななかせながら、彼にさばきを下しているのです。

そしてエフライムをさばくことが、神ご自身にとっての耐え難いほどの痛みであるからこそ、さばきのあとには慰めが期待できます。それは、父親が子供の罪を厳しくいさめながら、子供が罪を反省した時に、その子を優しく抱擁するような姿です。

 

  その後のことが10節では「彼らは主(ヤハウェ)のあとについて来る」と描かれます。これは呼べば呼ぶほど遠ざかったという2節の姿と対照的です。

しかも、ここで主はライオンにたとえられながら、「主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう」と、エフライムが震えながら神のもとに立ちかえる様子が描かれます。

かつてエフライムは主の愛をあまりにも軽く捉え、その愛を振り切るように神から離れて行きました。しかしここで興味深いのは、エフライムが臆病な鳥や鳩として描かれ、彼らが、主を吠える獅子かのように恐れながら、震えつつ、なおも、神のみもとに引き寄せられてくると描かれている点です。

彼らは苦しみを通して、神の威厳とあわれみとを知り、本当の意味で「主を恐れる者」へと変えられたのです。

 

3.「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った」

 1112節は12章にそのままつなげて理解すべきで、そこでは神の嘆きが、「わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている」と描かれます。「偽り」と「欺き」とは、神の「誠実」と「真実」に対照される彼らの姿です。

それと同時に南王国ユダへの期待が、「しかし、ユダはなおさまよっているが、神とともにあり、聖徒たちとともに堅く立てられる」と記されます。後に神はユダ王国をアッシリヤの攻撃から守ってくださいます。


 121節では、エフライムの空しい生き方が、「エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている」と描かれます。

彼らは北のアッシリヤと南のエジプトを両天秤にかけ二股外交をして、アッシリヤの怒りを買うようなことをしています。

 

そして、続けて、「(ヤハウェ)は、ヤコブを罰するためにユダと言い争う(ユダへの告発状を持っておられる)(12:2)という不思議な記述があります。

ヤコブはエフライムとユダ両方にとっての父ですが、神はエフライムに対するご自身のさばきをユダへの警告として予め知らせながら、ユダにも同じことが起こり得ると語っておられます。

 

そして神は、ヤコブの生き方の問題を振り返りながら、「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」(34)と描きます。

ヤコブという名には、「押しのける者」という意味が込められています(創世記27:36)彼は御使いに対してさえも戦いの姿勢で臨みました。しかし、彼が自分の弱さを率直に認め、神にすがる姿勢を見せたとき、祝福を受けることができました

エフライムはヤコブの生き方を受け継ぎ、自分の要求ばかりを訴え、それを押し通そうとしてきました。それがベテル(神の家)を、ベテ・アベン(悪の家)に変えるような偶像礼拝に結びつきましたが、本来、「ベテル」とは、ヤコブがまったく一人ぼっちで絶望的な旅をしたときに神が一方的な恵みを示してくださった、神のあわれみの原点だったのです。

ヤコブは長い格闘の人生の旅を経たのちに、この信仰の原点に立ち返り、神のあわれみの約束に信頼して生きるということの意味を知ったのでした。

 

それを前提に神はエフライムに向かってご自身のことを、「(ヤハウェ)は万軍の神。その呼び名は主(ヤハウェ)」と、ご自身のことを紹介しながら、「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」と語りかけておられます(56)

しばしば、多くの人々は、「神に動いていただくにはどうしたらよいか・・・」というような自己中心的な信仰の姿勢を持ちがちですが、何よりも大切なのは、神の絶対的な主権と力を認め、神が好まれる「誠実」と「公義(さばき)」を第一とし、神のときを待ち続けることなのです。

 

4.「私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は・・・」

 127節の「商人」ということばは新改訳の脚注にあるように、原文で「カナン」と記されています。これはエフライムの商人が忌まわしい堕落のゆえに滅びに定められていたカナンの原住民のような状態、「手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む」と言う状態に堕落していたことを示すものです。

実際、エフライムは、「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない」(12:8)と、自分の正当性を主張します。

この原文は理解が困難で新共同訳などは、「この財産がすべての罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい」とまったく逆の訳をしています。なお英語で最も信頼できるESVはin all my labors they cannot find in me iniquity or sin.と訳しています。

どちらにしても、自分の正当性を主張するということの中に「欺き」が隠されていると解釈できましょう。心にやましさを持つ人は、自分を正当化します。

 

 それに対して、主は、「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主(ヤハウェ)である。わたしは例祭の日のように、再びあなたを天幕に住ませよう(12:9)と言われます。これはエフライムを再び荒野のテント生活に落とすというさばきを意味します。

続けて、主は、「わたしは預言者たちに語り、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示そう」(12:10)と言われますが、これは神が繰り返し預言者たちを通して彼らの罪とその結果を警告し続けるという意味です。

11節で、「まことに、ギルアデは不法そのもの、ただ、むなしい者にすぎなかった」とあるのは、ヨルダン川東岸で最も肥沃な地が、偶像礼拝の場となったという現実です。

 

また、「彼らはギルガルで牛にいけにえをささげた。彼らの祭壇も、畑のうねの石くれの山のようになる」とありますが、ギルガルはヨシュアに導かれた民がヨルダン川を渡って記念碑を建てた場所であり、同時に最初の王サウルが不従順のゆえに退けられた場所です。

石くれの山」という原文はガリームとなっており、ギルアデ、ギルガル、ガリームのごろ合わせが見られます。彼らの偶像礼拝に対する神のさばきが警告されていると言えましょう。

 

 1212節は、ヤコブが父と兄を欺いて「(パダン)アラムの野に逃げて行き」、そこで、「妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした」という中で、神がイスラエルを一方的に祝福し12部族のもとを築いてくださったという主の恵みが振り返られ、13節ではモーセのことが振り返られながら、「(ヤハウェ)はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた」と描かれます。これも神の一方的なあわれみの記録です。

ところが、ヤコブの子孫の中で最も良い地を相続したエフライムは、おごり高ぶって、「主の激しい怒りを引き起こし」ました(12:14)。それに対して、「主は、その血の報いを彼に下し、彼のそしりに仕返しをする」というのです。神のあわれみを軽く見る者には、それにふさわしいさばきがくだるというのです。

 

 ダンテは名門の家に生まれながら、権力闘争に巻き込まれ、いわれのない罪によってフィレンツェの町を永久追放になります。そこで彼は、そのような身勝手な生き方の影響を受ける人々に、地獄や煉獄の様子をまざまざと描いて警告するようにと導かれます。ダンテはそのために敢えて、自分を地獄の門をくぐった者として描きます。

そこには、「一切の希望を捨てよ。我が門を過ぎる者」と描かれていました。ただし、彼がその恐ろしい道を進むことができたのは、若くして亡くなった恋人ベアトリーチェが彼に地獄の旅の同伴者を送ってくれたからというのです。

 

ダンテはベアトリーチェに対する愛のゆえに、地獄と煉獄を見ながら、天国へと入って行くことができました。そして、天国とは、ベアトリーチェが想像を絶する輝きに満ちた美しい姿に変えられている場所でした。

愛こそは、絶望の門をくぐり抜ける力です。そして、聖書が描く「新しいエルサレム」とは、愛の交わりが完成する場所です。

 

私たちの場合は、イエスへの愛のゆえに、必要ならばこの世の地獄への門を敢えてくぐり抜けてでも前に進むことができます。私たちはこの世界で様々な罪の誘惑を受けながら生きます。

「あの世」以前に「この世」に地獄があると思える悲惨を味わう人もいます。私たちは試練の中で、とんでもない失敗を犯し、また罪を犯してしまうこともあることでしょう。

しかし、イエスはそんな私たち一人一人の罪を負って十字架にかかってくださいました。

 

私たちのどんな罪も赦されます。私たちは地獄の門の上を超えて新しいエルサレムに達することができます。ただ、そこで私たちに何よりも求められていることは、イエスの愛に応答するということです。私たちはときに、自業自得で苦しむようなことがあります。

しかしそのとき、神は私たちを軽蔑する代わりに、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言っておられることを、決して忘れてはなりません。

主は人の子らをただ苦しめ悩まそうとは思っておられない(哀歌3:33)とあるように、主は苦しむ私たちを見て、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と語っておられます。

 

この主の愛に対して私たちのなすべき応答が、6章初めで、「さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる(復活させる)。(それは私たちが、御前に生きるためだ)」と描かれます

これは聖書で最も古い復活の記事であると言われました。神に立ち返るのに遅すぎることはありません。私たちがどのような苦しみに会っても、そこには私たちをキリストにある復活に招き入れてくださる主のあわれみがあるのです。

|

2013年1月 6日 (日)

マルコ1412-26節「キリストのからだと契約の血を受ける幸い」

                                                          201216

イスラエルの民が繰り返し思い越すように命じられたのは出エジプトの出来事、神が彼らをエジプトの国、奴隷の家から連れ出してくださったことで、それこそ旧約聖書の中心テーマです。過越の祭りはそのためにありました。

クリスチャンが思い起こすことはキリストの十字架の贖いです。それこそ新約聖書の中心テーマです。聖餐式はそのためにあります。

そして旧、新約を貫くテーマとは「契約」です。なぜなら、そこに共通する「約」ということばは「契約」のことだからです。そして聖餐式こそ、その転換点でした。旧約と新約には連続性と非連続性があります。

 

使徒パウロはその違いを、「文字は殺し、御霊は生かす」と表現しました(Ⅱコリント3:6)。旧約の基本は、神が良い教えを人間に与えることによって人を変えようとしたという点にあり、新約の基本は、良い教えを実行できない人にそれを行う力を与えるという点にあります。

私たちは小さいころから、「こうしたらいいよ・・・」という教えを数限りなく受けてきています。それは本当に私たちに役立ちます。しかし、徐々に、「あなたは何度言ったらわかるの!まるで鶏と同じじゃない・・・」と言われるようになります。

イエスはそんな社会の落ちこぼれをご自分の弟子の中心に据えました。なぜなら新約とは、良い教えを実行できない者を内側から作り変えることにあるからです。まさに聖餐式こそは「新しい契約」(新約)の始まりです。あなたはそれを理解しながら聖餐式にあずかっておられるでしょうか。

 

1.「弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる」

1412節では、「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に」という記述があります。これは、イエスが十字架にかけられる前日、木曜日のことです。この日、人々はエルサレム神殿で過越しのいけにえをささげ、その夜に、過越しの食事をすることになっていました。ですから、遠方からの巡礼者にとって、過越しの食事にあずかるための場所の確保は非常に困難だったことでしょう。

そのような中で弟子たちはイエスに、「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか」と尋ねました。そこで、イエスは、弟子のうちふたり(ルカ228節によると、ペテロとヨハネ)を送って、「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい」と言われました(14:13)普通、水がめを運ぶのは女の仕事ですから、その人はすぐに見つかったことでしょう。

それはイエスが、事前に打ち合わせし、依頼をしていたと考えて良いかと思われます。なぜなら、弟子たちがその家の主人に、「弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる」と言いなさいということに対して、「するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます」と席の用意が既になされていると述べられているからです(14:1415)

 

イエスはそれを前提に、「そこでわたしたちのために用意をしなさい」と言われました。そして、その結果が、「弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした」という展開になっています(14:16)。肝心のことをイエスご自身が既に用意されたのです。

 

それにしても、イエスはなぜ、「どこどこの家で・・」と直接的に言われなかったのでしょう?私は最初、これはイエスの予知能力を示し、ご自分が十字架への道をすべて支配しておられることを示していると理解していましたが、今は、ここに、イエスの気遣いが見えてきました。

イエスが事前に具体的な場所を述べてしまうなら、それはユダを通して宗教指導者たちに知られ、この最後の晩餐の場が襲われたことでしょう。イエスはご自分が翌日には、十字架にかけられるということを知っておられましたが、それにも関わらず、また、それを知っておられるからこそ、この過越しの食事を、弟子たちにとっての最高の思い出のときになるように、あらゆる気配りをしておられたのです。

 

ルカの並行記事によるとイエスは、わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました(22:14、15)。「どんなに望んでいたことか」とは原文で、「切望し切望する」という言葉の重複で記され、この食事に対するイエスの思い入れが明らかにされます。

それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝うための食事でした。最初の過越のとき、イスラエルの民は、家族ごとに子羊一頭をほふり、その血を家の二本の門柱とかもいにつけ、その夜、その肉を火で焼いて家族でそろって食べ、旅の支度をしました。

真夜中に、主(ヤハウェ)は、エジプトのすべての初子を打ち殺しましたが、血を塗っている家は過ぎ越されました。それは神の怒りが過ぎ越すという意味がありました。そして今、私たちの前を、神の怒りが過ぎ越します。それによって、私たちは罪の奴隷状態から解放されます。

 

2.「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかった」

17節では、「夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき」と描かれますが、それは、一年で最も大切な過越しの食事の最中です。

そのようなときに、イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります」と驚くべきことを言われました(14:18)。それに対し、「弟子たちは悲しくなって、『まさか私ではないでしょう』とかわるがわるイエスに言いだした」と描かれます(14:19)

 

それでイエスは、「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です」(14:20)と言いますが、これは裏切り者をみんなの前であらわにするというよりは、「そのように親しい関係にある者が」という意味です。

福音記者ヨハネは不思議にも、これは詩篇41篇9節のダビデの告白、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」ということの成就であると記します(13:18)。そして、ダビデの詩篇には、そのような親しい友の裏切りを嘆く祈りが何度も出てきます(55:20など)。

そればかりか、ダビデ自身も自分を信頼していたウリヤを裏切り、騙し討ちにしています。つまり、信頼している人から裏切られるというのは、残念ながら、誰にでも起こりえることであり、また自分もそのような行動をとりかねないということなのです。

 

私たちは、ユダの裏切りの理由を考える以前に、神の御子は人が体験する最悪の痛みをすべて体験してくださったということを受け止めるべきでしょう。信頼していた人に裏切られるようなことがあるとき、裏切られた自分の側に甘さがあったとか、人を見る目がなかったなどと反省することも必要かもしれませんが、それ以前に、それはイエスご自身も体験された苦しみであるということの方に目を向けるべきです。

聖書はユダの裏切りの原因を分析しないことによって、これが誰にでも起こりえることであると示唆しているのではないでしょうか。

 

その上で、イエスは、「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言われました(14:21)。これは、ユダに最後の悔い改めの機会を与えるという意味があったのだと思われます。

もし彼がここで、自分の罪を認めることができていたら、自殺する必要も、地獄に落ちることもなかったはずです。

 

あるご老人は以前、「年を経るにつれて身軽になってきた・・」と言っておられました。それは、自分の期待通りに物事が進まないことを受け入れていった結果です。しかし、ユダの心は、イエスご自身を求めていたのではなく、イエスがもたらしてくれる富、力、栄誉などに目が向かっていました

あなたが誰かから愛されていると思う時、あなたは、自分自身が愛されているか、それともあなたが持っている何かを愛しているかを敏感に察知するのではないでしょうか。それなのに、あなたは、自分の中にあるユダの心には鈍感になってはいないでしょうか?

 

3.「取りなさい。これはわたしのからだです」

 そして、最後の晩餐の様子が、「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて」、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われたと記されます(14:22)。これは、過越の食事をまったく新しくすることばを述べます。これこそ現在の聖餐式で繰り返されていることばです。

この際、主はパンを手で掲げて祝福を祈り、ご自分の手で裂いてひとつひとつ弟子たちに分けてくださったのだと思われます。

その意味を後にパウロは、「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンはひとつですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(Ⅰコリント10:16,17)と説明します。

そして、ルカの並行記事によると、イエスはパンを与えながら、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました(22:19)。

 

主は、目に見えるパンを示しながら、「これはわたしのからだです」と確かに言われました。後の時代の人々はその意味を様々に解釈しました。

カトリック教会では、目に見えるパンはキリストの聖なる身体に変化したと解釈し、パンをご聖体と呼び偶像のように扱うようになりました。一方、私たち自由教会の父祖などは反対の極端に走り、パンは単なるシンボルに過ぎないからスーパーで買った食パンをナイフで切って与えても同じであると解釈しました。

しかし、私たちの教会では、できるかぎりイエスの最初の聖餐式を思い起こさせるパンを用いながら、イエスのことばに解釈を加えずに、そのまま素朴に味わう形を守りたいと願っています。

私たちはその尊い犠牲とされたキリストの身体をこの汚れた口から入れさせていただくのです。それは、私たちが聖なるキリストと一体とされることを意味します。

私たちはパンをいただきながら、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:20)と告白することが許されています。

 

4.「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」

23節では、イエスが「また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ」と描かれ、その際のことばが、「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」と言われたと記されます(24節)。

これは、モーセがシナイ山のふもとに作った祭壇で、契約の書を民に読んで聞かせた後、ほふられた雄牛の血をとって民に注ぎかけ、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主(ヤハウェ)があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8)と言われたことを思い起こさせる表現です。

 

ルカ2220節では、主は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われたと記され、その文章の基本は、「この杯は、新しい契約です」からなっていますから、杯とともに覚えるべきことは、何よりも「新しい契約」です。

しばしば、「あなたがたのために流されるわたしの血による」と説明された部分ばかりが一人歩きし、キリストの犠牲に習う生き方ばかりが強調される場合がありますが、原文では、「契約」の有効性を保障するためにこそキリストの血が描かれています

ですから何よりも、「新しい契約」の意味を思い巡らすことが大切です。それは、イエスが私たちに聖霊を与え、私たちを内側からイエスに似た者になるように造り変え、新しい身体に復活させ、新しいエルサレムの祝宴にあずからせてくださるというすべてのプロセスを指す約束です。つまり、この杯を受けるたびに、信仰を全うさせてくださるのはイエスのみわざであるということを覚えるのです。

 

つまり、イエスは、この最後の晩餐で、古い契約(旧約)に対する「新しい契約」をご自身の弟子たちと結んでくださったのです。私たちは聖餐式のたびに、キリストがご自身の血を流しながら、古い契約」を「新しい契約」に変えてくださったことを思い起こすのです。

ヘブル書の著者は、「もし・・雄牛の血・・を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけでキリストは新しい契約の仲介者です」(9:13-15)と記しています。

 

ギリシャ語ではこの「契約」と「遺言」は同じ言葉で表されます。英語(ドイツ語)でもたとえば新約聖書をThe New Testamentと呼び、そこには契約と遺言の両方の意味があります。

宗教改革者ルターは、「契約(遺言)とは、それぞれの約束のことではなく、死に行く者の最後の、訂正不能の意志であり、それによって彼の財産が、彼が相続させたい者に委譲される」と語り、主の最後の約束を思い起こすことが聖餐式の中心であるべきだと主張しました。

また彼は、イエスがパンと杯の両方を分ける際に、「わたしを覚えて、これを行いなさい(Ⅰコリント11:24,25)と言われたことの意味を、イエスは私たちに、「人よ、この約束を見なさい。このことばによって、わたしはあなたに、あなたのすべての罪の赦しと永遠のいのちを約束し、分け与える」と言っておられることにあると解説しています。

 

5.「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」

 そして、25節ではイエスは最後に、「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言われたと記されます。

これは「新しい天と新しい地」、または「新しいエルサレム」での「小羊の婚姻」の祝宴が実現するときを指します(黙示録19,20章)。

 

これは断酒の宣言でも、翌日の十字架での死に方の予告でもなく、イエスが私たちすべての弟子たちを天の御国の祝宴に招き、みながそろうのを待ち焦がれているという気持ちを表したものです。私たちは、一緒によみがえって、一緒に祝宴にあずかるのです。先に天に召された人も、その日までは「ぶどうの実で造ったもの」を飲むことなく待っています。

先に天に召された愛する人が、一緒によみがえる日を待ち焦がれています。そして、その時が必ず来ることを保証するのがこの契約の杯です。イエスがあなたの目に見える花婿になる時、それは、失った愛する人、尊敬する人に出会う時でもあります。天の祝宴の影が今ここにあります。

 

このイエスの最後の晩餐は、天の御国における小羊の婚姻の祝宴と直結しています。私たちはこの聖餐式のたびごとに、「新しい契約」の始まりと、「契約の完成」というふたつの時を記念するように招かれているのです。

パウロは、ピリピの教会に向けて、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と言いましたが、私たちはこの聖餐式のたびに、自分の罪に嘆き、信仰の弱さを思い起こしながらも、主ご自身が私たちの信仰を完成してくださるということを堅く信じることができます。イエスは聖餐式を通して、信仰の弱い者の信仰を励ましてくださるのです。

 

 その際、「私たちの過越の小羊キリストがすでにほふられた」(Ⅰコリント5:7)とあるように、イエスはご自身のからだをいけにえとしながら、過越の祭りに新しい意味を与えてくださいました。

パウロは私たちの救いを、「あなたがたは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」というサタンの奴隷からの解放、また「私たちもみな、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」という滅びからの解放として描きます(エペソ2:1-3)。つまり、私たちも裏切り者ユダの仲間だったのです。

 

 しかし、イエスのみからだと流された血が、「世の罪を取り除く神の小羊」としての新しい過越のいけにえとなってくださいました。私たちはその救いの御業を、目に見えるパンと杯を越えた現実を霊の目で見て、味わうのです。

今、キリストご自身が、私のからだを養うパンとして入って来て下さいます。また、キリストご自身の血が、くじけやすい私の心を慰め励まし、罪の赦しの確信を生み出してくださいます。

私たちはこのパンと杯を受けながら、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である(Ⅱテモテ2:13)ことを味わうのです。

 

6.「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」

ユダはイエスを裏切るという決心を固めた上でこの聖餐式にあずかり、イエスの恵みを徹底的に軽蔑し、自滅してしまいました。恵みの機会が滅びの機会となってしまったのです。

後にパウロはこのユダの悲劇を思いながら、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(Ⅰコリント11:29)と言ったのかもしれません。

なおこれは、自分の罪深さに嘆き、良心の呵責に悩む人を退けることばでは決してありません。事実、パウロはこの直後に、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(同11:31)と言っています。これを結びつけると、聖餐式にあずかることができる条件が見えてきます。

 

聖餐式にあずかる人は、何よりも、このパンと杯が、単なる普通の食事ではなく、キリストがご自身を十字架で犠牲とされたみからだと血をあらわすものであるということを信じている必要があります。それは十字架の福音の核心を受け入れているという意味です。

それと同時に、イエスが十字架にかかられたのは、自分の罪のためであると認めている必要があります。多くの人は、自分を一方的な被害者にまつりあげることで天才的であり、「私は悪くはなく、相手が悪い・・」と思い込んでいます。しかし、そのような気持ちのままこの聖餐式にあずかってはなりません。私たちは人の痛みをいつも自分の尺度でばかりはかり、本当の意味で人に共感することができません。しかし、それが行過ぎるとユダの心になります。

ですからこの聖餐式にあずかるときは、自分にもユダの心があることを認めながら、同時に、ユダのようにイエスの恵みを軽蔑するなら救われないという恐れをもって臨む必要があります。

 

私たちが幼児や子供にこの聖餐式にあずかっていただくのをご遠慮いただいているのは、彼らがまだ自分の罪深さを反省する能力が十分に育っていないと思うからです。イエスの十字架による罪の赦しの大きさを感動しつつ、この聖餐式にあずかることができるときを期待するからこそ、その機会を遅らせるのです。それは、聖餐式のありがたさをわきまえるようになってからあずかってほしいという意味です。

それからすると、大人の方でも、この聖餐式のありがたさをわきまえておられないなら、それがわかるまで待っていただきたいということになります。

 

聖餐式こそ初代教会以来の礼拝の中心でした。ただその中で、人々は聖餐式のパン自体に神秘的な力を求め、みことばを軽視するようになりました。宗教改革はみことばの朗読こそ礼拝の中心であるというところから始まっています。

しかし、それが行き過ぎて、イエスが聖餐式において言われた「新しい契約」の意味を忘れ、文字と説教による「教え」ばかりが先行する教会が生まれてきたのかもしれません。しかし、「文字は殺し、御霊は生かす」とあるように、外からの文字による教えは私たちの心に自己嫌悪と失望感を引き起こします。

それに対し、「それが良いことだとわかってはしても実行できない」と自分に失望する人に、慰めと力を与えるのが新約の福音です。

聖餐式においては、イエスご自身が、私たちを生かすためのパンとなり、忘れっぽい私たちのためにご自身の血によって新しい契約を思い起こさせてくださるのです。

そして、それを導くのはキリストの御霊の働きです。聖霊は、聖餐式を通してキリストとの出会いを起こし、私たちの内側に住んで神のみこころを実行させてくださいます。

|

2013年1月 1日 (火)

ピリピ人への手紙2章1節~18節 「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」

                                          201311

私たちはそれぞれ、他の人から見たら不思議に思えるほどの、偏りやこだわりを持ちながら生きているのではないでしょうか。イエスは、人間的な観点から言うと、なぜ十字架にかけられたのでしょう。それは当時の感覚から言ったら、あまりにもバランスを欠いた「過度」のゆえではないでしょうか?世の人々から尊敬を集めている宗教指導者の偽善をあばいて徹底的に批判し、一方で、やくざのような人と仲良く食事をしたのです。

私たちは誰の目からも評価されるようなバランスの良い生き方よりも「いのち」の輝きを求めたいものです。ある方が次ぎのように書いておられます。

「いのちあるものは、何らかの意味で必ず過度です。燃えているものです。それは不純なものを焼き尽くし、透明であることを目指して燃焼し続けるものです。そうでなければ、いのちはいのちの名に価しません」

 

1.「キリストは神の御姿である方なので、ご自分を無にされた」

 マリヤもヨセフも羊飼いも天使も登場しないクリスマス物語があります。それは、パウロがローマで捕らわれの身となりながら、ピリピ教会の不一致のことで心を痛めて書き送った手紙の中にあります。

その核心は、「キリストは・・ご自分を無(空虚)にした(2:6,7)ということばで、「何事でも、自己中心(自分を前面に出したい思い)や、虚栄(むなしい栄光を求める思い)からすることなく、へりくだって(自分を卑しくする思いで)互いに人を自分よりすぐれたもの(自分の上座に座るべき人)と思いなさい」という意味です(2:3)

そして、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです(2:5)と、キリストの物語が描かれます。

 

クリスマスは、「太陽をお造りになった神様が、赤ちゃんになった日」と表現したほうが良いかも知れません。確かに全世界を創造されたのは父なる神ですが、御父は、御子との交わりの中で、御子を通して、世界を創造されたのです。

それは、御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって(in)造られたからです。すべて、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も。万物は、御子によって(through)、御子のため(for)に造られているのです。御子は、万物の先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ1:15-17)と記されている通りです。

 

そのことが、「キリストは神の御姿である方」(2:6)と表現されます。キリストは、父なる神と同じように何でもおできになり、死ぬこともなく、この世のすべての束縛から自由な方です。

その方が、「神と等しくあることを奪い取ろうとは考えず、ご自分を無にして・・」と原文で記されます。キリストは御父と同じ本質をお持ちになりながらも、立場においては「」であられます。当時の文化では、家庭の父には絶対的な権威があったように、父なる神こそがすべての源、善悪の基準、すべての支配者であられ、御子はそれに「従う」ことが期待されていました。

ですからここは、キリストは御父と同じ思いで世界をお造りになった御子であられるからこそ、神(御父)の権威を侵害しようなどとは思われることもなく、それと正反対の「仕える者」(原文では「奴隷」)の「姿」を取ることができたとも解釈できます。

 

それにしても、キリストは、人の上に立って権威をふるう代わりに、「ご自分を無にされた」(2:7)というのです。昔、「私は、釘(ネイル)であるよりはハンマーでありたかった・・・」(サイモンとガーファンクル:「コンドルは飛んで行く」)という歌がありましたが、キリストは、世の悪を打つハンマーになることができたのに、悪人から打たれる釘になられました。

そして、釘が二つのものを結びつけるように、主は、神と人、人と人とを和解させてくださいました。

 

2.「この方は・・・ご自分を卑しくされた」

そして、「人間と同じようになられた」ということばは、「人としての性質をもって現われ」と言いかえられます。その意味は、この肉体が持つ不自由さをその身に引き受けることです。私たちは、腹が減ると力がなくなり、気力も萎え、心も不安定になります。また人から誤解されたり非難されたりすると心が痛みます。理解してくれる友がいないと耐えられない孤独感に陥りますが、主はその同じ「性質」を持たれたのです。

また、主は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)とあるように、生きることの痛みや悲しみを体験され、その中で、肉体から生まれる様々な欲望と戦い、それを制する必要すらあったのです。

 

そして何よりも、キリストが「人となった」ことで、「死ぬ」ことが可能になりました。そのため主は、御使いのように、一時的に人間の姿を借りることをなされずに、私たちとまったく同じように、母胎の中の胎児の姿から成長して誕生するというプロセスを通られました。太陽をお造りになった方が、マリヤの乳房を吸い、マリヤと対話しながらことばを覚え、成長されました。何という不思議でしょう。

全世界の創造主は、死の危険と隣り合わせの中に生まれ、あの貧しいヨセフとマリヤがいなければ一瞬たりとも生きて行くことさえできないひ弱な赤ちゃんとなられたのです。

 

そればかりか、主は、肉体の自然の死ではなく、「死にまで、実に十字架の死に従う」ほどまでに「自分を卑しくされ」ました(2:8)。十字架刑は、極悪人のしるしです。人がその言葉を聞くだけで、恐怖にふるえるほど、残酷で、あざけりとののしりに満ちた刑罰でした。イエスはそこで、人としてのすべての尊厳を奪われました

人にとって栄誉とか誇りは命よりも大切なものですが、それらを捨てられたのが、「自分を卑しくする」ということでした。イエスは、共感され、理解されたいという人としての自然な思いと戦いながら、父なる神への従順を選ばれたのです。

 

そして、これらすべては、「あわれみ深い忠実な、大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようになり・・・民の罪のために、なだめがなされるため」(ヘブル2:17)とあるように、イエスが真の私たちの罪人の兄弟となるため、しかも、人の中でも最も軽蔑された人の兄弟となり、彼らと同じ苦しみを自ら体験され、彼らのすべての罪をその身に負って、罪の「奴隷」となっている人を救い出すためでした。

 

なお、十字架が全人類の罪の贖いとなり得たのは、イエスが単なる人間ではなく、神の御姿」を保たれたままの創造主であられたからです。

イエスがあなたの創造主でなければ、どうしてすべての罪を贖うことができるでしょう。しかし、真に、「キリストは神の御姿であられ・・・奴隷の姿を取り、人間と同じようになられた」(2:6,7)のでした。

 

3.「それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになりました」

 それゆえ神は、この方を高く上げて・・・」(2:9)とは、イエスが「ご自分を卑しくされた」ことに、神が応答してくださったとの意味が込められています。

これは、イエスが、「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と言われたのと同じことばの用い方です。ただ、ここでは単に「高く」ではなく、「すべてにまさって高くされた」という意味が込められた表現になっています。

 

  そして、「キリストが・・ご自分を無にされた」ということに応えて、「神は・・すべての名にまさる名を与えられた」と言われます。それは、自分を空っぽにする者を、神が最高の栄誉で満たしてくださるということです。

 

その目的が、「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:10,11)と記されます。

すべてが、ひざをかがめ・・」とは、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない・・・すべてのひざはわたしに向ってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う」という預言の成就です(イザヤ45:22-24)。

 

それは本来、父なる神が受けるべき栄光を、御子が受けるということです。それによって、「父なる神がほめたたえられる」(2:11)のです。御子が自分を卑しくされた結果、御父と等しい栄光をお受けになられました。なお、「地の下にあるもののすべてが・・」(2:10)とは、サタンさえもイエスの前にひざまずくということが宣言されています。

 

残念ながら、歴史は、人が、その時々の権力者によって不条理に苦しめられ、振り回されるという事例に満ちています。しかし、キリストは、支配する側ではなく支配される側、裁く側ではなく不当なさばきを受ける側を敢えて選ばれ、そのただ中でいのちを輝かされました。

なぜならイエスは、すべての不条理を、ご自身の時にご自身の方法で正すことができる全能の父なる神を知っていたからです。その「いのち」が今、あなたに宿っています。

 

4.「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」

その上でパウロは、「そういうわけですから・・・私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(2:12)と彼らを励まします。多くの教会では、「イエス様を信じた者は既に救われています!」と言いますが、それに矛盾する?ことが言われているかのようです。

それはパウロがいつも、「救い」ということばを「死者の中からの復活」(3:11)と結び付けて語るからであり、「救われた」とは、将来の救いが保証され、復活のいのちが既に私たちの内側に生きていることを意味するからです。

 

私たちは「栄光の復活」という信仰生活のゴールをいつも心にさやかに描きながら生きるべきです。たとえば、乱れた生き方をしていた人が、スポーツの試合に出ようとしたとたん肉の欲を制することができるようになったという話があります。意思の力というより、人生の目標こそが、人の内側に変化を引き起こすのです。

 

多くの人は、「私の信仰・・聖さ・・寛容さ・・」などと、心の目が自分に向いすぎて自己嫌悪に陥り、前進する力を失っています。しかし、マザー・テレサの目が寄る辺のないひとりの人に釘付けにされ、小さな一歩を踏み出したとき、その内側に予想もしなかった力が沸き起こったばかりか、まわりの人々をも愛の奉仕へと動かすことができました。それらの力はすべて、神からの賜物だったのです。

 

心に大きな不安や葛藤を抱え、自分を責めてばかりいる方にお話をすると、よく、「このままで良いんですね・・・」という反応が返ってきますが、私は、「そのままの姿でイエス様について行ってください」と言い変えるようにしています。

それは、心の目を、自分ではなくキリストの姿に、神でありながら、奴隷の姿になるほどにご自分を無にされ、十字架の死に従うまでにご自身を卑しくされた姿に向けていただくためです。それは、這い上がろうとする代わりに、人の下に置かれることを願う生き方です。

そこには今までとは違った「恐れとおののき」(2:12)が生まれます。それは人と自分を比べた劣等感のようなものではなく、高い崖の上からハング・グライダーで飛び降りるような思いかも知れません。しかし、そこには、何と言う自由と喜びが待っていることでしょう!

それは、自分の肉の欲望に駆られた冒険ではなく、キリストの生き方に習う冒険です。あなたは自分の無力さや汚れに圧倒されるでしょうが、そのただ中で、自分のうちに働く神の力を体験できます。

しかし、「前に進め・・」との神の召しを感じながらも、誤解や中傷を恐れて躊躇するなら、恵みの機会を自分で閉ざすことになるのです。

 

5. 神は、あなたの意思と行いのうちに働いて、みこころを成し遂げられる

  「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」(2:13)とは、人の責任神のみわざの関係を表わす中心聖句です。私たち自身が「救いの達成に努める」ことこそ「みこころ」ですが、そのために神は、私たちのうちの「意思(志)」と「行い(働き)」の両方に「働いて」くださいます。

つまり、信仰生活は、外からは人間のわざのように見えても、それを内側から動かしているのは神の御霊の働きなのです。

 

「あなたがたのうちに働いて」での「働く」とは、原文で、エネルギーの語源となるギリシャ語が使われています。私たちは、神秘の雲に包まれた神の栄光を把握することはできませんが、神の本性が外に向かって働き出る様子を見ることはできます。

神のみわざは、私たちのうちに志が立てられ、事が行われるという中に見られるのです。

 

それはヨットと風の関係に似ています。操縦する者は、自分でヨットを動かす努力ではなく、帆の方向を調整し、風の力にヨットをまかせる訓練を積む必要があります。肉の力で敬虔な生活を目指すと、パリサイ人のように自分を誇り他人を軽蔑することになります。しかし、自分の「意思」も「働き」も聖霊のみわざに開くとき、この「私」ではなく、「キリストのすばらしさが現わされる」(1:20第2版)ようになります。

そこでは、「つぶやき」と「疑い」の代わりに(2:14)、神とまわりの人々への称賛と感謝が生まれます。私たちは知らないうちに、名誉欲や見捨てられ不安、怒りやねたみなどの思いに駆り立てられ、休むこともできずに働き続けてしまうようなことがないでしょうか。

 

しかも、その結果、「非難されるところのない純真な者」(2:15)に変えられると約束されています。ただし、イエスご自身でさえ人々から非難されたのですから、それは、家族や同僚や上司の期待に添う生き方を目指すことではありません。

また、それは、今置かれている場で、傷のない神の子供」とされることでもあります。これらは、あなた自身が、「私は聖められた!」と自覚できるようなことではなく、イエス様だけを見上げているその瞬間に繰り返し起こることだと思われます。しばしば、自分の「聖め」を測る人は、傲慢か絶望かで心が揺れることになります。

 

そして、イエスご自身があなたのうちに生きておられるときに、必然的に「曲がった邪悪な世代の中にあって・・世の光として輝いている」(2:16)状態にあるのです。

これは、「輝きなさい!」という命令形ではなく、「約束」です。確かに、あなたの目には自分の闇しか見えないかもしれませんが、心の眼が自分ではなくイエスに向けられているとき、これは必然的に起こる聖霊のみわざです。

なお、その際、私たちはイエスにみことばを通してしか出会うことができませんから、常に、「いのちのみことばをしっかり握っている」ということが求められています。

 

6. 「私は・・・キリストの日に誇ることができます」という期待から生まれる「喜び」

  続けてパウロは、「そうすれば、私は・・・キリストの日に誇ることができます」(2:16)と言います。彼はイエスに習って人からの栄誉を捨てることによって、キリストの再臨の日に、神からの栄誉を受けることを期待しています。それは、この地にあって、キリストの生涯を再現することでもあります。

キリストがこの地に遣わされ、人々に対して父なる神がどのようなお方かを目に見えるように現されたように、パウロもキリストによって遣わされ、この地で主のみことばを伝えました。人々が「いのちのみことば」を自分のものにすることを助けるのが彼の使命でしたから、彼の「誇り」はその一点にかかっていました。私たちも、働きの成果ではなく、使命への忠実さを意識すべきでしょう。

 

彼は、「そうすれば自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではない」(2:16)と言いつつ、「たとい私が・・注ぎの供え物になっても・・」(2:17)と付け加えます。これは、動物のいけにえに添えられるぶどう酒や強い酒のささげ物のことで、自分の殉教の死を示唆しています。

ピリピ教会の人々はパウロの釈放を日夜祈り続けていましたが、彼は、ピリピ教会の人々が自分たち自身を「信仰の供え物また礼拝」として献げる際の添え物になることで満足するというのです。

それを、「私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように喜んでください。私とともに喜んでください」(2:17,18)と、「喜び」ということばを四回も繰り返します。そこにあるのは、地上的な働きの結果に左右されることのない、本当の「いのちの喜び」です。

 

「善行を積んだら良い報いが来る。罪を犯したら災いに会う」とは、どの宗教でも、道徳でも言うことですが、キリストもパウロも、人間的には悲惨な最期を遂げました。ですから、真の「いのちの喜び」は、キリストの日」(救いの完成のとき)を目の前に描かない限り実現できないものです。

なお、目の前に予期できない悲しみばかりが起こる世の中で、「いつも・・喜びなさい」(4:4)という命令は、まるで偽善の勧め?にしか聞こえないということもあるかも知れませんが、何よりも大切なのは、「主にあって」ということばです。

救いのみわざの核心は十字架と復活ですが、それは、イエスがご自分を無にした結果、神が彼をはるかに高く上げてくださったという神の物語です。

その中で、自分の人生の物語を見直すときに、状況に関わりなく喜ぶことができるようになります。誤解され中傷され、また努力が実を結ばないように思えるようなそのときこそ、あなたは主の十字架の御跡に従っているのかも知れません。

 

 パウロはピリピの教会に向けて、「恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです(ピリピ2:1213)と語っていますが、それは、私たちは自分の救いの完成を恐れとおののきのうちに目指し続けなければならない一方で、それは、人間的な努力ではなく、神のみわざがあなたのうちになされることによってのみ可能であるという逆説です。

 

その結果、私たちは、「彼らの間で世の光として輝く」(2:16)ことができます。その際、私たちに求められているのは、私たちのこころをイエスに明け渡して、イエスご自身に生きていただくことです。世の人々には、やり過ぎ、バランスを欠いたものにしか見えないかもしれません。しかし、そこにこそキリストのいのちの輝きがあります。

 

それは、具体的に言うと、主の前で静まりのときを持ちながら、その中で自分のうちに湧きあがってくる熱い思いにすなおに身を任せることではないでしょうか。そのとき、あなたの信仰の友さえ、あなたに向かって、「それは分不相応だ・・それはやり過ぎだ・・あなたに向いている働きではないのでは・・・」と言うかもしれません。

しかし、私たち自身の歩みを振り返ってみても、人との出会いや働きは自分で選び取ったというよりは、自分が選ばれたものだと思います。

また、人によって、とうてい自分には不可能と思える大きな働きや課題が、目の前に迫ってくるかも知れません。そんなときまず、人間的な能力の判断やバランス感覚でその思いにブレーキをかけるのではなく、まず身をまかせてみてはいかがでしょう。

それが本当に神から出たものか、自分の人間的な思いなのかは、しばしば進んで見なければ分からないことです。クリスチャンの特権は、何よりも、やり直しができるということです。

 

それにしても、確かに、自分勝手なこだわりや思いこみによって、まわりの人々を振り回してはいけないのはもちろんのことです。ですから、ここでは「いのちのことばをしっかり握って・・・」と強調されています。自分で自分の心にブレーキをかけるのではありません。キリストは、現在、ご自身が記した聖書のみことばを通して私たちの心のうちに働きかけるのです。

積極的にみことばを心に蓄え、みことばに思いを巡らし、みことばがあなたのうちに根をはって、あなたの思いを動かすように心を明け渡して見ましょう。神の働きが、あなたのうちに全うされるのです。

それはあなたの力によるのではなく、神のエネルギーです。それに身をまかせて、失敗や非難を恐れず、大胆に世に出て行きたいものです。生きる力、意欲を削ぎ取ることばが、しばしば、そこには善意を伴って、私たちの内側に語りつづけます。そんなマイナスのことばに身をまかせてはなりません。

「いのちの喜びを削ぎ取ることば、あなたの意欲を否定することば」ではなく、「いのちのことば」「いのちの喜びを生み出すことば」に耳を傾けましょう。

|

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »