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2013年2月24日 (日)

ヨエル2:18-3:28「主に呼ばれて主を呼ぶ者の集まり」

                                                  2013224

 今も昔も、信仰者たちは、「おまえの神はどこにいるのか」(詩篇42:3,10)という嘲りを受けることがあります。私たちはそこで、「主は私たちの交わりの真ん中にいてくださいます」と答えるべきなのですが、ふと、「主が真ん中におられるなら、なぜ、どこの教会にもこうも面倒なことが起こるのでしょう・・」と言いたくなることもあります。

しかし、私たちは「この世の取るに足りない者(Ⅰコリント1:28)の中から、その欠けだらけのままで「呼び集められた者の集まり(ギリシャ語の教会「エクレシア」の意味)」に過ぎません。神の家族と言いますが、家族ほど怖い集いもありません。

不思議なのは、そんな面倒な集まりに次から次と、人が集まってくることの方ではないでしょうか。私たちの欠けを見るとき、聖霊のみわざは見えなくなります。聖霊のみわざは、「にもかかわらず・・」という逆説の中に見られます。私たちは希望によって結ばれた集まりであり、希望を持てること自体が聖霊の圧倒的なみわざです。

 

なお、ヨエル書のテーマは「(ヤハウェ)の日」ですが、それは新約では、キリストの再臨の日として描かれます。それが最も印象的に記されているのはペテロ第二の手紙33-13節で、そこでは「キリストの来臨の約束はどこにあるのかと嘲る者たちに対しての答えが、「当時の世界は・・洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は・・火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです・・

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます・・・

その日が来れば・・天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記されています。

 

この世の人々にとっての「主の日」とは、目に見える世界が滅びるさばきのときですが、私たちにとっての「主の日」とは、「正義の住む新しい天と新しい地」に栄光の復活の身体で入れていただく希望の日です。

 

1.「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」

ヨエル1章ではいなごの大量発生の被害を受けて、主に向かって泣き叫ぶようにとの勧めが記されていました。そして115節、212節では「(ヤハウェ)の日」が全能者による破壊の日、「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日」として描かれ、「いなご」の大量発生の中で、「主(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる(2:11)と恐ろしいことが記されていました。

多くの信仰者は、このような主のさばきを謙遜に頭を下げて静かに受け止めるのが主のみこころかのように誤解しがちですが、ヨエルはそこで、「断食と、涙と、嘆きとをもって・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ・・主は・・わざわいを思い直してくださるからだ・・・主が立ち返って、思い直し、その後に祝福を残してくださらないと誰が知ろう」と訴えます(2:12-14一部私訳)

主は、罪に対して自動的なさばきを下す方ではなく、私たちの祈りに応えてご自身のみこころを「思い直し」てくださる方なのです。

 

そして、そこで主に仕える祭司たちが、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょか」(2:17)泣いて訴えるべきであると記されています。

 

218節では突然、「(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」と記されます(ESV訳ではThen the LORD became jealous for his land and had pity on his people.)。「ねたむほど愛し」ということばは原文では「ねたまれた」とのみ記されています。

「ねたみ」は自分に属するものにたいする排他的な熱い情熱で、「」と表裏一体の感情です。それはここでは、イスラエルの「ゆずりの地」が、「諸国の民のそしり」「物笑いの種」とされていることから生まれています。

そして、「ご自分の民をあわれまれ」とは、主がイスラエルの民の痛みや悲しみに徹底的に共鳴して、彼らの問題をすみやかに解決してくださるという強いご意志の現れです。

 

そして、「(ヤハウェ)は民に答えて」、「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する」と言われます(19)。これは神による驚くべき逆転で、泣きわめいていた民に「満足」を与えてくださるというのです。

そればかりか、主は、「わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない」と言われます。それは17節にあったような「あなたの神はどこにいるのか」という嘲りを受けることが「二度と・・ない」という力強い保障です。

そして、イスラエルに壊滅的な被害を与えた「いなご」の大集団に関して、わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る」と言われます(20)

なお、当地の「いなご」の襲撃は東か南から来るのが一般的ですから、それを「北から来るもの」と呼ぶのはあり得ないという解釈もありますが、いなごの襲撃が敵国の大軍隊に重ねられていることを思えば、この記述は不思議ではありません。イスラエルを滅ぼす敵は、アッシリヤ帝国にしてもバビロン帝国にしても必ず、北から来るからです。

 

2.「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り・・」

21-23節は「恐れるな」ということばが文頭で二回繰り返され、「楽しみ喜べ」ということばが「地」に対してと同時に「シオンの子ら」に向けて重ねて語りかけらますが、原文の語順を生かすと次のように訳すことができます。

 

恐れるな。地よ。楽しめ。喜べ。主(ヤハウェ)が大いなることをされたからだ。

恐れるな。野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る・・・

シオンの子らよ。楽しめ。あなたがたの神、(ヤハウェ)にあって喜べ

主は、あなたがたを義とするために初めの雨を与え、以前のように、初めの雨後の雨という大雨を降らせてくださるからだ。

イスラエルには短い二度の雨季の他にはほとんど雨が降りません。「初めの雨」とは、秋の雨とも呼ばれ、10月末から12月初めの間に降り、夏の日照りを潤します。また「後の雨」とは「春の雨」とも呼ばれ3月から4月にかけて降り、蒔かれた種が渇くことがないようにします。

主はかつて、「主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨とを与えよう』」と言われる一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」ときには、「主(ヤハウェ)の怒りが・・燃え上がり、主が天を閉ざされ・・雨が降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは・・その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう(申命記11:13-17)と警告しておられました。

神ののろいと祝福は、この二回の短い雨季に最も分かりやすく現されていました

 

そして、神がいなごを追いやり、雨を降らせる結果が、24-26節では、「打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった(飛びいなご)、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)の名をほめたたえよう」と描かれます。

ここでは14節での四種類のいなごが別の順番で記されながら、いなごによって失われた「穀物、ぶどう酒、油」に関して、「わたしはあなたがたに償おうと言ってくださいます。

償う」とはシャローム(平和、平安)の動詞形で、完成の状態を創造するという意味があります。神がいなごを送ったのはイスラエルの罪をさばくためでしたが、終わりの日には、ご自身が、まるで彼らに悪い事をしたかのように、彼らの苦しみに対する「償い」をしてくださるというのです。

あなたが神に立ち返り続けるなら、あなたの人生は、一時的に不幸な状態に陥ったとしても、必ず帳尻があった状態へと回復されます

 

そしてそれを受けて、「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」ということばが二度繰り返されながら、それに挟まれるようにして、「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはないことを知る」と記されます(2:26,27)。

これは、「彼らの神はどこにいるのか(2:17)という嘲りに対する神の答えです。そして、今、神は私たちキリストの教会の交わりの真ん中にいてくださいます

 

3.「しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」

そして、22832節のみことばを使徒ペテロはペンテコステの日に引用しながら、聖霊が弟子たちの上に、「炎のような分かれた舌」として現れ、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」という不思議な現象が、ヨエル書の預言の成就であると語りました(使徒2:1-21)。つまり、キリスト教会の誕生は、ヨエル書を抜きに語ることはできないのです。

そして旧約と新約の違いは何よりも聖霊が与えられることです。そのことがここでは「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」と描かれます。旧約では、初代の王サウルの上に「神の霊が激しく下って預言をした(Ⅰサムエル10:10)などと記述があるように、神がある特定の人を選んで、聖霊を注ぎ、ご自身の働きに用いられるということがありましたが、約束の地の祝福の回復の「その後」という「終わりの日」(使徒2:17)には、老若男女ばりか奴隷を含めたすべての種類の人々に聖霊を注いでくださるというのです。

「預言し」「夢を見」「幻を見る」とは、すべて神の救いのご計画の全体像が把握できるという聖霊のみわざのことを語っています。

パウロは後に、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と記しましたが、それこそ聖霊の働きの核心です。

 

そして、その聖霊は何よりも恐怖に満ちた主の日のさばきから、人々を救うためのものであるという意味で、「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われると記されます。

 

なお使徒パウロは、2627節の「わたしの民は永遠に恥を見ることがない」ということばを意識しつつ、「彼に信頼する者は失望させられる(恥を見る)ことがない」と言いながら、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と述べ、その根拠にこの箇所を引用して、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言いました(ローマ10:11-13)

 

つまり、主の最後の審判から救い出されるのは、私たちが主の一方的な恵みによる聖霊を受けて主の名を呼び求めることによるのですが、パウロがそこで「」と呼んだのは、父なる神であるよりもイエスを指します。なぜなら、その直前に、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」とあるからです(10:9,10)。救いを語る基本にヨエル書の引用があります。

 

また救いを神の一方的な選びとして説明する背景に、この32節の記述があります。そこでは、「主(ヤハウェ)が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、(ヤハウェ)が呼ばれる者がいる」と、「のがれ」「生き残った者」たちとは「主が呼ばれる者」であると記されます。

使徒パウロはイスラエルの救いに関して、「今も、恵みの選びによって残された者がいます(ローマ11:5)と語っています。

 

(ヤハウェ)呼ばれる」とは、具体的には、聖霊が私たちの心のうちに語りかけてくださることを意味すると思われます。その結果として私たちは「(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」という恵みに預かったのです。

私たちは、主に呼ばれ」て、「主を呼ぶ者」となったのです。しかも私たちはみな、外からの強制によってではなく、自分の意志で主を礼拝するために集まっていますが、その私たちの意志に働きかけるのが聖霊です。

そして、私たちが聖書を読んで感動し、主の教会の一部として奉仕に加わっているのは、神の霊が注がれた結果です。

 

4.「(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いから」

 3章初めでは、「見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく」と記されます。

ヨシャパテの谷」とは、具体的な地名と言うよりは主の最後の審判の場を指すと思われます。なぜなら「ヨシャパテ」とは「ヤハウェは裁かれた」という意味であり、312節では「さばきの座」と言い換えられ、314節では「さばき(審判)の谷(the valley of decisionと呼ばれるからです。

つまり、神の民にとっての救いの時とは、その敵の国々へのさばきのときでもあるというのです。

 

そして3節では、その理由が、「彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らしわたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子ども(少年)を遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ」と描かれ、4-6節では、「ツロとシドン」、また「ペリシテの全地域」という地中海岸の国々に対するさばきが宣告されますが、そこでは特に、「ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ」と、神の民を奴隷に売ったことが非難されます。

そして、それに対する主の報復が、「見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る(3:78)と宣告されます。

奴隷として売られた神の民は約束の地に戻されるばかりか、彼らを売った張本人の子ともたちが神の民の奴隷とされ、また海の民がアラビア砂漠の南に住むシェバ人にまで売られてしまうという逆転が記されます。

 

 9-11節は神の民の敵たちに対する皮肉に満ちた呼びかけで、「聖戦をふれよ」とは「戦いに専念せよ」というような意味で、「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ」とは、神の民の敵は自分たちの農民たちに農耕の道具を武器に造り変えさせていることで、「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」というのも皮肉に満ちた呼びかけです。

そして、「回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ」というのも、神の民の敵に対する呼びかけです。なお、11節終わりの「主(ヤハウェ)よ。あなたの勇士たちを下してください」という訴えは意味が良くわかりませんが、これは、神の民の敵たちの終結を見た神の民の叫びだと思われます。

 

 そして、12節では、「諸国の民」を、神の最後のさばきが下される「ヨシャパテの谷」に集め、主はそこで、「回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着く」と言われます。

そして、「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ(13節)という表現は、黙示録1419節では、「御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きなさかぶねに投げ入れた」と描かれます。

そしてヨエルは続けて、「さばきの谷には、群集また群集。主(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いからだ(For the day of the LORD is near in the valley of decision.)」(14節)と記しますが、これは機が熟した結果として、神の民の敵たちが皮肉にも、自分から進んで主のさばき(審判)の谷に近づいてくるという意味です。

 

 この終わりの日の「さばき(審判)の谷」のことに関しては、黙示録では「ハルマゲドン」として描かれていると思われます。終わりの日に、悪霊どもは全世界の王たちを、愚かにも神との戦いに動員しますが、その最後の戦いの場がハルマゲドンと呼ばれます(16:13-16)

しかし、そこに「王の王、主の主」であるキリストが白い馬に乗って天の軍勢と共に下って来られ、たちどころに神の民の敵を滅ぼしてくださいます(19:11-21)

一時的には、神の敵が全世界を支配するように見える中で、神の民に求められることは、富にも権力にも惑わされずに、キリストに忠誠を誓い、主を賛美し、礼拝し続けることだけです。私たちはそのときに決して、武器を手に取る必要はありません。

 

  1516節では、再び世界の終わりと思われるしるしとして、「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と描かれながら、「(ヤハウェ)はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、(ヤハウェ)は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである」と、主に身を避ける者への平安が約束されています。

 

1718節では、イスラエルの民の希望が、「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主(ヤハウェ)の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」と記されます。

シティム」とはアカシヤの木々で、契約の箱を作る材料に用いられました(出エジ25:10)。この「シティムの渓流」は、終わりの日にエルサレム神殿から水が湧き出て死海に注ぎ、その川の岸にはあらゆる果樹が実をならせるというエゼキエル47章、黙示録22章の記述に結びつきます。

 

 最後に、神の民に敵対した国々へのさばきと、エルサレムの祝福が告げられます。いなごの大量発生から始まった本書は神の民の敵に対する「血の復讐」3:21)で終わるように見えますが、その最後のことばは、(ヤハウェ)はシオンに住む」です。

これこそ、「国々の民」が、「彼らの神はどこにいるのか」と嘲ったことに対する答えです。

 

  イエスは今、私たち信仰者の交わりのただ中に住んでいてくださいます。それは、主ご自身が、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)と言われたとおりです。

またヘブル1023-25節では、迫害を恐れ、自分たちだけの閉ざされた礼拝を守ろうとする人への警告として、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と記されます。

私たちはともに集まって、共通の希望を告白し、愛と善行を促し合う必要があります。信仰生活は、一人で神に召されることから始まりますが、それは共同体的な営みであることを決して忘れてはなりません。

そして、希望が真の意味で共有されるとき、そこにはキリストにある真のコイノニア(愛の交わり)が自然に生まれます。

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2013年2月17日 (日)

ヨエル1:1-2:17「主に向かって叫ぶ者の幸い」

                                                  2013217

 私たちはときに、「取り返しのつかない失敗を犯してしまった」という後悔に苛まれることがあります。しかも、その失敗から生まれたわざわいの背後に神のさばきを見るときに、絶望感が深まることがあります。

しかし、どんな状態からでも私たちは主に立ち返ることができます。主に赦すことができないほどの罪はありません。そこで求められているのは、何よりも、主に「立ち返る」ことです。わざわいの中で、なお泣いて主にすがることです。私たちはどこかで悔い改めを、自分の意志で自分の行動を変えることと誤解していないでしょうか。

 

 ヨエル書はホセア書とアモス書の間に置かれていることからその同じ時代に記されたという見方がある一方で、その黙示的な文体や諸国の描き方のゆえにマラキよりも後の時代の、旧約聖書でもっとも新しい書であるという見方があります。

なお、本書の構成はバビロン捕囚のさばきを告げたゼパニア書と非常に似ている面がありますが、最近の学者は捕囚帰還後の第二神殿回復後の紀元前500年頃という見方も増えています。

どちらにしても明確な時代を特定できない以上、時代を超えたメッセージをここから読み取ることが大切ではないかと思わされます。

 

1.「これをあなたがたの子どもたちに伝え・・・その子どもたちは後の世代に伝えよ」

 この書の始まりは、「ことば、ヤハウェの、それはヨエルにあった、ベトエルの子の」と記されています。とにかく、ここに記されているのは「主(ヤハウェ)のことば」であり、それが「ベトエルの子」という以外には素性のわからない「ヨエル」という預言者に示されたということです。彼の名には、「ヤハウェは神」という意味が込められていました。

 

その上で、「聞きなさい、これを、長老たちよ」と命じられます。「信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)という原点を決して忘れてはなりません。続けて、同じ意味を込め、「耳を貸せ、この地に住む者もみな」と記されます。

そして、「このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか」と、これが前代未聞の事であることが強調されながら、「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ」と記されます(1:3)

イスラエルを襲った悲劇が、時代を超えて子々孫々まで伝えられる必要があるというのです。これは、たとえば日本でいえば、広島、長崎の原爆悲劇と同時に、東日本大震災の悲劇とともに福島第一原子力発電所メルトダウンの悲劇を子々孫々まで伝え続けることを意味します。

 

 そして4節には「いなご」に関する四種類の名前が記されます(なお、ヘブル語には「いなご」に関して九つの呼び名がある)。第一の「かみつくいなご」というのは「ガザム」と記されます。つぎに「いなご」とのみしるされていることばは「アルベ」と記され、最も一般的な呼び名です。次の「バッタ」と訳されている原文は、「イェレク」で「飛びいなご」と訳すこともできます。最後の「食い荒らすいなご」は「ハシール」の訳です。

ですからここは、「ガザムが残した物はアルベが食い、アルベが残した物はイェレクが食い、イェレクが残した物はハシールが食った」と記されているのです。

なおこれは異なった昆虫と言うより、同じいなごの成長段階によって呼び名が、イェレク、ハシール、ガザムと変わるとも言われます。

225節ではこの4種類のいなごの順番が変えられながら、神が送った「大軍勢」として描かれます(2:25)。どちらにしても、ここでは「いなご」が少しずつ姿を変えながら、四回にわたってイスラエルの民が大切に育てた作物を絶滅させる様子が描かれています。

 

申命記28章には、イスラエルの民が他の神々を拝んでしまったときに彼らを襲う「のろい」が多岐にわたって詳しく描かれますが、その38節では、「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである」と記されます。

またソロモンは神殿を建てたとき、「もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合・・・この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいのところである天で聞いて、赦し、またかなえてください」と祈っています(Ⅰ列王8:37-39)。それは「いなご」の発生の背後に、悔い改めを迫る神の招きを見るという意味です。

 

 そして、このいなごの被害に関して5~7節では、「酔っぱらいよ。目をさまして、泣け・・・泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。一つの国民がわたしの国に攻め上った・・・その歯は雄獅子の歯・・きばがある。それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し・・」と描かれます。

ここには、いなごの大量発生によりぶどうの木が「まる裸」にされ、当時の人々にとっての喜びの源であった「ぶどう酒」が飲めなくなったことを劇的に描いています。

ひとつの国民」とは、いなごの大集団を指すと思われます。それは「いなごには王がないが、みな隊を組んで出て行く(箴言30:27)と言われる通りです。

また反対にエレミヤ515-17節ではバビロン軍による襲撃がいなごの集団発生にたとえられます。そして、黙示録91-11節では世界を襲う壊滅的な苦しみがいなごの襲撃にたとえられます。

つまり、このいなごの襲撃は、バビロン軍の襲撃を現しているとも、自然現象とも言えるいなごの襲撃を他国の軍隊の襲撃にたとえているとも言えます。どちらにしても、その背後に、天地万物の創造主であるヤハウェがおられるのです。

 

2.「いたみ悲しめ、泣きわめけ・・主(ヤハウェ)に向かって叫べ」

  8節では「若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ」と記されますが、これは正式の婚約をして嫁入り支度を整えた「おとめ」が、突然、婚約者に死なれてしまう悲劇を描いたものです。

これは喜びに満ちた収穫のときを目前に控えながら、すべての収穫物をいなごに食われてしまう空しさと同じ悲しみです。

 

910節では、「穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主(ヤハウェ)の宮から断たれ、主(ヤハウェ)に仕える祭司たちは喪に服する。畑は荒らされ、地も喪に服する・・」と同じ言葉が重ねて記されます。

祭司は主に聖別された存在であり、また土地も主のものと見なされていましたが、それらが「主を喜ぶ」ことの代わりに「喪に服する」というのです。なお、ここで「穀物」「新しいぶどう酒」「油」はすべて神殿にささげるものの象徴として描かれています。

 

  1112節ではヘブル語の語呂合わせを用いながら、「農夫たちよ。恥を見よ・・・ぶどうの木は枯れ・・・あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた」と描かれます。

ここで、「恥を見よ」と「枯れ」「消え失せた」は同じ響きのことばで、いなごの被害による失望と悲しみが劇的に記されます。

 

  そして、1314節では、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせと、三種類の表現で祭司たちに悲しみを表現することが命じられます。

そしてその理由が、「穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ」と、「神の宮」における喪失感が強調されます。

その上で、彼らが取るべき行動が、「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ・・・この国に住むすべての者を・・・主(ヤハウェ)の宮に集め、主(ヤハウェ)に向かって叫べ」と、すべての者を、主への礼拝に集め、主に向かって叫ぶようにと人々の心を動かすことが命じられます。

 

私たちが何かの大きなわざわいに直面した時、その原因を冷静に分析することも大切ですが、すべてに先立ってなすべきことは、主の宮にともに集まり、主に向かってともに泣き叫ぶことではないでしょうか。

「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。生きている人間は、なぜつぶやくのか」(哀歌3:38,39)と記されているように、わざわいに会ったとき、主に向かって「つぶやき」、「むなしく思い巡らす(詩篇2:1)代わりに、主に向かって嘆き悲しみ、泣きわめき、自分の気持ちを注ぎだして主に祈ることが大切です。

なぜなら、ある特定のわざわいが起きるのを許される神のみこころは多くの場合、はかり知ることができないからです。

私たちの祈りの生活は、あまりにもお行儀が良すぎるのではないでしょうか。私たちは小さいころから、自分で自分の心に収まりをつけるようにと訓練されてきていますが、そのような自制の訓練が、私たちの祈りの生活を貧しくしてはいないでしょうか。

 

  15節では、「ああ、その日よ。主(ヤハウエ)の日は近い」と記されます。これこそヨエル書の中心テーマです。「主の日」という表現は預言書全体で18回出て来ますが(イザヤ13:6,9、エレミヤ46:10、エゼキエル13:5,30:3、アモス5:18-20、オバデヤ15、ゼパニヤ1:7,14、マラキ4:5)、そのうちの五回がこの書に出て来ます(1:15,2:1,11,31,3:14)

この「近い」ということばは「at hand」、「目の前にある」と訳すこともできます。これは、最終的な世の終わりの日が近いという意味よりも、いなごの大量発生という悲劇を、「主の日の現れ」の一部として見るようにという招きだと思われます。

 

そして、「全能者からの破壊のように、(その日)が来る」と記されますが、「破壊(ショッド)「全能者(シャダイ)」はヘブル語の語呂合わせが見られ、「全能の神(エル・シャダイ)」が、「破壊の神」として描かれているのです。

私たちは、「神は愛です」という表現に慣れ親しんでいますが(Ⅰヨハネ4:16)、同時に、神は全能であり、破壊者でもあるということを決して忘れてはなりません。「神は愛」であるとともに「破壊者」であるなら、わざわいに直面したときに何よりも大切なのは、主のふところに飛び込むということです。

なぜなら、「主の日」とは、神の敵にとっては恐ろしいわざわいの日ですが、神の民にとっては、「(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)という恵みの日でもあります。

マルティン・ルターは、「神はご自身の善意と好意を、怒りと刑罰との下に隠された」と言っていますが、神の愛は、まさに神の怒りの破壊の下に隠されているのです。つまり、主の日の破壊の宣言の背後に、神のふところに飛び込み、御翼の下に隠れる以外に救いはないという招きがあるのです。

 

 16-18節では「私たちの目の前で食物が断たれたではないか・・神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。穀物の種は・・干からび、倉は荒れすたれ・・た。穀物がしなびたからだ。ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる」と悲劇が生々しく描かれます。

それはいなごの大量発生によってもたらされた悲惨ですが、その背後に神のさばきを見るようにと招かれています。

 

 そのような中、ヨエルは19節で、「主(ヤハウェ)よ。私はあなたに呼び求めます」と告白します。これは、To you, O LORD, I call(あなたに向かって、主(ヤハウェ)よ、私は叫びます)と訳すことができます。

そしてその理由が、「火が荒野の牧草地を焼き尽くし炎が野のすべての木をなめ尽くしました。野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです」と描かれます。

それはいなごの大量発生と、日照りの中での火災が重なって起こることがしばしばあったからですが、同時に、「火」や「」は神のさばきの象徴だからです。

どちらにしてもヨエルはこのような自然災害の背後に神の怒りを見て、必死に神にすがろうとしています。

 

また「野の獣も、あなたにあえぎ求めています」という表現に、獣でさえも神の救いを求めているのに、神の民は神を求めようとしないという嘆きが隠されています。

詩篇421節では同じ動詞が用いられながら「鹿が深い谷底の水をしたいあえぐように、神よ、私のたましいは、あなたを慕いあえぎます」と告白されていました。

 

3.「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」

2章の1節では、三行の並行法で「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ」と、主の到来に備えるようにと訴えられ、その上で、「主(ヤハウェ)の日が来るからだ。その日は近い」と、「主の日」が目の前にあることを訴えます。

そして、2節では「(ヤハウェ)の日」について、「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日」と描かれながら、軍隊の襲来が、「山々に広がる暁の光のように数多く強い民・・・彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる」と描かれます。

興味深いのは、「エデンの園」のような国が「荒れ果てた荒野」になってしまうという表現です。エゼキエル3635節ではこの逆の将来的な主の祝福の約束が、「荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった」と人々が感謝するようになると記されています。つまり、主の「祝福」か「のろい」かによって、国の状況はまったく変わるというのです。

 

  そして、約束の地に荒廃をもたらすいなごの大群の様子が、245節で「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る・・彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである」と描かれます。軍隊の攻撃といなごの大群の襲来は非常に似ているというのです。

そして、それに対する人々の反応が、6節では「その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる」と描かれます。

 

  また7-9節ではいなごの大群の進路をいかなるものも妨げることができない様子が、「それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込むと描かれます。

軍隊の攻撃はより強い軍隊によって阻むことができますが、いなごの大群の来襲を止める手段はどこにもありません。

 

 そして、10節では、このいなごの大群の来襲が、世界の終わりを示す描写として、その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と描かれます。

主イエスはこの箇所やイザヤ13:9-13の表現を用いながら、人の子の現れの時の様子を、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(マタイ24:29)と言われました。

それは確かに主イエスの再臨のときを示しますが、同時にそれはご自身の十字架の際に三時間にわたって全地が暗くなったとき、またローマ軍によってエルサレム神殿が破壊されるときと同時に、人の子の栄光が現されるすべてのときを指すと思われます。「主の日」には広い意味があります。

 

 11節では、(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い」と描かれます。詩篇1488節には、「火よ、雹よ、雪よ、煙よ、みことばを行うあらしよ」という表現がありますが、この地を襲うすべての自然災害は、神のことばによって起こされているのです。

ただ、それはある地域に地震や津波が起こったことを、神がその特定の地域の罪をさばくために、それを起こしたなどと言う理由にしてはなりません。

イエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません(マタイ10:29)と言われたように、この地のすべてのことは、神のご支配のもとにあるということです。

 

 その上でヨエルは、「主(ヤハウェ)の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と結論づけます。

私たちは様々な自然災害への備えをするように心がけますが、主の日の苦難を人間的な知恵で避けたり、それに耐える方法は一切ありません。私たちにできる唯一のことは、主のあわれみにすがるということです。

 

  そのような主のさばきを前提に12節では、「しかし、今、─主(ヤハウェ)の御告げ─心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れという訴えがなされます。この中心は「立ち返れ」ということばです。

これは、回心を訴える最も頻繁に用いられる動詞で、その中心は「向きを変える」ことにあります。心の方向を神に向けることですが、ここでは「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって」と描かれます。それは、自分の心が神から離れていたことを心から反省するという意味です。

それは、心を入れ替えて立派な行いをするというような決断ではなく、自分が神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない存在であるという、自分の根本的な弱さと限界とを知る自己認識です。この世的な「悔い改め」の場合は、自分の意志を強く持って行動を変えてゆくというニュアンスがありますが、ここでの回心とは、自分の無力さを認め、泣きながら必死に神におすがりするという心の姿です。

 

  そのことが13節では、「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ」と命じられます。それはすべてのプライドを捨てて、乞食のような気持で主にすがるということの勧めです。

そして、その理由が、「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」と描かれます。

主はかつてモーセの前を通り過ぎてご自身を啓示されたとき、「(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」(出エジ34:6,7)と言われましたが、その原点は、金の子牛を造って拝んだ民を滅ぼす代わりに、「その民に下すと仰せられたわざわいを思い直された(32:14)ためでした。

主は罰すべき者を罰すると言われながら、「わざわいを思い直される」方であるというのです。ですから、私たちはいつでもどこでも、繰り返し、神に立ち返って、神にすがることができます。

 

そのような期待が、14節では原文では、主が立ち返って、思い直し、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主(ヤハウェ)への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう」と記されます。

ここでは、主ご自身が「回心」して「思い直してくださる」と期待することは無理ではないと、不思議な表現が用いられています。

主のさばきは、私たちの行いに従って、自動的に下されるのではありません。主はご自身に向かってへりくだり、すがって来るものに対して豊かなあわれみを注ぎ、「のろい」「祝福」に変えてくださる方なのです。

 

  そして、15-17節では、「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ」と命じられながら、「主(ヤハウェ)に仕える祭司たち」「泣いて言」うべきことばが、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を・・物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか」と描かれます。

これは、イスラエルの民を滅ぼすことは、主ご自身にとって損なことですと説教するかのような乱暴な表現ですが、これはモーセが主に「わざわいの思い直し」を訴えたことばと基本的に同じです。主は、そのような率直な訴えを喜んでくださいます。

 

  「悔い改め」を意味することばには「思い直す」ということばと「立ち返る」ということばがあります。不思議にも、神が「悔いる」とか「思い直す」いうことばがある一方で、人間の悔い改めは、ほとんどの場合、「立ち返る」ということばが悔い改めに用いられます。

神はご自身のさばきの決断を「思い直す」ことがあります。それは私たちが自分の傲慢さを悟り、また弱さに気づき、真心から神に立ち返る時に、神が示してくださるあわれみです。

私たちがなすべき悔い改めとは、自分の意志力に頼ることから、神に「立ち返って」、神のあわれみにすがるということです。

私たちは無意識のうちに、自分を神として、神にしかできないような「思い直し」を目指してはいないでしょうか。信仰とは、わざわいの原因を冷静に分析することではなく、泣いて神にすがり、神に向かって叫び続けることです。

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2013年2月13日 (水)

詩篇1、2篇 「問題に追われているとき」

                                                  2013210

 何年か前ですが、健康診断を受けた時、いつもは低い血圧が上がっていることがわかり、驚きました。医者からは、「あなたには、血圧が上がりやすい傾向があるということを知っておいたほうがよいですよ…」と言われ、ショックを受けました。私は何が起きても動じない平静な心(Serenity)にあこがれていました。牧師として二十四年がたち、すでに還暦を迎えるというのに、ストレスに弱く、いろんなことに心が敏感に反応してしまいます。

 

そのようなときに大切なのは、そのような自分の気持ちを、否定もせず、また解釈もせず、そのまま置いておくということです。そして、その一方で、聖書のストーリーに心を向けるということです。

福音の核心とは、神の国、神のご支配が、キリストによって始まり、世界は平和の完成に向かっているということです。私たちが味わう悲しみは、その永遠の観点からしたら、ほんの束の間の間奏曲にすぎません。それは来たるべき喜びを際立たせるための神のご配慮とも言えます。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「あらゆる人間の生活は、苦痛と退屈の間を行ったり来たり、揺れ動くだけのことである」と言いました。持続的な満足などはなく、欲望が充足されると飽きが来ます。そして、心配事がなくなったとたんに退屈さが顔を出します。ですから昔から、民衆を治めるために必要なのはパンとサーカスだと言われます。パンは苦しみを減らし、サーカスは退屈さを減らしてくれるからです。

 

しかし、そんな人生は何と空しいことでしょう。このそれから解放させるためには、悲しみのなかに喜びを発見することです。そして、一時的な問題解決の中に、来たるべき新しい天と新しい地の前味を見ることです。 

 

1.「幸いな人とは」

 サラリーマン時代の私は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす人は…行うすべてが繁栄をもたらす」という約束が、仕事の成功と結びついてうれしく思えました。

 

しかし、さまざまな悩みを抱えた方に接しているうちに、それがあまりにも楽天的に見えてきました。ところが二篇とセットで読むようになった時、その意味が納得できました。

なぜなら、ここに聖書の要約があるからです。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。

 

 詩篇一篇は突然、「幸いな人よ」ということばから始まり、二篇は、「幸いなことよ、すべて彼(御子(みこ)に身を避ける者は」ということばで終わります。

そして、「幸いな人」として生きるための秘訣は何よりも、「主(ヤハウェ)の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす(口ずさむ)」ことにあるというのです。

 

残念ながら「主の教え(律法。トーラー)」を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる・・・」という人がいます。

しかし、「主の教え(律法)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。

 

 そして、「その人」には、確かに、「(神の)時が来ると実を結び、その葉は枯れない」という「繁栄」が約束されています。

なお、「繁栄」の実現には「時が来るの」を「待つ」という忍耐が必要です。それは、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36)とある通りです。

 

一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。多くの信仰者が、「忍耐」によって、確かに繁栄を体験して来ました。

 

 しかも、著者が強調したいのは何よりも、「主(ヤハウェ)は、正しい者の道を知っておられる」(16節)という点で、そのことが詩篇二篇に展開されていると考えられます。

この世の人生のむなしさは、何よりも「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする(伝道者7:15)という不条理にあります。そこにサタンがつけ込み、不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。

 

神の目に「正しい人」とは、社会で尊敬されているような人という意味ではなく、自分の弱さやふがいなさを心から知って、「私は神の助けなしには一瞬たりとも生きられない…」と思っている人です。それは、自分の弱さを神の御前(みまえ)にさらけ出して祈る人にほかなりません。

 

 私たちは知らないうちに、神の助けがなくても生きられるような強い人になろうとしてはいないでしょうか。

 

 ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイヤ」第二部の16曲目は良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」(ローマ10:15)と歌われます。

このみことばは、イザヤ52章7節から来ています。そこでは、「なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は。その足は、平和を聴かせ、幸いな福音を伝え、『あなたの神が王となる』とシオンに告げる救いを聴かせる」(私訳)と記されています。

 

つまり、平和の福音の内容とは、「あなたの神が王となる」ということなのです。これは様々な不条理の中で、神のご支配が見えないように思えた中で、神の愛のご支配がキリストにおいて明らかにされることを意味しています。

 

あなたはどんなに弱くても、あなたの神、あなたの救い主は、全宇宙の王、支配者であられるのです。

 

2.「聖書を忘れて思い巡らすことの危険」

 以前、問題が山積している中、友人の誘いで「メサイヤ」を聞きに行ったことがあります。この曲は三部から構成されており、その真ん中の第二部の終わりはあの有名な「ハレルヤ・コーラス」です。それは、世界が完成する時の喜びの歌ではなく、目の前には次から次と問題が起きているただ中で歌われるキリストの勝利の歌です。

私は、それを聞きながら、身体が震えるような感動を味わいました。目の前の問題が、キリストが「王たちの王、主たちの主」であるというその霊的現実のただ中で起こっている一時的な悲劇にすぎないということがわかったからです。

 

 メサイヤ第二部では、ハレルヤ・コーラスに至るプロセスで詩篇2篇からのみことばが四曲も歌われます。イエスの復活によってサタンの敗北は決まったはずなのですが、それによって戦いが止むどころか、かえって激しくなっている面があります。

それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは19446月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏は1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨なものになったのと同じです。

太平洋戦争の場合もミッドウエー海戦で日本の敗北は決定的になりましたが、それを理解したのはごく一部の人でした。しかも、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しさを増し、硫黄島、沖縄、広島、長崎の悲劇につながりました。

つまり、現在、サタンの攻撃が激しくなり暗闇が増し加わっているように見えるのは、勝敗が決定的となったしるしなのです。

 

そのことを219曲目では、激しい戦いのイメージの音楽で、1,2から Why do the nations so furiously rage together, and why do the people imagine a vain thing? なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやく(むなしいことを思い巡らす)のか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主(ヤハウェ)と、主に油をそそがれた者とに逆らう」と歌われます。

ここでは、この世の権力者が、神に逆らうばかりか、「油注がれた者」、つまり「メシヤ(キリスト)」に逆らうのはなぜなのかと問われています。

 

これは、使徒4:25では、ペテロとヨハネがイエスの福音を宣べ伝えたことで厳しい脅しを受けながら、自分たちは神に従うと言って脅しに屈しなかったときにそれを喜んだ弟子たちが引用したことばです。

そこでは、聖霊が私たちの父であるダビデの口を通して、救い主とその教会に対する迫害のことを預言したと解説されます。この世では、「神の民」は少数派にすぎず、神に逆らう者たちの力のほうが圧倒的に強く感じられるからです。

 

そのような中で、「人々は、むなしいことを思い巡らす」というのです。新改訳で「つぶやく」とも訳されている言葉は、「主の教えを思い巡らす(口ずさむ)(詩篇1:2)というときと同じ原文です。そこでは、「主の教えを思い巡らす人は、流れのほとりに植わった木のように・・・」と言われていましたが、「つぶやき」は、神を忘れた「思い巡らし」なのです。

私たちは聖書にある神の救いのストーリーを「思い巡らす」代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ…」と「つぶやいて」しまいます。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。

 

 その代わりに、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかということではないでしょうか。

 

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神の御手(みて)の中にあったと知ることができ、また私たちの人生も、この世にあってはさまざまな試練に満ちているのが常であるということを知ることができます。

神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。

 

第二部19番目の合唱では、詩篇23節からLet us break their bonds 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」と歌われますが、これは、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。

しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。

 

20番目の曲では、詩篇2篇4節から、「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる」と歌われます。神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです。

 

そればかりか、詩篇25節では、主は彼らを、「燃える怒りでおおのかせ怒りをもって彼らに語る」と記され、その内容が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた(6)と描かれます。これは目に見えない神が、目に見える地上の王をエルサレム神殿に立てたという意味で、その「王」こそ、ダビデの子であるイエス・キリストであるという意味です。

これこそ目に見える神の国の始まりです。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者がどなたなのかを忘れてはなりません。

 

そして、7節では、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしはきょう、あなたを(新しく)生んだ」と記されますが、これは神がご自身の子を、王として即位させられるという意味です。イエスの十字架には、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記されていましたが、それはあざけりのようで、真実を表しています。

十字架こそは、イエスの玉座でした。ヨハネの福音書におけるイエスの十字架は、王としての威厳に満ちています。イエスは神の民のすべての罪を負う王として、十字架に向かわれたのです。

バッハもヨハネ受難曲の前奏曲では、「主よ、あなたは驚くべき低さの極みにおいて栄光を受けておられる」と歌われています。

詩篇1篇では、神に従う者の幸いが美しく歌われていました。イエスの十字架は、その原則に反するように見えましたが、詩篇2篇では、目に見える苦しみがあったとしても、この神の民の勝利の原則は変わらないということが保障されています。

 

そしてメサイヤ第二部第12番目の曲では、これがヘブル書で引用されていることを、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう・・・」と歌われます。

そして、13番目の合唱曲は、その勝利の祝福を、「神の御使いはみな、彼を拝め」(ヘブル1:6)と力強く歌ったものです。これは、イエスがこの地上においてばかりか、天においても礼拝の対象とされている様子です。イエスは復活によって、神と並んで礼拝の対象とされたのです。

 

3.「キリストの支配」

そして、詩篇27節では主(ヤハウェ)はこの世界に対し「布告」(新改訳では「定め」)を発せられます。それは、ダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味するもので、「あなたはわたしの子。わたしはきょう、あなたを生んだ。わたしに求めよ。国々をあなたに受け継がせ、地の果てまであなたのものとする(2:7,8)ということばでした。

ただ現実には、彼の支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての救い主の出現を待つ必要がありました。

 

イエスのバプテスマの時、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、この預言の成就でもありました。イエスは公生涯の初めから、ご自分こそ王であることを示しておられました。

 

またイエスの十字架刑が決定的になったのは、大祭司の質問に対して、ご自分が神の子キリストであることを認めたばかりか、ダニエル713節を引用しつつ、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたがたは見ることになります」(マタイ26:64)と言いながら、ご自分こそが全世界を治める王であると宣言されたからです。

 

それが当時の人々が思ったような大ぼらではなく、真実であるということが、ここに記された「主(ヤハウェ)の布告」の内容で約束されているのです。

 

 また父なる神が御子に、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち、焼き物のように粉々にする」(2:9)と約束されたことばは、ヨハネの黙示録では(2章27節、125節、1915節)、再臨のキリストが力をもってこの地を治めることとして引用されています。

これらはすべてダビデの子イエスの最終的な勝利を約束するみことばです。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。つまり、ここにはキリストの誕生から再臨までが合わさって預言されています。

 

そして今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王たちの王、主たちの主」としてこの地を治めておられます(黙示1115節、1916節)。

ですから、「ハレルヤ・コーラス」は、この詩篇二篇から導かれる必然的な帰結です。ハレルヤ・コーラスは、目に見える不条理に中にすでに始まっているキリストの支配を歌ったものなのです。

 

そこでは最初、黙示19:6 から、HallelujahFor the Lord God omnipotent reigneth.ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」と繰り返し歌われます。これは、この世の現実が悲しみと不条理に満ちているようなときの何よりの慰めです。

私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤ・コーラスを歌って欲しいと切に願われました。そして、今から18年前の最も悲しいときに、私たちはこのみことばから、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。

これこそ黙示録のテーマです。それは賛美と礼拝です。そして、その頃、私も武蔵野や東村山の牧会にも携わりながら、何とも言えない疲れと無力感を覚えていましたが、メサイヤのコンサートで、この部分の賛美を聞きながら、ことばにできない感動に心が満たされました。

それは、目の前の状況がコントロール不能と思われる中で、「全能の神である主は、この状況を支配しておられると確信できたからです。

 

そのことが、引き続き、黙示11:15から、The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」、また、黙示19:16から、King of Kings, and Lord of Lords 「王たちの王、主たちの主」と歌われます。神のご支配は、御子イエスが王として世界を治めるところに現されるのです。

この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストご自身です。私たちの救い主ご自身が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!

 

なお、このヘンデルの指揮によるメサイアの演奏を聞いていたイギリス王、ジョージⅡ世は、この部分を聞いたとき、突然、起立したと言われます。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。

それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。

 

黙示録では、キリストが弱さの象徴としての「小羊」と呼ばれながら、同時に「右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は照り輝く太陽のようであった(1:16)という方として描かれています。それは、キリストがこの世の悪をさばき、この世の不条理をすべて正してくださる方だからです。

キリストの支配は、生まれながらの人間には分かりません。しかし、神は確かにキリストを王として立ててくださったのです。

 

詩篇210-12節では、「王たち」「地の支配者」たちに向けて、「恐れつつ主(ヤハウェ)に仕え、おののきつつ喜べ」と記されながら、「御子に口づけせよ」と命じられます。これは、主(ヤハウェ)に仕えるとは、御子イエスキリストに対して臣下の礼を取るという意味であるということです。

そればかりかその理由が、「怒りを招き、その道で滅びないために」と記されています。それは御子を自分の王として認めない者には神の怒りが下るという意味です。

そして、再び、「怒りは今にも燃えようとしている」と記されながら、最後に、「幸いなことよ、すべて彼(御子)に身を避ける者は」と閉じられます。つまり、私たちは御子に身を避けることによってのみ、神の怒りから救われるのです。

 

イエス・キリストはすでに全世界の王となっておられます。私たちが神の平和を味わうための道は、この方を自分にとっての「王の王、主の主」として認める以外にないのです。

私たちは、このキリストのご支配の現実をどれだけ味わっているでしょうか。ただ、それは武力による支配ではなく、愛による支配です。私たちは、キリストの教えが世界の価値観を変え続けてきたことを思い起こしてみましょう。

 

  このような見方は、信仰生活の持ち方にも影響を与えます。十字架で終わる福音は、死ぬこと自体を美化することになりかねません。犠牲愛が道徳とされるところでは、何かしらの息が詰まるような感じが出てこないでしょうか。それは、何か自己犠牲を強制されるような嫌な気持ちを味わうといことかもしれません。

しかし、十字架には神の勝利が隠されています。十字架の「のろい」の背後に、神の祝福が見えます。私たちはいつもその喜びと、祝福を見ながら、信仰の旅路を歩むのです。

私たちの目の前にあるすべての問題は、私たちがキリストにある勝利を味わうための契機に過ぎません。最終的な勝利はすでにキリストにあって確定しました。

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2013年2月 3日 (日)

ホセア13、14章 「いのちの喜びの復活」

                                                   201323

ポール・トゥルニエというスイスのクリスチャンの精神科医は、あるカトリック教会の司祭が、「私たちの教会に、意気消沈していて一人前の大人になり切っていない人が、これほどたくさんいるのは、いったいどこに原因があるのでしょう」と尋ねに来たとき、自分たちの教会も「過半数は生気がなく、もの悲しげで疲れた心の持ち主によって占められています」と答えざるを得ませんでした。

トゥルニエは、キリスト教信仰がしばしば道徳主義に陥って、人の生きる力を否定する方向に働くということに心を痛めていました。彼は、多くの信仰者が「自分に課せられた義務を果たすことに失敗するとそのたびに罪意識を経験する」と言いながら、それは娼婦が客を見つけることができないときに感じる罪意識と基本的に変わりはしないと指摘します。

実際、あらゆる失敗が罪意識を引き起こします。それは失敗が私たちの弱さや無力、人間の限界などをむき出しに自覚させるからです。そして、キリスト者には、しばしば、失敗を避けることで自分を神の前に肯定しようとする誘惑が働きます。みなどこかで、良い人間と見られることが、信仰者の証しだと思い込んでいるからです。

しかし反対に、そのようにあらゆる失敗を避けようとして、人生に臆病になり、世界の問題から目を背けてしまうことこそが、聖書が語る罪の根本なのではないでしょうか。

 

また、無神論哲学者ニーチェは、「神とは、『あなたは考えてはならない!』とわれわれに向けて発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎない」などと、信仰者の臆病な姿勢を批判しました。

そのように失敗を恐れる信仰、自分の頭で考えて責任を持って行動しようとしない信仰には、いのちの喜びがありません。

 

信仰の醍醐味とは、主にあって大胆にチャレンジし、失敗するたびに主に問いかけ、再び主の力を受けて、また大胆に出てゆくことです。主が創造的であるように私たちも創造的な生き方ができます。

信仰の核心とは、いのちの喜びです。主はその喜びを繰り返し復活させてくださいます。

 

1.「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」

131節では、北王国イスラエルの中心部族であるエフライムの歴史が描かれていますが多くの英語訳では、「エフライムが語ったとき、そこにはおののきがあった。彼はイスラエルの中であがめられた。しかし、彼はバアルにより罪を犯して死んだ」と訳されています。

つまり、エフライムはかつてイスラエルの民の中で尊敬されていましたが、バアルを礼拝することで自滅したというのです。

 

そして、その後のことが、「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物」と、自分の手で神々を造ることの愚かさが指摘されています。

なお、2節の最後で人々によって語られる言葉は、多くの英語訳では、「人間のいけにえをささげる者は、子牛に口づけせよ」と訳されています。バアル礼拝には人間の子供をいけにえとしてささげるというおぞましい習慣がありました。彼らはそれほど残虐なことを行ないながら、それを要求するという金の子牛をくちづけして礼拝するようなことをしていたのです。

 

その結果が、「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる」と、彼らの存在価値がどんどん軽くなると描かれます。

 

そして、主(ヤハウェ)とエフライムとの関係を、主ご自身が、「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主(ヤハウェ)である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていたと描いてくださいました。ここでは、「わたし」ということばを重ねながら、「わたしは知っていた」とご自身の主導権を強調しています。

彼らは自分の力で豊かになったように誤解していますが、主ご自身がエジプトで苦しめられていたエフライムに目を留め彼らの神、救い主になり、彼らをエジプトから連れ出し、荒野の旅路で、パンや水を与えながら、養い育ててくださったのです。

なお「知る」ということばは聖書では親密な交わりを築くことに用いられます。66節で主は、「わたしは誠実を喜ぶ…全焼のいけにえよりも、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われましたが、主はご自分の方から私たちを知っていてくださいました。

 

ところが、彼らは神にますます感謝するどころか、「しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:6)というのです。814節でも、「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた」と描かれています。

申命記811-18節では、彼らが約束の地に招き入れられたときに起こる誘惑のことが、「あなたの心が高ぶり、あなたの神、(ヤハウェ)を忘れる、そういうことがないように・・・あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」と警告すると同時に、主のご自身の契約に対する真実さを「主があなたに富を築き上げる力を与えられたのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」と強調されています。

彼らが約束の地において「祝福」を体験できたのは、ひとえに神がご自身の契約に忠実であられたからであり、そこに彼らが誇ることができる理由は何もなかったというのです。

 

ところで、主の契約には、「のろい」の警告が生々しく描かれていました。申命記2815節~68節には、イスラエルの民が神の恵みを忘れる時にどのようなわざわいが下るかが、非常にリアルに描かれていました。

そして、ここでは彼らを襲う災いの様子を描くにあたって、アッシリヤ帝国を三種類の野獣にたとえながら、その背後に主ご自身がおられることを、「わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く」(13:7,8)と記しています。

エフライムをこの残虐な野獣の手から救い出せるのは主ご自身しかいないはずなのですが、主ご自身が野獣のようになるなら、誰も彼らを救い出すことはできません。そのことが、「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう(13:9)と描かれます。

 

 131011節は、北王国イスラエルのことではなく、初代イスラエルの王サウルが立てられたときの、神とイスラエルの民との会話を思い起こさせるもので(Ⅰサムエル8)、主は、「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか・・・あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る」と言われます。

かつて主は、王制の導入を求める民の忘恩に悲しむサムエルに向かって、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」と言われつつ、周辺諸国と同じような王制を望むことは主ご自身がイスラエルの王であるという前提を退けることであると「怒って・・王を与え」ましたが、同時に、「ただし彼らに厳しく警告せよ」と言いながら、これからは王の気まぐれと自己中心性によって、イスラエルの民自身が苦しむことになると警告しました(Ⅰサムエル8:7-9)

そして、今ここでは、主が「憤って」彼らから王を「奪い取る」ということが、王国自体が滅亡することであると記されます。

 

  私たちは人々の期待に沿った行いができないことを「」と思ってしまいがちです。しかし、聖書の語る罪とは、何よりも、神の恵みを忘れて、自分の能力と力によって成功できたと傲慢になることなのです。

主はエフライムの問題を「彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた(13:6)と指摘しています。忘却こそが罪なのです。何かの大きな働きを成し遂げて、人々から称賛されることよりも、主の恵みの一つ一つを忘れないことこそが信仰の基本なのです。

 

2.「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」

  1213節では、エフライムの再生が、子供の誕生にたとえられながら、「エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」と描かれます。これは、エフライムが自分の不義や罪を見ることも反省することもないので、主がそのことを取り扱うことができなくなっている状態を指します。

本来なら、罪がもたらした結果の様々な痛みに向き合うことで、そこから主への祈りが起きるはずなのですが、そうならないため、問題がますます複雑に絡み合い、子供の誕生にたとえられる主の「脱出の道」が備えようがなくなっているのです(Ⅰコリント10:13)

主は後に預言者エレミヤを通してユダの宗教指導者の問題を、「彼らは、わたしの民の傷を手軽に癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」と指摘していますが、その同じ状態がエフライムにも見られたというのです。

 

14節のことばは、多くの訳では、「わたしはよみの力から、彼らを解き放つだろうか。彼らを死から贖うだろうか」という反語的な問いかけと理解されています。これはエフライムの民が、主が無力であり、彼らを救うことなどできないと思い込んでいることに対し、主は、もし望みさえすれば、彼らをよみの力からも、死からも救い出すことができるのに、彼らはそれを求めようとしないと嘆いているという意味だと思われます。

その上で、主はご自身の救いの力に関して、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」と問い、主ご自身が死とよみの力に打ち勝つことができることを宣言していられます。

ただ同時に、主は、「あわれみはわたしの目から隠されている」と言いながら、彼らが主に立ち帰ろうとしないので、あわれみようがないと嘆いておられます。

 

なお、上記のみことばを用いてパウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よおまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と宣言しています(Ⅰコリント1555-57)

そこでは、ホセアからの引用を、基本的な意味を変えることなく読み替えています。それは、その前の節で、イザヤ258節を引用しつつ、「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と記されていることとの連続性を明らかにするためです。

初代教会時代から迫害の中で福音が広がったのは、信仰者がキリストにあってすでに死の脅しに打ち勝っている姿が明らかになっていたからです。

 

なお、死人の復活については、日本語での「よみ」から「帰る」という「よみがえり」とは違います。福音の奥義に関してパウロは先のみことばに先立って、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(15:52,53)と述べています。

ヘンデル作曲のメサイアでは、第二部の終わりにハレルヤ・コーラスが歌われますが、第三部の中心ではこの復活賛美が美しいトランペットの音色と共に歌われます。これこそ、私たちの真の希望です。

 

キリストは私たちを死の支配から解放してくださいました。復活とは、私たちが日々の生活で体験することでもあります。私たちは、様々なプレッシャーのなかで、とんでもない間違いを犯したり、また、言ってはならない言葉を吐いてしまうことがあります。

しかし、自分の過ちに気づき、それを主に告白し、主の助けを求める者は、日々新しくなることができます。そのことを使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)と記しました。

そして、最終的な復活に至るプロセスが、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)と記されています。

 

3.「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得る」

131516節では、主の招きを拒絶したエフライムに対するさばきが、「彼は兄弟たちの中で栄えよう。だが、東風が吹いて来、主(ヤハウェ)の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。サマリヤは自分の神に逆らったので、刑罰を受ける。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる」と描かれます。

これはかつて栄えたエフライムの首都サマリヤが「東風」にたとえられるアッシリヤの攻撃によって滅亡し、想像を絶する悲惨を味わうという警告です。

 

ただ同時にホセアは、「イスラエルよ。あなたの神、(ヤハウェ)に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ」14:1)と、率直に、また単純に、「主に立ち返る」ことを勧めます。これこそホセア書の核心です。

なお、「回心」とは、自分の悪い行いや悪い習慣を変えるということ以前に、人生の方向を変えることです。それは何よりも、主の救いの招きに応答することです。

神はあなたを赦したいと願っておられます。そして、彼らをつまずかせた不義とは、何よりも、自分たちの創造主以外の神々を拝んだり、神のかたちを小牛のような家畜のかたちに置き換え、偶像を神として拝むことです。

神は私たちがご自身のふところに飛び込んでくるのを待っておられます。

 

  その上で、「(ヤハウェ)に立ち返り、そして言え」と訴えられながら、彼らのなすべき応答が、「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます」(14:2)と記されます。バアル礼拝では、幼児をいけにえとしてささげるような途方もない犠牲が求められましたが、私たちが主にささげることができる最高のささげものとは、賛美のいけにえ、「くちびるの果実」です。

このみことばを前提に、ヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか(13:15)と訴えています。

そして、3節に記されているように、彼らがささげるべき「くちびるの果実」の内容は、第一に、アッシリヤに救いを求めることを止めることであり、第二は「馬に乗る」というかたちでの軍事行動による解決を諦めること、第三は、偶像を造ってそれを自分たちの神として拝むことを止めることです。そして、最後に、主は「みなしご」をはじめとする社会的弱者の味方であることを告白することです。

これらの約束や賛美の内容は何も難しい事ではありません。私たちが何らかの犠牲を支払って、主の愛を勝ち取るのではありません。自分の罪を認め、主の赦しを受け入れ、主の真実により頼むことこそが救いなのです。 

 

使徒パウロはそれを前提に、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(Ⅱコリント5:20)と記しています。

 

  4-7節は、主がイスラエルを一時的に懲らしめることによってもたらそうとしておられる救いのみわざです。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(哀歌3:33)とあるように、主の懲らしめには豊かな救いの希望があります。

そのことを主は、「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルにはのようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。 その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる」と約束しておられます。

主の救いの豊かさが、生命力に満ちた植物として描かれています。主はご自身が「露のようになる」と言われるのは、雨の少ないイスラエルでは「」こそが、植物を育てる力になっていたからです。「ゆり」とは、ガリラヤ湖畔などに群生する「あねもね」のように鮮やかな色に咲く小さな花々を指します。それは当地では美しさの代名詞でした。「ポプラ」はレバノンの木とも訳され、根を深く張るために高く伸びる木の代名詞です。「オリーブの木」とは力と繁栄のシンボルです(詩篇52:8)。「レバノンのかおり」と言うのはよくわかりませんが雅歌では、男女を引き寄せる魅力として描かれています(1:37:8)

彼らは帰ってきて・・・」(7)以降の表現は、イスラエルの民が約束の地に帰ってきて、そこをエデンの園のような豊かさを享受できることを示しています。

 

エフライムが熱を燃やしたバアル礼拝は、豊穣を求めてのものでした。そこには、忌まわしいいけにえと性的な堕落や酒に溺れるような享楽がありました。彼らは現在の歓楽街で体験できるような喜びを求めていました。

しかし、神が与えようとしておられる喜びは、美しい野原を駆け巡り、身体全体で生きていることの喜びを味わえるようなことであり、神は私たちをエデンの園にあった祝福へと招いておられるのです。

主は、私たちがいのちの喜びを味わうことができるようにしてくださいます。信仰の実は、何よりも生命力に満ちた繁栄として描かれます。

 

 148節は、主の優しい語りかけとして、「エフライムよ。わたしは偶像と何のかかわりがあろうか」と訳すことができます。

そして、そこでは主ご自身が愛に満ちた関わり方が、「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」と描かれます。主がご自身を「緑のもみの木」として描くのは珍しいことです。これは、主こそが私たちにとってのいのちと力のみなもとになってくださるからです。

 

  9節は、ホセアが結論としてひとりひとりに訴えたいことです。「知恵ある者」「悟りある者」とは、この世で何かの偉大な成功を修める者であるとか、人々から称賛される者であるとかではなく、単に、日々の生活で、「(ヤハウェ)の道を歩む」者になることに他なりません。しかし、主に背く者は、主の道を歩むことを退屈で窮屈なことととらえ、「つまずく」というのです。

真理は決して難しい事ではありません。いつでもどこでも主の恵みを思い起こし、主に感謝をささげ、主を喜びながら生きることです。いのちの喜びは、主を真心から礼拝することによって生まれます。

 

 律法を守ることに熱心だったパウロが、復活の希望を語るときにホセア書を引用したということに驚きを感じます。主が私たちに求めておられることの核心は、主に繰り返し立ち返ることです。

主がしばしば苦難を与えられるのは、「私は自分の知恵や力によって道を切り開いてきました!」などと言って、主の恵みを忘れて傲慢にならないようにという愛の鞭です。

ただし、謙遜になるとは、委縮することとはまったく違います。すべてが主の恵みによると認めることは、復活の力が自分のうちに働くのに身を任せることです。

キリストはその死によって、死の力を打ち滅ぼしてくださいました。キリストが私たちのうちに住むとは、復活の力が私たちを内側から生かしてくださるということです。

その復活の力とは、植物の成長に似ています。主にあっていのちがはち切れるような生き方を求めましょう。

 

 メッセージをネットでお聞きになっている方が、「ホセア書を読み続け、神様の誠実と真実を思い巡らしました。神さまが、私たちを『恋い慕って』くださっていることを受けとめていく時、『神様、ありがとうございます』という応答がでてきます。この応答にも浅いもの、深いもの、思いがけないあふれ出る気持ち、・・いろいろです。その『』というものは、感情だけでなく、行動というか、歩み方にも変化が訪れてきます」と書いてきてくださいました。

 

 ホセア書は、神の愛を、妻に裏切られながらなお、その妻を愛し続ける夫にたとえています。私たちは知らないうちに、信仰の核心とは、この神の愛に応答するということだということを忘れてはいないでしょうか。

良い行いに努めることは、人間として、とっても素晴らしいことです。でも私たちはそうできない自分に失望して神のもとにやって来たのです。

私のすべてを知って、私の帰りを待ってくださる神の愛を味わうことから、すべてが始まるべきです。

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