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2013年4月21日 (日)

アモス3章1節から5章17節 「主(ヤハウェ)を求めて生きよ」

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  しばしば、私たちは、わざわいに会ったとき、「バチが当たった」という解釈をします。聖書を読むときに気を付けなければならないのは、すべてのわざわいは、神の御手にあって、神の御許しの中で起こっているという霊的な現実を知ることと、それに対する解釈を区別することです。

わざわいをすべて、神のさばきと捉えるのは大きな間違いです。なぜなら、黙示録のテーマは、終わりの時代には様々なわざわいが起こるけれども、それらすべてを神が支配しておられ、神はご自身を礼拝し続ける者の霊的ないのちを守りとおすことができるということにあるからです。

イエスご自身も、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と不気味な断定をした上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と最終的な勝利を保障してくださったからです(ヨハネ16:33)

 

わざわいの原因は、多くの場合、神のはかりしれない計画の中で、私たちの目からは隠されています。しかし、そこで常に求められているのは、人間の知恵や力の限界を素直に認めて、創造主に立ち返り、主との交わりを第一として生きるということです。

わざわいは避けられません。しかし、神は、どのようなわざわいをも、「益に変える」ことができます。わざわいを避けることよりも、いつでもどこでも神を慕い求めることこそが祝福の秘訣です。

 

1.「神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」

31でアモスは、「聞け。このことばを」と訴えつつ、主がかつてイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したことを思い起こさせながら、「イスラエルの子らよ。主(ヤハウェ)があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った」と語りかけます。

その上で、2節では、それ以降に続く主のことばの結論がまず、「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」と記されます。「選び出す」ということばは厳密には、「知った」と記され、この文章は原文ではまず最初に、「あなたがただけを、わたしは知った」と記されています。

 

(ヤハウェ)がイスラエルの民を「恋い慕って・・選ばれたのは」、彼らが、「すべての国々の民のうちで最も数が少なかったから」でした(申命記7:7)。そしてその目的は、彼らを主ご自身にとっての「祭司の王国、聖なる国民」として、ご自身のことを世界に証するためでした。これは、私たち自身にもそのまま適用できる原則です。

そして、恵みの選びと責任は表裏一体です。イエスも、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と言われるように「貴族の責任」(ノブレス・オブリージュ)を忘れてはなりません。

 

そして七つの文章で、私たちの世界にある原因結果の密接な関係を描きます。それぞれが原文では、次のような順番で描かれます。

第一は、「ふたりの者がいっしょに歩いている」とは、彼らが「仲が良い」または、「打ち合わせをした」結果であるということです。

第二は、「獅子」が「森の中でほえ」ているのは「獲物」があるから、第三は、「若い獅子」が「ほら穴から叫ぶ」のは何かを「捕ら」たから、第四は、「」が「地の鳥網にかかる」のは「わながかけられ」たから、第五は、「鳥網」が「地からはね上がる」のは何かを「捕らえ」たからだと描かれます。

 

なお、第六番目(6)は、それまでとは違って原文でも、「町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか」と記されています。それは直接的な原因結果の関係を描くためです。

そして、最後の第七番目では、「町にわざわいが起これば、それは、主(ヤハウェ)が下されるのではないだろうか」と描かれます。それは、町の命運を主ご自身が握っておられるということを語るためです。

彼らは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)がすべてのことを支配しておられるということを忘れて、他の神々を拝んでいました。それを告発するのが、この箇所の目的です。

 

その上でアモスは、「なぜなら、主、ヤハウェは、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらないから」と語ります(3:7)

これは、主がイスラエルの罪をさばくに当たって、その前に悔い改めの機会を与えようとしてモーセのとき以来、繰り返し預言者を通して語って来たことを思い起こさせるためです。

 

8節では、それまでとは逆に、原因から結果を見るという論理で、「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」と記されます。

それは、ライオンの雄たけびを恐れるのが人間の必然であるのと同じように、「主、ヤハウェ」が語ることを預言しないではいられないという意味です。それはまるで、地震や津波の警報を耳にした者が、そのことを他の人に伝えないではいられないというのと同じです。

 

そして、「アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え」と不思議な語りかけがあります。アシュドデとはイスラエルの南西の地中海岸のペリシテの中心都市ですが、アシュドデにとってもエジプトにとっても北からアッシリヤが攻めてきたときにサマリヤが防波堤になるからだと思われます。彼らはサマリヤに起こることを見ることによって、その後、自分たちを襲う危険を知ることができました。

それで、主は彼らに向かってサマリヤに関して、「サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。彼らは正しいことを行うことを知らない。─主(ヤハウェ)の御告げ─彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている」と語られます(3:9,10)

 

11節で、「主、ヤハウェ」は、サマリヤの罪に対するさばきとして、アッシリヤ帝国を動かして襲わせることを、「敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる」と描きます。

 

そして、12節は、主のことばとして、「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから(とともに)救い出される」記されますが、これは羊飼いが、羊の死骸の一部を取り返して、それが雄獅子による被害であることを証明するように、イスラエルの子らは、昔使っていた豪華な家具の一部「とともに救い出される」という希望が語られます。

これは神がイスラエルを完全に滅ぼし尽くしはしないという意味です。

 

そして、主は13-15節で、「ヤコブの家に証言せよ」と注意を促しながら、イスラエルにたいするさばきを、第一に、彼らが勝手に作ったベテルの祭壇を徹底的に破壊するということ、第二には、「冬の家と夏と家」とを住み分けるような贅沢な生活を滅ぼすということとして警告されます。

これは、繁栄を誇っていた北王国イスラエルに対するさばきです。私たちも、神を忘れて自分たちの繁栄を誇っていると、同じような悲惨を味わうことになります。

すべてを滅ぼすことができる全能の神を忘れて、はかない富に望みを賭けてしまうことは恐ろしいことです。

 

 イスラエルの民は、モーセ以来の預言者たちを通して繰り返し、主の警告を聞き続けていながら、自業自得でわざわいを引き寄せてしまいました。すべてのことを原因結果で解釈することは危険ですが、目先の損得勘定で生きるのか、それとも、いつでもどこでも、主のみこころを第一にして生きるのかということから生まれる因果関係は明確です。

明確な主のみこころに反して、主の祝福を受けられるということはあり得ません。たとえば、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(出エジプト20:8)という教えは、聖書の中で最もユニークな教えです。安息日の教えを破って、主の安息を体験することなど不可能であるというのは、明確な因果関係の中にあります。

 

2.「それでもあなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」

 4章の初めは3章と同じように、「聞け。このことばを」から始まります。1-3節ではサマリヤの貴婦人たちにたいするさばきが記されます。その最初は、「サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」という呼びかけですが、それは彼女たちが脂肪に満ちた「バシャンの雌牛」のように肥え太っていたことを嘲ったものです。

「彼女らは弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し」ながら、「自分の主人たちに」に向かって、アルコール依存症の女のように、「何か持って来て、飲ませよ」と言っていました。

それに対し、「主ヤハウェ」は、「ご自分の聖にかけて誓われ」ながら、「その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く。あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、ハルモンは投げ出される」と言われます。

最後のことばは、「ハルモン」を「ヘルモン」と読み替えて、「ヘルモンに追いやられる(フラシスコ会訳)と訳す場合もあります。とにかく、これはサマリヤの貴婦人たちがアッシリヤの奴隷として引っ張って行かれることを指しています。

 

「ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ・・・イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる(45)とは、北王国イスラエルの礼拝の場を神ご自身があざけって、皮肉を込めて言われたことばです。

彼らは神の好意を得ようとして熱心にいけにえを初めとする様々なささげものをささげていますが、それがかえって、神を怒らせることになっていることを理解できずにいます。

それで神は、彼らが早く行き着く所まで行って、行き詰まることを願われたのです。これはアルコール依存症の方に、なるべく早い「底つき体験」(絶望を自覚する)ことを願うようなものです。

 

そして、6-11節では、最初の二回は神ご自身の「わたしはまた」ということばとともに、五回にわたって神のさばきのみわざが描かれながら「それでもあなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」ということばが繰り返されています。

第一は、「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」と、飢えても神のもとに帰らなかったという訴えです。

第二は、「わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった(78)と、干ばつの被害に遭っても神を求めなかったことが非難されています。

第三は、「わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(9)と、悲惨な病虫害の被害にあっても、神に立ち返らなかったことが非難されます。

第四は、「わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった(10)と疫病や戦争の中でも神に立ち返らなかったことが非難されます。

そして、第五は、「わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった(11)と、神ご自身が町全部を滅ぼしたのに、神に立ち返らなかったことが非難されます。これはソドムとゴモラのように天からの火で焼き尽くしたというよりは、敵の攻撃で町を滅ぼしつくすという意味だと思われます。

 

そして、12節は上記の結論として、「それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよと告げられます。

神に会う備え」とは、出エジプト19111517節にあるような、シナイ山に神が降りて来られることへの「備え」を思い起こさせる表現ですが、神は、今度は彼らの想像を超える形でご自身の栄光を現されるというのです。

そして13節では神の栄光が、人間のあらゆる想像を超えた偉大なものであることが、「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主(ヤハウェ)と告げられます。

 

私たちはわざわいに会わなければ、自分の行動を変えようという動機はなかなか働きません。わざわいをすべて神の罰と捉えるのは大きな誤りですが、それでも、神が私たちにわざわいを許す理由に、私たちが神に立ち返るのを待っておられるからという意味があります。

わざわいが起きるのは、私たちの神が無力だからではありません。わざわいは神の御手の中で起きていると心から信じるなら、そのとき同時に、神はわざわいを支配し、それを益に変えられると信じられます。

わざわいの中で、神の招きの声を聞くことができる者は幸いです。

 

神に会う備えをせよ」ということばは、最後の審判に対する備えとして理解することもできます。「この世に地獄があるのに、どうして、来るべき世界に地獄がないと言えよう」と言われることがありますが、確かにその通りです。わざわいの因果関係以前に、わざわいの中で、神に出会うことができないことこそ最大の悲劇なのです。

 

3.「わたしを求めて生きよ」「主(ヤハウェ)を求めて生きよ」

5章の初めでは再び、「聞け。このことばを」という表現から始まり、「イスラエルの家よ・・私があなたがたについて哀歌を唱える」と続きます。そして、2節から17節は、興味深い構造になっています。

まず第一に、23節と1617節が対応し、イスラエルに対する哀歌として描かれます。

そして第二に、4-6節と1415節が対応し、イスラエルに悔い改めを迫っています。

さらに、第三として7節と10-13節がイスラエルの具体的な罪が叱責されています。

そして、第四に、これらの中心に、89節では、主の全能の力が賛美されています。

 

第一に彼らを襲う悲劇が、「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない・・・イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう」(23節)と、彼らの人口が十分の一に激減することが預言されます。

 

第二に、その恐怖をぎりぎりのところで避けることができるための勧めが、主ご自身のことばとして、「わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな・・ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ(5)と、彼らが主のみこころを退けて、勝手に作った礼拝の場が廃墟とされることを警告するともに、アモスのことばとして、「(ヤハウェ)を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる」と記されます。

彼らは主が最初に示してくださった礼拝の原点に立ち返るべきなのです。ここでは、「わたしを求めて生きよ」「主(ヤハウェ)を求めて生きよ」と繰り返されます。

神は私たちが「生きる」ことを望んでおられますが、そのために私たちの側からまず、「主を求める」ことが何よりも大切なのです。イエスご自身も、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(マタイ6:33)と言われました。


   第三にイスラエルの罪が、「彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」と、彼らが不当な裁判によって貧しい人を虐げ、弱肉強食の原則を国の中に持ち込んでいることが非難されます。

 

第四として、神の全能のみわざが、「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主(ヤハウェ)。主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する」(89)と述べられます。私たちは、目の前の人間ではなく、すべてを支配する神を恐れて生きるべきなのです。

 

そして、第三として簡潔に述べていたイスラエルの罪が、1012節で、「彼らは門で戒めを与える者を憎み、正しく語る者を忌みきらう。あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている・・・あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける」と描かれます。

」とは、裁判がなされる場ですが、彼らは門で正義を語るものを退け、門で不当な判決を下します。そしてそのようなことが続く中で、「賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ」(13)と、賢い者も沈黙を守らざるを得なくなり、町の退廃が進む様子が描かれます。

そのような中では、「切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない」(11)という、私たちの努力が報われない現実が広がり、経済が疲弊して行く状況が進みます。

 

   そして、先の第二に対応する勧めとして、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主(ヤハウェ)が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主(ヤハウェ)は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」と描かれます(1415)

これは今彼らが悔い改めて、「善を求め」「善を愛する」ようになるなら、最終的な滅亡は避けられるかもしれないという意味です。

ヨセフの残りの者」という表現に、イスラエルに対する神のさばきは避けられない段階に入っているものの、今、悔い改めるなら、一部の民は神のあわれみを受けて、滅亡を免れることができるという意味が込められています。私たちは、どんな絶望的な状況下でも、希望をもって神に立ち返ることができます。

 

そして、先の第一の哀歌に対応する悲劇を預言することばとして、1617節では、主のことばが、「すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ」と描かれます。

最後のことばは、412節の「神に会う」ということを指していると思われます。イスラエルの民は、神に会う備えを怠ることによって、悲しみに打ちひしがれることになるというのです。

 

  主は、私たちひとりひとりに、「わたしを求めて生きよ」と語りかけておられます。この不条理に満ちた世の中で、神のご支配を探し求めて、主を礼拝し続けるということは非常に困難なことです。サタンは常に、「神を礼拝してもしなくても、お前の生活は変わりはしない」と、主を求めることの空しさを語り続けます。

しかし、イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・捜しなさい、そうすれば見つかります(マタイ6:33,7:7)と言われました。それは、神への奉仕に励むということ以前に、空の鳥を見たり、野の花を観察して、そこにある神のご支配を見つけ出すようにという勧めでした。

神はすべてのわざわいをも支配しておられます。わざわいは、神がおられないとか、神が無能であるというしるしでは決してありません。聖書の時代のわざわいは、預言されているとおりに起きていますが、現代のわざわいの原因は、私たちにははかりしれないことです。

しかし、神を愛する者にとっては、すべてのわざわいが益となり、あなたがたの労苦は決して無駄にはならないということは、すべての信仰者にとって、常識中の常識なのです(ローマ8:28、Ⅰコリント15:58)。

そして、聖書が語る罪とは、何よりも、神を慕い求めなくなることなのです。また、聖書が語る「善を求め、善を愛する」とは、パリサイ人のように義務を忠実に果たすということ以前に、あなたの身近なところで、悩み苦しんでいる人に、どのような気持ちで接しているかという心の姿勢を問うことなのです。

神のあわれみを知り、神のあわれみに応答して生きることこそが、信仰生活のすべてです。

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2013年4月 7日 (日)

アモス1,2章 「神は侮られるような方ではありません」

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   現在の安倍政権は、二十年あまりのデフレ経済からの脱却を至上命題としています。この政権の誕生の方向が見えて以来、平均株価は過去四か月間で五割も上昇しており、四か月で二倍以上になった株も多くあるようです。

人々は、今までの24年間の停滞から脱却するかのような夢を持ち始めています。私たちの教会は、それに先立つように、資金的な必要が満たされ、底値で土地を買い、今、憧れの新会堂を完成させようとしています。

 

しかし、ここで私たちは信仰の原点に立ち返る必要があります。バブル的な浮ついた気持ちを持つ代わりに、「(ヤハウエ)に信頼して善を行なえ。地に住み誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる(詩篇37:3,4)というみことばを思い巡らすべきでしょう。

それとともに、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ6:7)という警告を忘れてはなりません。私たちは一人ひとり、神と人に対する誠実さが問われているのです。

 

1.アモスの預言の時代背景

 アモス書の始まりは、「ことば、アモスの、テコアの牧者のひとりであった」という順番になっています。ホセアもヨエルも「ことば、主(ヤハウェ)の」という書き出しでしたが、この始まり方はエレミヤの場合と同じです。

ただ、不思議なのは、アモスの仕事は祭司や預言者ではなく、「牧者」と記されています。71415節では彼がベテルの祭司アマツヤに向かって、「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが、(ヤハウェ)は群れを追っていた私を取り、主(ヤハウェ)は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と」と語ったと記されています。しかも、彼の出身地の「テコア」とは、エルサレムの20㎞も南にある南王国ユダの町です。

そして、彼が主のことばを受けた時代は、「ユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前と記されています。この地震の年代がいつであるかは定かではありませんが、ゼカリヤ145節にも、「ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう」とあるように、約240年の時を経ても人々の記憶に残った大地震であったようです。

しかも、南王国でウジヤが治め、北王国イスラエルでヤロブアム二世が治めていた時代(紀元前793-753)は、アッシリア帝国の力が一時的に弱体化していたときで、二つの王国合わせてソロモンの支配地に匹敵するほどに繁栄を極めていた時代でした。そして、アモスが具体的に主のことばを聞いた時代は、紀元前760年から755年の間ということで学者たちの見解が一致しています。

そして、「彼が見たもの」の中心は、自分が住んでいた南王国ユダに関するものである以前に、北王国イスラエルの滅亡のことでした。アモスの時代は、北王国の人々は自分たちの繁栄が永遠に続くように誤解していましたが、ヤロブアム二世の死からたった三十年後に、国は廃墟とされます。

 

私たちのこの会堂での宣教の働きは19896月に始まりました。それはバブルの絶頂期でした。しかし、それからたった半年後の198912月に日経平均株価は38,950円に達しますが、それから一年も経たないうちに株価は約半値に暴落し、その後、97年の山一証券の廃業にまで至ります。まさにアモスの預言は、私たちがこの教会が始まったころに聞いているべきことばだったと言えましょう。

この教会が始まったころまでは、どの教会も楽観的な期待に満ち溢れていました。そのような中で、私たちもこの会堂を、何と、月額36万円の家賃を払って借りました。それは東京武蔵野教会の経済力を持って可能になったことですが、その後のキリスト教会全体の低迷の中で、この教会が、この高額な家賃を支払い続けることができたこと自体が、神の奇跡、あわれみと言えましょう。

 

   アモスの最初のメッセージは、「主(ヤハウェ)シオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる」というものです。北王国はシオンの山に立つエルサレム神殿に代わる礼拝の場を作りましたが、主はあくまでも「シオン」をご自身の住まいとしておられます。

また「カルメルの頂」とは、イスラエルの地中海岸の北の端にある山で、そこは預言者エリヤがバアルの預言者たちと戦った際、天からの火が降ってきて全焼のいけにえを焼き尽くした場所です(Ⅰ列王記18:36-40)

つまり、主ははるか南のエルサレムから声を発することで、北の果てにある偶像礼拝のメッカを焼き滅ぼされるというのです。

なお、「羊飼いの牧場」とは、北王国の指導者たちの支配地を指すと思われますが、ここで「かわき」と訳された言葉は、ホセア43節では「この地は喪に服しと訳されます。そこでは、その地が神を知ることがないため、「のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている」という状態に堕落していることを「喪に服する」と描かれています。

 

2.「・・・の犯した三つの・・四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」

  13節から25節までイスラエルの七つの近隣諸国に対するさばきがほとんど同じ文体で描かれます。そこに共通するのは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という語りかけとともに、(ダマスコ)の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」と同じことばが繰り返されながら、神が何に対して怒り、どのようなさばきが下されるかが記されています。

三つのそむきの罪、四つの・・」と毎回記されながらそこには一つの罪しか取り上げられませんが、それこそ、それぞれの四番目の罪かもしれません。このような表現で、彼らの罪が増幅して行く様子を描き、最後の最も神の怒りを買っていることが記されているのだと思われます。

 

イスラエルは現在と同じように大昔も、周辺の異教徒の国々との絶え間のない戦いの中にありました。そこには復讐が復讐を呼ぶというような復讐の連鎖がありました。しかし、神はイスラエルに対し、そのような周辺諸国との合従連衡を考えるよりも、神のさばきを知り、神の前に誠実に歩むことを求めていました。

神はそれぞれの国々に、それぞれの罪に応じたさばきを下されます。恐れるべきは敵の復讐ではなく、神のさばきなのです。

 

第一のさばきは、「ダマスコ」に対するものです(1:3-5)。ダマスコはシリヤ(アラム)の首都で、その罪が「彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじった」と描かれます。「ギルアデ」はヨルダン川東のイスラエルの領地ですが、ダマスコの王ハザエルとその息子のベン・ハダテは自分たちの南に領土を拡張しようと残虐な軍事作成をこの数十年前に展開していました。

それに対するさばきとして、ダマスコの宮殿が廃墟とされ、周辺の町々も焼き尽くされ、アラムの民は自分たちの出身地である「キル」へと戻されるというのです(9:7)。その地はイザヤ226節ではエラムと重ねて記されており、バビロンのさらに東にある後のペルシャ帝国の発祥地に近い地域だと思われます。

 

   第二のさばきは「ガザ」に対するものです(1:6-8)。ガザはイスラエルの南、ユダの西にある地中海岸のペリシテの中心都市、現在もイスラエル軍と衝突を繰り返している町です。

その罪は、「彼らがすべての者を捕囚の民として捕らえ移し、エドムに引き渡した(6)と描かれますが、これが具体的に何をあらわすかは分かりません。たぶんどこかの町の住民をまるごとエドムに奴隷として売り渡したことだと思われます。

これに対して、主は、ガザばかりかペリシテ人の北の町々の王たちを断ち滅ぼし、「ペリシテ人の残った者を滅ぼす(8)と言われます。

 

   第三のさばきは「ツロ」に対するものです(1:9-10)。ツロは現在のレバノン南部、ガリラヤ北西に位置する地中海岸の貿易都市、奴隷売買の中心地でもありました。

かつてダビデ、ソロモンがエルサレム神殿を建設する際には、ツロの王ヒラムは大量のレバノン杉を提供し、兄弟関係を結んでいました(Ⅰ列王記5)。しかし、そんな彼らがイスラエルの民を奴隷としてエドムに売り渡したのだと思われ、そのことが、「彼らが・・・兄弟の契りを覚えていなかったからだ」と説明されます。

そして、彼らへのさばきが、「わたしはツロの城壁に火を送ろう。火はその宮殿を焼き尽くす」(10)と簡潔に描かれます。アモスの時代から約170年後の預言者エゼキエルは2628章という大きなスペースを割いて、ツロの繁栄の中での高慢の様子とそれに対する神のさばきを詳細に預言しています。

 

   第四のさばきは「エドム」に対するものです(1:11-12)。エドムはヤコブ(イスラエル)の兄エサウの子孫で、死海の南東を支配していました。

そして、彼らの罪が、「剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていた」と描かれます。

ヤコブとエサウの兄弟げんかは子々孫々にまで引き継がれていましたが、それに対するさばきが下されるというのです。主のさばきが、「わたしはテマンに火を送ろう。火はボツらの宮殿を焼き尽くす」と描かれますが、テマンはエドムの中心都市のひとつ、ボツラは首都でした。

 

 第五のさばきは「アモン」に対すものです(1:13-15)。アモン人はアブラハムの甥であった「ロト」の子孫で死海の東北にある地方を支配していましたが、その北に位置するヨルダン川東側のイスラエルの領土ギルアデに侵攻を繰り返していました。

彼らの罪は、「自分たちの領土を広げるために、ギルアデの妊婦たちを切り裂いた(13)と描かれます。

そして、神のさばきが、その首都である「ラバの城壁に火を放とう。火はその宮殿を焼き尽くす」と描かれます。ラバは、現在のヨルダンの首都アンマンの古代都市だと思われます。彼らはアッシリヤに仕えた後、バビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚として別の地に連行されますが、ここではその滅亡のあっけなさが、「これは戦いの日のときの声と、つむじ風の日の暴風のうちに起こる(14)と描かれています。

 

第六のさばきは「モアブ」に対するものです(2:1-3)。モアブもロトの子孫で、死海の東側の地を支配していました。彼らの罪は、「エドムの王の骨を焼いて灰にした(2:1)と描かれます。

かつて北王国イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャパテはエドムの王を誘って、死海の南のエドム経由でモアブに攻め入りましたが(Ⅱ列王記3)、その復讐としてモアブはエドムに攻め入って、エドムの王を殺害し、「王の骨を焼いて灰にした」のだと思われます。それは人格を否定する最悪の辱めでした。

モアブ人はいつも近隣の大国の手先になって神の民を攻撃してきたので、「よこしまな者」の代名詞とさえなりました。

彼らに対するさばきが、「わたしはモアブに火を送ろう。火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、角笛の音と、ときの声のうちに死ぬ。わたしはさばきつかさをそのうちから断ち滅ぼし、そのすべての首長たちを、彼とともに切り殺す」と、際立って大きく描かれます。

 

第七のさばきは南王国「ユダ」に対するものです(2:4,5)。その罪は、彼らがエルサレム神殿を中心にいただいていながら、「主(ヤハウェ)のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わした」ことと描かれます。それは具体的には、近隣の偶像崇拝の風習を取り入れてしまったことです。

そして、主のさばきが、「わたしはユダに火を送ろう。火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす」と、モアブの場合とは対照的に驚くほど簡潔に記されます。

この書き方は、112節のエドムに対するさばきと同じですが、ここではユダ全体が廃墟とされることと、エルサレムの神殿以前に、王の宮殿が廃墟にされることが強調されています。それは紀元前586年にエルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされ、民が捕囚とされたことによって実現しました。

 

なお、最後のユダに対するもの以外は、すべてイスラエルの神を知らない異教徒に対するさばきです。そこでは何よりも、人を人とも思わない傲慢さや卑劣さが、理由とされています。

神は異教徒に対しては、不信仰をさばきの理由にするのではなく、隣人への不誠実さをさばきの理由としています。一方、ユダに対するさばきは、何よりも、主の教えを捨てたことがさばきの理由とされています。

神はそれぞれに誠実さを求めておられるからです。

 

使徒パウロは、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさい・・・」(ローマ12:18,19)と勧めましたが、それは、厳密には、「神の怒りに場所を空けなさい」と記されています。自分で復讐することは、神の復讐の機会を奪うことになるというのです。

イスラエルが取るべき態度は、周辺諸国の悪に自分で復讐する代わりに、神がそれぞれの国の悪にふさわしいさばきを下されることに信頼して、「敵が飢えたなら・・食べさせ、渇いたなら・・飲ませ」(ローマ12:20)という愛の行為でした。あなたの敵をさばくのは神のなさることであり、あなたの責任は敵を愛することなのです。

 

3.「エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ」

   26節からは北王国イスラエルに対するさばきが、今までと同じ文章を用いながら、「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」と記されます。その上で、ここでは、「四つのそむきの罪」が具体的に記されます。

その第一は、「彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売った」ということです。これは自分たちと同じ民族が借金を返せない時に、とてつもない安い値段で同胞を奴隷に売ってしまうような不正義が横行していたことを非難したものです。

 

   その第二は、「弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ」たことです(2:7)。これは同胞どうしの間で利害の対立が起こった時の裁判の席で、弱い人、貧しい人に不利になるようなさばきを下していたことを非難したものです。

また、その第三は、「父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している」というものです(2:7)。これは、イスラエルの民が異教的な神殿に通い、父と子がそこの同じ神殿娼婦と関係を持つという忌まわしい不道徳を犯していることを非難したものです。

第四は、「すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる(2:8)というものです。律法では、貧しい同胞に金を貸す際、質草に取った上着は夜には返すことが命じられていましたが、彼らは罰金のような利息を取って買った酒を、偶像の宮で飲んでいたというのです。 

彼らのすべての罪の根本は、まことの神の代わりに偶像を拝み、自分たちの隣人を虐げたことでした。

律法の核心は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい(申命記6:5)ということと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(レビ記19:18)ということですが、イスラエルの民はこれに反する「三つのそむきの罪」「四つのそむきの罪」を犯していたのです。

 

   910節それぞれの原文の最初では、「このわたしだ」ということばが繰り返され、神の一方的なあわれみによって、イスラエルの民がカナンの原住民のエモリ人を打ち破ったことが、「エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。しかし、わたしはその上の実と下の根とを滅ぼした。あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだと描かれます。

イスラエルの民はかつて、エモリ人の大きさと強さにおびえていたのですが、四十年間の荒野の生活で神の訓練を受け、最終的に約束の地を占領することができました。しかし、それは彼らの功績ではなく、主の一方的な恵みのわざだったのです。

 

   その後、神は、ご自身の恵みを忘れてしまう民のために、「預言者を起こし・・若者から、ナジル人を起こし」ましたが、彼らは禁酒を誓った「ナジル人に酒を飲ませ」て堕落させ、「預言者には」自分たちの行為を非難するような預言をすることを禁じてしまいました。彼らは、神のことばを聞く機会を自分で閉じてしまったというのです。

 

213節の「見よ。束を満載した車が押さえつけるように、わたしはあなたがたを押さえつける」という文章は分かりにくいものです。これは、神がイスラエルの民を動くことができないように押さえつけるという意味にも解釈できますが、新共同訳や最新のフランシスコ会訳では、「わたしはおまえたちの足元の地を裂く。麦束を満載した車が地を裂くように」と訳されています。それは、最初に、神が「地震を起こす」と言われたことに対応するものと解釈したものです。

どちらにしても、その結果は、「足の速い者も逃げ場を失い、強い者も力をふるうことができず、勇士もいのちを救うことができない。弓を取る者も立っていることができず、足の速い者ものがれることができず、馬に乗る者もいのちを救うことができない。勇士の中の強い者も、その日には裸で逃げる」と描かれ、自分の足や力を誇る勇士たちが、何もできずに敗北し、国が亡びるということになるというのです。

 

神はイスラエルの民を用いて、カナンに住むエモリ人の罪をさばきました。しかし、イスラエルの民は神の恵みを忘れ、エモリ人と同じような忌まわしいことを行なうようになりました。

イスラエルを用いてエモリ人を滅ぼした神は、今度はアッシリヤやバビロン帝国を用いてイスラエルを滅ぼそうとしておられます

 

神は、八回にわたって、「・・・の犯した三つの・・四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」ということばを繰り返しておられます。それは、私たちに向けたさばきのことばでもあります。もし私たちがイエスの十字架の陰に身を避けることができなければ、このさばきは私たちの上に下ることになるのです。

 

イスラエルとその周辺諸国は、アッシリヤを初めとする大帝国が弱体化している時期に繁栄を謳歌していました。それは日本のバブルの時期にそれぞれの失敗が大目に見られたのと同じです。しかし、バブルがはじけたとたん、悪者捜しが始まり、過去の罪が顕にされました。英語のConsequenceということばに見られるように、私たちの現在の行動は、将来に必然的な結果を生むという面を忘れてはなりません。

それを前提に、使徒パウロは、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)と述べました。

そして、それは私たちの働きの動機が、自分の肉的な損得勘定か、この地に神の平和を広げようとするという御霊の思いかにも関わることで、そのことが、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(同6:8)と言われます。

ただ、バブルがはじけたときのように、どんなに誠実に働いても、良い結果が見られない時がありますが、神はあなたの行動を見ておられ、「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」と保障しておられます。

その結論として、「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう(6:10)と言われます。なお、信仰の家族が大切なのは、神の平和は、目に見える神の家族の互いの愛の交わりということを通して世に証しされるからです。

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