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2013年5月26日 (日)

コロサイ1:24-2:7 「キリストにあって歩むとは?」

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多くの人は、何かの大きな課題や締め切りのある仕事のプレッシャーがないうちには自分の心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスに会うたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表にでてきてしまいます。そしていつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。

あなたは心の底から、ある時、ある場での、あの両親を通しての自分の誕生を「キリストにあって」の恵みと受けとめきれているでしょうか?これは多くの人にとって、何よりも難しいことです。それができるなら、あなたの人生はあなたの個性を真に生かす場とされるのではないでしょうか。

 

1.  「私がどんなに苦闘しているか、知って欲しいと思います。」

  パウロは、コロサイとその近隣の教会が、自分の苦闘を「知ることを望んでいます(2:1)と言います。これは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(1:24)以下をまとめる意味があります。パウロはかつてキリストの教会を迫害する者でしたが、今や異邦人教会のためにいのちを賭けています。それはイエスの召しによります。彼は異邦人の使徒として召された結果として、イエスの代理として苦しみに会っていますが、それを、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている(1:24)と表現したのです。

彼は、イエスにとらえられた後で、「神は・・この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと望まれた(原語で強調)(1:27)ことを自分の心で受けとめた上で、確信に満ちて、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです(1:27)と語りました。それまでは、神に受け入れられるためには、ギリシャ人も、まず割礼を受け、食物の規定などを守るユダヤ人になる必要がありました。なお、当時は、ユダヤ人にだけは、偶像礼拝を強要されないという特権が与えられていましたから、同じ聖書の神を信じるようになった異邦人にとっては、まずユダヤ人の仲間入りをすることには信仰をまっとうする上では大きな意味がありました。しかし、パウロはここで、そのような守りの姿勢を忘れさせるような大胆な霊的な現実を思い起こさせました。それは、異邦人のままの彼らに、万物の創造主であるキリストが、既に住んでおられ、ご自身の栄光の姿にまで変えてくださるという告白です。この「栄光の望み」の中で、彼らは異邦人としての自分たちのアイデンティンティーをそのまま喜び、長い霊的な伝統を守り続けているユダヤ人たちと同じ神の民になれたのです。しかし、その教えがユダヤ人を激しく怒らせ、パウロは牢獄に入れられることになったというのです。

今、パウロは、自分の苦しみが神から理解されていることに満足せずに、「私の顔を見たことのない人たち」が、「私がどんなに苦闘しているか、知ることを望んでいる(原文で強調)」と、敢えて訴えています。ここでの「苦闘」と、129節の「奮闘」は原語では基本的に同じ意味のことばです。それは彼が、自分の「苦闘」を証しすることが若い信仰者に、恐れよりも勇気を与えることを確信していたからです。パウロは彼らを、幼児のように世話される立場から、「キリストにある成人として立たせる(1:28)ことに目標を置いていましたが、そのためには、ことばばかりではなく、自分の生き様を通しても、「キリストを宣べ伝える(1:28)必要がありました。

人は、基本的に、苦しむことを避けながら、楽に人生を過ごしたいと願う者です。しかし、同時に、何かのために苦しむことができる人に尊敬の心をいだきます。最近では三浦雄一郎氏が80歳でエベレストの頂に立ったということが大きな話題になりました。多くの人はそれを聞いて、「それに何の意味があるのか・・」と皮肉る代わりに、励ましを受けます。つまり、人は苦しみを避けながらも、苦しみを担う力を受けられることに憧れているのです。ローマ人への手紙817節には、「私たちがキリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しんでいるなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります」と記されています。

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地を」相続し、治める者になると約束されています。そして、そのことは、何よりも、「キリストと共に苦しむ」というプロセスを通して明らかにされるのです。ひょっとして私たちが「キリストとともに栄光を受ける」ということがなかなか実感できないのは、「キリストとともに苦しむ」というプロセスを避けているからかもしれません。

神はご自身のみことばの解き明かしを、欠けだらけの器に委ねました。一見、極めて非効率で誤りやすい方法ですが、生身の人間の苦しみを通してしか伝わらない真理があります。私たちのうちに住んでおられる「キリスト、栄光の望み」のすばらしさは、この世でわざわいに会うという「弱さ」の中にこそ完全に表わされるからです。そのために私たちも、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」という働きへと召されているのです。

辻岡先生は、若い頃の夢の中で、天国の門の入口で「おまえは自分のためだけにしか生きてこなかったのではないか?」と問われたことを証ししておられます。これは全てのキリスト者への問いです。私たちのいのちは、自分だけのために生きようとするときに不完全燃焼を起こすということを忘れてはなりません。

 

2.  「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されています」

   2節は、まず、「それは、この人たちが心に励ましを受けるため」と記され、そのプロセスが、「愛によって結び合わされながら、理解をもって豊かな全き確信に達することで」と記されています。

作家の池澤夏樹さんは最新号のMinistryVol.17で「プロテスタントに嫌味を言うわけではありませんが、一人ひとりに聖書を配ってしまったのはどうだったのか。ユダヤ教みたいにみんなで朗読するならいいんです。でも一冊の本として個室に入ってしまったために、会衆の中の一人ではなく、神と一対一になってしまった。それによって普通の人が、哲学の課題を負わされてしまったんですよね」(p.53)と記しています。これは確かに興味深い視点だと思います。信仰の成長とは、ひとりで聖書知識を蓄えることではなくて、「愛によって結び合わされる」という教会の交わりの中で起こるべきことではないでしょうか。

その上で、「全き確信」の内容が、「神の奥義であるキリストを真に知ること」と記されています。「キリストを知る」とは、15-20節にあったキリスト賛歌を心から理解し味わうことです。キリストは何よりも万物の創造主であり、すべてのものはキリストにあって成り立ち、キリストに向けて保たれています。そして神はキリストのうちにご自身の満ち満ちた本質を宿らせることによって、御子の十字架によって万物をご自身と和解させるという不思議な救いを実現してくださいました。それによって、私たちはこのままで、神の子どもとされたのです。

私たちが神について、またこの世界について、自分の人生について知るべきすべてのことはキリストのうちに隠されています。彼らの交わりは今、誤った教えによって分裂の危機に瀕していました。しかし、「キリストを真に知る」ということの中に、彼らの交わりと確信のすべての必要が満たされるというのです。なぜなら「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている(3)からです。これは、「律法こそが知恵と知識の宝である」というようなユダヤ主義者の「まことしやかな議論(4)に対抗した表現だと思われます。

パウロは、律法の教師でしたが、キリストを知らない時、律法を誤解していました。しかし、主を知った時、律法にある知恵と宝を理解できました。主を知ることは律法を知ることでした。

なお彼は、「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて(5)と説明し、御霊によって彼らと自分が結ばれていると強調しています。聖霊は、空間を超え、どこにでも同時に存在することができる全能の神です。私たちの霊が祈りのうちに聖霊に結びついているときに、私たちは離れた兄弟姉妹ともいっしょにいることができます。パウロはそのことをまず「喜んでいます」と告白しながら、同時に、「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見ています」と述べています。パウロは御霊の働きの中で、彼らの信仰の状態を見ているというのです。「秩序」と敢えて述べるのは、彼らを無秩序と呼ぶユダヤ主義者がいたからだと思われます。彼は、彼らの欠けではなく、既に与えられている恵みに何よりも目を向けさせようとしています。また、「秩序」も「堅い」も、軍事用語として戦いの場面で頻繁に用いられる言葉です。パウロはコロサイの教会の人々が、誤った教えに惑わされないように「堅く立っている」ことを称賛しているのです。

  ところで、キリストを知ることは自分の人生の目的を知ることにつながります。たとえばパウロは、生粋のユダヤ人であると同時に、ローマ市民としてギリシャ文化の恩恵を受けていました。彼の中でユダヤとギリシャが戦っていたのではないでしょうか。その葛藤が、かつては彼を熱心な教会の迫害者に駆り立てました。そしてキリストを知ったとき、自分の使命をギリシャ人とユダヤ人の和解にあると心から理解できたのです。

たとえば、私の中には、物事を成し遂げる有能さと落ちこぼれ意識が共存し、秩序を尊重する思いと、枠からはみ出る部分を切り捨てられる恐れの間の葛藤があることに気づきました。それが、牧会方針の揺れとして表わされる場合がありました。しかし、自分の内側にある両方の声に耳を傾けることが、同時に、この教会に与えられた個性を生かすことになると示され、自分自身の癒しと自分の使命が一体のことだと理解できました。あなたの中にも、秩序と自由、安らぎと勤勉さ、赦しと正義を対立とするような葛藤がないでしょうか。しかし、それらの葛藤は、キリストの中で調和され、そこに生まれた和解は、周囲の世界に及ぶものです。

 

3.  キリストにあって歩みなさい。

  6,7節は、これから46節まで続く具体的な勧めの核心です。「主キリスト・イエスを受け入れた」とは、「キリスト(救い主)であるイエスを自分の主人とする」という意味です。113節では、私たちは「闇の力」から救い出され、「御子のご支配」の中に移されたと記されていました。私たちは確かに、心の戸を開いて、すべてのものの支配者であるキリストを招き入れたのですから、そこには途方もない偉大かことが起きています。それは、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27)と記されていた通りです。しかし、それは同時に、私たちの人生は、キリストを迎え入れることによって、自分のものではなくキリストのものになったことを意味します。私たちはどこかで、自分の願望を満たしてくれる救い主を求めてはいないでしょうか。大切なのは、キリストの願望が私たちの願望となり、キリストのみわざが私たちを通して実現されることです。

まさにこれこそが「イエスを主と告白する」という信仰告白の核心なのです。そして、そのように告白した者に対して、「彼(キリスト)にあって歩みなさい」と命じられています。「歩む」ことこそ、唯一の命令形です。信仰告白は、頭で学ぶばかりではなく、毎日の生活の中で実践される必要があります。7節には四つの現在分詞が記されていますが、これはすべて、「歩みなさい」を修飾します。この勧めの中心は、「歩み方」にあるのです。

最初の「キリストの中に」は、「根ざす」、「建てられる」の両者を含んでいます。「キリストの中に根ざしながら「歩む」とは、自分の全生涯を神の賜物として受けとめることです。あなたは「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれ(エペソ1:4)た結果として、欠けだらけのあなたの父と母のもとで生まれ、育てられ、時が満ちて、「暗闇の圧制から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(1:14)のです。その神の愛を味わい、その愛に浸りながら歩むのです。

キリストにあって建てられる」とは、根を深く張ることの結果ですが、これは「愛によって結び合わされ(2)ともあったように、主のからだとして交わりが建てられることです。しかもこれは「建てられ続ける」という現在進行形的な意味が込められています。信仰は、目に見えない心のことのようですが、キリストに根ざした結果は、必ず、人との交わりとして実を結ばせます。主への愛と、主の被造物である者への愛とは表裏一体のことです。

  「教えられたとおり信仰を堅くされながら(原文)」では、受動形に注目しましょう。信仰は、自分の身と心を福音に浸すことによって、堅くされるものなのです。しかもここでの「堅くされる」とは、5節にあった「堅い信仰」とはまったく違う言葉が用いられており、英語では「strengthened in the faith(NIV)とか、「established in the faith,(ESV)と訳されています。5節のことばは軍隊用語で敵の攻撃に動じないという意味での堅さですが、ここは、信仰の理解において強くされ、確立されるというような成長のイメージがあります。もともと「信仰」ということばは「真実」とも訳される言葉で、私たちの信仰とは、キリストの真実に応答なのです。彼らの問題は、既に聞いた福音を不充分かのように思い始めたことでした。キリストが、ある人を通して、あなたに目を留め、あなたに個人的に語りかけてくださいました。信仰が堅くされる鍵は、そのように既に「教えられ」、心に響いたみことばを、繰り返し腹の底で味わい続けることにあります。ここでも現在進行形的な継続性の意味が動詞に込められています。

  なお最後に、「感謝に満ち溢れていながら」と敢えて記されているのは、彼らが現実の欠けにばかり目が奪われ、既に「キリストにある」という祝福を忘れていたからです。私たちが、目標を達成することばかりに夢中になり、それに至る過程の歩みを喜び楽しむことができないなら、互いを愛し合い、世界にキリストの愛を示して行くという働きの中で、「互いを憎み合う」という皮肉が生まれます。残念ながら、私たちは自分たちの崇高な目標が明確になればなるほど、期待通りに動いてくれない人に対して腹を立てることが多くなってしまいます。しかし、私たちの歩みは、新天新地に至るまで目の前から問題がなくなることはありません。すべてが一過程に過ぎないのです。私たちの人生は、「今ここにある恵み」を忘れるなら、人生は何と空しいことでしょう。

 

  私たちは、問題に直面した時に、逃げるか戦うかのどちらかの傾向に気持ちが揺れがちです。しかし、キリストにある歩みとは、その問題の中に入りこんで、そこにある対立している声に静かに耳を傾け、それをキリストにあって受けとめなおすことではないでしょうか。自分の中の対立した声を優しく聴くなら、世界に平和を作る者として用いられます。あなたにとって矛盾が気になる所は、あなたにとっての「キリストの苦しみの欠けたところ」ではないでしょうか。たとい、苦しみに会っても、そこでキリストのいのちが輝くことができるのです。

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2013年5月21日 (火)

使徒の働き2章(朗読2:1-11) 「聖霊による礼拝の交わり」

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  しばしば礼拝が、守るべきお勤めになってしまったり、聖書の勉強会になってしまうことがないでしょうか。また、時とともに、出来上がったカルチャーに合わない人が排除されたり、またその反対に、外部の人への配慮ばかりが優先されて信者が駆り立てられるように動かざるを得ないなどということがありえないでしょうか。

 

1.聖霊によってめいめいの国のことばで話し・・聖霊によって主の名を呼ぶ

  使徒の働き2章にはペンテコステの日の出来事が記されています。それは「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した(2:4)ということでした。

バベルにおいて人間たちは一致して主に逆らいましたが、それに対して主は人間の言葉を混乱させ、地の全面に散らされました。それは人々が同じ基準で序列を作るような社会を正そうとする神のあわれみでもありましたが、それがために異なった言葉を持つ者たちの間の意思疎通が難しくなり、民族と民族の対立の原因となりました。

 

このペンテコステのできごとは、みなが同じ言葉を話せるようになることではなく、イエスの弟子たちが、自分たちの間の少数者の言葉を話すようになることでした。

このときエルサレムに来ていたユダヤ人は本来ヘブル語が理解できて当然のはずなのに、この場にはそれができないユダヤ人が集まっていました。そのとき、神の霊が注がれた弟子たちが、そこに集っている人々の出身地の言葉を話すようになったというのです。

 

それは日本にいる外国出身者に、「日本にいるなら日本語を習いなさい」と言う代わりに、私たちが中国語や韓国語、タイ語、アラビヤ語などを話すようになることに似ています。

つまり、聖霊に満たされるとは、立場の弱い人たちに合わせて話すことができるようになることだったのです。それによって、外国出身のユダヤ人たちが福音を理解できるようになりました。

 

パウロは自分の伝道の姿勢を「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり・・・律法を持たない人には・・律法を持たない人のようになりました・・・弱い人々には、弱い者になりました(Ⅰコリント9:19-22)と語っています。

これはたとえば、それぞれの感性や使っている言葉の違いに寄り添い、配慮できるようになることこそが聖霊のみわざであると言えましょう。

また、聖霊のみわざは、多くの日本人にとって理解不能な数千年前の中東の文化の中で語られたメッセージを現代の文脈の中によみがえらせる働きをすることにあるとも言えましょう。その働きを聖書の教師が担います。

 

   そして、福音を聞いた人々も、主のことばを理解し、主を呼び求めるように変えられるというのが聖霊のみわざでした。ヨエル書の預言の趣旨は、神の最終的なさばきが下る前に、神が人々の心を造り変えてくださるというものです。

神の命令の中心は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)ですが、イスラエルの民は神を愛することができなくて神のさばきを受けバビロン捕囚となりました。

しかし、神は、終わりに日に、「心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる(申命記30:6)と約束しておられました。つまり、人々が真心から主を呼び求めるように変えられることこそ聖霊のみわざなのです。

 

2.この方をあなたがたは殺し・・この方を神はよみがえらせました。

  ペテロは、聖霊降臨を、「終わりの日(完成のとき)」(17)のヨエルの預言の成就であり、それを実現した救い主こそ「ナザレ人イエス(22)であることを語ります。

22-24節は、「この方は神によってあなたがたに証しされた・・・この方を・・あなたがたは十字架につけて殺しました・・しかし、この方を神はよみがえらせました(2:23,24)という展開が記されます。

つまり、ペテロはまず、「神が証しされた救い主を、あなたがたが殺した」という彼らの罪を厳しく指摘しつつ、「しかし、この方を神はよみがえらせました・・」と、神の恵みのみわざが人間の罪のわざを圧倒し、それを呑み込み、救いが成就したと語られています。

 

  そして彼は、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です(31)と宣言します。私たちも常にこれを自分の告白とすべきでしょう。続いて、「神の右に上げられたイエスが・・御父から聖霊を受けて・・この聖霊をお注ぎになったのです(33)と言われますが、これは、今、ダビデの王国に代わるイエスの王国が聖霊によって建てられていることを意味します。しかも、その聖霊はイエスの生涯を導いていた方であり、その方が私たちをイエスの代理として用いてくださるというのです。

 

彼は最後に、「このイエスをあなたがたは十字架につけた(36)と厳しく指摘します。これは私たちをも同じように責めることばです。

これを聞いた人々は「心を刺され」、「私たちはどうしたら良いでしょうか」と尋ねます。それに対して彼は、「悔い改めなさい・・バプテスマを受けなさい(38)と答えます。

 

   ただし、ここで指摘されている罪は、何よりも、神がお立てになられた救い主を十字架につけたということです。つまり、自分の正しさによって神の好意を勝ち取ることができると思い、自分が罪人の頭であることを認めない傲慢さこそが何よりも責められているのです。

実際、イエスを十字架にかけることを主導したのは、自分に自信を持っていたパリサイ人を初めとする宗教指導者たちでした。

それと反対に、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と、自分が赦され得ない罪人であることを認めた取税人こそが義と認められました。

 

バプテスマを受ける」とは、「私はイエス様なしには生きて行けない・・・」と降参することの象徴です。なぜならバプテスマとは「キリストと葬られる」(ローマ6:4)ことのしるしだからです。

洗礼という儀式を受ければ「賜物として聖霊を受ける」という約束ではなく、自分の肉の力では神を喜ばせることはできないと降参する人に聖霊がくだるという約束です。

 

  私たちも自分の惨めさに圧倒されることがあります。しかも、自分で自分を変えようとあせるほどかえって絶望感を深めざるを得ません。しかし、神があなたに求めておられることは、神の救いのご計画に身を任せることです。

あなたはイエスを十字架につけました。しかし、神はこの方をよみがえらせました。ですから、もう後悔の念にとらわれる必要はありません。神のみわざは人の罪にも関わらず完成に向っています。

私たちもキリストの復活の証人、聖霊を受けた者として、明日に向けて生きることができます。

 

3. 初代教会の礼拝  使徒たちの教え、コイノニア、パン裂き、祈り(賛美)

  この日、三千人もの人が、みことばを受け入れ、バプテスマを受けました(41)。彼らはすべて約束の聖霊を受けた人々です。

その結果生まれた共同体の礼拝の様子が、42節の原文では、「彼らは堅く守っていた」と記され、その内容が、「使徒たちの教え、交わり(コイノニア)、パン裂き、祈り」という四つに分けられます。

それは、第一に、福音書を朗読し、その教えを身につけることです。

第二に、信者となったもの同士が互いのために祈りあい助け合うことです。

第三に、それは聖餐式を守ることです。

そして、第四に神に向かって賛美し、祈ることです。祈りと賛美は、詩篇において融合しているからです。

 

これらは何よりも聖霊のみわざによる礼拝の姿でした。そして、このことが43節以降具体的に展開されます。「一同の心に恐れが生じた(43)とは、47節までのすべての要約です。それは真に恐れるべき方を恐れ、愛することによって自分から自由にされることです。

 

そして、第一の使徒たちの教えには、「多くの不思議としるし」が伴っていました。それは、彼らの語ることばが、信頼するに値することを保証しました。

 

第二の「交わり」は、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた」(44)ということで現されました。これは原始共産制などではなく、聖霊のみわざです。

聖霊が、人の心を、自分の所有物はすべて神と人のものであるという気持ちへと変えるのです。そこには一切の強制も、見栄もありません。

 

第三に、彼らは毎日、「心をひとつにして集まり・・パンを裂き・・食事をともにしました(46)。初代教会の時代は、聖餐式と食事の交わりが不可分であり、また聖餐式のない礼拝はあり得ませんでした

なお、カトリックでの「ミサ」ということばは、みことばの説教の後、聖餐式に移る前に、「求道者はこの場から出でてください」と「解散」(ミサ)させたことに起因していると言われます。

聖餐式は、聖霊を受けた者たちだけがあずかることができた信者の交わりでした。たとえば、「主の祈り」なども、求道者はともにすることが許されませんでした。

 

第四に、彼らは「神を賛美し(47)ていました。そして、賛美の中心とは、主の復活の証人として、主の復活を歌うことでした。彼らは歌いつつ、主に祈っていました。

 

   そして、この一見閉鎖的な信者だけの交わりが、「すべての民に好意を持たれ(47)というのです。私たちの間に真実の愛の交わりがあるなら、まわりの人々は、「ここに愛がある」と認め、まるでミツバチが蜜に引き寄せられるのと同じになり、その結果、「救われる人々」が仲間に加えられ続けるのです。

 

  聖霊のみわざによって始まった初代教会では、少数者や社会的弱者が尊重されました。説教の中心にはキリストの復活がありました。

そして、「イエスを死者の中からよみがえらせraise upた方の御霊が」、私たちのうちに住み、この「死ぬべきからだをも生かしてくださいます(ローマ8:11)

つまり、キリストの復活は、私たちが聖霊によって生かされることと直結しています。私たちは「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊(Ⅱテモテ1:7)を受けました。

私たちの心は、しばしば、沈んで、うめき、騒ぐばかりで、空しさを感じます。しかし、それを自分で変えようとする代わりに、そのままを神に差し出すとき、聖霊は私の心を引き上げ(raise me up)てくださいます。

そこに聖霊に導かれた礼拝の交わりが生まれ、また、その礼拝の中で、落ち込んだ人の心が生き返ります。

まさに、キリストの復活は、私たちの「心の復活」につながります。そして、聖霊によって私たちはキリストの復活の証人として用いられて行くのです。   

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2013年5月12日 (日)

コロサイ1:15-29「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」

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  1960年代に、「小さな親切」運動が全国的に盛り上った時期がありましたが、その後、「小さな親切、大きなお世話!」となどと言われ、急速に冷めて行ったと言われます。多くの人は、何か人の役に立ちたいと思っていながら、「余計なお世話」と言われることを恐れ、「私などがやらなくても・・」と自分に言い聞かせます。しかし、今回の東日本大震災を契機に、また少し変化が生まれてきているのかもしれません。
 たとえば、六十歳以上の方々が、「福島原発行動隊」を組織し、若い人々の身代わりになって放射能事故の終息のために労しようなどという動きは今までなかったことです。そこには原発の運営に関わって来られたような方もおられ、まさに政治信条を超えたボランティア組織になっています。日本はこのボランティア活動においてはアメリカから大きな後れを取っています。たとえば、米国では現在、ふたりに一人が、週に三時間以上のボランティア活動に加わっていると言われます。日本ではまだまだそのような人は少数派です。しかし、それでも、自分の利害を超えたことのために何かの貢献をしたいという思いは強くなっています。        

私たちの教会でも、今回の会堂建設に際し、多くの方々が多大な資金的なご協力をしてくださいましたが、その半額は、新会堂を決して利用することのない方々からのご協力によっています。ですから、私たちも新会堂において、地域のために、またこの東京のため、他教会のために何ができるかを積極的に考える必要があります。

米国であるご高齢の方が、回心した時、心から、「私は人生を無駄にしてしまった、無駄にしてしまった」と嘆いたとのことです。私たちが犯すすべての失敗は、益に変えられます。しかし、失敗するようなリスクも犯さなかった人、自分のためにしか生きて来なかったような人は、イエスの前に立って後悔の涙を流さざるを得ないことでしょう。失敗は益に変えられても、無為に過ごした時間は、主にあって無駄になってしまうのです。私たちは神と世界とを愛するためにこそ、生かされているのです。

 

1. 「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって・・・」

 「万物は、御子にあって・・御子によって、御子のために造られ・・御子にあって成り立っています」(16,17)で、「万物」を、人、仕事、食べ物、趣味その他の具体的なもので置き換えて読む時、どんな状況の中でも、父なる神に喜びをもって感謝をささげることができます。

 

ナチス・ドイツのもとでのある南ドイツの強制収容所でのことです。囚人たちは、強制労働で死ぬほど疲れている中、雲が、夕日に照らされ、驚くほどに神秘的な色彩にいろどられて行くのを、感動の沈黙をもって眺めていました。その時ある人が「世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう」と尋ねたというのです。この世の地獄で、人はなおも美に感動できるのです!

これを記したフランクルは、早朝の寒さと疲労の極みの作業場への行進の中で、生死も不明の愛する妻ティリーのほほ笑みと眼差しを思い浮かべることができました。彼女とは結婚後たった9ヶ月で強制収容所に入るために生き別れざるを得ませんでしたが、彼は歩きながら妻の面影を思い浮かべ、彼女と語り合い、その微笑みを見ました。

そこで、彼は、「彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった」と記しています。そのとき彼は、「愛は死のように強く」(雅歌8:6)というみことばの真理を思い起こし、「神は、愛によって、愛のうちに、被造物を救う」という真理が分かったと言っています。

 

  世界には、昔から、目を覆いたくなる程の、不条理と悲惨が見られます。それを見ながら、人は、「神はいない」とつぶやき、「神を離れ、心において敵となって(21)行ったのではないでしょうか。

なお、「神を離れ」とは厳密には、「離されていた者たちであった」と記されています。これは真の神との交わりが断たれ、神の敵となって、人生の基準を失い、ますます「悪い行ないの中に」沈んで行った状態を指します。

イエスの時代の異邦人も、現代の日本人も、商売繁盛の神を礼拝するのが好きでした。日本では、稲荷神社などがその代表ですが、そこでは神の使いとして「きつね」が祭られたりします。人は、自分が拝む対象に似てきます。イエスを救い主としてあがめると、イエスに似た者となりますが、きつねをあがめると、狐に似てしまうのかもしれません。

古来、人間は、富や力や多産を願い、それらをもたらす神々をあがめていました。聖書が描く「悪い行い」とは、それらの欲望自体を神として、権力やお金やセックスの欲望の奴隷になってしまうことを指しています。クリスチャンとは、何よりも、キリストに似た者に変えられたいと願う者たちです。それこそ信仰のゴールです

 

しかし、神は、人を裁く代わりにあわれみ、「御子の肉のからだにおいて、その死によって・・ご自分と和解させて(22)くださいました。「御子の肉のからだ」とは、私たちの同じ死ぬべき身体です。なお、「御子は、見えない神のかたち」(15)でしたが、処女マリヤから生まれて私たちと同じ肉体となることによって死ぬことができるようになりました。それは罪の報酬である死を私たちの代表者として体験するためでした。

そして、「御子はそのからだである教会のかしら(18)ですので、その「からだ」に属する私たちの代表者として、罪の結果の死を引き受けることができたのです。キリストは、私たちが負うべき罪のさばきを引き受けてくださいました。それゆえ、神は私たちにもう罪の刑罰を科す必要がなくなりました。

 

罪や苦しみと無縁と思われる方が、敢えて、罪深い肉と同じ姿となり、罪人の代表者としての死を体験されたのです。

人の創造主が、敢えて、人の暴力をその身に受けられ、「父よ。彼らをお赦しください・・」(ルカ23:34)と祈られました。それは世界を、ご自身の愛のうちに、愛によって、愛の完成に向けて、造り変えるためです。

 

 しかも、「御子は・・死者の中から最初に生まれた方(18)です。そして、キリストのからだである教会に属する私たちもキリストの復活のからだとつながっています。

私たちは、キリストご自身が「聖く、傷なく、非難されるところのない者」であると同じように、私たち自身も、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせて」(22)いただけるのです。

なおこれは、将来の完成の姿ばかりではなく、既に実現している関係でもあります。神は、今、私たちに、愛する御子を見るような暖かい眼差しを向けておられます。

 

なお、「聖く、傷なく・・」とは、神殿の「いけにえ」のための用語ですが、パウロはローマ書で救いのみわざを語った後に「そういうわけですから、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい(12:1)と命じました。

神は私たちに献身を求めておられますが、それは「神にこれほど愛されているのだから、愛されている者らしい生き方をしなさい」ということなのです。イエスは私たちのために苦しんでくださいました。ですから、私たちもイエスのために世界の苦しみを担うように召されているのです。

 

2. 「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たす」

  「しっかりした土台の上に堅く立って・・(23)と勧められるのは、「すでに聞いた福音の望み」からはずれさせる教えが入って来たからです。

それでパウロは、彼らが聞いた福音が、「天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」ものと同じだと強調しました。なお、ここは厳密には、「天の下のすべての造られたものの中で宣べ伝えられている」と記されています。パウロは別に人間以外の者に福音を語ったわけではありません。しかし、この福音は、「地にあるものも天にあるもの」のすべてを含めた「万物」を創造主と「和解させ」るという壮大なスケールを持ったものでした。

神は初めに、天と地を創造されましたが、その世界の中には、人間の罪によって、様々な問題が入り込んでしまいました。それは今回の原発事故の例などにも明らかなことです。

しかし、キリストの十字架は、この世界を、神の平和(シャローム)が満ちた世界へと造りかえる力を持つものです。私たちはその「望み」に留まり続ける必要があります。

 

パウロはその「福音」に「仕える者」ですが、その働きのゆえに苦しみに会っています。具体的には、パウロは今、「キリストの奥義を語る」ことのために、「牢に入れられています(4:3)

それを、彼は、「私の身をもって、キリストの苦しみ欠けたところを満たしている(24)という不思議なことばで表現しました。彼を誰よりも憎んだのは同胞のユダヤ人たちでした。彼は、コロサイのような異邦人の町の人に、旧約聖書で約束された救いがキリストにあって実現したと語り、割礼や食べ物の壁を飛び越えて異邦人を神の民として受け入れ、神殿礼拝を不用のものとしたからです。それは、イエスご自身も、取税人や遊女、罪人に、神殿を飛び越えて罪の赦しを与え、神の民として受け入れたことに従ったものです。

つまり、パウロは、イエスご自身が受けたのと同じ意味の迫害を受けたのです。もし、パウロが、異邦人のために「受ける苦しみを喜びとしています(24)と告白しつつ、いのちがけで異邦人教会を守ろうとしなかったなら、キリスト教はユダヤ教の一派にとどまったことでしょう。

 

苦しみの欠けたところ」とは、罪の贖いのための十字架の苦しみに欠けがあったという意味ではありません。そうではなく、キリストの苦しみによって始まった神の国が、今、完成に向かう中で、産みの苦しみをしているということです。

女性の出産の苦しみによって新しい命が誕生するように、神の平和に満ちた世界が実現するためには産みの苦しみがあります。そして、私たちはその産みの苦しみに共にあずかるように召されているのです。

それは私たち自身がキリストの姿に変えられるために受けるべき訓練のときでもあります。誰も、訓練なしに成長することはないからです。

パウロはかつて、ユダヤ主義者がパウロを憎んだのと同じ理由で、キリストの教会を迫害しました。そのときイエスが彼に現われ、「なぜ、わたしを迫害するのか・・わたしは、あなたが迫害しているイエスである(使徒9:4,5)と言われ、教会への迫害をご自身への迫害と同一視されました。その経験から、彼は、教会の苦しみをイエスご自身の苦しみと心から受けとめたのです。

実際、キリストは、今、教会をご自身の「からだ」としておられますから、私たちが指先の痛みを頭で感じるように、教会の痛みをご自身の痛みとして感じられますし、反対に、私たちが教会を愛することを、ご自身への愛として喜んでくださいます

 

パウロの時代の教会の苦しみとは、具体的には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間にあった誤解や対立でした。彼は、そこに和解を実現するために、コリントやピリピというギリシャ人の中心都市の教会から献金を集め、エルサレムの教会に届けました。それはエルサレムの教会が飢饉で苦しんでいたからですが、それによって、エルサレムのユダヤ人クリスチャンはコリントのギリシャ人クリスチャンに感謝をすることができるようになりました、また、ユダヤ人クリスチャンは、パウロを通してギリシャ人からのささげものを受け取ることによって、彼らの信仰の真実を評価することができるようになりました。

パウロはユダヤ人から憎まれている自分がエルサレムに行くと捕らえられて殺されるという可能性が高いことを知っていながら、エルサレムに向かいました。それによってパウロは実際に捕らえられ、裁判にかけられますが、彼はローマ市民としてローマ皇帝に上訴します。その結果、パウロは今、ローマで裁判を待つ囚われの身となっています。

しかし、彼は自分がギリシャ人とユダヤ人の和解をもたらすために犠牲となっていることを喜んでいるばかりか、それによってローマで福音を語り、皇帝にまで福音を語る機会が与えられるという期待をもって喜んでいるのです。

 

 パウロは、「私は(強調形)・・神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました(25)と自分の働きに誇りを持ちます。それは、「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義(26)を伝えるという名誉ある働きだからです。

なお、「奥義」とは、今や一部の聖人にではなく全ての人に明らかにされており、この誇りに満ちた働きは、私たちにも委ねられています。そして、奥義の内容は、神はユダヤ人だけの神ではなく、全ての民族の父なる神となられ、神の愛が、全世界、全被造物に及ぶということにあります。

 

 キリストは万物の創造主であられますから、世界が痛むとき、ご自身も痛んでおられます。ですから、私たちは、この世にも、「キリストの苦しみの欠けたところ」を見つけることができます。

私たちはキリストのからだの一部として、世に遣わされ、その痛みをイエスとともに味わい、うめき、祈り、「私の身を持って・・欠けたところを満たす」という姿勢が必要です。

 

3. 「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」

  「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです(27)とは、キリスト者の幸いをひとことで表わしたようなことばです。「かつては神を離れ、心においては敵となっていた」人が、キリストの肉のからだにおける苦しみによって、神と和解させられました。

しかも、その福音は、「私の身をもって・・」と言って、異邦人伝道にいのちをかけたパウロの苦しみを通して伝えられたのです。イエスとその弟子が苦しまれたからこそ、今、キリストが私たちのうちに住むことが可能になりました。その方こそ、私たちの、「栄光の望み」です。

主が十字架で死んで、栄光の身体によみがえったように、私たちにも、栄光の復活が待っています。それは、青虫が冬の間、さなぎになることを通して、春には美しいアゲハ蝶に変わるようなものです。

私たちは今、青虫のように地に這いつくばって生きています。しかし、私たちにとっての死とは、さなぎになって越冬することに似ています。越冬さなぎの場合は、5カ月間から8ヶ月もの間のためにさなぎの状態で、まるで死んだような状態で冬眠しています。しかし、春が来るとそれまでとは似てもいつかない姿に変えられ、空に羽ばたいてゆきます。

 

それゆえ、私たちはどんなに暗い中にも、栄光の望みに満たされることができます。このことをパウロはローマ書81011節で、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者のなかからよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます(私訳)と記しています。

 

  そして、パウロは、「私たちはこのキリストを宣べ伝え(28)と言いますが、それは単にキリストの紹介をするというのではなく、具体的には、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教える」という神経を使う、骨の折れる働きです。

特に「戒め」ということばは、混乱し分散している「心をまとめる」という意味があります。そして、その目的は「すべての人を、キリストにある成人(成熟した者)として立たせるため(28)です。

原文では、「あらゆる人」も「すべての人」も同じ言葉ですが、これが三度も繰り返されます。パウロは、自分の枠にはまる人というのではなく、あらゆる種類の人々を分け隔てなく「戒め」「教え」て、彼らをキリストにある「成熟した者」または「完全な者」として立たせようとしているというのです。

ここでの「完全」とは、私たちが思い描く完璧と言うのではなく、いけにえとして神に受け入れられる状態、22節にあった「聖く、傷なく、非難されるところのない者」になることです。

そしてパウロは、「このために労苦しながら、奮闘しています(29)と言っています。キリスト者の成長を導くというのは、途方もない労苦とエネルギーが必要なことですが、パウロはそれを「自分のうちに力強く働くキリストの力(働き、エネルギー)」によって実行していると語ります。

それは、まさに人間の力ではなく、私たちの「死ぬべきからだをも生かす」ことができる復活の力、神からのエネルギーによって可能になることなのです。

 

なお、私たちはしばしば、「私は自分の問題だけで精一杯なのです」と言いますが、それは子供の状態への居直りかもしれません。成熟とは、自分の問題を抱えたままで、世と人のために苦しむことができる余裕が生まれることです。それを可能にしてくださるのが「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」の働きです。

私たちが自分の力の限界にぶつかって見なければ、この御霊の力は分かりません。最初から、「そんなの、私には無理です・・」という人は、御霊の働きを自分で拒絶しているのかもしれません。

 

教会は癒しの場という面もありますが、真の癒しとは、目の前の問題が解決することではなく、自分の外の「欠けたところ」に心の目が向けられることです。残念ながら、キリストにある愛の交わりの場であるはずの教会には様々な問題が起きがちです。

しかし、それを見たとき、「どうして、この教会は、いつもこうなのか・・」とその問題を指摘することは、誰にでもできます。そこで求められていることは、その「欠け」を「キリストの苦しみの欠けたところ」と見る霊的な視点です。そこであなたが担う苦しみは、キリストにあってのかけがえのない苦しみなのです。

 

  キルケゴールは、「幸福への戸は、自ずと外側に向かって開く」と言いましたが、自分のための幸福を追い求め、その扉を自分の側に無理して開こうとするなら、それは閉じられます。

しかし、「キリストの苦しみ・・」に目を向けるなら、キリストにある幸せを見出します。アウシュビッツで、ある人が「神よ。私の苦悩と死の代わりに、愛する人から苦痛に満ちた死を取り去ってください」と願いました。自分の苦しみばかりに目を向けたら、生きることさえできませんが、人の痛みに目を向ける者は、闇の中で、そこに射し込む光と喜びを見るのです。

 

この世の苦しみや不条理を避けたいと思うのは人情ですが、主の再臨まではそれらはなくなることはあり得ません。しかも、そのただ中で、愛が成長するという現実が見られます。

人の苦しみを正当化することは許されませんが、それでも、万物を創造し、保っておられる御子が、「苦しみの欠けたところ」を、敢えて、残しておられると見ても良いのではないでしょうか。

なぜなら、私たちのいのちは、それを満たそうと燃える中でこそ、美しく輝くからです。蝋燭は自分の身を削りながら輝きますが、それはいのちが燃焼するための必然なのです

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2013年5月 5日 (日)

コロサイ1:1-20「イエスの愛に包まれて歩む」

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  私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。問題を早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。

しかし、この地上では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義の理想は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自分の国の平和と安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、お金の奴隷になる人々を急増させました。

 

  聖書は、世界の完成に至るプロセスを、絶え間のない進歩とは描きません。キリストの再臨が近づくにつれ、目に見える問題は増し加わると描いています。私たちに本当に必要なのは、問題を解決する能力以前に、問題を抱えたまま生きる力を持つことです。

そして、福音の核心とは、「望み」であり、その「望み」は、問題を抱えながら、問題を背負い込むようにして、人々を愛する力を生み出します。私たちは自分の心の様々な問題に向き合う前に、まず、神がキリストにおいてなしてくださったことを心から理解し、神に感謝しながら生きることを第一としなければなりません。

私たちのすべての営みは、キリストのうちにあるものとされています。すでに実現している救いを感謝するとき、私たちは放射能の問題にさえ打ち勝つことができると先週、神田先生が語ってくださいました。

 

また、英国の神学者のリチャード・ボウカム師は、次のように語っています。「教会は、希望の共同体、神様が全世界の被造物に対して持っておられる希望の共同体です・・・キリスト者の希望は、神の約束を信頼する事です。たとえ最悪の状況が起ころうと、神様のご計画は必ず成就すると信頼し続ける事です。神様はどんな悪よりも大いなる御方であり、悪からでさえ良きものを引き出され、失われたものを回復し、修復し、死人を目覚めさせて下さる御方だからです。この希望こそがクリスチャンを支え、導くのです。

 

1. 神に感謝できるわけ。福音が、実を結び、成長する

  この手紙は、パウロが、現在のトルコの南西部にあるコロサイという小さな町の教会に向けて記したものです。それが聖書の一部とされていることは不思議です。それはキリストの教会が、時と場所を超えて同じ祝福と同時に共通の問題を抱えているからではないでしょうか。

 

  この教会は、エパフラスという人の働きで生まれましたが、その後、様々な誤った教えが入りこんだため、パウロに助けを求めたのだと思われます。

とにかくこの教会には、多くの問題があったにも関わらず、パウロは彼らを「聖徒たち」、「忠実な兄弟」と呼びました。それは彼らが、「キリストにある」者とされているからです。もし、パウロがこの教会に手紙を記したとしても、「東京にいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟」と呼んでくれることでしょう。

 

「恵みと平安・・」の祈りはパウロの手紙に共通しますが、「平安」はヘブル語のシャロームで、心の平安ばかりか、人との間の平和をも意味します。

どの教会も、罪人の集りである以上、具体的に平和のために祈られる必要があるのではないでしょうか。それは、20節に記された、「十字架によって平和を作られた」につながります。

 

それにしても、コロサイ人と私たちの置かれた環境は何と違うことでしょう。そして私たちも、それぞれ特殊な環境に遣わされます。サラリーマンと自営業者、主婦と学生、独身と既婚者に、公務員と営業マン、それぞれに異なった文化と言語があり、すべてのキリスト者は、二千年前のパレスチナと現代の橋渡しになる必要があります。

しかし、極めて特殊と思えることの中に適用できる普遍の真理があるのです。それは、「キリストにある者」とされるということです。自分がキリストの愛にとらえられ、包まれ、復活のキリストの御手に守られていることを思い起こして見ましょう。それこそ、いつでもどこでもあなたに実現している現実なのです。

 

  ところで、パウロの文章は長く複雑です。3-8節のすべては、「私たちは神に感謝しています(3)にかかります。そして、感謝をされるべき神とは、「私たちの主イエス・キリストの父」です。

福音は、イエスの父なる神が、私たちの父となられたということに要約できます。神はイエスを愛するようにあなたを愛し、イエスに聞くようにあなたの祈りに耳を傾けてくださいます。しかも、感謝は、「いつも・・祈る」という中でこそ、生まれるというのです。

 

  感謝の根拠としてあげられたのは、「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰(4)と「すべての聖徒たちに対して抱いている愛」の二つです。ただし、この「信仰」と「」は、彼らが特別に誇ることができる働きではなく、「天にたくわえられている望みに基づくもの(5)で、それも彼らの心の中に自然に湧き起こったものではなく、「福音の真理のことば」を「聞いた」結果として生まれたものです。

そして、その福音は、自分で把握したものではなく、届けられたものであり、それはエパフラスという具体的な人の働きによってなされたのです。

 

今、コロサイの教会が揺れているのは、エパフラスが語ったことへの疑問が生まれたからです。そこでパウロは、すべてが彼の働きから始ったことを思い起こさせました。彼はパウロから学んだことを忠実に伝えただけで、当時のユダヤ人学者やギリシャ哲学者からは、無教養に見えたかも知れませんが、彼もパウロと同じ「忠実な、キリストの仕え人」だというのです。

そして、そのエパフラスが伝えた単純な福音のことばから、天にたくわえられてある「望み」が、今初めて、明らかにされました。それは、キリストが「新しい天と新しい地」を実現し、この世界を愛と平和で満たしてくださることです。キリストの復活はその保証です。そこから「イエスへの信頼」が生まれます。そして、完成を先取りし、余裕をもって「聖徒を愛する」ことができるのです。

 

福音の核心は、何よりも「望み」として描かれます。私たちが福音を知ることによって、急に頭が良くなったり体力がついたり、社会的な立場が良くなったりするわけではありません。つまり、目に見える現実が変えられるというより、「天にたくわえられている望み」が明らかにされることによって、生き方が変えられるのです。

 

それは、信仰と愛における変化です。これは、何かの学問や技術を「会得し」、自分で自分を変えるというのではありません。福音自体が、「実を結び、広がり(成長し)続けた」結果なのです。私たちは受動的に福音を聞き、福音が身体の内側に働くのに任せることによって望み」が変えられ、その結果として行動が変えられるのです。

 

私はいつも知恵を獲得することに熱心でした。しかし、そこには感謝ではなく空しい誇りが生まれました。そして、誇りが傷つけられると、なお一層の獲得の努力へと駆立てられました。しかし、力を抜いて、語られていた単純なみことばが自分の内側に根を張るのに任せようとした時、福音が、実を結び、成長し始めたように思います。

 

2.「愛する御子の御支配の中に移された」ことを、感謝しながら歩む

  920節もひとつの文章で、すべては、「私たちは・・絶えずあなたがたのために、祈り求めています」にかかります。ここからは、感謝に代わり、祈りの内容が述べられます。

 

それは第一に「神のみこころに関する真の知識に満たされる」ことです。当時の聖書は旧約だけでした。イスラエルの民に向けて書かれたと思われていたことの中に、すべての民族の救いに関する神のみこころが明らかに啓示されていました。福音は単純だと述べましたが、旧約も極めて簡潔にまとめて理解することが可能なのです。残念ながら、瑣末なことに囚われ、誤ったまとめ方をする人によって、難しく思わされてきた現実があるだけです。

 

第二は、「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(10)という、「歩み方」に関する祈りです。それは「善行のうちに実を結ぶ」「神を知る知識を増し加える」「あらゆる力をもって強くされる」「父なる神に喜びをもって感謝をささげる」の四点からなります。

そして13-20節で、感謝すべき内容として、御子による救いのみわざが説明されます。つまり、「歩み方」も、新しい倫理や道徳の実践というより、神への感謝を福音から学ぶことなのです。それは生活から遊離した学びではありません。

 

パウロは、「福音が・・実を結んだ」と同じことばで、「あらゆる善行のうちに実を結ぶ」(10)と強調しました。福音は、実生活の中に、実を結び成長するのです。知識と日々の歩みは、車の両輪のようなものです。

キリストにあって、具体的に歩みながら、神が御子イエスによってなしてくださったみわざを黙想するなら、実生活の中で、生きて働いておられる神の愛を頭ばかりではなく、身体で体験できるのです。

 

ある人が、「人が自分の人生の物語を語ることができるように助けてあげたい」と言っておられました。人生には、「これを感謝することなどできません!」ということが必ず起こります。しかし、それも、キリストにある人生の一部としてとらえられるなら、変化が期待できます。

私たちは、神から遣わされた者として、自分の世界の中に閉じ篭りつつ窒息しそうになっている人の傍らに座り、その悲しみや苦しみの告白を聞くことができるなら、それは、神の御前での嘆きに変えるのです。そして、イエスご自身がともに嘆き、感謝を生み出してくださいます。

 

  なお、パウロが、「主にかなった、あらゆる点で(主に)喜ばれる歩みができますように(10)と願ったことの中心は、何よりも、「御父に、喜びをもって感謝をささげる(12)ことに現されています。つまり、キリスト者の歩みの核心は、自分の欠けを覚える前に、与えられた救いを感謝することなのです。

 

その感謝の根拠として、第一に、「光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださいました」と記されます。それは、神が何よりも、一方的な恵みによって「資格」を与えてくださったことです。それを言い換えるようにして第二の感謝の理由が、「御父は、私たちを暗闇の圧制から救い出し(13)と記されます。

アダム以来、自分が「神のようになる(創世記3:5)ことを願う全ての者は、前向きに生きているようでも、滅びに向かっています。自分の弱さを克服し、競走に勝つことは、美徳とばかり言いきれるのでしょうか?

一人の勝者の背後で99.9%の敗者が生まれ、その一人もやがて敗者になります。この競走原理こそ、まさに暗闇の圧制ではないでしょうか。

 

暗闇の支配者であるサタンは、エデンの園で、エバの目を「食べてはならない」という一つの木に釘付けにしました。サタンは今も、現状に不満を持つようにと誘惑し続けているのです。

しかし、私たちは、既に(御父が)愛する()子のご支配の中に移」されています。イエスは、御父が「愛する子」です。そして、私たちも「御子のうちにあって、私たちはあがない、すなわち罪の赦しを得て(14)います。

「あがない」とは、奴隷状態から解放されて、自由人とされること、「罪の赦し」とは私たちが神の「愛する子」とされることを意味します。

なお、イエスがバプテスマを受けられたとき、天が開け、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)という声が聞こえましたが、これは今、私たちへの語りかけとなりました。この声を聞く歩みこそ、御子のご支配にあることです。

 

確かに、自分の罪深さを認識することと、「こんな私が神の子とされた!」と感謝できることは切り離せない関係にありますが、自分の罪の自覚を深めることばかりに心を集中することは危険です。サタンも自分の罪深さは良く知っているのですから・・・。

ある人は、幼い頃から、道を踏み外さずに生きながらも、人生の意味を捜しあぐねて真の神に出会いました。しかし、その後、「私は自分の罪深さが実感できない・・」などと落ち込みました。しかし、その彼も、「救いのご計画の全体像が分かった時、初めて、この世の栄光を望む自分の罪深さに圧倒された」と言っています。「救いが分かって、罪が分かる」という順番もあるのです。

罪の本質とは、何よりも、神の愛の語りかけに応答しないことなのですから、神の救いのご計画が分かって、罪が分かるという方が健全かもしれません。とにかく、感謝が伴わない歩みは、冷たい道徳主義です。それも人を駆り立てる圧制ではないでしょうか?

 

3. 「御子にあって、御子によって、御子のために」

  15-20節は「キリスト賛歌」とも呼ばれ、ひとつの詩のように整えられていますが、15節の初めは、「彼は」という代名詞です。つまり、この箇所は独立しているのではなく、「御父に喜びをもって感謝をささげられる」根拠として、御子のみわざが述べられています。

御子が創造主であることを覚えることは、御父を忘れることではなく、賛美することになるのです。

これは四部に分けられ、1516節と18b-20節が対応し、それにはさまれて、ふたつの短い文があり、前半で御子による創造が、後半で御子による世界の再創造が歌われています。

 

  世界は確かに罪に支配されていますが、目に見えるものを軽蔑することは御子による救いを誤解することです。「御子は、見えない神のかたちであり(15)とあるように、見えない神は、目に見える肉体を持つ御子を通してご自身を証しされたからです。

しかも、この方は、被造物ではなく、世界が存在する前に、父なる神から「生まれた方」なのです。それは、御子が、この目に見える世界ばかりか、目に見えない世界や御使いをも創造することができるためでした。

ここでは、「御子にあって」、「御子によって」、「御子のために」という見方が示されています(16)。「王座も主権も支配も権威も」という中に、当時のローマ帝国による圧政も含まれています。この地の制度や営みのすべてが、「御子にあって成り立って(共に保たれて)いるというのです(17)

 

コロサイの信徒は、偶像礼拝に満ちた世界から救われたことの反動で、この世の仕事や知識、政治的な権威などの、見えるものをすべて否定したのだと思われます。

それに対して、パウロは、罪に堕落した世界が、それでも滅ぼされずに保たれているのは、創造主である御子のみわざであることを思い起こさせたのです。この異教社会の日本にも、イエスのみわざの影響を認めることができるのではないでしょうか。

 

たとえば、一週間のリズム、結婚制度、基本的人権やいのちの尊重、平和主義、「愛」や「自由」ということば、その他、数え上げたらきりがないほど見られます。この世界を批判ばかりして、そこにある美しさを見ることを忘れ、「赤ちゃんを汚れた水と一緒に捨てる」(英語のことわざ)ようなことをしてはなりません。

 

私は昔、証券業務に従事していた頃、自分が「御子にあって」その職場に置かれ、「御子によって」造られた仕事の中で、「御子のために」働くということの意味が分かるまでは、仕事が空しく思えました。私たちは仕事ばかりか遊ぶことすら、「御子にあって、御子によって、御子のために」行うのです。

この「万物」ということばの代わりに、「自然」「国」「家族」「会社」「仕事」「食物」「スポーツ」「趣味」「配偶者」「子ども」「友人」「東京都」「立川チャペル」等と入れて読み替えてみてはいかがでしょうか。イエスは今この時、生きて働いておられます。私たちは、どんな暗闇の中にも、やがて美しく咲く花のつぼみを認めることができます。そこに希望に満ちた喜びが生まれます。

 

  しかし、同時に、目に見えるものに固執せず、「地上では旅人であり寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13)ことも大切です。

私たちは、この世のうちにではなく、その創造主である「御子のうちに」あるのですから。それは、具体的には、キリストの「からだである教会(18)交わりのうちにあることを意味します。

 

なお、「御子はそのからだである教会のかしらです」ということばから、キリストにある再創造のみわざが語られていますが、それは、教会こそが、「来るべき神の国の先駆け」だからです。

私たちは、神の新しい創造を見ながら生きて行くようにと召し出された者たちの集まりです。それは、神を知らなければ、持つ事のない希望です。

 

  「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18)とあるのは、御子の復活が、私たちがやがて栄光の身体へと復活する「第一のもの」、つまり、復活の初穂だからです。

15節の「先に生まれた方」と18節の「最初に生まれた方」ということばは原文では同じことばが用いられています。それは、御子が万物より先に生まれた方として、万物を創造されたのと同じように、御子こそが、死者の中から最初に生まれた方として、この世界を再創造してくださるという意味が込められています。

そして、御子は私たちと同じ弱く惨めな肉体となられましたが、御父は「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(19)ました。それは、「御子によって、万物をご自分と和解させてくださる」ためでした。

御子のうちに神の本質が宿っているからこそ、その十字架の死が、神との和解をもたらすことができたというのです。罪ある人間は、全人類の罪を贖うことなどできないからです。

 

しかも、神は『アバ、父』と呼ぶ御子の御霊を」(ガラテヤ4:6)私たちのうちにも宿らせてくださいました。そして、私たちもやがては、「聖く、傷なく、非難されるところのない者(22)へと造り変えられるのです。

 

そして、御父が、御子によって「地にあるものも、天にあるものも」ご自身と和解させてくださったこと(20)は、愛と平和と喜びに満ちた「正義の住む新しい天と新しい地(Ⅱペテロ3:13)実現することの保証です。この地での労苦は、主にあって無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)

 

  八木重吉という大正末期の詩人は、信仰に導かれた後、恵まれた生活の中で、説明し難い寂しさと悲しみを感じます。英語を教えて家族を養うことを、生ぬるい信仰と思えたからです。しかし、やがて、家族を喜び愛し、学校の生徒や同僚に仕えることを、キリストにある、キリストに仕える生き方と受けとめ、現在を感謝できるようになりました。

30歳で死の病(結核)にかかりますが、夢の中で、自分が、天使よりもすぐれた顔になり、栄光の光に包まれていることを見て、不思議な平安に包まれました。そして、小さな歩みしかできない自分を、イエスの眼差しで優しく見守られるようになりました。その心境がつぎの詩にあらわされています。

 

「 きりすと われにありとおもうはやすいが

  われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ

  きりすとが わたしをだいてくれる   わたしのあしもとに わたしが ある  」   

 

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