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2013年6月23日 (日)

コロサイ4章2-18節「キリストの奥義を味わう交わり」

                                                2013623

  あなたはクリスチャンの特権を十分に味わっているでしょうか?「いつくしみ深き」の原歌詞では、「何というすばらしい友をイエスにあって私たちは持っていることでしょう。彼こそは私たちの罪と悲しみを担ってくださる。すべてのことを祈りのうちに神に持って行けるのは何という特権でしょう。私たちがしばしば平安を失い、不必要な痛みを担ってしまうのは、祈りのうちに、すべてのことを神に携え行こうとしないからです」と歌われています。信仰の喜びは、神との交わりのうちにあります。それはまた目に見える信仰者との交わりを伴うものです。

 

1. 「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」

   パウロは結論的な勧めとして「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(2節)と命じますが、この中心動詞は厳密には、「祈りに専念しなさい(使徒1:14参照)と訳すことができます。人は常に何かに「専念」する傾向がありますが、何をもって心を一杯にしているかが問われます。ふたりの関係では、互いが相手の心の中にあることに気づくことが交わりの鍵となるように、神の御思いを知ることが祈りの始まりです。

   キリスト者とは祈る者です。イエスは常に父なる神と対話し、御父は御子イエスにすべてをまかせ、御子は御父の願いをご自身の願いとしておられました。私たちは、その愛の交わりの中に、御霊によって招き入れられました。それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます(ローマ8:15)と記されている通りです。

あなたは今既に、イエスの弟、妹とされ、その傍らに置かれ、イエスの父を自分の父として祈っています。それを、心の奥底で導くのが御霊です。三位一体の奥義とは、このように御父、御子、御霊の愛に取り囲まれた生活に現わされます。祈りは何かを得るための手段であるよりは、完成に向かって成長する交わりです。愛し合うふたりが向き合って食事をしている時、会話自体を楽しんでいることは、誰の目にも明らかです。同じように、イエスの父なるかに向かって「アバ、父」と呼ぶ祈りの交わり自体の中に信仰者の最高の喜びがあります。

ここでは、「その中で、目を覚ましつつ(私訳)と付け加えられます。イエスはゲッセマネで、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです(マタイ26:41)と言われました。この地上には様々な誘惑があり、祈りの中で目を覚ましていなければ、すぐに罪の誘惑に負けてしまいます

さらに原文の順番では、「感謝のうちに」と続きます。「祈りの課題」は、「何か不足していること」を指すのでしょうか?それでは、その課題が深刻なほどに、それは公にできないという逆説が起こります。不足ばかりに目が向かうと心が病みます。ですからパウロの最大の祈りの課題は、コロサイの人々が日々の歩みの中でキリストにある救いの豊かさを心から味わい父なる神に喜びをもって感謝をささげることができ」ること(1:12)でした。

ミシェル・クオストは、「生活のすべてが祈りとなる」で、「一万円札の前の祈り(百フラン札の前の祈り)」を記しています。彼は、お札に秘められた様々な人生を思いながら、その重さを思い浮かべます。それが人の人生を狂わせ、また幸せをもたらしてきたことを・・・。そして、「お金を贖う」ための祈りを次のようにささげます。

 

「主よ、ご覧くださいこのお札を。私はぞっとします。あなたはご存知でしょう。その秘密と、その歴史を・・・

 それは人の死を担っているのです。それを数時間手にするために、自分を殺した哀れな人たちの死を・・

 主よ、このお札は、その無言の長い旅路で、いったい何をしてきたのでしょう・・・

   それは、明日の食卓にパンを載せるために使われたでしょう

若者たちに笑いを起こし、年寄りたちを喜ばせたことでしょう・・・

しかし、それは死産の胎児の手術代にも使われたことでしょう

飲んだくれの酒代にも・・犯罪の凶器を買うためにも使われて来たことでしょう・・・

主よ、私はこのお札を、その喜びの秘め事とその悲しみの秘め事と共に、あなたの前にささげます。

それがもたらした生きる喜びのゆえに感謝をささげ、

それがなした悪徳のゆえに、あなたの赦しを乞い求めます。

しかし、主よ、それにもまして、私はそれを人間のあらゆる労苦のシンボルとしてあなたにささげます。

それはやがてあなたの永遠のいのちにもあずかって、不滅の宝に変えられて行くでしょう。」

 

実は5節に記された、「機会を十分に生かして用いなさい(5)という表現は、厳密には原文で「時を贖いながら・・・歩みなさい」と記されています。私たちは、お金と時間に追われながら生きています。それはサタンの手から解放される必要があるのです。お金は大切ですが所詮、道具です。私たちは「・・の必要が満たされますように」としばしば祈りますが、その際、祈りを手段に、お金を目的にする思いがないでしょうか?

お金のために祈る人は多くても、それを用いて神と対話する人は少ないように思います。何よりもこの祈りの素晴らしさは、「目を覚ます」ことと「感謝を持つ」ことの両方が入っていることです。

 

2.「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください」

  パウロは「同時に、私たちのためにも祈ってください(3)と願いました。手紙の始まりで、「私たちはいつもあなたがたのために祈りながら感謝をささげていま(1:3私訳)と語った彼は、この手紙の読者にも、パウロと同労者のために同じことをするように求めたのです。しかもその課題は、投獄されているパウロの身の安全のためという前に、「神がみことばのために門を開いてくださる」ことでした。それは、理性や努力が人を変えるのではなく、「福音の真理のことば」自体が「実を結び、広がり続け」、人に救いを与えるからです(1:5,6)。そして、彼は、「みことば」を「キリストの奥義(3)と描き、それを「語れるように、祈ってください」と願いました。

「奥義」とは、原文ではミュステリオン(英語のmysteryの語源)と記され、「以前は隠され、今明らかにされた真理」という意味です。それは多くのユダヤ人には、律法を軽んじて民族の独自性を失わせる異端の教えと聞こえました。その結果、「この奥義のために、私たちは牢に入れられています」という事態に至ったのです。

しかも、彼は、「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように(原文「明らかにすることができるように」)祈ってください(4)と付け加えました。自分の身の安全や聴衆の反応などは問題ではなく、正確に伝えられることこそが課題でした。それは彼の立場をますます悪くすることではありましたが・・。

キリストの奥義」とは、特に113節以降の「キリスト賛歌」に現されますが、私たちの救いとは、御子のご支配の中に移されたことであり、その御子は創造主であるとともに、新しい神の民のかしらであり、また贖い主だというのです。ここでは、「万物は、御子によって(through)御子のために(into) 造られているのです。御子は万物の先に存在し、万物は御子にあって(in) 成り立っています。そして、 御子は そのからだである教会のかしらです」(16-18)と、キリストの神としての権威と力が高らかに歌われています。そして、パウロはすぐにこれを私たちの期待をはるかに上回る形で、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです(1:27)と言い変えます。奥義とは、「キリストのうちに」と、「キリストが私たちのうちに」の両面を指すのです。  

自分自身ばかりか、仕事や家族、置かれている環境のすべてを、「御子にあって、御子によって、御子のために」という枠で見直す時、そこに何とも言えない平安と喜びが生まれます。また、自分の弱く罪深い現実を見ながらも、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」という「奥義」に思いを向けるときに、復活の希望に満たされ、生きる勇気が湧いてきます。パウロはこのような奥義を心から味わっていたからこそ、自分の身の安全より、「キリストの奥義」が語られることを何よりも望みました。祈りは常に相互交流であるべきです。牧師はひとりひとりのために祈っていますが、同様に牧師が「キリストの奥義をはっきり語れるように」お祈りください。

 

3. 「外部の人に賢明にふるまう」とは? 

5節では、「外部の人に賢明にふるまい・・なさい」とありますが、これは厳密には、「外部の人に対し、知恵のうちに歩みなさい」と記されています。パウロはかつて「あなたがたが、主にかなった歩みができるように(1:10)と祈っていると語り、そして、「主キリスト・・にあって歩みなさい(2:6)と命じました。クリスチャン生活とは、ただ黙想ばかりすることではなく、歩みながら祈り、また歩みながら外部の人に」、実生活の場でキリストの奥義を証するものです。そのために「知恵」のうちに「歩む必要があります。続けて、「機会を十分に生かして用い」とは、「歩みなさい」を修飾する分詞です。これは、時間に追われるのではなく、あなたの時間を神のご支配の中で見直すことです。タイミングの良し悪しを人間的な尺度で測ってはなりません。証しの機会はいつもあります。

「あなたがたのことばが、いつも親切で(恵みのうちに)あるようにしなさい(6)とありますが、同じ真理を語りながらも、そこに相手への尊敬の思い、愛があるかないかで伝わり方がまったく違います。 

しかもそれは、「塩味のきいたもの」であるべきです。塩は、素材の味を際立たせます。時には砂糖よりも甘さを出す力があるほどです。自分のことばの貧しさのゆえに臆病になる必要はありません。あなたの人生には既に味がついています。ただ、それに気づいていない人が多くいます。牧師はそれをともに発見することに生き甲斐を感じていますが・・・。どのような方法にしろ、神が自分になしてくださったみわざを黙想し、言語化する準備を積むなら、あなたの人生のストーリーを通して、キリストの奥義が塩味のきいたものとして伝わります。それこそ、「そうすれば、ひとりひとりに対する答え方が分かります(6)という意味です。

讃美歌529番はBlessed assurance, Jesus is mine!(祝福された確信、イエスは私のもの)という詩で始まります。これは盲目の詩人ファニー・クロスビーの作で、彼女の墓にも刻まれている最高傑作ですが、その繰り返しの部分は、This is my story, this is my song, Praising my Savior all the day long(これは私のストーリー、私の歌。一日中、私の救い主を称えよう)と繰り返されます。福音の豊かさを心から味わい、それを自分個人の人生のストーリーとして語ることができるように思い巡らしましょう。あなたを通して「奥義」が伝わるために。

 

4. 「テキコとオネシモが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう」

  パウロは、「私の様子については、主にあって愛する兄弟忠実な奉仕者同労のしもべであるテキコが一部始終を知らせるでしょう(7)と、テキコの立場を三重に表現し、この手紙をコロサイ教会に届ける者への尊敬を訴えました。それはパウロに会う代わりに「彼によって心に励ましを受ける(8)ためでした。人が顔と顔とを合わせて語り合う時に、手紙やメールでは表現できない「心」が伝わりますテキコの使命は重大でした。

同じようにパウロは、オネシモをあなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟」と描きます。ピレモンの手紙にあるように、彼は、主人の愛を裏切り、お金を盗んで逃げ出した奴隷です。その後、彼は、「放蕩息子」(ルカ15)のように居場所を失い、主人が尊敬していたパウロを頼らざるを得なくなったのだと思われます。彼は、深く悔い改め、生まれ変わったのでしょうが、それでも逃亡奴隷です。普通なら、送り返すに当たってテキコを監視役として紹介するのが当然です。ところが、パウロは、オネシモをテキコと同じような「忠実な愛する兄弟」と呼び、「このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう」と、彼にも同じ役割を与えているのです。

パウロは、それほどに、人を根底から変える福音の力を信じていました。先に、パウロは「キリストのうちにある者」に起こった変化を、「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです・・そこには・・奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです(3:9-11)と描きましたが、今、オネシモのすべての罪が消えたものとして扱われ、身分も、奴隷ではなくパウロの兄弟とされています。これこそ、福音が生きて働いていることの証しです。

パウロは手紙の差し出し人を、「兄弟テモテ」との連名にしていました(1:1)。そして、今、テキコオネシモをペアーで遣わしました。「使徒はふたりで立つ」と言われますが、愛の福音は、目に見える交わりとして提示されました。コロサイの人は、「個人主義的な霊性」ばかりを強調する教えに影響されていました。それは現代にも続いています。人間関係はどこでも煩わしいものであり、そこには、しばしば、傷が伴います。しかし、それを恐れる者は、いつまでも孤独地獄から自由にされません。孤独な人ほど「」に理想的な憧れを抱きがちですが、愛は、現実の目に見える人と人とを結びつける「結びの帯(じん帯)(3:14)であることを忘れてはなりません。

 

5. 「彼らは私を激励する(慰める)者となってくれました」

  パウロは続けてアリスタルコ、マルコ、ユストという三人からの挨拶を記します(10-11)。彼はこの手紙で、「肉の割礼(2:13)を誇るユダヤ主義者と戦っており、同胞のユダヤ人から憎まれていました。しかし、彼は同胞の救いを誰よりも熱心に求めていました。ですから、三人を指して、「割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です(11)と説明する中には、大きな痛みが伴っています。しかし、少数であっても、同胞の彼らが共に労してくれることは、パウロにとって何よりの「激励する者(慰め)」となっていたのです。

  ここで「バルナバのいとこであるマルコ(10)を使者として遣わすので「歓迎するように」と指示されていることには、画期的な意味があります。マルコはパウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の際、働きの途中でエルサレムに帰ってしまいました。第二回目の伝道旅行の際、バルナバは再びマルコを同行させようとしましたが、パウロはそれに反対したためこの二人のリーダーの間に、「激しい反目(15:39)が生まれました。バルナバはエルサレムの使徒たちと親しかったため、これはパウロとエルサレムの使徒たちとの関係にも影響を与えかねませんでした。すべては不信仰で臆病なマルコが蒔いた種でした。しかし、ここでマルコは、パウロを激励する者」の一人に上げられ、正当な使者とされています。伝承によれば、彼はペテロの通訳として付き従いながら、マルコによる福音書を記しました。つまり、彼はペテロとパウロ両者それぞれの同労者となり、同時に、この二大指導者をつなぐ役割を果たしたのかも知れません。ここにも福音が生きて働く様が現わされています。

パウロは、マルコを巡って深く傷つきましたが、それは修復されました。信仰の仲間によって傷つくことがあっても、必ず癒される希望があります。それと同時にここには、愛の福音が、愛の交わりを基地として伝えられるという真理が現わされています。「互いに愛し合うこと」を訴える者が、愛し合っていないことは自己矛盾です。

 

6. エパフラス、ルカ、デマス、アルキポへのパウロの配慮

エパフラス(12)は、コロサイ教会の基礎を築きましたが、異端者の攻撃を受けて、今パウロに指導を仰ぎに来ています。それがこの手紙の背景になっています。ただし、パウロは彼を指導してすぐに送り返す代わりに、テキコやマルコを遣わしました。それは、傷ついた関係のただ中にすぐに戻す代わりに、一呼吸置き、同時に、彼を身近に置いて教育するためだったかと思われます。パウロはここで、エパフラスを高く評価することによって、彼が再び戻って働ける布石を打っています。彼のすばらしさは、何よりも「いつも祈りの中で戦って(奮闘して)いる」ということでした。その祈りは、「神のすべてのみこころに関して、成熟し、満ち満ちた者とされて立つ」とも訳すことができます。私たちは「みこころ」と言う時、「私たちは何をすべきか・・」という観点から考えますが、神が私たちを救うためのご計画に思いを潜め、それで私たちの思いが満たされることこそ何よりも大切です。

ルターは、「偽キリスト」の諌めを、「わたしが言っておいたことをお前は今度もやっていない」と表現しました。残念ながら、多くの人は過去の経験から、そのような叱責を感じ、また人からそのような声を聞きとって過剰防衛に走ります。しかしすべての始まりは、神のみこころ全世界を新しくする神のご計画として聞くことにあります。

「愛する医者ルカ(14)とは、ルカの福音書の著書ですが、彼はその中で自分を隠しています。パウロは晩年に「ルカだけは私とともにおります(Ⅱテモテ4:11)と記しましたが、そのような紹介がなければ、彼の素性は闇の中に隠れたことでしょう。それと対称的なのが「デマス」です。パウロは同じ箇所で、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました(Ⅱテモテ4:10)と記しました。それは、私たちの交わりで、自分を隠しながら素晴らしい働きをする真の信仰者と、いざとなったら離れてしまう名目上の信仰者がいる現実を示します。これは、どの交わりでも避け難いことかも知れません。時が来なければ分からないことです。

ラオデキアの兄弟たちに・・・よろしく言ってください(15)とあるのは、この手紙がそこにも回されて読まれることを前提として記されたからです。そして、「ラオデキアから回ってくる手紙を読んでください」とは、エペソ人への手紙を指すのではないかという見方が有力です。これらはセットにして読まれるべきでしょう。

最後に「アルキポ(17)への言付けが記されますが、彼はエパフラスの留守中の務めを任された人物だと思われます。このように記されることで、アルキポの務めを重く受け止め、祈ることの必要が示唆されます。 

 

熱帯ジャングルの奥地で労しておられたある宣教師に、「そこでの生活で、何が一番大変ですか?」とお尋ねしたところ、「同労者との人間関係です」と答えてくださいました。人と人との関係は、多くの人にとって、生涯を通しての頭痛の種だからこそ、そこに困難があることを正直に認め、主の助けを求めなければなりません。

パウロ自身も同労者との関係で傷つき、また慰めを受けていました。彼は十字架前のイエスとの交わりがなかった新参者であるにも関わらず、使徒のリーダーのペテロをさえ皆の面前で非難したことがある(ガラテヤ2:14)ほどの人ですから、さぞ人間関係で苦労したことでしょう。しかし、彼は、人の好意を得ようと顔色を伺うようなことなく、主イエスを愛し続けました。しかも、同時に、それは兄弟姉妹を愛することと並行して進むことであることを、多くの具体的な人の名をあげながら証ししました。愛は目に見える交わりを通して現されるからです。

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2013年6月16日 (日)

コロサイ3章12節-4章1節 「キリストを身に着けた生き方」

                                                   2013616

  私たちはすべて、神を賛美し、礼拝し、神の救いを祝うために創造されています。しかし、それに先だって、神ご自身が、あなたを祝っておられることを忘れてはいないでしょうか?

日本の文化では、欠点を謙遜に自覚して、それを修正するということが人間として成長することと思われがちですが、セルフ・イメージの低い人は、実は逆境の中での頑張りがききません。

勤勉だと言われた人は勤勉になれますが、怠け者と呼ばれた人は怠け者になります。人に向かって「ばか」と言う者は、小さいころから「バカ」と言われ続けてきたことの結果に過ぎません。

 

私たちはこのままで神に喜ばれているからこそ、人を喜ぶことができるのです。私たちは自分の心のみにくさに唖然とすることがありますが、十字架は、罪に対する刑罰以前に、罪人に対する神の愛の現れです。

神は、キリストを通して私たちを見てくださいます。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27)とありますが、キリストを身に着けた生き方をともに考えてみましょう。

 

1. 「神に選ばれた者、聖なる、愛された者として・・・・身につけなさい。」

 「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として(12)は、1-11節をまとめたような意味があります。これは何よりもイエスご自身に当てはまることばですが、それが私たち自身への呼びかけになりました。

多くの人は他人と比較しながら、自分を「みにくいあひるの子」のように見ています。しかし、「キリストのうちにある」という真のアイデンティティーは、今は隠されていても、やがて必ず明らかにされます。そのことが、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある・・」(3:3)と述べられました。これは、あなたの地上の生涯をひとことで表わすものです。

私たちはすべて、「本当に私は、神に愛され、生かされて、生きていた。自分の人生には意味があったのだ・・」と感謝できる時が来ます。今、あなたは、「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、(神と自分に関する)真の知識に至る(3:10)というプロセスの中に置かれているからです。

 

  確かに自分の歩みを振り返ると、「申し訳ありません!」と言いたくなることばかりが目につきます。そればかりか、自分が善意で頑張ったことが、人から居場所を奪ったり、劣等感を感じさせることにつながっているなどという現実に目が開かれると、居たたまれない気持ちになります。しかし、そんな私が、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」と呼ばれているのです。

神はそれでも、欠けだらけの私をご自身の計画のために用いて下さるからです。確かに、私は人に様々な迷惑をかけはしますが、それを益に変えてくださる神がおられます。

 

  その上で、パウロは、「身につけなさい」と命じます。これは12-14節までのすべてを支配するたった一つの命令形の動詞で、14節の「これらすべての上に愛を・・・」にまでかかります。それは、「新しい人を着た(10)と言うのと同じ動詞であり、すでに霊的に起こったことを目に見える形で表わすことの命令です。

私たちはすべて、キリストの生き方を身につけるように命じられています。それが「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容(12)であり、また「互いに忍び会い、主があなたがたを赦して下さったように、互いに赦し合う(13)ことです。ひとつひとつの徳目は、ある意味で、どの道徳でも宗教でも大切にされていることです。

しかし、「」こそがキリストの生き方そのものであり、これらすべての徳目を統合し、人と人とをキリストのからだとして結びつける「結びの帯」(2:19では「」、または「じん帯」と訳された)だというのです。「」は、共同体として表現されるものです。

 

 なお、「愛は結びの帯として完全なものです」とは、「愛こそは完全さをもたらす(からだの各器官を結びつける)じん帯です」とも訳すことができます。

たとえば効果的に走ることができるために、ひざのじん帯を強める必要がありますが、そのために大切なのは、グルコサミンやコラーゲンを含んだ栄養を補給することと合わせて、適度な負荷をかけた筋肉トレーニングです。私たちは愛の訓練をこの教会の交わりの中で行うことができます。

 

私は以前、栄養補給のことを中心的に考えてきましたが、適度な負荷をかけた訓練が「結びの帯」としての「愛」の成長のために大切だと示されました。

肉の家族も神の家族も、互いに愛することを学ぶための学校と定義することができます。肉の家族を通して受けた傷が、神の家族の中で癒されますが、その際、キリストのからだの中で新たに傷を受けることがあっても、キリストご自身が責任をもってくださるので心配ありません。

 

2. 「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに教え、戒める」

パウロは、引き続き、個人主義的な文化的背景を持つギリシャ人に、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです(15)と言い替えています。

支配するようにしなさい」という命令形は、先の「身につけなさい」と並行関係にある命令形です。心の「平和」は、何よりも目に見える共同体が「一体となっている」こととして表現されます

そして、三番目の命令形として、「感謝の心を持つ人になりなさい」と記されます。これはパウロがこの手紙で最初から強調していることです。自分たちや人の欠けを見る前に、互いを「キリストにある者」として見ることがすべての感謝の根拠になります。

 

パウロはその上で、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい(16)と命じます。それはたとえば115-20節に記されていたようなキリスト賛歌を暗唱し、自分の心の中に豊かに住まわせ、いつでも口から出るように備えることです。

そのための方法が、「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」ることですが、文法的には、「詩と賛美と霊の歌」は、「神に向かって歌う」以前に「教え、戒める」ことにかかると解釈する方が自然だという見方もあります。最近のフランシスコ会訳では「あらゆる知恵を用い、恵みによる詩編や賛美の歌、霊的な歌をもって互いに教え、忠告し合い、神に向かって心から歌いなさい」と訳されています。少なくともルターに始まる宗教改革の伝統の中ではそのように解釈されてきました。それは、エペソ書で「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り(5:19)となっていることからも明らかです。

ですから、様々な賛美の歌の中心的な使命は、神に向かって歌うという以前に、「キリストのことばを豊かに住まわせる」ことにあったのです。讃美歌のいのちは、歌詞にあります。メロディーは何よりも歌詞を伝える媒体であるということを忘れてはなりません。現在ルターの説教を聞くことができませんが、彼が作った讃美歌は、キリストのことばを力強く伝えてくれます

 

ここで「詩と賛美と霊の歌」を、もとの「聖歌」の版に見られる区分のように詩篇歌、伝統的な礼拝讃美歌、聖会でのリバイバル聖歌のように機械的に区分することには疑問がありますが、聖書の伝統では、聖書の教えを理性的論理的に語ること以上に、詩や音楽を通して心の奥底に響かせるということが大切にされてきました。詩や歌は、人の感性を通して心に語りかけるからです。

そして、「詩と賛美と霊の歌」は、「結びの帯(じん帯)」としての「愛」を育てる最高の栄養です。それは暗唱され、いつでもどこでも口づさむものです。

 

  そして、「感謝にあふれて心から神に向かって歌う」ことは、「キリストのことば」である聖書の真理が、「詩と賛美と霊の歌」によって「豊かに住まわせ」られた結果として必然的に起こることです。

自分で自分を元気付けようとするのはこの世の宗教であり瞑想テクニックです。しかし、私たちはみことばを心に豊かに住まわせた結果として、神のみことばによって、身体全体で喜びにあふれて「神に向かって歌う」ということが可能になるのです。

 

神への賛美は、神の側からの愛の語りかけから始まります。神は、ひとりひとりに向かって、「何を心配し自己嫌悪に陥っているのか?このわたしがあなたを選び、あなたの名を呼んだ。あなたはすでに聖なる民だ。わたしはあなたを愛している。」と歌ってくださっています。

しかも、しばしばそれは、私たちが神への愛のゆえに傷つく時、特別に大きく心の底に響いてきます。それは「愛」という「結びの帯(じん帯)の力を鍛え、キリストのからだとしての教会を建て上げるために不可欠なプロセスです。

このようにして、キリストの愛が、しっかりと自分の身に着き、兄弟姉妹と結び合わされなら、そこに心からの神への感謝の歌が生まれます。そのためにこそ、日頃から、「詩と賛美と霊の歌」をじっくりと味わい心に刻み付けましょう。

 

3.「すべてを主イエスの名によってなしなさい

「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」とありますが、この命令形の中心は、「すべてを主イエスの名によってなしなさい」ということにあり、「主によって父なる神に感謝しなさい」ということばは、それを修飾する分詞です。

昔から「名は体を現わす」などというように「主イエスの名によって」とはイエスを主と告白し、イエスに習った、この地におけるイエスの代理としての生き方を現わします。

そしてそこにはイエスの「父なる神に感謝する」ことが伴われます。これは生活のすべてが、神への礼拝となることを意味します。

つまり、ひとりひとりが、キリストのことばを豊かに住まわせた結果として、兄弟姉妹が愛によって結びつけられ、そこに日曜礼拝における、神への心からの感謝の歌が生まれ、それがまた、それぞれの日常生活を、神への感謝の礼拝となるように変えて行くのです。

 

そして、それが18節からは「夫と妻の関係」として、20節からは「親と子の関係」として、22節からは「奴隷と主人との関係」として描かれます。つまり、17節の勧めは、318節から41節まで記される人間関係の基本になる教えなのです。

マルティン・ルターはキリスト者の自由の書き出しで、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕するしもべであって、何人にも従属する」という逆説的な命題を掲げています。これこそ、この箇所の要約と言えましょう。

そして先に記されていたように、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(3:3)とは、私たちが、この地上的なアイデンティティーから自由に生きるためのキーワードです。

 

 「妻たちよ・・・夫に従い(夫の下に置き)なさい(18)とは、男尊女子ではありません。ここでは、「主にある者にふさわしく」が鍵です。自分が「キリストにあって満ち満ちている(2:10)ことを味わっているなら、自分を人の下に置く心の余裕を持つことができます。

それは自分をドア・マットのように踏みつけられるのに任せるという意味ではなく「自分を卑しくし、死にまで、実に十字架の死にまで従われた(ピリピ2:8)キリストの姿に習うことです。神は女性に対し、キリストの姿に習う姿勢での主導権を取るように期待しておられるのです。

 

  夫が妻に従って悲劇が起こりました。アダムは、妻が取ってくれた木の実を食べて神に背き、知恵に満ちたソロモンも異教の妻たちの影響で「心が移り変わり(Ⅰ列王記11:9)ました。

悪女の代表イザベルは「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イザベルが彼をそそのかしたからである(Ⅰ列王記21:25)と記されています。

男性は一般的に、仕事に生き甲斐を見出し、常に問題解決に心を傾けがちですが、感情の交流に不得手で、非常な傷つきやすさを隠しています。女性が男性のもろさを理解し、妻が夫を上に立てるとき、男は与えられた能力以上の働きをし、極めて生産的になることができます。

 

  これと並行して、「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たって(苦しめ、しいたげては)いけません(19)と命じられています。これは夫に対し、妻を保護するばかりか、その必要に真剣に応えるように命じたものです。

「善悪の知識の木の実」を取って食べた後の夫と妻は「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する(創世記3:16)という関係になりました。これは、妻が夫を悪に誘惑する(恋い慕う)かもしれませんが、夫は妻を肉体的精神的に破壊してしまう可能性があることを示しています。

 

多くの妻は夫との感情の交流を求めていますが、夫にとって、妻の話しを聞くことは時間の無駄としか思えない傾向があります。

ペテロは夫に妻のことを「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい(Ⅰペテロ3:7)と命じています。「愛し」また「尊敬する」ことは何よりも、妻の話しに耳を傾けることを意味します

 

女性は、愛の交わりを男性以上に大切にする傾向があるため、しばしばキリストの愛を実感することにおいて男性に勝ります。

ですから、多くの教会での成長のパターンには、妻が家庭集会等で信仰に導かれ、その妻の変化を見て夫が信仰に導かれるというものが多くあります。これから結婚を考えている方は、このような夫と妻の関係を築くことができると思う人を選ばなければなりません

 

 「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい(聴従しなさい)(20)とは、何よりも神への信仰が親から子へと受け継がれることを願ってのことです。イスラエルの民は、「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記6:7)と、みことばを子どもの心に擦り込むことが命じられていました。

信仰の継承は土地の継承の前提としての絶対命令でした。そのため、神を恐れることと親を敬うことは一体でした。

しかも、この「従う」「聴く」が元になっており、子が親のロボットになる勧めではありません。子が親の人生の中で学んだことに真剣に耳を傾けることがなければ、人間は同じ過ちを繰り返してしまうことになります。

 

「それは主に喜ばれること」とは、子が親に従う前提ですから、親の不信仰や偶像礼拝に従うことは本末転倒です。それにしても、親の人生に真剣に耳を傾けることは、親に従うことの始まりです。それは、何よりも主に喜ばれることであり、また不信仰な親をも主に喜ばれる者に変えていただく始まりです。

 

父たちよ。子どもをおこらせ(侮辱し、けなし)てはいけません。彼らを気落ちさせないためです」(21)とは、上記の命令の裏返しです。親は、神に習い、力によってではなく、愛によって子どもを従わせる責任があります。

その際、何よりも避けるべきなのは、無価値観を植え付けることです。「おまえが生まれてしまったおかげで・・」とか、「おまえは間違うから、代わりに決断しよう」などという親によって、子の人格が傷つけられます。

 

「気落ちする」とは、生きる力がなくなることを意味します。親は、子どもを力で抑えこむ代わりに、ほめて励ましながら、善悪を植え付ける責任があります。

その模範は、父なる神ご自身です。父は、子どもの失敗を見守り、しかも励ます忍耐を、父なる神ご自身から学ぶことが求められております。

 

 「奴隷たちよ・・」とは、現代のサラリーマン、何らかの組織の中で働くすべての人に適用できる勧めです。当時、労働は奴隷の責任でした。その際、主人の前では熱心に働き、いないところでは怠け、叱られない程度に仕事をするという誘惑がありました。

それに対して、「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(22,23)と命じられます。

従いなさい」ということばは、子供に向けての勧めと同じ言葉で、大切なのは、「聴く」ことです。つまり、ただ単に、上司の命令に従うというよりも、上司の身になって、その心の声を聞こうとすることが大切です。

しかも、仕事を、上司から命じられたもの以上に、神から与えられた使命と受けとめ、上司ではなく、神の評価を心に留めながら働くことです。

 

そして、「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています(24)とは、当時の奴隷の心に響くことばでした。奴隷は財産を所有することができませんでしたが、神は奴隷に相続財産を与え、自由人としてくださる方であると約束されていたのです。

これは基本的に来たるべき新天新地でのことを意味しましたが、それが「絵に描いた餅」ではないことを、神は、今の世でも、豊かに示してくださる方なのです。

 

なお、地上的には、報酬を与えるのは雇用者の責任ですが、ここでは、究極的に報酬を与えてくださるのは主ご自身であるという意味を込めて、「あなたがたは主キリストに仕えているのです」と記されます。

これは仕事の姿勢すべてを貫くべき発想です。あなたの「主」は、上司である以前に、「キリスト(救い主)」ご自身なのです。

 

 「不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます」25節)とは、奴隷に対する警告である以上に、横暴で不当な主人の下で苦しむ奴隷すべてにとっての慰めです。

それには不公平な扱いはありません」とあるように、あなたが、横暴な主人の抑圧を覆そうと戦わなくても、神ご自身がさばきを下してくださるからです。

 

 「主人たちよ・・奴隷に対して正義と公平を示しなさい」(41節)は、画期的な勧めです。聖書は、奴隷制を廃する前に、奴隷を作り出す人間の心を変えようとします。歴史を見ると、共産主義のように、抑圧される者の解放のために戦った当人自身が最大の抑圧者に変わるという人間の罪深が確認できます。

しかし、すべての地上の主人を見張っている全能の神がおられます。そのことが、「あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから」と描かれます。

天におられる」とは、天国ではなく、目に見えない神のご支配の現実を指しています。

詩篇341516節では「主(ヤハウエ)の目は正しい人を顧み、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主(ヤハウェ)の御顔は悪をなす者に立ち向かい、彼らの記憶を地から消し去る」と記されています。

 

  私たちは何かをするときに、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」という自覚をどれだけもっているでしょうか。「馬鹿にされてたまるか・・・」というような動機では、キリストの姿にならうことはできません。

私たちはもっと、自分を責める前に神の子とされた誇りを身に着けるべきではないでしょうか。

 

妻も子も奴隷も自分の権利を守るために戦う必要はありません。夫や父親や主人も「私たちのいのちであるキリストが現われる(3:4)ことを意識するなら横暴になることはできません。それはさばきのときでもあるからです。しかも、自分の「いのちが、キリストとともに、神のうちに隠されてある」という霊的現実を思うことは、私たちに真の誇りと余裕を与えます。そして、互いを自分よりも勝った者と認め合い、仕え合うことを可能にします。 

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2013年6月 9日 (日)

コロサイ3:1-11節 「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」

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  人はみなどこかで自分を「みにくいアヒルの子」のように思うことがあります。不思議なのは、みんな自分のことをそのように思うことがあるとしたら、実際には、「みにくいアヒルの子」が存在するのではなく、自分をそのように「誤解」している人がほとんどであるということになります。

また、その童話では、母親からも見捨てられた「みにくいアヒルの子」が、白鳥の姿を見て、自分もそうなりたいと憧れた・・ということが描かれています。そして、やがて、自分がその憧れの白鳥の子であることを発見します。キリストとの交わりに生きる者は、すべて、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ」る途上にあります(Ⅱコンリント3:18)。私たちが憧れる栄光の姿は、すでに約束されているのです。

ユージン・ピータソンが、クリスチャン生活とは、「復活の実践」(Practice Resurrection)だと言っています。私たちが「新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただくことは確定しています。これは、「天国に憧れながら、この世の不条理に耐える・・」という現実逃避的な幻想の世界に生きることではありません。

私たちは、将来の保証があるからこそ、現在の労苦が無駄にならないということを信じて、今、ここで、神のみわざを喜びながら、神から与えられた身体をもって、この世界を少しでも住みよくするために積極的に生きることができるのです。今を喜ぶことと、新しい世界を待ち望むことは表裏一体の関係があります。

 

しばしば少女は、ままごと遊びをしながら家庭への夢を育みます。同じように、子供時代の遊びを最大限に楽しむことは、最も効果的な大人への備えとなります。

私たちも、今この時を喜んで生きることが、「新しい天と新しい地」での生活への最高の備えになります。私たちの肉体的な死は、青虫が腹を満たして成長し、さなぎの中で眠るようなものです。

それが脱皮の後で、同じ遺伝子の固有性を保ちつつ、見違えるような蝶に変身するのと同じように、私たちの身体も、キリストの再臨の時、現在との連続性を保ちながら栄光の姿に変えられるのです。

 

1.  「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」

 「あなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら・・(1)とは、211節の、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ・・よみがえらされた」というみことばを前提としています。

「よみがえらされた」というのは、完了形ではなくギリシャ語特有のアオリスト(無時制)形の表現です。エペソ人への手紙26節でも、私たちに実現した救いのことが、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と記されていますが、これも同じアオリスト形です。これは、過去、現在、未来という時の区別を超えた、神のみわざを表現するのにふさわしい動詞形です。

キリストの復活は二千年前の歴史的な事実ですが、イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神のみわざが私たちの中に既に始まっており、それが目に見える完成に向かっているというのです。

私たちは自分の身体の復活を、死んで意識がなくなって、地球が滅びる直前に実現する、遠い未来のことのように考えがちですが、聖書は、キリストが既に復活したように私たちも既に復活のいのちの中におり神の時から見たら、すでに復活は始まっていると考えるべきなのです。

 

私たちはみな、キリストにつながることによって、主が死者の中からよみがえられたように、栄光の身体へと復活します。私たちのうちに既に、「キリスト、栄光の望み(1:27)が住んでおられるので、その実現は保証されています。ですから、私たちは、既に、よみがえらされたかのように生きることができます

私たちの人生は、自分を青虫に過ぎないと見るか、蝶の幼虫と見るかで大きく違ってきます。私たちは、今、将来の王になる準備として、あえて丁稚奉公の苦労を体験させてもらっているのです。事実、人は、明日への希望を持っているなら、どんな困難にも耐えることが出来るし、それを通して驚くほどの成長を遂げられます。

 

 「キリストが、神の右に座を占めておられる」とは、復活の主が、神からの全面委託を受けてこの地の支配者となっていることを指しています。私たちはこの勝利者キリストと一体とされているのですから、地上的な次元で自分の価値をはからずに、「天にあるもの(2)、栄光に満ちた者として姿を「思いなさい」と勧められているのです。

しばしば、人は、自分を安っぽく見た結果として、自暴自棄な行動に走り、人を傷つけますが、「あなたがたはすでに死んでおり」(3)とは、キリストの「ご支配の中に移して」いただいている者はすでに、地上的なアイデンティティーから解放されたという意味です。

私たちはみな、どこかで、もっと豊かに、偉く、強く、尊敬される者になりたいと思いながら、比較の世界に生きています。しかし、いつも上には上があり、たとい頂点に上り詰めても、その地位を失う恐れに囚われてしまいます。それこそ、自分の真の価値を見失っている状態なのです。

 

  そして、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」と述べられるのは、この復活のいのちが、この地ではまだ人々の目には見えないからです。しかし、それは確かに、「神のうちに隠されている」ので、誰も奪うことはできません。

やがて、「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときにあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます(4)と記されています。

まず、キリストご自身が「私たちのいのち」であるというのは何という慰めでしょう。キリストにあるいのちの豊かさが、キリストの再臨の時に、あらゆる想像を超えた形で豊かに現されるのです。私たちのうちにすでに栄光の姿が形作られ始めているのです。

 

「みにくいあひるの子」の童話では、自分が白鳥の子であることを知らないがために、自己嫌悪に苛まれ、あるときは死にそうになっている中を優しいお百姓さんに助けられながらも、また自分がいじめられるのではないかと勝手に思い込んで、そこで騒ぎを起こし、逃げ出してしまわざるを得なくなる様子が描かれています。

被害者意識でいっぱいになった者は、人の助けさえ受け入れられなくなってしまうからです。同じように、私たちは、キリストのうちにある者としてのアイデンティティーを知らないために、神によって創造された自分のあるがままの姿を恥じながら、被害者意識に苛まれて、幸せを味わえる機会さえ自分で捨ててはいないでしょうか?

 

2. 「悪い欲、むさぼりを殺し、怒り・・恥ずべきことばを、口から捨てなさい」

  パウロはその上で、「地上のからだの諸部分・・・を殺しなさい(5)と命じます。それは、イエスが、「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは良いからです。もし、右の手がつまずかせるなら、切って捨ててしまいなさい・・・(マタイ5:28-30)と言われたことに由来します。

確かに、これに文字通り従うなら、ほとんどの男性の、目も手もなくなっていることでしょう。しかし、イエスは、私たちに自分を正当化することをやめさせようと、敢えて誇張表現を用いられたのです。

 

  それにしても、ここでは「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい(5)と描かれていますが、これらは不思議にすべて、性的な罪に関することばです。

むさぼる」とは、隣人の持ち物を羨ましく思い、どうにかして手に入れたいと強く望むことですが、申命記521節では、隣人の持ち物を欲しがることの最初に、「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない」と敢えて独立して描かれています。

つまり、私たちのこの地上の歩みでもっとも制御しがたい欲望が、性に関わることであるというのです。

 

これは、復活の身体と現在の身体の違いから見るとよくわかります。イエスは「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです(マタイ22:30)と言われましたが、それで多くの人は誤解をして、私たちの復活の身体は、天使のように、男女の性別を超えた存在になると思っています。

しかし、「天の御使いのよう」ということの核心は、何よりも「死ぬことができない(ルカ20:36)ということにあります。神が最初に人を男と女とに創造した最大の目的は、「生めよ、ふえよ、地を満たせ(創世記1:28)という命令を実行させるためでしたが、復活の身体の特徴が、死なないことにあるならば、復活の際には、結婚は必要なくなります。

 

しかも、人間は、自分の死の現実を、子孫を生むことによって超えようとしていました(創世記3:20)。人間に与えられた性的な欲望は、そのためにますます強くなったのではないでしょうか。また、恐れや孤独に支配された人間は、束の間の性的な交わりに中に慰めを見いだそうとします。

どちらにしても、復活の身体と、現在の身体の最大の違いは、性の交わりにあります。そして、私たちが復活のからだを意識しながら生きることの本質は、性的な衝動に駆りたてられなくなるということに現されると言えましょう。

復活の身体においては、男性であることも女性でもあることも、互いの性的な欲望を刺激し合うことのない、その人の大切な個性の一部とされています。女性であることのすばらしさも、子供を産むかどうかを超えた観点から見られるようになるのです。

 

  なお、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです(5)とありますが、それは「偶像礼拝」の本質は、自分の「欲望」を神としてしまうことだからです。

そして、実際、当時の異教の神殿では、偶像の神々の巫女には同時に売春婦としての役割も期待されていました。その上で、「このようなことのために、神の怒りが下るのです(6)と記されていますが、これは「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました」とあるように、昔の生き方に戻ることへの警告です。

これは、「あなたがたは、このようjに主イエス・キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい(2:6)という命令に対する反抗として、キリストにある救いを無駄にしてしまうことだからです。

ただし、このように言われる背景には、「もうあなたは、今、キリストのうちにあるのですから・・・」という自覚を促す励ましがあることを忘れてはなりません。

 

  そして、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば・・・(8節)に関しては、「口から・・・捨ててしまう」ことが求められています。これは「口から吐き出す」ことではなく、「口から出ないように捨て去る」ことです。

私たちは、湧き起こってくる感情を押さえることはできませんが、神の助けによって、口から出ないようにすることはできます。

怒り」は、「神の怒り」と同じことばですから、すべてが悪いわけではありません。しかし、この感情が膨らむのを放置するとやがて人に向かって爆発します。そして、これらは何よりも、人間関係を破壊するものです。

 

 私たちの身体が復活して入れられる世界は、愛の交わりの完成した場所です。そこでは、もう、肉体的な性の交わりがないと同時に、互いに対して怒ったりそしったり、恥ずべき言葉を吐く必要がありません。

復活の身体を意識することで、性的な汚れと、口から出る悪い言葉から自由にさせていただけるというのです。

私たちがこの地で復活を実践するとは、自分のうちに沸いた怒りやねたみの感情を、すなおに神に差し出して、その気持ちをキリストに引き受けていただくことです。セルフ・コントロールではなく、神に取り扱っていただくことです。

 

  しばしば地上の教会は、性的な罪がほとんど見られないような聖い交わりでありながら、互いに裁きあっていたり、反対に、暖かい愛の交わりでありながら、道徳的に極めてルーズであるなどという偏りが見られがちです。

たとえば、アメリカのブッシュ前大統領は、ホワイトハウスに道徳的な聖さを実現したと言われますが、反対に戦いをもたらしたという面がないでしょうか。そんなとき、あの性的にルーズな元のクリントン政権を懐かしむ声が出てきました。

しかし、安易な妥協をしてはなりません。「一方を殺し、他方を捨てる」ことが命じられているのです。道徳的に聖でありながら、互いを心から赦しあっている交わりを、神は創造してくださいます。 

 

3. 「新しい人は・・ますます新しくされ・・・」

 「古い人を・・脱ぎ捨てる(9)とは「禁欲の勧め」ではありません(2:21-23参照)。それは11節にあるような古いアイデンティティーから離れて、キリストのうちに生きることです。

もし、主にあって男女の区別を超えた霊的な交わりを体験したら、情欲を抱いて女を見続けることができるでしょうか。人種や社会的地位を越えた交わりを体験したら、憎しみなど消えてしまいます。

本物を知ることによって初めて、偽物に身を任せることから自由にされます。それは、新しい人を着た(10)という状態を心から味わうことによってです。

 

多くの人は、世の競争に勝つため、また人の評価を恐れて、自分のうちに与えられた芸術的な才能を眠らせていますが、そのために、「新しい天と新しい地」で花開く喜びを味わうことができていないのかも知れません。

また、たとえば、音楽に合わせて踊ることは、復活した栄光の姿に続くことかもしれませんが、その喜びを押さえ込んでいては、新しい世界の喜びをイメージすることができません。

しかし、反対に、人との比較を超えて、本当に自分自身であることを喜ぶことができるような瞬間があるなら、そこから新しい世界の喜びが実感できます。

 

その上で、「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」と記されていますが、これはESV訳では、“and have put on the new self, which is being renewed in knowledge after the image of its creator”(新しい自分を着たのです。それはその創造主のかたちに従って知識において新しくされた者です)と訳されます。

つまり、新しくされるとは、異なった人格、今までとは違った性格や体形に変わるということではなく、自分を神のイメージの視点から、まったく違った観点から見られるようになるということです。

私たちは知らないうちに、自分を創造主の視点ではなくこの世的な視点で見てしまっています。これは、造り主があなたをユニークに創造されたその輝きが増し加わる状態です。自分を欠陥人間かのように思うことは造り主を冒涜することです。

そして、「それは真の知識に至る」とは、二つの知識を指し示しています。それは、神とキリストを知ることばかりか、「神のうちに隠されてある」あなた自身の「いのち」、「新しい人」としての自分を知ることでもあります。

 

   たとえば、多くの人は自分を傷つきやすい、臆病で内気な人間であることを隠そうとします。そして、内気な人ほど自分を強く見せたいという誘惑が働いたりします。

人によっては、敬虔なクリスチャンのふりをするという誘惑に駆られるかもしれません。人々の批判にも動じることなく、いつでもどこでも神の眼差しを意識して、黙々と自分に課せられた責任を果たすことができるなどという見せかけを振る舞うことがあるかもしれません。

 

しかし、そんな信仰は極めて危険です。私たちがイエスキリストに信頼して歩むということと、不安の気持ちから自由になれず、人の評価に一喜一憂しながら、生きるということは決して矛盾することではありません。自分が感じることを否定してはなりません

私たちは不安だからこそ祈るのです。人の評価が気になるからこそ、神の評価を求めるのです。私たちが味わうすべての感情は、私たちの頼りなさを知らせ、私たちを神に向かわせる契機になります。

また自分の弱さや頼りなさを知るということは、他の人をもっと優しく見るきっかけになります。

 

人間はいつも自分や人を、ある特定の枠から見ようとします。ここでは「ギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人と言う区別はありません」と記されています。

未開人とは英語ではバーバリアンと記されますが、これは本来、当時の文化的な言語であったギリシャ語を話せない人の総称でした。

スクテヤとは黒海の北の地域、現代のロシア人を指します。彼らは未完人の中の未開人と見られていました。また、当時のユダヤ人は、ギリシャ人から見れば未開人ですが、自分たちが神の選びの民であることに大きな誇りを持っていて、反対に、偶像の神々を拝む文化のギリシャ人を軽蔑していました。

 

また、「奴隷と自由人」という間にも想像を超えた大きな溝がありました。現代的には自分や人を人種とか学歴で見るとか、ある特定の能力や、経済力で見るというようなことです。私たちはそれらの区別の枠を否定するのではなく、それに捉われなくなることが大切なのです。

たとえば、「私は学歴などを気にしない」と言っている人に限って、学歴を気にしているという場合があります。本当に気にしていないなら、それを言う必要もありませんし、人が自分の学歴を公表することを批判する必要もありません。大切なのは、その地上的な尺度を超えた視点から自分と人とを見ることです。

 

そのことがここでは、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」ということばです。私たちは何よりも、自分をキリストのうちにあるもの、また、キリストの御霊を宿している者として見る必要があります。復活のキリストの御霊があなたの中に住んでおられます。あなたは復活したキリストと一体とされているのです。

 

人と自分を青虫どうしの背比べのような比較の中で見るのではなく、自分をアゲハチョウの幼虫として見る必要があります。自分をみにくいあひるの子としてではなくて、白鳥の子どもとして見る必要があります。

 

私たちは人間的な視点から自由になる必要があります。私たちに問われているのは、何よりも、生きる方向です。私たちはそれぞれキリストのために生きるように新しくされたのです。あなたにとっての人生の主は、自分ではなく、キリストになりました。何よりもそれが決定的に新しくなったことです。

 

そして、「復活を実践する」とは、あなたのそのままの姿や感性を神に差し出し、それがイエスを死の中からよみがえらせた神の御霊によって自由に用いていただくことです。この世的には用いようのない個性が、神にあっては豊かに用いられます。

私はかつて、ある意味で敏感すぎると思われた自分の感性を恥じていました。しかし、それを優しく受け止め、それを神に差し出すという「歓迎の祈り」を学んだ時、新しい世界が開かれてきました。

そこで体験したことを「百万人の福音」に連載した時、「私も同じことで悩んでいました」という多くの反響をいただき、それが今回、「現代人の悩みに効く詩篇」という一冊の本にまとめられ、出版されました。

 

私たちは、しばしば、十字架につけて殺すべき古い自分ばかりに目を向けてしまいがちです。その結果、自分の成長を人と比較し、高ぶったり、自己嫌悪に陥ったりします。

しかし、今、新しい旅が始まりました。それは、あるがままの自分がイエスによって創造されたことを喜びながら、同時に、自分のうちに始まっている新しいいのちを喜ぶことです。

私たちは、期待に満ちて、自分にしか分からない「キリストとともに、神のうちに隠されてある」、新しい「いのち」の豊かさを日々、発見させていただくことができるのです。

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2013年6月 2日 (日)

コロサイ2:6-23「キリストにあっての満ち満ちた歩み」

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  「クリスチャンは、こんな場合どう振舞ったら良いのでしょう?」と質問されながら、ふと「そんな外面的なことより、もっとキリストとの生きた交わりを意識して欲しい」と思うことがあります。イエスは、あなたの教会生活ばかりか、仕事や家庭、日常生活に深い関心を持っておられます。

教会内の活動に忙しすぎて、矛盾に満ちた世界に「遣わす」という観点が弱すぎる教会もあるかもしれません。遣わされるためにこそ、キリストご自身との、また、信仰者との「生きた交わり」が固くされる必要があります。

 

それにしても、最近の凶悪犯罪者の報道を見ながら、加害者である彼らが、いかに深い被害者意識に動かされているかに驚きました。

「満たされない」という思いは何と危険なことでしょう。ただ、それをハウ・ツー式に、「このようにしたら、満たされる」と考えることも危険です。信仰の成長にインスタントな方法はないからです。

 

1. 「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」

  67節の核心は、「キリストにあって歩みなさい」です。イエスこそが「」であることを、日々の生活の中で体験するようにとの勧めです。「根ざし、建てられ、信仰を堅くされ、感謝しなさい」も、「歩みなさい」を修飾する分詞として記されています。

つまりこれは、週日の日常生活の中で、自分が既に、キリストの愛に深く根を張らせていただき、その交わりのうちに建てられ組み合わされて、教えられながら信仰が堅くされ、キリストのいのちが感謝のうちにあふれ出るという、キリストにある歩みの幸いを体験するようにとの励ましと理解できます。

これは、深く高い山の中を歩く前に、どのように楽しむことができるか、またどのような危険に注意すべきかの講習を受けるようなものです。喜びは、歩んでみなければ分かりません。

 

  その上で、パウロは、「注意しなさい」と命じます(8)。その目的は、「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬように」ということです。なぜなら、彼らを「二流クリスチャン」かのように扱うユダヤ主義者の教えが広がっていたからです。

だましごとの哲学」と呼ばれるのは、当時のギリシャ語では、信仰も「哲学」の一部と見られたからです。その特徴は、旧約聖書の核心部分を忘れて、それを「人の言い伝え」のような規則集にしてしまうことでした。

それはまた、「この世に属する幼稚な教え」によるものと説明されます。この「幼稚な教え」は原文では「元素」と記されており、新共同訳は「世を支配する霊」と訳しています。つまり、ユダヤ主義者の言っていることは、神の教えのように見えながら、この世的なハウ・ツーの教えの延長に過ぎないというのです。

現在も、聖書の教えを「このように行動したら、このような祝福を得られる」式に理解する人々が多くいます。

 

ところで、当時は、各民族や各都市ごとに異なった神々があり、民族の戦いは、彼らの神々の戦いと見られがちでした。そして、聖書の神、ヤハウェは、肉的なアブラハムの子孫であるユダヤ人だけの神と見られていました。それで、ユダヤ主義者は、既に「キリストのうちにある者」に、ユダヤ人になる儀式としての割礼を受けるように誘惑していたのです。

それに対し、パウロは、キリストこそが万物の創造主であり、すべてを保っておられ、すべてが主ご自身に向けて造られていると語りました(1:15-17)。ですから、キリストのうちには「神の満ち満ちたご性質が」、この地で目に見えるように「形をとって宿っている」(9)のです。

そして、私たちは、その満ち満ちた「キリストの中に」既に移されているので、私たち自身も、「キリストにあって、満ち満ちている(10)というのです。

そして、「キリストは、すべての支配と権威のかしら」として、すべての上に立っております。キリストこそ、「王たちの王、主たちの主(黙示19:16)なのです。それはあのオラトリオ「メサイヤ」の有名なハレルヤ・コーラスで歌われているとおりです。

私は昔、深い敗北感を味わっていた時、これを聞きながら深く慰めを受けたことがあります。

 

  物事が期待通りに進まなかったりして敗北感を味わい、自分を二流クリスチャンのようにしか思えないことがあるかもしれません。

しかし、私たちは「キリストにあって」、既に、すべての富と力を約束されており、必要なものはすべて与えられているのです。

神が私たちに、敢えて貧しさを体験させるとしたら、それは訓練のためです。それは、既に王子や王女の地位を保証されている者が、王様から敢えて丁稚奉公に出されていることに似ています。

神の救いのご計画の全体像が見えるとき、痛みや苦しみの中にも喜びを見出すことができます

 

2. 「キリストにあっての割礼、バプテスマ」

  「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました・・」(11)で、「キリストの割礼」とは「バプテスマ(12)を指します。ユダヤ人は、男性器の包皮の肉を切り取られることでアブラハムの子孫として受け入れられましたが、彼らギリシャ人も、洗礼によって同じ「神の民」として公に受け入れられるというのです。

それは「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです・・・それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです(ガラテヤ3:27-29)とある通りです。

 

  「肉のからだを脱ぎ捨て・・・」というのは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです(ガラテヤ3:28)と記されているように、血肉によるアイデンティティーを超えて、神の民とされることを意味します。

 

私たちは、洋服を着るように、自分が持っている資格や学歴、社会的な地位などの、肩書きを身に着けています。誇れるものがないと、自分の居場所がないように思えます。

しかし、私たちは何よりも、キリストをその身に着ているということに誇りを感じるべきなのです。それは、しばしば「天国人とされた」とも言われますが、キリストの再臨によって実現する「新しいエルサレムの市民」とされているという意味です。

 

  なお、バプテスマは、「キリストとともに葬られ・・キリストとともによみがえらされた(12)ことの象徴ですが、私たちは「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる」ことによって、与えられた信仰によって、まだ復活にあずかっていないにも関らず、既に死に勝利した者として、来たるべき「新しい天と新しい地」のいのちを、今から生きることができているのです。「永遠のいのち」とは、そのことを意味するのです。

 

  また、「あなたがたは罪(罪過)によって、また肉の割礼がなくて死んでいた者なのに(13)とは、異邦人たちが自分の罪ばかりか、神の選びを受けていない民として「望みもなく、神もない人であった(エペソ2:12)状態を描いたものですが、「神はそのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくだいました」というのです。

 

12,13節で「キリストとともに」と三回繰り返されていることに注目したいと思います。それは、キリストにつながることによって、キリストの死と復活が既に自分のものとされ、肉体が衰え死んで行くようでありながら、天にいるキリストと一体とされた祝福に満ちた勝利の人生を、既に「歩む」ことが可能になったという意味です。

 

  ですから、私たちがこの地で様々な苦しみに会うとしても、それは十字架で死んでよみがえられたキリストとともに歩む人生の一部であって、そこには必ず「脱出の道が備えられています(Ⅰコリント10:13)

多くの人々は、苦しみを恐れる余り、キリストにある冒険の人生に歩みだすことができません。しかし、パウロは、自分の苦しみを「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(1:24)と断言し、誇りと感動に満たされて歩んだのです。

 

3. 「債務証書は無効になり、すべての支配と権威の敗北は決まった」

  聖書には、守るべき「定め(14)が数多く記されています。それを聞くたびに、私たちも負い目を感じざるを得なくなります。それをパウロは、「私たちを責め立てている債務証書」と呼びました。それは、まるでサラ金業者に追われている人の気持ちに似ています。わずかの額だと思ったのに、調べているうちに次々と増えて来て、死を覚悟せざるを得なくなります。

しかしキリストは、私たちに代わって借金を支払い、この「債務証書を無効にして」くださいました。「十字架に釘づけにされる」とは、支払いが終わった証書に穴が開けられて処理される様子を現しています。

ただし、これはひとつのたとえですから、人間的な理屈で、神を借金取りとして誤解しないようにと、私たちの罪を赦してくださる主体は、キリストである以前に神ご自身であることをパウロは注意深く記しています。

父なる神を裁く神、子なる神を赦す神と分裂させて見る人がいますが、それは決定的な誤りです。神は、キリストにある者に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)と語りかけておられます。

 

  なお、人間的な目に、十字架は、イエスが当時のユダヤ人やローマ人の世の支配者たちの力に屈服して殺されたしるしに見えます。しかし、それこそ、「キリストこそが、すべての支配と権威のかしらである」ことを反対に証しする機会となりました。

主の復活は、彼らが武装解除されたしるしでした。彼らは「俺たちに屈服しなければ殺す!」と脅しますが、「キリストにある」者のいのちを奪うことはできません。かえって、彼らの無力さが顕にされるだけです。

彼らを捕虜として凱旋行列に加える」とは、戦争報道がなかった当時の将軍が、勝利の証しのために敵からの分捕りものや敵の支配者たちをさらしものにすることのたとえです。イエスの復活は、彼こそが、この地で、唯一恐れられるべき真の支配者であること証明したのです。

 

人間的に見ると、キリストのためにパウロほどの苦しみに会った人はいないかもしれません。しかし同時に、彼ほど「キリストにあって」自分が「満ち満ちている」ことを味わった人もいないことでしょう。彼はそれを次のように述べています。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・神に選ばれた人を訴えるのは誰ですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んで下さった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが・・・とりなしていてくださるからです・・患難・・苦しみ・・迫害・・剣・・の中にあっても、私たちは圧倒的な勝利者となっているのです(ローマ8:31-37)。 

 

4. 「本体はキリストにある」のに、その「かしらに堅く結びつくことをしません」

  「こういうわけですから・・(16)とは、8-15節の説明を踏まえて、キリストにある新しい民としての具体的な生き方の勧めです。ユダヤ主義者はギリシャ人を中心としたコロサイ教会に、モーセ五書をベースにしていると言われる「食べ物と飲み物・・祭りや新月や安息日」の「言い伝え」を守っていなければ神の民としてふさわしくないと「批評(または「裁いて」16)していましたが、それに対し、パウロは、彼らの主張に耳を傾けてはならないと命じました。

ただし、パウロは、聖書に記された食べ物や祭りの規定を否定したのではなく、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある(17)と表現しました。

イエスご自身が、「わたしが来たのは律法や預言者を・・廃棄するためではなく、成就するために来た(マタイ5:17)と言われたからです。  

 

神は、ユダヤ人を偶像礼拝の民から分離し、神の民として整え、彼らによって世界を救おうとされました。しかし、今や、ご自身の御子キリストによって直接に、新しい神の民を創造してくださいました。

それによって、ユダヤ人を他の民族から分離する規定は必要なくなったのです。

 

パウロは、まず最初に、ユダヤ主義者たちに「ほうびをだまし取られてはなりません(18)と警告します。それは、競技の勝利者が、後でルール違反として失格を宣告されることがあったように、キリストにあっての勝利を無効と宣言する人がいたからです。

しかし、彼らこそ、「ことさらに自己卑下をしたり」して肉体の必要を軽んじたり、「御使い礼拝したり」する失格者です。私たちは「御使いをもさばくべき者である(Ⅰコリント6:3)のに、人間の立場を卑屈にとらえ、御使いをあがめてはなりません。

また「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り」とは、同じ人たちの別の問題で、御使いに憧れるあまり、何かの恍惚体験を人間的に誇ってしまうことです。そして、彼らに共通するのは「かしらに堅く結びつくことをしない(19)という問題です。

 

これは現代にも起こり得ることです。与えられた理性や感性を軽視して、恍惚体験や超自然的な語りかけを求めたり、この世との分離ばかりを強調する人々がいます。

彼らはしばしば、霊的な自己満足に陥ります。しかし、イエスは「心()の貧しい者は幸いです(マタイ5:3)と言われました。それは、この世で傷つき、苦しみ、イエスに堅く結びつくことを切望する者への幸いの約束です。私たちは渇いた結果として満たされるのであり、渇くことを最初から避けてはなりません。

ただし、私たちは、万物の創造主であるキリストと結びついており、万物を成り立たせている方(1:17)が、ともに歩んでくださるのですから、恐れ退く必要はないのです。

 

5.「関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられる」

  「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされ(19)とありますが、私たちはひとりひとり、からだの一器官としてキリストにつながります。

その際、「関節と筋(じん帯)」という各器官を結びつける機能が大切です。それは、各器官が摩擦を起こさないためのクッションとなり、堅い骨と骨を組み合わせ、驚くほど柔軟な身体にします。その負担が余りにも大きいため、人間の身体の衰えや故障は、この部分に際立って現れます。

その鍵を握るグルコサミンやコラーゲンは年齢とともに不足しますが、キリストのからだでは異なります。

愛こそ結びの帯(3:14)と言われますが、これは「愛こそ(器官を結びつける)じん帯です」という意味です。そして、「愛」は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)とあるように、信仰の歩みの年を重ねるほど、豊かにされてくるものです。

 

私たちは、各器官それぞれの機能に注目しがちですが、各器官を互いに結びつけながら頭の指令を伝えてそれぞれを動かし、また栄養を器官から器官へと伝えるのは、この「関節とじん帯」の働きです。これこそ神の奇跡です。

エペソ書で「からだ全体は、備えられたあらゆる結び目によって、組み合わされ、結び合わされる(4:16)と言われる「結び目」がここでは「関節」と訳されています。それは独立した器官としてではなく、各器官に備えられた「結び目」として描かれています。

つまり、まとめ役や潤滑油的な存在によって人と人とが組織的に結びつくというのではなく、それぞれが主体的に他の器官に結びつくことで、身体として成長するというのです。

 

  「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中で、愛することを恐れているのである」(エーリッヒ・フロム)とも言われますが、私たちのうちに愛を起こしてくださるのはキリストの愛です。ただし、それは天から直接に降ってくるのではなく、からだの器官から器官へと伝えられるものです。

ですから、「ぶつかると痛いから・・」などと、交わりを避けることは自殺行為です。神は、ご自身のからだに属する者に、みことばの説教や黙想、聖徒との交わりを通して、豊かな愛を注ぎ、あなたに備えられた「結び目」を強めてくださいます。

それが、「神によって成長させられる」という意味です。これは厳密には、「神の成長によって、成長する」と記されており、「神が成長させてくださることによって成長する」とも訳すことができます。 

 

6. 禁止命令は、肉のほしいままな欲望には何の効き目もない

「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら・・(20)とは、「すでにキリストとともに死んでいる」ということを前提として、8節にあったような「この世の幼稚な教え」ハウ・ツー式の、神の民としての生き方をユダヤ人の慣習に結びつけるようなものから自由になることの勧めです。

その中心は、「すがるな(つかむな)、食べるな、さわるな(21)などのような、この世の汚れから分離させるための禁止命令です。

それに対して、パウロは、「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって・・(22)と、彼らの目を、地上的な次元での分離のことから、天の神との永遠に消えることのない交わりへ向けさせます。

そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、(偽りの)謙遜とか、または肉体の苦行のゆえに賢いもののように見えますが」とは、肉の思いを制するための工夫を凝らした、謙遜ぶった礼拝儀式のことを指しています。

たとえば、日本の宗教にも様々な荘厳な礼拝儀式があり、それぞれに由緒ある知的な根拠が説明されたりします。しかしそれは、「肉のほしいままの欲望に対しては、何のききめもない(23)というのです。

私たちが真に目を向けるべきことは、人と人との愛の交わりを破壊するような傲慢さとか、怒りやねたみ、争いの思いではないでしょうか?しばしば、宗教的な儀式が、人の優越感を満足させることにしかならない場合さえあります。

 

  イエスの弟子たちが、言い伝えの方法で手を洗わずパンを食べたとき、ユダヤ人の宗教指導者はそれを非難しました。それに対してイエスは、「外側から人にはいって人を汚すことができる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです(マルコ7:15)と反論してくださいました。

それは、私たちが注意しなければならない「汚れ」とは、外に現れることではなく、心の内側のことであるという意味です。その問題は、この世からの分離によってではなく、イエスと結びつくことによってしか解決できないことなのです。

 

イエスは、律法の核心を、「・・してはならない」という禁止命令よりは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神を愛せよ」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という積極命令として表現しました(マタイ22:37,39)

それは、当時の宗教指導者が、禁止命令の背後にある神のみこころを誤解していたからです。神ご自身が、恋人の愛にも勝って、罪人である私たちとの交わりを求めておられます。

母親が乳飲み子の微笑みを何よりも喜ぶように、神は私たちが自分の能力や正しさを示すことよりも、愛の応答を喜ばれるのです。

 

  パウロは、ユダヤ的な分離主義者を批判しましたが、同時に「この世と調子を合わせてはいけません(ローマ12:2)とも勧めています。

地の塩、世の光」として生きることは、世からの分離と世との協調との狭間で生きることです。自分でバランスを取ろうとすることは至難のわざですが、私たちに求められているのは、何よりも、キリストとの交わりを深めることです。

主が世に遣わされたから、私たちも遣わされるのです。私たちも確かに、この世との分離が必要な場面がありますが、それは主との交わりを深めるという目的に照らして考えるべきことです。

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