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2013年7月21日 (日)

アモス9章 「偶像礼拝からの救い」

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  多くの人々の心には、「これさえ達成できれば、すべてが変わるはず」と思える理想があります。それは、仕事の目標であったり、結婚であったり、子育ての理想であったり、政治理念であったりします。でも、どんな美しい理想も、それ自体が人生の目標とされると、それは偶像になります。

繁栄の町ニューヨークの牧師であるティモシー・ケラーは、「人の心は偶像工場です」と言いましたが、偶像礼拝とは、神社の神々を拝むことばかりではありません。それは私たちの信仰生活のなかに常に入り込んでくる、避けがたい誘惑であるということを忘れてはなりません。

 

アモスの預言は、自分たちの一時的な繁栄に酔う北王国イスラエルに対する滅亡の預言でした。神は彼らの偶像礼拝の罪に対して、繰り返しさばきの警告を与え、また繰り返し苦難を与えることによって、ご自身のもとに帰らせようとしました。

そればかりか、アモスの時代には、彼らに一時的な繁栄を与えることによってご自身のもとに立ち返らせようとしたのに、今度は、彼らは神のことばをあざけって、さばきは永遠に自分たちに来ないと思い込むようになってしまいました。それに対して、アモスは、彼らの国の徹底的な滅亡を預言します。

 

しかし、それで終わりはしませんでした。この最も古い預言書では、さばきの後に来る力強い希望が記されています。イザヤにある「新しい天と新しい地」の預言が、また、ヨハネ福音書にある「永遠のいのち」の保証が最後に記されているのです。しかも、主の兄弟ヤコブは、異邦人の救いの希望を、アモス書を引用してユダヤ人たちを説得しました。

ここにはイスラエルの死と復活が預言されているとも言われます。それは、私たちの人生にも適用できます。私たちは苦しみを通して全能の主に立ち返り、復活のいのちを今から生き始めることができるのです。

 

1.「彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない」

 7章から8章まで、主(ヤハウェ)はアモスに、北王国イスラエルに対するご自身のさばきの幻を明らかにされました。最初のふたつの幻に関しては、アモスの必死な祈りに応えて、主はご自身の計画を「思い直された」と記されています。それは感動的な記述でした。

それに対し、77節からと81節からのふたつの幻では、主はアモスにさばきのご計画を示されるにあたって、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」と宣言されます(7:88:2)

 

9章でも同じように主のさばきの幻が示されますが、ここでは主とアモスの対話はなく、主からの一方的なさばきのご計画が記さます。

まずアモスは、「私は、祭壇のかたわらに立っておられる主を見た」と記します。これは77節の第三の幻、「見よ。主は手に重りなわを持ち・・・城壁の上に立っておられた」という記述に似ています。

なお、「祭壇のかたわらにと、「城壁の上に」とは原文で同じ前置詞であり、ここは「祭壇の上に立っておられる主」と訳した方が良いかもしれません。ただ、多くの人は、主がこの祭壇を忌み嫌っておられ、崩そうとしておられるという意味で「かたわら」と訳します。

一方、主は、この祭壇における偶像礼拝を天から見下ろして、さばこうとしているという面を強調すると「上に」と訳すべきかもしれません。とにかく、主は祭壇に寄り添ってはおられません

 

どちらにしても、77節の幻の後で、ベテルの祭司アマツヤから、「ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから(7:13)と非難され、それに対し、アモスがアマツヤに対する主のさばきを伝えたという文脈からすると、ここでの「祭壇」とは、金の子牛が祭られているベテルの祭壇のことだと思われます。

 

その上で、主の命令が、「柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ」と記されますが、これが誰に向けて語られているかは分かりません。とにかく主のご意志によって、柱の頭が激しく打たれ、それによって敷居の部分が震えるほどにするというのです。普通は、柱は下からの地震で崩れるのですが、この場合は、上からの神の力によって柱が崩されるというのです。

その上で、「そのすべてを頭上で打ち砕け」ということばは、フランシスコ会訳では、解説を加えるように、「柱をすべての者の頭上で打ち砕け」と訳されますが、それが文脈から生まれる意味だと思われます。

士師記16章ではサムソンが、その生涯の最後でダゴンの偶像の宮の柱を倒して、宮の中にいたペリシテ人たちの上に落ちるようにして、彼らとともに死んだことが描かれていますが、それと同じことがここで起こったのだと思われます。

そればかりか、ここでは主が、「わたしは彼らの残った者を、剣で殺す」と、ベテルでの偶像礼拝に加わって宮が崩れ落ちても生き残っているすべての人を剣で殺すと驚くべきことが記されています。そればかりか、ここではそれに加えて、「彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない」と記されます。

 

Ⅱ列王記10章には、サマリヤのアハブ家を滅ぼしたエフーが、バアルの信者すべてをバアルの宮に集め、80人の兵士を使って殺させたとき、「私があなたがたの手に渡す者をひとりでものがす者があれば、そのいのちを、のがれた者のいのちに代える・・・入って行って、彼らを打ち取れ。ひとりも外に出すな(2425)と命じた様子が描かれます。

そしてここでは、主ご自身が偶像礼拝者をどこまでも追いかけて行って殺すと記されています。

 

そして彼らに逃げようがないことが、「彼らが、よみに入り込んでも、わたしの手はそこから彼らを引き出し、彼らが天に上っても、わたしはそこから彼らを引き降ろす。彼らがカルメルの頂に身を隠しても、わたしは捜して、そこから彼らを捕らえ出し、彼らがわたしの目を避けて海の底に身を隠しても、わたしは蛇に命じて、そこで彼らをかませる。もし、彼らが敵のとりことなって行っても、わたしは剣に命じて、その所で彼らを殺させる(2-4)と記されます。

よみ」は死者のたましいの宿る「暗やみのような真っ暗な地(ヨブ10:22)と見られていましたが、そこに隠れても引き出されるというのです。また。そして「天」とはその反対の場所ですが、そこに上っても、引き下ろされるというのです。これはあくまでも、どこにも逃げ場がないということの誇張表現です。

それに続く「カルメル」とはエリヤとバアルの預言者が戦った場所で、イスラエルの支配地でもっとも標高の高い場所、「海の底」とは地中海のことでイスラエルの周辺で最も低い所です。ここではそこに逃げても「蛇に命じてかませる」というのです。「蛇」は神に逆らう獣の代表と見られていましたが、神は「海の底」でご自身に逆らう獣さえも用いてイスラエルの偶像礼拝者を滅ぼすというのです。

そして、最後に「彼らが敵のとりことなって行っても」というところには、神が神の民イスラエルの敵の国まで支配して、彼らを通してイスラエルの偶像礼拝者を滅ぼすというのです。

 

そして最後に、「わたしはこの目で彼らを見る。それは、わざわいのためで、幸いのためではない(4)と記されます。これは、主ご自身の目が、彼らをとらえて見逃すことはないという意味です。かつてアモスは、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主(ヤハウエ)があなたがたとともにおられよう(5:14,15)と言っていましたが、彼らはそれに逆らい、神のあわれみではなく、怒りの眼差しから逃げることができなくなったというのです。

彼らはベテルに安置された金の子牛を拝んでいましたが、それは「権力」や「富」自体を自分たちの偶像とすることでもありました。その結果、正義やあわれみが忘れられました。

 

2.彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている

 956節もまとまりとして理解する必要があります。エジプトでは太陽神ラーがあがめられ、また「母なるナイル」などという言葉があるように、定期的に氾濫を繰り返すナイルはエジプトの大地を豊かにする源と見られていました。そのような中で、主はご自身のことを以下のように紹介されました。

 

「万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主(ヤハウェ)

 

地に触れると、それは溶け」とは詩篇465節の「神の発する御声は、その地を溶かす」に通じます。「母なる大地」などと言われることがありますが、創造主を忘れて大地を母とする者は、泣き悲しむことになってしまいます。

また続く、「ナイル川」と訳されていることばは、基本的な意味は「大河」で、それがエジプトにある場合は「ナイル川」と訳されます。また「エジプト川」と訳すとシナイ半島の川と混同される可能性があります。ですからここは、「大河(ナイル川)のように湧き上がり、エジプトの大河(ナイル川)のように沈む」と訳すべきでしょう。

「高殿」とは天の王である方の「宮殿」を意味します。

丸天井」とは天の星が配置された領域があるという当時の考え方でした。これは現代的には、創造主は全宇宙を治めておられるという意味です。

また「海の水を呼んで、地の面に注がれる」とは、創造主ご自身が地球上の水蒸気、雲、雨、川に見られる水の循環を支配しているという意味です。

 

当時のイスラエル周辺の国々の人々は、干ばつや洪水を恐れ、その予測にために天文学なども発達させていましたが、そこには同時に、雨を降らせる神や太陽の神などの数々の偶像の神々がありました。

しかし、聖書の神は全宇宙からこの大地のすべての水の流れまでを、天の宮殿から治めておられると強調されているのです。

 

  7節ではイスラエルの民の高慢を砕くようなことが、 「イスラエルの子ら。あなたがたは、わたしにとって、クシュ人のようではないのか」と記されます。

クシュ人」とはナイル川の最上流のヌビアの地の住民で、イスラエル民からしたら南の果ての辺境の民と見られていましたが、主はイスラエルこそが辺境の民であると言われました。なぜなら、イスラエルの民はエジプトの奴隷であった者たちを主ご自身が一方的なあわれみによって連れ出してくださったからに他ならないからです。

同じように、主は、ペリシテ人を「カフトル」つまり、地中海に浮かぶクレテ島から、また、アラムを「キル」(メソポタミヤの北東部にある辺境の地)から連れ上ったではないかと言われます。15節では、主ご自身がアラムの民を、昔の辺境の地に追いやると予告しておられました。

 

  8節では、「見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている」と記されますが、この「王国」とは単数形ですから、北王国イスラエルのことを指しています。

そして主は、「わたしはこれを地の面から根絶やしにすると言われながら、同時に、そこに希望を与えるように、「しかし、わたしはヤコブの家を、全く根絶やしにはしない。─主(ヤハウェ)の御告げ─見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない」と言われます(89節)。

収穫した穀物をふるいにかけるとき、穀物は下に落とされ、その他のもみや小枝や、石ころは残されます。「一つの石ころも地に落とさない」とは、石ころが穀物に混ざってさばきを免れることはないという意味です。

神は「罪人」と「義人」を最後には公正に区別されます。

 

そして、そのことを再度確認するように、主は、「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている」(10節)と宣告されます。

彼らは繰り返しエリヤ、エリシャなどの預言者たちを通して、偶像礼拝に対する神のさばきのメッセージを聞き続けて来ました。神は特にエリシャを通して北王国イスラエルにさばきの警告と同時にあわれみを注いでくださいました。

その時代のことがⅡ列王記1323節には「(ヤハウェ)は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことを望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった」と記されています。

彼らはこの主の忍耐とあわれみを軽んじて、これからも自分たちにはわざわいが及ばないと思い込むようになってしまいました。残念ながら、めぐみは時間と共に当然の既得権益のように受け取られてしまうからです。

しばしば、人は、神の代わりに、「愛」や「恵み」自体を偶像としてしまい、まことの神との対話を忘れます。それこそ滅びへの道です。

 

神は私たちのどんな罪をも赦してくださいます。ただ、「神が私を赦してくださるのは分かるけど、自分で自分が赦せない」というとき、それはつまり、「その人の偶像が赦してくれないと言っているのです」という解釈もあります。それは神以外の価値観を絶対化しているからです。

つまり、神の赦しを受け入れられないことも、また、神の赦しを当然の神の責任と思い込むことも、同じようにまことの神との対話を避ける偶像礼拝の罪なのです。

 

3.その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・

   11節からは、逆に、神がアブラハム、イサク、ヤコブへの契約のゆえに、イスラエルの民に再びあわれみを施してくださるという約束が記されます。「主の日」は確かに、イスラエルにとってはさばきの日であるとともに救いの日だからです。

そのことを主はここで、「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す」と言われます。

聖書では、ダビデ王国の復興に関しては多くの場合「ダビデの家」という表現が用いられます。その原点は、神がダビデに、あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束されたことです(Ⅱサムエル7:16)

 

それに対し、ここでは「仮庵を起こし」と記されています。それは当時のイスラエルの指導者たちが「象牙の寝台に横たわり・・ダビデのように新しい楽器を考え出す・・・最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことでは悩まない」という、贅沢で能天気な生活をしていたことをアモスが非難していたからだと思われます(6:4-6)

「仮庵」とは荒野のテント生活を思い出すもので、「その破れを縫い、その廃墟を復興し」というのも、贅沢な都市の繁栄を回復するというより、神にある秩序と平和の回復を意味します。

昔の日のように」というのも、ダビデが神と共に歩み、神にあって勝利し、神にあってイスラエルの人々に平和と繁栄をもたらしていた時代という意味です。

 

  そして、主がダビデの仮庵を回復してくださるという約束の目的が、「これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ(12)と説明されます。

エドムの残りの者」とは、この直後のオバデヤ書に記されているように、神がエドムをさばかれるということを前提に、その滅亡の中で残された者が回復された「ダビデの仮庵」に仕えるようになるという意味です。

そして、「わたしの名がつけられたすべての国々」という表現は、神の所有とされる国々を指します。ここの不思議は、ダビデ王国の回復のときに、今まで神の名がついていないと思われた国々にも神の名がついているということが明らかになり、それらの国々が、新しいダビデの支配に服するようになるという意味です。

つまり、アモスは、ダビデの仮庵の復興という控えめな表現を用いながらも、その回復されたダビデの国が、世界を治めることになると、壮大なことを語っているのです。

 

初代教会のエルサレム会議において、異邦人が割礼を受けないままで神の民とされるかという議論をしましたが、その際、主の兄弟ヤコブが立ちあがって、この箇所を引用しながら、神の民の枠がそのまま異邦人に広がることが神のみこころであると宣言しました。

なお使徒の働き1516-18節では以下のように記されています。

 

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

それは残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる」

 

ここでは、ダビデの「仮庵」が「幕屋」という礼拝の場の回復として描かれ、「エドムの残りの者」が「残った人々」と言い換えられています。

また、「すべての国々を手に入れる」という表現が、「異邦人がみな、主を求めるようになる」と記されていますが、それはアモス書を新約的な文脈で再解釈したものと言えましょう。

とにかく、初代教会の人々が、異邦人がどのように神の民となるかについて議論したとき、アモス書が最高の導きになったのです。

 

13節からは、「見よ。その日が来る」ということばとともにイスラエルの繁栄の約束が美しく描かれます。第一に、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」と描かれます。

近寄る」とは「追いつく」とも訳されることばで、原文では最初に一度だけ記されます。当地では、年に二回の雨季に合わせて耕して種を蒔くのが普通ですが、水分が豊富な土地に変わることで、刈り入れの直後に土地を耕して種を植えることができるというのです。

ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とは、ぶどうの成長があまりにも早いので、種を蒔くかたわらからぶどうの収穫がなされ、ぶどう酒をつくるための酒ぶねの中でぶどうを踏むという作業がなされるというのです。

そして、山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」とあるのは、本来、水が不足して不毛になりがちの高地でも、豊かな日照と共に、ぶどうが驚くほど豊かに育つようになるという意味です。

 

 そして主は、「わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする(14)と力強く保障してくださいます。これは厳密には、「わたしはわたしの民イスラエルの囚われ人を帰らせ(フランスコ会訳)と訳した方が良いかもしれません。

とにかく、「繁栄を元どおりにする」ことの具体的な現れとして、「彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」と描かれます。これは511節に描かれた神のさばきの逆転です。

なお、申命記283033節では、神ののろいを受けた悲惨が、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである」と記されていました。

それに対し、イザヤ書ではのろい」が「祝福」に変わる「新しい天と新しい地」の約束では、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない・・彼らは無駄に労することもなく」と描かれています(イザヤ65:21-23)

 

最後に主は、「わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはないと約束されます。これは、イスラエル民が神のさばきを受けて約束の地から引き抜かれることを前提に読まれる必要があります。

そして、この書は、「仰せられる、ヤハウェ、あなたの神で終わっています。そして、これは先に「わたしは、わたしの民イスラエルの・・・」と、主が言われたこととセットで理解すべきです。

 

このイスラエルの民と約束の地との関係は、私たちがキリストの贖いによってイスラエルに接ぎ木され、「神の民」とされ、「新しい天と新しい地を受け継ぐ」ということで現されます。

永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」のいのちが今から始まっているという意味です。

イエスはこれを前提にご自身と弟子たちとの関係を、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことがありません」(ヨハネ10:28)と言われました。

私たちも約束の地から「引き抜かれる」ことがないのです。

 

  三人の有名なハリウッドスターの友人だったコラムニストが、「人がセレブになった瞬間は、そいつがモンスターになった瞬間ってこと・・かつてはいっしょにいても本当に楽しいすばらしい人だったのに、今や、彼らが爆発させる怒りときたら、ただもんじゃない・・芸能界で名誉を保つためのプレッシャーが、もともとあった弱さや欠点を倍増させた」と書いています。

人がこの世界である種の成功を収めることは、その人の堕落の始まりということがあります。神は私たちに適度な失敗や困難を与えてくださいます。それはすべて、私たちを謙遜にし、神なしには、真の豊かさも平和も平安も味わうことができないということを知らせるためです。

アモスの預言は、残念ながら北王国イスラエルでは見向きもされませんでした。しかし、それはその後に滅亡したユダ王国を通して私たちに伝えられました。

神は、一時的なバブルのような繁栄を享受していたイスラエルの民に、目に見える成功と繁栄の中で、忘れされられたものに目を向けるようにと語り続けておられました。これこそ、現代の私たちへのメッセージです。

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2013年7月14日 (日)

アモス書7,8章 「きょう、もし御声を聞くならば・・」

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  宗教改革者マルティン・ルターは、繰り返し、「救いはただ、一方的な主の恵みによる」ということを宣べました。しかし、彼に始まったドイツのルター派教会は、主の恵みを当然の権利と思うようになって、世俗化して行きました。

そのような中で、ヒットラーと戦ったボンヘッファーは、「安価な恵みは、われわれの教会にとっての許すべからざる宿敵である・・安価な恵みとは、見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し、慰め、聖礼典のことである・・・安価な恵みは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり・・罪の告白抜きの聖餐であり…服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となりたもうたイエス・キリスト不在の恵みである」と言いました。

 

ルターは全世界を敵に回してでも、神のみことばに服従しようとしました。そして、そのただ中で神の赦しを体験し続けたのです。

赦しが当たり前になってしまうと、福音のことばは死ぬのです。そこに宣教の難しさがあります。

 

  神は、北王国イスラエルの偶像礼拝の罪にみこころを痛めながら、さばきを先延ばしにしておられました。しかし、そのような中で彼らは、預言者の警告を聞きながら、主の赦しを既得権益かのように理解し、主を恐れることを忘れ、周辺の国々が礼拝している神々を恐れるようになりました。

これは、私たちが主への礼拝よりも、この世的な都合を優先することと同じです。主のみことばに心が反応しなくなってしまうことは、恐ろしい堕落の始まりです。

 

1.「主(ヤハウェ)はこのことについて思い直し」

7147節、81節の四回にわたって、「主は、私にこのように示された」ということばとともに主からのさばきの幻がアモスに示されます。第一は、「見よ。王が刈り取ったあとの二番草が生え始めたころ、主はいなごを造っておられた」という幻です。

原文ではまず、「主はいなごを造っておられた」と記されます。これは主ご自身が「いなご」を大量発生させ、イスラエルの収穫を失わせるという意味です。

その時期は、「二番草が生えはじめたころ」、大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる春の終わりころです。また、「王が刈り取った後」とは、一番目の刈取りが基本的に王家のものとされ、この第二の収穫が民衆のものとされるからです。イスラエルはこの後、約6か月間は雨が降りません。この二番目の収穫がいなごに食われてしまったら、多くの民は餓死するしかありません。

 

それで、「そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき(2)、アモスは、「主、ヤハウェよ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです」と必死に訴えました。

 

  それに対して、「(ヤハウェ)はこのことについて思い直し」たと記されます。これは、「主が悔い改めた」とも訳すことができることばです。

出エジプト記32章には、イスラエルの民が、モーセがシナイ山に上っている間に、金の子牛を作って拝み、それに対して、主の怒りが燃え上がり、イスラエルの民を断ち滅ぼすと告げられた場面があります。そのとき、モーセが必死に主に嘆願しましたが、それに対する主の反応が、「すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された(14)と描かれています。

そして、それは繰り返し聖書に出てくる主の対応でもあります。そして、預言書の中で最も古いアモス書にもこの記事が記されていることは興味深いことです。

 

多くの人々は、「主の永遠のご計画」と言うと、変更されることのない、ときに冷酷な運命のようなものを思い浮かべますが、主のみこころとは、そのようなものではありません。主は何よりも私たちとの対話を望んでおられるからです。

とにかく、主は、私たちが真剣に泣いて訴える時に、ご自身のご計画を変えてくださることがあるというのです。そして、このときも主(ヤハウェ)は、「そのことは起こらない」と言われました。主はみこころを変えられたのです。

 

 4節では続けて第二の幻のことが記されます。そこで、「主、ヤハウェ」は、アモスに、「見よ。主ヤハウェは燃える火を呼んでおられた。火は大淵を焼き尽くし、割り当て地を焼き尽くそうとしていた」というのです。

「大淵」とは、創世記12節の「大水」と同じ言葉です。つまり、主からの火は、どんな火をも飲み込むはずの大水さえも一瞬のうちに蒸発させてしまう威力を持ち、それが主からのイスラエルの割り当て地を焼き尽くすというのです。

 

  それに対してアモスは再び、「主、ヤハウェよ。どうか、おやめください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです(5)と、先とほとんど同じ言葉で訴えました。

それに対する反応が先と同じように、「主(ヤハウェ)はこのことについて思い直し」と記され、その上で、「『このことも起こらない』と主ヤハウェは仰せられた」、と描かれています。

二度に渡って、主はアモスの訴えを聞いて「思い直され」、わざわいを思いとどまられたというのです。

 

2.「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」

 7節からは三番目の幻が記されますが、これまでとはまったく異なった展開になります。まず、「主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた」と描かれます。

「重りなわ」とは、新共同訳では「下げ振り」とも訳され、なわの先に重りをつけたもので、これを下に垂らすことによって、城壁が地に対して直角に立っているかどうかを測ることができます。傾いた城壁はやがて崩れます。

そしてこのときの幻は、アモスに理解しがたいものでしたから、泣いて主にすがるということはできませんでした。

 

その代わりに、ここでは主ご自身が、「アモス。何を見ているのか」と尋ねます。彼が、「重りなわです」と簡潔に答えると、主は、「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない(8)と言われました。

これは、主がイスラエルがどれだけ神のまっすぐな基準から離れてしまっているかを明らかにし、ご自身のさばきを以前のように「思い直すことはない」という意味です。

 

そして、「イサクの高き所は荒らされ(9)とは、北王国イスラエルの中で、ヤコブの父イサクを崇敬する不思議な礼拝が生み出されていたのだと思われます。55節では、「ベエル・シェバにおもむくな」、814節では「ベエル・シェバの道」という表現がありますが、そこはイサクの生誕地ですから、彼らが勝手に作り出した礼拝形式を非難したものと思われます。

また続く、「イスラエルの聖所」は複数形ですから、北王国が南王国ユダに対抗して勝手に作り出したすべての礼拝施設を、主ご自身が廃墟にするという警告です。

ヤロブアムの家」とは、当時のイスラエル王家です。そこに主ご自身が「剣をもって・・・立ち向かう」と言われることがどれほど恐ろしいことかを、当時のイスラエルの民は理解できませんでした。主を敵に回すということは、私たちの滅びを意味します。

  

そのような中で、「ベテルの祭司アマツヤ」は、「イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして」、「イスラエルの家のただ中で、アモスはあなたに謀反を企てています。この国は彼のすべてのことばを受け入れることはできません」と伝えました(10)

ベテル」は、北王国イスラエルの中心の礼拝の場所でした。初代ヤロブアム一世は、エルサレム神殿に対抗するために、金の子牛、二つを作って、その一つをベテルに据えて、イスラエルの民がエルサレムに上らなくても済むようにさせました。それは何よりも、主の怒りを引き起こしましたが、主は忍耐をもって、彼らの悔い改めを待ち続けていました

とにかくこのとき、そこの「祭司のアマツヤ」が、当時、イスラエルの領土をソロモン時代の広さにまで回復させたと言われる偉大な王ヤロブアムに向かってアモスを訴えたというのです。

 

  そして、アマツヤは、アモスが、「ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く」と預言したと告げました(11)。アモスは確かに繰り返しイスラエルが滅ぼされ、捕囚とされるということは告げましたが、ヤロブアムは剣で死ぬと個人を指して告げたことはありません。実際、ヤロブアムは剣で死んではいません。

アマツヤは敢えてヤロブアムの怒りを引き起こすような表現を勝手に作り出して、王に訴えたと言えましょう。

 

  そして、アマツヤはアモスに、「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな」と命じました。アモスは南王国ユダからわざわざ北王国に出てきて預言をしていましたから、アマツヤは彼に向かって、自分の生まれ故郷に帰って、そこで預言活動をしろと言ったのです。

そしてそれに続く、「ここは王の聖所、王宮のあるところだから」という言い方には、「ここは俺の縄張りだ」という思いが込められていたのではないでしょうか。

アマツヤには、神のみこころを知らせるのが預言者の使命であるという意識はありませんでした。彼にとっての祭司の働きとは、王国の宗教儀式を司るということに過ぎなかったのです。

 

  それに対して、アモスはそれまでの人生を紹介するかのように、「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた」(13)と言います。

つまり、彼は自分の意志や職業的使命感で行動しているわけではないというのです。そればかりか、「ところが、主(ヤハウェ)は群れを追っていた私をとり、主(ヤハウェ)は私に仰せられた」と、あくまでも、自分の意志を超えた主の主導権を強調して、主ご自身が彼に、「行って、わたしの民イスラエルに預言せよ」と仰せられたという打ち消すことのできない事実を知らせます。

 

その上で、アモスは反対にアマツヤが主のみこころに逆らっているということを、「今、主(ヤハウェ)のことばを聞け」と言いつつ、「あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって預言するな』と言っている」と、彼が主の働きを妨害して、イスラエルの民が主のみことばを聞く機会を奪おうとしているということを非難しました。

 

残念ながら今も昔も、偽宗教家は、主のみことばがそのまま告げられることの邪魔をします。しかし、主はそのような教師に最も厳しいさばきをなされます。

ですから使徒ヤコブも、「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と言いました(ヤコブ3:1)

そして、ここでも主は、アマツヤに向かって、「あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測りなわで分割される。あなたは汚れた地で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く」と言われます。

そのさばきは息子や娘にまでおよび、彼の土地も奪われ、彼自身も捕囚として外国に引っ張って行かれその地で死ぬというのです。それと同時に、その同じことがイスラエルの民全体に及ぶということが警告されています。

 

3.「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。」

81節からは四番目の幻がアモスに示されます。それが、「そこに一かごの夏のくだものがあった」と、一言で描かれます。

それに主は、「アモス。何を見ているのか」と尋ね、アモスは「一かごの夏のくだものです」と、また簡潔に答えます。

それに対して、主(ヤハウェ)はアモスに、「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」と、言われます。

夏のくだもの」はヘブル語で「カイーツ」、「終わり」は「ケーツ」と呼びますから、ここに言葉遊びが見られます。どちらにしても、「夏のくだもの」は、一年の収穫の最後を飾るもので、まさに「終わり」を象徴します。

そして、ここでも78節と同じように、「二度と・・・見過ごさない」と言われます。

 

  そして、主はさばきの日のことを、「その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる・・多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる」と恐ろしい光景が描かれます。

あまりにも多くの死体を前に、人は恐れを抱いて、「ハーシュ」としか言えません。このことばは、610節でも「口をつぐめ」と訳してきましたが、これは日本語で、「シーっ」と言うことばに似ています。たとえば、親が幼児に向かって、「静かにしなさい」と言うと、それは一つの会話ですから、「どうして?」などという、子供の会話の応答を引き出します。それに対し、親が子供に口をつぐむサインとともに「シーっ」と言うと、そこに沈黙が生まれます。

ことばにならないことばこそ、最も大きな意味を通じさせます。

 

そして、4節から主のさばきの宣告が、「聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ」という非難とともに、社会的弱者を虐げている人々に対して語られます。

彼らは、「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが」と言っているというのです。

新月の祭り」「安息日」は、すべての仕事を休んで主を礼拝する日ですが、それは同時に奴隷たちや社会的弱者にも休息を与えるとともに、食物を分ち合う日でした。

ところが、イスラエルの貴族たちは、そのような日があることを疎ましく思い、もっと休みなく奴隷をこき使い、お金を稼ぎたいと願って、そんなことばを交わしていたのです。

 

また、彼らは心の中で、「エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう」と言います。「エパ」は穀物などをはかる約22リットル入りの器、「シェケル」は約11グラムの銀を測る量りですが、それを誤魔化して利益を得ようというのです。

しかし、はかりや分量においての不正こそ、神の聖さに真っ向から反することでした。

 

  しかも彼らは「弱い者を金で(買い)、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために(6節、カッコ内は原文にない言葉)などと、不正な取引で儲けたお金で、貧しい者を一足のくつと同じ安い値段に買いたたきながら奴隷としました。そればかりか、彼らは売り物にならないはずの「くず麦」を欺いて売っていました。

 

  それに対して主(ヤハウェ)は、「ヤコブの誇りにかけて誓われ」ながら、「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れないと言われます。

神が彼らの悪い行いにそのように言っておられるのは恐怖です。

 

そして、主は、「このために地は震えないだろうか。地に住むすべての者は泣き悲しまないだろうか。地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように、みなぎっては、また沈まないだろうか」と言われます(8節)。

主は74節で、イスラエルの地を焼き尽くす幻をアモスに見せながら、それを思い留まられ、「それは起こらない」と約束されました。しかし、それに代わる何らかのわざわいを起こさずには済ませられません。

そのことが、まず第一に地震の被害で、第二にはナイル川の氾濫で表現されます。すべての自然災害の背後に神の御手があります。

もちろん私たちは、「東日本大震災は神の罰だ」などと言ってはなりません。神のみわざに対して先走った解釈は慎まなければなりません。

しかし、同時に、ここではイスラエルの地震や洪水を通して、神がご自身の力を示しながら、彼らが神に立ち返って来るのを待っておられるということを決して忘れてはなりません。

 

  そればかりか、主は、「その日には・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせる(910)と言われます。

真昼に太陽を沈ませ」というのは詩的表現で、それが「日盛りに地を暗くする」こととして説明され、それは「祭りを喪に変える」のと同じ意味を指します。イエスの十字架の際に、全地が三時間にわたり暗くなったのは、この預言の成就で、被造物が喪に服したという意味だと思われます。

そして、「その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし」という表現の中に、神のひとり子イエスの受難が預言的に記されていると解釈することができます。

とにかく、ここは、神がご自身の怒りを被造物世界での天変地異を通して表現し、イスラエルの民も多くの人々の悲惨な死を前にして、「主の日」を「苦い日」と捉えざるを得なくなるというのです。

 

4.「主のみことばを聞くことのききん」

そして主は、11節で、「見よ。その日が来る」と言われながら、その主のさばきの日について、「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主(ヤハウェ)のことばを聞くことのききんである」と言われます。

主のみことばを聞くことへのききん」とは不思議ですが、これはイスラエルがアモスを通しての主のことばを聞くことを拒絶したことへの主からのさばきです。

イエスは、石をパンに変えてみろとの悪魔の誘惑に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とお答えになりました。

 

人は、しばしば、主のみことばよりもパンの方に魅力を感じます。しかし、世界が暗やみに満たされ、飢え渇きが日常的になり、目の前の人々が次々に死んでゆくような究極の悲惨の中では、自分は何のために、何を求めてなお生きている必要があるのかという人生の意味を求める渇きに満たされます。

皮肉にも無神論者ニーチェは、「生きる理由を持っている人は、ほとんどどんな事態にも耐えることができる」と言いました。そして、敬虔なユダヤ人の精神科医のビクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所の中で、それが真理であることを実際の体験を通して証しました。

そして、人は、主のことばがなければこの問いに対する答えを見いだすことはできません。

 

ところが、ここでイスラエルの民は、主のみことばを繰り返し受けていながら、それを自分から拒絶した結果、本当に、主の語りかけを聞く必要が出てきたときに、それをどこにも見出せなくなったというのです。その結果が、「彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主(ヤハウェ)のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない(12)と記されます。

ヘブル書の著者は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と三度も繰り返して、それを拒絶する者は神の安息に入ることができないと言いながら、最後に、「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」と記しています(4:12)

宗教改革者マルティン・ルターも「神はわれらが堅き砦」の三番目の歌詞の中で、「世界に悪魔が満ちて私たちを飲み込もうとしても・・たったひとつのみことば悪魔を滅ぼすことができる」と歌っています。主のみことばこそ悪魔と戦う最強の武器であることを忘れてはなりません。

もし、苦難の中でみことばがないなら、だれも苦難に耐えることはできないのです。

 

そして、アモスは最後の警告として、「その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない」と記します。

「サマリヤの罪過」を、NRS訳は敢えて、「Ashimah of Samaria」と訳していますが、それは罪過を意味するヘブル語のアシマーが、彼らが拝んだ偶像の神のアシュラに発音が似ているからです。

また、ダンはベテルと並んで金の子牛が安置された礼拝の中心地、ベエル・シェバの道は先に述べたイサク崇拝の偶像礼拝の場でした。彼らはみな神のみことばに渇きながら滅んで行くというのです。

 

私たちは人生の中で、何度か、絶望的な状況の中で、主のみことばが響いてきたという体験を持っているものです。ただ、残念ながら、その体験を「のど元過ぎれば熱さ忘れる」のように、自分の一時的な気迷いのように思ってしまっている人が数多くいます。

感動したはずのみことばの箇所すら忘れている人がいます。しかし、それこそ堕落の始まりです。神があなたに敢えて、悲惨な状況が起きるのを許されたのは、あなたがその中で、主に信頼することを学ぶことができるためだったのです。

私たちに求められているのは、そのように恵みの体験を繰り返し思い起こし、その体験を深めることです。

「きょう、御声を聞いていながら・・」、「この話はいつでも聞くことができる」と思うのは大間違いです。みことばが響くには、主が備えてくださった恵みの舞台が必要なのですから。

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2013年7月 7日 (日)

アモス5章18節~6章14節「幻想の中で主の日を待ち望む者へのさばき」

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  将来に対する私たちの見方は、そのときの気分によって大きく変わります。しばしば、鬱状態にある人は、「これから先、生きていても、何の良いこともないに違いない」と思い込んでしまいます。

反対に、勝利の気分に酔っている人は、「今まで辛いこともあったけど、これからは自分の世界が開けてくる。生きたいように生きればよいのだ!」という気持ちになります。

どちらの生き方も破滅を招き寄せてしまいます。

 

  聖書には、「主(ヤハウェ)の日」に関しての多くの記述があります。これは最後の審判ということ以前に、神のさばきが明らかになる日を意味します。それは、神がこの世の不敬虔に罰を下す一方で、虐げられている人に救いをもたらす日です。

ですから、これは、ある人にとっては苦難の日になり、ある人にとっては喜びの日になります。あなたにとっての「主の日」はどのような日になることでしょう。

ただ、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われました。自分の心の貧しさを自覚する者にとって、それは喜びの日です。

 

1.「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」

 518節、61節はそれぞれ、「ああ」という神の嘆きのことばから始まります。新共同訳やフランシスコ会訳では「災いだ」と訳されています。そしてそのように思われている対象が、「(ヤハウェ)の日を待ち望む者」と記されています。

これは預言書に繰り返し登場する「主の日」の記事の中で最も古いものではないかと思われます。当時は、「主(ヤハウェ)の日」を、(ヤハウェ)がイスラルの敵を滅ぼしてくださる勝利の日だと思われていました。それは、申命記3235節で、「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ」と記されていることに基づいていました。

 

それに対し、ここでは、「ああ(災いだ)。主(ヤハウェ)の日を待ち望む者。主(ヤハウェ)の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない」と宣言されます。それは、イスラエルの神ご自身が、イスラエルの敵をさばく前に、ご自身の民の不信仰の罪をさばかれるからです。

このときの北王国イスラエルは、バブル経済の真っただ中のような状態でした。たまたまアッシリヤ帝国が一時的に弱体化している中で、彼らは自分たちの繁栄を誇っていました。

そして、さらに、「主の日」に対する幻想を基に、周辺諸国に対する勝利に次ぐ勝利を待ち望んでいました。それに対し、主はアモスを通して、彼らの国の滅亡を告げているのです。

 

そして、その主のさばきが避け難いことを、「人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである(5:19)と記されています。彼らに逃げ場はありません。

 

  20節では18節のことばの言い換えが記されていますが、これは厳密には、「(ヤハウェ)の日はやみではないのか、それは光ではない。それは暗やみであって、そこに輝きはない」と訳すことができます。

 

  そして、主はイスラエルの礼拝自体を退けるということを、「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない(5:2122)と言われます。

イスラエルの民は神を喜ばすためにこれらの祭りを盛大に祝い、多くの犠牲を払ってささげものを携えて来ているのに、神はそれらを受け入れないというのです。これは驚くべきことです。

これはたとえば、多額の献金をささげる人に向かって、「お前の献金など、受け取りたくない!」と言うようなものだからです。それは、その献金が、社会的弱者を虐げ、搾り取るようにして集めたものであったり、また、神の特別な好意を勝ち取ろうとする魂胆が見えるような場合に今も起きることではないでしょうか。

 

そればかりか主は、「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」と言われます(5:23)

彼らは神に喜んでいただけると思って必死に歌い、琴を奏でているのですが、それは神をご不快にさせる騒音に過ぎないというのです。

 

そして主はイスラエルの民に向かって「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」5:24)と言います。

公義」とは「公正なさばき」のこと、「正義」とは「道徳的な正しさ」「まっすぐさ」を意味します。

水のように・・・いつも水の流れる川のように、流れさせよ」というのは、公義や正義が、まったくめずらしいことではなく、いつでもどこにでも見られるようにすることこそ神の願いであるというのです。

 

つまり、神が求めるのは、私たちが神のためにどれだけの時間や財をささげたかということよりも、隣人に対して、どれだけ公平な態度で接し、誠実を尽くしてきたかということなのです。

 

2.「わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す」

525-27節は初代教会の最初の殉教者であるステパノが、イスラエルの罪を思い起こさせるために引用した箇所です(使徒74243節参照)

まず、「イスラエルの家よ。あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか」と記されていますが、イスラエルは荒野の四十年の間、天からのマナで養われる必要がありましたから、様々ないけにえの規定が語られたにも関わらず、現実には、彼らはほとんどいけにえをささげることができませんでした。神はその時代に、何よりも彼らの心を求めていたのです。

ですから、ここでは、神はいけにえよりも、彼らの心を求めていたから、いけにえがささげられなくても彼らに怒りを発せられなかったという意味に受け止めることができます。

 

しかし、同時に、彼らはそこで心から神を礼拝する代わりに、「あなたがたの王サクテと、あなたがたのために造った星の神、キウンの像をかついでいた」というのです。

神々の名前は、使徒の働き7章では「モロクの幕屋とロンパの神の星」となっていますが、それはギリシャ語七十人訳によったものです。

あなたがたの王」ということばはミルコムと記され、幼児の犠牲にいけにえを求めるアモリ人の神モレクと理解され、サクテは「幕屋」と読み変えることもできます。「星の神」とは土星を指すとも言われます。

この箇所の翻訳は困難を極めますが、アモスもステパノも、イスラエルの民は大昔から霊的な浮気ばかりを続けていたと非難したという点ではまったく同じです。

 

  なお、アモスはその霊的浮気に対するさばきを、「わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す」と「その名を万軍の神、主(ヤハウェ)という方が仰せられる」と記します。

その一方で、ステパノはギリシャ語七十人訳からも離れて、「それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す」と記しています。

まるで北王国イスラエルに対するさばきと南王国ユダに対するさばきを混同したかのようにも見られますが、ステパノはそこで、二つの王国を敢えて区別することなく、神がご自身の民をさばかれたという点に人々の目を向けさせたのです。

 

3.「あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている」

6章の初めで再び「ああ」という神の嘆きのことばが記されています。そして、「シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者、イスラエルの家が行って仕える国々の最高の首長たち」に対する神のさばきの警告が記されています。

「シオンで安らかに住んでいる者」というのは南王国ユダに対するさばきです。また、「サマリヤの山」とは北王国イスラエルの中心があるところです。ふたつの場所とも、天然の要塞のようになっており、イスラエルの民はそこで自分たちの指導者に安心して仕えていました。

国々の最高の首長たち」ということばは、彼らが高ぶって自分たちのことをそのように見ていたという皮肉を込めて言ったという意味だと思われます。

 

そして、主は、イスラエルの周辺の国々に起こる悲劇を予告しながら、彼らの愚かな安心感を打ち砕こうとして、「カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか(6:2)と言われます。

カルネ」とはイスラエルの北、ユーフラテス川の上流にある繁栄した町であり、「大ハマテ」はその南にある繁栄を誇った町、また「ぺリシテのガテ」もイスラエルの南にあって非常に栄えた町です。これらの町は、アモスの後の時代にアッシリヤ帝国によって滅ぼされますが、この時代にすでにこれらの国々は危険な状況にあったことが誰の目にも分かったという意味かと思われます。

領土の広さから言ったら、このときの北王国イスラエルはこれらの国々よりも大きかったように思われますから、この言い方にはわからない面もありますが、主はとにかく北王国イスラエルのリーダーたちの安心感がまったく根拠のないものであることを指摘したということは明らかです。

 

そして、主は彼らに向かって、「あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている(6:3)と言われました。これは愚かな安心にふけっている者に、危険に満ちた現実を直視するようにと命じたものです。

彼らは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)にいけにえをささげると同時に、周辺の国々の神々にも気づかって、いけにえをささげていました。彼らはそうすることで、「わざわいの日を押しのけている」と愚かにも思い込んでいたのです。今も、人の顔色ばかりを見て、神の眼差しを忘れている人がいるかもしれません。

 

そして、主は彼らの贅沢な生き方を、「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている」と描いています(6:4)

彼らは当時の最高級の家具をそろえる贅沢にふけっていましたが、その一方で、「貧しい者を踏みつけ、彼らから小作料を取り立て(5:11)貧しい人々に羊や牛の世話をさせながら、それらの中から最上のものをとって自分たちの食糧にしていました。

 

また、「彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す(6:5)とは彼らが祝宴の中で音楽を楽しむ様子を描いたものです。

彼らは生産活動を貧しい人々に任せながら、ダビデの外見的な贅沢さだけを真似ていました。

しかし、ダビデの場合は、主への心からの賛美をささげるために「新しい楽器を考えだす」ことに熱くなっていたのですが、彼らは祝宴の余興のために楽器の開発に忙しくしていました。

 

  「彼らは鉢から酒を飲み」(6:6)とは、日本語流には「茶碗酒を飲む」(おちょこの代わりに茶碗で酒を飲む)という感じです。

また、彼らは祝宴のために最高の贅沢として「最上の香油を身に塗る」のですが、それはまさに今が楽しければよいという刹那的な生き方でした。

 

そして彼らは「ヨセフの破滅のことで悩まない」とあるように、自分の国の将来に対しての危機感を持とうとはしていませんでした。

ヨセフの破滅」と記されているのは北王国の中心部族が、マナセとエフライムというエジプトの宰相にまでなったヨセフの息子たちから始まったからで、その名門部族が滅びるということを強調するためでした。

 

そして、アモスは北王国イスラエルを襲う破滅を、「それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる(6:7)と描きます。

これはアモスの預言から約30年後に文字通り実現してしまいました。神はご自分が選ばれた民を、異教徒の手に渡してしまわれたのです。

 

4.「あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた」

そして、このことを改めて厳しく警告するために、「神である主は、ご自分にかけて誓われる」と、不思議な表現を用いながら、それがまた「万軍の神、主(ヤハウェ)の御告げ」であることを明確にしながら、「わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す」と言われます。

そして、その悲惨が一時的ではないということを、「一つの家に十人残っても、その者たちも死ぬ」と描かれます。

 

なお、10節では「親戚の者でこれを焼く者が家から死体を持ち出すために、これを取り上げ、その家の奥にいる者に向かって」、「あなたのところに、まだいるか」と問うことに対して、「だれもいない」と答えながら、同時に、「口をつぐめ。主(ヤハウェ)の名を口にするな」と言う不思議な場面が描かれています。

これは、誰が誰に向かって語っていることばかについてはいろんな解釈がありますが、(ヤハウェ)の名を口にするだけで、死のさばきを招いてしまうという極度の恐怖の状況に置かれてしまうということを描いていることだけは確かです。

 

 そして、それが単なる杞憂ではないことが11節では、「まことに、見よ、主(ヤハウェ)は命じる。大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ」と描かれます。

主のさばきを押し止めることは誰にもできません。私たちはただひざまずいて主がみこころを変えてくださるようにと泣いてすがることしかできません。

 

「馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか(6:12)は非常に訳しにくいことばです。NIVでは、「Do horses run on the rocky crags? Does one plow there with oxen?」(馬は切り立った岩の上を走るだろうか。人は牛でそこを耕すだろうか)と訳していますが、その方がこの箇所の意味をうまく描いていると思われます。

それは、自然の秩序をどんな愚かな者でも理解しているという意味です。

 

その上で、主は彼らに向かって「あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた」と言われます。それは彼らがどんな愚かな人間もしないような破壊的なことを行なったという意味です。

公義を毒に変え」とは、社会的弱者を守るはずの「公正なさばき」を彼らを虐げることを正当化する毒に変えたという意味です。今も、権力の横暴を規制するはずの憲法を、国民の自由を規制する法律にしようとする勢力が力を持っています。

 

また、「正義の実を苦よもぎに」とありますが、聖書では「苦よもぎ」は苦痛をもたらす毒草と理解されています。黙示録81011節では御使いがもたらす災いとして、苦よもぎと呼ばれる星が天から落ちて地の川の三分の一を苦よもぎのようにして、多くの人々が死ぬということが描かれています。

要するにここでは、正義がもたらす麗しい実を、イスラエルの民は人を害する毒草に変えたと非難されているのです。

 

 ところがイスラエルは、自分たちのうちにある問題を見る代わりに、目先のこと、つまり、自分たちの軍隊の勝利のことばかりを喜んでいるというのです。

ロ・ダバル」とはガリラヤ湖の南東のアラムとの係争地を確保したことを喜んだものです。

また、「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と言うとは、彼らが伝統的なアラムの支配地であるカルナイムを占領したことを誇っていることを非難したものです。

 

  そして、主のさばきのことばが最後に、「まことに、イスラエルの家よ、今、わたしは一つの民を起こしてあなたがたを攻める。─万軍の神、主(ヤハウェ)の御告げ─彼らはレボ・ハマテからアラバの川筋まで、あなたがたをしいたげると記されます。

レボ・ハマテとはレバノン山脈の南の境でアラムの首都ダマスコよりもはるか北の地、ソロモン王国の北限だった地です。また、アラバの川筋とは死海とアカバ湾の間に位置する渓谷だと思われます。

 

Ⅱ列王記1425節では、アモスの時代の王ヤロブアム二世の業績が、「彼、レボ・ハマテからアラバ(死海)の海までイスラエルの領土を回復した」と描かれています。

しかもそこには、それは主が「アミタイの子ヨナ」を通して約束された通りであり、それは「(ヤハウェ)イスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたから・・・ヤロブアムによって彼らを救われた」と描かれていました(2627)。しかし、それが完全に逆転するというのです。

 

  皮肉なのは、そこに記された預言者ヨナは北王国の繁栄を預言した後、主に召されてアッシリヤの首都ニネベに行き、主のさばきを宣告しました。その際、ニネベの人々はそろって悔い改めました。そして、アッシリヤはその後、急速に国力を回復し、イスラエルを滅ぼします

人間的に見ると、ヨナがニネベに行って主のことばを宣べ伝えなければ、北王国は滅亡せずに済んだということになります。そこにヨナの葛藤がありました。

どちらにしても、北王国はヨナの預言が実現して繁栄を享受した時に、主に感謝して立ち返りはしなかった一方で、アッシリヤはヨナの預言によって悔い改めて、国力を回復しました。すべては、主のことばへの反応にかかっていたのです。

 

私たちの目の前の状況によって傲慢になったり、また卑屈になったりする代わりに、いつでもどこでも、ただ主だけを見上げて生きるべきでしょう。世界の歴史は主のみことばどおりに動いて行くのですから・・・。

ペテロの手紙第二37,10-13節は次のように訳すことができます。

 

「今の諸天と地は、同じみことばによって、火のために(火できよめられるために)蓄えられており、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです・・・(「諸天」は「天」の複数形、パウロは第三の天に引き上げられたこともある(Ⅱコリント12:2)と言っていますが、何層にもなった天の秩序を神はきよめられます)

 

しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日には、諸天は大きな響きをたてて過ぎ去り(消えるというより変えられる)、その構成要素は焼かれて(絆を)解かれ、地と地のいろいろなわざは明らかにされます(新改訳脚注「見つけ出される」とありますが、その解釈の方が一般的になっており、ここは隠された罪が暴かれ、良い働きが評価されるという意味です)

 

このように、これらのものはみな解かれる(それまでの秩序が無くなる)のだとすれば、あなたがたは神の日の現れを待ち焦がれながら、どれほど聖い生き方と敬虔さの中に留まる必要があることでしょう。そのときには、諸天は燃やされて解かれ、その構成要素は焼かれて溶けるのです。

しかし、新しい諸天と新しい地とを、主の約束に従って、私たちは待ちます。そこには、正義が宿っています」

 

この世界は火で燃やされて消えてなくなるのではなく、火によってきよめられ、今までの絆が解かれ、まったく新しい秩序の世界へと変えられるのです。

しかも、興味深いのは、地に関しては焼かれるのではなく、その隠された行いもすべて明らかにされると記されていることです。それは、主が何よりも、私たちの地上の歩みに関心を持っておられるからです。

天が焼かれ、地のわざが暴かれるというのは何という不思議な対比でしょう。私たちはこの地上に満ちた不条理の中で天に憧れますが、その天は形を失います。私たちはそれに対して何もすることはできません。

しかし、この地に対しては、私たちは放射能で汚染させることも、美しい環境を整え保護することも含め、あらゆることをなすことができます。

この地でなすわざは、消えるのではなく、良いことも悪いことも明らかにされるのです。主にある労苦は無駄にはなりません。私たちはこの世界に住み、正義が支配している新しい諸天と新しい地を待ち望みながら、この世的な計算や期待から自由な、神の基準に従った生き方をしなければなりません。

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