« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月25日 (日)

ヨナ1,2章 「主の御顔を避けることの愚かさ」

                                                  2013825

僕の郷里の近くから育った一学年上の歌手、藤圭子さんが痛ましい死を遂げました。「十五、十六、十七と私の人生暗かった・・・一から十までバカでした、バカにゃ未練はないけれど・・・夢は夜開く」という人生を投げ出したような歌詞が、心に焼き付いています。演歌というより怨歌と呼ばれた歌い方には、人生の不条理に対する彼女の怒りが込められていたのかもしれません。中学時代は勉強が好きで評判になるほど成績が良かったのに、流しの旅芸人のような親に振りまわされて進学をあきらめ、歌がヒットしてもお金は父親の博打に消えて行きます。

預言者ヨナも神のみこころに従うよりも死ぬことを望んでいました。彼は神に向かって最後に、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と訴えています(4:9)。それは愛国心に燃えながらも、神のみこころに翻弄される自分の身を嘆いたものかもしれません。そして、私たちも主のみこころを知りながら、主の御顔を避けるという思いになることがあるかもしれません。そのようなとき、このヨナ書の記事は、私たちの生き方に大きな示唆を与えてくれます。

 

1.ヨナ書の時代背景

  ヨナ書がいつ誰によって記されたかはわかりませんが、本書はヨナ自身の報告に基づいて記されています。預言書の中で一番古いのはアモス書と言われますが、ヨナ書が扱っている時代は、アモスよりも若干古いと思われます。なぜなら、アモス書では北王国イスラエルがアッシリヤ帝国によって滅ぼされることが示唆されていますが、ヨナ書ではその首都ニネベで大きな悔い改めが起こって国力が回復したことの背景が記されているからです。

ヨナは異邦人伝道のパイオニアとも見られ、私たちの主イエスも、ヨナをご自身の働きの先駆けとして引用しておられるほどです(マタイ12:39-41)。しかもヨナの使命は本来、イスラエル王国全体の使命を現したものとも言えましょう。なぜなら、イスラエルは全世界にその神ヤハウェを紹介する「祭司の王国、聖なる国民(出エジ19:6)として召されていたからです。しかし、彼らにその意識はまったくありませんでした。それはヨナも同じです。

  なお、預言者ヨナの預言活動は、預言者エリシャに助けられて国力を回復した北王国イスラエルの王ヨアシュの時代と少し重なると思われます。なぜなら、ヨアシュの子ヤロブアム二世(紀元前782年~753)の働きに関して「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それはイスラエルの神、主(ヤハウェ)がそのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。主(ヤハウェ)がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由人もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。主(ヤハウェ)はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである」と記されていたからです(Ⅱ列王記14:25-27)。

ヨナの出身地のガテ・ヘフェルというのはガリラヤ地方の町ですから、彼は預言者エリシャの弟子から訓練を受けていた可能性もあります。しかも彼は北王国イスラエルの国力回復を預言したことで、人々から尊敬されていたことでしょう。預言者エリシャは、北王国の偶像礼拝の罪を厳しく断罪しながらも、北王国が周辺諸国の攻撃から守られるように、主の導きによって様々な驚くべき奇跡の数々を行ないました。預言者ヨナもこのエリシャの活動を引き継ぐように、北王国イスラエルに対する神のあわれみと、主にある勝利を預言していました。

そしてその頃、北王国イスラエルに北から迫ってきた超大国がアッシリヤ帝国です。愛国的預言者ヨナのそれまでの預言活動からすれば、悪の代名詞とも言えるニネベが残された世界で生きるよりは死んだ方がましと思えたことでしょう。私たちの目の前にも許し難い悪が存在するかもしれません。ところが、神はそのような悪が生き残る道を開くことばをヨナに宣べさせようとします。ヨナは神に対して怒っています。それは私たちがこの世の悲惨を放置する権力者や終息の目処が立たない原発事故放射能汚染に死ぬほど怒っているのと同じかもしれません。

 

2.「しかし、ヨナは、主(ヤハウェ)の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし」

  原文の書き出しは、「主(ヤハウェ)のことばがあった。アミタイの子ヨナに」と記されています。これはヨナに突然に予想もしない主のことばがあったことを示しています。そして、その内容は、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ」というものでした。イスラエルの繁栄を預言していたヨナにとっては受け入れがたい命令と思えたことでしょう。「彼らの悪」が主の前に「上って来た」というなら、主ご自身がさっさとさばきを下してくださると良いのです。そうするとイスラエルの将来が開かれます

しかし、ヨナがニネベに対する主のさばきを叫んで、もし、万が一にも、彼らが悔い改め、主が「わざわいを思い直される(4:2)ならヨナの預言が嘘になるばかりか、イスラエルの将来に暗雲が立ち込めます。アッシリヤは紀元前1450年ごろ生まれた国ですが、イスラエル王国が二つに分かれて間もなくの頃から急速に勢力を広げ紀元前840年頃にはアラム(シリヤ)の首都ダマスコを征服します。ただその後まもなくして地方の反乱に悩まされ、無能な王のもとで勢力を失い、紀元前765年と759年には記録的な大飢饉に襲われ、その間の紀元前763615日は皆既日食がニネベで起きたと言われます。それは当時の人々に恐ろしい不安を呼び覚ましました。なお、ニネベはアッシリヤ帝国の首都で、それは現代のイラクの北限地帯、ティグリス川沿いの当時の世界最大級の町でした。この時期にヨナがこの町に神のさばきを訴えたなら、人々は真剣に耳を傾ける可能性がありました。

一方、アッシリヤの一時的な弱体化の中で、その南のイスラエルの王ヤロブアム二世はシリヤの地にまで勢力を伸ばすことができていました。アッシリヤのさらなる弱体化をヨナは心から願っていたことでしょう。

  そのような中でのヨナの次の行動が、「しかしヨナは、(ヤハウェ)の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、(ヤハウェ)の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」と記されます。ここでは「主(ヤハウェ)の御顔を避けて」ということばが繰り返されております。タルシュシュとは地中海の西側で現代のスペイン付近を指すと思われます。要するにニネベとは正反対の意味での当時の世界の最果てに向かって、主の命令から逃げようとしたというのです。

後でヨナは異教徒たちに向かって、「海と陸を造られた天の神」と主(ヤハウェ)のことを紹介しているので、この行動は何とも滑稽とも受け止められますが、それほどにヨナにとって主の命令は受け入れ難かったのでしょう。

それにしても当時の信仰の常識では、主(ヤハウェ)はあくまでもイスラエルの神であって、ご自身の御顔をカナンの地に向けておられると理解されていたので、御顔を避けるために貿易港のヨッパに下り、タルシュシュ行きの船に乗るということは、身体感覚にあった行動とも言えましょう。私たちも、頭の中では、主はどこにでも同時に存在されると思ってはいても、自分の職場や学校や地域には、主はいらっしゃらないという感覚を持つことがあるかもしれません。しかし、主はどこにおいてもあなたに目を留めておられます。しかし、私たちが罪の誘惑に負けている時には、まさに「主(ヤハウェ)の御顔を避けて」という気持ちになっているのではないでしょうか。

 

3.「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主(ヤハウェ)を恐れています」

  しかし、主(ヤハウェ)は、ご自身の御顔を避けようとするヨナに目を留め続けておられました。そして、そのことを気づかせるために、主は「大風を海に吹きつけられ」ました。そしてその後の状況が、「それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた」と描かれます(1:4,5)。興味深いのは、船を軽くするという手段を具体的に取るとともに、「彼はそれぞれ、自分の神に向かって叫び」という状況が起きたことです。

神のかたち」に創造された人間には、目に見えない神的な存在を求める心があります。それらを「それは偶像礼拝です」などと嘲る代わりに、その気持ちに寄り添う必要もありましょう。使徒パウロは、当時の文化の中心都市のアテネに入ったとき、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた」のですが、その気持ちを抑えて、「あなたがたを宗教心に熱い方々だと見ております」などと彼らに寄り添いながら、そこで「知られない神に」と記された祭壇を見つけたという話題を持ち出して、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と話し始めます。その上で、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」と言いながら、彼らが親しんでいる詩人のことばを引用しました(使徒17:16-28)。多くの日本人も、自分たちが拝んでいるもののことを知らずにいます。彼らが自分たちの拝んでいるものの頼りなさ、あいまいさに気づくときに、対話の道が開かれます。

ところがこのとき、ヨナは彼らの信仰心の目覚めにまったく無関心なように、また船が難破してもまったく構わないかのように、「船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた(1:5)というのです。彼は皆がパニックに陥っているのを尻目に、意図的にそうしたのです。これは「主の命令に従うくらいなら死んだ方がまし・・」という意志の現れです。死を心から願っているからこそ、嵐のなかでも「ぐっすり寝込んで」いることができたのでしょう。

  ところが、そのヨナに様子に驚いた「船長が近づいて来て」、「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさいと言いました(1:6)。船長はこのとき、「ヨナの神」に関しては何も知らなかったことでしょう。少なくとも死を望んでいたヨナはこのとき、「この嵐は自分の神が起こしているもの」という確信を持っているからこそ、敢えて居直って「ぐっすり寝込む」ことができました。船長はそのような雰囲気を感じたからこそ、ヨナが自分の神に祈り求めるという回心を求めたのかもしれません。それは「溺れる者、わらをもつかむ」というような心理でしょうが、彼はそこに「あるいは、(ヨナの)神が私たちに心を留めてくださって、私たちが滅びないですむかもしれない」と期待したというのです。皮肉にも、未信者の船長のことばにこそ神のみこころがありました。

そこで、みなはくじを引くことで、「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう」とし、その結果、それがヨナのせいであると知るようになりました。神はまさにこのとき、自然現象ばかりかその船に乗っている人々の心まで動かすことで、彼らの目をヨナという神の民に目を向けさせるようにしました。そして、彼らはヨナに、「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か(1:8)と矢継ぎ早に質問を投げかけます。

それに対して、ヨナは落ち着いて、「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神(ヤハウェ)を恐れています」と答えます(9)。次の10節を見ると、ヨナは自分が「(ヤハウェ)の御顔を避けてのがれようとしている」ということを説明してはいるのですが、ここでは何よりも自分が神の民であり、創造主である「(ヤハウェ)を恐れている」ということを強調したのだと思われます。彼はここに至って初めて、自分のまきぞいをくっていっしょに船に乗っているこの異教徒たちに同情を感じたのではないでしょうか。でも、不思議なのは、ヨナは自分の信仰を告白しながらも、主に祈ろうとはしていません。それは、彼が「(ヤハウェ)を恐れる」こと以上に、自分の国の行く末を心配し、アッシリヤ帝国の滅亡を望んでいたからではないでしょうか。敵国に主のみこころを伝えるぐらいなら死んでしまったほうがましだと願うほどに、偏屈な愛国者となっていたのです。ただ、このとき彼は、主(ヤハウェ)から逃亡しようとしているとしか理由を述べていなかったので、人々は「何でそんなことをしたのか」と問いかけたのだと思われます。しかし、ヨナはさすがに、「私はアッシリヤ帝国の滅亡を願っている」とまでは言えなかったのだと思われます。

たとえば第二次世界大戦の始まったころ、日本の福音的なキリスト教会においても、「キリストが私たちを罪から贖ってくださったのは、私たちが自分の身を天皇陛下にささげ、陛下のために死ぬことができるためである」とか、「神は真の信仰から堕落したアメリカやイギリスをさばくために日本を用いてくださる」という趣旨の文章が記されています。これは国家や天皇制を偶像化する教えです。目の前の政治は私たちの生活に直結しますので、人はそれぞれの立場でその政治理念に熱くなり、神の御名さえもそのために使ってしまいます。

ヨナは確かに誰よりも主(ヤハウェ)を恐れる信仰の持ち主だったことでしょう。しかし、問題はそれ以上に、国を守ることに熱くなっていました。それは国を偶像としてしまうことです。私たちも会社や家族を偶像化する恐れがあるのではないでしょうか。ですからイエスは不思議にも、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタイ10:37,38)と言われました。それは私たちがこの世の人々の期待に応える生き方をすることを絶対化してしまう可能性があるからです。

たとえば昔、私は職場において成功することが、何よりの証しになると考えていた時期がありました。それはまさに、神よりも仕事を偶像化した生き方になっていたのかもしれません。しかし、仕事を偶像化することは自分をこの世の人々の期待の奴隷に貶めることです。私たちは自由になるために召されたのです(Ⅰコリント7:21-23)

 

4.「人々は非常に主(ヤハウェ)を恐れ、主(ヤハウェ)にいけにえをささげ、誓願を立てた」

ここで興味深いのは、ヨナが自分の信仰を告白した時の反応が、原文では「それで人々は恐れ、非常に恐れて」と、「恐れる」ということばが重ねられ強調されていることです。彼らはヨナが「(ヤハウェ)を恐れている」と言ったことを受けて、ヨナよりもはるかに強く「主を恐れるようになった」ということかもしれません(1:16参照)

その後、船に乗っている人々はヨナに、「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか」と尋ねます。それは「海がますます荒れてきたから」でした。それに対し、ヨナは、「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです」と答えます(1:11,12)。しばしば誤解されますが、主がヨナにご自身の怒りを向けておられたことは確かですが、ここでヨナに求められていたのは、何よりも、主の御顔を避けて逃げようとしたことを反省して、主に助けを求めることだったのです。しかし、ヨナは、主のみこころに従うよりも死ぬことを選ぼうとしていました。

この提案に対し、船に乗っている人々は、ヨナを殺さずにすむ方法を求めようとして、「船を陸に戻そうとこいだ」のですが、「海がますます、彼らに向かって荒れた」ので、彼らはそれも諦めて、万策尽きた彼らは、自分たちの神々に祈る代わりに、ヨナの神、主(ヤハウェ)に願って、「ああ、主(ヤハウェ)。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主(ヤハウェ)よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです」と訴えます(1:14)。不思議にも、彼らはヨナとの対話を通して、まことの神に向かって祈るように導かれたのです。なお、「罪のない者の血」と言っているのは、たといヨナが無実であったとしても、その責任を自分たちに負わせないで欲しいという意味だと思われます。ヨナは彼らに自分を海に投げ込めと言いましたが、彼らはヨナを殺すことでヨナの神からさばきを受けることを恐れていました。

  その後のことが、「こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった」1:15)と描かれ、それに対する反応が、「人々は非常に主(ヤハウェ)を恐れ(1:16)と記されますが、この表現は基本的に10節と同じく「恐れる」ということばが重ねられて強調され、そこに「主(ヤハウェ)」と追加されています。その上で、「(ヤハウェ)にいけにえをささげ、誓願を立てた」(1:16)と描かれます。彼らは最初、嵐の中で自分の神に向かって叫びました。ところが、彼らはヨナとの対話を通して、ヨナの神を自分たちの神としてあがめるようになりました。それは、ヨナが主(ヤハウェ)を恐れているのがわかると同時に、彼の神の偉大さがわかったからです。

ヨナは決して不信仰だったのではありません。彼は神がどのような方かを良く知っており、神がニネベに対する「わざわいを思い直される」ことを恐れていたのです(4:2)。そうなると、神のさばきを叫んだヨナのことばが嘘になるばかりか、アッシリヤ帝国が再び力を盛り返し、自分の国イスラエルを滅ぼすことになってしまいます。イスラエルの繁栄を預言した預言者が、はかり知れない神のみこころに翻弄され、自分の国の滅亡への道を開いてしまうというのは耐え難い屈辱と思えたことでしょう。ヨナはある意味で、自分の命をかけて神のみこころに逆らってしまいました。しかし、不思議にも、それを通して、異教徒の船員たちが、ヨナの神を恐れるようになったというのです。それはヨナのかたくなさを通して、神のみこころに逆らうことの恐ろしさが明らかになったからです。

 

5.「私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」

船乗りたちもヨナ自身も、当然、ヨナは死んでしまったと思ったことでしょう。ところが、あわれみ豊かな主(ヤハウェ)は、「大きな魚を備えて、ヨナをのみこませ」ました。そして、「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」という不思議が起きました。ヨナは自分がまだ生きていることを確信した時、「魚の腹の中から、彼の神、主(ヤハウェ)に祈った」というのです。続けてヨナは自分の絶体絶命の苦しみを振り返りながら、不思議にも、「私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいので」と祈りました(2:4)。理解しがたいのは、ヨナを海に投げ込んだのは船乗りたちですし、それを望んだのはヨナ自身だったということばかりか、主が彼を目の前から追ったのではなく、ヨナ自身が主の御顔を避けたというのが事実です。しかし、ヨナは、そのように自分としてはそうせざるを得なかったという現実自身が、全能の神の御手の中にあったということを告白しているのです。しかし、それは同時に、自分を被害者の身において、自分の狭い視点から神のみわざを見ることに通じます。

しかも、ヨナの最大の願いとは、「もう一度・・聖なる宮を仰ぎ見たい」ということでした。彼は絶体絶命の中で、エルサレム神殿での礼拝を恋い焦がれました。そして、ヨナは再び、自分が救い出された経緯を詩的に表現しながら、最後に「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主(ヤハウェ)を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きましたと主を賛美しました。ヨナはかつて愚かにも、主の御顔を避けて、主の前から逃げようとしました。しかし、彼は今、海の底からの叫びが、遠く離れたエルサレム神殿にまで届いたということを悟ったのです。そして、その後、「(ヤハウェ)は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」というのです。

 

  ヨナは決して不信仰でも、悪い人間でもありませんでした。彼は愛国心に燃えた、人々の尊敬を得ている預言者だったことでしょう。しかし、自分の情熱が強すぎて、それに反する神のみこころに対して死ぬほど怒ってしまい、御顔を避けて主から逃れようとしました。彼は、主のみこころが不条理だと思うなら、その気持ちを徹底的に主に訴え出るべきでした。しかし、それにしても、主はヨナのかたくなさえも用いて、異邦人の船乗りたちが主を礼拝するように導いてくださいました。それは、彼が主を恐れていたからです。ただそれは健全な恐れではありませんでした。彼は神を恐れたがゆえに、神に自分の正直な気持ちを訴えるのをためらったのかもしれません。それは私たちにも起きることです。主のみこころが測り知れないからこそ、私たちは主に問いかけ続けるべきなのです。

|

2013年8月11日 (日)

ピレモンへの手紙「あなたの信仰の交わりが生きて働くものになりますように」

                                              2013811

聖書が描く歴史のゴールは「平和(シャローム)」の完成です。「平安」と訳されている言葉は、多くの場合「平和」と訳した方が良いとも言われます。そして、「平和」とは、人間の罪を真正面から見据えながら、しかも、それを赦すことから生まれます。

先週、私たちは広島、長崎の原爆のことを覚えました。僕は昨年、広島に初めて行って一番衝撃的だったのは、アメリカは明らかに広島を人体実験の場に使ったということでした。京都が空襲を免れていたのは当初、歴史遺産保護以前に、そこが地理的な形状が原爆投下の第一候補地としてふさわしかったからであると言われます。同じように広島にも空襲は行われませんでした。それはウラン型原爆の威力を正確に測るためでした。その三日後に、敢えて長崎にも原爆が投下されたのは、もう一つのプルトニウム型の威力を実験するためであったと言われます。そこには人を人とも思わない態度が見られます。

ただ、日本はアメリカを責める資格はありません。日本も中国や朝鮮半島の方々を人間扱いせずに、家畜以下に酷使する強制労働に徴用したり、従軍慰安婦として動員しました。今週の終戦記念日は、中国や朝鮮半島の方々の視点から戦争を振り返って見るべきかもしれません。

ピレモンの手紙の主題は、キリストの救いのみわざが、加害者と被害者、恩知らずと裏切られた人を、真の和解に導くという話です。平和は、赦しがたい人を赦すことから広がるものです。

 

1. 「オネシモは、前にはあなたにとって役に立たないものでしたが・・・」

   これはパウロがピレモンに宛てた個人的な手紙であり、コロサイ人への手紙と一緒にテキコによって届けられたと思われます。そのときパウロは、ローマ皇帝のもとでの裁判を受けるため囚われの身でした。

ピレモンはコロサイ教会の指導者のひとりで、彼の家は教会として用いられていました。そこにオネシモという奴隷がいましたが、あるとき主人の財産を盗んで(18)、逃亡したのだと思われます。

しかし、不思議にも、獄中にいるパウロに出会ってキリスト者になりました。それをパウロは、「キリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのこと(9,10)と言っています。

彼はしばらくパウロの身の回りの世話などをしていましたが、パウロは彼をその主人であるピレモンのもとに送り返すことに決め、この手紙を記しました(12,13)

 

  逃亡前のオネシモのことについては、推測するしかありません。パウロは、「彼は、前にはあなたには役に立たない者でしたが・・(11)と言っていますが、これは、人格を否定し、奴隷としての有用性を論じているように見えますが、ことばの遊びがあります。

まず、「オネシモ」という名のギリシャ語には「有益な」という意味があります。パウロは、その類語を用いて、「あなたに迷惑をかけた「有益な」という皮肉な名を持っている奴隷がいました。彼は本当に「役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」と、彼がその名にふさわしい者に変えられたと冗談を言っているのだと思われます。

しかも、「役に立つ」とか「役に立たない」ということばには、キリスト(クリストス)と似た発音のクレストスということばが用いられており、そこにはキリストに敵対する者がキリストに喜ばれる者となったという響きが持たされております。

 

当時は、家の主人が回心したら、その家族や奴隷もいっしょに福音を聞くというのが一般的でした。したがって、ピレモンは、オネシモを他の家の奴隷と比較できないほどに暖かく扱ったであろうことは間違いありません。そして、オネシモも、福音を知的には理解していたのだと思われます。そうでなければ、逃亡先で、囚人とされているパウロをわざわざ訪ねるということはなかったと思われます。それは逃亡奴隷にとってはいのちがけの冒険だからです。

つまり、オネシモは、圧倒的な恵みを受け、それを理解しながら、なおそれを軽蔑して堕落して行ったのだと思われます。彼を安易に受け入れることは、その家の他の奴隷に示しがつかないことです。しかも、それは家の教会における互いのわがままを助長する恐れがあります

 

ですから、この手紙は、教会の愛の交わりを傷つけ、群れ全体にとって悪い模範になるとしか見えない人を、どのように扱うかという今日的な課題でもあると思われます。

 

2. 「あなたの愛と信仰を聞いて、神に感謝しています」

これはパウロがピレモンに宛てた個人的な手紙でありながら、差し出し人は「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから・・(1)という複数であり、また受取人は、彼の妻だと思われる「アピア」と、エパフラスの不在中の牧師だと思われる「アルキポ」になっています(2)

そればかりか、パウロはピレモンの「家にある教会」全体でこの手紙が読まれることを期待しています。それはオネシモの起こした問題は、ピレモンの家族ばかりか、その家の教会に集うすべての信仰の家族の問題になっていたからです。

 

その上で、パウロは何よりも「恵みと平安(平和)(3)のために祈っています。「恵み」とは神からのすべてのあわれみや賜物を含む豊かな言葉です。そしてそれは、互いの「平和」を生み出す力になります。

互いの争いは不満から生まれますが、それは「恵み」が十分に理解されていない結果に過ぎません。そして、この手紙のテーマは、「交わり(コイノニア)」の回復です。ここに福音が生きて働いた証しがあります。

  

この手紙の本文は、「感謝しています、私の神に。祈りのうちにあなたのことを覚えるたびに(4)という順番で記されています。パウロは祈りの中で人を覚える時、何よりも感謝から始めます。それは問題に満ちたコリントの教会の場合もそうでした。

あなたの場合はどうでしょう。感謝すべき理由は探せば見つかります。

 

パウロの感謝の根拠は、「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているから(4,5)でした。

原文では、「あなたの愛と信仰を聞いている」と記された上でそれぞれの説明が続きます。「愛」ということばが最初に来て、その後、彼の「信仰」に関して述べ、その上で再び「愛」に戻るという形で、ピレモンの「愛」に信頼して訴えようとしています。

どちらにしても、この世では、能力や性格で人の価値が計られますが、神はその人の「愛と信仰」を見られます。パウロは、主イエスに対するピレモンの信仰は、すべての聖徒への愛として現わされていると認めて喜んでいるのです。

 

その上でパウロは、「あなたの信仰に基づく交わり(コイノニア)が生きて働くものとなりますように(6)と祈っています。

交わり(コイノニア)とは人の痛みや喜びを自分の痛みや喜びとするような共有の関係を意味します。しかも、その前にある「キリストのために」とは「キリストある完成に向かって」という意味が込められているとも解釈できます。また、「すべての良い行いを知る」とは、「生きて働く」ことの現れを意味し、知的な知識ではなくて、それによって「すべての良いことが体験される」ということを意味していると思われます。

 

彼は、ピレモンの「信仰に基づく交わり」を感謝しつつ、それがなお豊かに、御国の愛の交わりをこの地で表わすほどの良い行いとして「知られ(体験され)る」までに「生きて働くものとなる」ことを祈っているのです。

 

その上で、彼は続けて、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。それは、聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたから。兄弟よ(7)と言っています。

心」ということばは、厳密には「内臓」「はらわた」とも訳され人間の深い感情の座を意味します。

また、「力づけられる」は英語ではほとんどの場合「リフレッシュされる」と訳され、本来、行軍中の軍隊がしばし休息を取って、力を回復するようなことを意味します。

つまり、パウロはピレモンの愛の行為が、教会全体に活力を与えていると称賛しているのです。

 

ここでパウロはピレモンの愛が既に実を結んでいることを喜びつつ、オネシモを受け入れることで、天上の愛をこの地で表わすことになると示唆しているのだと思われます。

私たちも、既に実を結んでいる愛をまず感謝し、やがて花となるつぼみと認めて、なおそれが完成に向かって成長するようにと祈るべきでしょう。

 

ここには、オネシモに対するピレモンの態度を責めている雰囲気はまったく見られません。その反対に、ピレモンがオネシモに対して抱いている苦々しい気持ちに共感しているとも言えましょう。なぜなら、そのようなピレモンの愛をオネシモは裏切って、信仰の交わり(コイノニア)を破壊したということが示唆されているからです。

 

3.「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが・・・」

8節からは、具体的にパウロの願いの内容が記されて行きます。まず、パウロは、「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからずに命じることができるのですが」と、回りくどい言い方がされているのは、ピレモンにとってオネシモが、いかに赦し難い存在かを、示唆しているのではないでしょうか。

 

なお原文で8節は、「こういうわけですから」で始まります。これは、原文での7節が「兄弟」で終わっていることを受けています。つまり、パウロは、「あなたをキリストにあって一体の者として見ているので、使徒としての権威を用いて命じる代わりに」、「愛によって・・お願いします(9)と言ったのです。

 

しかも、自分を「キリスト・イエスの大使(「年老いて」の別訳)であり囚人として」と改めて位置付けました。それは、自分の権威を主張する代わりに、キリストのために苦しみや痛みを選び取る生き方を指し示すためです。

キリストは「神の御姿」であられ、すべてのことを上から命じる権威を持っておられましたが、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・十字架の死にまで従いました(ピリピ2:6-8)。そしてパウロが「キリスト・イエスの囚人」となっているのは、そのキリストの姿に習っていることなのです。

ここでパウロはこの「キリスト・イエスの大使」として、その姿に習いながら、「愛によって」ピレモンにお願いすると書いています。そこには、言外の強い訴えが感じられます。それは、ピレモンがオネシモにどれだけ苦々しい感情を抱いていたかを知っていたからでしょう。

 

その上で、逃亡奴隷のオネシモを「獄中で生んだわが子」と紹介し、彼を「あなたにお願いしたい(10)と言いました。彼は「お願いする」ということばを、9節と10節で繰り返しています。

なお、パウロはすぐ前で自分を「囚人」と呼び、ここでは「獄中で生んだ」と強調しています。私たちはどこかで、クリスチャンとしての歩みを、順風満帆な人生と期待しているかもしれませんが、少なくともオネシモは、自由を求めてピレモンのもとから逃亡しましたが、結果的には、囚われの身となっているパウロのもとで、人間的には不自由な人生の中に真のいのちを発見したのです。

どこの世界に、「あなたは神に従うことで、囚人となりますが、それでもそこに自由がありますから、信じましょう」と言われて信じることができる人がいるでしょう。しかし、オネシモはその前に、自由を目指すことの行き詰まりを徹底的に体験したからこそ、パウロにある自由を理解できたのでしょう。

 

最初に書いたように、「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つものとなっています(11)という表現にはことば遊びが見られます。

その上で驚くべきことに、「そのオネシモを、あなたのもとに送り返します」と言いながら、「彼は私の心そのものです(12)と呼びました。ここの「」も7節と同様に「内臓」「はらわた」と同じ言葉です。

それにしても、ローマ市民(貴族)であるパウロが、逃亡奴隷のオネシモを送り返すに当たって、このような表現を用いたということは、当時の常識をひっくり返すようなことでした。オネシモもこの手紙が読み上げられた時に涙を流して感動したことでしょう。

 

しかもパウロは、「私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私に仕えてもらいたいとも考えました」と言っています。これは、あのオネシモが、ピレモンの代理の働きさえできるという意味です。

パウロは、ピレモンにとって腹立たしい裏切り者でしかなかったような逃亡奴隷が、パウロ自身にとっての、ピレモンからの最高の愛の贈り物へと変えられたことを示したのです。

 

しかも、ここで再び、「福音のために獄中にいる」と、先の「キリスト・イエスの囚人」「獄中で生んだ」につながる表現を用いています。パウロの身体は人間的に見たら、まさに束縛の中にあるのですが、彼の心は自由です。自分の身は不自由でも、人の自由を犯そうとはしていません。そのことが「あなたの同意なしには何一つすまいと思いました」ということばに現れています。

そして、その自由をピレモンにも体験するように勧める思いで、「あなたがしてくれる親切()は強制されてではなく、自発的でなければならない(14)と言っています。これは、彼が先に「愛によってお願いする」と言ったことを更に説明したことです。

 

あらゆる善い行ない(親切14)は自発的でなければなりませんが、それは同時に、励まされ、教えられる必要もあります。ここにパウロの繊細な心遣いをみることができます。

彼は、ピレモンが持っていたに違いないオネシモへの苦々しい気持ちを、ユーモアを用いて優しく受け止め、その上で、ピレモンがキリストとその使徒であるパウロをどのように喜ばせることができるかを示し、彼のうちにある愛の心が「生きて働き」やすいように導いたのです。

強制でも放任でもない、人の心に寄り添った真の同伴者の姿勢がパウロのことばに見られます。

 

4. 「あなたが私を親しい友と思うなら・・私を元気づけてください」

彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです(15,16)という表現に「放蕩息子のたとえ」(ルカ15)の影を見ることができます。

私たちはしばしば、人の裏切りに傷つきます。しかし、それはキリストにある真の「愛する兄弟」の関係への成長のプロセスだと言うのです。失敗しなければ見られない世界があるからです。

奴隷はその主人にとって便利な存在と思えるかもしれませんが、基本的に命じられたことだけを黙々と行うロボットのような存在です。それに比べて、真の信仰のパートナーは、あなたへの批判もするかもしれませんが、そこには、必要ならば相手のために命さえもかけるという熱い信頼関係があります。

 

そのことを、パウロは「特に私にとってはそうです」と彼の変化を保証しながら、オネシモに傷つけられたピレモンに、「あなたにとってはなおさらのこと」と勇気づけています。

しかも、パウロは「肉においても、主にあってもそうではありませんか」と付け加えます。「肉において」とは、失われたはずの家族が戻ってきた喜びを、「主にあって」というのは、オネシモをキリストにある新しい人と見るという意味です。

ここには、「奴隷と自由人というような区別はありません」(コロサイ3:11)という福音が生きて働くことの実を見ることができます。

 

パウロは、最初に自分にとってのピレモンのことを述べ、その上でオネシモを「私の心そのもの」として紹介し、ピレモンとオネシモを「愛する兄弟」として結びつけようとしています。

それを再確認するのが、「もしあなたが私を親しい友と思うなら」(17)です。「親しい友」はコイノニアと同じ語源で、大切なものを共有する関係です。オネシモは両者にとっての宝となるのです。

そして、「私を迎えるように、彼を迎えてやってください(17)とは、改めて自分とオネシモを一体化したものです。

 

しかもその際、「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください(18)とまで言いました。

真の和解のためには過去の罪の現実を認めた上で、それが精算される必要があるからです。これは、パウロがオネシモに対してキリストの役割を演じていることです。

 

そして、「この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います」と保障します(19)。ただその上で、「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません」と不思議な付け加えをします。

これはピレモンがパウロの宣教の働きで永遠のいのちを受けることができたことを思い起こさせたもので、まるで恩着せがましく債務の取り消しを強制しているようにも聞こえます。

しかし、パウロはこれまで繰り返し、自分が福音のために「囚人」となり「獄中にいる」と語りながら、それがキリストに習う道であると示しました。パウロはピレモンに、自分がキリストの大使であるように、彼もそう行動できることを励ましているのです。

 

  しかも、パウロは、自分が負債を肩代わりするということを保証しながらも、同時に、「兄弟よ。この私はあなたからの益(オナイメン)(「受けたい」は原文にはない)主にあって」と言いました。

これも、オネシモということばにかけたジョークと言えましょう。パウロは、ピレモンが自分に感謝の気持ちを表わしたいと思っていることを知っているので、オネシモを受け入れることでそうできると言ったのです。

 

そして、最後に、「私の心(はらわた)をキリストにあって元気づけ(力づけ)てください」(20)と言いました。これは、パウロが、ピレモンが聖徒たちの心を「力づけ(元気づけ)ている(7)ことで「喜びと慰め」を受けていると言い、そして、オネシモを「私の心(はらわた)そのもの(12)と説明したことの結論としてのことばです。

「交わりが生きて働く」とは、このように互いを元気づけ(力づけ)る交わりが広がることだというのです。

 

私たちは福音を述べ伝えるとともに、他の人の痛みを自分の痛みとして負うような、交わりを築くように遣わされています。

明らかに社会の常識や秩序を乱した人が、その交わりに受け入れられるためには、「彼は私の心そのものです・・彼がかけた負債は私が負います」とまで言って、傍らに立ってくれる人が必要です。

それは、担い切れない重荷かも知れません。しかし、それがキリストの代理としての働きであれば、主ご自身が力を与えてくださいます。そして、そこにはキリストにある本当の心の交わりが生まれ、孤独への真の癒しがあります。

 

私たちの「信仰の交わりが生きて働く(6)とは、このように人と人とを和解に導くことができることです。パウロはピレモンに対し、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として・・永久に取り戻す(16)ことができると勇気づけました。

キリストにある真の友は、友のために進んで命を賭けることができます。それこそ最高の宝です。人は心の底で何よりも、心からの誠実な友を求めているからです。

 

当時、真っ向から奴隷制度を崩そうとするなら、かえって失業者の大群を生み出すだけだったでしょう。しかし、キリストの福音が、ピレモンとオネシモの関係を変えたとき、キリストにある新しい人には、「奴隷と自由人というような区別はありません(コロサイ3:11)との事実が全世界に証しされ、歴史を変えました。

この極めて個人的な手紙が聖書の一部とされているのは、この手紙がもたらした革命的な結果のゆえでしょう。

 

  宗教改革者マルティン・ルターは、パウロはこの手紙でオネシモに対してキリストの役割を演じていると言いました。オネシモはピレモンからの怒りとさばきを受けるべき存在でした。

私たちもオネシモのような存在でした。しかし、キリストが罪人である私たちと一体化してくださいました。それに習ってパウロはここでオネシモを「私の心そのものです」と呼ぶことによって、ピレモンにとりなしをしています。

私たちは自分がオネシモであったこと、またそんな私たちにキリストが、目に見える人を通して近づいてくださったことを決して忘れてはなりません。キリストはご自身の愛を目に見える代理を通して示してくださいます。私たちもその姿に習うように召されています。

 

  使徒信条では、「われは・・聖徒の交わり(コイノニア)信ず」と告白されます。現実の交わりに失望を味わったとしても、そこに働く聖霊の導きを信じるのです。

私たちの教会も、互いに安らぎを与え、元気づける交わりとして成長させていただきましょう。なお、この50年余り後のある手紙にエペソの監督オネシモという名が出てきます。もし、彼がこの手紙と同一人物だったら、それは何と夢のある話でしょう。

それは証明はできませんが、どちらにしても、この手紙が残ったのは、オネシモがすばらしい働きをする者となったからではないでしょうか。 

|

2013年8月 4日 (日)

オバデヤ書「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」

                                                   201384日  

  オバデヤ書は旧約聖書中、一番短い書ですが、そこには聖書のメッセージの核心部分が記されています。人はときに同じ親から生まれた兄弟姉妹との関係で深く傷ついたり、また想像を絶する裏切りに合うことがあります。

歴史上、赤ちゃんから大人になった最初の人間はカインです。彼は弟を殺す者となりました。またイサクから生まれたエサウとヤコブは、母リベカの体内にいるときから争っていました。よく「兄弟だから、仲良くしなさい」などと言われますが、現実は、兄弟だからこそ憎しみ合ってしまうということがあります。

そのようなとき、兄弟民族に対する神のさばきを描いたオバデヤ書は、私たちのマイナスの感情を抑える上で豊かに用いられることでしょう。

 

1.私たちは主(ヤハウェ)から知らせを聞いた・・・「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう」と

 この書の始まりは、「幻」ということばです。そしてそれはオバデヤという預言者に示されたもので、エドムに関しての幻でした。オバデヤがどのような人であるかについてはまったく分かりません。

記された時代に関しては諸説がありますが、紀元前586年のバビロン帝国によるエルサレムの破壊と、紀元前553年の同帝国によるエドム攻撃の間だと見て良いのではないかと思われます。

そして、時代的にはエレミヤの少し後だと思われ、ここにはエレミヤ497-22節と似た表現が記されています。

 

なお、この書が一番古い預言書と見られるアモス書の次に置かれているのは、アモスの終わりが主からの五つの幻が示され、その最後でエドムに対するさばきが示唆されているからだと思われます(アモス9:12)

 

 その上で、その「幻」は、「主ヤハウェはこう仰せられる」という定型的な表現とともに「エドム」についてとその内容が特定されています。ただ、普通ならそこですぐに主のことば自体が記されるはずですが、ここでは引き続き、この幻が示された背景が、私たちは(ヤハウェ)から知らせを聞いた」と記されます。

つまり、預言の内容は、エデムに対するさばきですが、そのメッセージはエドムに向けてというよりは、滅ぼされたエルサレムの残りの者に向けて語られたということです。

そして、「使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう』」という表現もこの幻が記された背景を指します。これは主ご自身が御使いという「使者」をエドムの周辺諸国に送り、エドムへの攻撃を起こさせようというものです。

 

このときのユダヤ人はエドムに非常に怒りを覚え、復讐をしたいと願っていました。しかし、ここでは主ご自身が彼らの悪に復讐してくださるという趣旨のことが記されています。

このことをパウロはローマ人への手紙121819節において、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」と記しています。

私たちも理不尽なことをされたときに、怒りで夜も眠られないとことがあるかもしれません。そのようなときに、主ご自身が私たちの味方となって、私たちに代わって復讐をしてくださるということがわかるなら、怒りの気持ちを静めることができます。

 

私たちは信仰においてアブラハムの子孫であり、彼への約束が私たちへの約束となっています。その最初は、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう(創世記12:3)と記されていました。つまり、神の民とされるとは、神ご自身が私たちの味方となってくださり、私たちのために戦ってくださるということなのです。

そこで私たちに求められていることは、私たちが感情に振り回されて復讐をする代わりに、「敵が飢えたなら彼に食べさせ・・渇いたらなら、飲ませ」るということです(ローマ12:20)

 

そして、主は滅ぼされたエルサレムの残りの者に対して聞かせるように、エドムを「あなた(おまえ)」と呼びつつ、「見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする(2)とさばきを宣告されます。

そして、その理由を「あなたの心の高慢自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている」と描いています。

 

エドムは死海の東南からアカバ湾(紅海の入り江)に広がる国で、その中心は標高1,500mもある高地が広がっています。彼らはその天然の要害により頼んで、周辺の諸国からの攻撃の可能性を低く見積もっていました。

エサウがかつてヤコブに欺かれたように、エドムは今も、自分たちの国の立地条件を過信し、「心の高慢」が「自分自身を欺いた」といわれる状況になろうとしています。

 

箴言18:12に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」と記されていますが、エドムはその高慢さのゆえに現実を誤って理解してしまい、自分で自分を欺くようにして破滅に向かっているのです。

 

また、主は彼らの幻想を正す意味で、「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろすー主(ヤハウェ)の御告げー」(4節)と追い打ちをかけるように宣告されます。

 

エレミヤ書4914-16節には、これらの箇所と似た表現が以下のように記されています。

私は主(ヤハウェ)から知らせを聞いた。「使者が国々の間に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに立ち上がれ。』見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、人にさげすまれる者とするからだ。岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。─主(ヤハウェ)の御告げ─」

 

 ヒトラーのことが妙な形で話題になっていますが、彼は当時のドイツ人の鬱積した恨みや怒りの感情に訴えかけて政権を握りました。そして、彼は神に代わって、ドイツ人に復讐を遂げさせようとしました。そのようなときに必要なのは、神ご自身があなたのまわりの高慢で狡猾で、人を人とも思わないような人間にさばきを下されるということに関しての、「主からの知らせを聞く」ことです。あなたに与えられた使命は、高慢な人間の罵倒することではなく、彼らを愛することです。彼らがすでに滅びに向かっていることを知ることです。

 

2.「ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される」

主は引き続き、彼らが天然の要害に引きこもって安心していることを嘲るかのように、「盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうを収穫する者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される(56)と述べられます。

ここでは、エドムが徹底的に収奪されることが強要されています。ぶどうの収穫をする者は、敢えて取り残しの実を残すように命じられていましたが(申命記24:21)、ここでは「エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される」と、すべてが奪われることが強調されています。

 

エレミヤ498-10節にも同じような主のことばが、「わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない。盗人は、夜中に来るなら、彼らの気のすむまで荒らす。わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる」と描かれています。

これはエドムがバビロン帝国によってそのすべての富を奪われ、とりでや隠れ場が壊され、廃墟とされることを意味します。

 

  そればかりか、エドムの足元の不安定さが、あなたの同盟者がみな、あなたを欺き、あなたを国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない(7)と記されます。

彼らは近隣の国々と同盟関係を結ぶことでバビロン帝国の攻撃に対応しようと計っていましたが、それらの国々は頼りにならないどころか、最も恐ろしい敵となるというのです。

 

 そして、89節では、「その日には」という15節の「主(ヤハウェ)の日」と重なる主のさばきの日の現実として、人間の知恵も力も何の役にも立たなくなるということを、主ご自身のことばとして、「わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう」と記されます。

 

エレミヤ49章ではエドムへのさばきの宣告が、「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか」(49:7)という言葉から始まっています。

テマンはエドム北部の中心都市で、彼らの誇りは自分たちの知恵でした。ヨブ記に登場するヨブの友人「テマン人エリファズ」(ヨブ4,5章)とは、この地の出身者だと思われます。しかし、彼らの「知恵」も「勇気」も、何の役にも立たなかったことが示されています。

 

主はエレミヤを通して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主(ヤハウェ)であって、地に恵みと公義(さばき)と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ」(同9:23,24)と語っておられます。

もちろん、この世を生きて行くうえでは、知恵も力も富も大変便利なものです。しかし、それらはあまりにも有益すぎて、全地の支配者である神を忘れさせる偶像になり得ます。便利なものほど誘惑に満ちているのです。

 

3.あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。

 10-14節ではエドムに対する主のさばきの最大の理由として、主の民「ヤコブ」への暴虐のことが描かれます。それは、彼らが兄弟民族の苦難を傍観者のように眺めていたばかりか、兄弟の苦難を喜び、略奪に加担し、生き残ったユダの民をバビロン帝国に引き渡すようなことまでしたということが、以下のように描かれます(一部私訳)

 

「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

その日、あなたは(知らぬ顔で)立っていた。

その日、他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったとき、あなたもまた彼らのうちのひとりのようだった

 

あなたはただ、ながめているな、あなたの兄弟の日、その災難の日を

喜ぶな、ユダの子らの滅びの日を

大口を開くな、その苦難の日に

わたしの民の門に入るな、彼らのわざわいの日に

あなたはまた、その困難をながめているなそのわざわいの日に

彼らの財宝に手を伸ばすな、そのわざわいの日に

別れ道に立ちふさがるな、のがれる者を断つために。

彼らの生き残った者を引き渡すな、その苦難の日に。」

 

エレミヤの預言でも、はるか昔のイザヤの預言でも、エドムに対するさばきの理由を、彼らのヤコブの子孫に取った態度との関係ではほとんど描いていません。

エゼキエル35章では、さばきの理由が、イスラエルに対する敵意を抱いたこととして描かれています。しかし、オバデヤは何よりもエドムの罪を、エルサレムの破滅のときに、加害者のひとりのようになり、また、兄弟の苦難をただ、「ながめていた」ことをさばきの理由として描いています。

 

11節では、「その日に、(知らぬ顔で)立っていた・・・外国人のひとりのようであった」また、1213節では、ヤコブのわざわいの日をただ「ながめていた」ということが非難されています。

これはあなたの身近な人がいじめに会っている時に、傍観者であったり、また、いじめる側のひとりのようになってしまうことにつながります。

 

また、身近な人がわざわいに会っているのを見て、「私の言った通りになったでしょう。反省しなさい」などと、傷口に塩を塗るようなこともあるかもしれません。

私たちが身近な人との関係で持つべき態度を、使徒パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)と表現しました。これこそ隣人愛の基本です。

 

しばしば、キリスト者は、正論を述べることで相手を追い詰めてしまうことがあります。しかし、ほとんどの場合、自業自得でわざわいに会っている人は、自分の問題は十分に認識しています。このとき、エルサレムの民はまさに自業自得で、「わざわいの日」を迎えることになってしまいました。そのときエドムは、「ユダの子の滅びの日」をあざ笑ったこと自体が、神の怒りを買ったということを忘れてはなりません。

私たちも、エドムほどひどい態度ではないにしても、自業自得でわざわいに会っている人に対して心の中では軽蔑の心を抱くことがないでしょうか。

 

4.あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る

 15節からは「(ヤハウェ)の日」という明確な表現と共に、「すべての国々の上に」神のさばきが「近づいている」ということが表現されます。

そして、ここでは特に、「あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」という原則が強調されます。つまり、エドムはエルサレムの滅亡を他人ごとのように傍観者的に眺めながら、加害者の味方をして自分の安全を計ろうとしました。それと同じ目に彼ら自身が会うということです。

 

これは、たとえば、自分の身の安全のためにいじめに加担した人が、みなからの信頼を失い、いじめられる側に立ってしまうということで現れることがあります。「あなたがしたように、あなたもされる」というのは、現実の生活の中でしばしば見られます。

人を裏切る人は、人から裏切られます。親を軽蔑する人は、子供から軽蔑されます。人をいじめる人は、いじめられます。罵声を浴びせる人は、罵声を浴びます。人を非難する人は、人から非難されます

これらをすべてまとめて、「あなたの報いは、あなたの頭上に返る」ということができます。

 

そして、それらすべてを神が支配しておられます。そうは言っても、人を裏切り続け、人を人とも思わないような人間が、みんなをだましつづけ、長寿を全うするということがあります。来たるべき世のいのちまでに目を向けて、それらすべてを神が支配しておられるということこそ、福音の核心でもあります。

イエスは、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、全身おできで門前に捨て置かれたラザロとの対比を、ラザロはアブラハムのふところに連れて行かれ、金持ちはハデスの炎で苦しむというたとえで示しました(ルカ16)

 

 なお、エドムへのさばきが16節では、「あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう」と記されます。

これはエドムがエルサレムの陥落を喜んでシオンで勝利の杯を飲んだことを皮肉って、今度はそれが神の怒りの杯を飲み続けるというように変えられるということ、またそれがすべての国々に及ぶということが描かれています。

 

エレミヤ4912節でも、エドムへのさばきが神の怒りの杯を飲むということとして、「見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない」と記されています。

 

5.しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。

  ところが17節からは一転して、イスラエルの回復の希望が「しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する」と約束されます。

エドムはイスラエルの滅亡を喜んだことで破滅に至りますが、今度は反対に、一度神のさばきを受けて滅んだエルサレムに、滅びから「のがれた者」がそこに住むようになり、「ヤコブの家」であるイスラエルの民が約束の地を回復することができるというのです。

 

  そしてイスラエルの滅亡に加担したエドムが、反対にイスラエルによって焼き尽くされるということが、「ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる(18)と描かれます。

なお、ヨセフの家とはずっと昔にアッシリヤによって滅ぼされた北王国イスラエルの中心部族ですから、ここに北王国の民の復興も約束されていると言えましょう。

 

 1920節の意味は分かりにくいですが、かつてのダビデの時代の支配地を回復するという全体の意味を把握する必要があります。

ネゲブの人々」とはベエルシェバの南の荒野に住むイスラエルの民を指し、彼らがその東にの「エサウの山」を占領するというのです。

低地の人々」とは、エルサレムのあるユダの山地とペリシテの地の間の低い土地の住民だと思われ、彼らは「ペリシテ人の国を占領する」というのです。

またそればかりか、「彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する」とも言われます。

どの民族がどの地をというよりも、かつての北王国イスラエルの支配地ばかりか、いつも係争地であったヨルダン川東岸の「ギルアデ」さえもイスラエルの民の支配地となるということが約束されているということに目を留めるべきでしょう。

 

  そして、20節においては「イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民(この最初の捕囚の民)はカナン人の国をツァレファテまで」とは、北王国の捕囚の民はかつてのダビデの領地の北限までを支配するという意味です。

また、「セファラデにいるエルサレムの捕囚の民」というのは、どこに捕囚とされているのかはよくわかりませんが、とにかくユダの捕囚の民も回復されて「南の町々を占領する」というのです。

 

最後に「救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主(ヤハウェ)のものとなる」と記されます。「救う者たち」とは、将来的な救い主に導かれた人々を指すと思われますが、彼らはエサウの山をさばき、支配するためにシオンの山に上るというのです。

そして「王権は主(ヤハウェ)のものとなる」というのは主のご支配が明らかになることを意味します。エドムの民は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の支配権を認めずに、神の民を迫害していましたが、今、イスラエルの神、主のもとで、神の民が全地を治めるようになるというのです。

 

私たちクリスチャンこそが、「救う者たち」です。私たちは「キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)と呼ばれ、キリストと共に世界を治めることになると約束されています。それは神の目には今から始まっていることです。

私たちは自分のことばかりか、全世界のこと、また地球環境の保護のことにも目を向けて生きることが求められています。

 

この目に見える世界においては、しばしば、神のご支配という「天」の現実を忘れてしまいがちです。私たちはこの世の不条理に悩まされ、そこで狡賢く振る舞う人間に憤りを覚えます。

しかし、そのようなときこそ、このオバデヤ書の主の日の記述、「あなたがしたように、あなたもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る」ということばを心から味わってみるべきでしょう。

私たちは知恵と力と富を増し加えるために日夜奮闘しています。しかし、(ヤハウェ)のご支配を忘れた知恵も力も富も、驚くほどはかないものです。神の民は、この世ではその努力が報われないこともしばしばありますが、目に見える形で「王権は主(ヤハウェ)のものとなる」という歴史のゴールを決して忘れてはなりません。

この世界は神にあるシャローム(平和)の完成に向かっています。あなたの使命は、自業自得で滅びに向かっている人に寄り添い、やさしく、神の救いのご計画を分ち合うことではないでしょうか。

|

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »