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2013年9月29日 (日)

テサロニケ人への手紙1:1-2:12 「生き方を通して伝わる福音」

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  私たちの教会では、聖書を誤りのない神のことばであると信じ、告白しています。神のみことばには私たちの生き方を変える力があります。ただし、みことばは、決して、この世の成功者の座右の銘のようなものではありませんし、格言のような情報でもありません。

神のみことばは、いつの時代にも、生きた人格を通して伝えられてきました。のろわれた民モアブの生まれであったルツは、義母のナオミに対して、あなたの神は私の神です」と告白することによって神の民に受け入れられました。

私たちもどこかで、生きた人格の中に生きて働いている神を認めて、「あなたの神は私の神です」と告白したのではないでしょうか。そして、私たちの生き方を見て同じように言ってくれる人に福音がさらに伝わります。

しかし、それは決して、「イエスを信じたら、こんな立派な人間になれる!」という意味での「模範」ではありません。悩み、落ち込み、葛藤する生きた人生の中に生きて働く神が証しされるのです。

 

しかも、キリスト教国ではない日本で起きる回心こそ新約聖書が記された時代のギリシャ人の回心に似ています。私たちは、キリスト教国の大教会などよりもはるかに、テサロニケ教会の人々の気持ちがわかるはずなのです。

しかも、この手紙を受け取ったときのテサロニケ教会は私たちの教会よりも小さかったことは確かだと思われます。

 

1.「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ・・・」

 テサロニケ人への手紙はパウロ書簡の中でガラテヤ書についで古い手紙です。それは紀元49年から51年にかけてパウロの二回目の伝道旅行の際に、コリント市に一年半滞在したときに書かれた手紙だと思われます。

彼はアジアでの伝道が聖霊によって差し止められ、途方に暮れましたが、「マケドニア(ギリシャ北東部)人の叫び」の幻を見て、神がギリシャ人の地で福音を宣べ伝えさせようとしておられると気づきます。彼は最初にマケドニアのピリピで伝道しますが、激しい迫害に会い、西のテサロニケに向かいました。そこは10万人もの人口を抱えていた大都市でした。

パウロはユダヤ人の会堂に入って行って「三つの安息日にわたり」イエスこそが救い主であることを証しました(使徒17章)。しかしその後、ユダヤ人の怒りを買って夜のうちにベレヤという次の町に行かざるを得なくなります。つまり、テサロニケ教会はたった三週間あまりの伝道の働きで生まれたのです。

パウロは当然ながら生まれたばかりの教会において福音が正しく理解されているかが心配なり、この手紙を書くことになります。ですからこの手紙は、つい最近になってキリスト信者になった人々に、福音の核心を解き明かす画期的な書物です。

パウロは最初に、「シルワノ、テモテ」との連名で、「テサロニケ人の教会へ。恵みと平安」を祈りつつ、「いつもあなたがたすべてのために神に感謝し」ていると言いつつ、祈りの内容を、「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」と記します(1:1-3)

そこで彼は信じて間もない信者の中に起きた三つの変化を述べています。それは彼が後にコリント人への手紙で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です(Ⅰコリント13:13)と記していることにも通じます。

興味深いのは、「信仰」は行いと対比されるものではなく行いの源泉であり、」とは好ましい感情である以前に苦しむことであり、また、「希望」とは期待に胸を膨らませること以前に不本意な状況の中に留まり続けるということです。

このことばの組み合わせにはとてつもない深い意味が込められています。テサロニケの教会はパウロによる開拓以来、激しい迫害と困難の中におかれていました。そこで生きてくるのがこの三つの信仰の果実でした。

 

そしてパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです(1:4,5)と記します。

これはその信仰が彼らの知性や求道心によるものではなく、「神の選び」の結果であるというのです。それを証明するのが、福音が「ことば」だけではなく、人智を超えた「力と聖霊と強い確信」によって伝えられたということです。

「力」とは神の臨在を示すしるしです。テサロニケにおける奇跡は使徒の働きには描かれていませんが、その前のピリピではパウロとシラス(シルワノ)獄舎に捉えられながら賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こって獄舎の土台が揺れ動き、とびらが全部あいて、みなの鎖が解けるというようなことが起きています。テサロニケにおいても人々を信仰に導く何らかの偉大な力が働いたことでしょう。

また「聖霊による」とは、これほど短期間のうちに信仰に導かれるというのは、人間の説得によるのではなく聖霊の働きだからです。

また「強い確信」とは、人間的には信仰を持つことが損にしか思えないという逆説があるからです。

 

そして、それが具体的にどのように現されたかについて、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています」と記されます。

テサロニケの人々は、パウロを初めとする三人のキリストの弟子たちのふるまいを通して、そこに「力と聖霊と強い確信」を見ることができたからです。

 

  そしてパウロは彼らの回心のことを振り返り、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました(1:6)と述べます。ここは原文では、「あなたがたも、私たちにならう(まねる)者となりました。それは主にならうことですが・・」と記されています。つまり、回心とは何よりも生き方の変化が次々と伝染するようなものであるというのです。

原文の順番ではその上で、「多くの苦難」と「聖霊による喜び」が対照的に描かれています。人間的には「多くの苦難」は悲しみの原因でしかないはずなのですが、そのような逆境は聖霊による喜びを証する舞台となるというのです。なぜなら、人間的な喜びは様々なことが期待通りに実現するなかに生まれますが、聖霊による喜びは、そのような外面的な悪い環境から生まれるからです。

 

そして、そのような回心こそ、パウロたちが「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです(1:7)と喜んだことでした。

ここでは、「ならう(まねる)」「模範」という多くの現代人が抵抗を覚えがちのことばが重なって記されています。ただ、これは決して、万人の模範となる道徳的な生き方と言うのではありません。それなら彼らは迫害を受ける必要はありませんでした。

模範となるのは、まさに、彼らが当時の人々の常識を超え、ひんしゅくを買い、異端者だと罵られながら、なお、そこで「聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れた」ということなのです。

つまり、彼らはこの世の人々の期待に縛られない、この世の常識を超越した生き方ができるという意味で「模範」になったのです。つまり、この世の「模範」にもならないという模範なのです。

 

2.「神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっている」

「主のことば」に対する彼らの感動が、パウロたちの働きを超えたところで、ギリシャ人の地域に次々と広まった様子が、「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです(1:8)と記されます。

 

そして910節の原文はまず、「彼らは私たちに関して、どのようにあなたがたに受け入れられたかを言い広めています」と記されています。言い広めた「彼ら」とは7節の「マケドニアとアカヤ(ギリシャ北東部と南部)のすべての信者」ばかりか、彼らを含む不特定多数の人々だと思われます。

そして、パウロたちがテサロニケの人々に大きな感動をもって受け入れられたことの結果、つまり、福音がもたらした変化に関して二つの観点から述べられます。

 

その第一は、「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って生けるまことの神に仕えるようになり」ということです(1:9)

テサロニケで信仰に導かれた人々の中心は、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に話を聞きに来ていた「神を敬うギリシャ人」(使徒17:4)でした。彼らはユダヤ人の神ヤハウェに魅力を感じてはいましたが、まだローマ人やギリシャ人が拝んでいた様々な偶像を捨てる決心はついていなかったのかかもしれません。

彼らはパウロの話を聞いて、偶像の神々を拝むことをきっぱりとやめて、「生けるまことの神」ヤハウェに「仕える」者となりました。

 

しかも当時のローマ帝国では、亡くなった歴代の皇帝、ユリウス・カエサル(シーザー)やアウグストスなどが神として祭られていました。

当時はユダヤ人に対しては例外的に、ヤハウェ以外の神々を礼拝しないという特権は認められていましたが、パウロの教えに従った人々は、ユダヤ人になるということもなく、それまでの慣習をいっきに捨てるというのですから、それは大きな問題になりました

これは私たちの回心にも言えることです。クリスチャンとして生きることの第一は、何か、道徳的な生き方をするということ以前に、日本の伝統的な宗教がらみの習慣から離れて生けるまことの神に仕えるようになる」ということです。

そこには当然、様々な軋轢が生まれます。「お前はご先祖様の事をどう思っているのか・・・日本の文化的な伝統を否定するのか・・」などと言われることでしょう。

しかし、それこそ回心の核心なのです。私たちの信仰は、本来、この世の価値観と衝突するべきものなのです。

 

  そして、第二は、「天からの(ヤハウェの)御子を待ち望むようになった(1:10)ことです。そして、その「御子」のことが、「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス」と説明されます。

つまり、再臨信仰こそが核心であるというのです。ただし19世紀以来、再臨信仰の名のもとに、様々な誤った教えが広がり、そこには私たちのこの地に対する責任を軽視するような教えもあります。

 

私たちはキリストの再臨の意味を、まず何よりも旧約聖書、特に預言書から見る必要があります。なぜなら、パウロが宣教していた時代には、旧約聖書しかなかったからです。キリストの再臨の意味を最も分かりやすく解き明かすのはイザヤ書11章です。

そこでは「エッサイの根株から新芽が生え・・・その上に、ヤハウェの霊がとどまる」というキリスト預言から始まります。このみことばはクリスマスの際によく読まれますが、それに続く6節以降では、「狼は子羊とともにやどり、ひょうは子やぎとともに伏し・・・獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」と、この世界から弱肉強食が消え、神の平和が全地を満たす新天新地の情景が美しく描かれます。

 

二千年前にキリストが現れたのは、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかるためでした。そして神はこの方を死者の中からよみがえらせました。

今、キリストは天の父なる神の右の座に着いて、この地を治めておられます。その方が目に見える形で再び現れる時、このイザヤ11章の預言が成就するのです。

 

そしてそれは同時に、私たちが「やがて来る御怒りから救われる」という最後の審判からの救いです。つまり、私たちの地上におけるすべての行いが、神の前に明らかになっているというのです。

しかし、イエスは「ご自分のいのちを罪過のためにいけにえ」(イザヤ53:10)としてくださいました。私たちはこのイエスにすがることによって、神の怒りを恐れる必要がなくなりました。

残念ながら現代の教会では、エホバの証人などの異端的な教えに対する過度の恐れから、キリストの再臨や最後の審判などについて、あまり大胆に語らなくなっているかもしれません。しかし、これこそ、最初のクリスチャンたちが何よりも大きな感動を持って聞いた福音だったのです。

 

  しかも、このことから必然的に、この世界に対する解釈が生まれます。それは、キリストが目に見える形で天から再び現れてくださるまで、弱肉強食を伴った争いはなくならないということ、また、最後の審判が来るまで、悪魔に従う勢力はこの地を惑わし続けるということです。

つまり、私たちは生ける神に立ち返ることで、この世の価値観と衝突するばかりか、この世の弱肉強食の競争からも、サタンの惑わしからも自由になれはしないのです。

 

目に見える「救い」は、キリストが再び来られるまで完成はしません。しばしば、「神を信じても、生活は何にも楽にならない・・・信じることの意味がどこにあるのか」などとつぶやく人がいますが、テサロニケのクリスチャンはそんなつぶやきはしなかったことでしょう。

なぜなら、彼らは、イエスを信じることで、当面の生活はかえって厳しくなるという覚悟をもっていたからです。その点で、私たちは福音の語り方を反省する必要があるかもしれません。

 

パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません・・もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます(ローマ8:24,25)と記しています。

ですから、信仰において何よりも大切なのは、この目に見えない望みを、イメージできるようになることなのです。

 

3.「母がその子どもたちを養い育てるように・・・父がその子どもに対してするように」

パウロはテサロニケにおける働きを振り返り、「私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました」と記します(2:1,2)

それは、宣教の働きが無謀で危険な賭けのように思えたからです。信仰を持つことがこの世的には損としか思えないからです。

 

しかし、パウロの知らせは、ギリシャ人にとっては最初のマラソン走者が命がけで伝えた戦勝報告(福音)のようなものだったのです。

現代のマラソンの起源は、紀元前490912日、アテネの将軍ミルティアデスがアテネから約40㎞の地にあるエーゲ海に面する海岸マラトンに上陸した二万人のペルシャ軍を、その半分の兵力で奇跡的に打ち破ったとき、その戦勝報告をエウクレスという兵士が完全武装のままアテネに知らせに行き、「我ら勝てり」と言った後、絶命したと伝えられている故事に由来しています。

福音」とは、本来、このような戦勝報告だったのです。アテネを初めとするギリシャの都市国家は、内輪もめをしていましたが、アテネ軍のこの勝利は未来を変えました。その知らせを誰よりも先に知ることは、その後の、立ち居振る舞いを決める上で何よりも大切でした。

 

同じようにパウロは、神がキリストにおいてこの世の悪の力に勝利を収めたという知らせをいのちがけで伝えたのです。

そして、この福音を聞いた者に起こる変化とは、目の前の困難や敵対勢力に勇気をもって立ち向かうということです。それは、最終的な勝利を確信して、これからの生き方の方向を決められる良い知らせなのです。

 

そして、パウロは自分たちが伝えた福音に関して改めて、「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません・・・ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です(2:35)と語りました。

このようなことを敢えて語るのは、当時のギリシャの町々には、仕事に役に立つ特別情報や、目新しい哲学などを伝えながら生計を立てている巡回教師が数多くいたからです。

パウロが何よりも恐れたのは、信仰の若いテサロニケの信者たちが彼らの餌食にされて、せっかく聞いた福音の確信が揺らぐことでした。

それでパウロは自分たちとそのような情報や目新しい哲学を売り物にしている教師たちとの違いをまず述べました。彼らは人々の喜ぶ話をして生計を立てており、聴衆の気に沿わない話は、お金にならないので、都合の良い話ばかりをしていました。

 

パウロはそれに対し、「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、人を喜ばせようとしてではなく・・神を喜ばせようとして語るのです(2:4)と言っています。

これこそ、人々を魅了する講演と礼拝説教の違いです。いつでもどこでも神の眼差しを意識して語ることが、聖書教師には求められています。

 

  またパウロは、自分たちの宣教の仕方の特徴を、「キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは・・・人からの名誉を受けようとはしませんでした。 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思った」と振り返ります(2:6-8)

パウロは後にコリント教会に対しては、誤った教えに対抗するために使徒としての権威を大胆に主張しました。しかし、テサロニケではそうする必要がありませんでした。

彼はそれよりも、キリストの福音が、対人関係の持ち方を、母がその子に対するように、見返りを期待しない生き方を生み出すと実例を持って証ししました。

私たちが他人に対して「優しく振る舞う」ことができないのは、それによって自分の大切な時間やお金を失う恐れがあるからです。しかし、パウロは、与えれば与えるほど神が自分の必要を豊かに満たしてくださるということを身を持って示そうとしていました。

 

  さらにパウロは、「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました(2:9)と記しています。

パウロは、お金にうるさいコリント教会に対して、「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかるのを知らないのですか。同じように主も、福音を伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権威を一つも用いませんでした(Ⅰコリント9:13-15)と記しています。

パウロはテント作りをしながら、自分の生活費を稼ぎ、教師としての当然の報酬を受け取りはしませんでした。それは、当時の巡回教師と明確な区別をつける必要を感じたからだと思われます。

また、それは何よりも、自分たちの生き方を通して、福音の豊かさを証ししたいと思ったからです。パウロは、福音を語ることから報酬を受けないことこそが、若いギリシャの教会の成長のためには必要なことであると確信していたのです。

 

  そしてパウロは、自分たちの語った福音は自分たちの生活に現されていたということを「信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました(2:10-12)と敢えて記しています。

私たちの信仰の核心とは、創造主である神との個人的な親密な交わりです。それは日々の生活の中に現されるものです。神はご自身の教えを最初、アブラハムというたったひとりの人との交わりを通して伝えました。福音はそのようにパーソナルな交わりを通して伝えられるものです。

 

インターネットによる感動的なメッセージを聞くことも信仰の成長には役に立つことがあります。しかし、神は生きた一人の生き様を通してご自身の福音を知らせようとされました。これは説教者にとって何よりも恐ろしいことです。

先にパウロは、母親のように優しくふるまい自分の権威を主張しなかったと言い、ここでは、父親のように自分の生き方を通して福音のすばらしさを証し、信者としての歩み方を、「勧め、慰め、命じた」と語っています。

 

  ただ、パウロはそこで、「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように」と記しています。それは、私たちがこのままで、神の王国の王子、王女とされたという誇りを持って、その立場にふさわしい歩みをすることです。

この世の権力者たちの顔色を伺って生きる奴隷のような生き方を捨てなければなりません。神がキリストにおいて私たちをどれだけ豊かにしてくださったかを知ることこそ信仰の出発点なのです。

キリストのために富も名誉も宝を捨てたとしても、あり余るほどの豊かさをすでに持っていることを知ることこそ信仰のいのちなのです。

 

  ご利益宗教における「模範」とは、「神を信じると、こんなに豊かになれる」というものです。しかし、パウロの証しは、キリストを知っているすばらしさのゆえに、何を捨てても損とは思わないという自由です(ピリピ3:8)

獲得する力ではなく、捨てることができる余裕が何よりの証しなのです。成功談はしばしば真の証しにはならないのかもしれません。

強がりを捨て、もっと堂々と、自分の失敗や足りなさをもオープンにしながら、「こんな私でさえ神は支え、守り、用いてくださる」と言ってみましょう。

あなた自身の心の余裕ではなく、あなたの神の真実と力とを語るのです。

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2013年9月22日 (日)

箴言27章23節~28章27節 「主(ヤハウェ)に拠り頼む人は豊かになる」

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 パスカルはパンセの中で、「すべての人は、幸福になることを捜し求めている。それには例外がない・・ある人が戦争に行き、他の人たちが行かないのは同じ願いからである・・・人間の中にはかつて真の幸福が存在し、今ではその全く空虚なしるしと痕跡しか残っていない…この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神ご自身によってしか満たされ得ない」と語っていますが、それこそ、私たちの原点と言えましょう。

創造主に拠り頼むということを除いては、誰もエデンの園の祝福に到達することはできません。そして今、私たちはイエスの十字架によって、そこへの道が開かれました。

それなのに私たちは何としばしば、この世が提供する「しあわせ」の約束に心を奪われて、愚かな寄り道や失敗を繰り返してしまうことでしょう。真理は単純です。そこに留まり続けたいものです。

 

1.「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ」

2723節には「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ」と記されています。「よく知り」とは厳密には「知って知る」と同じ動詞が重なって記され、「心を留めておけ」ということばは「心を置きなさい」と記されています。そして「様子」ということばは「顔」とも訳されることばです。

私たちは羊の群れを、生活の手段としてではなく、一匹一匹によくよく注意を払い、その顔を見分けるばかりか、その変化を見続ける必要があるというのです。

 

これは教会の群れをはじめとして、あらゆる組織に適用すべき教えです。目の前のひとりひとりに注意を払うということは、その群れがどんなに大きくなっても実践すべきことです。あなたが自分の身近な人の状態を心から良く知って、そこに心を向けるということこそ、「愛」の基本です。そのように愛されている人は、同時に、他の人を愛して行くことができます。

組織が大きくなればなるほど、この原則が大切にされる必要があります。今回の訪問で、香港の一万人の群れを牧会している牧師が言っておられたことが印象的でした。それは神との個人的な交わりを築くことと、ひとりひとりとの人格的な交わりを築くことには切り離せない関係があるということでした。彼はひとつの家庭集会から始めた群れが27年間で一万人になるというプロセスを導いてきましたが、信仰の訓練は一対一の関係から始めているとのことでした。働きを任せている人との交わりには、すべてを優先させるとのことでした。どれほど忙しくても、その人たちの心の交わりの時間を持つことにはすべてを優先させるとのことでした。

 

 「富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ(27:24)とは、この地における繁栄のはかなさを語ったものです。「」も、「王冠」に象徴される権力もこの世では有効な手段ですが、だからこそ神を忘れさせる契機になってしまいます。

しかし、神は私たちが被造物に注いだ愛情のひとつひとつを記憶していてくださいます。ですから大切なのは、富や権力を手にすることよりも神との交わりを大切にし、それを深めることなのです。

 

  その上で、これらの労働の実のことが、「草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると、子羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使の女たちを養う」と記されます(27:25-27)

神の祝福とは、何よりも、働いたことが無駄になることがなく、労働が豊かな実を結ぶこととして描かれます。キリストの復活以来、私たちは神の祝福の時代の中に移されています。

そのことが「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記されています。

 

  私たちは現在、非常に忙しい時代に住んでいます。そして、いろんな働きの結果をすぐに出すことができるようなプレッシャーを受けながら生きています。

しかし、人と人との関係は、一朝一夕に深められるものではありません。様々な試練の時を経て初めて深められるものです。日常的な心と心の交わりこそ、あなたの人生を豊かにする最高の道です。

富や力で築かれる関係ほどはかないものはありません。継続的な交わりを重んじたいものです。

 

2.「おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う」

悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」(28:1)とあるのは、神を知らない悪者は、自分の身を守ることに汲々となっているため、追っ手がいないのに逃げてしまうことがあるという一方で、創造主を知っている「正しい人」は若獅子のように「頼もしい」存在となることができるということです。

 

  「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる(28:2)とは、国全体が神に逆らい、神の示す善悪の基準がなくなると、家来が王に逆らうことも正当化されます。その結果、北王国イスラエルには九つもの王朝が次々と生まれました。それはクーデターによって古い王が廃され、新しい王が誕生したためです。

一方、「しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」とは、たとえばダビデの分別と知識によって、ダビデ王家が350年続いたようなことを指しています。神を恐れる「ひとりの人」に社会全体を変える力があるというのです。

 

おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う」(28:4)とありますが、この「教え」ということばは原文でトーラー(律法)と記されています。「悪者」とは神を恐れない者のことですから、聖書の教えを捨てる者が、神を恐れないこの世の成功者を賞賛する一方で、聖書の教えに注目する者は、そのような者に媚びたり妥協したりすることなく、言うべきことを言って争う勇気を持っているというのです。

私達は誰との関係を第一に考えているかが問われています。私たちは互いに愛し合うために神の民とされており、互いの間に愛があることこそが、何よりも私たちがキリストの弟子であることを証することになっているということを忘れてはなりません。

私たちは神を恐れない者を称賛する以前に、神を恐れる者の愛の交わりを築きつつ、この世と対峙する必要があるのです。

 

  6節では、「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる」とありますが、私たちはいつの時代でも貧しい人よりも、富んでいる人を信用しがちかもしれません。なぜならどこかで私たちも因果応報的に、富んでいる人は、人の信頼を勝ち得て豊かになっていると思いがちだからです。

ただ、善悪の基準を無視してお金儲けに邁進して富んでいる人もいるわけですから、富と貧しさは人間の価値を判断する基準にはなりません神は私たちの誠実さに報いてくださいます

同時に神は曲がった道を歩む者にさばきをくだされます。

 

  7節の「おしえを守る者」というのも「律法(トーラー)を見続ける者」と訳すことができます。神の目に彼らは「分別のある子(息子)」と見られます。しかし同時に、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」とも記されます。

ここでは息子と父が対比されます。どの父親も子供の交友関係が気になるものです。人は誰を友にしているかで生き方が変わります。しばしば、神を恐れる父親のもと育った息子が、あえて放蕩者と交わることがあります。それはしばしば聖書の教えが自由な生き方に反する道徳かのように誤解されているからです。

律法は三千年前の時代においては最も先進的な教えでした。私達はそこに流れる神のみこころの奥義を味わう必要があります。奴隷がいるのが当たり前、また、女性の人格が認められないのが当たり前の時代にあって、聖書はどのようにそれぞれの人格を尊重していたかを知るときに、三千年前の文化を超えた適用を考えることができます。

 

  8節では「利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる」と記されていますが、「高利」とは「利益」と訳したほうが良いかもしれません。

利息も利益も、商業においては不可欠なもので、それは危険を冒すことへの報酬と考えられます。申命記23章19,20節には「同胞」から利息を取ってお金を貸すことは禁じられていますが、外国人から利息を取ることは許されています。それはたとえば医者が患者から診療費を取っても、家族を治療して報酬をとるということはありえないのと同じです。

ユダヤ人はバビロン捕囚によって国を失って以来、寄留の地において土地を持つことは困難になりましたが、その代わり、商業や金融業によって財産を増やしてきました。そしてその利益は同胞の貧しい人々をささえるために用いられてきました。

 

  9節の「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれるとは、まさに耳の痛い話しです。

ここでも「教え」の原文はトーラー、その基本は三千数百年前に記されたモーセ五書ですが、その御教えを聞こうとしない者は、たとい創造主に向かって熱心に祈っても、「その祈りさえ忌み嫌われる」というのです(15:8)

 

 「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ(28:10)とありますが、「正直な人」とは厳密には「まっすぐな人」と記され、「潔白な人」とは「完全な人」または「健全な人」と記されています。

つまり、まっすぐな人を悪い道に惑わすほどに狡猾な者は、自分の仕掛けたわなに陥ってしまう一方で、日々の働きを喜ぶ健全な生き方をする者は、すべての「しあわせ(よいもの)」を受け継ぐというのです。

「完全な人」または「健全な人」とは何よりも神からのすべての恵みを心から喜ぶことができる人です。

 

  11節の「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる」とは示唆に富んでいます。富む者は自分を成功者と見ていますが、それこそ危ないことです。なぜなら、自分を知恵ある者と思い込むことこそ、2612節にあったように、愚か者よりも始末が悪いからです。

それに対し、貧しさの中で不足を知っている人は、その分別(見分ける力)を用いて、自分の現実を神の視点から見られるようになるというのです。

 

  12節では「正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す」と記されますが、これは人と人との集まりの中で考えるとよくわかります。

神を恐れる「正しい者」の喜びは社会全体の光栄ですが、悪者が権力を握るとき、人々は自分の身を隠すようになります。

 

 日本の文化の中では、個々人の個性が共同体の中に埋没してしまいがちです。しかし、479節では神の御教え(律法、トーラー)に対するひとりひとりの態度が問われています。神はひとりのアブラハムから神の民を創造しようとされました。そしてクリスチャンとなるとは、アブラハムの子孫となるという意味です。

人間的な意味での共同体の調和以前に、ひとりひとりがどれだけ神との親密な交わりを築いているかが問われているのです。

 

3.「幸いなことよ、いつも震えている人は」 

13節では「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」と記されていますが、これはダビデやペテロの例を見ると良くわかります。世界中の人が彼らの問題を知っていますが、それは彼ら自身が望んだことでした。

彼らは自分を神のあわれみの見本としたのです。それはどんな罪人も自分の罪深さに失望することも、自己嫌悪に苛まれることもなく、神のみもとに立ち返ることができるためでした。

 

  14節は「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る」とありますが、原文では「主を恐れている」ということばは、単にいつも震えている人」と記されています。1節と対照的に思われますが、この中心は自分の弱さや頼りなさをよく知っているという意味です。

詩篇の祈りにはダビデの恐怖心が生々しく描かれています。彼は恐れを告白して勇気を得たのです。それと反対に「心をかたくなにする」とは、手綱さばきに従おうとしない馬のようなることです。間違った道に進んでいても強情すぎて修正が効かなくなります。

 

私たちは周りの意見や評価に左右されない堂々とした生き方を理想としますが、それは時によっては、「心をかたくなにする」という生き方につながります。自分の弱さや愚かさを自覚して「恐れおののいている人」の方が、神に喜ばれるということを忘れてはなりません。

ですから使徒パウロも、ご自分をむなしくされたキリストの謙遜の模範を示した後で、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです(ピリピ2:1213)と勧めています。

 

4.「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主(ヤハウェ)に拠り頼む人は豊かになる」

 19節から27節は堅実な生き方を勧めたものです。まず、「自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる」(19)という表現では、「飽き足り」「飽きる」という同じ原文が繰り返されていますが、これは「満ちる」とも訳すことができます。

むなしいもの」とは「空っぽ」とも訳すことができることばです。それは見せかけの豊かさを追い求めることです。地に足のついていない生活には貧しさが伴います。

 

  「忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない(20)とありますが、「罰を免れない」ということばは、厳密には、「無実ではいられない」と記されています。つまり、これは富を得ようとあせる者は、どこかでこの世の悪に手を染めざるを得なくなるという意味です。

それに対し、目先の富よりも「忠実さ」(真実さ)に価値を置く生き方は、創造主に喜ばれ、「多くの祝福」を受けることができるというのです。

 

  21節の「人をかたより見る」とは、原文では「顔で見分ける」と記されています。つまりここは、「人を見栄えで判断するのは良くない。人は一切れのパンで、そむくのだから」という意味だと思われます。それは、「心は何よりも欺くもの、それは癒し難い(エレミヤ17:9私訳)と記されている通りです。

人を疑いすぎるのも問題ですが、見かけで信じ込んでしまい、裏切られて人を恨むという悪循環に陥るようなことは避けなければなりません

 

24節では、「自分の父母の物を盗んで、『私は罪を犯していない』と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である」と記されていますが、これは親の財産を受け継ぐのは子供の当然の権利と思い込む中で起こることです。

これは親の承諾なしに親の財産を奪うことばかりか、放蕩息子のたとえのように、親が元気なうちから遺産の先取りを請求するような生き方を指します。自分の手で稼ぐことを厭うような者は、この社会を滅ぼす者たちの仲間です。

 

25節では「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし(ヤハウェ)に拠り頼む人は豊かになる」と記されていますが、最初のことばは厳密には、「広いたましい」(満足を知らない生き方)と記されています。

使徒パウロは弟子のテモテに向かって、「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(Ⅰテモテ6:5,6)と書いています。依存症的な人は、いつも「もっと、もっと」という心の渇きに駆り立てられていますが、そこには絶え間のない争いが生じます。

一方で、「主(ヤハウェ)に拠り頼む」とは、今ここで、様々な欠けがあるままで、最終的にはすべての必要が満たされることを知って、安心していられる心の状態を指しています。「豊かになる」ということばは、厳密には、「太る」と記されています。それは健康な動物が脂身の豊かな状態になることからイメージされた表現です。それは繁栄するとも訳されます。

そして、豊かな心こそ、豊かさの源となります。心の余裕こそが、生活の余裕の最大の源になるというのです。

 

  ただそこですぐに同じ「拠り頼む」という動詞を用いながら、「自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる」(26)と記されます。

私たちは自分の心の強さや豊かさに拠り頼むのではなく、神に拠り頼むことが求めれています。

知恵をもって歩む」とは、一瞬一瞬を、「心を尽くして主(ヤハウェ)に拠り頼め。自分の悟りにたよるな(箴言3:5)というみことばにしたがって歩むことに他なりません。

 

 27節では、「貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける」と記されますが、これこそ、主にある経済生活の基本です。出し惜しみする人には、主にある豊かさは巡って来なくなります。

イスラエルの死海はまわりの地域から水を受けるばかりで、受けた水を注ぎだす場所がないので塩分が蓄積され、生き物が住むことができない死の海になっています。一方、ガリラヤ湖はヨルダン川に大量の水をいつも流し出しますが、ヘルモン山の雪解け水をいつも受けて、その地域はあらゆる生物の宝庫となっています。

 

四年前にフィリピンで福音自由のアジア会議が開かれアジアのリーダーの方々と交わりを築くことができました。その後まもなくフィリピンを大洪水が襲いました。私は当時日本の福音自由の会計担当として諸教会に緊急支援を訴え、短期間のうちに多額の資金をお送りすることができました。

それから一年半後、東日本大震災が起きました。今度は、日本の教会はアジアの諸教会から支援を受ける側になりました。そのようなことはまったく初めての経験でした。私たちの身近な方もシンガポールで日本支援を訴えのために労してくださいました。

 

そして、今、シンガポール、香港、フィリピンの教会は東京での宣教の働きに興味を抱き始めています。また、一方で、ミャンマーの福音自由教会の牧師の教育に日本人牧師を短期間でも遣わして欲しいとの要望も出てきております。

世界の様々な必要に目を開き、それに積極的に応える働きは、不思議に、いろんな人々を結びつける働きにつながります。

人はだれも、生きた心の交わりを求めています。何かに駆り立てられるような動きではなく、それぞれの自由な気持ちからいつも何かが動いている教会、そのような群れこそ人を引きつけます。

 

米国やシンガポールの教会指導者との会話の中で、彼らは何よりも日本の教会のビジョンを聞きたがっているということに心が動かされました。

彼らは明確なビジョンのあるところにはいくらでも献金をしたいと願っています。私たちに必要なのは、お金や人材の問題以前に、ビジョンであるということが改めて心に残りました。

 

 「主に拠り頼む人は豊かになる」の「豊か」を「太る」と訳すと、主に信頼したいという思いが萎えるかもしれません。しかし、これを共同体的な「太さ」と理解したらどうでしょうか。人間は、基本的に、人と人との交わりの中で生きています。

「幸せへの扉は外に向かって開く」とも言われるように、あなたの目が自分の生活の余裕ばかりに向かい、世界の必要に向かっていなければ、太ることによって自分の身体をむしばんでしまいます。

私たちの交わりが世界に広がるとき、そこには不思議な豊かさが生まれることでしょう。与えれば与えるほど、新陳代謝が良くなり、あなた自身はスリムさを保ちながら、共同体として豊かになって行けます。そこで大切なのは、あなたのビジョン、この教会のビジョンです。能力とか時間の限界を最初から考えてはなりません。

必要な人材も資金も、主ご自身が用意してくださいます。主にあって大きな夢を抱きながら、同時に、地に足の着いた歩みをしたいものです。

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2013年9月 8日 (日)

箴言26,27章「愚かな者?の間で生きる知恵」

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  「人を見たら泥棒と思え」ということわざがある一方で、「渡る世間に鬼はなし」ということばもあります。世の中には信じられる人もいれば、信じられない人もいます。

それなのに信仰者は時に、「『愛』とは、『すべてを信じ、すべてを期待する(Ⅰコリント13:7)と書いてあるのに、私は人から裏切られるのが恐くて、人を信じられないのです」と自分を責めてしまうことがあります。

そのような人には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」「心は何よりも欺くもの、それは癒し難い」(エレミヤ17:9新改訳と私訳)ということばが逆説的な慰めになります。

 

今回の箇所には「愚か者」「なまけもの」「争い好きな人」などという不快な表現が満ちています。その一方で、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな・・・人はその友によってとがれる」ということばもあります。

「人は信じるべきか、信じてはならないか」などという二者択一的な問いかけ自体が的外れなのです。箴言には極めて現実的な知恵のことばが記されています。それをともに味わってみましょう。

 

1.「愚かな者は自分の愚かさをくり返す」

261-12節には「愚か者」に関しての記述があります。謙遜な方々は自分を「愚か者」と思うことがあるかもしれませんが、主は、主を恐れて礼拝する者を決して「愚か者」とはお呼びになりません。

愚か」の反対ことばは、「知恵」または「知識」です。そして箴言の中心テーマは、「主(ヤハウェ)を恐れることは知識の初めである(1:7)ということばです。人は、「善悪の知識の木」からその「実」を取って食べた結果として「死」に定められました。神は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのに、人は主のことばを軽蔑し、自分を善悪の基準にしてしまいました。

つまり、自分を神とすることこそが「愚か者」の生き方なのです。私たちの周りには、この世的にはとてつもなく頭が良いのに、主の目には救いがたいほどの「愚か者」が数多くいます。

 

  まず、261節では、「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ」と、「愚か者」に名誉を与えることは、「夏の雪」や「刈り入れ時の雨」のように人々に害を与えると警告されます。

 

続けて、「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない」(26:2)とは、この世界にはすべて原因と結果の関係が見られるということです。しかしそれは決して仏教のような因果律ではありません。

いわれのないのろいはやって来ない」とは、「のろい」を受けるのは、その人個人の側に問題があるというよりも、私たちのはかり知ることができない「いわれ」があるということですが、それは、すべてが主のご支配の中で起こっているということに他なりません。

愚か者」はそれを認めようとしません。仏教の因果律には創造主の入る余地はありませんが、聖書の原因結果の核心は、すべて神のご支配という観点から見るということです。

 

  馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」(26:3)という奴隷への体罰を肯定するような表現には違和感を覚えますが、詩篇32:9には「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない」という記述との関連で見るとよくわかります。「愚か者」には自主的に神のみこころに従うという判断は期待できないので、むち」という強制力が必要だというのです。ただ、奴隷制が一般的だった三千年前とは異なり、これを今実践すれば問題が起きます。

しかし、それでも、善悪をわきまえない子供にはむちが必要な場合があります。それについては、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる(13:24)と記されています。

 

  45節は箴言のことばらしい矛盾が見られます。すべてのことわざには文脈があり、それを無視すると害になります。

ここでは「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう」と記され、「愚かな者」に、あるときには「愚かさにしたがって答えるな」と言われ、あるときにはその逆に、「愚かさに従って答えよ」と真逆のことが命じられます。

大切なのは、その目的です。私たちは愚か者の世界に入りきったような会話をしてはなりません。しかし、同時に、愚か者のままでは分からない世界神を信じて見なければ分からない世界があるということをいつも明確にしながら、信じるというコミットをしないままで分かった気になっている人に信仰への渇きを持たせる必要もあります。箴言のことばは、常に、その文脈と目的から意味を理解する必要があります

 

 愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける(26:6)とは、愚か者はことづけの文脈を理解しないので、その真意を真逆に伝える可能性があり、「愚か者」に信頼すると身の破滅を招くというのです。

 

また、「愚かな者が口にする箴言は、足のなえた者の垂れ下がった足のようだ(26:7)とは、その箴言の目的を理解しないまま言葉だけが独り歩きしてしまうときに、「垂れ下がった足」のように無用の長物になるからです。

 

また、9節では同じように、「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ」と記されます。意味や目的を知らないまま使われることばが、「いばら」のように人や自分を傷つけるだけだからです。

 

また「愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ(26:10)とは、温情で愚か者を雇ってしまうことが、かえってその周りの人に多大な迷惑をかけ、不必要な被害を起こしてしまうからです。

 

そして、「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す(26:11)ということばはⅡペテロ2:22で引用されていますが、それは単なる人間的な知識のレベルで回心を表明した人は、同じ過ちを繰り返すばかりか、いのちのことばへの感動が無くなることで、どんどん状態が悪くなることを指しています。

 

そして、最後に、これらすべてを「私は愚か者ではないから」と他人事のように、愚か者を軽蔑して聞く人への警告が、「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある(26:12)と辛らつに記されます。

先に箴言12:15では、「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし、知恵のある者は忠告を聞きいれる」と記されていました。

愚か者」よりもなお「愚か」なのは、自分には忠告や助言がまったく必要ないと思っている人だというのです。愚か者を軽蔑する人は、愚か者よりさらに愚かになっている恐れがあります。

 

2.「なまけ者は・・・自分を知恵のある者と思う・・・争い好きな人は争いをかき立てる」

  13-16節には「なまけ者」について描かれます。彼らは自分が働かない理由を様々にあげ、たとえば、「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」などと、危険を過度に表現します。

 

また、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる」とは、戸の開け閉めという便利さや自由さと、なまけ者のまったく非生産的な動きが対照的に描かれます。

そして、彼らの動きの鈍さが、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう」などと滑稽に描かれます。

 

その上で、「愚か者」の場合と同じように、「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う」と描かれます。

なまけ者」の本質は、目の前の大きな課題を冷静に見られないことです。問題の背後にある様々な要素にまで目を向けないからこそ、一面的な善悪の判断を目の前のことに下す悪しき評論家のように振る舞うことができます。異なった意見の背後にあるものを見ようとする努力がまったく見られません。

 

  17-28節は、「争いを作る者」というテーマでまとめることができます。

まず、「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ」とは、問題をただ大きくする者の愚かさを描いたものです。

 

また、「気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ」(26:1819)とは、分別のない人が死をもたらす矢を平気で投げてしまうことがありますが、自分の行いがどれだけ人を傷つけているのかという理解力が不足してい人もそれと同じことをしています。

 

特に20-22節では「陰口」(ゴシップ)が争いをかきたてる様子が、「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」と描かれます。

「陰口」が「おいしい食べ物」にたとえられるのは188節にも記されていますが、確かに、陰口を話す者も聞く者も、それによって人を見下し、優越感を感じることができるので、それは心に束の間の喜びをもたらします。

しかし、人への軽蔑のことばは、知らないうちにどんどん広がり、争いを正当化します。その人のことを知らない人までもが、「あの人は、そのような攻撃や報復を受けるのは自業自得だ」などと言い出します。

それと同時に、相手の側でも同じような陰口が広がっており、争いがエスカレートされて行きます。「陰口」こそが争いを拡大する最も隠れた原因なのです。

 

   26節には、驚くべき洞察が、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる」と描かれます。「集会」と訳されていることばは、新約では「教会」(エクレシア)と訳されることばでもあります。

これはもちろん、キリスト教会に限らずあらゆる集会に適用できる教えですが、ある集まりの中に絶え間のない「争い」があるとき、そこに集う人々の中に偽善や憎しみが隠されているという現実を知る必要があります。

ですから、しばしば、目に見える対立関係を調整することよりも、その背後の心の「憎しみ」が十字架の福音で取り扱われる必要があります。

 

最後に「偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く」(28)とありますが、「真理」と訳されていることばは、「被害者」とか「傷つけられた人」と訳すほうが一般的です(新改訳脚注)

残念ながら、嘘で人を傷つける人は、自分が傷つけた人をさらに憎みます。またその人は強い人にはへつらいのことばを吐きます。しかし、そのような偽りの態度は、やがてすべての人の前に明らかになり、すべての人から見捨てられるようになって、自滅します。

 

3.「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」

27章はそれぞれ独立した箴言の集まりで、特定のテーマの中にまとめることはできません。

あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」(12)とありますが、「誇る」「ほめる」ということばは同じヘブル語に由来します。

そこではまず、「私の将来は明るい」と誇る人の愚かさが、次には自画自賛する人の愚かさが描かれます。

ただし、不思議にも、前者では「誇るな」と記され、後者では「ほめさせよ」または「誇らせよ」と記されています。誇ること自体が悪いのではありません。人間にとって誇り」しばしば命よりも大切なものです。

 

パウロは自分の誇りを大切にしながら、「私たちは限度を超えて誇りはしません…誇る者は、主を誇りなさい。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です(Ⅱコリント10:1,17,18)と記していますが、「主のみわざを忘れた誇り」こそが問題なのです。

自分の将来は自分の力によって明るいなどと傲慢になっていると、その日のうちにも起きる様々なことに腹を立てるか、意気消沈するかのどちらかになります。

 

また、私たちはだれしも他の人から称賛は大きな励みになります。ここではそれを期待すること自体が戒められているわけではありません。自分の狭い基準によって、自分を神のようにして誇ることが問題なのです。

もしあなたの働きが他の人にとって本当に益となっているなら、黙っていてもその働きは称賛されます。

しかし、自分の働きを自己宣伝することは、その働きが自分の栄誉のためであったということをさらけ出すことになりかねません。

 

 34節では「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」と記されますが、「怒り」も「憤り」「ねたみ」もすべて神のご性質の根本にあるもので、それ自体が悪いわけではありません。

問題は、それらの感情が、神を忘れた「愚か者」の心から生まれてしまうことです。

私たちは自分の狭い価値観や相手の事情をわきまえないで、これらのマイナスの感情に駆り立てられてしまうことがあります。私たちは、これらの感情の強烈さ、それがもたらす被害の大きさをわきまえて、それらのコントロールを主に祈って行く必要があります。

 

   56節では「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさるBetter is open rebuke than hidden love。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」と記されます。

愛のゆえに沈黙してはならないときがあります。一時的に関係が壊れるとしても、それを恐れて沈黙してしまうなら、その人ばかりか、かかわるすべての人にわざわいをもたらすことがあるからです。

目先の調和より優先すべきことがあります。もし、あなたを傷つけた人がいたとしても、その人の動機に真実の愛が少しでも感じられるなら、それを感謝すべきです。

 

  910節の、「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる」とは、身近な人間関係を大切にすることの勧めです。

しばしば、人間関係で傷ついて来た人は、人から裏切られることを過度に恐れ、その兆候が少しでも感じられた途端、「裏切られる前に、関係を断つ」などという行動を取ることがあります。

しかし、ここでは「あなたの父の友を捨てるな」とまで記され、友情を世代を超えて受け継ぐことの大切さが描かれます。

日本でも、「遠くの親戚よりも近くの他人」と言われることがありますが、身近な友との関係を自分から切るほど愚かな生き方はありません。「愚か者」とは距離を置いたとしても、真の友との関係は築き続けるべきです。

 

  12,13節の「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ」とは、正しい勇気と危険を顧みない愚か者の冒険の関係を示します。

最初のことばは「君子危うきに近寄らず」という中国のことわざを思い起こさせますが、同時にそれに相反するような、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」ということわざもあります。問題は、「わざわい」の可能性をきちんと見極めずに行動することにあります。

また「他人の保証人となる」ことの危険は箴言では繰り返し描かれていますが、ここではそれ自体が否定されるのではなく、「愚か者」かもしれない人をむやみに信頼するのではなく、リスクを減らす手段をも取ることの知恵が求められています。

 

  1516節では、「長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる」と記されていますが、これは女を男と呼び換えても良いでしょう。

とにかく「争い好きな人」を伴侶とする決断をしながら、それを結婚後に正そうとしても無益であるということを語っています。すでに争い好きな人と結婚しているなら、「制する」のではなく「愛する」ことが求められています。

 

17節には、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」と記されますが、多くの人はこのことばを暗唱しています。興味深いのは、「人」ということばは厳密には、「人の顔」と記されていることです。

NKJ訳では、「As iron sharpens iron, So a man sharpens the countenance of his friend.」と訳されています。たとえば、斧の刃もヘブル語では「顔」と呼ばれるからです(伝道者10:10)

どちらにしても、練られた品性は顔に現れるということも事実ではないでしょうか。友との軋轢を恐れてはいけません。それは、56節にも記されていた通りです。

 

19節では、「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る」とさらに描かれます。人の心を見ることは至難の業ですが、その人の心は必ず、行動に現れます。そのことが、「よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない(20-22)と描かれます。

 

それは、第一に、「満ち足りる心を持つ敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(Ⅰテモテ6:6)とあるように、満ち足りる心を持っているかが態度に現れます。

第二に、その人の隠された品格は、他の人の称賛を得たときに明らかにされます。そこで自分の功績だけを誇ってしまう人は、神の愛も人の愛も自覚してはいません。

 

また、第三に、「愚か者」の「悔い改め」は安易に期待してはならないということです。その人の過去の習慣にその人の心は現れています。それをクールに見る必要があります。

もちろん、神にとって不可能なことはありません。神はどんな人をも造り変えることができます。

しかし、愚かな人にかぎって、「私は、生まれ変わったつもりでやり直します」などと悔い改めを表現します。そのことばを安易に信じることは、決して人を愛することではありません。

 

  人には、注意や助言が通じる人もいれば、まったく通じない人もいます。人が自分の思いや行動をそんなに簡単に変えることができるぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要はありませんでした。

人を愛することの本質は、人を安易に信じることではなく、裏切られても愛し続けると決心することです。裏切られることもあるという心の準備が必要とも言えましょう。

しかし、同時に、信じ続けるべき友がいることも確かです。裏切られても、弁護してくれる友を、神は備えていてくださいます。傷ついた分だけ、癒しも与えられます。

ひとつの裏切りで人間不信になるのは、まさにサタンに敗北することです。神はあなたに信頼できる友もお与えくださることを信じましょう。

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2013年9月 1日 (日)

ヨナ2-4章 「あなたは当然のことのように怒るのか」

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  私たちの視野は非常に狭いばかりか、その思い込みが強化されることがあります。

たとえば、日韓の間にトゲのように刺さる竹島(独島)の帰属問題では、それぞれの国民が自分たちの主張は100%正しいと主張し、相手の行動に怒りを顕にします。しかも、それぞれの国では、公的な立場にある人が、「相手がそのように言うのも一理ある」などと言えば、袋叩きに会い、役職を失いますから対話が困難です。

双方が自分の主張を絶対に正しいと言っていることは、双方にそれなりの理屈があるということでしょう。しかし、それを謙虚に聞くことさえできなくするのが「怒り」の感情です。

神がニネベを滅ぼすのを「思い直した」ことに対するヨナの怒りは、イスラエルの民からしたら極めて当然のことです。これを怒らないのは、非国民と言えましょう。

神は、ヨナの怒りを偏狭な愛国心と非難してはおられません。神はご自身の御顔を避けて逃げたヨナに徹底的に寄り添っています。

あなたは当然のことのように怒るのか」という神の問いかけは、神の視点からこの地上の出来事を見るようにという招きでもあります。

 

1.「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主(ヤハウェ)を思い出しました」

ヨナは、アッシリヤの首都「ニネベ」に行って、主(ヤハウェ)のさばきのみことばを宣べるように命じられますが、彼はそれを拒絶し、「タルシュシュ(スペイン?)に向かう船に乗ります。神は嵐を起こしてヨナの逃亡を妨げますが、ヨナは神に祈る代わりに、海に投げ込まれて死ぬことを望みます。

ただ、これらのことを通して、船に乗っていた人々は、ヨナの神、主(ヤハウェ)を礼拝するようになりました。

そして、その後のことが、「イスラエルの神 主(ヤハウェ)は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた(1:17)と描かれます。

 

ヨナは自分がなお生きていることに気づくと、「魚の腹の中から、彼の神、主(ヤハウェ)に祈って」

「私が苦しみの中から主(ヤハウェ)にお願いすると、主は答えてくださいました。

私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました」と言いました(2:2)

これこそ、私たちが苦しみの中でなお自分のいのちが守られていることに気づいたときに告白すべき言葉です。まだ出口が見えないのですが、苦難の中でも生かされていることは確かだからです。

 

その上で不思議にも彼は自分の苦しみを振り返りながら、「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました(2:3)と述べます。

彼は自分から海の真ん中に投げ込まれることを願ったのですが、これらすべてのことが主の御手の中で起こったという意味で、主が自分を投げ込んだと告白しています。

そればかりか、「私はあなたの目の前から追われました」と、引き続き自分を無力な立場に置きます。ただ同時に、「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」とも願います(2:4)

ヨナは、それまで「(ヤハウェ)の御顔を避けて」いましたが、自分のいのちが主の御手で守られていることを知った時、再び、エルサレム神殿に上り、主を礼拝したいと心から願ったというのです。

 

  またヨナは海の中での苦しみを振り返り、「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました」と言いながら、「しかし、私の神、主(ヤハウェ)よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました」と感謝の告白をしています(2:5,6)

またそれを別の観点から描いたのが、「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主(ヤハウェ)を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました(2:7)という表現です。

ヨナは窒息しそうな中で、祈る力もなくなっていたことでしょう。しかし、そこで聖霊ご自身が、「言いようもない深いうめきによって・・・とりなして」くださり、彼に主を思い起こさせ、祈りを起こし、その祈りは、はるか遠くにあるエルサレム神殿に届いたというのです。

彼はかつて、主の御顔を避けて、主から遠く離れようとしました。そして、彼が海の底でおぼれ死にそうなとき、つまり、人間的には主から最も遠く離れていたと思える時、主は彼のたましいをご自身の聖霊によってとらえておられたのです。彼は死を目前にして、信仰は徹底的に神の御わざであると悟ることができたのです。

 

  その上でヨナは「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」(2:8)と告白します。ここでの「恵み」とはヘブル語の「ヘセド(真実の愛)です。それは苦難の中で意図的に偶像の神々を求めることが、神からの真実な愛に対して心を閉ざすことになるという意味です。

私たちは祈る気力が湧かない時、この世的な刺激で自分の心を元気づけようとするかもしれません。しかし、そこで大切なのは、ただ萎えてしまった心を神の前に差し出し、神からの一方的な真実な愛(ヘセド)に対して心を開くことなのです。

 

 ヨナは最後に、「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです」2:9)と告白します。

これは彼が、もう主の御顔を避けるという愚かな生き方をやめて、主のご命令に従うという告白です。なぜなら、主のみこころに従うことにまさるいけにえはないからです。

 

 (ヤハウェ)はヨナのこの告白を聞いた後、「魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させ」ました(2:10)。

 

2.「それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」

その後、主からヨナに再び、「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」(3:2)との命令がありました。

それに対し、今度は、「ヨナは、(ヤハウェ)のことばのとおりに、立ってニネベに行った」と記され、ニネベの大きさが「行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった」と描かれます(3:3)。

 

そしてヨナの行動が、「ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び」と描かれ、そのメッセージの内容が、もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と記されます。

普通の状況ではヨナのことばに人々が耳を傾けることはないはずです。ただ当時のアッシリヤ帝国は、地方の反乱に悩まされ、紀元前765年と759年には記録的な大飢饉に襲われ、紀元前763615日は皆既日食がニネベで起きたと言われます。それは当時の人々に恐ろしい不安を呼び覚ましていました。彼らはそのような中で、ヨナの断固たる宣言に耳を傾けたのではないでしょうか。

ヨナは死の淵から神のあわれみによって生き返り、神の力によって神のことばを取り次ぐ器とされていました。私たちが神の聖霊に満たされるとき、私たちを通して神は語られ、そのことばは人々の心に届きます


  先週の水曜日、828日はマルチィン・ルーサー・キング牧師がワシントン市での黒人の地位向上のデモを導いた後に、「I have a dream(私には夢がある)という白人と黒人の和解の夢を語って、アメリカの国民の心を動かした日でした。それはちょうど50年前のことでした。

当時のアメリカで、黒人の大統領の誕生など、誰も思い浮かべることはできませんでした。しかし、キング牧師のことばが、黒人の中にある憎しみのエネルギーを希望のエネルギーへと変えて行きました

これは驚くほど精巧に準備されたメッセージのように思えます。しかし、現実は、彼は直前まで、何を語るか決めかねており、その場に同席した女性から「あなたの夢を語りなさい」と言われてこれが生まれたとのことです。もちろん、彼は十分な準備をしていました。準備の足りない説教はすぐにぼろを出します。

 

しかし、それまでの誠実な積み上げがあるなら、その場でふさわしいことばは生まれます。すばらしい礼拝説教とは、一字一句が準備されていながら、そのテキストを離れて生まれるとも言われます。

ヨナの説教には、そのような迫力があったことでしょう。それは何よりも、主ご自身が、ヨナを海の真ん中の深みに投げ込み、彼を徹底的な絶望に追いやり、その上で聖霊ご自身が彼の中に真の悔い改めの祈りを起こしてくださったからでした。

 

  そして、ヨナの説教を聞いた人々の反応が、「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た」3:5)と描かれます。

それまで偶像の神々を拝んでいたはずのニネベの人々は、このときヨナの神を、ニネベをたちどころに滅ぼすことができる全世界の支配者であると認め、その神の前に徹底的にへりくだる姿勢を見せたというのです。

断食は神に徹底的にすがるというしるしであり、「荒布を着る」とは喪に服し、この世的な喜びを断つという意志の現れです。

 

そればかりか、「このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった(3:6)と描かれます。

権勢を誇っていたアッシリヤの支配者自身も、ヨナの神の前にへりくだり、自分が吹けば飛ぶようなちっぽけな存在であると告白したのです。

 

  その上で、「王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出され」ます(3:7)。

その内容は、「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」(3:7-9)というものでした。

 

これは人ばかりか家畜にも断食と喪に服する姿勢を取らせ、ひたすら神に叫び続けるばかりか、「悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ」という生き方の転換を迫るものでした。

そこで期待したのは、神がわざわいを思い直してくださるということでした。興味深いのは、人間の側の「立ち返る(回心)によって、神ご自身の回心が起きると期待したことです。

ここは厳密には、「神が立ち返って思い直し、その燃える怒りから立ち返り・・・」と記されています。

 

私たちの回心が神の回心を起こすというのは不思議なことですが、エレミヤ1878節にも、「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改める(立ち返る)なら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」と記されています。

 

  そして、彼らの回心の熱心に対する神の応答が、「神は、彼らの行い、悪の道から立ち返ったのをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」と描かれます(3:10一部私訳)

ここでは、神が彼らの断食や荒布をまとうという姿勢と、悪の道から実際に「立ち返る」という現実の行いの変化を見て、「思い直された」と表現されています。

私たちは他の人に謝るとき、「もう、決してこんなことはしませんから・・・」などと、口だけで熱心に謝ることがありますが、ここに描かれているのは、神が現実に、ニネベの人々の回心の姿勢と、悪の道から立ち返るという行動の変化を見て、「わざわいを思い直された」ということです。

 

  私たちの主イエスはこの出来事を振り返りながら、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。

なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです(マタイ12:39-41)と言っておられます。

 

  ここで、「預言者ヨナのしるし」とは何かについての様々な議論がありますが、ルカでは「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなった(11:30)と描かれているように、ヨナがことば以外の何かの奇跡を起こして人々を信じさせたというのではなく、人々の前に現されたヨナという人格自体がしるしとなったという意味だと思われます。

 

彼は三日三晩大魚の腹の中にいて、そこから再び神によって派遣されたことによって、その語り方がまったく異なった神の器になっていたということだと思われます。

それに対し、イエスの時代の宗教指導者たちは、神の御子であるイエスを目の前に見ながら、その人格に心が動かされることがなかったというのです。

たとえば、僕が皆さんに向かって、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と言ったって、ほとんど何の感動も起こさないことでしょう。しかし、マザー・テレサが同じことを言ったら、それは人々の行動を変革する生きた言葉となります。


3.「神である主(ヤハウェ)は・・・ヨナの不きげんを直そうとされた」

  このあとの記述は、私たちを戸惑わせます。それは、「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って4:1)と記されているからです。

ヨナはイスラエル王国に対する神のあわれみと、神ご自身が当時のイスラエル王ヤロブアム二世のときに国を繁栄させてくださるということを預言した愛国的な預言者でした(Ⅱ列王記14:25)

彼は当然ながら預言者として、イスラエルの人々に向かって、まことの神の前にへりくだり、偶像礼拝をやめ、その不道徳、不正な生き方を止めるように繰り返し語っていたはずです。しかし、ヨナのことばは、イスラエルの民を回心に導くことはできませんでした

ところが、ここでヨナは、自分のことばで見も知らぬニネベの人々が一斉に回心したのを見たのです。たぶん彼はこのとき、ニネベを首都とするアッシリヤ帝国がやがてイスラエルに襲いかかり、自分たちの国が滅亡するということを心から確信したことでしょう。神がニネベの人々の回心を喜んだということは、これから弱体化していたアッシリヤ帝国が再び繁栄に向かうということです。

ヨナはまさに自分の敵の力を回復させ、自分の国の滅亡への道を開いてしまったのです。彼が怒ったのは当然のことと言えましょう。

 

  それでヨナは、「主(ヤハウェ)に祈って」、「ああ、(ヤハウェ)よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。

私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主(ヤハウェ)よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。

私は生きているより死んだほうがましですから」と言ったというのです。

 

死んだほうがまし(3)という表現は8節でも繰り返され、また、9節では、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」とヨナは告白しています。これはすべて、神が「思い直す」方であることに向けられています。

ヨナからしたら、自分の人生が神の気まぐれなみこころの変化に振り回されているように思えたのです。彼はそれぐらいなら死んだ方がましだと思ったのです。

しかし、彼は大きな魚の腹の中にいたときには、自分のいのちが神のあわれみによって助けられことばにさえできなかった心の叫びがエルサレム神殿にまで届いたことを喜んでいたのです。

 

彼は自分が神に生かされていることは喜び、感謝しながら、神がイスラエルの敵をあわれみ、復興させることには死ぬほど怒っていたのです。まさに人間は、自分の視点からしか神を見ることができない者という現れです。

 

  なお、ヨナが神のご性質に関して語ったことは、主ご自身がモーセに二回目の契約の板を与える時に、彼を岩の裂け目に入れ、ご自身のうしろすがたを見させながら通り過ぎたときに、(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」とご自身を紹介されたことばと基本的に同じです(出エジ34:6)

つまり、ヨナは神のご性質を良く知っていた模範的な預言者なのです。

しかし、その神のあわれみが自分の敵の国に注がれることを知った時に、彼は主の御顔を避けてタルシュシュにのがれたばかりか、実際に神によって自分が遣わされ、彼らの悔い改めと神のあわれみを見たとき、「死んだほうがましです」というほどに怒ったというのです。

 

  それに対し、主(ヤハウェ)は、「あなたは当然のことのように怒るのか」と、ヨナに問われました(4:4)

それに対し、ヨナは何も答えることなく、「町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた」というのです。

これは、神が自分に語らせた通り、四十日してニネベを滅ぼしてくださるのを期待し、催促しているかのような姿勢と言えましょう。これは何とも不遜な態度です。

 

   ところが「神である主(ヤハウェ)は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた」(4:6)と不思議なことを行なわれました。

「とうごま」がどんな植物かは不明(聖書中ここだけ)ですが、「備え」ということばは、海に投げ込まれたヨナに「大きな魚を備え」というのと同じです。神は、ニネベの滅亡を望むヨナを責める代わりに、彼の気持ちに寄り添ってくださったのです。

それに対し、「ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ」と描かれます。主は確かに、「ヨナの不きげんをなおして」くださったのです。事実、「不きげん」と訳されたことばは、41節の「不愉快」と同じで、「惨めさから救う」とも訳されるからです。

 

   ところがそれは一日だけの安らぎでした。それは、「しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられ」(4:7,8)とあるからです。

ここでも「虫を備え」「東風を備え」という神の「備え」が繰り返されていますが、今度は神がヨナのために救いの代わりにわざわいを備えられたという趣旨で記されています。

そしてこの東風によって仮小屋は吹き飛ばされたのかもしれません。その結果、「太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って」というほどに苦しみ衰弱し、先ほどと同じように、「私は生きているより死んだほうがましだ」と怒ります。

 

それに対し、神はヨナに、「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか」と言われます。それに対しヨナは、今度は明確に、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と真っ向から応答し、自分の怒りを正当化します。

ヨナが最初に「死んだほうがまし」と言ったのは、神が「思い直して」ニネベを滅ぼすのをやめたからです。そして、次にここでは、神がわざわざヨナの「不きげんを直す」ようなあわれみを施した後で、ヨナが何の罪も犯していないのに、その恵みを一晩のうちに取り去ってしまったからです。

ヨナはまさに、「神の気まぐれに振り回されるのはもう御免だ・・死んだ方がましだ」と思ったことでしょう。

なお、この「とうごま」によるごく一時的な慰めは、神が一時的に北王国イスラエルに繁栄を回復してくださったことに対応しています。

ヨナはこのとき、とうごまを一晩で枯らせ、東風を吹かせた神が、北王国イスラエルをもたちどころに滅ぼすことを恐れたことでしょう。

 

  ヨナにとっては、自分のいのちも自分の国も、神のみこころの中で翻弄されているように思えます。

それに対し主(ヤハウェ)は、「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」と言われます。

ヨナにとってニネベは敵の本拠地としか見えませんでしたが、神の目には、権力者たちに振り回されているだけの社会的な弱者のことが見えていました。

実際、ニネベでの回心は「身分の高い者から低い者まで」という民衆のレベルから始まったことだったからです。もし、ニネベにヨナの親しい友か家族が滞在していたとしたら、ヨナはまったく異なった態度を取ったことでしょう。

 

  愛国者の視点からしたら、ヨナが怒るのは当然のことです。しかし、ヨナにあわれみを注ぐ神は同時に、ニネベに住むひとりひとりにも目を留めておられます。

私たちの目からしたら、ニネベに見られたような不条理が正されないのは正義に対する神の一貫性のなさ、気まぐれのように思えることがあります。しかし、それは神がひとりひとりをあわれんでおられるからに過ぎません。

神はヨナの場合のように私たちの心に信仰を起こしてくださるばかりか、私たちが神のみこころを実行できるように力づけてくださいます。

また、ニネベに対するように私たちの態度の変化に柔軟に対応して、ご自身のあわれみを施し、ご自身の計画を変えてくださいます。

神は私たちとの対話を望んでおられます。神のみこころは、柔軟に変わりえるということは、私たちにとっての何よりの慰めなのです。

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