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2013年10月27日 (日)

Ⅰテサロニケ2:13-3:13「信仰の成長とは?」

                                                 20131027

  クリスチャンとして生きることを決めたからには、自分の信仰の成長を願うのは当然のことです。しかし、私の場合はどうも、「信仰の成長」などと言われると、信仰の世界にそれを測る何らかの人間的な尺度が持ち込まれるようで、抵抗感を覚えてきました。

また「信仰」と「信念」が混同されることもあります。確かに試験や試合に臨んだとき、必勝の信念は大いに役に立つものです。でも日本陸軍はこれを標語にして無謀な戦いに人々を駆り立てました。

 

聖書での「信仰」はヘブル語ではアーメンの類語であり、ギリシャ語では「真実」とも訳されることばで、基本的にどちらも、「神の真実」に対する私たちの応答として描かれます。つまり、「信仰」は、人間の心の働きというよりは、神のみわざから湧き上がる私たちの側の応答なのです。

「必勝の信念」などでは、「戦う前から負けたときのことを想定しているようでは既に負けたも 同然である」などと言われることがありますが、聖書の信仰では、皮肉にも、最初からこの世的には「わざわい」と「苦しみ」が約束されています。

それでも、目に見えない神に信頼し続けることができるのは、自分の人間的な力の限界が見えたところでこそ、人智を超えた神の力が体験されるからです。

 

1.「ユダヤ人は・・・神に喜ばれず、すべての人の敵となっています」

 213節には「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」と記されています。

興味深いのは、彼らが聞いたのは表面的には「人間のことば」でありながら、実際には、この世界を創造した「神のことば」であり、それが「信じているあなたがたのうちに働いている」というのです。

そして、「光があれ」との「ことば」で光を創造された神ご自身の「ことば」が、「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださ(Ⅱコリント4:6)います。

神のことば」が私たちのうちに働くことは、「新しい創造」の始まりです。

 

 そして、「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです(14)と記されていますが、これはギリシャ人が中心的メンバーであるテサロニケ教会の人々に向かって、彼らがキリストの使徒たちを中心としたユダヤ人の教会に「ならう者」となっているという「誇り」を与えたものです。

 

それはユダヤ人クリスチャンたちがユダヤ人から激しい迫害を受けたと同じように、テサロニケの信徒たちが同胞のギリシャ人から迫害を受けていたからです。

イエスはかつて弟子たちに向かって、「わたしのために、人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを人々はそのように迫害したのです(マタイ5:11-12)と言われました。迫害は、神のことばの力を輝かせる舞台となるのです。

 

そればかりか、クリスチャンを迫害するユダヤ人に関して、「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました(2:1516)と厳しく責めています。

パウロがこのように書いているのは、彼がテサロニケで伝道した時、「ユダヤ人の会堂に・・入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた」のですが、パウロの話しを受け入れ、彼に従った中に、幾人かのユダヤ人のほかに、「神を敬うギリシャ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった」のを見て、「ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ」、パウロとシラスを捕らえようとしましたが(使徒17:1-5)、そのためパウロ一行はすぐにこの町から発ち去らざるを得なくなった得なくなったばかりか、彼らに従った多くのギリシャ人が激しい迫害にあったからです。

 

まさにユダヤ人がテサロニケ伝道の最大の妨害者となったばかりか、ギリシャ人クリスチャンが同胞から迫害を受けるきっかけを作ったのです。そのとき、ユダヤ人たちは、「彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」という言いがかりをつけました。

パウロはそれに心を痛めていたからこそ、神の民であるはずの彼らが、実際には、「神に喜ばれず、すべての人の敵となっています」と激しく非難しました。

そればかりか神の「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しました」とまで言いますが、これは間近に迫ったエルサレム神殿の崩壊を指しているものと思われます。

神はユダヤ人を通して世界にご自身を知らせ、すべての人々を神の民へと招き入れようとされましたが、ユダヤ人はその反対に、神のご計画の最大の妨害者となりました。

 

なお、この箇所は、後に、キリスト教国がユダヤ人を迫害する最大の根拠として用いたみことばの一つですが、パウロは同時に、ローマ人への手紙では、ユダヤ人の救いを切望して、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです(ローマ9:3)とも書いていることを忘れてはなりません。

パウロはここで、最初の使徒たちの教会がユダヤ人によって迫害されたことと、テサロニケの教会が同胞のギリシャ人から迫害されたことを描いています。同じように日本のクリスチャンを迫害するのは日本人です。

キリストを殺したユダヤ人と、クリスチャンを迫害する日本の文化は同じように「神に喜ばれず、すべての人の敵」となっています。

私たちは彼らの悪だくみを直視するとともに、パウロが同胞であるユダヤ人の救いのために「のろわれた者となることさえ願いたい」と言うほどに愛した、その愛を持って、同胞の日本人に福音を宣べ伝えるべきでしょう。なぜなら、神の怒りは確かに不敬虔な日本人の上にも臨んでいるからです。

 

2.「サタンが私たちを妨げました・・・誘惑者があなたがたを誘惑して・・労苦がむだになる」

  1718節では、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので─といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、─なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」と記しています。

パウロはユダヤ人たちの策謀によって、テサロニケの信者から肉体的に引き離されました。ただ、心においては引き離されてはいないとも敢えて記しています。そして、心でつながっているからこそ、「顔を見たいと切に願って」、実際に訪問を二度までも計画しましたが、サタンに妨げられたと記しています。

最初に引き離したのはユダヤ人でしたが、今度は、「サタンが妨げた」と記しています。

 

パウロは、二回目の伝道旅行の時、現在のトルコの南西部のアジヤや北部のビテニヤで宣教しようとしましたが、二度にわたって、「聖霊によって禁じられた」「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」と記しています(使徒16:67)。それはパウロをヨーロッパ伝道へと導くための、神のみこころに沿った妨害でした。

私たちが善意に満ちてあることを計画しながらそれが妨げられることがあります。それは聖霊によって差し止められたことかもしれませんし、サタンの妨害かもしれません。

確かにサタンも神の御許しの範囲でしか行動できませんが、パウロは、ユダヤ人の策謀に関しては、大胆に明確な神によるさばきを宣告したのと同じように、ここでは宣教の妨害をサタンの妨害と理解しました。

そして彼は、サタンの妨害に屈すことなどあり得ないという意味でこう語ったのです。

 

 その上でパウロは、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです(2:19,20)と記します。

彼はキリストの再臨のときに、テサロニケの信者たちこそが、自分たちにとっての「望み」「喜び」また、「誇りの冠」であると記しながら、現在すでに彼らこそが、「誉れ」であり「喜び」であるとさらに重ねます。

 

 パウロにとってテサロニケの教会はかけがえのない宝でした。それで彼の取った行動が、「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わした」と記されています(3:1,2)

パウロはテサロニケを追い出された後、その西にあるベレヤに伝道しましたが、そこにもユダヤ人たちが押しかけて来ました。パウロはやむなくシラスとテモテをその地に一時的に残したまま、ギリシャの南部のアテネにまでたどり着きます。

彼はふたりを待つ間、アレオパゴスで有名な説教をします。そうしながらもパウロはテサロニケ教会のことが気になってたまりませんでした。それでアテネにようやくたどり着いたばかりのテモテを、再び元の地に戻すように、はるか北のテサロニケに送りました。

 

そしてその目的が、「それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするため(3:2,3)と記します。

パウロは彼らの信仰が苦難の中で動揺することを心配していました。ただ、同時に、「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです(3:3,4)と記しています。

 

私たちが苦難の中で動揺するのは、「こんなはずではなかった・・」と悩むからですが、パウロは、苦難に会うのは、想定外のことではなく、それは以前から定められていたことだというのです。日本人は、言霊(ことだま)思想の影響下にあります。

ですから、キリスト教式の結婚式であっても、「切る」「離れる」「分かれる」というような言葉を使わないようにと細心の注意を払います。なぜなら、発せられた言葉に魂が宿って、そのとおりのことを実現させると恐れる信仰があるからです。

ある学者は、日本人が最悪の原発事故の可能性を想定した対処ができなかった最大の理由に、この言霊思想があると言います。事故の可能性を公言すると、それがかえって事故を招くことになると思われるというのです。第二次大戦の際も同じような呪縛で、敗北を想定できないまま原爆投下を招きました。

 

私たちの日常用語でも、「縁起でもないことを言わないで・・」などという表現が身近にあります。しかし、パウロは、ここで「苦難に会うようになる」と繰り返し言っていることが、何よりの苦難への備えとなると信じていたというのです。

それはキリストご自身から直接に親身な指導を受けたペテロも、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(4:12,13)と書いている通りです。

それは初代教会の人々の間にも、「火の試練」に襲われたとき、「どうして、こんなことに・・」と「驚き怪しむ」風潮があったことを示しています。

 

ですからパウロもここで、苦難に会っている人に対して、「はたして事実となった」と、それを堂々と受け止めるようにと命じています。

それは何よりもイエスご自身が、「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16:33)と、患難の中での勝利を約束されたからです。

 

そして、パウロは改めて、「そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです(3:5)と記します。

この「誘惑者」とはサタンのことです。そしてサタンは、試練に会っている人に向かって、「イエスに従っても、何にも良いことがないではないか・・・」「おまえの神が無力だからこんな苦しみに会うのだ」などと、試練を用いて、人々の信仰を揺るがそうとします。

サタンの働きは、日本の言霊思想の中にも見られ、また、「試練」を信仰の破船の機会として用いる「誘惑者」としての働きの中にも見られるものです。

 

3.愛を増させ、満ちあふれさせ・・・聖く、責められるところのない者としてくださいますように

ところがパウロの心配は杞憂に終わりました。そのことが、「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました」(3:6)と記されています。

良い知らせの第一は、彼らの信仰が揺らいでいないことでした。第二は彼らの「愛」でした。それは続く、「あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっている」という彼らの心の動きでした。

パウロはテサロニケの人々を愛しているからこそ、彼らに会いたいと切望しましたが、彼らの側でもパウロやシラスに対して同じ気持ちを抱いていました。

 

そしてパウロこれらのことを振り返って、「このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました」(3:7)と述べています。

「あらゆる苦しみと患難」は、深い慰めを受けるための舞台と変えられたのです。彼はなおも、「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」(3:8)と述べますが、最後のことばは厳密には、「今、私たちは生きている!」という感動の表現です。それは彼らが「主にあって堅く立っていてくれる」ことから生まれるものです。

 

彼は続けて、「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう(3:9)と、それらがすべて神の御わざであると受け止め、神に心からの感謝をささげようとしています。

そしてそれに付属する文節として、感謝にあふれる中での嘆願を、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈りながら(3:10私訳)と述べます。

パウロはもっと時間をかけて彼らに聖書を解き明かしたいと願っていました。なぜなら、彼はテサロニケでは三週間余りしか滞在できなかったのに、そんな短期間で教会が生まれたからです。しかも、その時代には、旧約聖書しかなかったから、その願いは切実でした。

しかし、パウロは彼らの信仰の不足を嘆いているのではなく、彼らの現在の信仰に関してどう感謝してよいか分からないと喜びながら、同時に、さらなる成長を望んでいるのです。

 

そして、その祈りの内容が11-13節に記されています。もし、パウロが私たちの教会のために祈るとしたら、何を祈るでしょうか?地上の教会には様々な必要があります。

それは、しばしば、お金であったり、奉仕者の必要であったりします。しかし、彼は私たちの緊急の必要以前に、これと同じことを祈るのではないでしょうか。

 

  その祈りの中心は、「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように(3:12)と、その結果として、「主イエスが・・再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように(3:13)ということでした。つまり、愛と聖さこそが最大の祈りの課題なのです。

ただし、パウロの当面の何よりの願いは、神が「私たちの道を開いてあなたがたのところに行かせてくださいますように」という具体的なことでした。それはそれまでの文脈からしたら、当然の願いです。

 

ここで不思議なのは最初に私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が(3:11)と呼びかけられていることです。ここでは、この御父と御子が意味上の主語であり、文法上の主語は「ご自身が」です。そして、道を開いて・・行かせてくださいますようにという動詞は三人称単数形です。つまり、御父と御子のみわざが合わされて、唯一の神のみわざと見られています。

しかも、原文では、12節に「主が」という主語が記されており、これは「聖霊」を意味するとも解釈できます。つまり、御霊の働きを、御父と御子に対して願っているのです。パウロは、この祈りの中で、御父、御子、御霊の、三位一体の神の交わりを意識していたとも言えましょう。

 

   12節の文章の中心は、主が、あなたがたを、愛において満ちあふれるほど豊かにしてくださいますように」と訳すことができます。その「愛」は、まず、互いの間という目に見える教会の交わりで表わされます。

イエスは弟子たちに、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)と命じられました。抽象的に、「世界を、会社を、教会を、貧しい人を、愛する」などと言う前に、ここで一緒に礼拝をしている目に見える隣人への愛が成長し満ちあふれる必要があります。

そして、その互いの間の愛が、すべての人へと広がって行くのが教会の成長であり、社会的責任です。私たちの交わりは外に向かって広がって行くものだからです。

またこの文章の最後には、私たちがあなたがたを愛しているように」と、付け加えられています。この私たち」とは、パウロ、シルワノ(シラス)テモテ(1:1)の三人です。パウロは自分の彼らに対する思いではなく、この町を最初に訪れた三人の交わりを思い起こさせています。

つまり、彼は、彼らの愛における成長を祈るとき、御父、御子、御霊の三位一体の神の交わりと三人の使徒の交わりを同時に思い起こしています。」とは、「あの人には愛がある」などという個人的な特質を意味する以前に、具体的な交わりの現実に見られるものだからです。

「愛」は、三位一体の神ご自身の愛の交わりから生まれ、人の愛の交わりを通して伝えられ、それは教会の交わりの中で成長し、満ちあふれて行くのです。

 13節では、「聖さ」のために祈られますが、それは愛と並行して求められるものではなく、愛の成長の結果生まれるものです。その初めの接続詞は、「また」ではなく、それによって」と訳されるべきです。文章の中心は、厳密には、私たちの父なる神の御前で、聖さにおいて責められることがないほどに、あなたがたの心が強められますように」です。

つまり、心が強め(支え)られる結果として、神の御前で責められることがないほどの、神のご性質に似た「聖さ」がキリストの再臨とともに達成されるのです。そして、心は、真実の愛によって強められるのです。

 

   パウロはテサロニケの人々の「信仰」を聞いて慰められたと言いながらも、同時にその信仰の不足を補いたいと熱心に祈っていました。つまり、信仰の成長は、「まだ」とか「もう十分」という人間的な尺度で測れるものではないのです。

彼が願った成長とは、何よりも互いの間の愛」「すべての人に対する愛」における成長です。それはまた、父なる神の御前に立つときに「聖さにおいて責められるところのない者」となるという目標を意識することです。

大切なのは、自分の信仰の成長というより、神と隣人の姿がいつも目の前に迫ってくることなのではないでしょうか。

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2013年10月20日 (日)

イザヤ52章3~10節「あなたの神が王となる」

                                                 20131020

   世の多くの人々は、家内安全、商売繁盛や災いを退ける厄払いを願って神社に参拝します。そのような中で、「イエスを救い主と信じることによって、今ここで、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。

 

私はしばしば、「どの人の人生にも闇の時期が訪れます。しかし、イエスに信頼する者は、痛み、苦しみ、悲しみの中にも、喜びと平安と希望を見いだすことができます。それを知っていることで、自分の損得勘定を超えて目の前の課題に真正面から向かう勇気をいただくことができるのです」と答えるようにしています。

預言者イザヤは、イエスの十字架への歩みの中に、神の救いのご計画を全うする「ユダヤ人の王」としての威厳を見させてくれます。

 

1.「主(ヤハウェ)があなたがたの前を歩み・・・しんがりとなられる」

52章初めでは、「さめよ。さめよ・・・あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム」と呼びかけられますが、これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたエルサレムが、栄光に満ちた姿へと変えられることを、霊の目で見ることの勧めです。

黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから出て、天から下ってくる」(21:2)と記されますが、それこそこの預言が成就するときです。

 

神の民は、最初、自分でエジプトに下って行って苦しめられ、この直前にはアッシリヤによって苦しめられました。しかし、彼らは借金の抵当で売られたわけではなりませんから、神のみこころひとつで、奴隷状態から解放されることができます(52:3,4)

イスラエルの苦しみは、主ご自身が、彼らを懲らしめ、反省させるために行ったことですが、当時の世界の人々は、エルサレムの滅亡は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力であったためだと思いました。

 

そのことを、主は、「わたしの名は一日中絶えずあなどられている(52:5)と嘆いておられます。そして、それは神の民自身が神を忘れてしまった結果でもあります。

しかし、それに対して、神の救いは、神の御名を思い出させることとして、6節では、「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日、『ここにわたしがいる』と告げる者こそが、わたしであることを知るようになる」と描かれます。

多くの人は、天地万物の創造主に向かって祈ることができるということが、どれだけ大きな心の平安になるかということを知らずに生きています。しかし、神を知ることこそ、また、その神にすがって生きることこそ、「永遠のいのち」の最も基本的な意味なのです。

 

7節からは、「なんと美しいことよ。山々の上にあって福音を伝える者の足は」という詩文になりますが、福音の内容は、「あなたの神が王となる」というものです。それはイスラエルの神がエルサレムからこの世界全体を治めるという意味です。

福音とは神のご支配が明らかになることです。主はまず神の民にご自身を啓示し、そして神の民を世界に遣わすことによって、世界にご自身を知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、ご自身の「平和(シャローム)」を必ず実現するという希望です。

なお、「その足は、平和を聴かせ」とありますが、パウロはこのことばを用いて、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:15)と勧めました。私たちは、「平和の福音」を身近な人との関係の中で味わい、またその「平和」を広げるために召されたのです。

 

そして、続いて、「彼らは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られるのをまのあたりに見る」(52:8)と記されているのは、エルサレムが廃墟とされたのは、主の栄光がエルサレムを立ち去ったからであり(エゼキエル11:23)、その救いは、主の栄光が戻ってくることによって実現すると理解されていたからです。

イエスのエルサレム入城こそは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られたということを現すものでした。エルサレムの人々はそのとき、この預言を成就するかのように、「共に大声をあげて歓喜」しました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖う救い主だと思われたからでした。

しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放する」という不思議な救いを実現してくださいました。

 

イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(52:10)とは、信仰者が常に死を乗り越えた希望に生きることができることに現されています。

最後に、「去れよ。去れよ。そこを出よ(11)とは、捕囚の国バビロンを出て、エルサレムに向かって旅をすることを意味します。「汚れたものに触れてはならない・・・身をきよめよ。主(ヤハウェ)の器をになう者たち」とは、主の宮の奉仕にために聖別されたレビ人に対する語りかけです。

彼らはバビロンでお金を稼ぐことばかりに夢中で、この世の仕事にどっぷりつかっていたからです。これは私たちすべてのキリスト者に対する語りかけでもあります。

 

その上で、「あなたがたは、あわてて出なくても、逃げるように歩かなくてもよいのだから」(52:12)と勧められていることばは、出エジプトのときに食料の準備もできないまま急き立てられて追い出された(出エジプト12:33,39)こととの対比が意識されています。

それは、「主(ヤハウェ)があなたがたの前に進み、イスラエルの神があなたがたのしんがりとなられるから」(52:12)であるというのです。私たちの前も、うしろも、神ご自身が守っていてくださいます。

私たちも、やがて実現する新しいエルサレムに向かっての旅へと召されています。信仰者の歩みは、みな、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13)ものです。

 

あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちはすでに新しい世界に足を一歩踏み入れています。

新しいエルサレムに向かう旅路は、キリストにあってその成功が約束されています。もちろん、私たちが自分でイエスの救いを拒絶してしまっては救われようがなくなります。しかし、私たちが自分の意志の弱さ、自分の無力さを認め、イエスの救いにすがろうとしている限り、私たちの救いは確定しています。

人にはできないことを、神はイエスによって成し遂げてくださいました。そして、イエスは、世の完成のときまで、いつも私たちとともに歩んでくださいます。

 

2.「(ヤハウェ)のしもべ」としての生き方を全うされたイエス

これに続く箇所は、「主のしもべの歌」として多くの人々から愛読されてきた所で、旧約聖書しか信じないユダヤ人がイエスを救い主として信じる際に最も多く用いられている不思議な預言です。そこには、「苦難を通しての救い」という聖書に繰り返されるストーリーの核心が簡潔に記されています。

私たちはこれを最初からキリスト預言として読んでしまいがちですが、もっと原点に立ち返って、私たちと同じ不自由な肉体に縛られていた人間イエスが、このみことばをどのようにお読みになったかを考えるべきでしょう。

 

イエスは総督ピラトの前に立たれながら沈黙しておられたとき、また、ローマ兵から鞭を打たれていた時、また「いばらの冠」をかぶらされて嘲りを受けておられたとき、この「主のしもべの歌」を思い巡らしていたことでしょう。

イエスは、そこに描かれた生き方を全うすることこそが「ユダヤ人の王」としての使命であることを自覚し、またそれによって「神の国」を全世界にもたらすことができると信じておられました。

イエスの十字架に至る場面はまさにその700年前に記されたイザヤ書53章に記されていました。イエスはこのみことばをそのまま生きることによって「世界の救い主」になられたのです。

 

ところで、現代のユダヤ人も、ナチス・ドイツによる大迫害を受けながら、自分たちが「(ヤハウェ)のしもべ」として苦難に耐えているという自覚を持っていたのではないでしょうか。

この歌は、不条理な苦しみの中で、その苦しみに積極的な意味を生み出す力を持っています。この歌を生きる者は、苦難に耐える力を受けることができます。

 

ビクトール・フランクルというオーストリヤ出身の有名なユダヤ人の精神科医がいました。彼は第二次大戦時の最も忌わしいアウシュビッツ強制収容所の苦しみをくぐりぬけ、その体験を「夜と霧」という本にまとめ、不朽のベストセラーになっています。この本に関してはNHK、Eテレ百分で名著という番組で昨年8月と今年3月にも放送されています。彼が始めた精神療法のロゴセラピーは、人生の意味を問うことで人を立ち直させるもので、聖書のメッセージと矛盾しません。

ヒットラーがウィーンに進軍してきたとき、フランクルはすでに精神科医として尊敬を集めていました。ただ、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では働きを続けることができません。それで、米国行きのビザを申請していました。数年かかってビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっており、そこに残ると、強制収容所への抑留が避けられない状況になっていました。

しかし、彼には年老いた両親がいました。その両親のビザはありません。彼は迷いました。彼がウィーンに残ったところで両親を救うことができるわけではないことは明白でしたが、両親を置き去りにして自分だけが渡米することに後ろめたさを感じていました。

 

  迷いながら家に帰ってみると、父親が、破壊されたユダヤの会堂の瓦礫から拾ってきた大理石がテーブルの上に置いてありました。そこにはヘブル語のカフというアルファベットが刻まれていました。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。

彼は、この文字を見たとき、自分の使命は、両親とともにウィーンに残ることにあると確信できました。彼は自分の医療技術を用いて、秘密警察の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができましたが、まもなく両親とともに強制収容所に抑留されました。

父は、そこで肺水腫を患って死の床につきます。彼は医師として、父に最後の痛み止めの注射を打つことができました。彼は、そのときのことを、「私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった」と書き残しています。

母はその後、アウシュビッツのガス室送りになりましたが、移送される直前に、彼は母に祝福の祈りを請い、まさに心の底からの祝福のことばを母から最後に受けることができました。

彼自身もその後、アウシュビッツに送られますが、彼はそこで母親のことばかりを思い、母への感謝の思いで心がいっぱいになっていたとのことです。

 

 フランクルは奇跡的にアウシュビッツの苦しみの生き残り、そこでの体験を証ししました。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることができるという神のかたちに創造された人間の生きる力の証しでした。

「何のために生きるのか・・・」という問いに答えを持っている人は、最後の瞬間まで、真の意味で生きることができるということの証しでした。

そして何よりも、彼が、あらゆる損得勘定や現実的な計算を捨てて、両親とともに強制収容所に入ると決めたことは、一瞬一瞬、人生の問いに答えながら歩むことを、身をもって証することになりました(結論は各自で異なって当然ですが・・・)

その後、彼は、この「生きる意味の心理学」によって、多くの人に希望を与えながら、92歳に至るまで幸いな生涯を全うしました。

 

  ヒットラーはドイツ国民の中にあった怒りと憎しみとねたみの感情を煽ることによって権力を握りました。一方、ユダヤ人のフランクルは、権力者に振り回され、理不尽な苦しみに耐えることで、神のかたちに創造された人間の尊さを証しできました。

フランクルはその意味で、アウシュビッツの苦難を通してヒットラーに打ち勝ったのです。

 

イエスの十字架への歩みは、王のなかの王としての歩みでした。イエスは圧倒的な勝利者であったからこそ、十字架に向かって歩まれたのです。私たちは、十字架の「暗さ」に、この世の暗やみを圧倒する「光」を見ることができます。

N.T.Wrightは、「the cross is the victory that overcomethe world (十字架は、世を打ち負かす勝利である)」と述べていますが、当時の「十字架」は、ローマ帝国の秩序に従わせる「脅し」の手段でした。

 

イエスの幼児期に何千ものユダヤ人がガリラヤ地方で独立運動に参加し、十字架にかけられました。ローマにとってそれは、法の秩序と平和を守らせるための脅しのシンボルでした。しかし、イエスはそれを「愛と赦し」のシンボルに変えてくださいました。

しかも、その脅しは、キリストの弟子には通用しなくなり、ついにはローマ帝国自体が十字架にかけられたイエスを救い主と信じるようになりました。

イエスの受難のシーンには、真の王者の姿が描かれています。ハエを殺すように人を殺すことができたローマの百人隊長はそれに気づきました。なぜなら、真の王の権威とは、民を救うためには自分のいのちを差し出すことができるという生き様に現されるからです。

 

3.「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」

イエスの十字架の場面では、ローマの兵士たちがイエスに、「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ」、ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし、「葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた」と、その嘲弄の様子が生々しく描かれます。

イエスは、そのような嘲りを受けながら、イザヤ531-4節のみことばを思い巡らしていたのではないでしょうか。そこには、「主(ヤハウェ)の御腕は、だれの上に現されたのか。彼は御前で若枝のように芽生えたが、乾いた地から出ている根のようだった。見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」と記されています。

 

イエスは、ご自分を何と、「主の御腕の現れ」と意識しながら、主の救いは、人々のあざけりやののしりに耐えることによって実現できると信じておられました。まさに、イエスは神によって立てられた真の王としての自覚を持つからこそ、あざけりに耐えることができたのです。

私たちは、自分の存在価値を高く評価してくれる方の語りかけを聞き続けることによってのみ、不当な非難に耐えることができます。

 

  イエスの苦しみにはイザヤの苦難のしもべの姿を実現するという創造的な意味がありました。そして、イザヤの預言の書き出しには、見よ。わたしのしもべは 栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる。多くの者があなたを見て唖然とするほどに、その見ばえも失われて人のようではなく、その姿も人の子らと違っていたのだが・・・。そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ(52:13-15)と記されていました。

主のしもべ」としての「栄光」は、この世の常識の逆転によって現されるというのです。私たちは知らないうちに、この世的な成功や栄光の基準によって自分の価値を測ってはいないでしょうか。

イエスの十字架と復活は、世界の価値観を変えました。私たちは世の不条理に振り回され、敗北者の道を歩むように見えても、「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされているのです。

 

  それにしても、イエスは孤独を味わいながらも、ご自分のことを弁護はなさいませんでした。イエスに十字架刑を宣告したのはローマ総督ピラトです。

彼は裁判の席で、イエスに向かって、「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです(4)と問いかけます。そこには、イエスが弁明さえすれば、この愚かな裁判を終えられるという期待がありました。

 

ところが、「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた(15:5)というのです。これはピラトにとって到底理解できないことでしたが、それこそが、イザヤ537節に記された主のしもべの姿でした。

そこでは、痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように・・・。

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と預言されていました。

エスは、人々が期待する救い主の姿ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿を生きておられたのです。

 

しかも、それに続くイザヤ5310節には、「彼を砕き、病とすることは、主(ヤハウェ)のみこころであった。もし、彼がそのいのちを罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見ることになる。主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されていました。

イエスはご自分を「罪過のためのいけにえ」とするのが、「主のみこころ」であると確信していたため、敢えて、ピラトの前で沈黙を守っていたのです。

 

そして、本来、エルサレム神殿はイスラエルの民の罪をあがなうための神が与えたシステムでした。そこで、イエスはご自分の死を通して、神殿を完成しようとされたのです。それにしても、祭司長たちがイエスを殺したいと願った最大の理由は、イエスが自分たちの生活の基盤であるエルサレム神殿の秩序を壊そうとしていたと解釈したからです。イエスは彼らの既得権益に挑戦したのです。

一方イエスはイザヤ53章12節にあるように、「そのいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた」、つまり、犯罪人の仲間とされることこそ、神のみこころであると信じ、ピラトの前で沈黙を守りました。自分の身を守るために平気でうそをつく祭司長たちと、ご自分が無罪でありながら、有罪判決を受けることが主のみこころであると確信して沈黙を守るイエスの対比がここでは強調されています。

イエスの沈黙に、王としての威厳が現されています。

 

神のみわざは、私たちが人の痛みを自分の痛みとできる、人の弱さに寄り添う、という愛の交わりの中に現されます。すべての人は、神のかたちに創造されました。だからこそ、私たちは互いに愛し合うことができます。

逆説的になりますが、「神よ、どうして……」と共に嘆き合っているところに、神の愛が全うされているということがあります。私たちはこの世界では、問題から自由になることはできません。しかも、問題を解決しようとすることが、しばしば、問題を起こす人を排除するという方向に働きます。

そして、それこそが、この世界に争いを引き起こす最大の原因となっています。キリストは私たちに問題を解決する力以前に、問題を引き受ける力を与えてくださいます。

そして問題をともに引き受けることのただなかに、神の平和が広がって行きます。神は、あなたをキリストに従う者と召されることによって、あなたをご自身の平和のために用いてくださいます。

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2013年10月13日 (日)

ミカ3,4章「主の御計らいを知る幸い」

  20131013

  映画「おしん」が始まりますが、昔の東北農家の貧しさは想像を絶しました。しかし皮肉にも、第二次大戦の悲劇が小作制度を変える契機になりました。

預言者ミカはイスラエルの権力者へのさばきを熱く語りますが、そこにはイスラエルの神ご自身が社会の抑圧システムを破壊することによって、神の民を再生しようというご計画がありました。目の前の悲惨の後に、希望が見られます。

不思議にも、社会が安定していた時代には奴隷制を正当化する手段として聖書が用いられたこともありました。私たちはもっと聖書のストーリーを大枠から理解し、歴史のゴールが神の平和(シャローム)の完成にあるという観点を見直す必要があります。

たとえば、大津波も、原発事故も、被害をこれほど大きくしたのは人間の傲慢さのゆえです。ただ、それも主の御手の中で起こったことでもあります。そして今問われているのは、私たちがそれを通して世界観を変えることができたかということではないでしょうか。

 

 

1.「あなたがたは善を憎み、悪を愛している」

3章には三つの主のさばきの宣告が記されます。それは1-4節、5-8節、9-12節と基本的にほぼ同じ長さです。しかもそのパターンは、責める対象、責める内容、それに対するさばきという共通のものになっています。

 

第一は、「わたしは言った」と、これが主ご自身の語りかけであると強調されながら、「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち」と、主ご自身がイスラエルの指導者に向かって、単に「聞きなさい」より強い調子で、「さあ、聞け」と迫っています。

主の命令の核心にはいつも、「聞きなさい」という迫りがあります。私たちの最大の問題は、主のことばに真剣に耳を傾ける前に自分の善悪の基準で動いてしまうことにあります。

 

主の最大の問いかけは、「あなたがたは公義を知っているはずではないか」というものです。「公義」とは「さばき」とも訳されますが、その中心的な意味は「治める」「支配する」ということにあります。主は彼らに向かって、神から委ねられた責任を思い起こすようにと、強く迫っています。

しかも、主は、「お前たちは善を憎み、悪を愛している(2節私訳)と厳しく叱責します。支配者の務めは何よりも、「悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめる」ことにあります(Ⅰペテロ2:14、ローマ13:3,4参照)。ところが、支配者自身が善悪の基準をないがしろにするなら、この世の不条理はますます広がります。

しかし、神は「王を廃し、王を立て」られる方、究極的な意味で「人間の国を支配」しておられる方なのです(ダニエル2:21,4:17)。イスラエルの支配者こそ、その真理を知っているはずでした。

 

ところが、彼らは、支配地の民を自分の食い物にしていました。2節の後半から3節は、人食い人種にたとえた表現で、「人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、その骨を粉々に砕き、鉢の中にあるように、また大がまの中の肉切れのように、切れ切れに裂く」と生々しく描かれています。

 

   4節はそれに対する主のさばきを描いたもので、「それで、彼らが主(ヤハウェ)に叫んでも、主は彼らに答えない。その時、主は彼らから顔を隠されると記されます。

イスラエルの指導者たちは、敵が攻めてくるときになって急に自分たちの取るべき戦略の答えを求めて主に叫びますが、そのとき主は「彼らから顔を隠される」というのです。

その理由が改めて単純に「彼らの行いが悪いからだ」と記されます。つまり、「困ったときの神頼み」というのが通じないことがあるのです。それは神ご自身が、民の指導者を廃絶するために敵の国を用いているからです。

 

2.「彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ」

   第二はイスラエルの預言者たちに対するさばきです。5節の原文では、「このように主(ヤハウェ)は仰せられる、預言者たちに対して」と記されています。その罪は、「彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する」というものです。

かむ」は、蛇が主語であるときに用いられることばです。アダムの罪の場合にもあるように、蛇は神の「民を惑わせ」、目の前の利益として「歯でかむ物」という獲物があるなら、平気で偽りの「平和」の約束をします

しかし、偽預言者の口に何の食べ物も提供できない者に対しては、何と「聖戦を宣言する」というのです。これは「戦いを聖別する」とも訳されることばで、預言者が自分に利益をもたらさない者に対する戦いを神の名を用いて正当化するということです。

 

残念ながら、どの時代の宗教指導者にも、「敬虔を利得の手段と考えている人たち(Ⅰテモテ6:5)がいます。彼らはまず自分の損得勘定を直感的に判断し、自分に益をもたらす人には神の平和(シャローム)の祝福を祈り、反対に益をもたらさない人を神の敵として判断し、彼らのへの戦いを神の名で正当化するというのです。

昔から、神の名を用いた戦いが後を絶ちません。しかし、その根源には、自分の損得勘定を正当化する思いがあります。

 

そして、偽預言者に対するさばきが、67節で、「それゆえ、になっても、あなたがたにはがなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見占い師たちはずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ」と記されます。

しばしば、主からの「幻」は夜になって与えられ、「占い」は暗やみの中でなされますが、社会的混乱の中で人々が彼らに答えを求めても、彼等には何の答えも与えられなくなります。そして、「先見者たち」や「占い師たち」は、人々から軽蔑され、まるで、重い皮膚病にかかった人のように「口ひげをおおう」ことになるというのです。

哀歌415節ではバビロンにエルサレムが滅ぼされた後、人々が預言者たちに向かって「あっちへ行け。汚れた者」「あっちへ行け、あっちへ行け。さわるな」と、預言者たちを「汚れた者」とののしる様子が描かれています。

 

そのように預言者たちが辱められるのは、彼らに「神の答えがないから」です。なお、「先見者」はしばしば「預言者」と同じ意味で用いられますが、厳密には「見る者」と記され「先の事を見る」ことが期待されます(Ⅰサムエル9:9「予見者」と重なる意味)

また「占い師」は基本的に神のみこころに反する働きですが、イザヤ32節では「さばきつかさと預言者、占い師と長老」などと、エルサレムの政権の中枢に「占い師」がいたと記されます。

 

先見者」も「占い師」も、イスラエルが敵の攻撃に対処する際に、「神の答え」を出すために置かれていた役職です。

ところが彼らはいざとなったら何の役にも立たないばかりか、国を敗北に導いた責任を問われて徹底的な辱めを受けるというのです。それは彼らが自分たちの働きを、利得の手段として用いていたからです。

 

それに対し、預言者ミカは自分の働きに関して、「しかし、私は」と強調しつつ、「力と、主(ヤハウェ)の霊と、公義(さばき)と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう(3:8)と語ります。

ミカは当時の偽預言者たちとは正反対に、人々にとって耳の痛いことを、主(ヤハウェ)の霊に満たされて、力と勇気をもって、主のさばきの基準から、神の民に向かって「そむき」と「」を指摘するというのです。

 

3.「しかもなお、彼らは主(ヤハウェ)に寄りかかって・・・」

   9節からは預言者ミカ自身が、「これを聞け」と呼びかけます。これは1節と同様に、「さあ、聞け」という強い迫りです。その対象は、「ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち」という神の民の全指導者たちです。

そして主が彼らを責める理由が、「あなたがたは公義を忌みきらい、あらゆる正しいことを曲げている」です。「公義」とは神の基準に従って民を治めることですが、彼らは民衆を奴隷化し搾取していました。彼らは民を治めるという本来の働きを「忌み嫌い」、「正しい(まっすぐな)こと」を敢えて捻じ曲げているというのです。

 

そしてその現れが、「血を流してシオンを建て、不正を行ってエルサレムを建てている(10)と言われます。彼らはシオンの丘に建つエルサレム神殿を、神の臨在の場ととらえる代わりに、神の権威を用いて自分たちにとって都合悪い人を殺し、またエルサレムの権力機構を用いて、社会的弱者の生活権を侵害しているというのです。

 

そして、指導者たちの具体的な罪が、「そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする」と描かれます(11)。それは第一と第二枠での罪の要約です。

 

それでいながら、「しかもなお、彼らは主(ヤハウェ)に寄りかかって」、「主(ヤハウェ)は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない」となどと、鉄面皮なことを言っていました。

確かにエルサレム神殿は、主が民の真ん中に住まわれるといいうことのシンボルでしたが、主ご自身がやがてエルサレムを立ち去ろうとしておられたのです。もし、主の栄光がエルサレムを去ってしまうなら、そこは単なる石の家に過ぎなくなります。

 

その結果として、「それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる」と告げられます(12)

神殿の立っていた聖なるシオンの丘が、他の土地と同じような俗なるものに見られるようになって、「畑のように耕され」るようになり、イスラエルの都としての機能を完全に失ってしまうというのです。

その結果、神殿の置いてあった「宮の山」は「森の丘」と呼ばれるようになってしまいます。

 

4.「彼らはその剣を鋤に、槍をかまに打ち直し・・・二度と戦いのことを習わない」

41-5節の預言は、一転して、「終わりの日」のシオンの回復の希望が記されています。これは黙示録の「新しいエルサレムが・・・天から下って来る」という世界のゴールにつながる記述です。

特に、1-3節の表現は、これとほとんどおなじものがイザヤ22-4節に記されています。どちらが先に記されたかはわかりませんが・・・

 

1節は、先のエルサレム神殿が廃墟にされることの逆転が起こるという意味です。諸国の民はエルサレムの神を何もできない無力な存在と嘲っていましたが、「終わりに日」には、「(ヤハウェ)の家の山」は、様々な祭壇が置かれた「高き所」を見下ろす栄光に満ちた山として、「そびえ立つ」というのです。

その結果として、「国々の民はそこに流れて来る」と、世界中の人々が、新しいエルサレム神殿に引き寄せられてくる様子が描かれます。

つまり、ここは主の家の山は地理的にどの山より高くなるというよりも、世界中の人々にとっての憧れとなるという意味です。

 

そしてそこに、「多くの異邦の民が来」るというのです。これはエルサレムの神が、全世界の人々にとっての神となることを現しています。そして、そのときに彼らが言う言葉が、「さあ、主(ヤハウェ)の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」と記されます(2)

世界中の人々が、「主の道」を教えてもらいたいと願い、その「小道」の上を歩みたいと願うというのです。つまり、人々を惹きつけるのは、神殿の荘厳さや輝きというよりも、主が教えてくださる道、生き方を歩みたいと願うからだというのです。

 

そして、その理由が再び、「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主(ヤハウェ)ことばが出るからだ」と描かれます。

みおしえ」とはトーラーで、律法とも訳されます。また、「(ヤハウェ)のことば」も、「十のことば」を初めとする御教えです。

つまり、かつてイスラエルの民が捨ててしまった主の御教え、それを守ることができなくてさばきを受けた主のみことばを、世界中の人々が聞きたいと切望して、エルサレムに集まって来るというのです。

 

そして、主の御教えが世界を治める様子が、3節に描かれます。「主は多くの国々の民の間をさばき(治め)とは、主が正義を持って世界を「治める」ことです。

また「遠く離れた強い国々に、判決を下す」とは、アッシリヤやバビロンのような国々を従えることを意味します。その結果として、世界に平和が実現する様子が、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と描かれます。

つまり、「終わりの日」には、神が全世界を治めるということが明らかになるので、「剣」「槍」という戦いの道具が、「」や「かま」という農耕具に打ち直されるというのです。それは、世界中から戦争の恐怖が無くなり、戦いの訓練もなくなるからです。

私たちは戦争以前に、自分の身や権利を守るために、「戦いのことを習う」必要がありました。しかし、主の公正なさばきが全地を満たすとき、「戦う」という概念自体を忘れることができるのです。

 

そのことが引き続き、「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない(4)と描かれます。彼らは自分の畑を守るために戦う必要も感じなくなります。

そして、これらの約束を保証するかのように、「まことに(なぜなら)、万軍の主(ヤハウェ)の御口が告げられる」と記されます。

この世界で戦いが起こるのは、互いに支配権をめぐって強さを競い合ってしまうからでもあります。しかし、「万軍の主」のご支配が目に見える形で明らかになるところでは、そのような支配権をめぐっての争いはなくなります。

 

   また5節の「まことに」は、「たとい」とか「・・ときにも」と訳した方が良いと思われます。ですからここは、「たとい、すべての国々の民が、おのおの自分の神の名によって歩むことがあっても」、または、「・・歩むときにもと訳した方が良いと思われます。

つまり、今、現在は、なお多くの人々は、この主の約束を真実に受け止めることが無くて、偶像の神々を拝んでいる現実があったとしても、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主(ヤハウェ)の御名によって歩もう」と告白するのです。それは私たちが、主の約束が必ず実現することを信じているからです。

 

5.「エルサレムの娘の王国が帰って来る」

 67節で、「その日」ということばとともに、新しい世界の約束が告げられます。そこで「(ヤハウェ)の御告げ」と言う宣言と共に、「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されます。

足のなえた者」の「いやし」はそれほど頻繁には聖書には記されていないように思えますが、初代教会の時代の記事こそ、このミカの預言の成就と見ることができます。

 

ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間にエルサレム神殿に上って行き、「美しの門」で、「生まれつき足のなえた人」を癒しました。

そのときペテロはこの乞食に向かって、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。

するとこの人は「おどりあがってまっすぐに立ち、歩きだし」「神を賛美しつつ・・・、宮に入って行った」というのです(使徒3:1-8)

 

そこに記されていることの中心は、ペテロとヨハネとともに、この足の癒された人は、権力者の脅しにも屈することなく、イエスを救い主としてあがめて行ったということにあります。まさに、神から「追いやられた者」が集められ、「足のなえた者」が、「残りの者」として真の神の民とされ、「強い国民」とされました。

そしてこのことを通して何よりも、イエスがシオンの山で彼らの王となったことが明らかになりました。なぜなら、ペテロもヨハネも厳しい脅しを受けながら、ユダヤ人の最高議会の命令に従うよりも、イエスを王としてあがめることを明確にしたからです。

 

  8節の始まりには、「あなたに」と呼びかけが記されています。それが具体的に、「羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ」と説明されます。

それは、主がご自分の羊の群れを見守る「やぐら」また、「シオンの娘」エルサレムの民を見守る「」に「」が帰って来ることを意味しています。

そのことが「あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」と述べられます。これは、失われたと思われた神の国が回復する希望を語ったものです。

 

6.「バビロンまで行く。そこであなたは救われる・・・あなたは彼らの財宝を全地の主にささげる」

   9節から13節まで、神の不思議な二つの救いの計画が描かれます。9節の原文では、「今、なぜ大声で叫ぶのか」という問いかけから始まり、11節は「しかし、今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり」という絶望的な状況が記されます。

しかしそれぞれで、「シオンの娘よ(1013)という呼びかけと共に、不思議な神の救いのご計画が描かれます。ヘブル語では二つの預言とも七行で整えられているのがわかるように記されています。

 

第一は、「なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官(カウンセラー)は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか」という問いかけから始まります。

その上で10節の原文では、「身もだえし、もがき回れ。シオンの娘よ。子を産む女のように」という不思議な命令が記されます。

そしてその理由が、「なぜなら今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行くだからそこであなたは救われるそこで(ヤハウェ)贖ってくださる、あなたを敵の手から」と描かれます。

つまり、人間の目には、絶望的なのですが、その状況を確かに、(ヤハウェ)ご自身が王として支配しておられるというのです。

 

なお、「議官」は、多くの英語訳ではカウンセラー(助言者)と訳され、戦いのプランを立てる役割です。同じ語根の言葉が12節では「はかりごと」と訳されます。そしてここには「救い主」の働きが示唆されています。

つまりエルサレムの悲劇の向こうには、奇想天外な救いのご計画があるというのです。それは、バビロン捕囚という悲惨を通して「シオンの娘」、エルサレムの民を、敵の手から贖い出してくださるということです。

なお、「敵の手から贖うとは、イスラエルの民がすでにこのミカの時代から奴隷状態にあったことを示唆します。彼らはこの世の権力機構、暴力支配の中で奴隷状態にありました。彼らを奴隷としていたのは、何とイスラエルの支配者自身であったということではないでしょうか。

主は国を滅ぼすことによって、そのような抑圧者を一掃してくださったのです。

 

 第二の場面の、「しかし、今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり・・・」という記述は、バビロン捕囚以前に、アッシリヤ連合軍によるエルサレム攻撃を指しています。

周辺諸国は、「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と、イスラエルの神ヤハウェを嘲っています。しかしそれは彼らが、「主(ヤハウェ)の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない」からに過ぎません。

彼らは自分の意志でエルサレム包囲網に加わってきたと思っていますが、そこには主ご自身が彼らを滅ぼすために、「彼らを打ち場の麦束のように集められた」というご計画がありました。

 

13節は、「立って麦を打て、シオンの娘よ」という命令形から始まり、その直後、「なぜなら、わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひずめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主(ヤハウェ)にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる」というイスラエルの勝利が描かれています。

これは、エルサレムがヒゼキヤ王のもとでアッシリヤ連合軍に劇的な勝利を収めることを示唆しているものと思われます。

 

 

   私たちは直線的な時間の観点でこの世界の動きを見ようとします。しかし、聖書の視点はそうではありません。4章初めの記述にあるように、主はまず歴史のゴールを示されます。それは神の平和(シャローム)が世界を満たし、全世界の民がイスラエルの神ヤハウェを礼拝するようになるときです。

そして、その始まりとして、主は、「足のなえた者」のようにこの世の弱い者を集めてキリストの教会を建てられます。ただ、この世界では、強い者、賢い者が支配権を握って、人を奴隷化してしまいます。神はイスラエルの民をバビロン捕囚という悲惨を通して建て直してくださいました。

同じように、日本の救いのために、神は第二次大戦の悲劇や東日本大震災や原発事故が起こるのを許されました。それは日本人の傲慢を砕くために必要なことでした。

そして、多くの日本人はそれによってもなお、神の前にへりくだろうとはしていません。日本には残念ながら、もっと大きな悲惨が起きる必要があるのかもしれません。そうしなければ日本人はサタンの奴隷状態から贖われないのかもしれません。

 

   一方、11節は、日本の教会が社会の中で孤立し、批判され、迫害を受ける様子にたとえることもできましょう。しかし、それらすべては主の不思議なご計画の中で起こっていることです。そこには最終的な勝利が約束されています。

私たちの目の前には、様々な苦しみや悲惨があります。それらは私たちが負うべき十字架かもしれません。しかし、それは光り輝く世界への入り口でもあります。主の十字架は悪の力に対する勝利の宣言だからです。

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2013年10月 6日 (日)

ミカ1,2章 「この世の権力者たちへのさばき」

                                                  201310月6日

  伊勢神宮の式年遷宮のことが大きな話題になっていました。天皇家は天照大御神の子孫が天から地に下ったことに始まると言われます。そして、天照大御神の臨在のしるしが八咫鏡(やたのかがみ)で、そのご神体を20年ごとに移すのが遷宮です。

天照大御神は太陽神とされていますが、あるとき、須佐之男の乱暴を見るのに耐えかねて天の石屋戸に隠れます。世界は真っ暗になり、災いが広がります。それで神々が集まって知恵を出し合います。そして天宇受売命が恍惚状態で身を露わに踊ると神々が爆笑します。それを不思議に思った天照が岩戸を開けて外を見ます。

天宇受売は「貴方様より貴い神がいる」と言い、別の神が特製の鏡を密かに差し出して天照を映します。天照はそれが別の神かと思い、さらに戸を開けると世界に光が戻ったということです。

この物語の鏡こそ、伊勢神宮のご神体です。そして、天皇はその大祭司です。日本の権力システムがこの神話の上に成り立っているというのは何とも不思議です。

私たちが目くじらを立てて否定するほどのことでもありません。ときが来ると、そのはかない実態は明らかになります。すべての偶像礼拝は、そのような神話の上に成り立っています。

 

残念ながら政治権力と宗教はどこかで結びついています。実際、ドイツの政権与党を初め、多くの国々の政党には「キリスト教的民主主義」の名がついていますが、日本の保守派はそのようなことを引き合いにだし、日本的な宗教をもとにした政権を作ろうとしているのかもしれません。

私たちはそのような動きに怒りを発する前に、彼らに対する神のさばきを知って、彼らのために祈り、謙遜と柔和の姿勢で彼らに真の神の愛を知らせるべきでしょう。

 

私たちがこの世の権力者に腹を立てるのは、神の最終的なさばきを知らないことの結果に過ぎないかもしれません。人を虐げる者は、虐げられます。奪う者は奪われます。横暴な者は、横暴な扱いを受けます。

神は、それぞれの行いに応じてさばきを下してくださいます。さばきは主のもの、私たちの責任は、隣人を愛することです。

 

1.「すべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる」

11 節は、原文では「ことば、主(ヤハウェ)の、ミカにあった・・」という順番で、その時代背景が、「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」と記されています。この書き出し方は、ホセア書とほとんど同じです。時代背景も内容も似ている部分があります。ただ、ウジヤの名が出てこないということで、アモス、ホセア、イザヤよりも若干後の時代の預言と思われますが、この四書には共通したテーマがあります。それは経済的な繁栄の中で、主の怒りを買うような混乱した礼拝がささげられていることに、神のさばきが下されるということです。

現代の日本も過去1500年間の歴史を振り返るなら最高の繁栄の時代にあると言えましょう。しかし、同時に、みな、「何かがおかしい。とんでもなく悪い事が起こりそうな予感がする・・」という不安を多くの人々が抱き始めています。

 

預言者ミカに関しては、ここで、「モレシェテ人」とのみ記されています。当時は人を紹介するときに、現代のような名字の代わりに父の名がつけられます。ここにミカの血筋の卑しさが示唆されているのかもしれません。

モレシェとはエルサレムの西南35kmの低地、ペリシテ人の地に比較的近いところにありました。ミカという名には、『だれがヤハウェのようであろうか』という意味が込められています。そのことは、この書のほとんど結論部の7章18節で「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」という問いかけにも反映されています。

なお、エレミヤ2617-19節には、この預言者ミカの激しい預言がエルサレムの王ヒゼキヤの心に主(ヤハウェ)への恐れを起こし、ユダ王国をアッシリヤの攻撃から奇跡的に守ることに貢献したことが記されています。

ですからミカは、その父の名も記されない預言者ではありましたが、ときの政治を変えることができた稀有な影響力をもった預言者でもあったのです。

 

そして1節の最後には、この書のテーマが、「これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である」と、北王国イスラエルと南王国ユダ双方の首都に対する神のさばきのことばが記されると簡潔に述べられます。

 

   2節は「聞け、すべての国々の民」という呼びかけから始まり、その後すぐに、「耳を傾けよ。地と、それに満ちるものよ」と、その対象が幅広く描かれます。つまり、この預言は神の民ばかりか、すべての被造物に向けられているというのです。

そして、「主、ヤハウェは、あなたがたのうちで証人となる。主はその聖なる宮から来て」と記されます。そして34節では引き続き、「なぜなら、見よ。主(ヤハウェ)は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれるからだ。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように」と記されます。

つまり、主が天の聖なる宮から降りてくるので、この目に見える世界が変わるというのです。私たちは、地上の自分の視点から高い山を仰ぎ見てその偉大さに感動し、深い谷を見下ろしてその深さに恐怖を覚えることがありますが、天の主の御前にはそれは砂場の砂の模型のようにはかないものに過ぎません。

 

詩篇97篇では似た表現の後に、「天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ(67)と記されます。

 

   そして、5節ではそれと同じように神の民の偶像礼拝に対するさばきが、「これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所は何か。エルサレムではないか」と描かれます。

サマリヤは北王国のアハブのもとでバアル礼拝が盛んになり、一時的にそれはエフーのもとで廃止されることがありましたが、基本的に偶像礼拝の中心地であり続けました。

また、エルサレムには主(ヤハウェ)の神殿があったのに、その周辺の山々には「高き所」と呼ばれる偶像礼拝の祭壇が置かれていました

それに対する主のさばきの警告が、「わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。わたしはそのすべての偶像を荒廃させる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに返る(67)と描かれます。

ここでは「儲け」ということばが三回繰り返され、偶像礼拝で集められた富のはかなさが強調されます。日本でも伊勢神宮の式年遷宮に550億円あまりが使われていると言われます。当会堂が550個も立つ金額です。他にも偶像礼拝で繁栄している町がありますが、それらはすべてはかないものです。

 

2.裸で恥じながら過ぎて行け・・・どうして、しあわせを待ち望めよう

 89節は神ご自身の嘆きのように描かれますが、これは預言者ミカ自身の嘆きとも解釈できます。ここで彼は同胞の罪を覚え、「このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する」と嘆いているのでしょう。

ジャッカルもだちょうも荒野に住むのろわれた動物の代名詞ですが、ミカは自分をそのような動物の立場に置き、神の民の救いがたいほどの堕落を嘆いています。

 

   10-16節はミカ自身の記した哀歌です。まず、「ガテで告げるな。激しく泣きわめくな」とは、ガテが本来ペリシテ人の地だからで、そこで嘆くことはペリシテ人の侵入を招くからです。それよりも、自分たちの町、「ベテ・レアフラでちりの中にころび回れ」と言われます。この町の名は「塵の家」という意味で、ユダの嘆きの町を象徴的に描いたものだと思われます。

11節の「シャフィル」も「美しい」という意味で、そこに「住む者」に向かって、裸で恥じながら過ぎて行けという皮肉が記されます。「ツァアナン」は「出て行く」の意味で、そこに「住む者は出て来ない」と言われます。「ベテ・エツェル」とは「奪い取る家」の意味で、そこの「嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る」という皮肉が記されます。

神は「美しさ」を誇る者に恥を、「出て行く」勇気を誇る者に臆病を、「奪い取る」ことを誇る者に略奪を報われます「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ6:7)という原則を神は明らかにします。

なお、12節の「マロテ」とは「苦い」の意味で、そこに「住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう」と言われます。それは、「エルサレムの門に、主(ヤハウェ)からわざわいが下った」とあるように主からの報復でした。

 

13節は「ラキシュに住む者よ。戦車に早馬をつなげ」と記されますが、そこはエルサレムの南西45㎞にある要塞都市でした。ラキッシュという発音はヘブル語の「早馬」に似ているので、このような皮肉が述べられます。

そして、「それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ」とあるのは、その町からエジプトの異教の祭儀がエルサレムに持ち込まれるようになったからです。

 

14節は、「それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ・ガテに与える」と記されますが、その地は預言者ミカの出身地で、「あなた」とは「シオンの娘」で、「贈り物」とは「手切れの品」(フランシスコ会訳)と訳すことができます。これは、ラキッシュが敵の手に奪われた後、その北東に位置しエルサレムにより近い町モレシェテが敵への贈り物とされるという意味だと思われます。

そしてアクジブの家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる」とありますが、アクシブとはモレシェテのすぐ東にある町ですが、「欺く」という意味があり、彼らの裏切りが示唆されています。

 

   15節では、「マレシャに住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る」と記されますが、「マレシャ」と「侵略者」は同じヘブル語の語根から生まれた言葉です。その町はモレシェテの少し南にあります。そこにイスラエルの神ご自身が「侵略者を・・送る」というのです。

しかも続く、「イスラエルの栄光はアドラムまで行こう」とありますが、「アドラム」とはダビデがそこの洞穴に隠れて多くの手下を集めて、ダビデ王国への道を進みだした栄光の町です。そこに、「イスラエルの栄光」である方が、侵略者と共に攻めてくるというのです。

 

   16節は「シオンの娘」に対する語りかけで、「あなたの喜びとする子らのために、あなたの頭をそれ。そのそった所を、はげ鷲のように大きくせよ。彼らが捕らえられて、あなたから去って行ったから」と記されます。

頭をそる」とは悲嘆を現す表現で、そこにはエルサレムの住民が捕囚として連れ去れることが預言されています。

 

3.あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。

2章1節~11節までは、イスラエルの民の支配者たちに向けてのさばきの宣言です。まず、預言者ミカ自身が、「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る」(12)と、彼らが地上の権力を乱用して自分たちの所有地を広げていることを非難します。

しかし、「相続地」とは、本来、主ご自身がくじを用いて、イスラエルの部族ごとに平等に割り当て」それを、「氏族ごと」に父の家の名と共に「相続地」として受け継がれるべきものでした(民数記26:52-56)

土地の究極の所有者は神ご自身ですから、彼らが自分たちの「手の力」を用いて土地を奪ったことは、神のものを奪ったことになります。

 

   3節ではそれに対する主(ヤハウェ)ご自身によることばが、「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげる(持ち上げる)ことも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ」と記されます。

なお、「こういうやから」とは、厳密には「この氏族」と記され、それは土地の相続を考える際の家族のまとまりの単位でした。つまり、これは神の割り当て地を、別の氏族から奪い取った「氏族」に対する神のさばきなのです。強い氏族は、自分の力を誇っていますが、その誇りが徹底的に奪われるというのです。

 

   そして4節では、「その日」ということばとともに神のさばきが起こる日のことが描かれます。その日に、力づくで相続地を奪った者たちに対しての「あざけりの声があがり」ますが、それは彼らの「嘆きの歌」を皮肉ったものです。

かつて、彼らから土地を奪われた人々は、「私たちはすっかり荒らされてしまい、私の民の割り当て地は取り替えられてしまった。どうしてそれは私から移され、私たちの畑は裏切る者に分け与えられるのか」と嘆いていましたが、今度は、侵略者であるアッシリヤ人が、かつて土地を奪われた人の嘆きを真似て、イスラエルの権力者の嘆きをあざけるというのです。

つまり、土地を力づくで奪ったものは、力づくでその土地をまた奪われるということです。

 

イエスは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました(マタイ26:52)。私たちはこの世の権力者の横暴に怒りを燃やしますが、その権力者自身が、次に別の権力者によって、奪った土地をさらに奪われるのです。

  

 そして5節は、「それゆえ、主(ヤハウェ)の集会で」ということばとともに、やがて主がイスラエルのために割り当ての地を回復してくださるときのことが記されます。そのとき、「あなたのために、くじを引いて測り綱を張る者がいなくなる」とは、かつて力づくで相続地を奪った氏族は、土地の分配のくじ引きに参加できなくなるというのです。

 

4.以前から、わたしの民は敵として立ち上がっている。

   6節最初の 「たわごとを言うな」ということばは、「(預言のことばを)語るな」という意味で、「預言するな」と意訳した方がわかりやすいと思われます。イスラエルの支配者たちは、ミカ、ホセア、イザヤのような真の預言者のことばを遮って、反対に、熱くなりながら彼ら自身から生まれた「(預言の)ことばを語っている」というのです。

その内容は、「そんな(預言の)ことばを語るな。われわれが辱めを受けることはない(私訳)というものだというのです。

 

   そして、この真の預言者の声を否定するような偽りの預言のことばが、7節では、「このように言うべきだ。ヤコブの家よ。『主(ヤハウェ)の霊が短気だろうか。これらが主のみわざなのか』 」と描かれます。

 

その上で、主からの語りかけが、7節の終わりから9節にかけて、「わたしのことばは、まっすぐに歩む者に益をもたらす。しかし、以前から、わたしの民は敵として立ち上がっている。そして、あなたがたは、戦いをやめて安らかに過ごしている者たちのみごとな上着をはぎ取る。あなたがたは、わたしの民の女たちを、その楽しみの家から追い出し、その幼子たちから、わたしの誉れを永遠に取り去る」と記されます。

敵であるアッシリヤが攻めてくる前から、イスラエルの指導者自身が神の敵となってしまい、平安に暮らしている者の「上着をはぎ取り」、女たちを「楽しみの家から追い出し」、幼子から主の民としての「誉れを・・取り去る」というのです。

 

  そして10節では、主のさばきのことばが、「さあ、立ち去れ。ここはいこいの場所ではない。ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ」と記されます。「いこいの場所」とは2節の「相続地」と基本的に同じ意味のことばです。

民の指導者たちは、かつて支配地の人々に向かって「さあ、立ち去れ。ここはお前の相続地、いこいの場所ではない・・」と言いながら、彼らの上着を剥ぎ取り、女たちを家から追い出しました。

そして今、主ご自身がかつての彼らのことばを真似て、彼らを約束の地から追い出すというのです。それは神が割り当ててくださった神の地が、彼らの罪によって汚されてしまったからです。ここには、バビロン捕囚に至るさばきが預言されています。

 

一方、11節では偽りの(預言の)のことばを語る者の姿が、「もし人が歩き回って、霊()と偽りによって欺き、『私はあなたがたに、ぶどう酒と強い酒について(預言)のことばを語ろう』と言うなら、その者こそ、この民の(預言の)ことばを語る者だ」と、皮肉を込めて言われます。

」と「霊」とは同じヘブル語ですが、私たちはしばしば、「霊的」ということばに惑わされてしまいます。「霊」には聖い霊もあれば偽りを預言する汚れた「霊」もあるのです。

 

5.彼らの王は彼らの前を進み、主(ヤハウェ)が彼らの真っ先に進まれる

   12節では、それまでと逆に、主の最終的な救いの約束が、「ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める」と言われます。

これは確かに申命記301-5節にあるように、主ご自身がイスラエルの罪に応じて彼らを約束の地から国々の中に追い散らした後、今度は彼らをあわれんで約束の地に集めてくださるという約束としても解釈することができます。

しかし13節ではその後の事が、「こうして人々のざわめきが起ころう。打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く」と記されます。

つまり、主が「残りの者」を一つに集めてくださるのは、彼らを敵の包囲から救い出すためであるというのです。

 

Ⅱ列王記19章では預言者イザヤがエルサレムの王ヒゼキヤに向かって主ご自身がアッシリヤの王を自分の国に追い返すときに与えた約束のことが、「ことしは、落ち穂から生えた者を食べ、二年目も。またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出てくるからである」と記されます(29-31)

つまり、主はイスラエルの残りの者をエルサレムの城壁の中に集め、彼らに食べ物を保証し、その後、ヒゼキヤを「打ち破る者」として先頭に立たせて、エルサレムの包囲網を突破させ、ついにはエルサレムの残りの者に約束の地を分配し、彼らに三年目の収穫を保障するというのです。

 

そして、その解釈を保証するようなことが、最後に、彼らの王は彼らの前を進み、主(ヤハウェ)が彼らの真っ先に進まれる」と記されます。これは現代の教会に当てはめて解釈することができます。私たちはこの世の不条理の中で傷つき、また、いのちを失う者もいます。

しかし、主は「残りの者」をキリストの教会に集めてくださり、みことばと互いの間の愛で養ってくださいます。しかし、それは私たちがこの世から離れて生きるためではなく、この世に遣わされて行くためのプロセスに過ぎません。主ご自身が先頭に立って歩んでくださいます。

 

イエスはヨハネ福音書10章で、「牧者は・・自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます(34)と最初に言って、ご自身が羊を連れ出す者であると明言します。

しかしその後、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(9)とご自身が何よりもまず、羊を囲いの中に招き入れる者であることを明らかにします。

 

しかし、同時に、「わたしの羊はわたしの声を聞きわけます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます(27)と、彼らの囲いの中から連れ出す者であることを明らかにしておられます。

 

   ミカ書には厳しい主のさばきが次々と記されています。しかし、よく見ると、すべて、この世の権力を乱用して、社会的弱者から奪い取り、偶像礼拝で富を得ていたような者に対するさばきです。

そして、主はそのようにこの世の権力者をさばいた後に、この世で虐げられた人をあわれみ、ご自身のもとに集め、彼らを慰め、この世の旅路を導き、新しい天と新しい地の祝福へと招き入れてくださると約束しておられます。

 

   主のさばきは、私たちにとって福音でもあります。神は自分の罪を嘆き、救いを求める者を決してないがしろにはなさいません。私たちは、この世の不条理に怒る代わりに、自分の生き方を振り返るべきでしょう。

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