« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月24日 (日)

Ⅰテサロニケ4章「主イエスが命じた歩み方」

                                                 20131124

  クリスチャン生活の核心とは、いつでもどこでも、三位一体の神との交わりの中に生きることです。ただ、もっと具体的に、日々の歩み方において、神を知らない人々とどのような違いが生まれるべきかに関して、本日の箇所は三つの観点からわかりやすく解き明かされます。それは、性道徳、お金、死生観です。

しばしば、キリスト教には明確な戒律がないと言われますが、この三つの観点からはこの世の常識から区別される必要があります。それは禁止命令と言うより、神のイメージを世界に現すという崇高な目的のためです。

私たちはそれぞれかけがえのない神の子供とされ、イエスの弟、また妹とされ、聖霊の宮とされました。その恵みを現す歩み方があるのです。

 

1.「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」

41節からは話題が変わり、信仰生活の実際がテーマになります。その最初にパウロは、「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します」と記し、続く文章では、「歩む」という言葉が二回繰り返されています。

第一は「あなたがたの歩み方と神を喜ばせることにおいて、何が必要か」を、「私たちから学んだ」ということを思い起こさせています(私訳)

第二に「事実いまあなたがたが歩んでいるように」と彼らが教えられたことを実践していることを評価します。

その上で「ますますそのようになるように」と、成長することを勧めました。私たちの信仰は、日々の生き方に変化をもたらすものであり、それはますます成長して行くものであるというのです。

 

その上で2節では、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています」と、これから書くことが新しい事ではなく既に彼らに知らせていたことであることを思い起こさせます。

 

パウロはまず最初に、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」と断言します(3)。その背後には、レビ記192節の有名な言葉があります。そこには、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」と記されており、このみことばはⅠペテロ116節でも引用されています。それは、神の聖さの基準に従って隣人を愛することであり、その核心は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)と言い表されます。ですから、聖くなる」とは性的な純潔という以前に、隣人愛全体にかかわることです。

しかし、マケドニヤの中心都市、交通の要衝となる貿易港をかかえたテサロニケのような当時の大都会では、性的な無軌道が最も大きな課題になっていました。ですからパウロも、クリスチャン生活の実際として、性的な純潔さを格別に強調する必要がありました。

しかも当時のギリシャの貿易港にある神殿は、神々を礼拝することと、そこに巫女と性的な交わりをすることが一連の礼拝プログラムになっていたほどです。

 

そして、ここでは「聖くなる」ということが三つの不定詞で描かれます。

その第一は、「あなたがたが不品行を避け」るということです。不品行とは英語のポルノの語源ですが、神が定めた正常な夫婦間の性的な交わりを除くすべての性的な行動です。そこには当然ながら、ホモ・セックスの問題も入っていました。最近はそのことが、性同一性障害というパーソナル障害の問題と混同され、正当化されますが、聖書は、男女の婚姻関係以外の性的な交わりをすべて不品行の罪として断罪します。

そのことは、レビ記2010-16節に以下のように記されています。

人がもし、他人の妻と姦通するなら・・姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある・・・男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある・・・女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある」 

 

ここには父の妻と寝ることと、男が男と寝ること、女が動物と共に臥すことが同列に死刑として断罪されています。もちろん、レビ記の死刑規定を現代に適用することはできませんが、そこに神のみこころが明確にされています。

 

第二は、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず」ということでした。「からだ」とは厳密には、「器」ということばが用いられており、またここでの「異邦人」とは、まことの神を知らないすべての者という意味です。

Ⅱコリント4:6,7では、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と記されますが、ここでの「宝」とは、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」を指しています。

つまり、まことの神を知るということは、同時に、それを入れる「土の器」を「聖く、尊く保つ」ということなのです。

 

彼はまたⅡコリント615-20節では、遊女と交わること自体を、「自分のからだに対して罪を犯す」ことと非難し、「あなたがたのからだは・・聖霊の宮」であると真の誇りの自覚を促しています。

つまり、まことの神を知るということは、同時に、情欲におぼれる」生き方を離れ、自分の身体を「聖霊の宮」として「聖く、尊く保つ」ことなのです。

 

第三に、「また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです(4:6)と言われますが、これは信仰の友の妻との性的な交わりを求めないということを婉曲的に表現したとも思えますが、それをもっと広く解釈して、自分の隣人の人格を傷つけたり、大切にしているものを欺き取ったりしないこと全般を指すとも思われます。

 

パウロは、特にこの隣人との関係に関して、「なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです(4:6)と述べていますが、「正しくさばかれる」とは厳密には、「復讐者」と記されています。

信仰の兄弟を踏みつけたり欺いたりすることに対しては、主ご自身が復讐してくださるというのです。これこそパウロが厳しく警告していたことでもありました。

 

これらすべての結論として、「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです」(78)と記されます。

聖潔を得させる」とは、3節の「聖くなる」、4節の「聖く」ということばと同じです。これは、これらの命令を拒む者は、「聖霊をお与えになる神を拒む」ことになると厳しく命じたものです。

これは恐ろしい表現です。私たちは情欲に負けがちの自分の弱さを神に正直に認め、聖霊のみわざにすがる必要があります。

 

2.互いに愛し合うことと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くこと

 49-11節では「兄弟愛について」語られます。まずパウロは、「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」とテサロニケ教会に見られる兄弟愛に関して徹底的に称賛しています。

興味深いのは「神から教えられた」ということばは一つの単語になっていることです。これは、彼らは「互いに愛し合う」ということを、人の勧め以前に、神ご自身から直接に神の霊感によって教えられたということを意味するのだと思われます。

とにかく、これはパウロが性的な聖さに関して、繰り返し語ったであろうこととは対照的に、パウロがほとんど教えもしないのに彼らが実践し始めたことだったようです。

 

  紀元200年ごろ、テルトゥリアヌスは護教論において異教徒たちがクリスチャンを指して、「見ろ。奴らは互いに愛し合っている」「奴らは仲間のためならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」と不思議がっていたことが記されています。

また彼らは、クリスチャンたちが互いを「兄弟」と呼ぶことを攻撃したとのことです。それに対して彼は、「われわれは財産を分ち合うことに何の躊躇もしない・・妻を除けばすべてを共有している」とも記しています。

 

そして、彼らの互いの間の愛は、近隣のピリピとかベレヤなどの他のマケドニヤの教会にまで広がっていました。そのことが、「実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています(10)と記されています。

ただ、パウロはそれで満足することなく、「しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください(10)とも勧めます。この「ますますそうであってください」ということばは、1節の終わりの表現と同じです。信仰者の成長には、もうこれ以上は必要ないということはないからです。

 

またパウロの勧めはさらに、「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(11)と続きます。これはテサロニケの人々の中に生まれたキリストの再臨を待ち望む思いが、落ち着いた生活を妨げる恐れがあったからです。

「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」ということばは、パウロ自身がテント作りをしながら生活費を稼いでいたことを彼らに思い起こさせます。

そして最後に「私たちが命じたように」と付け加えます。当時のギリシャでは、「自分の手で働く」というと奴隷労働を意味しました。それに対し、パウロは自分で模範を示しながら、一人一人が自分の手で働くことを勧めたのです。

 

次に、そのような仕事に精進することの目的が二つの観点から描かれます。

その第一は、「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ」るためでした。これは厳密には、「外の人に良く映る歩みをする」という意味です。いつの時代にも、怠惰な生き方は、周りに人に良い印象を与えません

そして第二は、「また乏しいことがないようにするためです」と記されます。これは、単純に、ひとりひとりが自分の仕事に精を出さなければ、どこかで共同体として破綻が来るという意味です。

彼らは豊かな兄弟愛によって互いの必要を満たしていましたが、そのうちに、神を礼拝し、互いに愛し合うことを実践すれば、すべての必要は満たされるという錯覚に陥ったかもしれません。実際には「自分の仕事に身を入れ」、教会の外の人々にも評価される働きをしていなければお金は入って来ません。この世の仕事を軽蔑したり、外の人の評価を意に介さなくなることは、危険な宗教の始まりです。

 

先に「兄弟愛については教える必要を感じなかったということと、ここで、「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」と「私たちが命じた」と強調している中にテサロニケ教会の問題を垣間見ることができます。彼らは、主イエスの再臨が近いということを短絡的に信じたため、長期的な仕事の設計を立てることを忘れ、自分たちが蓄えて生きた財をみんなのためにどんどん使って行ったのだと思われます。

しかも、今まで、奴隷の仕事をしていた人も、働かなくても教会の食事の交わりに参加することで腹を満たすことができるようになりました。ですから後にパウロはテサロニケの手紙第二では、「働きたくない者は食べるな」(3:10)と厳しく語る必要があったほどです。

パウロは、貧しい兄弟を支えるために自分の手で働き、どんどん分ち合うことは、「ますますそうしなさい」と言いました。

しかし、仕事をする機会と能力がある人には、ますます自分の仕事に身を入れるようにと強く進めています。

 

3.天と地が一つにされ・・私たちは、いつまでも主とともにいることになる

413節から18節までパウロは、キリストの再臨のときに起こることを記します。テサロニケ教会はなにしろ三週間余りのパウロの伝道で生まれた若い教会ですから、旧約聖書を通読したこともないような人々が中心でした。

そこで生まれていた誤解の第一は、既に死んでしまった人は、キリストの再臨の際にはキリストと出会うことができないのでは、と心配したことでした。なぜなら、イエスが復活の後、四十日の間弟子たちにご自身を現し、その後、彼らの見ている間に天に「上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ましたが、そのとき御使いが弟子たちに現れ、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになります」と告げました(使徒1:9,11)。

当時の弟子たちは、これを、自分の生きている間に実現することと期待し、そのキリストの再臨の姿を見ることができない者は、神によってさばかれた結果、先に死んでしまったのだと誤解し、「悲しんでいた」のかと思われます。

 

それに対し、パウロはまず、眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません」と言いました。彼はまず、「死んだ人」と言う代わりに「眠った人々」と言いました。先に死んだ人は、アブラハムやダビデのような信仰の勇士と共に眠った状態に置かれているというのです。

神に信頼して死んだ人と、神の救いを嘲りながら死んだ人とは自ずと違いが生まれます。そのことが「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないため」と記されます。信仰の生涯を全うした人々には、この世の人々にはない、生きた希望があることは明らかです。

そして、パウロは引き続き、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」(14節)と言います。この基本は、イエスが死んで復活したように、先に死んだ人も復活するという意味ですが、不思議なのは、ここは厳密には、「イエスを通して眠った人々を主とともに導く」と記されていることです。

信仰者の死は、何かわからない世界に行くことではなく、イエスを通して眠り、イエスと共に導かれることなのです。

 

   その上でパウロはまず、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが(15)と、これがイエスご自身から出た言葉であると強調しながら、「主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んで(眠って)いる人々に優先するようなことは決してありません」と、再臨の時に生き残っている者と、既に眠っている人との間に差がないことを強調します。

なおここで、主が「再び来られる」と記されている言葉は、原文で、主の「現れ(パルーシア)」ということばが用いられています。これは「王の現れ(訪問)」というときに使われる言葉です。

つまり、主の再臨とは、目に見えなかった王、支配者が目に見える形で現れ、ご自身の支配権を明らかにするときでもあるのです。

 

その栄光に満ちた様子が、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます(16)と描かれます。

神がシナイ山に下りて来られたときのことが、「角笛の音が非常に高く鳴り響いていたので、宿営の中の民はみな震え上がった…それは主(ヤハウェ)が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙はかまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた(出エジ19:16-18)と、主(ヤハウェ)の現れの恐怖が描かれています。同じことがイエスの現れの際に起こるというのです。

また、詩篇18篇には、「主は、天を曲げ、降りて来られた・・ケルブに乗って飛び・・暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる。主(ヤハウェ)は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は、雹と日の炭を伴い御声を発せられた(9-13節私訳)という表現がありますが、それとも似ています。

とにかくここは、イエスが全世界を支配する王であるという栄光の現れが描かれているのです。

 

そのときのことが、「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり」と、初めてここで「死者」という言葉とともに「よみがえり」が描かれます。つまり14節にあったように、「イエスを通して眠った人々」が、イエスが死んでよみがえったように、主とともに初めに」導かれるというのです。

そして、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」と描かれます。

ここで「一挙に引き上げられ」ということばは一つの単語ですが、これは一瞬のうちに捉えられることによって「たちまち彼らといっしょに雲の中に」移動することを指しています。

ここで強調されているのは、「引き上げられる」ことよりも、一瞬のうちに初めによみがえった人々と共に栄光の雲に包まれるということです。これは、しばしば「空中携挙」と呼ばれる現象よりも、生きている者も復活した死人と同じ栄光の姿に変えられ、主の栄光を現す雲に包まれることを意味します。

 

Ⅰコリント1552節では「終わりのラッパとともに・・・死者は朽ちないものによみがえり」という記述とともに、生きている「私たちも変えられる」と、再臨の時に生きている者が一瞬のうちに朽ちない身体に変えられることが強調されます。

しかもこの「雲」は、ダニエル713節で、「人の子のような方が天の雲に乗って来られ」父なる神の前に導かれて「主権と栄光と国が与えられ」と描かれる栄光の雲を意味します。

しかも、そのゴールは、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる(7:27)という神の民による支配にあります。

 

しかも、ここでの目的は、「空中で主と出会う」ことにあります。それは、それから空中に住まいを得るためではなく、主とともに天から下ってくるためです。

当時、皇帝が植民都市に現れた際(パルーシア)、町の住民はまず町の外に出て皇帝を出迎え、皇帝を先頭にして町に入ってくるという迎え方をしました。それと同じように、イエスが天から地に下ってこられるとき、私たちがまず主を包む雲の中に、復活の身体に変えられて移動し、主と共に地に下り、この地をキリストと共に支配することになるのです。

しばしばこの描写から、信仰者がこの問題に満ちた地から密かに突然、引き上げられ(携挙)、この地の問題解決は残され復興したイスラエル王国に任され、クリスチャンは天からこの地を治めるというような情景を思い浮かべる方々がいますが、そのような聖書的根拠はあいまいです。

少なくともある朝目覚めてみたら真実な信仰者は天に引き上げられ、偽善的な信仰者が地に残されていたなどということはありません。なぜなら、主の現れは、「神のラッパの響きのうちに」起こると記されているからです。

 

そればかりか「空中」は、「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)というサタンの権力の現れる場ですが、その空中にキリストの支配か貫徹されるのです。

そして、最大の慰めは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」という保障です。現在は、キリストが天におられ、私たちがこの混乱に満ちた地にあり、空中がサタンの領域という分裂状態がありますが、主の栄光の現れの時には、天と地が一つにされるというのです。

  

そして、パウロは、「こういうわけですから、このことば(複数)をもって互いに慰め合いなさい」と述べました。私たちは天国に引き上げられて主をたたえながらハープ演奏を聞いてくつろいでいるような天国観を抱いてはいないでしょうか。

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地」を「治めるのです。そこではエデンの園にあったように労働が喜びになります。また、互いの弱さを隠すことなく、そのままの存在を喜び合うことができます。

それは愛の交わりが完成する場所です。そこで夫婦関係が見られないのは、愛を学ぶ地上の学校を卒業したからです。

 

私たちのうちには既に聖霊が宿っておられます。私たちはこのままの姿で、神のイメージをこの世界に証することができます。その際、私たちが性道徳、お金、死生観のすべてにおいて、この世の常識を超えた歩み方を提示できる必要があります。

情欲におぼれず」家族を大切にし、地道な生活をしてお金を稼ぎ、それを愛の交わりのために用い、肉体的な死を乗り越えて、イエスとの永遠の交わりを、今、ここで意識して毎日を生きるのです。


  私たちの人生のゴールは、たましいが肉体の束縛から解放されて「極楽」に憩うことではありません。私たちのからだが、キリストが復活したように造り変えられ、神の平和に満ちた「新しい天と新しい地」において、神を礼拝し、喜びつつ「世界を治める」ことです。

この地でのクリスチャン生活とは、そのためのリハーサルのようなものです。

|

2013年11月17日 (日)

ミカ6章9節~7章20節「主はいつくしみ(ヘセド)を喜ばれる」

                                                 20131117

ミカの時代と現代とは似ています。見せかけの経済的な繁栄の中で、人の価値がどれだけの富を獲得できたかで計られるようになりがちだからです。そして、より多く稼いだ者は、より多くささげることができ、神に貢献できるかのように誤解されます。

しかし、私たちの創造主なる神が何よりも求められるのは、私たちの「誠実さ」です。そして、神が何よりも喜ばれるのは、ご自身が私たちに「いつくしみ」、「誠実」を施すことであり、私たちがそれに応答することです。それはヘブル語の「ヘセド」の訳です。これは翻訳し難い言葉ですが、それこそ聖書の核心です。

 

ミカ667節では、「私は何をもって主(ヤハウェ)の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主(ヤハウェ)は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか」と、不思議な問いかけがありましたが、それに対する応答が、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実(ヘセド)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか(6:8)と記されていました。

 

信仰の喜びは、掴(つか)み取る生き方よりも、与えられている恵みを思い起こすことから生まれます。イエスが七十人の弟子たちを神の国の宣教のために派遣した時、弟子たちは主の御名によって大きな働きができたことを喜んで報告しました。

それに対して主は、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ10:20)と言われました。ユージン・ピーターソンはそれを、「あなたが神のために何ができたかではなく、神があなたのために何をしてくださったか、それこそが喜ぶべきアジェンダ(議題)です」と意訳しています。

神がご自身の計画の中でいつくしみと恵みを現してくださることを待つことができず、性急に自分の個人的な利益を確保しようとするところから偶像礼拝と争いが始まります。

 

1.「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。」

69節は新改訳では「聞け」から始まりますが、原文では「声」とのみ記され、それを「(ヤハウェ)」と説明され、「町に向かって叫ばれる」と付け加えられています。ですから、ここは何よりも、エルレサレムの町に向かって叫ばれる主(ヤハウェ)の声に注目することが求められているという意味で、「聞け」と意訳されています。

そして、主の声に注目すべき理由が、「御名を恐れることがすぐれた知性だ」と解説されます。この原文は解釈が難しいのですが、ここには(ヤハウェ)を恐れることは知識の初めである(箴言1:7)という聖書の核心が記されているものと思われます。

その上で明確な「聞け」という命令とともに、「聞け。部族、町を治める者」と呼びかけられます。

 

  10-15節では、三つの節に渡ってイスラエルの罪が描かれ、その後三つの節に渡ってさばきが宣告されます。彼らの第一の罪は不正のはかりを用いて不正の財宝を蓄えていることです。

1011節の原文では最初に「まだ、悪者(不正)の家には・・あるではないか」と問われ、その内容が「不正の財宝と、のろわれた枡目不足の枡が」と記されます。そして引き続き、「罪なしとすることがわたしにできようか」という問いかけとともに、「不正なはかりと、欺きの重り石の袋を使っている者を」と記されます。

ここでは「不正」ということばが三回繰り返されそれが「不正の家」「不正の財宝」「不正のはかり」と非難され、それとともに「のろわれた桝目不足の枡」「欺きの重り石の袋」の問題が指摘されます。彼らは不正なはかりを用いて弱い民から搾取し、不正の富を蓄えていたのです。

 

   12節では、「富む者たちは暴虐に満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中の舌は欺く」と彼らの罪が要約されます。エルサレムの富む者たちはお金の力で権力を握り、暴虐を働きます。また社会的弱者が権力者の不正を訴えても、住民は権力者におもねって偽りを言います。ここの「舌は欺く」と先の「欺きの重り石」が対応します。

 

それに対する神のさばきが13-15節で宣告されます。まず、主ご自身が「わたし」ということばを強調しながら、「わたしもそこで、あなたを打って痛め、あなたの罪のために荒れ果てさせる(13)と、怒りを顕にされます。

 

その上で、彼らの不正と欺きと暴虐の罪に対するさばきとしてののろいが、「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。あなたは、移しても、のがすことはできない。あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。あなたは種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブをしぼっても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない」と描かれます(1415)

これは、まず、「桝目不足の枡」を使ったことで、食べても満ち足りない状況が実現し、暴虐を働いたことに対して「剣に渡す」という報いが実現し、「不正なはかり」や「欺きの重り石」を使って不正の財宝を蓄えたことに対し、自分たちの労働の実が奪われるという報いが実現します。

 

申命記28章には主のみことばを軽蔑する者に対するのろいが警告されており、そこでは、「あなたが・・ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、ふみにじられるだけである。あなたは目に見ることで気を狂わされる」(303334)と記されていましたが、いまそのようなのろいがエルサレムに実現するというのです。

 

イエスは、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる(マタイ7:2)と言われましたが、これは厳密には、「量る量りを用いて量られる」と記されます。

つまり、桝目不足の枡を用いた者は、その同じはかりによって神から量れることになります。つまり、人を軽く見て騙すような者は、同じように神から無価値な者と見られます。

それは反対に、人に恵みを与える枡を用いた者は、神から豊かに扱われます。そのことを主は、「あなたがたは、人に量ってあげるそのはかりで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます(マルコ4:24)と言われました。

 

16節は9節に対応することばだと思われます。そこではまず、「あなたがたはオムリのおきてと、アハブの家のすべてのならわしを守り、彼らのはかりごとに従って歩んだ」と、北王国の前政権を倒してサマリヤに都を移したオムリ、その息子でバアル礼拝を持ち込んだアハブに習ったことを非難しています。

アハブの娘アタルヤは南王国エルサレムの王ヨラムに嫁いだところから、神の都エルサレムに偶像礼拝が持ち込まれました。

 

信じ難いことですが、ダビデが基礎を築いたエルサレム神殿に異教の習慣が入り込んで、それを取り巻く山々に偶像礼拝の高き所が築かれました。続く文章が新改訳ではそれは・・・ためだ」と訳されますが、この接続詞は、「その必然的な結果として」とも解釈できます。

ですからここは、「そのため、わたしはあなたがたを荒れ果てさせ、住民をあざけりとする。あなたがたは、国々の民のそしりを負わなければならない」と訳すべきかと思われます。

 

エルサレムの権力者が社会的弱者を虐げ搾取し、偶像礼拝によって神の御教えを見えなくしてしまったことへの報いが実現します。

神は今、異教徒の国を用いてご自身の民をさばこうとしておられるのです。

 

2.親しい友をも信頼するな。しかし、私は・・私の救いの神を待ち望む

71-7節は預言者ミカの哀歌です。1-6節ではイスラエルの罪に対する嘆きであり、7節は神への信頼の歌です。まず彼は、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない」と嘆きます。

これは、収穫の直前にすべての実が、奪い取られてしまったためだと思われます。初なりの実は、果樹園で働く者にとってはすべての希望の象徴のようなものですが、それが無に帰するということは大きな悲しみです。

 

   そしてイスラエルの現状が、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている(23)と描かれます。つまり、全ての人が自分の都合を最優先して人を裏切ることを何とも思っていないというのです。

 

その上で、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ(7:4)と記されますが、これは民の指導者たちの中で、善人また正しい者と見える人々も、助けを求めて近づくと、反対に傷つけられてしまうということを意味します。

それは、彼らが偽善者で、自分の利益しか考えていないことがわかるからです。

 

それに対して、「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる(7:4)と、二人称で神のさばきが宣告されます。「あなたを見張る者の日」と記されているのは、神のさばきとして敵の攻撃が町に迫って来ることを預言者が「見張るからです。

 

そして、56節では国の末期症状が描かれます。権力者は疑心暗鬼になって密告者を網の目のように散らすような中で、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている」と描かれます。

国の将来に対する希望がなくなると、人は勇気が萎えて、自己保身しか考えなくなり、裏切りが日常化します。これは法律の善悪以前の問題です。そしてまさにこれは現代の北朝鮮やシリアが陥っている状況です。

 

   ただ、このような中でミカは、「しかし、私は主(ヤハウェ)を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる(7:7)と告白します。ここではまず、「私」ということばが強調されます。そして、「仰ぎ見」ということばは原文では先の「見張る」と同じ言葉が用いられています。

つまり、先には主のさばきを見張るという預言者としての働きが描かれていたのに対し、ここでは、主の救いを見張るという意味に逆転されているのです。

 

私たちは神のさばき救いをまったく対照的なことに理解しがちですが、それはこの世の不正や不条理を正すという意味において、さばきであり、同時に、虐げられている者たちにとっての「救い」なのです。

私たちは、目の前の不安な状況を変えようと必死になることがありますが、しばしばそれはかえって問題を複雑化させるだけということがあります。悪の力に、力で対抗しようとすると、なお強い力の反発を招くということがあるからです。

 

3.「私は主(ヤハウェ)の激しい怒りを身に受けている・・しかし・・・主は私を光に連れ出し」

8-10節の「」はエルサレムを擬人化した者と考えると意味が理解できます。まずエルサレムは、「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主(ヤハウェ)が私の光であるからだ」と告白します。

これは当時のエルサレムばかりか、すべてのキリスト者に適用できる表現です。

 

しかも、エルサレムが敵の攻撃を受ける理由が、「私は主(ヤハウェ)の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ」(9)と描かれています。

人間的な考えでは、主の怒りを受けたのであれば、もう希望がないとも思えますが、それを当然受けるべき主からの報いととらえるなら、そこに回復の希望が生まれます。

 

そのことが、「しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」(9)と告白されます。エルサレムは自分に対する主のさばきを謙遜に受け止めながら、同時に、敵の手からの救いを必死に求めます。

その結果、主は、今度はエルサレムを攻撃した敵にさばきの手を向けてくださいます。「主は私を光に連れ出し」は8節の「(ヤハウェ)が私の光」ということばに対応します。また、「その義」とは、アブラハムの子孫に対する主の真実さと理解することができましょう。

 

   10節はその結果が敵に見えるようになることが、「それで、私に向かい、『あなたの神、主(ヤハウェ)は、どこにいるのか。』と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる」と、描かれます。

エルサレムの敵は単に一時的に主のさばきの道具に用いられたに過ぎませんでしたが、彼らは勝利の中で自分たちの力を誇り、主を侮りました。それに対する報いが来るというのです。

 

 11節から13節もひとつのまとまりになっています。まず、1112節では「」という言葉が三回繰り返されます。つまり、「あなたの石垣を建て直す日」は、同時に「国境が広げられる日」でもあるのですが、何と「その日」はイスラエルを懲らしめた国々の民がイスラエルの救いを求めに来る「その日」でもあるというのです。

そのことが、「その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る(12)と描かれます。

 

しかし同時に13節では不思議にも、「しかし、その地は荒れ果てる」とも記されますが、これは新しく広げられたエルサレムの国境の外に対して、神のさばきがくださることを意味します。

そしてその理由が、「そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行いの結んだ実である」と描かれます。彼らは暴虐の種を蒔き、荒廃という実を刈り取るのです。神の救いを嘲る者には厳しいさばきが待っています。

 

この世の権力者、横暴な者たちに腹を立てるのは当然ですが、私たちが復讐を計画しなくても、主ご自身が報復してくださいます。

私たちにとっての回復の日は、同時に、私たちの敵が恥を見る日でもあるのです。

 

4.「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」

また14節から18節もひとつのまとまりです。そこではまず、「どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください」という祈りがささげられます。これは詩篇23篇にあるような主と主の民との関係が回復することを願ったものです。

そして、「彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください」という言葉の中に、残された地の豊かさへの感謝とともにその狭さを嘆き、ヨルダン川東岸にある昔の領土を回復したいという思いが描かれています。

 

そしてそれに対する主の応答として、「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう(7:15)という主の力強い約束が記されます。

そしてそれを聞くイスラエルの民が、「異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主(ヤハウェ)のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう」と告白します(1617)

それは、今までイスラエルの神を嘲っていた者たちが、自分たちの力を恥じ、主の前にひれふすようになるという期待を表現したものです。これから間もなく、アッシリヤ軍がエルサレムを包囲しますが、主の御使いが現れその軍隊を敗走させます。

イエスを「ユダヤ人の王」としてあざけって十字架にかけたローマ帝国は、イエスの前にやがてひざまずきます。それは、イエスの十字架が、死の脅しの力を砕いたからです。

私たちはキリストにあって、すでに「死からいのちへと移っている(ヨハネ5:24)のです。キリストにある救いは、死後のいのち以前に、ひとりひとりのこの世での生き方を逆転させるものなのです。

 

 最後にミカは、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と告白します。ミカという名には、「誰がヤハウェのようであろうか」との意味があり、それを言い換えたものです。

そして、「あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです」と主を賛美します。

ここは原文では「その方は」という主語のもとに三人称単数形の動詞が続き、最後は「主はいつくしみを喜ばれる」と記されています。「いつくしみ」はヘブル語の「ヘセド」(変わらぬ愛、誠実6:8)です。

 

この背景には主がモーセにご自身を啓示されたとき、「主(ヤハウェ)は、あわれみ深く(ラハム)、情け深い神、怒るのに遅く、恵み(ヘセド)とまこと(エメット)に富み、恵み(ヘセド)を千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に(出エジプト34:6,7)と言われことばがあります。

 

 その上で1920節は新改訳では嘆願の祈りになっていますが、最近のほとんどすべての訳は、直説法になっています。しかも、最初は「彼は」という三人称単数形の動詞です。

ですからここは、「主はもう一度、私たちをあわれみ(ラハム)、私たちの咎を踏みつけてくださいます。あなたはすべての罪を海の深みに投げ入れてくださいます。昔、私たちの先祖に誓われたように、真実(エメット)をヤコブに、いつくしみ(ヘセド、変わらぬ愛、誠実)をアブラハムに与えてくださいますと訳すべきかと思われます。

最初のことばは、厳密には「主は悔いて私たちをあわれむ(ラハム)」と訳すことができます。これは主がイスラエルを罰したことを悔いるように悲しみ、その上で彼らの痛みに徹底的に寄り添ってあわれみを施してくださるという意味です。

神は確かに、「罰すべき者」は罰して報い、「のろい」が「三代、四代」(70)に及びますが、神はご自分がくだされたさばきを同時に深く哀しまれます。

ヘブル語のラハムには「哀れみ」と同時に「哀しみ」の意味があります。母がこの痛みを見てはらわたを震わすように哀しみまた哀れむというのです。

主は決して、「天から見下ろすように罪人を軽蔑して罰を下す方ではありません。主は、ご自分の民をさばきながら、同時に、彼らの痛みを自分の痛みとして哀しみ、哀れんでおられるのです。

 

なお18-20節では「を赦し」「そむきの罪を見過ごされ」「を踏みつけ」「すべてのを海の深みに投げ入れる」と、主の「真実(エメット)」、主の「いつくしみ(ヘセド)」が、「罪」、「咎」、「そむき」に勝利するということが強調されます。

そして、1820節で繰り返される「いつくしみ」(ヘセド)こそ、この箇所の核心部分です。神はアブラハムへの約束を決して破りません。アブラハム、ヤコブへの祝福の約束が千代に及ぶと言われているからです。

 

 主のあわれみを軽蔑する者に対するご自身のさばきと、主のあわれみに感謝し、主の誠実さに応答して生きようとする者への主の報いというのは聖書のストーリーの核心です。この世は、どれだけの成果を生み出し方で人の価値を測りますが、そのような偽りのストーリーに身を委ねてはなりません。

確かに仕事をさぼると結果が出ないというのは当然のことですが、真面目にやったからといって結果が出るとは限りません。ときには誠実に働いた成果を人に奪われることだってあり得ます。しかし、神の前に誠実に生きるとは、ときにそれが自分に損になると分かっていても、それをも引き受ける覚悟を決めることです。

 

そこには必ず、永遠の観点から見た別の原因・結果の関係があります。それは、「誠実(ヘセド)こそが、神に喜ばれる」ということです。それはアブラハムへの約束を誠実に守り通すという「変わらない愛」に対する私たちの応答です。

神は最終的には、あなたの誠実さに報いてくださいます。しかも、神はご自身にすがってくる者をお見捨てにはなりません。確かに短期的にそのような美しい結果が見えるのは稀かもしれません。

 

しかし、「信仰」ということばは、ヘブル語(エメット)でもギリシャ語でも「真実」という意味が基本にあります。信仰とは、神の真実に応答する私たちの真実です。「アーメン」とは、「これは真実です」という意味です。

ヘブル語のふたつのことば、エメットとヘセドこそ、聖書のストーリーの核心です。

|

2013年11月 3日 (日)

ミカ5,6章「平和への救い主とともに歩む」

                                                  2013113

  ミカ書5章はキリスト預言として有名です。ただ多くの人が見過ごしていることに、その救いが、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と描かれていることがあります。アッシリヤとは、横暴な支配者の代名詞です。それはイエスの時代はローマ帝国でした。また第二次大戦下の日本では軍閥でした。あなたの身近なところにも、横暴な人間がいるかもしれません。

イエスによる救いは、「今は、辛いけど、やがて天国では・・・」という浮世離れしたものではなく、不条理に満ちた現実の世界に適用できるものです。イエスの時代の人々は、ローマの圧政から解放してくれる救い主を求めていました。イエスはそのような救い主として現れました。イエスの話を非現実的と拒絶したユダヤ人の国はローマ帝国によって滅ぼされました。しかし、浮世離れしていると思われたイエスの福音こそ現実のローマ帝国を変えたのです。

しばしば、目の前の出来事に現実的に対応するという名のもとで、暴力や復讐の連鎖を生みます。現実的な解決は、しばしば、破滅への道となっています。私たちはもっと、この世界に平和を実現すると約束してくださったイエスのことばを、この世の現実に適用することを心がけるべきではないでしょうか。

 

1.「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」

5章の初めでは、「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ」と記されます。これはたとえば、エルサレムがアッシリヤの軍隊によって包囲され、絶体絶命の危機に瀕する様子を描いたものです。

その際、「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ」と呼びかけられるのは、人間的には勝ち目のない娘のようなひ弱な軍隊に呼びかけるしかない状態を示しています。そして、そのような中で、イスラエルの王の頬が杖で打たれるという辱めを受けるというのです。

 

   しかし、そのような中で、48節に記されていたように、「以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」というのです。そして、その王国を導く新しい王の誕生のことが、ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る(5:2)と預言されます。

このみことばはマタイの福音書2章では東方の博士たちの訪問に驚いたヘロデ大王が学者たちを集めて「キリストはどこで生まれるのかと問いただした」ときに引用されたものです。その際、学者たちは、ヘロデが理解しやすいように若干の言い換えをして引用したのかと思われます。

そこでは、ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者があなたから出るのだから」と記されています。

 

ミカ書で、「ベツレヘム・エフラテ」とあるのはその当時は二つのベツレヘムがあったためで(ヨシュア19:15では北のゼブルンの支配地にベツレヘムという町があった)、それを区別するためだと思われます。

なお、ダビデの出生に関しては、「ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった」(Ⅰサムエル17:12)と記されていました。そこから「エフラテ」という地名が生まれたと思われます。

また、ミカ書で「最も小さい」と記されているのは町のサイズを示し、マタイの引用で、「一番小さくはない」と記されているのは、小さな町であるにもかかわらず、小さな意味しか持たない町ではないという意味だと思われます。

 

   また、ミカでは続けて、「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と記されているのは、主がダビデに対し、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ(Ⅱサムエル7:16)と、ダビデ王家の永遠性を約束しておられたことを指していると思われます。

 

   そして、「それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる」(5:3)とは、この救い主の誕生のときまで、イスラエルの民は外国の支配下に置かれるという意味だと思われます。

ただ、同時に「彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる」とあるのは、イスラエルの民が四方に散らされていても、この救い主のもとに集められるという意味です。それと同時に、これは復活したイエスが天に昇られた直後に百二十名ほどの兄弟が集まって、心を合わせ祈っていたという記事がありますが、それから間もなくのペンテコステの日には三千人ほどが弟子に加えられています。これこそ、このミカの預言の成就と解釈することができます。

 

引き続き、この救い主の働きが、「彼は立って、主(ヤハウェ)の力と、彼の神、(ヤハウェ)の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ(5:4)と描かれます。

4章の初めでは、(ヤハウェ)ご自身が全地に平和を実現すると約束され、その7節では、「(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されていましたが、ここでは救い主として誕生する方が、主(ヤハウェ)の支配をこの地上に目に見える形で現すと記され、(ヤハウェ)と一体となっている王であられると描かれています。

 

そして、不思議にもここでは救い主が実現する平和のことが、平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う(5:5,6)と描かれます。

ここで、最初のことばは、「この方こそが平和となる」とも訳すことができ、その方が一般的な訳です。そして、そのことが6節の終わりで、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と言い換えられています。

つまり、救い主は、預言者ミカの時代にとっての最大の脅威であったアッシリヤ帝国の攻撃から民を救いだし、平和を実現する者として描かれているのです。

 

現代の誰も、イエス・キリストをアッシリヤ帝国の支配からの解放者としては理解していません。なぜならイエスはアッシリヤ帝国滅亡後600年余りたって誕生しているからです。

しかも、ここでは、そのプロセスで、「七人の牧者と八人の指導者」という地上の指導者が、救い主のもとで立てられ、アッシリヤの地とニムロデの地を軍事的な剣の力で治めるというのです。なお、ニムロデの地とはバビロン帝国の中心地を指します。

 

ただし、詩篇2篇では、救い主の働きが、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(9)と描かれていました。とにかく、この時代の預言では、救い主は軍事的な指導者として明確に描かれているのです。

そして、黙示録では「ハルマゲドン(16:16)での戦いに勝利する方が、「神のことば」と呼ばれ、その「口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖をもって彼らを牧される」と描かれます(19:13-15)

つまり、ミカが預言した救い主は、最初は剣も鉄の杖も用いない方として現れながら、世の終わりになって預言を成就するということなのです。

救い主は、一度目は、人の罪を負って十字架にかかる方として現れ、二度目は、鉄の杖で神の敵を踏みにじる方として現れるのです。

 

それが示すことは、イエス・キリストは単に柔和で優しい方というのではなく、地上的な力をもって、この地の敵を従える方であるということです。

旧約聖書を読まず、黙示録以外の新約聖書しか読まない多くのクリスチャンは、その点で救い主のイメージを大きく誤解しています。

とにかく、救い主は、この世の悲惨や争いを、ただ涙を流しながら途方に暮れている方ではありません。事実、このミカの預言から数十年後に、アッシリヤ帝国がエルサレムを包囲した時、ミカの預言を信じたヒゼキヤ王は、主に従うことアッシリヤの攻撃を奇跡的に退けました。

 

ここに描かれた「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」というみことばは、この地上の横暴な権力者すべてに対する勝利として適用することができます。

イエスが十字架で息を引き取ったとき、それを見ていたローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。それは十字架で死んだイエスに、ローマ皇帝と同じ権威を認めたことを意味します。

そして、イエスは死の力を打ち破って復活されました。そして、その後のキリスト者に剣の脅しが通じなくなったとき、ローマ皇帝自らがキリストを真の王と告白するようになりました。

私たちはどこかで、救い主のご支配をあまりにも浮世離れしたことと理解してはいないでしょうか。

 

2.「ヤコブの残りの者は・・・人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない」

578節は諸外国の攻撃や圧政の中を生き延びた子孫に関しての約束です。

その第一は、「そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、(ヤハウェ)から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない」と描かれます。

それは、神の民が世界中に潤いをもたらす者となるという意味です。彼らは、肉なる人間にではなく、神に望みをかける者として世界の希望となります。これは、新約の時代においては、私たちが「世界の光」「地の塩」として生きることを意味します。

 

   そして第二は、「ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない」(5:8)と記され、苦難を潜り抜けた神の民がライオンのように強くされることを意味します。

そして、9節はその彼らの勝利を、「あなた」という呼びかけによって、「あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる」と、主にある勝利が約束されています。

使徒パウロも、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい(エペソ6:10,11)と記しています。

「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい(マタイ5:39)というのは決して敗北主義の教えではなく、悪の力に勝利するための秘訣を語ったものです。それは神のご支配を信じているからこそできる勇気ある行為です。

 

   そして、1011節では、「その日」ということばとともに、41節の「終わりの日」、46節の「その日」で約束されていた神の平和を、神ご自身が神の民の戦いの道具である「」や「戦車」やなくすことによって実現するというのです。

それはまた、驚くべきことに「あなたの国の町々を断ち滅ぼし、要塞をみなくつがえす」とあるように、人間的な力を誇る神の民を内側からきよめる神のさばきでもありました。

神の平和は、人間的な力により頼む者へのさばきから始まるというのは。恐ろしいこことでもあります。

しかしダビデ自身も詩篇207節で、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主(ヤハウェ)の御名を誇ろう」と告白していたのです。

 

この三、四十年後、南王国ユダのヒゼキヤ王はアッシリヤに包囲された絶望的な状況の中で、ただイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼して、救いを願いました。

すると、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した」と記されています(イザヤ37:36)。 神の民は、戦う必要がなかったのです。

 

   そればかりか、主はイスラエルの中から、「呪術師を断ち、占い師を・・なくする・・・刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす」と言われ、その結果、「あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない」と、偶像礼拝から無縁にされる状態を作り出してくださいます(5:12,13)

そればかりか、イスラエルの中であがめられていたカナンの豊穣の女神の「アシュラ像」をねこぎにするばかりか、そのような像を拝んでいた「あなたの町々を滅ぼし尽くす」と言われます。

そして神のさばきは世界に広がるということが、「わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する」(5:15)と描かれます。神は最終的に、すべてのご自身の敵を滅ぼされます。

 

   預言者ミカの時代から百数十年後に預言者エレミヤは、イスラエルに対する主のさばきは、新しい世界を作り出す神のみわざであるということを強調しながら、次のような主のみことばを記しました(エレミヤ17:5-8)

 

人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主(ヤハウェ)から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

(ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」

 

ここには、のろいと祝福の対照が美しく描かれています。人間的な力により頼んだイスラエルは自滅しました。しかし、私たちクリスチャンは真の「ヤコブの残りの者」として、人ではなく神に信頼して、祝福に満たされるのです。

 

3.「人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。」

6章は、12節、31節にあったように「さあ、聞け」という言葉から始まります。最初の呼びかけは8節までのすべてを支配します。

その上で、主はまず預言者ミカに向かって、「立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ」と命じています。

そして今度は、ミカ自身が、「山々よ。聞け。主(ヤハウェ)の訴えを。地の変わることのない基よ。主(ヤハウェ)はその民を訴え、イスラエルと討論される」と訴えます。

主はミカ書の初めで、「地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ」と語っておられましたが、ここでも被造物全体への語りかけられます。それはそのような神に反抗する意思を持たないものを証人に立てて、イスラエルの不従順の罪を訴えるという構図です。

 

   そして3節からは主ご自身がイスラエルに向かって「何」「どのように」ということばを繰り返しながら、「わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ」と訴えられます。そこには、イスラエルの反抗の責任は神の側にはないという悲痛な訴えがあります。

 

その上で主は、イスラエルの歴史を振り返りながら、まず、「わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った(6:4)と言われます。

神ご自身が一方的な愛を持ってイスラエルを奴隷の家から解放し、彼らにモーセなどの指導者を送ってくださいました。

 

そればかりか、イスラエルの民が40年の荒野の生活の最後に至った時に、主ご自身が敵の策略を打ち砕いてくださったことを、「わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか」と言います(5)

主ご自身が何と、敵の王に仕えようとした占い師のバラムを用いて、敵への呪いとイスラエルの民への祝福のことばを言わせました。

 

また、「シティムからギルガルまでに何があったか」とありますが、シティムはヨルダン川の東側にあるイスラエルの民のキャンプ地でした。彼らはそこでモアブの娘とみだらなことをして、主の怒りを買いました。その背後にはバラムの策略がありました。

しかし主は彼らをあわれみ、ヨシュアのもとで、ヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を渡らせてくださいました。そして、ヨルダン川西側のギルガルにおいて主の契約を再確認しました。

これらの圧倒的なみわざの目的は、「それは(ヤハウェ)の正しいみわざを知るためであった」と記されています(6:5)

 

そして、ミカは67節でイスラエルの民の愚かな犠牲のいけにえを非難して、「私は何をもって主(ヤハウェ)の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主(ヤハウェ)は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか」と言います。

 

預言者ミカの時代は、北王国イスラエルも南王国ユダも経済的繁栄をまだ享受できていた時代です。彼らはその豊かさを用いて、高価な一歳の子牛や幾千の雄羊、幾万の油を、エルサレム神殿でいけにえとしてささげていましたが、それは社会的な弱者から搾取したものでもありました。

また彼らはカナンの豊穣の神々のバアルや世界で最も古い女神の一つであるアシュラに多くのいけにえをささげていました。

また、そればかりか、彼らはモレクという偶像に幼児をいけにえとしてささげるということまでしていました。

そして今、日本でも伊勢神宮の式年遷宮に550億円が使われたと言いますが、経済的な繁栄は偶像礼拝をも盛んにします。

 

そして、ミカはこの書の核心として、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか(6:8)と告げます。

公義を行なう」とは、神の正しいさばきの基準に従ってこの世界を治めることです。

誠実を愛する」の誠実とはヘブル語のヘセド、真実な変わらない愛を愛するという不思議な表現です。それは人や周りの反応に左右されずに神の眼差しを意識しながら神と人とに誠実を尽くすことです。

また「へりくだってあなたの神とともに歩む」とは、神との対話の中で神の意志を自分の意志としながら日々を過ごすということです。

 

イエスは、几帳面な生活ばかりに気を取られているパリサイ人を非難して、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません(マタイ23:13)と言われましたが、その背後にはこのミカのことばがあったと思われます。

この預言書では、「さあ、聞きなさい」「耳を傾けよ」ということばが繰り返されています。

 

私たちはつい自分の価値観に従って、自分の目の正しいと思うことに熱心になりがちですが、それよりもはるかに大切なのは、神の前にへりくだり、神のみことばに耳を傾け、神の御思いに自分の心を向けながら、何が神の目に良いことなのかを慕い求めることなのです。

神への最高の愛の表現は、神の御言葉に耳を傾けることです。

もちろん、イエスが十分の一もおろそかにしてはいけないと言われたように、私たちの犠牲のささげものや奉仕は大切ですが、「私は自分の責任を果たすために日夜頑張っています」などと言いながら、もっとも身近にいる人々の心の声やいっしょに礼拝に集っている人々の心の声にまったく耳が向いていない人がいます。

パリサイ人たちは、自分たちは神の前に誠実を尽くしているという思いの中で、イエスを十字架にかけるように叫んだのです。

 

私たちはこの世界で多くの成功物語を聞きます。私も、「お金と信仰」などという連載記事の中で、この世の経済活動を軽蔑することなく、自分の心の中に湧いてきた思いや、迷っている中での「ひらめき」のようなことに自分自身の将来を賭けてみる大胆さが大切であると説いてきました。周りに気遣いながら自分の情熱を殺すなど愚かなことだからです。

しかし、それと同時に、私たちは目的のために手段を選ばない生き方や、または目先の成果に一喜一憂するような近視眼的な生き方から自由になる必要があります。結果を出すことが何よりの証しになるなどという発想を、主は決して喜ばれません。

主に創造された者としての個性を生かすことと、いつでもどこでも、主のみこころを第一として生きることには何の矛盾もありません

イエスはこの世界を平和の完成へと導いてくださる救い主です。そのために今求められている生き方は、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか(6:8)ということにまとめられます。

主のみこころとは、あなたがどんな仕事をするか、何に情熱を燃やすか、ということよりも、日々、このような主の御心に沿った生き方を目指しているかに現されます。

|

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »