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2013年12月29日 (日)

ハバクク1:1-2:5「神の真実に応答する者は生きる」

                                                 20131229

  新約聖書の教えの核心に、「義人は信仰によって生きる」というみことばがありますが。それはハバクク書24節からの引用で、新約では教理の核心と呼ばれる三つの箇所で引用されます。

第一は、ローマ人への手紙117節で、「神の義(真実)」が私たちに信仰を生み出し、「信仰に進ませる」という文脈で引用されます。

第二は、ガラテヤ311節で、「律法の行い」によって「生きる」ことができるという教えとの対比を示すために引用されます。

第三はヘブル1038節で、試練の中で「恐れ退く」こととの対比で、「忍耐」を教えるために引用されます。

 

この教えは「信仰義認」というプロテスタント信仰の根幹と呼ばれますが、多くの誤解も生んできました。たとえば、「神を信じればどんなに悪いことをしても、その行いが問われることがない」という、不道徳を許容する教えとして誤解されることもありました。

また反対に、神の救いは人間の側の信仰の結果として与えられると誤解され、「こんな弱い信仰で、救われるのだろうか」などという疑念を生み出すことがありました。

新約聖書が記される前の初代教会の人々は、旧約の文脈を前提に福音を理解しましたが、現代は旧約の文脈を無視してこのことばが独り歩きしてしまいます。それを正す意味でも、本日の箇所は、まさに私たちを信仰の核心へと導くものと言えましょう。

 

1.「いつまで、聞いてくださらないのですか・・なぜ・・・ながめておられるのですか」

この書の最初はナホム書と同じく「宣告」ということばから始まります。これは本来、「重荷」という意味があります。それはエルサレムを中心としたユダ王国や横暴なバビロン帝国の上に重くののしかかるもので、そのさばきのことばが実現するという意味が込められます。

続けて原文では、「それは、預言者ハバククが見たもの」と記されます。多くの預言書では最初から著者が「預言者」とは描かれませんが、ここでは初めに「預言者」として紹介されます。

 

この書は、ダビデが築いた王国がバビロン帝国によって滅ぼされる少し前に記されたと思われます。当時のエルサレムの政治は混乱を極めていました。この少し前、ユダ王国は、敬虔な王の代表者ヨシヤのもとで真の神に立ち返り、一時的な繁栄を謳歌しますが、紀元前609年には、エジプト、アッシリヤ連合軍とバビロニアとの戦いに巻き込まれ、カナンを北上してきたエジプト王ネコに戦いを挑んで戦死します。

その後のエルサレムの政権は、南のエジプトと北のバビロニアを両天秤にかけるような不誠実な政策を続けます。目に見えない神よりも目に見える人間の顔色を伺い、強い者には卑屈になり、弱い者には傲慢にふるまうような政治が行なわれていました。

 

ただ同時に、神を信じる者にとっても、神のご計画が見えなくなり、混乱を極めました。偶像礼拝を強要したアッシリヤ帝国をバビロン帝国が滅ぼしてくれたことは良かったのですが、バビロン帝国もアッシリヤに勝るほどに横暴な国でした。

そのような中で預言者エレミヤなどは、神がそのバビロン帝国を用いて神の民イスラエルを懲らしめ、謙遜にすると語り続けていました。イスラエルの神ヤハウェが、異教の乱暴な国を用いて、ご自身の都エルサレムを滅ぼそうとしておられるなどということを、誰が信じることができましょう。

現代の日本でも、多くの信仰者は、現在の政権が日本を破滅に導くのではないかと危惧していますが、このときは、何と、神ご自身がご自分の民を滅ぼそうとしておられたというのです。

当時のエルサレムでは、バビロン帝国につくか、エジプトにつくかで国論が揺れていましたが、神のみこころはそれをはるかに超えるものでした。私たちも現在、将来の不透明感が増す中で、「これこそ国を滅ぼす政策だ!」などと、必死に反対を唱えたい誘惑に駆られますが、神は別の視点を求めておられるのかもしれません。右でも左でもなく、今ここで、私たちがどのような思いで生きるかが問われています。

 

2節は「いつまでなのですか。主(ヤハウェ)」というハバクク自身の叫びから始まり、「私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたは聞いてくださらない・・『暴虐』と・・叫んでいますのに、あなたは救ってくださらない」と、主の沈黙を非難するように訴えています。

彼はエルサレムの中に支配者たちの「暴虐」を見て、必死に神の助けを求めて叫んでいるのですが、いつまでたっても聞いてくださらない、救ってもくださらないと思え、絶望的な気持ちになっています。

ただ彼は、それでも諦めることなく主に訴え続けます。それこそが感動的です。残念ながら、多くの人々は、ほんの少し祈っただけで、「神は何も私の訴えを聞いてくださらない・・」と諦めることがあるからです。

 

  ハバククは神の沈黙に耐えながらも、「なぜ、あなたは」と積極的に神に疑問をぶつけながら、「私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか」と訴えています(3)。神ご自身がわざわいを放置し、「労苦」をただ上から「ながめて」いるだけだというのです。

その上で、「暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています」と訴えます。ここでは先にあった「暴虐」の同義語が、「暴行」「闘争」「争い」と描かれています。

 

  そして、ハバククは引き続き、「それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません(4)と訴えます。「暴虐」が放置されている結果、「律法」と呼ばれる神の御教えが「眠り(麻痺し)」、機能しなくなってしまいました。ここで「さばき」と訳されることばは、神の正義に従った政治を指し、それが「いつまでも(まったく)行われない(出てこない)」と嘆いているのです。これは神の正義がまったく見えなくなっている現実を嘆いたことばです。

 

また、それに続く文章は、「悪者が正しい人を取り囲んでいます。それゆえ、さばきが曲げて行われています」と訳した方が良いと思われます。残念ながら、新改訳ではこの節での二番目の「それゆえ」が訳されていませんが、ここでは「正しい人」が悪者に取り囲まれて見えなくなっているので、その必然的な結果として、本来あるはずの神の正義の基準に従った政治(さばき)が曲げて行われる(出てくる)というのです。

そこでは、「正しい人」、つまり、神の前に誠実に生きようとする人々のことばが、真の神を忘れた人々(悪者)の陰に完全に隠されてしまって、誤った政治や裁判がなされてしまっているというのです。神の国の中心であるはずのエルサレムにおいても、「正直者がバカを見る」ような現実があるため、神の御教えを無視する不法がますますはびこるようになっていました。

 

 「いつまで、主(ヤハウエ)よ、あなたは聞いてくださらないのですか・・」「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか・・」という祈りは、不条理な苦しみにあったヨブの訴えに通じます。私たちは主に問いかける前に、しばしば自分で答えを出そうとしてはいないでしょうか。そこから真の祈りは生まれません。

 

2.「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす・・・彼らは、自分の力を自分の神とする者」

  そのような疑問に対し、神からの答えが5-11節に記されます。

まず主は、「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする」と言われます。主はご自身の計画を知らせる前に、現実の世界の動きを、あるがままに「見よ」、また「目を留めよ」と命じ、その上で「驚き、驚け」と、常識をひっくり返すことが起きることを示唆しつつ、それを起こすのは主ご自身であると強調します。

つまり、ハバククの祈りは神に届いていたのですが、神の答えはあまりに意外なので、「それが告げられても、あなたがたは信じまい」と言われます。

 

そして主は、突然、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」と言われます。これはバビロニアの中心部族で、紀元前626年にナボボラッサル王がアッシリヤ帝国からの独立運動を起こしたことに始まります。彼らは紀元前18世紀のハムラビ以来、アッシリヤ王国とメソポタミアの覇権を争い続けてきました

そしてこのときナボボラッサルは、アッシリヤからの独立を勝ちとるとともに、その後、北のメディア王国との連合で、紀元前612年にはアッシリヤ帝国の首都ニネベを滅ぼし、紀元前609年にはカルケミッシュの戦いでアッシリヤとエジプトの連合軍を打ち破り、その後、アッシリヤという名は歴史に二度と出て来なくなります。

そのたった50年余り前にアッシリヤはエジプト王国をも滅ぼし、世界最初の世界帝国となっていたのですから、この変遷は誰に目にも、信じがたい動きでした。

 

  そして、このカルデヤ人の国の事が、「強暴で激しい国民だ」 (6)と描かれます。神がご自身のさばきを実現するために立てた国は、まるで暴力団のような集団だったというのです。

そして、「これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行い、威厳を現す(67)とあるように、自分自身を神の立場において他国を次々と支配します。

そしてその軍隊の様子が、「その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その軍馬は、はね回る。その騎兵は遠くからやって来て、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる(8)と描かれます。「ひょう」は速い動物の、「日暮れの狼」は敏捷な動物の代名詞でした。また軍馬と騎兵が襲い掛かってくる様子が、まるで「鷲」のような素早さと獰猛さがあるというのです。

 

  そして彼らの行動が、「彼らは来て、みな暴虐をふるう」 (9)と描かれますが、これは、エルサレムの指導者の「暴虐」をさばくために、神ははるかに上回る「暴虐」を行なう民を起こすということを意味します。

また続けて、「彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める」と記されますが、「東風」とは干ばつをもたらす砂漠から吹き付ける風です。バビロン帝国はアッシリヤ帝国に習い、自分の支配地の住民を捕囚として捉えて他国に移住させ民族のアイデンティティーを失わせました。彼らの後にはぺんぺん草も生えません。

 

  続けてバビロン帝国の傲慢さが、「彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る(10)と描かれます。彼らは他国を攻め取ることに何の躊躇も感じないというのです。

しかし同時に、彼らの危うさが、「それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罰せられる」と描かれます。厳密には、最後の言葉は「罪と定められる」と記されており、神のさばきが婉曲的に示唆されているに過ぎません。神のさばきが見えないからこそハバククは嘆いているのですから。

 

なお、ここではバビロン帝国の特徴が「自分の力を自分の神とする(11)と描かれています。この「(コーアハ)」は、しばしば人間的な能力を指します。詩篇6210節には「暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。強さ(力、ハイル)が結果を生んでも、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力(オーズ)は神のもの。主(ヤハウェ)よ。慈愛(ヘセド)もあなたのもの」と歌われています。

ここでの「(オーズ)」は神的な力を意味することばで、それは人間の目には、しばしば隠されています(3:4)。それに対し、バビロン帝国が誇る「力」は、サムソンが自分の腕力を誇ったようなものと同じ性質のもので、神の前には無に等しいものに過ぎません。

 

3.「なぜ、裏切り者をながめておられるのですか・・・なぜ黙っておられるのですか」

それに対しハバククは、12節でさらに主に向かって訴えて行きます。まず彼は、「主(ヤハウェ)よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と主をたたえますが、ここでは「あなたは」ということばが特別に強調されています。

そして、そして続く、「私たちは死ぬことはありません」とは、「カルデヤ人の手によって私たちが滅びることはないはずでは・・・」(1:17参照)という期待を込めた意味で用いられています。

そして引き続き、カルデヤ人を「彼」と呼びながら、「(ヤハウェ)よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました」と述べます。ここでも「さばき」とは神の正しい支配を実現することを指します。

そこには、神はご自身の計画を進めるためにカルデヤ人を立て、あくまでもイスラエルの民を滅ぼすためではなく、「叱責する」ためにカルデヤ人を据えられたはずではないですか、あなたの計画は「岩」のように揺るがないのですから、という意味が込められているのだと思われます。

ハバククは、カルデヤ人はあくまでも神の道具に過ぎないと認めています。

 

ところが彼は続けて、「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留める(ながめる)ことができないのでしょう」と述べますが、ここには皮肉が込められています。それは、3節で神が私に「わざわいを見させ、労苦をながめておられる」と述べたのと同じ言葉を用いながら、主は真の意味では「悪を見てはいない」、「労苦をながめてはいない」と訴えているからです。

神はまさに、この世の悪にも私たちの労苦にも、正面から向き合おうとしてはくれないと訴えているのです。そしてその原因が、「あなたの目はあまりにもきよい」ためと皮肉を言っています。

 

続けてここでも、「なぜ」ということばを強調しながら、「なぜ、裏切り者をながめておられるのですか(13)と訴えます。これは3節の「なぜ」と同じように、神の傍観者的な態度を責める意味が込められています。

しかも4節にあった「悪者が正しい人を取り囲み」と記されているのと同じ「悪者」「正しい人」ということばを用いながら、「悪者が自分より正しい者を飲み込む」のを、主は「黙って」、「ながめている」だけだと非難するように訴えています。

 

神は、ご自身の町エルサレムにおいて「悪者が正しい人を取り囲」んでいる現実に心を痛めていたはずですが、それをさばくために、悪さの程度においてはるかに激しいカルデヤ人を用いるということが、ハバククには到底納得がゆかないというのです。

それは、まるで広域暴力団の助けを得て、目先の不正を正そうとするようなものです。

 

14節は、神がご自身のかたちに創造されたはずの人間を、「海の魚」や「這う虫」のように軽く扱っているという意味を込めて、「あなたは人を海の魚のように、治める者のないはう虫のようにされます」と神に訴えています。 

そしてカルデヤ人を「」と呼びつつ、その横暴さを、「彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。それゆえ、彼はその網にいけにえをささげ、その引き網に香をたく。これらによって、彼の分け前が豊かになり、その食物も豊富になるからだ(1516)と描きます。

バビロン帝国は、諸国の民を攻撃することを、魚を採るように楽しんでいました。そして、自分たちに豊かさをもたらす「」や「引き網」偶像として大切に扱い、それにむかって「香をたく」ようなことをしていました。

 

  それに対しハバククは、「それゆえ、彼はいつもその網を使い続け、容赦なく、諸国の民を殺すのだろうか(17)と、神が沈黙している中で、バビロン帝国がますます横暴を働き、諸国の民を殺し続けるのだろうかと、問いかけます。

それは、神が沈黙しておられることで悲惨が世界中に広がると、神に抗議している姿です。

 

4.幻を板の上に書いて確認せよ・・・正しい人はその信仰によって生きる

2章の初めでは、突然、「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」と記されます。彼は、「見張所」や「とりで」にしっかりと立ちながら、「見張り」、また「見る」というのです。

これは主の答えを期待し、そのタイミングは主の主権に属することを認め、ひたすら待ち続けるという意志の表明です。

そして、その内容は、新改訳の脚注にあるように、「何を主が私に語り、何を私が返すのか、私の訴えに関して」と訳すことができます。ハバククは、あくまでも、主との対話を待ち望み続けているのです。

 

そして、ここで、「(ヤハウェ)は私に答えて言われた(2)という大きな転換点が記されます。そして、その答えの内容が、「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために」と記されます。

幻」は多くの英語訳でVisionと訳されます。これはこの書の最初で、「ハバククが預言した(見た)」というのと同じ語源のことばで、「啓示」とも訳されます。ここでは、ハバククが主から見せられたこの書の啓示全体を指していると思われます。

 

それを「書き記して確認する」というのは、法手続きの二つの二段階を意味し、誤解のないように明確にすることを意味します。

それはこの使信に出会ったものが、それを伝えるために「走る」ことができるためだというのです。

 

そして3節の最初は、「なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから」と訳すことができます。つまり、これは先に「書き記して確認せよ」と命じられた内容が、実現まではまだ間があるので、誤解のないように明確に書き記しておく必要があるというのです。

しかも、その内容は、「終わりについて告げる」ものと記されますが、これは世の終わりという以前に、「(ヤハウェ)の日」と基本的に同じく「地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる(2:14)と言われる、バビロン帝国に対する神のさばきが現されるときを指しています

とにかく、この「幻」(啓示)は、「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものです。人間の目には、「いつになったら実現するのか・・・」と思えたとしても、神の視点からは「それは必ず来る、遅れることはない」という内容なのです。

 

  4節では最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者」のことを指していると思われます。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されています。

 

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することば「真実」と訳した方が良いかもしれません。

興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし()の真実によって」と記されています。ですから、これは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味では全くありません

これは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えないような中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

 

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主(ヤハウェ)から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というビジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と記されています。

つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実をみことばを通して示してくださったときに、それを真実に受け止めるという心の応答なのです。

しかも、ここでは先の「私たちは死ぬことはありません(1:12)を言い換えるように、「正しい人は・・生きる」と断言されます。

 

当時のエルサレムの支配者たちは、目先の政治判断の是非ばかりを論じて、神の真実なご支配を忘れていました。私たちも目先の政策論争に心を奪われて、今ここにある神のご支配、いまここで求められている誠実さを忘れるようなことがあってはなりません

たとえば、しばしば現政権の政策に反対する人が、指導者を悪魔的な人間であるかのように罵倒している姿を見ることがありますが、それは神の真実に応答した生き方とは決して言えません。

人間的には実現が遅いと思われる神からのビジョン、ときには「まやかし」とさえ言われるような神からのビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

 

  そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める」と描かれます。

これは「正しい人」と対極にある生き方です。当時のウガリト神話にはモトという死の神が描かれていますが、彼は「足ることを知らない」貪欲な神です。そして、エルサレムの支配者も、カルデヤ人も、そのような死の神に操られた生き方をしているというのです。

なお、最初の「ぶどう酒は欺くものだ」というのは唐突な感じがしますが、「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ています。

私たちが生まれながら罪人であるというのは、私たちが生まれながら何らなの依存症患者であると言い換えることができます。「アル中!」などと人をバカにしている人は、実は同じ病を抱えている可能性があります。

 

  主が現代の私たちに示してくださっている「幻(ヴィジョン)」とは、神の平和(シャローム)に満ちた世界の実現です。神のひとり子は、その実現のために私たちと同じひ弱な人間になってくださいました。

イエスの生き方は、「自分の力を自分の神とする」カルデヤ人の生き方と何と対照的でしょう。サタンはイエスを十字架にかけたとき、自分たちの勝利を大喜びしたことでしょう。しかし、それこそがサタンの大敗北の始まりでした。

この世の権力者や身近な人々が私たちを苦しめる時、それは彼らがまさに墓穴を掘っているときです。神の目は節穴ではありません。神は私たちの労苦に確かに目を留めておられます。

主の真実に応答する者は必ず「生きる」のですから。

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2013年12月25日 (水)

イザヤ11:1-10 「いと高き所におられる神のご支配がこの地に広がるために」

                                                                             20131224日 クリスマス・イヴ礼拝

  

聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。たとえば、しばしば聖誕劇では、ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。

ただ、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」(6節)と記されているだけです。それは、彼らが、ベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆しています。

しかも、ギリシャ語ではしばしば主語が明記されなく動詞の形から主語を推測しましが、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)という際のふたつの動詞とも「男子の初子を産んだ」に続く三人称単数形ですからのは、飼い葉おけに寝かせたのはマリヤ自身であるかのようです。出産を助けてくれる人が誰もいなかったのです。

ヨセフの様子は描かれていませんが、ただおろおろとしていたのかも知れません。しばしば、男は見知らぬことに直面するとそんな風になるものですから・・・。また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。昔の人は、それは町はずれの洞穴の中だった推測していました。

実は、何よりもここで強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節)というこの一点なのです。なお、当時の宿屋は極めて粗末、かつ危険であり、豊かな人々は、親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でした。ところが、ヨセフは、ダビデの家系だというのに、誰の紹介も受けられませんでした。

つまり、彼らは、「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」と言われているのです。マリヤは誰の目にも出産間近と見えたことでしょう。それなのに、何日もの間、その粗末な宿にさえ入れてもらえませんでした。これは、住民登録で町が異常に混雑していたからという理由ばかりではなく、彼らが誰からも相手にされなかったことを示唆しています。

暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

 

  かつて河合隼雄さんという心理学者が、多くの日本人は「日本人という病」を病んでいると、不思議なことを言っていました。今年初め「現代人の悩みに効く詩篇」という本を出版させていただきましたが、それは百万人の福音というキリスト教月刊誌に連載していたものを単項本化したものです。そこで、僕は自分が生まれながら抱えてきた生きにくさを正直に記させていただきました。すると多くの方々から、「それこそ私に悩みです。それを言葉にしてくださりありがとうございます」というレスポンスをいただきました。

振り返ってみると、僕は河合さんがいうところの日本人という病を病んできたのかなと思わされます。日本人は全員一致して同一行動を取ることができるように歴史始まって以来、千数百年間訓練されてきていると言われます。

しかし、当然ながらそれぞれ異なった個性を持つ者たちが同一の行動を取ることはできません。必ずはみ出し者が出て来ます。僕はずっと、自分の中に、皆と群れることができない、また群れることを嫌う強い思いを持ちながら、仲間外れになることを恐れている自分がいることを過度に意識し、「いる場所がない」という状態になることを恐れていました。

ところがそのような中で、私たちの救い主ご自身が、「いる場所がない」者の仲間となるために、人となってくださったということが分かった時、ほんとうに気が楽になりました。

僕は、個人を村社会のような集団に埋没させようとする日本人の中に流れる無意識的な強制力がとっても嫌いでそれから自由になりたいと思っていました。しかし、最近はふと思います。僕はやはり何と言っても日本人であり、それから自由になることはできないのだと・・・河合さんも同じような葛藤を味わっていたとのことです。そして、それは多くの日本人の心の底に流れる葛藤です。

私たちが目指すべきことはその葛藤を無くすことではなく、その葛藤を避けようとして、間違った方向に決断してしまうことです。私たちの救い主が、私たちと同じ葛藤を味わう者となってくださったのは、この葛藤を無くすためではなく、その葛藤のゆえに誤った決断をすることがないようにというためだったとは言えないでしょうか。

 

ところでイエスがマリヤとヨセフのもとで寂しくお生まれになられた時、そこから離れたところで起きていたことが次のように記されています。

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした・・御使いは彼らに言った・・・  きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 

この羊飼いたちに示された、救い主の「しるし」とは、まばゆい光ではなく、何と、「布にくるまって飼い葉おけに寝ている」(12節)という貧しさそのものだったのです。飼い葉おけに寝ている赤ちゃんなどあり得ないからこそ、それが「しるし」となるにしても、どうせなら同じ「しるし」でも、もっと美しく輝くしるしであって欲しいと思いたくもなります。

そして、原文では、「飼い葉おけ」ということばに続いて、「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて・・」(13節)と、地の貧しさと対照的な、天の栄光が垣間見せられます。

これは、歴史上のどんな偉大な預言者も聞けなかったような天の軍勢による最高の賛美でした。これこそ多くのクリスマスキャロルの原型です。

ここでは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌われましたが、「御心にかなう人々」とは、エルサレム神殿の宗教指導者ではなく、毎日の糧をやっとの思いで手に入れている社会の最下層の人々、羊飼いたちのことだったというのが何とも驚きです。これは、「御心が向けられた人」とも訳され、神があわれみをかけてご自身のまなざしを向けてくださった人を意味します。

 しばしばこの祈りは、「天では神に栄光、地では人に平和」と、天と地での祈りの内容が異なるかのような印象を与えますが、これは、この地を治めるコントロールルーム(いと高きところ)におられる神に栄光が帰せられるときに、その結果として、神のあわれみが注がれ、羊飼いのような、地で虐げられている人々に平和(繁栄)がもたらされるということを覚えた祈りと解釈できます。つまり、これは、いと高きご支配に栄光が帰せられることは、神のあわれみの注がれる地の平和と繁栄につながるという、天と地が一つになる祈りなのです

 

その後、羊飼いたちは・急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てます。マリヤとヨセフは貧しい救い主の誕生の傍らで、そのような前代未聞の天使の賛美が羊飼いに聞かされていたことに慰めを受けたことでしょう。

それは、救い主の誕生が、なぜこうも悲惨なのか・・・と疑問を持ったであろうマリヤとヨセフに、すべてのことはいと高き神のご支配の中で起きていることであるという深い安心感を与えたことでしょう。

人間の目には「いる場所がない」という状態にある中で、いと高き所におられる神のご支配があがめられていました。そして羊飼いの上にこそ、神のあわれみが注がれていました。

この場面を深く黙想するとき、神の平和が、人間の目には弱く惨めな人々によって実現されるということがわかります。もう、「自分こそが一歩でも先に進むことで居場所を確保し、安心できる・・」という駆り立てがなくなるとき、人は互いを喜ぶことができるようになります。

 

  預言者イザヤの時代、イスラエルは二つの国に分かれて争っていました。そして、今まさに北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされようとし、南王国ユダに対しても来るべき裁きが宣告されていました。そのような中で、イザヤは、国が滅亡した後に実現する神の不思議な救いの御計画を人々に知らせようとしていました。

イザヤ11章では、驚くべきことに、クリスマスの預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証として描かれているのです。

 

まず、「エッサイの根株から新芽が生え」と記されますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。

彼は様々な過ちも犯しましたが、多くの詩篇を記したことにも現れているように、いつも神との豊かな交わりのうちに生きていました。それが、ダビデの支配下で、イスラエルが平和と繁栄を享受できた原因です。救い主は、ダビデの子として、その平和と繁栄を再現すると期待されていました。

 

  イエスは人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「(ヤハウェ)霊がとどまり」ます。

そして3-5節では「この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し・・・正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」と記されます。

恐れる」とは、自分ではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々天の父なる神との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

特に興味深いのは、「その目に見るところによってさばかず」とあるように、この方は、人間の視覚や聴覚の誤り易さを深く知っておられるというのです。

 

そして、この理想の王は、「正義は腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

 

神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人間に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に興廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。

そこで、神の御子である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。

 

そして、6節からはこの第二のダビデ、理想の王が、ダビデが成し得なかったような完全な平和をエルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれるのです。

 

  「狼と小羊、ひょうと子やぎ、子牛と若獅子」とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

 

小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていましたから、熊も獅子も、牛と同じように草を食べることで足りました。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。

 

また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、「コブラ」や「まむし」のような蛇と遊ぶことができるというのは、エデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意」(創世記3:15)が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

 

「わたしの聖なる山」とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になります。

現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。

しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです(エレミヤ31:34)

 

つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされるのです。私たちが求めるべきことは、何よりも、私たち自身が、主をより深く知ることと、より多くの人々が主を知るようになることなのです。

 

 この世界が、暗闇に向かっているのか、また、主にある平和の完成に向かっているのか、どちらに向かっているかを知るということは、私たちの日々の歩みに決定的な違いをもたらします。

 

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人は世界の悲惨を自分の痛みとしながら34歳で天に召されましたが、キリストとの深い出会いを体験した後、次のような印象的なことばを語っています。

「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです。」

 

彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけからはじまり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。

彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動を味わいました。そればかりか、またその支配者である方が、自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わったと記しています。

 

それは私たち自身の心や身体についても言えることです。優しい日の光に包まれながら、自分が天に根を張ってこの地に一時的に遣わされているとイメージしてみてはいかがでしょう。

もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。なぜなら、そこに人と人との比較競争が生まれるからです。それによって私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられてしまいます。

僕も小さいころから日本人という病におかされながら、居場所のない状態に追いやられることを恐れ、頑張ってきました。しかし、ふと、この葛藤を味わったままの自分が神の愛に包まれていると感じたとき、自分の感性を自由に喜ぶことができるようになりました。そして、同時に、人の感性も尊重できるようになりました。

自分の正義を主張して戦って一時的に勝利を収めてもそこには必ず次の戦いが待っています。しかし、私たちは、今、問題を抱えたままで神の愛に包まれていることを実感することができます。救い主の貧しい誕生は、天の父なる神の御手の中でたしかに起きていました。あなたの現在がどれほど悲惨であったとしても、救い主の誕生に比べればずっとずっと良い状態にあるのではないでしょうか。

 

たとい、私たちが自分の置かれている世界の悲惨に涙を流しているとしても、救い主がこのイザヤ11章に記された神の平和と繁栄(シャローム)を実現するためにこの世界に降りて来てくださったことを思いを巡らすとき、この世界が神の平和の完成に向かっていることに心の目が向けられ、いつでも喜ぶことができるのです。

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2013年12月22日 (日)

ヨハネ1:1-18「ことばが人となられたのは、なぜか」

                                                   20131222

キリスト降誕から約七百年後に編纂された古事記には、天の神が地に下って王となるという発想以外にも、様々な聖書の影響が見られますが、その物語は不思議な神話に変わっています。 

  

天皇という称号が用いられるようになったのは7世紀後半であると言われます。その直後の712年に編纂された古事記では、天皇の起源が記されます。

まず、天照大神はイザナギが黄泉の汚れをきよめるため阿波岐原で禊(みそぎ)をした際、左目を洗った際に生まれたと記されます。

彼女は太陽神と称され、その孫(天孫)であるニニギが神々を従えて現在の宮崎県のあたりに天雲をかき分けて天降ったとされます。そのとき地上世界はまだ真っ暗で、昼と夜の区別もなく、人も物もあるべき秩序を失い、色も区別しがたい状態でしたが、天上の稲穂を揉んで籾にして四方に投げ散らしたところ、たちまち空は明るくなり、日と月とが照り輝き、またそこから地上の稲作も始まったと言われます。

その後、ニニギは山の神の娘と結ばれ、そこから生まれた山幸彦は、海の神の娘と結ばれ、彼の四人の孫が武力で東征を開始しますが三人の兄のうち一人は敵の矢を受けて死に、他の二人は海の嵐の中で、「私の父は天の神、母は海の神なのに・・」と嘆きつつサメになったり、黄泉の国に下ったりします。

ただ末弟が大和の地(奈良県)に王宮を建てて瑞穂の国全土の支配者となり神武天皇と称することになります。

 

それに比べ、ヨハネの福音書の書き出しは驚くほど合理的でありながら奇想天外です。そこでは何と、全宇宙の創造主が、歩くことも話すこともできないひ弱な赤ちゃんになったと記されているのです。

この世では、それぞれがより強く、より賢く、より豊かになろうと競い合って生きていますが、何でもできる方が何もできない赤ちゃんになったということを祝うのがクリスマスです。ここには私たちの常識を逆転させるメッセージが込められているのです。

使徒ヨハネは、クリスマスを、「神が人となられた」ことを記念する日として描いています。

 

1.「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

この福音書は、人となる前のキリストが「ことば」として表現され、「ことばは神であった」と大胆な宣言がなされています。それは、三つの観点から説明されています。

第一に、キリストは世界が始まる前から神とともにおられたということです。世界は神の愛の交わりから始まり、全被造物を含む愛の交わりで完成するのです。

第二は、「すべてのものは、この方によって造られた」ことです。キリストは人である前に、万物の創造主であられます。

第三は、「この方にいのちがあった・・このいのちは・・すべての人を照らしているまことの光(4,9)だったことです。「照らす」とは、英語でenlighten(啓蒙する)と訳すのが最も原意を表せることばです。

つまり、主は、歴史の始まりから人の心を照らしておられ、また、どんなに闇に満ちた心をも造り変えることができる方なのです。

 

  そして、「この方」が世に来られることが三段階で描かれます。

第一は、「光はやみの中に輝いている」(5)です。それゆえ、主を知らない人でも、暗やみの中にも希望の光を見出すことが可能になります。

 

第二は、「まことの光が世に来ようとしている」(9)です。神は預言者を通してご自身の計画を語り続けて来られましたが、今このときには、光の創造主ご自身が、暗い世界のただ中に降りてこられたというのです。

 

第三が「ことばは人となって私たちの間に住まわれた(14)で、これこそ想像を絶する奇跡です。たとえば1秒間に地球を7回半回る光の速度で銀河系の端から端まで8万5千年かかりますが、宇宙にはそのような銀河が無数にあり、今分かっている限界までは光の速度で数億年かかります。

太陽一つが地球に近づくだけですべてがたちまちに燃え去るのに、誰が全銀河系の創造主を生きたまま見ることができるでしょう。

その創造主が「人となった」というのです。「人」は原文で「」とも訳されることばです。それはあらゆる弱さを抱えた、朽ちて行く身体です。

それは、ご自身の栄光を肉体の中に隠すためであり、人が神の本質を知ることができるためです。

 

なお、「私たちの間に住まわれた(14)で、「住む」とは、「幕屋を張る」という原語が用いられています。主が、シナイ山に降りて来られた時、「その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震え(出エジ19:18)た程でした。

その神が、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう(出エジ29:45)と言われたのです。

 

そして、今、すべてを焼き尽くす力を持つ栄光の神は、幕屋ではなく、キリストによって彼らのただ中に住み、真の自由と平和を実現してくださるのです。これこそ、救いの本質です。

 

多くの世の人々は、マリヤが処女のままイエスを産んだという処女降誕をあり得ないことと否定します。しかし、それよりも何よりも、全宇宙の創造主が私たちと同じ人間になられたということ自体が何よりの不思議なのです。神学的には、イエスの誕生は、「受肉」と呼ばれます。これは、神のことばが肉体を受けられたという意味です。

 

三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、一般の高校の教科書にも出てくるほど有名です。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。

その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは私たちが「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4)という意味です。

 

人類の父アダムは、欲に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、滅びる者となりました。その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。

その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました

 

それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗してゆく肉体を持つ身体となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださいました。

すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。

 

そのことを聖書は、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じようにこれらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした(ヘブル2:14,15)と記しています。

 

そのことの意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。

そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして最後の大迫害の後まもなく、ローマ帝国はイエスの前にひざまずきました。

 

ローマ帝国で皇帝の権威が平和の基と言われ、皇帝礼拝が強要されましたが、戦前の日本でも同じことが起きました。古事記を初めとする神話の核心には、天皇の存在こそが日本の平和と繁栄の基礎であると記されています。

そして、その考えは、不思議に、反体制と思われる人の心の底にも根付いています。ですから、原発による放射能汚染のことを天皇に直訴する人が起きる一方、天皇への非礼を異常に攻める人がでてきます。

 

しかし、天から地におりた神であるキリストの最初の住まい貧しく汚い飼い葉桶でした。しかも、主は今、ご自身の霊によって、貧しく汚れた私たちの身体に住んでくださいます。実は、聖書に記された救いとは、天地万物の創造主が、私たちひとりひとりを、天の神の子、天皇のような存在にすることにあるのです。

多くの日本人が、天皇に期待してきたこと、世界の平和の基となることこそ、私たちの使命です。それは可能になっています。なぜなら、私たち一人一人の身体のうちに、創造主なるキリストの霊がすでに宿っているからです。

私たちのうちに住んでおられる創造主ご自身のいのちが、まわりの人にも明らかになるほど輝きを放つことができるのです。

 

2. 「ひとり子としての栄光・・この方は恵みとまことに満ちておられた」

 「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(14)と描かれていますが、「ひとり子」とは「ただひとり生まれた方」という意味の御父との一体性を表わします。

しかもその「栄光」とは、「雲の柱、火の柱」という驚異ではなく、「恵みとまことに満ちておられた」という神のご性質でした。

 

かつて、モーセがかたくなな民を先導することを恐れ、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください(出エジ33:18)と願った時、神はモーセを「岩の裂け目に入れ(33:22)ながら、通り過ぎる時「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み・・」(34:6)と宣言されました。

イエスが「恵みとまことに満ちておられた」とは、彼こそが、神の真の栄光を見せてくださったという意味です。

 

「恵み」はヘブル語の「ヘセド」に由来し、しばしば、「変わらない(揺るがない)」とも訳されます。これは、相手の不真実にも関わらずご自分の約束を守り通すという「契約の愛」です。

まこと」は、ヘブル語の「エメット」で、「アーメン」と同じ語源です。これは、偽りのない、真実な、頼る者を決して裏切らないという意味です。

実際、キリストによって表わされた「栄光」は、ひとり子のいのちを犠牲にしてまでご自分の民を愛し抜く姿です。それは、放蕩に身を落した自分の子供を立ち直らせようと、いのちさえ投げ出す覚悟を持つ父親の姿です。

 

なお、バプテスマのヨハネは、この方を「私より先におられた方(15節)と表現しました。人の目には彼の方が年上なのに、「この方」の方が先に存在していたというのです。ヨハネは最初の段階から、イエスを、「神が人となられた」方として見ていたというのです。

16節の、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」とは、やみに満ち、滅びに向かっていた私たちのうちに、キリストの一方的な恵みが無尽蔵に注がれ、心の奥底から造り変えられる様子を表わしています。

ただ、その際、「この方を受け入れる・・その名を信じる(1:12)という私たちの側の応答が必要です。神は人格の主体性を尊重され、心をこじあけたりはしません。

しかし、主は「わたしを信じる者は・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(7:38)と、ご自身の無尽蔵の恵みを受け入れる者が、さらに無尽蔵の恵みを注ぎ出すと約束されました。

 

17節では、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と、イエスという名がここで初めて出てきます。それはイエスがモーセよりも偉大な方であることと、律法の限界を示すためでした。

モーセは神のことばを取り次いだ者でしたが、やがて「ことば」だけが一人歩きして、民を生かす代わりに苦しめるものとさえなりました。イエスは「人()」となったことで、ご自身の身をもって優しく「神を説き明かす」ことができました。その中心こそ、律法の本来の目的であった、神の「恵みとまこと」でした。

 

3.「ひとり子の神が、神を説き明かされた」

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(18)という表現には、人となる前のイエスが、なぜ、「ことば」として描かれたかの意味が込められています。

それは、神の「ことば」が神の本来の意図とは異なった意味で理解されるようになっていることを正すために、神の「ことば」ご自身が「人となって」、目に見える形で神のみこころを示してくださったというのです。

 

神はモーセを通して律法を与えた時、イスラエルの民を偶像礼拝の民の悪い習慣から聖別するため「聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別する(レビ10:10)ことを教えましたが、イエスの時代には、残念ながら、この律法が自分たちの枠からはみ出た者を排除する規定に用いられるようになってしまいました。

 

そして、この福音書では、はみ出し者とイエスとの出会いに焦点が当てられています。それはたとえば、人目を恐れ、夜陰にまぎれてイエスの教えを乞いに来た律法の教師ニコデモ、昔五人の夫を持ち、今は夫ではない者と同棲しているサマリヤの女、迷信的な言い伝えに騙されて38年間を無駄にしたベテスダの池の病人、姦淫の現場で捕えられたという女、罪の結果盲目に生まれついたと見られていたひとりの盲人、死んで四日もたったラザロ、三百デナリの香油を一度に使い切ったベタニアのマリヤ、そして、最後に、イエスの墓の前でたたずんで泣いていたマグダラのマリヤなどとの出会いです。

イエスはひとりひとりに、どれだけ誠実に対応していたことでしょう。主には、目の前の一人が常に大切でした。

一方、天皇を中心とした日本の和は、残念ながらいつでもどこでも、はみ出し者を作ります。和に同調できない者を排除することによってしか一致が生まれないからです。

 

古事記には、神の御子であるはずの天皇の寿命が短くなった理由が記されます。

天から降臨したニニギが山の神の娘のコノハサクヤノヒメを見初め、結婚を申し出たところ、山の神はイワナガヒメという非常に醜い姉を添えて嫁入りさせます。ニニギは彼女を追い帰します。山の神とイワナガヒメはひどく辱められたと怨み、呪いが下ります。姉は岩のように長い寿命の、妹は木の葉が咲くような繁栄の象徴でしたが、それ以来、天の御子は死に支配されるようになったというのです。

つまり、死は人を辱め、和を乱すことから始まったと描かれます。

 

日本の文化には、何よりも調和を重んじます。聖徳太子が記したと言われる十七条の憲法の最初には、「和を以()って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗()とせよ・・・上(かみ)(やわら)ぎ下(しも)(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」とあります。

これは天皇を中心に人々が調和して行くなら国が繁栄するという教えです。しかし、和を大切にしたはずの国が一致団結して朝鮮半島から中国に攻め入りし、和を大切にした戦後の政府が一致団結して原発推進政策に向かいました。

 

日本の和は、しばしば、ブレーキの利かない動きの源になります。日本の神話には善悪の基準がありません。カナンの宗教と同じく多産と豊穣をもたらす神々があがめられます。日本では今も、唯一神信仰が争いを引き起こすなどという観念が大勢を占めています。

しかし、日本の何よりの弱さとは、永遠の価値観につながるような長期的なビジョンを示すことができないことにあります。それは善悪の基準がないからです。

聖書が語る神の御子の受肉、それは天を支配する永遠の真理が、私たちの世界を内側から造り変えるという動きの始まりです。

 

しかし、真の神の「ことば」は人となることで、真の神のみこころを明らかにしてくださったのです。

アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。

キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。

そればかりか偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て・・・平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。

 

イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。イエスの教えがなければ天皇家が子孫断絶の危険まで冒して一夫一婦制を採用することはなかったことでしょう。主の教えなしには、近代医療の原則や福祉制度は生まれませんでした。

現代の日本は、当時のローマ帝国などに比べ、倫理的な価値観からすれば、驚くほどにキリスト教化されています。現代社会で、ローマ帝国時代ほどにクリスチャンの生き方が目立つことがないのは、皮肉にも、イエスの価値観を多くの人がすでに知るようになり、それが常識となったためとさえ言えましょう。

私たちは、自分の生き方が変わらないことに絶望することがあるかもしれません。しかし、心配する必要はありません。私たちのうちに住んでおられるキリストの霊は、聖霊と呼ばれるように、私たちを神の聖さにあずからせてくださる方です。

汚い飼い葉おけに生まれたイエスは、あなたをご自身に似た者に必ず造り変えると約束しておられるからです。イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。

不条理や不正と戦うのではなく、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。

 

ことばが人となられた」のは、私たちが神の愛とあわれみを知ることができるようになるためでした。そして、「ことばの受肉」を信じる者は、腐敗から不滅へ、死からいのちへと移されるのです。

二千年前に、私たちの創造主が、滅び行く人間となってくださったのは、「私たちがみな、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆく(Ⅱコリント3:18)ための第一歩でした。

私たちこそが、多くの日本人が無意識に天皇に期待している平和の礎になることができます。なぜなら、私たちのうちに「太陽の創造主」ご自身が宿っていてくださるからです。

 

1653年にドイツのパウル・ゲルハルトが書いたクリスマスの黙想の歌では、私の心の創造主ご自身が飼い葉桶に眠っている、その傍らに立っていることをイメージしながら、その不思議を次のように歌っています。

 

2番の歌詞 「この世にわれまだ生まれぬ先 きみはわれ愛し 人となりぬ いやしき姿で罪人きよむる くしきみこころなり」 

3番 「暗闇包めど望み失せじ 光 創りし主 われに住めば いのち喜び 造り出す光 うちに満ちあふれぬ」 4番 「うるわしき姿仰ぎたくも この目には見えぬ きみが栄え ちいさきこころに 見させたまえや はかり知れぬ恵み」、

9番 「主よわが願いを 聞きたまえや 貧しきこの身に 宿りたまい きみがまぶねとし 生かしたまえや わが主 わが喜び」

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2013年12月15日 (日)

Ⅰテサロニケ5章1-28節「神があなたがたに望んでおられること」

                                                  20131215

  私たちはこのままでイエスと同じ立場の神の子どもとされています。それは王子や王女であるよりもはるかにすごいことです。ところが私たちの心からは古い奴隷根性が抜けません。奴隷は脅しの力で動かされます。

ネルソン・マンデラ氏は、牢獄の中で、白人の看守たちを敬服させることができました。それは、彼が神の子ども、「光の子ども」としての誇りを持って生きていたからです。

それは決して強がることではありません。自分の弱さや愚かさを正直に認めながら、なおまったく卑屈になることなく、自由な心で人の助けを受けられるようになることです。

 

1.「人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります」

5章初めで、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません」と記されていますが、「いつ」とはギリシャ語のクロノスを、「どういうとき」とはカイロスということばを用いています。クロノスもカイロスも、時に関しての数量的な面(クロノロジー、年代記の語源)と質的な面(タイミング)を象徴することばであると言われますが、その区別は明確とは言えません。

とにかく、時に関するふたつのことばを用いて、「主の現れ(パルーシア)」のときに関して、パウロは改めて書く必要はないと述べています。

 

イエスが死の中からよみがえって、弟子たちにご自身を40日間にもわたって現された際、弟子たちは主に、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と問いかけますが、主はいつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われました(使徒1:6,7)。そこでも、ここと同じ、クロノスとカイロスという言葉が用いられていました。

 

なおここのテーマ、「主が再び来られるとき(4:15)と訳されている言葉は、「主の現れ(パルーシア)のとき」と訳すのが正確で、それは「使徒の働き」に登場する弟子たちにとっては「神の国の実現」を意味したことは明らかです。

主はそこで、弟子たちがイスラエル王国の再興について尋ねたこと自体をナンセンスとは言っていません。弟子たちはそれをローマの支配からの解放として理解していたのに対して、主はローマ帝国をもはるかに上回る「神の国の完成」のことを語ったのです。主が言われた「神の国」は霊的というより人々の理解を超えるものでした。

しかもその直後、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」のですが、そのときに御使いが弟子たちに現れ、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天にのぼって行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになりますと言われました。そして、パウロが話題にした「主の現れ(パルーシア)」とは、そのことを指します。

 

そしてパウロは、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」(5:2)と言います。泥棒は、予期しない時にやってきますが、主の現れ(パルーシア)も突然のことで、それは主を知らない人にとっては「滅びのとき」であるというのです。

そのことが、「人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」と記されています。

この「平和だ。安全だ」という言葉は、エゼキエル1310節で、エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされる前、主は偽預言者の問題を、「平安がないのに、『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」と非難したことを連想させます。

偽預言者たちは、真実を見ようとせずに、表面的につくろうようなことばかりを語って誤魔化していました。

 

当時のローマ帝国は「パクス・ロマーナ」と呼ばれた時代で、皇帝の支配のもとで皆が「平和だ。安全だ」と言い合っていましたが、それも見せかけに過ぎないとパウロはここで暗に批判していると解釈できます。つまり、「主の現れ」は、帝国の支配下で、「平和だ。安全だ」と思い込んでいる人にとっては恐怖の時となるというのです。

 

2.「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」

しかもそれは、「ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨む(3)のと同じように、避けがたい事であるというのですが、それは「産みの苦しみ」とも言われるように、滅びを通して喜びが生まれる時でもあります。

そのことが4節では「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」と言われます。それが「いつなのか」、「どういう時」なのかは、決して事前には分からないにしても、主との交わりのうちにある者にとっては、泥棒に襲われるような恐怖の時にはならないという意味です。

 

  そして、その理由が、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」と述べられ、同時に、「私たちは、夜や暗やみの者ではありません」と念を押すように言い換えられます(5:5)。イエスは「光の子」ということばを「この世の子」との対比で、神の国に属する者として述べています(ルカ16:8)

なおこれは「子ども」を指したのではなく、ご老人であっても、イエスを主と告白しておられる方々は「光の子ども、昼の子ども」なのです。それは同時に、この世の横暴な権力者、「夜や暗やみ」の絶望的な支配から解放され、新しい希望の時代に移されているという意味です。ですから、主の現れ(パルーシア)のときは、その人にとって大きな祝福、喜びの時となるのです。

 

  それを前提としての励ましが、「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです(5:67)と言われます。これはもちろん、肉体的な睡眠ではなく、霊的に眠った者になってはならないという意味です。

ここでの「眠る」という動詞は、41314節の「イエスにあって(を通して)眠った人々」というときの「眠る」とは違ったことばで、道徳的に盲目になることを指す場合に用いられます。

ここでの「ほかの人々のように眠って」とは、413節の「他の望みのない人のように悲しみに沈む」という絶望に囚われた状態になることだと思われます。それは「酔う」ことと同じく心身の麻痺状態になることです。

 

  8節では、「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」と記されますが、イザヤ591617節では、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこでご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり・・」と描かれています。

ここでの私たちにとっての「信仰と愛の胸当て」は、イザヤが語った「主の義のよろい」に対応するもので、主の真実への応答として生まれるものです。

 

そして、そこでの主の「救いのかぶと」が、現在の私たちにとっては「救いの望みのかぶと」となります。なぜなら、私たちはなおこの世の不条理のただ中で「うめいて」おり、「望みによって救われている」状態にすぎないからです(ローマ8:23,24)。ここに「信仰、希望、愛」というキリストにある人生の特徴が描かれています。

 

  そして、「主の現れ(パルーシア)」において実現することを、パウロは、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった(5:9)と描いています。

 

  続いて、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです(10)と記されます。「眠っていても、主とともに生きる」というのは不思議な表現です。ここでの「眠る」とは7節と同じく無感覚になってしまうこと、熟睡とか死の状態を指します。つまり、私たちは肉体的に熟睡していても、また、死んでしまっていても、その霊が主と共に生きている状態を保つことができるのです。

 

その上で、新しい希望の時代に生きる者どうしがその自覚を促し合うようにという意味での勧めが、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい(11)と記されます。

パウロは別のところで、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)と高らかに語りましたが、私たちはいつも繰り返し、「人間的な標準で」(5:16)自分も人も測ってしまう昔の生き方に戻ってしまいがちなので、その意味で励まし合いが必要なのです。

 

私たちもしばしば、地位やお金というこの世的な安心感を求めます。しかし、それは私たちを人やお金の奴隷に戻す生き方です。私たちは既に「新しいエルサレム」の市民とされているのです。お互いをそのようにキリストにあって新しくされた者として、互いを喜び合うことが何よりも大切です。

互いの足りない部分を指摘し合って切磋琢磨しようとすると、「そのままのあなたはダメ」というニュアンスが生まれてしまいがちです。そのままの存在を喜び、互いの長所を喜び、その成長を励まし合うということこそが、「徳を高め合う」ということではないでしょうか。

 

3.光の子としての暗唱すべき生きる指針

51213節では急に、「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」と指導者に対する尊敬の訴えのことが記されます。

パウロは伝道した先々で、「彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」(使徒14:23)という、各地域教会に指導者を立て、働きを委ねるということをしていました。

しかし、テサロニケの教会はたった三週間余りの伝道で生まれたもので、パウロもその指導者を訓練するということができなかったのだと思われます。当然ながら、教会の人たちも、自分たちを「指導し、訓戒している人々」の権威を十分に認めることがなく、「深い尊敬を払う」ということもなく、そこには互いの権威で競争し合うということがあったのではないかと思われます。

 

  14節には、「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」と命じられていますが、気ままな者」とは、本来、「権威に服移しない者」という意味で、「怠け者」とも訳されることばです。創造主は私たち一人一人にこの地を管理するという責任を委ねられましたが、そのことの意味を理解せずに、働きもせずに教会の人々の善意に甘えていた人々がいました。それらの人を「戒める」必要があったのです。

また、「小心な者」とは、迫害にすぐにおびえたり、身近な人々の死をまえにすぐに悲しみに沈むような人です。そのような人々には、キリストにある希望という「励まし」が必要になります。

弱い者」とは、肉体的、精神的な弱さを抱えた人を指すのかもしれません。彼らには「助け」が必要です。そして、これらをまとめるように、「すべての人に寛容でありなさい」と言われます。

 

  「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ(5:15)とは、私たちの敵や迫害者に対して取るべき態度です。また、「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい」とあるのは、「お互いの間で」また「すべての人に対して」とは、パウロの書き方の特徴で、312節の祈りにおいても、「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように」と表現されていました。

パウロはローマ人への手紙1217,18節で「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と記しています。

 

  そして、16-22節は、主の現れ(パルーシア)」を待ち望む者としての日々の過ごし方を簡潔にまとめたもので、すべての信仰者が日々心にとめるべきことです。これは暗唱しやすいように、詩的な表現で描かれます。

 

  まず、「いつも喜んでいなさい」ですが、ここでは「いつでも」が最初に強調されます。私は最初、このことばがとっても好きでしたが、後に、いろいろ嫌なことに直面しながら、これが非現実的なことに思えて来ました。でも逆説的ですが、詩篇に親しみながら、自分の中にある不安、怒り、悲しみ、さみしさを優しく受け止められるようになったときに、「いつも喜ぶ」ということが現実的に思えてきました

喜び」は悲しみを初めとするマイナスの感情と対極にあるものではありません。喜びの反対にあるのは無感動です。それは何でも斜に構えてみる皮肉屋の心、また感情を麻痺させるような「横着な心(哀歌3:65)です。実は、泣くことと笑うことはセットになっている感情なのです。

それにしても、「いつも喜んでいる」ことができるためには、真の意味での救いの理解が必要です。ピリピ人への手紙では、「いつも主にあって喜んでいなさい・・・主は近いのです(4:4,5)と記されていますが、それは今、このときが主の御手の中にあること、また、主がこの世界を完成に導いてくださることを信じていることから生まれることです。

ここでは先の、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」という自覚の中から生まれるものです。

 

  次の、「絶えず祈りなさい」においても、「絶えず」ということばが先に来ています。東方教会の流れの中に、「イエスの御名の祈り」があります。それは呼吸に合わせて、「イエス・キリスト神の御子、この私をあわれんでください」と繰り返すことです。

意識的な訓練の後、ふと、自分の呼吸にこの祈りがついてきて、無意識のうちに主の御名を呼び求めるということになっているというのが目標です。寝ても覚めても、イエスの御名を思い起こすことができるなら何と幸いなことでしょう。

先のピリピ人への手紙では、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4:6,7)と記されています。

 

  18節では「すべての事について、感謝しなさい」と記されます。ここでも「すべての事について」が先行します。ピリピ書の表現では、「祈りと願い」は、「感謝」という翼にのって神に届くと言われることがあります。

 

またそこでは続けて、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい(4:8)と記されています。

感謝の心はあなたの目の向けどころから生まれてくるものです。

 

  そして、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」というのは、この「喜び」「祈り」「感謝」の三つの命令にかかってくることばです。

いわゆる「神のみこころ」は何かと悩むような時、これこそがまず、神のみこころであることを心に留めるべきでしょう。そこからすべてが始まるからです。

 

  そして、19-22節は聖霊の働きに関することです。まず、「御霊を消してはなりません」と記されています。これはほとんどの英語訳では、「Do not quench the Spirit.」と訳されます

これはランプの灯を消すように聖霊の炎を消すことです。しばしば福音派の教会は、超常現象や奇跡を強調しすぎる教派への警戒心から聖霊の働きを理性の枠の中に押し込めてしまいがちだと言われることがあります。

 

またこれは次の「預言をないがしろにしてはいけません(20)という言葉とセットです。「預言」とは未来予測ではありません。また、聖書の啓示が不十分であるかのように、イザヤ書の続きを語るということではありません。

パウロはⅠコリント14章で、「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話します・・・もしみなが預言するなら、信者でない者や初心の者が入ってきたとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう」(324)と記しており、現代の奨励や証しをも含む幅広い働きと見ることができます。

 

  そして21節では、「しかし、すべてのことを見分けなさい」と記されますが(文章はここで切るべき)、語られた預言が本当に神からのものなのかを「見分ける」必要があります。

これに関してパウロは先のコリント書で、「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もし座席に着いている別の人に黙示(啓示)が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたはみながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです(14:29-31)と記しています。

これは誰かの預言が誤解を生みそうだった時には、すぐに別の人が立ってその人は黙り、預言が預言によって修正され、何人もが預言する中でその会衆の中に神のみこころが明らかになるというようなものだと思われます。つまり、見分けるための基準を作るなどというのではなく、預言が預言によって修正されることを期待する自由を尊重するのです。

 

  そして続く、「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」とセットの勧めとして22節で「悪はどんな悪でも避けなさい」と言われます。これこそ御霊の働きに敏感になって生きることの秘訣と言えましょう。

この世の慣習に毒されてはなりません。しかし、批判先行ではなく既にそこに在る「良いものを堅く守る」という建徳的な視点が大切です。

 

  16-22節は、そのまま暗唱すべきクリスチャン生活の宝物のことばです。ただし、その際、私たちの交わりが肉の惰性に流されないように適度な緊張感が必要ですから、14節から暗唱するとなお良いでしょう。

私たちはいろんなことを目に見えるマニュアルやルール作りで対処しようとしますが、何よりも大切なのは、私たちの交わりのうちに聖霊の働きがすでに豊かにあることを信じることです。修正は互いの御霊にある自由を尊重し合うところから自然に行われます。

強制力による解決は一時的に効果がありますが、御霊の働きを窒息させ、長期的には、その交わりを息苦しいものにしてしまいます。交わりの中に忍び込む悪の力に対して、互いに目を覚ましつつ、しかも、互いを「光の子ども」として認め合い、そのうちに働く御霊の力を信じて、いつでも希望を持って語り合うのです。

 

 4.あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます

23節でパウロは、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨(パルーシア)のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と祈ります。この地上の生涯では、「もう完成した」ということはありません。主は私たちのうちに「キリストが形造られる(ガラテヤ4:19)ことを願っておられます。

そして24節では、あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」と断言します。ここでも主の現れ(パルーシア)がテーマですが、キリストが天から救い主としておいでになるとき、「キリストは万物をご自身に従わせることができる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる(ピリピ3:21)と約束されているからです。

 

  また、最後にパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と願いながら、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい(26)と述べます。

聖なる口づけ」を交わすとは、本当に互いを神の家族に属する者として、兄弟姉妹の挨拶を交わすことです。私たちも礼拝でそれを実践すべきではないでしょうか。

 

  神の御子は二千年前に預言された救い主として、奇想天外な姿、無力な赤ちゃんとして現れてくださいました。それは私たちの発想を根本的に変えるものです。私たちはいつも人間的な努力を励まし合う世界に生きています。それはそれとして当然です。真面目に勉強し、誠実に働かなければ結果は出ません。

しかし、それを神の救いのご計画に当てはめると、恵みが見えなくなります。私たちはすでに「光の子ども」、栄光に輝く新しいエルサレムの市民とされています。自分や人の成長度合いを測るのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに繰り返し心を向けることこそが大切です。

そのときに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」ということばが、極めて現実的な恵みに満ちたことばとして心の底に響いてくることでしょう。

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2013年12月 8日 (日)

ナホム2,3章「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」

         2013年12月8日

  今、日本では、与党の絶対多数を背景にした強引な採決手法が批判されています。それは当然、反省が促されるべきことですが、同時に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」という永遠の真理を忘れてはなりません。

力に対して力で対抗するのではなく、法案の問題点を、忍耐をもって、分かりやすく、優しく指摘し続けることの方がはるかに大切です。なぜなら、どんな法案であろうとも、時が来たら修正できるからです。

日本人はもっと長い視点で政治を考えるべきかもしれません。今から約七百年余り前に記された平家物語の有名な一節、「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し、猛き人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」ということばの背後に、そのさらに二千年近く前に記されたナホム書の影響があるような気さえもします。

 

創造主を敵とする権力者は、必ず滅びます。その滅亡は驚くほどあっけないものです。それは歴史で証明されています。私たちの主イエス・キリストはすでに、目に見えない天の領域から、この地を支配しておられます。そして、私たちに求められているのは、謙遜の限りを尽くして人々に仕えたイエスの姿に習って生きることです。

 

1.「雄獅子の住みかはどこにあるのか・・・」

2章は、「散らす者が、あなたを攻めに上って来る」ということばから始まります。これはアッシリヤ帝国を「散らす」軍隊が攻めてくることを示しています。

そして、その攻撃軍の恐ろしい姿が、34節で、「その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る」と描かれます。盾が「赤い」のは、多くの人々を殺した血のせいかもしれません。兵士の服が「緋色(深い紅色)」なのは、恐怖をもたらす意味だと思われます。そして、彼らの戦車は通りを狂ったように走ります。

その有様はたいまつのよう」とありますが、これは暗やみの中に赤々と力強く燃える、人に恐怖心を起こさせます。しかもそれが「いなずまのように走り回る」というのです。

 

5節の主語は1節の「散らす者」を受けた「彼」だと思われます。ここは、彼は勇士を覚えている。彼らは進軍しながらつまずきつつ、その城壁へと急ぎ、攻撃塔を設ける」と訳すことができ、その結果のニネベの陥落も「川の水門は開かれ、宮殿は消え去る」と訳すことができます。

これは、攻撃軍が強力な統率者のもとで、つまずき」ながらも、われ先にと城壁に襲い掛かり、たちまちのうちに城壁を落とす攻撃塔を建て、その上で町を防御する川の流れを変え、町を水没させたのだと思われます。

詳細は分かりませんが、史上初の異民族国家を支配した大帝国の首都が、たったの三か月で陥落したと言い伝えられていますが、その背後に神のさばきがありました。

 

   そのような中で、「王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ(2:7)という悲惨が描かれます。

そして無敵を誇ったニネベを守るアッシリヤ軍の逃げ惑う姿が、8節で「ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、『止まれ、立ち止まれ』と言っても、だれも振り返りもしない」と描かれます。これは軍律が乱れ、「立ち止まって戦え」と言う将軍の声が空しく響く中で町が陥落する様子です。

 

そして、9節では略奪を競い合う攻撃軍の声が、「銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ」と記されます。世界の富を略奪したニネベは、今反対に、蓄えた富が一瞬のうちに奪い取られようとしています。

そして、10節の「破壊、滅亡、荒廃」とはヘブル語で極めて似た発音のことばが三つ並べられ、ニネベの荒廃が描かれています。そして、町の住民たちが恐怖に震える様子が、「心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる」と続けて描かれます。

 

1112節での「雄獅子の住みかはどこにあるのか・・・」とは、ニネベの王宮が滅びたことを皮肉った表現です。獅子は強力な王権の象徴でした。

そして、ニネベのかつての王宮の安心感が、「それは若い獅子のためのほら穴。雄獅子が出歩くとき、雌獅子と子獅子はそこにいるが、だれも脅かす者はない」と描かれます。かつてはみなが王の権威を恐れて、王の不在中でも王妃や王の子供たちは安心しきっていました。

またかつての強欲の繁栄、軍事力で王宮が諸国の略奪物で満たされていた様子が、「雄獅子は子獅子のために、十分な獲物を引き裂き、雌獅子のためにかみ殺し、そのほら穴を、獲物で、その巣を、引き裂いた物で満たした」と描かれます。

 

そして、攻撃のすべての背後に、イスラエルの神、主(ヤハウェ)ご自身がおられることを、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。─万軍の【主】の御告げ─わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす」と記されます(2:13)。つまり、ニネベ攻撃軍を動かしているのは主ご自身であるというのです。

そして、最後に、「あなたの使者たちの声はもう聞かれない」と言われますが、これは115節の神の民ユダに「良い知らせ」「平和」が告げ知らされるのとは対照的です。

なお、ヘブル語聖書では、115節が2章の始まりになっています。つまり、2章の始まりと終わりが、「見よ」ということばとともに、ユダにとっての「良い知らせ」は、ニネベの滅亡であったと描かれていることになります。これこそ神のみわざでした。

 

残念ながらこの世においては、私たちに危害を加えるのは私たちと同じ人間です。しかしイエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5:44)と言われました。

そんなことをしたら、敵はますます増長することになると不安になるかもしれませんが、イエスがそのように言われたのは、天の神ご自身があなたの敵にあなたの代わりに復讐をしてくださるということを知っておられたからです。(ヤハウェ)の復讐こそナホム書のテーマです。

 

イエスは十字架上で、ご自分を十字架にかけた者たちのことで、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られましたが、その直前にイエスは、「彼らが生木(イエス)にこのようなことをするなら、枯れ木(エルサレムの宗教指導者)には、いったい、何が起こるでしょう」と言われました(ルカ23:31,34)

つまり、イエスは彼らの上に降りかかる神の復讐を眼のあたりに見ていたからこそ、その赦しを願われたのです。敵が勝ち誇っていて、あなたの目にも彼らの繁栄が続くように思えるときに、彼らのために祈る必要など感じないのは当然です。

しかしあなたの身近にいる人々が滅びに向かっているのを目の当たりに思い浮かべるなら、たといその人があなたにとっての敵であったとしても、少しは可愛そうに思え、祈ろうという気持ちになるものです。

なお、「敵を愛する」とは、敵を感情的に好きになることではありません。愛は、何よりも行動で表現されるからです。それは「あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませる」という、敵を隣人として扱うことです。

 

2.「あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。『ニネベは滅びた』と」

3章初めではニネベの罪を告発する声が、「ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない」と描かれます。

アッシリヤはその残忍さで知られていました。しかも、彼らは虚偽によって征服する国に降伏を勧めました(Ⅱ列王記18:31,32)。また、212節にあったように彼らは「略奪」と「強奪」によって富を蓄えていました。

 

そして、ニネベを攻撃する軍隊の様子をナホムは目撃者であるかのように、「むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体死体に人はつまずく」と描きます(23)

これは2章の3-5節の描写を簡潔に言い換えた表現ですが、驚くほどにリアルな表現です。それこそ、神が見せてくださった幻です。特に「死体」の描写がリアルですが、この情景を思い浮かべる時、神の復讐の恐ろしさが心に迫ってきます。

 

   また主のさばきの理由が引き続き、「これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行う女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った」(3:4)と描かれます。この当時のアッシリヤは守護神アッシュールの礼拝をすべての支配地の住民に強制するようになっていました

たとえば北王国イスラエルの滅亡の前、エルサレムの王アハズはアラムを滅ぼしたアッシリヤの王に会うためにダマスコに上りましたが、その直後に彼は、何とエルサレム神殿の庭に、異教の祭壇を築かせ、そこで伺いを立て、また神殿の大改造を行いました。そこでその理由が「アッシリヤの王のため」と記されています(Ⅱ列王記16:10-18)。この神殿改造でどのようにアッシリヤの王のご機嫌を取ることができたかはわかりませんが、ここにはアッシリヤが自分たちの宗教を支配地に強制して行く様子を垣間見ることができます。

また、アハズの孫のマナセもアッシリヤに徹底的に服従しましたが、その際、彼は、「まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをし・・・自分が作った偶像の彫像を神の宮に安置した」と描かれています(Ⅱ歴代33:6,7)。この背後にもアッシリヤ王の圧力があったのだと思われます。

何しろ、異民族を心から服従させるためには、彼らのアイデンティティーの基礎を作るその宗教を変えることが必要になるからです。それはたとえば、日本が朝鮮半島を支配する際に、神社参拝と天皇崇拝を強要したことと似ています。

 

  それに対し、213節と同じ表現が用いられながら、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。─万軍の【主】の御告げ─」(3:5)と宣告されます。

そこで主は、「わたしはあなたのすそを顔の上までまくり上げ、あなたの裸を諸国の民に見せ、あなたの恥を諸王国に見せる」と言われます。これは、アッシリヤに遊女の真似を強制的にさせるという意味です。

彼らは自分たちの支配地に、偶像礼拝や呪術まじないという淫行を広め、彼らを堕落させて行きました。それで今度は、主ご自身が、彼らを遊女として辱めるというのです。

そればかりか、主は、「わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする(3:6)という「のろい」を宣告します。

 

  そして、ニネベが辱められる様子が、「あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。『ニネベは滅びた』と」と描かれます。これはニネベを見る者が、何か汚れたものを見たように、恐れて立ち去るという意味です。

その上で、「だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか」と問いかけられます。そこでは、ニネベを慰める者はだれもなく、ニネベのために悔む者はどこにもいないという答えが前提とされています。そこには、ニネベに媚を売って、商取引で利益を得ていた人々も含まれていることでしょう。

ニネベはすべての民にとっての軽蔑の的、あざけりの対象とされるというのです。人々から恐れられ、人々の貢物を傲慢に受け取っていた町が、今、汚れた町として人々から軽蔑され、無視される、それこそが神の燃える怒りを受けたしるしでした。

 

  それにしても、「あなたを見る者はみな・・」という表現に、イエスが十字架で人々の辱めを受け、ののしられ、無視される様子がダブって見えます。十字架は本来、神にのろわれてしまったことのシンボルでした。

パウロはガラテヤ書で、「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました(3:13)と記しています。ニネベに対するさばきにキリストの十字架を重ねるなどというのは、なかなか思い浮かべにくいことかも知れませんが、少なくともあなたの周りで、人々を占いやまじない、呪術や偶像礼拝に誘惑している人、また、人を人とも思わないような人は、やがてニネベと同じように滅ぼされることは確かなのです。

彼らのためにもイエスは十字架にかかってくださいました。そのような人々の罪の贖いのために、イエスは彼らが受けるべき呪いを代わりに引き受けてくださいました。それを心から味わい、彼らのために祈るべきでしょう。

 

3.あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。

38節で突然、「あなたは、ナイル川のほとりにあるノ・アモンよりもすぐれているか」という問いかけがなされます。「ノ・アモン」とはヘブル語名ですが、多くの人々はそのギリシャ名の「テーベ」という名でこの町のことを知っています。ここは地中海からは640㎞も南にあるエジプト南部の強大な都市で、長い間エジプトの首都であった神聖な文化都市でもありました。

その守りの堅さが、「水がこれを取り囲む。その塁は海、その城壁は水」と描かれています。ナイル川はこの付近で約800mもの川幅があり、「」とも呼ばれる水の豊かさを持っていました。またそこから引かれた多くの運河は町の堅固な城壁としても機能していました。

そして、「クシュとエジプトはその力。それは限りがない(9)とありますが、「クシュ」はテーベの南のエチオピアを指し、エジプトはテーベのある地域全体を指します。とにかく当時の世界で最強の軍隊がテーベを守っていると思われていました。

また「プテ人、ルブ人もその助け手」とありますが、「ルブ」とは多くの英語訳でリビアと記され、「プテ人」とはリビアの西にある町だと思われます。とにかく、これらの地中海沿岸の町々もテーベの援軍となると期待されていました。

 

 「しかし、これもまた、捕囚となり、とりことなって行き、その幼子たちもあらゆる町かどで八つ裂きにされ、その高貴な人たちもくじ引きにされ、そのおもだった者たちもみな、鎖につながれた」(3:10)とは、このように難攻不落と思われたテーベも紀元前663年にアッシリヤのアッシュール・バニパルの軍隊によって陥落させられ、その住民は捕囚とされ、幼子たちは殺されました高貴な人たちがくじ引きにされるとは、その能力に従って奴隷としてくじ引きで征服者の間で分配されたという意味です。これは、当時の世界の常識をひっくり返す出来事でした。

 

  そして、この同じ悲劇がニネベを襲うことが、「あなたも酔いしれて身を隠し、敵から逃げてとりでを捜し求めよう(3:11)と記されます。皮肉にも、テーベを陥落させたと同じ軍隊は、その方向が変われば自分自身をも滅ぼす力になり得るのです。なぜなら、アッシリヤ軍は支配地からの強制的な徴兵によって成り立っており、忠誠心など期待できないからです。

ここで「酔いしれて身を隠す」とは、ニネベの住民が、実は酔っ払いのように無力であることをそのときに自覚させられ、敵から逃げてどこかに避難することしか考えられなくなることを指しています。

 

  またニネベの要塞のもろさが、「あなたのすべての要塞は、初なりのいちじくを持ついちじくの木。それをゆさぶると、食べる者の口に落ちる(3:12)と描かれます。これは、敵の攻撃に揺さぶられるだけで、城壁が簡単に落ちる様子を描写したものです。

また、「見よ。あなたの兵士は、あなたの中にいる女だ(3:13)とは、兵士が女のように無力であるという意味、「あなたの国のもろもろの門は、敵のために広くあけ放たれ、火はあなたのかんぬきを焼き尽くす」とは、敵の攻撃が始まるとすぐに城門が開け放たれ、敵軍が町に殺到する様子を描いたものです。

 

  なお、14節は皮肉を込めた語りかけで、「包囲の日のための水を汲み、要塞を強固にせよ」とは、敵が包囲してくるとき町に水を供給する水路がまずふさがれるので、それに備えて水を備蓄することで要塞を強固にせよという意味です。

また、「泥の中に入り、粘土を踏みつけ、れんがの型を取っておけ」とは、これからでも煉瓦造りに励むようにと言う皮肉です。

そして、敵軍に攻められたときの様子が、「その時、火はあなたを焼き尽くし、剣はあなたを切り倒し、火はばったのようにあなたを焼き尽くす」(3:15)と描かれます。これはニネベの町が火で焼かれ、ばったが農作物を食い尽くすように、廃墟とされることを示します。

 

続く、「あなたは、ばったのように数を増し、いなごのようにふえよ」という表現は、再びニネベに対する皮肉です。ニネベが防衛力を増強しても、いざとなったら彼らはばったやいなごのように、すぐに別方向に飛び去って、町の防御の役には立たないからです。

そして、「あなたの商人を天の星より多くしても、ばったがこれを襲って飛び去る」(3:16)と記されるのは、ニネベが商業の町として繁栄していたからですが、敵の攻撃の前には商人は何の役にも立たず、すぐに逃げ去ります。

また、「あなたの衛兵は、いなごのように、あなたの役人たちは、群がるいなごのように、寒い日には城壁の上でたむろし、日が出ると飛び去り、だれも、どこへ行くか行く先を知らない(3:17)とあるのは、町の守り手となると思えた人々は、「寒い日」には城壁の上に立って、自分たちの存在をアピールしていながらも、日の出のように敵の来襲が明らかになると、すぐに逃げ去ってしまい、だれもその行き先を分からないように霧散してしまうというのです。アッシリヤの防衛力は、まさに見かけ倒しでした。

 

   18節の「アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない」とは、本来、民を導く牧者がいて初めて、羊のように方向感覚のない民は安心して生きることができるのに、アッシリヤの指導者は、自分の民を敵の襲撃から守る気力も能力もないことを示したものです。

彼らは私腹を肥やすことばかりに専念して、民を導くという責任を放棄しています。

 

   最後に19節では、「あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい」とあるのは、アッシリヤ帝国が今まさに滅亡に向かっている動きを誰も止めることができないという意味です。そのようになったのは、アッシリヤ帝国がその残忍さと横暴さのゆえに、世界中の人々から嫌われていたからです。

そのことが、「あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ」と最後に記されます。

アッシリヤの支配地のすべての人々が、アッシリヤの指導者たちから苦しめられていました。それで、彼らの滅亡は、世界中の人々にとっての喜びの喝さいの時となるというのです。

 

  力で強引な支配をつづけた支配者が滅びる時は、あまりにもあっけないものです。それは、数十年前の共産主義国での独裁者の最後や最近のアラブの春での独裁者の最後を見れば明らかなことです。

民衆を力で押さえていた者は、ちょっとしたきっかけで、瞬く間にその権力が崩壊し、自分を守るはずの軍隊が権力者に向かって牙をむきます。そして、そのような権力者の破滅の背後に、神の公正なさばきがあるというのがナホム書の中心メッセージです。

天の神を侮った地の権力者は、すでに滅びに向かっています。私たちもこの地で、権力者の横暴に悩まされることがあります。しかし彼らを恐れる必要はありません。彼らの滅亡は目の前にあります

ですから、あなたに求められていることは、この世の権力者たちに力で対抗しようとすることではありません。私たちはただ、日々、主に向かって祈りつつ、自分に課せられた務めをただ忠実に果たして行くことです。

 

  ナホム書は、史上初の多民族国家、圧倒的な軍事力で多民族を従えたアッシリヤ帝国のあっけない滅亡を描いています。それは、彼らの傲慢さ、横暴さに対する天の神のさばきでした。

今日の箇所では、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」と繰り返されています。神を敵としてしまうことは恐ろしいことです。私たちは小さい時から、知恵や力や弁舌によって、自分の願望を達成するように訓練されています。この世の勝利者とは、しばしば、自分の願いを押し通す力を持った人を指しますが、それは絶え間のない争いの連鎖を生み出します。

ヤコブの手紙はそれに対し次のように明快に語ります。アッシリヤに対する神のさばきを思い浮かべながら味わってみましょう。

 

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです・・・

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです・・・

ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』。ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります(4:1-7抜粋)

 

   アッシリヤ帝国は、自分たちの欲望のために平気で人を殺しました。私たちも自分にとって邪魔な存在を心の中で殺そうとしていることがあります。

それは神の公正なさばきを信じていないからではないでしょうか。 

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2013年12月 1日 (日)

ナホム1章~2章2節「敵を用いて謙遜にし、その後に敵をさばく神」

                                                   2013121

   日本では昔から、大岡越前(再放送中)だとか水戸黄門などが根強い人気を博しています。これは意外に、若い主婦の間でも人気だということに驚きました。私たちの周りにはいつも自分の力を誇って、人を振り回す人が耐えません。そのような強い人に、ひどい目に合わされることもあります。しかし、私たちはそれを通して、主に祈ることを覚えるとも言えます。

私たちの世界での最大の悩みは人間関係から生まれます。それは教会の中にもあります。大切なのは、主のご支配の中で、あなたをいじめる人が存在し、同時に、主はその人をご自身の時に懲らしめてくださるということを知ることです。あなたに求められていることは、何よりも主の懐に飛び込むということです。

              

1.ニネベに対する宣告、幻の書

ナホム書のテーマは、アッシリヤ帝国に対するイスアエルの神ヤハウェのさばきですが、アッシリヤ帝国は古代世界でエジプトに次いで古い帝国です。紀元前3000年に都市国家のひとつとして始まり、紀元前1800年ごろにはメソポタミヤの最強の帝国にのし上がり、ハムラビの古代バビロニア帝国と覇権争いを続けつつメソポタミヤ地方を統一して行きます。

紀元前900年ごろには首都をハランに一時的に移し、イスラエルを圧倒する勢力となります。そして、ついには紀元前7世紀にはエジプトにまで進出し、古代オリエント世界を統一します。

まさにアッシリヤ帝国こそは世界最初の異文化、異民族を統一した帝国でした。しかし、エジプトをも完全に支配したと思ったその50年後に歴史の舞台から忽然と姿を消します。

これほど跡形もなく歴史から消えた国はありません。その秘密がナホム書に記されています。この書は、古代世界の様子を理解する上での欠かせない貴重な歴史書でもあります。

 

ナホム書のメッセージはヨナ書と好対照になっています。預言者ヨナはニネベに遣わされ神のさばきを宣告しました。それに対し、ニネベの人々はそろって悔い改め、ニネベはその後、繁栄を謳歌しました。その後、ニネベを中心としたアッシリヤ帝国は紀元前722年に北王国イスラエルを滅ぼします。

エルサレムを中心としたユダ王国も風前の灯と思われましたが、預言者ミカやイザヤに励まされたヒゼキヤ王が民をリードして、イスラエルの神、主(ヤハウェ)にすがり、主がアッシリヤ包囲軍を直接に滅びしてくださったことにより、奇跡的に独立を保ちます。

ただ、アッシリヤ帝国の圧力はその後もどんどん強まり、その間、ヒゼキヤの後継者マナセは、徹底的にアッシリヤに服従し貢物を納めることで独立を保ちます。マナセの支配下で預言者イザヤは殉教の死を遂げたと思われます。

 

  その後、アッシリヤ帝国はさらに勢力を強め、ついには、エジプト南部の神聖な都市テーベを略奪します。これは当時の世界観をひっくり返す出来事でした。古代世界において、エジプト文明の中心都市がメソポタミヤ地方から生まれた政権によって略奪されるなどということは、誰も想像できなかったことです。ナホム38節の「ノ・アモン」とはそのテーベのことを指しています。

ですからナホム書は、このテーベの略奪があった紀元前664年からニネベが滅亡する612年の間に記されたということは確かです。これは誰の目にも無敵の強さを誇った絶頂期の世界帝国の滅亡を告げることですから、当時の人々には荒唐無稽に聞こえたことでしょう。しかし、この書が預言書として残っているのは、まさに、この預言がその通りに実現したからに他なりません。

 

  この書の最初の言葉は「宣告」ですが、これはもともとの意味は「重荷」という意味があります。この書の言葉は、ニネベに重くのしかかり、そのさばきのことばが実現するという思いが込められているのかと思われます。

続いて、「幻の書」ということばが記され、それが示された著者が「エルコシュ人ナホム」であると記されます。エルコシュがどこの地名かは明らかではありませんが、ユダに対する慰めが記されていることからユダの一地方であることは確かだと思われます。ミカの場合と同様に、地名でその人物が描かれているのは、血筋の卑しさを示している可能性があります。

ナホムという名には「慰め」という意味がありますが、この人物に関してはほとんどわかりません。

どちらにしても、「宣告」と「」というふたつのテーマが最初に記されているのは極めて珍しいことです。

 

2.復讐する主(ヤハウェ)

二節の始まりは「ねたむ神」と記されています。これは、「十のことば」の中心にある「ねたむ神」と同じ表現です。主はご自身の民をねたむほどに愛しておられます。ですから、イスラエルが他の神に浮気するときに怒りを燃やされるとともに、ご自身の民を苦しめる者にも怒りを発せられるのです。

そして、ここでは、「復讐する主(ヤハウェ)」と記されています。それに続いて「復讐する主(ヤハウェ)、憤るバアル」という不思議な記述があります。バアルは異教の神の固有名詞のように用いられることもありますが、ここでは本来の「主人」(マスター)という意味が込められています。つまり、ヤハウェの復讐、憤りは、いかなる異教の神々よりも恐ろしいということを強調したのだと思われます。

そして、再び、「復讐する主(ヤハウェ)」ということばとともに、「その仇に」と付け加えられ、「敵に怒りを保つ方」と続きます。ここで「復讐する主(ヤハウェ)」と三回繰り返されるのは極めて異例な、恐ろしい表現です。そしてそれを修飾するように「ねたむ神」「憤る主(バアル)」「敵に怒りを保つ方」ということばが記されます。

主はアブラハムとその子孫に、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われましたが、その子孫をのろったアッシリヤに神ののろいが下るのです。

この前のミカ56節では、救い主預言の中で、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と記されていますが、アッシリヤこそは、神の民を迫害する力のシンボルだからです。

 

(ヤハウェ)は怒るのにおそく」とは先の恐ろしいご性質が、感情にかりたてられたようなものではないという意味です。ただ、その怒りが燃えたときの恐ろしさが、「力強い」と表現されます。しかも、「主(ヤハウェ)は決して罰せずにおくことはしない方」ということに、主の公平さが強調されています。

残念ながらこの世界では、権力者の横暴に歯止めがかからないことがあります。そのような中で、多くの人々はただ首をすくめて、嵐が過ぎ去るのを待たざるを得ないことがあります。そして、時には「長いものには巻かれろ」と言いながら、権力者に媚を売り加担して行く人が出て来ます。そのような中で、人々は大岡越前だとか水戸黄門などのような英雄の現れを待ち望みますが、そのような強く公正な指導者への憧れが、次の独裁を招くということを忘れてはなりません。なぜなら、権力は必ず腐敗するからです。

それに対し、主は公正なさばきをくだされる復讐の神であるというのは何よりの慰めなのです。

 

その上で、「主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる」という表現に、私たちが「自然」と呼ぶ世界を完全に治め、その自然の猛威と言われるものも、主の前には無に等しいということを示しています。

昔からどの宗教でも、嵐や雷を支配する神が畏れられていますが、主はそれらの神々よりもはるかに恐れられるべき方であるというのです。

 

バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる(1:4)とありますが、バシャンはガリラヤ湖の南、ヨルダン川東側の地、カルメルはガリラヤ湖の西、地中海沿いの地、エリヤとバアルの預言者が戦った地、レバノンはガリラヤ湖の北の山地です。

ここではイスラエルと周辺にあるもっとも肥沃な土地も、主のみこころひとつで「しおれる」と繰り替えされているのです。これは肥沃な地が荒野のように何も生み出さない地に変わることを意味します。

 

  5節では「山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる」とは、私たちが高い山々や広大な大地を前にして感動しているときに、それらが主の前にはいかにちっぽけなものに過ぎないかを思い巡らさせるものです。

詩篇46篇に同じような表現があり、そこでは人間的な策略で目の前の問題を解決しようと焦っている人に、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ(10)と語りかけられます。

主こそは、茫漠とした地に、豊かな植物を生えさせた創造主であるということは、その逆もあるということです。主の御怒りによって山々が揺らいで海に沈んだり、この地を溶かされることもあるということです。

 

  6節では主の怒りが三つの異なった表現で描かれ、最初は、「だれがその激怒の顔の前に立ちえよう」と訳すことができます。新改訳で「憤り」と訳されていますが、これは2節とは異なることばで、激怒する主の前に立つことの恐怖が描かれています。

次は「だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる」ですが、「燃える怒り」は怒りの類語を二つ組み合わせたものです。次の「憤り」は2節と同じ言葉で、その憤りの激しさが「火」で、その力が、「岩を打ち砕く」と描かれます。

 

  ローマ人への手紙1218節以降では、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさ」と記されていますが、この最後の言葉は厳密には、「神の怒りに場所を空けなさい」と記されています。

それは自分で復讐すると、神の復讐の余地を奪うからです。事実、主はその直後に、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と言われます。

 

私たちは、主の復讐を知っているからこそ、「敵が飢えたなら・・食べさせ・・渇いたなら、飲ませ」ることができるのです。それが、「善をもって悪に打ち勝つ」ということでした。

私たちが自分の敵に対する恨みから解放されないのは、多くの場合、神の復讐の恐ろしさを知っていないからです。私たちにとって、何よりも大切なことは、自分の気持ちを主に打ち明け、主にすがり、復讐の主(ヤハウェ)との関係を平和に保っていることです。

 

  この頃のユダ王国の王、マナセは、アッシリヤ帝国との平和を保つために徹底的に彼らの要求を聞き入れる一方で、イザヤのように主の救いを求めるようにという預言者を殺し、主の怒りを買うような事ばかりをしていました。

この世の権力者の怒りを恐れ、神の怒りを恐れようとしなかった者が、国を破滅に追いやったのです。

 

3.主(ヤハウェ)はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである

  そして、7節では、それまでと一転して、「主(ヤハウェ)はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」と記されます。「いつくしみ深く」という原語は、「トーブ」で、「善」と訳すのが一般的です。ですから多くの英語訳は、「The LORD is good」と訳されています。

詩篇348節には、「味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさ()を。幸いなことよ。主に身を避ける人は(私訳)と記されています。

 

私たちにとって最善なことは、主のふところに飛び込むことです。私たちはどこかで、イエスは罪人のために十字架にかかられたことを忘れ、自分の正義を主張し、自分の正しさに応じて、主はあわれみを注いでくださると誤解してはいないでしょうか。

たとえば幼い子供があなたの前で自分の正義を主張するのと、泣きながらそのふところに飛び込んでくるのと、どちらが可愛いと思うでしょう。主も同じようなお気持ちを私たちに抱いておられます。

 

  一方、主はご自分の敵に対しては、「しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる」と言われます。268節でニネベが洪水に流される様子が示唆されています。それは、永遠の繁栄を謳歌すると思われた町が、一瞬のうちに滅び去る空しさを表現しています。

 

  9節からは一転して、アッシリヤ帝国の指導者自身を叱責することばになっており、「あなたがたは主(ヤハウェ)に対して何をたくらむのか。主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない」と記されます。

彼らはイスラエルの神ヤハウェを侮っていますが、彼らはそのことが自分にどのような破滅を招くかを知らざるを得なくなります。

 

そして、彼らに訪れるさばきが再び三人称で、「彼らは、からみついたいばら。大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、かわいた刈り株のように、全く焼き尽くされる(10)と述べられます。

からみついたいばら」とは身動きができなくなっている状態、「酔っ払い」とは、戦う力を失っているという意味です。そして、彼らは主の攻撃の前に「かわいた刈り株のように」たちまちのうちに焼き尽くされるというのです。

 

それでいて11節の「あなたのうちから」は二人称の女性形ですから、これはニネベを指し、「(ヤハウェ)に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たから」と非難されます。9節と同様に、「(ヤハウェ)に対するたくらみ」ということばが繰り返されていますが、神の都エルサレムに対する「たくらみ」は、主ご自身に敵対するものと見られています。

しかも、ここでは「悪い」ということばが重ねられ、しかも、「よこしまなことを計る者」と、具体的にニネベの国家戦略のことが非難されます。

このときのアッシリヤはヨナの説教で悔い改めたときとは正反対に傲慢になり、力づくで略奪するような横暴さと残忍さで有名な国になっていました。彼らはそのつけを支払うことになるのです。

 

4.わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。

  12節からはユダに対する慰めが語られます。まず、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」ということばとともに、神の民に対する驚くべき救いのご計画が明らかにされます。

まず、「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる」というのは、アッシリヤの滅亡を告げることばです。「安らかで」とはシャロームの訳ですが、これは彼らの繁栄を指した言葉です。つまり、彼らが経済的に繁栄し多くの軍隊を持っていても、跡形もないように「刈り取られて消えうせる」というのです。

それと同時に、主はユダに対して、「わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す(1213)と言われます。

これはまず第一に、アッシリヤの背後には主ご自身がおられて、主ご自身がユダを苦しめていたということです。ですから彼らが恐れるべきは、アッシリヤではなく、主ご自身であったということです。

それと同時に、主は今、アッシリヤを滅ぼすことによって、ユダをその「くびき」と「なわめ」から解放するというのです。

 

  14節の「主(ヤハウェ)はあなたについて命じられた」ということばは、新改訳ではユダに対することばかのようにも理解されますが、これはアッシリヤに対するさばきのことばと取るのが一般的です。第一の文章は、新改訳の脚注で、「あなたの名はもう蒔かれない」が直訳であると書かれていますが、これは、「お前の名を継ぐ子孫はもはや出ない(フランシスコ会訳)と意訳できます。

そして、「あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす」というのは、彼らの偶像の宮を主ご自身が断ち滅ぼすという意味です。そして、続く文章も、「あなたはつまらない者であるから、わたしはあなたの墓を用意する」と訳し、彼らを死を宣告することばと理解することができます。

 

そして、15節ではユダに対する福音が明確に記されます。まず、原文では、「見よ。山々の上にある、足が、良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の」という語順になっています。

それは、ユダの山地を福音が巡り歩く喜びを描いたものです。そして、「良い知らせ」とは、何よりも、「平和(シャローム)」の実現にあるというのです。

 

この記述は、イザヤ527節に極めて似ています。そこでは、「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」と記されています。ナホムはイザヤを参考にこのように記したのでしょう。

 

そしてここでは続けて、「ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、断ち滅ぼされた」と、アッシリヤの滅亡が告げられます。

よこしまな者」ということばは11節の「よこしまなことを計る者」と基本的に同じ言葉が用いられています。今までも繰り返し、アッシリヤの滅亡が告げられていますが、ここでは結論のように、「彼らはみな、断ち滅ぼされた」と強調されます。

なお、ここでは、「あなたの祭りを祝い」ということばと合わせて、「あなたの誓願を果たせ」と記されているのは興味深いことです。誓願は、主の特別なみわざを期待して、そのために自分の側から何かの犠牲を払うことを約束する行為ですが、将来への希望があるからこそ、誓願ができるということに意味があります。

彼らは、主の過去の救いの御業を覚えて祭りを祝うとともに、主が開いてくださる明るい未来に期待して誓願を果たすのです。

 

21節はアッシリヤの対するのろいの宣言です。「散らす者が、あなたを攻めに上って来る」とは、アッシリヤを滅ぼすメディヤとバビロンの連合軍の攻撃を示唆したものだと思われます。それに対し、皮肉を込めて、「塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ」と告げられます。

そして、3節以降で戦いの様子が描かれますが、彼らは今絶望的な戦いに向かおうとしています。彼らは万軍の主(ヤハウェ)を敵にしてしまったからです。

 

そして、2節では再び、「(ヤハウェ)は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される」と記されます。ヤコブの栄えもイスラエルの栄えも区別はないはずですが、そこには、かつてのダビデ、ソロモンのイスラエル王国の栄光を、「ヤコブの残りの者(ミカ5:8)が回復するという希望が告げられているのだと思われます。

かすめる者が彼らをかすめ、彼らのぶどうのつるをそこなったからだ」とは、かすめる者としてのアッシリヤがイスラエルの北の部族を滅ぼし、彼らの神の民としての統一性を永遠に損なったと思ったことが逆転されるからです。

 

アッシリヤ帝国は驚くべき力を持って古代オリエント世界を統一しましたが、彼らはその成功のゆえに傲慢になりました。この書が記される50年余り前に彼らはエルサレムを包囲しながら、主のさばきを受けて退却しました。しかし、彼らはそれから学ぶことがなかったため、忽然と歴史の舞台から姿を消すことになったのです。そこにヤハウェを侮ることの恐ろしさが現されています。

ところで、主に最も愛されたダビデも主の激しい怒りを感じて悶々とした時期があります。それは忠実な家来ウリヤの妻を奪い、ウリヤをだまし討ちにした後のことです。彼は詩篇38篇で以下のように嘆いています。

(ヤハウェ)よ。憤りによって、責めないでください。激怒(げきど)のあまり、私を懲(こ)らしめないでください。あなたの矢が 私を刺し抜き、御手(みて)が私の上に重くのしかかりました。御怒のため、私の肉には健全なところがありません。私の罪のため、骨にもやすらぎ(シャローム)がありません。私の咎(とが)が、この頭を圧倒し、重過ぎる重荷のようになっています。私の傷は うみただれ、悪臭を放ちました。それは私の愚かさのせいです。私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、一日中、嘆きながら歩いています・・・見捨てないでください。主(ヤハウェ)よ。私の神よ。遠く離れないでください。急いで、助けてください。 主(アドナイ)よ。私の救いよ

 

  ダビデは自業自得の罪で、神の怒りを感じながら、神のふところに飛び込みました。そして、ダビデの子のイエスは、自分の罪ではなく、全人類の罪を担うため罪人と同じ姿になり、罪人の代表者としてこの詩篇の祈りをもって神の怒りに向き合ってくださいました。

私たちはどこかで、この世界の罪に対する神の怒りや憤りをあまりにも軽く考えすぎてはいないでしょうか。御子の十字架の陰に隠れることがなければ、私たちは神の激しい怒りをその身に受けざるを得ないのです。

イエスにすがる者の罪は、全て赦されています。しかし、その赦しを軽蔑する者たちに対しては、神の燃える怒りが向けられるのです。彼らにはアッシリヤと同じ絶滅の運命が待っています。ですから私たちは、神のさばきを恐れて敵のために祈りましょう。

今週からアドベントです。それは、「神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18)中で、神の御子ご自身が、神の怒りをその身に引き受けるために人となってくださったことを覚える季節です。

神がもたらしてくださった救いは、奇想天外です。この世の悪を、天からの火でたちどころに滅ぼす代わりに、御子の犠牲によって私たちを罪ののろいの支配から贖い出そうとする不思議な計画でした。

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