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2014年1月26日 (日)

ゼパニヤ11節~23節「主を尋ね求めない者たちへの主の怒り」

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  私たちはみな、自分が無視されることに腹を立てます。しばしば、多くの妻たちは、経済的な不安以前に、夫の目が自分に向けられていないことに心を痛めています。実は、私たちの創造主も、何よりも私たちの心が主に向けられていないことに悲しみと怒りを覚えておられるのです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(捜しなさい)(マタイ6:33)というみことばの背後には、ゼパニア書があるのではないでしょうか。

多くの人々は、その意味を誤解しているのかもしれません。パリサイ人は誰よりも「神の国とその義とを求めて」いたはずです。しかし、イエスは彼らを誰よりも非難しました。それは彼らが、自分を正当化できる「神の義」を求めていたからではないでしょうか。

 

1.「わたしは悪者ども(霊的な浮気者、主への無関心者)・・断ち滅ぼす」

この書の原文での書き出しは、「ことば、主(ヤハウェ)の、ゼパニヤにあった、彼はクシの子、クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。それは、ヨシヤの時代のことであり、彼はアモンの子、ユダの王である」と記されています。

最初に、この書があくまでも「(ヤハウェ)のことば」であると強調され、その著者が「ゼパニヤ」であり、彼はエルサレムをアッシリヤの攻撃から奇跡的に守った「ヒゼキヤ」の子孫であることが強調されています。

これほど長い預言者の系図が記されることは極めて珍しいことですが、「ヒゼキヤの子マナセ」が最悪の背教者であった時代に、ヒゼキヤの信仰が別の血筋によって受け継がれたことが描かれていると言えましょう。

 

マナセの時代に、預言者イザヤが残酷な「のこ引き」の刑で殺されたという伝承がありますが、その時代は、預言者の家系にとっては厳しい受難のときでした。

そして「ゼパニヤ」という名には「ヤハウェが隠してくださった」という意味がありますが、これは主自身が預言者の家系を守ってくださったことを思い起こすと同時に、「イスラエルの残りの者(3:13)を、主ご自身が「主の怒りの日にかくまわれる」(2:3)という意味が込められているのかと思われます。

 

ちなみに、ゼパニヤの預言活動があった時代の王ヨシヤは八歳で王となりましたが、それはマナセの子のアモンが家来に殺されたためでした。王も死の危険にさらされていたのです。

なお、この預言が記された時代はハバククとほぼ同時代だと思われます。また、「主(ヤハウェ)の日」の記述においてヨエル書との共通点が際立っています。

 

2節から始まる主のことばでは、「(わたしは)必ず取り除く」という宣言がなされますが、そこではヘブル語特有の強調表現が用いられており、主が「必ず」または「徹底的に」、「地の面から、すべてのものを取り除く」と記されています。

また3節でも、「取り除く」ということばが繰り返され、「わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除くと記されます。それは主が、この地の生き物を、ノアの洪水の時のように「取り除いて」しまうことを意味します。

 

ペテロの手紙第二では、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです…しかし、私たちは神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます(3:6,7,13)と記されています。

ノアのときの大洪水では箱舟に乗ったものたち以外はすべて滅びました。しかし、世界の終わりにすべての生き物が「取り除かれ」るのは、「不敬虔な者どものさばき」のためであって、イエスを主と告白する者たちはすべて、復活のキリストの似姿に変えられ、新しい天と新しい地に生きることができます。そして、パウロによれば全被造物もその時を待っているというのです(ローマ8:19-21)

つまり、ここに記された「取り除く」とは、滅亡とは限りません。新しい天と新しい地への入れられるために、この地から取り除かれると解釈することもできるからです。

 

ただし続けて主は、「わたしは、悪者どもをつまずかせ」と、それは、神を神とも思わない「悪者」に向けてのさばきであるということを明確にしながら、「取り除く」とはまったく異なった表現で、「人を地の面から断ち滅ぼす」と言われます。

そして、「地の面から、すべてのものを取り除く」こと、また、「(悪者ども)を地の面から断ち滅ぼす」という途方もないことが、事実であることを、「(ヤハウェ)の御告げ」ということばを重ねることによって強調します。

 

ただ、主ご自身の怒りが何よりもご自分の国「ユダ」とご自分の町「エルサレム」に向けられていることが、「わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす」と記されます。
 その上で先と同じことばを用いて、「
わたしはこの場所から・・断ち滅ぼす」と宣告されます。そして主が「断ち滅ぼす」対象が五つ描かれます。

 

第一は「バアルの残りの者」です。預言者エリヤはバアル礼拝を持ち込んだ北王国イスラエルの王アハブと対決し、その後に現れた王エフーはバアルの祭司たちを滅ぼしましたが、バアル礼拝は、アハブの娘アタルヤがエルサレムの王に嫁いだことで南王国に持ち込まれ生き残っていました。

第二はエルサレムにいた異教の「偶像に仕える祭司たち」です。マナセの時代には、アッシリヤ帝国の宗教政策によってアッシュル神が公然と礼拝されるようになっており、その異教の祭司たちがエルサレム神殿の中にもいました。

そして第三は、「屋上で天の万象を拝む者ども(5)でした。天文学は天体礼拝と手を携えて盛んになって行きました。

そして第四は、「主(ヤハウェ)に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者ども」です。ミルコムはアモン人の神ですが、幼児をいけにえとしてささげるという野蛮で残酷な宗教で、(ヤハウェ)への礼拝とミルコムへの礼拝が同じ人によってなされていたことを指します。

そして、第五に、「(ヤハウェ)に従うことをやめ、主(ヤハウェ)を尋ね求めず、主を求めない者ども(を断ち滅ぼす)」と記されますが、これはそれまでの四つをまとめたような意味があります。主への無関心がさばきの対象となるのです。原文では、「断ち滅ぼす」という動詞は、五つのさばきの対象の最初にだけ記されます。

 

日本では、多くの神々を分け隔てなく礼拝することが宗教的な寛容と言われることがありますが、聖書の神はそれを霊的な浮気として最も嫌われます。

これは男女の結婚に似ています。キリスト教式の結婚式では、浮気をしないと誓わなければ結婚が成立しません。同じように、洗礼式では、他の神々を慕い求めないという約束をします。

 

なお第五の「(ヤハウェ)に従うことをやめる」ですが、これは一時期、信仰に熱くなりながら、その後、冷めてしまうこと以前に、具体的な背教の姿勢が問われています。夫婦関係でも、年月を経るとともに、愛を表現することばが減ったとしても、一緒にいることがますます心地よくなるということもあります。それとともに、相手のことを分かっているようで、実は最も肝心なことが分かっていなかったと気づかされるかも知れません。

信仰にも似た面があります。ですからここでは続けて、「(ヤハウェ)を尋ね求めseek)、尋ねる(inquire)ことを止めること」がさばきの対象とされています。一時の熱が冷めているようでも、主を礼拝することが身に着く中で、神について分かっていたと思うことが、実はまったくわかっていなかったと気づくことがあります。しかし、それこそが成長なのです。

信仰に新たな発見がなくなることは恐ろしいことです。そこから他の刺激的な神々を慕い求めるという偶像礼拝が始まるからです。

 

とにかく、主が「断ち滅ぼす」対象とされるのは、主を礼拝しながら、同時に別の神を求めるような霊的な浮気なのです。

かつての日本は、日本的キリスト教と称して、神社参拝と主への礼拝を混合しました。私たち日本のキリスト教会は、様々な政治的な見解の差を超えて、このことにおいて真の悔い改めの必要があります。

 

2.『主(ヤハウェ)は良いことも、悪いこともしない』と心の中で言っている者どもを罰する」

7節の始まりのことばは、「静まれ」というよりも、日本語で「シーッ!」と言うような擬音語です。「シーッ!主であるヤハウェの前に」と、恐れおののいて、主の語りかけを待つようにという思いを込めた強い呼びかけです。

 

そして、最初に語られたことばは、「(ヤハウェ)の日は近い」というものです。そしてそれに対する備えがなされたことが、「(ヤハウェ)がいけにえを備え、ご自身の客を聖別されたから(7節私訳)と言われます。

その上で、(ヤハウェ)のいけにえの日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。その日、わたしは、神殿の敷居によじのぼるすべての者、自分の主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを罰する(89節、最初のみ私訳)と記されます。

つまり、ここには、主が神の民の指導者たちを客として招いてくださったと思ったら、皮肉にも、彼ら自身がいけにえとして屠られることになってしまっているというのです。それは彼らが、「外国の服をまとう」ような偶像礼拝の祭司たちと結託して、主の神殿を「暴虐と欺きで満たす」ようなことをしているからです。

 

10節では「その日には─主(ヤハウェ)の御告げ─魚の門から叫び声が、第二区から嘆き声が、丘からは大いなる破滅の響きが起こる」と記されます。「魚の門」とはエルサレムの城壁の北の中心的な門(Ⅱ歴代誌33:14)、「第二区」とは当時のエルサレムの神殿の北に作られていた新しい地区です(Ⅱ列王22:14)。「」はどこを指すかは分かりませんが同じように町の北部にある丘だったと思われます。

当時のエルサレムは東から西にかけては急こう配の崖になっていましたが、北にはそのような自然の要害はなく、攻撃に弱い構造でした。

 

続けて「泣きわめけ。マクテシュ区に住む者どもよ(11)とありますが、「マクテシュ」とは、モルタルとかしっくいという意味があり、どこを指すかは分かりませんが、先の流れからすると第二区の南にあった市場であったと思われます。なぜなら「商人はみな滅びうせ、銀を量る者もみな断ち滅ぼされるから」と記されているからです。

 

そして、12節では、主ご自身がさばくべき対象をくまなく捜し出し、罰する様子が、「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、『主(ヤハウェ)は良いことも、悪いこともしない』と心の中で言っている者どもを罰する」と記されます。

ぶどう酒のかすの上によどんでいる」とは、ワインのいのちの発酵のプロセスに入らないで濁ったまま放置され、役立たずにもかかわらず自己満足をしている状態を指します。

彼らは自分の心の中で、「主(ヤハウェ)は幸いをも、わざわいもくだされない(新共同訳)と言っているというのです。つまり、何の成長も願いもしない者は、自分の将来に対しても無関心で、主にすがることも、また主を恐れることもしないまま、主(ヤハウエ)はいてもいなくてもどうでも良い存在であると思い込んで、心の赴くままのその日暮らしをしているのですが、主は誰よりもそのような怠惰で不誠実な人間を捜しだし、罰を加えると言われるのです。

 

主は繰り返し、出エジプト以来のご自身のみわざを思い起こすように命じておられました。しかし彼らは、主(ヤハウェ)はいてもいなくても同じ、礼拝する必要もない存在と、徹底的な無関心を示すようになりました。

そのような彼らを襲う悲惨が13節で、「彼らの財産は略奪され、彼らの家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、それに住めず、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない」と描かれます。これは主が申命記2815-68節で、主の御声に聴くことを止め、主の命令を忘れる者に対して下すと警告された「のろい」の要約です。

主はご自身のことばを曲げることはできません。主は確かにイスラエルの民と「のろいの誓いを」結ばれたからです(29:12)

そこで主の「のろい」を受けるのは、何かとんでもない罪を犯すこと以前に、「主の御声を聴こうとしない者」、また「主のみことばに注意を向けなくなった者(28:15)で、主への無関心こそがさばきの対象となっているのを忘れてはなりません。

 

3.「主(ヤハウェ)の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る」

14節からは7節にあった「主(ヤハウェ)の日は近い」というテーマが繰り返されます。しかも、ここでは、「主(ヤハウェ)の大いなる日」と強調され、ヨエル331節の「(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日」を思い起こさせます。

そしてその切迫感が、「(ヤハウェ)の大いなる日は近い。それは近く非常に早く来る」と繰り返されます。

そしてこの後半部分は「聞け」というよりも、「主(ヤハウェ)の日の声は苦い。勇士も激しく叫ぶ」と訳すことができます。「聞け」と言われなくても、「主の日の声」は、勇士の耳にも必然的な恐怖をもたらし、彼らに悲鳴を上げさせるというのです。

 

  1516節は原文で「の日」と六回も繰り返され、世界の初めの六日間の創造のみわざを思い起こさせます。「見よ。それは非常に良かった」と呼ばれた世界に破滅が来るというのです。

それは第一に「その日は激しい怒りの日と定義づけられます。

そしてそれは第二に人間の心に「苦難と苦悩の日」となります。

そして第三にそれは目に見える世界の「荒廃と滅亡の日」です。

そしてそれは第四に「やみと暗黒の日」と暗さが強調され、

第五では「雲と暗やみ(暗雲)の日」と「雲」の類語が重ねられています。

そして第六は「角笛とときの声の日(16)と描かれながら、その日のことが「城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日」として、エルサレムの滅亡が宣告されます。

 

アモス書では、「主(ヤハウェ)の日は・・やみであって、光ではない・・・暗やみであって、輝きではない(5:18,20)と記されていました。

またヨエル212節でも、「(ヤハウェ)の日・・近い。やみと、暗黒の日。雲と暗やみの日と記され、「数多く強い民」の攻撃が描かれながら、最後に「主の日は偉大で、非常に恐ろしい」と描かれていました。

 

  17節では恐ろしいことに、主ご自身が「わたしは人を苦しめる」と言われます。その結果として「人々は盲人のように歩く」という希望の見えない状態が生まれ、またその理由が、「彼らは(ヤハウェ)罪を犯したからだ」と簡潔に記されます。

私たちは主に対して罪を犯すことの悲惨を軽く見すぎてはいないでしょうか。彼らを襲う悲惨は、「彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる」と描かれます。これは、人間の「」とか「はらわた」といういのちのシンボルが驚くほど無価値で、忌まわしいものに見られることを意味します。

 

  18節では、「彼らの銀も、彼らの金も、(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす」と描かれます。

イスラエルの指導者たちは、周辺の強い国々の神々を拝むことによって、自分たちの平和を実現できると愚かにも思っていました。しかし、それはかえって主の「ねたみ」を買って、自分たちを滅ぼすことになるというのです。

彼らは皮肉にも自分の身を自分で守ろうとするあまり、「(ヤハウェ)の激しい怒りの日」を「近くに」招き寄せたのです。

そして最後に主の「ねたみの火」は、「全土」を焼くばかりか、「地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす」と、厳しく警告されます。

私たちも、この世の権力者の怒りを宥めようとするあまり、「激しい怒り日」を近くに引き寄せ、早めてはなりません。

 

4.「主(ヤハウェ)を尋ね求めよ・・そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」

 2章初めでは、主の怒りの日に対して取るべき対応が、「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ」と呼び掛けられます。これは、主がいてもいなくても同じだと思っていた恥知らずな国民に向かって、主の御前に急いで集まるようにという招きとして解釈できます。

そしてその緊急性が三回の「しないうちに」ということばとともに、第一に「昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに」と記されます。これは脱穀してもみ殻を吹き飛ばすときのように、主の目に役に立たない無価値な者として分類されないうちに、主の前に立ち返ることの勧めです。

第二に、「(ヤハウェ)の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに」と、主の燃える怒りに襲われる前に、主の前に立ち返ることが勧められます。

そして第三は第二と同じ「怒り」の言葉を用いて「(ヤハウェ)の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに」と記されます。

先の1章15節では「激しい怒りの日」、18節では「主の激しい怒りの日」と記されましたが、ここでは「主の怒りの日」と異なった「怒り」の一般的な形容詞を用いて描かれます。

 

  3節では三回に渡って「尋ね求めよ(捜しなさいseek)」と繰り返されます。第一は「(ヤハウェ)を尋ね求めよ。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ」という呼びかけです。

イエスは、「貧しい者は幸いです(ルカ6:20)「心の貧しい者は幸いです(マタイ5:3)と言われました。それは主のあわれみを慕い求める者こそが、主のあわれみを受けるという意味が込められていました。

 

第二は「義を尋ね求めよ」です。「」とは「正義」とも訳されますが、私たちが考える正義ではなく、神にとっての正義であり、神がご自身の約束を守り通してくださるという意味です。

 

イザヤ51章では、「主を尋ね求める」ことと「義を追い求めること」が並行して記され、「義を追い求める者、(ヤハウェ)を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ・・父アブラハム・・のことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主(ヤハウェ)の園のようにする・・・わたしの義は近い(1-4)と記されます。

主の義とは、主の救いのご計画全体を指す言葉なのです。それは新約では、罪人のためにご自分のいのちを犠牲にするキリストの真実に現された神の義として描かれます(ローマ3:21-26)

 

イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(尋ね求めなさい、捜しなさい。seek)と言われました。それは「私は神の義に従っています」と言えることを求めるのではなく、神の真実、神のあわれみにすがることの勧めであり、具体的には、それは空の鳥を見たり、野のゆりを観察したりすることから発見できるものでした。

 

  そしてここでは第三に、「柔和を(尋ね)求めよ」と命じられます。「柔和」とは、「この国のへりくだる者よ」と記されたことばの類語で、「謙遜」とも訳されます。箴言1533節では、「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」と記されています。

 

そしてこれら三つの「尋ね求めよ」との命令に続き、「そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」と記されます。つまり、これらは「私は正しい」「私は謙遜だ」という状態を求めることではなく、主ご自身によってかくまっていただけるける状態を尋ね求めることなのです。

しかも、ここでは「かもしれない」という不確定さが敢えて強調されます。それこそ「謙遜を尋ね求め」た結果です。赦すか赦さないかは、主のご主権に属することだからです。それは、これまで主に背く者への明確な罰が記されていた中での精一杯の表現と言えましょう。

なお、このときのイスラエルは悔い改めるのが遅すぎ、バビロン帝国によってエルサレム神殿を廃墟とされましたが、その「残りの者」(3:13)にはあわれみが注がれ、「主の怒りに日にかくまわれ」たのです。

そして私たちは今、神の御子の十字架を見上げる時に、どんな罪をも赦していただけるという確信に導かれます。

 

 詩篇91篇には「いと高き方の保護(隠れ場)のもとに座る者は、全能者の陰に宿っている・・主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている・・・わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病も、あなたの天幕に迫りはしない」(91:14,6)と記されています。「隠れ場」とは「かくまわれる」の名詞形です。

本日の箇所を読みながら、日々の労苦や不安の中で自分の心が主から離れてしまっていることがいかに多く、自分も主の激し怒りを免れることはできないのではと不安になられた方もいるかもしれません。

しかし、私たちにとっての真の隠れ場とは、イエスの十字架の陰です。自分の罪深さを認め、その陰に隠れる者には、主の怒りを受けることはありません

十字架は忌まわしい苦しみ、辱めの象徴でした。しかしこの世の心地よさ、富、誉よりも、そのもとに敢えて留まろうとする者に不思議な祝福が約束されています。

Beneath the Cross of Jesus 「十字架のもとに」という讃美歌262番の原歌詞には次のように記されています。

  1. イエスの十字架の下に、敢えて立ち続けよう。それは、つらい日々の中での揺るがない巌の陰、荒野の隠れ家、日中の熱い日ざしや労苦からの安らぎの場だ。

    2. イエスの十字架の上に、この目で見ることができる。               

       そこで私のために苦しんでくださった方の死の姿を。

そして、この砕かれた心から、涙と共に二つの不思議を告白しよう。

それは主の栄光に満ちた愛の不思議と、私の無価値さだ。

 

    3. 私は十字架を、あなたの陰を、私の住まいとしよう。

       私は主の御顔の輝き以外の輝きを求めはしない。

 この世のものを過ぎ去らせ、その損得にとらわれはしない。

 罪深さは私の恥であるが、十字架には私のすべての栄光があるから」

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2014年1月19日 (日)

Ⅱテサロニケ1章1節~2章14節「神の国にふさわしい者とされるため」

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  日本の政治の右傾化の問題が議論されています。確かに私たちは政治に目を見張る必要があります。しかし、この世の政治がどれほど私たちの理想に近づいたとしても、信仰者はどこかで必ず、この世の権威と衝突するということをも忘れてはなりません。

聖書は、私たちが迫害と患難に会うことを、当然の前提として記されています。しかも、それは神の国の完成が近づくほど激しくなると記されています。この世の人々にとっての主人はイエス・キリストではないからです。

ただ、その試練は信仰の成長のために益とされることは明らかです。私たちは愚かにも、いろんなことが都合よく行きすぎると、神と教会への感謝を忘れ、知らないうちに自分を神としてしまうからです。

 

私たちの希望とは、「神の国の完成」、この世界が神の平和(シャローム)で満たされることです。しかし、このままの私たちがその新しい世界に入ってしまっては、再びその世界に混乱をもたらす存在となってしまいます。

ですから、私たちは「神の国にふさわしい者とされるために」、キリストの苦しみにあずかる必要が今ここであるのです。

 

1. 「あなたがたの信仰が目に見えて成長し・・・相互の愛が増し加わっている」

この二つの手紙はパウロ書簡の中でガラテヤ書についで古く、紀元49年から51年にかけて二回目の伝道旅行の際、コリントに一年半滞在したときに続けて記されたもので、第二の手紙は第一の手紙でも正せなかった誤解を解くために、それほど期間を置かずに記されたものと思われます。

パウロは、アジアでの伝道が聖霊によって差し止められ、途方に暮れましたが、「マケドニア(ギリシャ北東部)人の叫び」の幻を見て、神がギリシャ人の地で福音を宣べ伝えさせようとしておられると気づきます。しかし、彼は最初のピリピ激しい迫害に会い、西のテサロニケに向かいました。そこは10万人もの人口を抱えていた大都市でした。彼はユダヤ人の会堂に入って行き「三つの安息日にわたり」イエスこそが救い主であることを証しました(使徒17章)。しかしその後、ユダヤ人の怒りを買って夜のうちにベレヤという次の町に行かざるを得なくなります。

つまり、テサロニケ教会はたった三週間あまりの伝道の働きで生まれたのです。そのため、彼らはすぐに誤った教えの影響を受け、信仰の試練にあっていました。

 

パウロは最初に、「シルワノ、テモテ」との連名で、「テサロニケ人の教会へ。恵みと平安」を祈っています。この書き方は第一の手紙と基本的に同じですので、この手紙はセットで書かれていると理解できます。

なお、ここでは、「私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」へと、「私たち」ということばが追加されています。それは彼らとの連帯感をより強調するためでしょう。

そして、「恵みと平安」のみなもとに関して、「父なる神と主イエス・キリストから(2)と重ねて強調しつつ、イエスが父なる神と同格であると示唆されます。

 

「恵みと平安」が祈られますが、これはパウロの手紙に共通します。「恵み」とは神から与えられるすべての賜物の総計のような重い意味があります。そして、「平安」はヘブル語のシャロームに由来し、心の平安ばかりか、人と人の間の平和をも意味します。最近の訳では、「恵みと平和」と訳される傾向があるとも思われます。

 

3節では、第一の手紙と同様に、彼らのことで神に感謝をささげていると繰り返していますが、ここでは、「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりませんそうするのが当然なのですと、これが単なる社交辞令ではないことが強調されます。

そしてその理由が、「なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです」と描かれます。

これは第一の手紙311,12節の祈りを意識した表現です。そこでは、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が・・道を開いて・・行かせてくださいますようにと、御父と御子のみわざが合わされて、唯一の神のみわざとして描かれます。その上で、聖霊の御業を意識しつつ、「主が、あなたがたを、愛において満ちあふれるほど豊かにしてくださいますように、互いの間の愛を、またすべての人へとと、愛の交わりの広がりを祈り求めています。しかもその前提として、「私たちがあなたがたを愛しているように」と敢えて付け加えました。

 

つまり、パウロは、彼らの愛における成長を祈るとき、御父、御子、御霊の三位一体の神の交わりと三人の使徒の交わりを同時に思い起こしているのです。「愛」は、三位一体の神ご自身の愛の交わりから生まれ、人の愛の交わりを通して伝えられ、それは教会の交わりの中で成長し、満ちあふれて行くからです。

ですから、パウロはここで何よりも、第一の手紙での彼の祈りが、神に聴き届けられていることを強調していると言えましょう。

 

2.「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるし」

  そればかりかパウロは、「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で・・(あなたがたのことを)誇りとしています」と不思議な表現を用いながら、その誇る内容を、「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順(忍耐)と信仰とを保っていることを」と述べます(4)。つまり、パウロは彼らが苦難のキリストの足跡に従っていることを、何よりも誇っているのです。

私たちはしばしば、自分の教えを受けた者が、何らかの目に見える成果を出すことを期待し、輝かしい結果が出たこと自体を誇りたい気持ちになりがちですが、パウロは、彼らが迫害と患難のただ中で、主への変わることのない姿勢(従順、忍耐)と信仰(真実)に留まっていること自体を誇っているのです。

周囲の状況がどんどん不利になって行く中で、神と人とに変わらない誠実を保ち続けることこそ神に喜ばれることです。

 

そして、この背後にある神のご計画を、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この(神の国の)ためです(5)と述べます。

ここでは、「神の正しいさばきを示すしるし」という表現が最初に記されます。私たちは「さばき」というと、すぐに裁判の席を思い起こしますが、旧約の伝統で、それは何よりも神の正しいご支配を意味します。つまり、神は彼らを「神の国にふさわしい者」へと成長させるために敢えて「苦しみ」を与えているというのです。

それは、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)からです。

 

しかもそれは、67節で、「それは、神にとって正しいことだからです」という書き出しのもとで、「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは」という神にある逆転が明らかにされます。

つまり、神の正しいさばき」とは、神にある逆転を明らかにすること、それこそが「神にとって正しいことだというのです。

日本ではしばしば、何らかの「苦しみ」に会ったとき、「バチが当たった」などと言われるときがあります。するとたいてい何か、後悔すべき原因が見えてきますが、それがその人の生き方をますます委縮させ、暗くするということになりがちです。

しかし、パウロはここで、テサロニケの信徒たちが苦しみに会っている理由は、神の罰どころか、神にある希望のしるし、神にある逆転が明らかにされるためであると語っています。

つまり、テサロニケの人々が苦しみを受けているのは、この世の因果律を超えた「神の国」の原則を現すためであり、彼らの苦しみはそのために用いられるものであるというのです。

 

キリスト者にとっての「苦しみ」はすべて、神の栄光が現されるための契機とされます。イエスの弟子たちが生まれつきの盲人を見て、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯しかからですか」と心ない質問をしたときに、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と答えられました(ヨハネ9:3)

イエスは、苦しみに会っている人に、過去の原因ではなく、将来の希望を見させてくださったのです。

 

なお、私たちは権力者の横暴などによって、不当な苦しみに会ってしまうようなときに、「怒り心頭に発する」などということがありますが、神の正しいさばき」とは、加害者にその罪にふさわしい報いが与えられるとともに、今、ここで不当な苦しみに会っている者には正反対の「報い」としての「安息」が与えられるということなのです。この「安息」とは、「解放」とか「安らぎ」とも訳されることばで、神が困難を取り去ってくださることを意味します。

 

3.「そのとき主は、神を知らない人々・・・に報復されます」

ただ、ここでは、それが実現するときが、「そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります」(7)と描かれています。

この「現れ」ということばは、パルーシアではなく、啓示とも訳される言葉で、今まで隠されていたキリストのご支配が明らかにされるときを意味します。つまり、キリストの支配がすでに今すでに天においては存在し、それがこの地にも明らかにされることを意味します。

そして、かつてご自分の権威と力を隠しておられた主は、「炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れる」というのです。

 

しかもそのときのことが、「主が報復()を割り当てられる」(私訳)という書き出しで、「神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に」(9)と記されます。神の罰を割り当てられる対象が、何かの具体的な悪い行いをした人という以前に、「神を知らない人々というのは衝撃的です。

聖書では、「知る」ということばは単なる知識ではなく「愛する」という意味が込められており、この背後には、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)という命令があります。

親を忘れることが最大の親不孝であるように、あなたの創造主を忘れることが最高の罪なのです。

 

また次に、「主イエスの福音に従わない」ことが罰の理由とされています。これは、イエスがあなたの罪のために十字架にかかってくださったということを受け入れないことを意味します。

たとえば、あなたが膨大な負債に苦しんでいたときに、その借金を肩代わりしてくれた人がいたとします。そのときに、「私はそんなこと頼んだ覚えはない!」などと言うことは、その人の気持ちをどれだけ傷つけることでしょう。どんなに社会的な成功を収めていても、イエスの救いのみわざを軽蔑する人は、神の罰を免れることはできません

私たちの存在はすべて関係性の中で守られています。ですから、私たちが最終的に問われるのは、どれだけの成果を出したか以前に、創造主と救い主をどれだけ愛していたかが問われるのです。

御父と御子に対する愛の伴わないすべての働きは、砂上の楼閣です。神はあなたの愛の応答を何よりも求めておられます。

 

そして、彼らに対するさばきが、「そのような人々は・・永遠の滅びの刑罰を受けるのです(9)と記されますが、その滅びとは、「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられ」という神との交わりを永遠に失うことを意味します。つまり、神と神の救いの御業を軽蔑した者へのさばきとは。神の御前から永遠に退けられることなのです。

 

  一方でイエスを信じる者に起こることが10節では、「主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の感嘆の的となられます」と記され、その「信じたすべての者」の中にテサロニケの信者がいることが、「そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです」と描かれ、パウロたちの証言がテサロニケの人々に受け入れられたことの感動が記されています。

主イエスの栄光は今、私たちの目から隠されています。しかし、その日」には、信じていたすべての人が、イエスの偉大さ、不思議さに圧倒されるのです。

 

なお、この原文では、「その日に」ということばが敢えて文末に記されていますが、このことばは、5節以降のすべてを支配し、特に7節後半の「主イエスが天から現れる」という「その日」のことを指します。

つまり、その日」とは神の正しいさばきが執行される日であって、それは再臨の主イエスご自身によって行われるというのです。

 

4.「どうか、私たちの神が・・善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように」

11節では、「神の正しいさばき」が行なわれる「その日」に向けて一人一人が整えられるように祈ることが、「そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にしてくださいますように」と祈られます。

それは彼らが、自分の意志以前に神の召しによって神の民とされましたが、それに「ふさわい者」へと成長する必要があるという意味で、5節の「神の国にふさわしい者にする」と似た表現です。

そして、その内容がここではもっと具体的に、「御力によって、すべての善をもたらすみこころと信仰の働きとを完成すること(私訳)と描かれます。神は私たちに最善をなしてくださり、信仰は私たちの中に働きを生み出してくれるからです。

それは私たちにとって、キリストの似姿にまで変えられるという聖化の完成を意味します。ただ、それは私たち自身の人間的な努力によってではなく、神の御力によって完成されることです。

「その日」のことが、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ321節)と、力強く約束されています。

 

  そして、この信仰者に起こる聖化の目的が、「それは・・主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです(12)と記され、主イエスの栄光を生み出すのは、私たちの行い以前に、「私たちの神と主イエス・キリストの恵みによって(私訳)と敢えて説明されます。

 

  その上で2章初めからは、「その日」の理解に対するテサロニケの信徒たちの誤解を正す勧めが、「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」と記されます。

再び来られる」は、原語でパルーシアと記され、「王としての現れ」を意味します。これは何よりも、第一の手紙415-17節の追加説明です。そこでは、主の現れ(パルーシア)のときに、死者が復活するとともに、生き残っている者たちも栄光のからだに変えられ、「空中で主と出会う」ということが記されていました。

それは同時に、イエスご自身が言っておられたようにエルサレム神殿の崩壊を初め(マルコ13:2)として、目に見える世界の秩序が過ぎ去る、世界の終わり時と思われていました。

 

彼らは自分たちが気づかないうちに、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて・・落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」していました(2)。現在も、「大地震や放射能汚染で世界の終わりが来るかもしれない、こんなことをしていて良いのだろうか・・」と思う人がいるかもしれません。

それに対し3節の原文では、「主の日」ということばが省かれながら、「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい・・・それは起こりえないからです。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ」と記されます。

そして続けて、「滅びの子」に関する説明が、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します(4)と説明されます。

 

つまり、私たちが注意を向けるべきことは、主の再臨がいつになるかということよりも、今ここで、私たちの信仰を揺るがそうとする悪の力に目を開くことなのです。

 

この「背教」とか「滅びの子の現れ」は、既にダニエル1132-37節に記されており、第一義的には紀元前168年にエルサレム神殿にゼウス像を建てたシリヤの王アンティオコス・エピファネスを当時は思い起こさせました。ユダ・マカベオスは武力闘争を展開しましたが、アンティオコスは戦いによってではなく、突然の病で倒れました

そしてまた、パウロがこの手紙を書く約10年前、ローマ皇帝カリグラは自分を神格化し、ついには紀元40年にエルサレム神殿に自分の像を置くようにと命じました。幸いユダヤの王ヘロデ・アグリッパがそれはユダヤ人の激しい独立運動を起こすと必死に助言し、実現はしませんでしたが、間もなく、カリグラは部下によって暗殺されるというようなことが起きていました。

そればかりか、この手紙の十数年後には皇帝ネロが現れます。紀元64年にローマに大きな火災が起きますが、ネロはそれを起こしたのが自分であるとのうわさを消すために、その責任をクリスチャンに負わせます。そして、その迫害の中で、間もなく、ペテロが捕らえられて逆さ十字架で殉教し、またパウロ自身も捕らえられて首をはねられた記録されています。その後、ネロの狂気はますます進み、各地で内乱が続き、ユダヤでも反乱が広がります。その後、ネロは68年に自殺に追い込まれます。

その後、一年の間に四人が皇帝を名乗るようになります。そして、最終的に勝利を収めたヴェスパシアヌスは紀元70年にエルサレム神殿を滅ぼします。それは、当時の人々にとっては、まさに旧約が繰り返し語ってきた「主の日」が実現したことを意味します。

 

パウロはそのような大迫害が起きることを御霊によって示されながら、迫害への心備えをさせたのだと思われます。

6-8節で彼はまず、個人的に、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいた」と彼らの記憶を呼び起こしつつ不法の人」の現れを、「いま引き止めているものがある」と言いながら、同時に、「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」と、「不法の人」のあっけない滅亡を予告します。

それは上に記したすべての横暴な独裁者たちに当てはまります。ダニエル書でも黙示録でも、信仰者への厳しい迫害の時期は、驚くほど短期間のうちに過ぎ去ると描かれています(しばしばその期間は「三年半」に相当)

たとえば、第二次大戦下の日本でもホーリネス教会に対する激しい弾圧が起きましたが、その三年数か月後には終戦になり、反対に、キリスト教ブームに変わりました。

 

ですからここに記されていることの中心は、「不法の人の現れ」から、「主の日」がいつになるかを予測できるなどという未来予測の話しではなく、信仰者への迫害や惑わしは、いつも繰り返し起きることの覚悟を求めることにあると言えましょう。

キリスト者がこの世に誘惑や迫害に会うことは決して想定外ではありません。そのことが、9-12節に記されています。そして、その趣旨は、それを通して私たちの信仰が練りなおされ、神への愛が成長させられ、信仰の完成へと導かれることにあります。

どの家族においても、どの共同体においても、苦難を共有することによって愛の交わりが成長するものです。残念ながら、順風満帆の人生の中では、ひとりひとりが自分の力や能力を誇るようになってしまい、神の助けや神の家族のありがたさが見えなくなってしまいがちです。

 

第二次大戦中の迫害を潜り抜けた前・太田キリスト教会牧師の小澤薫先生は、口癖のように、「困難は祈りの母、試練は信仰の父」と語っておられたとのことです。残念ながら、試練を経ずにキリストに似た者へと変えられる人は誰もいません。

 

ただ同時に、試練の中でも、神ご自身が私たちを守り通してくださるということが1314節で、「神は、あなたがたを救いのみわざの初穂としてお選びになれました。それは御霊による聖め(聖化)と、真理への信仰を通してです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召してくださいました。それは、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださるためです(2:13,14私訳)と描かれます。

彼らは自分の意志以前に、神によって選ばれ、聖霊のみわざによって聖められ、真理を信じ、キリストの栄光にあずかるようにと、既に召されているのです。

 

多くの人々は平穏な人生を求めて、結局、自分の世界を狭いままに留めています。わざわいに会うことを恐れるあまり、イエス・キリストにも、また目に見えるキリストのからだである教会にも、適度な距離感を保とうなどと思ってしまうことすらあります。

しかし、キリストのうちにあるいのちの喜び、愛の交わりの豊かさは、試練を通してこそ豊かに味わうことができるものです。

キリストに似た者と変えられることのすばらしさを日々思い浮かべて歩みましょう。

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2014年1月 5日 (日)

ハバクク2、3章「悲惨のただ中に生まれる喜び」

                                                   201415

  私たちは互いに、「今年は(も)、良い年でありますように・・」と互いの祝福を祈り合います。しかし、はっきりしていることは、わざわいのない年はだれにもありえないということです。必ず何らかの「まさか」に出会います。

ユダヤ人たちはナチス・ドイツがもたらした強制収容所の悲惨の中で、「Trotzdem Ja zum Leben sagen(にも関わらず、人生に対して『はい』と言おう」と励まし合っていました。私たちの信仰とは、「神を信じたら順風満帆の人生が・・・」というものではなく、「逆境にも関わらず、主(ヤハウェ)に信頼して、喜ぶことができる」というものです。

敬虔な信仰者ヨブに理不尽な苦しみを与えたサタンは、今も信仰者への攻撃を繰り返しています。しかし、私たちは復活のキリストにあって既に勝利が与えられています。

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブル10:38)という新約の教理の核心は、ハバクク書からの引用ですが、それは、「にも関わらず」の信仰と呼ぶことができます。

 

1.「正しい人はその信仰によって生きる」

預言者ハバククの嘆きの訴えに対し、主は奇想天外な「幻」(啓示)を見せてくださいました。それは「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものでした(2:3)

それは、人間の目には、「いつになったら実現するのか・・・」と思えたとしても、神の視点からは、「それは必ず来る、遅れることはない」という内容なのです。

 

  4節では最初に、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者(1:11)のことを指していると思われます。

彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されています。

 

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で「アーメン」と同じ語源に由来し、「真実」と訳した方が良いかもしれません。興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし()の真実によって」と記されています。ですから、これは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味ではありません

これは、目に見える現実が、人間の目には神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であるというのです。

つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実を示してくださったときに、それを真実に受け止めるという心の応答なのです。

 

しかも、ここでは「私たちは死ぬことはありません(1:12)を言い換えるように、「正しい人は・・生きる」と断言されます。

人間的には実現が遅いと思われる神からのビジョン、ときには「まやかし」とさえ言われるような神からのビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

 

  そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める」と描かれます。これは「正しい人」と対極にある生き方です。

当時のウガリト神話にはモトという死の神が描かれていますが、彼は「足ることを知らない」貪欲な神です。そして、エルサレムの支配者も、カルデヤ人も、そのような死の神に操られた生き方をしているというのです。

なお、最初の「ぶどう酒は欺くものだ」というのは唐突な感じがしますが、「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ています。私たちが生まれながら罪人であるというのは、私たちが生まれながら何らなの依存症患者であると言い換えることができます。「アル中!」などと人をバカにしている人は、実は同じ病を抱えている可能性があります。

 

2.「水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」

26節では、「これらはみな、彼についてあざけりの声をあげ、彼を皮肉り、風刺してこう言わないだろうか」と記されますが、ここからは、高ぶるバビロン帝国によって苦しめられてきた者たちが、その中心部族である「カルデヤ人」(1:6)の最後を風刺して、五回に分けて「わざわいだ」と「あざけりの声をあげ」るものです。

 

その第一は、「わざわいだ。自分のものでないものを増し加える者。─いつまでだろうか─その上に担保を重くする者」というあざけりです。これは16節にあったようにカルデヤ人が「自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る」ことを非難したことばですが、彼らが奪い取った物は、主の御前には「担保」のように積み上がっています。彼らは奪った分を強制的に返却させられるのです。彼らは奪った分だけ奪い返されます

彼らは「いつまで」ということを知らずに、自分の将来的な悲惨を自分で準備しているというのです。そしてそのことが8節では、「あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する」と記されます。

 

第二は「わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者(9) というあざけりです。カルデヤ人は占領国から奪い取った物を敵の手から守るため「自分の巣を高い所に据え」ました。しかしそれは、「あなたのたましいは罪を犯した(10)とあるように、「罪」と宣告され、さばきを免れないものです。

そればかりかそのさばきは、「まことに、石は石垣から叫び、梁は家からこれに答える」(11)という形で実現します。それは石垣の構成要素である「石」の叫びを招き、また家を守る「梁」の「答え」を引き出すように、罪に対するさばきが、彼らの土台の崩壊というかたちで実現されるというのです。

 

第三は、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者(12)というあざけりです。彼らは他国民の血の犠牲によって町を建て略奪した富で都を築き上げただけであり、滅びは時間の問題です。

そして13節では「これは、万軍の主(ヤハウェ)によるのではないか」と言いつつ、「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる」という国々の悲劇が描かれます。これはバビロン帝国で起きたことを一般化して述べたものだと思われます。

国々は主のさばきを知らずにむなしい労苦を積み上げていますが、バビロン軍にはるかにまさる「万軍のヤハウェ」のみわざによってすべてが無に帰すことがあるのです。

 

そして、それを通して主の偉大さが現されることが、「まことに、水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」(14)と描かれます。

これは第一義的には、バビロン帝国へのさばきを通して、この地の真の支配者がイスラエルの神、主(ヤハウェ)であることが明らかになるときが来るという意味です。

 

ただそれは同時に最終的な救いの完成を示すことばでもあります。「(ヤハウェ)の栄光はたとえばかつてイスラエルの民が荒野を旅していたときに雲の中に現され、翌朝には宿営の周りにマナが降りているということで現されました(出エジ16:10-15)

またモーセに導かれた民が幕屋を建てたとき、「雲は会見の天幕をおおい、主(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた」と描かれています(同40:34)。同じことはソロモンの神殿にも起きました。

また、預言者イザヤの召命のときには、セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主(ヤハウェ)。その栄光は全地に満つ」という賛美の声とともに「宮は煙で満たされ」ます(イザヤ6:3,4)

そして彼は救い主が実現する世界を、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追ってゆく・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・(ヤハウェ)を知ることが海をおおう水のように、地を満たすから」と描きます(11:6-9)このとき、全地が主の神殿となり、主のシャローム(平和、繁栄)が全地を満たすことになるのです。

ペテロはこの目に見える天と地が過ぎ去ることを述べながら、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:13)と記しています。

 

3.「主(ヤハウェ)は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」

第四は、「わざわいだ。自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、その裸を見ようとする者。あなたは栄光よりも恥で満ち足りている(1516)というあざけりです。これは彼らが脅しの力によって自分たちの「栄光」を現そうとしていることを皮肉って、実は「恥で満ち足りている」と言ったものです。

続く、「あなたも飲んで、陽の皮を見せよ」とは、割礼を受けていない者のしるしの男性器を覆う包皮を露わにして恥を現すという意味です。

また、「(ヤハウェ)の右の手の杯は、あなたの上に巡って来て、恥があなたの栄光をおおう」とは、「主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干す(イザヤ51:1723)ともあるように、イスラエルを苦しめた主の杯がカルデヤ人に渡されることを意味します。

そして、この書で強調されてきた「暴虐(1:2,9)に対する報いが、「レバノンへの暴虐があなたをおおい、獣への残虐があなたを脅かす。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ」(17節)と描かれます。人に「暴虐」を行なう者は、自分の身に「暴虐」を招いているのです。

 

  第五は、1819節で、「彫像や鋳像」のような偶像が「偽りを教える者」、また「物言わぬ偽りの神々」と呼ばれるばかりか、それを礼拝する者が、偶像に「目をさませ」「起きろ」と必死に祈っている姿があざけられています。

そしてその終わりに、それに対する主のさばきの声が、「それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない」と描かれ、表面が高価に見えても、神の息の入っていない空しさが強調されています。

 

そして最後に、「しかし主(ヤハウェ)は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ(20)と描かれます。ここでの「聖なる宮」とはやがて滅ぼされるエルサレム神殿ではなく、「(ヤハウェ)は聖なる住まいにおられ、主(ヤハウェ)の王座は天にある」(詩篇11:4フランシスコ会訳)とあるように「天の宮」を指すと思われます。

この書が記された少し前のミカ12節では天の聖なる宮から降りてきてこの地をさばかれるということが描かれていました。

 

ここでは偶像礼拝をする者が「物言わぬ偽りの神々」に向かって「目をさませ・・起きろ」と騒ぎ立てていることとの対比で、主の御前に静まることが勧められています。

なぜなら、主は今、預言者ハバククに向かって明確な言葉で語っていてくださるからです(2:1)。そして主の語られたことばが今、この書として残されているからです。

4.「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」

3章の初めでは、「預言者ハバククの祈り」と記されますが、それは詩篇の賛美や祈りを指す言葉でもあります。また「シグヨノテに合わせて」とは小さなハープのような弦楽器の調べに合わせてという意味だと思われます。

 

  祈りのことばの初めでは、「(ヤハウェ)」ということばが二回繰り返されながら、「(ヤハウェ)よ。私はあなたのうわさ(知らせ)を聞き、主(ヤハウェ)よ、あなたのみわざを恐れました」と呼びかけられますが、これは歴史における主の具体的な救いのみわざの知らせを聞いて、主のみわざに恐れをいだくようになったという意味です。

「この年(数年)のうちに、それをくり返してください。この年(数年)のうちに、それを示してください」とありますが、「」は複数形ですから、「数年」と訳した方が良いかと思われます。これは、過去になされた偉大な救いのみわざを見せて欲しいという訴えです。

しかも、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでくださいと記されるのは、主の激しい怒りを知りながらも、そこで主のあわれみが示されることを懇願したものです。この書の最初では、「いつまで、救ってくださらないのですか」という訴えがなされましたが、そのことを再び具体的に表現したものと言えましょう。

 

34節では主のかつての救いのみわざが描かれます。「テマン」はエドムの地で「主よ。あなたが・・エドムの野を進み行かれたとき、大地は揺れ、天もまた、したたり、雲は水をしたたらせた(士師5:4)とあったようなことを思い起こさせるものです。

また「パランの山」とはシナイ山の北東に広がる荒野で、そこでは、「主はシナイから来られ・・パランの山から光を放ち・・その右の手からは・・いなずまがきらめいていた(申命記33:2)というような救いのみわざが思い起こされています。ここでは、その時と同じようなみわざが繰り返されることを願ったものです。

 

 「その御前を疫病が行き、熱病はそのうしろに従う(5)とは、主がイスラエルの民をエジプトから解放するときにエジプトの上に下された様々なわざわいを思い起こさせる表現だと思われます。

6節では引き続き、人々に恐怖を起こさせる主の姿が、「神は立って、地を測り、見渡して、諸国の民を震え上がらせる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その軌道は昔のまま」と描かれます。

これは主がシナイ山に下りて来られた時の様子を思い起こさせるとともに、主が進まれる道が何ものにも阻まれることがないことを描いたものだと思われます。イザヤ403節以降には主の救いの現れが荒野に主の道が備えられることで描かれています。

 

7節では、「私が見ると、クシャンの天幕は乱れ騒ぎ、ミデヤンの地の幕屋はわなないている」と描かれますが、クシャンもミデヤンもエドムに近い地に住んでいる遊牧民ですが、これは主がイスラエルの民を約束の地へと導いたとき、その通り道に住む遊牧民が震えおののいたことを思い起こさせたものと思われます(出エジ15:14-16)

 

 5.「あなたは、ご自分の民を救うために・・油そそがれた者を救うために出て来られます」

38-15節はひとつのまとまりで、主に向かって呼びかけることばを用いながら出エジプトの際の救いの御業を思い起こしているものと思われます。

8節の「主(ヤハウェ)よ。川に怒りを燃やされるのですか・・憤りを海に向けられるのですか・・・あなたの救いの戦車に乗って来られます」とは、主がナイルに災いを起こし、ヨルダン川をせき止め、紅海を分けられて民を通らせ、エジプトの軍隊を海に沈めたことを思い起こさせているものと思われます。

 

  9節での、「」とは主が地に雷を落とす様子を、「地を裂いて川々とされます」とは嵐によって濁流を起こす様子が描かれたのだと思われます。「ことばの杖の誓い」という部分は様々な訳が可能で意味不明です。

 

  10節の「山々はあなたを見て震え・・」とは、人間に恐怖をもたらす地形や嵐や海の深淵が、主の思うままに動かされる様子が描かれています。

続く、「太陽と月はその住みかにとどまり・・あなたの矢の光によって・・それらは動きます」(11)では、当時の人々が崇めた太陽や月が主のご意志に従って動く様子が描かれます。

 

また、「あなたは、憤って、地を行き巡り、怒って、国々を踏みつけられます(12)とは、主がこの地の横暴な国々を思いのまま滅ぼすことができることを示しています。

そして13節の「あなたは、ご自分の民を救うために(出て来られ)、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます」では「出て来られ」が鍵のことばです。これは、14節での「さばきはいつまでも行われません(出て来ません)・・さばきが曲げて行われます(出て来ます)」という訴えに対する答えとなっています。

かつて主は沈黙しておられたように思えましたが、ご自身の時にご自分の民を救うために「出て来られ」、また「油注がれた」王を救うために「出て来られ」ます。これは、不当に殺されたと思われた救い主イエスを、死者の中からよみがえらせ、全地の王とされたことをも示唆する表現と言えましょう。

 

そして、13-15節では、神の民の敵に対するさばきが生々しく描かれます。その終わりの「あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます(15)とは8節に立ち返るもので、主が紅海を分けてエジプト軍を海の底に沈めたことを示し、同じことが横暴なカルデヤ人の軍隊の上に起こされることを示唆したものです。

 

6.「・・・にも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」

  16節の「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう」という表現は、それまでの2-15節の要約のような意味があります。

主の「激しい怒り(2)を見せられた彼の骨はまるで腐ってしまったように弱くなり、足元がぐらついていますが、ハバククは何もできない中で、自分たちの敵に訪れる「悩みの日」をただ「静かに待とう」と告白します。カルデヤ人へのさばきが、主の民の救いになるからです。

 

  1718節は、目先の悲劇を覚悟しながら、そのただ中で、私は主にあって喜ぶという、悲惨と喜びの対比が描かれています。ですからここは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と訳した方が良いと思われます。

これは目の前にバビロン帝国の攻撃が起きて、自分たちの農作物が台無しにされ、家畜がいなくなるようなことが起きるという悲惨を目の前に見ながら、そのただ中で、主の救いのご計画は確実に進んでいることを確信することです。その結果として、「私は・・私の救いの神にあって喜ぶ」と告白するのです。

 

そして最後に、「ヤハウェ、私の主」と告白しながら、「その方が、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と締めくくります(19)

また末尾の「指揮者のために。弦楽器に合わせて」とは、これが会衆の祈りと賛美として歌われるために記されたという意味だと思われます。

 

  ハバククはこの書の最初で、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのですか・・・なぜ、あなたは私にわざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか・・なぜ黙っておられるのですか(1:2,3,13)と、主を非難するように訴えていました。ただ、その彼に示された主の救いは、暴虐なカルデヤ人を用いてご自身の民にわざわいを下し、その後にカルデヤ人の横暴にさばきを下すという奇想天外なものでした。

そのような不思議なご計画を示しながら、主はハバククに、「正しい人はその信仰(真実)によって生きる」と言われました。これこそ、私たちの聖書信仰の核心です。

それは、目の前の現実がとうてい自分に納得が行かないような悲惨であったとしても、また自分に受け入れがたい現実があったとしても、それらの背後で、主の真実な救いのご計画が進んでいることを信じて、わざわいのただ中で、最終的な「私の救い」を確信して、「主にあって喜び勇む」ということでした。

私たちの喜びは、目の前の現実ではなく、主との親密な交わりから生まれるものです。そのことをパウロは、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となっている」(ローマ8:37)と告白しました。

ただし、この喜びは、不安や嘆きを、自分で押し殺す中から生まれるものではありません。ハバククの祈りは、ヨブのような主への率直な嘆きの訴えから始まっているからです。

ところで教会福音讃美歌422番に唯一掲載された私のドイツコラール訳は、目の前が真っ暗な中で「イエスは私の喜び」と力強く告白するものです。

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2014年1月 1日 (水)

詩篇19篇「天は神の栄光を語る」    

                                                    2014年元旦 

  この詩篇の美しさは比類ないものです。何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。ここには言葉にならない神の語りかけと、人のことばを用いた神のかたりかけの二つが記され、私たちの「こころ」を創造主に向けさせてくれます。

宇宙は沈黙が支配する世界と思われがちです。すべてが自然の法則の通りに動き、そこに創造主の入る余地はないようにさえ思えることがあります。しかし、考えてみたら、宇宙で声が聞こえないのは、音を伝える空気という媒体が無いからに過ぎません。

 

詩篇19篇の最初は、「もろもの天は神の栄光を語っている。大空は御手のわざを告げている」と言う表現から始まります。天は語り、大空は告げているというのです。これこそ、創造主を信じるということです。聞こえないところに創造主の声を聴き、見えない所に神のご支配が現されていることを「見る」のです。

 「昼は昼へと話を取り次ぎ、夜は夜へ知識を伝える」とは、夜になって今までの世界が暗やみに消えたように見えても、翌日には同じ状態が再び継続して見られるということに、驚異の念を覚えている表現です。それは、夜空の星に関しても同じことが言えます。

 

私たちの世界では、車が急に動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったり、会社が倒産したり、などということがあり、明日への不安を抱かざるを得ないことが多くあります。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。この継続性こそが、何よりの驚異ではないでしょうか。

たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い不思議な感動に包まれました。多くの人はそれを単なる自然現象と見るでしょうが、私たちの日常生活で、何の力も加えずに動き続けるものがどこにあるでしょう。

 

ところが、聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神の命令が今日から明日へと語り継がれているしるしです。このことを預言者エレミヤは、「(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる(エレミヤ書3320,21)と書き記しました。

つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです。そのことを人が、「それは地球の自転によって起こっているだけでしょう・・・」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。つまり、それは「自ら回転して」というより、創造主によって丁度良いスピードで「回転させられている」ということなのです。

かつて、いわゆる天動説を主張した人も、地動説を主張した人も、互いに矛盾しているようであっても、すべてが神の御手にあって起こっているという点では一致していました。現代の人々は、その原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

 

その上で、「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれないのに、その響きは全地を覆い、そのことばは世界の果てに及ぶ」というのは、何と不思議な表現でしょう。創造主の栄光を語る声、大空に見える主のみわざを告げる声は、人間の耳には聞こえませんが、その響きは全地を満たし、主の創造のみわざを喜び伝えることばは世界の果てに及んでいるというのです。

信仰とは、その声が聞こえるようになることです。決して幻聴の勧めではありません。空気がなくても伝わる声、創造のみわざを喜ぶ声が全地に満ちているというのです。

それにしても、当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み、夜の間、太陽はどこかに休んでいるように考えました。そればかりか、エジプトではこの太陽を、神としてあがめていました。ところが、その同じ時代に、この詩篇作者は、「太陽のため・・幕屋を」世界の果てに用意された方がいると表現したのです。

 

しかも、この詩篇作者は、「神が」ということばを敢えて隠し、また「太陽」ということばも一度しか用いずに、その走る姿を、花嫁を迎えに行く花婿にたとえて、そこに喜びの歌を思い浮かべさせます。当時の結婚式では、花婿が一生で一番華やかな格好をして喜び勇んで花嫁の家に迎えに行きました。

太陽もそのように喜び勇んで天を駆け巡っているというのです。  また、「その熱をこうむらないものはない」と、太陽の熱が、何にもさえぎられることなく、全世界に及んでいるという圧倒的な力に目が向けられています。

 

夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、敢えて「神が・・」という主語を省いて、ことばを超えた神秘を味わうようにと招いているのではないでしょうか。

世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。何の説明もつけずに、この世界の驚異を味わうときが必要ではないでしょうか。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならないことばを味わって見るべきでしょう。

 

ただ、日本人の場合、それを味わおうとしても別の価値観に縛られていて、神のことばにならないことばを聞くことの邪魔をしているかもしれません。たとえば、自然ということばがあります。

親鸞はこのことを、「自然(じねん)というは、自はおのずからという、行者のはからいにあらず、然とはしからしむということなり、行者のはからいにあらず」と言っています。つまり、自然とは人間の働きを超えた宇宙全体の法則の世界、因果的、必然的世界を指しています。そして、仏教の悟りとは、たとえば、次のようなことを指しています。

 しかし、聖書は、すべては自然ではなく、神の御わざであると語っています。天ではすでに天使の賛美があると告げています。冷たい因果律の現実から世界を見るのではなく、この目に見える世界を通して、神はご自身の創造主としての栄光を知らせようとしているのだと考えるのです。

 

最初に出てくる「神」ということばも混乱を与える可能性があります。これはヘブル語では神々とも訳される言葉で、必ずしも創造主を示唆しているとは言われません。しかし、日本語の神には聖書が記された世界におけるような超越的、人格的な存在ということ以上に、人々に畏敬の念、畏怖の念を起こさせるすべての存在を指し、それぞれの血縁や地縁ごとに異なった神々が祭られるのは極めて自然なことでした。ですから、天皇を神と呼ぶことは日本語の神の基準からすると極めて自然なことでした。

敢えて言うと、日本語の聖書が、英語のGodを神と言う言葉で訳したことが、明治以降の日本人にとんでもない混乱をもたらしたと言えましょう。少なくとも韓国では聖書の神の事は「ハナニム(最初の方)」と呼び、超越者、支配者という意味があります。韓国で聖書の教えが普及する一方で、日本では日本古来の信仰との混同が起きたのは、この訳語の問題も大きいのかもしれません。

ですから、この神ということばを創造主と読み替えるべきだという新しい聖書翻訳の話もあります。ただそれは、言語学的に問題がありますので、お勧めできない所がありますが、その気持ちも分からないではありません。

 

  最近、何を見、また何を聞いて来られたでしょうか?人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けていると、そこではあなたの存在価値が、「どんぐりのせいくらべ」のようなむなしい比較の中で計られていることに気づくことでしょう。私たちは、人の働き以前に、創造主の御手のわざを、ただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。

 

私は、自分の歩みを振り返りながら、「何であんな些細なことに心を苛立たせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、まわりの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったことがあったのかも知れないと思います。それは、この「こころ」の視野があまりにも狭くなっていたからです。そんなときは、人里離れたところに行って、創造主のみわざを見ながら、この詩篇の朗読するのが良いのではないでしょうか。あなたの心も、全宇宙を造られた創造主の最高傑作です。

  ドイツの哲学者インマヌエル・カントは、「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と言いました。しかし、私たちが夜空を見上げることは何と少なく、また自分のこころの内を見て失望することは何と多いことでしょう。そんな方のため、この詩は記されているのかもしれません。

 

 それにしても、人の「こころ」は不思議なものです。自分を含め、現代の教会は、神の最高傑作ともいえる人間の「こころ」をあまりにも自虐的に見すぎるような気がしました。「こころ」は、確かに、とんでもない罪深い傾向に流れるものでもあります。しかし、その罪を自覚することができるということ自体が、何とも不思議ではないでしょうか。しかも、美しいものに感動し、何とも言えないやさしいことを考えたりもします。

「こころ」は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。その不思議を感じながら、その「こころ」がみことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を改めて覚えさせられます。

 

それにしても、人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも、人々は、山や太陽や月や星に向って祈りをささげ続けてきました。それで神は、ご自身のことを、聖書を通して知らせてくださったのです。7-9節では、「主のみことば」が、六種類の表現で、「(ヤハウェ)・・」と描かれています。

 

第一は、「主(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」と記され、新約はそれを「律法」と訳していますが、多くの場合は聖書の始まりのモーセ五書を指すものでした。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。そして、その中心は、天地万物の創造主がこの私を「恋い慕ってくださった(申命記7:7)ということで、その語りかけには人のたましいを生き返らせる力があります。

 

第二は「主(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」を連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味すると思われます。それはどんな無知な人も理解できる神のみこころの中心で、まさに、無知な者を賢くする力があります。

 

第三は、「主(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」を意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主のみことば発想の転換を示し、私たちの心に感動を呼び起こすことができます。

 

第四は、「(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば自分の身を守るために家臣を危険に追いやります。しかし、主の命令には私利私欲の汚れから自由な「きよらかさ」があり、私たちの目を明るくすることができます。

 

第五は、「(ヤハウェ)への恐れ」で、私たちの生きる道を指しています。「(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言われるように、それこそ永遠のいのちの原点です。

 

第六は「(ヤハウェ)のさばき」です。人間の歴史の中で「さばき」は、しばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいもので賄賂によって曲げられました。しかし、主は、ご自身がやもめやみなしごの味方であると、繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、主のさばき」こそは「救い」だったのです。

 

金にまさり・・慕わしく、蜜よりも・・甘い(10)とは、これら六つの表現すべてにかかります。聖書こそ、私たちにとっての最高の宝、こころの最高の栄養、活力なのです。

そして、作者は、自分を「あなたのしもべ(奴隷)(11)と呼びつつ、奴隷が主人のことばに絶対服従することとの比較を描きます。人間の主人は、自分の益のために奴隷を用いますが、私たちの創造主は、これによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられます。

私は神学校で学び始め、涙ながらの感動的な証を聞いたとき、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない・・」と悩みました。そのときその神学校の創立者がやさしく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが・・」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいまし

た。

私のこころはどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができます。私たちは、「信仰」を人間的な意志の力かのようにとらえ、主のみことばにある創造の力を過少評価してはいないでしょうか。

 

「だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう」(12)とは、「無意識のうち」に犯してしまう神と人とに対する罪とを指していると思われます。人は基本的に、他人の過ちには敏感なのに、自分の「あやまち」に関しては驚くほど鈍感になり、「私は結構良い人間だ・・」と思い込みながら、人を振り回し、傷つけたりしています。作者は、そのような「数々のあやまち」を思いながら、「その隠されているものから 私をきよめてください」と祈ります。

 

そして、続けて、「このしもべの高慢を抑え 支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう(イザヤ14:3)と願って天から落ちた神の御使いのなれの果てです。また最初の人アダムは、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5)という誘惑に負けて、食べてはならないという言われた木の実を取って食べました。ですから、「すべての罪の始めは高慢である」と言われることはまさに真実でしょう。

 

それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに・・」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れた凧」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただくかぎりは、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。

ただ、そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。向上心が、人を見下し、神を忘れるような方向に向わないように、「高慢を抑え 支配させないでください」と祈る必要があるのではないでしょうか。

 

そして、私たちがこの根源的な「高慢」の罪から守られるなら、「それで私は完全にされ」るというのです。つまり、自分が、生まれながら、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられたいのちを真の意味で輝かせることができないことがほんとうに分かるなら、そのときこそ、神が願われる「完全」に達したことになるというのではないでしょうか。

 

また、そのとき同時に、「私は」、先の無意識の「あやまち」ばかりか、「大きなそむき」という意図的な罪からも「きよめられ」ると述べられます。「そむき」とは、「しもべ」としての生き方を捨てることを意味するからです。私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。

実は、心の奥底には、神のみこころにかなったものを望みたくはない自分がるのです。それゆえ、作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも「高慢」の問題であると断言します。つまり、これさえ神によって取り扱われるなら、人生は変えられるというのです。

 

そして最後に、「この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈られます。作者ダビデは、別の詩篇で、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれ、うちひしがれた心」(詩篇51:7私訳)と述べています。何か大きな働きを成し遂げることよりも、高慢を砕かれた「こころ」こそが、神の御前で喜ばれるものなのです。

 

私たちには、思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして・・」と思うことも多くあることでしょう。しかし、それらがなければ、この私は自分の罪も神の恵みも知ることができなかったように思います。

最後に作者は、「(ヤハウェ)」という御名を七度目に呼びながら、その方こそが、「私」がより頼むべき「」、人生の基盤、また、「私」をこの罪と不条理に満ちた世界から救い出してくださる「贖い主」であると告白します。

 

ところでイザヤ30章15節には、「神である主(主なるヤハウエ)、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る』

主は、地上の権力者ではなく、彼らの主、イスラエルを選んでおられる聖なる方に「立ち返る」ことを命じます。それは、回心を迫る招きであり、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。

 

静まる」とは、「休む、憩う」(28:12)とも訳せることばで、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを救ってくださるというのです。 

続けて、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、地上のどんな横暴な者にも立ち向かえるというのです。ところが、イスラエルの民はそれを望まず、絶望的な状況から逃亡することばかりを考えていました。

律法の書に、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)と約束されている一方で、主のさばきは「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」(申命32:30)と記されていました。

 

 なお、「立ち返って静かに・・・」とは、決して現実逃避ではありません。ヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「_主_の前に広げ」(イザヤ37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「_主_の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(同37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

 

 私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

 

ヨーゼフ・ハイドンによるオラトリオ「天地創造」の第一部の終わりの合唱ではこの詩篇の1,2節が高らかに歌われていますが(「讃美歌」74番、「聖歌」116番参照)、古来、多くの人々がこの詩に慰めれ、この詩を歌にしてきました。自意識過剰になる自分を分析するまえに、ただこの詩を、空を見上げつつ、歩きながら、また野に臥せりながら唱えてみてはいかがでしょう。

また、同時に、自分のこころにかつて響いてきたみことばを、ひとつでも、二つでも、ただ心の中で繰り返し、味わってみてはいかがでしょう。神は御手のわざと御口のことばによって、あなたに今も語り続けておられます。

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