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2014年2月23日 (日)

Ⅱテサロニケ2:9-3:18 「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」

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 今も昔も、「この世の終わりが近づいた」という教えを信じると、目の前の仕事がバカらしくなるのでは、という誤解があります。それに対しルターは、「たとい明日、世界が消えると分かっていたとしても、それでも今日、私はリンゴの木を植えよう」と言ったと伝えられています(出典不明)

それは、キリストの復活の中に生きる人にとっては、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている(Ⅰコロ15:58)という力強い証しのことばと言えましょう。

 

確かにテサロニケ教会には、「主の日」への期待が、怠惰を正当化するという誤解を生むことがありましたが、真の信仰者にとっては、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べる」という勤労の励ましにつながります。

なぜなら、「主の日」とは、目に見える世界が「過ぎ去って」、「正義の住む新しい天と新しい地」が実現する時だからです。この地には、誠実さが報われないという不条理が見えます。しかし、誠実さが正当に評価される世界が来るのです。

 

1.「不法の人の到来(パルーシア、現れ)」に目を向ける

29節で「不法の人の到来は・・」とありますが、「到来」の原語はパルーシアで、このことばはほとんどの場合、「私たちの主イエス・キリストが再び来られる(2:1)という再臨を現す言葉として用いられます。

ただ、「パルーシア」は「再臨」以前に、「王としての現れ」を意味します。キリストの再臨は、キリストが全世界の王であるという現実を明らかにするときなので、「パルーシア」が「再臨」と意訳されているに過ぎません。

つまり、8節では不法の人を滅ぼす「主の来臨(パルーシア)」が、そして9節ではそれに先立つ「不法の人の到来(パルーシア)」が描かれているのです。

 

今も昔も、「主の日はいつ来るか」と論じたくなりますが、パウロはそれよりも、「不法の人の到来(現れ)」の方に目を向けるようにと記したのです。なぜなら、それは「サタンの働き(エネルギー)によるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴う」からだというのです(9)

この「偽り」とは「不思議」の後に記される形容詞に過ぎません。ESV訳では、「with all power and false signs and wonders」(あらゆる力と偽りのしるしと不思議)と訳されています。

つまり、サタンは、「あらゆる力」を用いて「偽り」を信じさせようとするというのです。イエスも主の日が近づくときのことを、「にせキリスト、にせ預言者が現れて、できれば選民を惑わそうとしてしるしや不思議なことをして見せます」(マルコ13:22)と言っておられます。つまり、サタンもあなたの願いを聞き入れて、あなたを金持ちにしたり、あなたの病気を癒したり、あなたを驚くべき成功へと導くことができるということを忘れてはなりません。

私たちは、目に見える「力、しるし、不思議」よりも、それがキリストからか、サタンからのものかを見分ける必要があります。

 

そして、ここでは続けて、「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです(10)と記されます。つまり、悪の欺きが力を発揮するのは「滅びる人たち」であり、彼らが滅びる理由は、「真理への愛を受け入れなかった」ということにあるというのです。

真理への愛」とは「イエスへの愛」と言い換えることもできましょう。生まれながらの人は、権力や富自体を偶像のようにして求めようとしがちです。しかし、キリストは私たちを救うために惨めな十字架の死を忍んでくださいました。

私たちも、この世的な成功を求めるか、神の愛が世界を満たすことを求めるか、が問われています。

 

11節では何と、「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」と記されます。これは厳密には、「惑いへの働き(エネルギー)を送る」と記されています。しかも、その目的は、「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため(12)と描かれます。

つまり、神ご自身が人を惑わすという以前に、進んで悪を喜ぼうとしている人々の罪深さを明らかにして、神のさばきの公平さが世界に示されるということなのです。

ヤコブの手紙でも、「神は・・ご自分でだれをも誘惑されることはありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(1:13,14)と記されています。

たとえば、サムエル記第一1614節以降には、「(ヤハウェ)からの、わざわいの(悪い)霊が彼(サウル)をおびえさせた」様子が描かれていますが、それは既に、サウルが進んで主のことばを退けたことに対する主の応答でした。

ただ、同時に、ここでは悪霊も神の支配下にあることを明確にして、私たちは悪霊ではなく、主ご自身だけを恐れていたらよいということを現そうとしています。

つまり、神ご自身が人を惑わしているかのように描かれているのは、主があらゆる悪の力をも支配していることを教えるためであり、私たちが「主(ヤハウェ)のみを恐れて生きる」ことができるようになるためなのです。

 

なお、私たちは何度も誘惑に負けることがあります。そんなときふと、「神は、私に『惑いへの働き(エネルギー)』を送って、地獄に落とそうとしているのではないか・・・」と不安に思う人がいるかもしれません。しかし、そのような罪の自覚を持つ人は次のことばを聞くべきでしょう。

神は、あなたがたを救いのみわざの初穂としてお選びになられました。それは御霊による聖め(聖化)と、真理への信仰を通してです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召してくださいました。それは、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださるためです(2:13,14私訳)

私たちは自分の意志以前に、神によって選ばれ、聖霊のみわざによって聖められ、真理を信じ、キリストの栄光にあずかるようにと、既に召されているのです。

私たちが自分の罪深さを自覚して、神にすがっている限り、私たちのうちに聖霊の働きがあることは明らかです。なぜなら、アダムの最初の罪にあるように、罪の根本とは、自分の罪を認めずに神の御前から逃亡してしまうことだからです。

イエスは、取税人が自分の胸をたたいて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈ったとき、「この人が、義と認められた」と言われました(ルカ18:13,14)。誰もが認める正しい人よりも、自分の罪深さを知って神にすがる者を、神は守ってくださるのです。

 

2.「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」

15節では「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」と記されていますが、これは、テサロニケの人々が、「主の日」に関しての惑わしの教えに翻弄されそうになっていることに対し、必要な教えはすでに彼らに届けられているということを明らかにするためです。

私たちの場合も、すでに聖書66巻を通して、神の救いのご計画に関してのすべての必要な知識が与えられているのです。

 

  なお、1617節の祈りには三位一体の神秘が込められています。原文では「ご自身が」ということばが冒頭に来て、「私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神」と説明され、その方が「私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった」と記されています。これは不法の人に現れに対するキリストの現れ(パルーシア)の圧倒的権威を強調するためであり、父と御子が一体となって私たちを愛してくださったことを示すものです。

そして、祈りの内容が、「あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(17)と記されますが、この主語は冒頭の「ご自身が」です。そして、このように私たちの心の中に働いてくださる神こそ「聖霊」ご自身です。

パウロはサタンの働きの大きさを明らかに見せながら、それにまさって、三位一体の神が、私たちを取り囲み、私たちの信仰を導き、完成させてくださるという希望を示しています。

 

3章の始まりでは「終わりに」ということばとともにパウロからの祈りの要請が記されます。彼の何よりの願いは、「主のみことばが・・早く広まり・・・あがめられる」ことでした。それこそ私たちの祈りでもあるべきです。

その上で、「私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように(3:2)と祈るように願いますが、それは自分の身の安全という以前に、主のみことばを広める働きを続けることができるためということです。私たちも、人の安全や癒しを祈りますが、その際、何よりも、その人が大切にしている使命を果たすことができるようにと祈るべきではないでしょうか。

そして、彼は「ひねくれた悪人ども」を意識しながら、「すべての人が信仰を持っているのではないからです」と、「信仰(真実)」ということばを最後に用いながらすぐに「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」と述べます。

2節の終わりは「信仰」で、3節もその形容詞形の「真実な」から始まります。つまりここでは、人間の不真実と神の真実が対照的に記されているのです。

たとえば私は、迫害に会う時に自分の信仰を全うできる自信は全くありませんが、神が私を「強くし、悪い者から守ってくださる」ということは信じることができます。自分の信仰を信じるのではなく、神の真実に信頼することこそ信仰の核心です。

 

その上でパウロは、「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています(4)という信頼を表現しつつ、彼らの信仰の成長を願って、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように(5)と祈ります。

これこそ私たちの成長の目標です。「神の愛」とは、神からの愛であるとともに、そこから生まれる神への愛をも含む相互的な概念です。「キリストの忍耐」とは、私たちがキリストの苦しみにあずかるように召されているからです。

私たちの成長の目標とは、誰からも尊敬される人になることではなく、神との愛の交わりが深められ、キリストが敢えて苦しみの道へと進まれたように、キリストとともに苦しみ、そこで神をあがめることなのです。

私たちの祈りはしばしば、あまりにもこの世的な成功志向になりすぎて、キリストに似た者へと変えられるという視点を欠いてはいないでしょうか。

 

3.「私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すため」

パウロは6節で厳かに、「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます」と言いつつ、「締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさいと驚くべき命令を与えました。

彼は先の手紙で「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです(4:9)と書いていたほどに彼らの兄弟愛の豊かさを称賛していましたが、ここではパウロの教えに従わない「すべての兄弟から離れなさい」と、兄弟の縁を切るかのようなことを勧めているからです。

それは、22節にあったように、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」する人がいたからです。彼らは働かないことを正当化していました。

 

ギリシャには特に、広場で哲学を論じることが高級な人間のしるしと見るような文化がありましたが、クリスチャンの中にも、再臨の教えの誤解と相まって、そのように労働を軽蔑する風潮が広がったのだと思われます。

しかも、初代教会の群れでは食事を共にする愛餐会がとっても大切にされていました。ですから、クリスチャンの仲間入りした者は、飢え死にする心配が無くなりました。彼らは働かなくても愛餐会で豊かな食事にありつくことができました。

それに対しパウロは、そのような怠惰な者たちを、食事の交わりから締め出すように命じたのです。

 

しかもパウロはそのために自分たちの歩み方を思い起こさせました。

そのことが、「あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした」(3:7-9)と描かれています。

 

パウロはかつてパリサイ人として訓練を受けていました。彼らは祭司やレビ人のように神殿に仕えることから生活費を得ることなく、はるかに熱心にみことばを学んでいた真の信徒伝道者でした。

パウロの場合は、「天幕作り」をしながら生活費を稼ぎ、聖書の学びと伝道に励んでいました。その姿勢は、回心前も回心後も一貫していました。とくにギリシャでは、巡回哲学者のように、人々の興味をそそるような哲学論議をしながら、人々から聴講料を取るような人々が多くいました。

パウロはギリシャの教会がそのような巡回哲学者によって折角の福音が歪められることを意識したということもあり、「身を持って・・模範を示した」と語っているのだと思われます。

 

しかも、テサロニケ教会などは、三週間の伝道で生まれました。そんな若い教会に経済的な負担をかけるわけにはいきません。そればかりかパウロはユダヤ人クリスチャンからも誤解を受けながら異邦人伝道を展開していましたから、支援者は最初はいなかったと思われます。ですから、当時のパウロが天幕作りをしながら伝道するというのは必然的なことでもありました。

このときの彼は、同胞に頼ることなく、天幕作りで生活費を稼ぎつつ異邦人伝道を展開し、同時に、労働を軽蔑するギリシャの悪習を変えるという二つの事を意識していたのだと思われます。

 

  後にパウロはギリシャの諸教会に対して大胆な献金のアピールをします。それはギリシャ人クリスチャンに、飢饉で苦しむエルサレムの教会のユダヤ人を経済的に支援させることによって、ギリシャ人とユダヤ人の間に真の一致を生み出すためでした。パウロはそのようなことも視野に入れながら、自分の伝道の働きに関しては彼らの支援を受けまいと心に決めていたのです。

なお彼がここで、「権利がなかったからではなく・・・模範を示すためであった」と記しているのは興味深いことです。彼は後に、弟子のテモテに対する手紙では、「みことばと教えのためにほねをおっている長老」に関して、「働き手が報酬を受けることは当然である」というイエスご自身の言葉を引用しながら、教会の支援を受けることを正当化しています(Ⅰテモテ5:17,18)

しばしば、パウロに習って自給伝道を目指す人が英語ではテント・メーカーと呼ばれますが、それを拡大解釈して現代に適用することには注意が必要です。パウロには「模範を示す」という必要があったのです。働き過ぎの日本にそのような必要はありません。

 

4.そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい

  パウロはその上で後の世に有名になる言葉を記します。それは、「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」(10)というものです。これはしばしば、「働かざる者食うべからず」ということわざとして引用されますが、厳密には、「働くことを望まない者は、食べるな」と記されています。働きたくても働けない人への配慮を忘れない優しさを込めた勧めです。

しかし、このことばは後に独り歩きして、旧ソ連の憲法では、「労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である」と記されていたと言われます。

しかし、そこには恐ろしい落とし穴があります。私は共産主義下の東ベルリンを旅行した時、ガイドさんが、「私たちの国には失業がありません」と言っていたのに妙に感心しました。西ドイツに戻った時、ソ連からの亡命者にそれを言いました。彼女はたちどころに、「それは、職業選択の自由がないということなのよ・・・自分の賜物や意思に関係なく、命じられた仕事をしなければ処罰を受けるという、恐ろしいシステムなのよ」と言ってくれました。

しかし、聖書の本来の意図は、人間に、自分の意に反した労働の義務を課するものではありません。文脈から明らかなように、働くことを軽蔑する人に対する戒めのことばに過ぎないのです。

 

  11節は先の「働きたくない者」のことをさらに詳しく述べたもので、まずパウロは、「ところが、あなたがたの中には、・・・締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています」と述べて、それをさらに、「何も仕事をせず、おせっかいばかり」することと説明します。

「締まりのない」の原文は、「秩序を欠いた」とか、「気ままな(Ⅰテサ5:14)とも訳される言葉ですが、ここでは特に、「仕事をしない」ことと、「おせっかい」で説明されます。

「おせっかい」は英語でbusybodyと訳されるように、ある意味で忙しく動き回っている人なのです。ただそれは、他人に不必要な干渉をしながら、ゴシップを言いふらすような生き方です。彼らは、「私はあなたのためを思って、言ってあげているのよ」などと恩着せがましい言い方をします。

それぞれの人には、自分が守るべき責任領域(バウンダリー)があります。テサロニケにいた問題児は、労働を軽蔑しながら、分かりもせずに「主の日」を論じるような人だったと思われます。誤った霊的な知識で怠惰を正当化しながら、その怠惰な生き方に他の人を巻き込んでいました

 

そのような人々に対し、パウロはキリストの権威を用いながら、厳かに、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と極めて簡潔に命じます(12)。これこそ、「締りのない、おせっかいやき」に必要なことばです。

その上で、13節では「しかしあなたがたは、兄弟たちよ」と対照的に優しく呼びかけながら、「たゆむことなく善を行いなさい」と命じました。これは厳密には、「善を行なうことに疲れ果ててはなりません」と記されています。

私たちもしばしば、他の人の気ままな生き方を見ながら、「私ばっかりが真面目にやってることが、バカバカしくなってきた・・・」と思うことがあります。しかし、私たちはいつでもどこでも、主の眼差しを意識して、誠実を尽くすべきなのです。

 

そればかりか1415節で、「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい」と記されています。

これは、怠惰な人と縁を切るというのではなく、きちんと警告しながら、それでも仕事に身を入れないようであれば、愛餐会の交わりには決して入れないという意味ではないでしょうか。

 

その人は、「腹が減った。そんなに冷たくせずに、何か食べさせてよ・・・」とすがって来るかもしれませんが、それでもその人に向かって、「あなたは働かないことを自分で選んだのですから、その結果として飢えることは、あなたの問題です」と、突き放すということです。

依存症の人には、このような責任と結果を明確した対応が必要です。甘い顔をしてむやみに助け続けることは、かえってその人の依存症を加速させることになるからです。

 

そして、パウロの最後の挨拶が、「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように」と祈っているのは興味深いことです。彼の厳しい命令は、差し当たり、争いを産む可能性があります。だからこそ「平和の主」からの「平和」を求めているのです。

ただし、真の平和は、衝突を回避して生まれるものではありません。見せかけの平和を望むことは、交わり全体を破壊に導くことになるからです。真の平和を求めるからこそ、争いを避けてはならないときがあります。

伝道者の書には、「天の下のすべての営みには時がある」と記されながら「崩すのに時があり、建てるのに時がある・・抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある」と対照的な時を描きながら、最後に「戦うのに時があり、平和になるのに時がある」と締めくくっています(3:1-8)

私たちも、「平和の主」に祈り求めながら、誤った教えに惑わされた人と「戦う」必要な時もあるのです。

 

讃美歌313番では、「この世の勤めいと忙しく、人の声のみ繁き時に、内なる宮に逃れ行きて、我は聴くなり主の御声を・・・主よ、騒がしき世の巷に、我を忘れて勤しむ間も、小さき御声を聴き分け得る静けき心 与えたまえ」と歌われます。

私たちは忙しさの中で、目に見える結果ばかりに心を奪われがちです。しかし、サタンも仕事を成功させることはできます。私たちのこの地での仕事は、すべて神の愛の現れであり、キリストの忍耐を学ぶプロセスでもあります

私たちの信仰とは、「主は真実です(Ⅱテサ3:3)との告白に尽きますが、忙しさの中でそれを忘れ、見当違いの方向に自分のたましいを駆り立てはいないでしょうか。静まりつつ、自分の仕事に励みたいものです。

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2014年2月 9日 (日)

詩篇62 「ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ」

 多くの信仰者にとっての落とし穴とは、主ご自身を仰ぎ見ることよりも、自分の「生き方」に目が向ってしまうことではないでしょうか。また、キリストご自身以前に、他の信仰者の成功例に習いたいという誘惑もあります。多くの人々から尊敬されている神学舎で、カウンセラーでもあるラリー・クラブは自分の失敗談を次のように語っていました。

 

「私は神学校で、とても献身的な青年に出会い、彼の信仰の歩みがどんなものだったかを聞いてみました。彼は高校時代に放蕩三昧の生活に堕落し、敬虔な両親を傷つけていました。ところがある日のこと、いつものように深夜に帰宅し、そっと自分の部屋に入ろうとしたところ、親の寝室のただならぬ雰囲気に気づきました。母は涙を流しながら自分のために必死に祈っていたのです。彼はその様子を見て、瞬時に自分の愚かさに気づき、神に立ち返ったというのです。

私はそれを聞いて、深く心を動かされ、その模範に習おうとしました。私もその頃、息子のことで悩んでいたからです。私も、息子の帰宅が遅れたときを見計らって、寝室の戸を少し開けながら、彼に聞こえるように大声を出して、「私の息子を救ってください!」と叫びつつ祈ってみました。しかし、何も起きはしませんでした。

私は自分の愚かさを恥じました。その母親は明日の見通しがないまま、ただ必死に神に向かって心を注ぎだしていました。しかし、私はその模範に習おうとしながら、「こうしたら、このような結果が生まれるはず・・・」という方法に身を委ねていただけだったのです。

 

今回は、「沈黙の祈り」という、昔大切にされ、今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、私たちは、「神に向かって」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。

振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道も、また限りないほどの意外な恵みも、数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?

 

1. 「ただ神に向かって・・沈黙している」

ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」(1節)とダビデは最初に告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、何よりも、人間的な打算を超えて神に期待し続けたことにありました。しかも、彼は人間的な意味での成功と思えることも、すべてが神のみわざであることを認めていました。

この「沈黙」は、「黙って・・待ち望む」と意訳されることもあります(新改訳)。それは、「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。

 

その心の状態は、「まことに私は、母親の前にいる乳離れした子のように、このたましいを和らげ、静めました。このたましいは乳離れした子のように私の前におります」(詩篇131:2私訳)と告白できる状態です。「和らげる」とは、イエスがガリラヤ湖の嵐を鎮め、大なぎにしたような状態です(マルコ4:39)。また、「静める」とは「安んじる」とも訳せる言葉で、目の前に人生の嵐が吹き荒れ、「神よ、どうして!」と叫びたくなるような状況下でも、天地万物の創造主がともにいてくださるという霊的事実を信じて、待っていられるような状態です。

母親に必要を満たされ続けて、時間をかけて乳離れをした幼児は、多少お腹を空かせても、泣いて叫ばなくても母親が自分を守ってくれるということを感じられるようになります。そして、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられることがあります。それまでの母親の親身な愛情が、子供の心を安心させてきたのです。ですから神の御前に沈黙できることは、神への最高の愛の表現と言えましょう。それなのに私たちの場合は、神の前でどれだけ沈黙できているでしょうか。

 

預言者イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである(57:20)と言いました。これは私たちの心の状態に似てはいないでしょうか。

口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きてはいないでしょうか。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。

 

ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さへ感じました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。

しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、私を動かし続けたのです。その結果、さして重要ではないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。

しかし、幸いにも、徐々に沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは一時的な混乱を通り越しさえするなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張ることができるという期待が実感できるようになってきたからです。そして、そこから、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれるようになるという希望が見えて来ました。

 

その際、「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主(ヤーウェ)を置く(16:10)のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」は、この世の人や物の背後におられる「この方から・・来る」からです。

私たちはしばしば、解決の「方法」にばかり目が向って、神がどのような方かを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議に感じるのは、神の奇跡は毎回ユニークで、同じことの繰り返しがないということです。しかも、ひとつのひとつの不思議な神のみわざには、驚くほど多くの人の生き方自体を変える力がありました。

神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみてはいかがでしょう。二度と体験したくないと思えるような悲劇さえ、より大きな救いの喜びの物語の一部とされます。

実際、ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に今も消えることのない希望を与え続けています。

 

2. 「神から、私の望み が来るからだ」

  ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない」(2節)と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。

なお、神が「私の岩・・砦の塔」と呼ばれるのは、敵の手の届かない高い所に、神が私を守っておられると信頼しているからです。

しかし、人々の目には、その土台が、「傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように(3)しか見えないというのです。ダビデもサウル王のもとで最初は輝かしい栄誉を受けていましたが、サウルから追われる立場になったとたんに、自分の同族であるユダの人々からさえも裏切られました。

 

彼らは自分の身の安全ばかりを考えている偽善者で、「人の尊厳を貶めることばかりを計り、偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている(4)ような人たちでした。

私たちもダビデと同じように神に選ばれた者としての「尊厳」を与えられています。しかし、そのことを喜んで証ししようとすると、それを見る周りの人々は、かえってねたみに駆られ、私たちを「おとしめることばかりを計る」というようなことが現実に起きてはいないでしょうか。

 

  それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました(5)。その際、1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。

 

たましいはいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって・・沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切だと思われます。

その際、分散した心を神に向ける鍵の言葉を持っていると助けになると言われます。それは、「主よ!」のひとことでも良いですし、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも結構です。自分にあったパターンがあることでしょう。

 

そしてここでは、1節にあった「私の救い」ということばの代わりに「私の望み(5)が、「この方から・・来る」と告白されます。それは、この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。

マリヤは御使いから受胎告知を受けたとき、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように(ルカ1:38)と祈りました。それは、「神の望み」を「私の望み」とすることでした。

 

私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。そして、しばしば、この世的な成功体験は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。

 

そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。ところが、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになるように思われます。

 

なお、ダビデは徐々に力を抜いて、「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は揺るがされない(6)と、受動態で希望を告白できるようになってきました。これは2節の繰り返しのようですが、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。

彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのではないでしょうか。

そのことを受けて、「私の救いと私の栄光」は、自分の努力以前に、すべて「神のもとにある」と告白しています(7節)。そして「私の力の岩と避け所」は、自分の信仰以前に、「神のうちにある」と安心して告白しています。

 

3. 「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ

  ダビデは、そのような体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ(8)と勧めます。しかも、その上で、「あなたがたの心を、御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めています。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である神に、正直に打ち明けることです。

 

サムエルの母のハンナは不妊の女と蔑まれていたときに必死に主(ヤハウェ)にすがって祈っていました。その様子を見た祭司エリは彼女が酔っているように見えたので、「いつまで酔っているのか」と叱責しましたが、それに対しハンナは、「いいえ祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主(ヤハウェ)の前に、私の心を注ぎ出していたのです…私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」と答えました(Ⅰサムエル1:14-16)。その結果として、サムエルが誕生しました。

つまり、「心を注ぎ出す」とは、そのように自分の内側にある悩みや憂いやいらだちを隠すことなく正直に主に訴えることなのです。

 

神への沈黙は、感情に蓋をすることではありません。実際、「注ぎ出す」とは、「空にする」とも訳される言葉で、沈黙とは矛盾することではありません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です・・・」と言いつつ、その気持ちを主にささげることができます。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着くものです。

それは、目の前のハエを追い払おうと必死になるならかえってハエは暴れますが、がまんして無視し続けるなら、ハエはやがて静かに立ち去るようなものです。

 

  まお、910節は翻訳が困難な表現です。ただ、どのような翻訳においても、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは共通しています。

神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事の場を備えることによって、私たちにパンを与えてくださいます。しかし、そのような霊的現実を忘れ、眼に見える現実ばかりに心が奪われてしまい、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような、人間の奴隷になってしまう可能性があります。

まことに(ただ)、人間の子らは息のようなもの」とあるように、いざとなったら頼りにならないという面があることを忘れてはなりません。ほとんどの人は所詮、自分の身を守ることに夢中です。自分に被害が及びそうになると、良い人と思われる人でも、「人の子らは欺くもの」とあるように、「欺く」ことがあります。

しかも、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは「息よりも軽い」存在に過ぎません。

 

そして、「暴力に信頼するな(10)とは、8節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。10節は「信頼するな」8節は「信頼せよ」ということばからそれぞれ始まり、対比が明らかになっています。

人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちですから、「力に」頼ることで短期的には効果的が生まれる場合が多いことでしょう。しかし、そこに落とし穴があります。

それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。なぜなら、富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ、目に見えない神を忘れさせるからです。

 

 「力は、神のもの(11)とあるように、私たちは、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、神を自分の主人という意味を込めて、「主(「アドナイ」主人)」と呼びかけます。

その際、「慈愛(ヘセッド)も、あなたのもの(12)と、主がご自身の契約を守り通してくださるという真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント10:13)ということを腹の底に据えることです。

そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します。

確かに、人はみな、誤解を受け非難されることで傷つきます。しかし、肉なる人間は誰も、あなたを完全に理解し、正しく評価することはできないのではないでしょうか。

それなのに私たちは、「この人にだけは分ってもらいたい・・・」などと忙しく動き回ったあげく、主の御前に静まるという時間を亡くしてしまう場合が多いように思われます。

私自身、人から誤解されたくないという思いに駆り立てられて、無駄な時間を過ごしたばかりか、問題を広げてしまったことすらあったことを反省しています。この世の不条理は常に目の前から消えないことを受け止め、この世の尺度を越えた神の視点にすがるべきなのです。

 

私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「空」にすることです。黙想の第一の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。

光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。こころを透明に、空にすることで、「キリストの心(Ⅰコリント2:16)が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。

そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表わされます。ですから、黙想の「実」が、すぐに見えないことに失望する必要はありません。

 

  なお、この詩篇では、「アッハ」という副詞が六つの節の冒頭で繰り返されています。それは1節の「ただ」、2節の「だけ」、4節の「ばかり」、5節の「ただ」、6節の「だけ」、9節の「まことに(ただ)」です。

その他の節のはじまりも「ア」という発音で始まります。それは、3節の「いつまで」、7節の「のもとに」、10節の「するな」、11節の「一度」ということばです。

例外は、8節の冒頭の「ビットゥフー」(信頼せよ)という書き出しと、12節の「ウレハー」(あなたのもの)という書きだしです。

 

ですからここでは、「ただ主に」「この方だけ」という主への信頼を訴えた言葉と、人間のわざの空しさが同じ音のはじまりで対比されながら、8節の「信頼せよ、この方に」という呼びかけが心に残るように記されています。そして最後に「あなたのものです。主よ」という呼びかけで終わります。

私たちはあまりにも目の前の出来事や人々の反応に心が揺らされます。しかし、この詩篇では、自分の心を徹底的に主に向けるということが強調されています。

 

ある人が、「私たちは富を失っても、何も失わない。健康を失うと、何かを失う。しかし、品格を失うと、全てを失う」と言っていました。ですから、品格を自分で損なうような生き方をしている人に腹を立てる必要はありません。彼らはすでに自分を滅びに向けているだけです。私たちはそのような人をあわれむとともに、力に対して力で対抗することで彼らと同じ生き方に流されないように自分のたましいを見張る必要があります。

 

私たちのたましいは、主の息を吹きいれられて生きた者となりました。ですから、私たちの心もたましいも、主に向けられているときに、本当の意味で自分らしく輝くことができるのです。

私たちは自分の心を、いつでもどこでも、主のご臨在の前に開いている必要があります。沈黙の祈りは、自分の中に生まれる様々な思いを主に委ねながら、自分のこころとたましいを主に開き、主の前に心を透明にして行く最高の祈りのときなのです。 

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2014年2月 2日 (日)

ゼパニア2章4節~3章20節 「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ・・」

                                                 201422

マザー・テレサが書いた「からっぽ」という詩があります。

 

神はいっぱいのものを満たすことはできません。

神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。

本当の貧しさを、神は 満たすことができるのです。

 

イエスの呼びかけに 「はい」と答えることは、空っぽであること、あるいは空っぽになることの 始まりです

与えるためにどれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです。

そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、

私たちの中で イエスがご自分の人生を生きられるようになるのです。

 

今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。

そうさせてあげてください。 

 

あなたがどう感じるかではなく、あなたの中で イエスがどう感じているかが 問題なのです。

自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。

あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。」

 

子供の成長は「空っぽ」から始まります。ですから、あらゆる教育や訓練には意味があります。ただ、自分が蓄えた知識や技術を絶対化してそれに囚われ、主の呼びかけに答えられなくなることが大人の悲劇と言えましょう。

神によって与えられたものを、必要ならいつでも捨てられることが大切です。それこそが、知識や技術を身につけながら、同時に「空っぽ」であり続けるという逆説ではないでしょうか。

しかも、しばしば起きるのは、目の前の働きのために今までのキャリアを捨てても、忘れた頃に、主は再びそれを生かし用いてくださるということです。

主は、あなたの様々な意味での成長を望みながら、同時に、主の御前で「空っぽ」であり続けることを喜んでおられます。

 

1.「海辺よ。おまえは牧場となり・・ユダの家の残りの者の所有となる」

  ゼパニア1章では「主の激しい怒りの日」のことが記され、最後に、主の「ねたみの火で、全土は食い尽くされる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす(18節下線私訳)と書かれ、その上で2章では、「主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに」、主のみもとに立ち返ることが勧められ、「主(ヤハウェ)を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和(謙遜)を尋ね求めよ。そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」(3)と記されていました。

そして、4節からは主の「ねたみの火」でイスラエルの周辺の国々が滅ぼし尽くされることが描かれています。原文では4節の始まりは、「なぜなら」という接続詞が記されています。主の怒りに日に、主ご自身によって「かくまわれ」なければ、とんでもない破滅が待っているということを記すためと言えましょう。

 

  24-7節にはペレシテ人へのさばきが宣告されます。まず四つの町の滅亡が描かれますが、「ガザ」は現在のイスラエルの南西部のパレスチナ人居住区で、そこから北に「アシュケロン」、「アシュドテ」と続き、その内陸に「エクロン」がありました。これに加え、「ガテ」を含めた五つの町が、ペリシテの地の中心的な都市国家でしたが、ガテはこのとき既に廃墟になっており、他の四つの町も同じようにされるというのです。

そして改めて、「ああ。海辺に住む者たち。ケレテ人の国」(5)と呼ばれますが、「ケレテ」とはペリシテ人の別名で、「クレテ島」とつながる名だと思われます。それは彼らも最初からこの地に住んでいたわけではないことを示す呼び名だと思われます。

 

そして、イスラエル国家滅亡後の希望が、「海辺よ。おまえは牧場となり・・ユダの家の残りの者の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い(6)と描かれます。これは主ご自身が終わりの時代に、「ユダの家の残りの者」のために国を回復し、そこを豊かな牧草地にしてくださるという約束です。

この「残りの者」とは、イスラエルの救いを理解するための鍵のことばです。主は、「ねたみの火」によって、不敬虔な民にさばきを下されますが、それは彼らを火によって精錬するという意味もあります。

それは、「たといあなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る」(イザヤ1022、ローマ9:27で引用)と記されている通りに、神の民の一部のみが、主のさばきを通して、真の悔い改めに導かれ、主の祝福を受け継ぐという意味です。

主はご自身の契約に従って、「残りの者」に祝福をもたらしてくださいます(2:9,3:13)。そして7節の三番目の文章では原文で、「なぜなら」という接続詞と共に、「彼らの神、主(ヤハウェ)が、彼らを訪れ、彼らの繁栄を元どおりにするからだ」と歌われます。

 

なお、現在のイスラエルの領域をパレスチナと呼ぶようになったのは紀元135年にローマ帝国がユダヤの最後の独立運動バル・コクバの乱を鎮圧した後に、この地の名をユダヤ属州からその先住民族ペリシテの名を用いてシリヤ・パレスチナと呼ぶようになったのがきっかけと言われています。

主の導きのもとにイスラエルの民は、この地からペリシテ人を海辺の地にまで追いやりましたが、彼らはなおもイスラエルの神、主(ヤハウェ)に逆らい続け、主のさばきを受けて歴史から消えました。

なお現在のパレスチナ人と昔のペリシテ人との間には何のつながりもありません。土地の支配の預言は、新約の時代には全世界に広がっており、神の目に真のイスラエルの民とされたユダヤ人を含むすべてのキリスト者が、この預言も含め、世界を平和のうちに治めるようになると解釈できます。

 

2.「これが、安らかに過ごし、心の中で、『私だけは特別だ』と言ったあのおごった町なのか」

8-11節にはモアブとアモンに対するさばきが記されます。彼らはアブラハムの甥のロトがソドムから逃れ、二人の娘たちとともに孤立した中から生まれた民で、ヨルダン川の東側を支配し、繰り返しイスラエルに攻撃を仕掛けていました。

そこではまず主が、「わたしはモアブのそしりと、アモン人のののしりを聞いた・・」と彼らの罪が指摘されます。その上で9節冒頭の原文では「それゆえ、わたしは生きているので」と「わたし」という代名詞が敢えて強調されながら、「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」と続きます。

そして彼らの対するさばきが、その出生を皮肉るように、「モアブは必ずソドムのようになり、アモン人はゴモラのようになり・・」と宣告されます。

 

そして、ここでもイスラエルの「残りの者」への慰めが、「わたしの民の残りの者が・・わたしの国民の生き残りの者が、そこを受け継ぐ(9)と約束されます。「残りの者」も「生き残りの者」も、基本的に同じことを言い表しています。

現代の異邦人クリスチャンは、生き残りの神の民に「つぎ合わされた(ローマ11:19)存在です。イスラエルの民は神にとって大切な「台木(11:21)です。決して彼らに対して高ぶってはなりません。

 

1011節は預言者ゼパニア自身の解説で、モアブとアモンのさばきの理由が「高慢」と「高ぶり」にあると描かれながら、さばきが全地に及ぶ様子が、「主(ヤハウェ)は彼らを脅かし、地のすべての神々を消し去る」と記されます。

 

同時に「そのとき」ということばと共に、そこに実現する救いが、「人々はみな、自分のいる所で主を礼拝し、国々のすべての島々も主を礼拝する」と描かれます(11)。この預言がキリストによって実現しました。今、世界中で、イスラエル神、主(ヤハウェ)が礼拝されています。

同時にイザヤ書の最後では、主が創造される「新しい天と新しい地」において実現することが、全世界の民が主の聖なる山エルサレムに集められて、「すべての人が、わたしの前に礼拝に来ると約束されます(66:20-23)。それこそ、この世界のゴール「新しいエルサレム」の姿です。

 

  12節では「あなたがた、クシュ人も、わたしの剣で刺し殺される」と預言されます。クシュはエチオピアを指しますが、この当時のエジプトは南のエチオピアを中心とした王国の支配下にありました。

そして、このエジプトはこの後、主が立てたペルシャ帝国によって滅ぼされます。ペルシャはそれに先立ちユダヤ人の帰還を支援します。

 

  13-15節にはアッシリヤに対する徹底したさばきが、「主は手を北に差し伸べ、アッシリヤを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし・・」(1314節)と描かれます。

その対比で、かつての愚かな安心を皮肉るように、「これが、安らかに過ごし、心の中で、『私だけは特別だ』と言ったあのおごった町なのか。ああ、その町は荒れ果てて、獣の伏す所となる・・」と描かれます。

下線部は新改訳の脚注にもあるように「私だけで、ほかにはいない」と原文で記され、自分を神とすることです。奢った民は、最も悲惨な最期を遂げることになるというのです。

 

3.「全地はわたしのねたみの火によって、焼き(食い)尽くされる」

31-5節ではエルサレムに対するさばきが描かれます。そこではまず神の平和を意味する町が、「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町」と呼ばれます。

そして、彼らが救いようのない状態になっていることが、「呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主(ヤハウェ)信頼せず、神に近づこうともしない」(2節)と四つの否定形で描かれます。

主がまず何よりも問題としているのが、彼らが主の助けを自分で拒絶しているということです。主は繰り返し彼らに預言者を遣わしてくださったのに、彼らはそれに耳を傾けませんでした。私たちが主のために何かの大きな働きをすること以前に、主は私たちが自分を変えるために心を開くことを待っておられます。

 

そして指導者たちの横暴さが「その首長たちは・・ほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない(3)と記されます。それは彼らが自分の獲物を日暮れの狼のようにたちまちのうちに食べつくしてしまうからです。

しかも宗教指導者たちに関しても、「その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す(4)と非難されます。預言者は民の歓心を得るために主のことばを曲げ、祭司たちは、民のささげるいけにえをも、自分の腹を満たすために汚し、主の律法(御教え)の根本を曲げてしまっていました。

神から責任を委ねられた者たちが、民を食い物にしていたのです。

 

  その一方で、主はご自身の誠実さを、「(ヤハウェ)は、その町の中にあって正しく、不正を行わない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す(5)と述べます。

その対比で「しかし、不正をする者は恥を知らない」と述べられます。「恥」とは、人々を過ちから守る最後の心理的な砦ですが、彼らはその感覚を失っていました。

 

 6節で主は、諸国に対するご自身のさばきが、主の目にはすでに実現が決まっているという意味で告げられながら、7節ではエルサレムに対する主の呼びかけが、「あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしがこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは断ち滅ぼされまい」と希望が述べられます。

 

主はなおもエルサレムの悔い改めを待っておられます。その際、「確かに、彼らは、くり返してあらゆる悪事を行ったが」と追記されますが、それは主がご自身の民に対する誠実さのゆえに、彼らの罪に耐えておられるという意味です。

 

  そして8節では、「それゆえ、わたしを待て」と、最初に強調されます。その上でこれが「主(ヤハウェ)の御告げ」であると敢えて描かれ、「わたしが立つ日を」と記されます。

「証人として」という訳は、原文が不確かですが、その目的は何よりも「さばき」を下すことにあります。5節では「公義」と訳されていたことばが、ここでは「わたしのさばき」と記されます。

そして、その日に主がなさることが、「わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ」と言われます。

 

その上で、改めて「まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き(食い)尽くされる」と述べられ、「主のねたみの火」の恐ろしさが強調されます。イスラエルの神ヤハウェは全世界の創造主であり、すべての人間が、神のかたちに創造されています。それはすべての人が主を礼拝するために創造されたという意味です。

主のねたみは、主を忘れていることに対して向けられているということを忘れてはなりません。どれほど高潔な生き方を全うしても、創造主を忘れていること自体が、主の「ねたみの火」を招き寄せるというのです。

主のねたみとは、主が人との交わりを求めておられることと表裏一体なのです。

 

4.「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す」

  ただ9節の原文は「なぜなら」という接続詞で始まり、主の「ねたみの火」が、全世界の人々を燃やし尽くすというより「食い尽く」して、造り変える「であるということが、「なぜならそのとき、わたしは国々の民のくちびるをきよいものへと変えるからだ。彼らはみな主(ヤハウェ)の御名によって祈り、一つになって主に仕える(一部私訳)と記されます。

つまり、主の「ねたみの火」は鉄を精錬するように人の心を根本から造り変える「聖めの火」なのです。

 

  そして10節では、「クシュの川の向こうから」とは、エジプトの向こうの地の果てから、主に「願い事をする者(または「主を礼拝する者」)・・・が贈り物を持って来る」ようになると記されますが、彼らは主ご自身によって「散らされた者たち」であるというのです。

これはバビロン帝国によって国を奪われ、世界中に散らされた人々が、再び主の御前に集められることを意味します。彼らは強制ではなく、自分の意志で主のもとに帰って来るというのです。

 

  11節では「その日には」と記され、11516節で六回にわたって「その日は・・」と恐ろしいことが描かれた「主の日」と正反対の描写がここから始まり、最初に「あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない」と描かれます。

これは、主に逆らった者たちが、主の「ねたみの火」によってきよめられ、主ご自身も彼らのそむきの罪を赦してくださるという意味です。

またその際のことが、「そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない」と、主が何よりもおごり高ぶる者を「取り去る」と描かれます。

預言者イザヤはエルサレムの女たちの高ぶりの姿を、「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている(3:16)などと描いています。それは自分の魅力を宣伝して人々の気を惹くような姿勢ですが、それは同時に偶像礼拝に走る姿でもありました。

 

  そして主は12節で「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す」と言われます。つまり、主のさばきを経て残されるのは、「へりくだった、寄るべのない民」(a people humble and lowlyだというのです。

その上で、そのような人々のことを、「彼らはただ主(ヤハウェ)の御名に身を避ける(詩篇91:246:1参照)と描きます。これは人間的には、「彼らは自分で自分の身を守ることができない弱い者」と嘲りの対象となりますが、そのように神の助けなしには生きて行けないことを知っている人々こそが、神に喜ばれる信仰者なのです。

 

13節で 「イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない」と記されるのは、試練を経た「残りの者」に実現する救いです。

彼らは、貧しく、弱い者ですが、被害者意識に流される代わりに、ひたすら主に信頼し、「不正」や「偽り」から自由になっているというのです。

そして、「彼らの口の中には欺きの舌はない」と再び繰り返されながら、「まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない」と描かれます。それは「狼が小羊と共に伏す・・・」(イザヤ11:6)という弱肉強食のない世界が人間の間にも実現するという、神の救いの完成の姿です。

 

  14節からは「その日」を待ち望む者たちへの呼びかけが、「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ」と記されます。

ここには喜びを表現する四つの単語が重ねられながら、エルサレムの民に対する三つ異なった呼び名が愛を込めて用いられています。

ESVでは、Sing aloud, O daughter of Zion; shout, O Israel! Rejoice and exult with all your heart, O daughter of Jerusalem!と訳されています。

 

そして、喜ぶべき内容が、「主(ヤハウェ)はあなたへの宣告(さばき)取り除いた(取り去った)(15)と記されます。この動詞は11節での主ご自身がエルサレムから「おごり高ぶる者を取り去り(11)と記されていたのと同じで、主ご自身がイスラエルへの当然のさばきのみわざを「取り去った」という意味です。そこには謙遜にされた者しか残っていないからです。

聖書では繰り返し、主がさばきを「思い直された」ということが記されていますが、主はこのときも、そこに残された謙遜な者にあわれみを注いでくださるというのです。

そしてその具体的な現れとして、主ご自身が、「あなたの敵を追い払われた」と記されます。主のさばきはイスラエルの敵を動かして行われましたが、今、主ご自身が敵を追い払ってくださいます。地上のどんな国も、主のご支配の中にあるからです。

 

そして、彼らに起こる根本的な変化が、「イスラエルの王、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる」と記されます。エルサレム神殿が滅ぼされるのは、主がその家を立ち去ったからですが、主は再び彼らの真ん中に戻って来てくださるというのです。

その結果、「あなたはもう、わざわいを恐れない」という恵みが実現します。詩篇465節前後に描かれているように、主が真ん中に住んでくださるとき、どんな敵をも恐れる必要がないからです。

 

  そして16節では、再び、「その日」ということばが用いられながら、「エルサレムはこう言われる。

シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。

主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(1617)と驚くべきことが記されています。

シオンよ。恐れるな。気力を失うな」と最初に記されるのは、人間的には彼らは無力な何もできない民とされているからです。

ただそれでも、勇気をもって希望に生きられる理由が、主ご自身がシオンの「ただ中におられる」からと再び描かれます。私たちがどんなに無力でも、ただ中に住んでくださる方は「救いの勇士」であられます。

そして主は、自分の無力さを知っている者を「楽しみ、その愛によって安らぎを与え」てくださるというのです。

 

なお17節の四行目は厳密には、「その愛によって静かにさせてくださる」と訳すことができます。これは、主ご自身が私たちのことを大いに喜んでくださるという中に挟まれて、私たちがまさに平安な静けさに満たされるという対比が描かれています。これは114節に記されていた「勇士が(恐怖で)激しく叫ぶ」という姿と対照的です。

 

また最後の行の、「主は高らかに歌って・・喜ばれる」という「喜び」の二つのことばは14節とは異なったことばです。ヘブル語には驚くほど多くの感情表現のことばがあり、訳しにくいのですが、ここでは放蕩息子の帰還を待っていた父親の喜びのように、「イスラエルの残りの者(13)を喜ぶ様子が描かれています。

 

  18節は翻訳困難ですが、主の例祭を守ることができなくなった者がそれを悲しんでいることに対し、主ご自身が残りの者を「集めて」、再び例祭を祝うことができるようにしてくださるという意味で、また「残りの者」が、エルサレムの子孫であり、彼らに対する「そしり」に主ご自身が報いてくださるという意味で記されているのだと思われます。

 

  1920節では「その時」ということばが三度繰り返されながら、恐怖に満ちた「主の日」の逆転が描かれます。「足のなえた者を救い」とは、主が虐げられている者を救うことの象徴です。また「散らされた者を集める」とは、申命記301-4などにも描かれているバビロン捕囚後の救いを現すものです。

そして、その目的が、「恥を栄誉に変え、全地でその名を上げさせよう・・・名誉と栄誉を与えようと、「名」と「栄誉」がそれぞれ二回繰り返されるかたちで「救い」が表現されることが印象的です。

栄誉」とは人間にとっての最高の地上的な財宝と言われます(Bart KD12-56-3)。人は自分の「栄誉」を守るためには、ときに命さえ捨てることができます。しかし、忘れてはならないのは、その栄誉の源は、人を「神のかたち」に創造された創造主ご自身にあるということです。

ですからイエスは、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます(マタイ23:12)と言われました。そして、十字架とは、究極の辱めのシンボルでしたが、イエスは私たちに自分の十字架を負って従えと命じられました。

 

 村瀬俊夫先生は、ガラテヤ31節の文語訳の「愚かなるかな哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ」という表現を見て、キリスト理解が変わったと言っておられました。

それは、既に復活されたキリストが、同時に今も、「十字架につけられたままである」という途方もない逆説です。私たちはあまりにも働きの成果のようなもの(栄誉)に目が向かって、弱さや苦しみ(十字架)の中にある恵みを忘れてしまいがちです。

しかし、キリストの苦しみは今も続いており、それによって世界が平和の完成へと導かれているのです。ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられたままでいるべきなのです。それは、この世的には恥と敗北ですが、そこに真の神の力が働きます。

 

パウロはキリストについて、「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです(13:4)という不思議なことを言っています。

十字架につけられたままのキリストの「弱さ」こそが、弱肉強食の世界秩序を変える鍵なのです。私たちも自分の能力や力を誇るのではなく、私の中に生きておられるその方によって生きるのです。

「全能の神を信じているのに、どうして、こんな目に会ってしまうの・・・」というのは人情としてはわかりますが、聖書の物語からしたら「愚問」です。私たちはキリストとも共に苦しむために召されたのだからです。

私たちはその中で、自分の弱さや無能さに嘆くかもしれません。しかし、そのようなただ中で、ゼパニア316,17節が心の底に響いて来くるのです。 

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