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2014年3月30日 (日)

ヨハネ福音書1章35-51節 「イエスの公生涯の初めの七日間」

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ヨハネの福音書も創世記も、「初めに」ということばから始まり、七日間のことが描かれています。創世記の七日目は、神の喜びに満ちた安息の日でした。そして、ヨハネ福音書における七日目は、カナの婚礼で、水がぶどう酒に変えられた喜びの日でした。

聖書の教えは堅苦しい道徳ではありません。そこには創造主とその御子との喜びの出会いがあります。そして、私たちに求められていることは何よりも、自分自身でイエスと出会うことと、自分が出会ったイエスを人に紹介することです。そして、喜びに満ちた出会いのゴールに神の国の祝宴があります。

 

1.「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」

ヨハネは、ヘロデ王の大拡張工事によって輝いているエルサレム神殿が無意味であるかのように、ヨルダン川の水を用いて「罪の赦し(マルコ1:4)を宣言していました。

それに対し当時の宗教は、「なぜ」(25)と尋ねました。彼はその疑問に答える代わりに、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っています・・・私はその方のくつのひもを解く値うちもありません(26,27)と、質問者の目を、「その方」に向けさせました。

 

29節では、「その翌日」という不思議な日付の描写が記されます。その日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て、「見よ、神の小羊を!世の罪を取り除く方を(29節私訳)と言いました。

イスラエルがエジプトでの奴隷状態から解放されるために過ぎ越しの子羊がほふられる必要がありました。同じように、私たちが、新しい天と新しい地の民とされるためには、新しい「神の小羊」の犠牲が必要でした。

 

それをもたらす救い主の姿が、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった・・彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:4,5)と預言されていたのです。

しかも、イエスは、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知る」者となることによって、つまり、力を捨てた小羊となることによって、私たちに救いをもたらしたのです。

そして、ヨハネも自分の権威を一切主張することなく、イエスだけを指し示しました。私たちはこれらの姿に習うように召されたのです。私たちは自分の弱さを恥じ、強くなることによって目の前の問題を解決しようとしていないでしょうか。現代ある様々な争いの解決の鍵も、「見よ。神の小羊を・・」にあるのです。

 

  ヨハネはイエスにバプテスマを授けた際のことを、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました(32)と言いました。それは、「見よ。わたしのしもべを・・わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け・・」(イザヤ42:1)と預言されていた救い主の姿でした。

このときから、イエスは、神の民を新しい天と新しい地に導き入れる、新しいヨシュア(イエスのヘブル語名)として、公に働き出しました。

 

  その上でヨハネは、イエスこそが、水によってではなく、「聖霊によってバプテスマを授ける方である」(33)と紹介します。

イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入ったように、私たちも「水と御霊によって(新しく)生まれ、神の国にはいる(3:5)のです。肉のままのイスラエルができなかったことを、御霊は可能にしてくれます

 

そして、ヨハネの証しは、「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです(34)ということばをもって終わります。彼は徹底的に人々の目をイエスに向けさせます。

 

2.「来なさい。そうすればわかります(見えます)

  35節は再び、「その翌日」ということばから始まります。この福音書の具体的な物語の第一日目は、ヨハネが自分のことをイザヤ403節に記された「荒野に呼ばわる者の」として紹介しました。そして、この第一日目にイエスはヨハネからバプテスマを受けたのだと思われます。

そして、物語の二日目が、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介することから始まり、「聖霊によってバプテスマを授ける方」と紹介したことで終わっています。

 

これは物語の三日目の記事で、「ヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていた」と描かれながら、そこで「イエスが歩いて行かれるのを見て」、「見よ、神の小羊(36)と、「ふたりの弟子」に改めて紹介したというのです。

つまり、ヨハネは初めの二日間で、イザヤ書40章から55章までの概略を説明し、その上で、この三日目に、イエスこそが預言された救い主、メシヤであると彼らに指し示したのです。

ふたりの弟子」は、ヨハネが目を向けた方向に向かって歩き出しました。これはヨハネが、神によって立てられた「」としての召しに忠実に従ったことを意味します。

 

それで、37節は厳密には、「(ヨハネ)のふたりの弟子は・・・イエスについて行った」と記されています。これは、彼らが自分の先生を、ヨハネからイエスに変えた瞬間とも言えましょう。

そしてイエスは、「彼らがついて来るのを見て」、「何を求めているのですか(何を捜しているのか)」と聞きます。彼らはその質問にまっすぐに答える代わりに、イエスを「ラビ(先生)」と呼び(38)、「いまどこにお泊りですか」と尋ねます。

当時の人々は、ローマ帝国から独立したユダヤ人国家という意味での「神の国」を求めていました。しかし、彼らはヨハネからイエスを「神の小羊」と紹介されながら、その意味が分かりきらずに困惑していたのではないでしょうか。彼らはそれで、新しいラビに同行したいという意思を表明するだけにとどめました。

 

それに対してイエスは即座に、「来なさい。そうすればわかります(見えます)(39)と答え、彼らを弟子として受け入れました。これは自分の宿泊の場を教えたというよりも、彼らがイエスについて来ることで、彼らが自分で何を捜していたのかが分かるようになると言われたという意味だと思われます。

 

そして、その日彼らはイエスといっしょにいた(別訳「イエスのところにとどまった」)。時は十時(午後4)ごろであった(39)と記されます。これは、彼らが一晩イエスとともに過ごしたことを示します。

なおここに至って初めて、「そのうちのひとりは、シモンの兄弟アンデレであった(40)と、ひとりの名が明らかにされます。なお、もうひとりの弟子は、この目撃証言的な書き方からすると、この福音書の著者ヨハネである可能性が高いかと思われます。

 

そして、41節は、時間的に、その翌日の四日目の出来事になります。アンデレはまず自分の兄弟シモンを見つけて『私たちはメシヤに会った』と言った」(41)と記されます。一番弟子のペテロは、その兄弟アンデレに導かれてイエスに会ったのです。

アンデレはいつも他の人をイエスのもとに連れてくる役割を担っています。彼は後に、五つのパンとに引きの魚を持つ少年をイエスの前に連れて来ました(6:9)。また後にギリシャ人をイエスに取り次ぎました(12:2)。しかも、最初に弟子となったのに、「シモンの兄弟・・」と紹介されています。たぶん、彼自身それを喜んでいたのでしょう。

彼はごく自然に自分を後回しにして、人と人とが結びつけることができる性格でした。有名な信仰者の影には、常に、彼のように目立たない働きがありました。そのような人こそ、キリストの教会の宝と言えます。

 

それにしても、「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」というアンデレのことばは簡潔ながらも衝撃的です。彼は、「私は信じた」という自分の心の動きを証ししたのではなく、イエスとの出会いを紹介したのです。しかも、言外に、「兄貴も捜していたメシヤだよ、いっしょに会いに行こうよ」という、寄り添う気持ちがあったことでしょう。

とにかくそれらをまとめるように、アンデレの働きがここで、「彼はシモンをイエスのもとに連れてきた(42節)と簡潔に記されます。

 

  するとその後のことが、イエスがご自分の方から「シモンに目を留め」、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」と言われたという様子が描かれます。ペテロの心の動きではなく、イエスご自身がペテロに目を留め、ご自分の弟子として選ばれたということが強調されています。

なお、ご自身が「光」であられる方は、シモンが最後に三度もイエスを否むような弱さを抱えていることを見抜きながら、敢えて彼を「岩」と呼びました。挫折を通して、「」のように不動の堅い信仰者に変えようと意図されたのです。

 

  私たちの場合も、イエスご自身の方から私たちを発見し、その弱さを見抜いた上で、それぞれのユニークさが輝く方向を指し示してくださいます。

それこそが「新しい名」の意味です。それが見えるようになることは、自分の使命を発見することです。その第一ステップは、「来なさい。そうすればわかります」という声に従うことです。

 

3. 「来て、そして、見なさい」

  「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけ、『わたしに従って来なさい』と言われた」(43,44)と描かれていますが、これは五日目の出来事で、舞台は引き続き、ヨハネがバプテスマを授けていた死海に近いヨルダン川のほとりです。ピリポやペテロの出身地がここでは「ベツサイダ(44)と敢えて記されていますが、それはガリラヤ湖北東部の漁師町でした。

彼らはバプテスマのヨハネの弟子になるために、自分たちの村から二日間も南に下った地に来ていたのだと思われます。そこで同じガリラヤ出身のイエスに見出され、ともにガリラヤに戻るように招かれました。ヨハネを通して聖書を事前に学んでいなければ、イエスの招きにすぐに応答して弟子になることなどできなかったに違いありません。

多くの人々も、一時期、精神的な郷里から離れるようにして、人生の旅に出ます。そして、遠回りし、迷っているただ中で、主のことばが自分への語りかけとして心に響いて来ました。振り返ってみると、それまでの自分の歩みのすべてが、神の御手のうちにあったと気づきます。

 

ピリポ」は、男だけでも五千人いる大群衆を養うためにどれだけのお金が必要かを即座に計算できた人です(6:5-7)。また、イエスに「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します(14:8)などと聞きました。彼はまさに現実主義者でした。

そして、イエスに従うことを決めるやいなや、ナタナエルを見つけて、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子のイエスです」(45)と紹介しました。あるラビの計算によれば、旧約聖書には何と456か所にキリスト預言が記されているとのことです。

しかし、後半のことばは、人間的な出生を前面に出した表現ですから説得力がありません212節によるとナタナエルもガリラヤの出身で、ナザレに近い「カナ」の出身でしたから、「ナザレから何の良いものが出るだろう(46)と答えたのも無理からぬことでしょう。

しかし、ピリポはひるむことなく、「来て、そして、見なさい」と言いました。自分の知恵でイエスが救い主であることを説明できるなどとは思っていなかったからです。ナタナエルは以前から親しい友だったのでしょう。すぐにイエスに会いに行きました。私たちも友人を、そのようなことばで、教会に招くことができます。

 

イエスはここでも、ご自身の側からナタナエルに目を留め、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言われました(47)。「偽り」とは「欺き」とも訳される言葉です。彼はピリポのことばを即座に否定した偏見に満ちた人でしたが、イエスは彼の欠点ではなく、そこにある最も良いものを即座に見出してくださいました。

ナタナエルは、友情を傷つけないための社交辞令のような反応はせずに、率直な反応を示しました。同時に、「来て、そして、見なさい」というピリポの誘いを拒絶することなく、自分が抱いた疑問を、自分の目で確かめるために、イエスのもとに来ました

彼は偏見に満ちた人と言うよりも、正直に自分の疑問を表現しながら、同時に、それに凝り固まることなく、何が真実かを求めようとしています。私たちも、そのように人を見ることができるなら幸いです。

 

しかも、イスラエルとは、彼らの父祖ヤコブの「新しい名」でした。彼は、父をだまして(偽り)、兄のエサウから長子の祝福を奪い取りましたが、その後、神は、彼を様々な試練に会わせ、神の民の父へと成長させ、この名をくださいました。

ですから、「ほんとうのイスラエル人」ということばに、神によって「偽り」から解放された、真の神の民という思いがあります。それは、人間的には不可能な、神の視点です。 

 

ナタナエルが「どうして私をご存じなのですか」と聞くと、イエスは「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と答えました(48)。イエスは、ナタナエルに出会う前から、既に彼を「見ておられた」というのです。

いちじくの木の下」は、当時の人々が聖書の学びや黙想に用いた場所です。ナタナエルも、アンデレやペテロ、またピリポのように、ガリラヤを離れ、ヨハネのもとで「神の国」の到来を待っていたことでしょう。

そしてイエスは、ナタナエルが自分や人を偽ることなく、神に向かって真実な問いかけを続けている様子を見ておられたのでしょう。イエスは、その人の心のなかにある真実を発見し、評価してくださる方です。

 

彼は即座に、「ラビ(先生の原文)あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です(49)と応答しました。これはイエスの本質を鋭く洞察した、簡潔で模範的な告白です。そこにはイエスこそが、詩篇2篇6,7節の預言を成就して、イスラエルを真の神の国へと導く「イスラエルの王」「神の子」であるという告白があります。

しかも、イエスから、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ」と呼ばれたナタナエルが、イエスを「イスラエルの王」と告白したということは、彼がまさに自分をイエスの臣下、しもべと認めたことを意味します。その意味で、ナタナエルは最初に明確な信仰告白をした一番弟子とも言えます。

ただ、彼の名は他の福音書には登場しません。そこでは、「バルトロマイ」という名が、十二弟子のリストでは「ピリポ」と並列して記されていますからナタナエルとバルトロマイを同一人物と見ることもできましょう。

どちらにしても、彼はピリポと対照的な、黙想、直感型の人だったと思われます。ですから、イエスは彼を、ピリポとの交わりを用いて、互いを補い合うことができるような形で召されたのではないでしょうか。

 

4.  「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」

  ナタナエルは、自分が「いちじくの木の下にいる」のを、イエスが「見て」おられたことを知って、イエスを「信じる」ようになりましたが、それに対しイエスは、「あなたは、それよりもさらに大きなことを見る」と言われました。

そして、イエスはそのことを弟子たちすべてに向かって、「まことに、まことに・・天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを・・いまに見ます(51)と述べられました。この情景こそ、「ほんとうのイスラエル人」の原点です(28:12)

それは、イエスこそが、ヤコブに示された幻を完成するイスラエルの王であるという意味です。ヤコブは、「偽り」によって兄から命を狙われ、母の故郷への逃亡の途上で、一人寂しく、石を枕にして寝ました。そこで見た夢が、「見よ。ひとつのはしごが地に向けて立てられている。その頂きは天に届き、見よ。神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主(ヤーウェ)が彼のかたわらに立っておられた。

そして仰せられた・・見よ。わたしはあなたとともにあり・・あなたを守り・・約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(11-15)です。

彼の生涯は、この約束に支えられていました。ここでは、「見よ」ということばが繰り返されています。そして、この福音書の箇所でも、「見る(「わかる」も同じギリシャ語)ということばが繰り返されています。キリスト者の生涯とは、このように、肉の目に見える現実を超越した、神の世界の現実を「見る」ようになることなのです。

 

  イエスの弟子たちはこの後、ナタナエルの故郷、カナでの婚礼において、水がぶどう酒に変えられるのを見ました。また、イエスは本来の安息日が喜びの日であることを示すために、敢えてその日を選んで盲人の目を開きました。そして、「私たちは目が見える」という人が、いかに盲目かを示しました(9:41)。また、十字架の直前、弟子たちのため、天から「わたしはすでに栄光を現したし、もう一度栄光を現そう(12:28)という声がしました。

弟子たちは、預言された「人の子」としての救い主の上に、天が開け、父なる神の祝福が豊かに注がれているのを見たのです。

 

  人は、ときに、後悔と不安で心が一杯になりますが、唯一存在する時は、過去でも未来でもなく、「今、この時」です。しかもそれは、直接「永遠」と結びついています。目に見えない神の眼差しを、今この時に意識できるなら、私たちは一瞬一瞬を喜び、誠実に生きることができます。

これは、説明して分かる世界ではなく、「来て、そして見なさい・・あなたがたはいまに見ます」としか言えません。それはイエスのみわざです。イエスは、今の時代、みことばを通して、私たちに出会ってくださいます。その出会いを証しすることこそ私たちの使命です。

 

5.七日目の奇跡、それは真の安息の日、小羊の婚宴を指し示す

  カナの婚礼の記事は、「それから三日目に」という表現で始まります。これは実質的にはナタナエルとの会話の二日後のことで、それはヨハネがバプテスマを授けていた場所からガリラヤのカナまで歩いて二日間が必要だったからです。そこには「イエスも、弟子たちも」招かれていました。

つまりこの記事は、前の章からの流れの中から理解されるべきです。一章では「その翌日(29,35,43)と三回繰り返されますから、この記事は119節からの続きと見られます。

ナタナエルは、カナの出身者でしたが、イエスは彼にヤコブの夢を思い起こさせ、「天が開け・・るのを・・いまに見ます」(1:51)と語りました。それはイエスによって新しい祝福の時代が始ることを宣言したものです。

 

  「それから三日目」とは、ヨハネの証しが始まってから七日目に相当します。そして、この記事の結論で、「イエスはこのことを最初のしるしとして行ない、ご自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた(11)と記されます。つまり、この最初の奇跡の目的は、誰よりも弟子たちに信仰を与えるためでした。

この福音書の著者は、最初にイエスに従ったうちのひとりで、これを創造の七日目の出来事に位置付けています。そして、イエスのみわざは、七日目を真の意味で、「喜びの日」「はえある日(イザヤ58:13)に変えられたということを示唆しているのです。

 

ところで、ヨハネはぶどう酒を口にせず、人に断固とした悔い改めを迫っていましたが、イエスこそが、聖霊によって人を内側から造り替える「神の子だと述べ、自分の弟子たちに彼を救い主として紹介しました。それは、ヨハネのバプテスマは、水をぶどう酒に変えるような変化をもたらすことができないからです。彼が水のバプテスマと聖霊によるバプテスマを比較していたのはそのためです(1:33)

事実、人は気持ちを新たにすることで、何度かはやり直せますが、それは根本的な変化ではありません。ある人は、「地獄への道は良い決断で舗装されている」と言いましたが、人は何度もやり直そうとして失敗し、自己嫌悪を深め、さらに堕落することがあります。

真の悔い改めは、自分の力でやり直そうとすることではなく、全能の神のみわざに身を委ねることです。そこに単なる外面的な行動の変化(Change)ではなく、水がぶどう酒に変わるような、質的な内側からの沸き起こる変革(Transformation)が起ります。  

 

イエスの最初の奇跡は、大量の水をワインに変えることでした。これは、今も昔も、敬虔で実直な信仰者を当惑させます。人生を楽しませるためのもの(伝道者の書10:19)が、悲劇を生み出すという現実が余りにも多いからです。

しかし、私たちの信仰が、反対に、ワインを水に変えるような冷めた道徳主義になり、争いを加速するという危険がないでしょうか。イエスの公生涯の初めの七日間の出来事を思い越すことから真の希望が生まれます。

 

イエスの公生涯の初めの七日間には、この世界を「新しい天と新しい地」へと変革することの始まりが見られます。それは、感情に流されがちな弟子を「(ペテロ)」と呼び、また、偏見にとらわれた弟子を「ほんとうのイスラエル人」と呼び、彼らに「神のかたち」としての生き方を「見させる」ことでした。

同じことがあなたにも起き始めています。

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2014年3月23日 (日)

ゼカリヤ3-5章「奇跡の人として生かされる」

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わざわい会っている方のことを、「あの人は、何か隠された罪のゆえに、サタンの攻撃を受けているのでは・・・」などと、傷口に塩を塗るような評価をする人がいるかもしれません。しかし、そのような人は、ヨブ記によるとサタンの味方になっているのかもしれません。

主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない・・・わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか(哀歌3:33,38)という告白こそ、主に喜ばれるものです。

 

私たちがわざわいに会うのは、サタンに対する神の勝利を証するためです。神によって選ばれた私たちは、汚れた服を脱がされ、礼服を着せられて神の祝宴に招かれています。私たちの最終的な勝利は約束されています。

ただ、この地の生活では、目の前に、乗り越えられないような山が立ちはだかっているように思えることがあります。しかし、そのとき主は、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という力を与えてくださいます。

私たちは主の霊を受けることによって、主にある勝利の「しるし」また「奇跡の人」として選ばれているのです。

 

1.「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」

3章全体が四番目の「幻」です。まず、預言者ゼカリヤは「主は私に、主(ヤハウェ)の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた」と描きます。ここで、「主の使い」は天の法廷の裁判官、サタンは告訴人の立場として描かれています。

新約聖書だけを見ると、「サタン」は私たちにわざわいをもたらす者というイメージがあり、悪霊に憑かれることと正気を失うことが同列に見られることがありますが、サタンの中心的な意味は、「告発者、敵対者」で、この裁判の席のイメージがサタンの本質を最もよく現しています。同じヘブル語が詩篇1096,20節では「なじる者」と訳されています(新改訳脚注参照)

 

そこで、何と主(ヤハウェ)ご自身が、サタンに向かって語っておられます。そのことばは原文では、「主(ヤハウェ)がおまえをとがめている。サタンよ。主(ヤハウェ)が、おまえをとがめている」と同じことばが繰り返され、その上で、「主がエルサレムを選んだ。これは、火から取り出した燃えさしではないか」記されています。

つまり、主は大祭司ヨシュアの弁護をなさる代わりに、彼を訴えようとするサタン自身を繰り返し「とがめ」ながら、その理由を、エルサレムは主の選びのうちにあるということと、主ご自身がヨシュアの汚れを、「火から取り出したもえさし」として見ているということです。アモス411節では、主がイスラエルを、「あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった」と呼んでいます。

これは、次に描くヨシュアの衣服の汚れは、主ご自身による懲らしめと救いのみわざの中から起こっていることであり、主の前に聖別される途上にあるということを描いたものです。

 

そして、ここで初めて、「サタン」が「ヨシュア」を告発している理由が、「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた」(3:3)と描かれます。この「よごれた」とは申命記2313節では、人間の排泄物で汚れた状態を指し、主の陣営を排泄物で汚してはならないことが強調されていました。とにかく、この時の大祭司ヨシュアの衣服は汚れており、そのままでは大祭司としての働きをすることはできませんでした。

このヨシュアは大祭司としてイスラエルの民を代表していました。そして、サタンが彼を訴えていることの基本とは、イスラエルは神の民と呼ばれる資格がないということでした。サタンは今も、あなたを、神の子と呼ばれる資格はないと訴えています。

 

4節では、それに対して、「御使いは、自分の前に立っている者たちに答えて」、「彼のよごれた服を脱がせよ」と言ったと描かれます。

そして、御使いはヨシュアに、「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と言われます。それは、主ご自身がヨシュアを聖別してくださるという意味です。「礼服」と訳されているのは、これが大祭司の衣服というよりは主の宴会に招かれているという意味を込めたのだと思われます。

 

そこで不思議にも、この幻に示されている会話の中にゼカリヤが加わって、「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません」と言ったというのです。これは大祭司特有の衣装というよりも「かぶり物」と訳されていることばです(ヨブ29:14イザヤ62:3)

ゼカリヤはある意味で、その情景に感動して分を超えたことを言っただけなのですが、御使いたちは、何とその要請に従うかのように、「彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた」というのです。

なお、ここでの「礼服」も「ターバン」も、サタンの訴えを退けて、大祭司の勤めを果たさせるための衣装ではなく、主ご自身が「火から取り出した燃えさし」のようなヨシュアを労り、ご自身の天の食卓に招くための衣装とされているのが興味深いことです。

その上で、そのときの情景が改めて、「(ヤハウェ)の使いはそばに立っていた」と描かれます。これは主の使いが、裁判官としてではなく、弁護者として立っているというイメージです。

 

そこで、「(ヤハウェ)の使いはヨシュアをさとして」、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする」と述べます(3:6,7)

これは彼に特別に難しい生き方を命じて、それが達成できたら、大祭司としての特別な権利を与えるという目標ではなく、彼が日々を主との交わりのうちに過ごし、主の戒めを注目し続けるなら、主が彼に主の宮を治める特権を与えるばかりか、御使いの仲間入りをして、天の主の宮に出入りする特権を与えるという、主からの途方もない恩恵の約束です。

 

8節は、「聞け。大祭司ヨシュアよ」という呼びかけから始まり、「あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ」と言われます。これは、「奇跡(wonder) の人々」とも訳されることばで、そこに大祭司の同僚たちまで含まれるというのは驚くべきことです。

なおこれが「しるし」と訳されるのは、来たるべき救い主の前兆となっているからで、そのことが、「見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる」と言われます。これは、イザヤ53章に描かれたような「主のしもべ」「若枝」としての救い主を生まれさせるという希望です。

 

  9節では引き続き、主ご自身が、「見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む」と言っておられますが、この「石」が何を意味するかは解釈が困難です。「七つの目」とは、410節での「これらの七つは、全地を行き巡る主(ヤハウェ)の目」とあるのと同じではないかと思われます。また「彫り物を刻む」とは、出エジ288-12節に記された大祭司の装束の胸当てにつけられた宝石にイスラエルの部族の名を刻むことを思い起こさせるものだと思われます。

とにかくこれらはすべて神がイスラエルをいつも覚えておられ、全世界の歴史を支配しておられることを意味することは確かです。

 

そして、ここで何よりもここで大切なのは、「わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く」という「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」です。

これは、サタンがイスラエルの不義を訴えるのに対する主の答えです。

 

10節では、「その日には・・あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう」と描かれます。これは、イスラエルに真の平和が回復されるということの象徴的な表現です。

 

2.「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる」

 41-14節は五つ目の幻です。最初に、「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった」と記されるのは、この幻には、イスラエルの対する主のご計画を「目を覚まして見張る」という意味があるからだと思われます。

そこで御使いが「あなたは何を見ているのか」と問い、ゼカリヤはまず第一に、「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています」と答えます。

これは出エジ2531-40節に描かれた神の幕屋におかれた金の燭台を思い浮かべさせる情景です。

 

そして第二に彼は、「そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります」と答えます。そこでゼカリヤは御使いに、「主よ。これらは何ですか」と尋ねますが、「これら」とは、「二本のオリーブの木」を指します。

それに対し、御使いはすぐに答えを出す代わりに、「あなたは、これらが何か知らないのか」と答え、ゼカリヤはまた、「主よ。知りません」と簡潔に応えます。これは、ゼカリヤの注意を呼び覚ますための会話と言えましょう。

これらの会話は、オリーブの木から生まれる油に目を向けさせるためのものです。

 

 そこで御使いは、「これは、ゼルバベルへの主(ヤハウェ)のことばだ」と、ユダヤ人のエルサレム帰還を導き、エルサレム神殿の再建工事の責任者であるユダの総督ゼルバベルに向かってのことばを述べます(6)

それは、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」というものでした。これは、ゼルバベルの働きが、軍隊を動かすような「権力」でもなく、また、人間の「能力」によるものではなく、主ご自身の「霊」によって成し遂げられるというものですが、そこには、「万軍の主」ご自身による保証があるというのです。

 

  7節の、「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」とは、神殿再建工事に関する目の前の様々な障害が、主ご自身によって取り除かれるという意味だと思われます。

ここで、「ゼルバベルの前で」と言われているのは感動的です。そこにご自身の働きのために彼を選んで立ててくださった主の保証があります。

そして、彼に対する約束の内容が、「彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう」と、主への賛美のうちに、神殿工事の最後に設置する「かしら石」が運び出されて設置される様子が記されます。

 

それに続いて、ゼカリヤに対して、「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する」と、神殿再建工事の完成が保障され、同時に預言者ゼカリヤ自身の告白が、「このとき、あなたは、万軍の主(ヤハウェ)が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう」という記述と共に、預言の成就が確実であることが保障されます。

 

  10節では、「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」と、工事の最初に、期待外れの小さな神殿の再建を蔑む声があったことを思い起こさせます(ハガイ2:3)。それと同時に、「これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主(ヤハウェ)の目である」と記されます。

最初の主語のこれら」とは「七つの目」を意味し、「下げ振り」と訳されている言葉は、原文では「すずの石」とも訳され、工事の完了の際に据えられる「すずのプレート」を指したと解釈するのが一般的になっています。

とにかく、ここでは、「七つの目」としての主ご自身が、この人間的にはちっぽけな神殿再建工事の完成を喜んでくださるというのです。

 

  11節では4節の質問を繰り返すように、ゼカリヤは御使いに、「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか」と尋ねます。

そして、その様子をさらに詳しく描くように、「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか」と尋ねます。これは、燭台の左右のオリーブの木から、金の管によって、油が尽きることなく供給され続けることを意味するのだと思われます。

この油は、6節の「主の霊」を思い起こさせます。

 

 それに対して、13節で、御使いは再び、「あなたは、これらが何か知らないのか」とゼカリヤに尋ね、彼はまた簡潔に、「主よ。知りません」と答えます。これによって、主からの答えへの期待が増し加わります。

そして、御使いはここで初めて、「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ(14)と答えます。これは、ここに登場する大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルを指すと思われます。

ひとりは宗教指導者、もうひとりは政治的な指導者です。そして、イエス・キリストこそは、大祭司と王としてのこのふたつの働きを完成させた救い主です。

 

 黙示録120節では、「七つの燭台は七つの教会である」と記され、また、イエス・キリストは「七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と描かれています。

キリストの教会は「世界の光」として機能します(マタイ5:14)。そして、教会を生かしているのは、二本のオリーブの木を統合するイエス・キリストであり、主の聖霊です。

ゼルバベルが立てた神殿は人間的にはみすぼらしいものに見えましたが、そこに主の働きがありました。

 

  改革、長老派の教会では、ふたりの長老が立てられるのが一般的です。それは、「宣教長老」と「治会長老」と呼ばれます。宣教長老はここでの大祭司ヨシュアの働きで、これは「牧師」の働き、治会長老とは総督ゼルバベルの働きで、信徒の代表者として立てられます。

このふたりの間には緊張関係が生まれがちで、それが教会を混乱に陥れることがある一方、この協力関係がうまく行く時、教会は活力を持って成長できます。

今も主は、複数の指導者を地域教会に立てて、それぞれに油としての聖霊を与え、燭台としての教会が光を放つようにしてくださいます。

自由教会では明確な職制の区別をつけません。それは一人ひとりの主体性を重んじるからです。私たちの会堂建設が順調に進んだのは不明確ながら主にあってこのふたつの機能がうまく調和していたからと言えましょう。

 

3.「巻き物が飛んでいた・・・これは、全地の面に出て行くのろいだ」

51-4節には第六の幻が記されます。まずゼカリヤが、「私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた」とのその幻を述べます。それに対し、御使いは彼に「何を見ているのか」と述べます。

ゼカリヤは、「飛んでいる巻き物を見ています」と言いながら、その大きさを「その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです」と述べます。これは長さ、9.1m、幅4.6mぐらいの巻物が広げられた状態で空を飛んでいたものです。

 

なお、この幅10キュビットは、幕屋の中の至聖所の上下左右の長さでした(出エジ26:1-25)。契約の箱は長さが2.5ビュト、幅が1.5キュビットで、この巻物はそれにも収まりきらないほどに大きなものでした。それは、遠くから見ても読み取ることができるほどに契約のことばが大きく記されていたからでした。

申命記2912節には「のろいの誓い」ということばがあるように、主の「十のことば」にはそれを破る者への「のろい」が明確に記されていました。

 

そのことが、「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる(5:3)と描かれます。

この「取り除かれる」ということばは、神の民の共同体の外に追い出されるということを意味しました。

 

  4節の、「わたしが、それを出て行かせる」とは、万軍の主ご自身がこの「のろいのことば」を全地に送り込むという意味です。そして、そのことばは、「盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす」というのです。

これは主のことばを擬人化したもので、主もみことば自身が盗人や偽証者の家に入り、その家を徹底的に断ち滅ぼしてしまうというのです。

 

4.「その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた」

  5511節では第七の幻が描かれています。まず「御使いが出て来て」、ゼカリヤに「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ」と命じ、ゼカリヤが、「それは何ですか」と尋ね、御使いが「これは、出て行くエパ枡だ」と述べる様子が描かれます。エパ枡とは、穀物20リットルぐらいを測ることができる大きな枡です。

 

そして、ここでもすぐにその意味が、「これは、全地にある彼らの罪だ」と説明されます。しばしば「エパを小さくし、シェケルを重くし(アモス8:5)などとあるように、秤を誤魔化して暴利をむさぼるという罪がありましたが、ここでは引き続き、「見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた(5:7)と描かれます。

そのエパ枡は先の巻物と同様に巨大なもので、その中に罪の象徴としての「ひとり女」が隠されていました。

 

罪の根本はしばしば隠されていますが、聖書では「女」はしばしば、人々を偶像礼拝に導く存在の象徴として描かれます。

そこで続けて、御使いが、「これは罪悪だ」と言って、「その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた」という不思議な情景が描かれます。これは、その罪の誘惑の力を、御使いが閉じ込めてくれたということを意味します。

私たちを誘惑する罪も、神の支配下にあります。ですから、私たちは主の祈りで、「私たちを誘惑に陥らせないで、悪い者からお救いください(マタイ6:1私訳)と祈るように教えられています。

 

  そして、その後の情景が、ゼカリヤに示され、そのことが、「それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた」(5:9)と描かれます。

ここに描かれる「ふたりの女」は罪の象徴ではなく、御使いの現れです。御使いが女性形で現されるのは珍しいことですが、「こうのとりの翼のような翼」をもって、このエパ枡を運んでいるというのです。

そこでゼカリヤは、御使いに、「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか(5:10)と尋ねますが、それに対し御使いは、「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ(5:11)と答えます。

シヌアルの地とは、かつてバベルの塔が建てられたバビロンの地ですが、そこに再び、罪の神殿が建てられるのですが、それはエルサレムからはるかに話された地です。

ただ同時に、これは、終わりの日に再び、悪の力が解き放たれるとも解釈される場合がありますが、どちらにしても、悪の力も神の御許しの中でしか働くことができないということを象徴的に現しています。

 

 黙示録12章ではキリストの十字架と復活で実現したことが、「今や・・キリストの権威が現れた。私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばゆえに彼に打ち勝った」(1011)と記されています。

サタンは私たちを神の御前で告発する者でしたが、彼はこの地に投げ落とされました。そして、この地においては、人々が互いを告発し合うという争いを引き起こしています。しばしばこの地の教会は、そのような告発合戦によって混乱を繰り返してきました。

私たちは、サタンの働きが、何よりも互いの罪を告発し合う者であるということを忘れてはなりません。ですから、人の罪に気づいたときには、「ふたりだけのところで」、「責める」というよりは「隠された事実を確かめる」という節度が必要です(マタイ18:15)

私たちは無意識のうちに意見の違う者を失脚させたいという方向に動きますが、そこにサタンの巧みな惑わしがあるということを忘れてはなりません。

キリストは兄弟のために十字架にかかってくださいました。私たちが自分の正義によってではなく、「小羊の血」によって、勝利をおさめることができるのです。

 

バビロン捕囚から帰還した人々は、自分たちの無力さに失望しながらも、主の助けを得てエルサレム神殿を再建するようにと動かされました。彼らには大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルという信仰と政治的な指導者が与えられていました。彼らを選びその罪をきよめたのは主ご自身でした。そして、そのふたりはこの約五百年後に現れる救い主イエスの予表でもありました。

そして今、私たちのうちにも創造主なる御霊が与えられ、同じように奇跡の人とされているのです。私たちはみな、「しるしとなる人々」、「奇跡の人」とされています。

 

確かに、この地には様々な悪の力が働いていますが、それらはすべて神の御手の中に支配されている存在に過ぎません。そこで、「主のみことば」自身が、力を持ってこの世界の悪を最終的に滅ぼしてくれます。なぜなら、死の力の打ち勝ったイエス・キリストご自身が「主のことば」だからです。

 

私たちは人を動かす権力とか、人間的な能力に目を奪われがちですが、私たちが自分の弱さを認め、自身を主に明け渡すとき、そこに不思議な神の御わざが現されます。

創造主なる聖霊があなたのうちにおられます。

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2014年3月16日 (日)

ゼカリヤ1,2章 「神の瞳へのさばきといやし」

                                                  2014316

  世界の歴史に対するユダヤ人の影響力には驚くべきものがあります。ユダヤ人は世界人口のたった0.2%を占めるに過ぎないのに、全ノーベル賞受賞者の少なくとも2割、経済学賞に至っては4割がユダヤ人だと言われます。その秘訣を巡っていろんなことが言われますが、ユダヤ人は何よりも旧約聖書に親しむ民であるということは誰も否定できない事実です。

そして、ダビデ王国以前と、その後では、記され方に若干の違いがあります。ダビデ以前のテーマでは、主がともにいてくださるからこのような輝かしい勝利を収められたという成功物語が多い反面、後代の預言書では、「このような悲惨が起きたのは、主のさばきによる」と、自分たちの敗北を通して、主を見上げるということが記され、しかも、悲惨のただ中で、「それでも私たちは、主にとってご自身のひとみのようにかけがえのない存在だから、必ず、この苦しみを通して明るい未来が開かれる」という趣旨の事が記されています。

 

日本人は、「せっかく教会に行ったのに、こんな目に会ってしまった・・・」とぼやくことがありますが、旧約聖書の民は、「この悲惨は、万軍の主の御手の中で起こっている。だから、希望がある」と告白します。

苦難に会うたびに強くされた結果として、旧約聖書の民は、世界をリードすることができているのではないでしょうか。

そして、私たち日本に住むクリスチャンも、今は、聖書の民とされていることを忘れてはなりません。希望こそ信仰の賜物です。

 

  主は、ご自分の民イスラエルに向かって、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前から、やがて彼らがご自身に背いて、自業自得で悲惨に会うことを予期しておられました。

同時に、その放蕩息子のような民に向かって、「あなたは、わたしの目のひとみだ」(申命記32:10参照)と優しく呼びかけつつ、主に立ち返るのを待っておられました。

 

1.「わたしに帰れ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」

初めの、「ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主(ヤハウェ)のことばがあった」という表現はハガイ書に似ています。これは紀元前520年のハガイへの最初の預言から二か月余りが経過した頃、大贖罪の日や仮庵の祭りが終わった次の月のできごとです。

イスラエルの民はすでにハガイのことばによって悔い改め、また励ましを受けて、長く停滞していた神殿再建工事に既に取りかかっていました。

なお、「ゼカリヤ」という名には、「ヤハウェは覚えておられる」という意味があります。これこそ本書のテーマです。

 

  2節の主のことばは、原文では、「怒られた」から始まり、「怒り」で終わり、「激しく」という副詞はありません。それを日本語らしくすると、「(ヤハウェ)はあなたがたの先祖たちを(激しく)怒られた」と訳されるのでしょう。

 

3節は預言者ゼカリヤに託された実際の招きのことばです。ここではこの短い箇所に、「万軍の主(ヤハウェ)ということばが三回も繰り返されながら、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。わたしに帰れ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されます。

「帰れ」「帰る」とは「悔い改め」を意味する動詞ですが、それは方向転換、「立ち返る」ことを意味します。自分の過去の悪い行いを反省して心を入れ替えるという以前に、主に背を向けている状態から、主の御前に出ることこそ、主の命令です。

そして主が、「わたしもあなたがたに帰る」と約束しているのは、かつてエルサレム神殿が廃墟となったのは、主ご自身がその場を去ったからですが、今度は、再建中のゼルバベルの神殿に帰って来てくださるというのです。

 

  4節ではまず、「あなたがたの先祖たちのようであってはならない」と記されます。それは、「先の預言者たちが彼らに叫んで」言ったのにそれに耳を傾けなかったからです。

そして、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という内容は、原文では、「立ち返れ、あなたがたの悪い道と悪いわざから」と、心の方向転換が求められています(新改訳での「悔い改めよ」に相当する動詞はない)

そして、それなのに「彼らはわたしに聴かなかった、わたしに耳を傾けもしなかった」と記され、具体的な行動の変化以前に、主のことばへの注目の足りなさが非難されています。

主は私たちがどれだけ善い行いができるか以前に、ご自身のみことばに真剣に聴くことを願っておられるのです。

 

そして、彼らへのさばきを思い起こさせるように、「あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか(5)と問いかけます。同時に、「預言者たちは永遠に生きているだろうか」と問いかけながら、「しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか」と、神のことばがむなしく過ぎ去ることなく、彼らへの「のろい」として「追い迫った」と描かれます。

またその結果として起きたことが、「そこで彼らは立ち返った」という心の方向転換と、「万軍の主(ヤハウェ)は、私たちの行いとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」という主のみわざの一貫性と公平さに関しての「告白」でした。

わざわいに会う中で、主に立ち返り、反省できたのは、主が事前に預言者を通して語っておられたからです。

 

2.「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰った。そこにわたしの宮が建て直される」

7節では、先と同じ「ダリヨスの第二年」でありながら、「シェバテの月である第十一の月の二十四日」にと具体的な日付が記されます。これは太陽暦では、紀元前519215日に相当します。

そしてゼカリヤに対する不思議な「幻」のかたちによる啓示が続けて記されます。17節から615節まで、八つの幻が示されます。

 

第一の「幻」は、8-17節に記され、その様子が、「夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた」と描かれます。ヘブル語で「赤い馬」というときは、馬としては普通の色で、「濃い栗色」を指します。「栗毛」と訳されている色は、淡い茶色、「白い馬」は勝利のしるしでしょう。「ミルトスの木」は、常緑樹で多くの葉っぱをつけています。

 

ゼカリヤが、「主よ。これらは何ですか」と尋ねると、御使いが、「これらが何か、あなたに示そう」と答えます。ところが、そこに不思議にも、その御使いとは別の、「ミルトスの木の間に立っていた人」が答える様子が描かれます(910)

その上で彼は、「これらは、地を行き巡るために主(ヤハウェ)が遣わされたものだ」と述べます。

 

  そこに今度は、馬たち?が答える様子が、「すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った」と記されます。その内容は、「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした」というものでした。

それを聞いた、「主(ヤハウェ)の使い」は、エルサレムがなおも廃墟のままの状態で世界が安定していることに心を痛めます。そして、何と御使いがイスラエルの民のための取り成しの祈りをささげるかのように、「万軍の主(ヤハウェ)よ。いつまで、あなたは、あわれんでくださらないのですか、エルサレムとユダの町々に。あなたが激怒して、もう七十年になります」(12節私訳)と問いかけます。それはエレミヤが、この国がバビロンに踏みにじられる期間を七十年と預言していたからです(25:11,1229:10)

私たちは、御使いをいつもは神の代理としてとらえますが、ここでは何と、イスラエルの民の代理かのように、主に向かって大胆に訴えているのです。

 

それに対し、「すると主(ヤハウェ)は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた」(13)というのです。そして、そこで御使いからゼカリヤへのことばとして、「叫んで言え。万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」(14)と記されます。

その上でゼカリヤに委ねられた主のことばが、原文では、「わたしはねたんだ。エルサレムとシオンを、激しいねたみをもって」と記されています(新改訳の「激しく愛した」というのは原文にはない解説)

 

その上で2節の「怒り」という言葉を重ねて、激しい(大いなる)怒りをもって、わたしは、怒った」と、あえて「わたし」という主語を強調しつつ、ご自身の怒りを明確に記されます。

その理由は、「安逸をむさぼっている諸国の民」は、「わたし」が「少ししか怒らない」ことをいいことに、「ほしいままに悪事を行なった」からであるというのです。

 

ここでは、神の民への「怒り」は、愛の裏面にある情熱の「ねたみとして表現される一方、神の「怒り」を軽く見る「諸国の民」に対しての神の「怒り」は、彼らを滅ぼし尽くすほどに激しいものになると描かれているのです。

 

16節の原文は、主のことばが、「わたしはあわれみをもって、エルサレムに帰った」と完了形で断言されつつ、「そこにわたしの宮が建て直される」という約束が未完了形で強調されています。それは、時制というよりは、物事を外側から見るか内側から見るかという視点の違いです。

今、主はエルサレムに戻って来ておられるという新しい時代の幕開けの中で、神殿の再建というが内側から着々と進んでゆくというのです。

その上で、「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」とともに、「測りなわはエルサレムの上に張られる」と、エルサレムが整えられると約束されます。

そればかりか、「もう一度叫んで言え。万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる(17)と記されつつ、「わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる」というエルサレムの驚くべき祝福の回復の様子が描かれます。

その上で、改めて、「(ヤハウェ)は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ」と強調されます。これは何と感動的な預言でしょう。

神の民に対する神の怒りには、驚くべき希望があります。それは、最愛の子を躾ける理想的な父の姿と言えましょう。

 

3.「ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来た」

18-21節は第二の幻です。まず、ゼカリヤは、「私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった」と述べ、彼は自分と話していた御使いに、「これらは何ですか」と尋ねます。すると彼はゼカリヤに、「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ」と答えます(19)

「角」とは、イスラルの民を虐げた軍事的な力を指します。ヘブル語の「四つ」には、すべてを包含するという象徴的な意味がありますが、それは具体的に、北王国を滅ぼしたアッシリヤ帝国、エルサレムを滅ぼしたバビロン帝国、また、当時の支配者であったペルシャ帝国、そして、アレキサンダー大王のギリシャ帝国を指すとも解釈されます。

しかし、次の「四人の職人」との関係を見ると、具体的な国名を上げない方が良いと思われます。実際、当時のペルシャ帝国は、ユダの民にとって解放者として位置付けられているからです。しかも、「四つの角」は一匹の獣の上に生えていたと考えることもできます。

なお、レビ2614節以降には、主の御教えを聴こうとしない者へのさばきが記されますが、その33節では、主のさばきのことばが、「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたが他の地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる」と記されていました。まさに神の民にそのとおりのさばきが下されたのです。

 

2021節では逆転の希望が記されます。まず、「そのとき、主(ヤハウェ)は四人の職人を私に見せてくださった」と描かれ、ゼカリヤが、「この者たちは、何をしに来たのですか」と尋ねます。

それに対し、主は、「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ」と言われます。「この者たち」とは「四人の職人」ですが、彼らはユダを散らした四つの角を「恐れさせ」、また「打ち滅ぼすためにやってきた」というのです。

 

ここに、「四つの角」を圧倒する「四人の職人」のことが描かれています。それは、「職人」が重いハンマーで「角」を砕くことができるからです。この「職人」が具体的に何を意味するかは記されていませんが、バビロン帝国を滅ぼし、ユダの民を解放したペルシャ帝国を指すという解釈もあり得ます。

神はご自身の民をさばくために「角」を用いはしますが、それと同時に、」が自分の力を誇って傲慢になってゆくときには、新たな「職人」というさばき人を用いて「角」をさばくのです。

神はアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろうと言われましたが(創世記12:3)、それがアブラハムの子孫であるイスラエルの民にも成就するのです。

神の民に復讐する力はありませんが、神は別の器を用いて神の民のための復讐を遂げられます。

 

4.「シオンの娘よ。喜び歌え、楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」

21-13節は三つ目の幻です。まず、「私が目を上げて見ると、なんと、ひとりの人がいて、その手に一本の測り綱があった」と描かれます。ゼカリヤがその人に、「あなたはどこへ行かれるのですか」と尋ねると、彼は、エルサレムを測りに行く。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えます。

そしてその後、「私と話していた御使いが出て行くと、すぐ、もうひとりの御使いが、彼に会うために出て行った」と記されます。

ここでゼカリヤ自身も、エルサレムを見るために駈け出したのでしょう。そこで「もうひとりの御使い」が、ゼカリヤと話していた御使いに向かって、「走って行って、あの若者にこう告げなさい」と告げます。

ここでゼカリヤのことが「若者」と呼ばれるのは、死ぬことのない御使いの目からの呼び方なのかもしれません。御使いどうしの対話は興味深いものです。

 

そして、ゼカリヤに伝えられた約束が、「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう」(2:4)というものでした。当時のエルサレムは、その約75年後に城壁修復の工事が、ネヘミヤの指導で行われるように、城壁のない無防備な町でした。それはユダヤ人にとって大きな屈辱でしかありませんでした。

ところが、ここで御使いはゼカリヤに向かって、将来的なエルサレムのあまりの繁栄のゆえに、城壁を作ることができないほどに広くなってしまうと言ったのです。

その上で、町の守りに関して主は、「しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる・・・わたしがその中の栄光となる(2:5)と約束してくださいました。主ご自身が「火の城壁」となって敵の攻撃から町を守るばかりか、かつてエルサレムを去った「主の栄光」が町に戻ってきて、その真ん中に住んでくださるというのです。

その上で、なおペルシャ帝国の中心地に住んでいるユダヤ人に向かっての「(ヤハウェ)の御告げ」が、「さあ、さあ。北の国から逃げよ・・・天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ・・・さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ」と訴えられます(2:6,7)

かつて、主はユダの民を世界に散らしましたが、今度は、主ご自身が彼らのエルサレムへの帰還を励まし、導いておられるというのです。

 

  28節の、「主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という意味は解釈が困難です。これはこの少し前、バビロン帝国の滅亡の前の時を指していると思われます。

とにかく、ここでは、エルサレムを略奪した国々に対する神のさばきが、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と告げられます。

これは申命記3210節を思い起こさせつつ、イスラエルの民をご自分の「目のひとみ」と呼びつつ、イスラエルに害を与えようとする者は、主ご自身の目のひとみを攻撃するような自滅行為であると述べたものです。

そして、主はご自分の「目のひとみ」を守るために、「見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる」と言われます。その結果、「彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる」と、自分たちが虐げた民のとりこにされるという逆転が描かれます。

その上で、ゼカリヤ自身が主によってイスラエルに派遣された預言者であることを民が認めるということが、「このとき、あなたがたは、万軍の主(ヤハウェ)私を遣わされたことを知ろう」と描かれます。

 

そして再び、神の民に対する慰めのことばが、「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む(2:10)と描かれます。

これこそ、イスラエルの民にとっての夢が実現する状態です。主の栄光が、エルサレムに戻ってきて、人々はそれを喜び、歌い、また楽しむというのです。エルサレムは再び、名実ともに、「主の都」として繁栄します。

そればかりか、「その日、多くの国々が主(ヤハウェ)につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む(2:11)というのです。これは、主の民の枠が、イスラエルから全世界の人々に広がることを意味します。

イエスがエルサレムに入城した時、人々は、イスラエルのローマ帝国からの解放を期待して、喜び歌いました。しかし、それは、神の民の枠がユダヤ人を超えて世界に広がることの始まりだったのです。

 

そのことがゼカリヤに知らされているのは驚くべきことです。11節の最後は、「シオンの娘」に向かってゼカリヤが、「あなたは、万軍の主(ヤハウェ)が私をあなたに遣わされたことを知ろう」と、その成就を喜ぶ姿が描かれます。

これまで、「主が私を遣わす」と三度も繰り返されるのは、この預言が必ず成就すると強調するためでしょう。

 

  そして、「(ヤハウェ)は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる」(2:12)と記されますが、この「聖なる地」とは、現在のパレスチナとは限りません。それはここで最初にエルサレム自身が、あまりの広さのゆえに城壁のない町とされていると描かれているからです。

そして、ユダの「割り当て地」とは、現在、私たち神の民全体にとっての「割り当て地」であるこの世界全体になっています。

そして、そのとき、主は天の聖なる住まいから降りてきて、すべての肉なる者の真ん中に住んでくださるということが、「すべての肉なる者よ。主(ヤハウェ)の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ(2:13)と描かれています。

 

  ゼカリヤ書には「万軍の主(ヤハウェ)ということばが何度も繰り返されます。それは、目に見える現実が、まるで神がいないような悲惨な状況だからです。

神の家と呼ばれたエルサレム神殿はバビロン帝国によって滅ぼされ、ようやく再建が始まった神殿は、あまりにも小さなものでした。それは、異教徒のペルシャ帝国の王のあわれみでようやく再建が許されているに過ぎません。人間的に考えると、ペルシャの王こそが、ユダヤ人の保護者、救い主です。彼らは目に見える政治状況の中で、彼らの神が、どんな王国を凌駕する「万軍の主であることを、繰り返し語れる必要がありました。

主は、預言者ゼカリヤを通して、神の民にとっての将来が、どれほど栄光に満ちたものであるかを様々な幻を用いて解き明かします。この栄光に満ちた幻こそが、ユダヤ人共同体を築き上げたのです。

 

「喜び歌え、楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたがたのただ中に住むということばは、この日本で吹けば飛ぶようなひ弱な存在であるクリスチャンにも適用できます。

私たちの目にその栄光は見えなくても、全宇宙の創造主が私たちの真ん中におられるのです。その祝福は、今、徐々に広がり続け、全ての人に明らかになります。

 

私たちは、無意識のうちに無神論的な因果律の概念に支配されています。しかし、悪いことが起こるたびに、過去に原因があると反省はしても、人はまた同じ過ちを繰り返してしまい、最後には絶望に追いやられます。

しかし、聖書の神は、因果律を超えて、ご自身の一方的な祝福を約束してくださいました。

すべての災いの中に、「わたしに帰れ」という主の招きがあります。それに応じる者には、人智を超えた祝福の世界が約束されているのです。

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2014年3月 9日 (日)

ヨハネ福音書1章19-34節「聖霊を授けられて生かされる」

                                                    201439

  私たちの信仰生活の神秘は何よりも聖霊のみわざにあります。初代教会の時代、アポロという雄弁な伝道者がいましたが、彼のことが、「イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」と描かれ、それに対し、パウロのから教えを受けていたプリスキラとアクラが、「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」と描かれています(使徒18:24-26)

私たちは聖書知識においてイエスを正確に知ることはできますが、新約聖書の信仰の核心とは、何よりも、聖霊のみわざにあります。そして、聖霊は何よりも、あなたの心の奥底に、イエス・キリストを示し、その救いのすばらしさを体験させてくださる全能の神です。

あなたの信仰生活は聖霊のみわざによって始まりました。それを忘れると、息苦しい信仰生活になってしまいます。

 

1.ヨハネの福音書のテーマ

  ヨハネの福音書11節~18節はひとつのまとまりになっています。そこではまず、最初、イエス・キリストは世界の初めの時から父なる神とともにおられた創造主であるという驚くべきことが記されています。

そして、「ことばは人()となって、私たちの間に住まわれた」(14)と、創造主の受肉のことが記され、その目的が、神を見ることができない人間に、「神を説き明かされる」ということであったというのです(18)。受肉前のキリストが「ことば」として描かれているのはそのためです。

ことばによって人は真理を知ることができます。神の「ことば」であるキリストご自身が、私たちに天地万物の創造主、この世界の真の支配者がどのような方かを説き明かしてくださいます。

 

  しばしば、「神が愛なら、どうして世界にこんな不条理と痛みがあるのか・・」という疑問が出されます。それに対して、聖書はその疑問に正面から答える代わりに、父なる神とともに世界を創造した方ご自身が、この世界の痛みを引き受けるために、私たちと同じ不自由な肉体を取ってくださったということを描きます。

痛みや苦しみの原因ではなく、創造主ご自身が私たちとともに苦しんでくださり、すべてを益に変えてくださるということがわかるのです。

 

そして、そのような文脈の中に、67節では、ヨハネという人のことが紹介され、「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」(7)と記されています。

つまり、イエスは「神を説き明かす」方である一方で、このヨハネという人はイエスがキリスト(救い主)であることをあかし」する方であるというのです。

イエスは人間的には大工のせがれに過ぎないと見られていましたから、人々の信頼をより得ている人の紹介が必要でした。そして、ヨハネは祭司の長男として人々の信頼を集めていました。

 

そして、19節では、「ヨハネの証言は、こうである」と描かれています。「証言」の原文は、7節の「あかし」と同じことばです。そして彼が、どのようにイエスを紹介したか、その様子が19-34節に描かれており、その結論は、「この方が神の子であると証言している(34)ということになります。

そしてまた、この福音書のほとんど最後には、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)と記されています。

しかも、ここに紹介された「ヨハネ」が何をやっていたかについては、28節に至ってようやく、「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」と描かれています。ここで初めて、読者は、「ヨハネ」と呼ばれる人が、他の福音書で「バプテスマのヨハネ」と呼ばれている人のことであるということがわかります。

 

しばしば、英語の文章は結論を最初に記述する一方で、日本語はなかなか結論が分かりにくいなどと言われますが、少なくともこの福音書は英語のようには記されていません。全体を読んだ上で、丁寧に分析しないと本当の意味は分かりません。

しかも、何度も繰り返されることばに関しても、著者(使徒ヨハネ)自身がどのような意味で使っているかを注意深く考える必要があります。

たとえばここでの「神の子(ヒュイオス)」とは、世界の始まる前から父なる神とともにおられ、ともに世界を創造された方という途方もない意味です。当時の人々は、ローマ皇帝を「神の子」と呼びました。ですからこの福音書では、イエスはローマ皇帝に勝る全世界の真の支配者であるということが強調されているのです。

そして、私たちがイエスを信じることによって「神の子どもとされる(1:12)というのも、使徒パウロが、「あなたがたは・・奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる(ヒュイオスの立場とする)御霊を受けたのです(ローマ8:15)というように、イエスとの共同支配者とされるという驚くべき意味が込められているのです。

 

世界の創造主が私たちと同じ人間になられたのは、このひ弱な、罪に誘惑されるばかりの不自由な私たちが「神の子どもとされる特権(12)の豊かさを味わうことができるためなのです。

神はこの世界の痛みをすぐになくす代わりに、痛みのただ中に、いのちの豊かさを与えてくださるためでした。チェルノブイリ原発事故で多くの人々が生活の場を失いましたが、それ以上に悲惨なのは、その多くの方々が、政府の援助金を頼りにして生きるようになってしまい、働く気力を無くしてしまったことだと言われています。

残念ながら、フクシマにも同じことが起きているとのことです。被害を受けた方に補償を与えるのは、政府や東電の当然の責任です。しかし、希望と気力を政府は与えることができるでしょうか。そこに私たちキリストの教会の使命があるのではないでしょうか。

 

2.「私は声です。荒野で叫んでいる者の・・・預言者イザヤが言ったように」

19節の「ヨハネの証言」の内容が説明されるプロセスとしてまず、「ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、『あなたはどなたですか』と尋ねさせた」と記されます。何と神殿に仕える「祭司とレビ人」自らが、ヨハネに質問をしにやってきたばかりか、その背後にはエルサレムに住むユダヤ人たち全体の問いかけがあったというのです。

この質問は、厳密には、「あなたは何か」と記され、「あなたには、どのような立場や資格を神から与えられて、ヨルダン川でバプテスマを授けているのか・・」と尋ねたという意味です。

当時のユダヤ人たちは、ヨハネが祭司ザカリヤの長男であり、ザカリヤがヨハネの誕生の不思議を語っていたということもうわさで聞いていたことでしょう。その意味で、彼らはヨハネについての情報を持ってはいました。しかし、彼らを当惑させていたのは、あまりに多くの人々が、ヨルダン川に下ってヨハネからバプテスマを受けていたということでした。それは、祭司やレビ人にとっての生活の基盤であるエルサレム神殿の権威に対する挑戦に他なりませんでした。

 

当時の人々が、ヨハネが授けていた「バプテスマ」からイメージしたのは、レビ記14章に描かれているもの、ツァラアト(らい病とも訳されたことば)に犯された人の癒しを神殿の祭司が確認し、小鳥をいけにえとしてささげさせ、その血をその人に振りかけ、七日間を隔てて二回にわたって水を浴びてもらうという儀式であったと思われます。

事実、イエスはツァラアトの人を癒した後、「人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい」と言われました(マタイ8:4)。つまり、バプテスマは、今まで汚れた者と見られていた者が、再び神の民の交わりの中に受け入れられるためのしるしと見られました。

そしてヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマと呼ばれていました。それも基本は同じで、自分が神の前に汚れた者であることを認め、水で洗ってもらうことによって、再び神の民として受け入れられ、神の民として歩み出すという意味がありました。

それこそ、エルサレム神殿が人々に提供する人生の再出発のシステムでした。それをヨルダン川に下って行って、水を浴びれば用が足りるというのは、神殿システムへの挑戦、祭司やレビ人の収入源を奪うことにも通じます。

 

  ヨハネの答えの様子は、「彼は告白して否まなかった(20)でまず区切った方が良いと思われます。そこには、彼は質問した人々の心のうちにある問いを察して、先回りして答えたという意味と同時に、23節までの応答を予想して自分の立場を語っているからです。

その上で、彼はまず、「私はキリストではありません」と「告白した」と記されますが、それは先の「告白して」とまったく同じ動詞です。ユダヤ人たちの中に、バプテスマのヨハネを救い主キリストと見る人々がいたことに対し、彼は明確な「告白をした」というのです。

それに対し使者たちは、「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか」と、今度は具体的に聞きます(21)。旧約の最後の預言者マラキでは、主ご自身が、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす」と記されていたからです。

不思議にも、まず、「大いなる恐ろしい日」を実現するのは、救い主キリストであるというのです。そして、そのキリストによるさばきへの備えとして、神は預言者エリヤを遣わして、人々の心を回心に導くというのです。

 

イエスは後に、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした・・・あなたがたが進んで受け入れるなら、実は、この人こそ、きたるべきエリヤなのです(マタイ11:11,14)と言われました。ですからヨハネが自分のことを「私こそエリヤです」と答えても良さそうなものですが、彼は、自分はエリヤでも預言者でもないと答えます。

それは当時の人々が、自分の都合に合わせた、自分にとって分かりやすいエリヤや預言者のイメージを膨らませていたからではないでしょうか。少なくとも彼らが描いていた救い主キリストのイメージは、ユダヤをローマ帝国の支配から解放する軍事的指導者のような存在でした。それに合わせて、彼らにとってのエリヤや預言者のイメージもできていたことでしょう。

ヨハネはそのような彼らの既成概念を崩すためにも、ヨルダン川でバプテスマを授けていたのですから、彼らに考えさせるために、期待通りの答えを言わないのも当然でした。

 

しかし、そのヨハネの意図を知る気のなかった「祭司とレビ人」たちは、自分の質問の動機をあまりにも御用聞き的な感じで、「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが」と表現しました。

彼らは民の指導者でありながら、真理を知りたいのではなく、どのように報告すべきかだけを考えていただけなのです。

 

そして、改めて彼らはヨハネに、「あなたは自分を何だと言われるのですか(22)と尋ねます。それに対し、ヨハネは、人々の心を自分のイメージではなく、みことば自体に立ち返らせるために、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」と答えます(23)

 

これはイザヤ403節からの引用です。そこでは、「主の道を整えよ・・」と荒野で呼ばわって、人々に主の栄光が戻ってくる備えを促す呼びかけの声です。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することを意味しました。

エルサレム神殿が廃墟とされ、その後も外国の支配下に置かれていたのは、主の栄光が立ち去ったからと描かれていますが、今や、主の栄光がイスラエルの地に戻って来るというのです。

その備えをするというのは、自分たちのアジェンダを横において、主のみことばに謙遜に耳を傾けることです。

 

それは具体的には、イザヤ40章以降に記された主の御声に耳を傾けるということです。そこには当時の常識とはまったくかけ離れた神の救いのご計画が描かれていました。特に、イザヤ53章に至っては、主のしもべが、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(5)と、彼らが期待した救い主とは正反対の働きが記されていました。

とにかく、ヨハネは自分を、「私は声です」とまず「告白」した後に、「荒野で叫んでいる者」と付け加えています。ヨハネは自分の働きを、イザヤの預言に従って、「主をお迎えする道を整えるように荒野で叫んでいる声」と、聖書のみことばの中に具体的に見いだしています。

それは当時の人々が描いたエリヤや預言者のイメージではありません。あくまでも愚直に、聖書のストーリーを人々に紹介する「声」としての働きです。

 

この世は、いつも明確な答えを求めます。しかし、分かりやすい答えというのは、その人の問いかけの動機自体を問い直させはしません。聖書は私たちの問いかけの動機自体を正させようとします。

みことばに聴くことの基本は、あなたの問いかけではなく、神が聖書を通してあなたに問いかけていることに心の耳を開くことなのです。

 

3.「私は・・水でバプテスマを授け・・・その方は、聖霊によってバプテスマを授ける」

24節に至って初めて、「彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった」と描かれます。「パリサイ人」は、イスラエルの信仰復興をリードするような改革者を意識していた人々で、彼らは聖書の教えを民衆の生活に具体的に適用することに熱くなっている宗教指導者のグループでした。

そして彼らは改めて、「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか(25)と尋ねます。

 

それに対しヨハネは、「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(2627)と答えます。

ヨハネは自分のバプテスマの意味を語る代わりに、自分はあくまでも「主の道をまっすぐにせよ」と叫んでいる「」に過ぎないということを、この表現で明確にしたのだと言えましょう。

私たちは自分の立場の弁明しようとしますが、彼は人々の心を、主から与えられた具体的な働きへと向けさせようとしています。

 

そして、ここに至って初めて、「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」と記されます(28)。それは、次の出来事に読者の目を向けさせるためです。

 

そして、「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った」(29)という場面描写と共に、ヨハネの声が、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と描かれます。

それは、まさにイザヤ53章を思い起こさせることばです。そこではいけにえとしてほふられる羊のことも記されていました(7節)。それと同時に、「罪を取り除く子羊」とは、イスラエルの民をバビロン捕囚以降の奴隷状態から解放する犠牲の子羊という意味がありました。

イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚えるために過越しの祭りを毎年祝い、そこでは子羊を屠って、その血を二本の門柱とかもいに塗りました。主のさばきはその戸口を過ぎ去る一方、エジプトのすべての初子は主のさばきを受け、イスラエルは奴隷状態から解放されたというのです。

そして今、同じように、イスラエルはバビロン捕囚以降の奴隷状態からイエスの血によって解放されるということをヨハネは示唆したのだと思われます。

 

そしてヨハネは引き続き、「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです(3031)と述べています。

イエスは人間的にはヨハネよりあとに生まれており、社会的な立場もヨハネの方がはるかに上でした。しかし、ヨハネは、イエスはマリヤから生まれる前から世におられた神の御子という意味で、自分より先におられ、はるかに勝る存在であるということを様々な表現で語っています。

そして、ヨハネ自身もそのことを知らなかったと告白しながら、自分もイザヤ書を通して救い主の働きを理解し、そのことをイスラエルの民に今あかしをしているのだと説明しました。

 

なお、ヨハネがヨルダン川の東側でバプテスマを授けていたのは、イスラエルの民が出エジプトの後、ヨシュアによって導かれてヨルダン川を渡り、約束の地に侵入したことを思い起こさせるという意味もありました。

イエスのヘブル語名はヨシュアでした。ヨハネは、イエスこそが神の民を奴隷状態から解放し、新しい神のご支配の中に導き入れる新しいヨシュアであると述べたのです。それこそ旧約のイスラエルの預言を成就する救い主の姿でした。

 

  32節は、「またヨハネは証言して言った」から始まりますが、「証言」とは、7節の「あかし」、19節の「証言」と同じ言葉です。ヨハネはあくまでも、救い主を紹介するために自分は来ていると言っており、ここでの証言の内容が、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです(32-34)と記されています。

 

御霊が鳩のように天から下ったのは、ヨハネがバプテスマを授けた直後の事ですが、彼は自分がイエスにバプテスマを授けたということを述べることなく、その出来事をあかししています。しかも、それは、「私を遣わされた方」の命令によるというのです。

そして、「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられる」とは、イザヤ421節のことばを思い起こさせるものです。そこには、「見よ。わたしのしもべ、わたしがささえる者を。わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきをもたらす」(私訳)と記されていました。

 

そして、主の御霊に導かれた救い主の働きが、「聖霊によってバプテスマを授ける」と描かれています。先にヨハネは自分の働きを、「私は・・水で(によって)バプテスマを授けている」と紹介しましたが、ここでは救い主の働きを、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方」と紹介しており、「水で」と「聖霊によって」が同じギリシャ語の「エン」(英語のin)という前置詞で対比されています。

それは、バプテスマのヨハネの働きが、イスラエルの原点に立ち返らせる古いヨシュアに導かれたヨルダン渡河にあったとすると、新しいヨシュアの働きが新しい天と新しい地に導き入れる働きであり、そのために主は聖霊をイエスに従う者に与えてくださるということになります。

 

なお、エゼキエル36章25~27節には、水のバプテスマと聖霊のバプテスマとの関連が描かれています。そこでは、主が不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださることが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明され、その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないよう、それに先立ってなされることが、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と記されます。

これは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。ヨハネのバプテスマはその原点に立ち返るものであり、これは現代の洗礼式に結びつきます。

 

その上で、原文では26節から新しい文章が始まり、そこで主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言されます。神は彼らに肉のような柔軟な「心」を与えるばかりか、「新しい霊」を授けてくださることが、わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。

イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。それで主は、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。

聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。

 

神の御教えは旧約から新約まで一貫していますが、新約の時代には、神はご自身の教えを「彼らの心に書き記す(エレミヤ31:33)と記されています。

バプテスマのヨハネは、私たちの罪を指摘して悔い改めのバプテスマを授けることはできましたが、イエスは私たちの内側に聖霊を授けてくださいました。人は自分の罪ばかりを指摘されると委縮することがあります。力を抜いて自分を神に差し出し、聖霊にある自由によって生かしていただきましょう。

 

ただし、聖霊のみわざは、自分で自分を奮い立たせるようなことではなく、神がお造りになれたはずの世界にある「うめき」を自分の「うめき」とし、自分の限界を心から味わいつつ、「うめく」ということから始まることを忘れてはなりません。

どのように祈ったらよいか分からない」ような中に、聖霊のみわざは始まるからです(ローマ8:22-26)

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2014年3月 2日 (日)

ハガイ書 「あなたがたの現状をよく考えよ」

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私たちの人生では、すばらしい喜びの後に、倦怠感に襲われることがあります。イスラエルの民は紀元前538年にバビロン捕囚の地からエルサレムに戻ってくることができました。

詩篇126篇はその時の喜びを描いたものかもしれません。そこでは、「主(ヤハウェ)がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」と描かれています。

 

そのとき私たちは「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」と告白できます。しかし、そこでもその後の涙と嘆きが描かれます。それこそ人生の常です。

そんなときこそ、繰り返し、私たちは主の恵みを思い起こすことに立ち返る必要があります。主を第一とすることこそ、主の恵みの世界への入り口です。

 

1.「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」

ハガイ書の書き出しは具体的な預言が示された日時から始まります。これは極めて珍しいことで、エゼキエルの書き出しに似ています。

それは目の前が絶望的な状況の中で、神からの新たな視点が与えられるという変化が強調されるからです。私たちの人生にも、「このときから私は変えられた」と思えることがあるかもしれません。

 

皮肉なのは、原文では「第二年」に続きすぐに異教徒の王「ダリヨス王の」ということばが続くことです。日本でいえば、西暦ではなく天皇の元号で語るようなものです。ただ、当時の世界ではペルシャ帝国の支配下ですからその三代目の王の名で時を数えるのは極めて分かりやすい事でした。

また続けて「第六の月の一日に」とありますが、これは過越しの祭りを起点にして(私たちにとっては復活祭の三日前)、第六の月の新月(満月の反対)の日です。聖書では、安息日とは別に「新月」のたびに礼拝がささげられるように命じられていました(民数記10:1028:11)

それは大贖罪の日の40日前、太陽暦に直すと紀元前520829日という日付が特定できます。


 ペルシャ帝国の初代の王クロスはバビロン帝国を滅ぼした翌年の紀元前538年にユダヤ人のエルサレム帰還を許します。それはエズラ記の冒頭に記されているようにイスラエルの神ヤハウェご自身がクロスの心を動かしたからでした。しかし、工事着工から二年ぐらいで激しい妨害が起こり工事は中止に至ります(エズラ4:54:24、ただし4:23は時系列的にはずっと後の時代の事)

しかし、そこには敵の妨害以前に、帰還したユダヤ人が、目の前の生活を優先せざるを得なかったという事情もありました。なにしろ、五十年間放置されていた廃墟に戻って生活を建て直すのですから、神殿よりも目の前の自分の衣食住が優先されるのも無理がないと言えましょう。

 

そのような中で、主は、「預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュア」に向けてお語りになります。

興味深いのは、ゼルバベルもヨシュアもこの15年余り前にユダヤ人のエルサレム帰還を導き、神殿の礎を建てた、信仰的な英雄です。主はしかし、彼らに直接語る代わりに、当時無名の預言者ハガイを通してお語りになりました

しばしば、目に見える指導者は民の気持ちに寄り添うことを優先するあまり、主のみことばよりも目の前の現実に心が動かされがちだからかもしれません。

 

第一のことばは、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。この民は、主(ヤハウェ)の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている」というものでした。エゼキエル40章以降には、捕囚となったばかりの民に示された壮大な神殿の設計図のようなものが示されていました。それを見る時に、「こんな中途半端な神殿を建てて何になるのだ・・」と言う声が上がっても無理はありません。

続けて主は極めて皮肉に満ちた厳しい調子で、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(4)と言われます。原文では最初に、「これは時であろうか・・あなたがただけが」と、神殿の状態との対比が強調されています。彼らは最低限の家を建て始めたつもりが、豪華な「板張りの家」にまでなってしまったというのです。

それにしても、一般民衆は「板張りの家」などを建てる余裕はないとも思われますから、これは総督ゼルバベルを初めとする民に指導者に対する叱責を込めたことばかとも思われます。そのように考えるとこの書の最初にゼルバベルの名が記される意味が良くわかります。

 

その上で主は、「あなたがたの現状をよく考えよ」と前置きしつつ、「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない(6)と彼らの問題を分析しました。それは、一生懸命働いても収穫が少ないばかりか、せっかくの食べ物も飲み物も着物も、「もっともっと」という渇きを刺激するばかりだというのです。

そればかりか、「かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」とあるように、せっかくの勤労の実の蓄えを増やすこともできないというのです。つまり、自分の生活を建て直してから主の宮に取りかかろうと思うと永遠に建設はできないということなのです。

 

それに対し、主は再び「あなたがたの現状をよく考えよ」と言いつつ、具体的な行動を促すように、「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」(8)と命じ、それと同時に、「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」という力強い約束を与えてくださいました。

かつてのソロモンの神殿が廃墟となったのは、主の栄光がそこから立ち去ったからでした。しかし、主は再び建てられた神殿の中にご自身の栄光を現してくださるというのです。

 

そして主は、「あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか・・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ」(9節)と言われました。

つまり、彼らの生活が期待したように豊かにならないのは、主の宮を建設することを後回しにして自分の生活のために走り回っていたからだというのです。

 

それに対し主は、「それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた(1011)というさばきを下されたというのです。

イスラエルの地は気候が温暖で豊かな日に光に満ちていますから、適度な水があると驚くほどの豊かな収穫が期待できます。特に8月、9月には「」が穀物を実らせるために必須のものでした。しかし、主は水を不足させたというのです。

11節は、「わたしはまた、ひでりを呼び寄せた」という恐ろしい表現から始まり、「手」ということばで終わります。どんなに一所懸命に手を動かして働いても、それが主のみこころに反していたなら、すべての労苦は無駄になってしまうのです。

私たちはしゃにむに動き回る前に、主との交わりを第一とするということを覚えなければなりません。

 

2.「わたしは、あなたがたとともにいる・・・─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」

12節ではそれに対する人々の反応が、「そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主(ヤハウェ)の御声と、また、彼らの神、主(ヤハウェ)が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った」と描かれます。彼らは「あなたがたの現状を考えよ」という主からのことばが、まさにその通りでであったことを素直に認めました。

なお、イザヤ1022節には「残りの者」という表現に関し、「たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る」と、主の民として立ち返って来るのは一部に過ぎないと預言されていました(ローマ9:27参照)

そしてここでは、「民は主(ヤハウェ)の前で恐れた」と描かれていますが、それこそ「残りの民」がイザヤの預言を思い起こしたときかと思われます。

 

13節ではハガイが改めて「(ヤハウェ)の使い」と呼ばれ、また、「(ヤハウェ)から使命を受けて」、民を励まします。それは極めて簡潔なことばで、「わたしは、あなたがたとともにいる」というもので、「主(ヤハウェ)の御告げ」という保証も加わります。

マタイによる福音書では、マリヤから生まれた救い主は、イザヤが「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる」と預言したことの成就であると記されていました。

神が私たちとともにおられる(インマヌエル)」という恵みは、いつでもどこでも起こる当たり前の事では決してありません。それは、神がご自分の民の罪を赦してくださったとうことの何よりの現れなのです。

 

その上で主ご自身が彼らの心を動かしてくださり、工事が再開されたことが、「主(ヤハウェ)は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主(ヤハウェ)の宮に行って、仕事に取りかかった」(1415節)と記されます。

そして最後に、「それは第六の月の二十四日のことであった」と改めて具体的な日付が記されます。それは、大贖罪の日の16日前、太陽暦では紀元前520921日の事でした。

この月は、彼らにとっての最も大切な収穫作業のときです。彼らは急いで収穫を終わらせ、休む間もなく、神殿再建工事に執りかかったのです。

 

2章初めでは、「ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に」とありますが、これは大贖罪の日の11日後、仮庵の祭りの終わる前日で、太陽暦では紀元前5201017日のことです。

第七の月は、このような大切な礼拝と祭りの日々が続き、働いてはならない日が続くので、その祭りの八日目の「全き休みの日(レビ23:39)の前日に、再び、民を励ますために主が語ってくださいました。それは休みの後にすぐに働きを再開させるためでした。

 

主は民の指導者に向けて、「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか(2:3)と彼らの落胆の気持ちに寄り添うようなことを言われます。ソロモンの神殿に比べるとあまりに惨めなものにしか見えなかったからです。

そしてこの落胆の気持ちも、神殿工事が中断した一つの理由だったと思われます。

 

それで、主はここで引き続き、具体的に総督と大祭司の名を呼びながら、「しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。─主(ヤハウェ)の御告げ─エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。─主(ヤハウェ)の御告げ─仕事に取りかかれ」と命じます。

強くあれ」ということばが三回も繰り返されます。これはヨルダン川を渡って約束の地に民を導き入れようとするヨシュアに向かって、主が、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう・・強くあれ、雄々しくあれ(ヨシュア1:5,6)と命じたことを思い起こさせることばです。

 

そして、彼らが「強くある」ことができる理由として再び、「わたしがあなたがたとともにいるからだ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」と言われます。万軍の主がともにいてくださるなら、何も恐れるべきものはありません。

 

その上で、主はイスラエルの民との契約を思い起こさせながら、「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな(2:5)と言われます。

かつて、イスラエルの民は金の小牛を作って拝み、神から捨てられそうになりますが、モーセの必死の取り成しによって、その罪が赦され、主は再び民を励まして幕屋を建てさせました。

そのときのことが、「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主(ヤハウェ)が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた」(出エシ36:2)と記され、特にベツァルエルに関しては、主は「名ざして召しだし、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた」(35:30,31)と描かれています。

つまり、主は、ひとりひとりを名ざして召しだし、ご自身の霊を授け、ご自身の幕屋を建てられたのです。今、そして、同じように主ご自身がひとりひとりの心を動かし、ご自身の神殿の建てようとしておられるのです。

 

ですから、ここでもゼルバベルとヨシュアの名が特別に呼ばれています。私たち日本人は、集団の中に個人を埋没させがちですが、聖書の神は、ひとりひとりを特別に扱われ、用いてくださいます。

 

  そして、主は後の時代に成就する約束として、「しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす(2:7)と言われます。

そしてこの約束を保証するように、前後に「万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と記され、またそれに畳み掛けるように「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ(2:8)と言われます。

 

エズラ記56章には神殿工事再開後まもなく、工事に対する疑問がペルシャの王に訴えられましたが、ダリヨス王はクロス王の文書を発見して、カナンの地を治めるペルシャ総督に、その地の税金を神殿工事に回させ、工事への協力を惜しむことのないようにという命令が下されました。それはこの預言が成就し始めたことを意味します。

 

  9節はこの書の中心聖句で、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」と記されます。

先の栄光とは、ソロモンが建てた絢爛豪華な神殿です。それに比べると、今建てられようとしている神殿は、「まるで無いに等しく」(2:3)しか見えませんでした。

しかし、この惨めな神殿にやがて実現する栄光は、ソロモンの神殿にまさるというのです。しかも、主は神の平和を意味するエルサレムに真の平和(シャローム)を与えてくださるというのです。

 

実は、イエスがお生まれになられたとき全盛期を迎えていたヘロデ大王は、このみことばを人間的に実現しようと、この神殿を大増築し、エゼキエルに示された設計図を生かしながら、ソロモンにまさる壮大な外庭や内庭を持つ神殿としました。

イエスの弟子は、その神殿を指して、「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」と感動していたことが記録されています(マルコ13:1)

ただ、イエスは弟子たちと最初にエルサレム神殿を訪ねたとき、神殿を誇っているユダヤ人たちに向かって、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われました(ヨハネ2:19)

それは、ご自分が十字架にかかってすべての民の罪を贖い、神殿が建てられた罪の贖いという目的を満たし、三日目によみがえって神殿を完成することを意味していました。

 

しかもそれ以前、イエスご自身が、ヘロデが建てた神殿に入られた時、神殿は主の栄光で満たされていたのです。なぜなら、イエスは(ヤハウェ)ご自身であられたからです。モーセが幕屋を建てたとき、栄光の雲が幕屋を覆いました、またソロモンが神殿を完成した時、主の栄光が宮に満ちました。

そして、このハガイ書の時代のゼルバベルが建てた神殿には一度も主の栄光の雲は現れませんでした。ヘロデは外側を金で覆いましたが、その栄光は見せかけのものに過ぎませんでした。ただ、そこに神の御子ご自身が入られた時、なさにこの9節の預言が文字通り成就したのです。

しかも、イエスは「この所に平和を与える」という「平和の主」ご自身であられました。

 

神殿の目的は、罪の贖いと同時に、主ご自身が私たちの真ん中に住んでくださるということでした。主は、今、イエスの御霊によって私たちの内側に、また、私たちの交わりの真ん中に住んでいてくださいます。

 

3.「きょうから後、わたしは祝福しよう」

 そして210節には再び、「ダリヨスの第二年の第九の月の二十四日」という日付が出て来ます。これは、紀元前5201218日に相当し、神殿の再建工事が始まって三か月の記念日でもあります(1:15参照)

そこで、主はハガイを通して祭司たちに不思議な質問を投げかけさせます。

 

それは、第一に、「もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか(2:12)という質問でした。

レビ記6章27節では「罪のためのいけにえ」としてささげられた肉は「最も聖なるもの」とされ、「その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる」と描かれていました。それによると、肉を運ぶ着物は聖なるものとされたはずですから、その着物のすそが触れるものも聖なるものとされる可能性があるかもしれないという質問です。

それに対し、祭司たちは、「否」と答えました。つまり、「聖なるもの」とされた肉は、何かを介して別のものを聖なるものとする力はないのです。

 

続けてハガイは祭司に、「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか」(2:13)と質問します。

死体に触れた人は汚れますが、民数記1922節には、「汚れた者が触れるものは、何でも汚れる」と記されていますので、祭司たちは「汚れる」と答えました。

つまり、聖さは間接的には伝わらない一方で、汚れは間接的にでも伝わるというのです。ですから、私たちは汚れの伝染に非常な注意を払う必要があります。

 

ですから主もここでハガイを通して、「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。─主(ヤハウェ)の御告げ─彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている」(2:14)と言われます。

彼らはすべての働きの前にまず自分自身を聖めていただく必要がありました。しかし、まるで死体のように、廃墟のまま放置されていた主の宮では、それはかないません。

ところがここでは、彼らが、主の宮を第一とする行動を始めたとき、彼ら自身が神の前に聖なる者とされ、彼らのすべての働きが豊かな実を結ぶようにと変えられて行くというのです。主を第一とすることこそ、すべての始まりであるべきなのです。

 

そして主は、「現状を良く考えよ」と言う代わりに、「さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ」(2:15)と言われます。

そして主はまず過去の事を振り返らせながら、「主(ヤハウェ)の神殿で石が積み重ねられる前は、あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった」と言われました(2:16,17)。労苦は期待した実を結ばなかったのです。

そしてその理由を、「わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った(2:17)と、主ご自身のさばきと説明します。

ただそこで主は、「しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった」とご自身の悲しみを表現されました。神のさばきの背後には、民をご自身のもとに立ち返らせようという熱い思いがあったからです。

アモス46-11節でも、主がイスラエルに様々なわざわいを送ったのに、「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」と五回にわたって繰り返されていました。

 

ところが18節では再び「さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ」と言いながら、なお具体的に、「すなわち、第九の月の二十四日、主(ヤハウェ)の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ」と言われます。

そして、今度は主の祝福の約束が19節で、「種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう」と力強く約束されます。

 

20節の日付は10節と同じですが、67節の約束を繰り返し強調すうように、主は再び、「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる(2:21)と言われます。

これはペルシャの王の気分次第で立場が変わるゼルバベルにとっては奇想天外な約束です。自分の力を誇っている諸国の民は、みなイスラエルの神の前にへりくだり、主の宮は諸国の富で満たされるというのです。

 

そして、23節では「その日」ということばとともに、驚くべき祝福が約束されます。今までは「主の日」は多くの場合、イスラエルに対する神のさばきの日として用いられましたが、ここでは明確な祝福が、「その日、─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─」と記されます。

ここで「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」ということばが繰り返されているのが印象的です。

 

しかも、「わたしのしもべ・・・あなたを選び取る」とは、イザヤ421節などの救い主預言に結びつきます。そこでは「見よ。わたしのしもべ・・わたしはあなたを選び取るわたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶ私が選んだ者」と記されています。

このことばはイエスがヨルダン川でバプテスマを受けたときに天から聞こえた声の原型です。つまり、ゼルバベルはイザヤが預言した「主のしもべ」としての救い主を思い起こさせる存在なのです。

 

また「印形」とは英語ではsignet ringと訳されますが、これは王の権威を証明するもので、王が発した文書にこの指輪の印が押され、王の命令として民にたいして絶対的権威を持ちます。つまり、ここでは、吹けば飛ぶようなひ弱なゼルバベルが、天における神の権威を地上で示すしるしとなるというのです。ゼルバベルは目に見えない神の権威を目に見える形でこの地に実現するしるしとされます

マタイの福音書1章のイエス・キリストの系図には、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ・・・」(12)と記されていますが、それはここでは「シェアルティエルの子・・・ゼルバベル」と記されています。まさにゼルバベルの血筋から救い主が誕生し、彼の名は永遠に主の真実を現す「印形」とされているのです。

 

そして、この神殿は神殿工事再開から約四年余りで完成します(エズラ6:15)。それはエルサレム神殿の崩壊からちょうど七十年がたった紀元前515年で、エレミヤが預言した通りでした(25:11,12,29:10)。

 

このハガイ書では、「あなたがたの現状を良く考えよ」ということばが、「きょうから後のことを良く考えよ…きょうから後、わたしは祝福しよう」というように変えられて行きます。私たちの人生でも、倦怠感の後に、すべてが悪循環と言うような事態になることがあります。

そのとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示2:4,5)というみことばを思い起こすべきでしょう。

無意識のうちに、初めの愛、初めの感動を忘れ、目の前の生活に夢中になってはいなかったでしょうか。主を第一とするところから、すべての好循環が始まります。初めの愛に立ち返りましょう。

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