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2014年5月25日 (日)

マラキ1、2章 「神殿再建後の倦怠感の中で」

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 イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、約束の地に戻り、神殿を再建できました。その際、預言者ハガイは、ソロモンの神殿とは比較にならないほどに貧しい神殿を指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう・・わたしはまた、この所に平和を与える」2:9)と述べました。民は、このことばに励まされ、大きな夢を抱きながら、神殿を完成させました。

しかしやがて、「もっと立派な神殿であったら・・」、「われわれは相変わらず、異教のペルシャ帝国の支配下で不自由な貧しい生活を強いられている」などという、つぶやきが生まれたことでしょう。

 

私たちも新会堂建設の感動と興奮が冷める倦怠期に入ってしまう可能性があります。なぜなら、会堂の外観は変わっても、そこに集っている私たちの意識は、そう簡単には変わらないからです。

この世では、興奮はすぐに冷め、希望が萎え、倦怠感が生まれます。それは、環境の問題ではなく、私たちの意識のなせるわざです。

 

1.「『わたしはあなたがたを愛している』と主(ヤハウェ)は仰せられる」

   この書の最初のことばは、「宣告」ですが、これは主のさばきが迫っているという意味での「重荷」とも訳され、ゼカリヤ9章、12章の始まりのことばと同じです。ですから、ゼカリヤの9章以降とマラキ書とには一連の関係にあると思われます。そして続くことばは、「ヤハウェのことば」「イスラエルへの」「マラキを通して」と記されています。

なお、「マラキ」は、預言者の名前と解釈するのが一般的ですが、31節の「わたしの使者」と同じことばなので、そのように訳すべきという解釈もあります。

この預言が語られたのは、ハガイやゼカリヤの励ましで紀元前516年に第二神殿が完成した後しばらくの、その感動が冷めてしまった倦怠期と言える時期で、内容的にエズラ、ネヘミヤのときの問題と重なっており、広い意味では彼らと同時代のことだと思われます。なお、紀元前458年のエズラによる宗教改革の少し前の時代と考えた方が、エズラ記との整合性が調和するかもしれません。

 

2節では、突然、「『わたしはあなたがたを愛している』と主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されます。申命記77節では、「愛している」とことばの前に、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた」という表現が先行しており、「愛」とは何よりも「選び」を意味します。

ただ、イスラエルの民は、なおもペルシャ帝国の支配下にありながら、さらなる解放を望んでおり、主の「」が実感できなくなっていたのだと思われます。そのことが、「あなたがたは言う、『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか』と」という疑問として表現されています。

 

それに対し、「エサウはヤコブの兄ではなかったか。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした(23)という応答が記されます。これは、イサクの双子の長子であったエサウの代わりに、ヤコブが選ばれたことからイスラエルの歴史が始まっていることを思い起こさせるものです。

神の愛は、あらゆる人間的な説明を超えた一方的な選びに基いています。しかし同時に、ここではその対比として、エサウの子孫の受け継いだ地の惨めさが描かれています。

 

なお、「エサウを憎むとは、「」との対比を示すための誇張表現です。イエスも弟子たちに向かって、「自分の父、母、妻、子・・・自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることはできません(ルカ14:26)と言われました。

また、申命記237節にはエサウの子孫を指して、「エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである」と記されています。

一方、パウロはローマ書96-13節で、このマラキ書の冒頭のことばを引用しながら、イスラエルの民がアブラハムへの祝福を受け継いだ理由が、「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」と記されています。

残念ながら人間の目には、ヤコブへの愛は、エサウの子孫に対するさばきとの対比でしか理解しがたいものなのかもしれません。そのことが引き続き、4節では、「たといエドムが・・・『廃墟を建て直そう』と言っても、万軍の主(ヤハウェ)は・・・『わたしは打ちこわす』」と言われ、エドムの再建の努力は決して報われないと記されています。

その一方で、イスラエルは今、約束の地への帰還が許され、不可能と思えた神殿の再建さえも成し遂げることができました。この対比のうちに、イスラエルに対する主の愛が明らかにされています。

 

そして、このような対比を見た結果として、イスラエルの民は「主(ヤハウェ)はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ」と言うようになると記されます。

当時は民族ごとに異なった神があがめられていましたが、ヤハウェは地境を超えた全世界の支配者であるということが、次々と明らかにされて行きます。そして、その出発点がここにあります。

 

2.「わたしは、大いなる王である・・・わたしの名は、諸国の民の間で、恐れられている」

6節で、主はイスラエルに対して、「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人(アドナイ)であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか」と問いかけられます。

出エジプト422節には、「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である」と記されていますが、イスラエルの神ヤハウェと民との関係は、最初から父と子の関係にたとえられています。ところが、イスラエルの民の主に対する態度は、人間の父や奴隷の主人に対する態度に、はるかに劣っているというのです。

 

特に主はイスラエルの宗教指導者たちを、「わたしの名をさげすむ祭司たち」と非難しながら、彼らが「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と、自分たちの罪を認めていないことを責めています。

そこで、彼らが祭壇の上に「汚れたパンをささげ」ながら、「どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか」と言っていると指摘します(7)。そして、主は彼らの心の底で、「主の食卓はさげすまれてもよい」と思っていると断罪します。

 

なお、「パン」とか「主の食卓」とは、具体的には8節のいけにえを指しています。そのことが「あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか」と問われます。レビ記では繰り返し、「ささげもの」の条件に、「傷のない」ということが強調されます(1:310)

そしてマラキは、彼らの愚かさを示すために、「さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか」と問いかけます。この世の権力者が、傷のついた贈り物を喜ばないのは明らかなのに、主(ヤハウェ)が傷のついたいけにえを受け入れるなどと、どうして思えたのでしょうか。

 

  9節は原文で、「さあ、今、神の御顔を慕い求めてみよ。恵みを受けるために」と記されますが、これは彼らに対する皮肉です。それは、彼らが自分たちの「手によって」、神に受け入れられないいけにえをささげているからです。

そして、10節は「だれかいないのか」という問いかけから始まり、「あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人」と、愚かな礼拝にストップをかける敬虔な者の現れを待ち望んでいます。

その上で、「わたしは、あなたがたを喜ばない。─万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる─わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない」と断固として言われます。

 

   11節初めには、「なぜなら」という接続詞があり、主が、ご自分の民のエルサレム神殿でのささげものを受け入れないこととの対比で、「日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ」と記されます。

このみことばは非常によく知られていますが、本来は、主の名は既に全世界に知られ、あがめられているので、主には、イスラエルからのいけにえも賛美も必要とはしないという皮肉だと思われます。

ただ、これは同時に、イエスの復活以降に、エルサレムでの神殿礼拝の道が閉ざされるとともに、福音が全世界に広まり、世界中で主の御名があがめられるようになるという形で成就する預言として理解することもできます。

 

   12節は、「しかし、あなたがたは・・冒涜している」と言葉から始まり、「『主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている』と言って」と記されます。

それは、汚れている」ことや「さげすまれている」ことを、まるで当たり前のことのように受け止めているという意味です。主への礼拝においては、「聖別する」ということが大切です。

 

たとえば私たちはかつて、礼拝する場と食事する場を同じにしなければなりませんでした。しかし、今は、礼拝の空間を聖別することができるようになりました。しかし、昔の習慣が抜けずに、この礼拝の空間を「聖別する」ということを忘れているかもしれません。そのような行動は、結果的に、主を私たちの地平のレベルに引き下ろすという意識につながりかねません。

今、主の御名は全世界において「すべての場所で」あがめられていますから、特定の場所を聖別するということが不必要になったとも考えられます。しかし、私たちの感性は、その置かれる空間によって影響を受けます。この世の論理から隔絶された聖別された空間だからこそ、主の臨在を感じることができるという面もあります。

礼拝堂を主への礼拝のために聖別するということは、私たちの必要から始まっていることなのです。

 

   ところが、そのような勧めを聞きながら、「あなたがたはまた、『見よ。なんとうるさいことか』と言って、それを軽蔑する」ということが起きているというのです(13)。彼らは些細なことなど気にする必要がないという気持ちで、「かすめたもの、足のなえたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物としてささげている」というのです。

それに対し、主は、「わたしが、それをあなたがたの手から、喜んで、受け入れるだろうか」と厳しく問われます。

 

そして14節では、具体的に彼らの罪が、「群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者と描かれながら、そのような者は「のろわれる」と厳しく宣告されます。私たちの目に見えない心は、目に見える形で現されます。

私たちはどこかで、「こころの中の思いこそが大切なのです」ということを、すべてのことを自分の都合に合わせて安易にしてしまうことの言い訳に使ってはいないでしょうか。

そして、主はこのように述べた結論として、原文では、「なぜなら、わたしは、大いなる王であるからだ。─万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる─わたしの名は、諸国の民の間で、恐れられている」と記されています。

主のご支配の現実を、たとえ主の民が心から認識していないとしても、それは既に、世界中に知られ、恐れられていることだというのです。

 

3.「わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた」

2章の初めでは、「祭司たちよ。今、この命令があなたがたに下される」と言われつつ、「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら」と、彼らの聞く姿勢と心のあり方を正そうとしないなら、という条件下においての主のさばきが、「わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える」と宣告されます。

そればかりか、「もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ」と、すでに、「のろい」が実現していることを宣言しておられます。これは、16節で、「どのようにして・・あなたの名をさげすみましたか」と、反省することもなく問い直していることへのさばきと言えましょう。

 

   3節では、「見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる」などと、忌まわしい表現によるさばきが宣告されていますが、これは17節で、「どのようにして・・・あなたを汚しましたか」と無反省に問い直したことへの答えと言えましょう。

 

そして4節では、「このとき、あなたがたは、わたしが、レビとのわたしの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知ろう」と記されながら、彼らは主のさばきを通して、主が祭司の先祖であるレビとの契約の意味に立ち返って来ると述べます。

そして、5節ではその「契約」の意味を、主は、「わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた」と説明してくださいました。「いのち」とは、「しあわせに・・長く生き続ける(申命記4:40)、「平和(シャローム)」とは、戦いがない状態以前に、すべての必要が満たされる繁栄の状態を意味します。

まさに、「いのちと平和」こそが、「新しい天と新しい地」で完成を迎えるものの本質でした。

 

そして、「それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた」とは、「恐怖」以前に、主が約束してくださった恵みの大きさのゆえに、心からの畏敬の念が生まれたという意味です。

そして、彼らが主を恐れていた時に実現していたことが、「彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた」6節)と描かれます。

(ヤハウェ)を恐れることは知識の初め(箴言1:7)と言われ、また、伝道者の書の結論では、「神を恐れよ。その命令を守れ。これこそが人間にとってすべてである」と記されています。

神を恐れるとは、神の厳しいさばきが自分を襲うことが無いようにと、すべてにおいて注意深く、委縮して生きるようなことではなく、伝道者の書にあるように、毎日の生活を、また、家族や友人との交わりを神の恵みとして受け止め、喜び楽しみながら生きることを指します。

主の命令の第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する(申命記6:5)ことですが、その第一歩は、主から与えられたすべての恵みを思い起こすことから始まります。

自分の出生を恨み、自分の体形や性格を嫌うことは、あなた自身の創造主を愛することとは正反対のです。主への恐れは、さばきの警告以前に、主が約束してくださった「いのちと平和」の豊かさを理解することから始まるということを私たちは決して忘れてはなりません。

 

しかし、レビの子孫である祭司たちは、その正反対の道を歩んでしまったということが、「しかし、あなたがたは道からはずれ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった(2:8)と非難されます。

そして、その必然的な結果を、主は、「わたしもまた、あなたがたを、すべての民にさげすまれ、軽んじられる者とする」(2:9)と言われます。イスラエルの民は自分たちの主を、「さげすみ、軽んじた」ことの当然の報いを受けるというのです。

 

4.「神は人を一体に造られたのではないか・・・その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか」

   210節からはイスラエルの民全体の罪が指摘されます。まず、マラキは、「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか」と述べます。

これはモーセがイスラエルの民への告別説教において、「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを建てるのではないか。昔の日々を思い出し、代々の年を思え」(申命記32:6,7)と語ったことを思い起こさせるものです。

そして、11節では、「ユダは裏切り・・主(ヤハウェ)の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった」と、具体的な罪が指摘されています。ここでは、主の聖所を汚すことと並んで、異教徒の娘との結婚が非難されています。これはエズラ記9章以降により具体的に記されていることでもあります。

 

   そして12節ではマラキが、「どうか主(ヤハウェ)が、このようなことをする者を・・ひとり残らずヤコブの天幕から断ってくださるように」と、厳しいさばきを求めて祈っています。

その上で彼は、民が、「涙と、悲鳴と、嘆きで主(ヤハウェ)の祭壇をおお」いながら必死に願っても、「主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らない」という事態に既になっていると指摘します(13)

それに対して、「ユダ」の民たちは、「なぜなのか」と問いかけていると描かれながら(14)、それに対して、彼は、「それは主(ヤハウェ)が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに」と言います。これは、ユダヤ人の中に、若い時の妻を捨てて、異教徒の妻を娶るような人がいたからだと思われます。

 

   それに対し、マラキは、「神は人を一体に造られたのではないか。彼(その関係)には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか」と述べます(15)。これは難解な箇所ですが、神は夫婦を一体の者として造り、その関係の中にご自身の霊を与え、それを通して「神の子孫」を創造するというご計画を立てられたという意味だと思われます。

そして、「あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない」とは、妻を裏切ることが、神が与えてくださった「霊」に反抗することだからです。そこで、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)は、「わたしは、離婚を憎む」と、断固として言われます(16)

続くことばは、「それ(離婚)は外套のように暴虐で自分を覆うもの(フランシスコ会訳)と訳した方が良いと思われます。これは、新改訳のように、神のさばきとしてではなく、離婚という行為が自分を取り巻く世界への暴虐であるという意味として理解すべきでしょう。

そして最後に、15節のことばを繰り返すようにして、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない(16)と閉じられます。

 

   聖書では繰り返し、創造主への信仰が、親から子へと受け継がれてゆくことがいかに大切なことかと強調されています。クリスチャンホームが次のクリスチャンホームを生み出すということが、当然ながら、神の国の広がりの核心です。多くの親は、子供の教育に極めて熱心です。しかし、すべてにまさって大切なのは、信仰が親から子へと受け継がれることです。それを疎かにすることは、神のみこころに真っ向から反します。

そして、その前提として何よりも大切なことが、同じ信仰に立つ者どうしが結ばれて、聖書の教えに従って、互いに愛し合うことです。不思議にも、聖書の初めの書に、「ふたりは一体となる」と記され、また旧約の最後の書に、「神は人を一体に造られた」と記され、一体の人は「神の子孫」を求める、また、主は離婚を憎むと記されていることは非常に興味深いことです。

 

パリサイ人たちが、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」と問いかけたことに対して、イエスは、「創造者は、初めから人を男と女に造って・・・ふたりは一体となる」と言われた、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と述べられました(マタイ19:3-7)

この言葉の背景には、創世記ばかりかこのマラキ書のことばがあると思われます。聖書は何よりも、健全なクリスチャンホームがクリスチャンホームを生み出すようになることを求めているのです。

 

イスラエルの民は自業自得によって国と神殿を失いました。エサウの子孫は歴史から消えてしまいましたが、イスラエルの民は約束の地に戻していただき、神殿を再建することさえできました。

しかし、彼らはすぐに主の圧倒的なあわれみを忘れ、いけにえをけちり、外側の体裁だけを整えて、心の中で主を侮るようなことを平気でしてしまいました。人間はどんなにすばらしいものを手にしても、すぐにその感動を忘れ、日々の生活に夢中になります。

 

私たちはどうでしょうか。使徒ヨハネは黙示録2章で、エペソの教会の人々が異端を見分ける洞察力を持っていることを称賛しますが、それと同時に、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい(45)と厳しく迫りました。

信仰はすべて、主が私たちを一方的に「恋い慕って」くださったことから始まっています。その原点に繰り返し立ち返ることが何よりも大切です。

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2014年5月18日 (日)

ヨハネ2:1-11「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」

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 日本の高度経済成長は僕の誕生の翌年の1954年から1973年までの20年間続きましたが、その末期1970年に流行った曲がビートルズのLet it be(そのままに)でした。世界的にも経済成長の限界が見られ、力づくでの問題解決への反省が生まれていました。

そして、この教会での礼拝は始まって間もなくの1991年から最近まで日本は「失われた20年」と言われるデフレ期にありました。「閉塞感」ということばがキリスト教会でも流行ってきました。そして、そこで流行っているのがLet it go(解き放つ)という「アンと雪の女王」の主題歌です。

そこには、「様々な呪縛から解放され、自分を自由に発揮する」という意味が込められ、不思議にも日本語訳の歌が流行り、「ありのままの姿見せるのよ。ありのままの自分になるの。何も怖くない・・・風よ吹け・・ありのままで飛び出してみるの」と子供が歌うようにさえなっています。

 

 そして、ドストエフスキーの名作「カラマーゾフの兄弟」では、その主人公のアリョーシャが生まれ変わった人間として世の中に出て行く契機となるのが、カナの婚礼の記事の朗読を聞いたことでした。

 イエスの最初の奇跡は、大量の水をワインに変えることでした。これは、今も昔も、敬虔で実直な信仰者を当惑させます。人生を楽しませるためのもの(伝道者の書10:19)が、悲劇を生み出すという現実が余りにも多いからです。

しかし、私たちの信仰が、反対に、ワインを水に変えるような冷めた道徳主義になり、争いを加速するという危険がないでしょうか。しかし、私たちの信仰とは何よりも、「いのちの力」を生み出す復活のキリストに対するものです。

 

1.七日目の奇跡、それは真の安息の日、小羊の婚宴を指し示す

   カナの婚礼の記事は、「それから三日目に」という表現で始まります。そこには、「イエスの母」マリヤがいたばかりか、「イエスも、弟子たちも」招かれていました。1章では「その翌日(29,35,43)と三回繰り返されますから、これは119節からの続きです。この書は、「初めに・・」という世界の創造の序文から始まり、バプテスマのヨハネのキリスト証言(19-28)につながります。これが第一日目です。

そして、二日目は、ヨハネがイエスを「見よ.世の罪を取り除く神の小羊」(29)と示しつつ、自分が授けているバプテスマとイエスが授けられるものを対比します。

三日目はヨハネが自分のふたりの弟子に「見よ。神の小羊(36)とイエスを指し示します。その日ふたりはイエスとともに泊まり、四日目にそのひとりのアンデレが兄弟ペテロをイエスのもとに導きます。

そして、五日目は、ピリポとナタナエルがイエスの弟子となりますが、後者はガリラヤのカナの人でした(21:2)。イエスは、彼を「ほんとうのイスラエル人だ(1:47)と呼び、父祖のヤコブがひとりで石を枕にして寝たときの夢(創世記28:12)を引用し、「天が開け・・るのを・・いまに見ます(1:51)と語ります。それはイエスによって新しい祝福の時代が始ることを宣言したものです。

 

   それから「三日目」がカナの婚礼の奇跡です。これはユダヤ人の数え方では、第六日目を飛ばした「第七日目」に相当します。そして、この記事の結論で、「イエスはこのことを最初のしるしとして行ない、ご自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた(11)と記されます。

つまり、この最初の奇跡の目的は、誰よりも弟子たちに信仰を与えるためでした。著者のヨハネは、最初にイエスに従ったうちのひとりであり、この福音書を記しながら、これを創造の七日目の出来事に位置付けています。そして、イエスのみわざは、七日目を真の意味で、「喜びの日」「はえある日(イザヤ58:13)に変えられたということを示唆しているのです。

 

この福音書では、イエスが三十八年もの間病気で動けなかった人を癒した記事(5)と、生まれつきの盲人の癒し(9)が際立っていますが、その両方で、「その日は安息日であった(5:99:14)と記されています。

当時の人は、「これは安息日には禁じられている労働行為ではないか」と神経質になっており、これらの奇跡的ないやしは、喜びではなく、非難と争いの原因になりました。イエスは、わざと「安息日」を選んでこれらの奇跡を行なうことによって、神がご自分の御子によって、民に真の安息を与えようとしておられることを示されたのです。

 

ヨハネは十字架前のしるしを七つだけ選び記していますが、新しい時代を意味する第八番目の奇跡が復活後にあります。弟子たちはガリラヤ湖で漁をしましたが何もとれませんでした。その時、主は大漁の奇跡を起こし、復活の祝いの朝食を用意してくださったのです。

ヨハネはこの福音書を祝宴の奇跡から始め、祝宴の奇跡で閉じました。そして、彼は世の完成の時を、小羊と教会の婚姻の大宴会として描いています(黙示録19)

つまり、イエスの最初の奇跡は、彼の弟子たちに、やがて実現する天の祝宴、真の安息の日を垣間見せるものだったのです。

 

2. 「ぶどう酒がありません」と述べたマリヤとイエスの解決

  カナは、イエスが育ったナザレに近い村であり、この婚礼にはイエスの母マリヤが手伝いの人を指導する立場についていました。彼女はぶどう酒がなくなったのに気づきました。これは当時としてはスキャンダルでした。

祝いは一週間続くこともあったようですが、自分が招かれた婚礼と同じ接待をしなければならないというしきたりがあり、それができなければ村八分にされるからです。この家は貧しかったのでしょう。しかも、当時は、現在のようにワインの代わりにパンチを作るなどということはまだできませんでした。このままでは、客は怒りながら帰ることになるかもしれません。

マリヤは若いカップルの将来を思いながら、いたたまれない気持ちになったと思われます。しかし、彼女はそれを宴会の世話役に伝える前に、ただ、「ぶどう酒がありません」と、事実のみをイエスに伝えたのです。

 

  イエスはそれに対し、不思議にも、「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません(4節、フランシスコ会訳)と言われます。

婦人よ(女の方)という呼びかけは1926節の十字架上のことばにもありますから、決して、そっけない表現とも言えませんが、肉親の情を超えた距離感を表すことは確かです。

続くことばは翻訳が困難でギリシャ語原文では、「わたしとあなたとに何があるか」と記されています。同じ表現がマルコ57節では、汚れた霊に憑かれた人がイエスに向かって、「いったい私に何をしようとするのですか」と言ったと記されています。また、原典がヘブル語ではありますがⅡ列王記313節では、エリシャがイスラエルの王に向かって、「私とあなたとの間に何の関わりがありましょう」と言った言葉として記されています。

また、「わたしの時」(4)とは、神の小羊としての十字架を示唆しますが(7:30,8:2012:23,27,13:1,17:1)、同時に、11節のように「ご自分の栄光を現す時」と理解する方が文脈に合っているように思われます。

 

とにかくイエスはここで、ご自分がいつ何をなすべきかは、肉の親子の情ではなく、ご自分を世に遣わされた天の父の御手にあることを、マリヤと弟子たちに示したのだと思われます。

ですからここには、「私はすでに、あなたの息子としての立場を離れ、世の救い主としての歩みを始めています。母の願いだからといってすぐ応答するわけではありません」という意味があったのではないでしょうか。

しかし、これを「静かな微笑みを浮かべながら言った」(ドストエフスキー)とも解釈できましょう。

 

  マリヤはこの返事に失望せず、手伝いの人に「あの方が言われることを、何でもしてあげてください(5)と言いました。これは、まさにイエスに応答するように、彼こそがこの場を支配していると宣言するものです。イエスはマリヤの子ではなく、神の子なのですから・・・。

ところで、マリヤの信仰の姿勢は、何よりも御使いガブリエルから処女のまま男の子を胎に宿すと言われた時に、「あなたのおことばどおりにこの身になりますように」と答えたことに現されています(ルカ1:38)。これはESV訳でもNKJVでも、「Let it be to me according to your word」と訳されています。

自分の本来の期待に反する現実を受け入れることを Let it beで表現しています。信仰の核心とは、自分の期待に反することにも、神のご支配を認めることなのです。

しかし、ここでは、マリヤはそれにとどまりませんでした。

 

マリヤは、イエスの表情から、このままでは終わらないことを悟ったのでしょう、主の御わざがここになされることを期待して、手伝いの人々に、イエスの指示に従うようにと促しました。

これはLet it goの心です。この言葉は一般的には、「怒りや絶望感などのマイナスの感情を去らせる」という意味で用いられますが、「アンと雪の女王」では隠しておくべき特別な力を解き放つという意味が込められているように思います。

マリヤはこのとき明らかに、イエスに聞こえるように手伝いの人に語っていることでしょう。そこには、「婚礼の席でぶどう酒がなくなるなどということは、ほんとうに些細なことかもしれませんが、私にとってはとっても心が痛むことなの。イエスよ、ここはずっと隠してきたあなたの力を現す時ではないかしら・・」と、自分の立場をわきまえながらも促す気持ちがあったのかもしれません。

 

   私たちもマリヤの姿勢に習うべきです。彼女は宴会の世話役に言う前にイエスに問題を持って行きました。それは、花婿の立場を考えたからです。

私たちも、まず誰よりも、すべての問題をイエスに述べるべきです。そして、すぐに期待した応答がなくても、神のときを待ち続けるのです。

彼女は「ぶどう酒がありません(3)とだけ言いましたが、それこそが祈りの核心です。私たちが熱心に神に祈るのは、神に動いていただく以前に、置かれている状況や味わっている気持ちを、自分で抱え込まないで、何よりも主に聞いていただくためです。このとき、「ぶどう酒がない」という問題は、マリヤではなくイエスの問題とされました

ただ同時にそれは、自分の不安な気持ちを押し殺して、ただ黙って待つという意味ではありません。詩篇の中には、「助けに急いでください(詩篇22:19私訳)などと請求するような祈りが数多くあります。祈りこそ、不安感に圧倒される代わりに、Let it go(去らせる)道だからです。

 

3. 水をぶどう酒に変えるような変化を私たちにもたらす救い主

   80120リットル入りの巨大な石の水がめは、「ユダヤ人のきよめのしきたり(6)のためと特に記されています。これは単なる手洗いではなく、口伝律法に従い食事のコースのたびに儀式的なきよめの洗いをするためでした。きよめの水をぶどう酒に変えるとは、当時の宗教指導者からしたら不敬虔の極みです。

彼は、手伝いの人たちに何も説明せず、宴会の世話役に持って行かせました。彼らは色と香りから、水がぶどう酒に変化したことは分かりましたが、味わった人の反応を見て心から驚いたことでしょう。それは最上のぶどう酒に変わっていたからです。

 

   なおここで、「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」と記されていますが、世話役が味わったのは本来、「」であったはずなのですが、それは同時に、「ぶどう酒」へと変えられたものだったのです。そして、それは宴会の世話役には知られていませんでしたが、「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」というのです。

彼らはイエスの指示に従いながら、水瓶を水で満たし、その後、それを汲んで宴会の世話役に持って行きながら、何が起こっているのだろうとハラハラ、ドキドキしていたことでしょう。  

 このことはしばしば、教会奉仕に熱心に関わっている人々が体験することでもあります。たとえば、当教会が会堂建設に具体的に動き出そうとした20119月には、予算の15%しか手元にありませんでした。土地購入の交渉を始めた時点では、25%になっていましたが、何の保証もありませんでした。土地を買った後は、テントを張って礼拝か・・という最悪の事態さえ考えていました。

しかし、動き出したら、次から次と、不思議な形で必要が満たされました。主はまさにひとり一人の人生に祝福を与えることで、その人が無理なく献金できるようにと動かしていてくださいました。

しばしば、教会奉仕の大変さに躊躇する方がおられますが、そこにはこのときの水を汲んで運んだ手伝いの人のように、ハラハラ、ドキドキが確かにありますが、それを通してこそ、主のみわざを見させていただくことができるのです。

 

   そして、宴会の世話役は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と花婿を誉めました(10)。それは、宴会の客に、「宴会はこれからが本番です。ごゆっくりどうぞ。」と表現する行為になるからです。花婿の面目は立ったのです。

なお、六つの水がめいっぱいのぶどう酒は飲み切れるものではなく、貧しい新婚夫婦は、後にそれを売ってお金にすることもできたでしょう。イエスはふたりの結婚生活のスタートを豊かに祝福してくださったのです。それは主が、結婚生活をどれだけ大切に見ておられるかのしるしでもありました。

 

   ところで、バプテスマのヨハネはぶどう酒を口にせず、人に断固とした悔い改めを迫っていましたが、イエスこそが、聖霊によって人を内側から造り替える「神の子だと述べ、自分の弟子たちに彼を救い主として紹介しました。それは、ヨハネのバプテスマは、水をぶどう酒に変えるような変化をもたらすことができないからです。彼が水のバプテスマと聖霊によるバプテスマを比較していたのはそのためです(1:33)

事実、人は気持ちを新たにすることで、何度かはやり直せますが、それは根本的な変化ではありません。ある人は、「地獄への道は良い決断で舗装されている」と言いましたが、人は何度もやり直そうとして失敗し、自己嫌悪を深め、さらに堕落することがあります。

真の悔い改めは、自分の力でやり直そうとすることではなく、全能の神のみわざに身を委ねることです。それこそ、イエスの母マリヤが受胎告知の際の御使いのことばにLet it be・・・と応答したことです。

それは外面的な行動の変化(Change)ではなく、水がぶどう酒に変わるような、質的な内側からの沸き起こる変革(Transformation)の始まりです

 

使徒パウロはコリント人への手紙第二5章16節以降で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません」と記しています。

これは、目の前に置かれた「ぶどう酒になったその水」を、所詮、水に味がついたものにすぎないと見るか、それとも、そこに全能の主のみわざが現されていることを認めるかの違いです。

ただし、しばしば、人間の目には、主が起こしてくださった変化をすぐに認めることはできません。だからこそパウロは続けて、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と述べています。

 

   ドストエフスキーの未完の大作「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャの人生に決定的な変化を起こしたのが、彼の霊の父、大主教ゾシマの葬儀の際に、カナの婚礼の箇所の朗読を聞いたことでした。

当時の人々は、聖なる人が亡くなった時には、その死骸から、罪深い人のような臭いが出ないと信じていました。ところがゾシマの遺骸からあまりにも早く悪臭が出始めたため、人々は、「ゾシマの敬虔さは、単なる見せかけに過ぎなかった、神は彼の偽善の罪を、この悪臭によって暴き出したのだ」と噂するようになりました。

アリョーシャは、そのような噂に心を痛め、そのような悪評が立つ状況を許しておられる神に疑問を持つようになります。しかし、同時に、誰の目からも罪深い一人の女性の心の底にある美しさを認めて、その人に生きる力を与えていました。

その直後に、彼は、悪臭がたちこめるゾシマの遺骸の傍らで読まれるカナの婚礼の箇所を聞きながら、次のような思い巡らしをします。

 

「あれは、ガリラヤのカナで、最初の奇跡をおこなう場面だ・・・ああ、この奇跡、ああ、この感動的な奇跡こそ!

初めて奇跡をおこなったキリストが訪ねていったのは、悲しみじゃなくて、人間の歓びだったんだ。人間の喜びをお助けになったんだ・・・

『人を愛するものは、人の喜びをも愛する』・・・亡くなられた長老さまがしきりに口にしていた言葉だ、あれが長老さまのいちばんだいじなお考えのひとつだったんだ・・・喜びなしには生きられない・・・」

 

水をワインに変えることが、多くの敬虔な人には理解し難がったように、庶民の小さな日々の喜びを何よりも大切に思っていたゾシマの思想も、当時の人々には理解し難いことでした。それが、彼の遺骸の悪臭を契機に、悪い噂として広がったのでしょう。

ところが、そのように聖書朗読を聞きつつ、まどろむ中で、アリョーシャは突然、長老ゾシマの幻を見ます。

そこでゾシマは彼を助け起こし、「楽しもう」と呼びかけ、さらに、「新しいワインを飲もう、新しい、大いなる喜びの酒だ・・・あの方は・・愛するゆえに私たちと同じ姿をとられ、私たちと楽しんでおられる。水をワインに変えてくださった、お客さんたちの喜びを絶やさないようにと。そして・・・新しい客を絶えず呼び招いておられる、それがもう永遠に続くんだよ。ほら、新しいワインが運ばれてくる。見えるだろう、新しい器の運ばれてくるのが・・・・」

 

アリョーシャが目を覚ますと、歓喜の涙がほとばしり出ました。彼は外に出て、「静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と果てしなく広がって」いるのを眺めていましたが、ふいになぎ倒されたように大地に倒れ込みます。

彼は大地を抱きしめ、泣きながら大地に口づけします。そして、「お前の喜びの涙を大地に注ぎ、お前のその涙を愛しなさい」という言葉が、心の中に響き渡ります。

彼は「喜びにわれを忘れて泣いていた」。そして、「自分のそうした有頂天を恥じてはいなかった」と描かれます。それはまさに、Let it goの心境と言えるかもしれません。

 

そして、ドストエフスキーは、このときのアリョーシャに起こった変化を、「彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯変わらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。喜びの瞬間に、彼はふいにそのことを意識し、感じ取ったのだ」と描いています。

これは作家ドストエフスキー自身が、自分の身体から腐臭を放つような挫折体験を味わい、そこでイエスに触れられたという体験を劇的に描いたのかもしれません。

 

イエスの時代の宗教指導者は様々な戒めで人々を束縛し、お祭りを葬式の雰囲気に変えました。信仰者からは、湧きあがるような喜びが消え、裁き合いが生まれました。

イエスはその悪循環をひっくり返しました。主は改革者ではなく救い主だからです。私たちの責任は、何よりも自分たちの問題を主のみ前に持ち出すことなのです。

 

私たちは礼拝の中でしばしば、「変えられないことを受け入れる平静な心」を求めて祈ります。これはLet it be の心と言えましょう。

そして同時に、「変えられることは変えて行く勇気」を求めます。これはLet it goの心と言えましょう。

 

Let it goを描いた詩に次のようなものがありました。

「もし、過去に縛られていて、神があなたを主にあっての新しい段階へと導いておられるとき、Let it go!!!

もし、慣れ親しんだ方法で状況を操作していて、神が『その手を放しなさい』と言われるなら、Let it go!!! 

 『先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。

今、もうそれが起ころうとしている』と聞くなら、そのとき Let it go!!!

 

   映画の雪の女王は、自分のうちに湧き起こって来た不思議な力を制御できずに、世界を凍らせてしまいます。しかし、妹のアンが、自分の命を犠牲にして彼女が守ろうとしたとき、愛によって自分の強い力が制御できると分かります。

私たちは、「敬虔なクリスチャン!」というイメージに縛られ、自分のうちに湧き上がってくる様々な思いに蓋をする傾向があるかもしれません。また、「出しゃばってはいけない!」などと思いながら、創造主から与えられた賜物を眠らせているかもしれません。しかし、そのように自分の思いや賜物を抑圧するのではなく、主から与えられる「信仰、希望、愛」に身を委ねることが何よりも大切です。

マリヤに習って、聖霊のみわざにLet it be と自分の心と身体を開いて行きましょう。

そして、聖霊の導きで与えられた思いに蓋をすることなく、「生ける水の川が流れ出る(ヨハネ7:38)ことに対して、let it goと語りかけてみましょう。聖霊のみわざがあなたのうちに現れます。

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2014年5月 4日 (日)

ゼカリヤ12-14章 「その日、一つの泉が開かれる」

ゼカリヤ12-14章 「その日、一つの泉が開かれる」

                                                          201454

  私たちは目の前の問題の解決をいつも求めます。しかし、主の救いは常に、苦難のただ中に現されるものです。イエスはゼカリヤ書を読みながら、エルサレムを襲う苦難を知り、それに先立ってご自分が弟子たちから裏切られ、十字架にかけられるということを通して人々の悔い改めが生まれると知っておられました。

多くの人は苦しみの原因を断つことを求めますが、真に大切なのは、苦しむことを通して私たちが変えられることではないでしょうか。

 

1.「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主(ヤハウェ)にある」

12章も9章と同じように「宣告」ということばから始まります。そして、その内容は、「イスラエルについての主(ヤハウェ)のことば」と記され、その「主(ヤハウェ)」のことが、「天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方」と描かれます。

なお、主がどのようなお方であるかに関してのこの短い紹介は、とっても大きな意味があります。たとえば自然科学的には、日本列島の火山活動も地震も、津波も、循環的な地殻変動の中で起こる自然現象にすぎないとも言えますが、私たちの主は、そのすべてを支配しておられ、一人ひとりに目を留めておられる方です。

 

23節では、最初に「わたし」という主語が強調されながら、「エルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする」という表現と、「わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする」という表現が並行して記されます。

これは、周辺諸国がエルサレムを攻撃しようとすることで、自分自身を傷つけることを意味します。「よろめかす杯」ということばは、イザヤ511722節にもありますが、これは神の怒りを受けることを意味します。そして、ここではそれが、「重い石」として、「すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける」と描かれています。


 3節の終わりでは「地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう」と、エルサレムが攻撃を受ける様子が描かれますが、4節では、「その日」ということばとともに、主ご自身が、「わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる」と言われ、攻撃軍を混乱に陥れることが描かれています。

そして一方、「しかし、わたしはユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲目にする」と述べつつ、主がユダの家を守るために「目を開」いておられるのとは対照的に、攻撃軍の馬が「盲目」とされる様子が描かれています。

 

そして、そのとき「ユダの首長たち」に信仰の覚醒が起きて、「心の中で」「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主(ヤハウェ)にある」と告白をするようになるというのです(12:5)

そしてその現れとして、再び、「その日」、主は、「ユダの首長たち」を用いて、「回りのすべての国々の民を焼き尽くす」とあるようなユダの勝利が描かれる一方、「しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る」という安全の保障が記されます。

 

 そして7節では「(ヤハウェ)は初めに、ユダの天幕を救われる」と敢えて記され、その理由が、「それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである」と記されます。それは、主のあわれみは社会の底辺の人々にまず最初に注がれるということの現れと言えましょう。

 

89節では、「その日」ということばが三回繰り返されながら、エルサレムの住民に対する主の守り、ダビデの家のリーダシップの回復、エルサレムを攻撃する国々への主のさばきが約束されます。

なお、「ダビデの家は神のように、彼らの先頭に立つ主(ヤハウェ)の使いのようになる」という預言は、イエス・キリストにおいて成就したと言えましょう。

 

2.「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見・・・その者のために激しく泣く」

1210節から131節では、それまでの主がもたらす直接的な戦いの勝利とは対照的な、不思議な主の救いのみわざが示されます。今まで繰り返された「その日」とは、何よりも「エルサレムの包囲されるとき(12:2)のことでした。

いつの時代にも、町が敵によって包囲された時、誰かをスケープゴートにして敵の攻撃をかわそうという動きが生まれます。イエスの時代の大祭司は、明確に、イエスを殺すことによってローマ軍との戦いを避けられると考えていました(ヨハネ11:50)。ここでは、そのような人間的な打算をしたことへの「悔い改め」が起きることを意味します。

 

それは、主ご自身が起こしてくださることで、その核心とは、主が「ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ(10)というものです。これは「あわれみと哀願の霊」と訳した方が、続く「嘆き」との連続性が明らかになります。

そしてその契機が、「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣くということで描かれます。

 

ここで不思議なのは、主ご自身が「彼らはわたしを仰ぎ見」と言いつつ、ご自分とエルサレムの住民が「突き刺さした者」とを重ねていることです。

ヨハネ福音書1937節では、イエスのわき腹が十字架上で、兵士によって突き刺されたときに、「この事が起こったのは聖書のことばが成就するためであった」と述べられながら、二つの聖句のひとつとして、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と、このゼカリヤ書が引用されています。これは、十字架のイエスの苦しみを見る人々に、「あわれみと哀願の霊」が注がれ、自分たちこそが神の御子を十字架にかけた張本人であるという自覚と悔い改めが生まれるという意味です。

ペンテコステの日に、ペテロはエルサレムの住民に向かって、「あなたがたは…・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました(使徒2:23)と迫りましたが、それを聞いて三千人ほどが弟子に加えられたと記されています。

つまり、イエスの十字架の目撃者は、自分たちが神ご自身を突き刺したような気持ちになり、親が初子を失って泣くように、イエスのために「激しく泣く」という嘆き」の連鎖が、十字架の日から始まりペンテコステの日に頂点に達するという流れが起きるというのです。

 

11節の「その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう」というのは、ユダ王国の最後の栄光の時代を導いたヨシヤ王の死に対する激しい「嘆き」と比較できるほどであるという意味です(歴代誌35:24,25)

12-14節は、「この地は嘆く」から始まり(嘆く」と言う動詞は最初だけ)、ダビデの家の氏族、またその息子「ナタン(Ⅱサムエル5:14)の家の氏族」、祭司の家系「レビの家の氏族」、また、その中の「シムイの氏族」から「残りのすべての氏族」へと、悔い改めの「嘆き」が広がって行く様子が劇的に描かれています。

 

そして131節では、その結論として、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」と描かれます。

その泉から「きよい水」が流れ出るのですが、それに関してエゼキエル362526節では、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と描かれています。つまり、主ご自身が彼らの「罪と汚れ」を「きよめ」てくださるのです。

 

 主は不思議にも、エルサレムに救いをもたらすために、ご自身の御子を十字架にかけることによって、イスラエルの民の「嘆き」を引き起こし、その上で、彼らの「罪と汚れをきよめる一つの泉」を開いてくださるというのです。

神はエルサレムの救いのために、軍事的な勝利以前に、彼らが神を突き刺しているという罪の自覚を促し、同時に、主ご自身が彼らの罪をきよめてくださるというのです。

ここには、十字架から「泉」が開かれるという不思議が描かれています。ゼカリヤ書のテーマは、エルサレムの繁栄を、主が回復してくださるという約束ですが、そのプロセスとして、主ご自身がエルサレムの住民によって「突き刺される」と預言されていることは何と不思議なことでしょう。

 

3.「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ」

132節では「その日」とのことが、主ご自身が「偶像の名をこの国から断ち滅ぼす・・・その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く」と断言されます。

そればかりか、偽預言者に対して、「彼を生んだ父と母とが」、「あなたは生きていてはならない。主(ヤハウェ)の名を使ってうそを告げたから」偽預言者である息子の罪を告発するというのです。

しかも、「彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そうと記されます。この「刺し殺す」ということばの原文は、先の「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」というときの「突き刺す」と同じです。

 

これは、救い主を刺し殺したエルサレムの住民が自分たちの罪を深く悔い改めひとり子を失って嘆くように・・・激しく泣」いたように(12:10)、自分の子が偽預言者であることを発見した時には、主への熱い思いのゆえに、自分の子さえ殺してしまうということです。

これは荒野の四十年の終わりに、イスラエルの民がモアブの娘たちとみだらな行為をした際、ピネハスが「主のねたみ」を「自分のねたみ」とし、手に槍を持って異教の女と交わるイスラエル人を串刺しにすることによって、主の「憤りを・・・引っ込めさせた」ことを思い起こさせることです(民数記25:7-11)

 

4-6節は、「その日」には偽預言者が自分たちのことを恥じるようになるということとが描かれます。4節では、預言者のしるしとしての「毛衣を着なくなる」ということで自分を隠すことが記されます。

5節では、自分のことを預言者ではなく農夫であると偽るという姿が描かれます。

6節では、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か」と聞く者に対する答えのことが記されますが、これはバアルの預言者がエリヤとの戦いに際に、自分の身を傷つけて必死に祈った姿を思い起こさせるもので、偽預言者のしるしになります(Ⅰ列王18:28)

レビ記1928節には「死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない」と記されています。それに対し、この偽預言者は、「私の愛人(友人)の家で打たれた傷です」と誤魔化して答えるというのです。とにかく彼らは自分を隠すようになるというのです。

 

  7節からは、主が「わたしの牧者」と呼ぶ方に対する不当なさばきとその結果が記されます。これは、イスラエルの民の主への情熱が誤った方向に現されることを示しています。彼らはバビロン捕囚を契機に、一切の偶像礼拝との縁を断ちきりました。それは2-6節の預言の成就と言えます。

そして偽預言者に対する厳しいさばきは、申命記13章に基くものでした。しかし、その「熱心」のゆえに、イエスの時代の宗教指導者は、イエスを偽預言者として死刑に定めました。

そのことを使徒パウロは、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は、知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神に義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」と述べている通りです(ローマ10:2,3)

しかも、それは不思議にも、主(ヤハウェ)ご自身が、彼らをかたくなにされた結果です(9:18)。つまり、誤った熱心さも、主の御手の中で起きているというのです。

 

まず、「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ(13:7)とは、主ご自身が剣を持つ者にご自身の牧者とその仲間を攻撃させるという意味です。

そして続く、「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける」ということばは、イエスご自身が最後の晩餐の後で弟子たちの逃亡を予告した際に引用したことばです。

そのときイエスは、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかし、わたしはよみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行きます」と言われました(マタイ26:31,32)

つまり、主(ヤハウェ)がご自身の牧者を殺させるのは、信仰者に試練を与え、その上で、彼らに真の信仰を芽生えさせるためであるというのです。

残念ながら、アダムの子孫は自分の失敗を通してしか、主に徹底的にすがるという歩みを始められないからです。また、イエスを十字架にかけた者たちも、自分の熱心さによって、主の応答を引き出そうとしていました。

 

そして、89節では、信仰を練り直す主ご自身のご計画が、「全地はこうなる。─主(ヤハウェ)の御告げ─その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」と描かれます。

これは、イスラエルのバビロン捕囚の際に起きたことであり、また、その後の神の民の歴史に中にも繰り返し起こって来たことであり、また終わりの日に起きることでもあります。しかし、それを通して神の民の信仰が練りなおされるのです。

そして、その結果が、「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主(ヤハウェ)は私の神』と言う」と描かれます。

 

なお、歴史を振り返ると、主ご自身がイスラエルの三分の二を、天からの火で直接に殺したということはありません。彼らはたとえば、南のエジプトと北のバビロン帝国を両天秤にかけて自分の身を守ろうとして国を滅ぼされました。イエスの時代のユダヤ人は、ローマ帝国への無謀な戦いを仕掛けて自滅しました。

常に、戦争は、自分を神のような立場において、相手の尊厳を無視することから生まれます。そして、主のさばきは、人が互いに殺し合うことを、そのまま放置するということに現されます。ただそれも、主がすべてを支配しておられるという意味に変わりません。

 

使徒ペテロは「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったことが起こったように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどるものとなるためです(Ⅰペテロ4:12,13)と記しています。

私たちは苦しみを悪と捉えがちですが、それらはすべて栄光へのプロセスなのです。

 

4.「主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる」

141節は、「見よ。その日が主(ヤハウェ)に来る」と訳した方が良いかと思われます(ESV訳Behold, a day is coming for the LORD)。それは、人の目には主の敗北の日に見えるからです。

そしてその際の情景が、「あなたから分捕った物が、ただ中で分けられる」と描かれます(私訳)。それは、あなたが敵の目には存在しないも同然だからです。イエスが十字架にかけられた時、兵士たちがイエスの着物をくじ引きにしたのは、この預言が成就したものと言うこともできましょう(マタイ27:35)

そして2節は、「エルサレムに向かっての戦いのために、すべての国々をわたしは集める(私訳)と訳すことができます。新改訳では主ご自身がエルサレムへの攻撃を主導しているように思えますが、主の働きは、「国々を集める」ということに過ぎません。国々は自分の意志でエルサレムに戦いを挑んでくるのです。

そして、その際の悲劇が、「町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く」と描かれます。これは、バビロン捕囚の悲劇が繰り返されることを意味します。

 

ただ、そのような悲惨のただ中に、主の救いが訪れます。そのことが、「しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。主(ヤハウェ)が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つと描かれます。これは、主ご自身がオリーブ山の上に立って、敵と戦われることを直接的には意味します。

 

興味深いのは、イエスご自身がエルサレム神殿の崩壊を弟子たちに向かって話したとき、神殿を見降ろすように「オリーブ山ですわっておられ」たことです(マタイ24:3)。そのときイエスは明らかに、エルサレムがローマ帝国の軍隊によって包囲され、神殿が廃墟とされることを示唆しておられ、40年後にそのとおりになりました。

イエスは、ユダヤ人たちが無謀な戦いを仕掛け、自滅することを警告しておられたのです。しかしイエスはこのとき、武力によってではなく、ご自分から十字架にかかることによって、「剣の力」「死の力」に打ち勝とうとしておられました(ヘブル2:14)。

 

続けてここでは、「オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る(14:4)と記されますが、エルサレムを見下ろすオリーブ山は、攻撃軍にとっては格好の前線基地になり得ます。ところが、山が南北に分かれるので、そこが最高の逃げ道になると、5節では記されます。なお、「アツァル」がどこを指すかは不明です。

とにかく、急いで逃げる様子が、「ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう」と描かれます。アモス書にもその自身の事が記されています。

 

イエスは、「荒らす憎むべき者」が「聖なる所に立つのを見たなら・・ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と言われました(マタイ24:15,16)。当時の人々は神殿が汚されたなら命がけで戦うべきと思っていたのに、主は逃亡を勧めました。それは、この預言のゆえです。

そして、神の民がエルサレムから逃げ出すという絶体絶命のときになって初めて、「私の神、主(ヤハウェ)が来られる。すべての聖徒たちもあなた()とともに」(5節私訳)と「救い」が描かれます。

 

67節はひとつのまとまりとして理解すべきで、「光も・・なくなる」とは、昼と夜の区別をつける太陽の光がなくなって、主ご自身が新しい世界を照らしてくださることを意味すると思われます。

黙示録ではそのことが、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない(22:5)と描かれます。

 

そして、8節こそ131節の「一つの泉」に続くこの預言の核心部分で、「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」と記されます。これはエゼキエル47章により劇的に描かれ、また黙示録221節の「いのちの水の川」につながるものです。とにかく、「湧き水が流れ出」るのは、エルサレムこそが新しい世界を豊かに生かす源となるという意味です。

そして、「主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる。その日には、主(ヤハウェ)はただひとり、御名もただ一つとなる(14:9)というのは、主のご支配が目に見えるかたちで完成し、全世界が神の平和(シャローム)に包まれることを意味します。

1011節はエルサレムの平和を描いたものですが、「アラバのように変わる」とは、エルサレムの北10㎞のゲバから南西56㎞のリモンまで「平地になる」という意味です。そしてエルサレム自体も捕囚以前の繁栄を取り戻すというのです。

 

その上で12-15節では、「エルサレムを攻めに来るすべての国々の民」に対する「災害」が描かれます。彼らは突然の疫病や同士討ちによって自滅するというのです。

14節は「ユダもエルサレムで戦い」と訳した方が良いかと思われます。そしてその結果、「回りのすべての国々の財宝」がエルサレムに集められることになるというのです。 

 

16-19節では、生き残った諸国の民が、「万軍の主(ヤハウェ)である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」と、エルサレムが全世界の礼拝の中心となる様子が描かれます。

仮庵の祭り」は、収穫感謝祭とも言えますが、その際に礼拝に上って来ない民には雨が差し止められるのは、(ヤハウェ)を礼拝することこそがすべての豊かさの源となるという意味です。私たちにとっても、主を礼拝することこそが、すべての生産活動の源となります。

 

2021節は、エルサレムの日常生活のすべてが、「馬の鈴」から家庭で使う「なべ」まで、「主への聖なるもの」とされるという姿が描かれています。

最後に、「その日、万軍の主(ヤハウェ)の宮にはもう商人がいなくなる」とありますが、「商人」の原語は「カナン人」と訳すことができる言葉です。イエスが神殿から「商人」を追い出したのは、このみことばの成就であったのかもしれません。当時は神殿でいけにえをささげるために商人は必要でしたが、イエスはご自分が永遠の贖いを成し遂げるという前提で、彼らを排除したとも言えましょう。

当時は神殿の中にこの世の便利さや金儲けの論理が張り込んでいましたが、イエスはそれを聖めてくださいました。同じ意味でエゼキエル449節には、「心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所に入ってはならない」と記されています。

 

しかし、神はその後、外国人にもご自身の聖霊を注いで、彼らは神の民として受け入れてくださいました。エゼキエルでもゼカリヤでも神殿の完全な聖別がテーマになっていますが、イエスこそは十字架と復活で神殿を完成してくださった救い主です。

イエスはこの目に見えるエルサレム神殿を天の神殿として完成し、再臨の日には、「聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から下って来る(黙示21:2)という姿を実現してくださいます。

ゼカリヤの時代は、神殿の再建中でしたから、天にある「まことの聖所(ヘブル9:2410:19)のことまでは話すことができませんでした。イエスの復活以降の時代に住む私たちが目に見えるエルサレム神殿の復興を望む必要がないのは当然のことです。

 

 

ゼカリヤ書は「ひとつの泉が開かれる」「エルサレムから湧き水が流れ出て」と描かれながら、その最後は、仮庵の祭りが全世界の民にとっての祝いとなるという記事で終わります。

イエスはその「祭りの終わりの大いなる日に」、神殿の庭に立って大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました(ヨハネ7:37,38)

主の十字架から罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれ」ましたが、それは私たちのうちから「生ける水の川」として「流れ出るようになる」というのです。

そのために必要なのは、私たちが苦しみを通して自分の力の限界にぶち当たり、聖霊の働きによってのみ、私たちが真の意味で神に仕えることができるということを知ることです。

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