« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月22日 (日)

Ⅰペテロ2章9節「王である祭司として生かされる」

                                                  2014622

 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の

すばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」

 

  このみことばは、今年度の指標聖句として与えられたものです。プロテスタント教会が宗教改革の伝統として大切にしている原則のひとつに「万人祭司」という教えがありますが、それはここから生まれました。

ドイツで宗教改革が始まった時、カトリック教会は地域教会の司祭を通して、絶大な影響力を発揮していましたが、多くの司祭は、聖書を説き明かすよりも、様々な秘跡を用いて人々を道徳教化しようとしていました。そこには明らかな迷信も伴っていました。

しかし、聖書の教えに目覚めた人々は、聖書を説き明かすことができない司祭を退け、真の聖書教師を求めるようになりました。ルターは、そこで牧師を選ぶ権威は、ペテロの後継者などではなく、一般の信徒の集まりである地域教会にあるということをこのみことばから論証しました。ひとりひとりの信仰者は司祭を通してではなく、直接に神に結びついているというのです。

その伝統の中でも私たち自由教会に属する群れでは、何よりも、ひとりひとりの良心の自由が強調されます。私たちの教会は自立したキリスト者の集まりです。たしかに、牧師の存在と影響力は強いことによって教会のまとまりが保たれるという面もありますが、牧師の権威は、あくまでもみことばの解釈に関するものです。ひとりひとりが神のみことばを味わい、神のみことばを読むことが期待されています。

 

1.「しかし、あなたがたは・・・

しかし、あなたがたは」とは、この手紙の受け取り手ですが、彼らは現在のトルコの各地に散らばっていたクリスチャンの交わりであり(1:1)、その中心は異邦人でした。新約と旧約の違いは何よりも、アブラハムの子孫であるユダヤ人に向けて語られていたはずの聖書の教えが、異邦人にも向けられ、彼らがキリストへの信仰のみによって神の民とされたということです。

私たちもその意味で、アブラハムの子孫とされたのです。それは当時のユダヤ人にとっては奇想天外なことでした。しかも、当時のクリスチャンは社会のマイノリティーで、人々から異端視され、迫害を恐れていました。

そして、ここでしかし」という接続詞が入っているのは、26-8節に記されているように、尊い礎石」であるイエス・キリストを「つまずきの石、妨げの岩」として拒絶している人との対比を明らかにするためでした。

しかし今、この手紙の読者は、「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです(2:3)という恵みを既に味わっていました。

詩篇348節には、「味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさを」と記されていました。

そしてここでは、その主こそ十字架にかけられたイエスであることを、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です(2:4)と記されていました。

 

つまり、「あなたがたは、しかし」ということばに、神の民とされた者は、イエスも自分たちも、この世とは全く異なった視点から見るように召されているということを指し示しているのです。

私たちはその点で、しばしば、あまりにも自分をこの世の価値基準から見すぎてはいないでしょうか。ただし、それはこの世の基準をまったく無視して良いという意味ではありません。自分の国のことをどんなに悪く言っている人でも、サッカーのワールドカップになれば、自国を応援したくなるものですし、また、自分の生まれ故郷の選手の活躍を見れば嬉しくなるものです。またこの世の学歴などが気になることも避けられません。

大切なのは、この世の基準を無視することではなく、どれだけそれを超えた尺度を持ち、それによって人や自分の価値を認めることができるかということです。

そのために何よりも必要なことは、私たちの主イエスによる救いのみわざを心の底から味わうことです。イエスは人間的に見るなら、神の国の福音をことばと行いによって証しながら、身近な弟子たちにも理解されず、当時の権力者から憎まれ、十字架にかけられて殺されたひ弱な理想主義者にすぎないとも言えます。しかし、イスラエルの神ヤハウェが、このイエスを死者の中からよみがえらせ、世界に対してご自分の唯一の子であること、世界の王であることを証しされました。

復活を抜きにイエスが救い主であることを語ることはできませんし、同じように、イエスの復活の抜きにして、私たちは自分に与えられた救いを語ることはできません。そのことが13-5節に次のように記されています。

 

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」

 

現在の私たちの目には、この約束されている救いの豊かさは、なかなか見えないものかもしれませんが、それは確かに「天にたくわえられて」おり、また、私たちは「神の御力によって守られて」いるのです。

そして、イエスの復活こそ、これらすべてのことの保障です。私たちはいつでも、神の視点から自分を見る必要があります。

 

2.「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」

そして、何よりもこのみことばの背景には、イスラエルの民にシナイ山で与えられた約束があります(出エジ19:4-6)。それこそ、彼らが神の民として選ばれたことの目的でした。

そこには、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」と記されていました。

つまり、イスラエルの民に「十のことば」を中心とする律法が与えられたのは、それによって彼らをこの地上における神の偉大な救いのみわざの見本にするためであり、彼らを「祭司の王国」にし、また、この地のいかなる国民とも異なった「聖なる国民」とすることで、神がご自身の愛とあわれみをしめし、全世界の人々をご自身のもとに招くためだったというのです。

 

たとえば、拙著「お金と信仰」にも書きましたが、レビ記には神の民に対する定期的な休みの命令や社会的な弱者の保護規定ばかりか、七年に一度の借金の免除と奴隷解放(申命15)、また五十年に一度のヨベルの年(レビ25)では、土地の分配を原初の状態に戻して、貧富の格差をなくすという制度がありました。

残念ながら、それはイスラエルに王政が導入されることによって不可能になりました。個人の経済的な活動の自由を尊重しながら、定期的にそこから生まれる貧富の格差をなくすということができていたなら、イスラエルは世界の羨望の的となったことでしょう。そして彼らは自国の繁栄と平和を通して、自分たちの神の偉大さを証しできたことでしょう。

 

そして、現代の私たち異邦人キリスト者の共同体にはその使命が受け継がれているというのです。ですから122節では、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と命じられています。

私たちはたしかに一人一人がキリストに似た者に変えられることによって、神の愛を証しすることができます。ただ、そのように個人の変化を強調することによってあまりにも自意識過剰や独善主義に陥る可能性があります。単純なことですが、どんなに美しいことを言っていても、自分の家族に尊敬をもって接することができていない人は、そのことばを信じることができません。

神の愛は、信仰者の共同体という交わりの中に現されるということを忘れてはなりません。初代教会の成長の鍵は、何よりも彼らが互いを尊敬しあい、愛し合っていたことにありました。周りの人々はその愛の交わりに引き寄せられるようにして信仰に導かれたのです(使徒5:12-14)

愛の交わりこそ、何よりの伝道の媒体になることを忘れてはなりません。私たちはそれを目に見える小さな交わりを通して体験し、証しするのです。数千人の人々が一度に礼拝に集まるような教会が世界には数多くありますが、その基本は常に、小さな家族的な交わりが重なったものです。

あなたは、この教会の中で、互いの様子を分かち合い、祈り合う関係を持っているでしょうか。それを求めて祈りましょう。

 

3.「野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも・・・わたしの民、選んだ者に飲ませるから」

ところが、イスラエルの民は、「祭司の王国、聖なる国民となる」という崇高な使命を果たすことに失敗したばかりか、自分たちを救ってくださった神を忘れ、偶像の神々を求め、神の怒りを買って国を失ってしまいました。

ところがそのような中で、神はイスラエルの残りの民に預言者イザヤを通して驚くべき希望の約束をしてくださいました。そのことがイザヤ43章3,418-21節では次のように記されています(私訳)

 

「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする・・・・

先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな。見よ、わたしは新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか。確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも・・・。

荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ。この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」

 

  多くの人々は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という主の語りかけに慰めを見いだしています。しかし、それは不思議にも、自分たちの神に背いて、神の怒りを買い、自業自得で国を失った失敗者に対する語りかけでした。そして、イエスはこのイザヤの預言を成就する救い主として現れてくださったのです。

なお、イザヤ書で興味深いのは、神の圧倒的な救いの御業のゆえに、ジャッカルやだちょうという、のろわれた動物の代名詞でさえも、イスラエルの神ヤハウェをあがめるようになるということです。

ですから、ペテロのことばを、あなたはイエス・キリストの宣伝をするために、福音のセールスマンとして選ばれたというようなプレッシャーとして理解する必要はありません。イザヤによると、忌み嫌われた野の獣でさえ、神をあがめたくなるほどなのですから、まして神のかたち」に創造された人間は、イエスの救いのみわざを味わうと、それを語らずにはいられなくなるという意味なのです。

そして今、この預言は、イエスを救い主として告白するすべての人々に成就しています。私たちひとりひとりが、ユニークな神の救いのみわざを体験しています。

Blessed assurance・・・This is my story, this is my song という賛美がありますが、あなたは自分になされた神のみわざを語り、歌っているでしょうか。それができていない人は、遠慮なく牧師室にお越しください。それをともに発見するのが私の生きがいですから。

 

4.「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり」

 なお、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」と記されていますが、この背景にはイザヤ9章2節の「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」というみことばがあると思われます。

これはクリスマスによく読まれるものですが、イスラエルは自分たちの神を裏切り、自業自得でやみの中に住む者となりました。そして、それ以前に、私たちもすべてアダムの子孫として、エデンの園の外という「やみの中」に置かれていました。しかし、「ご自分の驚くべき光」という神の御子のご支配の中に招き入れられました。

私たちは、何よりも、「やみから光へ」「のろいから祝福へ」「絶望から希望へと」、置かれる立場を移していただけたのです。それは私たちが自分の知恵や力や、また自分の信仰の力によって獲得したものではなく、一方的な神のあわれみによって与えられたものです。

 

 また、ペテロはそれに続けて、あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です(10)と語っていまが、その背後にはホセア書222,23節の記述があります。

そこでは預言者ホセアの妻でありながら浮気ばかりをしたゴメルから生まれた三人の子ののろわれた名前を主が祝福の名に逆転させてくださるという約束が記されています。

主は「イズレエル」という残虐の血に満ちた名を豊かな実りの地へと変え、『愛されない者』という意味のロ・ルマハという名を神の愛の対象とし、『わたしの民でない者』という意味のロ・アミを『あなたはわたしの民』と言う逆の名前に変え、その子も神に向かって『あなたは私の神』と呼ぶように変えられるというのです。

ゴメルの三人の子供の名には神の燃える怒りの思いが込められていました。しかし、その背後には、イスラエルの神がご自分に立ち返って来るのを待つ忍耐に満ちた神の愛が隠されていました。

三人の子供の名が祝福の名に変えられるということは、私たちひとりひとりが先祖伝来の悪習から自由にされ、新しくされることの象徴と言えましょう。

 

私たちは誰も、親を選ぶことはできません。浮気女ゴメルの子どもたちは、生まれながらのろわれた名が付けられました。私たちの場合も、ときに自分たちの親が愚かな偶像礼拝ばかりを続け、私たち子供の世代に「のろい」を受け継がせていたかもしれません。

しかし、神はご自身の一方的なあわれみによって、私たちひとりひとりを「神の民」とし、「あわれみを受けた者」へと変えてくださったのです。

あなたは自分の家系に流れていた「のろい」の連鎖が、祝福の連鎖へと変えられたことを、具体的に自覚しているでしょうか。先祖から引き継いでいる負の遺産に気づき、それを主の御前に差し出し、福音の力によって解放されるというプロセスが必要ではないでしょうか。

 

.「王である祭司・・・神の所有とされた民」

なお、ここにはイスラエルの民との連続性が明確でないみことばが、「王である祭司」です。本来、イスラエルにおいては政治的な指導者である王と、宗教的な権威者である大祭司とは、役割の分担がありましたが、イエス・キリストこそは、王であるとともに大祭司として現れた救い主です。

私たちは信仰においてこのイエスと一体とされています。それは使徒パウロが、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラテヤ2:20)と語った通りです。

そして、「王である祭司」とは、私たち一人一人が小さなキリストとされたという意味であり、また、私たちと神との間には、何の仲介者も必要がないという意味です。

私たちは一人ひとりが、神に直接に訴えることができます。あなたは具体的な家族や友人、仕事の仲間のために祭司としての役割を果たしているでしょうか。執り成しの祈りこそ、最大の祭司の勤めです。

 

マルティン・ルターは、「キリスト者の自由」という文書によって、宗教改革の精神を広めましたが、その冒頭において興味深いテーゼ(命題)を示しています。そこには次のように記されています。

 

キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。

キリスト者はすべての者に奉仕するしもべであって、だれにも従属している」

 

この前半は、私たちが王である祭司であるというペテロの宣言によって明らかです。それと同時に、後半の宣言はこのペテロの手紙の213-16節を意識して記したものと言えましょう。そこには次のように記されています。

 

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。

というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」 

あなたは王であるとともに、奴隷なのです。

 

なお、キリストの歩みが、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました(2:23)と描かれるのは、主が真の自由人として行動していたしるしです。

私たちが人からバカと言われると、バカと言い返したくなるのは、バカと言うことばが、自分の心に刺さってしまうからです。その際、私たちはそのような品のないことばに左右される奴隷のような状態になっています。

それは、自分を神に選ばれた者、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として見ることができていない証拠かもしれません。

 

私たちは、神に恋い慕われ、「選ばれた種族」です。私たちは「王である祭司」として、万物の創造主との祈りのホットラインを持っており、この世のすべての人のために執り成しの祈りをささげる特権を与えられています。

また「聖なる国民」とは、私たちがこのままで神の聖なる領域に招き入れられた聖徒とされているからです。私たちはキリストの十字架の血潮によって罪が赦された聖なると見られています。

それは、ペテロが11819節で、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」と記している通りです。

 

また、私たちは同時に、「神の所有とされた民」、つまり、「神の宝物」とされています。私たちは神ご自身の「目のひとみのようにかけがえのない存在と見られています。

そのことをペテロは先に、神は私たちに、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました(1:3)と約束してくださいました。

私たちはキリストと結びつけられたことによって、キリストが所有しているすべてのものを受け継ぐようになっているということを忘れてはなりません。

私たちは結婚において、互いの財産が共有され、不幸も幸福も共有されます。その関係が、キリストと私たちの間にも神秘的に実現しているということを、ルターは次のように語っています。

 

キリストの所有したもうものは信仰あるたましいの所有となり、たましいの所有するものがキリストのものとなる。そこで、キリストの持っておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託される・・・・

そこで罪はキリストのうちに呑まれ、溺らせられざるを得なくなるが、それはキリストの破り難い義があらゆる罪に対してあまりにも強いからである」

 

私たちはそれぞれ「神の国」の民とされています。そしてこの教会は「神の国の大使館」です。あなたがどこかの国の文化に関心があるとしたら、その国の大使館を訪ねるのが一番です。

ですから私たちもこの教会に外部の人々を招き、神の国の音楽、神の国の料理、神の国のライフスタイル、神の国の子育てを紹介する必要があります。そして何よりも、より多くの人々に神の国の教えである聖書の物語を紹介する必要があります。

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」と複数形で描かれているように、私たちは共同体として神の救いのみわざのすばらしさを証しするのです。

一人一人は弱く、また貧しくても、互いの賜物を生かし合うことができるなら、私たちは途方もない大きなことができます。より大きな主のビジョンを求めて祈りましょう。

|

2014年6月15日 (日)

創世記1章1節~2章3節 「神の神殿としての世界の創造」

                                                             2014615

   今回、自動車産業のメッカのデトロイト郊外の地で、現地に住む日本の駐在員の家族の伝道に熱心な教会を訪ねました。そこのカルチャークラスには、何と、300人もの日本人が出入りしています。その目玉は、survival English class(生き残りのための英会話)で、米国での生活に最低限必要な英語を教えるものです。

今から20年ほど前、この地は、反日的な雰囲気に満たされていましたが、その中である悲しい事件が起こりました。それを通して、この教会の人々は、多くの日本人駐在員の家族が、現地で想像を絶する孤独と恐怖の中に置かれていることを知り、どのように日本人の方々を教会にお招きできるかということを考えるようになり、このプロジェクトを始めました。

この教会に出入りしている日本人は、教会が、自分たちの都合ではなく、ただ単に、神の愛を目に見える形で現したいと願っているということが分かり、安心感を覚えています。

 

私たちのこの世界には、いつも生き残りをかけた戦いが満ちています。そして、聖書こそが、サバイバルのためにもっとも大切な宝物であることを覚える必要があります。

「初めに、神が天と地を創造した・・」以降の聖書の最初の記事は、多くの人々の人生観を変え続けてきました。それに対応するように、聖書には世界のゴールが、黙示録211節において、「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない・・・」と記されます。それはイザヤ書6517節で預言されていたことを基にして記されています。

そこでは、主ご自身が、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だからわたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べと語っておられます。

そこには弱肉強食や争いがすべて過ぎ去った、神の平和が支配する世界です。私たちはこの世界がどのように始まり、どこに向かっているのかを理解するときに本当の意味で「いのち」を燃焼させることができます。

 

たとえば、創世記一章の解釈でも、十人の学者が集まると十通りの解釈が生まれると言われます。そんな中で、私はとっても嬉しいことを体験しました。今から8年年近く前に、モーセ五書をまとめた本を出版させていただきましたが、この本は、創造科学の主催者の牧師からも、またそれに批判的なこの世の科学との調和を重んじる方々からも、ほぼ完全に同意できると評価をいただくことができたからです。

またこの世界の終わりへのプロセスでも、特に千年王国の解釈を巡って驚くほど多様な解釈がありますが、この世界のゴールが、神の平和が支配する「新しい天と新しい地」にあることは、すべての福音的な信仰者が一致できます。

私たちは、この世界がどなたによって始められ、どなたによって完成に導かれるかにおいて、完全に一致することができます。この世界の始まりと完成の両方に目をきちんと向ける時に、私たちは様々な恐れや不安から自由にされ、愛に満ちた神の救いのご計画に目を向け、世界の荒波に向かって行く勇気を持つことができます。

 

1.「初めに、神が天と地を創造した・・・」

「初めに、神が天と地を創造した。」(1:1)での、「神(エロヒーム)とは、すべての神々を呼ぶときに使われる普通名詞です。当時の世界では、創造主という概念が忘れられていたので、「神々」を表わすのと同じことばで創造主ご自身を紹介せざるを得なかったのでしょう。それは簡単に言うと、世には様々な神々がいるが、この方は、他の神々のように、生まれ出た神ではなく、時間空間すべての創造主であるということです。

聖書は、唯一の神によって世界が創造されたということを記した最古の書物です。これがなければ創造主という概念さえ、人の心には思い浮かべようがありませんでした。その目的は、創造主を忘れた人々に、この世界が「神」の最高傑作であることを知らせ、創造主を礼拝することができるように招くことです。

なお、「天と地」とはセットで全世界という意味です。古来、人間は自然の力を恐れて生きており、そこから偶像礼拝が起こりましたが、私たちはこの全世界を創造された神だけを恐れて生きれば良いということをこの記事から覚えることができます。

 

 「地は茫漠として何もなかった」(1:2)とは、最初の世界の状態の記述です。ユダヤ人の間で広く用いられている英語訳(Jewish Publication society :Tanaka Translation)では、1-3節が一つの文章で、「When God began to create heaven and earth- the earth being unformed and void, with darkness over the surface of the deep and a wind from God sweeping over the water-God said, “Let there be light” and there was light(神が天と地を創造し始められた時、地は形なく空しく、闇が大水の上にあり、神の息が水の上を動いていたのだが、神が『光があれ』と仰せられると、光があった)」と記されています。

つまり、厳密に言うと、ことばの上では、「無からの創造」という概念は表現されていません。ここでは、最初の「地」は、私たちが知っているような地ではなかったということを経験的な普通のことばで述べているだけです。

たとえば、数学で、ゼロの概念の発見がいかに画期的なことだったかと言われることがありますが、それならば、当時の人々に、「無からの創造」という概念を説明することはできなかったことでしょう。それよりも、「生命が存在できないと思えるような茫漠とした地に、植物が生え、鳥が飛び・・」という変化を知らせるほうが、神の創造のみわざの偉大さを明確に紹介することになったと思われます。

聖書は実際に起こったことを記述してはいますが、そこで用いられている言語は、三千年前の人々が理解できるものという限界があったことを忘れてはなりません。現代の自然科学との調和を考える以前に、大切なのは、神がこの記事を通して何を語ろうとしておられるのかという大枠を理解することです。

しかも、神による創造のみわざは何よりも、光の創造から始まっていることが強調されています。そのため、その原初の状態が、「やみが大水の上にあり…」(1:2)と描かれています。

 

しかし同時に、その直後に、「神の霊が水の上を動いていた」と説明されています。つまり、目に見える現実は、何の生き物も存在しない、不毛な「やみ」に包まれた世界なのですが、その上を、いのちのみなもとである「神の霊」が動いていたというのです。その意味で、ここには、「これから偉大なことが始まる」という希望が満ちているのです。

 

その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。これこそが最初の創造のみわざです。その後も、「神は仰せられた」ということばで、新しい日が始まり、そのたびに「そのようになった」と記されます。

当時の王のことばには、人を、有無を言わせずに動かす力がありましたが、同じように神のことばは、必ず目的を達成するのです。

 

そして、神は、その「光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」と記されます。なお、ここで「光」は何かの物質のようなものではなく、「やみ」の支配の中に「昼」という時間をもたらすものとして描かれています。

John Waltonは、最近、創世記一章に描かれた「創造」は、物質ではなく、この世界の機能(Function)の創造を描いていると主張し、世界の始まりに関しての解釈に革新をもたらしました。

彼によると、第一日目の神の創造は、昼と夜の繰り返しという「時間」が創造されたということと定義されます。聖書が描く時間がこのときから始まったということは、科学的な意味での地球の始まりに解釈の余地を残すことになります。

 

使徒パウロは、後に「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせて下さった」(Ⅱコリント4:6)と言いました。ですから、私たちはこの世界にある「やみ」の現実を、恐れる必要はありません。

黙示録22章では「新しい天と新しい地」の世界のことが、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない(5)と描かれています。つまり、私たちが置かれている時代は、やみに満ちた世界から光に満ちた世界の途上にあるのです。

 

ところで、二日目に、神は、「大空」「水と水との間に」造られたとありますが、この日だけは、「神はそれを見て良しとされた」ということばがありません。これは、生き物が住めない世界が、住める世界へと整えられる通過点だからだと思われます。

なお、当時の人々は、この地に雨が降るのは、大空の上に水が貯められているためと考えており、聖書の世界では雨の不足が飢饉に結びつきました。ですから、第二日目は、気象の機能の創造と理解することができます。

 

そして神は、三日目に、かわいた地を創造し、そこに植物を生じさせました。この日には「神はそれを見て良しとされた」二回繰り返されますが、それはこの日、地を覆っていた水が「海」に集められ、「茫漠として何もなかった地」が、植物が豊かに育つ地へと変えられるという二段階のみわざがなされたからです。

そして、第三日目は、すべての地の生き物に食物を与える機能の創造と理解することができます。とにかく、この最初の三日間では、「区別」「名づける」ということばが繰り返され、「茫漠として」いる世界に、形が造られ、いのちを育む環境が整えられたと描かれます。

 

不思議にも、太陽の創造に関する記述は第四日目です。しかも、「大きいほうの光る物」と表現され、名前がありません。エジプトでは、太陽が神としてあがめられていたので、ここでは、第一日目に創造された光地に注ぐ媒体に過ぎない物として敢えて表現されます。

しかも、ここではあえて「創造」の代わりに「造る(do『する』)」という動詞が用いれ、「光る物」の創造の目的を「しるしのため、季節のため、日とため、年のため」と描かれています(14)。つまり、強調点は、太陽という偉大な天体の創造というよりは、「種蒔きと刈り入れ(8:22)という季節、人の営みのリズムが整えられたことに焦点があるのです。

 

第五日目の創造は、海の魚と空の鳥ですが、これは二日目の大空と水の区別に対応します。第六日目は、地の生き物の創造ですが、これも第三日目に地が造られ、植物が芽生えたことに対応します。

興味深いのは、「海の巨獣」や「すべての鳥」に関しては「創造」ということばが用いられる一方、家畜や野の獣という陸地の生き物に関しては、「地が、種類に従って、生き物を生ぜよ」(24)と命じられていることです。

また25節の動詞も「創造」ではなく、「造る(do)」で、これらの箇所では、地から生まれ、地に依存して生きるということに強調点があります。

 

つまり、最初の三日間で形が造られ、そして、後の三日間で「何もなかった」(2)という世界に、天体といのちが満たされているのです。しかも「種類にしたがって」という表現が繰り返され、神ご自身が、何よりも多様性を創造されたと強調されます。

そして、「新しい天と新しい地」は、「もはや海もない」世界です(黙示21:1)。世界の最初は、海ばかりでしたが、神はそこに空と陸とを区別されました。危険が満ちた不毛の世界が、豊かな植物を育てる大地と青い大空に満ちた世界へと変えられました。現在の私たちの世界は、予知できない危険と、神にある安心が共存する世界です。

ですから、この世界に、「茫漠として何もない」と思える状態や、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。この世界に何が起ころうとも、それはやみから光へ危険から安全へという変化の一プロセスに過ぎません。

しかも、ここでは、その日ごとに、「夕があり朝があった」と記されます。聖書の民にとっての一日の始まりは、日没にありましたが、それぞれの日の創造のわざに、やみから光へというリズムが見られるのです。

そして、私たち今も、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができます。「やみから光へ」、「茫漠からいのちへ」という希望に満ちたリズムを神は支配しておられるのです。

 

それゆえに、私たちは、明日のことを思い煩う必要がありません。今日なすべきことを力いっぱいやって、後は、お祈りして寝るだけですが、神にあっての一日は、この夜の休みから始まっているというのです。

 

2.  神がご自身の喜びを分かち合うために造られた人間

  人間の創造は、第六日目の中で、野の獣や家畜の後ですが、その時まで、六回にわたって、「神はそれを見て良しとされた」と繰り返されます。そして、その直後に、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(1:26)と仰せられました。

神は、独り言で世界を創造し、自画自賛しているのではなく、「われわれ」と、ご自身が交わりのうちに生きておられることを明らかにされました。それは、父、御子、御霊の三位一体の交わりです。

そして、神は、ご自身の愛の交わりを広げるため、人を創造されました。つまり、神は、ご自身の喜びを分かち合う対象として人を創造されたのです。当時流布していたバビロニア創世記では、人間は、神々が楽しく暮らせるために、下界に奴隷として造られたと記されていました。

 

しかも、当時の世界では、「王」だけが「神のかたち」と呼ばれましたが、すべての人間が、かけがえのない存在として、神を「表す者」として創造されたというのです。なお、「神のかたち」が、人と動物を区別するような、言語能力、記憶力、想像力、技術力などという「能力」を意味するなら、サタンこそ最もすばらしい「神のかたち」になってしまいます。

しかし、ここでは何よりも、「神のかたち」に創造されたということが、「地を従えよ・・支配せよ」(28)という命令の前提として記されています。私たちは神のかたちに創造されたからこそ、この世界を治めるというクリエイティブな働きができるのです。

ただし、神のかたちに創造された者としての「誇り」は、同時に争いの原因になります。理想が高い分だけ、目障りな人の数が多くなるようなジレンマがあります。つまり、神のかたちに創造された人間は、その最初から、この世界を美しく保つことができるすばらしい存在であると共に、この地に争いを生み出す可能性を持った危険な存在なのです。

 

 それにも関わらず、第六日目の創造の記事の終りには、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」と記されています。人は、過ちを犯す可能性を抱えた、ある意味で不完全な存在でしたが、それにも関わらず、それは、「非常に良かった」と呼ばれる世界でした。

それは、第一に、人は「神のかたち」に造られたからこそ、神との対話ができるからです。28節の二番目の文章では、「神は彼らに仰せられた」と記されていますが、それまではすべて、「神は仰せられた」という独白形式なのに、この箇所だけは、人との対話形式になっています。つまり、神のみことば聞き、神に祈るという生き方の中でこそ、私たちはこの地を平和に治めることができるのです。

第二に、人は、「神のかたち」に創造されたからこそ、互いに愛し合うことができます。27節の二番目の文章では、「神のかたちとして創造し」ということばが、「男と女とに創造し」と言い変えられます。つまり神は、人を愛の交わりのうちに生きさせて、「生めよ。ふえよ」と命じて、地に増え広がることを喜んでおられます。つまり、人は互いに愛し合うことによって世界を治めるように創造されているのです。

 

人は不完全なままで完全なのです。神は人を、最初から、人の助けなしには生きて行けないひ弱な存在に創造されました。ほとんどの動物は、孤独に耐えかねて気が狂うなどということはないでしょうが、人は、こころもからだも驚くほどひ弱に創造されています。しかし、互いに愛し合うことができるので、生きることができるのです。

私たちは神のみことばを聞き、神に向かって祈ることができるということにおいて、百獣の王であるライオンにまさる強さを持っているのです。それと同時に、神のあわれみなしには生きて行けないひ弱な存在であることを知るからこそ、人に優しくなることができます。その創造の秩序がわかったとき、私は自分の欠点すら喜ぶことができるようになりました。

 

とにかく、この第六日目で強調されていることは、神はこの地からあらゆる生き物を生じさせ、この地から生える食物だけですべての生き物のいのちが育まれ、弱肉強食もなかったということです。

そして、人間は、神のかたちとして、この世界に神の愛を目に見える形で現し、この世界を平和のうちに治めるための神の代理として創造されたということです。

 

3.  創造のクライマックスとしての安息日

  神の創造のみわざのクライマックスは、六日目の人間の創造ではなく、明らかに21-3節の第七日目です。「第七日」ということばだけは三回繰り返され、「なさっていたわざ」「なさっていたすべてのわざ」「なさっていたすべての創造のわざ」と同じことばを繰り返し、拡大させています。

しかも、11節から23節までは「神」ということばが七の五倍の35回記されますが、21節から3節に記されているヘブル語の単語数も35です。

第七日目を創造の記事から外すことは、頂上を見ない登山のようなものです。神は、それぞれの日ごとにご自身のみわざを振り返り満足されたのですが、第七日目は、神ご自身が「祝福された」最も豊かな日であり、他の六日間とは分離された「聖なる」日です。それは創造のみわざの結果全体を喜び楽しむ日です。

John Waltonはその日を、神が世界の王として就任された祝福の日と呼んでいます。

 

  ところで、第七日目を安息日とするのはこの記事に由来しますが、「休まれた」(シャバット、2,3)の本来の意味は、「安息」より「停止する」です。出エジプト記での安息日律法の説明では「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない…しかし、七日目は・・あなたはどんな仕事をもしてはならない(20:9,10)と、「あなたにとっての仕事」から手を引くことが強調されています。

その理由として、「主が・・休まれたからである」(20:11)と、この箇所が引用された不思議な説明が加えられています。なお、この際の動詞は、シャバットではなくヌーアハという平穏の状態を指す言葉です。

神が「天と地」を創造したというのは、神がご自身の神殿を創造されたという意味に理解することができます。全宇宙は神の王座、地は神の足台でもあるからです(イザヤ66:1)

 

そして七日目は、創造のみわざを停止して、ご自分の創造された「神殿」の中に入られたことを意味します。ダビデは神殿の建設を計画するに当たって「主よ、立ち上がってください。あなたの安息の場所(メヌーアハ)に、お入りください(詩篇132:8)と述べています。ただ、それは、神がそこに昼寝をするために入るという意味ではなく、アメリカの大統領がホワイトハウスに入るような意味です。

それは、神がこの世界のコントロール・ルームに入られるという意味に理解できます。事実イエスは、38年間も臥せっていた人を安息日に癒されたことを宗教指導者が非難した時、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働いているのです(ヨハネ5:17)と言われました。

 

私たちはこの日に、日々の生産活動から離れることによって、神が今も生きて働いておられることを覚え、感謝をささげます。そのときに、すべてのことは、私たちの労働以前に、神によって守られているということがわかるのです。

しばしば、「自分がいなければ…」と言う人によって仕事が混乱します。私はドイツの金融界で働いていました。ドイツでは、夏休みを四週間取ることが義務づけられています。休みを取らない人間は、何か代理の人に見られては困るような仕事の仕方をしているのではないかと疑いをかけられます。

休みは、ひとりひとりの働きが、神の秩序に従って、チームワークによってなされていることを覚える良い機会です。あなたが休んで困るような状態の仕事の仕方こそ反省すべきでしょう。

 

そして、安息日に積極的になすべきことこそ、何よりも神との対話という「祈り」であり、また礼拝です。それは神の創造のみわざと、私たちの人生に対する導きへの感謝のときであり、山の頂上での喜びのときです。

また、これは、「聖なる会合の日」(レビ23:3)と呼ばれるように、公同の教会で礼拝をする日です。なお、ヘブル書の著者は、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(4:9)という不思議な表現を用いています。

つまり、現在の安息日も、新しい天と新たしい地での完成の途上にあるのです。現在の礼拝は、天で完成する礼拝の前味です。そのような祝福のときとするのが、礼拝奉仕者に課せられた聖なる責任です。

詩篇92篇は「安息日のための歌」との表題がついています。そこでは、「あなたの御手のわざを、喜び歌います」(4)ということが中心になっています。「まぬけ者や愚か者」は、主のみわざの大きさやその御計らいの深さを分かりませんが(5,6)、神のかたちに造られた人間の価値は、生産能力ではなく、神のみわざを感謝し、それを喜び楽しむことにあるのです。そして、新しい天と新しい地は、そのような喜びの歌に満ちた世界です。

 

この世界は、神の住まい、神殿として創造されました。ですから、私たちは、この世界にどんな悲惨や混乱があっても、この世界の創造主なる神のもとで安らぐことができます。そしてすべての人間は、「神のかたち」として、この世界を治めるために創造されました。

しかも今、神のかたちとしての生き方を忘れた人間のために、神の御子ご自身が人となって、その生き方を指し示してくださいました。この世界は完成に向かっています。私たちの交わりの中に、痛みが生まれたとしても、それは外科手術のようなものです。昔は、現代のような麻酔なしにすべての手術が行われました。しかし、それでも人は、手術を受けられること自体をいのちへの道として受け入れたのです。

あなたの罪のためにキリストは十字架にかかり、あなたを義とし、生かすためにキリストはよみがえってくださいました。今、あなたのうちにはキリストが生きておられます。あなたはキリストに生かされているものとしてこの地で地の塩、世の光として労働します。

 

そして、キリストの教会を立て上げるためにひとりひとりをここに集めてくださいました。この世界は、神の平和が支配する、「正義の住む新しい天と新しい地」に変えられる途上にあります。

私たちがキリストに顔と顔とを合わせてであうとき、あのときの苦労が報われた・・と心から喜ぶことができるでしょう。

完成の約束された働きに加わらせていただけるほど大きな特権はありません。神は、この世界を新しい天と新しい地へと作り変える途上で、あなたを召してくださいました。

|

2014年6月 1日 (日)

マラキ2章17節-4章「主のさばきを侮る者へのさばき

                                                   201461

バビロン捕囚からの帰還者は、最初は、感激に満たされて主の宮の再建に情熱を傾けましたが、やがて気力が萎え、再建工事は停滞しました。そのような中で預言者たちが民を励まして、神殿は完成しました。

その際、主はハガイを通して、「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす・・・この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」(2:7,9)と言われました。また、神殿の礎が据えられた後の日のことを、「きょうから後、わたしは祝福しよう(2:19)と明言されました。

また、主はゼカリヤを通して、「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主(ヤハウェ)の山は聖なる山と呼ばれよう・・・今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない・・・わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる」8:3,11,13)と言われました。

両者に共通するのは、再建された神殿が将来、主の栄光に満たされ、エルサレムが神の都として繁栄を回復するということと同時に、神殿の再建に関わった人々に目に見える祝福がすぐに実現すると約束されていることです。

しかし、マラキの時代の人々は、紀元前516年の神殿再建から約50年ぐらいたったときの人々で、自分たちの期待が裏切られたと感じていたのだと思われます。

 

私たちの教会の中にも、「新会堂が完成したのはよいけれども、期待したほどには、主の栄光を味わうことができなかった・・・」、「新会堂建設にそれなりに協力したつもりなのに、私の生活はそれほど祝福されているとは言えない・・・それどころか、神を知らない友人の方が、最近、いやに羽振りが良くなっている・・・」などという思いが生まれるかもしれません。

しかし、主の祝福は、確かにすぐに実現した部分と、将来、人々の期待をはるかに上回って実現する部分との両面があるのです。マラキの預言は、まさに現代の私たちの教会へのメッセ―ジと言えましょう。

 

1.「さばきの神はどこにいるのか」

   217節は原文では、「あなたがたは、主(ヤハウェ)を煩わした」という厳しい表現から始まります。そして、それは、「あなたがたのことば」によってであると記されます。それに対するイスラエルの民の反応が、「しかし、あなたがたは言う」と描かれます。それは、反省する代わりに、ことばで言い返す姿勢で、それは、「どのようにして、私たちは煩わしたのか」という問いです。

それに対しここでは、まず、「あなたがたは言うことによって」と記されます。それはことばの内容以前に、彼らが「ことば」によって、主を煩わしているということを強調するためです。

そして、その内容が、「悪を行う者もみな主(ヤハウェ)の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる」または、「さばきの神はどこにいるのか」という二つのことで描かれています。

第一の彼らの疑問は、たとえば預言者エレミヤが、「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました(12:1,2)と嘆いたような現実が、バビロン捕囚が終わった後もなおも続いたからです。

当時も今も、一般的に、この世的な成功を収めていること自体が、主のみこころにかない、主に喜ばれているしるしだと思われていましたが、それなら、主は悪を行なう者こそが、主の喜びの対象と見られていることになります。これは、ですからこのことばは、主には正しい判断をする目が備わっていない、主が盲目であるかのように見ているというしるしになります。

第二は、「正義の神はどこにおられるのか」または、「支配者としての神はどこにおられるのか」とも訳すことができます。悪人が繁栄するのを見る者は、神がこの世界をご自身の正義の基準で支配しておられることを信じられなくなります

 

それに対し、主は、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす(3:1)と言われます。「使者」とはヘブル語で「マラキ」と記されていますが、それは文脈からしてもマラキ自身のことではなく、神が新たに遣わされる「使者であることは明らかです。

そしてその使者の働きが、「彼はわたしの前に道を整える」と記されます。それはイザヤが預言した「荒野に呼ばわる者の声(40:3)新約ではバプテスマのヨハネを指します(マルコ1:2-4)。

その上で、「あなたがたが尋ね求めている主(アドナイ)が、突然、その神殿に来る」と言われます。これは先に述べたハガイやゼカリヤの預言が、突然、予期しない形で実現するという意味です。

そればかりか、「あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と、「万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されます。この「契約の使者」がどなたかは諸説がありますが、その方は、旧約の民が望んでいた新しい契約(新約)を結んでくださる方であることは確かです。

たとえばエレミヤ書においては、石の板に記された契約との対比で、主ご自身が、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と言っておられます。

 

ただ、ここでは、「望んでいた契約の使者」は、そのように民の心を新しくする前に、厳しいきよめの働きをするという意味で、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ」(3:2)と言われます。

「精錬する・・火」とは「銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる」と言われた「激しい怒りの火」が、再びユダの残りの民を襲うということを意味します(エゼキエル22:21,22)

また「布をさらす者の灰汁」とは強いアルカリ剤で、漂白することを意味します。これも痛みを伴います。

そして、そのことが改めて、「この方は、銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする(3:3)と描かれます。

 

そして、「レビの子ら」が「きよめ」られた結果が、「彼らは、主(ヤハウェ)に、義のささげ物をささげる者となり、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主(ヤハウェ)を喜ばせる」と描かれます(3:3,4)。これは、彼らのささげものが、ソロモンが神殿を奉献した時のように、主に受け入れられるということを示していると思われます。

そのときの様子がかつて、「ソロモンが祈り終えると、火が天から下ってきて、全焼のいけにえと数々のいけにえを焼き尽くした。そして、主(ヤハウェ)の栄光がこの宮に満ちた(Ⅱ歴代誌7:1)と描かれていました。

 

その上で、改めて主は、「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう(3:5)と言われ、その確かさが、「万軍の主(ヤハウエ)は仰せられる」と記されます。これこそ、217節の「さばきの神はどこにいるのか」ということへの答えでした。

 

新約の時代においても、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちの眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」という問いかけが生まれています。

それに対し、ペテロは、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえってあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と述べています(Ⅱペテロ3:4,8,9)

主が今すぐに再臨されるなら、あなたには、またあなたの家族や友人たちには、その用意ができているでしょうか。

 

2.「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て・・・わたしをためしてみよ」

36節では、まず祝福の望みが、「わたし、ヤハウェは変わることがない。あなたがたは、ヤコブの子らであることをやめることはない」(私訳)と記されます。それは主がアブラハムに、「あなたの名は祝福となる・・・あなたは多くの国民の父となる・・・あなたの子孫をおびただしくふやし・・幾つかの国民とする(12:217:4,6)と約束されたことを、守り通してくださるという意味です。

パウロもイスラエルの民の選びに関して、「神の賜物と召命とは変わることがありません(ローマ11:29)と記しています。神は滅ぼすためではなく、きよめのために懲らしめるのです。

 

しかし、主が約束を守ってくださると言われても、イスラエルの民は何度も主から離れました。そのことが、「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった(3:7)と描かれます。

その上で、主は今、「わたしのところに帰れ」と、哀れみに胸を熱くしつつ、招いておられます。そして、それに対し、「そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」と約束しておられます。これは、主の栄光が再建された神殿に戻ってくるという意味です。そして、そこに再び、「万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」という力強い約束を込めています。

 

ところが、それに対し、「しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う」と、また、愚かなことばの応答をするというのです。

そしてそれに対し、主は具体的な、主のもとに「帰る」方法を示してくださいました。

 

そこでまず主は、不思議にも、「人は神のものを盗むことができようか」と問いかけながら、「ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と断言します。

そしてここでも、「しかも、あなたがたは言う」と、彼らの愚かな問い直しがあると記し、その質問が、「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と描かれています。

 

それに対し、主は具体的に、「それは、十分の一と奉納物によってである」とお答えになりました。なお、「十分の一」に関しては、レビ記2730節で「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主(ヤハウェ)のものである。それは主の聖なるものである」と明確に記され、続けて、牛や羊の十分の一をどのように主のものとして聖別するかも記されています。

民数記1821-24節では、民の収穫物の十分の一は会見の天幕の奉仕をするレビ人に与えられるものであると命じられていました。イスラエルの民の信仰の堕落は、レビ人に十分の一をきちんと与えなかったことで、彼らが神殿の奉仕に専念できなくなったところから始まりました。

それは現代では、しばしば、キリスト教会においても、牧師がみことばと祈りに専念できない体制を作ることで、日曜日の礼拝がおざなりになるということを通して現れます。

また、申命記1422-29節には、収穫の十分の一を主の幕屋のある場所に携えて行って、家族と共に食べることが命じられていました。イスラエルの民はこれを第二の「十分の一と理解していたとも言われます。現代の場合は、収入の十分の一は何も考えずにそのまま聖別して所属教会の献金としてささげ、また、第二の「十分の一」は、交わりのためや超教派の働きのために知恵を使って用いることと解釈できます。

 

なお、ヤコブが無一文で母の実家に向かって旅をしたとき、ベテルにおいて主ご自身が現れてくださいましたが、その際ヤコブは、「すべてあなたが賜る物の十分の一を必ずささげます(28:22)と約束しました。

つまり、まったく収入のない人は、収入を得た際には十分の一をささげると約束することによって、道が開かれるのです。

 

    ところが、イスラエルの民はこれだけ明確な教えを受けながら、それを実行していませんでした。それに対して主は、「あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる」(3:9)と厳しく叱責されました。

これは恐ろしい表現です。「十分の一」を出し惜しむ人は、神を敵に回し、自分で自分の首を絞めることになっているというのです。

箴言1124節には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」と記されています。献金を惜しむ人は、必ず、どこかで損をするか、お金を無駄にしてしまっているものです。

一方、十分の一をささげ続けたことを後悔している人の話を、聞いたことがあるでしょうか。ただ、十分の一を誠実に献げていた時は、いろんなことが好循環だったのに、それをやめたとたん、いろんなことが悪循環になり、今は、献金の余裕すらなくなったというような例はないわけではありません。

 

   そのことを主は、なお大胆に、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ(3:10)と言われます。

聖書の中で、主ご自身が「わたしをためしてみよ」と言われる箇所は、ここにしかありません。ですから、まだ、十分の一献金を実行しておられない方は、この神のチャレンジに答えて見るべきでしょう。

そのとき、主があなたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えてくださると約束をしておられるからです。なお、もちろん、この祝福とは、あなたのすべての願望がかなうという意味ではありません。主が与える祝福は、あなたを「もっと、もっと」という依存症にするようなものではなく、あなたをキリストに似た者へと変えてくださるという大きな枠の中で起こることを忘れてはなりません。

 

   そして、11節では主が与える祝福が、「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。─万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と描かれます。これは、現代的には、主があなたの仕事をあらゆる災いから守ってくださるという意味です。

そればかりか、「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」(3:12)と閉じられます。ただこれも、十分の一をささげたら、仕事もすべて順調に行き、病気にもならず、周りの人からいつも尊敬されるという意味ではないことは明らかです。

なぜなら、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである(ヘブル12:6)と記されてもいるからです。しかし、そこには、「私たちをご自分の聖さにあずからせ・・・平安な義の実を結ばせる」(1011)という主の大きな約束が伴っているのです。

 

3.「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見る」

   313節からは再び、民のつぶやきが描かれます。その第一は原文で、「かたくなだ(ひどいものだ)、お前たちのわたしへのことばは」と、「(ヤハウェ)は仰せられる」というものです。これは、まるで主ご自身が、ご自分の民のことばによって傷ついているかのような表現です。

ところが彼らは例によって、「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」と言いながら反省の色がありません。それに対し、主は、「あなたがたは言う」と彼らがつぶやいている様子を描きます(3:14)

そこで彼らは何と、「むなしい!神に仕えることは・・・。何の益になろう!神の戒めを守っても、万軍の主(ヤハウェ)の前で悲しんで歩いても・・・」(私訳)と言っているというのです。

詩篇732節には、「しかし私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです」という告白がありましたが、それと反対に、彼らにとっては、主に仕えることや、主の前で悲しむことは、神の祝福を獲得するために取引のようなもになってしまっていました。

 

    そればかりか、彼らは、「今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう(3:15)と言い放っています。なぜなら、「悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」という現実が見えるからです。それは、217節のことばをより強くしたものです。

なお、「神を試みても」ということばは、先の「わたしを試してみよ」という招きと同じ動詞が用いられていますが、ここでは、主の愛を疑いながら、同時に、主を自分の期待通りに動かすような思いで、主に向かっている姿勢を指しています。

彼らは兄弟を嘲り虐げながら、「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか(詩篇73:11)と言いながら、しかも、「罰を免れている」というのです。そのような不条理を見続ける中で、[正直者はバカを見る・・・やりたい放題、言いたい放題の生き方の方が幸せだ]と憧れるような思いが湧いてくるというのです。

 

    ところが、そのような中で、「そのとき、主(ヤハウェ)を恐れる者たちが、互いに語り合った」と、今までと逆の展開が記されます。そして、その内容が、「主(ヤハウェ)は耳を傾けて、これを聞かれた。主(ヤハウェ)を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」と、記されます。

つまり、主を恐れ、主をあがめる者への祝福は、すぐに現れないことがあっても、主の「記憶の書」に必ず記録され、やがて報われるというのです。

 

   そして、主の約束が、「彼らは、わたしのものとなる。─万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる─わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(3:17,18)と記されます。

そのとき、「神に仕えるのはむなしいことだ・・・」と、つぶやいていた者たちが恥を見ることになるというのです。

 

  そして4章では、主のさばきが明確になる日のことが、「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。─万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されます。

それは、第一に、主をあなどる者たちへの厳しい刑罰の日です。しかし、それと同時に、「その日」に関して主は、「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ」と、「万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」(4:2,3)と「主を恐れる者への」明確な祝福の約束、神を侮る者たちとの逆転が描かれます。

  

そして、最後に、主の命令が、「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである(4:4)と記されます。これは、モーセ五書を何度も読み、暗記し、思い巡らすことの勧めです。私たちは今月から再び創世記に立ち返って、モーセ五書を再び駆け足で味わいます。

主の命令の第一が、良い行いをすること以前に、みことばを記憶することであるというのは不思議なことです。それは、多くの人々が、主の目によいことではなく、自分の目に良いことに熱くなるからでしょう。

 

   その上で主は、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5,6)と約束されます。

イエスによると、バプテスマのヨハネこそが、この再臨のエリヤでした。またそれは、31節の「わたしの使者」のことでもあります。

父の心を子に・・子の心を父に」としるされているのは、主の御教えが父から子へと伝えられるからです。信仰の継承を主ご自身が可能にしてくださいます。

 

   なお、主は、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」と言われますが、預言された救い主は、この地を「のろう」代わりに、ご自身が身代わりに「のろい」を受け、私たちをこの「のろい」から救い出してくださいました。

ただ、それでもすべての人が、主のさばきの座の前に立たされます。そのとき、イエスの救いを受け入れていない者は、それぞれの行いに従って、主のさばきを受けることになります。私たちも主から預かった賜物をどれだけ生かしたかという働きが評価されます。

どちらにしても、「さばきの神はどこにいるのか」と言う者は、激しく後悔することになります。

  

   旧約の最後のマラキ書は、エリヤの再臨の約束で閉じられ、もっとも古い新約の福音書のマルコでは、「バプテスマのヨハネ」の現れから記述が始まります。そして、そこには意外な救い主の姿が描かれています。私たちの罪を裁く代わりに、ご自分が十字架にかかって、私たちの身代わりに「のろい」をうける姿です。

ただ、それを通して、悔い改めに導かれる人もいれば、反対に、「主のさばきはどこにあるのか、どのように生きても同じではないか」と、マラキ書に記されているのと同じようにつぶやく人が出て来ます。

しかし、主のさばきを軽蔑する者は、裁きを受けます。私たちはみな、「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見る」ようになります。ここでの正しい人」とは、何よりもイエスを救い主と告白して、イエスに従おうとする人のことです。

また、本日の箇所で、「主に帰る」ということが、十分の一献金として現されていることは興味深いことです。多くに人にとって、お金は家族の命の次に大切な物です。だからこそ、私たちの信仰は何よりもお金の使い方に現されることになるのです。主ご自身が「わたしをためしてみよ」言ってくださっているのですから、これを主の祝福を味わう契機とさせていただきましょう。

そして、実現した祝福の一つひとつを感謝し、さらに大きな祝福を主が用意しておられることを待ち望みましょう!

|

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »