« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月26日 (日)

詩篇96篇「主(ヤハウェ)は王である」

                                                       20141026

 長い歴史を振り返ると、現代の日本は人類史上未踏の繁栄に中にあると言えます。宇宙船から見下ろす日本はまさに「光の国」に見えるとのことです。そして、その繁栄のシンボルは東京ですが、その中でひとりひとりの心はどんどんやせ細り、漠然とした不安や不満が広がっていると言われます。生活はどんどん便利になる一方で、心はどんどん余裕がなくなっています。

それは私たちが太陽の光の代わりに、人工的な光の中で過ごす時間が多くなった結果ではないでしょうか。創造主のみわざを喜ぶ中では、人が自分の弱さを謙遜に認めた結果の交わりが生まれます。しかし、人間の能力を誇る中には互いの比較が生まれ、人を競争へと駆り立てます。

 

1.創造主のみわざを覚えて歌う

  この詩篇とほとんど同じものがⅠ歴代誌16章に記されています。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行なったことは、「十のことば」が収められた契約の箱を運び入れることでした。その際、全イスラエルが歓声をあげ、様々な楽器を響かせる中で、ダビデは飛び跳ねて喜び踊りました。そのときに聖歌隊によって歌われたのが、この詩篇だったというのです。

当時の常識では、このようなときに王が取るべき態度とは、自分を神の代理としての威厳に満ちた衣装で包み、自分は玉座に乗せられたままで運ばれ、上からしもべたちの踊りを見下ろし、神と自分とを並べて拝ませることでした。ところがダビデは、人々の眼差しを忘れたかのように、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置いて、喜び踊ったのでした。

彼は、王権が創造主からの一方的な恵みであり、王として立てるのも退けるのも神のみこころしだいであることを、前任者サウロの失敗を通して分っていました。サウルは人々の信頼を得ようと必死でしたが、ダビデは人々の目を創造主である神に向けようと必死になりました。

 

ダビデは最初に、「(ヤハウェ)に歌え」と三度繰り返します(1,2節)。その際、恐れ多い御名、「ヤハウェ」を大胆に口にします。そこには、いかなる人でもなく、すべてのみなもとであられる主(ヤハウェ)ご自身こそが誉めたたえられ、注目されるべきだとの訴えがあります。

「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。後に、預言者エレミヤは、エルサレムが廃墟となった中で、「私たちが滅び失せなかったのは、主(ヤハウェ)の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい(哀歌3:22,23)と歌いました。同じように私たちも、どのような状況下でも、主(ヤハウェ)の恵みとあわれみを思い起こし、日々新鮮な感動とともに「主に歌う」ことができます。

そしてダビデは、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる(2)という歌を奏でる世界を夢見ながら、「主(ヤハウェ)に歌う」ことを訴えています。

 

「御救いを日から日へと告げ知らせよ」(2節)とは、当時としては、主がイスラエルをエジプトから不思議な御手をもって救い出してくださったことから、ダビデによるエルサレムの占領に至るすべてのことを、主の救いのみわざとして後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。それは、現代の私たちにとっては、二千年前のキリストのみわざが現代の私たちに救いをもたらしているという霊的な現実を、歌い継ぐことを意味します。

そして、そのような救いをもたらす「主の栄光」を、自分の身近な人にとどめないで、「国々に語り告げよ(3)と勧められます。なお、「栄光」とは、本来「重い」という意味で、78節でも繰り返されるこの詩の鍵のことばです。それは、たとえば、この社会で最も影響力があり、小さな意見の相違をも包み込み、安定をもたらす人を、「重い存在」と呼ぶようなものです。主こそは、この世界の安定と調和の鍵で、栄誉を受けるのにふさわしい方です。また、「語り告げる」とは「記録する」とも訳されることばで、主の「くすしいみわざ」を、ひとつひとつ数え上げ、それを「すべての民に」、つまり、まわりの人々すべてに、「語り告げる」ことが勧められています。

教会で歌われている様々な賛美の歌は、「(ヤハウェ)」歌われているものであるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。ルターやウエスレーは、福音のメッセージを歌にすることで、世界を変えるような働きをしました。そして、そのような「新鮮な歌」は今も、生まれ続けています。「(ヤハウェ)に歌う」ことは、「主の・・くすしいみわざを、すべての民に」宣べ伝えることでもあるという原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

 

2.「栄光と力を主(ヤハウェ)に帰せよ」

 「主(ヤハウェ)は偉大、大いに賛美されるべき方」とは、先の「栄光」という表現を言い換えたものと言えましょう。また、「すべての神々にまさって、恐れられるべき方、まことに、諸国の民のすべての神はむなしい(4)とありますが、この世の多くの人々は、自分が社会の中で仲間外れにされることを恐れて教会に来なかったり、また、何かのたたりに会うことを恐れて偶像の神々を拝むことがあります。

ある宣教師がアフリカの奥地に伝道に行ったとき、その現地の人々は、「あなたの神は、どんな災いを起こすのか」と聞いたそうです。それに対して、宣教師は、「私たちの神は、災いを起こすような方ではありません」と答えた所、その人は、「災いを起こさない神をどうして礼拝する必要があるのか・・」とかえって聞き返したとのことです。

それは日本にも恐ろしいほどに生きています。日本人の心の中には、「たたり」を恐れる思いが根付いています。

最近では1985年の阪神優勝の際に、ケンタッキーフライドチキンの創業者カーネルサンダースの銅像を胴上げしたあげく道頓堀に落としてしまい、最近になるまで引き上げることができなかったがゆえに、阪神タイガーズがカーネルの呪いを受けて弱小球団になったという話があります。

それは怨霊信仰とも呼ばれます。無念の死を遂げた人の怨霊が、生きている人に災いをもたらすと考えられます。たとえば、菅原道真は学問の神としてあがめられますが、もともとは権力争いに負けて左遷され非業の死を遂げた貴族でした。ところが、彼を追いやった人々の家に災いが続いたときそれが菅原氏の怨霊であると言われ、彼を神として祭って怒りを鎮めるということになったとのことです。日本はある意味で、死者の霊が支配している世界です。先祖を供養しないとたたりに会うと恐れられています。

 

  しかし、「諸国の民のすべての神はむなしい」と言われます。「むなしい」とは、見せかけだけの「からっぽ」であることを意味します。それに比べて、聖書の神は天地万物の創造主です。たとえば日本で大きな地震や火山の噴火が起きると、自然が怒っているとか、何かのたたりなどと言われることがあります。しかし、地球物理学の先生が、「日本列島は火山活動と地震によって生まれた地です」と言った時に、何か心にストンと落ちました。私たちは火山活動も地震も抑えることはできません。どんな神々にもそれは無理なことです。だからこそ、私たちはこの地球の創造主である神を恐れる必要があるのです。

 

ただし、私たちは他の神々を礼拝してはいなくても、この世の富や権力を恐れて生きてはいないでしょうか。通貨を用いていなかった南太平洋のサモア諸島の人々がヨーロッパの宣教師によって真の神を紹介されました。しかし、後に彼らは、白人たちは創造主を礼拝しているように見せかけて、実はお金を神としてあがめていると非難したとのことです。

「しかし、主(ヤハウェ)は、天を造られた(5)という現実を、私たちもまず覚えるべきでしょう。人間の技術が太陽の光を真似たものを作ったと言っても、それは本物に遠く及ばないものに過ぎません。神が創造された「天」(複数)とは、私たちの想像をはるかに超えた全宇宙の広がりと、この世の現実の背後にある目に見えない永遠の世界のすべてを含むものです。

私たちの視野が狭すぎるため、知らないうちに、真の「尊厳と威光」「力と光栄」(6)がどこにあるかを忘れてしまってはいないでしょうか。「威光」とは、「名誉」とも訳される言葉で、9節にも繰り返されています。また、「尊厳」は「威光」とペアで使われることが多いことばで「輝き」を意味します。

また「光栄」とは大祭司の衣の美しさなどを現す時に使われる言葉です。ここで、作者は、「主の栄光」とも表現できる概念を、敢えて異なったことばで多様に言い表しています。

 

7,8節では、「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは「栄光と力を主に帰せよ」という意味ですが、そのように文章を完結させずに、「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばだけが繰り返されるのは、何とも不思議です。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからではないでしょうか。それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」ということばが重なって、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。

「栄光」の本来の意味は「重さ」であると述べましたが、それは「まことに人間の子らは息のようなもの・・彼らを合わせても、息よりも軽い(詩篇62:9)とあるような人の「軽さ」と対照的な概念です。人の愚かさは、その軽い人間の栄光を、神の栄光よりも優先してしまうことにあります。

 

モーセは約束の地を前にしたイスラエルの民に向って、「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ・・るようなことがあれば・・あなたがたは必ず滅びる」と警告しました(申命記8:17,18)。しかし、イスラエルは豊かさの中で主を忘れ、滅びてしまいました。

これは現代の社会に対する警告とも言えましょう。現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。

パウロは自分の知恵を誇るコリントの人々に向って、「いったいだれがあなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたは、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と戒めました。

もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。そのとき私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられるからです。

 

3.「主(ヤハウェ)は王である」

  ダビデは、人々が貢物を携え、王である自分の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、「ささげものを携え、主の大庭に入れ。主(ヤハウェ)にひれ伏せ・・・」(8,9)と勧めました。それは、心ばかりか自分の身体と財産のすべてを用いて、主への感謝を表わす姿勢です。

また多くの人は、この地の権力者の前で「おののき」ますが、「地のすべてのもの」は、この地の真の支配者であるヤハウェにひれふし、「御前でおののく」べきなのです。

そしてダビデは、「(ヤハウェ)」こそがイスラエルばかりか全世界の「」であると、聖歌隊がそろって宣言するようにと命じます(10節)。この告白こそ、この詩の核心です。そして、「主(ヤハウェ)は王である」という告白こそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。

 

あなたの人生では、誰が「」となっているでしょうか。自分の無力さ、愚かさを忘れた「裸の王様」も悲劇ですが、目に見える人間を「」とあがめて、その人の期待に添うようなことをしては息苦しくなるばかりではないでしょうか。

今も、主は、この世界の「」として、全地を支配しておられます。決まった時間に日が昇り、四季の繰り返しがあるのは、主が「世界を堅く立て」ておられる結果です。地震や洪水があっても、局地的な被害にとどまり続け、この地が「揺るぐことがない」のは、当たり前ではなく、主がノアに対する契約を守っておられるしるしです(創世記8:21,22)。

エレミヤはイスラエルの国が滅亡する中で、昼と夜との繰り返しを見ながら、主のダビデに対する契約も守り通されると預言しました。そこで主は、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と言われました。

そして、今、主ご自身が私たちひとりひとりに対し、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ヘブル13:5)と約束しておられます。主は、「」として、あなたを守り通してくださいます。 

 

やがて主は公正をもって人々をさばかれる」(10)とは、強い者が弱い者を虐(しいた)げ、自分たちの労苦の実もかすめ奪われてしまうような世の不条理が正されることを意味します。それは、救い主の到来によってすでに始まっていることです。

ですから、イザヤ書11章では「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という書き出しとともに、ダビデの子として生まれる救い主は、この世の弱肉強食を終わらせ、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・獅子も牛のようにわらを食う」(6,7)という平和を実現させると預言されています。

ここにおける主の「さばき」は、そのような救いの完成のときを指し示します。それを前提にパウロは「被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由の入れられる(ローマ8:21)と記しています。そして、その被造物すべての救いの完成の望みのことが、11,12節では、「喜べ」「喜び踊れ」「とどろけ」「歓喜せよ」「喜び歌う」というほとんど同じ意味をもつ五つもの異なった喜びのことばで表わされています。

 

なお、「そのとき森のすべての木も主(ヤハウェ)の御前で喜び歌う(12)と、「森の木」に特に目が向けられます。エゼキエル31章では北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国が「レバノンの杉」にたとえられ、自分の高さを誇って神のさばきを受ける様子が描かれています。しかし、世界の完成のときは、森の木は天にそびえながら、主を賛美するのです。

 「主は確かに来られる。地をさばくために来られる。正しく世界を、真実に人々をさばかれる(13)とは、私たちにとってはキリストの再臨の希望を意味します。二千年前にキリストが肉の身体をもって来られ、十字架にかかってよみがえられたことは、やがてキリストが世をさばくために再び来られることとセットになっています。

主は罪人をあわれまれたからこそ、さばきのときを遅らせておられます。そして、私たちが自分の罪深さを認めてイエスにすがっている限り、この再臨のときを恐れる必要はありません。それはキリスト者にとっては、「祝福された望み」(テトス2:13)だからです。

 

 この詩篇には、聖書の最初から最後までの要約が記されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちています。それらを直視しながら、どうして喜んでいることができるでしょう。しかし、「(ヤハウェ)は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。私たちは永遠の喜びの世界に入れられることを保証された者です。その永遠の観点から見ると、どんな悲しみも、束の間の出来事です。

この神秘を、英国の作家、G.K.チェスタトンは、今から百年ほど前に次のように記しています。「歓喜は・・・キリスト教徒にとっても巨大な秘密である・・・この人はみずからの涙を一度も隠しはしなかった・・・だが彼には何か隠していることがあった・・・神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれに見せるにはあまり大きすぎるものが、たしか何かしらひとつあったのである。そして私は時々一人考えるのだーそれは神の笑いではなかったのかと」。

 

今、神が沈黙しておられるように感じるのは、私たちの霊の耳が聞き分けることのできる音が限られていることの結果かもしれません。天にはすでに神への賛美の歌が響いているのではないでしょうか。私たちはその喜びの声が、あまりにも大きすぎて聞こえないのかもしれません。主に歌うことは、天上の賛美に私たちの心を共鳴させてゆくプロセスです。

 

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者はキリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです。」と言ったそうです。

彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれたとのことです。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけからはじまり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。

彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わいました。

 

 私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この自分の世界が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちを、この地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。

つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。私は、このままの姿で、この地において、神を愛し、人を愛し、神を喜ぶことができます。

 

この第一部のまとめとして、主の祈りの第一、「あなたの御名があがめられ(聖とされ)ますように」を覚えさせられます。心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たちも、いのちの喜びに満たされます。私たちの心が、これらの主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。

私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を、いろいろ抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ、これらの詩篇を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきではないでしょうか。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思っても見なかった祝福が体験できるかもしれません。

|

2014年10月19日 (日)

創世記27章1節-30章43節「主の祝福がもたらす豊かさ」

                        20141019

  この世の多くの人々は、富や名声に惹かれて依存症の罠にはまって行きます。確かに富も力も人間関係も極めて大切です。しかし、それらすべてをもたらす方がどなたなのかを忘れてはいないでしょうか?

詩篇732528節では、「天ではあなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません…私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」と告白され、また、詩篇1611節では、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と告白されています。

これをもとに、ウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに対して、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである(Man's chief and highest end is to glorify God, and fully to enjoy him forever」と答えられます。創造主を、真心をもって賛美し、また喜び楽しむことが、人間の生きる目的であるとは何と感動的な告白でしょう。

ジョン・パイパーという米国を代表する説教者は、「God is most glorified in us when we are most satisfied in him.私たちが神に最高に満足する時、神は私たちのうちで最高に栄光を受けている)というクリスチャン快楽主義なるものを教えています。要するに私たちの信仰とは、いやいや義務を果たすことではなく、主を喜ぶことであるというのです。義務化された信仰は、生きる力を生みません。

本日は、主の祝福を受け継ぐということがどれほど大きな喜びなのかということをともに考えてみたいと思います。

 

1. イサクからの「祝福」を得るために、すべてを失ったヤコブ

 「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた」(25:28)という歪んだ関係は、祝福の継承における悲劇を生みます。イサクは、主のみこころではなく、自分の判断でエサウを祝福しようとしますが、その前に猟の獲物を食べたいと願います(27:1-4)

それを聞いたリベカは、ヤコブに「わが子よ。あなたののろいは私が受けます(27:13)と断言してまで、祝福を騙し取る計略を授けます。イサクは声の違いに気づきながら、「おいしい料理(27:4,7,9,14,17)に気を惹かれ、エサウに扮したヤコブを祝福します。

 

祝福」とは、イサクが騙されてヤコブの祝福を祈ったように、その内容は「神が・・天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え・・・おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように」(27:28,29)とあるように、成功と繁栄、尊敬などを得ることを意味します。ヤコブはそれを受け、エサウはその正反対の言葉を受けました(27:39,40)

それはかつてペリシテの王アビメレクがアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる(21:22)と言ったことを指します。これは新約の、「神の子」とされる恵みにつながります。

 

   不思議なのは、イサクは騙されてヤコブを祝福したのに、その祝福は有効で、やり直しは効かなかったことです。それは、祝福を与える権威が、イサクではなく神にあったからです。実際、エサウに対するイサクの祈りの内容を見ると、そのことばはイサクの意志を超えた神から出ていることが明らかです。

後の教会の歴史では、迫害の中で信仰を捨てた司祭が授けた洗礼は有効であるかという議論が起こった時、礼典の有効性は司式者の信仰ではなく、その権威を授けた教会にあるという判断がくだされています。洗礼を授けるのは、個人ではなく教会なのです。

 

  エサウはこのことで激しく怒り、「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった(27:36)と言い、また「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう(28:41)心の中で言います。母リベカはこの息子の心の声を聞き、ヤコブをハランに住む兄ラバンのもとに遣わし、そこでエサウの憤りが鎮まるのを待たせるともに、信仰を共有できる妻を娶るようにと願います。

リベカはイサクに「私は(エサウの妻)ヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました」と言いますが(27:46)、それはヤコブを逃がす口実ばかりではありません。リベカは、神の民を作るために、父の家を離れて見知らぬ土地に来ました。もし息子たちがカナンの娘たちを娶ってしまうなら、彼女の人生自体が否定されることにつながります。その意味でエサウは既に、自分で祝福の継承者となる道を閉ざしていたのです。

 

イサクはヤコブを送り出すに当たり、かつて騙されたことを忘れたかのように、ヤコブが祝福の継承者であることを明らかにしながら、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえを増えさせてくださるように・・神がアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け・・この地を継がせてくださるように(28:2-4)と祈ります。

ただし、「こうしてイサクはヤコブを送り出した(28:5)とありますが、エサウを気遣うイサクは、遠い旅に出るヤコブにほとんど何も持たせず、またしもべもつけずに、たった一人で送り出さざるを得ませんでした。これは、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜しに行ったときの豊かな旅路とは対照的です。ヤコブは、イサクからの祝福の祈りだけを財産に、見知らぬ地に向かいます。

 

286-9節では、今頃になって、エサウはカナン人の娘たちを娶ったことが父イサクの気にいらないということに気づいて、アブラハムの子のイシュマエルの家から三番目の妻を娶ろうとします。

エサウも問題ですが、これまでイサクが息子を跡継ぎにしようとしながら肝心のことをきちんと指導して来なかったことが明らかになっています。

 

その上で、「ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った・・ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」(28:10,11)と簡潔に記されますが、彼は不安と寂しさで一杯だったことでしょう。

彼は、母リベカの勧めがあったにせよ、結果的には、まだ見ることができない将来の「祝福」を得るために、目の前の家族も財産もすべてを失ったのです。エサウは「祝福」は逃しましたが、家族と富に恵まれていました。あなたならどっちを選ぶでしょうか?

 

2. 「ここは天の門だ」

  ヤコブは孤立無援で暗闇に囲まれています。しかし、「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている(28:12)というのです。

それは、天からの助けがヤコブに向けて差し伸べられ、神と彼との間を取り次ぐ御使いがいることを示します。

 

しかもここでは、そこで起こった現実が何と、「(ヤハウェ)が彼のかたわらに立って」と描かれます。これはかつて、「主(ヤハウェ)はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた」(18:1)と記されていたことに匹敵する驚くべきことです。

その上で、主(ヤハウェ)ご自身が直接に、「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主(ヤハウェ)である・・・この地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり・・地上のすべての民族は、あなた・・によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り・・わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(28:13-15)と仰せられました。

 

ヤコブのこの体験は、私たち自身にとっても「信仰の原点」となります。人は基本的に孤独を恐れます。しかし、最愛の伴侶すら、最も深いところでの孤独感を癒すことはできません。ところが多くの人は、人や物への依存によってそれを紛らわそうとし、依存症の罠にはまります。

しかし、聖書は、積極的に、神の前にひとりになることを勧めます。孤独を避ける代わりに、深めることが解決なのです。そこで徹底的に自分の無力感に直面する時に、ヤコブへの語りかけが、神から私自身への語りかけとして迫ってきます。ひとりになって静まり、自分の心と向き合い、神と向き合う、そのような中で、新しい世界が広がります。

イエスの父となるヨセフが、誕生する救い主の名が、「インマヌエル(神は私たちともにおられる)」と聞かされたのもマリヤの妊娠のことをたった一人で思い悩みながら眠っていたときでした。

つまり、主のご臨在を覚えることと、孤独を深めることは切り離せない関係があるのです。

 

ヤコブは眠りから覚めて「(ヤハウェ)がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった・・・こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言い、「その場所の名をベテルと呼び」ます(28:16-19)

私たちも八方塞と思える中で、ひとり静まる時、自分の上に「天の門」が開かれているのを知ることができます。

 

ところで、イエスは公生涯の初めに、ナタナエルの信仰告白に応答して、弟子たちに向かって、「まことに、まことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」(ヨハネ1:51)と言われました。これこそ、イエスが様々な偉大なみわざを行なうことができた理由です。

そして、私たちが「神の子」とされるとは、イエスに起こったことが私たちにも起こるということです。目の前の道が閉ざされていると思えるときにも、天の門が開かれているなら心配する必要はありません。神の御使いがあなたの上を上り下りしてくださるからです。

 

このヤコブの夢から生まれたのが讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」です。今から約百年前、豪華客船タイタニックが氷山にぶつかって沈没し始めたとき、ウォレス・ハートリーという英国のヴァイオリニストは、乗客たちのパニックを鎮め、女性や子供たちが異常に少ない救命艇に誘導されるようにと、八人の弦楽バンドを励まして演奏し続けました。彼らは船と共に沈みましたが、最後に演奏されていた曲がこれであると伝えられています。

親が子供のために命を捨てられるように、主にある「永遠のいのち」を確信する者は、命がけで人を愛することができます。この美しい歌詞を味わう時、私たちは自分にとっての真の喜びをどこに見いだすべきかが心に迫ってきます。

 

「主よ、みもとに近づかん。上る道は十字架に ありともなど悲しむべき 主よ、みもとに近づかん

 さすらうまに 日は暮れ 石の上の仮り寝の 夢にもなお天(あめ)を望み 主よ、みもとに近づかん

 主の使いは御空に 通う梯(はし)の上より 招きぬれば いざ上りて 主よ、みもとに近づかん

 目覚めて後 枕の 石を立てて 恵みを いよよ切に たたえつつぞ 主よ、みもとに近づかん

 現(うつし)世をば離れて 天(あま)がける日きたらば いよよ近くみもとに行き 主の御顔を仰ぎ見ん」

 

ヤコブは、主ご自身が現れ、祝福を約束してくださったことに感動し、「・・私が無事に父に家に帰ることができ、主(ヤハウェ)が私の神となってくださるなら(条件文、新改訳第三版)私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます(28:22)と誓約します。

それは、自分の旅路が成功に終わったことを確認したあかつきには、この同じ場所に、主(ヤハウェ)のために祭壇を築くという意味です。アブラハムの場合は、主が現れてくださるたびに祭壇を築きました。ヤコブは今、一文なしだったからなのか、信仰が未熟だったからなのかは分かりません・・・。

ただこの夢は、ヤコブにとって信仰の旅路の出発点を飾るものでした。私たちも、不安を持ちながらも最初の一歩を踏み出す時、神の約束が自分に迫ってくるのが分かります。

 

3. ヤコブが受け継いだ「祝福」がもたらした富

  ヤコブは母の郷里に辿り着きました。彼は井戸のかたわらで羊飼いたちと対話し、母の兄ラバンの安否を尋ねます。するとそこで、ラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来ることが告げられます(29:6)

ヤコブは羊飼いたちをその場から追いやる口実を見つけようとしますが、それがうまく行かないと、突然、そこに割り込むようにして、井戸の上の大きな石をひとりでころがし、ラバンの羊の群れに水を飲ませます(29:7-10)。これは明らかなルール違反ですが、ラケルの好意を得るために必死だったのでしょう。

なお、かつてアブラハムのしもべがイサクの嫁を捜してこの地に来たとき、まず主に祈って導きを求め、リベカに出会った時は、その行動を冷静に見たうえで、主の導きを感謝して、「(ヤハウェ)を礼拝」しました(24:10-27)。それに比べると、ヤコブの信仰は何と未熟なことでしょう。

しかし、そんなヤコブを生まれる前から選んでおられた神は、ヤコブが願う前からすべてを備えておられました。私たちは自分の信仰の未熟さを卑下する必要はありません。主の祝福が私たちの信仰を育んでくださるからです。

 

  ヤコブはラバンのもとに身を寄せ、彼に仕えます。ヤコブは、「ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言って、結婚の了承を得ます(29:18)。その後のことが、「ヤコブは彼女を愛していたので、それも数日のように思われた」(29:20)と描かれます。

ところが婚姻の祝宴を迎えた後、喜びの初夜を終えてみたら、自分の横に寝ていたのは、姉のレアでした。ラバンは、この期に及んで、「長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしない(29:26)などと言い張りながら、レアを嫁に押し付けるとともに、さらにラケルのためにもう七年間も仕えるように命じます。

これはヤコブが目の悪いイサクを騙したことに似ていますが、人を騙す能力にかけてはラバンがはるかに上手でした。

 

ただ、この後のことが不思議にも、「(ヤハウェ)はレアが嫌われているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかし、ラケルは不妊の女であった(29:31)と記されます。

サラもリベカも不妊の女でしたが、そこに主のみわざが現されました。レアは嫌われる代わりに多くの子どもが与えられ、ラケルはヤコブの愛を得る代わりに不妊の悩みを抱えました。それぞれの悩みはまったく違いましたが、神は苦しみとセットに祝福を与えておられました。それが私たちにも起きています。

しかも、主はそのようなそれぞれの葛藤をご覧になりながら、ときに応じてあわれみを施し、ヤコブに多くの息子たちが生まれる道を開いてくださいました。そして、レアは主のあわれみによって、立て続けに、ルベン、シメオン、レビ、ユダを産みます。その中で、彼女は主(ヤハウェ)に感謝し、主をほめたたえています。

 

一方、ラケルは姉に嫉妬し、「私に子どもをください。でなければ、私は死んでしまいます」とヤコブに迫ります(30:1)。ところが、ヤコブは、リベカの不妊に悩んだ父イサクの場合のようには祈らなかったようです。ラケルは女奴隷のビルハによって子を得ようとし、それによってダンとナフタリが生まれます。それに対抗し、レアは自分の女奴隷ジルパによってガドとアシェルを産みます。

その後、長男ルベンは「恋いなすびを見つけ(30:14)、母レアに持ってきます。これは不妊治療に効果があると見られたものです。それにしても、息子が母の夜の生活まで気づかうとは異常です。まさにアダルト・チャイルドとして育ったしるしと言えましょう。

それを見た不妊のラケルは、「恋いなすび」をもらおうと必死になり、ヤコブと夜を過ごすことを姉のレアに譲ります。レアはヤコブに、「私は、私の息子の恋いなすびで、あなたをようやく手に入れた(30:16)と、息子を巻き込んだ発言をしているのですから、何という歪んだ家族でしょう。

しかも、このレアとラケルの争いに、ヤコブは家長としての責任を果たそうとはせずに、ただ黙って身を任せています。これは残念ながら、アブラハムやイサクにも見られた姿勢であり、機能不全家族の特徴です。

 

とにかく、「神はレアの願いを聞かれたので・・」(30:17)、レアは、イッサカルとゼブルンを産みます。このように、神は、嫌われているレアをあわれみ、彼女から六人もの男子を誕生させ、最後に女の子のディナも産みます。

 

その上で、「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれ(30:22)と記されながら、ヨセフの誕生が描かれます。何とも、レアとラケルがヤコブの愛を得ようと必死になったおかげで十一人の男子が誕生したのです。

これは、ヤコブが家長としては失格であったにも関わらず、神がヤコブとともにいてくださった恵みの結果です。神の「祝福」はまさに人間的な因果律を超えた形でヤコブに及びました。

それにしても不思議なのは、レアもラケルも、極めて人間的な動機で動きながらも、それぞれの子を神の賜物と受けとめ感謝をしていたという点です。家族としての関係は歪んでいるのですが、それぞれなりに、神を見上げて歩んでいました。

 

   これらの後、ヤコブは自分の郷里に帰ることを望みますが、ラバンは彼のおかげで家が豊かになったので、帰すのをしぶります。2728節は、「お前の目に気にいってもらえるなら(言外に「とどまって欲しい」の意味)・・・、私は占いによって、(ヤハウェ)がお前のゆえに私を祝福してくださったことを知ったから。お前の望む報酬を言ってくれ。私はそれを払おう」と訳すことができます。

それでヤコブはラバンが納得できる譲歩的な提案をして山羊と羊を飼い続けることに同意します。当時の羊は白いのが一般的で、やぎは黒毛が一般的でしたから、ヤコブは例外的なものだけを自分のものにしたいと願い出たはずなのです。

34節のラバンの返事は、「よろしい。おまえの言うとおりにしよう」(フランシスコ会訳)の方が良いと思われます。ところが、ラバンは、そのようにきっぱりと返事をしながら、その日のうちに本来ヤコブにあたえられるべき家畜を自分の息子たちに渡して、「三日の道のり」という遠く引き離します。

 

これは明確な裏切りですが、ヤコブはそれに抗議をすることもなく、「ラバンの残りの群れ」を飼い続けます37-39節に記されているヤコブの工夫が「しま毛」「ぶち毛」「まだら毛」のものを産ませることになった理由は分かりません。それは神に祈りつつ、与えられた知恵にしたがって黙々と「ラバンの残りの群れ」を飼った結果として、神の恵みによって、羊もやぎも、ラバンがヤコブに与えると約束した例外的なものを次々と産んだということだと思われます。

しかも、彼はラバンと争いはしなかったものの、「こうして弱いものはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった」という結果を生み出すことができました。まさに、ラバンは人を陥れることで貧しくなって行くのです。

 

このように、ヤコブはラバンに裏切られながらも、自分の家族も家畜を増やすことができました。それは、主がヤコブとともにおられたからです。43節の描写は、ラバンに何度も騙されたことの不思議な結果で、「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだとろばとを持つようになった(30:43)と記されます。

 

   私たちもヤコブと同じように、自業自得の罪によって、孤独と不安に苛まれることがあるかもしれません。しかし、主にあっては、取り返しのつかない失敗はありません。それらすべてが、主との交わりを深めるチャンスとされます。私たちも、そこで、「わたしはあなたとともにある」と言われる主と出会うことができます。

そして、それこそが、すべての富、力、交わりの源となります。実際、ヤコブは、「主からの祝福」以外の何も持たないで、信仰も未熟なまま旅に出ました。しかし、苦しんだり、騙されたりしながらも、十一人の息子が与えられ、驚くほど豊かにされました。そして、それを通して、彼の信仰は育まれて行ったのでした。

主の祝福を求める者には、主が道を開いてくださいます。

 

私たちもヤコブのように人から騙されることがあるかもしれませんが、主がともにいてくださるなら、すべてが祝福に変えられます。

それを前提として、「地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる・・・主を待ち望む者・・貧しい人は地を受け継ごう。また豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう(詩篇37:3,4,9,11)と約束されています。

誠実を養う者は、天国と言うより、「地を受け継ぐ」という祝福があるのです。

|

2014年10月12日 (日)

ヨハネ4章27-54節「今がその時です」

 

ヨハネ427-54節「今がその時です」

                                                     20141012

北大の学生が、テロ集団イスラム国の兵士になるためにシリヤに渡ろうとしたとのことですが、彼はただ、自分の絶望的な状況から逃げ出したいと思っていただけらしいとも報道されています。昔から、そのような現状逃避型の人は周りに見られました。

残念ながら、ときに教会においても、「イエスを信じても、何も変わりはしない・・」と絶望感を味わう人がいるかもしれません。しかし、イエスは人生に絶望していたひとりのサマリヤの女に個人的に向き合うことによって、彼女の町の驚くほど多くの人々を救いへと導きました。悩みが深かった分だけ、救いの実は多くなっています。それがあなたの人生においても起きるのです。

イエスは彼女に、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われました。そして、この救いは既に、いまここにおいて実現しています。私たちもすでに起きている救い、また目の前の小さな変化に心の目を開いて行くべきでしょう。

 

1.「女は、自分の水がめを置いて町に行き・・・」

   イエスはイスラエルの民全体にとって大切なシェケムのそばにあるヤコブの井戸でひとりのサマリヤの女に語りかけ、彼女が五人もの夫から次々と見放された人であることを言い当てながら、彼女に真の礼拝について教えます。それはこの女に、生ける水が与えられ、聖書の預言が成就することを明らかにするためです。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(23節)とは、エゼキエル36:23ー28などにあるように、神ご自身が、新しい心、新しい霊を授けて、神と人との交わりを完成させてくださるという預言の成就です。

ですから、「渇くことがなく・・永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)とは、もう水を汲みに来なくてもよいとか、ひとりだけでも平安に満ちた生活を過ごせるようになるという意味ではありません。

たとえ渇きを覚えても、あなたのうちにおられる御霊ご自身が、いつでもどこでも、あなたの隠された願いまでも、父なる神にとりついでくださるので、あなたの渇きは、父なる神との永遠の愛の交わりで癒されるという意味なのです。

 

   この女性は、聖霊についての説き明かしを、この時には理解はできなかったでしょうが、イエスの愛は分かりました。彼は、彼女の惨めな過去をすべてご存じでありながら、「あなたは人間関係の作り方に問題があるから、それを正したら幸せになれる」などと見離したようなアドバイスを与える代わりに、心の渇きに深く共感して、真剣に向き合ってくださったからです。彼女は、それによって、イエスこそ、真の礼拝、真の神との交わりを完成してくださる救い主であると分かりました。

彼女は、感動のあまり、せっかく運んできた「自分の水がめを置いて町へ行き」ました(28節)。彼女は熱い日中に水を汲むという目的のためにここまで来たのに、その働きを中断して、水がめをそこに置いたまま、すぐ町に戻ってイエスとの出会いを語りたくてたまらなくなりました。

そしてここでは、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです」(29節)とだけ人々に証ししました。

その上で彼女は、厳密には、「この方がキリストではないですよね・・・」と、逆説的表現で人々の興味を惹くように問いかけています。

 

   ここで注目されるのは、彼女が、「私の問題は解決された」とか「私はこんなふうに変えられた」と言っているわけではないということです。彼女は、イエスが彼女の惨めな過去を全部知りながら、それを軽蔑せずに、真剣に向き合ってくれたことを、ただ紹介しただけなのです。

そして、その結果、「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た」(30節)ということになりました。そればかりか、何と、「その町のサマリヤ人の多くの者が・・・その女のことばによってイエスを信じた」(39節)という偉大な奇跡が起こりました。彼女こそ世界最高の伝道者と言えましょう。

 

では、彼女に起こった変化とはどのようなことでしょうか。彼女は、かつて、自分の過去を恥じて、人目を避けて、暑い最中に水を汲みにきていました。しかし、これからは、たぶん、町の他の女性たちと手を携えて、この井戸にやって来て、そのたびごとに、喜びにあふれてイエスとの出会いを証しできるようになったことでしょう。

それによって、それまでの最もつらかった場が、最も喜びに満ちた場に変えられます。しかも、彼女は、これから、真の礼拝者たちの交わりの真ん中に生きる者とされます。愛に渇いた彼女に起こった変化とは、「交わり」だったのです。

 

2.「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」

ところで、このサマリヤの女の伝道の記事に挟まるようにしてイエスと弟子たちとの会話が記されています。弟子たちはイエスをここで「ラビ」と呼びながら「何か、召し上がってください」と願います(31節)。それに対し、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物があります」と不思議な応答をします(32節)。

これだけを見ると、弟子の気遣いにイエスがきちんと応答していないようにも思えますが、このサマリヤの女の態度に比較すると弟子たちこそが見るべきものを見ていないということが分かります。

27節にあるように、弟子たちはスカルの町から食べ物を買って帰ってきたとき、イエスが女の人と話しておられるのを見て、「驚いて」いたのですが、イエスに敢えてそのことを聞こうとはしませんでした。しかも、弟子たちはこの女が、「自分の水がめ」を置いて町に帰って行ったという不思議な行動を見ていたのです。イエスはこの女に、ご自分が「救い主」であることを証しました。

それを聞いた彼女は、水を飲むのも忘れるようにして、自分の町に証しに帰って行きました。ところが弟子たちはそれを見ながら、ここでどれだけ大きなことが起きたかを知ろうともせずに、このサマリヤの女が「救い主」と認めた方を、人間としての「ラビ」と呼びながら、自分たちの指導者に食べさせることばかりに夢中になっているのです。

これはマリヤの姉のマルタと同じような態度です。イエスは彼らが食べ物のことばかりに目が向かって、ここに起きていた偉大な出来事を知ろうともしないことを寂しく思っていたからこそ、このように弟子たちを困惑させるようなことを敢えて言ったのでしょう。

 

弟子たちは、「だれか食べるものを持ってきたのだろうか」と現実的な会話を続けます。それに対し、イエスは、「わたしを遣わした方のみこころ(ご意志)を行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(34節)と言われます。

「わたしを遣わした方」という表現にはこの福音書のテーマが隠されています。この世の人間は、「食べるために働く」という観念に流されがちですが、イエスが私たちと同じ不自由な身体を取られたのは、御父のご意志をこの地で行うために他なりません。食べることや飲むことを後まわしにしてでも成し遂げることがあるのです。

 

ところが弟子たちはイエスと女との不思議な光景を見ても、敢えてその理由を聞くのを恐れるかのように、日常生活の事で心が一杯になっています。その意味では、「自分の水がめ」を置いて、救い主の現れを知らせに行ったサマリヤの女の方が、はるかに神の視点から世界を見ています。

それで主は弟子たちの「のんき」さをたしなめるように、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月がある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(35、36節)と言われました。

この文脈での、「種を蒔く」とは「永遠のいのち」に関する福音を告げることであり、「刈り入れ」とは福音を聞いた者の応答の時です。

ここでは、イエスがサマリヤの女を通して福音の種を蒔いたところ、すぐにサマリヤの人々が、主と弟子たちのもとに大挙して押し寄せ、「永遠のいのち」に入れられようとしているという現実を指します。弟子たちの目の前にはサマリヤ人のたましいの刈り入れ時、回心を導くべき喜びの時が迫っているのです。

 

なお、イエスはここで、「種を蒔く時期」と「刈り入れの時期」普通だったら最低でも四か月間はあるはずのところが、種蒔きの直後に刈り入れの時がすぐに来るというアモスの預言の成就を意識しながら語っておられます。

アモス9章13節では、「見よ。その日が来る」ということばとともにイスラエルの繁栄の約束が美しく描かれ、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」と記されています。そこでの「近寄る」とは「追いつくとも訳されることばで、原文では最初に一度だけ記されます。当地では、年に二回の雨季に合わせて耕して種を蒔くのが普通ですが、水分が豊富な土地に変わることで、刈り入れの直後に土地を耕して種を植えることができるというのです。

また、「ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とは、ぶどうの成長があまりにも早いので、種を蒔くかたわらから収穫され、酒ぶねの中でぶどうを踏むという作業がなされるというのです。主はここでひとりのサマリヤの女の回心から、このサマリヤの地に神の国の祝福が訪れているということを感動的に語っておられます。

 

そればかりかイエスはここで、「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」ということわざが、「まさにここに当てはまる」(フランシスコ会訳)と言っています(37)。これは本来、「あなたがたは種を蒔いても、刈ることがなく・・新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない」(ミカ6:15)などとあるように、労苦の実を他人に奪われるという「のろいのことばですが、イエスはそれを祝福の実現として再解釈しました。

そのことをイエスは、「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたがその労苦の実を得ているのです(38)と語られました。「のろい」の時代には、労苦の実を他人に奪われていたのに、今は、他人の労苦の実を自分で食べることができるというのです。

しかもそれは、人の労苦の実を奪い取る代わりに、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」という祝福の時です。イエスはサマリヤの女を通して種を蒔き、そのひとりの女のことばによって、驚くほど多くのサマリヤの人々が「永遠のいのち」へと招き入れられました。

 

このサマリヤの女はスカルの町において誰よりも苦しんできました。彼女は五人もの夫から裏切られ続けて来ました。それが町では悪評になっていました。しかし、だからこそ、イエスのことばがこの人の心の底に届きました。彼女は誰よりも深く苦しんだ分だけ、誰よりもイエスのすばらしさを体験しました。

彼女はそこでただ、「来て、見てください」と言っただけなのです。それは私たちにとっては、ただ、「祈ってみたら・・・」「教会に来てみたら」「聖書を読んでみたら」という招きに他なりません。そして、それが驚くほど速く実を結ぶ時が来るのです。

 

3.「私たちは・・・自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」

そして、その後のことが、「そこでサマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくれるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた」(40,41)と描かれています。

ここには何の「しるしと不思議」のことも書いてありません。彼らはひたすら神のみことばの解き明かしを聞いたことでしょう。それは、イエスがサマリヤの女に話した、「真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます(4:23)という、新しい時代の礼拝がイエスによって実現するという話であったことでしょう。

彼らは、イエスがこのひとりの女性に起こした変化以外の何の「しるしと不思議(48)を見ることもなく、イエスを救い主として信じたのです。それは、彼らがそれまでずっと真の礼拝について答えを求めていたから起きた恵みと言えましょう。彼らは二日間、食い下がるように次々とイエスに質問をぶつけ納得したことでしょう。

 

そしてそこに起こった変化を、彼らはその女に、感謝の気持ちを込めて、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです(47)と言っています。

この女性の謙遜な証しなしには、彼らはイエスのもとに来ることはできませんでした。しかし、彼らは今、自分で直接、イエスご自身のことばを聞いて、自分で納得できたことを心より感謝しています。

 

人々から軽蔑されていたひとりのサマリヤの女の回心によって、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人の、しかもその中心的な町の多くの人々が、イエスを民族の枠を超えた全世界の救い主であることを信じるようになったということは、途方もない奇跡です。それは、彼女のそれまでの苦しみが深かったからこそ起こった奇跡と言えましょう。その意味で、私たちの労苦は決して無駄にはなりません

私は先週、東北地方のある田舎の小さな伝道所に招かれて、二回の伝道説教を取りついで来ました。牧師夫妻は15年間そこで開拓伝道をしながら、教会が自立できないので悩んでおられました。それを知っていたので、私は珍しく緊張しながら、万全のそなえをして臨んだつもりでした。

私としては期待に沿えなかったように思えましたが、牧師夫妻は、驚くほど喜んでくださいました。私は例によって、自分の数々の失敗の中で受けたイエスの慰めを語ったのですが、それを契機に、おふたり自分たちの悩みを正直に分ち合うことができたからです。

二日間で驚くほど多くの時間にわたって個人的な会話をすることができました。そして、今、何となく嬉しい予感が湧いています。あの教会は、これから大きな成長を遂げることでしょう。変化はひとりかふたりから始まります。それまでの葛藤が深ければ深いほど、多くの収穫の実が期待できます

 

4. 王室の役人の息子のいやし

さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤに行かれた(43)とありますが、その理由が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたから(44)と付け加えられます。

つまり、イエスは、ご自身が尊ばれないところでこそ少しでも長いときを過ごすべきだと思われてガリラヤへの道を急がれたのではないでしょうか。

 

そういうわけで・・ガリラヤ人はイエスを歓迎した(45)とあるのも奇妙ですが、彼らの歓迎は、サマリヤ人の歓迎とは異なります。それは、彼らが「イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていた」からでした。言わば、彼らは、同郷人が都で成功をおさめたという事実から、イエスを故郷に錦を飾った人として歓迎したのでしょう。決して、サマリヤ人のようにイエスを「世の救い主」と認めようという気はありませんでした

 

   なお、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた(46)と記されていますが、そこは主の生まれ故郷のナザレから北方に十数キロの地です。そこでイエスは、水をぶどう酒にされるという最初のしるしを行なわれました。

そこに、カナから30㎞あまり離れた、ガリラヤ湖北方の町カペナウムから「王室の役人」がかけつけて来ました。息子が死にかかっているというので、家まで来て息子をいやしてくださるようにイエスに願うためでした。

ところが、イエスは彼に、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない(48)拒絶とも思われる応答をしました。

 

  彼はその地の王ヘロデ・アンティパスに仕えている役人でした。王といっても、ローマ帝国から委ねられた範囲でしか支配権を行使できません。ですから王も、王に仕える役人も、自分の身の安全と富を何よりも優先する傾向がありました。つまりご利益宗教に一番流れやすいタイプです

この役人も、イエスを単に不思議ないやしの奇跡を行なう人としか見ていなかったかもしれません。そして、王の役人である自分が頭を下げたら、イエスは自分の家まで来て、息子に手を置いていやしてくださると期待していたことでしょう。しかも、彼は自分の息子が癒されさえしたら、イエスが誰であるかなどについては、問いはしなかったでしょう。

彼にはイエスから拒絶される十分な理由がありました。しかし、イエスの表面的なことばとは裏腹に、そのまなざしは、あわれみが満ちていました。この役人は、そこにイエスの招きを感じたことでしょう。

彼はイエスに向かって「主よ・・・」と、その絶対的権威を認めるような呼びかけをします。イエスは、彼の願いをかなえてくれる助け人ではなく、彼の主人だと言うのです。その上で、謙遜になりながらも必死になって、「どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」と、食い下がります(49)

 

   それに対しイエスは、断固として、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言いました(50)。それは、役人が期待したいやしの方法をはるかに超えたもので、普通だったらとうてい受け入れられないことばです。

しかし、彼は、イエスとの対話によって、イエスのことばには、自分の常識を超えた真実があることを実感していました。それで、彼は、「イエスが言われたことばを信じ」、たぶん、安心して「帰途についたのだと思われます。

 

   イエスはご自身を単に、しるしと不思議を行なう人と見られることを拒絶されました。なぜなら、人間の堕落は、神を神としてあがめる代わりに、単に自分の願いをかなえてくれる方という地位に引き下げたことに始まるからです。神は、私たちの創造主であって、便利屋さんではありません。ですからイエスも、私たちが彼を、「主よ」と呼び求めるのを待っておられます。

主は、私たちの期待に添う以前に、ご自身の時と方法によって、私たちに答えて下さる方なのです。しかし、一見、拒絶と見られることばに、人をさらに深い信仰に導く「あわれみ」が隠されています

 

   この役人が自分の家に帰る途中で、しもべたちから息子が直ったことを聞きました。しかも、癒された時刻を尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました」というのです。それは、イエスが彼に語りかけられた時と同じでした。これは現在の午後1時に相当し、彼が急げばその日のうちにカペナウムに戻ることもできたはずですから、彼の落ち着きが想像できます。

彼は今、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われた瞬間に、息子の熱がひいたことを確かめ、イエスが多くの人々が期待する「しるしと不思議」以上のことを行なう「世の救い主」であると信じました。

 

イエスは「このことを第二のしるしとして行なわれた」とありますが、しるしとは、イエスが預言者以上の救い主であることを証しするものです。この役人は、まずイエスのいやしの力を信じてみもとにかけつけ、イエスのことばを信じて安心し、そしてイエスのみわざの偉大さを目撃してイエスを「救い主」として信じたのです

信仰の三段跳びのような成長ですが、それを起こしてくださったのはイエスご自身です。

 

しかも、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われたのは、厳密には、「生きている」と記されています。そして、その同じことばが、51節と53節で繰り返されています。

「癒された」とか「直った」という意味なら別のことばを用いるのが一般的なのに、ヨハネは敢えて、「生きている」ということばを三回も繰り返しました。それは、イエスこそが死人にいのちを与える救い主であることを強調するためでした。

 

なお、第一のしるしはカナの婚礼で、「弟子たちはイエスを信じた(2:11)と記されていました。ここでは「彼自身と彼の家の者がみな信じた」とあり、イエスのみわざが、役人の家族全員を真の信仰に導くためであったことが明らかにされています。

父親がイエスと話しているときに、おそらく母親が、息子の熱がひくのを目撃しました。息子は急に痛みが消えたのを身体で感じました。しもべはそれを知らせることで、父親と母親の体験を結びつけました。それぞれの人が、互いの情報によって全体像を把握したのです。

つまり、この第二のしるしは、価値観がまったく違うはずの王室の役人の家の者全員を信仰に導くものでした。それは、イエスが単に奇跡を行なう霊能者ではなく、世界全体の救い主であることを証しするものでした。

イエスは、「しるしと不思議」ばかりを求めるひとりの人の問題に正面から向き合いつつ真実を尽くされ、その背後にいる人すべてに届いてくださいました。

私たちが心を開きさえすれば、イエスはどんな心理的障害をも超えて、ひとりひとりの必要に寄り添いつつ、心の奥底にまで届いてくださいます。そして、そのとき味わったイエスの愛と御力への感動は、私たちの思いを超えて、私たちの背後にいる人へ確実に届きます。

証しのことばの巧みさよりも、どれだけ深く主との出会いを味わっているかが問われています。

 

   サマリヤの女を通してのサマリヤの町の多くの人々の驚くべき回心の記録と、王室の役人の息子の癒しには、共通点があります。それは、それまでのそれぞれの絶望の深さと、救いのみわざが驚くほど短期間に起きたということです。しかし、それこそイザヤ書のテーマと言えましょう。

イザヤは、伝道者としての召しを受けたとき、自分のメッセージがまったく実を結ばないことを覚悟するようにと言われました(6)。しかし、その中で同時に、「新しい天と新しい地」において実現する救いを、主のことばとして、「彼らは無駄に労することがない・・・彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く(65:23,24)と記しています。

イエスのサマリヤにおけるみわざでも王室の役人の息子の癒しでも、労苦が無駄にならず、願いがすぐにかなえられるという世界が実現した様子が描かれています。それはイエスにおいて、神の国」がこの地にすでに実現したということのしるしです。

 

私たちの毎日の生活でも、なかなか祈りが聞かれないと思える葛藤の時がきます。しかし、失望する必要はありません。それはすべてイエスとの出会いの恵みをより深く味わうための備えに過ぎないのです。それまでの悩みが深い分だけ、慰めも深くなります。

そして、神は瞬時にあなたの世界を変えることがおできになります。そしてそれは、この不条理に満ちた現代の時代にも起こることです。私たちは長いトンネルの後に、急に光に満ちた世界が訪れることを期待して良いのです。

大切なのは、イエスが弟子たちに言われたように、そのときに、自分の目の前の生活のできごとに夢中になりすぎないことです。私たちが何のためにこの地に置かれているかを忘れてはなりません。

イエスはこの福音書の最後で弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(20:21)と言われました。私たちもイエスによってこの矛盾に満ちた世界のただ中に遣わされているのです。

                                              

|

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »