« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月30日 (日)

創世記35章16節~42章9節 「夢を見させ実現してくださる神」

                                                       20141130

   1990年以降のバブル経済崩壊、1995年のオウム真理教事件は、多くの日本人から信仰的な面での「夢」を奪い取りましたが、今もその後遺症に支配されている人が多いのかもしれません。

たしかに、高度成長時代の多くの人々の「夢」は、持ち家やマイカーという「空しいもの」だったかもしれませんが、どんな夢であっても、夢を持っているということ自体が人々に生きる力を与えていたと言えるかもしれません。

最近では、何よりも原発事故という不条理が、日本人の夢を奪っています。それにしても、私たちはこの世を支配する不条理の中で、本当の意味での「夢」を忘れてはいないでしょうか。夢を見させ、それを実現してくださる神のみわざにともに目を向けてみましょう。

 

 1.ベニヤミンの誕生、ルベンの罪、エサウの家系

   ヤコブがベテルでの礼拝の後、さらに南下する旅の途中、ラケルは「ひどい陣痛」とともにベニヤミンを出産します(35:1617)。彼女は「死に臨み」ながら、その子を「私の苦しみの子」という意味で「ベン・オニ」と呼びますが、ヤコブは彼を「右手の子」という意味でベニヤミンと名づけます。

ベニヤミンの誕生はヤコブにとって最愛の妻ラケルを失うという犠牲を伴いましたが、彼はその子を自分の右手のような名誉ある、かけがえのない子と見たのです。

これによってイスラエルの十二部族の父がそろいますが、ヤコブにとってラケルが産んだ二人の子は宝となりました。

 

ところがそのとたん、「ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た」(35:22)というのです。これは父に対する最大の侮辱で、これによって、ルベンは長子の権利を失います(49:3,4、Ⅰ歴代5:1)

彼は、母のレアがヤコブから愛されるようにと「恋なすび」を持ってきたようなアダルト・チャイルド的な息子でした(30:14)。ビルハは、母と愛を競っていたラケルの女奴隷ですから、ルベンには抑えられない情欲とともに、歪んだ家族関係への怒りがあったのかもしれません。

その上でヤコブの十二人の子の名がそれぞれの母の名とともに記されます(35:23,26)

 

その後、ヤコブが「ヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った」という記述の直後にイサクの死が描かれますが、そこでは「エサウとヤコブが彼を葬った」と、ふたりの和解による共同作業が強調されています。

 

36章では、「エサウの歴史」が記されます。不思議なのは、「エサウは・・弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりがともに住むには彼らの持ち物が多すぎて」と記されている点です(67)。エサウはヤコブがこの地に帰って来る前から既にセイル住んでおり(32:3)、ふたりがともに住むには狭すぎたので「セイルの山地に住みついた」(36:8)わけではないはずだからです。

しかし、ここは時間的な因果関係を超えて、神の視点からエサウとヤコブの和解を描き、彼らの持ち物が多すぎたために、分かれて住むようになったと描かれていると言えましょう。これはアブラハムとロトが分かれて住んだことを思い起こさせる記述です(13:6)。それは、神がヤコブの兄エサウの子孫ひとりひとりをも導いておられるというしるしです。

なお31節で、「イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めていた王たちは」と記されますが、これはⅠ歴代誌1:43にもあると同じ表現で、エサウの子孫がエドムと呼ばれ、比較的早い時期に王制を敷き、後にイスラエルの王に支配されることを描いたものです。

また40-43節のエサウから出た11人の首長の名は歴代誌にも描かれます。

なお申命記23章では、「エドム人を忌み嫌ってはならない・・彼らに生まれた子供たちは、三代目には、主の集会に入ることができる(7,8)と特別待遇にされています。

 

  ベニヤミンという命名、ルベンの罪、エサウに関しての記述すべての共通するのは、人間的な原因結果の見方を超えて、神の視点から目の前の出来事の意味づけを見直す(リフレイミング)必要があるということです。

 

2.「あの夢見る者」と兄弟たちから憎まれたヨセフ

372節には「これはヤコブの歴史である」と記され、ここからヨセフ物語が始まります。まず、「ヨセフは17歳のとき」の悲劇が記される前に、その原因として、「イスラエル(ヤコブ)は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた・・・彼の兄たちは・・父が兄弟のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった」(37:34)と描かれます。

ヤコブ自身、「イサクはエサウを愛していた・・」(25:28)という関係で傷ついていたにも関わらず、親の過ちを繰り返しています。

 

しかも、ヨセフは、兄たちの思いに無頓着に、自分が見た夢を兄たちに告げます。それは、ヨセフと兄たちが畑で束をたばねていたところ、ヨセフの束がまっすぐに立って、兄たちの束がまわりに来てヨセフの束におじぎをするというものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえは私たちを治める王になろうとするのか」と言って、「彼をますます憎むようになった」と描かれます(37:8)

ところが、ヨセフはなおも別の夢を、「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」と語ります。それは父と母と十一人の兄弟たちすべてが彼を伏し拝むという意味でした。父はそれを聞いて怒りながらも、「このことを心に留めていた(37:11)というのです。

そして、この夢を見させてくださったのは神ご自身でした。その後の記述は、その夢が実現するという物語です。

 

 「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけ」、父ヤコブは、兄たちの思いに無頓着に、ヨセフを使いにやります(37:12,13)。ヤコブは息子たちの葛藤を全く見ようとしていません。

兄たちは、「はるかかなたに、彼を見て・・『見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』と互いに言った(37:18-20)のでした。

この際、ルベンはヨセフを救い出し、父のところに返そうとします。しかし、彼のいないうちに、ユダの主導で、ヨセフはイシュマエル人の隊商に売られます。それはユダが、兄弟たちに弟ヨセフを殺させないためでした。この時点から、ルベンに代わってユダが兄弟たちを導く姿が見られます。

それにしてもイシュマエル人も、アブラハムの子孫ですが、女奴隷ハガルの子でした。ここに、約束の子が、奴隷の子に売り飛ばされるという皮肉が描かれます。

 

兄たちは、ヨセフの長服を雄やぎの血に浸して持ちかえります。ヤコブはそれを見て、ヨセフが獣にかみ裂かれたと思い、泣き悲しみ「慰められることを拒み」、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」とまで言います(37:35)

ヤコブにはまだ死後の「いのち」という視点はなかったのだと思われます。

それにしても、かつて、やぎの毛を用いて父を騙したヤコブは、息子たちからやぎの血で騙されたのです。

 

ところが、ヨセフはエジプトで、パロの重臣の侍従長ポティファルに売られます(37:36)。ヨセフが奴隷に売られたのは、ヤコブの息子の罪深さがもたらした悲劇でした。

神は、それを差し止めることもできたはずですが、ただじっと見ておられました。神は沈黙しておられるかのようです。しかし、すべては神の御手の中で起きていました。

 

3. 「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」 

  38章ではユダの物語が記されます。彼はレアから生まれた四男です。ルベン、シメオン、レビはその悪行によりヤコブからうとまれます。しかし、ユダも、弟を奴隷に売ったばかりか、カナン人の娘を躊躇なく娶り、三人の息子を生みます。

なお、ユダは「長子エルにタマルという妻を迎え」ますが、エルは主(ヤハウェ)を怒らせていたので」、死にます(67)。その詳細は分かりませんが、タマルはこれによって次男オナンを通して、長子エルの子孫を残す使命が課せられます。

ところが、オナンは、タマルを通して兄の子孫を生むことを拒否し、精を地に流します。これはオナニーの語源とされる出来事です。そして、このことでオナンは「主(ヤハウェ)を怒らせ、主は彼を殺します(10)

 

タマルはユダの三男シェラを通して子孫を残すべきはずでしたが、ユダは息子の死を恐れて、タマルを「やもめのまま(11)に残します。

それでタマルは、遊女のふりをして、舅のユダと関係を持ち、彼の印形とひもと杖を代金代わりに預かり、妊娠したときそれをユダに見せて誰の子であるかを明らかにしました。彼女は、焼き殺される危険を犯して、子どもを得ました。それを見てユダは「あの女は私より正しい(26)と言いました。

 

それが後の時代にも評価され、「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家になりますように(ルツ4:12)という祝福のことばに用いられるようになり、彼女の名はキリストの系図にも出てくることになります。

舅と嫁が関係を持って、子孫を残そうとするということは、神のみこころに明確に反するはずです(レビ記18:15)。しかし、神は、タマルの使命感の方に目を留めて、それを喜んでくださったのです。ここにもリフレイミングが見られます。

 

4.「主(ヤーウェ)が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」

   ところでヨセフの痛みや悲しみに聖書記者は沈黙したまま、エジプトの侍従長の家で、(ヤハウェ)がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり・・彼の主人は、(ヤハウェ)が彼とともにおられ(ヤハウェ)彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た(39:23)と描かれます。

彼は、その家の全財産の管理を委ねられます。そればかりか、「主(ヤハウェ)ヨセフゆえに、このエジプト人の家を、祝福され(39:5)ます。

兄たちから奴隷に売られたヨセフが、「幸運な人」と呼ばれていたり、彼のゆえにエジプト人の家が豊かにされるとは、何とも不思議です。

 

ところが、「ヨセフは体格も良く、美男子であった(39:6)のに惹かれた主人の妻は、彼に関係を迫ります。しかし、彼は「どうして・・・私は神に罪を犯すことができましょうか(36:9)と拒絶します。彼の信仰は、ここで初めて表現されます。それは、奴隷の身に置かれながらも、主の祝福を体験できたことの応答です。

しかしある時、主人の妻は、彼の上着をつかんで関係を願い、拒絶されると、「私にいたずらをしようとして私のところに入ってきました(39:17)と濡れ衣を着せました。その結果、「王の囚人が監禁されている監獄に」入れられます(40:20)

 

ここでもヨセフの無念の気持ちには触れられないまま、「(ヤハウェ)はヨセフとともにおられ、彼に恵み(ヘセド)を施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで、監獄の長は・・すべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった・・・それは(ヤハウェ)が彼とともにおられ、彼が何をしても、(ヤハウェ)がそれを成功させてくださったから(39:21-23)と描かれます。

この記述の基本は23節と同じで、「主(ヤハウェ)がともにおられ」が二回繰り返され、「(ヤハウェ)が成功させてくださる」という結果が描かれます。

なお、37章から始まるヨセフ物語には「(ヤハウェ)」という名が、50章までに12回出て来ますが、そのうち8回がこの39章に集中します。他の三回は38章におけるユダの子たちへの怒り、他の1回は4918節の祈りだけです。つまり、39章こそが、ヨセフ物語の核心部分なのです。主は苦難のただ中に、ともにおられ、それを益に変えてくださるのです。

 

主がヨセフと共におられるなら、なぜ兄弟から奴隷に売られ、無実の罪で監獄に入れられるのかと思います。その悲劇をもたらしたのは人間の罪です。しかしその中で、神のご計画は着実に進んでいました。

ですから、私たちも、自分の置かれている場が、世の不条理に振り回された結果であろうとも、それも神の御手の中にあることを覚え、そこで誠実に生きることが求められます。神の祝福は、その不条理のただ中に現されるからです。

 

5.「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」

   40章では、王のそばに仕えるふたりの高官、献酌官長と調理官長が「王に罪を犯し」、監獄に拘留され、ヨセフが彼らの「付き人」になる様子が描かれます。

ある時、このふたりは、自分たちが見た夢のために悩んでいました。それに対し、ヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話して下さい」(40:8)と自分の信仰を告白しつつ、促します。ふたりの高官の葛藤とヨセフの余裕が何と対照的なことでしょう。

 

献酌官長の夢は、三日のうちに彼がもとの地位に戻されるというものでした。ヨセフはそれを解きき明かしながら、彼に切々と、「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵み(ヘセド)を施してください・・私のことをパロに話してください(40:14)と訴えます。

ヨセフは、あらゆる機会を用いて、不当な状況から抜け出るように努力しています。一方、調理官長の夢は、三日のうちに木につるされるというものでした。そして、すべてヨセフの解き明かしの通りになります。

 

ただ、その後のことが、「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れて(40:23)しまったと描かれます。ヨセフはどれほど落胆したことでしょう。

そして、「それから二年の後、パロは夢を見た(41:1)というのです。ここでも、ヨセフの心の揺れは描かれませんが、彼は二年間も監獄で待ち続ける必要がありました。

 

しかし神は、ご自身の時に、パロに不思議なふたつの夢を見させ、「心が騒ぐ」ようにされました(41:8)。そして、献酌官長は、このときになって初めてヨセフのことを思い出し、パロに紹介しました。

パロはヨセフに夢の解き明かしの能力を尋ねると、彼は「私ではありません。神がパロの繁栄(シャローム)を知らせてくださるのです」と答えます(41:15,16)

そして、ヨセフはその夢が、七年間の豊作の後に七年間の飢饉が続くことを意味すると解き明かしました。その際、彼は、「神がなさろうとすることをパロに示されたのです」(41:25,28)と繰り返し、「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる(41:32)と、神のご支配を強調します。

そしてその上で、「さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように・・・」(42:33)以下の具体的な政策提言までします。

 

それに対しパロは、「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか・・・神がこれらすべてのことをあなたに知らせたのであれば、あなたのようにさとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ・・私はあなたにエジプト全土を支配させよう(41:38-41)と言います。

不思議に、パロは、ヨセフが語った「神のご支配」の現実を認めつつ、ヨセフがその神に目を留められているということを理由に、彼にエジプトの支配を委ねました。自分を現人神と称するはずのパロがヨセフの神を認め、ヨセフを囚人から総理大臣の地位へと一挙に引き上げたのです。これはどんな立身出世の物語も及びもつかない神ご自身が演出された逆転劇です。

 

ただ、ヨセフは同時に、エジプト人としての名を与えられ、現在のカイロの北東12㎞にある「オン」という町の、太陽神を礼拝する「祭司の娘と結婚させられます。

これはヨセフがエジプトの支配層に完全に受け入れられたことを意味しますが、同時に、それはヨセフの意に反して受け入れざるを得なかった代償と言えましょう。

 

なお、ここで、「ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったのは三十歳であった(41:46)と記されます。これは、奴隷に売られて十三年後を意味します。彼は、このように苦しみを通して祝福を受けたという思いを、マナセとエフライムというふたりの子の名に表わしますが、そこには、「神が・・私の父の全家を忘れさせた」とか、「神が私の苦しみの地で・・」という痛みも込められています(41:5152)。このふたりの母親が異教の祭司の娘であるというのも何とも皮肉です。

不思議なのは、ここに至るまで、ヨセフの心の悲しみについては沈黙されたままということです。それは私たちの目が、ヨセフの信仰に向けられるのではなく、神ご自身に向けられるためではないでしょうか。私たちはこのヨセフ物語を、決して偉人伝説にしてはならないのです。

 

42章の始まりでは、七年間の飢饉が始まった中で、カナンのヤコブのもとからが十人の兄たち穀物買い付けのために送られてくると描かれます。ベニヤミンに関しては、ヤコブがラケルの一人息子ということで行かせませんでした。

十人の兄たちは、「顔を地につけて」ヨセフを「伏し拝」みます(42:6)。その時、「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出し(42:9)ます。まさに、神がヨセフに夢を見させ、成就してくださったのです。

ヨセフが奴隷に売られても、無実の罪で監獄に入れられても、そこで主の臨在を感じることができたのは、それらすべての苦難の初めに、神からの夢を見ていたからではないでしょうか。

もちろん、彼は、自分の見た夢がこのような形で実現するとは、まさに夢にも思わなかったことでしょうが、彼の生涯が苦難のまま終わることはないということは、どこかで確信していたのではないでしょうか。その希望の確信こそが彼に困難に耐える力を与えたのではないでしょうか。

 

聖書的な夢で世界を動かした代表者と言えばマルティン・ルーサー・キング牧師かもしれません。19638月に彼は、「I have a dreamという有名な演説で、自分がいつか暗殺されることを意識しつつ、「」を語りました。

彼は、白人と黒人との平和を、イザヤ11章の「狼は子羊とともに・・・」のレトリックを用いて次のように表現しています。

 

「今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある・・・・それは、いつの日か・・・かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである・・・

私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・

これが私の希望なのである・・・こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである」

 

それから五年後、彼は自分の死を予感しつつ、「この目で、主が来られる栄光を見た」と言った翌日、メンフィスで暗殺されます。それから40年たったアメリカで、当時誰も予期しなかったこと、あるひとりの黒人と白人との間に生まれた子が大統領になりました。

オバマ大統領は、それまでの不の遺産を背負って苦しんでおり、その政策に批判があるのは当然ですが、キング牧師の夢が実現したということは、誰も否定できない事実ではないでしょうか。

 

主の再臨によって実現する「」と、目の前の平和の「は切り離せない関係にあります。それどころか、イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。

 

しばしば人は、自分の過去の過ちを正当化したり、後悔したりと、原因結果ばかりに目が向かい、それを超えた神のみわざを忘れがちです。しかし、どんなに暗い過去を持っていても、今ここで、「主がともにおられる」ことを信じるなら、そこに確かな希望が生まれます。それこそヨセフ物語の核心です。

神はあなたの人生を確かに導いておられます。人生のゴールは、失望ではなく、神のご支配が誰の目にも明らかな、平和に満ちた世界なのです。

 

神は私たちにも、みことばを通して、「新しい天と新しい地」また「新しいエルサレム」という夢を見させてくださいました。そして、私たちの人生も、その夢が実現される途上にあります。キリストの教会の交わりは、その夢を世界に証するために存在します

たとえば、チェルノブイリの原発事故のあと、その近郊で多くのユダヤ人がイエスを主と告白するようになりましたが、彼らは教会を形成するにあたり、それまで迫害されてきたユダヤ人と迫害した側のウクライナ人が、ともに礼拝できることを何よりも大切にしているとのことです。なぜなら、キリストの教会の使命は何よりも、民族の和解や、様々な階層間の和解を目に見える形で表現することにあるからです。

ひょっとしたら、皆さんの中に、「私はこの教会では少し浮いた存在かもしれない・・」などと感じることがあるとしたら(意外に誰でも一度は、そう感じるものですが・・・)そこにこそあなたの使命があります。それは、あなたこそが違った種類の人間を集めるための契機として、神がこの集まりに加えてくださったと解釈できるからです。

キリストの教会のいのちは、何よりも、異なった民族、異なった年代、異なった社会階層、多様性を保った人々がともに礼拝できることにあります。

|

2014年11月23日 (日)

イザヤ65章16-25節「新しい天と新しい地を待ち望みつつ生きる」

                                                       20141123

   聖書全体には、創造主の圧倒的な愛の物語が描かれていますが、そこには同時に、神の愛を無視する者への永遠のさばきが描かれています。「のろい」「祝福」をセットに提示するというのは、申命記以来の聖書の記され方ですが、しばしば、聖書全体の文脈を離れて、地獄の恐怖ばかりが独り歩きすることがありました。

ある米国在住の方が証ししておられたように、従来の福音的な教会では、神の厳しいさばきによって人々の地獄落ちが不可避であるという「悪い知らせ」を納得していただいて初めて、「良い知らせ」としての「救い」が提示できるという枠組みが一般的だったかもしれません。

しかし、それでは、東日本大震災や収拾の目処がつかないような放射能漏れというこの世の地獄のような「悪い知らせ」に苦しんでいる人々の反発を招いてしまうだけにならないでしょうか。

 

それ以前に、北米においても、迫り来る世の終わりの滅びの警告?とセットに「救い」を提示するという従来の福音宣教のあり方に対する反省が生まれ、より大きな神の救いの物語を聖書全体から提示する必要が説かれるようになって来ました。

特に今から二十年ほど前から北米の福音自由教会でも従来の信仰十二箇条の見直しが進められ、2008年に新しい信仰箇条が米国、カナダ両国の福音自由教会で採択されました。もちろん、信仰告白の基本は何も変わってはないのですが、神の救いのご計画がより幅広く解き明かされるようになっています。

 

米国とカナダの新しい信仰箇条は十箇条からなり、9条に若干の違いがある以外は全く同じです(9条は米国で保守派の抵抗で後に文言が変わった?)

その第1条は以前は聖書の無誤性が記されていましたが、それは2条と入れ替わり、新しい1条では三位一体の創造主による「新しい創造」のみわざが描かれています。これは神による救いのご計画と新しい創造という観点を前提として聖書を読むという方向を示しているように思われます。

その後、人間の堕落、キリスト論、救済論、聖霊論が記され、第7条では教会論と礼典論がともに記され、8条においては、神による義認の恵みとセットに神による聖化の力と目的、またキリスト者の社会的責任や霊的な戦い、キリストの弟子としての成長のことが語られています。

また9条の再臨の教えにおいては、キリストの再臨の時期が人には分からないことが強調されながら、特にカナダの信仰箇条では「千年王国」という記述の代わりに、キリストご自身が既に始まっている「神の国」を完成に導いてくださることと、「キリストご自身による公正なさばき」を待ち望むことこそが現在の敬虔な生活と献身的な奉仕や伝道の原動力となるというように説明されています。

また10条においては従来通り、「死者の身体の復活」に関して、もちろん、不信者に対する永遠の意識的な苦しみのさばきとセットではありますが、信者に対する希望が、「新しい天と新しい地における永遠の祝福と喜び」として描かれています。

 

既に始まっている「神の国」の完成への期待、または「新しい天と新しい地」への望みが信仰告白の前面に出されるということは、北米の福音派では最近になってのことかもしれません(1920世紀の神学の偏りのため)。

幸い当教会においては米国やカナダに8年も先立つ20003月において、教会のビジョンが、「新しい天と新しい地を待ち望み、その創造主を霊とまことによって礼拝し、キリストのみからだとして互いに愛し合い、地の塩、世の光として派遣される」とまとめられております。

本日は特に、新会堂のステンドグラスのコンセプトでもあります、「新しい天と新しい地を待ち望む」ということについて改めて考えてみたいと思います(以下はすべて私訳による)

 

1.「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」

この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)とありますが、「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。

それは、信仰者の歩みが、遠い将来の平和(シャローム)の完成の約束への「憧れ」に生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

 

 そして、神が驚くべき約束が、「なぜなら、見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造するからだ・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。

ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。

 

これは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンへの捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らはアッシリヤやバビロンとエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました

かつてモーセは彼らに、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と繰り返し語っていたのに、彼らはのろいを選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。

ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と招いてくださいました。

 

 私たちの人生はしばしば失望の連続ですが、私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。

私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。

ここでの神の「召し」とは、不条理のただ中に身を置くことに他なりません。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そしてこの世界をも造り変えてくださるのです。

 

「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17節)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。人の心が過去の痛みにとらわれるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。

ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、「今、ここで」の神のみわざではなのではないでしょうか。

 

その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まります。それは新しいいのちの誕生から、新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。

それは同時に、「エデン(喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。

そのことを、神は、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ」と保障してくださいました。私たちはそれが実現したかのようにこの地で生きることができます。

つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での「新しいエルサレム」「いのち」を、今から体験することなのです。

 

しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。

その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる者をご自身の民として「創造し」、楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り変えてくださるからです。

 

先週の柳沢先生のメッセージの中で、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:52)という箇所が引用されましたが、保健医療の専門家である彼女が、チェルノブイリや福島の放射能汚染の実態を直接に見て、強く心に迫ったのは、聖書の救いが、体と離れた魂の救いという二元論でなく、体も魂も全部という包括的であるということです。

私たちは体のどこかが故障していくことを恐れますが、やがてこの身体は一度、死を迎えます。しかし、その後があります。イエスの復活の身体は、食事をともにし、魚を消化できたと同時に、完全に閉ざされた部屋に現れることができた不思議なものでした。放射能の問題で右から左まで様々な説が飛び交う現実を見、もう一度、「私たちに与えられたこの身体ってなんだろう」と思う中で、復活の希望が新鮮に心の奥底に響いたとのことです。

 

厳格なユダヤ人だったパウロは復活のイエスに出会うなかで、イザヤ258節の意味を再発見し、イスラエルが抱いていた「永遠」の希望が実現し始めたことを確信しました。そこでは、「主は死を永久に呑み込まれる。主ヤハウェは、すべての顔から涙をぬぐい、主の民への恥辱を全地から除かれる」と記されています。

ここは新改訳の「死を滅ぼす」よりも「呑み込む」と訳す方が原意を現わしますが、この動詞を受身形に解釈し「永久に」を「勝利に」と訳すことも可能で、パウロはそれをもとに「死は勝利にのまれた」と宣言しました。何と力強いことばでしょう!これは「放射能は勝利にのまれた」と解釈することもできます。

 

放射能事故なんてとんでもありませんが、今まで「復活?ふ~ん。いつかね」くらいで通り過ぎていたことが、とても現実として迫るようになってきたとのことです。そして、このような神様の壮大な歴史のなかで、今の放射能汚染に不安を感じている私たちの身体とは何か、健康とは何かを見てみたいと思ったとのことです。彼女の中では「新しい天と新しい地」のあり方と同じような物質としての新しい身体で、イエスと共に生き続ける幸いがリアルになってきました。

原発事故を契機に、多くのウクライナのユダヤ人が、イザヤ258節や、651718節の主による新しい創造が、心の底に落ちて、復活の主に出会うことができた意味が分かります。私たちは、主にある新しい創造に目を向けて、不安に勝利することができるのです。そして、現実に、復活信仰に生きる人は、放射能の影響にさえ勝利して力強く生きています。

 

つまり、主(ヤハウェ)が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしがエルサレムを創造して喜びとし」と語られたことは、キリストによって既に実現し始めたことなのです。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。

 

2.「彼らはむだに労することはない。」

 「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない」(19節)とは、それ以降の文章の要約でもあります。そして、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない、それは、幼子が死んでも、百歳になっており、罪人がのろわれても、百歳になっているからだ」(20節)という不思議な説明が描かれています。これは、新しいエルサレムには死ものろいもないということを詩的に表現したものと言えましょう。

これらの表現はすべて、預言された神のさばきとの対比で考えられるべきです。バビロン捕囚によって、「あなたの身から生まれる者も・・のろわれる・・主は、疫病をあなたの身にまといつかせ・・あなたを打たれる」(申命28:18ー22)という「のろい」の預言が実現しました。それに対し、新しいエルサレムでは、のろいの時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来るというのです。

 

   なお、のろいの時代には、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・あなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」(申命記28:30ー33節)という預言が成就しました。

それと対照的に、ここでは、新しい「祝福」の時代は、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」(21、22節)と描かれています。

そして、悲劇の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました

 

わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節)とは、このような「祝福」は、神ご自身が選んでくださった神の民に実現するという意味です。

私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。

 

そして21,22節をまとめて、「彼らはむだに労することがない」と力強く宣言されます。パウロはこのみことばを前提に、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました

 

ここでは続けて、「また、恐怖に会わせるために子を産むこともない」と記されますが、義人ヨブでさえは激しい苦しみの中で、「自分の生まれた日をのろった」(ヨブ3:1)とありました。しかし、新しい世界では、「生まれてこなければよかった・・・」という嘆きがなくなるというのです。

そして、「彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」(23節)と呼ばれますが、それが既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。

春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。その「新しい天と新しい地」のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています

 

また、「そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは、答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは、聞く」(24節)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、モーセのように「顔と顔とを合わせて」(申命34:10)の親密な交わりが回復することを意味します。

ここでは、「わたしは・・」という主ご自身の意思が強調されますが、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。

それはレビ記26章36,37に描かれた「おびえ」の支配からの救いでもあります。残念ながら、今も、神との交わりを知らず、いつも何かを怯えながら生きている人々が多くいます。

 

私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を許せなくなりました。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。

赤ちゃんに「泣くな!」と叱ることが無益なように、自分や人の感情を否定してはなりません。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の愛こそがあなたに平安と慰めを与えることができます。神の愛に包まれるとき、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

 

3.「「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い」

   そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない」(25節)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。

この同じことが11章6-9節でも描かれながら、そこでは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と記されています。そして、その約束はキリストによって実現する救いであると保障されていました。

 

私たちはこの世界に平和が満たされることを願います。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行い、平和を守るという団体が、自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。実は、人間の力で平和を実現できるという楽観主義が、自分の政治信条を絶対化し、他人の意見を軽蔑するという争いの原因となっているのです。

すべての戦争は、自分にとって好ましい平和を実現しようと急ぎすぎる結果として生まれています。しかし、神がご自身のときに、この世界に完全な平和(シャローム)を実現してくださるということを信じるなら、私たちは自分にとって不都合な不安定な状況の中に身を置きながら「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という最も大切なキリストの教えを地道に実行し続けることができます。

神はご自身の平和をこの地に静かに広めるためにご自身の御子を遣わしてくださいました。そして、キリストが再びこの世界に来られるとき、この世のすべての不条理を正し、目に見える形での神の平和(シャローム)で世界を満たしてくださいます。

 

私が伝道者の書の解説の本のタイトルを「正しすぎてはならない」として出版したのも、また、「お金と信仰」などという露骨なタイトルの本を書いたのも、正義を主張する人々が、他者の異なった政治的な見解などをあまりにも短絡的に批判することに心を痛めて来たからです。

幸い私たちの教会では、たとえば、原発再稼働の問題、死刑廃止、憲法9条の解釈、消費税のことなどで異なった見解を持つ人が、議論自体をタブー視することもないままで仲良く礼拝することができていますが、それこそがキリストの教会のあるべき姿ではないでしょうか。

人は置かれている立場や生まれ育ってきた背景から、政治的な見解の違いが生まれます。しかし、神がご自身のときにご自身の方法で平和を完成してくださることに目を留めるなら、政治的な見解の違いをより小さく見ることができます

他者の意見を全面否定することから争いが生まれますが、それよりも大切なのは、今ここで矛盾の中に身を置いて、うめきながら祈ることです。たとえば福島の放射能収束のために必死に働いている人々のために祈ることです。

 

私自身もかつて、証券会社にいたとき、自分の仕事を恥じていた時期があります。しかし、ドイツで学びながら、ひとりひとりの選択の自由と限られた資源の効率的な分配のためには、証券市場はなくてはならないものだと分かった時、仕事への見方が変わりました(それでも牧師への道を歩み出したのは神の導きではありますが・・・)。

仕事には様々な矛盾がありますが、それに居直ることなく、また過度に罪悪視することもなく、少しずつでも改善しようとするその気持ちを、主は喜んでくださいます

 

そのような中でずっと考えさせられているのは、所属組織への滅私奉公を言外の圧力で迫る日本の組織風土のことです。多くの信仰者が、良い働きをすることこそが、主の栄光を現わすことになると信じて、このような日本的精神の中に埋没してしまっているような気がします。

しかし、ときには、残業や休日出勤を拒否することこそが、最高の証しになるのかも知れないと思うことがあります。私たちはあくまでも、主に仕えることの一環として仕事をするのですから、主との交わりよりも仕事を優先することはあってはならないはずです。

もちろん、ただでさえ厳しい仕事で精神をすり減らしている方を、なお追い詰めるような意味で語っているのではありません。

世の人々の期待に沿うことができないことを恥じる必要がないばかりか、私たちは神の民として、日本人的な感覚を超えた仕事の仕方を提唱することこそが、長期的に最高の証しになると言いたいのです。

 

「新しい天と新しい地」目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。

労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。そして、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け(黙示4,5章)、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながらも、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します

ここで、「地の塩、世の光」として、「新しいエルサレム」の音楽を先取りして奏でるのです。それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。

このように、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。

主は今もここで、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人に向けて、「見よ、わたしは新しい事を行う」(43:19)という約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。

|

2014年11月 9日 (日)

創世記31章~35章「押しのける人から祈りの人へ」  

  

創世記31章~35章「押しのける人から祈りの人へ」

                                                          2014119

人は、失うことを恐れながら生きているのかも知れません。確かにそこに大きな痛みが伴います。しかし、自分の弱さを覚えさせられる中でこそ、神の御手にある安心を体験できるのではないでしょうか?

「ヤコブの格闘」は、イスラエルの物語の原点とも言える箇所です。敢えて説明が省かれて、象徴的な場面が簡潔に記されています。まさに心の底で何度も味わうべき箇所といえましょう。私も、何度も味わい、そのたびに新しい発見があります。

 

1.「私の父の神はわたしとともにおられ・・私の悩みとこの手の苦労とを顧みられ」

  ヤコブは、「杖一本だけを持って」生まれ故郷を離れてハランに向かい、そこで母リベカの兄ラバンに騙されながらも「大いに富む」者となりました(30:43)

しかし、それはラバンから受けた報酬を増やしたものでしたから、彼の家の者たちのねたみを買いました。また、ヤコブもラバンの態度の変化に気づきました。

 

そのとき主(ヤハウェ)はヤコブに、「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる」(31:3)と仰せられました。

それで彼は「ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ」、二十年の歩みを振り返りながら、「私はあなたがたの父に力を尽くして仕えた。それなのにあなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし、神は、彼が私に害を加えるようにされなかった・・こうして神が、あながたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ(31:6-9)と述べました。

また御使いが夢の中で彼に、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれ故郷に帰りなさい(31:1213)と言われたと彼女たちに告げます。

 

それに対し彼女たちは、「私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから・・・さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください」(31:15,16)と答えます。

そればかりか、そのとき「ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出し(31:19)ますが、それは家の守り神を奪うことを意味します。ラケルは父がそれを非常に大切にしていたことを知っていたからこそ、それを奪うことで、父に復讐しようと思ったのではないでしょうか。

自分の利益のために行動したラバンは不誠実さのゆえに娘から憎まれ、騙されても誠実を尽くしたヤコブは彼女たちの尊敬を得ることができました。

 

  ヤコブは、「ラバンにないしょにして…自分の持ち物全部を持って逃げました。ところが 「三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いつき」ました(31:22,23)。それは、何とカナンの一歩手前です。

しかし、神は前の夜にラバンに現れあなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ(31:24)と警告されます。それで、彼はヤコブに、「私はあなたがたに害を与える力は持っている(31:29)と脅しつつ、テラフィムだけを取り戻そうとします。

 

ラケルはそれを「らくだの鞍の下に入れ、その上に座って」、「女の常のことがある」などと言いながら隠し通します。ヤコブはその件を知らなかったので、「怒って、ラバンをとがめ」、それまでの二十年間の不当な扱いを抗議し(31:38-41)、「もし私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさった(31:42)と言いました。

ラバンはかつて、「私は占いによって、(ヤハウェ)がお前のゆえに私を祝福してくださったことを知った(30:27)と言っていたように、ヤコブの神の力を知っていましたから、主の警告におびえました。もし、主がラバンに現れなかったら、ラバンはヤコブからすべてを奪い去ったことでしょう。ヤコブはそれを知っているので、「神は・・・昨夜さばきをなさった」と言い、ラバンもそれを聞いて、ヤコブとの「契約を結び(31:44)、互いがそこに立てた石塚を超えて侵入することのないことを誓います。それは、神がヤコブとともにおられたからでした。

 

そして今、ヤコブの神は、御子イエスにつながる者に対し、「わたしはあなたとともにいる」と語ってくださいます。ヤコブは騙されるたびに豊かにされました。一方、騙したラバンの側は、娘と孫たちに見放され、さみしく自分の家に帰りました。

ですから、私たちも人間的な策略を弄することなく、いつも神との交わりを親密に保つことに心を向けるべきでしょう。それこそが、真の意味での豊かな生活の基盤です。

 

2.「彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った」

  そして、「ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れ(32:1)、エサウとの出会いを恐れる彼を励まします。ヤコブは御使いたちを見て、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名を「マハナイム」と呼びます。

詩篇344-8節には、「主(ヤハウェ)を呼び求めると、主は答えてくださり、すべての恐怖から救い出してくださった・・・主(ヤハウェ)の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる。味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさを」と記されていますが、主はここで、ヤコブが呼び求める前から、「神の陣営」を見せてくださったのです。

 

エサウは、二十年前には、ヤコブが自分を「二度までも・・押しのけ(アカブ)(27:36)、長子の権利と祝福を騙し取ったと理解し、「ヤコブを殺してやろう」と思っていました(27:41)。そのため当時、ヤコブは父の家からたったひとりで離れる必要があったのですが、今は、約束の地に入る前に兄との和解を望み、使者を遣わします。

ヤコブは神が自分とともにいてくださることを味わっていたので、ある意味で、正々堂々とエサウに使いを送ることができたのです。ただそれに対し、エサウが「四百人を引き連れてやってくる」との知らせが届きます。すると、「ヤコブは非常に恐れ、心配し、最悪の事態を想定して自分の群れを二つの宿営に分けます(32:6,7)

 

その上でヤコブは必死に、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主(ヤハウェ)よ」と呼びつつ、主から自分が賜った「すべての恵みとまこと」を思い起こしながら、「どうか私の兄エサウの手から私を救い出してください」と祈ります(32:9-12)

 

そして彼は合計550頭にも及ぶ家畜を、「エサウへの贈り物」として選び、それを三つの群れに分けて先に行かせます。その際、ヤコブはしもべたちに、エサウに向かって、「あなたのしもべヤコブから「私のご主人エサウに贈る贈り物です」と言わせます(32:18)。これはかつて、父イサクがヤコブを祝福した後、エサウに向かって、「おまえは・・弟に仕える」と祈って、エサウを苛立たせたことを逆転させる意味がありました。

そればかりかヤコブは、「贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思った」と描かれています(32:20)。ヤコブは自分がエサウに対して咎を負っていると思っていたので、彼の怒りを「なだめ」ようと必死だったのです。ただ、このような人間的な計算では、心を落ち着かせることはできませんでした。

 

その後、彼は宿営地で夜を過ごしますが、どうしたわけか、その夜のうちに起き、「ふたりの妻と・・十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを・・自分の持ち物も渡らせ(32:22)ます。

今や彼が獲得したすべての物を明け渡した上で、「ひとりだけ、あとに残り」ます。そして、このように裸になった彼は、自分が何者かが問われるのです。

 

するとこのとき、「ある人が夜明けまで彼と格闘し」(32:24)ました。ヤコブが求めた戦いではなく、ある人の側から彼に向き合ってくださったのです。

彼の人生は、自分の知恵と力で成功をつかみ取るようなものでした。今ここでも、目の前の人が誰であるか以前に、ふって湧いた格闘に勝つことだけに必死です。それは自分の内面の恐れとの戦いでもあります。しかし、もものつがいがはずされたとたん、その人に必死にすがりつき祝福を願います。

 

その際、彼は自分の名を尋ねられ、ヤコブと答えることによって、自分の生き方をも顕にします。そこには「押しのける」とか「つかみとる」という意味がありました。

それに対し、「その人」は、彼に新しい名を与えます。「イスラエル」とは、「戦う」と「神」とを合わせたものです。そして、その意味を、「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったから」と言います(32:28)

なかなか理解しにくいですが、後にホセアは、ヤコブの生涯を、「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力神と争った彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、そのところで神は彼に語りかけた」(12:3,4)とまとめています。

彼は生まれる時から兄のかかとをつかみ、兄を二度も押しのけ、祝福を父から騙し取りました。しかし、彼が最初から向き合うべき方は、神ご自身でした。

 

なお、ここでヤコブが、「あなたの名を教えてください(32:29)と尋ねたのは、神をも自分の頭で把握したいという気持ちの現れとも言えましょう。しかし、彼に必要なのは、ただへりくだって神の祝福を受けることでした。

そしてヤコブはこのとき、必死に願った「祝福」を受けることができました。これこそが、神と戦って「勝った」と言われる意味ではないでしょうか。

私たちもときには、祝福」を受けるために、神との祈りの格闘が必要かもしれません。

 

  彼はこの出会いを通して、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた(32:30)と言いました。そこには、恐れと同時に、喜びがありました。彼は「そのもものためにびっこをひいて」いましたが(32:31新改訳第二版)、「太陽は彼の上に上って」いました。

これは何と感動的な情景でしょうか。神との格闘は、夢の中で起こったことではなく現実でした。そのしるしが、「びっこひいて歩く」ということでした。そして、その痛みの中で、神の圧倒的な祝福を感じることができました。私たちも同じように、現実の痛みを通して「祝福」を体験することができます。

 

その後、ヤコブは家族の先頭に立って、「七回も地にひれ伏しておじぎをし」ながらエサウに近づきます。それに対し、「エサウは・・走ってきて、彼をいだき、首に抱きついて口づけを」しました(33:1-4)。つまり、イスラエルという名には、自分の力で戦う生き方から、神の御前にへりくだるという生き方の転換が込められていると思われます。

 

  ヤコブの祝福が、「びっこをひく」ことの中で現わされたように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる(Ⅱコリント12:9)のです。

そしてそのようなヤコブの生き方は、私自身を現わしているように思えます。自分の弱さを隠し、神も人も自分の頭の枠でとらえようとし、自分の不安と戦っていました。しかし、あるとき、不安を抱えたままの自分を支える神がおられることに気づかされました。私の歩みは、精神的にびっこをひいたような状態のままですが、その私の上に太陽が上り、神の愛に包まれているということが少しずつ分かってきました。

 

不動の心を持つことが目標ではありません。「キリストは・・大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」(ヘブル5:7)とあるように、自分の弱さ、不安や悲しみをそのまま訴える生き方こそが神に喜ばれるのです。

  

3.「ベテルに上り・・私の苦難の日に私に答え・・いつも私と共にいた神に祭壇を築こう」

  エサウはヤコブを自分の居住地のセイルに迎えるために「あなたのすぐ前に先って行こう(33:12)と提案しますが、ヤコブは自分の群れの弱さを理由に、やんわりとそれを退けます。彼はエサウとの適度な距離を保つことに必死だったのだと思います。

またそれが、「ゆっくり旅を続け・・セイルにまいります(33:14)と言いながら、御使いと挌闘したペヌエルのすぐ近く、ヨルダン川東岸の「スコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った」理由と言えましょう(33:17)

そればかりか、彼はエサウの住む南に向かう代わりに、そこからヨルダン川を渡って西に向かい、シェケムの町の手前で宿営し、その野の一部を購入し、そこに祭壇を築きます。

 

それにしても、主がヤコブに約束の地への帰還を命じたとき、「わたしはベテルの神」とご自分のことを呼んでおられました(31:13)

主が最初にヤコブにご自身を現してくださったベテルは、シェケムから三十数キロ程度南に下った地ですから、ヤコブはその目的地にもっと早く行くことができたはずです。

 

しかし、進行を遅らしたことで、悲劇が起こります。ヤコブがラバンのもとに留まっていた終わりの時に生まれたはずのディナがその土地の族長の息子シェケムに犯されてしまったのです。

このときディナが十代後半だったとしたらヤコブはエサウとの和解から十年余り道草をしていたことになります。

 

  シェケムの父はディナを嫁にしたいとヤコブに申し入れ、その他にも互いに縁を結ぶことを願います(34:8,9)。ヤコブの息子たちはそれを受け入れるふりをし、彼らに割礼を受けさせ、その傷が痛む時に、シメオンとレビが、その町の男子をすべて殺すという野蛮な行為に出ました。

神がアブラハムに与えてくださった約束を覚えるしるしとして割礼という儀式が生まれたのに、その背景を説明することもなく、ただ割礼だけを受けさせ、その傷の痛みにつけこんで町を攻撃するなどということは神の意図に真っ向から反します。

本来なら、ここから復讐の連鎖が起こり、ヤコブ一族は「根絶やしにされる」(34:30)可能性がありました。しかし、この時になって神はヤコブに現れ、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに・・神のために祭壇を築きなさい(35:1)と仰せられます。

 

そして、ヤコブも「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめなさい・・・私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」(35:23)と応答します。ラケルも父から盗んだテラフィムをヤコブに渡したことでしょう。

それにしても、これはもう十年早く行なわれるべきことでした。なぜなら、ヤコブは最初にベテルで、神の圧倒的な約束、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(28:15)を聞いたとき、自分が枕にした石を取って、その上に油をそそいで、「神がわたしとともにおられ・・・無事に父に家に帰らせてくださり、こうして主(ヤハウェ)が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と応答していたからです。

エサウと和解できた後に、すぐにベテルに上りそれを実行すべきだったのです。

 

 そして、「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった(35:5)とありますが、これはヤコブが戦う前に、神ご自身がヤコブの側に立って戦ってくださったということです。イスラエルという名は、「神と戦う」というより「神が戦う」ことを意味するからです。

 

そして、彼はようやくベテルにつき「祭壇を築き」ます(35:7)。その上で、リベカに昔から寄り添っていた「うばデボラ」の死のことが述べられます(35:8)

それはかつてリベカがヤコブに、「兄さんの憤りがおさまるまで・・ラバンのところにとどまっていなさい・・・あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやりあなたをそこから呼び戻しましょう(27:44,45)という約束をリベカが実行していたしるしだと思われます。

 

ヤコブはデボラの死を嘆き、彼女を葬った地を、「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」と呼びます。なお、リベカがいつどのように亡くなったかは記されていません。ただ、デボラへの言及によって、リベカがヤコブへの約束を果たしていたということが明らかにされていることで十分なのでしょう。

 

その上で、「こうしてヤコブがバダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れ、彼を祝福された」(35:9)と描かれます。

そして主は再びヤコブに向かって「あなたの名はイスラエルでなければならない(35:10)と新しい名を確認し、その上でアブラハムへの約束を更新するように、次のように言われます。

 

「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。生めよ、ふえよ。ひとつの国民、諸国民の民の集いが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る(35:11)と約束を新たにされました。

ここでは、イスラエルの子孫が民族の枠を超えて、アブラハムという名の意味「多くの国民の父」となるという約束がヤコブを通して実現するということが確認されています。

つまり、イスラエルの子孫とは、民族の枠を超えた呼び名となることが確認されているのです。そして今、私たちは、キリストにあって、アブラハム、イスラエルの民とされています。

 

そうして、3514節に至って、ヤコブがかつての約束、「石の柱を立て・・その上に油を注いだ」ということを実行したということが記されます。28章から始まった旅が、ここでようやく完結したと言えましょう。

 

ヤコブが神から特別に愛されたのは、彼にその資格があったからではありません。神は彼を一方的に選び、数々の恵みを施し、神を信頼することを教え、そして、最後に、何よりも「祈ること」を教えてくださいました。

 

しかし、彼はすぐに安易な生活に流れました。しかし、神は忍耐をもって彼を導き、彼が誓約したことを実行させてくださったのです。あなたの歩みにも、同じような神の導きがあります。

そして、それを象徴するような「新しい名」というのがあるのではないでしょうか。たとえば、私にとっては、神の御手に「抱擁」されているというイメージが迫ってきたことがありました。また、私は、いつも失敗を恐れながら生きているような面がありますが、その私が落ちてしまわないように、神によって「支えられている」というイメージが迫ってくることがありました。

                                                       

|

2014年11月 2日 (日)

ヨハネ5章1-29節「死からいのちに移っている」

 

ヨハネ5章1-29節「死からいのちに移っている」

 

                                                 2014112

 

 多くの人は信仰生活を、何かの教えを守ることだと誤解しています。しかし、それでは、「クリスチャンになったせいで、かえって生きにくくなった」と思うことになりかねません。

 

信仰はキリストにある「いのち」です。それは、この世の厳しい現実の中でこそ輝くものです。この世の困難を避けようとする人には、キリストにあるいのちの豊かさを味わうことができません。信仰とは、何よりも困難に向かう力として現されて行きます。

 

 

 

1. 真の安息を与えるためのイエスのいやし

 

  「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」(5:1)とありますが、この「祭り」が何なのかは記されていません。当時のガリラヤに住む敬虔なユダヤ人は、年に最低三度は、片道最低三日ぐらいの道のりをかけてエルサレムに上りました。

 

そしてイエスはこの時、エルサレム神殿の北東に位置する「羊の門」の近くの「ベテスダと呼ばれる池」を訪ねました(5:2)「ベテスダ」とは、哀れみの家という意味のことばで、そこには「五つの回廊」があって、「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた」(5:3)というのです。

 

この場所からすると、そこにあったのは、決して清潔とは言えない「たまり水」です。なぜなら新鮮な水は、城壁の東のギホンの泉から水路を通して町の南端のシロアムの池に引かれた水しかなかったからです。

 

 

 

新改訳の脚注に記されていることばは、最も古い写本にはない後代の追加です。そこでは「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々、この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされた後に最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」と記されています。

 

いろんな見解がありますが、たぶん、これは当時のベテスダの池に伝わっていた迷信のようなものだと思います。最初に入った者だけが癒されるというのが事実であれば、そこには、人を押しのけてでも真っ先に池に入るという過当競争が肯定されるわけで、明らかに聖書のテーマに反するからです。

 

ただ、この直後にイエスによって癒された人のことばからして、そのような迷信がこの池にあったせいで、多くの病人が集まっていたのだと思われます。

 

 

 

イエスは、そこで迷信に囚われて人生を無駄にしている人の中から、最も悲惨な人を見つけました。それが、「そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた」(5:5)という記述です。

 

38年間」とは、イスラエルの民が、せっかくエジプトでの奴隷のくびきから解放されながら、約束の地には、自分たちよりもはるかに強い民族が住んでいるということが分かると、臆病風に吹かれて、まっすぐに約束の地に上って行くことを拒絶して、神のさばきを受け、荒野をただぐるぐる回り続け、二十才以上の男性がすべて死に絶えた期間を指します(申命記2:14)

 

彼らは安息の地へと招かれながら、安息に入ることができませんでした。ここに伏せっていた人も、どのような理由かはわかりませんが、人生を無駄に過ごしてきました。

 

彼はただ、そこに食料を運んできてくれる人のあわれみにすがって、いつ起こるか分からない奇跡を待ち望んで、そこにただ横たわり続けていました。

 

 

 

そして、イエスは、彼が伏せっているのを見ただけで、それがもう長い間のことなのを知りました(5:6)。そして、イエスは彼に、「よくなりたいか」という世にも不思議な質問をします。

 

よくなりたい」と思わなければ、そこにはとどまっていないはずですが、イエスは彼の心の奥底の声を知っていました。少なくともこの人は、38年間」、飢え死にすることはありませんでした。誰かが支え続けてくれたからです。彼の身体がよくなると、もう助けてもらう理由がなくなります

 

彼が自分の足で歩き、自分の手で稼いで生きようとすると、たぶん、これから、「ぐず」「のろま」「何度言ったらわかるんだ・・」などという罵声を浴びながら、それに耐えて生きる必要があります。自分の人生の責任を負うということは、競争社会の中にひとりで放り出されることに他なりません。

 

 

 

この病人の答えは、イエスの率直なご質問をはぐらかすものでした。彼は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」と答えました。

 

残念ながら、人は、無理な目標を掲げることによって、自分が自分の人生に責任を負わなくても良い言い訳を作って生きることがあります。主の使いが水をかき回したときなのかどうかは分かりませんが、水が動いたとき、この人が一番先に水の中に降りるというのは、正常な感覚からすると、この人には無理であることが明らかです。

 

それとも彼は、誰かが、彼のために、必死に水に入ろうとする人を押しのけ、彼を一番にしてくれる助け手を待っているのでしょうか。自分のために人の救いを邪魔する人を求めるなどと言うこと自体、何と自己中心なことでしょう。

 

彼は自分で自分の人生の責任を負わなくて良い言い訳を言っているとしか思えません。

 

 

 

イエスは、彼の信仰的な応答を聞くこともないまま、彼に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じられました。これは、「光があれ」というたった一言で、「」を創造された創造主としての権威に満ちた言葉で、彼を瞬時に立ち上がらせました。

 

神のことばは、私たちの信仰を飛び越えて、変化を生み出すことができます。ですからここではその反応が、「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した(5:9)と記されます。

 

 

 

ところがここに、意外な展開が起きます。「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に」向かって、「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」と言ったというのです(5:9,10)安息日に労働することは、死に値する律法違反だったからです。

 

民数記には、安息日にたきぎを集めていた男が、宿営の外に連れ出され、石で打ち殺されたと記されています(15:32-36)。ユダヤ人の指導者たちは、イエスが彼を癒したことも、この男が床を取り上げて歩き出したことも、これに匹敵する違反行為だと見たのでした。

 

 

 

   不思議なのは、ユダヤ人たちが、38年間も病気だった人のいやしを喜べなかったことです。信仰に熱心であるはずの人に、人への共感能力が決定的に欠けていたというのは何という皮肉でしょう。

 

しかも、彼らは、ベテスダの池にははびこっていた迷信を放置したままでした。そこでは、病人たちが、われ先に池の水に入ろうと互いを押し退け合って生きていました。

 

この男は、病に加えて、「誰も助けてくれない。他の人に先を越される」という孤独と敗北意識を味わい続けていました。癒しの奇跡の名のもとに、この世の地獄が放置されていたのです。

 

 

 

   イエスは敢えて、安息日の中でも大切なユダヤ人の祭りの日を選んでこの病人を癒されました。申命記によると「安息日」は、エジプトでの奴隷状態からの解放を覚える日でした。

 

この男は、38年間、誤った教えに惑わされサタンの奴隷状態にありました。その彼を、イエスは真の安息に入れるために癒されたのです。聖書の教えは、私たちに新しい義務を与え束縛するためではなく、真の安息、真の喜びを与えるためのものです。

 

 

 

2. ご自身を神と等しくされた方 

 

  ところで、この癒された人は、自分の病が癒された感動で、神をほめたたえ、その喜びを分かち合ったのでしょうか?確かにそれを味わう間もなく、ユダヤ人たちから、安息日に床を取り上げたという労働行為を安息日律法違反として責められ、それに答えるのに必死だったのでしょうが、もっと別の言い方があったかもしれません。

 

彼はとにかく、自分が律法違反をしたわけではなく、「私を直してくださった方」という途方もないことをした方が、「床を取り上げて歩け」と言われたことに従ったに過ぎないと、自分の責任が問われなくなる言い訳に終始しています。

 

彼はこれほどの恵みを受けながら、自分を引き続き、被害者の立場に置いていると言えましょう。

 

 

 

   確かに、癒された人は、自分を癒した方が誰かを知りませんでした。ところが、イエスの方から、この男を宮の中で見つけて、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから(14)と言われたというのです。

 

これはこの人の病が、罪のせいであるという意味にも解釈できますが、それよりも、自分を徹底的に被害者の立場に置き、自分ができることすらやって来なかった、人生を無駄にしてきたような生き方自体を「」と言ったのではないでしょうか。

 

この人は、イエスの御声を聞いて癒されながらも、復活の後にさばきに会う可能性があります。その「永遠のさばき」こそ「もっと悪い事」です。

 

 

 

   ところで、「罪を犯す」とは、この世界で人々から非難されこととか、敗北者になることではありません。この男は、今まで、社会的弱者として、人々のあわれみを受けはしても、その被害者意識を責められることはありませんでした

 

しかし、聖書による罪とは、神を愛し、隣人を愛するという、心のあり方の問題でした。彼は少なとも、「そこにいる誰よりも早く入る・・・」ということを正当化する、自己中心のとりこになっていました。

 

身体がどんなに不自由な人に対しても、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記6:5)という命令は、そのまま有効です。そこに、「そんなことこの私には無理です」という被害者意識の言い訳は成り立ちません。

 

彼はこれからイエスによって癒された者として、その愛に応答して生きる責任が生まれたのです。彼は癒されたことによって、言い逃れの余地が奪われました。恵みを受けることに責任が伴います。

 

 

 

それなのに、この男は何をしたでしょう。彼はわざわざ、ユダヤ人のところに行って、「自分を直してくれた方はイエスだと告げた」(15節)というのです。

 

これに関しては、この人はあくまでもイエスのすばらしいみわざを証ししようとしたという解釈もありますが、先のこの人の応答の仕方から言うと、明らかに、自分の身を守るための責任逃れとしか思えません。実際、16節を見ると、「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した」と記してありますが、この人は、そのような結果が生まれることを全く予期できなかったほど愚かだとは思えません。

 

彼は少なくとも、自分がどのように応えたら、自分の責任が問われないかを冷静に判断しながら応答しているように思えます。ある意味で、被害者意識を正当化する知恵ばかりが、38年間もの間発達していたのかもしれません。

 

 

 

とにかくこの男の応答が、イエスを窮地に陥れ、イエスは安息日律法違反で訴えられます。まさにひとりの人を助けるために十字架の道を歩み出したのです。

 

なお、安息日は、「第七日目に、神がなさっていたすべてのわざ(働き)を休まれた(2:2)ことに由来します。イエスは、ご自分の行動を弁護する代わりに彼らの聖書理解を真っ向から覆すように、わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです(5:17)と語られました。

 

イエスの言われたことは、字義的には創世記の記述に反するようでありながら、神が七日目に休まれたのは、創造のわざの完成を告げられるという喜びにあることを思い起こさせるものでした。

 

 

 

ダビデは、主がエルサレムの丘シオンを住まいとして選ばれた理由を、主が「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう」(詩篇132:14)と言われたと記しています。

 

主はご自分のからだを休めるためにエルサレム神殿に入られたのではなく、イスラエルのただ中に住んでイスラエルを守り導くということの証しとして、シオンを安息の場所に選ばれたのです。

 

同じように、主が七日目に休まれたというのは、神がお造りになられた世界のただ中に神が住んでくださり、この世界を導いてくださることに他なりません。つまり、彼らは、「労働してはならない」という安息日律法の字義に短絡的にこだわって本来の意味を忘れていたのです。

 

 

 

   しかも、19節でイエスは、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができませんと、ご自分の癒しのみわざが、安息日を定めた父なる神に由来することを大胆に語りました。

 

そればかりか続けて、「父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」と言われ、敢えて彼らの疑念を肯定するかのようにご自身を「神と等しくされ」ました。これは、彼らにはとうてい受け入れられません。イエスは冒涜罪を自分で招きよせています。

 

多くの人は、イエスが様々な良い働きをしたあげく無実の罪で十字架に架けられた悲劇の主人公のように見ますが、彼が私たちと同じ人間だったとしたら、ユダヤ人から死刑判決を受けたことは当然のことです。

 

イエスの主張を聞く者は、彼を父なる神と等しい方と認めるか、それとも彼を冒涜者または狂人として排除するかのどちらかの選択しかできません。イエスを知る者自身が、答えを求められています。

 

 

 

   そればかりかイエスは、父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます(21)と言われました。

 

38年間、死んでいたも同然の生き方をしていた男を歩けるようにしたのは、この男の信仰以前に、イエスの一方的なみわざでした。私たちの場合も、イエスがいのちを一方的に与えたいと思ってくださった結果として「いのち」が与えられました。

 

それなのに、何を臆病になる必要があるのでしょう。私たちは、自分を弁護する必要などありません。神が私たちを選び、「いのち」を与えてくださったのです。

 

 

 

3. 死からいのちに移った者として

 

   「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました(22)とありますが、イエスに対してどのような態度をとるかが、私たちの「いのち」にとって何よりも大切なことです。私たちもアダムの子孫として、必死に自分の正しさを神と人の前で主張する傾向があります。しかし、イエスは、私たちが正しくあり得ないからこそ世に下ってくださったのです。

 

そこで問われているのは私たちの所まで降りて、私たちと同じ弱い肉体を持ってくださった方の導きに従う気持ちがあるかどうかということです。

 

たとえば、あなたが怪我をして動かなくなった手足のリハビリを行っているとき、最高のトレーナーが徹底的にあなたに寄り添ってくれたとしたら、そこで問われているのは、何よりも、その援助者の善意と知恵を真正面から感謝して受け取るかと言うことです。あなたがその援助者を軽蔑するようなことがあったら、そのような態度自体が、何よりのさばきの理由になることは当然です。

 

 

 

なお、旧約聖書が語っているのは、人が、すばらしい教えを神から受けながら、それを守ることができなかったという人間の罪の深刻さです。しかし、神は終わりの日に、人の心を根本から造りなおすために救い主を遣わすと約束しておられました。

 

ですから、わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる(24)とは、自分の罪の現実を受けとめ、父なる神がイエスを通してなして下さろうとすることにお任せすることなのです。

 

興味深いのは、イエスのことばを聞くことと、イエスを遣わした御父への信頼がセットになっていることです。残念ながら今も、「イエスは優しいが、父なる神は恐ろしい・・」などという方がいますが、それは旧約のストーリー全体から救い主を見ることができていないからに過ぎません。

 

しかもここでは、イエスのことばを聞いて御父を信じる者は、すでに「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている(24)と断言されます。

 

 

 

  「永遠のいのち」とは、来たるべき新しいエルサレムのいのちの交わりを今から体験していることです。「死からいのちに移っているとは、その「いのち」が、決して失われないという意味です。

 

また、死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです(25)とは、私たちも霊的には死人と同然だったのに、イエスの御声を聞いて、生きる者とされたという意味です。

 

私たちのいのちは、自分で獲得したものではなく、イエスによって与えられたイエスのいのちです。ですから、このいのちをだれも奪うことはできません

 

 

 

  ただし、すべての人は、やがて墓の中に葬られます。そして、やがて「子の声を聞いて出て来る時が来ます」。そのとき、善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受ける(29)というのです。

 

イエスは、38年間、臥せっていた人を見つけて癒し、その後も宮で彼を見つけて、その生き方を変えるようにと警告されました。ところが彼は、神の御名をたたえる代わりに、イエスが迫害される道を開いてしまいました。残念ながら、彼はイエスに身体を癒されながら、心が癒される機会を自分で閉じたのです。

 

 

 

もし彼がイエスに向かって、「私の罪とは何ですか」とか「安息日律法違反で非難され、怖くてたまりません」とか、「私は自分の人生に責任を持つのが怖いのです」などと、正直にイエスに訴えるなら、まったく違った人生が待っていたのかもしれません。

 

なぜなら、それこそがイエスに信頼して「いのち」を受ける始まりだからです。

 

 

 

イスラエルの民にとっての38年間とは、本来、荒野で信仰の訓練を受け、ゼレデの谷を通過した後(民数記21:12)、エモリ人の王シホン、バシャンの王オグなどに連戦連勝するように変えられるという勝利の生活への転換点でした。逃亡奴隷の集団が、連戦連勝の主の民へと変えられたのです。

 

同じように、本来、イエスのことばを聞いて御父に信頼して「永遠のいのち」に入れられるとは、「死んでも天国に行ける」ということ以前に、この世の様々な困難に立ち向かいながら、勝利を体験することができる人生の始まりなのです。

 

 

 

しかし、残念ながら、この38年間臥せっていた男は、主の力を受けながら、この世の戦いを避けてしまいました。イエスに出会いながら、イエスの圧倒的な恵みを受けながら、なお尻込みしてしまう人がいるのです。

 

それは私たちの問題にもなり得るかもしれませんが、恐れる必要はありません。旧約の歴史を見てくると、イスラエルの民は何度も主の恵みを忘れて、主のさばきを受けてしまいますが、最終的に、主は彼らのために救い主を送って、彼らを心の底から造り替えてくださいました。

 

これはあくまでも希望的観測ですが、この男はイエスが十字架にかけられた場面を見ながら、自分の罪がイエスを十字架に追いやったことを自覚し、悔い改めることができたのではないでしょうか。

 

大切なのは、被害者意識に囚われる代わりに、心の中にある恐れや不安を正直に主に告白して、主からの力を受けることなのです。

 

「永遠のいのち」は、今ここに生きる力となっているのです。臆病にならずに、いのちの豊かさを大胆に味わってみましょう。なぜなら、問われているのは、社会で尊敬されること以前に、神を愛し、隣人を愛するという生き方の方向だからです。成功かするか失敗するかは関係ありません。

 

 

 

   38年間、動けなかった人は、イエスによって癒されましたが、このときはイエスに従うところまでは行けませんでした。それは、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったから(ヨハネ7:39)です。

 

私たちには今、聖霊が与えられています。ですから私たちは、この男とは違い、正直に自分の葛藤や不安を、イエスを通して御父に打ち明けることができます。私たちはそこでイエスと御父のあわれみを体験することができます。

 

死からいのちに移っている」とは、何よりも、父なる神と御子イエスとの間にある親密な愛の交わりの中に聖霊によって招きいれられていることを意味します。それは、しばしば、葛藤や不安の中で神に祈るという交わり自体の中に現されています。肉体の癒しよりも大切なのが、この神との交わりなのです。

 

 

 

世の人々は、わざわいに会うことを恐れながら、自分の身を守ることに汲々としています。しかし、私たちは、試練を通し、自分の無力さを痛感するときこそ、自分がすでに「死からいのちに移っている」ので、キリストのいのちが自分のうちに生きていることを味わうことができます。

 

今、試練に会っている人は、主の御名を呼び求めつつそこに留まりましょう。悲しみの涙を流すようなことがあっても、主はそれを感動の涙に変えてくださいます。すべての試練は、御父と御子にある「いのち」の豊かさを味わう機会として備えられているものなのですから。

 

|

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »