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2014年12月28日 (日)

ヨハネ5章19-47節 「すでに始まっている救いの時」

                                                  20141228

   クリスマスのたびごとに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:6)と読まれながら、闇の中で救いを待ち望んでいた人々のために救い主が誕生してくださったことを喜びます。

しかし、ふと、「私の周りはなお暗やみばかりだ。仕事は大変なばかりで、いつまで続けられるかもわからない。景気の良いのは株を持っているような金持ちばかりだ。放射能汚染の解決の目処もなく、国の借金は増すばかり、年金の期待もできない。どこに夢があるのか・・・」とつぶやきたくなるかもしれません。

 

イエスの時代の人々が望んでいた「救い」とは、ローマ帝国の圧政から解放され、神の民ユダヤ人のための独立国家が生まれることに他なりませんでした。救い主は、神の敵をたちどころに滅ぼす方として現れるはずでした。ところが、救い主は、何もできない赤ちゃんとして現れたというのです。

しかも、救い主の誕生を聞いたヘロデ王はベツレヘム近辺の幼児を虐殺しました。何も変わらないどころか、かえって時代が悪くなったように思えました。

 

ところが、イエスの説いた福音は、ローマ帝国を滅ぼすどころか、その全域の社会の底辺に広がり続け、やがてローマ皇帝自身がイエスを救い主と告白し、カレンダーをキリストの降誕の年を「主の年」の始まりとするようになりました。ローマ帝国を滅ぼす代わりに、ローマ帝国をイエスの前にひざまずかせるような不思議な力が福音にあったのです。

私たちは既に、主の救いを受けています。私たちは既に新しいエルサレムの市民とされています。二千年余り前のイエスの誕生によって、どのような新しい時代が到来しているのか、その意味をともに考えてみましょう。

 

1.「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです」

ヨハネ5章は、イエスがベテスダの池で三十八年間もの間、病気にかかっている人に、「よくなりたいか」と聞いたうえで、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という一言で癒してくださった記事から始まります(68)

しかし、「その日は安息日であった」ということで、この癒された人は、ユダヤ人たちから、「床を取り上げて歩いてはいけない」と責められ、この人は、自分の身を守るためなのか、「自分を直してくれた方はイエスだと告げ」ます(9,1015)。それによってイエスは安息日律法違反で迫害を受けます。

それに対して、イエスは何と、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです(17)と答え、ご自分を神と等しくされました。

 

19節でイエスは、子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができませんと、ご自分の癒しのみわざが、安息日を定めた父なる神に由来することを大胆に語りました。そればかりか続けて、父がなさることは何でも、子も同様に行なうのですと言われ、敢えて彼らの疑念を肯定するかのようにご自身を「神と等しく」(18)されました。これは、彼らにはとうてい受け入れられません。イエスは敢えて、神への冒涜罪を自分で招きよせています。

そればかりかイエスは、「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです」(20)と言われました。「さらに大きなわざ」とは、次の2122節のことを指していると思われます。

 

まず、イエスは、父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます(21)と言われました。38年間、死んでいたも同然の生き方をしていた男を歩けるようにしたのは、この男の信仰以前に、イエスの一方的なみわざでした。私たちの場合も、イエスがいのちを一方的に「与えたいと思って」くださった結果として「いのち」が与えられました。私たちは不信仰を卑下する必要などありません。神とその御子ご自身が私たちを選び「いのち」を与えてくださったのです。

そればかりか、イエスは、「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました(22)と言われましたが、イエスに対してどのような態度をとるかが、私たちの「いのち」にとって何よりも大切なことです。そこで問われているのは私たちの所まで降りて、私たちと同じ弱い肉体を持ってくださった「不思議な助言者(イザヤ9:6)である方の導きに従う気持ちがあるかどうかということです。

 

そして、さばきが子に委ねられた理由が、それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません(23)と述べられます。当時のユダヤ人たちは、イエスを、「神を冒涜する者」と非難しましたが、イエスによるとそのようにご自身を迫害する者たちこそが、神を冒涜していたというのです。

なお、旧約聖書が語っているのは、人が、すばらしい教えを神から受けながら、それを守ることができなかったという人間の罪の深刻さです。しかし、神は終わりの日に、人の心を根本から造りなおすために救い主を遣わすと約束しておられました。

ですから、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる(24)とは、自分の罪の現実を受けとめ、父なる神がイエスを通してなして下さろうとすることにお任せすることなのです。

 

しかもここでは、イエスのことばを聞いて御父を信じる者は、すでに永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている(24)と断言されます。「永遠のいのち」とは、「新しいエルサレム」のいのちの交わりを今から体験していることです。主は私たちが呼ばないうちから答え、語っている先から既に聞いていてくださいます(イザヤ65:24)

また、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです(25)とは、私たちも霊的には死人と同然だったのに、イエスの御声を聞いて、生きる者とされたという意味です。

私たちの中には、「もう生きる力が湧かない。死にたい」という絶望の中で祈りながら、不思議な神の光に包まれ、新しい歩みに入ることができた方が何人もおられます。そのようなお証しを聞かれるのは何という幸いでしょう。

 

私たちのいのちは、自分で獲得したものではなく、イエスによって与えられたイエスのいのちです。ですから、このいのちをだれも奪うことはできません。しかもここでは、それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです(26)と記されています。

それは、イエスとの交わりに生きる者がすべて、イエスのいのち」にあずかっていることを指しています。

 

そればかりか、「また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです(27)とあるのは、ダニエル71314節を思い起こさせる表現です。イエスはご自分をダニエルが預言した人の子として神の前に導かれ「主権と光栄と国が与えられ」ることを語ったのです。

イエスが後にユダヤの最高議会で死刑判決が下されたのは、ご自分が預言された「力ある方の右の座に着」く「人の子であると宣言したからです(マタイ26:64)

 

その上でイエスは、「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(28)と言われました。それはすべての人が、やがて墓の中に葬られるからです。

そして、すべての人はやがて「子の声を聞いて」、復活にあずかるのですが、それが恵みではなく、永遠の苦しみの始まりでもあり得るという意味で、「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです(29)と記されています。これはダニエル1223節に記されているその書の結論でもあります。

 

なお、イエスは先に、38年間、臥せっていた人を見つけて癒し、その後も宮で彼を見つけて、「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(14)と、その生き方を変えるようにと警告されました。彼が受けたこのすばらしい癒しは、健康な体で永遠に苦しみ続けることの始まりにもなり得るからです。

ところが彼は、神の御名をたたえる代わりに、イエスが迫害される道を開いてしまいました。残念ながら、彼はイエスに身体を癒されながら、心が癒される機会を自分で閉じたのです。

もし彼がイエスに向かって、「私の罪とは何ですか」とか「安息日律法違反で非難され、怖くてたまりません」などと、正直にイエスに訴えるなら、まったく違った人生が待っていたのかもしれません。なぜなら、それこそがイエスに信頼して「いのち」を受ける始まりだからです。

 

イスラエルの民にとっての38年間とは、本来、荒野で信仰の訓練を受け、ゼレデの谷を通過した後(民数記21:12)、エモリ人の王シホン、バシャンの王オグなどに連戦連勝するように変えられるという勝利の生活への転換点でした。逃亡奴隷の集団が、連戦連勝の主の民へと変えられたのです。

同じように、本来、イエスのことばを聞いて御父に信頼して「永遠のいのち」に入れられるとは、「死んでも天国に行ける」ということ以前に、この世の様々な困難に立ち向かいながら、最終的な勝利を体験することができる人生の始まりなのです。

しかし残念ながら、この38年間臥せっていた男は、この時は主の力を受けながら、この世の戦いを避けてしまいました。それは私たちの問題にもなり得るかもしれませんが、恐れる必要はありません。旧約の歴史を見ると、イスラエルの民は何度も主の恵みを忘れて、さばきを受けてしまいますが、最終的に、主は彼らのために救い主を送って、彼らを心の底から造り替えようとしてくださいました。

これはあくまでも希望的観測ですが、この男はイエスが十字架にかけられた場面を見ながら、自分の罪がイエスを十字架に追いやったことを自覚し、真に悔い改めることができたのではないでしょうか。

   

2.「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになった・・・わざそのものが・・証言している」

  なお、イエスは引き続きご自分と父との関係を述べ、「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころ(望むこと)を求めるからです(30)と言われました。

イエスはご自分のこころを父なる神に明け渡しておられました。イエスはご自分の望みではなく、父のみこころ(望み)を第一にしておられました。

   

そしてイエスは、「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです(3132)と、突然話題を変えるようなことを言われました。

そして、「その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました(3233)と言われますが、これはバプテスマのヨハネがイエスご自身のことを証ししていることを指しています。

それは、申命記1915節では、「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって・・立証されなければならない」と記されているからです。

 

   そして、引き続き、ヨハネについて、「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです(34,35)と言っています。

この福音書では最初からヨハネの働きについて、「この人はあかしのために来た・・・彼は光ではなかった。ただ、光についてあかしするために来たのである」(1:6,7)と記されていますが、ヨハネは「光」ではなく、消えてゆく「ともしび」でした。

彼はエルサレム神殿の祭司の息子であり、その質素で権力を恐れない力強いメッセージによって多くの人々をまことの神に立ち返らせていました。そのヨハネが、「ともしび」のように自分のいのちを削りながら、イエスを「神の子」として紹介していました(1:34)

 

ただイエスは同時に、「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです」(36節)と語りました。

それはたとえば、イエスがこの38年間の病であった人をたった一言で癒したことに現されています。ニコデモも、イエスに向かって、「神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません(3:2)と語っていました。

イエスはここで何よりも、ご自身が行なう特別な「わざ」は、すべて父なる神から与えられ、神から遣わされたという証言であると言われました。

 

続けてイエスは、「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません」(37)と言われました。これはイエスがバプテスマを受けたとき、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)と言われたような事実を指すと思われます。

イエスは地上で私たちと同じような肉体の限界を持っておられましたが、神の御声を聞き、御姿を拝することができました。イエスの肉体も精神も私たちと同じように傷つきやすいものでしたが、全能の父なる神との交わりの中で支えられていました。

たとえば、イエスが生まれたばかりの乳飲み子であるときは、ことばも話せず、歩くこともできず、ただ泣いて自分の空腹を知らせることしかできなかったことでしょう。しかし、父なる神がマリヤとヨセフを用いてイエスを支え育てました。信仰は決してスーパーマンのようになる道ではないのです。

マザー・テレサは「神はいっぱいのものを満たすことはできません。神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。本当の貧しさを、神は満たすことができるのです・・・与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです・・自我から目を離し、あなたが何も持っていないこと・・・何もできないことを喜びなさい」と言っています。

 

3.もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです

またイエスは当時の人々の聖書の読み方を非難して、主がこれまで語ってくださった「そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません(38)と言われました。

それは聖書を何かの規範、ルールブックかのように読んで、そこに記された神の救いのご計画の全体像に思いを馳せることがなかったからではないでしょうか。

 

そしてイエスは続けて、「父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです(39)と言われました。これは聖書全体に描かれたイスラエルの物語を指しています。

彼らは、理想的な神の国をカナンの地に実現するために神の御教えを与えられました。しかし、彼らはそれを守る代わりに人間的な知恵によって国を運営し、ついには神が最も嫌われる偶像礼拝に走り、自業自得で国を滅ぼしました。ただ神は様々な預言者を遣わし、神が「救い主」を遣わしてこの地に神の国を実現してくださると繰り返し語っていたことを指します。

 

ところが、彼らはイエスのもとに来ようとはしませんでした。40節は、「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようと決して望みはしていません」と、彼らに救いを求める意志自体がないということを責めたものです。

ただ同時に、ご自身の側には彼らの賛同を得る必要が全くないことを、「わたしは人からの栄誉は受けません」(41)と言われました。続けてイエスは、「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません(42)と言われました。「神の愛」が「神への愛」なのか、「神に由来する愛」なのかは大差はありません。私たちは神からの愛を受けることなくして神への愛を持つことができないからです。

 

   またイエスが、「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです(43)と言われたのは、彼らが人間的な基準で、世的な血筋や影響力によって人を判断しているからです。

イエスの時代の前後には、救い主を自称する人々が現れ、人々もローマ帝国からの独立運動を指導してくれるような軍事指導者を望んでいました。

 

それを前提に主は、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか(44)と言われました。人は一人で生きることができません。何かをするには仲間が必要です。だからこそ高い理想を掲げる人は、人々の栄誉を受ける必要があります。

しかし、多くの場合、栄誉を求める心自体が独り歩きしてしまいます。本当に大切なのは、いつでもどこでも、神の眼差しを意識して生きることなのです。

 

そしてイエスは続けて、「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです(45)と言われました。これはモーセが、申命記1815節で、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような(ひとりの)預言者をあなたのために起こされる。彼に従わなければならない」と言われたことを指しています。

ここで「預言者」ということばは単数形ではありますが、唯一の救い主を指すというよりも、その時代時代に、必要な一人の預言者を神が起こしてくださるというようにも解釈できます。

とにかくモーセは、自分のような預言者の現れを告げ知らせており、その方に従うようにと命じていたのに、人々は多くの預言者たちを退けたように、イエスを拒絶しようとしています。

 

そして、最後に、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう」(4647)と言われました。これは、申命記に記されているモーセのような預言者というよりも、モーセが記した神の救いのご計画全体を指していると理解すべきかと思われます。

イエスの時代の人々は、ローマ帝国との戦いに勝利できるような救い主を求めていましたが、モーセの書に記されている救いの物語は決して、そのように誰の目にもすぐに明らかになる救いではありませんでした。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、モーセすべてに共通することは、神は彼らをまず徹底的に砕き、彼らが自分の力では何もできないということを思い知らせて、その上で、神のみわざを示すという物語です。

そして、それはイスラエルのバビロン捕囚という民族の悲劇にも共通します。申命記32章のモーセの歌にも、バビロン捕囚のさばきが預言されるとともに、そこからの回復の事が記されています。そして、ルカ15章の有名な放蕩息子のたとえはそこから必然的に生まれる物語です。

   

   聖書には繰り返し、苦しみを通して栄光に入れられるという物語が記されています。しかし、暖かなクリスチャンホームで育てられ、大きな挫折体験もなく、順調に育っている人もいます。それも素晴らしいことです。あえて挫折など選ぶ必要はありませんから・・・。

それでも、そのような人も、神に従う歩みのどこかで必ず、自分の弱さに圧倒され、すべてが恵みであり、自分は神の恵みによって生かされてきたということを心の底で味わうときがあります。

 

   当時のユダヤ人たちは、安息日律法を守ることに熱心でした。それは、自分たちが律法を守らなかったことによって国を失ったという反省がありました。しかし、それがやがて、「みんなが律法を守るなら国は栄えるはずなのに、律法違反者がいるから他国に虐げられている」などと非難し合うようになり、せっかくの神の御教えが互いをさばく基準になってしまいました。

私たちも知らないうちに、神が既にもたらしてくださった救いを味わう前に、もっと熱心に信心すれば、すべてが変わるはずという、ここに既にある救いを無視して、夢ばかりを追いかけてはいないでしょうか

ローマ帝国がイエスの前にひざまずくようになったのは、キリストに従う者たちが、肉体の命も健康も、財産も失うことを恐れなくなり、剣の脅しが何の効果も持たなくなったからです。

「なぜ彼らはそのように失うことを恐れなくなったのか」、それは自分たちが既に、「死からいのちに移って」おり、日々の生活の中に神がもたらしてくださった救いを発見し、また、聖書を読む中で、神の民の物語が、常に、苦難を通しての勝利であることを確信したからです。この世の人々が期待する救いではなく、イエスが実現してくださった「救い」を今ここで味わっていたからです。

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2014年12月21日 (日)

マタイ1:17-25 「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」

20141221日 

  「親の因果が子に報い・・」というのは、とっても嫌な表現ですが、私たちの生きにくさの一面を言い当てているのかもしれません。たとえば、親から虐待を受けて育った子供は、親になった時、「私は親のようには絶対にならない・・」と願っているのに、同じ過ちを繰り返してしまう・・・ということがあります。

依存症も、隔世遺伝すると言われることがあります。しばしばすべての依存症には、「問題と、それに伴う苦しみを何としても避けて安易に道を見つけようとし、当然の正しい生き方から離れ、入念に幻想の世界を作り上げて、現実を排除してしまう」という構造が見られます。

それに対して、聖書が語る「罪からの救い」とは、そのようなのろい」の現実に真正面から向き合い、連鎖から解放されることです。人はだれも、親を初めとして、自分の人生の基本的な部分を選ぶことはできませんが、神はそれらすべてを「祝福の基」とすることができる方です。

 

1.「のろい」を「祝福」に変える救い主

聖書では、私たちの仕事で思い通りの結果を出せず、しばしば徒労に終わり、仕事に生きがいよりも苦しみを感じるようになったのは、アダムが神に背いた結果であると記されています。

また、女性の出産の苦しみが厳しくなり、また夫を恋い慕いながら支配されてしまうのは、エバが神に背いたせいであると記されています。

残念ながら、人は、多かれ少なかれ、アダムとエバが犯した罪の影響を受け継いでいると言えましょう。

 

マタイの福音書の最初には、長い系図が記されますが、イスラエルの民の歴史が苦難に満ちたものとなったのは、自分で「のろい」を選び取ってしまったからです。

神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取ってしまいました。

 

しかし、この系図には、不思議な逆転が示唆されています。ここには、明確な血筋の関係を表す四人の女性の名が登場しますが、それはみな忌まわしい過去を持っています。

ダビデはヤコブの第四男のユダの子孫ですが、その系図で「タマル(3)は遊女の姿をして義父のユダを欺き、子を設けました。しかし、神は彼女の信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。

「ラハブ(5)は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを、命がけで逃したエリコの遊女です。神は彼女の信仰を喜ばれイスラエル人に嫁がせました。

ルツ(5)はモアブの女でしたが、その民は十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れられないはずでした。しかし、神は、彼女の信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。そして、その孫としてダビデの父エッサイが生まれます。

そして、ダビデの跡継ぎとなったのはソロモンですが、その母はここでは敢えて「ウリヤの妻」(6)と記されます。ウリヤはユダヤ人ではありませんでしたが、ダビデの忠実な家来になりました。この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にしています。しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。

 

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

 

2.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」

  マタイの福音書では、「預言が成就するため」ということばが繰り返されますが、様々な預言書に記されていることの中心は、簡単言うと、目の前にはとてつもない悲惨が見えるけれども、それは神の約束が反故にされたということを意味はしない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。

 

   118節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、ここにはベツレヘムへの旅も、飼い葉おけも、羊飼いも、天の軍勢の賛美もありません。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

しかも、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」と、マリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。

そして、あり得ないようなこと、「ふたりがまだいっしょにならないうちに・・・身重になったことがわかった」と記されます。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。

 

そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれますが(19)、それは神の御教えに忠実な人という意味ですから、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚はあきらめざるを得ないと考えるのが当然でした。そして、当時の正当な手続きとしては、彼女の浮気を祭司に訴え出るという手続きがとられるはずでした。なぜなら、当時の婚約は現在の結婚と同じ拘束力を持っていたからです。

律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。

ただし、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決め(切望し)た」というのです。この趣旨は、杓子定規にマリヤの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだという意味だと思われます。

 

ところが、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます(20)。御使いの最初のことばは、「ダビデの子のヨセフ」というものです。

当時、普通の人に名字はありませんでしたから、「ヤコブの子のヨセフ」などと、父親の名前をつけて似たような名前を区別しましたが、一介の大工に過ぎないヨセフを「ダビデの子」と呼ぶのは途方もないことです。天使が現れ、ヨセフを「ダビデの子」と呼んだということ自体が、ヨセフにとっては驚きであり、恐れ多いことでした。

 

その上で御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(20)と言います。つまり、マリヤの胎に子が宿ったのは、神が人智の超えた救いのみわざを実行に移されたからなのです。

そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。

なお「イエス」という名は、当時の結構ありふれた名前でした。それは、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。

 

つまり、この場面を通して、マリヤから生まれた子が、見たところごく普通の子として生まれながら、なお、普通の人間にはできない途方もない働き、神の民を導いて、神の地を平和のうちに治めるという働きを担ってくださるというのです。

 

その際、ここで御使いはヨセフに、イエスに与えられた使命をもっと具体的に、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。

しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。

 

つまり、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。そしてまた、「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。

 

3.「その名はインマヌエルと呼ばれる」

  そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22)と記されます。つまり、「救い」とは、イスラエルの民に与えられた預言の成就という観点から見る必要があるのです。

そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ714節のみことばでした。これは、エルサレムの王アハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。

それは、神の救いは、人間の期待や想像をはるかに超えているということを現すことばです。

 

 イザヤ7章の記事は、紀元前735年頃のことで、北方からアッシリヤ帝国が北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)に迫ってくる時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。

この危機にイスラエルの王レマルヤの子ペカとアラムの王レツィンは南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズは拒絶しました。それでペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました(7:1)。そのような中で、アハズはより恐ろしい敵であるアッシリヤと同盟を結ぼうとしました。

それに対し、主はイザヤを通して、右往左往せずに、ただ主の救いを待つようにと勧められ、信じることができないアハズにしるしを求めるように言われました。

 

ところが、アハズは、「私は求めません。主(ヤハウェ)を試みません(7:12)と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です。しかし、「主を試みる」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。

それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから・・」と語っていたのではないでしょうか。彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。

これは、私たちの場合も同様です。「信じます!」とは、「私は自分の生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。多くの人の真の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

 

 「それゆえ…」(7:14)とは、信仰への招きを拒絶したということを前提としてという意味で、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、意外にもそれは、もはや信仰を生み出すしるしではありません

見よ。処女がみごもっている…」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに・・」という人が後を断ちませんが、すでに永遠の神の御子である方が人間の身体を取るためには処女を通して生まれる必要があるというのは論理的な必然でもあります。

しかも、そこには、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられたことによって、神が悩む者の仲間となってくださったという意味が込められています。

 

たとえば人間関係で悩みながらも、イエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々の嘲りに耐えたマリヤやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。生まれた子は、「インマヌエル」と名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。

実際、これから七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

 

4.神の不在の中で感じられる神の臨在

なお、イザヤ715-17節には、意外にも、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が遅れることが三つの観点から示唆されます。

その第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです(7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の、貧しさの中に生まれるというのです。

そして、第二に、「まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らない」という、赤ちゃんになりもしないうちに、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ(7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。

そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす(7:17)ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらすというのです。

 

   神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます

つまり、インマヌエル」という名の意味は、困窮と不安と敗北の中で理解できるものです。実際、イザヤ88節では、アッシリヤの攻撃がユダ王国を呑み込みそうになるところで初めて「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」と記され、また、810節では、ユダ王国を攻める国々の「はかりごと・・は破られる」ことの理由が、「神が、私たちとともにおられるからだ」と記されます。

 

つまり、目に見える現実が、期待通りにはならなくても失望する必要がないということこそが、インマヌエル預言の核心なのです。そのことが817節では、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」と告白されます。

そして、イザヤ書ではその後、「あなたの神が王となる(52:7)と、神の救いが目に見える現実として表されると宣言されながら、その道が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(53:4)という苦難のしもべの姿が描かれます。つまり、神が与えてくださった「インマヌエル」というしるしは、この世的な成功の観念とはかけ離れているのです。

幸い、これはイエスの父となるヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。なぜなら、ヨセフはこの世の成功者とは程遠い生き方をしていたからです。彼は、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけに信頼することができました。

かつてのエルサレムの王であったダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れることができました。それは自分の弱さを知っていたからです。

 

そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されています。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた当時のアハズ王とは対照的でした。それは、彼が心から主のご計画の実現を期待していたからではないでしょうか。

 

バビロン捕囚直前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、同じダビデの子孫であるヨセフは、葛藤を味わいながらも、神の計画を実現する器になることができました。これこそ、私たちに求められている信仰の応答です。

ここで「インマヌエル」と呼ばれている方は、その後、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスは十字架で七つのことばを発せられましたが、マタイは人を困惑させるこの不思議なことばしか記録していません。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。

しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。

 

 かつてイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領することができましたが、そこにはいつも全能の主がともにいてくださいました。

私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、かつてのような武力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

 

マタイ福音書の系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証です。のろいを祝福に変えてくださったということの証です。旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証です。私たちは、これを味わうとき、神はこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。

インマヌエル「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、様々な苦しみの中でこそ味わうことができるもの、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。

 

  マザー・テレサは明確な神の招きの声を聞いて、最も貧しい人々に仕える働きを一人で始めました。しかし、働きが軌道に乗ると、イエスの語りかけが聞けなくなりました。マザーは、「神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか・・私が求めても、あなたは答えてくださらない・・・私の信仰はどこに行ったのでしょう・・・ここにあるのは暗闇と空虚さだけ」と嘆くようになりました。

しかし、やがて、彼女の中に神への渇きを起こしているのが、神ご自身であるということに、孤独を通して、神に見捨てられたと嘆かれたイエスのみ跡に従わせていただいているという霊的な事実に気づきます。

そればかりか彼女はその暗やみの中で最も貧しい人々の気持ちと一つになることができました。ついに彼女は、「悲しみ、苦しみ、寂しさは、イエス様からの口づけに他ならない。それは、主の口づけを受けられるほど、十字架に近づいたのだから」と言うようになりました。

 

しばしば、多くの人々は、「わざわいの中で、神はどこにいるのか・・・」という問いかけをしながら、神を見失ってしまうことがあります。しかし、神は、わざわいのただ中に、ともにいてくださるのです。

そして、神の助けが必要ないと思われる人々の中で必死に神にすがって生きる人を通して、神はご自身の力を現してくださいます。何よりも、神は、私たちのこころの中に生きて働き、悲惨の中に希望を生み出し、また悲惨の中に愛の交わりを作り出してくださいます。

 

罪からの救い」とは、どんな悲惨の中にも希望を生み出す力、どんな悲劇の中にも愛の交わりを生み出す力です。「罪からの救い」とは、私たちの罪が赦されて天国に行けるということ以前に、この世の悲惨の中に私たちを送り出す力になります。

復活のイエスは弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(ヨハネ20:21)と言われました。クリスマスは、世界の創造主が、私たちと同じ弱い肉体を持つ人となって、この世の痛みや悲しみを背負ってくださったことを思いおこすときです。

神はイエスを私たちのもとに遣わし、そして今、イエスは私たちを暗やみの世界に遣わしてくださいます。私たちはそれによって、罪が支配する世の中で、「祝福の基」となることができるのです。

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2014年12月14日 (日)

マタイ1:1-17 「新約の創世記-イエス・キリストの系図

20141214日 

「約束」という漢字には、目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があります。そして、これはヘブル語の「契約」ということばでも同じです。

当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。人は基本的に束縛されることを嫌いますが、たとえば、結婚はいろんな意味で束縛しあうことです。そして、子供が生まれれば子供に束縛されます。しかも、その束縛から逃げようとすると、家庭が壊れ、子供も傷つきます。

しかし、どんなに困難な中でも、互いの約束を守り通そうとするときそこに祝福が生まれます。つまり、契約に伴う「祝福」と「のろい」は身近な関係でも確認できることでもあるのです。

 

神はイスラエルの民と契約を結びましたが、彼らは神を裏切りました。その結果、彼らに「のろい」が実現しました。しかし、神はその豊かな哀れみのゆえに、彼らをその「のろい」の束縛から救い出すためにご自身の御子を遣わしてくださいました。

イエスを救い主と信じる者は、その受けるべきのろいをイエスに引き受けていただき、イエスが受けるべき祝福を受け取らせていただけます。そして、イエスは私たちとの新しい契約をご自身の十字架の犠牲によって保障してくださいました。 

  

教会ではクリスマスのたびにイザヤ11章が朗読されますが、そこには救い主が、私たちを狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和((シャローム)が満ちた世界を創造してくださると約束されています。神の御子は、その約束を成就するために人となってくださったのです。

そして、その神のシャロームの完成の約束は、必ず実現します。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。

    

1.新しい創世記としてのキリストの系図

   この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。

「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。

なお英語(ESV)でも、The book of the genealogy of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham. ということばから始まるように、確かに、最初に記されているのは系図なのですが、それは血筋ではなく、契約の歴史を語るのが主題です。だからこそ、「系図、イエス・キリストの」ということばの後に、「ダビデの息子の」ということばが記され、その後に「アブラハムの息子の」という順番で続きます。

 

キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」(ヘブル語はメシヤ)、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。ただ、ダビデのスキャンダルを知る人にとっては、「救い主のことをダビデの子と呼ぶなど、失礼では・・・」と思う方もいるかもしれません。しかし、それは血筋を尊重した見方であって、「契約」という概念を忘れているためです。

そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。

 

私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、それならイエスを産んだマリヤの系図を書くべきなのに、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されます。ヨセフは契約によってイエスの父とされた者です。これは現代的に言えば養子縁組で親子関係が作られることに似ています。

そして、聖書の親子関係では、血筋よりも法律上の親子関係の方が重視されています。実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使うようになっています。

 

しかも、個別に見ると明らかですが、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。また、アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的だったということが最近の研究で明らかになっていますが、それは歴史的というよりはダビデという名前を構成する三つのヘブル語のアルファベット子音(デレク、ワウ、デレク)に由来するもので、それぞれのアルファベット上の順番は、4、6、4になります。これを合わせると14という数字になります。

この系図が血筋ではなく契約を受け継いだ系図なので、系図にギャップがあるのは何の問題でもありません。だからこそ、イエスは契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。

 

 2節から始まる具体的な名ですが、アブラハムは信仰の父と呼ばれます。私たち自身も信仰によってアブラハムの子とされているのですが、その信仰とは、90歳になった不妊の女サラからイサクが誕生することに関して、「神には約束されたことを成就する力がある」と信じたことにあります(ローマ4:19)

また、神はアブラアムにひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよとの途方もない命令を与えましたが、彼はそれに従うことによって、自分を神、善悪の基準とするアダムの罪に勝利しました。そして、神は、このアブラハムの信仰の応答に対して、「あなたの後の子孫の神となる(創世記17:7)という祝福を約束し、契約のしるしとしての割礼を与えました。

アブラハムには子孫が約束の地を占領するという約束と、その子孫が天の星のように増えるという約束が与えられましたが、聖書の物語の核心とは、アブラハムに対する主の契約が成就するというものです。

ただし、アブラハムは家長としては大きな欠点を持っていました。それがイサクに受け継がれます。彼は自分の食べ物の好みを優先してエサウを祝福しようとしますが、リベカの機転によって祝福はヤコブに受け継がれます。ヤコブはラケルの息子を偏愛し、子供たちの間に争いを作りますが、神は兄たちに奴隷に売られたヨセフを用いてヤコブ一族をエジプトで増えさせる計画を進めてくださいました。このプロセスで「ユダ」が家族をまとめるために大きな貢献をします。

 

ダビデはヤコブの第四男の「ユダ」の子孫です。ユダの子を産んだ「タマル(3)は、本来、息子エリの妻として迎えられましたが、彼は神のさばきを受けて死にます。タマルはその弟のオナンを通して子を設けようとしますが、彼はオナニーの語源となる行為によって神に裁かれて死にます。ユダはタマルを迎えた息子たちが次々に死んだのを恐れて、彼女を別の息子に嫁がせるのを恐れ、やもめのまま残そうとします。

それに対し、「タマル」は遊女の姿をして義父を欺き、子を設けました。しかし、父と息子の嫁が関係を持つことは本来、死罪にあたる罪とも思われました(レビ20:12)。ただ厳密にはこのときユダは妻を失い、タマルもやもめの状態であったので、神はこれを許されたのでしょうか。

とにかく、神はタマルの信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。ユダヤ人はタマルという名を見たら、すぐにこれらの物語を思い起こします。

 

なお、ここで、「タマルによってパレスとザラが生まれ」とありますが、そのあとの、エスロン、アラム、アミナダブ、ナアソン、サルモンという系図は、ギリシャ語の発音による違いを除けば、Ⅰ歴代誌25-11と基本的に同じです。

エスロンはヤコブと共にエジプトに下りました(創世記46:12)。そして、民数記ではモーセと共にエジプトを出たユダの族長が「アミナダブの子ナフション」と描かれています。つまり、エジプトでの四百年の間にはアラムとアミナダブしか描かれていません。

 

また「サルモンにラハブによってボアズが生まれ(5)と記されていますが、これは旧約のどこにも記録のない隠された話だったようで、神がマタイに特別に示してくださった事実だと思われます。

「ラハブ」は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。神は滅ぼすべきエリコの住民、しかも遊女のラハブの信仰を喜ばれサルモンに嫁がせたのだと思われます。なお、サルモンとボアズの間にも士師記のかなりの年月が隠されていると思われます。

 

そして、「ボアズにルツによってオベデが生まれ」(5)の経緯はルツ記に描かれています。「ルツ」はモアブの女でした。申命記233節ではモアブ人の子はその十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れてはならないと警告されていた「のわれた民」の娘でした。しかし、神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。

そして、その関係からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。つまり、ダビデの曾祖母はモアブ人であったというのです。

なお、「ルツ」が「ボアズ」に嫁いだとき、町の人々は、「(ヤハウェ)がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように(ルツ4:12)と祝福を祈りましたが、まさにそれが成就したのです。

遊女の姿になってユダと関係を持ち子を産んだタマル、ヨシュアに味方したエリコの遊女のラハブ、のろわれた民モアブの娘のルツがダビデの系図に名を連ねるというのは何とも驚きですが、それで終わりません。

 

また、「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれた」というのは、ダビデと「ウリヤの妻」バテシェバとの不倫関係を敢えて強調しているかのようです。しかも、ウリヤはユダヤ人ではないのにダビデの忠実な家来になった人です。この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にします。

しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。

 

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろいでしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。

キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

 

2.神がダビデと結んだ契約

   ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」までの歴史に関しては、列王記や歴代誌に詳しく記されています。その間、20人の正式な王が立っていましたが、そのうちの14名だけがこの系図に記され6人の王の名は省かれています。省かれた理由はわかりませんが、ここに名を連ねている王も問題に満ちています。

ソロモンの子の「レハブアム」は傲慢さのために国を分裂させました。「アビヤ」はたった3年間の支配の後に死に、「アサ」は41年間王位に留まりダビデのように主の目にかなうことを行ない(Ⅰ列王15:11)、「ヨサパテ」も主の目にかなう歩みをしますが、北王国の悪王アハブの家と同盟を結び、その息子の「ヨラム」はアハブの娘アタルヤを妻に迎えてしまいます。これによって北王国の偶像礼拝が南王国に本格的に入ってしまいました。

なお、ヨラムからウジヤの間には三人の王の名が隠されていますが、彼らはみな北の王や家来たちに殺害されています。

「ウジヤ」はユダ王国の最盛期を導いた主の目にかなう王でしたが、晩年に傲慢になって神のさばきを受けます。その子のヨタムも主の目にかなう王でしたが、その子のアハズは何と、エルサレム神殿に異教の神への祭壇を建て、神の怒りを引き起こしました。

なお、その子の「ヒゼキヤ」と、ヒゼキヤのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、このふたりの間に在位した「マナセ」「アモン」最悪の王です。

伝承によれば、預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺されました。その子のアモンは何と宮殿の中で家来に殺されるほどに無能な王でした。このふたりの名を省くと、この系図は、少しは美しく見えるのですが、マタイは敢えてこのふたりの救いがたい王の名も記しています。

それは、神の救いのご計画は、そのような無能で愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。ヨシヤからエコニヤの間に二人の王の名が省かれています。

 

「バビロン移住のころ」(11)の王として記される「エコニヤ」は、実際は最後から二番目の王ですが、バビロン帝国にすぐに降伏したため、捕囚の地バビロンで優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで不思議にも「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。

ヨセフ物語では、エジプトの支配者となったヨセフが、自分を奴隷に売った兄たちの悔い改めを知って自分の身を明かしたとき、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなた方より先に、私を遣わしてくださったのです(創世記45:5,6)と言いました。

奴隷に売られたことを、神が遣わしてくださった、と言い換えたのです。そしてここでも、バビロンに奴隷として強制移住させられたことを、神のみわざとして描かれています。

 

サムエル記第二7章には、かつてダビデが、主の神殿を建てようと思い立ったとき、主ご自身がダビデに、彼から生まれる子が神殿を建て、たとい、その子が罪を犯しても、彼を懲らしめはしても、サウルのようにはしないという意味で、「わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つと約束してくださいました(15、16節)。

 

一方、神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。

その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記287節以降に詳しく警告されていたことでした。しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません

 

そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとしているエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。

天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。

簡単に言うと、目の前には途方もない悲惨が迫っているが、それは神の約束が反故にされたということを意味しない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。

その神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きを見ればわかるだろうと、二千六百年前から言われていることだというのです。

 

3.「バビロン移住からキリストまでが十四代になる」

なお、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ」とありますが、このエコニヤは二回数えないと17節の「十四代」が成り立ちません。これに関してエレミヤは興味深い記述を残します。

その2230節には「この人を『子を残さず、一生さえない男』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ」と記されます。ところが、そのすぐ後の、235節には、「その日、わたしは、ダビデにひとつの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう」と記され、最後にはエコニヤが捕らえ移されて37年目に獄屋から出され、バビロンの王の前で食事をするようになったと描かれ、Ⅰ歴代誌31718節では彼に七人もの子供が生まれたと記されます。

まるでふたりのエコニヤがいるかのようです。つまり、バビロン捕囚は、主のさばきとして実現したのですが、そこで同時に、ダビデに対する契約のゆえに人の目には理解しがたい神のご計画が進んでいるということになるのです。

 

なお、続けて、「サラテルにゾロバベルが生まれた」と記されますが、血筋から言えば、12節の「ゾロバベル」は、エコニヤの子の「サラテルの子」ではなく、サラテルの甥です。それはこの系図が、血筋によるものではなく、ダビデ契約を受け継いだという神の目からの系図だからです。

なお、エズラ記ではこの人の名はゼルバベルとして描かれ祭司ヨシュアと共に、廃墟となっていたエルサレム神殿を再建しています。それが可能になったのは、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャの王クロスが、エジプトを支配するためカナンの地に特別な恩恵を施そうとユダヤ人の帰還を助け、神殿建設を援助したからでした。

預言者ハガイは再建されようとしている神殿の小ささに失望しているイスラエルの民に向かって、「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ…この宮のこれから後の栄光は先のものよりまさろう(2:7,9)と言われました。

神の救いは、人間の目には、絶望的な状況の中で、人の目には分からない形で進められるというのです。

 

なお、また歴代誌では、ゼルバベルの子の中に「アビウデ」という名はありません(第一3:17-19)。そしてアビウデからヨセフに至る名は、この福音書以外のどこにも出てきません。その期間は五百数十年があったと思われますから、これ以外の名も存在したことでしょう。

その上で、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。イエスの父となったヨセフの父が「ヤコブと記されているのも興味深いことです。

イスラエルという名を与えられた最初のヤコブは、兄のエサウから逃れ、母の実家で騙されながら12人の子を生み、豊かになって約束の地に帰って来ました。その子のヨセフは奴隷として売られることで、エジプトで総理大臣になりました、ダビデは初代の王サウルから命を狙われる中で家来たちのとの絆を強め、王権の基礎を作りました。

すべて、人間の目には、「神がともにおられるなら、どうしてこのような不条理が許されるのか・・・」という悲惨を体験しながら、それを通して、神の栄光が現されて行きました。

そして、この系図の最後に、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあるようにイエスがダビデの正当な子孫であることの保障は、マリヤではなくヨセフにあることが明らかに記されています。

 

17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期は「アブラハムからダビデ」で苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。

それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。

 

   18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、これも1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

しかも、ここにはマリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰が神に喜ばれたものであったことは確かなのでしょうが、神のみわざをただ忠実に啓示しようとするマタイにとっては重要なことではありませんでした。

 

   イエスが誕生した頃のユダヤでは、宗教指導者たちが自分たちの信仰を人間的な基準で競い、評価しあっていました。神の約束を見る前に、人間の信仰が神を動かすかのような発想の人々が多くいました。

それは現在にも通じます。「あの人は信仰深いから・・・」とか、「私の信仰は、まだ未熟だから・・・」などということばが現在も飛び交っていますが、そのようなことは注意すべきではないかと思います。

とにかく、ここでは、マリヤが救い主の母となることができたのは、彼女の信仰以前に、彼女が、「ダビデの子」の「ヨセフ」の婚約者であったということが何よりも大切なことであったと描かれているのです。

 

   私たちのまわりには、約束を平気で破るような人々が多くいるように見えるかもしれません。しかし、キリスト者として生きるとは、何よりも、神の約束に信頼し、人に裏切られても、自分は約束を裏切らない者として生きることです。そこに人生の美しさ、人生の喜びが生まれます。

この世の人々は、愛に飢えています。富や権力に動かされながらも、約束を守り通してくれる誠実な友を求めています。しかし、恐怖のために、自分の身を守ることばかりを優先し、互いに傷つけ合うことがあります。それは、神の真実を知らないからです。

多くの人々がとまどうこの系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証しです。のろいを祝福に変えてくださったということの証し、旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証しです。

私たちは、これを味わうとき、神がこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。

 

   それにしても、アブラハムから始まるキリストの系図を見てわかるのは、それは決して、偉大な信仰者たちの歴史というよりも神の再創造のみわざです。

そこに描かれただれひとりとして、挫折のない歩みはありません。基本的なパターンはすべて、苦しみに会うことで、神に祈ることを教えられ、神が人間的な想像を超える形で、ご自身の不思議な救いを実現して怒れたという歩みです。

私たちは今、目の前の問題をなるべく短期間にスムーズに解決するようなことが求められる文化の中に生きています。しかし、そのような人間的な能力や力を礼賛する文化の中で、競争に負け、居場所を失い、見捨てられたような歩みをする人々が増えています。そして、みんな、この生存競争から落ちこぼれないようにと必死に生きています。

しかし、神がアブラハムからキリストに至る系図で明らかにしているのは、神の救いは、奇想天外な神の一方的なあわれみによって実現するものであるということでした。主は預言者イザヤを通して次のようなみことばの成就を語っておられます。

 

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる・・・天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種まく者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしのくちからでるわたしのことばもむなしくわたしのところに帰っては来ない。必ずわたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる・・・

いばらの代わりにモミの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える(イザヤ55:8-13)

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2014年12月 7日 (日)

創世記42章~50章「神はそれを良いことのための計らいとなさいました」 

創世記42章~50章「神はそれを良いことのための計らいとなさいました」 

                                                2014127

「あのことのせいで・・」という「恨み」「後悔」「怒り」などに囚われている時、ふと、より大きな神の物語の中に「自分の居場所」を見出せるなら、「赦し」と「和解」がずっと楽になるのではないでしょうか?人の悪を良いことのための計らいとされる神のみわざを覚えてみましょう。

創世記37章以降を、「ヨセフ物語」と呼ぶことによって、見失われがちのこともあるような気がします。今回の箇所には、特にイスラエル民族としての一致の基礎を見ることができるように思えます。不思議にも、奴隷に売られ、無実の罪で牢に入れられたヨセフの心理描写はほとんどなされず、兄弟とのやり取りに多くの紙面が割かれていますが、そこにこそ、驚くべきメッセージが隠されているように思えます。

 

1. ヨセフを奴隷に売ったユダの悔い改め

   兄たちはヨセフを「あの夢見る者(37:19)と呼んで憎み、奴隷として売り飛ばしました。しかし、神は、彼をエジプトの王の夢を解き明かさせることを通して、エジプトの宰相にしました。そして、飢饉のために食物を求めてやってきた兄たちは、ヨセフの前にひざまずきました。それは、兄たちの束が自分の束におじぎをするという、かつての夢の通りでした(37:6)

429節は、「ヨセフは・・夢を思い出した」で一度文章を切って、「それで彼らに言った。『お前たちは間者(スパイ)だ・・』」と訳すべきでしょう。つまり、ヨセフは兄たちに対する復讐心で彼らに難癖をつけたわけではないと思われます。

人が恨みに囚われるのは多くの場合、「あのときのせいで、今、私はこんな不幸になっている」と思うからで、今、ここで心に余裕がある人は、冷静な対応ができます。ですから、ヨセフはその時、かつての「ほかの夢(37:9)、父と母と11人の兄弟たちが彼を伏し拝むという意味の「」をも思い起こし、全家族を自分の所に来させようと瞬時に思い巡らし、スパイ呼ばわりすることで、彼らに家族のことを話させようとしたのではないでしょうか。

 

兄たちは目の前にいる「この国の権力者(42:6)がヨセフであるとは露も知らずに、嫌疑を晴らすために、「私たちは正直者でございます(42:11)と言いつつ、自分たちの家族構成を説明し、「末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました(42:13)と言います。

それに対し、ヨセフは、末の弟を一人の人が連れて来るまで彼らを監禁すると言いつつ、三日間、彼らを閉じ込めます。

そして、三日目に彼らに対して、「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから」と、新たな提案をします。ヨセフはここで、彼らと同じ神を恐れていると明言しているわけではありませんが、このことばによって彼らの目を神のご支配に向けさせようとしたのではないでしょうか。

 

それを聞きながら、兄たちはヨセフに自分たちのことばが通じるとは思わずに、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった(42:21)と互いに言い合います。

ヨセフはそれに心を動かされ、「彼らから離れて、泣いた(42:24)と描かれます。

彼は恨みで行動しているわけではなかったでしょうが、敢えて、末の弟が来るまでシメオンを人質にしようと縛ります。次男である彼に代表責任を負わせたのは、長男ルベンの無実が分かったからだと思われます。

 

その上でヨセフは、彼らに食料を持たせて父の家へと送り返しますが、その際、穀物の代金までも気づかれないようにそれぞれの袋に返してやりました。帰路の途中でひとりがそれに気づいたとき、彼らは「身を震わせて」、互いに、「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう(42:28)と言い合います。彼らの心に、神への信仰がよみがえってきているかのようです。

そして、父のもとに帰った時、ルベンは、顛末を報告します。不思議なのは、それまでの会話が細かく再現されていることです。それによって、私たちの心は、ヨセフと兄たちとの緊張関係に向けられるようになっています。そして兄たちは自分たちの袋すべてに「銀の包」があるのを発見して、父とともに「恐れた(42:35)と記されます。それは、このままでは彼らが代価を払わずに穀物を受け取ったことになるからです。

 

そのような中で、ルベンは、ベニヤミンをエジプトの連れて行って、再びヤコブのもとに「連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺しても構いません」(42:37)とまで言って保証します。

これは必至の説得のようでも、ここには彼が父親を身勝手な暴君のように見ているという思いが現れていますから、ヤコブの心が動くはずはありません。

 

それにしても、ヤコブはこのとき、「私の子は、あなたがたとはいっしょに行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから」(42:38)と言いますが、まるでヤコブにとっては他の子たちなど、どうでも良いかのようです。

 

43章では、穀物を食べ尽くしたときに、ヤコブの方から再びエジプトに穀物を買いに行くことを願う様子が描かれます。ヤコブには目の前の飢えの心配しか見えていないかのようです。

それに対し、今度はユダが、ベニヤミンを連れて行く必要を説き、「私自身が彼の保証人となります(43:9)と言いつつ父の説得に成功します。

 

その際、ヤコブは、「全能の神(エル・シャダイ)がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように(43:14)と、神への祈りを明確にします。

これは、主ご自身が、アブラハムへの契約をヤコブにも同じように保障したときに用いたご自身の「全能」を強調する呼び名です(35:11)。ここにいたってようやくヤコブは主に信頼できたのでしょうか。

 

ヨセフは兄たちが弟を連れてきたので、彼らを手厚くもてなすために自分の家に招き入れます。兄たちは恐れて、前回の「銀」を返したいと願いますが、それに対しヨセフの家の管理者は、「あなたがたの神、あなたがたの父の神が…宝を入れてくださったのに違いありません(43:23)と安心させ、シメオンを解放します。

その後ヨセフが家に帰ってきたとき、父の安否を尋ね、「同じ母の子である弟のベニヤミンを見て」、「わが子よ、神があなたを恵まれるように」と言いつつ、「弟なつしさに胸が熱くなり・・急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣き(43:30)ます。

 

ところがヨセフは、彼らを食料とともに送り帰すと見せかけ、ベニヤミンの袋に愛用の銀の杯をしのばせ、盗人に仕立て上げ、捕えました。それは兄弟たちを試すためでした。ヨセフは父に溺愛され、兄たちから憎まれましたが、ベニヤミンも同じではないか心配だったことでしょう。それで、ヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とし、兄たちを父のもとに帰すと言います。

それに対しユダは必死に彼にすがりますが、ここでも父との会話が詳細に繰り返され、家族関係に私たちの心が向けられるように記されています。

そこでユダは、まったく父の気持ちになりきって、「私の妻はふたりの子を産んだ・・ひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまった・・あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら・・しらが頭の私を、苦しみながらよみにくだらせることになる」(44:27-29)と、父の言葉を紹介します。

レアの子であるユダにとって、ラケルだけを「私の妻」と呼ばれることは辛かったでしょうが、そんな思いを乗り越えています。

ヤコブの発言は、父親失格と言われても仕方がないものですが、ユダはその父の悲しみを真正面から受け止めることによって、家族の絆が回復されようとしています。

 

そればかりか、ユダは、自分が父に対してベニヤミンの安全を保証したと言いつつ、「どうか今、このしもべを、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください(44:33)と、自分をベニヤミンの身代わりにして欲しいと懇願したのです。

ヨセフを奴隷に売った張本人が、父親の悲しみを自分の悲しみとして、それまでのラケルの子に対する苦々しい私情を超えて、自分を身代わりの奴隷として差し出そうとしています。

 

2. 「わたしは、エジプトで、あなたを大いなる国民とする」

  ヨセフはそれに心を動かされて、自分のしもべたちを部屋から出したうえで、「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです(45:4)と正体を明かしました。しかし、それと同時に、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはいけません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです(45:5)と言って彼らを安心させました。

ここでは何と、兄によって「奴隷に売られた」ことを、「神に遣わされた」ことに言い替えています。それはヤコブ一族がエジプトで「生きながらえ」、成長できるためでした。ヨセフは自分の身に起こった、許しがたい悲劇を、神の救いのご計画の物語の一部分として再構築(リフレーム)することができました。

 

人の子」であるキリストには、すでに「主権と光栄と国」が与えられていますが、私たちもこの地上の苦難を通して、「国と、主権と、天下の国々の権威」が与えられます(ダニエル7:14,27)私たちはキリストと共に苦しみことで、キリストと共に王とされるのです。

私たちもヨセフと同じように不条理な苦しみを受けることがあっても、それは神が私たちを用いて、より多くの人々をご自身の救いにあずからせるためです。あなたの苦しみは無駄にはなりません。

 

その上で、ヨセフは、「神は私を・・エジプト全土の統治者とされたのです(45:8)と言って、父のヤコブと全家族をエジプトに呼び寄せます。飢饉があと五年続くと神から示されていたからです。

それからヨセフは、弟ベニヤミンばかりか、自分を奴隷に売った「すべての兄弟に口づけをし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った」と描かれます(45:15)その情景は何と感動的なことでしょう。

実はこれこそが、いわゆるヨセフ物語と呼ばれる部分のクライマックスだと思われます。物語の中心はヨセフの成功というより「兄弟の和解」にあります。

 

そして、ヨセフの兄弟たちが来たという知らせを、何とパロとその家臣たちも喜んだというのです。それは、ヨセフが尊敬されていた証しでもあります。そればかりかパロの好意で、ヨセフは父に多くの贈り物とともに、「父の道中の食料とを積んだ十頭の雌ろば(45:23)を贈り、その上で、全家族をエジプトに呼び寄せました。

ヤコブは、ヨセフの兄たちのことばをすぐに信じることはできませんでしたが、「ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると・・ヤコブは元気づいた(45:27)と描かれます。最後のことばは、「ヤコブの霊は生き返っ」とも訳すことができます。

彼は、ヨセフが生きていたこと自体を喜び、「それで十分だ」と言いつつ(45:28)、エジプトに向かいます。

 

   ところで、ヤコブは、途中の「ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげ(46:1)ます。アブラハム、イサクにとって「主の守り」を味わう原点となった地で(21:31,26:33)、ヤコブは感謝のささげものをしたのです。

それに対し、その夜の幻の中で、神は彼にご自身の主権を強調しながら、「わたしは・・あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る(46:3,4)と言われます。

神はかつて、イサクにこれとは逆に、「エジプトには下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい(26:2)と言っておられましたから、ヤコブはこの神のことばを聞いて初めて、心から安心してエジプトに下ることができたと思われます。

 

その上で、エジプトに下った息子たちとその子たちの名前が記され、「エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった(46:27)と記されます。

彼らはエジプト人が忌み嫌う「羊を飼う者(46:32,34)として、その地の偶像礼拝の文化に同化することなく、約束の地に近い肥沃なナイルデルタ東側のゴシェンで増え広がることができました。

反面、エジプト人は飢饉の中で、自分たちの「からだと農地(47:18)までもパロに売らざるをえなくなりました。これは理不尽なようですが、当時のエジプトは中間王朝末期の混乱期で、パロの威厳は宗教的なものにとどまっていた時期でしたから、パロの家が豊かになることは政治的安定に寄与したことでもあったのです。

 

なお、ヨセフは父ヤコブをパロの前に立たせますが、「ヤコブはパロにあいさつした(47:7)とあるのは、厳密には「ヤコブはパロを祝福した」と訳せます。パロがヤコブの年齢を尋ねたのに対して、「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません」と答えたのは、パロに自分を小さく見せる謙遜さであるとともに、自分の先祖の神を婉曲的に誇るものでもあります(47:8,9)

その上で、再び、「ヤコブはパロを祝福して・・立ち去った」と描かれます。つまり、パロではなくヤコブこそが祝福の基であると描かれているのです。

 

つまり、神はヨセフを用いて、エジプトに平和を実現するとともに、「イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常に増えた(47:27)ことを可能にされたのです。これは、ヨセフが異教の王に誠実に仕え、信頼を得ることができた結果です。

しかし、それはすべて、神のみわざであったことを決して忘れてはなりません。もちろん、そのようにその神のご計画が成就したのは、ヨセフが、自分の悲劇を、神の救いのご計画の中でとらえることができたためでもあります。

私たちも、自分を悲劇の主人公に仕立てることなく、自分の人生を神の救いの物語の一部としてとらえなおすことが大切でしょう。

 

3. 「神はそれを良いことのための計らいとなさいました」

   ヤコブは、死が近いのを知って、ヨセフを呼び寄せ、「私をエジプトの地に葬らないでくれ・・先祖たちの墓に葬ってくれ」(47:29,30)と願います。エジプトで豊かにされても、アブラハムの子孫にとってはカナンこそが神の約束の地だからです。

ヤコブは、これによって、アブラハム、イサクから受け継がれた神の祝福の約束への信仰を告白していました。彼は自分の子孫が、やがて約束の地を所有することを夢見ながら死のうとしているのです。

同じように私たちも、この地に安住することに固執することなく、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んで(Ⅱペテロ3:13)、「地上では旅人であり寄留者であることを告白し(ヘブル11:13)続ける必要があります。

 

  ヤコブの死がさらに近づいたとき、彼は、全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して・・」という28章のベテルの体験をヨセフに改めて伝えます。その上でヤコブは、十一番目のヨセフを長子として二倍の相続権を与えるために、彼の子のマナセとエフライムを自分の子として祝福し、他の子と同じ立場を与えます。

しかも、その中で次男のエフライムに長子の祝福を与えます。そこから後に、イスラエルの民を約束の地に導き入れたヨシュアが生まれ、最良の地シェケムを受け継ぎます(48:22)

いつ帰れるか知れない土地の分配に関わる祝福こそ、信仰のわざです。私たちも、目に見える現実を超えた神の祝福を信頼して、今この時を生きるように召されています。

 

  その上で、ヤコブは十二人の子供たちそれぞれに「ふさわしい祝福」(49:28)を与えます。そこでは、最初の三人の息子に対する厳しいことばと対照的に、「王権はユダを離れず・・」(49:10)という祝福が語られます。ここに後のユダ族の成長と繁栄の基礎があります。そこからダビデが生まれるのです。

なお、ヤコブは最後に、12人の子供たちすべてに対して、先祖の墓ヘブロンのマクペラの洞穴(23:9)に自分を葬るように願いますが、その際、アブラハムとイサクと並べて、「そこに私はレアを葬った」と言っています。

かつては、ラケルだけを自分の妻かのように呼んでいたヤコブが最後に息子たちの前で、レアをサラやリベカに並べて言及し、家族の一致を強調したかのようです。

 

   ヨセフは父イスラエルをエジプトの医療技術を用いてミイラにし、パロの理解を得てその家臣たちも引き連れ、「荘厳な、りっぱな哀悼の式を・・七日間、葬儀を行なった(50:10)のですが、何とその地は「ヨルダンの向こう(東岸)」でした。その上で、「ヤコブの子らは彼をカナンの地に運び(50:13)、アブラハムがサラのために買った私有の墓地に葬りました。それは出エジプトのリハーサルのようでした。

神はこれによって、彼らに「夢」を見させようとしておられるのではないでしょうか。神はかつてアブラハムに、「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり・・・四百年の間、苦しめられよう・・・その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出てくるようになる(15:13,14)と語っておられました。それこそ、彼らが成就を待ち望むべき「夢」でした。

 

   その後、兄たちはヨセフの復讐を恐れ、直接は言えずに、「ことづけして」、父が遺言として、「あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、・・・そむきと彼らの罪を赦してやりなさい(50:17)と言っていたことを持ち出して、赦しを乞います。それは、父が敢えて直接ヨセフには命じずに、兄たちの謝罪に任せたという意味であったのかと思われます。

ここで、「ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた(50:17)とあるのは、その父の気遣いが伝わったからとも言えましょう。ヤコブが直接にヨセフに和解を命じれば、父の権威で強制された和解になってしまいます。

 

その後、兄たちはヨセフの前にひれ伏して、「私たちはあなたの奴隷です(50:18)と言います。これは彼らがヨセフを自分たちの支配者としたことで、彼の見た最初の夢(37:8)が成就したという意味があります。

それに対しヨセフは、「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(50:20)と言います。

何と神は、人が心から悪を計ろうとしたことさえ用いて、良いことを計らうことができるのです。

 

神の御許しがなければどのような結果も生まれません。ですから、私たちも、人の悪意を恐れたり恨んだりする必要はありません。

これをもとに、パウロは後に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)と告白しました。それは夢物語ではなく、私たちすべての信仰者にとっての最も大切な確信です。

 

ただそれは、奴隷に売られた悲劇の主人公がエジプトの総理大臣にされる個人の成功物語としてではなく、アブラハムの子孫を「天の星」のように数多く増やし、約束に地に住まわせるという神の救いのご計画の一部として「益とされる」という意味と理解すべきでしょう。

神は、かつてアブラハムに見させた夢を、ヨセフに見させた夢を通して実現しようとしておられます。ヨセフ物語とは、その神の物語の一部なのです。ですから、ヨセフは死に臨んで、約束の地に憧れつつ、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき・・私の遺体をここから携え上ってください(50:25)と遺言します。ミイラにされ棺に納められたのは、約束の地に向かう準備に他なりません。

 

  ヨセフは、濡れ衣を着せられ牢屋に入れられても、置かれた場で誠実に生き、ユダは、自分を弟の身代わりとして差し出しました。その時に「問われていること」に誠実に応えました。

ただし、それがどこにつながるかを知っておられたのは神だけでした。多くの人は、自分の使命を捜しあぐねていますが、実は、使命の方が私たちを探しているのではないでしょうか。あなたも神の救いの物語の中で選ばれ、一瞬一瞬、問われています。

 

奴隷から一夜のうちに総理大臣とされるという神のみわざは、ヨセフだけに起こった固有のものです。もし、私たちがそのような劇的な変化ばかりを期待しているなら、人生は失望に終わるでしょう。ヨセフだってそのような結末は夢にも思わなかったのですから・・・。

しかも、そこにあったのはヨセフ個人の物語ではなく、神の民の物語でした。私たちも、ひとりで生きている人は誰もいません。私たちは好むと好まざるに関わらず、人と組み合わされながら生きています。ですから、自分の個人の人生の中での物語の完結にとらわれてはなりません。

 

敢えて言えば、「たとい、私が苦しんでも、それが他の人の祝福の契機とされるなら、それが私の喜びです・・」と言うことができる人によって、この世界に愛が広がって行くのではないでしょうか。期待通りに運ばない自分の人生を、ヨセフに現されたような神の救いの物語の一部と見ることは誰にでも可能です。

たとえ、真っ暗な牢獄の中に落とされても、そこで神を仰ぎ見るなら、そこに希望が生まれます。そして、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです(ローマ5:5)。 

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