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2015年2月22日 (日)

4章18節~7章25節)「この地の真の支配者」

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  現代の感覚で聖書を読むと誤解が生まれます。今から三千数百年前、民族ごとに異なった神々が礼拝されていました。聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神(5:3)としか見られていませんでした。

一方、世界最強のエジプトの王パロは、太陽神の化身と見られ、ある記録によれば、当時のラムセス2世には、「あなたはまるで太陽のように、全てのことを成し遂げる。あなたの心が望むことは必ず起こる。夜に願いをかければ、明け方すぐに願いは叶う・・私たちはあなたの奇跡を数多く見てきた・・あなたは天地が創造されるところを見たはずだ」という言葉が捧げられています。

このパロが、奴隷民族の神にひざまずくなど、当時の誰が予想できたでしょう?出エジプト記を現代的解釈で脚色したと言われる映画「エクソダス」は、聖書のストーリーを捻じ曲げているという批判もありますが、それが、「“神に選ばれた男”と“神になろうとした男”の葛藤の物語」を描いているという点では、評価できる部分もあるかと思われます。

神に選ばれた男モーセは同胞を助けられない自分の無力さを嘆く一方で、神になろうとしたエジプトの王パロは、人を苦しめることで、また人の苦しみに無関心になることで、自分の権威を示していました。

 

1. 「主(ヤハウェ)とはいったい何者か。私がその声に聞かなければならないとは・・」

  主(ヤハウェ)が、柴の燃える炎の中からモーセに語りかけ、イスラエルの民の指導者として召した時、彼はまだミデアンの祭司イテロに仕える婿に過ぎず、妻と息子たちを連れてエジプトに帰る際には、イテロの承諾を得る必要があるほど弱い立場でした(4:18)。イテロは「安心して行きなさい」と答えますが、そのミデアンの地において主は再びモーセに現れ、「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ(4:19)と言われます。

これは223節のエジプト王の死と同じことを指しているとは限りません。モーセの召命が彼の命を狙っていたエジプト王の死の直後であるならば、王の支配は少なくとも40年間続いていたということになり、出エジプトの出来事が多くの学者が主張するラムセスⅡ世の時ではあり得ないことになります。40年以上の支配が続いた王権はBC1479-1425年在位のトトメスⅢ世か、BC1279-1213のラムセスⅡ世しか可能性はありません。

ただここではモーセのいのちを求めていた王やその家来たちが次々と死んだので、彼は比較的安全にエジプトに帰国できるということが記されているにすぎません。このときモーセは「妻と息子たち」を伴って帰国しますが、それまでに記されている息子はゲルショムだけですが(2:22)184節に登場するエリエゼルもすでに生まれていたのだと思われます。

 

「モーセは手に神の杖を持って」(4:20)、帰途につきますが、主は彼にパロの前に立つことを命じ、「わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え」と言われながら、同時に、「しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう」(4:21)と言い添えます。

モーセに語らせながら、同時にパロが言うことを聞かないように、その心を主ご自身が「かたくなにするというのです。ただこれは決して、パロが神のロボットのように行動するという意味ではありません。

パロは自分を神のようにしているのですから、イスラエルの神の権威を見せられるほど、自分の支配力を誇示するような行動をとらざるを得なくなります。パロは自分の意志で行動しているのですが、それは同時に、神がそのように仕向けたという意味のことが言われているのです。

 

そして、これから起こる十のわざわいの結論が予め知らされるように、主はモーセに、「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である・・わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ・・もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す(4:22,23)と言わせます。パロは、イスラエルを自分の奴隷、所有物と理解していましたが、彼らは神ご自身に属する自由人であり、地上のすべての民にとっての長子の立場にあるというのです。

ここにイスラエルの民の選びとすべての民族に対する使命が明確にされています。そして、もしパロがそれを認めて、神の初子を行かせないなら、パロの初子も生きることはできないというのです。なお、イスラエルが集合的に一人の初子のように言われていることからすると、パロの初子とは、彼自身の息子であるばかりか、エジプトのすべての初子を指しているとも解釈できます。

どちらにしても、「わたしの初子」と「あなたの初子」という対比に、主(ヤハウェ)が、エジプトの王パロに、誰が真の支配者であるかを明らかにするという意図が見られます。

 

   そこで、「さて、途中、一夜を明かす場所で・・・主(ヤハウェ)は彼に会われ、彼を殺そうとされた」(4:24私訳)と記されますが、これがモーセなのか、彼の「初子」であるのかは分かりません。神がモーセを殺そうとしたと解釈するのは文章の流れからすると極めて自然ですが、あまりにも突拍子がないとも思われます。

ただどちらにしても、アブラハムの子孫としての割礼の儀式がモーセの息子に施されていなかったのでしょう。ですからモーセの妻でミデアンの祭司の娘であるチッポラが、「火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足(性器)につけ」、「まことにあなたは私にとっての血の花婿です」と言います。

モーセは異教徒の婿になっていましたから、息子には神の民のしるしとしての割礼が施されていませんでしたが、それは神の民の指導者にはふさわしくない不誠実でした。幸い、そのことにモーセの妻はすぐに気づき、自分の子に割礼を施したのですが、ここに一家の長としての不甲斐なさが描かれているようにも思えます。聖書に登場する家長は誰も欠けだらけなのでしょうか。

 

 その上で、(ヤハウェ)アロンを弟モーセのもとに遣わし、アロンは、主がモーセに授けられたことばをイスラエルの長老たちに告げ、民の目の前でしるしを行ないました。すると、「彼らは、主(ヤハウェ)がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した(4:31)というのです。

この場面は何とも不思議です。モーセは四十年間もエジプトを離れており、その前もイスラエルの民から拒絶された様子が記されていたのですから、何よりもアロンに、イスラエルの長老たちを集めるだけの指導力があったと考えることができます。またイスラエルの民も、アブラハムの契約を神の民として覚えており、それが受け継がれていたということが明らかです。

 

その後、モーセとアロンはパロに主のことばを告げますが、神を自認するパロが、「(ヤハウェ)とはいったい何者か。私がその声に聞かなければならないとは(5:2)と答えたのは当然でしょう。それで、彼らは、「へブル人の神が私たちにお会いくださったのです・・・荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主(ヤハウェ)にいけにえをささげさせてください(5:3)と言い変えます。

これは嘘ではありません。「三日」とは象徴的に長い道のりを指し、当面の目標は、約束の地に入る前にシナイ山で主を礼拝することでした(3:12)。それは律法を受けて名実ともに神の民として整えられるためでした。

出エジプトの目的は、約束の地に導き入れられること以前に、律法が授与されることにあったということを決して忘れてはなりません。最終ゴール以前に、その途上で、神の民として整えられることに意味があるのです。

それは私たち自身にも当てはまることです。「新しい天と新しい地」に入れられること以前に、今ここで、主の御教えを受け、新しい天と新しい地に住むのにふさわしい民へと整えられることこそが大切だからです。

 

ただし、それは同時に、イスラエル人の神(支配者)はパロではなく、主(ヤハウェ)であることを認めさせるという意味がありました。それに対しパロは、苦役をさらに重くすることによって、パロこそ真に恐れられなければならない神であることを思い知らせようとします。

それはイスラエルの民に「れんがを作るわら」(5:7)を与えずに、エジプト全土から自分たちで刈り株を集めるようにさせて(5:12)、それまでと同じ分量のれんがを作らせるという命令でした。

 

この「定められた分」(5:14)ということばをロシア語にすると「ノルマ」になるのかもしれません。そこには、労働者は基本的に「なまけ者(5:817)なので、自主性に任せずに厳しい達成基準を課す必要があるという発想です。利益誘導を否定した共産主義はノルマで労働者を管理しました。

ここでは、「わら」を取り上げられた民は、ノルマを果たせなくなり、「イスラエルの人夫がしらたちは」厳しく打ちたたかれました(5:14)。彼らがパロに訴えると、パロはモーセの願いのせいでこのようになったと告げます。これはモーセとイスラエルの人夫がしらの間を離間させるための策略でもありました。

とにかく、期待とは反対に苦役が増し加わったイスラエルの民は、モーセとアロンに、「(ヤハウェ)があなたがたを見て、さばかれますように・・」(5:21)と不信を顕にします。

またモーセも主に向かって、何と「主よ、なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってから、彼はこの民に害を与えています」と、主の命令に従ったせいで状況が悪くなったと訴え、「それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません(5:23)と言います。

 

モーセは神に失望しているようでありながら、そのただ中で必死に神に訴えています。私たちも、「神に従ったせいで、こんなひどい目に会っている・・・」と嘆きたくなることがあるかもしれません。

私自身も学生時代の最後に信仰に導かれ、いくつもの内定先の中から真剣に神の導きを求めて、就職を決めました。ところが、入社してみたら、配属先は札幌支店での個人営業職でした。私はとんでもない仕事に導かれたと、深く失望しました。しかし、幸い、神にすがる祈りを教えられていたおかげで、厳しいノルマを果たし続けることができました。

ノムラでのノルマが、何よりも、全能の主に祈ることの幸いを教えてくれました。厳しい営業目標に駆り立てられながら、切羽詰った祈りをささげ、道が開かれて行くことを実際に体験できたのです。

そして振り返ってみると、神のみこころが分からないと思っていたただ中で、自分は神のみこころの中で守られ、導かれていたのだと思えます。神のご支配は、あなたの日常生活のただなかに現されます。(ヤハウェ)は、世界中の人々が自分の弱さを知り、祈るのを待っておられるのです。

 

2. 「わたしは主(ヤハウェ)である」

  主(ヤハウェ)は、「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる(6:1)とモーセをたしなめます。私たちも、物事が期待はずれに進んでいるように見える時、「今は分からなくても、今に分かる」と言うことができます。

そして、主は、「すなわち強い手で、彼(パロ)は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう」と言われますが、「強い手」とは、この文章からすると「パロの手」と理解することもできますが31920節では神がご自身の手を伸ばして、エジプトの王を強いると記されていました。

英語のNIV訳では、「わたしの強い手で」と、これが神の手であることを明記しますが、それは解釈を入れ過ぎとも言えましょう。ここは敢えて、「パロの強い手」を思い浮かべさせるようにしながら、やがてパロ自身がイスラエルの民を追い出したいと願うようになるとイメージさせながら、そのような状況は、主ご自身の「強い手」がパロの「強い手」を動かしていると考えるべきでしょう。

 

  そして、神はモーセに「わたしは主(ヤハウェ)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、(ヤハウェ)という名では、わたしを彼らに知らせなかった(6:3)と言われます。

それは、「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)という現実以上に、この地のすべての権力者の前で、イスラエルの神だけが、「わたしはある」と言える権威を持っていることを明らかにする啓示です。パロを動かすのはモーセのことばでも民の独立運動でもなく、神ご自身なのです。

しかもそこには神ご自身がアブラハムの子孫と立てた「契約」がありました。なお、ここで「今わたしは…イスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした(6:5)とあるのは224節にあったと同様に、神がご自身の契約を忘れたことがあったという意味ではなく、今これから神の契約の通りに歴史が動き始めることを強調するための表現で、そのことをモーセに明確に思い起こさせるためでもありました。

今、様々な支配力を行使してあなたを苦しめる人がいたとしても、あなたは自分でその人と戦う必要はありません。神こそが真の支配者であられるからです。あなたの主、あなたの王は誰なのかが、日々問われています。

 

  今回の協議会総会の分科会の中で、「旧約聖書の面白さ」というセミナーを導きました。小学校の教員として長く勤められた方が、「神のご支配は、異教徒の支配者を動かすこととして現される」という話を聞かれて、「日本の現首相には腹が立つことばかりだけれど、首相のために祈ることの大切さが良くわかりました」と言ってくれました。

 

モーセがイスラエルの民に語りかける最初のことばは、62節と同様に、「わたしは主(ヤハウェ)である(6:6)という宣言です。私たちはそれを聞く中で、聖書の神以外の誰をも恐れる必要のないことが示されます。主こそが歴史の支配者です。

あなたは自分の人生のゴールを知っているでしょうか。そして主はここで、イスラエルの民を「エジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す」と約束しつつ、それを言い換えるように、「伸ばした腕と大いなるさばき(ご支配)によってあなたがたを贖う」と言われます。

ここに「贖う」(ガアル)という用語が登場します。これは、主ご自身がイスラエルの民の見受け保証人となり、奴隷状態から代価を払って買い戻すという意味があります。

 

そればかりか主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放する目的を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる(6:7)と述べられます。

同じように今、神ご自身があなたをサタンの奴隷状態、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう」状態から救い出してくださったこと(エペソ2:2,3)その目的は「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる(黙示21:3)という状態にあるのです。

 

神は、さらにイスラエルに約束の地で平和と繁栄を与えると約束され、モーセはそのことをイスラエルの民に話しましたが、「彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった(6:9)と描かれます。彼らは遠い将来の約束よりも、目の前の問題解決だけを願っていました。

神がイスラエルの民を約束の地に導くのは、神との親密な交わりを味わう舞台設定に過ぎません。神は、あなたの目の前から苦しみを除き、平和と繁栄を与えることができますが、それ自体が目的ではなく、神との親密な交わりの回復こそが救いのゴールなのです。

 

私も、若いときは、目の前の目標を達成することに集中してきましたが、目標が達成されても心の渇きは癒されませんでした。そして、ようやく、私の心のそこにある渇きは、神との親密な交わりへの渇きだと分かってきました。

 

3. 「わたしはパロの心をかたくなにし・・・」

   主(ヤハウェ)は、民がモーセのことばにまったく耳を貸さなくなったのを見ながら、なおも彼に、「エジプトの王パロのもとに行って・・・告げよ」(6:11)と命じます。彼が、「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう」と答えるのももっともです。

その際、モーセは、「私は口べたなのです」と付け加えますが、これは厳密には、新改訳の脚注にあるように、「くちびるに割礼がない」という意味です。

なお、「そこで主(ヤハウェ)はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため・・・彼らに命令された(6:13)と記されますが、これとほとんど同じ表現が2627節に繰り返されます。

そして、それにはさまれるようにしてモーセとアロンに至る系図が描かれます。そこではまず年の順にルベン、シメオン、レビの家系が描かれます。そして、そのレビ族からアロンとモーセが生まれたことが記され、またその後のアロンの系図が描かれます。

 

その上で再び、主はエジプトの地においてモーセに告げますが、ここでもその始まりのことばは、「わたしは主(ヤハウェ)である」というものです。つまり、主ご自身がモーセやアロン以上に、彼らのことを良く知っておられ、彼らの家系を導いておられるという意味になります。

主はさらにモーセに、「わたしがあなたに話すことを、みなエジプトの王パロに告げよ」と命じますが、ここでもモーセは、「ご覧ください。私は口べたなのです」と自分に資格がないことを訴えます(6:30)。モーセにとっては、自分のくちびるに割礼がないとは、唇の働きが覆われているという意味なのかもしれませんが、本来の割礼をアブラハムの子孫に命じられた神は、それによって彼らに神の契約の真実を繰り返し思い起こさせるという意味がありました。

モーセは自分の唇の無割礼を嘆いていましたが、神ご自身は割礼の民をしっかりと導いておられたのです。実は、神はモーセ以上にモーセのことを知っておられるのです。

 

そして主(ヤハウェ)は、「見よ。わたしはあなたをパロに対し神と・・する(7:1)と言われ、「あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない(7:2)とただ命じ、同時に、「わたしはパロの心をかたくなにし・・」と言われます。つまり、神は、パロの心の耳を閉じさせながら、なおもモーセに語らせようとしておられるのです。

ただし、そこには、「エジプトはわたしが主(ヤハウェ)であることを知るようになる(7:5)という目的がありました。彼らの使命は、成果を出すことではなく、従うことです。ですからその後、「モーセとアロンは・・主(ヤハウェ)が彼らに命じたとおりにした」(7:6,1020)と繰り返されます。

ところで、彼らはパロの前で、杖を蛇に変える不思議を行ないますが、パロに属する呪法師たちも自分の杖を投げて蛇にすることができました。エジプト王のミイラは、頭に立ちあがったコブラの記章をつけています。イスラエルでは忌み嫌われた蛇は、エジプトでは人を毒で殺すことができる神聖な動物と見られていました。

しかし、ここでは、「アロンの杖は彼らの杖をのみこんだ(7:12)というのです。これによって、(ヤハウェ)はエジプトをも支配する神であることを示されます。

ただ、それでも「パロのこころはかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった(7:13)と描かれていますが、それはまさに、「主(ヤハウェ)が仰せられたとおり」のことでした。

 

そのつぎから、十のわざわいがエジプトに下されますが、その第一は、ナイルの水が血に変わるというものでした。ナイルはエジプトにとっていのちの源でしたが、主はその水を死の象徴でもある血に変えることによって、主こそがいのちの源であることを示されました。

モーセがパロの目の前で杖を上げナイルの水を打つと、「ナイルの水はことごとく血に変わった」と記されます(7:20)。その結果、「ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった(7:21)のですが、何と「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それでパロの心はかたくなになり・・」と記されます。

本来なら、呪法師たちは血を水に戻すことに心を傾けるべきでしたし、パロもそれを願うべきでした。しかし、「パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった」(7:23)というのです。

ここに皮肉が見られます。パロが神としてあがめられていた第一の理由は、ナイルの治水にありましたが、彼にはその自覚が見られません。パロを被害者と見ることはできません。神は、パロの心をかたくなにすることで、彼が自己中心な罪人の代表に過ぎないことを、権力を恐れるすべての人の前に示されたのです。

 

パロもパロの家臣も、秘術を使って民に災いを下す力は持っていましたが、災いを除く力はありませんでした。それはサタンの本質を表しています。多くの人は、災いに会う事を恐れて自分の世界を狭くします。しかし、神だけが、どんな状況下でもいのちの喜びを与えることができる方です。

サタンは災いをもって人を脅すことができます。実際、教会に来たての人が、信仰者が直面している様々な試練の様子を聞き、それに怯えて教会に来なくなるという現実さえあります。しかし、目の前に問題が起きはしないかと怯えながら生きる人は、自分の世界を狭くし、いのちの喜びを味わうことがますますできなくなります

しばしば、いのちの喜びは、使命を自覚し苦しみに飛び込む中で味わうことができます。出エジプトの記事は、現代の私たちの現実にもそのまま当てはめることができるのです。

 

ルターの名曲「神はわれらが堅き砦」では一番の後半では、「古き悪魔、知恵を尽くし、責め来れば、地の誰もが、かなうこと得じ」とサタンの勝利とも言える状況が歌われます。これはルター自身が体験した絶望感でした。

そして続けて二番では、「私たちの力をもっては何も成し遂げられず、負けるしかない」と歌われた上で、ようやく、「私たちに代わって戦う方を、神ご自身が選ばれた」と逆転が生まれます。

これをもとにバッハがカンタータを記した時、「私たちの力をもっては・・負けるしかない」という歌詞をソプラノが歌うのに並行して、「神によって生まれた者はすべて、勝利へと選ばれている・・」とバスが力強く歌います。私たちも人生の中で、この二重の歌を聴き続けることができるのです。

「私は弱い」と言うモーセを通して、神はご自身の勝利を宣言されました。それはあなたにも実現します。世の力に翻弄され、神に選ばれた自分を見失っている時、「わたしはある」という方の御声を聞きましょう。

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2015年2月 8日 (日)

ヨハネ6章52-71節 「このパンを食べる者は、永遠に生きる]

                                                  201528

   後藤健二さんの最後の様子が繰り返し映されます。それは悲しみをたたえながらも驚くほど静かな祈りの姿のようにも見えます。その意味を語るような彼の数年前のツイートが感動とともに世界に広がりました。

目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」 

彼はイエスの御霊に導かれて、平和を祈っていたのかも知れません。

 

イエスは、「わたしはいのちのパンです・・・このパンを食べる者は永遠に生きます」と言われました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝ったイエスが生きていてくださいます。復活のいのちが、すでに始まっています。ですから、私たちはどんなに無力で臆病で不信仰であったとしても、神にあるいのちは奪われることがありません。


   私たちはみな自分の信仰の成長を願います。そして、同時に、いつまでたっても変わらない自分の信仰に失望します。ただ、そのとき私たちは神から遣わされた生けるパンであるイエスを見上げる代わりに、自分を見てはいないでしょうか。

本当は今日、みことばに合わせて特別な聖餐式を持ちたいとも思いました。しかし、私には葛藤があります。子供たちも含め、ここにいるすべての方々に、イエスのからだとしてのパンと、イエスの血としての杯にあずかっていただきたいと思っています。ただ同時に、みことばは、その意味をわきまえずにパンを食べ、杯を飲むなら、イエスのからだと血に対して罪を犯すことになる、と言われています。この地では、恵みの座がさばきの契機になり得ます

ですから本日は、ここにいる人が誰も漏れることなく、ともに主の食卓にあずかる姿をイメージしてお聞きいただければ幸いです。もし、初めて聖餐式にあずかりたいと願われるなら、ご遠慮なく牧師にご相談ください。

 

1.「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」

イエスは天から降ってくるパンをしるしとして求める人々に、あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました(49)と、目に見えるパンに固執する生き方をたしなめました。地上のパンは一時的に人間の身体を生かすだけだからです。

それと同時に、ご自分のことを指しながら、「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです(50)と言われました。そしてイエスは「わたしがいのちのパンです(6:35)以降をまとめるように、「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です(51)と言われました。

目に見えるパンは単なる物質ですが、イエスは「生きているパンだと言うのです。それは、イエスこそが、私たちの心とからだの両方を養って下さる、真のいのちのみなもとであられるからです。

そればかりか主は、「パンは・・わたしの肉です」と不思議なことを言われました。最初の人アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、神はいのちの木への道を封じられました。それに対して、イエスの肉こそは、私たちのための贖いとなることによって、この「」に対して「いのちの木」への道を開くことになりました。そして、私たちは、イエスの肉をパンとして食べて、永遠に生きるというのです。

この話を聞いたユダヤ人たちはこの人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか(52)と互いに議論し合いましたが、それは当然とも言えます。

それに対しイエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と注意を引く枕言葉とともに、さらに困惑させるかのように、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません(53)と言われます。

しかもイエスは、さらにそれを肯定形で言い換えるようにしながら、「わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています(54)と言われます。ここではそれまでの「食べる」とは異なった「かじる」とか「かむ」という意味の動詞が用いられ、具体的にイエスご自身の肉を噛み、その血を飲むことで「永遠のいのちを持つ」ということが強調されています。

それにしてもイエスはなぜご自身の肉を噛み、イエスの血を飲むなどという表現を使われたのでしょう。

 

レビ記1710-14節には、「血を食べる者を・・民の間から断つ。なぜなら肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である・・・あなたがたはだれも血を食べてはならない・・・すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである」と記されていました。

ユダヤ人は血を徹底的に抜くことなしには、どんな肉を食べることはありません。ですからイエスのことばを聞いた人は、まさに身の毛がよだつような嫌悪感を覚えたに違いありません。

 

しかし、イエスは敢えてそれでもこのような表現を使いました。それは、ご自分の肉と血こそがすべての人の贖いの代価となるからです。そして、これは聖餐式の原型でもあります。私たちはそこでイエスの身体と血をいただきます。まるで人食い人種のような行為です。

ですから古代教会の時代、聖餐式が信者だけで秘密裏に行われることを指して、「クリスチャンは礼拝のために嬰児を殺害し、その肉を喰らう」という「うわさ」が広がり、紀元200年頃、テルトゥリアヌスは真面目に否定する必要がありました。しかし、イエスはそのような誤解を招く表現を敢えて用いながら、ご自分の十字架の犠牲こそが、彼らに真のいのちをもたらす糧となるということを、語ってくださったのです。

 

2.「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物

イエスは、「わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています(54)と言われながら、さらに、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と、四度目の同じ表現を用いました(39,4044)

ですから、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むという表現は、ユダヤ人が、目に見えるパンに心を奪われていたことに対し、いのちにとって真に大切なことを教えるためのイエスの衝撃的なレトリックと言えましょう。

 

さらにイエスは四度目に、「終わりの日の復活」のことを保証する理由として、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです(55)と言いました。

まさに、イエスご自身がこの地上の生涯のおいての食べ物、また飲み物として、私たちの肉のいのちを支えてくださるばかりか、終わりの日の復活まで保証してくださる理由が、イエスご自身がまことの食べ物、まことの飲み物であるからだというのです。

 

それにしてもイエスは、「信じる」という代わりに「食べるとか「飲む」と言いました。「信じる」という表現のもとに肉的な意味での能動的な「働き」が見えるからかも知れません。何か、自分を変える「信念の力」を信仰と混同したり、また「私は殉教の死をも厭わない!」と断言できることが信仰の証しだと勘違いする場合もあります。

しかし、「私は必死の思いで食べたり飲んだりしています・・」などと自慢する人はいません。飲食は極めて日常的なことであり、喜びのときです。キリストの肉は、私たちの救いのために、神が人となられたという謙卑を表わし、その血は十字架の犠牲を表わします。それは苦しみを表現しますが、食べたり飲んだりする行為自体は喜びです。

 

イエスはこのとき、預言者エゼキエルの召命を意識していたと思われます。そして主は彼に、「人の子よ・・・あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」(2:8)と言われながら、「一つの巻き物」を差し出しましたが、そこには「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」というのです。

主は預言者エゼキエルに、「この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」(3:1)と言われました。そして、彼がそれを食べたとき、「すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」(3:3)というのです。つまり、巻物は、その内容からするならば、口に苦いものであったはずなのに、それは彼の口に「蜜のように甘かった」というのです。それは、イスラエルに対する神のさばきは、彼らを滅ぼすためではなく、彼らを祝福に導くための神のご計画であったからです。

それは主が預言者エレミヤに、「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。―主(ヤハウェ)の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と言われたとおりです。わざわいと見えることが平安の始まりなのです。

 

この福音書の初めで、イエスは「ことば」として紹介されました。そして私たちはその「ことば」である方の肉を食べ、その血を飲むのです。一見悲惨なようでありながら、実際食べるならそれは口で蜜のように甘いのです。

 

   当時のユダヤ人は、人間的な努力によって永遠のいのちを勝ち取るかのように考えました。それに対し、イエスは、信仰を、食べることや飲むことで表わしました。それは、神が与えてくださった恵みを、ただ自分の口を開いて受け取るという姿勢です。

しかも、食べ物や飲み物が私たちの身体の中でエネルギーに変えられるように、イエスご自身が私たちの内側に力を与え、主の「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい(ルカ9:23)という厳しい命令を可能にしてくださいます。

イエスが、私たちのうちで生きてくださるとは何という喜びでしょう。使徒パウロも、それを「私はキリストとともに十字架につけられました。しかし、私は生きています。ただ、それはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の真実によっているのです(ガラテヤ2:20私訳)と表現しました。

 

3. 「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」

続けてイエスは、わたしの肉を食べ(かじり)、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります(56)と言いました。「私がイエスのうちにとどまり、イエスが私のうちにとどまる」とは、互いが互いを抱擁し合うという密接な交わりです。

そして、イエスは、生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです(57)と言いましたが、それは、私たちもイエスによって世に派遣され、イエスから与えられた使命を、イエスによって生きることを意味します。

 

さらにイエスはご自分の肉と血というご自身の身体のことを指しながら、「これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます(58)と言われました。

彼らの先祖は、天からのマナを食べながら、神の使命を生きることに失敗して滅びました。しかし、私たちは、天から下って来た生けるパンであるイエスを食べることで、真のいのちを生きるのです。

 

そして、このイエスの説教の最後に、「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである(59)と記されます。

ところが、このようなイエスの恵みのみことばを聞いた多くの弟子たちが、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか(60)と言ってイエスを離れて行きました。

 

それに対し、「しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ」、彼らに「このことであなたがたはつまずくのか(61)と言われ、さらに、「それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか(62)と言われました。これはご自身の十字架と復活また昇天のことをまとめて言われた言葉だと思われます。

イエスはかつてニコデモとの対話で、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者が見な、人の子にあって永遠のいのちを持つためです(3:13-15)と言われましたが、人の子が上げられるとは、明らかに十字架のことを指していました。

また、イエスはご自分の十字架の時を指して、「人の子が栄光を受けるその時が来ました・・・一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます(12:23,24)と言われます。

このようにイエスはご自分の十字架を、「あげられる」とき、また「栄光を受ける時」と言っておられましたが、同時に、そのときに多くの弟子たちが「つまずく」ことを知っておられました。

 

   弟子たちはイエスのことばをあまりにも肉的にしか理解できませんでした。それに対し、イエスは、いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません(63)と言って、目に見えるパンにとらわれた生き方の問題を指摘しました。

イエスはご自分の肉と血という極めて物質的なことを語っているようでありながら、ご自分こそが「天から下って来た」「神のパン」であることを繰り返し語り、私たちはいのちのパン」であるイエスをこの身に招き入れることによってしか真に生きることができないということを何度も話しています。

そして、それはもちろん、具体的にイエスの肉を食べるということではなく、イエスの御霊を招き入れることであるということです。そしてイエスはさらに、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」と言われました。それは、イエスの肉を食べるとか、血を飲むとは、御霊を受け、御霊に満たされることの言い換えでもあるという意味です。

 

聖餐式のパンと杯が、物質的な意味において、キリストの肉と血そのものであるという意味ではありませんが、この礼典が、神のパンであるイエスの肉を食べ、その血を飲むことを、象徴的に表わすことは確かです。私たちは、キリストのみことばとともに、パンと杯を受けるとき、自分のいのちが、御父、御子、聖霊の三位一体の神の一方的な恵みによって与えられることを味わうことができます。

 

4.「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」

イエスのことばを多くの弟子たちは理解できず、また十二弟子のひとりのユダも理解できませんでした。それは生まれながらの肉的な私たちには無理なことです。そのことを指摘するように、主は「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます(64)と言われました。

そしてそれが主にとって想定外ではなかったことが、「イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである」という解説として描かれます。

そしてイエスは再び、「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです(65)と、イエスのへの信仰が父なる神の選びと御霊の導きであることを確認します。そして、これらの会話の結末として、「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった(66)と記されます。

 

そこでイエスが「十二弟子」に向かって、まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と問われます。この福音書で「十二弟子」ということばが登場するのはここが最初です。

そして、「まさか」と訳されていることばは、「思ってはいないね」という否定の答えを想定した問いかけで、それに続いて「あなたがた」という言葉が強調されながら「離れたいとは・・」と続きます。イエスは弟子たちの信仰告白を促すようにこの質問をしているのです。

 

それに対し、ペテロは弟子たちを代表するように、「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています(68)と答えました。

「神の聖者」ということばは、「わたしが、あなたの神、主(ヤハウェ)イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから」(イザヤ43:3)という、神から遣わされた方という思いが込められています。ペテロはイエスこそがイスラエルの救い主として神から遣わされた「神の聖者」であることを信じることができていたのです。

確かにその後の裏切りを見る限り、このときの彼はイエスの言われることの半分も理解できてはいなかったでしょう。しかし、イエス以外の誰かに頼ろうと思わなかったことは確かです。私たちの信仰も、常に欠けがあります。しかし、イエス以外のところに行きようがないことを認め、イエスのもとに留まり続ける中で、永遠のいのちの喜びを、さらにさらに深く味わい続けることができるのです。しかも、それを可能にしてくださるのはイエスの父なる神ご自身です(65)

 

ところが、イエスはペテロが十二弟子すべてを代表するように「私たちは」と言ったことに対して、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です(70)と言われます。悪魔とは「そしる者(Ⅱテモテ3:3)とも訳すことができることばです。

そして、その解説として、「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた(71)と記されています。ユダは、恐怖に怯えてイエスへの信仰を否認するとか、自分の身を守るために裏切るとかいうのではなく、イエスを心の中で積極的にそしり、非難し、ついには敵の手に売ろうとしていたのです。

 

この福音書は共観福音書のような最後の晩餐の様子は描いていません。しかし、この6章こそが、本福音書における聖餐式の場面と理解できましょう。なぜなら、他の三つの福音書にも共通することは、最後の晩餐の場面でユダの裏切りが描かれているからです。主の最高の恵みの食卓が、同時に、ユダにとっては裏切りの食卓になりました。

私たちが注意しなければならないのは、恵みの背後にある犠牲に鈍感になってしまうことです。私たちが罪の赦しを受けることができるのは、決して、当然のことではありません。そこにはイエスがご自身の肉と血を私たちのために与えるという、途方もない犠牲があったのです。その犠牲の大きさを理解せずに、恵みの食卓にあずかる者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります

そのことが聖餐式の聖定のことばの中では、「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して、罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります(Ⅰコリント11:27-29)と記されています。

 

私たちは聖餐式のたびごとに、自分の信仰が問われています。しかし、それは、私たちが罪深ければあずかれないという意味ではありません。ユダは自分がいかに恐ろしいことをしようとしているかということを自覚していました。

みからだをわきまえないで」とは、イエスの犠牲の大きさを理解しないで、「みんな食べているから、私も食べよう」などと軽い気持ちで受け取ってはならないという意味です。

反対に、「私はイエスのみからだと血を受けることなしに、とうていこの世の嵐の中に向かって行く自信はありません」という人は、心から歓迎されているのです。

 

祈りの中で、息をゆっくりと吐いた後で、力を抜いて息を吸いつつ「主よ」と心を開いてみましょう。「主よ」と呼び、キリストの肉を食べ、その血を飲むように、主をあなたの身体の隅々にまで受け入れ、力の源とさせていただくのです。主があなたのうちに生き、あなたが主に抱擁されていることを覚えながら、次のように祈ってみましょう。 

   

「イエス・キリスト、神の御子、この罪人の私をあわれんでください。

宇宙の創造主、全能の神様 あなたのご支配を私たちのただ中に現してください。

生ける神の息の聖霊様、私たちを日々新たにしてください。また全世界をも」

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2015年2月 1日 (日)

ヨハネ6章24-51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」

                                                   201521

   後藤健二兄殺害のニュースが世界を巡り、イスラム国と称するテロリスト集団への残虐さが、日本人には理解できないかのように報道されています。しかし、今から四百年前、多くのヨーロッパの宣教師たちがはるばる船で来ましたが、その百数十人がこの日本の地で殺され、また、数万という日本のキリスト者が悲惨な死を遂げました。その残虐性はこの国にも存在しました。しかし、それは幸い、復讐の連鎖は生んでいません。なぜなら、死を遂げた方々は、憎しみではなく愛によって行動していたからです。

後藤健二兄は、あるインタビューの場面で聖書を持参し、詩篇544節の「見よ。神は私を助けてくださる。主は私の魂を支えてくださる(新共同訳)が自分にとっての支えであると語ったとのことです。その直前には、「見知らぬ者たちが私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます」と、まさに今回の状況が記されていました。彼の肉体の命は失われましたが、彼は自分のいのちが主イエスによって守られていることを確信して、愛によって生きようとしたのでしょう。それは本日の箇所で、イエスが三回に渡って、ご自分の民のいのちを守り通し「終わりの日によみがえらせる」と約束しておられるからです。

 

それにしても今回、「I am Kenji」というネットの書き込みが世界に広がっていました。それは人の痛みを自分の痛みとする兄弟愛の現れです。主の祈り後半部分最初では、「パンを、私たちに必要なものを今日もください」と、毎日祈るように教えられています。

そこで、問われているのは「私たちの」の枠の広さです。世界中の人々の必要を覚えながら、真心から祈るなら、餓死はなくなるとも言われます。なぜなら、先進諸国で無駄にされている食物の量は、貧しい人々の必要を満たして余りあるからです。多くの人々は、一生の間の安心を得ようとして、皮肉にも、いつも不安を先取りして生きています。一日一日の必要が満たされることに感謝できたら、悩みはぐっと減ります。

 

1.神が遣わした者を信じること、それが神のわざです

イエスはガリラヤ湖の北東部分の辺鄙な地で男だけで五千人にもなる大群衆にパンと魚を分ち合い、満腹させることができました。その後、「群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来」ました(6:24)

彼らはイエスが湖の上を歩いて渡ったとは思いもよらなかったので、「湖の向こう側でイエスを見つけたとき」、「先生。いつここにおいでになりましたか」と尋ねました(6:25)。それは、彼らが向こう岸で、イエスを乗せる舟が一艘も残っていなかったことを知っていたからです。

 

それに対し、イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです(6:26)と言われました。「しるし」とは、イエスへの信仰を生み出す神のわざですが、彼らはイエスご自身よりも、主が与えるパンの方に興味がありました。

それで主は、敢えて彼らの貪欲の問題を指摘しながら、「なくなる食物のために働いてはなりません。そうではなく、永遠のいのちにまで続く食物のため、それは人の子があなたがたに与えるものです。この者を、父すなわち神が認証されたから6:27私訳)と言われました。

そこで主は何よりも、なくなる食物に全人生をかけるような生き方をたしなめているのです。一方、永遠のいのちは、人が労して獲得するものではなく、「人の子が・・・与えるものであると強調されました。イエスがこのように言われたのは、彼らがパンの給食の奇跡を見た後で、イエスを王にしようとしたということがあったためです。彼らは自分たちの願望を満たしてくれるためだけのための救い主を求めていました。

 

それに対し、彼らは、「私たちは神のわざを行なう(働く)ために、何をなすべきでしょう」と、なおも、労し獲得する生き方を尋ねます。彼らの頭にあったのは、たとえば安息日律法を皆がそろって守るとか、また命をかけてローマ帝国の圧政と戦うような具体的な行動指針でした。

しかしイエスは、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです(29)と答えました。「神のわざ」とは、「神が喜ばれる働き」のことです。社会のシステムを変えるために何かの貢献ができることはすばらしいことですが、神が最も喜ばれる働きは、それ以前に、神が世の救いのためにご自身の御子を遣わしてくださったことを感謝を持って受けとめ、イエスに信頼することなのです。

多くの人々は、なくなる食物を得るために具体的に何かをすることで安心が得られると思っています。しかし、平安を体験する秘訣は、「永遠のいのちに至る(まで続く)食物」であるイエスご自身を、今ここで心に迎え入れることなのです。神が遣わされたイエスへの信頼こそが、最高の良い働きです。つまり、平安のみなもとは、神のみわざに心を開くことなのです。

 

そして、信仰の確信は、与えられたしるしにとどまり、それを思い起こすことによって深められるのです。目の前の環境を変えることに夢中になる生き方、獲得を目指す生き方は、絶え間ない争いと、さらなる渇きを生み出します。社会的な何らかの結果を出せたとしても、そこには平安がなく、当然、神の愛に満たされた交わりも生まれません。

 

マルティン・ルターが宗教改革運動を始めたとき、ルターは一方的な恵みによる救いばかりを強調して、人間の側の善行の必要性を否定しているという非難が沸き起こりました。それに対して、ルターは、主イエスが、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と言われたことを引用しながら反論しました。

人はしばしば、個人的な名誉心やまた義憤に駆られて善行に邁進することがありますが、そこに創造主への愛が欠けているなら、善行のはずがそこに争いやさばき合い、緊張感ばかりが生まれるなどということがあります。人と社会にとってどんなに良い働きと思えても、そこに喜びが伴っていないなら、真の意味で人々の心を変えるような働きにはなりません。

伝道者の書97-10節の次のようなみことばを味わってみましょう。

さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな。日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に・・・これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから

 

2.神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの

  そのような会話の中で、そこにいる人々はイエスに向かって、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです(6:3031)と言いました。

この引用がどこからなのかに関しては諸説がありますが、詩篇782324では、原文では代名詞の「彼」を用いながら、「しかし、彼は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた」と記されています。

当時の人々は、この「彼を」、神ではなく、モーセとして理解したのかと思われます。イエスは五つのパンで、男だけで五千人にのぼる人を満腹させました。それでも、彼らはイエスを神が遣わした救い主と認めることはできず、さらなる「しるし」として、モーセの場合と同じように、天からパンが降ることを求めたのです。

 

それに対し、イエスは、モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります」と不思議なことを言われました(6:32)。これは、「モーセではなく、わたしの父が」という対比と、「天からのパンを与えた」という完了形と、「天からのまことのパンを与え続ける」という現在形の対比が記されています。

これはモーセがかつてイスラエルの民に、「あなたの神、主(ヤハウェ)は・・・私のようなひとりの預言者を起こされる(申命記18:15)と言ったので。彼らは神よりもモーセが起こした不思議と見ていたのです。

それに対して、イエスはここで、天からのパンを与えたのはモーセではなくイスラエルの神であるというよりも、「わたしの父が与えた」と言われたばかりか、それは過去の一時期の事、すでに終わったことであると言いながら、今は、イエスの父なる神が、天からのパンを与え続けてくださると大胆なことを言われたのです。

 

 そしてイエスは、続けて、「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」言われました。ここでは「神のパン」を擬人化して、その方が「天から下って来る方」であり、また、「世にいのちを与える方である」と記されています。

ところが、その意味を理解できなかった彼らはイエスに、現実のパンのイメージを拡大するようにして、「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」と願いました。それはイエスが「永遠のいのちへの水」の話をしたときにサマリヤの女がかつて、「私が・・もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と願ったのと同じです(ヨハネ4:14,15)

多くの人間は、目の前のパンや水の問題の解決ばかりに心が向かいますが、イエスはその感覚に寄り添うように、力強く、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(6:35)と保証してくださいました。「わたしが・・です」という表現はここから何度も続きます。これは、620節でイエスが嵐の中、湖を歩いて弟子たちの舟に近づいて来た際に言われた「わたしだ(エゴー・エイミー)」、ご自身の神としての性質を表す表現です。

 

このみことばの背景にはイザヤ55:12があると思われます。そこでは終わりの日の希望が次のように記されています。ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。銀を持たない者も、来て、穀物を買って食べよ。来て、銀を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、食糧にもならない物のために銀を量り、腹を満たさない物のために労するのか。わたしによく聴け。そして、良い物を食べ、たましいを脂肪で元気づけよ」と記されていました。

なお、これは、先に、天から下って来た神の御子イエスご自身が「世にいのちを与える方」であるということに対して、彼らが超自然的なパンばかりを意識したので出てきたことばです。多くの人々は、お金を獲得し貯めることで、身体の必要が満たされると思っていますが、お金は単なる交換手段に過ぎません。

お金で腹は満たされません。何よりもすべての食べ物は、創造主ご自身から与えられるということを忘れてはなりません。神の御子イエスとの交わりの中でこそ、気力が湧き、健康が守られ、家族、友人、職場などが与えられるのです。

決して飢えることがなく・・・渇くことがない」というみことばは、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」という文脈の中で理解されるべきです。神の御子は、私たちの日常生活のただ中に降りて来てくださいました。何よりも大切なのは、先のイザヤ書でも、神ご自身が、「わたしによく聴け」と言っておられることばを味わうことです。

 

 現実の生活の中では、いつも様々な問題や葛藤に直面せざるを得ません。しかし、イエスが聖霊として私たちの内側に住んでくださることの結果として、いつでもどこでも、イエスの父なる神に向かって「アバ、父」と祈ることができ、神が私たちの真の必要を満たしてください

ます。以下の詩は、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられており、「病者の祈り」または、「苦しみを超えて」という題でもよく知られています。今から百五十年ほど前の米国の内戦、南北戦争で、南部連合軍の傷病兵士が残したと言われています。

 

私は神に 大きなことを成し遂げるようにと 強さを求めたのに、慎み深く従うことを学ぶようにと 弱い者とされた
より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに、より良いことができるようにと 病弱さをいただいた。           
幸せになれるようにと 豊かさを求めたのに、賢明であるようにと 貧しさをいただいた  
人の称賛を得られるようにと 力を求めたのに、神の必要を感じるようにと 弱さをいただいた        
いのちを楽しむことができるようにとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを楽しめるようにといのちをいただいた     
求めたものは 何一つ得られなかったが、心の願いは すべてかなえられた
このような私であるにも関わらず、ことばにならない祈りはすべてかなえられた 
私は あらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。 


3.わたしを遣わした方のみこころは・・・ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです

  そしてイエスはそこにいるユダヤ人たちに向かって、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(7:36,37)と言われました。

それは、彼らの不信仰を責めながらも、同時に、御父のみこころ次第で彼らはイエスのもとに来ることができるという意味ですが、ここでは何よりも、イエスはご自分のもとに導かれて来る者を決して捨てないということが強調されています。イエスの責任は、救われる人を選ぶことではなく、守ることであるというのです。これは私たちの信仰を守ってくださるのはイエスご自身の御業であるという意味になります。

そして続けてイエスは、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです(6:38,39)と言われました。これは、イエスが保証してくださった私たちのいのちは、地上の肉体のいのちを超えて続くという意味です。

 

  続けて主は、「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます(6:40)と言われました。

永遠のいのち」とは、現在のいのちが永遠に続くというのではなく、終わりの日の復活のいのちが、今この時から始まっているという意味です。

 

  ところが、ユダヤ人たちは、イエスがご自分のことを「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、「イエスについてつぶやいた」というのです(6:41)。そして、彼らは互いに、「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか」(6:42)と言い合いました。彼らはイエスを自分たちと同レベルの人間と見ましたが、主はモーセのように人間の親から生まれた人ではありませんでした。

それに対して主は、弁明する代わりに、互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」6:43,44)と、権威を持って言われました。当時のユダヤ人はモーセを神の人としてあがめていましたが、実際には、彼らの先祖たちはモーセにつぶやいてばかりいました。彼らのイエスに対する態度は、モーセに対する態度と全く同じでした。

ここでイエスは、淡々と、イスラエルの神を「わたしを遣わした父(44)と呼びながら、イエスを主と告白する信仰が、人間の思いから湧き上がるのではなく「父が引き寄せ」てくださる結果であると述べました。ここでイエスは彼らを説得しようとするのではなく、信仰の現実をただ述べられたのです。

その上で再び、「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます(6:44)ご自身の神としての力を明かされました。私たちの最終的な復活が三度も保障されています。

 

4.「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

そして、「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」(6:45)と言われました。

これは、「あなたの子供たちはみな、主(ヤハウェ)の教えを受け(イザヤ54:13)ということばと、「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ(エレミヤ31:34)ということばを意識したものと思われます。

私たちの信仰こそ、神が起こされた最高の奇跡なのです。なお、イザヤの文脈ではその前の54:78節に 「ほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されています。イエスはここで、ご自分こそがそのような救いの時代をもたらすと言われたのです。

 

イエスはさらに続けて、「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです」(6:46-48)と言われました。

それは、改めて、ご自身こそが「神から出た者・・父を見た」者であり、そのことを「信じる者」に「永遠のいのち」を生み出す「パン」を与えてくださると言われました。ここで大切なのは、イエスを信じるという人間の側の働きよりも、イエスを「いのちのパン」として受け入れるために、自分自身を開くことなのです。

 

イエスはさらに、天から降ってくるパンをしるしとして求める人々に、あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました(49)と、目に見えるパンに固執する生き方をたしなめました。地上のパンは一時的に人間の身体を生かすだけだからです。

それと同時に、ご自分のことを指しながら、しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです(50)と言われました。そればかりか、イエスは「わたしはいのちのパンです」以降をまとめるように、わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です(51)と驚くべきことを言いました。

目に見えるパンは単なる物質ですが、イエスは「生きているパンだと言うのです。それは、イエスこそが、私たちの心とからだの両方を養って下さる、真のいのちのみなもとであられるからです。

なお、最初の人アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、神はいのちの木への道を封じられました。それに対して、イエスの肉こそは、私たちのための贖いとなることによって、この「世」に対して「いのちの木」への道を開くことになるというのです。なお、食べるとは、信じる者は永遠のいのちを持ちます(47)ということばの言い換えで、信じることを意味します。

 

  私たちも、イエスご自身との交わりよりも、主が与えるパンや富のほうに目が向かってしまいがちです。その結果、肉体的には生きていても、人生の意味も目的も分からなくなることがあります。それは真の意味で生きていることにはなりません。

永遠のいのちとは、いのちの喜びが永遠に続くことです。しかも、それを与えるイエスへの信仰も、私たちの働きではなく、父なる神のみわざです。私たちはみな、自分の力で生きているかのように錯覚をすることがありますが、このいのちも信仰も、父なる神とイエスの協同の働きとして与えられているのです。

 

  私たちは、『平安の祈り』において、「この世のいのちにおいては適度に幸せに」と祈るように召されていますが、箴言307-9節にはすばらしい祈りが記されています。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主(ヤハウェ)とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

 

  イスラエルの民の荒野の四十年の旅路は、天からのマナによって守られました。そして今、イエスは、「わたしが天から下って来たのは・・・わたしを遣わした方のみこころを行うため・・みこころは、わたしに与えてくださったすべての者を・・・ひとりも失うことなく・・・終わりの日によみがえらせること」と言われました。

イエスが何よりも強調しておられるのは、私たちのいのちをこの世の荒野の旅路の中で守り通して、「正義の住む新しい天と新しい地」に、新しいからだでよみがえらせることです。

病者の祈りにあったように、私たちは表面的な失望の人生の中でも、「求めたものは 何一つ得られなかったが、心の願いは すべてかなえられた」と告白できるようになるからです。

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