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2015年3月22日 (日)

12章43節~15章21節 「主があなたがたのために戦われる」  

1243節~1521節 「主があなたがたのために戦われる」

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自分の身近なところで、犠牲者の血が流されている現実に直面するとき、また、それを思い起こすようなとき、人は、不条理に対する怒りを超えて、自分の人生を厳粛に受け止めるという思いになるということがないでしょうか。神は、イスラエルの救いのために流されたエジプト人の犠牲を、忘れさせないようにしておられます。

 

   私たちの心は、過去の痛みを忘れられるからこそ、ストレスを抱え続けないで生きて行けるのかもしれません。しかし、だからこそ、忘れてはならないことを覚え続けるため、記念の儀式が必要になります。

イスラエルの民の過越の祭りは現在、聖餐式として、また、彼らがエジプト軍に追われながら分かれた海を渡ったことは、バプテスマとして記念されます。私たちの心が萎えてしまう時、神のみわざを思い起こすことは、心に希望を生み出します。

 

1. 「すべて最初に生まれる者を、主(ヤハウェ)のものとしてささげなさい」

イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態から解放されたことを毎年繰り返し思い起こすように命じられていました。そのことが12章初めで、「この月を…年の最初の月とせよ・・・父祖の家ごとに、羊一頭を用意しなさい・・十四日の・・・夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいにそれをつける。その夜、その肉を食べる・・これは主(ヤハウェ)への過越のいけにえである…わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたに滅びのわざわいは起きない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる(12:1-14)と命じられます。

そして122123節では、モーセから民に命じられた内容が、「あなたがたの家族のために羊を・・・過越しのいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って・・・血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝までだれも家の戸口から外に出てはならない。主(ヤハウェ)がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、(ヤハウェ)はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたの家にはいって、打つことがない」と記されます。

イエスは過越しの小羊として十字架にかかってくださいました。私たちは今、イエスを主と告白することによって、私たちの前を、神のさばきが過越します。

このことをパウロは、「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです(ローマ5:9)と記しています。

 

なお、「過越のいけにえ」に関して、「外国人はだれもこれを食べてはならない」と記されていますが(12:43)「奴隷」は「割礼を施せば、これを食べることができる(12:44)と記されます。「これは一つの家の中で食べなければならない(12:46)とあるように、これは家族の祭りであり、奴隷も家族の一部と見なされるからです。

しかも、ここで興味深いのは、外国人が排除されているようでありながら、イスラエルの民のただ中に住む在留異国人に関しては、割礼を受けて、「この国に生まれた者と同じになる」道が開かれていました(12:48)。なお、1248節の新改訳では、「(ヤハウェ)に過越のいけにえをささげようとするなら」と記されていますが、厳密には、「主(ヤハウェ)への過越を行なうなら」と記されています。これは、イスラエルの民の中に住み続けている外国人がイスラエルの民と同じように過越の祭りを祝うことができるための割礼の規定です。

多くの人が誤解していますが、ユダヤ人とは、生物学的な血筋の概念であるという以前に、アブラハムの契約を受け継ぐ民であり、その道は外国人にも開かれているのです。同じように、クリスチャンが受けるバプテスマとは、アブラハムの子孫に加えられるという意味があるのです。

 

つまり、イスラエルの民自体が、「神の初子(4:22)であって、神は彼らをもとに神の民を広げようとしておられます。そして、私たちも新しい割礼を意味する「イエスにつくバプテスマ」によって神の民とされたのです。

 

   そして、「乳と蜜の流れる(13:5)約束の地に導き入れられた時、過越しの祭りを祝うことによって、「主(ヤハウェ)の教えがあなたの口にある(13:9)ようにし、「(ヤハウェ)が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出された」ことを思い起こすように命じられます。

そればかりか、「すべて最初に生まれる者を、主(ヤハウェ)のものとしてささげなさい。家畜から生まれる初子もみな、雄は主(ヤハウェ)のものである・・・あなたがたの子供たちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない」(13:12)と命じられます。

その根拠は、「パロが私たちをなかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された(13:15)からでした。

 

イスラエルの救いは、エジプトの初子の犠牲の上に成り立っていました。その際、子羊の血がなければイスラエルの初子もみな犠牲になるはずでしたから、すべての初子は主のものとされました。それを再び所有するためには、代償の贖い金を支払う必要があります。

子どもを・・贖う」とは、アブラハムがイサクを主に献げてから取り戻したように、生まれた長男の身代わりの献げ物をして初めて、自分の跡継ぎにすることを意味しました。

その代価は、具体的には銀5シェケル(10g銀貨約5枚でした(民数記18:16)。当時の奴隷が牛に突かれて殺された場合の賠償額は銀貨30枚でした。それはイスカリオテのユダがイエスを売り渡した代金でもあります。つまり自分が産んだ初子を自分のものとするためには奴隷の賠償額の六分の一もの金額を支払う必要があったのです。

 

 「贖う」とは、代価を払って所有権を移すことを意味します。ヘブル語ではガアルとパダーというふたつの動詞がありますが、ここではパダーが用いられています。

一方、66節、15章13節で、主がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出し、ご自身の民とし、主が彼らの神となったことを表現する「贖う」はガアルです。基本的な意味は同じですが、ガアルは買い戻す側の近しい関係が、パダーには代価を払うという面が強調されています。

 

奴隷が解放されるために贖い金が支払われるのと同じように、イスラエルがエジプトから解放されて神の民とされるために、各家ごとに小羊がほふられ、血が流される必要がありました。

そして、今、異邦人であった私たちに対し、「あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです(Ⅰペテロ1:18,19)と記されています。

それによって、私たちに起こった途方もない変化と特権のことを、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です・・・以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です(Ⅰペテロ2:910)と表現してくださいました。

 

そして、その一方的な選びと表裏一体のものとして「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」という誇りに満ちた使命があります。

「選び」は、この世の避けられない現実です。受験も、就職も、昇進も、結婚にも、選ばれるというプロセスがあります。しばしば、その陰には、犠牲がありますから、選ばれた者が与えられた使命を果たしていないとき、不公平と非難されるのです。

 

エジプトのすべての初子が殺されてしまったのは、彼らには小羊の血による救いの道が開かれていなかったからです。同じように世の終わりには、すべての人が神のさばきの御前に立たされます。私たちが世の人々に先立って救われたのは、新しい小羊の血であるイエスの血による救いの道を告げ知らせるという使命のためです。

 

イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されるために、エジプトのすべての初子、パロの初子から、奴隷の初子、家畜の初子に至るまでが死ぬ必要がありました。イスラエルの民は、小羊の血によって、このさばきを免れました。

そして今私たちの救いのための小羊となってくださったのが神の御子のイエスご自身です。私たちは、その犠牲を忘れるとき、生かされている意味も分からなくなります。

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません(Ⅰコリント7:23)とあるように、生活の中で「イエスは主です」と告白しましょう。

 

2. 「主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた」

   神は、イスラエルを約束の地に導くにあたって、荒野の道へと遠回りさせました(13:17,18)。当時の通商ルートはエジプトの要塞で固められていたからです。

しかも、彼らは四百年前にミイラにされたヨセフの遺骸を携えてきました。それは、神の選びの民がどのような苦しみに会うことがあっても、そこで、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」(13:19)ことを思い起こさせる象徴でした。

そして実際、この不安の旅路を、「(ヤハウェ)は、昼は途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた(13:21)のでした。

 

なお、現代の私たちにも、「昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(13:22)ということはそのまま実現しています。それは聖霊が私たちのただ中に住んでくださっているからです。

パウロは後に、堕落したコリント教会に向かって、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたが神の神殿です」と述べました(Ⅰコリント3:16,17)

私たちがこのようにキリストのみからだである教会に集い、互いのために祈っているとき、私たちのただ中に創造主である聖霊ご自身が宿っておられます。

私たちはこの教会から、それぞれの場に遣わされて行きます。そして、私たちはこの交わりの中に生きることによって、主が、「雲の柱、火の柱」によって、私たちの日々の生活を導いてくださっていることを体験することができるのです。

 

   そして主(ヤハウェ)はこのときモーセに、「イスラエル人に、引き返すように言え(14:2)と命じつつ、彼らを敢えて、逃げ道のない海辺に宿営させました。それはエジプトの王パロに、イスラエルの民が「あの地で迷っている」(14:3)と思わせ、パロにイスラエルの民を追わせるように仕向け、エジプトに対してご自身の栄光を現わすためでした。

 

それでパロは精鋭の軍隊を引き連れて追跡しました。それを見たイスラエルは、モーセに向かって、「エジプトには墓がないので(王家の墓であるピラミッドを指した皮肉)あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか・・エジプトに仕える(奴隷の)ほうが・・良かった(14:1112)と猛烈な皮肉を持って「つぶやき」ました。

 

モーセは彼らに、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主(ヤハウェ)の救いを見なさい・・主(ヤハウェ)があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」(14:13,14)と答えます。

そして、主(ヤハウェ)はモーセに、「イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなに(強く)する・・・」(14:16,17)と言います。

 

エジプト軍にはおびただしい戦車と騎兵があり、「強くされた」心で、分かれた海の中にさえ飛び込んで来ます。一方、イスラエルの側にある戦いの道具は、モーセの杖一本でした。今も、この世の権力者は恐れを知らずに滅びに向かい、恐れを抱く私たちは、神のことばと祈りによって、勝利するのです。

パウロは、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」と命じながら、攻撃の道具としては、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目を覚ましていて・・祈りなさい」と、具体的な行動を勧めています(エペソ6:10-18)

 

   なおこの時、雲の柱はイスラエルの後ろに移動し、エジプト軍の追跡を遮りました。なお、「真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ(14:20新改訳)とあるのは、「真っ暗な雲が、夜を照らし(脚注)とも訳することができます。つまり、神の雲の柱が、エジプトに暗闇をもたらす一方で、イスラエルの前には光をもたらしたのでしょう。

そのような中で、「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主(ヤハウェ)は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた」(14:21,22)というのです。

これは真夜中のことです。しかも、強い東からの向かい風に逆らって、右と左が水の壁になっている海の中を渡るというのは、考えるだけでぞっとします。イスラエルは、背後のエジプト軍を恐れていたからこそ、また、主の光が行く手を照らしていたからこそ、前進することができたのかも知れません。

 

   私たちの人生にも夜の体験があります。しかし、エジプトの初子が打たれたのも、海がふたつに分けられたのも夜でした。詩篇77篇にあるように、夜に味わう不安と孤独は、「(ヤハウェ)の・・・不思議なみわざを思い起こし・・恐ろしいさばきのみわざに、思いを巡らす(11,12節私訳)きっかけです。

私たちは昼の間は、自分の力で忙しく動き回り、主のみわざに目を向けるのを忘れがちです。だからこそ、主は、夜に救いをもたらされるとも言えましょう。

 

3. 「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く

 「エジプト人は追いかけてきて、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海に入って行った」(14:23)とは、自分から滅びに飛びこむ姿勢です。今も、恐れの感覚が麻痺した人々は、猛烈な勢いで滅びに向かっています。

その後で、「(ヤハウェ)は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし・・陣営をかき乱され・・戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされ(14:24,25)ました。彼らはこの時になって初めて、「イスラエル人の前から逃げよう。主(ヤハウェ)が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから」(14:25)と言いましたが、それは遅すぎました。

 

そのとき主はモーセに、「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ」と言われます(14:26)。そして、モーセが、再び「手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った・・・主(ヤハウェ)はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた(14:27)というのです。

そのときのことが、「水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった」と描かれます(14:28)

そして、これらのことが要約されるように、「イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁になったのである。こうして、主(ヤハウェ)はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは(ヤハウェ)がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主(ヤハウェ)を恐れ、主(ヤハウェ)とそのしもべモーセを信じた(14:29-31)と描かれます。

 

パウロはこれをもとに、「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け(Ⅰコリント10:1,2)と記しています。

つまり、この海を渡った記事は、私たちにとってのバプテスマを示しているのです。イスラエルの民はこれ以降、エジプト軍の追撃を二度と恐れる必要はありませんでした。同じように私たちも既にサタンの支配から解放され、永遠のいのちの生きていると信じられます。

 

   この時、モーセとイスラエル人は、主に向かって歌いました。それが15章に記されています。その始まりは、21節のミリヤムの歌とほとんど同じで、「(ヤハウェ)に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに」と記されています。

その上で、「(ヤハウェ)はいくさびと。その御名は主(ヤハウェ)(15:3)と呼ばれます。これは一見残酷に見えますが、先にモーセが言ったように、「主があなたがたのために戦われる」ことが確信できるなら、「あなたがたは黙っている(14:14)ことができるのではないでしょうか。

 

   現在の世界で起こっている様々な悲劇は、民族と民族の報復の繰り返しです。彼らは自分を神の代理として立て、神の御名によって暴力を正当化しています。しかし、ここでモーセが行ったことと言えば、二回にわたって、「手を海の上に差し伸ばす」ことだけです。

そして、これに呼応するようにして、「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く(15:6)と描かれます。

そして、これらすべてのプロセスが、「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。国々の民は聞いて震え、もだえ・・おじ惑い・・震え上がり・・震えおののく・・・主(ヤハウェ)はとこしえまでも統べ治められる(15:13-18)と描かれます。

つまり、海が二つに分けられる奇跡をとおして、確かに、エジプトの軍勢が海に投げ込まれましたが、それによって、最強の軍隊が、主(ヤハウェ)を恐れて戦いをやめ、近隣の国々もそれに習ったのです。

人々が主のご支配を認める時、この地に平和が実現します。主の「右の手」の力を信じられないからこそ、人々は武器を取って戦おうとするのではないでしょうか。

私たちも、自分の力で問題を解決しようと動き出す前に、モーセに習って、黙って手を差し伸べ、主に祈る必要があります。私たちに何よりも問われているのは祈りの手を上げることです。

 

   あなたは御子の犠牲によって贖い出された神の宝物です。神があなたの側に立ち、あなたのために戦ってくださいます。ですから、あなたの使命は、戦うことではなく、御子の歩みに習うことです。

それは、敵が飢えたら食べさせ、敵が渇いたら飲ませ、あなた自身に関する限り、すべての人と平和を保つことです(ローマ12:18-21)。そして、目の前の困難に対し、あなたに必要なことは、何よりも祈りの手を差し伸べることではないでしょうか。  

 

   ヘブル書の著者は、イエス・キリストが私たちと同じ「血と肉」を持つ身体となってくださった目的を、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(2:14,15)と記しています。イエスの十字架は、サタンの勢力との戦の場だったのです。

人間の目には、イエスが敗北したように見えました。しかし、何の罪もない神の御子自らが、全人類のすべての罪を負って、十字架にかかることができたということ自体が、サタンに対する勝利宣言だったのです。

人はみな、死の恐怖につながれて、自分の身を守るためと言いながら、嘘をついたり、人を裏切ったりします。それこそがサタンへの敗北なのです。

神はイスラエルを救うためにエジプトと戦ってくださいました。同じようにイエスは私たちを救うために十字架にかかってくださいました。私たちは今、キリストの受難を覚えるときを過ごしています。

 

伝統的な讃美歌で、主の御頭という有名なものがあります。これはもともと十番まで歌詞がありました。その1番から4番までは、イエスの御苦しみを非常にリアルにつぎのように描きます。

モーセが、「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主(ヤハウェ)の救いを見なさい・・主(ヤハウェ)があなたがたのために戦われる」(14:13)と命じましたが、イエスは十字架でまさに私たちのために戦ってくださいました。それから目を背けてはなりません。

 

1.聖き御頭(かしら)血潮に満つ いばらかぶされ さげすまれぬ こよなき誉れふさわしきを 今はあざけりののしり受く

2.貴き御顔 ああいたわし つばきかけられ打ちたたかる この世のすべて造りし主の 栄え奪うは誰(たれ)のわざぞ

 

3.今は隠れし 主のほほ笑み 死の闇やどす 主のくちびる  人の姿で現われしは この苦しみを受くるためぞ

4.主の負われしは わが罪とが 怒り受くるはわれなるべき  こころ痛めて悔ゆる者に 愛のまなざし注ぎたまえ

 

そして5番以降では、主の十字架の前にたたずむ気持ちが描かれ、6番には、息を引き取られた主の御頭を抱かせてくださいと歌われます。これはイエスの母マリヤの気持ちです。

彼女はイエスの苦しみから目を背けず、イエスの痛みをともに味わいました。私たちもピエタに描かれたようなその情景を思い巡らすとき、私たちの肉的な恐れも、十字架に釘づけにされて行きます。そしてやがて、復活の力が自分のうちに宿っているのが分かるでしょう。

 

5.わが飼い主よ 見つめたまえ きみはすべてのみなもとなり きみが糧もてこの身ささえ きみが霊もて活かしたまえ

6.きみが苦しみ仰ぎ続け われ御前より のがれまさじ 息を引き取る主の御頭 我が腕をもて 抱かせたまえ

 

7.われに幸い もたらすため 尊きイエスは 苦しみたもう  生くる限りは この身ささげ 十字架の愛に われは応えん

8.愛しきイエスよ 感謝あふる きみがあわれみ とわの望み この身冷たく死せるときも 愛の御手もてつつみたまえ

 

9.きみが愛なお 忘れしとき わが手をとりて 戻したまえ  恐れ惑える暗きときも きみが苦しみ 力なれば

10.主の十字架こそ わが盾なり いまわのときも 見させたまえ  きみが御姿心深く かたく据えなば やすけくあらん

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