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2015年4月26日 (日)

出エジプト記20章18節~24章11節「神の民とされるための契約」

                                                      2015426

ある人が、「マザー・テレサ、あなたはものを無償で与えて、貧しい人を甘やかしています」と批判したところ、彼女は「お金持ちを甘やかしている修道会はたくさんあります。貧しい人々を甘やかす修道会がひとつぐらいあっても良いでしょう」と答えました。確かに、この世の道徳は、貧しい者に厳しく、富む者に甘くなりがちです。

 

また、日本では、信仰の潔癖さよりは、柔軟さが評価されがちですが、マザーは「命なら差し上げられます。でも信仰は捨てられない」と断固と言いました。

彼女は驚くほど優しい方で、この地の暗やみの中に住む人々に寄り沿う「イエスの光」になろうとしていました。しかし、反面、彼女はその信仰の姿勢においては驚くほど純粋で、人間的な妥協を排し、一心に神を見上げていました。この優しさと厳しさ、それこそ「神のかたち」としての生き方です。

 

今回の箇所は、なかなか分かりにくい部分ですが、現代の私たちにとっても本当に多くの示唆があり、イスラム教への影響を初め、歴史的にも興味が惹かれます。また、ここには聖餐式の原点となる記事も記されています。

 

1. 愛の共同体を通してご自身を現そうとされた神

イスラエルの民は「十のことば」を主から直接聞くとともに、シナイ山の様子を見て、たじろぎ、遠く離れて立ちます(20:18)。そして、モーセが山に登って行くことが、「神のおられる暗やみに近づいて行った(20:21)と記されます。後にイザヤは、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(イザヤ45:15)と告白しましたが、私たちが「神に近づく」とは、「暗やみに近づく」こと、また「ご自身を隠す神」に近づくことでもあるということを忘れてはなりません。

「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる(詩篇37:4)とあるように、主は私たちの祈りにいつも耳を傾けていてくださいますが、神に近づくにつれて神を遠く感じるという側面があることも忘れてはなりません。

マザー・テレサが貧しい人々のただ中に住んで働きを始めたときは、いつも微笑みながら、神との親密な交わりを体験できていました。しかし、働きが順調になるにつれ、神に見捨てられているような孤独感、空虚感を感じました。

彼女は深く悩みましたが、やがてそれこそ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスの孤独に近づいていることであると理解しました。神が彼女の中に確かに働いているからこそ、何によっても満たされない神への渇きを感じたのだと示されたのです。

これはしばしば「たましいの暗夜」と呼ばれます。もしあなたが、たとえば、「私は、かつては信仰の喜びに満たされていたのに、今は、神を遠く感じるばかり」と思いながら、それでもなお、神との交わりを求めているとしたら、あなたは健全な成長のプロセスにいます。なぜなら、それこそ、「神のおられる暗やみに近づいている」ことの証しだからです。

 

そして、主はモーセを通して、「あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た(20:22)と言われました。暗やみの中におられる神は、ご自身のみことばを通して私たちに現れてくださいます。

ですから、「想像の翼を広げて神を思い巡らす」ことは危険です。あくまでも自分の知性や感覚で神を理解することはできないということをわきまえて、神からの啓示に心を開くことが信仰の始まりです。

そして、「十のことば」に続く第一の教えは、「わたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない」(20:23)というものでした。これこそ神が最も忌み嫌われる罪です。

偶像を造ることは、ご自身を隠される神を、自分たちの勝手なイメージで表わそうとすることです。しかし、イスラエルこそ、その神を、目に見えるように表す「祭司の王国、聖なる国民(19:6)でした。「ご自身を隠す神」が、イスラエルを通してご自身を現そうとするとは、何という驚きでしょう。彼らが、律法を守り、愛に満ちた共同体となることで、世界は神を知ることができるはずだったのです。

 

あなたが彼らの前に立てる定めは次ぎのとおりである(21:1)以降は、イスラエルの民が約束の地で、神の民として整えられるための一時的な規定で、新約の時代には適用されませんが、その基本原則は、三千数百年後の私たちにとっても、極めて示唆に富んだものです。

まずヘブル人は同胞を奴隷にすることは禁じられていましたが(レビ25:35-46)、その前提のもとで「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」のことが記されます(21:2)。これは明らかにヘブル人の奴隷を外国人から買い取ることを意味し、その場合は、「七年目には自由の身として無償で去る」ことができると記されているのです。これは奴隷を買い取る人の財産権に配慮しながらも、奴隷にまで身を落とした同胞を助け出す道を示したものです。

5,6節では、奴隷に自分の家族を守る権利が保障されています。とにかく、人と人との関係に関する律法の第一が、奴隷の解放やその家族の保護に当てられているのは画期的です。

 

なお、「人が自分の娘を女奴隷として売るような場合(21:7)とは、文脈から明らかなように、貧しい人々が自分の娘をどこかの裕福な貴族の「大奥」に入れるようなことを意味しています。

これは豊かな人にとっては一夫多妻が当然であったような中での規定ですが、そこでは女奴隷の最低限の立場が保障されるとともに、「他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない(21:10)何人もの妻たちを平等に扱うように命じられます。

これは、一夫多妻の許容というより、男の身勝手を抑え、社会的弱者である女性を守る規定です。

 

2112-14節では殺人罪に対する死刑の規定が記されますが、そこでは殺意のない殺人者には、「のがれる場所」が指定されているほど、加害者の人権への配慮さえ記されていました。

一方で、「自分の父または母を打つ者」ばかりか「のろう者(21:15,17)までも、「必ず殺されなければならな」と繰り返されています。父母を敬うことは、神を恐れることと切り離せません。目に見える権威を軽んじる者は、目に見えない権威をも軽んじるからです。

 

1819節では人に傷を負わせた場合にどのように弁償すればよいかの現実的な賠償規定が記されています。2021節では「奴隷は彼の財産」という経済論理を認めながらも、死ぬまで罰するならば復讐」という死刑が主人に課せられると記され、奴隷に対する処罰に制限が設けられています。

22-25節では、有名な「目には目。歯には歯」が記されていますが、これは復讐を正当化する教えではなく、裁判での賠償規定です。なお文脈からすれば、「人が争っていて」、みごもった女を流産させながら「殺傷事故がない場合」の「罰金」の「裁定」の仕方を述べた後、それと反対に、「殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない」と記され、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷」という完全数七つの基準が記されます。

これは文字通りに施行するというよりは、加害者に被害者と同じ痛みを体験させることによって、「神のかたち」に創造された者の尊厳を守ろうという神の知恵です。最近のネット世代の傷害事件を見ると、この基本精神は時代遅れの野蛮ではないことが分かります。

しかも、ここでは身分の差や、その人の社会的影響力などは関係なく同じ罰が与えられるのですから、権力者の横暴に歯止めがかかります。文脈からすれば、これは本来、人と人との争いを傷害事件に発展させないための歯止めの教えでした。

イエスは、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています」とこの規定を引用しながら、「しかし、悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい・・一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:38-41)と言われました。これは真逆の勧めのようで、実際は、原点の精神に立ち返らせる解釈でした。

 

そのことの現れが、「自分の・・奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない(21:27)という当時としては奇想天外な、奴隷の人格権を保証する教えです。ここには、奴隷制を実質的に対等の雇用関係に変える力があります。

小生は30年近く前の伝道実習の際に自転車で転倒して前歯を折ってしまい、今になって、また非常に困っているので、律法の記述の暖かさが身に沁みて来ます。

 

2128節から2217節には当時の社会で起こり得た様々な事故や争いへの対処の指針が記されています。そこに流れている原則は、「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから(創世記9:6)という、すべての社会的弱者へのいのちの尊厳の保護です。

同時に、すべての人への平等な財産権の保護、また人の財産権を犯した者には具体的な「償い」が求められるということ、また家畜に対する注意義務、また処女の純潔に対する最大限の尊重などです。当時の権力者の横暴や独身女性の生きにくさなどを知ることなしにこれらの規定を読むと誤解が生まれがちですが、そこに流れる神の愛を読み取る必要があります。

 

2.「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」

ここには、厳し過ぎるように思える規定も記されています。たとえば、「呪術を行なう女は生かしておいてはならない・・・ただ主(ヤハウェ)ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶(絶滅)しなければならない(22:18-20)を読むと、ぞっとしますが、これは異教徒にではなく、神の民と自称する者に適用されるさばきです。

それは、イスラエルが神に選ばれ特別に愛された民であることと表裏一体です。新約でも「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」(Ⅰコリント16:22)と言われるように、霊的な浮気は、自分の足を打ち抜くような自滅行為なのです。

 

その民族的な誇りと責任の一方で、「在留異国人を苦しめてはならない・・・あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったから・・」(22:21)と、誤った選民思想を正す少数民族の保護が命じられています。

 

「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない・・わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり・・あなたがたの妻はやもめとなり・・子どもはみなしごとなる」(22:22-24)では、神が社会的弱者を憐れみ、権力を悪用する者に、復讐すると警告します。

さらに、「隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない(22:26)と、貧しい同胞者には、無担保、無利息で金を貸すよう命じられます。その根拠が、「わたしは情け深いから(22:27)と簡潔に記されます。これを心で味わってみたいものです。

 

 「神をのろってはならない(22:28)と並んで、「民の上に立つ者をのろってはならない」と記されているのは興味深いことです。どのような社会でも、為政者や官僚に対する不満は絶えることはありません。新約でも「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた者です」(ローマ13:1)と記されています。

指導者の葛藤を理解しようとしない下品な批判は厳に慎むべきです。そして、様々な社会既定の最後に、「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない(22:31)と記されています。

 

  231-3節も社会正義に関する教えで、「偽りのうわさ」権力者におもねる偽証が戒められながら、同時に、「その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない(23:3)と、公正さが強調されています。

 

  2345節は、人間関係に悩まざるを得ない私たちにとって、嬉しくなるほど現実的な教えで、あなたの敵の牛が・・迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と記されています。

やりたくなくても」とは、厳密には、「見捨てることを止めて」と記され、正直な気持ちを横に置いて助けることを意味します。そうすることで、私たちを嫌っている人の隣人となるのです。

 

236-9節には裁判や社会的正義に関する教えですが、「わたしは悪者を正しいと宣告することはしない(7)から、「罪人である私たちが神の前で義人とされる」という逆説の背後に見られる神の痛みが見えてきます。

それについて使徒パウロは、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです(Ⅱコリント5:21)と記しています。キリストの犠牲なしに罪人の義認はあり得ません

 

2310-12節では、「七年目には、その土地を・・休ませなければならない」と命じられ、また「七日目は休まなければならない」と命じられます。それは、「民の貧しい人々に、食べさせ・・野の獣に食べさせ・・牛やろばが休み・・女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるため」でした。

この規定は、すべて、当時の社会制度や私有財産権を尊重しながら、同時に、社会的弱者を保護し、落ちぶれた人に再出発の可能性を与えるためのものです。

現代の日本が、一度でも道を踏み外した人に極めて不寛容で、強者の権利を保護する方向に働きがちなのとは大違いです。奴隷の子に「息をつかせるために」、主人が休むように命じられていることに感動を覚えます。

 

14-17節には年に三度の祭りを祝うことが命じられています。これは過越しの祭り、七週の祭り(初穂の祭り)、仮庵の祭り(収穫祭)で、現代の私たちにとっては、イースター、ペンテコステ、収穫感謝祭です。

 

子やぎを、その母親の乳で煮てはならない(23:19)とは、豊穣を求める具体的なまじないを真似ることの禁止ですが、同時に母親の乳は子のためにあるという秩序を守る、生き物に対するあわれみの原則も見られます。

 

もし、御声に確かに聞き従う・・なら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう」(23:22)とは、真に恐れるべき方を知る時、敵や仇への恐れから解放されるという原則です。

主はアブラハムを召すときに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう(創世記12:3)と言われたとおりです。

 

あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない(23:24)とあるのは、神がイスラエルを用いてカナンの人々とその悪習を絶滅しようと決めておられたからです。

現代の私たちには、他の神々を拝む人の風習や偶像を打ち壊すようには命じられてはいません。しかし、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とあるように、この世の偶像礼拝者の風習や価値観が、教会の中に入り込むことがないように、常に目を見張ることが命じられています。「(ヤハウェ)に仕えなさい(23:25)という命令こそは、すべての祝福の前提だからです。

 

27-31節には、主ご自身が約束の地から偶像礼拝者を追い払ってくださることが約束されていますが、「わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することがないためである」(29)と記されています。

これは現代にも適用できます。神は私たちの前に、様々なわざわいを起こすような人を残していますが、それは彼らを一度に追い払うと、この地が無政府状態になるからです。たとえば、米英がイラクの横暴なフセイン政権を一気に打倒しましたが、その結果、自称イスラム国が生まれました。ここで神は、「わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう」と言っておられます。忍耐が何よりも大切です。

 

233233節では「彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない・・・あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないから」と、偶像礼拝の文化に同化しないことが命じられます。それは彼らが、主の「聖なる民」となるためでした。しかし、実際は、彼らは約束の地に入った途端、カナンの偶像礼拝の文化にのみ込まれ、さばきを受けます。

 

3. 神の民とされるための「契約の血」

   24章には、主とイスラエルの長老七十人との契約の様子が描かれています。「そこでモーセは来て、主(ヤハウェ)のことばと、定めをことごとく民に告げた(24:3)とは、モーセは一度山を降りて、上述のことばを語ったということです。

このとき民は、「(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ないます」と、「みな声を一つにして」答えました。それが忘れられないように、「モーセは主(ヤハウェ)のことばをことごとく書き記し(24:4)た上で、いけにえをささげ、その血の半分を「祭壇に注ぎかけ」ます(24:6)。これは、神の側がこの契約の書にサインをしたというしるしです。

 

そしてモーセはこの今書き記したばかりの契約の書(2022節~23)を、つまり先と同じことばを読み上げました。このときも彼らは、「(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ない、聞き従います(24:7)と繰り返しました。

それで彼は、残りの半分の血を取って、民に注ぎかけ、「見よ・・・これは、主があなたがたと結ばれる契約の血である(24:8)と述べました。これは、民の側から自分の命をかけて契約を守ることの保証、血判状のような重い意味があります。これによって、彼らが「祭司の王国、聖なる国民(19:6)とされるのです。

イエスは最後の晩餐で、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です(マタイ26:27,28)と言われました。イスラエルは契約を守ることに失敗をして国を失いました。それで、神の御子が、神と人との契約の仲介者となり、不信仰で罪人のままの私たちを、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(Ⅰペテロ2:9)としてくださったのです。

 

その後、長老七十人がモーセともにシナイ山に上って行き、何と「イスラエルの神を仰ぎ見た」と記されます。その様子が、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空()のようであった」と描かれています。

主は「天はわたしの王座、地はわたしの足台」(イザヤ66:1)と言っておられるように、主を仰ぎ見るとは、何かの姿を見ることではありません。彼らが見たのは、主ではなく、主の足台に過ぎず、それが天()のようであったというのです。サファイヤは濃い青色の宝石ですが、「青空」と訳されているのはサファイヤをイメージした意訳であって、厳密には、「サファイヤを敷きつめた様子が、天そのもののように透き通っていた」と記されています。

要するに、彼らは神を見たのですが、それは透き通った空のようだったのです。ここに、神はいかなるかたちにも表現しようのない方であるということが明確にされています。

その上で、「神はイスラエルの指導者に手を下されなかったので」、彼らは生きたまま「神を見、しかも飲み食いした(24:9-11)というのです。これは契約の成立を祝う祝宴です。これは、神が、地上にエデンの園の交わりを復興したときの姿をあらかじめ見せてくださったものです。

そして、私たちの聖餐式も、御国で顔と顔とを合わせて神を仰ぎ見て飲み食いする祝宴のリハーサルです。

 

今回の箇所の最初では、神の臨在が「暗やみ」で、また最後では「透き通った青空」で描かれました。一見、対照的なようでありながら、共通するのは、人が思い浮かべることのできない状態で、神からの啓示がなければ何もわからないということです。

一方、神はイスラエルに神の民としての教えを与えることによって「祭司の王国、聖なる国民」としようとされました。つまり、神はイスラエルを通してご自身を世界に現そうとされたのです。そしてそこに住みひとりひとりは、かけがえのない「神のかたち」として尊ばれるべきでした。三千年前の文化が分からないので、私たちは細々とした規定に現された神のあわれみが見えなくなりがちですが、この原点を忘れてはなりません。

 

ところが、これだけの固い約束を交わしたはずの民は、この四十日後には、金の子牛を作って拝むことになるのです。何と言うスキャンダルでしょう。そして、私たちも、同じ弱さを持っているのかもしれません。しかし、今、私たちは、「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラテヤ2:20)と告白することが許されています。

私たちの信仰こそ、神の創造のみわざです。それは、「『光がやみの中から輝き出よ。』と言われた神ご自身が、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせて(Ⅱコリント4:6)くださったとある通りです。

何と、神の御霊ご自身が、弱く貧しい私たちの内側に、神を愛する愛を起こしてくださっているのです。「神のかたち」として生かされる意味を考えましょう。

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2015年4月19日 (日)

191節~2021節「十のことば」

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 「十戒」として親しまれている神の御教えは、聖書では「戒め」というより「十のことば」(34:28、申命記4:13,10:4)と描かれます。私は昔、「十戒」が罪を指摘し、キリストの十字架が罪の赦しを与えるという構図で理解していました。

しかし、ここに神の民を創造しようという神の愛を見出し、またこれが当時の世界でいかに画期的な教えであったかを知って、心から感動しました。しかも、安息日の教えこそがその中核であり、そこに福音が詰まっていると分かり聖書の読み方が変わりました。

人は、自分の都合に合わせた善悪を主張しながらも、どこかで全ての人に共通の道徳律があると信じています。しかし、創造主を認めないで、どうして時代や文化を超えた基準があり得るでしょう?

 

<十のことばの背景> 

「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の新月(直訳)のその日に、シナイの荒野に入った」とありますが(19:1)、彼らがエジプトを出た日は、第一の月の新月から十五日目(満月)ですから、第三の新月の日は約六週から七週間後という計算になります(今年は518日に相当)。それから三日目に、主がシナイ山に降りて来られ、律法を与えてくださいました。

イスラエルの民は過越の祭り後の七回目の安息日の翌日(50日目)を「七週の祭り」と呼び、律法が与えられたことを記念します。それは現代のペンテコステで、今年は524日です。イスラエルの民は、乳と蜜の流れる地で暮らすことばかりを願ったことでしょうが、神が民を救い出した第一の目的は神の民、つまり主(ヤハウェ)を礼拝する共同体を創造することでした。

これは私たちにも当てはまります。私たちがサタンの奴隷状態から救い出された第一の目的は一人一人が天国に入れられるため以前に、神の民に加えられ、この東京砂漠とも言われる地で、愛の共同体を形成するためでした。

パウロはそれを、「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです(ローマ6:17,18)と記しています。多くの人は「自由」をそれぞれが自分の意志のままに生きられることと誤解していますが、聖書の語る自由とは、罪の支配からの自由であるとともに、神の義の規準に従って、神に近づく自由なのです。

 

主はまず、「あなたがたは見た・・」(19:4)とご自身のみわざを思い起こさせ、「あなたがたをわしの翼に載せ・・」と言われました。

これは、彼らの努力とも熱意とも信仰とも関係なく、一方的な恵みによって解放されたことを指します。彼らは、海が分かれ、天からパンが降り、岩から水が沸くという不思議を通して、主(ヤハウェ)を知ったのです。

 

神はその上で、「もし・・まことにわたしの声に聞き従い・・契約を守るなら・・あなたがたは・・わたしの宝となる」(19:5)と言われます。神は既にイスラエルをご自身の宝と見ていたからこそ救ってくださったのですが、民の側にその自覚がなければ、実質的な意味で神の宝になることはできません。

また、それは「わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:6)とも言いかえられます。「祭司」とは、神と他の民との仲立ちとなること、「聖なる国民」とは、神の聖さを表す民という意味です。彼らの選びには、世界中の人々をイスラエルの神ヤハウェに服従させるという責任が伴っていました。

それに対して民は、「みな口をそろえて」、「私たちは主(ヤハウェ)が仰せられたことを、みな行います」と模範的な応答をします(19:8)

ただ、その後、彼らは自分たちの特権と表裏一体にあった責任を忘れ、神のさばきを受けます。それに対して、イエスこそがイスラエルの王としてこの使命を全うしてくださいました

そして、この責任は現代のクリスチャンに受け継がれ、ペテロはそのことを、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです(Ⅰペテロ2:9)と記しています。

 

ところで、神が人間には近づくことのできない聖なる方ですが(19:10-15)、主は神がご自身の側から民に近づくために降りて来られるための備えとして、「三日目のために用意しなさい」(19:11,15)と言われ、シナイ山の周囲に境を設けさすとともに、聖別のしるしとして自分たちの着物を洗うように命じられました(19:10,14)

そして、「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響き・・主(ヤハウェ)が火の中にあって、山の上に降りて来られ」ました(19:16-18)。「角笛の音」のことは19節にも記されますが、人々にこれから語られることに注目させる警告の音でした。その際、山全体が、鉄を精錬する溶鉱炉のようになり、煙が円錐状に勢い良く立ち上り、それによって、全山が激しく震えたのでした。

太陽が少し地球に近づきすぎただけで、動植物は燃え尽きてしまいますが、その太陽の創造主がシナイ山に下って来るというのですから、それは恐怖に満ちた光景になるのは当然とも言えましょう。私たちは、主(ヤハウェ)が私たちのただ中に住まれるということを、あまりにも自分勝手に都合よく解釈してはいないでしょうか。

しかも、この場合は、まずモーセがシナイ山の頂に登山する必要がありました。それは標高2,250m程度もある高い山です。

主は不思議にも、民が、「主(ヤハウェ)を見ようと」して「滅びるといけない(19:21)、「祭司たちも・・身をきよめなければならない。主(ヤハウェ)が彼らに怒りを発しないために」(19:22)、「祭司たちと民とは、主(ヤハウェ)のところに登ろうとしては押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために(19:24)と言われました。

これは、主ご自身がご自分の権威を守るために民を罰せざるを得ないというのではなく、主が民に制限を設けられるのは、民を守りたいという愛の動機から生まれたということが描かれています。

 

 

「それから神はこれらのことばをことごとく告げて仰せられ(20:1)ました。これは申命記5章で、「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた・・」(22)と描かれ、神がモーセの仲介なしに民に直接語りかけたことが分かります。

しかも、神ご自身の手で二つの石の板に書かれ、それが契約の箱に納められていました(申命記10:4,5)。これこそ、時間と空間を超えて、すべての時代のすべての民に向けて語られた主(ヤハウェ)ご自身の「契約(申命記4:13)そのものです。これこそ最高の愛の教えです。

 

新約と旧約によって、契約の内容が変わったわけではありません。そのことを主は預言者エレミヤを通して、「その日、わたしは・・新しい契約を結ぶ。その契約は・・・エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない・・・彼らはわたしの契約を破ってしまった・・・わたしはわたしの律法を・・・彼らの心にこれを書き記す」と言われました(エレミヤ31:31-33)

それを受けてパウロは、コリント教会の人々に向かって、「あなたがたが・・・キリストの手紙であり・・・生ける神の御霊によって書かれ石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」と記しました(Ⅱコリント3:3)

つまり、契約の文言ではなく、与えられ方が変えられたことこそ、新しい契約の特徴なのです。キリストの御霊を受けいている私たちはこのままで神の愛を分ち合う「キリストの手紙」とされているのです。

 

<前文> 「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神である(20:2)

 神はご自身の名を、ヤハウェ「わたしは『わたしはある。』という者である」と紹介しつつ、結婚の申込みのように、「わたしは、あなたの神」と語りかけ、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」と具体的な事実を示してご自身の真実を示されました。

十のことば」を、前文を省いて読まれることから、堕落した戒律宗教が始まります。

 

1.「あなたには、わたしのほか()に、他の神々があってはならない」(20:3)

 これは、一人一人への愛の語りかけであり、結婚の際、浮気をしないと誓わせることと同じです。当時のカナン人は、陽気なバアルを拝んでしましたが、そこには退廃がありました。

私たちも、主(ヤハウェ)を信じると言いながら、「肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢(Ⅰヨハネ2:16)などを、主との交わりよりも優先することがないでしょうか。神は私たちにお金の管理を命じられましたが、「金銭愛こそあらゆる悪の根(Ⅰテモテ6:10私訳)とも言われます。

 

2.「あなたは、自分のために、偶像(idol or carved image)を造ってはならない・・・」 (20:4-6)

この直後、イスラエルは、豊かさや力を現わす「金の子牛」の像を作って拝みました。私たちも無意識に勝手な神のイメージを作る危険があります。ここでは、「拝んではならない、仕えてはならない」と命じられた後、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と繰り返され、「ねたむ神(20:5)と付け加えます。

夫婦関係は自分の理想のイメージを相手に押し付け、あるがままを認め合わないことから破綻します。神を、あなたの身勝手な理想のイメージに変えてはなりません。たとえば、「神が愛なら、地獄が空になるはず」という論理は、自分にとっての「愛」のイメージを創造主に押し付けることに他なりません。真の愛が神によって教えられるのであって、愛を神とするのは偶像礼拝です。

 

神は愛の交わりを切望されるからこそ、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす(20:5)と警告されます。実際、親の生き方の歪みは孫の代まで不幸にするという現実があるのではないでしょうか。これは神の罰というより、必然的な現実です。

ただし、神は、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」との対比を見せ、神を愛する者への祝福は、後の世代の者すべてに及ぶと励ましておられます。

 

3.「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない」(20:7)

この解釈から、御名が「主(アドナイ)と呼び変えられ、大贖罪の日に、大祭司が一度だけ、ヤハウェと発音するようになったと言われます。ただ、この命令の中心は「誓い」の際、「むなしく、わざとらしく」御名を用いることの禁止でした(レビ19:12)

イエスも、「『主よ。主よ。』と言う者が天の御国に入るのではなく・・」(マタイ7:21)と言われ、軽々しく御名を持ち出すことを戒めました。もちろんハリウッド英語などで御名が悪用されているのは論外です。

 

ヒトラーは「造物主の精神において行動すべき…ユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦うのだ」と豪語し、「神のかたちに造られた人」を殺しました。創造主の御名を軽く扱うことと隣人を軽蔑することには表裏一体なのです。

 

4.「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(20:8-11)

 これは他と違って肯定命令です。「安息(シャバット)は、「神は・・第七日目に、なさってすべてのわざを休まれた」(創世記2:2,3)の「休む」に由来し、これは休む」ことに誇りを与える教えです。

人の価値が仕事の能力で計られる人間社会で、「七日目は・・・主の安息である・・どんな仕事もしてはならない」と命じられることは革命的です。

 

同時に、ここでは「息子、娘」ばかりか「奴隷、家畜、在留異国人」までにも休みが命じられます。この日を創造主に聖別(他の日と区別)して、主のみことばを聴きいっしょに礼拝し、食事し、遊び、喜び合うのです。

まさに、この日には、隣人愛と被造物への愛が実践されます。卵に悪玉コレステロールが高いのは、鶏を機械のように扱い、ストレスをかけたからという分析もあります。家畜を休ませないことは自分の身を害することにもつながるのです。

 

イエスは、「安息日は人間のために設けられた(マルコ2:27)と言われ、これを「喜びの日(イザヤ58:13)に回復してくださいました。私たちには、「神の安息にはいるための約束はまだ残っている(ヘブル4:1)のですから、これを果たすべき義務としてより、やがて実現する真の安息の影として、喜び祝うべきでしょう。

 

5.「あなたの父と母を敬え(20:12)

  これも肯定形で、「これは第一の戒め(エペソ6:2)とさえ呼ばれ、人間関係の核心の教えです。「敬え」とは、神をあがめ、恐れることにも用いられる「栄光」と同じ語源の重いことばです。

これは親の良し悪しや年齢に関わらず、無条件の命令で、「あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたに与える地で、齢が長くなるため(エペソ6:3では申命記を引用しつつ「そうしたら・・しあわせになる」が加わる)」との約束がついています。これこそまさに幸せの鍵です。

 

確かに、親から虐待を受け、親から離れなければ自由になれない人もいます。ただし、それでも親を愛せないこと自体が悲劇であることに変わりはありません。その人は、神の愛も心から味わうことができなくなるからです。親を敬うことなく本当のしあわせを味わうことができる人はいません。ですから、主は、それぞれの出生をご存知の上で、それぞれがそれぞれのときに親を敬うことを可能にしてくださいます。それこそ最高の祈祷課題と言えましょう。

 

6.「殺してはならない(20:13)

 生きる価値のない人は殺しても構わないと考えられる風潮は今もあります。つい七十年前に日本やドイツが行なったことを考えれば、これが三千年前にどれだけ大きな意味を持っていたかがわかります。

昔も、胎児や障害者、老人の命が軽んじられていました。今もまだ「中絶」という名のもとに、母親が胎児を殺すことが後を絶ちません。

 

このあまりにも簡潔な禁止命令の根拠は、「神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世記9:6)という点にあります。すべての人は、目に見えない創造主のイメージを現わす、かけがえのない高価で尊い存在です。それからすれば、自殺も、安楽死も、神の命令にそむくものです。創造主だけがいのちを与え、いのちを取り去る権威を持っておられるからです。

また、たとえ、殺しはしないとしても、誰も、「神のかたち」に創造された自分も他人も、無用の存在と決めつけることは許されません。それでイエスは、「兄弟に向かって・・・『ばか者』(当時ののろいのことば、『死ね!』というニュアンス)と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます(マタイ5:22)とさえ言われました。

 

7.「姦淫してはならない」(20:14)

 当時は一夫多妻が許され、力のある者が、弱い者の妻を平気で奪うことさえありました。しかし、神は、権力者の横暴を抑え、すべての家庭が尊ばれるようにされたのです。

なお、イエスは、結婚を聖別し、結婚以外でのすべての性的な交わりを、姦淫の罪と見られました(マタイ19:3-9、Ⅰコリント6:16)。聖書の教えには他宗教のような戒律はありませんが、唯一、性道徳に関しては、驚くほどに厳しくなっています。

最近、同性愛を結婚として公に認めることが人権の問題にすり替えられていますが、本来、「結婚」ということばは、どの文化においても、男と女が、互いへの献身を約束して結ばれるものとして用いられています。

聖書の神を信じない方々に、性道徳の話しを聖書から説いても通じない場合が多いですが、同性婚などという概念は、「結婚」という言葉の定義を根本から覆す発想であると訴えることができるはずです。これは人権の問題ではなく、人が男と女に創造されたという人間観の問題です。

 

神は、「性」を「聖」の基準に引き上げさせようとします。しかし、この高い基準こそ、世の人々がキリスト教式の結婚式に憧れる根拠でもあります。一夫一婦制は、キリストの教えから始まっていることを私たちは誇るべきです。

 

8. 「盗んではならない」 (20:15)

昔は、敗戦国の人の所有権が認められないのは当然の事で、権力者はしばしば民衆の財産を合法的に奪うことさえできました。後にイスラエルの王アハブが、ナボデのぶどう畑を譲り受けられなくて悩んでいたところ、彼の妻シドンの王女イゼベルは、「今、あなたはイスラエルの王権を取っているのでしょう(Ⅰ列王21:7)と言い、力づくで取り上げることを躊躇しませんでした。しかし、その結果、後に彼女の死体が犬に食べられるというのろいを招きました(21:23)。他国では当然のことでもイスラエルでは許されないことでした。

ですからこれは何よりも、権力者の横暴を抑え、社会的な弱者の生存権を守る命令だったのです。権力者は自分の横暴を正当化しがちです。

 

9.「偽りの証言をしてはならない。」(20:16)

  当時は、少しの罪でも死刑になりましたから、偽りの証言は恐ろしい力を持ちました。先の例では、アハブの妻イゼベルが町の長老たちに、「ナボデが神と王をのろった(21:13)偽証させ、彼を死に追いやり、ぶどう畑を奪いました。それは、北王国イスラエルの首都サマリヤの堕落の象徴的な出来事でした。

現代は、うわさ話しによって、人の名誉を傷つけることが戒められるべきです。名誉は、人間にとって最高の宝であることを忘れてはなりません。

 

10.「欲しがってはならない」(20:17) 

「欲しがってはならない」ということばが、二回繰り返されます。これは心の中の隠された思いが問題にされています。先の例で、アハブは最初ナボデからぶどう畑を買い取りたいと提案し、断られたことから悲劇が始まりました。

すべての罪は、「欲しがる」という思いから始まります。後にパウロは、自分自身を「律法による義についてならば非難されるところのない者です(ピリピ3:6)と誇ることさえできましたが、この点に関しては、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼり(欲しがる思い)を引き起こしました(ローマ7:8)と自分の罪深さを認めざるを得ませんでした。

欲しがってはならない」言われれば言われるほど、欲しくなってしまう衝動が働いたのです。

 

エデンの園での最初の罪は、「賢くするというその木はいかにも好ましかった(欲しがった)それで女はその実を取って食べ・・」(創世記3:6)と描かれており、欲しがることこそが悲劇の原因でした。

その子孫である私たちも、獲得することに喜びを感じますが、救い主イエスは、失うことの中での自由と祝福を保証してくださいました。

 

 

   なお、この主の御声を聞いたイスラエルの民は、「雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃し」「たじろぎ、遠く離れて立った」と描かれています(20:18)。彼らはモーセを通して神の教えを聞きたいと願い、「神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから(20:19)と言いました。

それに対してモーセは、まず、「恐れてはいけません」と言いました。それは主のみことばを直接聞くことを恐れる必要はないという意味です。なぜなら、それは主ご自身が彼らを殺すためではなく、真の意味で生かすために、この地にまで降りて来られたからです。

そしてそれは彼らを「試みるため」とは、それによって彼らが生きることができるかを試すためという意味です。ただ、そこには、神ご自身が彼らをこの試験に合格させたいという願いがあったので、「あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないため(20:20)と記されています。

神は、敢えて、彼らの心に恐れを抱かせるような現実を見せつけることによって、彼らが主を恐れ、主の命令を真剣に受け止めるようにと導いておられます。

 

恐れてはならない」と言われながら、恐れさせるというのは、人間の理屈を超えています。神が私たちに近づきご自身の教えを与えてくださるのは、私たちが真の意味で「神のかたち」として生きられるためです。それを恐れる必要はありません。

しかし、そのかけがえのない御教えを軽く扱う者には、厳しいさばきが待っているという「恐れ」をも持つ必要があります。私たちの場合も、そのような神への恐れがなければ、イエスを救い主として求めようとする気さえ起きないことでしょう。

十のことば」は戒律ではなく、私たちを生かす教えですから、それを恐れる必要はありません。しかし、これを神が与えてくださった理由を、恐れをもって受け止めない者には、自滅が待っています。

 

もしイスラエルが、「十のことば」を守っていたとしたら、彼らの国は平和のうちに繁栄し、創造主にとっての「宝」の民として全世界の憧れとなり、また、「祭司の王国」として、主(ヤハウェ)のすばらしさを全世界に証しすることができたはずでした。そして、この教えは現在の私たちをも本当の意味でしあわせにし、平和と繁栄を与える規範です。

 

神は、私たちをご自身の花嫁と見られた上で、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられました。これこそ第一から第四の教えの要約です。

また、当時も今の独裁国家でも、社会的弱者の生命、家庭、財産、名誉の権利が軽んじられましたが、神はご自身が神の民の王として、人と人とが愛し合う共同体を造ろうとされました。それが第四から第十の教えであり、その要約が、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」です。

そして、安息日の教えこそは、十のことばの前半と後半を合わせる結びの帯の位置にあります。

 

パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです・・・行いによるのではありません」と言いながら、その直後に、「私たちは・・キリスト・イエスにあって造られた・・神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と言いました(エペソ2:8-10)。

その良い行いの基準がこの「十のことば」であり、それを私たちは、肉の力によってではなく、神から与えられた聖霊によってまっとうさせていただくのです。

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2015年4月12日 (日)

ダニエル11:40~12:13「思慮深い人々は星のようになる」

 2014412日 

 トマ・ピケティ著「21世紀の資本」では貧富の格差拡大の様子が分析されていますが、実は、戦後日本の高度成長期には歴史上稀有な中間層の成長が見られ、一億総中流などとさえ言われました。

私が生まれた1953年から1973年のオイルショックまでの20年間、実質国民所得は年率10%近くも増え続け、一人当たり国民所得も約5倍になりました。1973年以降この教会が始まる1989年まで経済成長率は4%程度にまで落ちましたが、それでも歴史上未曽有の成長水準でした。

客観的には、経済成長率が45%もある社会では、持てる者と持たざる者との格差は縮小し、努力が経済的にも報われるという現実が確認できるのです。

ただ、立川での礼拝が始まると同時に日本経済の成長率はゼロに近づいています。それとともに貧富の格差は急速に拡大しています。残念ながら、それこそが歴史的には常識だったのです。第二次大戦後どの国でも格差が縮まりましたが、それは二つの大戦による未曽有の破壊からの回復過程の特殊要因だったのです。

たとえば昔から、土地を初めとする様々な資産は、普通に運用していれば年率5%程度で自己増殖を続けます。もし5%を複利で増やせば、世代交代が起こる30年間たつと資産は何と4.3倍にもなります。一方、普通の労働者は、真面目にこつこつ働いても、年率1%で資産を増やせる程度です。これを複利にすると30年で35%の増加です。

つまり、強い者が何らかの手段で一度資産を手にするとそれはどんどん自己増殖し、格差は拡大するばかりという現実があるのです。そして、ヒンズー教のカースト制度を代表例に、多くの宗教は格差を身分制として正当化する方向に作用してきました。

 

 「正直者がバカを見る」ような世界、言葉巧みにうまく立ち回る人ばかりが評価される世の中は、誰もが嫌だと思いますが、現実の経済では、一度富を手に入れた者は黙っていても豊かになり、貧しい者はどんなに努力しても貧困から抜け出ることができないのです。

しかし、聖書は、そのような冷酷な現実の中にも、神のあわれみのご支配が働き、すべてを逆転すると記しています。その代表がダニエル書です。そして、イエスの復活こそ神の公平なさばきの現れです。十字架はサタンの勢力の勝利と見られましたが、神はイエスを死者の中からよみがえらせて、この世的な勝ち負けの基準を逆転してくださいました。

神のあわれみとイエスの復活を知らない人にとっては、富と権力こそが幸福の基盤に見えるというのは致し方のないことかもしれません。しかし、イエスは、ご自身の復活を知っておられるからこそ、「悪い者に手向かってはいけません・・右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」と言われたのです。それは神が最終的に公平なさばきを下されるということを知っている者としての告白です。      

 

1.「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」

ダニエル11章にはアレクサンダー大王の後継者たちの国々の争い、北の王と呼ばれるセレウコス朝シリアと南の王と呼ばれるプトレマイオス朝エジプトの間の戦いの様子が預言的に記されています。11節から19節までは、紀元前223年から187年にシリアを支配した北の王アンティオコス三世(大王)による南のエジプト王との戦いの様子が驚くほど正確に描かれています。

しかも、そこに当時、急速に勢力を増してきたローマ共和国が彼の前に立ちはだかることが、「ひとりの首領が、彼にそしりをやめさせる」(11:18)と描かれています。このときにローマに人質として差し出されていながら、10年後に王となったのが、アンティオコス4世(エピファネス)です。

 

アンティオコス四世(エピファネス)は権謀術数によって政治の実権を握り、兄の息子を葬り去って、40歳で王になります。「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」(11:21)とはそのような行動を指していると思われます。

その後、彼はエジプトとの戦いに決定的な勝利を収めますが、ローマ共和国の介入に譲歩せざるを得なくなることが、「キティム(キプロス)の船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し」(11:30)と記されます。

なお、その間に、ユダヤでの独立運動が起こります。彼は紀元前167年にエルサレムを急襲し、三日間で4万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷にします。そして、エルサレム神殿をゼウス・オリンポスの神殿に作り変え、安息日を守っていた人々を虐殺しました。そのことが、「彼は、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者を重く取り立てるようになる。彼の軍隊は立ち上がり、聖所のとりでを汚し、常供のささげものを取り除き、荒らす忌むべきものを据える」(11:30,31)と記されています。

そのような中で堕落してゆく者たちと、神を恐れる人々との関係が、「彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである」(11:32-35)と記されています。

 

「思慮深い人」ということばが原文では33節と35節の冒頭に記されていますが、これは32節の、「巧言をもって」、また34節の「巧言を使って」と対比されます。

そして、誰よりもアンティオコスこそが、「巧言を使って」権力を握った人の代表者であり、その同じ生き方をする人が王の側に付いたり、また反対に、「思慮深い人」「巧言を使って」付いたりします。

そして、33,35節ともに、「思慮深い人たち」が、その信仰のゆえに殉教の死を遂げる様子が記されていますが、これは旧約では極めて珍しく、最初の殉教者の記録とさえ呼ばれることがあります。

 

このような殉教が続く中で、紀元前164年にアンティオコス四世の軍隊を打ち破って神殿を聖めたのがユダ・マカベオスで、彼の死後、兄弟がユダヤ人の独立王朝を始めます。イエスの時代には彼が英雄としてあがめられており、人々が期待した救い主の姿でした。

しかし、イエスはご自分をダビデの子と呼ばせながら「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言います。そしてローマ帝国の総督のもとで、何の弁明もせずに十字架刑の死を迎えます。それはダリヨス王のもとでライオンの穴に投げ込まれたダニエルの姿と同じです。神は、ユダ・マカベオスのような武力闘争を避けさせるために、「思慮深い人たち」の生き方を指し示したのではないでしょうか。

 

結局、エルサレム神殿がゼウスの神殿とされ、徹底的に汚されていたのは、たった三年間のことに過ぎませんでした。確かにユダ・マカベオスの軍事的な勝利がこれほど早い神殿の回復につながったのですが、アンティオコスの後継者たちとの戦いは熾烈を極め、ユダは三年後に戦死します。彼はその前に、ローマ共和国との軍事同盟を締結します。その後、せっかく生まれた独立国家は内紛を続け、その百年後にエルサレムはローマ軍に占領されます。

それにしても、ユダヤ人はその後のローマ帝国の支配下で、ユダ・マカベオスのような武力闘争を賞賛したがために、最終的にはエルサレム神殿まで滅ぼされ、二千年間の流浪の民となったのではないでしょうか。

11章36節にはこの王の高ぶりの様子が描かれますが、そこには同時に、「この王は・・・憤りが終わるまで栄える」とあるように、横暴な王は、神ご自身が、時が来たらさばいてくださいます。それこそがダニエル書の核心です。

 

1140節以降の記事は、それまでの傲慢な王に対して南の王が戦いを挑み、北の王が決定的な勝利を収め、エジプトの南までをも支配すると描いており、アンティオコス四世の最後とは全く異なります。しかし、北から南に攻め入る王が、自分の背後である「東と北」からの知らせに脅えて軍を撤退させ、その途上でエルサレムを攻め滅ぼそうとするというのは、極めて彼らしい行動です。

その要点は、人間的に考えると、この横暴な王の攻撃にエルサレムの敗北は避けられないということです。しかし、ここではその危機存亡のときこそが、この横暴な王の最後になると記されます。

この箇所の記述により、このダニエル書11章は、アンティオコス四世だけのことを描いているのではなく、神の民を迫害するこの世のすべての権力者を現しているものであるということが明らかになります。

 

たとえば、日本では、「巧言を使って」支配者になった代表者と言えば豊臣秀吉です。彼は世界制覇への第一歩として1592年に朝鮮半島に16万人もの兵を送ります。一時は朝鮮半島の全域を支配するところまで行きましたが、朝鮮水軍に敗北し、続いて北の明国からの出兵により、撤退を余儀なくされます。

そして、その直後、サンフェリペ号事件を通して、スペイン、ポルトガルがカトリックの宣教師を通して世界制覇を計っているという計画を聞き、キリシタンへの迫害を本格化、1597年の長崎での26聖人の処刑を強行することになります。

豊臣秀吉は、朝鮮半島にとんでもない災いを及ぼしたばかりか、キリスト教徒の大迫害への道を開いた支配者ですが、世界制覇の夢が破れたことが神の民の大迫害に結びつくという点では、アンティオコス四世につながります。つまり、ダニエル11章の記事は、すべての時代を通しての、この世の権力者による神の民への迫害に通じる記事なのです。

 

2.「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き・・・」

 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」(12:1)という記事は、時間的には、「彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る」(11:45)というエルサレムの絶体絶命の時を指しています。

そしてこの時の苦難が、バビロンに神殿を滅ぼされた時に勝るほどのものであると描かれながら、同時にそれが「いのちの書に・・名が記されている者」(黙示3:5,13:8)の救いの時でもあるというのです。つまり、神の救いは、人間の目には絶望と思われるときに突如としてやってくるというのです。

 

 「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」(12:2、3)とは、旧約における復活の記事の代表と見られています。

ここで、栄光の復活にあずかることができるのは「思慮深い人々」つまり、11章33,35節にあった大迫害の中で真の神を礼拝し続けた人です。「定めの時」(11:35)に至るまで「巧言を使う」ような権力者が横暴を働き続けますが、今、神がさばきを下されるのです。

 

そして、N.T.Wrightは、この11章後半から12章初めの記事は、2章31-45、7章2-27節で記されていたと同じ出来事を、別のレンズを通して見たものであると語っています(the resurrection of the Son of God.P115)。

 

2章では、「一つの石が人手によらず切り出され」この世の王国を砕いて全地を支配することが描かれます。そこでは、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロンのネブカデネザルが「金の頭」として描かれ、胸と両腕が銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足の一部が鉄と粘土でできていましたが、それは一連の帝国を示している以上に、ネブカデネザルのような独裁者の帝国が、切り出された一つの石によって砕かれることを示しています。

その直後、金の像を拝むことを拒否したダニエルの友人三人が火の燃える炉に投げ入れられながら救い出され、ついにはネブカデネザル自身がイスラエルの神ヤハウェを礼拝するようになるという物語が記されています。

 

7章では、バビロン帝国に続く四つの帝国が、四頭の獣、獅子、熊、ひょう、十本の角を持つ獣として描かれます。そして、第四の獣の時代に、「いと高き聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする」(7:25)王が現れるが(7:8,24)、そのときになって、「人のような方が天の雲に乗って現れ」(7:13)、その支配を打ち砕いて全世界を治めるばかりか、その方につながる「聖徒」たちも世界をともに治める者となると描かれています。

そして、ダニエルはこのような幻を見せられて、神に従い続けますが、その晩年にバビロンを滅ぼしたメディヤの王ダリヨスのときに、王以外の者に祈願する者をライオンの穴に投げ込むと脅されながら、黙って投げ込まれ、神によって救い出されます

 

つまり、これらの物語では、地上の一連の帝国支配の絶頂期に神の支配が明らかにされるということと、その先駆けとして、思慮深い者」としてのダニエルとその三人の友人たちが、無抵抗のままで、しかも、脅しに屈せずに殺されそうになりながら、イスラエルの神のみを礼拝するという姿勢を守って、救い出されることがセットになっているのです。そして、それは死にまで神に忠実に従ったイエスの復活を指し示すことでもあります。

そして、私たちにとっては、イエス・キリストの復活こそが、「思慮深い者」の復活の「初穂」なのです。パウロはそのことを、「今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)と述べています。

 

ダニエルはバビロン捕囚が「七十年」で終わることを期待しましたが、そのとき御使いガブリエルが、神の民の最終的な勝利のときまで「七十週」(七の七十倍)の時が必要であると語りましたが、12章3節はその成就を示しているのです。そして、このキリストの復活において成就したことが、私たちにもやがて成就することになります。

ですから、イエスもこのダニエル書を前提に、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:28,29)、また、「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(マタイ13:43)と言われました。

 

3.「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」

ところで、このとき、10章以来ダニエルに語ってきた「ひとりの人」は、「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう」(12:4)と不思議なことを言いました。

これは、ダニエルに啓示されたことは、キリストを通してしか理解できないことを指します。「終わりのとき」とは、最終的な滅びの時というよりは、キリストによって実現する新しい時代を指すからです(使徒2:17等)。

 

  12章5,6節では三人の御使いのような人の会話が描かれます。ヘブル語では、6節最初の「私は言った」ということばは、「彼は言った」と記され、「この不思議なことは、いつになって終わるのですか」という質問は、ダニエルではなく川の両岸にいた御使いのひとりが、川の水の上にいるダニエルにずっと語りかけていた御使いに対して質問したと言うことになっています。

そこで、「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」が、「その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って」、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する」と言います(12:7)。このことばは、アンティオコスの迫害に関してではなく、7章にある終わりのときの第四の帝国における反キリストの迫害の際に用いられたことばです(7:25)。

そして、ダニエルは、「これを聞いたが、悟ることができなかった(12:8)というのです。聞いた本人が理解できないことを、私たちが分かるでしょうか。ですから、私たちもキリストによって明らかにされた枠を超えてこの記事を通して、世界の終わりのことがわかると思ってはなりません。

多くの未来予言が、ダニエル書の数字の解釈から今も生まれていますが、それらは神の主権を侵して勝手な推測をすることになりかねません。

 

ダニエルがここでさらに、「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう」と尋ねたことに対し、「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」(12:9-12)と言われます。

ここで、「思慮深い者は悟る」とは、「千二百九十日」とか「千三百三十五日」という数字自体に込められた意味を悟るということではありません。「ひと時とふた時と半時」とは三年半、つまり、当時の太陰暦で一年を360日とすると1260日であり、「千二百九十日」とはそれより30日長い期間、また、「千三百三十五日」とはそれよりさらに45日間長い期間を指します。

つまり、ここでは、もうこれで苦しみの期間が終わると待ち焦がれながらも、さらに30日、さあになお45日間続くことがあるかもしれない不安を受け止め、忍耐して待つという「悟りのことが記されているのです。「思慮深い人」は、神の民の苦しみの時期は、常に、限られた期間に過ぎないということを「悟って」、迫害に耐えることができる人です。

だからこそ、御使いは最後にダニエルに、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」と語ります。これは黙示録で、「死にいたるまで忠実でありなさい」(2:10)と言われるのと同じ意味です。

そして、彼への最終的な保障として、「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つと言われます。これは、先の「思慮深い人々」の栄光に満ちた復活と同じことを意味します。

 

以前、米国の保守的な教会では預言書の学びが盛んでした。それを通して世界情勢の未来予測をして信仰を励まし合うような風潮がありました。その際、ダニエル書の七十週や北の王、南の王などの記事を、現実の世界情勢に合わせて読むようなことがありました。

しかし、そのような中で育ったひとりの姉妹は、「もう、預言書の学びは疲れました。私は、今、ここで、どのように生きるべきかを聖書から知りたいのです」と言うようになりました。しかし、ダニエル書こそは、未来予告の書などではなく、異教徒や巧言を使って権力を握る人々が権力を握る中で、私たちがどのように誠実を保って生きることができるか、死に至るまで忠実に歩むことができるための励ましとして記されている書なのです。

その意味で、ダニエル書は最初から最後まで一貫したメッセージが記されています。

 

多くの人々は、この世の不条理を見て「神はいない・・」と思うか、また「神は不義である」という結論に達します。詩篇の作者も、「こうして彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。』見よ。悪者とはこのようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している(73:11,12)と嘆いています。

しかし、そこで著者は、「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟っ」て、「まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます(73:18)と告白します。

ルターはこの世の不公平に哲学者たちが沈黙せざるを得ないことを述べながら、「これらの不可解な疑問に対しては、ただ一言ですむ簡潔な解決がある。すなわち、この世の生の後にもう一つの生がある。その生においては、この世において罰せられず報われなかったことが、罰せられ報われるであろう。

なぜなら、現在の生は未来の生の先駆、いや開始以外のものではないからである」と記しています。私たちは復活のいのちを目の前に見ることで、不条理の中でも誠実に生きる勇気を持つことができるのです。

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2015年4月 5日 (日)

エゼキエル36章16節~37章「神のみわざに心を開く幸い」

エゼキエル3616節~37「神のみわざに心を開く幸い」

 201545日 イースター      

Um Gottes Willen, mach die Tür auf!“「頼むから、ドアを開けてくれ!」というコックピットから締め出された機長の言葉が、ネットで広がっています。Um Gottes Willenとは、スラングで、「お願いだから」「とんでもない」など、様々な意味に用いられます。でも、これは文字通りには、「神のご意志のために」という意味です。そして、今回ほど、この文字通りの意味が、心に響いたことはありません。

イエスご自身も、この副操縦士に向かって、「どうか、この扉を開くように」と語っておられたように思います。でも、人は、神の語りかけに、心を閉じることができます。イエスが十字架に架かる三日前、エルサレム神殿での最後の説教において、「ああ、エルサレム、エルサレム」とエルサレムの滅亡を警告されました(マタイ23:37,38)。しかし、イエスの招きを拒絶した人々は、多くの人々を道連れに無謀な独立戦争へと向かい、エルサレムを滅亡させました。

そして、今、イエスは自分の心の戸を閉じるすべての人に向かって、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示3:20)と語りかけておられます。イエスは副操縦士の心も、どんな闇を抱えている人の心も癒すことができます。だから心の戸を開くべきなのです。

 

旧約聖書を初めて通読した頃、私はいつも自分の不信仰に悩んでいました。しかし、エゼキエル3626節の、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」というみことばに深く感動しました。

しかし、その後、信仰生活を続けながら、「新しい霊」を授けていただいたという実感がなかなか味わうことができなくて空しさを覚えました。しかし、「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ・・」という渇きを覚えている中で、37章には、神の救いのみわざは「干からびた骨」「いのち」を与えることにあると分かり安心しました。救いは今、既に始まっており、世の終わりに完成するという息の長い神のご計画が見えてきたからです。

しかし、それでも、この世の悪の勢力がいつまでも活発で、キリストの支配が見えないことがありました。しかし、38,39章に記されているゴグによる最終戦争の様子を見ながら、悪の勢力の断末魔の叫びのようなものが見えて、気が楽になりました。

 

私たちのまわりには、いつもいろんな期待外れのことが起きます。しかし、神ご自身がこの世界の歴史を、そして、私たちの人生の歴史を導いておられます。その中で、私たちに求められていることは、自分で自分の可能性を閉じる代わりに、神のみわざに心を開き、神から与えられた使命のためにいのちを燃やすことです。

イエスは、死者の中からよみがえりました。それ以来、世界の歴史は、平和の完成に向かって大きく動き出したのです。

 

1.「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」

主は、まずイスラエル王国を滅ぼされた理由を、「イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行いとわざとによって、その地を汚した」(36:17)と説明されます。彼らは、主が聖別された土地を汚してしまったのです。それで、主は「彼らを諸国の民の間に散らし」(36:19)ましたが、「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した」(36:20)というのです。つまり、イスラエルは、主(ヤハウェ)の土地と、主(ヤハウェ)の御名の両方を汚してしまいました。

目に見えない神は、目に見える人間を通してご自身を現されますが、神の民が世界中で嘲りを受けてしまうなら、同時に、ご自分の民を救うことができない無力な神として、ご自身の御名も嘲りの対象になってしまいます。主は、罪に応じて彼らをさばかなければならないのですが、そうすることによって、今度は、主ご自身の御名が世界中で嘲られてしまいます。

主はそのようなご自身の葛藤を、「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ(36:21)と言われます。主は彼らの悔い改めを確認した上で祝福を与えたいと願っておられたことでしょうが、彼らの悔い改めを待つ間に、ご自身の御名が世界中で汚されることになってしまいます。

それで、主は、イスラエルに祝福を回復して下さる理由を、わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」(36:22)と言われます。

つまり、主がイスラエルの民のために国を回復してくださるのは、イスラエルの民が謙遜になったからではなく、ご自身の「偉大な名を聖なるものとする」(36:23私訳)ためであられたのです。

 

私たちの場合も、敬虔さへの報酬として神のあわれみを受けたのではありません。主はご自身のあわれみと御名の栄光を現すために、不思議にも、「不敬虔な者を義と認めてくださる」、「キリストは・・不敬虔な者のために死んでくださいました」と記されています(ローマ4:5、5:6)。

私自身は信仰に導かれた時も、牧師への召命を受け時も、外面的には順風満帆と言える状況で、いわゆる「劇的な体験」とは無縁でした。神学校に入って、同級生の感動的な証しを聞いたとき、「僕のような生ぬるい信仰者が牧師になってよいのか・・・」と悩みました。でもそのとき、神の御わざは何よりも、不信仰な者に信仰を与えることであるということが上記のみことばから示されました。

 

主は不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださいます。そのことが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明されます。その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないために、それに先立って彼らの身体と心をきよめてくださいます。

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」(36:25)とは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。これは現代の洗礼式に結びつきます。

 

その上で、多くの翻訳では、26節から新しい文章が始まります。そこで、主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言しておられます。ここで、「新しい心」に関しては、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(36:27)と説明され、「新しい霊」に関しては、わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。

イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。

それで主は、彼らに肉のような柔軟な「心」を与え、また、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。

 

そして主が約束の地を回復させ、その真ん中に神が住まれるということが、「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる(36:28)と約束されます。

そして、彼らは、神がその地を祝福してくださる中で、「あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる」(36:31)というのです。

つまり、悔い改めの結果として祝福を受けるのではなく、祝福を受けた結果として悔い改めるようになるというのです。

 

   そして、「このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と・・・・このとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(36:35、38)と神の救いが描かれています。

つまり、イスラエルに対する神の救いのご計画とは、約束の地をエデン園のような楽園にし、それによって、人々が、主(ヤハウェ)をあがめるようになるということなのです。まさに、歴史の究極とは、エデンの園にあった神と人との関係が回復されることにあるのです。

 

2.「干からびた骨よ・・・わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」

  37章には、「干からびた骨」に神の「息」が吹きかけられて、「生き返る」という興味深い不思議が描かれます。主は、まずエゼキエルをご自身の霊によって連れ出し、「谷間の真ん中に置かれ」ましたが、「そこには骨が満ち」、しかも、「その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた」というのです(37:1,2)。

そして、主は彼に、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」(37:3)と尋ねました。彼は、「主、ヤウェよ。あなたがご存じです」と答え、主は、「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主(ヤハウェ)のことばを聞け・・見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(37:4-7)と言われます。

彼が預言していると、「音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった・・・その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」というのです(37:8)。

 

ただ、その時点では身体ができても、「その中に息はなかった」ので、主は引き続きエゼキエルに向かって、「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。主ヤハウェはこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(37:9)と言われます。

そして、彼が命じられたとおり預言すると、何と「彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」というのです(37:10)。

 

  主は、「これらの骨はイスラエルの全家である」と解説しつつ、彼らは「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」と絶望していると描きます。

しかし、主はその状況を決定的に変えてくださるというのです(37:11)。主は、彼らを「墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」(37:12)、そして、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」と保障してくださいました(37:14)。

神はご自身の民に聖霊を与え、約束の地をエデンの園のようにしてくださいます。そして、彼らは、「主(ヤハウェ)であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを」心から知るようになります。

 

   パウロは、これを前提にしながら、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言いました(Ⅰコリント15:20)。私たちは自分で自分の心を閉ざして、「もう何をやってもだめだ・・・私の望みは消えうせた・・・」と言ってしまうことがあるかもしれません。

しかし、キルケゴールが、「絶望は死に至る病である・・それは永遠に死を体験することである・・・絶望は罪である・・・罪それ自身が善からの離脱である。しかし、罪についての絶望は再度の離脱である。

当然のことながら、これは・・・恩寵と呼ばれる一切のものを単に空虚で無意味なものと見なすばかりでなく、自分の敵と見なし・・・強力に抵抗しなければならないと考えるに至るのである」と述べているように、私たちは、絶望によって、神の恩寵を敵視し、抵抗するということがあり得ます。

しばしば、自殺が最大の罪であると呼ばれるのは、それが不可能を可能にしてくださる神の恩寵を軽蔑することにつながるからです。

 

神は、干からびた骨をつなげ、筋をつけ、肉をつけ、最後に、ご自身の息を与えて生き返らせてくださいます。そして、それが既に始まっています。

そのことをパウロは、キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:10,11私訳)と言っています。

「永遠のいのち」とは、来るべき復活のいのちが、今、ここから始まっていることを意味します。私たちのうちに宿っておられる聖霊は、創造主ご自身であられます。あなたがどれほど罪深く、心が暗闇に満ちていても、また、あなたがどれほど「干からびた骨」のような者であっても、創造主なる御霊は、あなたを一瞬一瞬生かしてくださいます。

神に絶望してはなりません。ただし、主に向かって、「私のたましいは・・打ちしおれています(絶望しています)」(詩篇42:6)と告白することは、祈りの始まりになります。絶望感を味わうのは罪ではありません。それどころか、絶望できるということは、神のかたちに創造された人間であることの証しとも言えましょう。

ただ、それを自分で抱え込んで、神に心を閉ざしてしまうことが罪なのです。神に向かって、自分の絶望感を告白しましょう。そのとき、キリストを死者の中からよみがえられた方の御霊が、あなたの中に働き始めます。

 

3.「わたしが彼らを・・・一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる

37章15節から28節までは、主が、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ、滅びてしまった国を、新しいダビデによって統一し、約束の地において回復してくださるという預言です。

その核心が21,22節で、「見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。わたしが彼らをその地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる」と記されます。

イエスは、ダビデの子としてこの地に現れ、イスラエル全土を巡り歩き、新しい「神の国」がご自身によって始まっていることを宣言されました。そのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というものでした。

そのときイエスは、ご自身こそがこのエゼキエルが預言した新しいイスラエルの王であることを宣言しておられたのです。イエスこそはイスラエルの歴史を完成される王であったのです。

 

しかし、イスラエルの民は、この方を十字架にかけて殺しました。それによってこの預言は無に帰したかのように思えました。しかし、そこから神の新しい救いのご計画が始まりました。なぜなら、イエスはイスラエルの王として十字架において肉のイスラエルの歴史を完成し、新しい霊のイスラエルの歴史を始めてくださったのです。

イスラエルの民が召され、律法が与えられた目的を、主は、出エジプト記19章5,6節において、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と語っておられました。

イエスは死に至るまでの神への従順によってこの使命を全うされました。そして、三日目に死人の中からよみがえることによって、エゼキエル37章以降に記された新しい神の民としての歴史を始めてくださいました。

そして、今、私たちキリストに従う者こそが新しい神の民とされています。そのことをペテロ第一の手紙2章9節では、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と記しています。

私たちこそが新しいイスラエルの民であり、新しい「神の国」は、地上のイスラエルの領土ではなく、全世界に広がっています。私たちは新しいダビデのもとで、「新しい天と新しい地」が実現するのを待ち望んでいるのです。

 

    なお、エゼキエル38,39章には、ゴグとマゴグという不思議な勢力による新しいイスラエル王国への攻撃が起きながら、それが神によって簡単に押しとどめられるという様子が描かれています。

黙示録では、「新しい天と新しい地」の実現に先立って、キリストとキリストに従う者たちによる千年間の平和の国の実現が約束されています(20章)。これは、短い三年半の大患難の時代に対比する長い地上の平和の時代を象徴的に描いたものです。

そして、この千年の平和の後に起きる戦いのことがエゼキエル書を背景に、サタンは牢から解き放たれ、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴクを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海辺の砂のようである。

彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」と絶体絶命の危機のように描かれますが、その結末は、「すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」という驚くほどあっけないものでした(黙示20:7-10)。

 

   私たちの周りにも、様々な悲劇が起きています。しかし、それは決して、私たちの神が無力だからではありません。神はご自身のご計画の中でそれらの不条理を一時的に許容しておられるのであり、時が来たら、すべての人が、私たちの主、イエスキリストこそが、「王の王、主の主」として、全世界を牧しておられたということがわかるのです。ですから私たちは、キリストの復活以降、どのような状況の中でも、ハレルヤコーラスを歌うことができます。

 

   そして最後に、主は本日の箇所のまとめとして、「今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による・・・わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さずわたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ(39:25-29)と言われます。

イスラエルの民の回復は、決して、彼らの悔い改めの実ではなく、「主の聖なる名のための熱心による」のです。ヨシュア記からバビロン捕囚に至るイスラエルの歴史の解説した拙著の副題を、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心の記録」とさせていただきましたが、私たちは一見、不条理に満ちた歴史に中に、万軍の主の熱心の証しをいたるところに見ることができるのです。

そして、主は、この歴史を、ご自身の平和(シャローム)の完成へと導いておられます。私たちは、ときが来たら、世界の歴史の中に、また私たちの人生の歴史の中に、主の一方的なあわれみによる救いの歴史を見出すことができます。

 

パウロは、イスラエルの民の不従順に心を痛めながらも、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」と告白しています(ローマ11:36)。

 

多くの人々が、自分の信仰に後ろめたさを感じながら生きていますが、私たちの信仰は、自分で得たものではなく、神が「新しい霊」を授けてくださった結果です。どれほど成長が遅く、退歩しているように感じられることがあっても、神の息、神の霊は、干からびた骨にいのちを与えることができます。

干からびた骨に肉がつき、神の息が吹き込まれ生き返るというイメージを日々思い巡らしてみましょう。ただ、それでも、私たちの周りにある悪の勢力は、雲のようにこの世を覆っているように感じられることがあります。しかし、キリストはすでに「王の王、主の主」として、この地を支配しておられます。ハレルヤコーラスは既に天に響いています。

神の支配は、この世の終わりと思えるような中でこそ明らかにされます。パウロも、様々な失望を味わいながらも、「今のときの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:17、18)と断言しています。

見えないもの」とは、内住のキリスト、「復活のいのち」に他なりません。外面的には次から次と問題が尽きませんが、私たちは既に、神の救いのプロセスに招き入れられています。それに抵抗しながら生きるのではなく、それに身を任せながら、いつでもどこでも神にある自由と希望を体験させていただきましょう。

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