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2015年5月31日 (日)

ローマ8章12-30節「神の平和(シャローム)をこの地であこがれ・・・」

 2015531

  ドイツのことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜びに、分かち合った苦しみは半分の苦しみに」というのがあります。それこそが愛の交わりの中で起きる不思議ではないでしょうか。ともに悲しみながら、またともにうめきながら、そこに何ともいえない希望が生まれているということがあります。

この世は、「ハウ・ツー」で満ちています。しかも、この世が提供する解決は、しばしば、人との競争に勝つということを示しています。そこでは必ず、敗者が生まれ、ひとつの問題の解決の裏に、他の人の悲劇の始まりがあります。

この世界に必要なのは、もっと根本的な解決です。人間的な解決ではなく、神の解決です。人の励ましによって生まれる元気ではなく、神が私たちの心を引き上げてくださることによって生まれる活力です。

そして、そのために何よりも必要なのは、問題解決を考える前に、「ともにうめく」ということです。そこに「御霊のうめき」が生まれます。そこには、この世の常識を超えた希望を生まれます。 

 

1. 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません(12)とは、自分の肉の問題を自分で解決するという責任から、私たちを解放するものです。それは一見、真面目な生き方なようで、「あなたがたは死ぬのです(13)と宣告された道です。

ハンズ・ビュルキ先生は、「地獄への道は、良い決断で舗装されている」とよく言われました。実際、何と多くの人が、やり直そうとしては失敗し、自己嫌悪に陥り、自暴自棄になっていることでしょう。

それに対し、「御霊によって、からだの行ないを殺す(13)とは、自分の内側の肉的な欲求を殺すという以前に、「自分の力で生きる!」という、身体に染み込んだ発想を、御霊によって殺して行くということです。それは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、すべての問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。それは神の語りかけに心を開いて、自分の願いではなく、神が望まれることを、結果を恐れず、黙々と行なうという地道な生き方でもあります。

そして、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の息子たちです」(8:14私訳)と記されます。ここはテクナ(子供)ではなく、ヒュイオス(息子)ということばが使われています。女性であっても、イエスと同じ立場が与えられたという面を強調するためにそのようなことばが用いられています。

しかも、それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく(15)とあるように、神のさばきを恐れながら善行に励むことではありません。そうではなく私たちはみな、「子としてくださる御霊を受けたthe Spirit of sonship (15)と記されます。

それによって、イエスが父なる神を呼びかけておられたと同じように、「アバ(お父様、パパ)」という呼ばせてもらえるという意味です。たとえば、あなたが心から尊敬できる人がいて、その人と親しく話すことに憧れる場合、その人を気軽に「パパ!」と呼んで甘えられるお子さんのことを、幸せな立場と思うことでしょう。

 

そのことが、「もし、子どもであるなら、相続人でもあります(8:17)と記されています。もし私たちの親が莫大な財産の所有者である場合、ふだんの関係がどれほど疎遠であっても、時が来たら、相続権は決定的な意味を持ちます。ただし、まともな親であれば、子供の自律のために、お金の苦労を若いときに敢えてさせるとともに、最終的にも、財産の管理能力があることを確信できるまでは相続を許しはしません。

今、私たちも、神の子どもとされている恵みも、すぐにはわからないこともありましょうが、それは、良い親が愛する子どもに敢えて苦労をさせるのと同じようなものです。時が来たら、神の子どもとしての特権のすばらしさを心から味わうことができることでしょう。

 

そのことが、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります(8:17)と述べられます。「キリストとの共同相続人」とは、私たちがキリストと同じ神の子どもの立場が与えられ、キリストの弟、妹とされたことを意味します。それは私たちにとっての特権であるとともに、重い責任を自覚することでもあります。

私たちは、今から、「キリストとともに」この世界を治めるという誇りある責任を自覚しながら生きるように召されています。先に、the Spirit of sonshipと言ったのはそのためです。たとえば、英国のヘンリー王子がアフガニスタンの前線で2度にわたって従軍したなどという記事があります。その是非は別として、少なくとも英国の王子には、特権以上に王族としての義務(noblesse oblige)が期待されています。

当教会においては、worship(礼拝)、 fellowship(交わり)と並んで、sonship(神の子として世に遣わされる)ことが強調されてきました。それも神の子としての誇りに満ちた働きです。

 

  イエスは、全地に平和を実現する救い主(キリスト)です。主は、そのために私たちひとりひとりを用いようとしておられます。アダムは、この地を治める者として創造されたのに、その責任を放棄し、この地に「のろい」をもたらしました。しかし、私たちは今や、神の子どもの立場が回復され、キリストとともに、この地に神の平和を実現するのです。

ただし、それには意外なプロセスがあります。私たちは無意識のうちにアダムの生き方が身についています。それは、「自分を神とする」生き方です。私たちは心のどこかで、「私は正しい!問題の原因は、周りの人々にある」と自分を中心に世界を見ています。ときには、「この問題は、こうしたら解決するはずなのに、首相が愚かだから・・・」などと議論することがあります。しかし、それこそが権力闘争を生み出し、理想を実現するために、反対者を力でねじふせることが正当化されます。それは家庭に始まり、あらゆる組織に及びます。

もちろん、ひとつの組織の中にいろんな考え方があるときに、リーダシップによる決断はほんとうに大切です。しかし、その際、リーダーはこの世の権力者のようではなく、キリストの姿に習うことが求められています。私たちの主キリストは、敢えてご自身の力を捨て、仕える者の姿を取り、弟子の足を洗い、ついには私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。それは自分を神としたアダムの生き方を逆転させた生き方でした。

そして、それは苦難を力で退ける代わりに、人の苦難までも引き受けようとする生き方です。そのことが、「キリストと苦難をともにする(17)という生き方です。

 

2.「私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになる」

17節の後半の文章は、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。それは実に、私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになるからです」と訳すことができます。私たちがキリストの弟、妹とされているということは、しばしば、「ともに苦しむ」ということを通して表されます

家族は、苦しみをともに味わうことによって、喜びをもともに味わうことができるようになります。しかも、「ともに苦しむ」ということは、常に、「ともに相続する」ことと、「ともに栄光を受ける」こととセットにされています。私たちに与えられた救いとは、新しい身体を持ってよみがえり、「キリストと、栄光をともに受ける」ことです。そのとき、目に見える平和が実現されます。

 

ところで、パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18)と告白しますが、彼は何度も投獄され、五度にもわたって最高限度の39回の鞭打ちの刑を受け、船が難破して一昼夜、海上を漂い、飢え乾き、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23-28)。そればかりか、自分が開拓した様々な教会からの知らせを受けて心を痛め、特に、コリントの教会などからは偽使徒で献金泥棒かのような非難を受けていました。まさに四面楚歌です。

しかし、パウロは、その苦しみは、将来の自分に約束されている栄光に比べれば取るに足りないと断言しました。彼が苦しみに耐えることができたのは、「キリストとともに栄光を受ける」ことのすばらしさをいつも心に思い浮かべて生きていたからです。

 

それにしても、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちsonsの現われを待ち望んでいるのです(19)とは不思議です。大地震や火山噴火、日照りや台風、子羊が狼に食い殺され、子ヤギが豹に、子牛がライオンに食べられとき、パウロは、被造物が切実な思いで神の救いの完成を待ち望んでいるとイメージしました。これは私たちがペットの死を心から悲しみ、その痛みに共感する気持ちに似ているかもしれません。

なお、「神の子どもたちの現われ」とは、私たちの復活、つまり、救いの完成のときです。それが全被造物の救いにつながるのは、「被造物が虚無に服した」のが、人間が神に服従することをやめ責任を放棄したことに始まっていたからです。そして、被造物を人間に「服従させた方」は万物の創造主であるという意味で、全被造物に「望みがある」というのです(20)

 

そして、今、神はこの世界を混乱に陥れた人間を造りかえることから全世界を新しくしようと、ご自身の御子を遣わして私たちの罪を赦し、またご自身の御霊を遣わして私たちを心のそこから造り変えようとしてくださいました。その希望のことが、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたち(children)の栄光の自由の中に入れられます」21節)と記されます。

ここで「神の子どもたちの栄光の自由」とは、私たちが名実ともに新しい復活の身体を与えられることを意味し、そのとき全被造物の世界も自然災害や弱肉強食の不条理がなくなるのです。

 

私たちはこの世界で様々な苦しみを担うように召されていますが、それはキリストと苦難を共にすることによって、キリストとともに栄光を受けるというプロセスの中で起きていることです。そして、私たちがキリストとの共同相続人であることの恵みは、「新しい天と新しい地」に復活の身体をもって入れられ、その世界をキリストとともに治めるというときになって初めて、心から味わうことができます。

多くの人は、この世の様々な矛盾を見ながら、心を痛め、また怒ったりしますが、この世界が完成に向かっているということを確信できるなら、この世界の矛盾に耐えることができるのではないでしょうか。しかし、身近でありすぎる理想は危険です。ヒットラーだってスターリンだって人々の心にアピールできる理想を掲げて権力を握りました。しばしば性急な問題の解決には、恐ろしい破壊力が伴います。

 

3. 「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・」

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています(22)とあるように、この現在の世界には、様々な不条理と悲しみがあり、うめきが満ちています。そして、キリストはそのうめきをともにするために二千年前にベツレヘムに生まれました。そのとき、その「うめき」は、希望のない嘆きではなく、期待に満ちた「産みの苦しみ」に変えられたのです。

私たちがキリストとの共同相続人にされたのは、このキリストの「うめき」を自分のものとするため、またキリストに習い、この混乱に満ちた地に派遣されるためなのです。

 

  「そればかりでなく、御霊の初穂(初穂としての御霊)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(23)とあるように、「御霊」は「初穂」として描かれています。「初穂」喜びの始まりを意味します。私は、母が手作りの初生り(初穂)のいちごを食べさせてくれるのが喜びでした。そこには、トマト、メロン、西瓜、とうもろこしが次々と食べられる期待がありました。

パウロは、この世界が新しくされる希望を、「神の子どもたち(sons)の現われ」(19)、「神の子どもたちのchildren栄光の自由(21)、「子にしていただくこと(sonship)、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます(23)と表現しています。

私たちは既に「神の子ども」とされましたが、それは目に見える形になっていません。しかし、私たちは確実に、キリストと同じ朽ちることのない新しい身体を受け、「栄光の自由」を味わいます。その「望み」に満ちた喜びの「初穂を味わうことを可能にして下さるのが御霊の働きです。

 

  ところが、御霊を受けると反対に、「心の中でうめく(嘆きのため息)」というのです。しばしば、人は、悲しみに蓋をして自分を保ちます。しかし、心が自由にされると涙が出ます。人によっては、幼い時の悲しみを、中年期を過ぎて初めて心の底から泣けるということもありますが、不思議にそこには、表現できないほどの感謝と喜びが伴います。

また、御霊の導きによって、自分が知らずにどれだけ人を傷つけていたかが示され、深く「うめく」こともあります。しかし、同時に、そこには十字架の愛への圧倒的な感謝の喜びが伴います。つまり、「産みの苦しみ」と同じように、「うめき」と「喜び」とは、表裏一体のものとしてあるのです。

そして、何よりも、この世界の悲惨は、多くの人が、他の人の痛みや、世界の痛みに自分の心の耳を塞いで、それをいっしょに悲しむことができないところから始まります。マザー・テレサが繰り返し言っていたように、愛の対極にあるのは、憎しみではなくて、無関心なのですから・・。

 

私たちは、この望みによって救われているのです(24)とあるように、御霊は、何よりも、救いの完成の「望み」を私たちの心に芽生えさせます。そして、目に見える現実がどんなに厳しくても、自分のいのちは神の御手に守られているという心の余裕が、人や世界の痛みとともに「うめく」という祈りを可能にします。これは、電車のつり革をつかむときに、足を踏ん張らなくてもよくなることに似ています。そして、世界の痛みに合わせてあなたの心が揺れるところから、真実の愛が生まれ、あなたの行動が変えられ、世界に愛が満たされます。

そして、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないことを望んでいるなら、私たちは忍耐を持って待ちます(24,25)とは、なかなか期待通りにならない信仰生活を原点に立ち返らせる美しい表現です。それは、現在の私たちの苦しみを、「産みの苦しみ」と見ることです。そして、その苦しみをともに味わうという交わりの中から愛が生まれます。

私たちはみな基本的に、母親の出産の「うめき」によって生まれてきました。しかし、そのとき、あなたの父親は何をしていたでしょう?最近になって、夫が妻の出産に至る「うめき」をともにすることが、その後の子供の成長にどれだけ大切かが分かってきました。私の心が不安定な理由のひとつは、そこにあるのではないかと思います。

多くの男性は、ともに「うめく」よりも、「分析」をしがちだと言われますが、そこに痛みに共感するという心が感じられなければ、そこから「うらみ」が芽生えるということがしばしばあります。

 

ともにうめく」交わりから、真の家族愛が成長します。私たちはこの神の家族の交わりにおいて、互いの苦しみを「産みの苦しみ」として捉えなおし、ともに苦しみ、ともに希望に生きることを大切にしたいものです。なぜなら、私たちがともに待ち望んでいることは、いかなる人間の努力も超えた神の救いの完成の世界、神のみわざの完成のときだからです。

ともに苦しみに耐え、ともに待ち望むとき、来たるべき栄光の喜びをともに味わうことができます。

  

4. 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって・・・」

  多くの人々は、どのように祈ったらよいかが分かっていながら、神がどのような結論に導かれるかが分かっていません。しかし、パウロは「どのように祈ったらよいか分からない(26)と言いながら、同時に、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・知っています(28)と断言します。

多くの人の問題は、自分の願望を明確にしながら、最終的な「望み」は見えていません。そのため、それを実現しようと必死になり、新たな争いを生み出し、この世界の問題を複雑化します。

たとえば、「人に変わって欲しい」と期待する人は、自分の不幸を他人の責任にしています。心の寂しさが結婚で解決するはずだと信じている人は、結婚に失望することでしょう。また、「仕事がうまくさえ行けば、すべて満足できる」と思う人は、仕事に駆りたてられ休むことができなくなることでしょう。

 

   しかし、御霊による祈りは「うめき」から始まります。それは、まず、寂しさや不安、人への恨みや後悔を、そのまま神の御前で沈黙しつつ、深く味わいながら「うめく」ことです。その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによってwith groanings too deep for words(26)とあるように、御霊が、私たち以上に私たちの悲しみを味わい「ことばにできないうめき」によって「私たちのためにとりなし」、父なる神の御手に問題を差し出してくださいます。

しかも、「神は、私の悩みを軽蔑されず、ともに味わって下さる」という感動は、私たちのうちに「神を愛する」思いを生み出します。そして、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束の成就を確信させてくれるのです。実際、この「望み」によって、目の前の責任を黙々と果たして行くなら、神が、私たちの思いもつかなかった解決を備えてくださっていたことが、しばしば確認されます。

多くの人は、自分が取るべき態度を分かっていながら、そうできない自分を責めて苦しんではいないでしょうか。その際、下手なアドバイスは、悩んでいる人への軽蔑として伝わり、苦しみを倍化させてしまうことがあります。そのようなとき、私たちの責任は、まず「ともにうめく」ことではないでしょうか。私たちは、「何か解決を示してあげなければ・・・」と思うからこそ、人の悩みを聞けないという面もありますから、第一の務めが「ともにうめく」ことであると納得することは、かえって、人の悩みに耳を傾ける勇気を起こさせるものです。

問題の解決は、そこにある御霊ご自身のうめきから生まれるのです。それこそ、現実に、神の愛を分かち合う行為です。このような「うめきのミニストリー」に、私たちはもっと目を開くべきでしょう。

 

   なお、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とは、神の家族全体、いやそれ以上に、この世界全体にとっての「益」とされることを指します。たとえば、創世記のヨセフ物語は、ヨセフが奴隷として売られ、無実の罪で牢屋に入れられたけれど、夢を解き明かすことでエジプトの総理大臣の地位にまで引き上げられたというサクセスストーリーではありません

ヨセフは、兄たちに向かって、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした(創世記50:20)と言いました。そこで、「良いことのための計らい」とは、ヨセフの出世ではなく、ヤコブ一族がエジプトにおいて星の数のような民族にまで増やされること、つまり、イスラエル全体の「」ということがテーマなのです。

 

  続けて、ここでは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです(29)と記されます。これは、先の、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受ける」というプロセスの中に招き入れられることを指します。

ヨセフは、奴隷に売られ、無実の罪で牢獄に入れられることがなければ、決してエジプトの総理大臣に引き上げられるという道は開かれませんでした。私たちも、何よりも、キリストとともに苦しむという生き方に招かれていることを忘れてはなりません。私たちは他人の犠牲の上に自分の成功を積み上げるようには召されていないのです。

私たちはイエスの弟、妹となるように「あらかじめ定められ」ました。それはこの地において、キリストの生き方に習うということです。

 

また、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(30)とは、キリストの受肉、バプテスマ、復活、昇天という歩みの御跡に私たちが従うということを指しています。

「あらかじめ定められている」とは、小さなキリストとして生きるべくこの世に誕生したということ、「召された」とは、神のみことばを自分への語りかけとして聴いたということです。「召し」のしるしのバプテスマを受けた者は、キリストとひとつとされ、天の父なる神から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という語りかけを聞いたのです。

義と認め」とは、私たちの心に復活の希望が芽生えることです。私たちは自分の変化の遅さや惨めさに「うめき」ますが、そこで、御霊ご自身がともに「うめき」、復活の希望を確信させてくださいます

そして最後に、「栄光をお与えになりました」とは、私たちが文字通り、神のみもとに栄光の身体とされて引き上げられるときを指します。それはまだ先のことでしょうが、「あらかじめ定め」「召し」「義と認め」「栄光を与えられる」というのは、神の救いの一連のプロセスを指します。

そして、今、私たちは、目の前の問題が、全く解決していないと思える中で、「ともにうめき」ながら、それを「産みの苦しみ」のうめきと受け止め、「すべてが益とされる」という確信に満たされることができます。私たちは今ここで、うめきながら、同時に、喜んでいるのです。それこそ、キリスト者の不思議です。

 

  あなたの周りの具体的な人を思い浮かべ、経済的不安、仕事の重圧、夫婦の争い、離婚、不治の病、心の病、引きこもり、子育ての悩み、失恋、挫折感、老いの痛み、身体の衰え、愛する人の喪失、将来への不安、敗北感などの「悲しみ」を、まずともに味わってみましょう。

また世界中の様々な悲惨を思い浮かべながら、それを自分の「うめき」としましょう。そして、最後に、あなた自身の心の奥底にある不安や孤独感の叫びにも、蓋をすることなく、耳を傾けましょう。そして、御霊のとりなしを待ち望みましょう。

世界が平和に向かう変化は、その「御霊のうめき」から始まるのです。世界の悲しみを引き受けようとするとき、一時的に、とっても心が沈むかもしれません。しかし、それは自分の問題ばかりで心がいっぱいになる状況と根本的に異なるものです。

私たちは自分の心を軽くしようと、世界の痛みから目を背けるとき、孤独と倦怠感が生まれます。しかし、世界のうめきに心の目と耳を開いてゆくとき、そこには神と神の世界に対する連帯が生まれ、同時に、神の示す希望に心を躍らせることができることでしょう。 

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2015年5月24日 (日)

ヨエル書2:11-14、25-29節「わたしの霊をすべての人に注ぐ」

                                             ペンテコステ 2015524日                          

  私たちはときに、「とんでもないことが起きてしまった。これからどうなるのか・・・」と不安に圧倒されるようなことがあるかもしれません。そのとき、その原因を冷静に分析すること以上に大切なことは、何よりもまず、そのわざわいの中で、泣いて主にすがることではないでしょか。

なお、ヨエル書が記された時代がいつなのかは、永遠の謎です。明確な時代を特定できない以上、時代を超えたメッセージをここから読み取ることが大切ではないでしょうか。

 

1.「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」

  この書には、いなごの来襲によってイスラエルが壊滅的な打撃を受けることが預言されます。そしてそれが、前代未聞のことであると強調されながら、「これを・・子どもたちに・・その子どもたちは後の世代に伝えよ」と記されます(1:3)。イスラエルを襲った悲劇が、子々孫々まで伝えられる必要があるというのです。これは、たとえば日本でいえば、広島、長崎の原爆悲劇と同時に、東日本大震災、福島第一原発の悲劇を子々孫々まで伝え続けることを意味します。

そして4節には「いなご」に関する四種類の呼び名が記されます。ヘブル語には「いなご」に関して何と、九つの異なった名があり、新改訳での第一の「かみつくいなご」は「ガザム」、第二の「いなご」とのみ記されているのは「アルベ」で、これが最も一般的な呼び名です。第三の「バッタ」は、「イェレク」で「飛びいなご」と訳されることもあります。第四の「食い荒らすいなご」は「ハシール」です。これは同じいなごの成長段階によって呼び名が、イェレク、ハシール、ガザムと変わるとも言われます。

ですからここは、「ガザムが残した物はアルベが食い、アルベが残した物はイェレクが食い、イェレクが残した物はハシールが食った」と記されているのです。

 

225節ではこの四種類のいなごの順番が変えられながら、神がご自身によって、「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢」であるなどとと描かれています(2:25)。どちらにしても、ここでは「いなご」が少しずつ姿を変えながら、四回にわたってイスラエルの民が大切に育てた作物を絶滅させる様子が描かれています。

ソロモンは神殿を建てたとき、「もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合・・・この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき・・あなたご自身が・・赦し、またかなえてください」と祈っています(Ⅰ列王8:37-39)。それは「いなご」の発生の背後に、悔い改めを迫る神の招きを見るという意味です。

 

211節では、「(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い」と描かれます。つまり、恐ろしいいなごの大軍を導いているのは、主ご自身であるというのです。

詩篇1488節には、「火よ、雹よ、雪よ、煙よ、あらしよ。それはみことばを成就する(私訳)という表現がありますが、この地を襲うすべて災害は、「自然?災害」というより、神のことばによって起こされていると解釈すべきです。

ただそれを根拠に、ある地域に地震や津波が起こったことを、「神がその特定の地域の罪をさばくために、それを起こした」などと、勝手な解説をしてはなりません。イエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません(マタイ10:29)と言われたように、この地のすべてのことは、神のご支配のもとにあると理解すべきなのです。

その上で「(ヤハウェ)の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と記されます。様々な自然災害への備えはすべきですが、「主の日」の苦難を人間的な知恵で避けたり、それに耐える方法は一切ありません。私たちにできる唯一のことは、主のあわれみにすがるということです。

 

 それを前提に212節では、「しかし、今、─主(ヤハウェ)の御告げ─心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」という訴えがなされます。

命令の中心は「立ち返れ」で、回心を訴える最も頻繁に用いられる動詞ですが、その際、「心を尽くし・・・」と描かれるように、自分の心が神から離れていたことを何より反省する必要があります。

それは、「心を入れ替え、立派な行いをする」という決断以前に、「私は神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない者です」という自己認識です。それは、意志を強く持って行動を変えて行くという生き方ではなく、無力さを認め、泣きながら必死に神におすがりするという心の姿です。

 

そのことが13節では、「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主(ヤハウェ)立ち返れと命じられます。それはすべてのプライドを捨てて、乞食のような気持で主にすがるということの勧めです。

そして、その理由が、「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」と描かれます。

主はかつて、金の子牛を造って拝んだ民を滅ぼす代わりに、「その民に下すと仰せられたわざわいを思い直され」ました(出エジ32:14)。主は「罰すべき者は必ず罰して報いる(34:7)ばかりではありません。ですから、私たちはいつでもどこでも、繰り返し、神に立ち返って、神にすがることができます。

 

そのような期待が、「主が立ち返って、思い直し、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主(ヤハウェ)への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう(2:14私訳)と記されます。

驚くべきことに、主ご自身が「回心」して「思い直してくださる」と期待することは無理ではないと言われているのです。主のさばきは、人の行いに応じて自動的に下されるものではありません。主はご自身に向かってへりくだり、すがって来る者に対し、豊かなあわれみを注ぎ、「のろい」を「祝福」に変えてくださる方なのです。

 

 日本語の「悔い改め」に対応するヘブル語には、「思い直す」と「立ち返る」という二つのまったく異なったことばがあります。不思議にも、神が「悔いる」とか「思い直す」いう表現の一方で、人間の「悔い改め」には、ほとんどの場合、「立ち返る」が用いられます。

神はご自身のさばきの決断を「思い直す」ことがあります。それは私たちが自分の傲慢さを悟り、また弱さに気づき、真心から神に立ち返る時に、神が示してくださるあわれみです。それに対して、私たちがなすべき「悔い改め」とは、自分の意志の力に頼ることから、神に「立ち返って」、神のあわれみにすがるということです。

私自身にはある種の神経症的な傾向があります。自分の精神的な葛藤と真正面から向き合ってきた結果として、それをカウンセリングに役立てて来ることができました。自分で言うのも何ですが、多くの方々に感謝されてきたと言う自負があります。でも、それが仇になります。あるときに深く反省させられました。私は自分で自分をカウンセリングするような癖がついてしまいました。でも、自分で自分の問題を解決できるぐらいならイエス様は十字架に架かる必要がありませんでした。

実際、自分で自分の精神構造は分析できても、感情を制御することができずに、同じ間違いを何度も繰り返します。そのたびに人を傷つけてしまいます。本当に申し訳ない限りです。しかも、葛藤のただ中にあるときには、祈る気さえ湧かなくなることがあります。ですから、寄り添ってくれる方の祈りの支援が必要です。

こんなことを話すのは、同じような問題を抱えておられる方は、意外に多くいるからです。私たちは無意識のうちに、自分を神として、神にしかできないような「思い直し」を目指してしまう傾向があります。

信仰とは、わざわいの原因を冷静に分析する「平安な心」である以前に、泣いて、創造主なる神にすがり、叫び続けることです。

 

なお、本書のテーマは「(ヤハウェ)の日」で、新約では、キリストの再臨の日として数多く用いられます。ペテロ第二の手紙33-13節では、不敬虔な人にとっての「主の日」が、世界が火で焼かれるさばきの日として描かれながら、イエスにすがる者にとっての「主の日」は、「正義の住む新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただく希望の日と描かれます。

信仰とは、自分で自分を変えることではなく、主にすがることです。

 

2.「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」

218節では突然、「(ヤハウェ)はご自分の地をねたみ」と記されます(私訳)。「ねたみ」は自分に属するものに対する排他的な熱い情熱で、「」と表裏一体の感情です。それはイスラエルの「ゆずりの地」が、「諸国の民のそしり」「物笑いの種」とされているからです。

そして、「ご自分の民をあわれまれた」とは、主がイスラエルの民の痛みや悲しみに徹底的に共鳴して、彼らの問題をすみやかに解決してくださるという強いご意志の現れとして表現されています。

そして、「主(ヤハウェ)は民に答えて」、「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とを・・送る。あなたがたは、それで満足する」(2:19)、主が、泣きわめいていた民に「満足」を与えると描かれます。

 

221-23節は「恐れるな」ということばが文頭で二回繰り返され、「楽しみ喜べ」が「」に対してと同時に「シオンの子ら」に向けて重ねて語りかけられますが、次のように訳すことができます。

 

「恐れるな。地よ。楽しめ。喜べ。主(ヤハウェ)が大いなることをされたからだ。/

恐れるな。野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る・・・/

シオンの子らよ。楽しめ。あなたがたの神、主(ヤハウェ)にあって喜べ。/

主は、あなたがたを義とするために初めの雨を与え、以前のように、初めの雨と後の雨という大雨を降らせてくださるからだ。」

 

イスラエルには短い二度の雨季の他にはほとんど雨が降りません。「初めの雨」は10月末から12月初めの間に降り、夏の日照りを潤します。また「後の雨」は3月から4月にかけて降り、蒔かれた種が渇くことがないようにします。

主はかつて、「主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら・・・先の雨と後の雨とを与えよう」と言われる一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」ときには、「(ヤハウェ)の怒りが・・燃え上がり、主が天を閉ざされ・・雨が降らず・・あなたがたは・・その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう(申命記11:13-17)と警告しておられました。つまり、神の「のろい」と「祝福」は、この二回の短い雨季に最も分かりやすく現されていたのです。

 

そして224-26節では、神がいなごを追いやり、雨を降らせるという祝福の回復が約束されます。

原文では25節の冒頭で、主ご自身による「わたしはあなたがたに償おう」と記され、四種類のいなごの攻撃によって失われた「穀物、ぶどう酒、油」に関して、主ご自身による回復が保障されます。

「償う」とはシャローム(平和、平安)の動詞形で、完成の状態を創造するという意味があります。神がいなごを送ったのはイスラエルの罪をさばくためでしたが、終わりの日には、ご自身が、まるで彼らに悪い事をしたかのように、彼らの苦しみに対する「償い」をしてくださるというのです。

同じように、あなたが神に立ち返り続けるなら、あなたの人生は、一時的に不幸な状態に陥ったとしても、必ず帳尻があった状態へと回復されるというのです。

そしてそれを受けて、「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」ということばが二度繰り返されながら、それに挟まれるようにして、「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはないことを知る」と記されます(2:26,27)。

 

3.「しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」

22832節を使徒ペテロはペンテコステの日に引用しつつ、聖霊が弟子たちの上に、「炎のような分かれた舌」として現れ、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」という不思議な現象が、ヨエル書の預言の成就であると語りました(使徒2:1-21)。キリスト教会の誕生は、この書を抜きに語ることはできないのです。

旧約と新約の違いは何よりも聖霊が与えられることです。それがここで「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」と描かれます。

旧約では、初代の王サウルの上に「神の霊が激しく下って預言をした」(Ⅰサムエル10:10)という記述があるように、神がある特定の人を選んで、聖霊を注ぎ、ご自身の働きに用いられることがありましたが、約束の地の祝福の回復の「その後」という「終わりの日(使徒2:17)には、老若男女ばりか奴隷を含めたすべての種類の人々に聖霊を注いでくださるというのです。

 

しかも、「息子、娘が預言する」とは、子供たちが親の教育を超えて、主がどのようなお方であるかを心の底から知ることを意味します。エレミヤ3134節では、「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない」と記されています。

年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」とありますが、夢も幻も、同じように、未来予告と言う以前に、主が人間の歴史全てを支配しておられることを腹の底から理解させるものですが、夢は眠っているときに与えられる一方で、幻は目覚めているときに与えられるということで、そこに老人と若者と言う表現を置いたのだと思われます。

説教の最中に居眠りしてしまうことを恥じる必要はありません。その場で、主が、主の夢を見させ、意気消沈してしまうことがある若者には、幻が見させられます。

ヘブル語の並行法の原則からすれば、預言も夢も幻も、基本的に、すべて神の救いのご計画の全体像が把握できるという意味と解釈すべきでしょう。それは、その前の27節に、「イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることがない」と知らされていることを確信できることです。

 

後にパウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)と記しましたが、それこそ聖霊の働きの核心です。

その聖霊は、恐怖に満ちた主の日のさばきから、人々を救うために与えられるという意味で、「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」と記されます。

使徒パウロは、先の「わたしの民は永遠に恥を見ることがない(2:26,27)ということばの繰り返しを意識しつつ、「彼に信頼する者は恥を見ることがない」(私訳)と保証し、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる」と述べ、その根拠にこの箇所を引用して、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言いました(ローマ10:11-13)

 

つまり、主の最後の審判から救い出されるのは、私たちが主の一方的な恵みによる聖霊を受けて主の名を呼び求めることによるのですが、ヨエルが「ヤハウェの名を呼ぶ者はみな救われる」と言ったことを使徒パウロは、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」と言い換えました(10:9,10)

つまり、旧約のヤハウェが新約ではイエスと呼ばれたのです。

 

232節では、「(ヤハウェ)が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、(ヤハウェ)が呼ばれる者がいる」と、「のがれ」「生き残った者」たちとは「呼ばれる者」であると記されます。使徒パウロはイスラエルの救いに関して、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)と語っています。

(ヤハウェ)が呼ばれる」とは、具体的には、聖霊が私たちの心のうちに語りかけてくださることを意味し、その結果として私たちは「(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」という恵みに預かりました。私たちは、「主に呼ばれ」て、「主を呼ぶ者」となったのです。

しかも私たちはみな、外からの強制によってではなく、自分の意志で主を礼拝するために集まっていますが、その私たちの意志に働きかけるのが聖霊です。そして、私たちが聖書を読んで感動し、主の教会の一部として奉仕に加わっているのは、神の霊が注がれた結果です。

 

 314節でヨエルは、「さばきの谷には、群集また群集。主(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いからだ」と記しますが、これは機が熟した結果として、神の民の敵たちが皮肉にも、自分から進んで主のさばき(審判)の谷に近づいてくるという意味です。

この終わりの日の「さばき(審判)の谷」のことに関しては、黙示録では、終わりの日に、悪霊どもは全世界の王たちを、愚かにも神との戦いに動員すると描かれ、その最後の戦いの場がハルマゲドンと呼ばれます(16:13-16)

しかし、そこに「王の王、主の主」であるキリストが白い馬に乗って天の軍勢と共に下って来られ、たちどころに神の民の敵を滅ぼしてくださるというのです(19:11-21)。つまり、一時的には、神の敵が全世界を支配するように見える中で、神の民に求められることは、富にも権力にも惑わされずに、キリストに忠誠を誓い、主を賛美し、礼拝し続けることだけなのです。私たちはそのときに決して、武器を手に取る必要はありません。

 

   31718節では、イスラエルの民の希望が、「エルサレムは聖地となり・・その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主(ヤハウェ)の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」と記されます。

シティム」とはアカシヤの木々で、契約の箱を作る材料に用いられました(出エジ25:10)。この「シティムの渓流」は、終わりの日にエルサレム神殿から水が湧き出て死海に注ぎ、その川の岸にはあらゆる果樹が実をならせるというエゼキエル47章、黙示録22章の記述に結びつきます。

 

 最後に、神の民に敵対した国々へのさばきと、エルサレムの祝福が告げられます。いなごの大量発生から始まった本書は神の民の敵に対する「血の復讐」3:21)で終わるように見えますが、その最後のことばは、「主(ヤハウェ)はシオンに住む」です。

これこそ、「国々の民」が、「彼らの神はどこにいるのか」と嘲ったことに対する答えです。

 

  イエスは今、信仰者の交わりのただ中に住んでいてくださいます。そのことを主は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)と約束してくださいました。

またヘブル1023-25節では、迫害を恐れている人に対し、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と記されます。

信仰生活は、一人で神に召されることから始まりますが、それは共同体的な営みであることを決して忘れてはなりません。希望が真の意味で共有されるとき、そこにはキリストにある真のコイノニア(愛の交わり)が、強制や脅しによってではなく、ひとりひとりの主体性とともに生まれます。

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2015年5月17日 (日)

ヨハネ8:21-41「真理はあなたがたを自由にする」

ヨハネ8:21-41「真理はあなたがたを自由にする」

2015517

昔の日本のある首相は、「政治は数、数は力、力は金」と堂々と発言し、金権政治と批判されましたが、残念ながら一面の真理とついていると言わざるを得ません。議会性民主主義では議席の数が何よりも大きな意味を持ちます。その議席が金で買えるというのは、あまりにも国民をバカにした発言ですが、数は力というのは現実です。そのような中で人は、知らないうちに、お金や権力の奴隷になってしまいます。

金銭愛こそあらゆる悪の根です(Ⅰテモテ6:10)、「金銭愛から自由に生きなさい(ヘブル13:5)と聖書には記されています。それはお金から無縁に生きることの勧めではなく、お金を神からの預かり物として丁寧に管理し、神の国のために用いながら、生きる目的が金銭愛から自由になることです。

イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」と言われました。その自由とは、この世における様々な権力、お金の支配からの自由をも意味します。真理のために戦ったはずの人々が、お金や権力の魔力に酔いしれて、人を人とも思わなくなってしまった歴史を忘れてはなりません。

 

1.「信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」

   イエスはパリサイ人に向かって、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」(8:21)と不思議なことを言われました。733,34節にも同じような表現がありましたが、ここで何よりも驚きなのは、あなたがたは・・、自分の罪の中で死にます」(21)と言われたことです。それは、イエスに従う者が、「いのちの光を持つ(8:12)と言われたことと対照的です。

パリサイ人たちは当時の模範的な市民で、礼儀正しく、約束を守り、よく働きました。彼らこそ、光の中を歩んでいると見られました。しかし、イエスに敵対する彼らこそ、闇の中を歩んでいたのです。

 

イエスはかつて、ご自分を「夜」になって訪ねてきたパリサイ人のニコデモに向かって、「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」(3:19-21)と言われました。

彼らは表面的には光のうちにいるように見えましたが、それは単に自分の罪深さを隠しているだけの見せかけの場合が多くありました。

 

それに続いて、主は、しかし、真理を行なう者は、光の方に来る(3:21)と言われました。その後の展開を見ると、それにすぐに応じたのは、ニコデモではなく、何と当時ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人の中でも、最も惨めだった思われるひとりの女でした。

ニコデモは人目を避けて夜イエスを訪ねましたが、サマリヤの女は、真昼に自分の夜の生活があらわにされながら、イエスを救い主と信じ、自分のみずがめを置いて町に戻り、多くの人々に真の光である方を指し示しました。最も暗い闇の中にいたような人が、もっとも光に近かったのです。

 

先週の姦淫の現場で捕らえられた女の場合もそうです。死刑にふさわしい者が、イエスによって、新しく、光のうちに、いのちの歩みを始めることが許されました。自分の行ないの悪さを恥じ、教会の交わりをまぶしく感じるような人がいるなら、そのような人をこそ、イエスはあわれんでいてくださいます。

本当の闇の中を歩んでいる人、罪の中で死んで行く人々は、パリサイ人のように、自分のうちにある闇を自覚していない人なのです。  

 

イエスのことばに対して、ユダヤ人たちは、「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか」(8:22)などと、嘲るようなことを言います。彼らはイエスをうわべだけで判断して、イエスのことばに真剣に耳を傾けようとはしていません。

それでイエスは彼らに」、「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と言われました(2324)

 

わたしのことを信じなければ(24)とは、新改訳の注にもあるように、「『わたしはある(エゴー・エイミー)と信じなければ」と記されています。それは、「わたしは世の光ですと宣言するイエスが、神から遣わされた「ひとり子の神」(1:18)であられるということを信じなければという意味だと思われます。

なお、それを信じない人が「自分の罪の中で死ぬ」というのは非常に厳しい宣言で、乱暴にも聞こえますが、聖書に一貫しているメッセージです。たとえばイザヤ書の最後でも、不信者へのさばきが、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」と記されていました。

また、新約でもローマ人への手紙、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(3:22,23)と、イエスの贖いを信じない者へのさばきが示唆されていました。それは、たとえば、嵐の中で、神がせっかく出してくださった救命ボートを拒絶して、溺れ死ぬことに似ています。

 

一方、イエスに信頼し従う者は、もはや下から来たこの世の者ではなく、イエスと同じように上から来たこの世の者ではない者なのです(23節、1:13,3:7)。そして、イエスを遣わした方が、イエスとともにおられたように、イエスは、いつも、あなたとともにいてくださいます。

 

私は長い間、「悔い改めも信仰も足りない僕は、神の愛から遠い」と、落ちこぼれ意識を味わっていました。しかし、ある時、「神は・・世を愛された(3:16)ということばが心の奥底に迫りました。

神は、罪に満ちた世を、臆病なニコデモ、愛情嗜癖(ラヴ・アディクション)のサマリヤ女、38年の人生を無駄にした男、姦淫の女を、一方的に愛され、自由にしてくださったのです。すべてが神の主導権です。それが分かったとき、「自由」を味わいました。

                               

2. 「人の子を上げてしまうと・・・知るようになります」

そこで、パリサイ人を初めとするユダヤ人たちは、イエスのことばを信じることができずに、イエスに、「あなたはだれですか(25)と尋ねます。それに対しイエスは、「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです(25.26)と言われました。

彼らは神の救いのご計画に関しての先入観が強すぎて、イエスの話しを謙虚に聴くことができませんでした。当時の宗教指導者たちにとっての共通の目標は、ダビデ王国の再興という意味での「神の国」の実現でした。ただ、そのためにゲリラ活動のような武力闘争に訴えるのか、それとも、安息日律法を中心とした神の御教えを誠実に守ることによって神のあわれみにすがるのかという点で論争を続けていました。

それに対して、イエスは神がご自身を遣わすことによって、今、ローマ帝国の支配のただ中に「神の国」を実現しつつあると語っておられたのですが、「彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった(27)というのです。

 

当時の宗教指導者がイエスの働きをどれだけ誤解していたかということはヨハネ1148節に記されています。彼らはイエスのことに関して、「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」と恐れていました。

当時の人々にとっての救い主とは、ローマ皇帝に代わってイスラエルを治める王でした。イエスはご自分を救い主であると示していましたから、彼らの色分けからしたら、イエスの運動はローマ帝国との衝突を引き起こすものと判断されるのも無理はありませんでした。

当時のユダヤ人は神の国を実現する手段としてすぐに武力に訴えるのか、それとも皇帝に屈服するように見せかけて神の時を待つのかで、議論が沸騰していました。

それに対し、イエスは、戦うわけでも屈服するわけでもない、この世の政治を超えた生き方を主張されました。それは、今ここに既にご自身を通して現れている神のご支配に信頼して、互いに仕え合う生き方を全うするという道でした。

 

しかし、それは当時の宗教指導者にまったく理解できないことでした。彼らの目があまりにも地上的な統治機構としての「神の国」に向かいすぎていたからです。しかし、それはモーセの律法や預言書に現れた神のご支配ではなく、誰が権力者となるのかという論争に過ぎませんでした。

政治論争は、しばしば、相手の政策理念の背後に歪んだ動機や、現実への無知があると、徹底的にやり込めようとします。そのうちに、相手の立場になって考えるという神の御教えの根本すら忘れてしまいます。

イエスは「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります」と言われたのは、そのように相手を非難し合ってばかりで、神の御教えを、自分を正当化するために用いるような姿勢があったからです。

 

イエスは先に、「もし、あなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです(24)と言われたのは、永遠のさばきとともに、目の前の政治情勢の結末を示したことばでした。当時のユダヤでは、ローマ帝国へ対応を巡っての政治対立が激しくなりました。そのような中で常に力を持つのは過激な武闘派であり、その中でも最も残酷な人々が権力を握り、ローマ皇帝自らの軍隊を招き寄せて、この時から約40年後の紀元70年にエルサレム神殿は廃墟とされます。

イエスを救い主と信じなかったユダヤ人たちはこの闘争に巻き込まれて、まさに「罪の中で死んで」ゆきました。私たちも今の日本で政治対立の中で互いへの尊敬を忘れるなら、同じような破滅が待っています。

 

一方、引き続きイエスは、「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです(2829)と言われました。

ここで、「あなたがたが人の子を上げる」と言われたのは、ユダヤ人たちがイエスを十字架に架けることを意味し、また、「わたしをひとり残すことはありません」とは、ご自身の死からのよみがえりのことを指しています。

ただ、それはまだイエスの弟子たちにさえ理解できなかったことばでしょう。しかし、イエスがこのように語っておられたことは、イエスの十字架と復活を通して、すべてが神のご計画通りであったことが分かるのです。イザヤの預言のように、語られたときは理解されなくても、時が来たら理解されるようになる、イエスのことばもそのようなものでした。

 

先のユダヤ人の最高議会での議論の中で、大祭司のカヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとっては得策だということも、考えに入れてない(11:50)と言いました。それは、イエスを独立運動の指導者、ローマ帝国への反逆者として、十字架に架けることで、独立運動の気勢を削ぎ、またローマ帝国の軍事介入を避けることができると期待したということです。

しかし、そのような小手先の対応で、民衆の心は変わることがありませんでした。「イエスを十字架に架けろ」とののしった民衆の怒りのエネルギーは独立運動へと向かって行くばかりでした。しかし、一方で、イエスの十字架の場面を見た人は、イエスがローマ帝国への反逆者ではないことは一目瞭然に分かりました。そこで、イエスを救い主と信じるに至らなかった人さえも、イエスはユダヤ人の宗教指導者のスケープゴートとされたということだけは分かりました。

しかし、イエスの十字架には、まさに当時の人々の自己保身の身代わりに死ぬという面もあり、人々はそれを理解したので、「わたしが何であるかを知るようになる」というのは、まさにその通りに実現したのです。イエスを信じようとしなかった人でさえ、「イエスが国民のために死のうとしておられた(11:51)ということは理解できたはずです。

 

3.「真理はあなたがたを自由にします」

ただ、それにしても、「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」(30)と記されています。そこにいた人々がどれだけイエスのことばを理解できたかは分かりません。

しかし、彼らは少なくとも、イエスが、天の父なる神から「教えられたとおりに…話している」ということを「信じた」という意味です。

 

ところがイエスは、それを喜ぶのでもなく、「その信じたユダヤ人」たちに向かって、もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」(31)と、彼らは「まだ本物ではない」という趣旨のことを言われました。

「イエスの弟子となる」とは、一時の決心ではなく、「イエスのことばの中に置かれることを意味するからです。私たちは確かに、イエスのことばによって、不思議な平安を味わったという体験があることでしょう。しかし、イエスのことばが私たちの血となり肉となるような真の弟子を目指すべきでしょう。

 

  その結果、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にしますということが起きるというのです。なお、これは未来形の表現ですから、ここには、彼らがまだ真理を知らず、自由でもないという意味が含まれています

しかし、彼らは「神の友」アブラハムの子孫であることを誇りにしていましたから、私たちは・・決してだれの奴隷になったこともありません(33)と反発しました。彼らは、ローマ帝国の支配を倒し、民族の誇りを回復させてくれる「救い主」を求めていたのに、その方から奴隷呼ばわりされたと感じました。彼らは何よりも、「あなたがたは自由になる」というイエスのことばに反発したのです。

当時のユダヤ人の問題は、そのような「強がり」にありました。現実には、彼らはローマ帝国の支配下にあり、半分奴隷状態でした。それにも関わらず自分を「すでに自由である」と呼ぶとは、現実を無視して、自分を神の立場に置くことです。

しかし、信仰とは、「私は神のあわれみなしには、ローマ帝国の脅しに屈せざるを得ないひ弱な者です」と告白して、神にすがり続けることです。目の前の現実の矛盾の中で、うめきながら、神ご自身による、人知を超えた救いを待ち望むことです。

 

イエスが真っ向から非難した罪人とは、遊女や取税人ではなく、自分の正義を主張していたパリサイ人でした。彼らは、たとえば、姦淫の現場で捕らえられた女を、イエスを告発する道具として利用し、彼女の人格を否定していました。そのように人を人とも思わないような姿勢が、ユダヤ人同士のいがみ合いと、同士討ちと、ローマ帝国との戦争を引き起こし、国を滅亡させたのです。

ですから、イエスは続けて、真っ向からそのことばを使って、罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言われました(34)。これは、もちろん、私たちが自分の肉の欲求の奴隷状態にあるということを指摘するものではありますが、ここではそれ以上に、自分の惨めさを認めずに、自分を神のようにするパリサイ人的な生き方の問題を指しているとも言えましょう。

彼らはそのように自分たちの正義を主張する生き方によって、国に争いを引き起こし、ローマ帝国の介入を招き、まさに「自分の罪の中で死ぬ」という状態にありました。自分の罪を認められないことこそ、アダムの子孫の根本的問題なのです。

 

ところで、イエスは、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです(3536)と言いました。ここで、「真理は・・自由にするとのことばが、「子が・・自由にすると言い変えられています。ですから、この「真理」とは、宇宙の法則、宗教的な洞察、何らかの知識等ではなく、イエスとそのみことばを意味します。

たとえば、地球の誕生とか、人生には苦しみと死が避け難いなどという「真理」を知っても、罪の支配から自由になることはできません。しかし、たとえば、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(3:16)と、心の底から味わったなら「自由」を体験できます。なぜなら、罪人のままの自分への愛を体験することから、神への愛が生まれるからです。

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして・・・主(ヤハウェ)を愛し」ている人こそが、罪から自由にされています(申命記6:5)。一方、人は、責められる思いを味わうほど、神を愛せなくなります。

 

自由とは、このままの自分が愛されていることを確信し、大胆に神を愛して行けることです。ただ、ここのユダヤ人たち同様、イエスを信じたはずなのに自由を味わえないばかりか、信仰がかえって束縛になっている場合さえあります。

たとえば、「あなたはそれでもクリスチャン?」と言われるのを恐れ、「私のような生ぬるい信仰では駄目なんだ・・・」と、自分を卑下する人もいます。そして、自分で自分の信仰を励まそうとして心のバランスを崩すこともあります。

イエスの勧めは、「もっと信心に励んで真理を会得しなさい」ではなく、「わたしのことばにとどまりなさいでした。「自由」はその必然的な結果であり、イエスご自身から生まれるものなのです。

 

イエスに信頼する者は、このままで神の子供とされ、「永遠のいのち」、つまり、来たるべき「新しい天と新しい地」のいのちに既に入れられています。この私たちの「いのち」をだれも奪うことはできません。

ローマ帝国による剣の脅しは、キリストに従う者には無力になりました。それどころか、殉教者の血を見た者たちは、脅しに屈する代わりに、死を超えたいのちの喜びを発見し、次から次へとキリスト信仰へと導かれました。迫害が益にされました。

まさに、イエスの十字架と復活を信じる者は、罪と死の支配から解放され、自由にされたのです。

 

   イエスは、続けて、わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです(3738)と言われました。

「わたしの父」とは父なる神のことですが、「あなたがたの父」とは、罪に満ちた肉の父を指しています。それで彼らは、「私たちの父はアブラハムです(39)と答えました。

それに対し、イエスは彼らに、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言います。イエスが天の父なる神の話しをしているときに、彼らは、自分たちが血筋によってアブラハムの子孫であることを誇っていました。

  そしてさらにイエスは、「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています」と言われました。

これはアブラハムの信仰が彼らの父を通しては伝わっていないことを明らかにすることによって血筋は何の意味もないと言ったのです。大切なのは、神の御霊に生かされることです。

 

 政治対立では、徹底的に自分の正義を主張する一方で、相手の主張をこき下ろします。ですから、あることが政治問題化したとたん、落ち着いた判断ができなくなります。この世に完全はあり得ないのに、危険を減らすという議論をしたとたん、「おまえはどっちの味方なのか」などと言われたりします。そして、多くの国民がそのどちらかの極端な意見に影響されて行きます。

しかし、自分の正義を徹底的に主張することこそ、あらゆる争いの原点です。政治は本当に大切ですが、政治には恐ろしい魔力があります。それは、自分を神とする運動になり得ます。だからこそ、崇高な理念を掲げて権力を握った人々の多くが、権力の虜になってしまうのです。

 

  イエスはそれに対し、この世の権力機構を、ご自分が自ら十字架にかかることで覆されました。ローマ帝国への反逆罪で十字架にかけられたイエスが、その約三百年後に、ローマ帝国全域で神としてあがめられるようになったのです。

福音はこの世的な正義の主張によってではなく、互いに仕え合う愛によって広がりました。「真理はあなたがたを自由にします」が、その真理とは、「あれか、これか」のこの世の政策や智恵を超えたところにあります。イエスの「弟子」になることによって、今ここに、「神の国」を広げて行く「自由」をともに喜びましょう。

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2015年5月10日 (日)

ヨハネ7:53-8:20 「わたしは、世の光です」

                                                      2015510

多くの人々の心の中には、光によって自分の闇があぶり出されるのを恐れる思いがあるかもしれません。また人は、自分の罪を知りながら、それが人々の目にさらされるのを恐れ、ときに、それがあらわにされると必死に自己弁護をはかろうとします。イエスはそのような闇を抱えた人にどのように接してくださったでしょう。

 

1. 「この女は、姦淫の現場でつかまえられた・・・」

  753節~811節は、新改訳の注にもあるように、本来ここに属していたかは疑問です。この話は最も古い写本にはなく、ときにはこの福音書の最後に付録として掲載されていたり、またルカの福音書に入っている場合もあったからです。これが、文体や内容からしても、ルカの一部と見る人もいます。

ただ、多くの人々はこれを、実際にあって、弟子たちの間で語り継がれたこと認めています。イエス以外にこのような見事な応答はできないと思われるからです。また、この箇所に挿入されていることの中に神の不思議な摂理も感じられます。

 

まずこれが起きた状況が、「そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた」と描かれます。

そこに「律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから」、イエスに向かい「先生」と呼びかけつつ、「この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか(5)と尋ねました。

そしてさらに、「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」(6)と記されているように、これは巧妙な罠でした。もしイエスがモーセに反することを言ったなら、彼を偽預言者として告発できました。

一方、イエスが、彼らの言うモーセの命令に同意した場合、死刑判決の裁判権を占有するローマ帝国への反逆者として訴えることができるばかりか、彼の評判は失墜します。実際のところ、姦淫を犯した者を石打ちにするという刑は、ほとんど執行されていなかったからです。

 

あなたなら、どう答えるでしょう?ただそれを考える前に当時の事情をもっと調べる必要があります。モーセの律法では、人を裁く場合、異なった立場にある複数の目撃者の証言が求められますが、姦淫の立証は極めて困難です。

ところが、この女は、「現場でつかまえられた」というのです。しかも、男も女も同じく裁かれる(レビ20:10、申命22:22)はずなのに、男はいません。申命記2222-24節には以下のように記されています。

 

夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。

ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。

彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい

 

  モーセの律法では、何よりも男性の側の罪から指摘されて、女性の場合は、助けを求めて叫ばなかったこと自体が、男性と同意の上と見られて、ふたりとも石打ちにして殺すことが命じられていました。

ですから、これは、ひとりの女が罠にはめられたと解釈できます。当時は、男が複数の女を妻とすることは許容された一方、女の場合は、夫以外の人と性的交わりを持つなら、必ず姦淫になりました。

この女には夫があり、彼は妻と関係を持った男を取り逃がして平気でいたという不健全な構図があります。彼女と関係を持った男は、彼女を追い出したいと思っている夫の差し金だとさえ考えられるかもしれません。

とにかく、彼女を引っ張ってきたユダヤ人の指導者は、イエスを告発することばかりを考えており、この女の人生には何の関心もなかったことが明らかです。聖書に精通しているはずの人が、人のいのちにこれほど無感覚になれることに驚くばかりです。

 

  もしあなたがイエスの立場だったらどうでしょう。彼らの質問にどう答えるかに夢中になり、同じように、この女性の心の声を聞けなくなってはいませんか。そのとき、あなたの心の目はどこに向かっているでしょう

 

2. 「しかし、イエスは身をかがめて・・・」

  彼らの問いかけに対する対応が、「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」(8:6)と描かれます。古来、何が書かれたのかについて様々な見解がありますが、それで見落としてしまう情景がないでしょうか。私たちが興味をひかれるのと同じように、ここにいたすべての人の目は、突然、地面に置かれたイエスの指先に向かったのは間違いありません。

真ん中に立たされたこの女は、恐怖と同時に、恥ずかしさでいっぱいでした。彼女は人々の好奇と軽蔑の眼差しから逃れたかったに違いありません。イエスから見つめられることは、なお辛かったことでしょう。

イエスは、彼女の気持ちに、無言で寄り添ってくださったのではないでしょうか。

 

それと同時に、イエスの行動は、彼女をひっぱってきた人々を恐れさせます。イエスは、そのみわざと教えによって人々の注目を集めていました。そんな人が不可解な行動を取ると、攻撃者は、「何かあるのでは・・・」と恐れにとらわれます

律法は、偽証罪に対しては特に厳しい裁きを命じていました。人を死刑に陥れるような偽証が明らかになれば、証人自身が死刑になりました。何よりもそこでは悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」(出エジプト23:1)と、その動機も問われました。イエスはこのみことばを書いておられたという説もあります。

どちらにしても、律法学者やパリサイ人は律法に精通していましたから、イエスが地面に書いて何かを示唆するだけで、その意図に気づき、恐れが湧き起こったでしょう。

それで彼らは、早くイエスの応答を引き出そうと必死に同じ質問を繰り返しました。そのことが、「けれども、彼らが問い続けてやめなかった」と記されます。

 

その上でイエスは頃合いを見計らって、「身を起こして」、意外にも、あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7)と答えます。見事なことに、これは、モーセの律法と全く矛盾しません。

それと同時に、彼女を訴えたひとりひとりを神のさばきの前に立たせました。最初に石を投げる人は、「私には罪がない!」と言い切る覚悟が必要です。しかも、当時は、年長者が主導権を取らなければなりません。

彼らは身の危険を感じました。そして、今や、告発者自身が自分の心のやましさと向き合わされました

 

しかも、ここにもイエスの優しさが見られます。ここでは引き続き、「そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」(8:8)と記されます。そうすることで、訴えたひとりひとりが、イエスや民衆の鋭い視線をあびずにすみました。

そして、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」と記されます。

イエスは、どのような悪人をも、さらし者にしたりはなさいません。イエスは人々の視線をご自身のことばに向けさせることで、ひとりひとりが、ひそかに自分と向き合う空間をつくってくださいます

愛は、待つことです。決して、人の首ねっこを捕まえて罪を認めさせるようなことはしないのです。

 

 3. 「女はそのままそこにいた・・・」

  その後の情景が、「女はそのままそこにいた(8:9)と描かれます。イエスひとりを残してユダヤ人の指導者は立ち去りましたが、驚くべきことに、女も、人々の視線から身を隠すことも忘れて、真ん中に立ち続けたのです。彼女の心の目は、このとき自分よりもイエスに向かっていました。

イエスは、このときになって再度「身を起こし、その女に」、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」(10)と問いかけます。彼女は、このとき改めて、自分の置かれている状況の決定的な変化に気づかされます。

 

彼女の答えは、新改訳の注のように、「主よ」(11)という呼びかけから始まります。これを彼女の信仰告白とは断定できませんが、尊敬と感謝の気持ちを表わしている事は確かです。

その上で彼女は、「だれもいません」 と答えます。それに対しイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」(11)と言われました。

本来、罪のないイエスだけが彼女に石を投げることができるはずですが、彼は神としての権威を持って赦しを宣言しました。

ただ、イエスは同時に、彼女の行為を「罪」と指摘したその上で今からは決して罪を犯してはなりませんと警告します。それは、イエスが、彼女の行為に、決して同意はしていないということを表します。

 

   彼女のような立場に置かれた人は、必死で自己防衛をはかります。その結果、訴えが明らかなほど、かえって自分の罪を認められなくなります。

イエスは、人々ばかりか、彼女の目をも、ご自身の指先に向けました。彼女は一息つき、人々の視線を忘れる機会が与えられました。彼女は、自分がこの絶体絶命の危機から救われたと知ったとたん、「主よ」と自然に呼びかけました。

そして、今度は素直に、自分の生き方を改める思いへと導かれたに違いありません。自分を大切にしてくれる人のことばには、誰もが耳を傾けることができるのですから。

 

   彼女がその後、すぐに生き方を変えられたかどうかは分かりません。しかし、イエスの十字架を目撃したか、そのことを聞いたとき、「罪の赦し」にはイエスご自身の血の犠牲が必要だったということを知ったはずです。

そのとき、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」というイエスのことばの意味の重さが迫って来たことでしょう。その時、彼女は、改めて、罪人のままの自分を尊重して下さる神の愛を知り、それに応答して生きようとの力が与えられたことでしょう。

あなたも、「お前なんか愛するに価しない」という声を聞くことがありませんか?それはサタンの声です。その時、イエスは私たちの目をご自身の十字架に向けさせて下さいます

 

4.「わたしは、世の光です」

  812節以降は、752節に続く会話ではないかと思われます。まず、「イエスはまた彼らに語って」、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8:12)と言われます。

議員やパリサイ人は、イエスのことを聞きながら、「ガリラヤから預言者は起こらない(7:52)と拒絶しました。それなのに、イエスは彼らに向かって大胆にも、わたしはある(エゴー・エイミー)と、神の名を表す表現で、「わたしは、世(ガリラヤ、ユダヤばかりか世界全体)の光である(8:12)と宣言されたのです。

 

しかも、これは、当時のエルサレムの人々が誇りに思っている、仮庵の祭りでの夜通しのともし火を見た後でのことばだと思われます。神殿の庭には七つのともし火皿を持つ高さ20数mにも及ぶ枝形燭台四基が据えられ、その明かりはエルサレム市内全体を照らしたと言われます。それは、エジプトから逃れたイスラエルの民を、四十年間に渡って神ご自身が、昼は雲の柱、夜は火の柱として、守り導かれた記念です。

神は、荒野の厳しい旅を天からのパン等で養い、約束の地に連れ上りました。今やイエスご自身がイスラエルの民ばかりか、世界全体を真の安息に導く「火の柱」であるというのです。

しかも、イエスは続けて、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。これは、さらに大胆な宣言です。イエスを自分の人生の主と告白し、その御跡に従い続ける者は、どのようなときにも、闇の中を歩むことがないというのですから。

しかも、私たちの道を照らす光は、肝心な所に影を作る固定式ではなく、ともに移動するのです。それは、また、いのちの光として、私たちにいつでもどこでも、生きた神との豊かな交わりを与えるものです。

 

  イエスは、祭りの感動覚めやらぬ人々の前に立って、このようなことを言いました。当時の宗教指導者からしたら、とんでもない大法螺としか思えなくても当然です。私たちが受け入れるように召されているのは、それほど人の常識を超えた、大胆な宣言なのです。

彼らの前に立ったのは、ヨハネがこの書の初めで、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった・・・すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(1:4,5,9)と述べられているその人だったのです。

 

  もちろん私たちには、「一寸先は闇」と思えるような現実がどこにもあります。しかし、イエスに信頼し、その御跡に従うなら、例外なく、闇と思えたその所に、いのちの光を認めることができるようになるのです。

 

5.「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っている」

  そこでパリサイ人はイエスに、「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」と言いました(8:13)。しかし、イエスは、「このわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です(14)と言われます。それは、「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからだというのです。

イエスが、「わたしは、世の光です」と言われた時、イザヤ4956節を思い巡らしていたことでしょう。そこでは主(ヤハウェ)のことが、「この方は、私を胎内にいる時にご自分のしもべとして造られ・・・私の神は私の力となられた」と記されながら、その方が、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」と言われたと記されていました。

イエスは天の父なる神から遣わされ、「諸国の光」としての使命を全うし、御父のもとに戻られることを知っておられました。しかし、パイサイ人たちはイエスを「ガリラヤ生まれの大工の息子が・・・」などと「肉によってさばき」(15)ました。

それに対し、イエスは、「しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」(8:14-18)と途方もないことを言われます。

イエスは彼らが肉に従ってさばいていると言われたのは、彼らがイエスをさばくときのさばき方が、かつてニコデモが751節で指摘しているように公平さを欠いていたからです。

 

申命記1915-19に、「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。

もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主(ヤハウエ)の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。

さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし・・悪を除き去りなさい」と記されていました。

 

ここでは、何よりも裁判の慎重さと公平性が命じられていました。彼らは自分たちの正義に酔っていましたが、イエスの告発者であるならば、それを第三者的な立場で立証する人が必要なはずなのに、ここにはいません。ですから主はここで、ご自身を訴えている者たち自身が、不当な裁判をする者として、被告席に立たされると言われたのです。

その際、反対に、イエスご自身と彼を遣わした方が「ふたりの証人」として、彼らを「さばく」という逆転が起きます。しかも、イエスは今、ご自分の立場は、彼を「世の光」として遣わされた父なる神ご自身が保証しておられるので、さばきの対象にはなり得ないと言われたのです。

自分たちの正義を必死に主張したパリサイ人は、不正な手続きを責められ、イエスは万物の創造主の御手の中で、余裕をもってここに立っています。

 

それに対し彼らはイエスに、「あなたの父はどこにいるのですか」と尋ねます(8:19)。イエスは平然と、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」(8:19)と言われます。

主は彼らが根本的なことを知っていないと指摘しました。それは、彼らが、神の「愛」という基本を知らなかったからです。愛とは交わりです。イエスは父なる神との関係の中でご自分を見ておられました。

人は皆、ひ弱な傷つきやすい存在だからこそ、「私はいったい何者なのだろうか」と問い続けます。その答えは、たとえば、私は、妻がいて初めて夫と呼ばれ、娘がいて初めて父と呼ばれ、信徒がいて初めて牧師と呼ばれるように、それは他の人との関りでしか与えられません。

それをまず感謝して受け止めればよいのですが、私たちはそれで満足できずに、人と自分を比較しながら自分の価値をはかろうとし、必死に人から受け入れられることを、また自分の居場所を求めます。それが「もっと私が賢ければ、もっと強ければ、もっと良い人であったら・・・」という駆り立てる思いを、また、「私はあの人よりはましだ・・」という思いを作るのです。

 

  ところが、イエスは、ご自身のアイデンティティーを、「わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」(18)と言われたように、常に、天の父との関係でとらえました。イエスはいつも、ご自分のことを父なる神の目から見ておられ「あなたを呼び、その手を握り・・・国々の光とする」(イザヤ42:6)と言われる父なる神の愛の語りかけを聞いておられました。

イエスのことを知らなかったパリサイ人は、同時に、自分を知っていませんでした。それで、彼らはいつも、人の評価を気にしました。それは現代の多くの人々の現実でもあります。

ところが、貧しい大工の家に生まれ、十字架上にかけられたこの世の失敗者を、天の神から遣わされ、引き上げられた方であると信じる者は、同時に自分を知ることができます。ひ弱で惨めなままのこの私が、「神によって生まれ」(1:13)、御父のもとに行くこと(14:1-6)を知り、また、イエスの大使としてこの地に遣わされていること(20:21)を知って平安に満たされるのです。

多くの人は、人と比較しながら、自分の出生や能力を心の底で恥じています。しかし、真のアイデンティティーを与える神のまなざしに立ち返るなら、自分を受け入れ喜ぶことができます。それこそが、私たちにとって、「やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」という意味ではないでしょうか。

イエスに従う者は、自分がどこから来てどこに行くかが分かります。そして、自分もこのままで、「世界の光」とされているということが分かります。それは自分の使命を理解し、自分が生かされていることを知る、大きな喜びです。

 

最後に「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」8:20)と記され、イエスご自身が神のときを生きておられることが記されます。

パリサイ人たちは、イエスを信じる人々が多い中では、イエスに手を出すことができませんでした。彼らは群衆の視線を恐れていました。彼らはイエスを罠にかけることに夢中だったのです。

 

詩篇369節には、「私たちは、あなたの光のうちに光を見る」と記されています。それは、光の中で罪を示されながら、同時に、癒しの光を見ることです。イエスの光は、告発する代わりに癒します。隠したいような惨めな自分をも受け入れさせ、いつでもどこでも、愛の光で包み、生きがいを与えてくれます。

しかし、イエスに敵対したパリサイ人たちは対話を通して、その偽善、邪悪さがあぶりだされました。イエスご自身がさばこうとしなくても、彼らがイエスをさばこうとするそのプロセスを通して彼らの現実が顕にされたのです。

私たちに求められているのは、自分を正当化することなく、自分の罪を認め、それを赦してくださるイエスの前にへりくだることです。

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