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2015年6月21日 (日)

ヨハネ8章39-59節「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」

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   フランス革命からナポレオンの独裁と同時代に生きたドイツの思想家フリードリッヒ・ヘルダーリンは、「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世における天国としようとして来た、あの努力以外のなにものでもない」と言っています。

実際、その後の、共産主義革命が世界にもたらした悲劇がそれを実証しています。スターリンも、毛沢東も、金日成も、理想的な国家を作ろうと献身した人々と見られていました。

 

それはイエスの時代の日々の生活に律法を生かそうとしたパリサイ人や、ローマ帝国からのすみやかな独立を勝ち取ろうとした熱心党にも当てはまります。残念ながら、それは現在の、「イスラム国」と自称する国家にも当てはまることでしょう。また、あなたの身近なところにも、熱い理想の実現を訴えながら、現状を否定し、まわりの人々を振り回す人々がいるかもしれません。

私たちの主、イエスは、そのような性急な理想を追求する人々によって、冒涜者として十字架にかけられました。しかし、不思議にも、あざけり、ののしりを受けながら死に向かい、その後に栄光の復活にあずかることこそが、イエスご自身が望まれた生き方でもあったのです。

 

私たちは根本的なことにおいて、自分で自分を律することができない弱く愚かな者であることをどれだけ自覚しているでしょうか。

イエスは、私たちが模範とすべき生き方を示されたという以前に、ご自分を創造主と等しい方として示されたのです。イエスは私たちと全く同じ肉体を持つ人間であるとともに神であられたからです。

 

1.「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」

イエスは、「もし、あなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24)と言われましたが、これは永遠のさばきとともに、目の前の政治情勢の結末を示したことばでした。当時のユダヤでは、ローマ帝国へ対応を巡っての政治対立が激しくなりました。

そのような中で、激しい武闘派が権力を握り、ローマ皇帝の軍隊を招き寄せ、この時から約40年後の紀元70年にエルサレム神殿は廃墟とされます。イエスを救い主と信じなかったユダヤ人たちはこの闘争に巻き込まれて、まさに「罪の中で死んで」ゆきました。私たちも現代の政治対立の中で互いへの尊敬を忘れるなら、同じような破滅が待っています。

 

そればかりか、イエスはご自分を救い主と「信じたユダヤ人」たちに向かって、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です(31)と、彼らは「まだ本物ではない」という趣旨のことを言われたばかりか、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にしますthe truth shall make you freeと未来形で表願しました。しかし、彼らは「神の友」アブラハムの子孫であることを誇りにしていましたから、「私たちは・・決してだれの奴隷になったこともありません(33)と反発しました。

ただし、現実には、彼らはローマ帝国の支配下で半分奴隷状態でした。それにも関わらず自分を「すでに自由である」と呼ぶとは、現実を無視し、自分を神の立場に置くことです。しかし、信仰とは、「私は神のあわれみなしには、ローマ帝国の脅しに屈せざるを得ないひ弱な者です」と告白して、神にすがり続けることです。目の前の現実の矛盾の中でうめきながら、同時に、神ご自身による人知を超えた救いを期待できることです。

キング牧師は最終的勝利を確信しているからこそ非暴力を訴えました。そのとき、「We shall overcome(私たちは勝利する)」という歌が力を発揮しました。その一部では次のように記されています。

The truth will make us free, the truth will make us free, The truth will make us free someday, Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday.(真理は私たちを自由にする。いつの日か。私は心の底から確信している。いつの日か勝利することを)

 

イエスが真っ向から非難した罪人とは、遊女や取税人ではなく、自分の正義を主張していたパリサイ人でした。彼らの人を人とも思わないような姿勢が、ユダヤ人同士のいがみ合いと、同士討ちと、ローマ帝国との戦争を引き起こし、国を滅亡させたのです。

ですから、イエスは続けて、真っ向から「奴隷」ということばを使って、罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言われました(34)。これは、もちろん、私たちが自分の肉の欲求の奴隷状態にあるということを指摘するものではありますが、ここではそれ以上に、自分の惨めさを認めずに、自分を神のようにする生き方の問題を指しているとも言えます。

 

ところで、イエスは、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです(3536)と言いました。ここで、真理は・・自由にする」とのことばが、子が・・自由にすると言い変えられています。

たとえば、地球の誕生とか、人生には苦しみと死が避け難いなどという科学的な「真理」を知っても、罪の支配から自由になることはできません。しかし、たとえば、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(3:16)と、心の底から味わったなら「自由」を体験できます。なぜなら、罪人のままの自分への愛を体験することから、神への愛が生まれるからです。

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして・・・主(ヤハウェ)を愛し」ている人こそが、罪から自由にされています(申命記6:5)。一方、人は、責められる思いを味わうほど、神を愛せなくなります。

 

自由とは、このままの自分が愛されていることを確信し、大胆に神を愛して行けることです。イエスの勧めは、「もっと信心に励んで真理を会得しなさい」ではなく、わたしのことばにとどまりなさいでした。「自由」はその必然的な結果であり、イエスご自身から生まれるものなのです。

ローマ帝国による剣の脅しは、キリストに従う者には無力になりました。それどころか、殉教者の血を見た者たちは、脅しに屈する代わりに、死を超えたいのちの喜びを発見し、次から次へとキリスト信仰へと導かれました。迫害が益にされました。まさに、イエスの十字架と復活を信じる者は、罪と死の支配から解放され、自由にされたのです。

 

   イエスは、続けて、わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです(3738)と言われました。

「わたしの父」とは父なる神のことですが、「あなたがたの父」とは、罪に満ちた肉の父を指しています。それで彼らは、「私たちの父はアブラハムです(39)と答えました。

 

それに対し、イエスは彼らに、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言います。イエスが天の父なる神の話しをしているときに、彼らは、自分たちが血筋によってアブラハムの子孫であることを誇っていましたが、大切なのはアブラハムの生き方に習うことです。

それでイエスは、「今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています」と言われます。これはアブラハムの信仰が彼らの父を通しては伝わっていないことを明らかにすることによって血筋の無意味さを説いたのです。大切なのは、神の御霊に生かされることです。

自分の正義を徹底的に主張することこそ、あらゆる争いの原点です。政治は本当に大切ですが、恐ろしい魔力があります。それは、自分を神とする運動になり得ます。だからこそ、崇高な理念を掲げて権力を握った人々の多くが、権力の虜になってしまうのです。イエスはそれに対し、この世の権力機構を、ご自分が自ら十字架にかかることで覆されました。ローマ帝国への反逆罪で十字架にかけられたイエスが、その約三百年後に、ローマ帝国全域で神としてあがめられるようになったのです。

 

福音はこの世的な正義の主張によってではなく、互いに仕え合う愛によって広がりました。「真理はあなたがたを自由にします」が、その真理とは、「あれか、これか」のこの世の政策や智恵を超えたところにあります。イエスの「弟子」になることによって、今ここに、「神の国」を広げて行く「自由」をとも味わうことができるのです。

 

2.「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって・・・

ところでイエスが目の前のユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています」(41)と、彼らが父の罪を受け継いだ生き方をしていることを指摘したところ、彼らは、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」と不思議なことを言いました。これは、イエスの母がマリヤであっても、イエスの肉の父がヨセフではないことが、うわさになっていたためだと思われます。

それに続けて彼らは、「私たちにはひとりの父、神があります」と言いましたが、それは預言者マラキがその210節で、「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか」と言いながら、「外国の神の娘をめとった」ユダヤ人を非難し、ユダヤ人どうしの夫婦の契約を守るようにと命じたことを思い起こしたものだと思われます。

 

それに対し、イエスは、「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(42-44節)と途方もないことを言われました。

 

   イエスはご自分が天の父なる神から遣わされ、父のことばを語っていると繰り返し言っておられます。それは、彼らには到底理解できないことでしたが、少なくとも、自分の罪深さを自覚しているスカルの町の井戸に水を汲みに来たサマリヤの女はすぐに、そのことを理解できました。つまり、自分の罪深さを理解している者はイエスが神の御子であることがわかる一方で、自分は聖書に記された神のみこころを理解していると誇っていたユダヤ人たちは悪魔の子であるというのです。

人類の父祖アダムは、神の愛に満ちた命令を聞きながら、悪魔の声に従って、神に背きました。そして、神の語りかけを聞いても、御前から逃亡し、罪を指摘されると、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・(創世記3:12)と自己弁明しました。そして、最初の息子カインも、罪は・・あなたを恋い慕っている」(4:7)との警告を聞きながら、弟のアベルを殺しました。それは、神の語りかけを軽んじる生き方を、アダムから受け継いだからです。

彼らに共通するのは、自分の罪深さの自覚がまったくないということです。ここに不思議な逆説が見られます。自分の正当性を主張するのは、悪魔の子であるということです。

 

イエスはここで続けて、「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(44)と言われます。

悪魔の偽りは、何よりも、蛇が女を最初に誘惑したことばに現れています。蛇は善悪の知識の木を指して、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け・・神のようになり、善悪を知るようになる」と言いました。それは半分の真理を含んだ偽りでした。

神のようになるとは、全知全能の神のようになるという意味ではなく、自分を世界の中心に置き、自分の善悪の基準で神と世界を評価するという生き方の始まりでした。神なしには生きていられない者が自分を神とするとは、生活能力のない子供が両親の家を飛び出して勝手気ままに生きることと同じです。

放蕩息子は皮肉にも、自由を求めながら、悪魔の奴隷になって破滅に向かいました。その意味で、「悪魔は初めから人殺しである」という通りなのです。

 

そして、アダムのようにユダヤ人たちも、悪魔の偽りの声に耳が慣らされ続け、真理が聞けなくなっていました。ですからイエスは、「このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」(45)と言われます。

そればかりか、しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです」(45-47)と結論付けました。

これは乱暴な議論のように見えますが、イエスが神から遣わされ、神のことばを語っているということを前提にするなら、当然の結論になります。

 

問題は彼らが、自分たちの罪の奴隷状態を認めなかったために、神がユダヤ人たちをローマ帝国ではなく、罪の支配からの解放をもたらす救い主であることを認められなかったことにあります。イエスはそれで彼らが自分を神としたアダムの罪の奴隷であることを断言する必要がありました。

彼らに、何よりも先に、自分たちが奴隷状態にあることを認めさせない限り、彼らは「神によって生まれる」(1:13)とか「新しく生まれる」(3:3)ということを願うこともできないからです。

自分の努力で罪の支配から自由になれると思う人は、神のみことばを真に謙遜に聞くことができません。そして、傲慢になったり卑屈になったりしつつ、罪の泥沼にはまってしまいます。

 

  ところで、イエスの表情は、ことばとは裏腹に、慈しみに満ちていたかもしれません。イエスは、しばしば、敢えて冷たい言い方をされます。母マリヤが「ぶどう酒がありません」と言うと、イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答え、また、教えを乞いに来たニコデモには「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか(3:10)と言い、息子のいやしを求めた王室の役人には「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない(4:48)と答えました。

しかし、イエスはその後、それぞれの必要に驚くほど誠実に応えておられます。イエスの厳しいことばは、拒絶ではなく、あわれみに満ちた招きなのです。

 

3.「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました」

ところが、ユダヤ人たちはイエスに向かって、「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と言いました(48)。それは、サマリヤ人こそが、ユダヤ人が自分たちを唯一の神の子孫であると主張していると、最も激しく非難している者たちであったからです。

そればかりか、ユダヤ人の誇りを傷つけ、彼らを悪魔の子と呼ぶこと自体が、「悪霊につかれている」しるしであると見えたのです。

 

イエスはそれに対し簡潔に、「わたしは悪霊につかれてはいません(49)と答えながら、その理由を、「わたしは父を敬っています」と述べました。

そして続けて、「しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます(50)と言われます。イエスは彼らに罵倒されながら、ご自分はすべてのさばきを父なる神にゆだねておられると言われました。

 

そればかりか、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」51節)と、極めて大胆なことを言われます。

ことばを守るとは目をそらさないことで、「ことばにとどまる(31)と基本的に同じ意味です。アブラハムも死に、預言者たちも死んだと言われるのに、イエスの弟子は「死を見ることがないというのです。これは「永遠のいのちを持つ」と同じ意味です。イエスの語りかけにとどまり続けるなら、神にあるいのちの喜びが消されることは決してないのです。

 

   それを聞いたユダヤ人たちは、イエスに向かって、「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」と言いました(5253)

残念ながら彼らは、イエスが語る「永遠のいのち」についての意味をまったく理解できませんでした。幸い彼らは、ギリシャ人とは異なり、肉体の死をたましいが肉体の束縛から解放される祝福のときかのようには理解していませんでした。彼らにとっての「死」はあくまでも、アダムの罪によって、すべての人が死の支配下に、不本意にも置かれているという理解でした。

そして、信仰の父アブラハムさえもそれから自由にはなることができませんでした。彼らはギリシャ人よりも、死を深刻に受け止めていました。それはそれでとっても良いことですが、神がどのように私たちを死の支配から解放してくださるか、それを知ろうとはしていませんでした

 

それでイエスは彼らに答えて、「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(54-56)と言われました。

アブラハムは、どう考えても理不尽としか言いようのない神の命令に従うことによって、神に栄光を帰しました。それは百歳になって誕生した待望の跡取り息子であるイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげることでした。理性では決して納得できない、途方もない不条理な命令です。

それに従うことができた理由を、ヘブル書の著者は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました(ヘブル11:19)と記しています。つまり、アブラハムがキリストの日を見たとは、神がご自分の「ひとり子」を罪のためのいけにえとし、そして、後に、その方を死者の中からよみがえらせることであったのです。

それにしてもイエスはここで、ご自身がアブラハム以上にアブラハムの神のことを知っており、アブラハムは「わたしの日を見ることを思った」と途方もないことを言われたのです。

 

それを聞いたユダヤ人たちはイエスをあざ笑うように、「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」(57節)と言いました。

イエスの時代の人々にとってアブラハムとは、二千年前の信仰の父であり、ちょうと現在の多くの人々がイエスをキリスト教の開祖と見るように、アブラハムを尊敬していました。ですから、イエスご自分をアブラハムより偉大であるかのように言うことは、とんでもない冒涜と思えました。

 

それを聞かれたイエスは、彼らの誤解を正す代わりに、さらに大胆なことを、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです(58)と言われます。

最後のことばは、原文で、「エゴー・エイミー」で、神がご自身を、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)との表現を思い起こさせるもので、ご自身が永遠に存在する神と等しいものであると言ったことに他なりません。

 

それに対し、「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした(59)というのは当時の人々にとっての当然の反応とも言えましょう。それは、石打ちに形によってイエスを殺すことを意味します。

そしてそれに対するイエスの反応が、「しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」と描かれます。イエスは彼らの殺意をひしひしと感じながら、ご自分のときがまだ来ていないのを知っておられたので、身を隠されたのです。

 

多くの人が、イエスはその高潔な生き方によって死後、神としてあがめられたと誤解し、「私も高潔に生きよう!」と頑張ります。しかし、イエスは世界の最初からおられた神であられ、私たちを自由にするために、人となってくださったのです。

奴隷は、自分の力で自由を勝ち取ることができない存在です。誰かの力によって解放してもらわなければ自由になることはできません。私たちはそのことをどれだけ心の底で味わっているでしょうか。私たちが頑張って天に上るのではなく、神が世に下って来られたのです。

そして、イエスは、「もし・・わたしのことばにとどまるなら・・」と言われました。主のことばこそが、あなたを、将来の不安や、人の目から自由にし、いのちの喜びを生み出すのです。イエスが真に救い主であることを心の底から味わってみましょう。

 

パウロはコロサイ116-18節で、「万物は御子にあって造られた…万物は御子によって、御子のために造られている・・万物は御子にあって成り立っています。御子はそのからだである教会のかしらです」としるしています。私たちが御子のからだである教会の一部とされているということも本当に途方もない大きなことです。

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2015年6月14日 (日)

出エジプト31章18節から34章10節「神との対話」

出エジプト3118節から3410節「神との対話」

                                                       2015614

  目の前の小さな報酬か、待った後の大きな報酬を選ぶかという心理実験があります。たとえば子供に向かって、「今なら1000円のお小遣いしか上げられないけど、一カ月待ったら1500円あげられるよ」と言って、一か月待つことできる子は、衝動性に打ち勝つとともに、信頼感覚を養ってくることができた子でしょう。

現代人には、「待つ」ということがますます難しくなっています。人は、理性の上では、待つことの恵みを理解していますが、目の前に手っ取り早い解決が示されたらすぐに飛びつきたくなる傾向があります。

 

出エジプト記24章では、イスラエルの民の長老七十人が「(ヤハウェ)の仰せられたことはみな行い、聞き従います(7)と約束をして、主と契約を結び、「イスラルの神を仰ぎ見た・・・彼らは神を見、しかも飲み食いした(1011)というのですが、主の命令の中心は何よりも「金の神々を造ってはならない(20:23)ということでした。

偶像を作って拝むのは、神が最も忌み嫌われることであるということは頭では十分に分かっていたはずでした。しかし、モーセがシナイ山に上って、神から幕屋の作り方の指示を受けている間に、民は極度に不安になり、金の子牛を作って拝んでしまいました。民の長老たちは頭では分かっていたはずなのに、目に見える神を作って欲しいという民の声に圧倒されたのでしょうか。

信仰の核心とは、待つことにあります。そして、待つことができるための秘訣は、対話の中に生きることではないでしょうか。

 

なお、金の子牛を作って戯れた民と、神のために命を賭けることができたパリサイ人は一見対照的なようでありながら、自分のイメージした神を礼拝したという点で一致します。あなたの信仰は、自分の「信念」でしょうか、それともみことばに基づいた「神との対話」でしょうか?

今回の箇所は、慰めと希望に満ちています。神様が一度失われた契約の板を再びお与えくださるのですから・・・。その過程での主とモーセとの対話は感動的です。今も、自分勝手な神様のイメージを作り上げて、信仰生活を自分で息苦しくしている人が本当に多いように思えます。

 

1.「これ(金の子牛)が・・あなたの神だ」という民への神の怒りとモーセのとりなし 

   モーセは、幕屋の設計図と礼拝についての教えを受けるため「四十日四十夜」もの間、シナイ「山にいた」のですが(24:18)、皮肉にも、ふもとでは、それにまったく反することが行なわれました。

民はアロンに、「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」(32:1)と迫りました。アロンはその声に圧倒され、民の望むままを行うことにしました。

そして彼が声をかけると民は自主的に金の耳輪を持ち寄り、たちまち金の子牛ができあがったというのです。

 

彼らは、「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(4)と言いました。彼らは、このことばによって、自分たちを「エジプトの地から連れ上った」方を、「あのモーセという者」と呼ぶ代わりに、「子牛の偶像」であると言いました。

彼らは、別の神々を拝もうとしたわけではなく、目に見えない方に信頼するということができなかった結果、「彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた(詩篇106:20)というのです。

神は人をご自身の「かたち(image)」として創造してくださいました。それなのに彼らは、神のイメージを牛の姿で現してしまいました。これは神ご自身を辱めるとともに、自分たちが「神のかたち」として創造されたという恵みを軽蔑する行為でした。

 

このときアロンも同調し、「あすは(ヤハウェ)への祭りである(32:5)と宣言しました。彼らは別に「バアルへの祭り」を祝ったわけではありませんでした。しかし、彼らはいけにえを供えた後、「すわっては、飲み食いし、立っては戯れ」(31:6)たという様子こそ、当時の放縦な喜びに満ちたバアル礼拝の姿そのものです。子牛はその偶像で豊穣のシンボルだったからです。

後にパウロはこの箇所を引用しつつ、「偶像礼拝者となってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った』と書いてあります(Ⅰコリント10:7)と記録しています。

 

   神は、民のあまりにも早急な堕落に怒りを燃やされ、モーセに向かって、あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった」(32:7)と嘆き、わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを断ち滅ぼす」(32:10)と言われながら、同時に、モーセから再び神の民を生み出すと新しいご計画を提示されました。

神がイスラエルの民を奴隷状態から解放し、シナイ山に導き、天から民全体に語りかけ、「十のことば」をお与えになり、また民の長老七十人との契約の食事をされたというそれまでの経緯を見るなら、神がお怒りになる理由が良くわかります。モーセがいなくなったという不安に駆られた民は、神を最も怒らすことをしてしまいました。

 

それに対しモーセは、神が彼に向かいイスラエルを「あなたの民」と呼ぶ矛盾を指摘し、「あなたが・・連れ出されたご自分の民に向かって、どうして・・」(32:11,12)と、真正面から疑問をぶつけ、あなたの民へのわざわいを思い直してくださいと迫りました。

これは本来、神に悔い改めを迫ることばです。その上で、「あなたのしもべアブラハム」(32:13)との「契約」にさかのぼり、神ご自身の救いの計画の全体像を思い起こして欲しいと願います。

 

すると主(ヤハウェ)は「思い直された(32:14)というのです。すべてを支配し、歴史を導く神が、何と、肉なる者の訴えを聞かれて、みこころを変えられました!全世界の創造主が、ひとりの人の訴えを受け止められたのです。

 

詩篇作者は、このことを、「もし・・モーセが、御前の破れに立たなかったら、どうなっていたことか」(106:23)と歌っています。

多くの人は、人の破れを指摘だけはしても、それを神に向かってとりなすことができません。しかし、モーセは、神ご自身の救いのご計画を心から理解し、神の立場に立つような話し方ができました。そのように彼を整えたのは神ご自身ですが、これを通して、神は何よりも、人との率直な対話を喜ばれることが明らかになります。

 

2.「あなた自身がいっしょにおいでにならないなら」

ただしモーセは、民の乱れの実態を見ていませんでした。それで、彼が山を降り「宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり」(32:19)、何と、神の贈り物の石の板」を砕いたというのです。その「契約の板」は、神がイスラエルの真ん中に住んでくださることの象徴でした。

このときになって、先に主に向かって、「どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか」(32:11)と訴えた当人であった「モーセの怒りは燃え上がった(32:19)のです。

 

  なお、モーセはアロンを詰問しますが、彼は「私がこれ()を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」(32:24)と言い逃れをしました。それで、モーセは民全体の責任を正すために「だれでも、主(ヤハウェ)につく者は、私のところに」(32:26)と言いました。

モーセと同族のレビ族はみな彼のところに集まりました。何と、彼らは、剣をもって宿営の入り口を行き巡って三千人を殺しました(32:28)。彼らは自分の身を切るような思いで、神への熱心を証しました。それは、民全体が滅びることがないように、神の教えに従って偶像礼拝者を裁くという行為です。

 

モーセはその上で、再び神に嘆願します。今度は「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・・(32:32)と、心からへりくだって赦しを願いつつ、「しかし、もしも、かないませんなら、どうか・・・あなたの書物から私の名を消し去ってください」と、自分を民全体の身代わりとして欲しいと願います。

神はモーセから新しい民を創造すると言ってくださっているのに、彼はあくまでも民全体の破れ口に立ち続けようとしています。 

 

それで主は、モーセに民を導くように命じながら、不思議にも、「わたしは・・ひとりの使いを遣わす・・・わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない・・(33:2,3)とも言われました。それは、彼らが「うなじのこわい民」、つまり、自分の願望に縛られて、対話が成立しない民であり、そのため、主ご自身が彼らを絶ち滅ぼす結果になると思われたからです。

つまり、神にとっても、民の真ん中に住むということは無理なことと思えたというのです。

 

ただし、このときの会見の天幕における主とモーセの対話の様子が、「(ヤハウェ)は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」(33:11)と印象的に表現されます。

神はイスラエルの罪に激しく怒っておられましたが、その民の身代わりにさえなりたいと申し出たモーセには、友のように接してくださったのです。

 

なお、モーセは、神が民と共には歩んでくださらないと聞いてショックを覚え、「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください・・この国民があなたの民であることをお心に留め」と、必死にすがりました(33:13)

それに対し主は、わたし自身がいっしょに行って・・(33:14)と、みこころを変えてくださいました。それで彼はすぐに「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないで・・」(33:15)と念を押し、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか」(33:16)と、主がともに歩まれるということの本質を訴えます。 

 

  後に預言者イザヤは、「モーセの日(63:11)を思い出しながら、「彼らが苦しむときには、いつも主もともに苦しみ、主の御顔の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い抱いて来られた」(63:9私訳)と語っています。

金の子牛は、人の荷物になり、運ばれる必要がありますが、反対に、真の神は人を担い、運んでくださるのです。私たちも、神によって背負われ、運ばれ、救い出されるのです。

ここでは「主の御顔の使い」という不思議な表現が敢えて用いられています。新改訳は「ご自身の使い」と訳し、脚注をつけていますが、ここでは先の主とモーセとの対話を思い起こすことが大切です。主はご自身が彼らの真ん中に住む代わりに、御使いを遣わすと言われましたが、モーセは主ご自身が民の真ん中に住んで、彼らを導くことを願いました。主はその訴えに耳を傾け、ご自身の御顔、つまり神の臨在が民の真ん中に住んで、彼らを救うと言われたからです。

この表現をもとに、「足跡」という有名な詩が生まれました。振り返って足跡が一組しか見えない所、人生で最も苦しかった時は、イエスが離れていたのではなく、私たちを背負って歩いておられたのです。

 

3.「どうか、あなたの栄光を私にみせてください」 

  ところが、モーセはそのようなあわれみに満ちた主の約束に満足することなく、さらに、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(33:18)と大胆に願います。彼は、民の心がいかに当てにならないかを知っていました。彼らは、必ず、神の怒りを買うような罪を犯します。その時、主がイスラエルから離れ、彼が取り残されるのではないかと不安だったからです。

そして主は、この大胆な願いをもかなえてくださいました。ただし、主はまず、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから(33:20)と言いながらも、「わたしの栄光が通り過ぎるときには・・この手であなたをおおっておこう(33:22)と言われます。

 

私たちにとっては、イエス・キリストこそは、神が差し伸べて覆ってくださった神の御手です。神は私たちを、御子の十字架の影に隠しながら、交わりを築いてくださいます。ですから、もう私たちは問題の直中に置き去りにされる心配もありません。

イエスは、三日目に死の中からよみがえり、神の右の御座に着座され、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と語っておられます。  

 

   そればかりか、主(ヤハウェ)は、ご自身が民の真中にあって歩んでくださる象徴として、再び同じ「石の板」を与えると言われました(34:1)。この度は、石の板をモーセ自身が切り取って用意して行く必要がありましたが、今回も、主ご自身が書き記してくださいました(34:28、申命記10:4)

本来、一度失ったものを取り戻すことはできませんが、神はモーセが一度砕いてしまった石の板を回復されたのです。神の前で取り返しのつかない失敗はありません。

 

モーセがシナイ山に登ると、「主(ヤーウェ)は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主(ヤハウェ)の名によって宣言された」34:5)とありますが、これは主がモーセと同じレベルにまで降りてきてくださったということを強調する表現で、その後に記されている「(ヤハウェ)は彼の前を通り過ぎるとき・・・」(34:6)という全体にかかる解説だと思われます。

主はその時、「(ヤハウェ)」というご自身の名を繰り返しながら、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵み(契約を守る愛)とまこと(真実さ、アーメンの語源)に富み、恵みを千代も保ち、とがとそむきと罪を赦す者」であると改めて証しされました。これは神ご自身の決定的な自己紹介の啓示です。

 

福音記者ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た・・この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描きましたが、イエスこそ目に見えない神の栄光の現れでした。

 

イエスは、罪人、取税人、遊女の友となられました。そして、失敗した弟子たちを立ち直らせてくださいました。しかし、一方、自分を義人だと主張し、他の人を見下しているパリサイ人には驚くほど厳しく立ち向かわれました。それは、彼らが、金の子牛を作った先祖と同じように自分たちの勝手な神の栄光のイメージを作り上げたからです。

神がモーセに現された栄光の核心とは、「恵みとまこと」でした。神が怒るのは、神との対話を勝手に閉じることです。神は、モーセの大胆な訴え、神に思い直しを迫るほどの対話を、喜んでおられました。それこそ私たちが取るべき態度です。神との対話を通して、神の思いと私たちの思いが一致します。

 

なお、347節後半には、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という恐ろしい警告も記されています。多くの人は、この部分に恐怖を覚えますが、ここでは「恵みを千代(約2万年に相当)に保ち」ということと、「咎は・・三代に、四代に」ということが対比されています。

モーセはこの神の語りかけに心から感動し、「地にひざまずき、伏し拝んで」、改めて、「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように」(34:9)と願います。

 

それに対して主は、「今ここで、わたしと契約を結ぼう」(34:10)と言われます。すべての契約には、祝福の約束と共にそれを破った者へのさばきが記されます。ここでは「咎は・・三代に、四代に」という「のろい」の連鎖が神のあわれみを軽蔑する者へのさばきとして記されています。後のイスラエルのバビロン捕囚が歴史的には約七十年で終わったということは、一代を二十年とすると、三代、四代に相当します。その意味で、バビロン捕囚というのは、神の契約の成就というように見ることができます。

なお、神の怒りは、何よりも、神の「あわれみ深さ」や「情け深さ」に対して感謝も感動も覚えないような恩知らずに向けられているということを忘れてはなりません。自分の弱さや罪深さに嘆き、神のあわれみにすがるしかないと思っている人に向かって神が怒りを発することはないのです。

 

4.「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう」

主はモーセに向かって「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう。わたしがあなたともに行うことは恐るべきものである(34:10)と言われました。そして、「イスラエルの全家の者は旅路にある間、昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのをいつも見ていた(40:38)という神の臨在がイスラエルを導くことになります。

そして、彼らは四十年間もの間、天からのパンによって支えられ、敵の攻撃からも守られ、最後には彼らよりもはるかに強力なカナンの原住民と戦い勝利を体験して行きます。

 

   現在の私たちにとっての「雲の柱」「火の柱」という主の臨在に導かれて歩むとは、教会の交わりの中に生きることを意味します。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。

パウロは教会を建てることに関して、「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました・・・その土台とはイエス・キリストです」(Ⅰコリント3:1011)と記しています。その際、私たちはどのような材料を用いて建てるかが問われています。

 

そのことが、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります・・もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(同3:12-15)と記されています。

これは目に見える建物の建設ではなく、キリスト者どうしの交わりをどのように築いて行くかということです。人と人との交わりには様々な問題が起きますが、その真ん中に主ご自身がいてくださるときに、その交わりはこの世のいかなる組織にもまさる力を発揮します。

私たちはそれを人間的な手段や組織力によって築くのではなく、ともに主のみことばを味わうことを通して築くのです。その材料の良さとはみことばの味わい方を指しています。

 

そして最後にパウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です(3:1617)と言いました。

ここでは「あなた」という単数形ではなく、「あなたがた」という複数形が強調されています。この教会の交わりこそが神殿であり、神の臨在はこの場にあふれているのです。神とともに歩むということと、教会の交わりの中に生きるということは切り離せないことです。

この教会の交わりを軽蔑したり、それを破壊したりする者は、神によって滅ぼされるのです。私たちは何よりも、何かの具体的な目標を達成するということよりも、みことばを土台とした教会の交わりを建てるということを最優先する必要があります。

 

  神がモーセの「前を通り過ぎるとき」にご自分がどのような方かを啓示されたということと、イエスがガリラヤ湖の嵐の中で慌てふためいている弟子たちの前を「通り過ぎようとされた」ことは似ています。

マルコ648-51節では、「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた・・しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ(エゴー・エイミー)。恐れることはない』と言われ」、その後、「風がやんだ」と記されていました。

弟子たちの乗った舟が、嵐の中で転覆しそうになったことと、キリストの教会がこの世の中に置かれながら、世の様々な価値観の影響を受けて混乱するということは似ています。しかし、それはどちらも、イエスがこの世界の真の支配者であることを知る機会とされました。

教会がこの世の影響を受けることは残念ながら避けられないことかもしれません。しかし、それは教会の主がどのような方かを知る契機とされるのです。このような問題がどうして起きるのかという分析以上に大切なのは、問題のただ中で主にすがることです。主の前に取り返しのつかない失敗はありません。

主はどのような罪人をもまたどのような問題のある教会をも建て直すことがおできになります。すべてのわざわいは、私たちが真に遜って祈りさえするなら、主の栄光が現される機会とされるのです。

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2015年6月 7日 (日)

出エジプト記24章12節~31章17節 「主が求めておられる礼拝とは?」

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多くの人が言い知れない倦怠感、空虚感や孤独感を味わっています。それは、「自分の都合」を最優先できる世の中になった結果かもしれません。真に畏敬されるべき方を知ることなしに、命を賭けるに価する喜びも、生きる意味も目的も見出すことはできるのでしょうか。

礼拝においては、人間的に見ると、矛盾すると思える要素がからまってきます。多くの方が、近年の礼拝があまりも「人間的な営み」になって、本来、罪ある人間には近づきがたい聖なる神を礼拝するという健全な意味での「恐れ」がなくなってはいないかと警告します。

一方、近年の礼拝改革を導いてきた方々は、イエス様が当時の社会の底辺の人に寄り添ってくださったという面に注目します。そして、理性ばかりではなく、感性全体で神を礼拝できるための、人の心の動きに寄り添った礼拝の環境や霊的な流れを重視します。一見、対立するように思えますが、両方の要素が大切ではないでしょうか。

 

1. 神が民の真ん中に住むために

  神は、イスラエルの長老たちを契約の成立を祝う食卓へと招き、その上でモーセに、「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう(24:12)と言われました。

そして、「(ヤハウェ)の栄光はシナイ山の上にとどまり(24:16)、「山の頂で燃え上がる火のように見えた」(24:17)中で、「モーセは雲の中に入って行き・・四十日四十夜、山にいた(24:18)のでした。

 

そして31章の終わりでは、主ご自身が、「神の指で書かれた石の板をモーセに授けられ(31:18)ました。そして、25章から31章までは、この「石の板」が納められる幕屋の設計図と礼拝の仕方が語られます。

 

(ヤハウェ)が、火の中にあってシナイ山に降りて来られた時、煙は溶鉱炉のように立ち上り、全山が激しく震え、雷と稲妻と角笛の音が響いていました(19:16-18)。太陽に近づく者がその熱で瞬間的に蒸発するように、人は神に近づくことができません。ところが主(ヤハウェ)は、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む(25:8)と言われました。

ただし、それは神ご自身の設計図どおりでなければならないことが、「幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのとまったく同じように作らなければならない(25:9)と記されます。

このときのイスラエルは、逃亡奴隷の集団に過ぎませんでした。しかし、天地万物の創造主が真ん中に住んでくださるなら、何をも恐れる必要はありません。どんな強い敵にも立ち向かえますし、パンも水の心配もありません。

 

黙示録にはやがて実現する「新しい天と新しい地」の姿が、「見よ。神の幕屋が人とともにある・・・神ご自身が彼らとともにおられ・・目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:3,4)と描かれています。つまり、神が民の真ん中に住んでくださることこそが、すべての祝福に満ちた世界の実現の前提なのです。

ただそのためには、神ご自身のみこころに従う必要があります。それは、当時のイスラエルの民にとっては、主の設計図に忠実に従った幕屋を建てることでしたが、現代の私たちにとっては、イエスを自分の人生の主として告白し、イエスの御跡に従うことです。

 

そして、幕屋の心臓部こそ「十のことば」が書かれた石の板です。それを収める契約の箱を作り(25:10-21、長さ2.5キュビト:約1.1m、幅と高さ1.5キュビト:66cm)、それを二つのケルビムを載せた「贖いのふた」で覆うなら、主は「わたしはそこであなたに会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上のふたつのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう(25:22)と約束されました。

この後モーセは、山に登らなくても、この移動式の幕屋の中で主に出会い、みこころを聞く事ができます。

 

ローマ人への手紙325節の「なだめの供え物」ということばは、最近は「贖いのふた」と訳すのが正しいという学説が一般的になっています。その前後は次のように訳すことができます。

すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達することはできず、ただ、神の恵みにより、値なしに義と認められます。それはキリスト・イエスによる贖いのゆえにです。この方を神は『贖いのふた(mercy-seat)』として公にお示しになりました。それは、この方の真実による、その血によってです・・それは今の時にご自身の義を現わすためであり・・・イエスに信頼する者を義と認めるためです」。

なお、新改訳で「なだめの供え物」と訳されている言葉の原文はヒラステリオンで、それはヘブル95節では贖罪蓋と訳されています。これは主がモーセに、また大贖罪の日に大祭司と会見し(レビ16:2)、ご自身のみこころを示す場でした。

 

贖いのふた」は、何よりも聖なる神が、罪人である私たちの真ん中に住んでくださることの象徴、また、そこにおいて、神がみことばを語ってくださるということの象徴でした。

そして今、イエスご自身が新しい「贖いのふた」として私たちの真ん中に住み、父なる神を示し、新しい天と新しい地へと導いてくださいます。

 

その上で主は、契約の箱を至聖所に置き、垂れ幕で隔てた聖所に、パンを置く机(25:23-30)を作るように命じられ(長さ2キュビト:90㎝、幅1キュビト:45㎝、高さ1.5キュビト:66)、「机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする」(25:30)と命じられました。

これは安息日ごとに整えられ、一並び六個ずつ二並び十二枚が置かれました(レビ24:5-9)。これは主が民にとっての「いのちのパン」となってくださることの象徴だと思われます。

 

また、主はアーモンドの木を現わす七つのともしび皿を持つ「純金の燭台」を作るように命じられました(25:31-39)。なお、この大きさは指定されていません。これは毎日、夕方から朝まで会見の天幕の中を照らし続けるように「ともしびを整える」ことが命じられました(27:20,21)

これは、エデンの園にあった「いのちの木」を象徴するものとも言われます。これは、主ご自身が「いのちの光」であることのしるしだったと思われます。

 

そして、この終わりに、「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ(25:40)と念を押されます。それは、これが主ご自身の作品であることを強調するものです。なお、聖所の中のものは基本的にすべて純金で作られ、幕屋の幕も最高の材料が使われました。

しかも、材料は、民からの強制徴収ではなく「心から進んでささげる人からの・・奉納物」(25:2)でした。それはこの世の全ての王にも勝る栄光を主ご自身に帰するためでした。

人はアダム以来、神を自分のレベルに引き下げる傾向があります。しかし、それこそが、この世界の混乱のすべての原因でした。それに対して、神は、幕屋を用いてご自身を礼拝することを教えられたのです。

 

2. 幕屋の構造と祭司の装束、祭司の任職の贖い 

  神の幕屋は(26)、長さ30キュビト(1.5キュビト×20枚の板)13.2m、幅12キュビト(1.5×8)5.3m、高さ10キュビット:4.4mで、中の至聖所は10キュビト(4.4)の立法形でした(当教会の礼拝堂のスペースは長さが10.9m(廊下のガラスブロックまでが約13.5m、階段の踊り場を含めた最長部分は14.29m)、幅が7.65m、高さが4.65mです)

 

天幕は四層の構造になっていて、一番内側は「幕屋」で、上質の布製でケルビムの模様が織り込まれていました(26:1-6)。その上には「天幕」がかけられ、やぎの毛で幕が作られました(26:7-13)。また、その天幕の上に「赤くなめした雄羊の皮のおおい」とその上にさらに「ジュゴンの皮のおおい」がかけられました(26:14)

また2615-30節には、アカシヤ材の板で骨組みの構造を作るように命じられ、それも金をかぶせるように命じられました(26:29)。そして、ここでも、「あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない(26:30)と記されています。

 

   2631-37節には幕屋の内部の構造が描かれます。幕屋の奥の「至聖所」は、ケルビムを織り出した最高の質の青、紫、緋色の撚糸と亜麻布による幕屋で仕切られ、その中には「あかしの箱」とその上に「贖いのふた」が置かれました。また天幕の入り口も美しい布の幕屋でおおわれました。

ここには年に一度、大祭司だけがいけにえの血を携えて入り、「贖いのふた」にふりかけることによって主(ヤハウェ)と出会うことができました。

ヘブル人への手紙101920節では、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道をもうけてくださったのです」と記されます。

幕屋の中は祭司しか入ることができませんでしたが、現在は、すべてのキリスト者が「王である祭司」として、幕屋の中に入ることが許されているのです。幕屋は集会所ではなく、基本的に神の住まいとして作られています。

 

また、幕屋の前にはいけにえを火で焼くための「祭壇」が置かれました(27:1-8)。その大きさは、長さ、幅とも5キュビト(2.2)、高さ3キュビト(1.3)でした。

また、それらは、それは掛け幕によって仕切られた庭(27:9-18)の中にあり、それは長さ44m、幅が22mでした。そして、いけにえを携えてきた人がこの場に入ることができました。

 

また、聖所の中の燭台には夜の間中、上質の純粋なオリーブ油によって、ともしびを絶えずともすように命じられました(27:20,21)。それは、真っ暗な中でも、あかしの箱が入れられた至聖所を仕切る垂れ幕が照らされるためでした。それによって、暗闇の中でも、そこを聖なる場として覚えることができました。

 

また、大祭司のために、「栄光と美を表す聖なる装束を作る(28:3-40)ように命じられました。祭司は民に対して神の栄光と美を現わす必要がありましたから、金色、青色、紫いろ、緋色の最高の撚糸でエポデが作られました。これは、祭司の両肩から祭司の前の部分全体を覆う特別な装束でした(28:6-14)

また胸には、イスラエルの十二部族の代表者であるしるしの宝石をはめ込んだ「さばきの胸当て」が付けられました(28:15-30)。これは大祭司が十二部族全体を代表するという意味と同時に、イスラエルのそれぞれの部族が、神の目に高価で尊いかけがえのない存在であることのしるしでした。

なお2830節で、「アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず(ヤハウェ)の前に記念としなければならない」とあるのは大祭司がイスラエルを代表することを示しています。現在は全てのキリスト者が、「王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として」世界の人々の代表とされています。

また同時に、「さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ・・・絶えず主(ヤハウェ)の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる(28:31)とは、大祭司がイスラエルの民に対して神のみこころをくじのようなもので示しながら、神のご支配(さばき)を民に現すことを意味します。「さばきの胸当て」とは、何よりも、神がイスラエルの民を治めて、守り導いてくださるということのしるしだったのです。

 

また祭司の服のすそには金の鈴がつけられました。それは、「彼が死なないためである(28:35)とありますが、彼は聖なる神に近づく聖所の奉仕をいのちがけでするということを、この鈴の音が自覚させるのだと思われます。

また、かぶりものには「(ヤハウェ)への聖なるもの」と彫られた純金のふだがつけられました(28:36)。それはアロンの聖所での、すべての神へのささげものの奉仕が、民全体を代表するという使命を明確にするしるしでした。

 

その上で、祭司の任職のためには、七日間に渡り、贖罪のために毎日雄牛一頭を全焼のいけにえとしてささげる必要がありました(29:10-35)。それは、牛が祭司の身代わりになって死ぬことによって初めて、罪が贖われ、彼が神の前に立てる者とされるからでした。

祭司の任職のためにどれだけ大きな犠牲を払う必要があるのかを見る時に、祭司の勤めの大切さが分かります。後に民の堕落は、何よりも祭司から始まっていることがわかります。

 

現在の教会の牧師は旧約の祭司とは異なり、民全体の代表者としていけにえをささげるような責任はありませんが、民に主のみこころを示すという働きにおいては重なる部分があります。

七日間にわたる祭司の任職式、七日間にわたる祭壇の贖いを見る時に、私たちは牧師職や礼拝のための設備の聖別にも心を傾ける必要がありましょう。サタンは、牧師と礼拝施設を攻撃することから、教会を破壊し始めるということを忘れてはなりません。

 

3.神が真ん中に住まわれるために救われた

会見の天幕の前の祭壇では、毎日絶やすことなく朝と夕方、雄羊一頭を全焼のいけにえとしてささげるように命じられました(29:38,39)。それはイスラエルが常に神の民として自分自身を主(ヤハウェ)に献げるしるしでした。

 

その上で主は、「その所でわたしはあなた方に会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する・・・わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となる(29:42-45)と言われました。

幕屋は、イスラエルが持ち物と時間を献げ、主に仕えるための舞台でした。主は、幕屋の中に住まれるというよりは、ご自身が定めた方法による礼拝を、民が全身全霊でささげているその中にこそ住み、出会ってくださるのです。

神が真ん中に住んでくださるためには、イスラエルの民の側でなすべき大きな犠牲をともなう礼拝がありました。今は、イエスご自身が永遠の贖いを成し遂げてくださったので、私たちはいけにえをささげる必要はありませんが、その代わりに、私たちは自分自身を日々主にささげるように召されています。

そのことをパウロは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(ローマ12:1)と記しています。

 

   301-6節には香をたくための壇を作ることが命じられています。それは高さ約90㎝で幅と奥行きは45㎝のアカシヤ材の壇で、純金がかぶされ、「あかしの箱の上の贖いのふた」の手前、至聖所を仕切る幕屋の前に置かれました。

聖所の中では、毎日、朝と夕に「かおりの高い香」がたかれる必要がありました(30:78)。その香油は、特別に調合された聖なるもので、決して人間のために用いてはならないものでした(30:22-33)香は「聖徒たちの祈り(黙示5:8)を表します。

3017-21節では「洗盤」の作成が命じられます。これは祭司が会見の天幕に入るために手と足を洗うためでした。ここにも「彼らが死なないため」と記されていました。神に近づくのはいのちがけでした。

 

最後に主は、これら礼拝に用いるすべての設備を作るためにふたりの職人を神の霊で満たし、ご自身の働きのために用いました(31:1-11)。また、主に聖別する日としての「安息日」についての教えを繰り返されました(31:12-17)

神と出会い続けるためには、私たちの側でなすべきことがあります。イスラエルに命じられた礼拝の背後にどれだけの働きが必要だったことでしょう。そこでは、最高の「栄光と美」が見られ、最高の「香り」がささげられ、大切に育てた動物を身代わりの「全焼のいけにえ」とするという痛みがありました。

私たちはどこかで、自分たちが心地よさを感じることができる機会としての礼拝を求めてはいないでしょうか。しかし、安さや手軽さを第一とする生き方は長期的な満足をもたらしはしません。真の出会いを体験するためには高価な犠牲も必要です。

 

  神は、幕屋建設を具体的に命じるに当たってまず、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む(25:8)と言われました。また、「贖いのふた」の上から、モーセに語ると言われました(25:22)。そして、幕屋の構造を示した後に、「わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する・・・わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となる」と言われ(29:44,45)、また「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)、彼らの神・・であることを知るようになる(29:46)と言われました。

ところが、イスラエルはこの後すぐに、自分たちの都合に神を合わさせ、持ち物と時間を惜しむようになり、「(ヤハウェ)を知る」ことができなくなりました。それで、神は、ご自身の側から、最も高価な犠牲を払ってくださいました。何とご自身のひとり子をいけにえとされ、私たちのすべての罪を赦してくださいました。それは、神ご自身が私たちの間に住んでくださり、私たちが主(ヤハウェ)と出会い、知ることができるためでした。

 

しかも、今は、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)とあるように、私たち自身が、神がその真ん中に住んでくださるところの幕屋、または神殿とされています。私たちが建てている幕屋は、ひとりひとりがキリストのからだの一部として結び合わされ、組み合わされている愛の共同体です。

神は、「真の礼拝者たち」を求めておられます(ヨハネ4:4)。ただ、それは、神ご自身が私たちを恋い慕ってくださったというところから始まっていることを決して忘れてはなりません。神は私たちの献身を、また真実な愛を求めておられますが、それはアダムの子孫には不可能なことでした。それで、神はご自身の御子とご自身の「御霊」をお与えくださったのです。

その意味で、礼拝は、一方的に恵みを受けることから始まることは間違いがありません。しかし、そこから愛のキャッチボールが始まるのでなければ、より深い出会いを体験はできないのです。

 

  イエスご自身がいけにえとなってくださったので、私たちはもはや、牛や羊のいけにえをささげはしません。今、ささげるいけにえは、「御名をたたえるくちびるの果実」と「善を行うことと、持ち物を人に分けること(ヘブル13:15,16)、つまり、礼拝(Worship)と分ち合い(Fellowship)の二つです。この「賛美のいけにえ」とは、神のみわざを一致して告白するということで、音楽はその一部です。

黙示録の礼拝には、幕屋と同じように、金の燭台、香の煙、金の冠をかぶった長老、美しい宝石などが出てきます。私たちももっと工夫を凝らし、全身全霊をもって神の栄光をたたえるべきでしょう。しばしば、プロテスタントの教会は人間の五感の部分を軽視し過ぎると言われています。

 

神の尊厳が現されるところでは、ひとり子イエスと同じ立場にされた私たち自身の尊厳(Sonship)も覚えられます。そして、私たちは自分自身が、小さなイエスとされた誇りを持って、地の塩、世の光として派遣されるのです。

人はみな、「神のかたち」に創造されました。それは、神のイメージをこの世界で現すためでした。ところが人は、神のかたちとして、神の愛とあわれみを現わす代わりに、「神のかたち」に創造された自分を神の競争者にしてしまいました。神の栄光を忘れたことによって、人は神からあずけられた栄光を失ったのです。

神を侮る者は、「神のかたち」として創造された自分をも軽蔑しているのです。しかし、神をあがめる者は、いのちの尊厳を体験できます。

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