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2015年7月19日 (日)

レビ記 1~3章「神の恵みの高価さを覚えるために」

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   レビ記は多くの人々から難解な書と思われ、しばしば敬遠されています。しかし、イエス・キリストの十字架の真の意味を、この書を飛び越えて理解することができるのでしょうか?しかも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という聖書の最も有名なことばは、この書に由来します。これは私たちの生活に極めて身近な書ではないでしょうか。

出エジプト記では、雷といなずまと密雲とともに、主(ヤハウェ)はシナイ山に降りて来られました。そして、このレビ記では、その主が、人間と同じ地平まで降りた上で、会見の天幕からモーセに語りかけておられます。

 

そして、聖なる神が汚れた民の真ん中に住んでくださるために、このレビ記の様々な教えがあります。それこそ神の愛の表れです。

たとえば、あなたが江戸時代に住んでいたとして、領主であるお殿様を自分の家にお迎えするとしたら、失礼がないようにと、どれだけの準備と作法を学ぶ必要があることでしょう。ところが、今、全宇宙の創造主が私たちの交わりの真ん中にお越しくださるというのです。そして、主ご自身が優しく、手取り足取り、主をどのようにお迎えしたらよいかのご指示をくださるというのです。それがどれだけ大きな恵みかを忘れてはなりません。

 

1. 「主(ヤハウェ)はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた」

  レビ記は、出エジプト記とセットで読まれます。それは、天地万物の創造主が、わがままなイスラエルの民を恋い慕い、彼らの忘恩の仕打ちに耐え、ご自身の怒りをしずめながら、彼らに近づいて来るという物語です。

(ヤハウェ)は、彼らの父祖アブラハムに約束したように、イスラエルの民をエジプトにおいて壮年男子だけで60万人にも及ぶ民族へと増やしてくださいましたが、エジプト人はイスラエルの民の勢力増大を恐れ、あらゆる手段で彼らを迫害し、強制労働を課しました。

そのような中で、「彼らの労役の叫びは神に届いた(出エジ2:23)のでした。そして、それを聴かれた主は、モーセをリーダーとして立て、彼らをエジプトから救い出し、シナイ山へと導かれました。

 

そのシナイ山で、「(ヤハウェ)が火の中にあって、山の上に降りて来られ」ました。その際、「その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えました」(出エジ19:20)

人が宇宙空間に出て太陽に近づいて行くと、その熱のためどこかで蒸発してしまいます。まして全宇宙の創造主ご自身がこの地にくだって来られるとき、地が燃えて激しく震えるのは当然のことです。

それなのに、どうして人がその栄光に満ちた方の前に立つことができるでしょう。

 

そのような中で、主は、「十のことば」を、「火と雲と暗やみの中から・・全集会に、大きな声で」直接に告げられました。そればかりか、「それを二枚の石の板に書いて」、モーセに授けられました(申命記5:22)。これこそ神からイスラエルの民への最高の贈り物でした。

ところが、モーセが四十日間、山の上にいる間、彼らは何と金の子牛を作って拝んだのです。それで、主(ヤハウェ)は、「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼす(出エジ32:10)と言われました。

その後、主は、モーセの必死のとりなしで「思い直され(32:14)ましたが、それでも彼らに向かって、「あなたがたはうなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう(33:5)と、彼らの真ん中に住むことはできないと言われました。

 

ところがこれに対しても、モーセの必死のとりなしを聞かれ、ご自身が民の真ん中に住まわれ、民を導くことを約束してくださいました。そして主の御臨在のしるしとして、失われた「石の板」を再び与えてくださいました。その板を納めるために主ご自身の設計図によって幕屋が作られたのです。

民はそこに表された主のあわれみに感動し、次々と金銀財宝や家畜をささげ、幕屋が完成され、礼拝がささげられました。そのとき、「雲は会見の天幕をおおい、主(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ち」(40:34)、モーセですら天幕に入ることができないほどでした。

 

そのような中で、この書の最初で、「(ヤハウェ)モーセを呼び寄せ会見の天幕から彼に告げて仰せられた」(レビ1:1)と記されます。

かつて神は、シナイ山の上にまで呼び寄せて語られましたが、今は、イスラエルの民と同じ地上にまで降りて来られ、彼らの真ん中に住み、そこから語ってくださったのです。それこそが奇跡でした。

 

レビ記13章では、「全焼のいけにえ」「穀物のささげ物」「和解のいけにえ」について述べられますが、不思議に各々の詳しい説明は6,7章において述べる形にしながら、ここではひたすら「祭壇の上で焼いて煙にする」ということばが繰り返されます(十回1:91315172:29163:51116)

主へのいけにえは、人間の目には途方もない無駄と思えます。しかし、人間の愛は、何よりもそのような無駄を通して現されるのも事実ではないでしょうか。しばしば、多くの夫たちは妻たちに花束を贈ることの意味がわかりません。また、高級レストランで一回の食事にお金を使うことの意味が分かりません。しかし、しばしば、妻たちの心は、夫が自分のためにどれだけお金や時間を犠牲にしてくれたかということによって動かされるのではないでしょうか。その反対に、自分にとって価値あると見えるものを一方的に押し付けられることほど、不快なこともありません。

愛は、一見無駄に見えることに現されるのです。

 

また、それと合わせて、「これは、主(ヤハウェ)へのなだめのかおりの火によるささげものである」ということばも七回も繰り返されます(1:913172:293:53:16)

その意味は、(ヤハウェ)ご自身が民の真ん中に住んでくださるための前提として、ご自身の怒りで彼らを絶ち滅ぼすことがないように、ご自身の「怒り」が「なだめられる」必要があるということにあります。当然、そのいけにえは、主ご自身が指定した方法でなければ、受け入れられることができません。

これは、会社の金を使い込んで逃げた社員を再度迎えるかとか、浮気して逃げた伴侶を迎え入れるとかの手続きと似ているかも知れません。罪を犯した人をそのままで受け入れたいと願っても、罪に対する裁きがなされなければ罪を助長することになりますし、罪への怒りがなだめられなければ真の和解は成立し得ないのです。

 

2. 全焼のいけにえと、「香ばしいかおり」としてのイエスの犠牲

  主(ヤハウェ)は私たちをみもとに招きたいと願われたからこそ、ご自身の怒りがなだめられるための手続きを示してくださいました。そこに神の愛が見られます。

なお、「なだめのかおり」ということばは、厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJではa sweet aromaESVではa pleasing aroma)と記されています。つまり、そこで何よりも問われているのは、ささげる者の心なのです。

そのことが、詩篇508-14節では、主ご自身が、「いけにえのことで、あなたをせめるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつもわたしの前にある・・・わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と言われながら、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」と命じられます。

ですから、このレビ記1章では、いけにえをささげる者自身の動作に焦点が合わされています。

 

まず、「主にささげ物をささげるときは、だれでも(1:2)、野生動物ではなく、自分で育てた「家畜の中から」、最高のものを、会見の天幕の入り口まで自分で連れて来る必要があります。牛ならば、激しく抵抗するかもしれません。そして、その人は、「いけにえの頭の上に手を置き」ますが(1:4)。これは、「彼の代わりに受け入れられるため」です。手を置かれた家畜は、その人の罪を身代わりに負って血を流すのです。

しかも、携えてきた人自身が、家畜の叫びを聞きつつ、「ほふる」(1:5)必要があります。そして、祭司は、流された血を受け取って、「祭壇の回りに・・注ぎかけ」ます。「」はいのちの象徴ですから、これは、その人が「主に受け入れられる(1:3)というしるしになるのです。

しかも、「全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分ける」のは、ここでは祭司の働きではなく、ささげた人の働きとして命じられていると思われます(Ⅱ歴代35:11ではレビ人の働きに変わっている)。ここでは主語が明確に区分けされているからです。なお、全焼のいけにえの皮は祭司のものとなると78節に記されています。

 

その上で、いけにえがすべて焼き尽くされ、煙となり、「主へのなだめのかおり」となります。創造主はいけにえを食べないからです。

大洪水から救い出されたノアが、「全焼のいけにえ」をささげた時、「(ヤハウェ)は、そのなだめのかおりをかがれ」、「(ヤハウェ)は心の中で、『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい』と仰せられ(8:21)ました。たしかに、そこでは、主の怒りが、かおりをかぐことによってなだめられると考えられます。

なぜなら、そこでは続けて、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と記されながら、それにも関わらず二度と大洪水を起こしはしないと約束されているのは、神の怒りがなだめられたからと解釈できるからです。

そして、そこから、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ(9:1)という新たな祝福の時代が始まりました。つまり、主の「燃える怒り」がなだめられるとき、そこに恵みに満ちた主の「燃える愛」が明らかになったと言えるのです。

 

ただ、同時に、ここでも、神は、ノア自身が払った犠牲の大きさに心を動かされたという面も見られます。彼は何しろ、箱舟で一年間余りの間、守り養い続けた動物をいけにえとしえささげてしまったのですから。

 

  なお、いけにえは経済力に応じ、牛、羊またはやぎ、鳥と選ぶことができました。いけにえがその人にとっての最善のものである限り、それは「なだめのかおり」として受け入れられるのです。

なお、114節以降の、「鳥の全焼のいけにえ」の場合、「頭をひねり裂く(1:15)のは祭司の働きとして記されていますが、「汚物の入った餌袋を取り除き・・灰捨て場に投げ捨て・・・その翼を引き裂く(1:16,17)のは、ささげた人自身の働きとして記されています。

ここでも、焼いて煙にするのは祭司の働きですが、かわいがった鳩を自分の手で引き裂く痛みが示唆されます。

 

そして今の時代、神の御子ご自身が、私たちの身代わりのいけにえとなってくださいました。それは、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました(エペソ5:2)と記されています。

キリストの犠牲が「香ばしいかおり」と記されています。大洪水を起こした神の怒りが、ノアのささげものによってなだめられたように、人の罪に対する神の怒りが、キリストの犠牲によってなだめられるというのです。ここでも、神がいけにえ自体を喜ぶというよりも、犠牲の高価さが強調されています。

 

なお、ローマ人への手紙325節の「なだめの供え物」ということばは、最近は「贖いのふた」と訳すのが正しいという学説が一般的になっています。その前後は次のように訳すことができます。

 

すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達することはできず、ただ、神の恵みにより、値なしに義と認められます。それはキリスト・イエスによる贖いのゆえにです。

この方を神は『贖いのふた(mercy-seat)』として公にお示しになりました。

それは、この方の真実による、その血によってです・・それは今の時にご自身の義を現わすためであり・・・イエスに信頼する者を義と認めるためです」。

 

新改訳で「なだめの供え物」と訳されている言葉の原文はヒラステリオンで、それはヘブル95節では贖罪蓋と訳されています。これは主がモーセに、また大贖罪の日に大祭司と会見し(レビ16:2)、ご自身のみこころを示す場でした。

贖いのふた」は、何よりも聖なる神が、罪人である私たちの真ん中に住んでくださることの象徴、また、そこにおいて、神がみことばを語ってくださるということの象徴でした。

そして今、イエスご自身が新しい「贖いのふた」として私たちの真ん中に住み、父なる神を示し、新しい天と新しい地へと導いてくださいます

 

神は、ご自身のひとり子の犠牲を、「香ばしいかおり」として受け入れられました。そして、そこに現されたキリストの真実を感謝して受け止め、その方に信頼して歩む者が神の前に義と認められるのです。

神は、イエスがバプテスマを受けたときに、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけられましたが、その同じ語りかけが、イエスを救い主と信じるすべての人々に及んでいます。

 

3. 神への貢物、神との平和のささげもの

   2章の「穀物のささげ物」は、原文で、「貢物」を意味することばです。本来これは、土地を与えられた臣民が、領主の加護のもと外敵から守られ豊かな収穫を得られた見返りとして領主に持参したものでした。これは、全焼のいけにえに添えてささげられたもので、「記念の部分」が「祭壇の上で焼いて煙に」された残りは、祭司たちの食物とされました。祭司たちは、幕屋の奉仕に専念し、一般的な経済活動による収入の道がないからです。

これは、現代の教会でささげられる献金とほとんど同じ意味をもっています。それにしても、「記念の部分(2:2)に過ぎないものさえも、「なだめのかおりの火によるささげ物」と呼ばれるというのは驚きです。

後にパウロがコリントの教会に、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と書き送ったように、私たちの才能も、健康も、仕事も収入も、すべては神の賜物です。

 

労働による収入を、「自分のもの」と思うこと自体が、主の怒りを買うことです。収入の「記念の部分」に過ぎない献金が、「なだめ(安息)のかおり」として受け入れていただけるということ自体が、畏れ多いことではないでしょうか。

パウロはピリピの教会から経済的支援を受けたとき、「私は・・あなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です(ピリピ4:18)と記しています。

 

   なお、ここでも、「もしあなたのささげ物が・・穀物のささげものであれば・・・あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油を注ぎなさい」(2:5,6)と、ささげる人自身の動作が命じられています。

イエスは最後の晩餐で、パンを裂きながら、「これはわたしのからだです」と言われました(Ⅰコリント11:24)。そこには主がご自分のからだを犠牲として弟子たちのために与えるという意味がありました。穀物のささげものにもキリストの犠牲が示唆されています。

 

  211-13節では「穀物のささげ物」に関して、パン種や蜜を入れてはならないことが命じられ、「初物のささげ物として主(ヤハウェ)にささげる」とき、「なだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならないと命じられます。これは、穀物のささげ物は、記念の部分をのぞいては祭司たちのものになるからです。

しかも、それを長持ちさせるため、パン種や蜜を入れる代わりに、「塩で味をつけなければならない」と命じられます。そればかりか、「あなたのささげ物にあなたの契約の塩を欠かしてはならない」と記されます。

この祭司とその家族が受け取る穀物のささげ物のことが、民数記1819節では、「塩の契約」と呼ばれます。そしてⅡ歴代誌135節では、ダビデの家に対する約束が「塩の契約」と呼ばれます。

塩」は何よりも神の恵みの永遠性を覚えるために用いられるからです。

 

3章の「和解」のいけにえは、平和(シャローム)由来する言葉です。和解のいけにえは、それをささげた者自身が家族とともに、主の前でその肉を食べるものですが、ここでは脂肪を選び分けて焼いて煙にすることに焦点が当てられます。

その際、牛、羊、やぎの三種類に関し、「内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、肝臓の上の小葉」(3:4,9,10,14,15)だけを選んで、「全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にする(3:5)よう命じられます。

そして、ここでも、いけにえを自分の手で連れてきて、その頭の上に手を置いて、自分の手で殺すばかりか、その動物を解体して、脂肪を選び分ける働きは、ささげる人自身に課せられています。そして、その作業が、牛と羊、やぎの場合それぞれで同じように繰り返されて描かれます。ここにささげる人自身の痛みが示唆されています。

なお、牛のいけにえに関しては、脂肪を焼いて煙にすることが、今までと同じように「なだめのかおり(3:5)と記されますが、羊の場合は、それが主への「食物(パン)」(3:11)として描かれ、やぎの場合にはさらに、「食物(パン)と同時に「なだめのかおり」と重ねて記されます(3:16)

これは、そのように言い換えながら、ことばを増やすことによって、この脂肪の全焼のいけにえが、主に受け入れられる最高の贈り物になるということを強調したものと言えましょう。

 

その上で、「脂肪は全部、主(ヤハウェ)のものである。あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない(3:16)と言われます。「脂肪」という原語の同音異義語には「最高」という意味が、「腎臓」は、感情または意思の座という意味がありましたから、それは、神のみこころに自分の全身全霊をささげることの象徴だったと思われます。

 

私たちの罪の始まりは、「神のようになり、善悪を知るようになる(3:5)ことでした。それは、「何が良くて何が悪いかを決めるのは、創造主ではなく、私です。」と宣言することでした。神はそのような自己中心の罪に怒っておられ、それがなだめられる必要があります。

マリヤが、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように(ルカ1:38)と自分の身を差し出したことで、創造主は人となることができました。

同じようにあなたも、神に向かって自分自身を差し出すなら、神はあなたを用いて想像を絶する偉大な働きをすることがおできになります。

 

神を善悪の中心、絶対者とすることは、自分の幸福、楽しみ、欲望を第一としたい人間にとってはときに大変な苦痛となります。人は基本的に自分の願望をかなえてくれる神を求めています。神をあがめるのも、神のたたりを恐れてのことに過ぎません。

ですから、神は何よりも、罪人に対して、「神を恐れる」ということを、具体的な行動を通して指示する必要がありました。それこそが、「神のかたち」に創造された人が真に生かされる道だからです。

 

人は、恵みを既得権益と誤解し、無理な要求をエスカレートしてきます。しばしば、それを防ぐために、力による脅しやさばきも必要になると言われ、大国の軍事行動が正当化されることがあります。

しかし、「正義を愛するとは、正義を育てることであり、正義の仇を討つことではない」とも言われます。神は、正義を育てるために、ご自身の御子を犠牲にする必要があったのです。その原型こそ、レビ記のいけにえの規定であり、神の恵みが「安価」ではなく、「高価」なものであることを覚えさせる神の知恵でした。

支払われた犠牲の大きさを決して忘れてはなりません。

 

昔聞いた話ですが、祖母と孫の二人暮らしの家でのことです。孫はお金を持ち出す癖がありました。心を痛めた祖母は、「今度やったら、この焼け火箸でお前の手を焼くよ。」と警告しました。それを見て、その孫は、震えて「二度としません!」と誓いました。

しかし、それから間もなく、また盗んでしまい、それが発覚しました。孫は必死に謝りましたが、祖母は黙って座ったまま焼け火箸を火鉢から取り上げました。孫が目をつぶっている中で肉が焼ける音がしました。

祖母は何と、火箸を自分の手に押し付け、大やけどを負いながらイエスの十字架の話をしたのです。

 

十字架は、神が、罪を罪として断罪し、同時に私たち罪人をそのままで赦し受け入れたいと迫ってくださった高価な犠牲の伴った愛です。その愛を無駄にしてはなりません。その愛に応答することが求められています。

 

   なお、イエスが私たちのために「永遠のいけにえ」となってくださったからには、私たちはもう自分が育てた動物をいけにえにする必要はありません。しかし、そこで求められていたのは、私たち自身の「こころ」であるということは昔も今もまったく同じです。

それでヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はそのようないけにえを喜ばれるからです(13:15,16)と記しています。

つまり、現在、私たちがささげられるいけにえとは、主の救いのすばらしさを証しする「賛美のいけにえ」と、主の働きのために献金をささげることなのです。

そしてこれらはすべて、レビ記の最も有名なことば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18)と関わりがあります。主への愛と隣人愛はコインの裏表のようなものだからです。

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2015年7月12日 (日)

出エジプト34:11-40:38「主の栄光を鏡に映すように見ながら」

出エジプト34:11-40:38「主の栄光を鏡に映すように見ながら」

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カトリックの総本山サンピエトロ大聖堂の最高傑作と言えば丸天上のドームです。これは1506年の起工式の際に採用されていた基本設計ですが、実際に始めてみると、当時の技術では予算を大幅に上回る大工事になることが分かりました(現在の東京オリンピック競技場の顛末に似ている)。しかし、大富豪メディチ家の息子からローマ教皇になったレオ10世は、金に糸目をつけずに芸術家を雇い入れ、多額の借金を重ね建設を進めました。ただ、借金返済のために、ドイツでの免罪符の販売を許可し、マルティン・ルターの宗教改革を呼び起こしました。

プロテスタント教会はこのような背景から生まれましたので、礼拝施設にお金をかけることには極めて慎重です。主の栄光は、金ぴかの礼拝堂ではなく、聖徒の交わりの中に現されると強調します。

しかし、そこから別の行き過ぎも生まれました。人間は基本的に、自分が理解できる神を求め、神が私たちの想像をはるかに超えた超越者であることを忘れます。しかし、それは神を自分たちのレベルに引き下げることです。そのように神を人の基準で見る者は、「神のかたち」に創造された人をも安っぽく見るようになってしまいます。

 

神が建設を命じた幕屋は、驚くほど高価な材料が内部に用いられていました。しかも、それはみな、人々が主のあわれみに感動して、心からささげたものでした。そこに何の偽りもおどしもありませんでした。

そして、そのような感動を呼び起こした主の栄光の輝きは、まず、四十日四十夜、シナイ山の上で主とともに過ごしたモーセの顔に一部が現されました。

 

私たちは、自分に目を向けるのではなく、何かに力を注ぐことによって、真の人格となります。その契機となるのは、一人の人との出会いであったり、ある観念との出会いであるかもしれません。しかし、その様々な出会いの背後には、常に神との出会いがあるのではないでしょうか。

主への礼拝を自分の都合に合わせて引き下げてはなりません。あなたは、世界と自分の人生のゴールをイメージしているでしょうか?神の御霊にこころを開き、神の栄光の現れであるイエスの生涯を黙想することで、「栄光から栄光へと」、キリストに似た者へと変えられ、そこに神の平和(シャローム)が満ち溢れます。

 

1. 「モーセの顔のはだが光を放つ・・彼らは恐れて、彼に近づけなかった」

神は、モーセのとりなしによって、金の子牛を造って拝んだイスラエルを赦し、再び民の真ん中に住むと約束され、ご自身の契約を新たにしてくださいました。その際、主は、約束の地に住む偶像礼拝の民を「あなたの前から追い払う」と約束しつつ、「その地の住民と契約を結ばないようにせよ」と言われるばかりか、「彼らの祭壇を取りこわす」ことさえ命じました(34:11-13)。ただそれは、その地を神の地として聖く保つために必要なことでした。

その際、「その名がねたみである主(ヤハウェ)は、ねたむ神である(34:14)という不思議な表現があります。それは主が、親密な夫婦のような関係を、民と築くことを願っておられるからです。また、3418-24節では、年に三度の祭り等の「時を聖別する」ことが特に強調されます。

 

その上で、「モーセはそこに、四十日四十夜、主(ヤハウェ)とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった」(34:28)と記されますが、それは時間を完全に聖別した姿勢です。

なお、この時、「彼は石の板に契約のことば、十のことばを書き記した(34:28)とありますが、この「」とは、モーセではなく、主ご自身だと思われます。それは、申命記で、「(ヤハウェ)は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主(ヤハウェ)はそれを私に授けた」(10:4)とあることから明らかです。これこそ、主が民とともにおられることのしるしでした。

 

モーセはシナイ山に上る前に、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください(33:18)と願い、聞き入れられました。その結果として、彼が石の板を持って山から下りた際、「顔のはだが光を放って(34:29,30)いました。それは、民が「恐れて、彼に近づけない」ほどの輝きで、「語り終えたとき、顔におおいを掛ける」必要があるほどでした(34:33)。これは、彼らが顔を伏せながら、主のみことばに耳を傾け、その後で、モーセが自分の顔におおいをかけたということだと思われます。

この顔の輝きについてパウロは、「モーセの顔の、やがて消え去る栄光(Ⅱコリント3:7)と述べ、御霊の栄光には比べようがないと記しますが、それにしても、「モーセの顔の栄光」と表現されること自体が驚くべきことです。

ただ、イスラエルの民は、このモーセの顔に現された神の間接的な栄光さえ見ることはできませんでした。それほどに、神の栄光は畏れ多いもものだったのです。そして、それは、彼らの心におおいがかかっていることを象徴的に現してもいます。それは、「今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいがかかっている(Ⅱコリント3:15)と記されている通りです。

 

モーセは、主がともに歩んでくださらなければ一歩たりとも前には進めないと、自分の無力さを認め、主の御顔を慕い求めました。そして、その結果、自分で気づかないうちに自分の「顔のはだが光を放って」いました。

しかし、「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない(ヨハネ3:20)とあるように、イスラエルの民はモーセの顔の輝きさえ見ることができませんでした。そして私たちも、「神である主(ヤハウェ)の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)者の子孫です。

しかし、主は今、「わたしの顔を、慕い求めよ(詩篇27:7)と招いておられます。私たちは、それでも、頭では、それを求め、心は自分の肉の欲望にとらえられたままということがあります。そして、へりくだって自分の弱さを認める前に、自分の行動を正当化しようとします。そのような自己義認こそが、心におおいがかかった状態です。そして、この心のおおいは、自分の心がけや努力によって取り去ることはできません。

 

2.「人が主に向くなら、そのおおいは取り除けられ・・栄光から栄光へと変えられる」(Ⅱコリント3:16,18)

ところで、モーセは、「主(ヤーウェ)の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずした」(34:34)と描かれています。私たちも、モーセのように「主に向く(Ⅱコリント3:16)ことができます。そして、その「」とは、「御霊です(3:17)と記されます。

石の板に記されたことばは、神の愛が満ち溢れていますが、同時に、私たちの罪を指摘します。しかし、「文字は殺し、御霊は生かす」(同3:6)とある通り、もし私たちが自分の心の戸を開きさえするなら、御霊は、私たちの顔のおおいを取り除け、良心の呵責や恥じらいの思いから自由にし、御父の御前に立たせてくださいます。

 

それにしても、ここでは、「イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔は光を放った。モーセは、主と話すため入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた(34:35)とあるように、イスラエルの民は、モーセの顔に間接的に現された主の栄光を、恐れおののきつつ、直視できずにではありました、見る」ことができました

そして今、私たちは直接に御父を見るのではなく、私たちの罪のために十字架にかかってくださった御子を通して主の栄光を仰ぎ見るのです。それが、「主の栄光を鏡に映すように見ながら(3:18新改訳別訳)という状態です。イスラエルの民が「モーセの顔の栄光」として現された主の栄光を間接的に見たように、私たちは「キリストの御顔にある神の栄光」(Ⅱコリント4:6)を、「鏡に映すように」間接的に見るのです。

私たちは、被造物に過ぎない太陽でさえ、直接に見続けることはできませんが、山を輝かせる太陽の間接的な光なら、感動のうちに見続けることができます。そして、「神の栄光」は「キリストの御顔」のうちに「知られる(4:6)とあるように、「主の栄光を見る」とは、福音書に記されたイエスの姿を黙想することです。

それは、また、「今、私たちは鏡にぼんやり(厳密には「象徴的に、間接的に」)見ていますが、その時(世の完成のとき)には、「顔と顔とを合わせて見ることになります(Ⅰコリント13:12)と描かれるような見方であり、イエスとの直接的な出会いを恋い焦がれることです。

 

そのような中で、「栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Ⅱコリント3:18)と約束されています。それをパウロはガラテヤの教会に向かって、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています(4:19)と記しています。

これはイエスを救い主と告白したあとの成長のプロセスを指しています。これは、今から始まっているダイナミックな変化です。そこには、モーセの顔のはだが光を放ったようなことも含まれるかもしれませんが、彼自身は、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(民数記12:3)ことを忘れてはなりません。この変化は、人間的な努力ではなく、「御霊なる主の働き」によるものであり、私たちが成長度合いを測れるようなものではありません

多くの人は自分で自分を変えようとし、変わらない自分に失望します。それこそ地獄への道です。大切なのは、モーセのように、主に向き続けることです。それは、混乱しているままの自分の心を、主の御前に差し出すことです。

 

3.「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のために・・」

35-40章には、25-31章に記されていた幕屋の設計図の細かい寸法や材質までのほとんどすべてが繰り返されています。基本的な違いは、以前は、主(ヤハウェ)がモーセに語ったことであり、今回はそれがその通り、民によって実行に移されたということです。順番に違いが見られるのは、以前は礼拝を教えることが中心だったのに対し、ここでは具体的な建設のプロセスが述べられているからです。

なお、幕屋建設の目的は、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう・・・」(29:45,46)という点にありました。これは、イスラエルに、彼らの神を、勝手なイメージに作り上げないで、恐れを持って礼拝するようにさせながら、同時に、彼らの真ん中に住むための手続きでした。

なお、具体的な幕屋建設の働きに先立って、「七日目には、主(ヤハウェ)の聖なる全き休みの安息を守らなければならない(35:2)と、3421節に続いて記されていることは興味深いことです。安息日の教えこそ、「十のことば」の心臓部分であることが明らかになります。

 

その上で幕屋の建設と礼拝に必要なすべての材料は、「心から進んでささげる者に、主(ヤハウェ)への奉納物を持って来させなさい(35:4)とあるように、すべて民の自発的なささげものによって集められるようにと命じられました。これは現代の教会にもそのまま通じる原則です。献金で大切なのは、自由な心です。

そればかりか作業に携わるべき技術者のことが「心に知恵のある者(35:10)と描かれます。これも、技術力以前に、その人の心の動機が問われている表現と言えましょう。主の民の働きは、強制的な徴収や強制労働によってなされることはありません。そのことが3521節では、「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のために、また、そのすべての作業のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た」と記されます。

なお、イスラエルの民の感動は、時間的には、「モーセの顔のはだは光を放った」という神の栄光の間接的な現れの後に起こったことです。イスラエルの民は、まさに、鏡に映すように主の栄光を見ることによって、感動に満たされて、主へのささげものを次から次と持って来たとも言えるのです。

 

また同時に、「(ヤハウェ)は・・ベツァルエルを名ざして召し出し、彼に、知恵と英知とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた」と、作業の指導者を、主ご自身が召されたことが強調されます。また、同時に、主は追加でオリアブという人も召し、「主は彼らをすぐれた知恵で満たされた(35:35)と記され、すべてが主の主導権によるものであることが強調されます。

そして続いて362節では、「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、(ヤハウェ)が知恵を授けられた、心に知恵ある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた」とまとめるように描かれます。

しかも、彼ら作業に召された者たちは、民がモーセのもとに「なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を・・・持って来た(36:3)ので、「民は幾たびも持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です(35:5)と言うほどになり、モーセは民に奉納物をこれ以上持って来ないようにと命じる必要があったほどでした。

そしてその結論が、「手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった」(36:7)と描かれています。

 

礼拝の場は、神の栄光が現され、また神への私たちの愛を表す場ですが、それが義務や強制でなされるなら本末転倒です。幕屋の設計図は神が造ったものですが、そこでは驚くほど多くの必要があります。

しかし、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです(ピリピ2:13)とあるように、神ご自身が、人の心に「感動」の思いを起こさせ、「心から進んで」するように導いてくださいます

そのためには、犯した罪さえ益に変えられます。イエスは「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません(ルカ7:47)と言いましたが、彼らは、多くの罪が赦されたことを感動したからこそ、「あり余るほど(36:7)に献げることができたのです。神は、罪や失敗をも益としてくださいました。

 

4.「主の栄光が幕屋に満ちた」

36838節までは幕屋自体の作成の様子が描かれています。それは、26章にもあったように、長さは30キュビト(1.5キュビト×20枚の板)13.2m、また、幅12キュビト(1.5×8)5.3m、高さ10キュビット:4.4mで、中の至聖所は10キュビト(4.4)の立法形でした。

当教会の礼拝堂のスペースは、長さが10.9m(廊下のガラスブロックまでが約13.5m、階段の踊り場を含めた最長部分は14.29m、幅が7.65m、高さが4.65mで、似ています

371-9節では、契約の板を入れる箱と「贖いのふた」およびそれを覆うケルビムの作成が描かれます。契約の箱の大きさは、長さ2.5キュビト:約1.1m、幅と高さ1.5キュビト:66cmで、すべて純金がかぶせられました。なお、「贖いのふた」の上から、主がモーセに語ると記されていました(25:22)。

 

3710-16節はパンを置く机の作成、17-24節は純金の七つのともしび皿を持つ燭台、25-29節には香をたく台の作成のことが描かれています。

また、381-7節には、幕屋の庭に置かれ、いけにえを焼くための祭壇の作成のことが記されます。その大きさは、長さ、幅とも5キュビト(2.2)、高さ3キュビト(1.3)でした。

8節に洗盤の作成が記され、9-20節には幕屋と祭壇を囲む庭の掛け幕の作成の様子が描かれます。それは長さ44m、幅が22mでした。

 

3821-31節には幕屋の製作資材の記録が残されています。24節にはそこで使われた金の量が記されますが、一タラントは3000シェケルですので、その総量は87,730シェケル、約1トンの金が用いられたことになります。

現在の金価格は1g=5000円程度で計算すると、約50億円相当の金が用いられたことになります(当教会建設費の50)。ただ、これも次期東京オリンピックの競技場の建設費2520億円からみたら、まだまだかわいい金額ではあります。

 

ですから、391-31節には大祭司の式服の作成が描かれます。祭司は民に対して神の「栄光と美を現わす(28:2)必要がありましたから、金色、青色、紫いろ、緋色の最高の撚糸でエポデが作られました。これは、祭司の両肩から祭司の前の部分全体を覆う特別な装束でした。

また胸には、イスラエルの十二部族の代表者であるしるしの宝石をはめ込んだ「胸当て」が付けられました(28:15-3039:9-14)。これは大祭司が十二部族全体を代表するという意味と同時に、イスラエルのそれぞれの部族が、神の目に高価で尊いかけがえのない存在であることのしるしでした。

また、かぶりものには「主(ヤハウェ)の聖なるもの(Holy to the Lord)」と彫られた純金のふだがつけられました(28:3639:30)。それは聖所での、すべての神へのささげものの奉仕が、民全体を代表するという使命を明確にするしるしでした。

 

3932-43節では、幕屋を構成する各部分の働きの完成の様子が描かれます。そして401-8節では幕屋を実際に組み立てることが命じられます。そして9-16節では、幕屋と祭司の聖別のプロセスが命じられます。そして4017節では、イスラエルがエジプトを出たちょうど二年目に幕屋が組み立てられたことが記されます。

 

そして4018-27節では、すべての部分ができた後、「幕屋」が組み立てられ、「さとし」の「石の板」が契約の「箱」の中に納められ、「贖いのふた」が箱の上に置かれ、それが至聖所に入れられ、机、燭台、香の壇が置かれ、かおりの高い香がたかれた様子が描かれます。その後、全焼のいけにえがささげられました(40:28,29)

なお、「主がモーセに命じられたとおり」という表現が、39章には祭司の装束を作ることのために七回繰り返され(1,5,7,21,26,29,31)40章では幕屋の組み立てに関し七回(19,21,23,25,27,29,32)繰り返されます。それは幕屋が、具体的には人間によって作られたようでありながら、人間の作品ではなく、神ご自身の設計による神の作品であることを示しています。

 

この礼拝は、心だけで献げるものではなく、毎日、朝と夕に雄羊一頭を全焼のいけにえとして実際に献げ、平行して聖所の中では香りの高い香が献げるように命じられていました。私たちの心は、外の世界に反応するように造られています。ですから、私たちも、具体的に、神の栄光を現す礼拝の場、聖なる沈黙、心からの賛美などについて、神の導きを求める必要があります。

なお、この時、イスラエルの民は、山に上ったままのモーセを四十日間おとなしく待ち続けました(34:28,29)。そして、彼が「十のことば」が記された「石の板」を持って降りて来て、神ご自身が彼らの真ん中に住んでくださるということが分かった時、彼らの心は感動で満たされ、幕屋の材料がささげられ、幕屋が完成したのです。

そして、これらすべてのプロセスは、イスラエルの民が、鏡に映すように、主の栄光を見るということにつながっています。

 

こうして幕屋が完成し、聖別された時、「(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた(40:34)と描かれます。それはモーセすら入ることができないほどでした。これは、神がイスラエルの真ん中に住まれた圧倒的なしるしでした。

その後、主の雲が幕屋の上にとどまり、イスラエルの全家は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって、神に導かれてシナイ山を離れ荒野に入ります(40:36-38)。これこそ、幕屋が建てられたことの目的でした。

今は、「あなたがたが神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っている」(Ⅱコリント3:16)と言われます。神は、この教会堂というより、クリスチャンの交わりの真ん中に臨在されるのです。私たちが真心をもって礼拝に集まっている場が、今、目に見えない栄光の雲に包まれているのです。

 

  やがて実現する聖なる「都には、神殿を見なかった(黙示21:22)と言われますが、それは、「万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だから」です。しかも、そこで神を目に見える形で現すのは、神のかたちに創造され、栄光の復活にあずかった私たち自身です。

人は神のかたちに創造されましたが、神にそむいて神のかたちとして生きることをやめてしまいました。そのとき、神の御子ご自身がこの地にくだってきて、「神のかたち」としての生き方を示してくださいました。私たちはそのイエスの生き方を、鏡に映すように見ること、つまり、黙想することで、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」。

そして、新しいエルサレムに入れられるとき、私たちは、顔と顔とを合わせて、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示22:4)のです。これこそ救いの完成のときです。それは創造主ご自身が実現してくださる世界です。

そして、私たちは、今、ここで、その希望に胸を膨らませながら、様々な不条理と矛盾に満ちた地上で、今、「主の栄光を鏡に映すように見ながら」、この世界に神の平和(シャローム)を少しでも目に見える形で広げようと、日々を過ごすのです。

 

  なお、主を礼拝する場を美しく保つために労し、黙想の生活をすることと、イエスの謙遜に習い、この世の貧しい人、虐げられている人々に仕えることは、一見、矛盾するように見られることがありますが、自分にとって大切な時間とお金を主に聖別するという点では全く同じことです。

礼拝と相互奉仕とはキリストの教会にとって車の両輪のようなものであり、両者ともに自分ではなく神の栄光を現わすためになされることです。それを通して、私たちもキリストに似せられてゆくのです。

                                                           

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2015年7月 5日 (日)

エペソ2章1-10節「聖書が語る救いとは?」

                                                  20157月5日

   「天は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves)ということばは、古代ギリシャの有名な格言ですが、それがキリスト教会の中でも広まっています。これは、確かに一面の真理を表していますが、現実には、底なし沼のような「どん底」に追い込まれ、生きる気力さえ失っている人もいます。そんな人にとっては、「天は自ら助くるものを助く」というのは、強者の論理に聞こえることでしょう。

そんな矛盾に、本日の箇所は、すべてが神の一方的な恵みであると徹底的に強調した後に、「私たちは神の作品であって・・・神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」(2:10)と語っています。聖書は、自助努力を否定する教えではありません。かえって、私たちのうちに、神の視点から見た「良い行いをする力」を生み出すものなのです。

 

1.「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」

   最初の文章の中心は、あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・(それらの中にあって)歩んでいました」(2:1)と記されています。これは、「死んでいたのに・・歩んでいた」ということ、つまり、「あなたがたは、生けるしかばねだった」という意味になります。

しばしば福音的な教会では、「救われた」ということばが多く用いられます。しかし、「どのような状態から救われた」かを、未信者の方にわかるように伝えられるでしょうか?

 

   大学時代の国際交流のサークルの同窓会に参加したときのことですが、彼らの多くは、いわゆる一流商社や金融機関で忙しく働いてきながら、第一線からは外れつつあり、人生のむなしさを切々と感じています。そして、私の生きがいに満ちた様子を見て、その働きを評価してくれながらも、「俺ももっと落ちぶれたら、お前のところにやっかいになろうか・・・」などと言ってくれます。約30名集まった人々の中で、七割の人々が私の本を買ってくれましたが、敢えて、「今回の本は、みんなに読んでもらいたいと思って書きました・・」と熱く語ったところ、一部の先輩から冷ややかな視線を感じました。

教会は、落ちぶれた人々の集まる所と思っている人が少なからずいるのかもしれません。そして、自分が切羽詰った思いになって初めて聖書の教えを知りたいと思いますが、それ以前に、あまりにも熱く語られると、まるで自分が馬鹿にされたように感じるという人は、少なからずいることでしょう。

 

 「罪過と罪の中に死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、アメリカ留学中に、自分のステレオタイプなクリスチャン像がことごとく砕かれ、クリスチャンの友人の自由な生き様に非常に魅力を感じたとのことです。ただ、同時に、「罪とは何だろう・・、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか・・・」と疑問に思いました。

ただ、そこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。確かに「罪」の語源は第一義的には「的を外す」という意味があり、また、「罪過」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。

つまり、これは見当違いの方向で必死に生きている人々、また、見当違いの確信に立っている人々を指しており、神を知らずに生きている人々すべてに当てはまることばです。実は、「神の救いを求めなければならないほどには自分は落ちぶれてはいない・・・」などと強がって生きているすべての人が、神の目からは「罪過と罪の中に死んでいる」人々なのです。

   今の日本の多くのサラリーマンは、会社が存続できるかどうかという恐怖の中で、残業代を請求できないことも多くあります。それはドイツなどでは決して想像できないことです。過労死などということばが国際語になってしまうというのは、かつて、「兵隊は鉄砲よりも安い」と言った日本軍の発想と同じです。

最近は、「社畜」ということばが流行っています。それは会社の家畜のように、組織に従順に飼いならされた人のことを指します。これほど、個人の尊厳や自主性を軽視する先進国があるのでしょうか。「罪」とは、まさに、そのように、神が示しておられる目標を忘れて、人間的な目標を絶対化して、個人をその目標達成の手段としている価値観に他なりません。

 

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは、いわゆる「モーセの十戒」と呼ばれる教えにおいて最も大切なことばです。彼らは自分たちがエジプトでの奴隷状態から解放されたことを繰り返し思い起こすように命じられていました。

日本のサラリーマンも、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似ているかもしれません。彼らは会社の奴隷のような状態に置かれていないでしょうか。しかし、私たちは神の子とされ、自由人とされました。

私たちには、想像を絶する輝かしい未来が保証されています。多くの信仰者は、それを深く味わうことを忘れ、この世の期待に答えることで安心を得ようとしていないでしょうか。既に約束された救いを忘れて、目の前の不安に駆り立てられることは不信仰です。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です

 

イスラエルの民はかつて、信仰への熱心さのゆえにイエスを十字架にかけて殺してしまいました。彼らは、神のみこころを真剣に聞く前に、自分の正義の基準にいのちをかけました。

会社のために命をかける猛烈サラリーマンとイエスを十字架にかけることに正義を感じたユダヤ人には共通点があります。それは、神のみこころを知ろうとして静まる前に、世間の常識を鵜呑みにし、神の期待より世間の期待に答えるために身を粉にして働いているということです。一生懸命になればなるほど、互いの首を互いに絞めあっているなどという矛盾がないでしょうか・・・

 

2.「生まれながら御怒りを受けるべき子」とは?

 そのころは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(2:2)とありますが、「この世の流れに従い」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っているという意味を示します。

「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味だと思われます。つまり、サタンは神と人との間に入り込んで、その関係を壊すことに生きがいを感じているのです。

ただし、キリストは「いっさいのものの上に立つかしら」(1:22)ですから、サタンは、神とキリストが許容した範囲でしか活躍はできないということを意味します。そして、サタンは、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めています。

ここで、「働いている」ということばは、「神のすぐれた力が私たち信じるものに働いている」(1:19)ということばと対比されて用いられています。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

ところで、サタンに従って歩んでいるとは、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」(2:3)とあるように、悪霊に取り付かれ、それに心と身体をコントロールされているという以前に、自分の生きたいように自由に生きるということにほかなりません。

最初の人間であるアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けた後に、善悪の知識の木を見たとき、「その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」ものとして映り、その結果として食べたと記されています(創世記3:6)。つまり、「肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」とは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するということに他なりません。

そして、神を知らずに自分の狭い正義感に従って生きることが、「生まれながら御怒りを受けるべき子」として描かれています。つまり、「御怒りを受けるべき子」とは、何かとんでもない悪を行った者というよりは、自分の生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指すのです。

 

3. 「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」

   そのように生まれながら、アダムの生き方に習い、自分が神の怒りを受けるべき子であるとの自覚もない人々、神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的な救いのことが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:4-6)と描かれています。

ここで再び、私たちが、「罪過の中に死んでいた」状態にあったことが指摘されます。「死んでいた」とは、自分の力で生き返ることができない人ですから、その救いは、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。

 

第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。「救い」の本質とは、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。そしてこのことが、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。多くの信仰者は、「救い」を、何か目の前の問題がなくなるとか、苦しみから解放されることとはとらえても、「キリストとともに生きた者になる」こととしては捉えてはいないのではないでしょうか?

しかも、これが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天をさします。これはまだ起こっていない未来を保障する表現です。

多くの福音的な教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「救われた」という完了形で表現します。ところが、人によっては、しばらくすると、「何も変わっていないではないか・・・」という気持ちになってきます。しかし、「救われた」という完了形は、まだ起きていない私たちの復活と昇天が保証されたという意味に他ならないのです。

 

1968年にマルティン・ルーサー・キング牧師はアメリカのメンフィスで暗殺されますが、その前日、「私は山の頂に立った」という有名な演説を行いました。彼は自分の死を予感していましたが、そこでまず、大恐慌の真っただ中の1933年の米国大統領ルーズベルトの演説、「私たちが唯一恐れるべきは、恐れそれ自体である」ということばを引用しながら、恐れに囚われて、なすべきことができなくなることを戒めたうえで、次のように語りました。

 

「過去何年もの間、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、ただそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か、非暴力かの選択の問題ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである・・・早急に手を打たなければ世界は破滅する・・・この挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために前進しようではないか・・・

私だって、ほかの人と同じように長生きはしたいと思う。長寿もそれなりの意味があるから。しかし、神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私はみなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。

しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということを・・・。だから、私は今夜、幸せだ。もう不安なことはない。私はだれをも恐れていない。この目で、主が来られる栄光を見たのだから」

 

キング牧師の演説が、人々の心を動かしたのは、神の救いのご計画の成就を目の当たりに見せたことにあります。救いの本質とは、まさに、この望みを確信することにあるのです。現実にはまだ「救われてはいない」のですが、救いが確定したという意味で、「救われた」と言われます。それは、私たちの救いとは、何よりも、キリストと結び付けられたということを指すからです。

キリストはすでに復活に、天の父なる神の右の座におられますが、私たちはキリストとすでに一体となっているからこそ「ともによみがえり、ともに天の所に座っている」と言われるのです。救いには、「すでにAllready」という面と、「まだ(not yet)」との両面があるということを決して忘れてはなりません。

   

4.「あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを・・明らかにお示しになるため」

そして、続いて、私たちのために用意された恵みのすばらしさのことが、 「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(2:7)と記されています。私たちに保証された「望み」とは、キリストとともにあるすべての豊かさ、喜び、平安、ありとあらゆる良いものが、実現するということに他なりません。

しかも、「あとに来る世々において」とは、先の「この世の流れに従い」という表現と対比されます。私たちはすでにキリストとともに天のところにすわらされている者としての自覚を持って、つまり、日本人や韓国人であるという以前に、天国人としての自覚を持って、この世の人々とは異なった価値で生きるようにされたのです。価値観の変化こそが、「救い」の核心部分です。

 

  キング牧師は亡くなる5年前に、「I have a dream」という有名な演説を行いました。彼は、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに・・・」のレトリックを用いて表現しながら、

「私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は、今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・」 

この夢がアメリカを動かし、キング牧師の死後40年で黒人の大統領が誕生します。

 

多くの人々が、ほんとうに余裕のない生き方をしています。しかし、「あとに来る世々に」用意されている「すぐれて豊かな御恵み」が、今ここで「明らかに示される」とき、ひとりひとりの行動は変わってくることでしょう。

 

そして、この不思議な救いがどのように実現したかについて、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(2:8、9)と記されます。

私たちプロテスタント教会は、マルティン・ルターの宗教改革から始まっていますが、彼は、やがて、自分たちの信仰を誇る熱狂主義者の運動に悩まされるようになりました。ここでは、「行いによるのではない」ということの説明として、「だれも誇ることのないためです」と記されていますが、自分たちの「信仰」を誇るような者の信仰は、聖書が語る信仰ではなく、「行い」の一部にされています。反対に、自分の信仰を卑下することも、優越感とコインの裏表の関係にある劣等感のようなものです。

実は、「信仰」とは、あくまでも、神の恵みを受け止める受信機のようなものに過ぎません。すべてが神の恵みであることを心のそこから味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。

自意識過剰な信仰ほど危険なものはありません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

 

5.「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」

その上で、パウロは、私たちが恵みに甘んじて怠惰な生活に居直ることがないようにと決定的なみことばを加えます。それが、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)という表現です。

パウロは先に、キリストを知らないときの「歩み」を、「死んだ者としての歩み」また、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う」という「歩み」として描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行いに歩む」者となることとして描いています。そして、その前提として、「私たちは神の作品であって」と記されています。

私の場合は、自分の神経質な性格が嫌いでした。しかし、あるとき、「神経質を喜ぶことができる」という発想になったとき、気が楽になりました。そして、神経質な性格を生かすことによって、本が書けるようになりました。

 

ただし、このように自分に与えられている能力を生かすということは、誰でも言うことで、聖書を読まなければわからないような、目新しいことではありません。

しかし、パウロはここで、「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と記されています。それは、「良い行い」という概念が、人との比較から生まれることではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるという意味です。

 

先に述べたように、この世は、とにもかくにも、忙しい人で満ちています。忙しさ自体が、その人が人々から期待され、感謝されているしるしかのように見られています。確かに、仕事や奉仕の依頼が舞い込んでくることはうれしいことです。しかし、私たちの目標は常に、神の期待に向けられなければなりません。

世の人々が期待する「良い行い」ではなく、神が期待し、神が備えてくださった「良い行い」とは何かを常に考える必要があります。

 

そのことからしたら、神の前に静まる時間を忘れるほどに「良い行い」に励むことは、神が求める「良い行い」では決してありません。聖書の教えの最もユニークな点は、あらゆる生産活動から離れて、「休む」ということが、もっとも大切な戒めとされているということです。

「十のことば」の構成からしたら、最大の罪とは、安息日律法を破ること、つまり、「休み」を取らないことなのです。休みもなく働くことこそ、聖書が示す「罪」なのです。これは、別に、好きで滅私奉公をしているわけではないサラリーマンにつらいことばです。自分が休むと、現実に、困る同僚が出てくるような中で、そんなことは言ってはいられないような気がします。

しかし、人は、長期的な目で見ると、確かに、自分にとって本当に大切なことのためには時間を割く知恵をもっているものです。最も大切なのは、天国人の自覚を持って、この世が期待する「良い行い」と、神が期待する「良い行い」の区別をつけることではないでしょうか。

 

しかも、「良い行い」は、神と人との好意を勝ち取るためにすることではありません。それは、神の恵みを心の底から味わった結果として生まれるものです。恵みを忘れた「良い行い」は、どこかで、押し付けの親切になります。独善的な熱心になりえます。それは決して、あなたの隣人にとって恵みにはなりません。

しばしば、人の自立を阻害するような「良い行い」こそが、様々な依存症の最大の温床となっています。それは親の過保護に似ています。真の意味で、人を愛するとは、その人の自主性や自律心を刺激するようなものでなければなりません。

 

神は、何よりも、神の恵みを忘れる生き方、つまり、私たちの不信仰に対して厳しいお方です。信仰は、神の恵みとあわれみを思い起こすために、時間を聖別すること、神のみこころを聞くために時間を聖別することに始まります。

そして、主のみこころとは、神の国の完成です。私たちは世界のゴールに思いを向けながら、今の働きを評価する必要があります。

 

 

神は私たちが良い行いができるように、その良い行いをも備えてくださいました。しかし、それは見当違いの熱心さではなく、主の前に静まり、主の恵みに思いを浸すことから始まる行動であるべきです。

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