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2015年9月27日 (日)

レビ記16章 「贖罪の日-キリストの十字架の原型」

                                                  2015927日  

   日本には、大晦日から元日にかけて百八つの除夜の鐘を聞き、一年の歩みを振り返りながら、自分を駆り立てていた様々な煩悩を過ぎ去らせて、新しい年を迎えるという習慣があります。それは三千数百年前のこの教えの影響を受けているのかも知れません。

聖書では年の始まりは春の「過越の祭り」の月のはずなのですが(出エジ12:2)、エルサレム神殿がバビロン帝国によって破壊され、その後も大国の支配下で苦しむ中で、太陰暦で第七月の第一日の「全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合」の日(23:24)を、年の初めとする習慣になったようです。

それはその十日目の「贖罪の日(23:27)が、民族全体が断食をして悔い改める日だったからです。

 

このレビ記16章によれば、主が毎年、この日に民の罪や汚れから神殿を贖い、再出発できるはずでした。しかし、彼らはこの日に示された神のあわれみを理解せず、罪を積み重ねたため、主(ヤハウェ)が神殿の中に住むことができなくなったのです。

なお、この日程は毎年変わりますが、2015年のイスラエルのカレンダーでは914日が新年の初めの日、23()が大贖罪の日、28()から一週間の仮庵の祭りが始まることになっています。

 

これは十字架の意味を理解するために不可欠な箇所と言えます。イスラエルの民は年に一度の贖罪の日に、神との交わりの回復の道が示されましたが、イエスは十字架で永遠の贖いを成し遂げてくださったからです。

 

1.「かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない」

   贖罪の日に関しての教えが語られた背景がまず、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主(ヤハウェ)の前に近づいてそのために死んで後」(1)と記されます。

それは101,2節に記されている悲劇で、ふたりの行為に対して、「(ヤハウェ)の前から火が出て、彼らを焼き尽くした」ことを指しますが、その直後、主はアロンに直々に、「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように・・・ぶどう酒や強い酒を飲んではならない・・・それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため」である(10:910)と語られました。そして、11章から15章で「汚れたものときよいもの」の区別が教えられました。

 

そして、レビ記16章では再び、聖なる神の御前に出る礼拝のテーマに戻り、モーセに対する教えの内容が、「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである(2)と記されます。

「贖いのふた」には、人の顔、ライオンのからだと鷲のつばさを持った二つのケルブ(複数形でケルビム)が飾られていましたが、「主はケルビムの上の御座に着いておられる(詩篇99:1)とあるように、「『贖いのふた』の上の雲」こそが、神の御座であるとも言えましょう。

そして、肉なる人は、聖なる神に御許しなしに近づくことはできません。ここには、アロンのふたりの息子たちの死の原因が、酒を飲んだことばかりではないことが明らかにされます。

 

神によって立てられた大祭司でさえ、至聖所の中に入ることは命がけでした。彼は年に一度だけ、いけにえの血を携えて初めて「垂れ幕の内側」に入ることができました。それが「贖罪の日」であり、幕屋での礼拝でのクライマックスです。

そのことがヘブル人への手紙では、「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです(9:7)と記されています。

なお、その際、アロンは、からだに水を浴びて、自分をきよめた後、その身を、大祭司としての「栄光と美を表す聖なる装束(出エジ28:2)ではなく、全身を「聖なる亜麻布」で覆います(16:4)。これは白い装束で、汚れと対照的な「きよさ」を表す単純な着物でした。

そしてアロンはまず、「自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする(16:6)必要があります。なお、それとセットで、「全焼のいけにえとしての雄羊」がほふられ、ささげられますが(9:2,12)、ここではごく簡単に示唆されただけで(16:35)、ここでの焦点は会衆全体の「罪のためのいけにえとしての雄やぎ二頭」に向けられます。

 

そこでは、「イスラエル人の会衆から・・・雄やぎ二頭を取り・・くじを引き、一つのくじは主(ヤハウェ)のため、一つのくじはアザゼルのためとする(16:5,8)と記されます。そして、主のくじに当たった一頭は「罪のためのいけにえ」とするように命じられていました(16:9)。

また、「アザゼルのためのくじが当たったやぎ」に関しては「アザゼルとして荒野に放つためである(16:10)とのみ記され、このことに関しては、この章で後に詳しく説明されます。

 

この日、大祭司は、いけにえを焼く祭壇から「炭火」を取り、「かおりの高い香」とともに「垂れ幕の内側に持って入る。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする」と命じられていましたが、その理由が、「彼が死ぬことのないため」と記されます(16:12,13)

先に、アロンのふたりの息子が主のさばきを受けた理由が、「主が彼らに命じなかった異なった火を主(ヤハウェ)の前にささげた(10:1)と描かれていましたが、彼らはその「火」を、自分の罪のためのいけのえの雄牛をほふり、その内臓と脂肪を、祭壇の上で焼いて煙にする(8:16)ために準備された「祭壇から、火皿いっぱいの炭火(16:12)を持って入る必要があったのです。

主の御前に近づくための手続きは、あくまでも、「主がモーセに命じられたとおり(8:17)である必要がありました。

 

とにかく、この目的は、「香から出る雲」が、主の臨在を覆うためでした。主はかつてモーセに対してさえ、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお、生きていることはできないからである(出エジ33:20)と言われましたが、ここに記された「贖いのふた」こそは、主の御顔を仰ぎ見る場とも言えました。それは、主がモーセに、「わたしはそこであなたと会見し・・・あなたに語ろう(出エジ25:21)と言っておられた通りです。

なお、この「贖いのふた」はギリシャ語ではヒラステリオンと訳され、ローマ325節では、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、『贖いのふた』として、公にお示しになりました」と訳すことができます。

つまり、イエスはその十字架において、神がご自身を現わし、語りかける場としての「贖いのふた」となられたというのです。大祭司が一年に一度、命がけで入った神との出会いの場に、今、すべてのキリスト者が招き入れられているのです。

 

2.「イスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。」

その上で、「雄牛の血」を「贖いのふたの前に「七たび・・ふりかけ」ます(16:14)。なお、新改訳では「贖いのふたの東側」と「」とが別の場所であるかのような印象が与えますが、聖所から至聖所に向かうのは、西に向かっての動きですから、贖いのふたの東側と、前とは同じ場所を指します。

ここは、「指で贖いのふたの東側にふりかける、すなわち、指で七たびその血を贖いのふたの前に振りかけなければならない」と訳すことができます。

これは祭司が民のために奉仕することが許されるために、彼自身の罪から聖所がまず「きよめ」られる必要があったからです。

 

そして、今度は先にくじで選ばれた、「民全体のための罪のためのいけにえのやぎの血」を、「垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける」と記されます。

ここでも、贖いのふたの「」と「」とは同じ場所である可能性があります。「贖いのふた」は「契約の箱」の上に乗せられているものですが、その箱は高さが70㎝程度ですので、祭司の高さからは上に振りかけることと、前に振りかけることはほとんど同じ動きになります。それは雄牛の血の場合と同じ動作であるとわざわざ記されていることから見ると、「血を七たびふりかける」という動作にこそ、焦点が合わせられているのではないでしょうか。そうでないと、「贖いのふた」は、毎年のいけにえの血が積み重なってしまうことでしょう。

 

何よりも大切なのは、その目的で、そのことが、「イスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中にある彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない(16:16)とあるように、至聖所と幕屋全体が、汚れた民の中にあることによって汚されているので、それを「きよめる」必要があるという意味でした。それは、幕屋の前の祭壇の場合も同様であり、「イスラエル人の汚れからそれを聖別する」(16:19)と記されます。

まさに、イスラエルの大祭司は、命がけで、神の幕屋を贖い、民の汚れから聖別することが求められていたのです。興味深いのは、贖いの対象は、「聖所」、「会見の天幕」、「祭壇」という礼拝施設となっていることです。それは、主の臨在のしるしでした。これらが贖われることなしに、主は民の真ん中に、会見の天幕の中に住まわれることができないからです。

私たちもこの礼拝堂を、神の臨在が特別に現される場として聖別し続ける必要があります。大切なのは、主が汚れた民の真ん中に住むことができるためということでした。肉体を持つ者が太陽に近づくことができないように、人は本来、聖なる神の前に立つことができません。

 

一方で、神は幕屋を造らせ、イスラエルの民の真ん中に住むと約束されました。それは神ご自身が身を低くしてくださったことの現れです。しかし、人には、神の謙遜を甘く受け止め、神を自分たちのレベルに引き下げてしまう傾向があります。神を神としてあがめないことこそが、すべての悲劇の始まりでした。

ですからイエスは、「主の祈り」で、「御名が(私たちの中で)聖とされますように」と祈るように勧められました。神を御用聞きのように扱うことは、自滅への道です。命をかけて神の御名を聖とすることこそ、真に生きる道です。

そうは言っても私たちは自分の不安に振り回されます。ですから、イエスご自身に私たちの心を明け渡し、うちに生きていただく必要があるのです。

 

3.「アザゼルのやぎ」  「イスラエルをその汚れから離れさせる」

会衆の全体の罪のためのいけにえの「雄やぎ」のもう一頭は、「アザゼルとして荒野に放つ(16:10)ためのものでした。「アザゼル」とは、「やぎ」と「去らせる」の合成語だと言われ、英語ではしばしば「scapegoatスケープ・ゴート)」と訳されます。

一方で、これを「荒野に住む悪霊」と解釈する学者もいます。それは、「主のため」「アザゼルのため」という対比が見られるからです(16:8)。新改訳は前者の立場で「アザゼルとして荒野に放つ」と訳し、新共同訳は後者の立場で、「荒れ野のアザゼルのもとに追いやる」と訳します。

ただ、13章で「汚れている」と宣告された者が、「宿営の外」に隔離されることとの整合性を考えれば、新改訳が正しいと思われます。その根拠は、「イスラエル人をその汚れから離れさせなさい(15:31)という原則にあったからです。

 

   ここではその際の手続きが、「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(16:22,23)と記されます。

ここで、「咎」「そむき」「罪」は、罪に関する三つの類語ですが、これによって彼らのすべての汚れが、このやぎに負わされ、宿営の外に出され、「宿営がきよめられる」という意味があります。

これは、神がイスラエルの民の共同体をきよく保つために与えた方法でした。なぜなら、もしすべての罪と汚れが彼らの中から取り出されたなら、宿営の中は無人にならざるを得なかったことでしょうから・・・。

 

   なお、イスラエルが荒野の旅路にあったときには、やぎは「不毛の地」に放たれ、衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたと言われます。

エルサレムに神殿が置かれるようになってからは、その東12㎞の所にある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに落とされるようになり、その場所を「アザゼル」と呼んだとのことです。

 

英語の「スケープ・ゴート」は、組織全体を守るために一人にすべての罪をかぶせる政治技術とも解説されます。犠牲を負わされた人は、しばしば、ひとり寂しく死んで行かざるを得ません。しかし、神は、このように「やぎ」を犠牲にしながら、「神のかたち」に創造されたどんな人をも、スケープ・ゴートにすることを戒めておられるのではないでしょうか。

残念なことに、ナチス・ドイツはユダヤ人をスケープゴートに仕立てて問題解決を図ろうとしました。

 

イエスを十字架にかけるよう扇動した大祭司カヤパは、ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」(ヨハネ11:50)と、ユダヤ人の最高議会を説得しました。それは、ユダヤ人たちがイエスを「ユダヤ人の王」と信じるなら、それが大規模な独立運動になり、ローマ帝国の軍隊を呼び寄せ、居住権や自治権を奪い取られることになると思われたからです。

それを避けるためには、イエスを「スケープ・ゴート」してすみやかに死んでもらうことが得策だと思えました。しかし、ヨハネの福音書は、大祭司がそのように語ったのは、「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」(ヨハネ11:51,52)と解説しています。

 

まさにイエスはユダヤ人全体の、また「散らされている神の子たち」全体の「スケープ・ゴート」とされたのです。しかし同時に、それはイエスご自身が望まれたことでした。

罪は私たちを恋い慕っていますから、「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てる」(コロサイ3:9)ことが必要です。しかし、それは「脱ぐ」と「心が寂しくなる」ものでもあります。ですから、私たちはその古い人」をまずイエスご自身に受け取っていただき、その古い人を、「アザゼル」のように聖霊の宮であるこの身体から追い出し、その上で、復活のイエスを「新しい人を」着させていただくのです。

 

バプテスマにおいて、私たちはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえることを体験します。私たちの信仰生活とは、これを「」の中で繰り返すことなのです。

あまりにも畏れ多いこととも思われますが、イエスに向かって、「私の罪、汚れを引き受けてください」と大胆に祈る必要があるのではないでしょうか。

 

4.「宿営の外で・・焼かれる」「イエスも・・門の外で苦しみを受けられました」

    アロンはその後、聖所を贖うために着ていた亜麻布の装束を脱いで、聖所の中に残します。聖別された装束は他の働きのために用いることはできないからです。

その上で、彼は聖なる所で水を浴び、自分と民とのための「全焼のいけにえ」をささげますが(16:24)、それはレビ記9章に記されているので、ここでは省かれています。 

 

その後、アザゼルのやぎを放った者が、その汚れとの分離のために、衣服を洗い、からだに水を浴びることが命じられます。その上で、「罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない」(16:27)と記されます。

一般の人のための罪のいけにえの肉は、祭司が「会見の天幕の庭で食べる」(6:26)ように命じられていましたが、これは祭司自身と民全体のための身代わりですので、「脂肪」を「祭壇の上で焼いて煙に」した(16:25)残りの部分は「宿営の外に持ち出し」で「火で焼かれ」る必要があったのです。

 

イエスの十字架に関してヘブル書の著者は、「ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられた」(ヘブル13:12)と描きますが、それは主ご自身が「贖罪の日のいけにえ」となられたことを意味します。

ですから、私たちは、もはや動物のいけにえをささげる必要はありません。それは、「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11,12)と記されている通りです。

 

   しかも、神の幕屋は、天にある本物をこの地で表す「模型」でした(ヘブル9:24)。

イエスが十字架にかかって死なれた時、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ27:51)のは、私たち自身が贖罪の日の大祭司と同じように、至聖所にこのままの姿で入ることができるようになったことの象徴であり、また、私たちのための本物の聖所である「天が開けて、神の御使いたちが・・上り下りする」(創世記28:12、ヨハネ1:51)ことのしるしです。

 

   16章29節以下では、この贖罪の日が「第七の月の十日」で、その日には「身を戒める」ことが命じられました。イザヤ58章3,5節では「断食する」ことと並行して記されます。これはモーセの律法に命じられている唯一の断食の日で、単に食物を断つばかりか、香料やサンダルの使用、水浴、結婚を差し控えることをも意味したと言われます。

そして、この日は、「全き休みの安息」(16:31)として、奴隷も含めたすべての人があらゆる労働から離れることが命じられていました。イスラエルの民は、この日、主がイスラエルをすべての罪から贖うためにこのような手続きを定めてくださったことを喜ぶことができました。

「贖罪の日」は、人間が罪の赦しを獲得できるためというよりは、聖なる神が罪人たちの真ん中に住まわれたいと願われたからこそ与えられた、神の愛が満ちた定めでした。

 

   そして、今、私たちがささげるいけにえとは、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実」です。ダビデは、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:3)と告白しました。確かに神の栄光は全世界に満ちていますが、主の臨在はご自身の民が真心を持って礼拝している場にあるということも事実なのです。

また同時に、「善を行うことと、持ち物を人に分けること」、つまり、隣人を愛することも「神へのいけにえ」です(ヘブル13:15,16)。

私たちはもう動物をいけにえとしてささげる必要はありません。それはイエスが完全ないけにえとなってくださったからです。ただし、その際、私たちは、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい・・生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(ヘブル10:29,31)という警告をも心に刻み付けるべきでしょう。主の尊い犠牲を軽蔑する者は、自分で神の赦しを拒絶しているからです。

なお、その際、私たちは罪に居直ることによってばかりか、自分の肉の力に頼って生きることでも、主の犠牲を無駄にしてしまうということを覚えるべきでしょう。

 

 私たちは、「創造主である神、聖なる神が、私たちの真ん中に住んでくださる」という霊的な現実を当然のことのように受け止めてはいないでしょうか。しかし、イスラエルはそのために、大祭司が命がけで高価な動物のいけにえをささげ続ける必要があったのです。

しかし、今、神の御子ご自身が私たちの身代わりのいけにえとなってくださいました。そのことをヘブル書の著者は、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです(10:1920)と記しています。

そればかりか、私たちは今、聖霊によって、栄光の神の御子と結び付けられ、一体とされているというのです。私たちはそれを覚えるため、聖餐式において、キリストの肉を食べ、その血を飲ませていただきます。

それは私たちの想像を超えた究極の神秘です。十字架の圧倒的な恵みを忘れてはなりません。

 

レビ記16章の礼拝規定の背後には、聖なる神ご自身が罪と汚れに満ちた民の真ん中に住みたいという熱い思いがありました。しかし、イスラエルの民はその思いを理解せずに、偶像礼拝に走ってしまいました。それで今、神の御子ご自身が、汚れた人と同じ姿になって私たちのただ中に住んでくださったのです。

聖書の物語の核心には、聖なる神が、私たち汚れた民の真ん中に住んで、神の民を創造するという燃える愛が見られるのです。

 

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2015年9月20日 (日)

イザヤ65章17-19節「神のシャロームを待ち望みつつ」

                                                  2015920

多くの人にとっての天国のイメージは、愛する人、尊敬する人が、神の光に包まれ、主を賛美している祝福の世界ではないでしょうか。それを示唆する箇所が黙示録47章などにあるようにも見えますが、そこのテーマは、天での勝利への賛美が、不条理に溢れる地に実現することに他なりません。

聖書には例えば、死んだ人のたましいが、翼を受けて高く高く舞い上がって、愛する人との再会を果たすというような描き方はありません。残念ながら、多くの人の天国のイメージは、聖書よりはギリシャ的な霊肉二元論、仏教的な極楽浄土の観念から影響を受けているのかもしれません。

しかし、聖書が描く私たちの究極の救いは、この目に見える世界の不条理が正され、愛に満ちた神の支配がこの地に実現することです。たましいが天国に憩うという以前に、現在の「天と地」が、「正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)へと変えられることです。

世界のゴールを、自分にとっての楽しみが最大限になる「極楽」というより、全世界に愛と平和の神のご支配が現されるときと見るなら、現在の生き方が変えられます。

 

なお、旧約の預言は、肉のイスラエルの民だけに与えられた祝福の希望ではありません。私たち異邦人は、イスラエルの歴史に接ぎ木されることによって、神の民とされたのです(ローマ11:17-24)。異邦人に向かって、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)と言われるのは、イスラエルのための預言が、すべてのクリスチャンへの預言となったからです。

極楽の言いかえのような天国のイメージではなく、聖書が約束している「新しい天と新しい地」の姿を、聖書のすべての預言書から見直してみましょう。

 

イザヤ11:1-10  エッサイの根株から新芽が生え・・・その上に、主(ヤハウェ)の霊がとどまる・・・この方は・・・公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す・・・・

6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

 

65:17-25 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれることがない。・・・

 

21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない・・・23 彼らはむだに労することはない。また、恐怖に会わせるために子を産むこともない。彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえであり、その子孫たちも彼らとともにいるからだ。

そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは、答え、まだ語っているうちに、わたしは、聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇はちりをその食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない」と主(ヤハウェ)は仰せられる。

 

⇒「新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り・・もはや死もなく・・苦しみもない」(黙示21:1,4)

 

エレミヤ17:7,8 (ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。・・・・ 

31:31-34  その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。─主(ヤハウェ)の御告げ

 

彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ・・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

⇒ 「あらゆる国民・・のうちから・・大ぜいの群衆が、白い衣を着・・・いのちの木の実を食べる」(黙示7:922:14)

 

エゼキエル36:26-28 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ・・定めを守り行わせる。

あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み・・わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

 

471-12  彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた・・・その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた・・・・水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった・・・川の両岸に非常に多くの木があった・・・

9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる・・・そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる・・・

 

12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる

 

⇒ 「いのちの水の川・・は神と小羊との御座から出て・・両岸には、いのちの木があって・・民をいやした(22:1,2)

 

ホセア6:1,2  さあ、主(ヤハウェ)に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせrevive)、三日目に私たちを立ち上がらせる(復活させる)。私たちが、御前に生きるために。・・・・・ 

11:8 イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか・・・わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。・・・

 

14:4-7 わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。


 ⇒「初めの愛から離れてしまった・・(立ち返って)初めの行いをしなさい・・いのちの木の実を食べさせよう(2:4-7)

 

ヨエル2:21-25  恐れるな。地よ。楽しみ喜べ。主(ヤハウェ)が大いなることをされたからだ。恐れるな。野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る・・・23 シオンの子らよ。楽しめ。あなたがたの神、主(ヤハウェ)にあって喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を与え、以前のように、初めの雨と後の雨という大雨を降らせてくださるからだ・・・

25わたしが・・送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう(シャローム)・・・わたしの民は永遠に恥を見ることがない・・・ 

   

2:28-31  その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ・・・

31 (ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる・・・・

3:1617 (ヤハウェ)はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主(ヤハウェ)は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり・・聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり」

 

⇒ 「新しいエルサレムが・・花嫁のように整えられ・・天から下って来る・・・わたしは、すべてを新しくする」(21:2)

 

アモス5:18-21  ああ(わざわいだ)。主(ヤハウェ)の日を待ち望む者。(ヤハウェ)の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない・・・暗やみであって、そこに輝きはない・・・

21 わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける・・・たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない・・・

24 公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

 

9:11-15  その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す・・・これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ・・・

13 見よ。その日が来る。─主(ヤハウェ)の御告げ─その日には・・・山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。

彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」

 

⇒ 「力強い都、バビロンよ・・さばきは、一瞬のうちに来た・・小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」(18:1019:9)

 

オバデヤ15-21  主(ヤハウェ)の日はすべての国々の上に近づいている。おまえ(エドム)がしたように、おまえにもされる。報いは、おまえの頭上に返る・・・しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する・・・

21 救う者(救い主に導かれた人)たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主(ヤハウェ)のものとなる。 

⇒ 「われらの神である主は王となられた」(19:6)

 

ヨナ2:2、  「私が苦しみの中から主(ヤハウェ)にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」・・・・

3:10 神は、彼らの行い、すなわち、悪の道から立ち返ったのをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言われたわざわいを思い直し、そうされなかった・・・

4:11 わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

  ⇒ 「だれでも・・声を聞いて戸を開けるなら・・ともに食事をし」(3:20)

 

ミカ4:1-8 終わりの日に、主(ヤハウェ)の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主(ヤハウェ)の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」  

それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主(ヤハウェ)のことばが出るからだ。主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない

 

6 その日・・わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める・・・主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる・・・エルサレムの娘の王国が帰って来る。

 

 5:5 この方こそが平和(シャローム)となる・・・彼は、私たちをアッシリヤ(悪の帝国)から救う

 

(王、大淫婦、獣)は小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。小羊は主の主、王の王だから」(17:14)

 

ナホム1:1-15 ニネベに対する宣告・・・ねたむ神、復讐する【主】・・憤る主・・・ 敵に怒りを保つ方・・・7 【主】はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる・・・

15見よ。山々の上に足がある。良い知らせを伝え、平和(シャローム)を告げ知らせる者の。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、断ち滅ぼされた。

 

⇒ 「神のさばきは真実で…ご自分のしもべたちの血の報復を彼女(大淫婦、大バビロン)にされたから」(19:2)

 

ハバクク2:2-4 (vision)を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから。これは終わり(ゴール)について告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

見よ。彼(1:11「自分の力を自分の神とする者」)の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰(神の真実)によって生きる

 

3:16 私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。 

 

 ⇒ 「しかり、わたしはすぐに来る」(黙22:20

 

ゼパニヤ1:4  わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす

 

3:14-17 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。(ヤハウェ)はあなたへの宣告(さばき)を取り除き、あなたの敵を追い払われた。

イスラエルの王、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。

 

その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎ(静けさ)を与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

 

⇒ 「わたしはアルファであり、オメガである・・・渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる(21:6)

 

ハガイ2:3-9 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか・・・

 

6 まことに、万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの・・・

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる。わたしはまた、この所に平和(シャローム)を与える

 

⇒ 「神である主と、小羊とが都の神殿だ・・・人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」(21:22-26)

 

ゼカリヤ9:9,10 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和(シャローム)を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

 

14:1  見よ。主(ヤハウェ)の日が来る・・・わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。主(ヤハウェ)が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる・・・ 

 5 私の神、(ヤハウェ)が来られる。すべての聖徒たちもあなたとともに。その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主(ヤハウェ) (ヤハウェ)に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。・・・

 

8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる。その日には、主(ヤハウェ)はただひとり、御名もただ一つとなる・・・

10 エルサレムは高められ、もとの所にあって・・そのまま残る。そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らか(信頼のうちに)に住む。 

 

⇒ 「都には、これを照らす太陽も月もいらない・・・神である主が彼らを照らされるので・・」(21:2322:5))

 

マラキ3:16-18 (ヤハウェ)を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために・・・記憶の書がしるされた。「彼らは、わたしのものとなる・・・

わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように・・彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

 

4:1-5 見よ。その日が来る・・・その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない・・・

2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上りその翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る・・・

 5 見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 

⇒ 「わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるため・・報いを携えて来る・・・わたしは輝く明けの明星」(22:12)

 

ダニエル 713-27  夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない・・・

 

22 いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た・・・24 彼らのあとに、もうひとりの王が立つ・・・彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。 27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』

 

12:1-3  その時・・・国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。 

 ⇒ 「彼らは永遠に王である」(22:5)

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2015年9月13日 (日)

ヨハネ福音書9:41-10:18「豊かないのちを与えてくださる牧者」

                                                  2015913

   多くの人は、「主(ヤハウェ)は、私の飼い主。私は乏しいことがありません。主は私を緑に牧場に伏させ、憩の水際に伴われます。主は私のたましいを立ち返らせ、御名のために、義(ただ)しい道筋に戻されます。たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、わざわいを恐れはしません。あなたが、いつもともにいてくださいますから」という詩篇23篇のみことばに慰めを得ています。

そこで問われているのは、私たちの知恵や能力、また信仰心のことでもありません。私たちは無意識のうちに、自分が周りの状況を支配すべきで、信仰はそのための支えとなるという程度に考えてはいないでしょうか。羊に問われているのは、真の羊飼いを見分けることだけです。

私たちのいのちを守り、必要を満たし、わざわいから守るすべての責任は羊飼いにあることを忘れてはなりません。

 

1. 「羊はその声を聞き分けます」

 イエスは生まれつきの盲人の目を癒されました。ただ、その日は安息日でした。パリサイ人たちはそれを神のみわざとして認めないどころか、この癒された人がイエスを神から遣わされた方と言うのを聞いて、破門しました。

その時、イエスは彼を見つけ出し、ご自身こそが預言された救い主であることを証しし、わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(9:39)とパリサイ人をも意識して言われました。

それで彼らは、私たちも盲目なのですかと問い返しました。イエスは「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っている」こと自体が根本的な問題であると言いました。

 

  イエスが10章初めで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と言われた直接的な相手は、この目が見えていると主張するパリサイ人でした。その上でイエスは、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です(12)と言われました。

昔から、神の教会に混乱を起こす人は、社会に適応できない人ではなく、自分は教師になる資格があると自負している人々です。彼らは、「私は、神から、無知な信徒の世話をする責任が与えられている」などと言いながら、実際は、「盗人や強盗(10:1)と同じように、自分の利得のために神のことばを利用しているに過ぎません。

 

   この背後にエゼキエル34章の記述があります。主はそこでイスラエルの指導者たちの罪を生々しく指摘して、「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さずかえって力ずくと暴力で彼らを支配した(2-4節)と言われます。

しばしば、カルト化する宗教団体があります。そこに共通するのは、目に見える大きな目標を掲げながら危機意識を高め、信者どうしの競争意識をあおるような組織運営です。弱い人は、信仰の脱落者として排除されます。

キリスト教会でも同じことが起きる可能性があります。なぜなら、人は基本的に、強力なリーダー、この世の成功者を求めるからです。ナチス・ドイツは、人の心の底に眠るサド・マゾヒズムの心理を刺激して人を操作したと思われます。それは、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」です(エーリッヒフロム「自由からの逃走」p253)。これはそのまま、日本の軍国主義にも適用できたことでしょう。

 

共同体の良し悪しは、「弱った羊」、「病気のもの」、「傷ついたもの」、「迷い出たもの」、「失われた者」がどのように見られているかによって判断されます。

主が嘆かれるのは、そのような弱い人々が排除され、「牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(34:5)という状態になることです。

 

そのとき、神である主は、「わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる・・・わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない」(34:10)と言われます。

現代の教会の指導者は「牧師」と呼ばれ、信徒を養い育てることが期待されていますが、主はときに、牧師を退けることでご自分の羊を守ろうとされます。しばしば日本の教会では、牧師が公私ともに信徒の方々のお世話係になりがちですが、そのような依存関係がひとりひとりの成長を阻んでいるのかもしれません。

牧師の使命は、大牧者であられるイエスご自身を指し示すことです。イエスはご自分の羊をご自身の聖霊を通して守り、導いてくださいます。牧師の指導は大切ですが、聖霊の働きに取って代わってはなりません。

 

なお、イエスが、「門から入る者は、その羊の牧者です」と言われたのは、イエスがこの福音書で繰り返しておられるように、「わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです(8:42)と言われたように、イエスが常に、父なる神によって遣わされたということを意識しておられたということを意味します。

 

   引き続きイエスは、「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです」(3-5)と言われました。

なお、ここで「門番」とはどなたなのか、というようなことに入り込むと中心点が見えなくなります。これは6節にあるように、「たとえ」であって、それは神の国の霊的な現実を目に見える例で示すことだからです。このテーマは、明らかに、羊と羊飼いとの信頼関係です。

羊は、無力無能な代わり、盗人や強盗の声と、真の羊飼いの声を聞き分けます。一方、真の羊飼いはそれぞれの羊を見分け、それぞれをその名で呼んで連れ出すことができます。宗教指導者たちが自分の正当性を主張しても、最終的に、羊たちが逃げ出すことで、その偽りが見破られるというのです。

彼らの目は、安息日のおきてを守らせることばかりに向かっていましたが、イエスの目は、ただ一人の盲人に向かっていました。そして、イエスの正当性を反論の余地のないほどに証ししたのは、この無学な人でした。

羊は極度の近視で、方向感覚がないのに頑固な、愚かでひ弱な生き物ですが、臆病なだけに自分たちの牧者の声を聞き分ける能力だけは発達しています。つまり、イエスとこの盲人だった人の関係こそが、真の牧者と羊の関係を現しているのです。

 

  今から約五百年前、カトリック教会の教えが歪んでいた時、マルティン・ルターの主導で宗教改革が起こされました。それまで、教会の司祭や牧師の資格を保証したのはローマ教皇を頂点とするプロの聖職者たちでしたが、その権威を否定したとき問題が生じました。ある教会が福音をきちんと述べ伝える牧師を招聘したいと願っても、一般信徒は教理の正しさなど判断できないと思われたからです。

しかし、そのときルターは、羊はその声を聞き分けますと断固と主張して、一般信徒に判断能力が与えられていることを強調しました。

 

   多くの人は、聖書知識や信仰の不足を卑下し、教会に関することで消極的になりがちです。しかし、最も大切なのは、自分が羊のように愚かで弱い存在であることを認めることと同時に、イエスを主と告白する者のうちに聖霊が与えられ、神が立てた真の牧者の声を聞き分けることができることを自覚することです。また、みことばを慕い求めているという事実自体を喜ぶことです。

私も長い間、自分自身の足りなさを嘆いて来ました。しかし、真実の牧者との交わりを求めていること自体が、神からの最大の賜物であると分かり、気が楽になりました。羊は、自分の力や知恵ではなく、真実の牧者の声を聞き分ける能力によって豊かさを味わうことができるのです。

 

2. 「わたしは羊の門です」

  続けて、「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった(6)とありますが、イエスの話しがパリサイ人たちに通じなかったのは、「私たちは目が見える」と言い張り、真の牧者を求めていなかったからです。それでは、イエスの声を聞き分けることができません。

 

  そこで、イエスは続けて、ご自身の途方もない使命を、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(7-10)と言われました。

ここを見ると、イエスは「門」なのか、「羊飼い」なのか、混乱するという方もいるでしょうが、当時の羊飼いは、しばしば、夜通し羊を囲って守る施設の「」で寝泊まりすることによって羊を守ったと言われます。ですから牧者と門の働きは重複していたと見ることができます。

 

   イエスはまずご自身を、わたしは羊の門です(7)と言われた後、わたしは門です(9)と繰り返します。門というのは、安らかに出入りし、牧草を見つけ・・羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ(9,10)ための唯一の道です。

羊に問われている責任は、盗人や強盗の声を聞き分けることであり、また、自分の努力で道を開くことではなく、正しい門を見分けることです。それができさえしたら、豊かな「いのち」は保証されているのです。

 

   一方、当時の多くのパリサイ人たちは、神の一方的なあわれみによる「選び」を教理的には認めながらも、実際は、永遠のいのちを自分の敬虔さで獲得するかのような生き方を勧めていました。そのため、良心の敏感な人は、かえって絶望感に襲われ、結果的に自暴自棄になり、神から離れ自分を滅ぼしてしまいました。

今も、自分の行いを見ながら、自分こそ神に喜ばれるクリスチャンだと誇ったり、反対に、自分は偽物、偽善者のクリスチャンだと落ち込んだりする人がいます。そんな人は、残念ながら、バーンアウトに向かって宗教お宅をやっているだけかも知れません。

豊かないのちを与える責任は、「」であり「牧者」である方の責任なのです。

 

   イエスは、だれでも、わたしを通して入るなら、救われます(9)と言われました。知恵や力のある人や行いの正しい人が救われるのではなく、どんな人でも、「私には選択の余地がない、これしか道がない」と思い、イエスに信頼する人が救われるのです。

しかも、救いとは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つこととして表現されます。パリサイ人たちは、神の教えを守るためにいのちを捨てることばかりを強調し、禁欲を勧めていました。しかし、イエスは、驚くほど、暖かく優しいイメージでご自身が与える救いを表現されたのです。

 

  イエスの命令は排他的にも聞こえます。しかし、自分が、自分の知恵や力では豊かな「いのち」を体験できない愚かでひ弱な羊と同じだと認めている者にとっては、これほど「やすらぎ」となることばはありません。もう、いろいろと迷ったあげく、無駄な努力で失望を繰り返す必要はありません。

しかも、イエスに従い続けた信仰の先輩たちが証ししているように、この道は、世間的には狭く厳しいように見えても、実際に進んでみると、不自由なようで自由に満ちた、貧しいように見えて豊かな、まさに、真の「いのちの喜び」が満ち溢れる歩みなのです。

 

3. 「わたしは良い牧者です」

  イエスは引き続き、わたしは良い牧者です(11,14)と二回繰り返しながら、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です(10-14)と言われました。

 

羊が幸せになれるかどうかは、羊の能力ではなく、ひとえに羊飼いの能力と誠実さにかかっています。ここで、良い牧者羊の所有者ではない雇い人が対比されますが、それはパリサイ人たちが、ことばとは裏腹に、いざとなったら自分の身の安全のために信念を曲げるからです。

なお、ここでの「良い」ということばには、「正しさ」以上に、「魅力的」という響きがあります。厳密に言うと、だれもイエスの正しさを理性で判断して従うのではありません。それは自分を基準とする歩みの延長に過ぎないからです。敢えて人間的に言うと、私たちは、何とも説明できないようなイエスの魅力に引かれているのではないでしょうか。

 

イエスは、わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です(1415)と言われましたが、このように自分がイエスに知られ、また自分がイエスの魅力に引き寄せられていると心の底で味わっていることこそが信仰の真髄ではないでしょうか。

これは理性では説明し切れません。羊は、その臆病さのゆえに、本能的に羊飼いの声を聞き分けます。同じように、私たちは、自分がいざとなったら何をするかわからない弱く愚かな者である事を、心の底で味わいつつ、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます(15)という御声に心がとらえられます。

その時、私たちは、御霊の働きで、イエスが真の羊飼いであると知っているのです。

 

先に引用したエゼキエル34章11節以降で、主はご自身を理想的な「牧者」にたとえながら、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする・・・わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し・・・イスラエルの山々や谷川のほとり・・・で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い」(34:12-14)と約束されます。

つまり、主がイスラエルを滅ぼし、その民を散らしたのは、彼らを悪い牧者から解放し、ご自身で直接彼らの世話をするためだったのです。

そのことを主は、わたしがわたしの羊を飼いわたしが彼らをいこわせる(エゼキエル34:15)と力強く宣言されます。そして、改めてご自身のみわざを、先の「イスラエルの牧者たち」との比較で、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける(34:16)と言われます。

 

そればかりかエゼキエル書では引き続き、主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(34:23、24)と約束されました。これがイエス・キリストにおいて成就しました。イエスの十字架は、神の民の「君主」としての愛の現われでした。

戦後七十年にあたり今年は太平洋戦争を終える際の天皇の積極的な役割を描いた映画が上映されました。残念ながら、天皇は天照大神の子孫、神道の大祭司としての役割がありますから、キリスト教会としては天皇制に関して批判的にならざるを得ない部分がありますが、昭和天皇の誠実さに関しては批判的な評価を聞くことはありません。

たとえば、歴史上、多くの国々では、敗戦や革命が起きるとすぐに指導者は様々な理由をつけて逃亡します。太平洋戦争の後、日本は米国のマッカーサー元帥の支配下に置かれましたが、昭和天皇は彼の執務室を自分から訪ね、「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました」と言ったとのことです。

マッカーサーはこのことばに非常に深い感銘を受け、その後の、方向が変えられたといわれています。

 

イエスは、「良い牧者」としてのあり方を世に示してくださいました。それが世の人々にも、指導者のあるべき姿として共有されたからこそ、マッカーサー元帥が、昭和天皇のことばに感銘を受けたのでしょう。

しかし、エルサレムの最後の王ゼデキヤは、自分の身を守ることばかりを考え、民を捨てて逃亡しました。そして、自分をネブカデネザルの再来と位置づけたイラクのフセイン大統領は、自分の身を守ろうとして、国を混乱に陥れました。指導者の生き様が、国民が互いに助け合いながら生きるかどうかの方向を示していると言えないでしょうか。

 

ここでイエスは、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです(16)と言われました。

この囲いに属さないほかの羊とは、ユダヤ人以外の異邦人のことですが、この水と油のような民どうしがひとりの牧者」のもとでひとつの群れとされます(16)。これも人間的な努力ではなく、ひとりの牧者の魅力にひかれる羊であるがゆえに生まれる一致なのです。

日本の天皇がどれほど国民から尊敬されていようとも、天皇は軍部の暴走も開戦も止めることはできませんでした。また朝鮮半島や中国人の尊敬を得ることはできませんでした。

イエスはそれに対し、全世界の人々の尊敬を得ています。ただ問題なのは、多くの人々がイエスの「良い牧者」としての権威と力を信じていないことです。イエスをある意味で、天皇のように祭り上げているだけで、イエスご自身が、一人一人の直接的な牧者として、「捜し」「連れ戻し」「包み」「力づける」方であることを認めていません。

戦前に国策で統合された日本基督教団の指導者は、無力な信徒たちを守るため自分たちは泥をかぶると言いながら、神社参拝や天皇崇拝を率先して行いました。それはまるでイエスご自身にご自分の民を守る力がないと告白したようなものです。

イエスを道徳的な模範として祭り上げるのではなく、一人一人がイエスの父なる神に直接的に訴えられることを教え、主が全世界の一人一人の声を聞き分け、導き、豊かな「いのち」を与えることができる方であることを実際に体験してもらうべきだったのです。

羊飼いと羊のたとえにおいて、羊は何もできないひ弱な愚かな動物の代名詞であり、羊を守るのは徹底的に羊飼いの力量にかかっていました。教会の指導者も愚かな羊なのです。彼らの責任は自分の無力さを分ち合い、神にすがる模範を示すことです。

 

なおエゼキエル書では基本的にイスラエル王国の復興に焦点が当てられていましたが、イザヤ11では、新しいダビデの子が全世界から弱肉強食の現実をなくし、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し」という平和が実現し、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩うところは栄光に輝く(10)とあるように、ダビデの子が全世界の平和を実現する救い主であると描いています。

 

  イエスは、このように語った後、ご自身の十字架の死を示唆しながら、「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(17)と言われます。それは、ご自身の死が、羊飼いとしての能力の欠如のゆえに起こることではなく、御父から出た計画であることを説明し、それが羊に、豊かな「いのち」を与えるためのみわざであることを示すためでした。

それでイエスは続けて、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです(18)と言われました。

イエスは、父なる神から遣わされた者として、ご自分の「いのち」は徹底的に、父なる神の御手の中で守られていることを知っていました。イエスの十字架の死とは、「死は勝利にのまれた」というみことばを実現するためでした(Ⅰコリント15:54)

イエスは、羊を連れ出し、羊の先頭に立って歩く方として(10:3,4)、神が「永久に死を滅ぼされる」(イザヤ25:8)、ご自分の民を「死から贖う」方である(ホセア13:14)ことを証しされました。

私たちを襲う様々なわざわいは、すべて私たちがイエスにあって既に死に打ち勝っている証しの機会とされています。

 

日本のかつての軍部は、天皇の権威を守るため、問題が起きたときの責任を天皇が負わなくて済むようにという名目で、天皇に政治的判断をさせないように祭り上げながら、同時に、自分たちの決断を天皇の名で国民に押し付けました。二二六事件にしても、終戦間際の玉音放送を巡るクーデター未遂事件にしても、自分たちの政治的理想を天皇の権威で実現しようとする動きでした。

同じようなことがキリスト教の歴史でも起きました。戦争のたびごとに、神の御名が持ち出され、人々が戦いに駆り立てられました。しかし、私たちの主イエスは、人間の仲介者を必要とされず、世界の一人一人の訴えを同時に聞き取ることができる有能な牧者です。一人一人がみこころを求めて祈り、みことばから教えられます。

私たちの牧者は、一人一人の名を呼び、声を聞き分け、それぞれの人生を導くことができる方です。私たちはもっと大胆に、自分の日々の必要を訴え、具体的な導きを求めるべきでしょう。

信仰とは、何かの真理や教理を信じること以前に、イエスの父なる神に向かって、アバ父と、親しく呼び求め、自分の無力さ愚かさを認め、真の羊飼いに祈りながら、すべてを委ねて生きることです。

伝道とは、何かの教理を教えること以前に、イエスに向かって直接祈り、導かれ得ることを分ち合うことです。

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2015年9月 6日 (日)

レビ記11章~15章「聖なる者とされる」

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しばしば、キリスト教国に行くと、障害者の多さに驚くという人がいます。しかし、統計的には日本と何の差もありません。日本では障害を恥じ、また隔離するから目に付かなかっただけです。そこには、枠から外れた人を排除する文化があります。そして、本日のレビ記の箇所にも同じような排除の原理が記されているのでしょうか?

 

ここでの主題は、「きよさと汚れ」で、それを判断する祭司の勤めが、1010節に、「それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため」と記されていましたが、その具体的な区別の基準が記されています。

なおここでは新改訳第三版の訳語の「ツァラアト」のことも述べられます。私は特に、かつて「らい病」と訳されていたことばに余りにも不注意だったことを心より反省させられ、キリスト教会が、ハンセン病の方への差別に関して大きな責任を持っていることを認めなければならないと示されました。

 

1.「汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物」

  日本では150年前まで、牛や豚の肉はタブーでした。ユダヤ人やイスラム教徒は、今も豚肉を食べません。それは「ひづめが分かれ・・反芻するもの(11:3)という枠から外れているからで、それらは「あなたがたには汚れたもの」と言われます(11:7)

一方、牛や羊、やぎのように、いけにえに用いられる動物は「食べてもよい生き物」でもありました。

また、「水の中にいるもの」では「ひれとうろこを持つ」という枠から外れている「えびやたこ」なども「あなたがたには忌むべきもの(11:10)と言われます。

また、鳥では、わしや鷹、カラスなど猛禽類が「忌むべきもの」(11:13-19)とされます。ここでは、食べてよい鳥は具体的には記されませんが、いけにえになり得る山鳩や家鳩、また、うずら(出エジ16:13)、鶏、七面鳥、雀などは食べられました。

昆虫類では、特に「いなごの類(11:22)が食べてもよいと特に記されます。バプテスマのヨハネの食べ物は「いなごと野蜜(マタイ3:4)でした。

そこには、神が、ご自身の民を他の民族から区別し、彼らを通してご自身の栄光を表そうという愛の配慮がありました。それは、親が幼い子に、「何が良く、何が悪いか」を一方的に教えることに似ています。

今から三千数百年前、調理技術や衛生観念が未熟だった時代、イスラエルでは食中毒が極めて少なく他の民族よりも長寿だったとも言われます。

 

興味深いのは、これら汚れた生き物の「死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる」と繰り返されながら(11:24,27,31)、「それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、そのなかにあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない・・・それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる(11:3335)と、汚れ」が間接的にも伝わるということが強調されています。

なお、イスラエルにおいては「汚れた生き物」は、より「死」に近い状態のあると見られていたようです。

 

その祝福を受けるための鍵は、理由を問わずに、ただ服従することでした。そのことが、「あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。わたしはあなたがたの神、主(ヤハウェ)であるからだ。

あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主(ヤハウェ)であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから(11:43-45)と記されます。

 

そして、「聖」なる神こそが、「聖さ」の基準を示される方なのです。現代は、理屈ばかりが先行する時代ですが、スポーツ選手の訓練と同じように、神の聖さを、身体に覚えさせるという過程も必要ではないでしょうか。

これらの結論として、「それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される(11:47)と記されます。つまり、ぶたやえびは、科学的な意味で「汚れたもの」というのではなく、神が許容した食べ物ではないという意味でそう呼ばれるのです。

しかも、「きよい(clean)と「(holy)とは原文で全く異なったことばです。そこには、神が、人に無制限に地の生き物を食べることを許してはいないという教訓を読むこともできます。

 

これらの規定は、イスラエルの民が地上の他の民と区別される上で大きな力を発揮しました。しかし、これは同時に、福音が異邦人に広げられるための最も大きな障害となりました。それで、使徒の働き10章では、神がペテロに汚れた動物をほふって食べるように命じたことと、ローマの百人隊長コルネリオに神の民としてのバプテスマを授けることが同じ規準のもとに記されており、その際の中心聖句が「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15)でした。

レビ記にも新約の時代にも共通する原則とは、「きよさと汚れ」を、人間の知恵によってではなく神の一方的な基準で考えるということです。キリストにあって「きよさと汚れ」の区別が劇的に変えられました。

 

2.「その女は・・血のきよめのために、こもらなければならない」

  12章には出産に伴う出血からのきよめの規定が記されています。男子の出産の場合は、「その女は七日の間汚れる」(12:2)という不思議な記述があります。

たしかに、「子どもたちは主(ヤハウェ)の賜物、胎の実は報酬(詩篇127:3)とあるように出産は祝福なのですが、アダム以来の罪の連鎖は、出産によって続いているという面も忘れてはなりません。当時のカナンで、神々の祝福が多産と豊穣と同一視されていたのとは明確に区別されます。 

 

八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない・・ 期間が満ちたなら・・全焼のいけにえ・・罪のためのいけにえを・・持ってこなければならない」(12:3,4,6)とは、生まれた子を契約の民として神に聖別し、また女性も身をきよめつつ、子供の誕生を誇る代わりに、神の御前に謙遜にされるための教えでした。

なお、女子の出産に、二倍のきよめの期間が必要なのは、女子には割礼がないということと、将来的な生理の出血のことがあるのかもしれません。

 

そして、「彼女のきよめの期間が満ちたなら・・・全焼のいけにえ・・・罪のためのいけにえ・・・を・・祭司のところに持って来なければならない。祭司は・・彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる(11:6-8)と繰り返されます。

出産の後に、「罪のためのいけにえ」が必要と言うのは、なんとも不思議に思えますが、それは汚れた状態からきよい状態へと移る「きよめ」の手続きだからです。

なお、これは出産に際して血を失うことが、死に近づくことと見られるからであるという解釈があります。それにしても、出産のあと、一定期間の間、「こもる」ことが命じられていることは、出産した女性を保護するという実際的意味もあったと思われます。

 

  たとえば、私の母は、331日に私を産んだ後、すぐに春の農作業で働く必要がありました。四十日間「こもる」ことが義務化されていたとしたら、それは母ばかりか幼児の私にとっても大きな祝福となっていたことでしょう。

また、子供は、親の悪い習慣を無意識に引き継がざるを得ない面がありますが、出産のたびに「きよめ」の必要を覚えさせられ、神との関係が新しくされるなら罪の連鎖の悪循環への大きな歯止めとなるのではないでしょうか。

 

  また12章の教えは、15章の規定とセットで理解すべきでしょう。15章には、男性の性器からの漏出による汚れときよめの規定(1-15)「精を漏らす」場合の汚れときよめ(16)、男女の性の交わりによる汚れ(18)、女性の生理の汚れときよめ(19-24)、「血の漏出」からのきよめが記されています(25-30)

 

なお、ここでも「漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない(15:12)、「その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない」(15:21)、「その女のすわるすべての物は・・汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる(15:26,27)と、先の「死体」触れる場合と同じく、「汚れ」が間接的にうつることが強調されています。

精の漏出、血の漏出には、いのちを削る、死に近づくという意味での「汚れ」があります。私たちはその汚れからきよめられ、神との交わりを回復し、神にあっていのちを回復する必要があるのです。

 

そして、最後に、「あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい(15:31)と命じられます。当時の宗教には、しばしば、神殿娼婦がおり、神々との交わりと男女の性の交わりがセットになっていました。

現代でも、新興宗教やニューエイジなどで性的な無軌道が正当化されがちです。しかし、神は、性に伴う「汚れ」を明記して、「性」の交わりを「聖別」しようとされたのです。しかも、女性の生理に、「七日間」の「汚れ」を指定することは、男性および過剰な労働から身を守るという効果もありました。

 

イエスは、12年間長血を患った女を癒されました。彼女が主の衣に触れると、その汚れがイエスにうつることになるはずなのに、反対に、彼女がすぐにきよめられました(ルカ8:43-48)

私たちは「汚れ」から遠ざかることよりも、イエスに結びついて、イエスの「きよさ」に支配されることにこそ注意を向けるべきではないでしょうか。

 

3.「彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」

13章、14章は、新改訳第二版で「らい病」と訳されたことばを、第三版はヘブル語原文の「ツァラアト」で表わします。これは「らい病(ハンセン病)」の枠に当てはまらないからです。その基本的な症状の判断に関しては、「その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する(13:3)と記されています。

らい病」という訳は、旧約聖書のギリシャ語訳での「レプラ」が、英語などのレプロシーの由来だからです。しかし、今から三千数百年前の医学では、天然痘や猩紅熱も同じことばで呼ばれていたのではないでしょうか。しかし、「車」ということばが、「自動車」という意味で用いられるようになったのと同じように、ギリシャ語聖書の「レプラ」が、医学的なハンセン病の代名詞として用いられるようになり、この病の方に大変な苦しみを与えることになりました。

なぜなら、その病と判断されたすべて人に対して、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない・・彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない(13:45,46)と命じられていたからです。

これは「社会的な死」を意味する隔離政策です。それは医学の未発達な当時としては必要だったことですが、日本ではつい最近まで「らい予防法」によって同じことが行われていました。

 

それにしても、「衣服を引き裂き、神の毛を乱し、口ひげをおおう」ことは、感染予防とはまったく無関係の行動です。これは人の死を悲しむ喪に服する行為です。それはこの病が「死」の象徴だからです。

しかも、人々に向かって「汚れている。汚れている」と叫ぶのは、病気の感染予防ではなく、儀式的な「汚れ」の感染を防ぐことが第一の目的です。なぜなら、先に記されていたように「汚れ」は間接的にも感染すると記されていたからです。

 

   なお、「もしそのツァラアト(第二版では「吹き出物」)が彼の身体全体を覆っているなら、祭司は、その患者をきよいと宣言する(13:13)とありますが、「らい病」が身体全体を覆うと、「きよい」とされるなどという表現はことばの矛盾です。これは、白斑が身体全体を覆ったマイケル・ジャクソンのケースに当てはまるかもしれません。

しかも、1347節以降では「衣服のツァラアト」、1435節以降には「家のツァラアト」という表現が出てきますが(新共同訳はこの同じヘブル語を「かび」と訳している)、これが「らい病」ではないことは誰の目にも明らかです。多くの英語訳ではこれも人間と同じa case of leprous diseaseと訳し、医学的なレプロシーと区別させようと工夫しています。

 

しかも、レビ記の文脈では、「ツァラアト」を、特別に神からのろわれた者の病の象徴である読むことは不可能です。「汚れ」は「きよい」と対比され、「罪」とは全く異なった概念です。

この趣旨は、神が、今から三千数百年前の衛生学的な知識のない人を、様々な感染症から守る愛の配慮を示されたというようにも考えることもできます。

 

  1347-59節には「衣服のツァラアト(かび)」に関しての区別の仕方が描かれます。それが緑がかっていたり赤みを帯びていたりした場合は、祭司の判断を経て、どんな高価な物でも、その部分を火で焼く必要がありました。

 

4.「それをツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけ、『きよい』と宣言し」

しかも、14章では、ツァラアトからきよめられた者が、どのように神の幕屋の礼拝の交わりに回復されるかの手続きが記されます。彼は、まず宿営の外で祭司によって診断を受け、「いやされている」ことを確認したら、二羽の生きているきよい小鳥をとって、その一羽を、土の器に入れた湧き水(生ける水)の上でほふり、生きている小鳥を浸し、それをきよめられる者の上に七たび振りかけて「きよい」と宣言し、生きている小鳥は野に放ちます。これは宿営から「汚れ」が取り去られたしるしです。

これらを通して、人が死人の状態からきよめられ、新生活の始まりが象徴されます。なお、この人は、すべての毛をそり落として、衣服を洗うとともに水をからだに浴びた後、宿営の中に入ることができますが、それでも七日間は自分の天幕の外にとどまり、七日目になって、ふたたび、すべての毛をそり落として、衣服を洗うとともに水をからだに浴びる必要があります。その上で、「その者はきよい」と宣言されます。

 

そして八日目になって「罪過のいけにえ」を携えてきます。これは宿営の外にいる間、神と人とに仕えることができなかったことの「償いのような意味があったと思われます。現代も人がバプテスマを受けて教会の交わりに公に加えられる前に、その人がまだ清算し終えてない負い目が問われます。返すべきものを返してから交わりに加わるというのは当然のことです。

そして、そのいけにえの血を、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけ」(14)ます。これは祭司の任職の手続きと同じで、神のみことばを聞き、みこころを手と足で実践するという意味です。

その上で、その人は「罪のためのいけにえ」をささげ、「汚れからきよめられ」ますが(14:19)、これは、神に近づく者すべてに求められることであって、ツァラアトを特別な罪人と見ているわけではありません。

 

その後で全焼のいけにえと穀物のささげものによって、祭司による「贖い」のわざが完了し、「きよい」と宣言されます(14:20)。そこでは、雄の子羊二頭、雌の子羊一頭などの高価な犠牲が必要でした。

その際、「罪のためのいけにえ」と「全焼のいけにえ」は鳩で代替可能でしたが、「罪過のためのいけにえ」には雄の子羊が必要でした。

 

また1433節~53節には「家屋のツァラアト(かび)」の区別の仕方が描かれています。そこに緑がかったか赤みを帯びたくぼみがありそれを祭司がツァラアトと判断したなら、その患部の部分を完全に除去します。

ただそこに入る者は夕方まで汚れるとしか記されていない(46)ところを見ると、この家のツァラアトの感染力が問題にされていないとも言えます。きよめのためには人と同じように小鳥が用いられましたが、他のいけにえは不用でした。

 

なお、1454-57節には、1314章の要約が、「以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、衣服と家のツァラアト、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これがツァラアトについてのおしえである」とまとめられています。

また、民数記1212節には、アロンが主のさばきによってツァラアトに冒された姉のミリヤムの癒しを願って、「どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出てくる死人のようにしないでください」と言っている場面があります。つまり、この病は、肉体に徐々に腐敗し、死を現わすものとして、「汚れ」と見られたということだと思われます。

ヨブ記181213節では「わざわいが・・彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている」という表現があり、これこそ「らい病」と混同されたツァラアトという病の本質を描いているとも言えましょう。

 

なお、当時、イスラエルの民以外の異邦人は、全身がきよく、道徳的な生き方をしていたとしても、神の幕屋に入ることは許されず、その意味で、たとえば日本人や韓国人であることは、ツァラアトに冒された人よりもはるかに望みのない状態であったことを忘れてはなりません。

そのことをパウロは、「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした・・・無割礼の人々と呼ばれる者であって・・・イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした(エペソ2:11,12)と記しています。

つまり、ツァラアトに冒されている人には、病の癒しによって、神の民の交わりに中に復帰できる望みがあったのですが、無割礼の異邦人には、そのような「望み」自体がないと見られていました。

もちろん、異邦人にも、割礼を受け、律法を学び、神の民とされる望みはありましたが、食物律法をユダヤ人と同じように守ることには想像を絶する困難があったことでしょう。

 

神が、このように「きよさ」と「汚れ」の区別を明確にしたのは、「聖くなければ、だれも主を見ることはできません」(ヘブル12:14)とあるように、人間はそのままの状態では、聖なる神の前に出ることはできないということを教えるため、神の選びを意識させるためです。「きよい」と宣言される状態は、「聖」とされることの前提だからです。

 

ところが、イエスは、「全身ツァラアトの人が・・ひれ伏してお願いした」とき、なんと、敢えて「手を伸ばして、彼にさわり」その上で、「きよくなれ」と言われたのです(ルカ5:12,13)。するとたちどころに彼の病は消えました。

 

つまり、イエスが汚れた人に触れたとき、それがイエスを汚す代わりに、汚れがイエスの「きよさ」に飲み込まれ、消えてしまうのです。私たちは、きよくなってから神に近づくのではなく、自分の力ではきよくなりえないからイエスにすがるのです。

レビ記がツァラアトを「汚れている」と宣言し、交わりから退けているのは、神が彼らをイエス・キリストにあって招くための前提であり、新約の福音への備えなのです。そこに神のみわざが現される望みがありました。

 

モラルとしてではなく儀式的な面での「汚れ」と「きよさ」を区別する尺度がどこにあるのかに関して、最近、多くの学者から認められつつある見解は、「自分の身を聖別し、聖なる者となる(11:44)を中心聖句に、神は死とセックスから無縁であるので、神に近づくにあたって、死とセックスに関係することから距離を取るという意味が込められているという解釈です。

特に、死は、アダムの罪から始まっています。現代の私たちに食物律法を含む儀式的な「汚れ」の規定が効力を失ったのは、イエス・キリストが死の力に打ち勝ち、結婚関係をきよめてくださったからです。私たちに今求められていることは、「汚れ」から遠ざかること以上に、イエス・キリストに結びつくことです。

 

私たちがこの世の汚れから聖くされるための秘訣とは、この世の問題から遠ざかることではなく、世のただなかで、心と口と行いと生き様を通して、「イエスこそが私の主です」と証しすることです。

バッハの名曲、「主の、人の望みの喜びよ」はそのテーマのカンタータとして有名になりました。そこで何よりも警告されているのは、自分の都合を優先しながら、ときによって、イエスの救いを否定することです。いつでもどこでも、心と口と行いと生き様によって、「イエスこそが私の主です」と告白することこそが求められています。

この曲は、イエスへの最高の愛の歌ですが、そのように自分の心がイエスへの愛で満たされるとき、知らないうちにイエスに似た者へと変えられて行きます。

 

そしてイエスは、そのためにこそあなたのうちにご自身の聖霊を与えてくださいました。私たちは聖霊の導きによって、汚れた世に身を置きながら、なおその汚れに染まらない生き方を全うすることができます。

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