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2015年10月25日 (日)

ホセア13,14章「いのちの喜びの復活」

ホセア1314章 「いのちの喜びの復活」

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しばしば、預言というと、未来のことが予め神から知らされることとして理解されがちですが、預言書全体には、「イスラエルの死と復活」という一貫したメッセージがあります。

神は、ご自身の救いのご計画を理解した新しい神の民を起こそうとしておられます。そこには神の平和(シャローム)を全地に満たすという究極の目的があります。

 

私たちの中には、失敗を避けることで自分を神の前に肯定しようとする誘惑が働きます。みなどこかで、良い人間と見られることが、信仰者の証しだと思い込んでいるからです。しかし、そのように人生に臆病になり、世界の問題から目を背けてしまうことこそが、聖書が語る「」の根本なのではないでしょうか。

ニーチェは、「神とは、『あなたは考えてはならない!』とわれわれに向けて発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎない」などと言って、信仰者の臆病な姿勢を批判しました。失敗を恐れる信仰、自分の頭で考え、責任を取ろうとしないような信仰には、「いのちの喜び」がありません。

信仰の醍醐味とは、主にあって大胆にチャレンジし、失敗するたびに主に問いかけ、再び主の力を受け、大胆に出て行くことではないでしょうか。主が創造的であるように私たちも創造的な生き方ができます。「信仰とは、いのちの喜び」です。主はその喜びを繰り返し復活させてくださいます。

 

1.「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」

ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな浮気女と結婚するように命じながら、神がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとされます。それは預言者が、神の気持ちになって、イスラエルの民に回心を迫ることができるためでした。

神は彼らの霊的浮気に対するさばきを本書で繰り返し宣告されますが、そこでその中心部族エフライムをさばくときのお気持ちが、118節の終わりで、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と描かれます。

これと似た表現でエレミヤ3120節では、「エフライムはわたしの大事な子なのだろうか・・・わたしは彼のことを語るたびに、いつも彼のことを思い出す。それゆえわたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と描かれています。この箇所を北森嘉蔵は、「わがはらわたかれのために痛む」と訳し、そこから世界的に有名になった「神の痛みの神学」を記しました。

 

神はエフライムの罪を、怒りや憎しみの感情に駆り立てられて罰するのではありません。そのことが、「わたしは燃える怒りで罰しない・・・わたしは神であって、人ではなく(11:9)と言われます。

しかもご自身を、「あなたのうちにいる聖なる者」と紹介しておられます。人の想像を超えた「聖なる」方が、ご自身の聖さから生まれる葛藤を抑えながら、罪人のただ中に住んでおられるというのです。主はエフライムに対して、「はらわたをわななかせ」ながら、さばきを下しているのです。

そしてそれが、ご自身にとって耐え難い痛みであるからこそ、さばきのあとには慰めが期待できます。それは、親が子の罪を厳しく諌めながら、子が反省した時に、その子を優しく抱擁するような姿です。

神の燃えるような怒りの背後には、「哀れみに胸を熱くする神」の燃えるような愛が隠されています。つまり、神の愛は、何よりも自分の愛する人の帰還を待つ恋人の思いに似ているのです。そこにホセア書のテーマがあります。

 

131節は、「エフライムが語ったとき、そこにはおののきがあった。彼はイスラエルの中であがめられた。しかし、彼はバアルにより罪を犯して死んだ」と訳すことができます。つまり、エフライムはかつて民の中で尊敬されていながら、バアルを礼拝することで自滅したというのです。

そして、その後も自分の手で神々を造り続けた愚かさが「今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り(13:2)と指摘されています。なお、2節最後で堕落した人々によって語られる言葉は、「人間のいけにえをささげる者は、子牛に口づけせよ」と訳すことができます。バアル礼拝には人間の子供をいけにえとしてささげるおぞましい習慣があり、人々はそれを要求する「金の子牛」をくちづけして礼拝していました。

その結果が、「それゆえ、彼らは・・朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる(13:3)と、存在価値がどんどん軽くなると描かれます。

 

ところがそのような中で、主(ヤハウェ)はエフライムに向かって、「わたしはヤハウェ、あなたの神、主(ヤハウェ)である・・・あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは・・かわいた地で、あなたを知っていた(13:4私訳)と、「わたし」を重ねながらご自身の主導権を強調しています。

彼らは自分の力で豊かになったように誤解していますが、主ご自身がエジプトで苦しめられていたエフライムに目を留め、彼らの神、救い主になり、彼らをエジプトから連れ出し、荒野の旅路で、パンや水を与えながら、養い育ててくださったのです(4-6)

なお「知る」とは、知的な認識というより親密な交わりを意味します。この66節で主は、「わたしは誠実を喜ぶ…全焼のいけにえよりも、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われましたが、主はご自分の方から私たちを「知って」いてくださいました。私たちが「神を知る」のは、そのような主の恵みを味わうことから生まれるのです。

 

ところが、「しかし、彼らは・・食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:68:14参照)と記されます。

申命記811-18節では、彼らが約束の地に招き入れられて満足するときに起こる誘惑のことが、「あなたの心が高ぶり、あなたの神、(ヤハウェ)を忘れる、そういうことがないように・・・あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)心に据えなさい」と警告すると同時に、主のご自身の契約に対する真実さを「主があなたに富を築き上げる力を与えられたのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」と強調されています。

彼らが「祝福」を体験できたのは、ひとえに神がご自身の契約に忠実であられたからであり、彼らが誇れる理由はありませんでした。

 

78節では、神の愛を忘れた者に対するさばきに関して、アッシリヤ帝国を三種類の野獣にたとえながら、その背後に主ご自身がおられることを、「わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる・・子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く」と記されます。

エフライムをこの残虐な野獣の手から救い出せるのは主ご自身しかいないはずなのですが、主ご自身が野獣のようになってしまうなら、誰も彼らを救い出すことはできません。そのことが、「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう」(13:9)と描かれます。

 

1011節は、初代イスラエルの王サウルが立てられたときの、神とイスラエルの民との会話を思い起こさせるもので(Ⅰサムエル8)、主は、「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか・・・あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取ると言われます。

かつて主は、サムエルに向かって、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」と、周辺諸国と同じような王制を望むことは主ご自身がイスラエルの王であるという前提を退けることであると、「怒って・・王を与え」ましたが、同時に、「ただし彼らに厳しく警告せよ」と言いながら、これからは王の気まぐれと自己中心性によって、民自身が苦しむことになると警告しました(Ⅰサムエル8:7-9)

そして、今ここでは、主が「憤って」彼らから王を「奪い取る」ことが、王国自体が滅亡することであると記されます。

 

   私たちは人々の期待に沿った行いができないことを「罪」と思ってしまいがちです。しかし、聖書の語る罪とは、何よりも、神の恵みを忘れて、自分の能力と力によって成功できたと傲慢になることなのです。

主はエフライムの問題を「彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた(13:6)と指摘しています。忘却こそが罪なのです。何かの大きな働きを成し遂げて、人々から称賛されることよりも、主の恵みの一つ一つを忘れないことこそが信仰の基本です。

私たちの目は、神との交わりよりも、自分自身に向けられがちです。しかし、それこそが罪の始まりなのではないでしょうか。

 

2.「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」

    131213節では、エフライムの再生が、子供の誕生にたとえられながら、「エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」と描かれます。

本来なら、人が自分の不義や罪に向き合うことで、その結果の様々な痛みの中で、主への祈りが起きるはずなのですが、そうならないため、問題がますます複雑に絡み合い、「脱出の道」という「新しい誕生」への備えをすることができなくなっているのです(Ⅰコリント10:13)

主は後に預言者エレミヤを通してユダの宗教指導者の問題を、「彼らは、わたしの民の傷を手軽に癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」と指摘していますが(6:14)、その同じ状態がエフライムにも見られたというのです。

 

14節のことばは、多くの訳では、「わたしはよみの力から、彼らを解き放つだろうか。彼らを死から贖うだろうか」という反語的な問いかけと理解されています。これはエフライムの民が、「よみの力」「死」の支配に対して主が無力だと思い込んでいたからです。

それで主はご自身の救いを、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」と、死とよみの力に対する勝利を宣言されます。ただ同時に、主は、「あわれみはわたしの目から隠されている」と、彼らが主に立ち帰ろうとしないので、あわれみようがないと嘆いておられます。

 

後に、使徒パウロはこの箇所を思い巡らしながら自由に引用し、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と宣言しています(Ⅰコリント1555-57) 。これはホセアのことばを基本的な意味を変えることなく読み替えたものです。

それは、コリント書の前の節で、イザヤ258節を聖霊の導きで自由に引用しつつ、「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と記されていることとの連続性を明らかにするためです。

初代教会時代から迫害の中で福音が広がったのは、信仰者がキリストにあってすでに死の脅しに打ち勝っている姿が明らかになっていたからです。

 

なお、ことばの用法からすれば、死人の復活については、日本語での「よみ」から「帰る」という「よみがえり」とは違います。

福音の奥義に関してパウロは、コリント書の先のみことばに先立って、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(15:52,53)と述べています。

ヘンデル作曲のメサイアでは、第二部の終わりにハレルヤ・コーラスが歌われますが、第三部の中心ではこの復活賛美が美しいトランペットの音色と共に歌われます。これこそ、私たちの真の希望です。

 

キリストは私たちを死の支配から解放してくださいました。ですから、復活は、私たちが日々の生活で体験することでもあります。様々なプレッシャーのなかで、とんでもない間違いを犯し、また、言ってはならない言葉を吐いてしまったとしても、自分の過ちに気づき、それを主に告白し、主の助けを求める者は、日々新しくなることができます。

それを使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)と記しました。

また彼は、同じ書で、それに先立ち、苦難の中で復活のいのちが既に始まっていることを、「いつでもイエスのをこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(4:10)と記しています。

そして、最終的な復活に至るプロセスが、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18別訳)と記されます。

 

3.「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得る」

131516節では、主の招きを拒絶したエフライムに対するさばきが、「だが、東風が吹いて来、主(ヤハウェ)の息が荒野から立ち上り・・すべての尊い器の宝物倉を略奪する。サマリヤは自分の神に逆らったので・・・剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる」と描かれます。

これはかつて栄えたエフライムの首都サマリヤが「東風」にたとえられるアッシリヤの攻撃によって滅亡し、想像を絶する悲惨を味わうという警告です。

 

ただ同時にホセアは、「イスラエルよ。あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ」14:1)と、率直に、また単純に、「主に立ち返る」ことを勧めます。これこそこの書の核心です。

なお、「回心」とは、自分の悪い行いや習慣を変えること以前に、人生の方向を変えることです。神はあなたを赦したいと願っておられます。最悪の不義とは、何よりも、自分たちの創造主以外の神々を拝んだり、金の小牛のような偶像を作って拝むことです。

神は私たちがご自身のふところに飛び込んでくるのを待っておられます。

 

   その上で、彼らのなすべき応答が、「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます(14:2)と描かれます。

バアル礼拝では、幼児をいけにえとしてささげるような途方もない犠牲が求められましたが、私たちが主にささげられる最高のものとは、賛美のいけにえ、すなわち、「くちびるの果実」です。それを前提に、ヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか(13:15)と訴えています。

 

そして、3節にあるように、彼らがささげるべき「くちびるの果実」の内容は、第一に、アッシリヤに救いを求めることを止めること、第二は「馬に乗る」というかたちでの軍事行動による解決を諦めること、第三は、偶像を造ってそれを自分たちの神として拝むことを止めることを告白することです。

そして最後に、主は「みなしご」をはじめとする社会的弱者の味方であると告白することです。これらは何も難しい事ではありません。何らかの犠牲を支払って、主の愛を勝ち取るのではなく、自分の罪を認め、主の赦しを受け入れ、主の真実により頼むことなのです。

 

使徒パウロはそれを前提に、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(Ⅱコリント5:20)と述べました。

神が罪人である私たちとの交わりを懇願しておられるというのです。私たちはそれへの応答として「くちびるの果実をささげる」のです。

 

    144-7節は、主がイスラエルを一時的に懲らしめることによってもたらそうとしておられる救いのみわざが、「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」と約束しておられます。

主の怒りが離れ去ったあとの、主の救いの豊かさが、生命力に満ちた植物として描かれています。そこで、主が、「わたしはイスラエルには露のようになる」と言われるのは、雨の少ないイスラエルでは「」こそが、植物を育てる力になっていたからです。

また、イスラエルは、「ゆりのように花咲き」と記されますが、「ゆり」は、ガリラヤ湖畔などに群生する「あねもね」のように鮮やかな色に咲く小さな花々を指し、当地では美しさの代名詞でした。

「ポプラ」はレバノンの木とも訳され、根を深く張るために高く伸びる木の代名詞です。「オリーブの木」とは力と繁栄のシンボルです(詩篇52:8)

また、「そのかおりはレバノンのようになる」と記されますが、雅歌では、これが男女を引き寄せる魅力として描かれます(1:37:8)

また「彼らは帰ってきて・・・生き返り・・・芽を吹き・・・ぶどう酒のようになる(14:7)とは、イスラエルの民が約束の地に帰り、エデンの園のような豊かさを享受できることを示します。

バアル礼拝には、忌まわしいいけにえと性的な堕落や酒に溺れる享楽がありましたが、神が与えようとしておられる喜びは、身体全体で生きている喜びを味わうようなことであり、信仰の実は、何よりも生命力に満ちた繁栄として描かれます。

 

   148節は、主の優しい語りかけとして、「エフライムよ。わたしは偶像と何のかかわりがあろうか」と訳すことができます。そして、そこでは主ご自身が愛に満ちた関わり方が、「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」と描かれます。

主がご自身を「緑のもみの木」として描くのは珍しいことです。これは、主こそが私たちにとってのいのちと力のみなもとになってくださるからです。

   

9節は、ホセアが結論としてひとりひとりに訴えたいことです。「知恵ある者」「悟りある者」とは、この世で何かの偉大な成功を修めるとか、人々から称賛される者であるとかではなく、単に、日々の生活で、「主(ヤハウェ)の道を歩む」ことに他なりません。

しかし、主に背く者は、主の道を歩むことを退屈で窮屈なことととらえ、「つまずく」というのです。真理は決して難しい事ではありません。いつでもどこでも主の恵みを思い起こし、感謝をささげ、主を喜びながら生きることです。

いのちの喜びは、主を真心から礼拝することによって生まれます。この世のすべての喜びは退屈に変わりますが、無限であられる主との交わりには、飽きることのない、日々新たな、無限の喜びが生まれます。

 

  

律法を守ることに熱心だったパウロが、復活の希望を語るときにホセア書を引用したということに驚きを感じます。主が私たちに求めておられることの核心は、主に繰り返し立ち返ることです。

主がしばしば苦難を与えられるのは、「私は自分の知恵や力によって道を切り開いてきました!」などと言って、主の恵みを忘れて傲慢にならないようにという愛の鞭です。

ただし、謙遜になるとは、委縮することとはまったく違います。すべてが主の恵みによると認めることは、復活の力が自分のうちに働くのに身を任せることです。キリストはその死によって、死の力を打ち滅ぼしてくださいました。キリストが私たちのうちに住むとは、復活の力が私たちを内側から生かしてくださるということです。

その復活の力とは、植物の成長に似ています。主にあっていのちがはち切れるような生き方を求めましょう。

 

   メッセージをネットでお聞きになっている方が、「ホセア書を読み続け、神様の誠実と真実を思い巡らしました。神さまが、私たちを『恋い慕って』くださっていることを受けとめていく時、『神様、ありがとうございます』という応答がでてきます。この応答にも浅いもの、深いもの、思いがけないあふれ出る気持ち、・・いろいろです。その『愛』というものは、感情だけでなく、行動というか、歩み方にも変化が訪れてきます」と書いてきてくださいました。

 

    ホセア書は、神の愛を、妻に裏切られながらなお、その妻を愛し続ける夫にたとえています。私たちは知らないうちに、信仰の核心とは、この神の愛に応答するということだということを忘れてはいないでしょうか。

良い行いに努めることは、人間として、とっても素晴らしいことです。でも私たちはそうできない自分に失望して神のもとにやって来たのです。

私のすべてを知って、私の帰りを待ってくださる神の愛を味わうことから、すべてが始まるべきです。神との愛の交わり渇きを覚えながら、いつでもどこでも、自分に既に示された神の恵みを思い起こしましょう。

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2015年10月18日 (日)

レビ記21-23章 「人間の奴隷とならないために」

レビ21章~23章 「人間の奴隷とならないために」                                        

                                                        20151018

  この世では、「時は金なり」と言われます。そして、自分の働きの結果ばかり気にすると、「休み」は最小限にすべきと思われます。しかし、このことばで有名になった米国独立の父と呼ばれるベンジャミン・フランクリンは、何よりも、規則正しい生活を大切にした人であり、際限なく働くことを勧めたわけではありません。

彼は、Time is money と語ったところで、Credit is money「信用は金なり」と語り、続けて、約束の期限を守ることで評判になっている人は、「他の人の財布」となって、他の人のお金を預かって大切な仕事を成し遂げることができるという趣旨のことを語っています。

ちなみに彼は現在の百ドル札の肖像画となっています。そして、彼は米国独立を主導した人の中で唯一、奴隷制の廃止を訴えた人としても有名です。彼は独立戦争の際にフランスの協力を取り付け、他のヨーロッパ諸国には中立を守らせた有能な外交官ともなりました。米国の歴史上、最も信頼される人のひとりです。

 

ただし、フランクリンのように、自分の信念を守ることによって、結果的に人から信頼されることは大切なことですが、この世の評価で一喜一憂したあげく、仕事依存の人間になるようなことがあってはありません。それは、自分のたましいをこの世の人間に売り渡してしまうことです。

聖書で最もユニークな教えのひとつは、「仕事をしてはならない」と繰り返されていることです。これほど、乱暴に見えながら、同時に愛に満ちた教えがあるでしょうか。もちろん、「働く」ことは本当に大切です。しかし、だからこそ、それが人にとっての罠となります。ただし、「聖なる者となる」とは、規則の奴隷となることではなく、自由への道であるということも同時に覚えたいものです。

 

1.「わたしはあなたがたを聖別した主(ヤハウェ)である」・・「御名が聖とされますように」

  レビ記21章、22章では、祭司に関して、六つの観点から規定が述べられ、それぞれの終わりで、「わたしはあなたがた(彼、それ、彼ら)を 聖別する主(ヤハウェ)6回繰り返されます(21:8,15,23,22:9,16,32)

 

  第一は(21:1-8)、近親以外の死の汚れから遠ざかる必要がありました。「死」は「きよさ」に反する「汚れ」で、それに触れる物自体がまた人を汚すからです。また、また頭を剃ったり、ひげの両端を剃り落とたり、からだを傷つけてはならないと記されます。

祭司の働きは、ここで「神のパンをささげる(21:6,8)と表現されますが、これは「いけにえをささげる」ことを指します(3:11,16)。彼らは、格別に「自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない(21:6)と命じられていました。

パウロは、これを全てのキリスト者に当てはめ、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい(ローマ12:1)と命じました。

 

第二は(21:10-15)、「大祭司」としての「装束をつけている者」は、父や母の死体であっても触れてはならないと格別に厳しく命じられます。これはあくまでも、「神のそそぎの油による記章を身に着けている」という奉仕期間中の制限です。

それとともに、結婚相手は「自分の民(レビ族)から処女をめとらなければならない」(21:14)と指定されていました。これは、人情に流されずに、神の働きに忠実であるべきという原則ではないでしょうか。

 

第三は(21:16-23)、「だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない(21:17)と、神は、身体障害者を礼拝の奉仕から外しました。しかし一方で、それが、障害者を排除することにつながらないように、彼ら自身がそれでも祭司としての特権にあずかり、「神のパン(穀物のささげ物ばかりか、629節会見の天幕の庭で食べられる罪のためのいけにえの肉を含む)を食べることができることを合わせて記します(21:22)

これは、飛行の安全のためにパイロットに厳しい適性基準を課すのと同じように、「聖所を・・聖別する(21:23)ために必要なことでした。新約時代も、教会の聖別のため、執事などのような指導者には「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人(使徒6:3)という基準が設けられました。

 

   第四は(22:2-9)13-15章での「汚れた者」、また「汚れに触れた者」は、「聖なるものを食べてはならない」(22:4,5)ことでした。彼らの権利は、自分自身の身を聖く保つということを前提にしてのみ認められていたのでした。 

ただし、汚れに触れた汚れは夕方までのことで、水を浴び、日が沈めば「きよくなり・・聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである・・・わたしは彼らを聖別する主(ヤハウェ)である」と祭司の立場が保障されます。

 

第五は(22:10-16)、民がささげた和解のいけにえの胸やももなどの「奉献物」(10:14)などの「聖なるもの」は、祭司の家族だけが食べられることです。興味深いのは、同居の「雇い人」は食べられないのに、「祭司に金で買われた者」つまり、外国人の奴隷は、祭司の家族の一部と見られ、食べることが許されていたということです(22:10,11)。奴隷は人格を認められなかったからこそ、格別な配慮が命じられたのです。

また祭司の娘が一般の人と結婚したなら食べられなくなるけれども、離婚されて再び祭司の家に戻ってきたときには、食べられる立場が回復されるなどと、傷ついた人に優しい配慮がありました。

16節で他の箇所と同じように、「わたしは彼らを聖別する主(ヤハウェ)だからである」と記されますが、この彼らの中には、祭司の家の奴隷とか、失意のあげく家に戻ってきた娘が含まれます。

 

第六は(22:17-30)、欠陥のある動物は、主へのささげものとして受け入れられないということです。そして、それが誓願のささげ物、進んでささげる物に関して特に厳しく念を押されます。

それは自主的なささげ物だけに、判断が甘くなりがちだからです。しかも、欠陥の内容まで詳細に記されます。私たちがささげる献金も、決して、余ったお金の中からささげるような気持ちであってはなりません。収入の初穂をまず神に聖別してささげるべきでしょう。

 

これらのまとめとして、「わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主(ヤハウェ)である(22:32)と述べられます。

イエスご自身も、主の祈りの初めに、「御名が聖とされますように」と祈るように命じられました。それは、神の御名が、私たちの心の中で、また私たちの間で、「聖とされる」ことです。そして、御名が聖とされる結果として、私たちが「聖く」されるのです。

 

わたしは・・聖別する主(ヤハウェ)である」ということばの繰り返しを味わいながら、自分がどのような基準で自分や人を評価しているかが、改めて問われます。

私たちはみな、聖くされることを願う必要がありますが、それが無意識のうちに、世の人々から感心されるような人格者になることと混同されてはいないでしょうか。この箇所に描かれた六つの視点にそのようなことは何も記されていません。大切なのは、主の聖の基準に自分を合わせることです。

 

私たちはすべて、「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい(Ⅰペテロ2:5)と命じられています。もう動物のいけにえをささげる必要はありませんが、御名をたたえる賛美と、互いに愛し合うという善い行いを、「霊のいけにえ」とするのです(ヘブル13:15,16)

自分の働きの実をはかるのではなく、私たちを聖別してくださる主を見上げることこそすべての始まりです。

 

2. 「全き休みの安息、聖なる会合の日・・・いっさいの仕事をしてはならない」

   23章には「聖なる会合として召集する主(ヤハウェ)の例祭」(23:2)が記され、ここでは、「聖なる会合の日である」、「仕事をしてはならない」ということばが何度も繰り返されます。何とも不思議な命令です。

 

その第一のものは、毎週巡ってくる「七日目」の「全き休みの安息」です。3節では、「六日間は仕事をしてもよい」と訳されますが、これは英語で Six days shall work be done などと訳されるように、仕事を許可するというよりは、六日間で終えるようにという意味に解釈できます。

そして、「しかし、七日目は全き休みの安息」と記されますが、これは原文では「安息の中の安息の日」と、安息の最上級とも言える表現です。これは徹底的に他の日とは区別されるという意味です。

そのことが続けて、「聖なる会合の日である」と記されます。それは具体的には、主を礼拝するための日であるという意味です。つまり、安息日は聖なる日の中でも最も聖なる日であり、他の日とは明確に区別されるべきなのです。

 

そして、その日には、「あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない」と厳しく命じられます。この日には、薪を集めることや、火をおこすことさえも禁じられていました。それによって、女性も奴隷も、完全に休むことができました。

ユダヤ教では、「安息日を守る者は、トーラー(律法)のすべての掟を守ることに値する」と言われるほどに現代も大切にされています。

厳格なユダヤ教徒は、機械の操作や火を扱うこと、写真を撮ったり、文字を書いたり、車を運転することなどの一切の働きをしません。公共の交通機関は止まり、商店や公共施設も閉じられます。

 

さらに、「この日は、あなたがたがどこに住んでいても主(ヤハウェ)の安息日である」と記されます。これは英語で、It is a Sabbath to the LORDなどとも記されるように人間の都合で考える休みの日ではなく、主のために聖別された日です。ですから、旅行中であっても、会社の研修中であっても、時を聖別することが求められています。

ただ、現代の日曜日は何よりも、イエスの復活を祝うための日であり、金曜の日没から土曜の日没まで続くユダヤ人の安息日と区別されるようになりました。ですから、旧約の安息日律法を現代の日曜日に厳密に適用し過ぎてはなりません。

実際、医療関係者から治安を守る者、また礼拝を導く牧師も、この日に休むわけには行かないという現実があります。ただ、それでも、一週間に一日は、仕事を完全に休み、主に聖別するという姿勢は大切です。

 

米国での西部劇の時代、東海岸から西海岸に向けて多くの幌馬車が競争するように走ったという時期がありました。真っ先に着いた家族が、最も良い地を所有できると言われたからです。多くの家族が休みなしに幌馬車を走らせましたが、みんな途中で、病気になったり、馬車が壊れたり、馬が走れなくなったりしました。その中で、一番早く着いたのは、一週間に一日、必ず馬車を休ませ、自分たちも休んで、主を礼拝した牧師家族であったと言われます。

私は、クリスチャンになりたての頃、その話を聞いて感動しました。そして、入社したあと、人事部から採用の手伝いで、「これは、強制ではないけれど、できたら出勤してほしい」と言われた時、「申し訳ありませんが、日曜日は教会の礼拝に出ますから、午後からでよいですか」とお断りし、了承されました。これは社内で、結構、話題になったのではないかと思います。後に、営業成績も英語力も中途半端なまま、社費留学を許されたのは、このような体験があったからかもしれないとさえ思います。

 

「主(ヤハウェ)の御名を聖とする」ことの第一は、主との交わりのために時間を聖別することです。後に預言者イザヤは、イスラエルは、安息日を守らなかったので、国を失う(バビロン捕囚)ことになると警告しながら、同時に、安息日を守ることで約束の地を回復することができるという趣旨を込めて次のように記しました。

 

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主(ヤーウェ)の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主(ヤハウェ)をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う』と主(ヤハウェ)の御口が語られたからである」(イザヤ58:13,14)。

 

私たちも、心の奥底で、仕事の成果を出すことこそが、神と人とに喜ばれるという思い込みの中で生きてはいないでしょうか。それは人間の価値を、奴隷と同じような生産能力ではかり、人間性を失わせることです。

 

3. 「どんな労働の仕事もしてならない」 「だれでも渇いているなら・・」

毎週の安息日とは別に、年間を通しての「主の例祭」が定められていました。それは三つに分けられます。第一は、過越しの祭り、第二は七週の祭り(ペンテコステ)、第三は、贖罪の日と仮庵の祭りの組み合わせです。

 

第一は、原文で、「第一月の十四日の夕暮れは、主(ヤハウェ)の過越である」(23:5)と記されます。新改訳では「いけにえをささげるということばが付加され、この日に小羊をほふってささげることに目が向けられますが、原文では、「主(ヤハウェ)がエジプトを打ったとき・・イスラエルの家を過ぎ越され…救ってくださった」(出エジ12:27)ということ自体を思い起こさせる表現になっています。

これは罪のためのいけにえをささげる日ではなく、主の一方的な救いのみわざを思い起こす最大の喜びの日です。これはほぼ春分の日の後の満月の日に相当します。

 

それは、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたことを記念する祭りですが、ここではその翌日から「種を入れないパンの祭り」として、「七日間・・種を入れないパンを食べる」という面が強調され、その最初の日と七日目が、「聖なる会合の日」とされ、「どんな労働の仕事もしてならない」と命じられます(23:7,8)。

これは曜日のカレンダーは違いますから。毎週の安息日とは別の日になるのがほとんどです。その際は、三千年前の奴隷にも何と、週二日の休みが命じられていたというのです。

なお、「労働の仕事」とは「職業としての仕事」というような意味で、これらの日は、婦人や奴隷を休ませても、趣味としての食事を準備するようなことまでは禁じられてはいませんでした。

 

また、これは大麦の収穫の時期で、過越しの祭りの最初の安息の日の翌日に、「初穂の束」をささげることが命じられていました(23:10,11)。これは約束の地に入ってからのことですから、主ご自身がイスラエルの民に必要なものすべてを備えてくださるという意味が込められています。

それを前提に、過越しの祭りの直後にも関わらず、傷のない小羊を全焼のいけにえとしてささげることが命じられていました。なお、これは一人一人ではなく、民全体でささげるものです。またそのときの収穫物は。まず主にささげてから、初めて食べることが許されました。主に感謝することがすべての働きの始まりだからです。

 

それから「満七週間が終わるまでを数えた」(23:15)日は、「七週の祭り」と呼ばれ、ギリシャ語では、「五十日目」を意味する「ペンテコステ」とも呼ばれます。この日は、小麦の収穫に感謝し、「新しい穀物」を、「パン種を入れて焼かれたパン二個」にしてささげました(23:16、17)。その際、子羊七頭をはじめ多くのいけにえがささげられますが、中心は収穫感謝であり、畑の隅まで刈らないことや落ち穂を集めないことが改めて命じられます(23:22)。

この日も、「聖なる会合」と「どんな労働の仕事もしてはならない」と命じられます。なお、この日の「聖なる会合」では、ユダヤ人の伝統ではルツ記が朗読される決まりになっています。それは落ち穂拾いとの関係ではないでしょうか。

なお、この日をユダヤ人たちは、シナイ山で律法が与えられた記念日として祝います。そして、新約では聖霊降臨日となりました。それは律法が「石の板にではなく、人の心の板に書かれる」(Ⅱコリント3:3)ことを意味しました。

 

ところで、新改訳の計算に基づくと、安息日の翌日が聖なる会合の日になり、聖日が二日続くことになります。ただし、ユダヤ暦では「安息日の翌日」を安息日に続く複数の日の可能性と理解し、種を入れないパンの祭りの二日目から五十日を計算します。この辺りは分からない面がありますが、私たちにとってのペンテコステだと日曜日の休みが一回ですが、どちらにしても当時は、この時期は、ほとんどの年に、休日が週に二日になりました。

 

第七月の第一日」(23:24)は、「ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合」の日です。これは、現在の九月から十月にかけての日で、ユダヤ人は後に、この日を新しい年の初めの日としました。

この日も、「全き休みの日」と呼ばれますが、その日は、「どんな労働の仕事もしてはならない」と、火を扱うことを禁じる安息日ほど厳しくなく、職業労働だけが禁じられました。

そして、それから十日目はレビ記16章に記されていた「贖罪の日」です(23:27)。この日は、「身を戒める」ことが命じられましたが、それは断食をして罪を悔い改めることを意味したと思われます。

この日は、毎週の安息日同様、火を扱う煮炊きを含め、「いっさいの仕事をしてはならない」と命じられるばかりか、「その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも・・滅ぼす」と格別に厳しく警告されました(23:30)。

 

その五日後から「七日間にわたる主(ヤハウェ)の仮庵の祭り」になります。36節には「七日間、あなたがたは火によるささげものを主(ヤハウェ)にささげなければならない」と記されますが、そのささげ物の詳細が、民数記29章12-34節に記されます。そこには驚くべき数の雄牛、雄羊、子羊の全焼のいけにえと、それに対応した大量の穀物のささげもの、ぶどう酒や油がによる「注ぎのささげ物」が指定されていました。この時期は、ぶどうやオリーブの収穫の時期でもあったので「注ぎのささげ物」も強調されているのかと思われます。

なおこれらは人間的には途方もない無駄に思えるかもしれませんが、そこには主ご自身が人の期待をはるかに超える形で、その収穫を祝福してくださるという約束が込められていました。

 

またここでも、その最初の日と八日目は、「聖なる会合を開き」、「労働の仕事はいっさいしてはならない」と繰り返し命じられました(23:35,36)。つまり、この時期は、安息日と祭りの日が重ならない限り、四週に渡って週に二日の休みがあったのです。

39節では、改めて、この仮庵の祭りを、収穫をし終わった日と位置付け、七日間にわたる「主(ヤハウェ)の祭りを祝う」ことが命じられ、最初の日と八日目を「全き休みの日」とすることが命じられます。休息と祭りが命令となるのは何と画期的なことでしょう。

その間、「美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝」などを取り、「七日間、あなたがたの神、主(ヤハウェ)の前で喜ぶ」ように、その間、「仮庵(テント)に住まなければならない」と命じられました(23:40,42)。それはエジプトから出て荒野を旅したことを覚えるためでした。これは現在の収穫感謝祭に相当し、賑やかな喜びに満ちた祭りでした。

イエスはこの最終日に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)と言われました。それは、イエスこそがすべての豊かさの源であることを指し示すものでした。多くの人々は、豊かさの中で心が渇いていますが、喜びは、富からではなく、イエスから生まれるのです。

 

なお、これら三つの祭りは、どれも、それぞれの時期の収穫感謝と結びついていました。私たちはいつも「もっと、もっと」という駆り立ての中に生きていますが、まず与えられた収穫を心から喜び、主に驚くべきほどの感謝のささげものをささげ、また家族で喜び分ち合うというリズムの中で、今ここでの神との人との平和(シャローム)を喜ぶことができます。

現代は、大きな家族の交わりで、日々の仕事を離れ、祭りを祝うという習慣が少なくなりすぎてはいないでしょうか。福音が、ヨーロッパや北米の個人主義的な影響を受け過ぎて、神の前での個人の生き方ばかりか重視された傾向があるかもしれません。しかし、聖書は繰り返し、神の民としての交わりの中で、ともに喜ぶということが強調されています。私たちは聖書から労働と休息、祭りの意味を再発見する必要があるのではないでしょうか。

今から百年余り前にドイツの社会学者マックス・ウエーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著書の中で、冒頭のフランクリンなどに代表される考え方が、資本主義の精神を生み出したと評価しながらも、そこに隠された危険を驚くほど正確に警告しています。それは神の恩恵の現れを際限のない経済的な成果の中に見いだそうとする結果、「孤独な経済人」を大量に生み出すというのです。彼らは人間の価値をその生産性で測るようになる結果、「精神のない専門人、愛情のない享楽人」になるというのです。ドイツなどでは商店の営業時間を制限し休みを大切にしますが、米国でも日本でも深夜営業が当たり前になり互いの首を絞めています。

この世は、人を奴隷とする機構を作り上げます。その中で、何と多くの人が虐げられていることでしょう。神は、人をその奴隷状態から解放するために、私たちに、自分自身と時間とを聖別することを命じられました。

 

そしてイエスも、「富に仕え」るかのように仕事に追われ、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配し」(マタイ6:24、31)、人生を喜ぶことができなくなっている人に、「神の国とその義を第一に求めなさい(捜しなさい)。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(6:33)と言われました。

それは、何よりも、主の御前に静まり、主のご支配の現実を思い起こし、そこに安らぐことの勧めです。

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2015年10月11日 (日)

レビ記17~20章 「聖なる神の基準で、隣人を愛する」

  

レビ記1720章 「聖なる神の基準で、隣人を愛する」

                                                  20151011日  

  バブル経済が崩壊してまもなくの頃、「同情するなら金をくれ」と12歳の女の子が叫ぶドラマが大きな人気を博しました。そこには、薄っぺらな同情に、「家なき子」への残酷とも言える軽蔑が込められていたことへの皮肉があったのかもしれません。

その二十年後、その女優は、離婚の痛みなどを経て、今は、「同情するなら、愛をくれ」と言いたい、「この渇いた心が満たされる、揺るぎない愛が欲しい」と、笑いながらも、感動的なことばを語っていました。

 

レビ記の中心テーマは、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない(19:2)ですが、そこには、まず、神の私たちに対する圧倒的な愛が前提とされています。

しばしば、「聖なる者となる」の意味が、この世からの「分離」という面からのみ語られ、この矛盾に満ちた世界のただ中に置かれながら、互いにいたわり、愛し合うという真の隣人愛と相容れないかのような印象を持つ人がいたかもしれません。

しかし、聖書では、「愛する」ことと、「聖なる者となる」ことの間に、何の矛盾も緊張関係もありません。

 

1. 「いのちとして贖いをするのは血である」

  荒野ではイスラエルの民が「牛か子羊かやぎ」の肉を食べることは、原則、「和解のいけにえ(17:5)をささげる際にだけ許されました。それ以外でこれらの血を流すなら、その人自身も「民の間から断たれる(17:4)という死刑が宣告されました。それは家畜の貴重さという面と同時に、生き物の血を無駄に流すことへの戒めと言えましょう。

ただ約束の地に入った後では、「主が御名を置く場所が遠く離れている」という前提で、「あなたの町囲みのうちで食べたいだけ食べてよい」と付け加えられます(申命12:21)。それにしても現在の私たちのような食べ方は絶対に許されませんでした。なぜなら、「脂肪は全部、主(ヤハウェ)のもの(3:16)として、「主へのなだめのかおりとして焼いて煙にする(17:6)必要があったからです。

しかも、ここでは、「彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである」(17:7)と記されます。これがどのような偶像礼拝かは聖書に記されていませんが、イスラエルの民が長らく滞在していたナイル川下流の地域には、やぎの偶像の神殿で、巫女がやぎと交わるなどという破廉恥なことも行われていたという記録が残っているようです。とにかく「やぎの偶像」にいけにえをささげるという悪習に戻る可能性が当時のイスラエルの民にあったということは驚くべきことです。

 

それに加えて、「どんな血でも食べるなら・・・その者をその民の間から断つ(17:10)と厳しく命じられ、その理由が、「肉のいのち(たましい)は血に中にあるから」と記されます。さらにその目的が、「あなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために・・与えた。いのちとして贖いをするのは血である」(17:11)と記されます。つまり、これらの動物の血は、神の民の「いのち」を贖うという目的のために聖別されるべきだというのです。

その上で、改めて、「あなたがたはだれも血を食べてはならない(17:12)と厳しく命じられます。13節では「獣や鳥を狩りで捕らえ」た場合でも「血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない」と細かく命じられながら、14節ではさらに、「すべての肉のいのちは、その血そのものであるということばが文章の初めと終わりで繰り返されながら、「どんな肉の血も食べてはならない」と再び記されます。

現代のユダヤ教徒も、「正しく、清浄に調理された」(kosher)肉しか食べません。また、エホバの証人は不思議にも、文脈を無視して、輸血に反対する根拠をここに求めていました。

 

ノアの大洪水の後で、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である」と肉食が許容されながら、「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」と制限が加えられました(9:3,4)。それは衛生上の配慮と同時に、全てのいのちを尊重するためでした。

ダイヤモンドはダイヤモンドでしか研げないように、いのちはいのちによってしか贖われません。たとえば、あなたがマフィアに誘拐されたとき、「問題児がいなくなって嬉しい!」などと言われたら何と悲しいことでしょう。反対に、善悪は別として、途方もない身代金を払ってくれる人がいたらどんなに嬉しいことでしょう。動物の血はその身代金に相当しました。

ですから、その血にいのちの尊さを感じることと、神が私たちにどれほどの価値を認めておられるかを知ることとは表裏一体です。血を侮る者は、自分を侮ることになります。

神は後にイスラエルに対し、「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし」と言いながら、「わたしの目には、あなたは高価で尊い・・だから・・国民をあなたのいのちの代わりとする」と言われました(イザヤ43:3,4)。それは、ちっぽけなイスラエルを当時の世界で最も栄えたエジプトより重い存在として見るという意味でした。

 

「和解のいけにえ」とは、神との「平和」、人と人との「平和をもたらすものです。パウロは、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」と、人間の価値をこの世の基準で計ることを戒めた上で、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ・・てくださいました」と言いました(Ⅱコリント5:16,18)

神は、ご自身の御子を犠牲にするほどに、あなたを「高価で尊い」ものとして見ておられ、自分勝手に神に背いた私たちとの和解を望んでおられます。当時は、動物の肉を食べるたびに、神の救いを思い起こすことがこれによって求められていたのです。

 

2. 「それを行なう人は、それによって生きる」

   18章、19章には、「わたしはあなたがたの神、主(ヤハウェ)である」という表現が十回、また、「わたしは主(ヤハウェ)である」も十一回登場し、様々な規定は「十のことば」の具体的な適用とも考えられます。その最初に、エジプトやカナンの「地のならわしをまねてはいけない・・彼らの風習に従って歩んではならない(18:3)と記されます。

1845節では主の「定め」と「おきて」を、「行い」また「守る」ことが命じられながら、「それを行なう人は、それによって生きる」と約束されます。それは単に長生きのことではなく、神から与えられた「いのち」を心から喜び楽しむことができるという意味です。

律法の専門家がイエスをためそうと、「何をしたら永遠のいのちを・・受けることができるでしょうか」と尋ねたとき、イエスは、全身全霊で主を愛することと並んで、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とのみことばをレビ記1918節から引用し、それと185節のみことばと合せるように、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました(ルカ10:25-28)。

その上で、イエスは隣人を愛するという例として良きサマリヤ人のたとえを話されました。つまり、このレビ記1819章は、イエスによる十のことばの解釈の核心なのです。

 

186-18節には十二の具体例から、いわゆる近親相姦が禁じられています。その要約がまず6節で、「あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて」、「その裸をあらわにしてはならない(直訳)と、原文では婉曲的に描かれています。ここに記されていることは、現代の半ば常識となっていますが、その最古の起源がレビ記にあります。

しかし、それは当時の文化では公然と行われていたことでした。実際、アブラハムの妻サラは、彼の父の異母妹でしたが、それが9節で禁じられます。ヤコブは、騙されたにせよレアとラケルという姉妹を同時に妻にしましたが、それは18節によって禁じられます。また、ユダは知らずにではありましたが、息子の嫁と関係を持ち、子孫を得ましたが、それは15節において禁じられました。

現代は近親者との結婚は、遺伝子の異常を生み出す可能性があるという観点から否定されますが、当時は、一夫多妻が認められていましたから、禁止の理由はそれではありません。この規定の背後には、すべての結婚は、「ふたりは一体となる(創世記2:24)との観点から、血のつながりよりも、男女の関係こそが家族の基礎となるということを明らかにします。たとえば、血縁のない父の妻と関係を持つことは、「ふたりが一体となる」ことによって、絶対的なはずの親子関係をさえ破壊すると言われるのです。

後にイエスは、この創世記の記事を基に一夫多妻自体を否定しますが、その基本原理をここに見ることができます。

 

21節では、自分の子供を「火の中を通らせて、モレクにささげてはならない」と命じられていますが、これはヨルダン川東側のアモン人の地で盛んだった偶像礼拝だったようで、子供を生きたまま火に投げ込むような事さえあったとの記録があります。それは後にイスラエルにも持ち込まれました。

それに続いて、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである」と、ホモ・セックスが明確に禁じられています。これは2013節では同じ言葉が繰り返されながら、「彼らは必ず殺されなければならない」と厳しく命じられます。

23節では「動物と寝」ることが「道ならぬこと」として戒められます。ホモ・セックスへの禁止命令が、誰に目にも忌み嫌われる悪習に挟まれています。その構造は2011-14節でも同じです。

そして、182425節では、それこそが、神がカナンに住んでいた住民に関して、「その地は、住民を吐き出すことになる」という聖絶の理由として記されます。

 

残念ながら、現代のキリスト教文化圏と呼ばれる国で、同性間の結婚を認めることが人権の尊重であるかのような論調が見られますが、聖書は、すべての性の交わりを、「ふたりは一体となる」という神聖な行為とみなし(Ⅰコリント6:16)、一組の男女による結婚の中でのみ。性交渉を是認します。

同性婚を基本的人権と認めてしまうことは、聖書が語る家族関係の基本概念を破壊することにつながるということを決して忘れてはなりません。

 

そして、1828節では、後にカナンの地がバビロン捕囚として、イスラエルの民を「吐き出す(18:28)ようになるのは、彼らがその「先に行われていた忌みきらうべき風習(18:30)をまねることの結果であると示唆されています。神の定めを守る者はそれによって「生きる一方で、それを破る者は、それによって「死ぬことになるのです。

 

3.「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主(ヤハウェ)である」

  192節はレビ記の核心です。原文ではまず、「あなたがたは聖でなければならない」と命じられます。人は、「聖さ」を様々に解釈しますが、それは18,19章全体から理解されるべきです。

そして、その命令の根拠が、「わたしは聖であるから」と述べられ、それに他の部分と同じように、「(わたしは)あなたがたの神、主(ヤハウェ)である」と付け加えられます。つまり、イスラエルの民は、神から特別に愛され、選ばれているからこそ神のご性質に似るべきだというのです。

これをパウロは、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)と表現しました。

 

19章全体で、「十のことば」が言い換えられますが、その最初が、「自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない」(3)です。

父権社会の中で、敢えて「」が先にされます。それと「安息日を守る」がセットなのは、安息日は毎週、母の準備で始まり、何よりも家族を互いに喜ぶ祭りだからです。

 

  また「偶像に心を移してはならない(19:4)の「偶像」とは、厳密には、「むなしいもの」「無価値なもの」と記されており、それが「鋳物の神々」と言い換えられています。(ヤハウェ)の価値を辱めることこそが偶像礼拝の基本です。

 

また、「和解のいけにえ」を二日以内に食べるよう命じられるのは、衛生上の意味ばかりか、貴重な肉をより多くの人々と分かち合わせるという意図も推測できます(19:5-8)

そして、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときには、畑の隅々まで刈ってはならない・・落穂を集めてはならない(19:9,10)と不思議な配慮が命じられます。それは「貧しい者と在留異国人」に、物乞いをさせることなく、糧を与えるためです。ここに社会的弱者の人格を徹底的に尊重させる配慮が見られます。

たとえば、日本の生活保護は、働く意欲を削ぐばかりか、受給者のお金の使い方までをも政府が管理して人格を否定するという面があるように思われます。後に、のろわれた民モアブの女ルツは、落穂拾いの誠実さがボアズに認められ、救い主の家系の先祖に名を連ねる名誉にあずかります。

 

   なお、19章には、40回も、「・・してはならない」と、繰り返されますが、その大半が人と人との関係です。興味深いことに、1314節では、賃金の支払いを遅らすことや、耳の聞こえない者を侮ることに至るまで、事細かに人格を尊重することが命じられます。

また、15節では、「不正な裁判をしてはならない」という命令で、まず「弱い者におもねる」こと、つまり、社会的弱者というだけの理由で、その人に有利な判決を下してはならないと記されていることです。それは、「弱い(貧しい)」からというだけで、その責任を問わないことは、「正しいさばき」ではないばかりか、どんなに不遇な状況の中に置かれていてもまっすぐに生きている人がいるからです。弱者を特別扱いし過ぎることは、その人の責任能力を蔑むという人格の軽視と表裏一体です。

また16節では、「人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない」と記されます。これも多くの日本人が注意すべきことです。人の名誉を傷つけてはなりません。

 

17節では、「心の中であなたの身内の者を憎んではならない」と「隣人をねんごろの戒めなければならない」がセットに記されています。それは、身近な人が自業自得で破滅に向かっていることを見過ごすこと自体が、その人を「憎む」ことと同じだからです。

正しい警告を与えなかったこと自体が「」として問われることがあるのです。

 

それらを肯定命令でまとめたのが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主(ヤハウェ)である(19:18)です。

イエスは、これを律法の核心と述べたばかりか(マタイ22:39)、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほか人にもそのようにしなさい(マタイ7:12)と言い換えました。黄金律はレビ記から生まれたのです!

 

しかも興味深いのは、隣人愛が、「復讐してはならない。恨んではならない。あなたの国の人々に対し(直訳)という命令とセットで記されていることです。この文脈からすると、「隣人」の範囲は、同胞に限られるとも理解できます。

また、「あなた自身のように愛しなさい」という命令は、「自分を愛することが大前提・・・」などというのではなく、自分が復讐されたり、恨まれることとの対比で、自分が同じ所に住む仲間として尊重されることを心の底から願っているからこそ、隣人を尊重するようにという勧めです。

ですから、隣人の責任能力を認めず、バカにするような気持ちで援助をすることは、隣人愛ではありません。事実、今までの箇所で、自分の身を「日雇い人」「耳の聞こえない者」「目の見えない者」「弱い人」「中傷される人」の立場に置いて読むと黄金律がより身近に感じられます。

 

ただし、すこし後の34節では、先の命令の隣人」の対象を、「在留異国人」にまで広げた上で、「あなた自身のように愛しなさい」と命じられます。

イエスの時代の律法学者が自分の隣人を身近な範囲に限定しようとしたのは、18節だけを読むと根拠がありますが、それに対してイエスは、34節を含む19章全体の文脈から隣人愛を考えるように教え、そのために「良きサマリヤ人のたとえ」を話され、「隣人になる」ことを教えられました(ルカ10:25-37)

 

なお、1919節~32節までは、家畜の交配、二種類の種、女奴隷との性の交わり、収穫を急がないことの勧め、血を食べることやまじないの禁止に始まり、頭のびんの毛のそり方や髭の扱い、入れ墨の禁止など多岐にわたることが記されています。ただそれは、イスラエルの民に与えられた土地を、主のものとして聖別するという観点から見ると一貫性が見られます。

なぜなら、たとえば21節での、いけにえによる贖いは、会見の天幕の聖別ということと結びついていましたし、29節では、自分の娘にみだらなことをさせることは「地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないため」という地の聖別がテーマになっていたからです。髭のそり方や、入れ墨、霊媒や口寄せは、何よりもカナンの宗教と結びついていました。

また32節で、「老人」は、保護されるべき対象というよりは、神のように恐れ、敬われるべきだと命じられます。それもご老人が、神から与えられた土地を守ってきたことと結びついています。

 

33節からは在留異国人を愛する教えになります。これも「あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなかればならない」と、地の概念で説明されます。また3536節も正しい「ものさし」や「はかり」は特定の経済圏と結びついた概念です。

地の聖別と隣人愛は表裏一体なのです。その目的は何よりも、失われたエデンの園の祝福をカナンの地に復興するということにありました。つまり、愛の交わりは、あくまでも、神が与えてくださった土地で互いに助け合いながら生きるという、日々の生活の中に現されることだったのです。

聖さ」は、多くの人が言う通り、「この世からの分離」から始まりますが、「わたしは聖であるから」と言われる方は、この世のならわしを超越した形で、「あなたの隣人を」また「在留異国人を」、「あなた自身のように愛しなさい」と命じておられたのです。

 

4. 「わたしはあなたがたを聖なる者とする主(ヤハウェ)である」

  20章に記されている命令はほとんど18,19章の繰り返しですが、特徴的なのは、「必ず殺さなければならない」が八回、「民の間から断つ」という表現が四回も繰り返されていることです。それに、「その血の責任は彼らにある」と五回も付け加えられます。これは自業自得でいのちを失うことを意味し、原則、いけにえによる罪の赦しは適用されません。

先に、「それを行う人は、それによって生きる(18:5)と言われましたが、ここでは、これを破る者に対して、人間的な情を超えて、死刑を執行するよう命じられます。これは三千数百年前の刑罰としては常識でした。

 

そして、78節では「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる」と言われつつ同時に、ご自身を「わたしはあなたがたを聖なる者とする(ヤハウェ)である(20:8)と紹介されます。

続けて9節では父と母をのろう者に死刑が宣告されます。そして、10節から21節では、18章と基本的に同じことを異なった表現で、同様に12の分類で、性の交わりを聖く保つことが命じられ、それぞれに死刑を中心とした厳しいさばきが記されます。そして、22節から25節では先と同じように神から与えらる地を聖別することが命じられます。

 

そして26節では、「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の中からえり分けたからである」と約束されます。これこそ、聖霊が与えられるという新約の福音の前提です。

後に、律法を守ることに失敗した民に、神ご自身が、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:26,27)と約束されたからです。

しかも、私たちはこの世界全体を「神の国」とするように召されています。つまり、神は私たちに、「聖なる者となる」ことを、命がけで達成すべき基準として示しながら、同時に、ご自身こそが、どんなに汚れた者をも、内側から造り変え、「聖なる者とする」ことができると約束されたのです。

 

神は、一人ひとりのいのちを、ご自身の御子を犠牲にするほどに「高価で尊い」と見ておられます。だからこそ、神のかたちに創造された人格の尊厳を傷つける者に、容赦のない死刑を宣告しながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられたのです。

しかし、私たちは、「こんな世の中では、自分の身を守るだけで精一杯なのです!」と言いたくなるかもしれません。それは、世の常識であり、聖なる神の基準ではありません。

 

そこでなお、その高い基準を受け止め、それに従おうとするなら、「私は、ほんとうにみじめな人間です(ローマ7:24)という告白が生まれざるを得ないことでしょう。

ところが、そのように自分の弱さを正直に認めるとき、かえって、「御霊に従って歩む(ローマ8:4)ことができるのです。私たちは、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」ではなく、イエスと同じ神の子とされ、「アバ、父」と呼ぶ自由の中に招き入れられたからです(ローマ8:15)

神は、イスラエルの民をカナンに遣わしてその地を聖別するように命じられました。そして今、神は、私たちを汚れた地に遣わしながら、同じ使命を与えておられますが、今度はその使命を全うできるようにと、創造主なる聖霊を与えてくださいました。

   

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2015年10月 4日 (日)

ヨハネ10章22-42節 「わたしと父とは一つです」

                                                  2015104

   私たちはいつも、目の前の問題解決に心を奪われますが、それが別の問題を生み出すということを忘れてはいないでしょうか。たとえば、医療の公平性を守ろうと必死になる結果として、すべてが細い点数でコンピューター管理され、医者の自由裁量による心の通った医療が難しくなってきたとも言われます。イエスによる癒しのみわざが、「安息日破り」として非難されたことに通じる面があります。

しばしば、あらゆる不正や曖昧さを無くそうとする努力が、管理組織を肥大化させますが、それは非効率と腐敗の温床になります。すばらしい理想を掲げて始まった組織も、ときと共に、社会的弱者を守るというよりも、その組織の中で働く人自体の権利を守る方向へと動きだし、制度疲労を起こします。それが消えた年金問題の最大の原因かもしれません。

残念ながら、人は基本的に、目の前の課題しか見えません。イエスの時代の人々も、当時の権力機構に大きな不満を抱いて、自由を求めていました。しかし、イエスは、目先の政治を超えた、「神のかたちimage of God」としての人間の生き方自体を問題にされました。

政治に関心を持つのは大切ですが、それ以上に、人間の罪が社会の問題の根本にあることを忘れてはなりません。

 

1.「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」

イエスは、「わたしは、良い牧者です」(10:11)と言われましたが、その背景にはエゼキエル34章のみことばがあります。そこでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が、「イスラエルの牧者たち」との比較で、ご自身を理想的な「牧者」にたとえながら、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする・・・わたしがわたしの羊を飼いわたしが彼らをいこわせる・・・わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」」と力強く宣言しておられます(11,15、16節)。

そればかりか、そこで主(ヤハウェ)は「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(23、24節)と約束されました。これがイエス・キリストにおいて成就しました。イエスの十字架は、神の民の「君主」としての愛の現われでした。

なお、イエスはここで、「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます(17)と言われ、ご自身の死が、羊飼いとしての敗北ではなく、御父から出た計画であり、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」(10:10)のみわざであると言われました。

それでイエスは続けて、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです(18)と言われました。

イエスは、父なる神から遣わされた者として、ご自分の「いのち」は徹底的に、父なる神の御手の中で守られていることを知っていました。イエスは、羊を連れ出し、羊の先頭に立って歩く方として(10:3,4)、神が「永久に死を滅ぼされる」(イザヤ25:8)、民を「死から贖う」方である(ホセア13:14)ことを証しされました。私たちを襲う様々なわざわいは、すべて私たちがイエスにあって既に死に打ち勝っている証しの機会とされています。

 

   これを聞いたユダヤ人たちに分裂した反応が起きます(10:19)。多くの者が、「あれは悪霊につかれて気が狂っている」と言いました(10:20)。それも当然と言えましょう。イエスはご自分の死とその後の復活のことを語っておられますが、それは主の弟子たちにさえ理解不能なことでした。

ただ、それと同時に、「ほかの者たち」の中には、「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか」と言った者たちもいました(10:21)。

イザヤ355節によれば、盲人の目が開かれることは、神がご自分の国に帰って来られたことの何よりのしるしでした。また同じく427節では、主の「しもべ」としての救い主のしるしが、見えない目を開くことでした。とにかく盲人の目をあけるというのは、人間の働きでもまた悪霊の働きでもないことははっきりしていました。

   

ところで1022節から、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった」と記されますが、これはヘブル語でハヌカーと呼ばれユダヤ暦でキスレーウ第九の月(太陽暦では12月に近い)の25日に祝われ、現代のクリスマスはその祭りに由来するとも言われます。2015年は126日ですが、2016年は1224日に相当します。

これは紀元前164年にユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人の軍隊が、ギリシャのアレキサンダー大王のシリアの後継者の一人、アンティオコス・エピファネスによって汚された神殿をきよめたことに由来します。彼はヤハウェの神殿にゼウス・オリンポスの巨大な像を置き、祭壇には豚のいけにえをささげるように強要しました。

それに対し、ユダヤ人が抵抗運動を起こし、圧倒的な軍事力の差を乗り越えて、神殿をきよめることができました。それを記念するのがこの日であり、イスラエルの救い主が民に希望を語る最もふさわしい日とも思われました。

 

   その際、「イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた」とありますが、そこは神殿の外庭部分の東側の壁からせり出した屋根を太い柱で支えている細長い集会スペースです(使徒3:115:12)。「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで」、「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と返答を迫ります(10:24)

当時の彼らにとってのキリストのイメージは、ユダ・マカベオスのようにユダヤ人を外国の支配者から解放してくれる指導者でした。それに対しイエスは、「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています(10:25)と答えます。

イエスはこの福音書で、繰り返し、ご自分が父なる神から遣わされ、「永遠のいのち」を与える方であると語っておられます。確かに主は、彼らが期待したようなローマ帝国の支配からの解放に関しては一言も話しておられませんが、一方でご自分のことをさらに大胆に、「わたしがいのちのパンです・・・わたしは、天から下って来た生けるパンです」(6:3551)、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる(8:58)「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」(9:5)などと言われたばかりか、ご自分をエゼキエルが預言したイスラエルばかりか異邦人にとっての「ひとりの牧者」であるとまで言っています。

イエスはまさに聖書が語る救い主の姿をまっすぐに語っていたのです。

 

それでイエスは、「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」(10:26)と言われました。それは、彼らが「救い主」の姿を自分たちの期待の枠の中でしか考えていないからです。たしかに、当時のユダヤ人にとって、ローマ帝国による支配は、当時の社会の諸悪の根源と思われました。

しかし、彼らは忘れています。ユダ・マカベオスによって始まった独立国家は、たった百年しか続きませんでした。軍事力によって立った国は、軍事力によって守るしかありません。ユダ・マカベオス自身、ギリシャ人の王の国セレウコス朝シリアからの独立を守るために当時の新興勢力であるローマ共和国の軍事力に頼ろうとしました。

しかも彼は戦いの最中に命を失い、その後は、しばらくすると王権を巡って兄弟同士が殺し合うような事態が続き、紀元前63年には権力闘争に負けた王自身がエルサレムにローマ軍を招き入れ、進んでローマ帝国の属国となったのです。

 

人が人を不当に抑圧するシステムは、外国の支配以前に、同国人の間で生まれます。ときに、兄弟どうしの骨肉の争いは、外国との戦いよりも陰湿で恐ろしいものです。

事実、エゼキエルが預言していたように、神のさばきは、民を食い物にして、「自分を肥やしているイエスラエルの牧者たち」(34:2)に向けられていました。イエスは、ローマ帝国の支配よりも、当時のエルサレム神殿を中心としたイスラエルの権力者たちを問題にしたのです。

その意味でイエスの行動は極めて政治的でした。それは当時の政治論争の枠をはるかに超えていましたが、極めて現実的でした。その後、イエスの敵対者たちは激しい内紛を繰り返したあげく、ローマ帝国との戦争に突き進み、この約40年後にエルサレム神殿と共に滅びます。しかし、イエスの教えはローマ帝国内に静かに広がり、世界を変えます。

 

2.わたしは・・永遠のいのちを与えます・・・だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません

それに対し、イエスは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます(10:27)と言いました。これは最初に記したように、(ヤハウェ)エゼキエルを通して、ご自身でイスラエルの羊を「養う(34:13)と約束されたことが、イエスご自身によって成就することを意味します。

そして、改めてご自身のみわざを、先の「イスラエルの牧者たち」との比較で、わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません(10:28)と言われます。

ここで「永遠のいのち」とは、「決して滅びることがない」という「いのち」であり、同時に、その「いのち」はイエスご自身によって守られ、誰の手によっても奪われることがない、この世の枠を超えた「いのち」です。

 

ただ、現実には、多くの人々が、一時的には、「イエスは私の主です」と告白しながら、その信仰告白を後に自分で否認し、そのまま地上の生涯を静かに終えるようなことになっています。つまり、イエスの御腕から次々と、「いのち」こぼれ落ちているようにさえ見えるのです。

しかし、そこでふと思うのは、私たちの信仰は、「どなたに、どのように向けられているのか」ということです。信仰が人間的な意志で始まったのなら、人間の意志によって失われます。しばしば、一般の人々にも感動を与えるような劇的な回心には危険があります。この世の人々から評価される回心の証しは、この世的な論理の整合性のうちにある場合が多いからです。

イエスは、人の目を恐れて夜中になって教えを乞いに来たパリサイ人のニコデモに向かって、「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることができません」と言われました(3:3)。ニコデモはその意味が分かりませんでしたが、イエスは続けて、「風()はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこに行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われました(3:8)

つまり、自分がどうしてイエスを主と告白するようになったかを、人間的には人々に分かるようには説明できないということこそが、「御霊によって生まれる」ということでもあるのです。

 

その意味での私たちの救いの証とは、たとえば、「自分ではうまく説明できないけれど、あるとき、ふと、『イエスは私の主です』と告白するようになっていたのです。それは自分の意志を超えた聖霊の働きだったと思います。信仰は自分の意志で始まったわけではないから、この信仰を守るのも、自分ではなく、神のみわざだと信じます」と告白できたら、それで良いのかもしれません。

ですから、たとえば、自分が迫害を受けたら、自分のような弱い信仰の持ち主はすぐに「ころぶ」に違いないと断定するのは聖書の語る信仰ではありません

御霊の働きによる信仰とは、「私はいざとなったら、何をしでかすか分からないひ弱なものです。でも、同時に、いざとなったら、創造主なる御霊ご自身が、私のうちに信仰を生み出してくださると信じます。先のことなど心配しません」と告白するのです。

 

とにかく、イエスは、「だれもわたしの手から・・奪い去るようなことはありません」と断言されたのです。私たちの信仰とは、それを信じることです。

同時に、「永遠のいのち」とは、「この世のいのち」ではなく、来たるべき「新しい天と新しい地」の「いのち」が今から始まっているということに他なりません。来たるべき世のいのちが今から始まっているのですから、それがこの世の悩みや迫害によって無くなることがあり得るというのは、ことばの矛盾です。

 

何よりも、私たちの信仰は、自分の意志の力ではなく、神のみわざなのですから、この信仰は無くなりようがないと信じることこそ、聖書的な信仰です。

そして、このようにすべてのことが、人間の意志以前に、神のご意志によって動いているということが信じられるとき、私たちは目の前の自分の損得勘定を超えて、主のみこころを生きてみようという心の余裕が生まれます。

私たちすべてのうちに、イエスを死者の中からよみがえられた方の、復活の御霊が宿っています。「いのち」は、「キリストとともに、神のうちに隠されてあるから(コロサイ3:3)、もう心配はありません。

 

3.「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか」

その上でイエスはさらに、「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです」(10:2930)と言われます。

人間の姿となっているイエスと、天の父なる神が「一つ」であるというのは途方もない宣言で、それに対して「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた(10:31)というのは、ある意味で「当然のこと」とも言えます。それは、神の御名を冒涜することとして「石打ちの刑」に値するからです。

レビ記には、神によって死刑にされたふたつの物語が記されていますが、その24章には、神の御名を冒涜して石打ちの刑で殺された様子が描かれています。

 

   しかし、イエスはご自分と父が「一つ」であると言うことによって、神の御名を冒涜したわけでは決してありません。それは明らかにエゼキエル34章の記事に基にした発言でした。

なぜなら、そこではイスラエルの神、主(ヤハウェ)ご自身が、イスラエルの指導者である牧者たちから羊を取り返し、「自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」と語っておられると同時に、「わたしのしもべダビデが・・彼らの養い、彼らの牧者となる」と告げておられるからです(1123)。つまり、主(ヤハウェ)ご自身と、預言された新しい「ダビデとは一体であると記されているのです。

 

そしてイエスは引き続き、彼らに、「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか」と言われます(10:32)。それに対し、ユダヤ人たちはイエスに、「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」と答えます(10:33)

ユダヤ人たちは不思議にも、イエスの「良いわざ」を認めざるを得なくなっているのです。この福音書にはごくごく限られた不思議なわざしか記されていませんが、イエスは、38年間ベテスダの池で伏せっていた人を歩けるようにし(5)、男だけで五千人にも上る大群衆をパンと魚で満腹させ(6)、また「生まれつきの盲人」の目を開いてくださいました。

そこで問題になったことは、これらの癒しのみわざは、緊急でもないのに敢えて安息日に行われたということです。ただそれでも、それらが、「貧しい者」「心の傷ついた者」をいやし、生きる力を与える良い働きであることに変わりはありません(イザヤ61:1)

多くのユダヤ人たちは「安息日破り」という自分たちの枠によって「悪霊」の働きであるかのように言いましたが、悪霊は決して「良いわざ」を行なうことはありません。イザヤの預言からすれば、これは明らかに神の救いが到来したしるしに他なりません。まさに当時のユダヤ人の問題は、自分たちの律法解釈に縛られ、物事の大枠が見えなくなっていたということです。

 

それでイエスは引き続き彼らに反論して、「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか」(10:34-36)と言われます。

 

 イエスはここで詩篇82篇を引用しておられます。そこでは、「神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。いつまでおまえたちは、不正なさばきを行い、悪者どもの顔を立てるのか。弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ・・・わたしは言った。『おまえたちは神々だ・・みな、いと高き方の子らだ。にもかかわらず・・人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。』 神よ・・地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます」と記されています。

この詩篇には基本的にエゼキエル34章と同じことが記されています。そこで「イスラエルの牧者たち(1)と呼ばれた者たちが、羊を踏みつけていることが非難されましたが、この詩篇82篇では、同じようにイスラエルの指導者たちが「神々」と呼ばれ、神から羊の世話を任されているのに、悪者たちの顔を立て、弱い者や悩む者を虐げる側に立っていることが非難され、それに対する神のさばきが下されると記されています。

つまり、神はイスラエルの指導者を、ご自身の代理の「神々」と呼びながら、神のお気持ちに沿って、民を治めることを期待しておられたというのです。そのことをイエスはここで思い起こさせています。

そして、そのような期待は、イスラエルの民全体に対しても向けられています。申命記1412節で、イスラエルに向かって主は、「あなたがたは、あなたがたの神、(ヤハウェ)の子どもである・・・主(ヤハウェ)聖なる民である」と言いながら、彼らが偶像礼拝の文化に呑み込まれないようにと厳しく戒めておられます。

 

 私たちは、主の前に謙遜になる必要がありますが、同時に、主から崇高な使命が与えられているということも忘れてはなりません。

イエスが、「わたしと父は一つです」と言われたのは、ご自分を父なる神と等しくしたということではなく、神のみこころをご自分の「こころ」とされたという意味なのです。ユダヤ人たちは、神を口先では崇めながら、与えられた自分たちの使命にあまりに無頓着になっていました。彼らは神の「宝の民」として、世界に対して神の愛とあわれみを証しするという使命が与えられていたのに、世界の人々を偶像礼拝者と軽蔑していたのです。

 

 それでイエスは引き続き、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです」と言われました(10:3738)

ここでイエスは、彼らにご自身が行なっている良い働きを偏見の目ではなく、それ自体をすなおに見ることを求められました。ただ、同時に、「父がわたしにおり、わたしが父にいる」と、神との一体性をさらに強調したため、彼らはイエスをさらなる冒涜罪で捕らえようとしたと描かれながら、同時に、「しかし、イエスは彼らの手からのがれられた」と簡潔に記されます(10:39)

そして、その後のことが、「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、『ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった』と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた」と描かれます(10:40-42)

つまり、バプテスマのヨハネから救い主のことに関して話を聞いていた人々は、イエスを信じることができたというのです。イエスがお話しになられたことは、あまりにも当時の人々の想像と期待とを超えたことであったので、まず、彼ら自身が当時の常識から自由になる必要がありました。その意味でバプテスマのヨハネは、「神殿での罪の赦し」という当時の常識を超えて、ヨルダン川でバプテスマを授けるということを通して、当時の人々の目を見せかけの神殿の権威システムから自由にすることができました。

 

   イエスはここで、人間をひ弱で愚かな「羊」にたとえながら、その「いのち」を豊かに保つ責任は、何よりも、父なる神とご自身の愛の交わりの中にあると言われました。

それと同時に、私たちがみな、「神々」として、「神のかたちimage of God」として、神からの責任が与えられていることを示唆されました。当時の人々は、イエスがご自分を神と等しくしていると非難しましたが、イエスはこの地における神の代理として、「父のみわざ」を行なっていると言われました。

私たちもまず、自分のいのちは自分の意志では守りきれないということを謙遜に認めながら、同時に、イエスに習って、この地で「神のかたち」として生きるように召されているという誇りを常に抱くべきではないでしょうか。

 

イエスはご自分を「神の子」と呼びました。それが当時の人々に神への冒涜と聞こえたのは、私たちが「神のかたち」に創造され、神のみわざを行なうように召されているという福音の根本を忘れていたからではないでしょうか。私たちもみな「神の子」として、「父のみわざ」を行なうように、この不条理がはびこる地に遣わされているのです。

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