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2015年12月27日 (日)

ハバクク書「神の真実に応答する者は生きる」

ハバクク書「神の真実に応答する者は生きる」

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 ハバクク書は多くの人に縁遠い箇所かもしれません。世界的なピアニストのイングリッド・フジ子ヘミングは無名だったとき聖路加病院でボランティアとして患者さんたちの前でピアノを演奏していました。その頃、ある教会で、預言者ハバククのみことばの小冊子をもらいます。その23節に、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と記されていました。

それから間もなく、NHKでフジ子さんに関するドキュメンタリー番組が放送されて、19992月にたった一晩で有名になりました。そのときすでに60代後半でした。彼女は次のように記していますが、これは現代人のためのハバクク書の要約とも言えましょう。

「私のこれまでの人生には、お金がなくて食べるものが買えなかったり、耳が聞こえなくなったり、みんなにいじめられたり、辛い出来事が本当にいっぱいありました。でもどんな時も決して諦めずに、ピアノだけを弾き続けて来ました・・・でも途中、何度も思いました。『なんで神様は私をこんな目に遭わせて平気でいるのだろう・・』と、だけど、そうではなかった。まるで、私の人生は神様にプログラミングされていたかのように感じます・・・他の人の生き方についてとやかく言うつもりはないけれど、『神様が自分に与えた役割ってなんだろう』ともう一度立ち止まって、よく考えてみることは大切なのではないかしら。私たち一人一人、それぞれに果たすべき義務や役割が必ずあるはずです」(光文社文庫「天使への扉」p119)

 

新約聖書の核心に、「義人は信仰によって生きる」がありますが。それはハバクク書24節からの引用で、それこそパウロ神学の核心とも言われます(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、他の著者ではヘブル10:38)。これは「信仰義認」という宗教改革の教理の根幹とも呼ばれますが、多くの誤解も生んできました。

たとえば、それはときに、「神を信じればどんなに悪いことをしても、その行いが問われることがない」という、不道徳を許容する教えと思われました。また反対に、神の救いは、人間の側の信仰への応答として与えられると思うあまり、「こんな弱い信仰で、救われるのだろうか」という疑念を生み出すことがありました。改めて、その原点の意味に立ち返る必要がありましょう。

 

1.「いつまで、聞いてくださらないのですか・・なぜ・・・ながめておられるのですか」

この書の冒頭は「宣告(重荷)から始まります。それがエルサレムやバビロン帝国の上に重くののしかかり、そのさばきが実現するという意味があります。続けて、「それは、預言者ハバククが見たもの」と記されます。

この書は、ダビデの築いた王国が、約400年後にバビロン帝国によって滅ぼされる少し前に記されたと思われます。当時のエルサレムの政治は混乱を極めていました。2節の原文は「いつまでなのですか。主(ヤハウェ)」というハバククの叫びから始まり、「私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたは聞いてくださらない・・『暴虐』と・・叫んでいますのに、あなたは救ってくださらない」と、主の沈黙を非難するように訴えています。

彼はエルサレムの中に支配者たちの「暴虐」を見て、必死に神の助けを求めて叫んでいるのですが、いつまでたっても答えが無いので絶望的になっています。ただ彼は、それでも諦めることなく主に訴え続けます。それこそが感動的です。残念ながら、多くの人々は、ほんの少し祈っただけで、「神は何も私の訴えを聞いてくださらない・・」と諦めることがあるからです。

 

 ハバククは神の沈黙に耐えつつ、「なぜ、あなたは・・」と、積極的に神に疑問をぶつけながら、「私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか」と訴えています(3)。神ご自身がわざわいを放置し、「労苦」をただ上から「ながめて」いるだけだというのです。

その上で、「暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています」と訴えます。ここでは先にあった「暴虐」の同義語が、「暴行」「闘争」「争い」と描かれています。

  

引き続き彼は、「それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません(4)と訴えます。「暴虐」が放置される結果、「律法」(御教え)が「眠り(麻痺し)」、機能しません。ここでの「さばき」とは、神の正義に従った政治を指し、それが「いつまでも(まったく)行われない(出てこない)」と嘆いているのです。

また、続く文章は、「悪者が正しい人を取り囲んでいます。それゆえ、さばきが曲げて行われています」と訳した方が良いと思われます。この節の二番目の「それゆえ」が訳されないことがありますが、ここでは「正しい人」が悪者に取り囲まれて見えなくなっているので、その必然的な結果として、本来あるはずの神の正義の基準に従った政治(さばき)が、曲げて行われる(出てくる)と記されています。そこでは、「正しい人」、つまり、神の前に誠実に生きようとする人々のことばが、真の神を忘れた人々(悪者)陰に、完全に隠されています。

神の国の都のエルサレムにおいても、「正直者がバカを見る」ような現実があるため、神の御教えを無視する不法がますますはびこるようになっていました。ハバククの祈りは、不条理な苦しみに悩むヨブの訴えに通じます。これこそ真の祈りです。自分で答えを作ってはいないからです。

 

 15-11節に神からの答えが記されます。主はご自身の計画を知らせる前に、現実の世界の動きを、あるがままに「見よ」、また「目を留めよ」と命じ、その上で「驚き、驚け」と、常識をひっくり返すことが起きると示唆しつつ、「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする」と、ご自身の主導権を強調します。

つまり、ハバククの祈りは神に届いていたのですが、神の答えはあまりに意外なので、「告げられても、あなたがたは信じまい」と言われます。

 

そして主は突然、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」と言われます。これはバビロン帝国の中心部族で、紀元前626年にアッシリヤ帝国からの独立を果たし、その14年後の紀元前612年にはアッシリヤ帝国の首都ニネベを滅ぼし、6年後の紀元前609年にはカルケミッシュの戦いでアッシリヤとエジプトの連合軍を打ち破ります。

 

ただ、このカルデヤ人の国が、「強暴で激しい国民だ(6)と描かれます。神がご自身のさばきを実現するために立てた国は、まるで暴力団のような集団だったというのです。そして、「これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る・・・自分自身でさばきを行い、威厳を現す(67)とあるように、自分を神の立場において他国を次々と支配します。

続けてバビロン帝国の傲慢さが、「彼らは王たちをあざけり・・すべての要塞をあざ笑い・・それを攻め取る(10)と描かれます。彼らは他国を攻め取ることに何の躊躇も感じません。

 

しかし同時に、その危うさが、「それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罪と定められる(11節私訳)と描かれます(新改訳の「罰せられる」は、まださばきが見えない段階なので訳し過ぎ)

なお、「自分の力を自分の神とする」での「(コーアハ)」は、しばしば人間的な能力を指します。バビロン帝国が誇る「」は、サムソンが自分の腕力を誇ったのと同じもので、神の前には無に等しいものに過ぎません。

 

112節で彼はさらに主に向かって、「(ヤハウェ)よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と訴えています。それに続く「私たちは死ぬことはありません」は、「カルデヤ人の手によって私たちが滅びることはないはずでは・・・」(1:17参照)という期待を込めた意味でしょう。

その上で、カルデヤ人を「」と呼びながら、「(ヤハウェ)よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました」と述べます。そこでは、神が、ご自身の計画を進めるためにカルデヤ人を立て、イスラエルの民を滅ぼすためではなく、「叱責する」ためにカルデヤ人を据えられたと解釈しながら、神のご計画は「」のように揺るがないと告白しているのです。つまり、ハバククは、カルデヤ人はあくまでも神の道具に過ぎないと認めています。

 

ところが13節で彼は続けて、「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留める(ながめる)ことができないのでしょう」と述べますが、ここには皮肉が込められています。それは、3節で神が「労苦をながめておられる」と訴えたのと同じ言葉を用いながら、主は真の意味では「悪を見てはいない」、「労苦をながめてはいない」と述べているからです。

彼の目には、神はこの世の悪にも私たちの労苦にも、正面から向き合おうとしてはいないように思えたので、失礼にも、神に向かって、「あなたの目はあまりにもきよいと、言ったのです。神は、ご自身の町エルサレムの現実に心を痛めていたはずですが、それをさばくために、「」の程度にはるかに激しいカルデヤ人を用いることが、ハバククには到底納得が行きません。それは広域暴力団の助けで目先の不正を正すようなものです。

 

2.「幻を板の上に書いて確認せよ・・・正しい人はその信仰によって生きる」

2章の初めでは、突然、ハバククは、「見張所」や「とりで」にしっかりと立ちながら、「見張り」、また「見る」と告白します。これは主の答えを期待し、そのタイミングは主の主権に属することを認め、その上で、ひたすら待ち続けるという意志の表明です。

そして、その内容は、「何を主が私に語り、何を私が返すのか、私の訴えに関して」と訳すことができます。ハバククは、あくまでも、主ご自身との対話自体を待ち望み続けているのです。

 

その上で、「(ヤハウェ)は私に答えて言われた(2:2)という大きな転換点が記され、その内容が、「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために」と記されます。「幻」は多くの英語訳ではヴィジョンと訳され、この書の最初で、「ハバククが預言した(見た)」というのと同じ語源のことばで「啓示」とも訳されます。ですからこの「(ヴィジョン)とは、ハバククが主から見せられたこの書の啓示全体を指していると思われます。

それを「書き記して確認する」とは、法手続きの二段階を意味し、誤解のないように明確にすることです。それはこの使信に出会った者が、それを伝えるために「走る」ことができるためです。

そして3節の最初は、「なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから」と訳すことができます。これはその内容が、実現まではまだ間があるからこそ、誤解のないように明確に書き記しておく必要があると強調するためです。しかも、その内容は、「終わりについて告げる」ものと記されますが、これは世の終わりという以前に、「(ヤハウェ)の日」と基本的に同じく、「地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」(2:14)と言われる、バビロン帝国に対する神のさばきが現されるときを指します。

とにかく、この「(啓示)は、「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものです。そのことがフジ子さんの愛唱聖句、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る、遅れることはない(2:3)と記されています。

 

 4節で最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4,13節に記された「悪者」のこと、つまり、真の神を忘れた者、または「自分の力を自分の神とする者」のことを指していると思われます。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されます。

 

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きると描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することばで、「真実」と訳した方が良いかもしれません。

興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし()の真実によって」と記されています。ですからこれは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味ではありません。これは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主(ヤハウェ)から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というビジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と記されています。つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の真実をみことばを通して示してくださったときに、それを真実に受け止めるという、心の応答なのです。しかも、ここでは先の「私たちは死ぬことはありません(1:12)を言い換えるように、「正しい人は・・生きる」と断言されます。

 

当時のエルサレムの支配者たちは、目先の政治判断の是非ばかりを論じ、神の真実なご支配を忘れていました。私たちも目先の政策論争に心を奪われて、今ここにある神のご支配、今ここで求められている誠実さを忘れるようなことがあってはなりません。

実現が遅いと思われ、ときには「まやかし」とさえ言われるような神のビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、まず、「実にぶどう酒は欺くものだ」と描かれます。「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ているからです。

その心の状態が、「高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らないと描かれます。これは「正しい人」と対極にある生き方です。

 

 主が現代の私たちに示してくださっている「(ヴィジョン)」とは、神の平和(シャローム)に満ちた世界の実現です。神のひとり子は、ひ弱な人間になることによって、「自分の力を自分の神とする」生き方との対照を示してくださいました。サタンはイエスの十字架を見て、自分たちの勝利を大喜びしたことでしょうが、それこそサタンの大敗北の始まりでした。

この世の権力者や身近な人々が私たちを苦しめる時、それは彼らがまさに墓穴を掘っているときです。神は私たちの労苦に確かに目を留めておられます。主の真実に応答する者は必ず「生きる」のですから。

 

3.「水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」

26節以降は、バビロン帝国によって苦しめられた者たちが、そこの「カルデヤ人(1:6)の最後を風刺して、五回に分けて「わざわいだ・・・」と、「あざけりの声をあげ」る様子が記されます。

12節はその第三のもので、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者)というあざけりです。他国民の血の犠牲と略奪した富で都を築き上げた者の滅びは時間の問題です。

13節では「これは、万軍の主(ヤハウェ)によるのではないか」と言いつつ、「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる」と国々の悲劇が描かれます。これはバビロン帝国で起きたことを一般化して述べたものです。創造主を忘れた国々も世の人々も空しい労苦を積み上げますが、バビロン軍にはるかにまさる「万軍のヤハウェ」のみわざによってすべてが無に帰すのです。

 

それによって、「水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされ(2:14)ます。これは第一義的には、バビロン帝国へのさばきを通して、この地の真の支配者が(ヤハウェ)であると明らかにされるという意味ですが、同時に最終的な救いの完成を示すことばでもあります。

(ヤハウェ)の栄光」は、イスラエルの民が荒野を旅していたときに雲の中に現され、翌朝には宿営の周りにマナが降りていることで現されました(出エジ16:10-15)。またモーセに導かれた民が幕屋を建てたとき、「雲は会見の天幕をおおい、主(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた」と描かれています(同40:34)。

そしてイザヤは救い主が実現する世界を、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追ってゆく・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・(ヤハウェ)を知ることが海をおおう水のように、地を満たすからと描きます(11:6-9)。このとき、全地が主の神殿となり、主のシャローム(平和、繁栄)が全地を満たすことになるのです。

ペテロはこの目に見える「天と地」が過ぎ去ることを述べながら、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:13)と記しています。

 

第五は、1819節で、偶像が「物言わぬ偽りの神々」と呼ばれ、それに向かって「目をさませ」「起きろ」と必死に祈っている姿が「わざわいだ」とあざけられています。

そして最後に、「しかし主(ヤハウェ)は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ(2:20)と描かれます。「聖なる宮」とはエルサレム神殿ではなく、「(ヤハウェ)は聖なる住まいにおられ、主(ヤハウェ)の王座は天にある(詩篇11:4フランシスコ会訳)とあるように「天の宮」を指します。

ここでは偶像礼拝をする者が「物言わぬ偽りの神々」に向かって「目をさませ・・起きろ」と騒ぎ立てることの対比で、「(ヤハウェ)の御前に静まる」ことが勧められています。なぜなら、主は今、預言者ハバククに明確な言葉で語っておられるからです(2:1)。そして主の語られたことばがそのとおりに実現し、今、この書として残されています。

 

4.「にも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み・・救いの神にあって喜ぼう」

   31718節は、目先の悲劇を覚悟しながら、そのただ中で、私は主にあって喜ぶという、悲惨と喜びの対比が描かれています。ですからここは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と訳した方が良いと思われます。

これは目の前にバビロン帝国の攻撃によって農作物が台無しにされ、家畜がいなくなるという悲惨を見ながら、そのただ中で、主の救いのご計画が確実に進んでいることを確信し、「私の救いの神にあって喜ぶ」と告白することです。

最後に、「ヤハウェ、私の主」と告白しながら、「その方が、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と締めくくります(3:19)

 

   しばしば、「夜明け前が、一番暗い」と言われるように、ハバククは目の前の状況が悪くなればなるほど、神の救いのご計画が進んでいることを信じ、そこで喜ぶことができました。

これは私たちの人生にも適用できます。「何で次から次と、悪い事ばかりが起きるのか?」とつぶやきたくなる時、それこそ「夜明け」が近いしるしです。それを前提にパウロは、「今は救いが私たちにもっと近づいている…夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて・・・昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか(ローマ13:11-13)と記します。

 

  本書のテーマは、わざわいが迫ってくるただ中で、主の真実な救いのご計画が進んでいることを信じ、「主にあって喜び勇む」ことです。私たちの喜びは、主との親密な交わりから生まれるものです。ただそれは、不安や嘆きの気持ちを、押し殺すことではありません。ハバククの祈りは、主への率直な訴えから始まるからです。

教会福音讃美歌422番はドイツの古い讃美歌を筆者が訳したもので、目の前が真っ暗な中で「イエスは私の喜び」と力強く告白されます。この世では、いつも結果を出すことが求められがちですが、努力が報われないことも多くあるからです。

そこで問われるのは、神の真実に信頼して、今、自分としての真実を尽くす道が何かを問い続けることです。

 

フジ子ヘミングさんはドイツでデビューしようと思った途端、高熱で耳が不自由になり、その後、30年余り極貧の生活を続けました。彼女は自分の演奏が感動を生む理由を、「私の辿って来た数奇な半生が、音に表れるからじゃないのかな。これは隠せない真実だから。ピアノの前では、すべてをさらけだすことができる。演奏には自分のすべてがでてしまう」と記しています。彼女はコンサート中、一分毎に「イエス様、イエス様」と祈るとのことです。

これは、私たちのすべての働きに適用できる真理ではないでしょうか。労苦は主にあって決して無駄にはなりません。

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2015年12月20日 (日)

ピリピ2章1-11節「神のかたちとしての生き方」

                                               20151220

福音宣教が、「私は惨めな人間でした。そのとき、私は主イエスを見出しました」というパターンに偏りすぎてはいないかと批判されることがあります。確かに、惨めさを知れば知るほど、イエス・キリストの赦しが分かるという面があります。それで、自分の過去の傷や失敗を思い起こすことで、救いのすばらしさを理解しようとするのかもしれません。

しかし、それでは減点主義で育ってきた多くの日本人は、ますます自分に与えられた賜物を発揮することに臆病になります。何よりも、失敗を意識できる方が、福音が分かるなどというのは自虐的とも言えましょう。

 

一方、007シリーズやミッションインポシブルやスターウォズなどに見られるような、戦いに勝利するヒーローを目指す自己実現的な成長路線でも気が休まりません。

何かを達成するという成功志向によって神の栄光を現わすという路線に、バブル経済以降の多くの日本人は疑問を感じるようになってきているようにも思えます。

 

聖書によると、すべての人は、「神のかたち(Image of God)」として創造されました。それは、人がそのままで神の栄光を現わすことができるためであり、また神が人を通してこの世界を管理するためでした。ところが最初のアダムは、神の栄光の代わりに自分の栄光を求め、この世界に「のろい」をもたらしました。

それに対し、神はご自身の御子を私たちと同じひ弱な姿で送り、「神のかたち」として生きるという方向を指し示してくださいました。それは誰からも称賛されるヒーローとしての道ではなく、自分の十字架を負って、ときには、あざけりとののしりに耐えながら、神の眼差しをのみ意識して生きる生き方でした。それこそが、神の平和(シャローム)をもたらす道だからです。

 

それにしても、自分をドジでブスであるかのように見てはなりませが、同時に、世の人々から評価される姿を求めてもなりません。私たちはそれぞれとてつもない欠点や弱さを抱えていますが、それは他の人との愛の交わりを築き、共同体として神の栄光を現わす契機になります。

ひとりひとりではなく、信者の群れとして、キリストの花嫁とされていることを忘れてはなりません。それはオーケストラのようなものです。それぞれに神から与えられたパートの楽譜があり、それらが全体として調和することで、この世界に対して神の栄光を現わすことができるのです。

 

1. 「キリストは神の御姿である方なので、ご自分を無にされた」

   マリヤもヨセフも羊飼いも天使も登場しないクリスマス物語があります。それは、パウロがローマで捕らわれの身となりながら、ピリピ教会の不一致のことで心を痛めて書き送った手紙の中にあります。その核心は、「キリストは・・ご自分を無(空虚)にした・・・卑しくした(2:6,7)ということばで、「何事でも、自己中心(自分を前面に出したい思い)や、虚栄(むなしい栄光を求める思い)からすることなく、へりくだって(自分を卑しくする思いで)互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」という意味です(2:3)

ここでの「すぐれた者と思う」とは、能力のことではなく、自分の上座に座るべき人と見るという意味です。当時は身分制社会でしたから、能力があるとは、奴隷としての価値が上がるという意味にもなり得ました。一方、貴族は血筋で地位が決まるので、能力はあまり大きな意味を持ちません。ですから、これは自分の能力を隠したり、また敢えて自分の能力を過小に評価することの勧めではなく、自分に与えられた能力を神からの賜物として感謝して受け止め、それを用いて、自分の目の前の人を貴族のように尊敬したうえで、仕えさせていただきなさいという意味です。

その上で、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです(2:5)と、キリストの物語が描かれます。

 

クリスマスは、「太陽をお造りになった神様が、赤ちゃんになった日」と表現したほうが良いかも知れません。全世界は父なる神と御子の共同の働きによって生まれたからです。

そのことが、御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって(in)造られたからです・・・・万物は、御子によって(through)、御子のため(for)に造られている(コロサイ1:15、16)と記されています。

 

ここではそのことが、「キリストは神の御姿である方」(2:6)と表現されます。それは御子キリストが父なる神と同じ本質をお持ちであるということを意味します。キリストはこの世のすべての上に立ち、すべての束縛から自由な方なのです。

その方が、「神と等しくあることを自分のために用いようとはされず、ご自分を無にして、しもべ(仕える者)の姿を取られ、人間の似姿に生まれてくださった」と記されています。ここでは、「神の姿」である方が「しもべ(奴隷)の姿」を取られたという奇想天外な対比が強調されています。

新改訳で「仕える者」と訳されたことばは、もっと直接的に「しもべ」と訳すべきでしょう。私は今頃になって、パウロはそこにイザヤ52章13節~53章の「主のしもべ」に見られた「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」という姿を思い浮かべていたという解説を読んで深く感動し、この箇所の意味が深く心に迫ってきました。

ここでは、人間となった上で、その最下層の「しもべ」となったと記されているわけではありません。事実、イエスは社会的に大工の息子という下層民ではありましたが、「奴隷」ではありませんでした。ただ、パウロのようなローマ市民でもありませんでしたので、「奴隷」にふさわしい十字架刑が宣告されることになりました。

ですから、ここでは父なる神に徹底的に従う「主のしもべ」となるという一環で、「人間の似姿に生まれた」と記されているのです。「似姿」とは、神が人を「神のかたち」として、「神に似せて」創造されたというみことばを思い起こさせます(創世記1:26)。キリストは、「神のかたち」に創造された人間を救うために、敢えて、神の御姿でありながら、人間の似姿になってくださったのです。

しかも、ここでは、「人間の似姿に生まれてくださった」と、クリスマスのことを思い起こすように訳すことができます。

 

なお、新改訳で、「神のあり方を捨てられないとは考えず」ということばは、新共同訳では「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と訳されていますが、翻訳が困難です。ここには、何よりも最初のアダムの罪が意識されています。アダムもエバも、「神のかたち、神の似姿」として、それぞれ個性を持った互いに補い合うすばらしい存在として創造されました。

それにも関わらず、蛇が善悪の知識の木の実を指して、「あなたがたがそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)と誘惑したことばに従ってしまいました。これは被造物でありながら、自分を神の立場に置こうとすることでした。

 

私たちはどこかで、人の期待に応えられないこと、何かの失敗をすること自体を「」と考えがちですが、聖書が語る最も根本的な罪とは、自分を神とすることに他なりません。アダム以来全ての人は、基本的に神の権威の簒奪者になってしまったとも言えましょう。

アダムは「神のかたち」として、神に従うべき者として創造されたにも関わらず、自分を神に等しい立場に置こうとしました。それに対し、キリストはすでに神と等しい方であられたのに、その立場を自分のために用いようとはされず、聖書が描く「主のしもべ」の姿に徹底的に従おうとされたのです。

 

キリストは人の上に立って権威をふるう代わりに、「ご自分を無にされた」(2:7)と強調されています。

昔、サイモンとガーファンクルがヒットさせた「コンドルは飛んで行く」において、「僕は、カタツムリ(snail)であるよりも雀でありたい・・・釘(nail)であるよりはハンマーでありたい・・・ここを飛び立っていったあの白鳥のように・・・でも、人は大地に縛り付けられ、この地に悲しみの声を響かせている、一番悲しい声を」と歌われました.

キリストは世の悪を打つハンマーになることができたのに、悪人から打たれる「釘」になられ、十字架で大地に縛り付けられ、悲しみの声をあげられ、それによって、釘が二つのものを結びつけるように、主は、神と人、人と人とを和解させてくださいました。

 

2.「この方は・・・ご自分を卑しくされた」

そして、「人間の似姿に生まれられた」ということばは、「人としての性質(外見)をもって現われ(見出され)」と言いかえられます。キリストは「しもべの姿」を取られはしましたが、それはイザヤ53章に従ったことでしたから、神の御姿を捨てられたというのではなく、「神の御姿」を保たれたまま、「しもべ」の姿になられたと解釈することができます。それでここでは、外見上の肉体としてのキリストは、人とまったく同じとしか見えないような状態になったと強調されているのです。

その意味は、この肉体が持つ不自由さをその身に引き受けることです。私たちは、腹が減ると力がなくなり、気力も萎え、心も不安定になります。また人から誤解されたり非難されたりすると心が痛みます。理解してくれる友がいないと耐えられない孤独感に陥りますが、主はその同じ「性質」を持たれたのです。

また、主は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)とあるように、生きることの痛みや悲しみを体験され、その中で、肉体から生まれる様々な欲望と戦い、それを制する必要すらあったのです。

 

そして何よりも、キリストが「人となった」ことで、「死ぬ」ことが可能になりました。そのため主は、御使いのように一時的に人間の姿を借りることをなされずに、私たちとまったく同じように、母胎の中の胎児の姿から成長して誕生するというプロセスを通られました。

太陽をお造りになった方が、マリヤの乳房を吸い、対話しながらことばを覚え、成長されました。何という不思議でしょう。全世界の創造主は、死の危険と隣り合わせの中に生まれ、あの貧しいヨセフとマリヤがいなければ一瞬たりとも生きて行くことさえできないひ弱な赤ちゃんとなられたのです。

 

そればかりか、主は、肉体の自然の死ではなく、「死にまで、実に十字架の死に従う」ほどまでに、「自分を卑しくされ」ました(2:8)。先の「現れ(見出され)」も、「死に従う」の「従う」ということばも分詞で、中心的な動詞は「卑しくする(低くする)です。これは先の、「自分を無にする」と同様この世の人々が期待する英雄像に真っ向から反します。

特に、十字架刑は、極悪人のしるしです。人がその言葉を聞くだけで、恐怖にふるえるほど、残酷で、あざけりとののしりに満ちた刑罰でした。イエスはそこで、人としてのすべての尊厳を奪われました。人にとって栄誉とか誇りは命よりも大切なものですが、それらを捨てられたのが、「自分を卑しくする」ということでした。

 

イザヤ53章3節には、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」と記されています。

そしてそのこと意味が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った・・・彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(53:4)と説明されます。それは、私たちのすべての罪をその身に負う「しもべ(奴隷)」の姿になって、罪の「奴隷」となっている人を救い出すためでした。

なお、十字架が全人類の罪の贖いとなり得たのは、イエスが単なる人間ではなく、神の御姿」を保たれたままの創造主であられたからです。主があなたの創造主でなければ、どうしてすべての罪を贖うことができるでしょう。

しかし、真に、「キリストは神の御姿であられ・・ご自分を無にして、しもべの姿を取られ・・・自分を癒しくし、死にまで、実に十字架の死にまで従われた」(2:6-8)のでした。

そして、そのキリストの十字架の苦しみが私たちにとっての「救い」をもたらしたということが、「彼への懲らしめが私たちに平安(シャロ-ム)をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(イザヤ53:5)と記されています。

 

このキリストの歩みにごく自然に従った人にポーランド生まれのコルベ神父がいます。彼は1930年から足掛け6年に渡り長崎を中心に働きましたが、1936年にポーランドのある修道会の院長に任ぜられ帰国します。まもなくナチスドイツがポーランドに侵攻しますが、彼はユダヤ人を助けるとともにナチスを批判するような文章を書き続けます。彼は1941年、47歳の時に捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に入れられます。

その夏、収容所から脱走者が出たことで、彼の属する隊が連帯責任を負わされ、無作為に10名の囚人が選ばれ、殺されることになります。

そのとき選ばれたガイオニチェックというポーランド人が、「私には妻子がいる」と泣き叫びました。するとすぐにコルベ神父が前に進み出て、「私が身代わりになります。私は妻も子もいませんから」と願い出ました。彼は他の囚人と共に、地下牢に閉じ込められました。そこでは食べ物も飲み物も与えずに、餓死させるという牢でした。

 

コルベ神父はそこで毅然として仲間を励ましていました。その地下牢の様子を見た人は、そこには祈りと賛美の声が響き渡り、まるで聖堂のようだったと伝えています。彼は苦しむ者とともに苦しむこと自体に使命感を覚えていたのです。

その後、二週間たっても彼は餓死しなかったので、毒薬を注射されて彼は息を引き取りましたが、そのときも彼は自分から腕を差し伸べ、天を仰ぎ見ながら、その顔は美しく輝いていたとのことです。

 

このとき助けられたガイオニチェックは、奇跡的に強制収容所を生き延び、94歳になるまでコルベ神父の生き様を証し続けました。コルベ神父はその生涯に渡ってごく自然にキリストに倣うという生き方を貫いていました。そこには、身代わりの刑罰を受けることで、他の人が生かされたという現実がありました。

そして彼の生き様自体が、驚くほど多くの人の心にキリストの姿を思い起こさせたので、カトリック教会の聖人にまでされることになりました。

 

3.「それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになりました」

 それゆえ神は、この方を高く上げて・・・」(2:9)とは、イエスが「ご自分を卑しくされた」ことに、神が応答してくださったとの意味が込められています。

これは、イエスが、「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と言われたのと同じことばの用い方です。ただ、ここでは単に「高く」ではなく、「すべてにまさって高くされた」という意味が込められた表現になっています。

 

   そして、「キリストが・・ご自分を無にされた」ということに応えて、「神は・・すべての名にまさる名を与えられた」と言われます。それは、自分を空っぽにする者を、神が最高の栄誉で満たしてくださるということです。

 

その目的が、「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:10,11)と記されます。

すべてが、ひざをかがめ・・」とは、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない・・・すべてのひざはわたしに向ってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う」という預言の成就です(イザヤ45:22-24)。

 

それは本来、父なる神が受けるべき栄光を、御子が受けるということを意味します。それによって、「父なる神がほめたたえられる」(2:11)というのです。御子が自分を卑しくされた結果、御父と等しい栄光をお受けになられました。それは、「ご自分を無にし、低くする」という生き方自体が、神のご性質を何よりも表現していたからです。

私たちはどこかで、神をまるで横暴な絶対君主かのように誤解している面があるかもしれませんが、神のご性質は何よりも、ご自身を徹底的に低くされたキリストの生き方に現されているのです。だからこそ、キリストは神が受けるべき栄光を受けられたのです。

そればかりか、最後に、「地の下にあるもののすべてがひざをかがめ・・『イエス・キリストは主である』と告白し・・」(2:10)と記されているのは、サタンさえもイエスの前にひざまずくという宣言です。

 

心に大きな不安や葛藤を抱え、自分を責めてばかりいる方にお話をすると、よく、「このままで良いんですね・・・」という反応が返ってきますが、私は、「そのままの姿でイエス様について行ってください」と言い変えるようにしています。それは、心の目を、自分ではなくキリストの姿に、神でありながら、奴隷の姿になるほどにご自分を無にされ、十字架の死に従うまでにご自身を卑しくされた姿に向けていただくためです。

それは、這い上がろうとする代わりに、人の下に置かれることを願う生き方です。それは人と自分を比べた劣等感のようなものではなく、高い崖の上からハング・グライダーで飛び降りるような思いかも知れません。しかし、そこには、何という自由と喜びが待っていることでしょう!

それは、自分の肉の欲望に駆られた冒険ではなく、キリストの生き方に習う冒険です。あなたは自分の無力さや汚れに圧倒されるでしょうが、そのただ中で、自分のうちに働く神の力を体験できます。

 

ペテロの手紙第一2章9節にはイエス・キリストに結びつく者を、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と呼んでいます。

王である祭司」とは、ひとりひとりにキリストの御名によって、ユダヤの大祭司を超える立場が与えられ、恐れることなく神の前に出ることができるようになったことを意味します。しかも「」であるとは、ダビデと同じように大胆に神に祈り、神の使命に生きることができることを指します。

あなたはダビデでありアロンになるのです。それは私たちのうちにキリストご自身が聖霊によって住んでくださっているからです。しかし、それは私たちが世の人々に対して自分を誇ることができるようになるためではなく、キリストに倣って、「不当な苦しみを受けながらも・・・悲しみをこらえ・・・ののしられても、ののしり返さず…正しくさばかれる方に任せる」という生き方を貫くことです。

あなたに様々な賜物が与えられているのはそれによって、人との戦いに勝つためではなく、それを用いて他の人々、また社会全体に仕えることができるためなのです。

 

 この神秘をマルティン・ルターは「キリスト者の自由」で次のような逆説として表現しました。

 

キリスト者はすべての上に立つ自由な主人であって、何人にも服従しない。

 キリスト者はすべてに仕えるべきしもべであって、すべての人に服従する。」

 

私たちは、創造主なる聖霊を受けているので、いかなる権力の奴隷になる必要もありません。私たちは神の直属の部下です。ただ、それはこの肉体において、キリストに倣って、すべての人に仕えるためであるというのです。

 

 なお、「人に仕える生き方」というのを、「顧客に仕える」と言えば、すべての商売の原則にも適用できるほどの世の常識かもしれませんが、仕事では何よりも成果が問われます。

しかし、この生き方とはイザヤ52章13節~53章の「主のしもべ」に倣うことに他なりません。そこで強調されているのは、人の誤解や中傷に耐えながら、ただ神のみこころに従い、人の悲しみや痛みに寄り添って行く歩みです。そこで問われるのは、より多くの人々に影響力を発揮し、人を動かすことができたという結果や成果ではなく、ただひとりに寄り添うという生き方です。

 

それはたとえば、人の悲しみにただ静かに耳を傾けること、また親の介護であったり、子どもの心の声を聴くことです。ただし、それは子供を王様にしたり、人を自分に依存させたり、人を振り回す人の言いなりになることではありません。

大切なのは、人の評価ではなく、神の眼差しをいつでもどこでも意識しながら生きることなのです。そして、神はあなたの労苦に報いてくださいます。それはキリストを高く引き上げてくださったことと同じです。

 

 私たちは人の価値がその生産性で測られるような世界に生きています。しかし、人の価値は、どれだけ偉大なことを達成できたかではなく、どれだけキリストに倣って、自分を低くして、神と人とに仕えたかで決まるのです。

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2015年12月13日 (日)

エレミヤ29章,31章「人の思いを超えた主の救いのご計画」

エレミヤ2931章「人の思いを超えた主の救いのご計画」

                                                       20151213

   ユダヤ人は歴史上、何度も想像を絶する苦難に会ってきました。神がご自身を知らせるために選ばれた民が、なぜ・・・とも思います。しかし、苦難はすべて神の御手の中で起こったことで、それを通して新しい世界が開けてきたという現実も確かにあります。

そのことを主は預言者エレミヤを通して、「わたしはあなたがたのために立てている計画を良く知っているからだー主の御告げーそれはわざわいではなて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と語っておられます。

そして、クリスマスのたびごとに、イエスの誕生に伴い、ベツレヘムの二歳以下の男の子がヘロデ大王に殺された記事が思い起こされます。そこでも、「そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した(マタイ2:17)と、その後の3115節が引用されます。

 

日本政府の命令に背いて6,000人のユダヤ人難民に「命のビザ」を支給した杉原千畝氏の働きが映画化されました。彼ら夫妻はロシア正教会に属するクリスチャンで、夫人も後に「人間にとって一番大切なのは『愛と人道』だといつも思っていました」と記しています。

19407月、ソ連占領下のリトアニアの領事館に、ビザを求めたユダヤ人が殺到してきました。彼は後に、「私は外交官としては、外務省に背いて間違ったことをしたのかもしれない。しかし、私を頼りにしている何千人もの人を、見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だったのだね・・・」と夫人に話したとのことです。彼は第二次大戦後外務省を退職し、その後、自分のとった行動がユダヤ人にどのような意味を持ったかなど知りませんでした。助けられたユダヤ人の一人が、杉原氏を発見したのは戦後24年も経ったときで、その時になって初めて、杉原氏も自分の働きが豊かな実を結んだことを知りました。

 

それにしても興味深いのは杉原から決して有効とは言えないビザを受け取ったユダヤ人たちのその後です。杉原は彼らをシベリア鉄道でロシアの東端のウラジオストクまで送る手配はできましたが、その後のことは全く目処が立っていませんでした。しかし、当地の領事も杉原の無言の思いを受け止め、独断でユダヤ人たちを日本の福井県の敦賀港に送ります。敦賀の人々は彼らを優しく受け入れ、汽車でユダヤ人社会があった神戸等に送られます。

杉原のビザには2週間しか日本に滞在できないはずでしたが、行き先の決まらない人は太平洋戦争が始まる半年前まで滞在が許され、日本占領下の上海に送られました。そのひとりで後にアメリカに移住できたレオン・ランチャートさんは、神戸での生活について、「あそこで過ごした9ヶ月間が私の一生で一番静かな心休まる時だった」とまで記しています。それはそこの多くの日本人が、ユダヤ人難民を暖かく援助してくれたからとのことです。

杉原氏の行動は、確かに英雄的ですが、彼の決断を知らずに応援した多くの日本人がいたからこそ、杉原氏の働きが今も多くのユダヤ人から感謝されていることを忘れてはなりません。

ところで、映画では船に乗ったユダヤ人難民が敦賀の山々を見て感動し、ハ・ティクヴァ(希望)という曲を合唱します。歌詞は以下の通りです(私訳)

 

今なお心の奥底からユダヤのたましいがうめき、はるか東方の岸へ、シオンへと目が引き寄せられる。

我らの望みはまだ失われてはいない。

その望み、二千年来のものは、我らの地で、自由の民として生きること、シオンとエルサレムの地において

 

彼らは東へと進み続け、日本の山を見ながら、そこにエルサレムへの希望を見ました。その希望は日本滞在中にさらに豊かにされます。戦後間もなくユダヤ人の独立国家が誕生し、その歌が現在のイスラエル国家になっています。

 

もちろん、歴史を一面的に見てはなりません。現在のアラブ難民の問題を考える時、この歌を無批判に口ずさむことも危険かもしれません。

ただ、この歌は、ナチスの強制収容所の絶望の中にも希望を見出させる力となったことは事実です。その背後にエレミヤ2911節があるとも言えましょう。それは、私たちすべてにとっての希望の源泉です。

 

1.「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」

29章には、預言者エレミヤが、バビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司や預言者たちに向けてエルサレムから書いた手紙のことが記されています。すでにバビロンには、「エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たち」(29:2)が住んでいました。

そこで、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」は、「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」と呼びかけ(29:4)、バビロン捕囚が主のみわざであることを強調します。

そして彼らに早期の帰国を望む代わりに、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み・・・そこでふえよ。減ってはならない・・・その町の繁栄(シャローム)を求め、そのために主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄(シャローム)は、あなたがたの繁栄(シャローム)になるのだから」(29:5-7)と告げます。不本意に異郷の地に連行された人々には受け入れがたい言葉だったことでしょう。

 

 そして主は、「あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな」(29:8)と言います。偽りの預言者たちは、人々の期待するような言葉を伝えますが、それは主から与えられた言葉ではありませんでした。

私たちも自分の期待に反した地に住み、期待に反する働きをせざるを得ないことがあるかも知れません。そのようなとき、都合の良いことばに耳を傾ける代わりに、今置かれている場の祝福とその寄留の地の繁栄を望むことが大切ではないでしょうか。

 

   そのような中で主は、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)という具体的な希望を告げられます。あなたが今、悲惨な状況の中に置かれているなら、どのように感じるでしょう。「それでは遅すぎます!」と言いたくなるのではないでしょうか。

そんな絶望感を味わう人に向かって主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」(29:11)と言われます。ここで主は、「わたし」ということばを強調しながら、「わたしは知っている」、また、「わたしが立てている計画」と語りながら、ご自身がすべてのことを支配しておられるということを確信させようとしておられます。

しかも、そのことばは、天地万物の創造主であられる「主(ヤハウェ)」ご自身による「御告げ」であると記され、「それはわざわいではなくて、平安(シャローム)を与える計画であり、あなたがたに将来と希望(ティクヴァ)を与えるためのものだ」と解説されます。ユダの民にとって、バビロン捕囚は「わざわい」としか思えませんが、それは「平安(シャローム、平和)を与える計画であり、彼らに「将来と希望を与える」ためのものであるというのです。

イスラエルの民は経済的な繁栄の中で、それらすべてを与えてくださった神のみわざを忘れました。それで主は、彼らに苦しみを与えることによってすべてが神の恵みであることを心から悟ることができるようにと導かれたのです。

 

   人々は主が御顔を隠しておられるように感じますが、主が与えてくださる「将来と希望」とは、「わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる(29:12-14)と言われます。

旧約聖書の多くのことばはこのはるか前から記されていましたが、現在のような形に整えられたのは、このバビロン捕囚の時期であるとほぼすべての学者が認めています。彼らはこの悲惨を通して、主(ヤハウェ)を「見つけ」、一切の偶像礼拝を退ける「神の民」となりました。

 

そればかりか、主は、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集め・・・あなたがたを引いて行った先から・・・帰らせる」(29:14)と言われます。

この預言がなされたのはエルサレム神殿が破壊される約七年前のことですが、そのときすでに少なくとも二回に渡ってイスラエルの民の多くの者がバビロンに連行されていました。第一次捕囚は紀元前605年ですが、それから約七十年後、バビロン帝国はペルシャ帝国によって滅ぼされ、多くのイスラエルの民は約束の地に戻ることができました。それはまさに、この預言の通りでした。だからこそ、バビロンへの服従ばかりを説いた預言者エレミヤが今も尊敬されているのです。

 

   一方、エレミヤは15-20節で、エルサレムに残されていたユダヤ人は、誤った希望に惑わされてバビロン帝国に逆らい、想像を絶する苦しみに会うと警告します。さらに、主は、安易な救いの希望を語る偽預言者たちに対するさばきを宣告されます (29:21-32)。

偽教師は苦しみに人を成長させ、作り変える力があることを忘れさせます。苦しみを正面から受け止め、それを成長の機会とされるように祈ることの方が、はるかに大切なのです。

 

2. 「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が」

31章1節の「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」(31:1)とは、エレミヤの百年余り前にアッシリヤ帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルに対する希望です。

彼らは遠い国々へと強制移住をさせられていますが、そこで、「主(ヤハウェ)は遠くから、私に現れた」というパーソナルな出会いを体験し、主ご自身による、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」という語りかけを聞くというのです。

「誠実」とはヘブル語の「ヘセッド」の訳で「契約を守り通す愛」のことです。

 

   その回復の希望のことを主は、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し・・・再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる」(31:4、5)と言われます。

 

   そのような文脈の中で、31章15節では、「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」と語られます。

ラマ」はエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(40:1)。ラケルはヨセフの母で、彼女からエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれましたから、北王国の悲しみがラケルによって表現されているのだと思われます。

 

この箇所は、イエスの誕生の際、ヘロデ大王がベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をみな殺したという悲惨な出来事が、この預言の成就であるとして引用されます(マタ2:17,18)。まるで神が幼児たちの死を望んでいたかのようにも受け取られかねない表現です。

ただ、これは、かつてのモーセの誕生を思い起こさせることでもあります。あのときも、生まれたばかりのイスラエル男子がナイルに投げ込まれて殺される中で、モーセひとりがエジプトの王の娘によって「水の中から・・・引き出」されました(出エジ2:10)。神はその悲劇を通して、モーセが将来のイスラエルの指導者となるように導いておられました。

同じくイエスの誕生にも、民の「嘆き叫ぶ声」(マタイ2:18)が伴いましたが、それこそ赤子のイエスをイスラエルの救い主として育てるために必要なステップであり、神がイスラエルの民の悲しみを上から見下ろす代わりに、悲惨と不条理のただなかに降りてこられたという意味を持っています。

 

ここでも、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・あなたの将来には望み(ティクヴァ)がある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)と告げられます。

それは先に主が、「わたしの計画は・・・あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(29:11)と言われたことと同じです。

 

なお、エレミヤ預言はバビロン帝国の滅亡によってすべて成就したわけではありません。イスラエルの民はなおもペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下で苦しみ続けます。この600年後のイエスの時代にも、ユダヤ人はローマ帝国の圧政のもとで苦しんでいました。

そのとき彼らはイエスのことばを退け、武力闘争で独立を勝ち取ろうとして、再び国を失います。そして、今度は二千年間近くの流浪の民となり、今度は、同じ主(ヤハウェ)を信じるキリスト教徒から厳しい迫害を受け続け、ついにはホロコーストにいたります。

ヨーロッパのキリスト教会はようやくその歴史を深く反省するようになりましたが、同時に、イエスのことばを退けたユダヤ人にも責任があります。ただ、彼らも自分たちの歴史を反省しながら、謙遜にされ、神の救いを、忍耐を持って待つようになったとも言えます。ですから、戦後のイスラエルの国家の回復の中にも、エレミヤ預言の成就を見ることができると言われることもあります。

 

3.「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」

そして主は、今、裏切りの民、エフライムに対するご自身のお気持ちを、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と描かれます。

ここには、反逆の民を懲らしめながら、ご自身の「はらわた」を震わせる神の痛みが見られます。ここから、日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」という名著が生まれます。それはご自身に背き続ける者のために、ご自身の御子を十字架にかける神の痛みでもあります。

 

ですからここでは、それに続いて、主は、「おとめイスラエルよ。帰れ・・・裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか」と彼らの回心を訴えます(31:21)。そのときに起こる不思議が、「主(ヤハウェ)は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう(31:22)と預言されます。

「強い男が弱い女を抱く」というのが当時の常識ですが、神の力が、弱さの中に表されるとき、この逆転が生まれます。イエスはひ弱な一人のマリヤという女性に抱かれて成長しました。そして、今も、多くの男性の信仰は女性によって守られ支えられています

 

   そして、このエレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。

それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。

 

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。

律法の核心である「十のことば」「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自らのろいを招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。

もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と謙遜に認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。

 

そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(31:34)というみことばが実現しつつあります。

私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議に、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたということがなかったでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。

そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。

私たちは御霊の働きを誰の目にも霊的な立派な人に変身できることと考えがちですが、29章11-13節においても「わたしを見つける」ことと記され、この箇所においても「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。御霊は私たちに罪の赦しの福音を確信させるものです。

   

イスラエルの民はバビロン捕囚を通して神の民として整えられました。黙示録17章ではお金の力で国々を支配する「大淫婦」のことが「大バビロン」として表現され、その支配のもとで神の民が苦しむ様子が描かれます(4-6)

つまり、バビロン捕囚は今も続いているとも言えます。しかも、それによって社会不安が激しくなると「獣」と呼ばれる独裁者が現れ「大淫婦」を滅ぼすと記され(16)、その独裁者は「六百六十六」で象徴されます(13:18)

ユダヤ人を迫害したヒトラーやクリスチャンを最初に迫害した皇帝ネロもその悪魔の数字を持つ者とも言われることがありますが、そこでは小羊イエスがこの世の権力に打ち勝つと約束されています。

実際、歴史上に現れた独裁者はいつも短命であり、その苦難の後に、神の民の祝福が訪れるということの繰り返しでした。バビロン捕囚を通して決して偶像を拝むことのない神の民が生まれまれました。そして、最近は、大バビロンよりさらに恐ろしい悪魔の数字を持つ独裁者ヒットラーの大迫害を通して、二千年来の悲願であったユダヤ人国家が生まれました。

 

私たちもこの世界では大バビロンや独裁者のもとで、吹けば飛ぶようなちっぽけな者として、苦しめられることがあります。しかし、天地万物の創造主である神の御子ご自身が、ひ弱な赤ちゃんとなって、私たちの仲間になってくださいました。イエスの生涯が全能の父なる神の御手の中で導かれたように、私たちの生涯も守られています。

ただそこで求められるのは、お金や権力という人間的な性急な解決を求める代わりに、イエスに倣って不条理と悲惨の中にも神のご支配を認め、置かれたところで神と隣人とを愛し続けることです。

たった90年でバビロン帝国は滅びましたが、個人の独裁者の支配はさらに短いものです。そして、神の民は迫害に会うたびに豊かにされ、貧しさとひ弱さの中にさえ、栄光に満ちた神のご支配を発見することができます。それこそが創造主が赤ちゃんになった神秘です。

残念ながら現在のイスラエル国家は、神のあわれみによって建国できたにも関わらず、この神秘を理解せず、今度は軍事力ばかりに頼って国を守ろうとしているのかもしれません(他国も同じですが・・・)

 

イエスはそのような中で、「心()の貧しい者は幸いです」と語りながら(マタイ5:3)神が喜ばれる信仰の基本は、自分の無力さと無知とを心の底から味わい、神にすがることにあると言われ、罪人のままの私たちを神の子として受け入れるために十字架にかかってくださいました。

そして今、いつも自己正当化に走ってしまう私たちを神の前に謙遜にし、イエスの生き方に習うことができるようにと、創造主ご自身である聖霊が与えられました。

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2015年12月 6日 (日)

イザヤ7章ー9章7節「神が、私たちとともにおられる」

イザヤ7117節、967節 「神が、私たちとともにおられる」

2015126

  第二次大戦中のオランダで、コーリー・テン・ブーンは家族と協力してユダヤ人の隠れ家を提供しましたが、同胞に密告されて強制収容所に送られました。彼女は最初、独房に入れられ、地獄の恐怖を味わいました。拷問を受ける恐怖に圧倒され、彼女はそこで、「主よ。こんなことに耐えられるほど私は強くありません。私には信仰がありません」と叫びました。

そのとき、ふと、一匹の蟻が壁の小さい穴に逃げて行くのが見えました。そこでふと、小さな蟻に隠れ家を備えてくださる神は、自分にとっての隠れ家となってくださると分かりました。

彼女はこのとき53歳で、それまでずっと主イエスのことを知っていると思っていましたが、このとき改めて、「主の光はどんな暗闇よりも強いことを真に体験し、理解し始めた」と記しています。

 

彼女は、その後、尋問に呼ばれます。取調官は絶大な権力を持っていました。彼の目的は、ユダヤ人を匿う協力体制を聞き出すことでしたから、やさしく彼女のそれまでの人生を聞き出そうとしました。彼女は知的障害者のためのバイブルクラスを熱心に行っていたことを話しました。彼は、「何という時間の浪費だ」と言いました。彼女は、「もし、あなたがイエス様を知ったら、その意味が分かります」と答えます。

彼は怒ってコーリーを独房に戻しますが、翌日、彼女を呼び出したとき、「昨夜は眠れなかった。俺はイエスについて何一つ知らない…」とつぶやきました。それに対し、彼女は率直に、「イエス様はこの世界に入って来た光です・・・あなたの人生に暗黒はありませんか」と尋ねます。彼は、「俺の人生に光など全くない。俺はこの仕事が嫌いだ」と言います。彼女は優しく彼に、福音を語ります。

その後、彼は、コーリーの家で発見された書類を見せます。そこにはユダヤ人を守るために協力関係を築いていた人の名前と住所が記されていました。それは次に強制収容所に連行される人のリストになり得ます。ところが彼は、その書類を手に取って、そこにあったストーブの中に入れて燃やしてしまったのです。

彼女は、取調官に主イエスの愛を証しすることで、同胞のいのちを守ることができました。彼女は、この体験を通して、「勇気とは、祈られた恐れである(Mut ist Angst, die gebetet hat)」という霊的な真理を証ししています。

 

  私たちは、何でも手軽に手に入る時代に住んでいますが、「神が、私たちとともにおられる」ことの恵みは、順調な人生ではなく、自分の無力さに圧倒される試練の中でこそ腹の底に落ちる真理です。インスタント社会における主の弟子としての歩みをともに考えてみましょう。

イザヤのメッセージは、気の遠くなるような大きなスケールのもので、当時の人々の幻想を破り、あらゆる妥協を退ける強さに満ちていました。そのことばは恐ろしいほどに悲観的に見えながら希望に満ちています。破壊的なようでありながら建設的です。争いを助長するようで、平和をもたらします。その逆説を味わってみましょう。

 

1.「気をつけて、静かにしていなさい…」

  イザヤ7章の記事は、紀元前735年頃のことで、北方からアッシリヤ帝国が北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)に迫ってくる時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。

この危機にイスラエルの王レマルヤの子ペカとアラムの王レツィンは南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズは拒絶しました。それでペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました(7:1)

 

そのような中で、エルサレムはその攻撃を差し当たり退けたものの、「エフライム(サマリヤが中心)にはアラムがとどまった(7:2)とあるように、二国連合の攻撃はなお続くという政治状況下で、アハズ王と民の心は、「林の木々が風で揺らぐように」、激しく動揺しました(7:2)。そしてその時、主はイザヤを通してアハズに語ります。

 

74節には、「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません・・・心を弱らせてはなりません」という三つの命令が続けられています。

それはこの危機的な状況を人間的な知恵で解決しようと動き回る代わりに、まず心を落ち着け、恐れを祈りに変え、心を弱らせずに神の救いを待ち続けるようにとの勧めです。

 

このときアハズは目先の恐怖に圧倒され、何と北の凶暴な大国アッシリヤに助けを求めていました。それは近隣のチンピラにおびえて広域暴力団に助けを求めるのと同じことでした。一瞬の息をつけても逃げ場のない恐ろしい支配が待っています。現実を直視するなら、エルサレムに攻めかかってくるふたりの王の燃える怒りなど、「木切れの煙る燃えさし」(7:4)のようなもので、真の脅威こそ、ユダが助けを求めてしまったアッシリヤ帝国でした。

 

ふたりの王はエルサレムに自分たちに従順な傀儡政権を立てようとして攻めてきていますが、それに対し、「神である主(原文「アドナイ(主人)であるヤハウェ」)」は、「そのことは起こらないし、ありえない」と断言されました(7:7)。

 

そればかりか、「六五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民でなくなる(7:8)と、北王国イスラエルの中心の民が消えうせると預言されました。これはアッシリヤ王がサマリヤを滅ぼしてその住民を遠くに移したばかりか、首都陥落から約50年後の紀元前671年には別の民族をこの地に移住させ、イスラエルの帰還を不可能にしたことを指します。

 

つまり、ふたりの王の計略など、アッシリヤの脅威に比べれば無視して良いほどのものだというのです。実際、その後、北の十部族は歴史の中から消え去ってしまわざるを得なくなりました。

今も、しばしば恐れに捉われた人は、そこから抜け出すことを急ぐあまりに、インスタントな解決を求め、より大きな恐怖を自分で招いてしまうことがあります。

 

私たちの生活にも激しく動揺せざるを得ない危機が訪れます。そのとき、全能の神に祈り求めることさえ忘れるかも知れません。しかしそれこそ「祈り」を教えるための学校です。なぜなら「もう自分の力では解決できない・・」と思うときこそ、祈りが真実になるからです。そこでは幼子が親に訴えるように、自分の葛藤や不安や怒りを、正直に神に訴えることが許されています。

詩篇4610節では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ(文語訳は、「なんじらしづまりて、われの神たるを知れ。」)と記されています。パニックに陥ったとき、動き回るのを「やめる」ことが、しばしば何よりも大切だからです。

 

2.「インマヌエル預言」

   このとき、主はアハズに、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない(7:9)と言われました。これは、「信じるか滅びるか、ふたつにひとつだ」という信仰の決断への招きです。

ただし、同時に主は、信じることができないアハズに驚くべきあわれみを示されました。それは、ご自身を、「あなたの神、主(ヤハウェ)である」と紹介されながら、「しるしを求めよ」と招かれたことでした(7:11)

しかも、そのしるしは、「よみの深み、あるいは、上の高いところから」の、超自然的なものだというのです。その目的は、不信仰な彼に信仰を生み出させることにあります。それは後に、アハズの子ヒゼキヤが日時計におりた時計の影を十度あとに戻してもらったような奇跡(イザヤ38:3)によって約束が保証されることを指します。

 

    しかし、アハズは、「私は求めません。主(ヤハウェ)を試みません(7:12)と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です。しかし、「主を試みる」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。

それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから・・」と語っていたのではないでしょうか。

彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。これは、私たちの場合も同様です。「信じます!」とは、「私は自分の生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。

多くの人の真の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

 

   アハズが神ご自身による信仰への招きを拒絶したとき、イザヤは、「あなたがたは…私の神まで煩わすのか(7:13)という表現で彼を非難しました。

ここには、神は、イザヤの神ではあっても、もはやアハズの神ではないという意味が込められています。それは、アハズが、預言者たちの忍耐を軽蔑するばかりか、神の忍耐までも軽蔑したからです。

 

そしてここでの、「それゆえ…」(7:14)とは、信仰への招きを拒絶したということを前提としてという意味で、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、意外にもそれは、もはや信仰を生み出すしるしではありません

見よ。処女がみごもっている…」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。マタイ124節では、この箇所が引用されながら、処女のマリヤが救い主である男の子を産むことを、婚約者のヨセフが納得する様子が描かれます。

 

今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに・・」という人が後を断ちませんが、すでに永遠の神の御子である方が人間の身体を取るためには処女を通して生まれる必要があるというのは論理的な必然です。しかも、そこには、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられたことによって、神が悩む者の仲間となってくださったという意味が込められています。

生まれた子は、「インマヌエル」と名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。実際、この七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

 

   なお、715-17節には、意外にも、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が遅れることが三つの観点から示唆されます。その第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです(7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の、貧しさの中に生まれるというのです。

そして、第二に、「まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らない」という、赤ちゃんになりもしないうちに、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ(7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。

そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす(7:17)ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わるというのです。

 

   神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます。

事実、イエスを身ごもったマリヤは、大頌栄(マニフィカート)で、「主は・・心の思い高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせる(ルカ1:51-53)と歌っています。それは、もし、人が傲慢になるなら、主ご自身から裁かれ、私たちがへりくだるなら、主ご自身が引き上げてくだるということです。

 

3.「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」 

   718節~25節には、「その日」という名のもとに、アッシリア帝国がもたらす災いが述べられます。81-4節ではイザヤの次男の誕生と合わせてアッシリヤの攻撃が示唆されます。

86節の「この民・・・」とは北王国イスラエルの民を指し、彼らは、「シロアハの水」として表現されるエルサレムを「ないがしろにして」、勝手な礼拝の場を作り、今はアラムとの連合によって北の脅威に対抗しています。自分たちの国を守ろうとしてかえって神の怒りを買い、墓穴を掘っているのです。

 

その結果、北の大河ユーフラテスを支配するアッシリヤ帝国からの洪水が北王国イスラエルの地を呑み込み、ついには南王国の「ユダにまで流れ込み、押し流して進み、首にまで達する(8:8)、つまり、ユダも溺死寸前になるというというのです。

しかし、そのとき「インマヌエル。その広げた翼は、あなたの国の幅いっぱいに広がる」とあるように、ユダはインマヌエルの国、つまり、神がともにおられる国として、広げられた神の御翼の下で生き延びることができるという希望が記されます。つまり、ここには北王国が滅亡することと、南王国ユダが、ぎりぎりのところで守られることの二つが預言されています。

 

89節の「国々の民」とはイスラエルの神ヤウェを知らない人々を指しています。彼らは自分の力を誇り、ヤウェを侮り、神の国を滅ぼそうとしますが、そのはかりごとは成功しません。なぜなら、「神が、私たちとともにおられるから(8:10)と描かれます。これはヘブル語で「インマヌエル」と記されています。

つまり、7:14,8:8,8:10で三回、「インマヌエル」が用いられながら、神の救いはこの世の人々が理解できない形で実現するということが預言されているのです。

 

これらの不思議な、いつ実現するかもわからない気の遠くなるような約束に対するイザヤの応答が、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」(8:17)です。それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なお、この方に望みをかけるという意味です。

続けてイザヤ自身が、「私と・・私の子たちは・・・しるしとなり、不思議となっている」(8:18)と告白します。これは、主が信じることを拒絶したアハズや同じ立場をとる人々にとって、イザヤとその子の生き方こそが証しになるという意味です。

 

不思議にもヘブル211-15では、このイザヤの告白がイエスの告白となっています。イエスご自身が、死の苦しみに向かう中で父なる神への信仰を証しながら、「わたしは彼に信頼する」と告白し、神であるのに私たちと同じ不自由な「血と肉とを」持つ身体となりながら、ご自身に従う弟子たちのことを、「神がわたしに賜った子たち」と愛おしんでくださいました。

 

イザヤは救い主の先駆けとして、人々から拒絶され、あざけられました。また、救い主ご自身も、孤独な歩みをする者の仲間となるために、「ひとりの処女」から敢えて誕生されました。

それに思いを馳せるとき、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお、「この方に望みをかける」ことができます。

 

そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの神の子たちが従うようになります。つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなくキリスト者の確信です。

 

4.「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる」 

ヘブル語聖書では821節から91節はひとつのまとまりとして記されており、それはアッシリヤ帝国によってもたらされる苦しみの時代を指します。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、イズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地でガリラヤ地方と呼ばれます。つまり、ここはアッシリヤによって「異邦人」の地とされてしまった絶望の地も、「光栄を受ける」という約束なのです。

救い主は自業自得で苦しみを招く人々に希望の光を見せてくださいます。そのことが、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った(9:2)と美しく表現されます。それは、「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた」という繁栄の時代の登場を予告するものです。

 

その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる(9:6)として預言されます。これは、714節の「インマヌエル」の誕生のことを指します。両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。

当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決すると期待していましたが、神のご計画はそうではありませんでした。そして救い主の名はここでは、「不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。最初の「不思議」は独立した名詞としても解釈できます(士師13:18)。8:18でも「不思議となる」と言われました。また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。

さらに、「永遠の父」とは、心から信頼することができる権威者であるという意味です。「平和の君」とは、救い主がこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。それはイザヤ書11章に記されているように、狼と子羊、雌牛と熊、乳飲み子とコブラがともに生きるという(6-8節)、完全な平和をこの方が実現してくださるからです。

 

なお、ヘブル語の時制は英語とは全く違いますから、9章6節は「みどりごが…生まれた」と訳すことも可能で、多くのユダヤ人はこれをイザヤの預言の前に既に誕生しているアハズの子ヒゼキヤを第一義的には指していると理解します。なぜなら、この預言の文脈は、直接的にはアッシリヤに占領された国が、ダビデ王家の子によって解放されることを示しているからです。

事実、このイザヤ預言から三十年余り後、ヒゼキヤは、預言者イザヤやミカの声に聞き従って、神に救いを求めました。神は、天から御使いを送って十八万五千人のアッシリヤ兵を打ち殺し、包囲軍を退却させました。旧約の預言は何度にもわたって成就するという性格を持ち、大切なのは、その預言に現された霊的な真理を知ることです。

それによると、「神が私たちとともにおられる」という現実は、エルサレムがアッシリヤ軍の大軍勢に取り囲まれて絶体絶命の危機に陥るまでは分からないということです。また、コーリー・テン・ブーンの例では、仲間の密告でドイツの強制収容所に入れられるまでは、本当の意味では実感できなかったという意味です。しかし、大切なのは、神の救いは、神の時に、必ず来るということです。

 

私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。そして、それは「神の平和」という完成に向かっているのです。

その神の国の成長の様子が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」(9:7)と描かれます。そして、それをもたらす救い主は、「ダビデの王座について」と、今滅亡しようとしているダビデ王国を再興する方として描かれます。

 

最後に、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれを成し遂げる」と、それが父なる神の断固たる意思であることが改めて強調されます。つまり、主は、自業自得で失われようとしている国を、まったく新しい形で建て直してくださるというのです。

このキリスト預言がこの後、七百年後に実現しました。ですから、私たちの世界は今、平和の完成の途上にあるのです。

 

   私たちの人生には、神がご自身の御顔を隠しておられるようにしか思えないことがしばしば起こります。しかし、それはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。

ただし無神論者が揶揄するように、キリスト者は幻想を見ながら生きる者ではありません。神の平和の実現という真のビジョンを見ながら、その方向へと旅をしている者たちです。御顔を隠していると思われる主に、なお信頼し続けているのがキリスト者の不思議です。それはひとりひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられ、置かれている場で、生きる意味と喜びを見出し続けているからです。

 

アハズのような夢のない現実主義者は目先の解決に走り、より大きな悲劇への道を開きます。また反対に、夢があっても人間社会の罪の現実を知らない者は悲劇を生み出します。それはたとえば大きな夢を人々に抱かせた20世紀の共産主義革命の結末を見れば明らかです。

私たちは夢を掲げた現実主義者です。今、目の前に置かれている課題を、神の壮大な救いのご計画の視点から余裕を持って見直し、神のタイムテーブルの中で一歩一歩、着実に進みたいものです。

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