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2016年1月31日 (日)

民数記1-4章「勝利を得るための交わり」

 

民数記1-4章「勝利を得るための交わり」

                                                   2016131

日本では、「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」ということばが謝罪の定型句になりがちです。そこにあるのは、人々に不安や混乱を与えること自体が、重大犯罪であるという感覚です。

それからすると、SMAPやベッキーさんの謝罪会見も、最近の大臣の辞任会見も意味が分かります。しかし、そこでは、本当の問題が何だったのかは曖昧なままです。日本の将来を左右するほどの人が、国会運営を混乱させるという理由で辞めて良いのかとも思いますが、日本では平穏を乱すこと自体が重大犯罪なので致し方ないのかもしれません。

しかし、そのように見せかけの平安を守ろうとすること自体が、問題の本質を曖昧にしたまま、社会全体を誤った方向に動かしたという日本の歴史があるのではないでしょうか。

 

しかし、聖書では、この世界には不安や混乱が日常茶飯事であるとの前提に神の民の物語が描かれています。民数記という書名は、人口調査にばかり目を向けたようなギリシャ語訳のタイトルから来ています。しかし、ヘブル語のタイトルは「荒野においてで、「(ヤハウェ)はモーセに語られた」という書き出しに続く単語から取ったものです。そして、この方がこの書全体の意味を的確に表していると言えます。

この書はイスラエルの民が約束の地に入る前の荒野の四十年の歩みの記録だからです。私たちも「新しい天と新しい地」に入れられる前に「地上では旅人であり寄留者であることを告白し(ヘブル12:13)ながら、荒野のように困難な地で生きる必要があります。不安と混乱はあるのが当たり前なのです。

そして彼らが荒野で誘惑に負けて遠回りせざるを得なかったように、私たちもときに誘惑に負けます。しかし、イエスが、公生涯の初めに荒野に導かれ、40日間の悪魔の誘惑を受けたことは、イスラエルの民の体験をやり直す意味があります。

イエスは、その誘惑に勝利され、今、ご自身の御霊を私たちに授けてくださいました。

 

1.すべて軍務につくことができる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない

  イスラエルの民はエジプトから解放された三ヶ月目にシナイ山のふもとで律法を受けました(出エジ19,20)。その後、彼らは金の子牛を作って拝むようなことをしますが、神に赦され、「第二年目の第一月・・第一日に幕屋は建てられ」ます(出エジ40:17)

この書は、それから一ヵ月後の「二年目の第二の月の一日」に、「会見の天幕で告げられた」ことから始まります。レビ記の中心はその一ヶ月間に与えられた啓示でしたが(レビ27:34)、ここではそれからの信仰生活の現実が記録されます。

それは具体的な時間と空間の束縛の中に生きる私たちが日々受ける誘惑にどう対処するかについての重要な示唆となります。

 

主はモーセに、「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ・・二十歳以上の者で、すべて軍務につくことができる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない(1:2,3)と命じました。その上で、「部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が」、モーセとアロンととともにいて、その「助手」となると言われながら、各十二部族の「かしら」である十二名の名が記されます(1:4-16)

その上で、「第二月の一日に全会衆を召集し・・・氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した(1:18)というのです。興味深いのは、主ご自身が各部族のリーダーを、名をあげて任命したということと、イスラエル全体の指導者であるモーセ自身がそれら族長の助けを得て、「ひとりひとり…数えて」と記されていることです(1:18,19)

大きな集団になると、ひとりひとりの名が忘れられがちですが、主の目にはひとりひとりが大切であるばかりか、主ご自身がリーダーの名を呼んで立てられたというのです。

組織においてはリーダーの資質が何よりも大切です。現代の多くの教会では、指導者に立てる人を会衆全体の意向を尊重しつつ選びますが、これを世の民主主義と混同してはなりません。これは、主のみこころがくじに現される代わりに、ひとりひとりの投票に現されると信じていることであって、指導者を立てるのは主ご自身であるということに変わりはありません。

しかも、指導者に求められる資質は何よりも、群れのひとりひとりを、統計数字としてではなく、「名をひとりひとり数え」るということです。

 

聖書の物語はいつでもパーソナルなものです。そこではいつも、「ひとり」に注目されます。それはここに記される軍隊組織においても同じです。

たとえば太平洋戦争の際、日本陸軍はひとりひとりの兵隊をあまりにも粗末に扱いました。義父が参加したインパール作戦では投入兵力85000人のうちの約三万人が命を落としましたが、そのほとんどは餓死であったと言われています。これほど無謀な戦いは歴史上、稀とも言われます。この作戦は、ひとりひとりを支える補給もなしに戦地に追いやった日本陸軍の象徴とも言えます。

戦争は絶対に避けなければなりませんが、人類の歴史は戦争の歴史とも言えます。そしてその非常時こそ、その国の最も醜い部分が現れます。それはひとりひとりを見ない日本の文化でした。

 

それにしても、主は今、戦いの経験もない逃亡奴隷の集団を、カナンの先住民をさばく戦闘集団に作り変えようとしておられます。ただし、それは兵隊たちが王のために命を賭ける当時の世の軍事組織とは違います。戦いの主体は主ご自身であり、彼らに求められていることは、何よりも、目の前の敵に背を向けることなく、主に従って前進することです。

しかも、彼らは戦闘能力のない女性たちや子供、老人たちを守りながら進む必要がありました。そのような特殊な戦いの前に、この人口調査が命じられたのは、これが「主の戦い」であるにしても、信仰は、盲目な追従ではなく、現状を把握することから始まるからです。

それは、イエスも「塔を築こうとするとき、まずすわって・・その費用を計算しない者が・・あるでしょうか・・・また、どんな王でも・・・二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって考えずにいられましょうか・・」と言われた通りです(ルカ14:27-31)

 

しかも、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです・・堅くたつことができるように、神のすべての武具を取りなさい(エペソ6:12,13)とも記されているように、戦いに際しての何よりの必要な備えとは霊的なものです。

確かに、私たちも奴隷だったイスラエルの民のように臆病な者です。しかし、一生、この世の組織や世間様という人々の期待の奴隷として生きるのが厭なら、断固として戦うべきときもあるのではないでしょうか。

 

日本では、「世間を敵に回す」と大変なことになります。ただ、戦国時代も、明治維新も、第二次大戦後の復興時も、指導者たちは死と隣り合わせで改革を遂げました。しかもそこではクリスチャンたちが少なからぬ影響力を発揮しています。それが今、テレビドラマの主人公として繰り返し登場します。

東日本大震災も第二の敗戦のさえ呼ばれました。今、日本は世間を変える「荒野で叫ぶ声」を求めています。

 

2.それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏族ごとに、父祖の家ごとに進んだ

   120節~46節ではイスラエルの十二部族それぞれの二十歳以上の軍務に着く男子の数が記されます。その総計は603,550人で、女性や子供を入れると数百万人の人数になっていたと思われます。ここに、アブラハムの子孫が星の数のように増え広がるという約束(15:5)の成就を見ることができます。

 

   そして2章ではそれぞれの部族をどのように配置するかの神の命令が記され、不思議にも、それぞれの部族の人数や族長の名が再度そのまま記されます。

これも、主が一つひとつの部族をまたそれぞれの指導者と兵士たちをかけがえのない者として、それぞれに責任を与えておられるというしるしです。

 

イスラエルは、幕屋を囲んで、東西南北に四つの旗のもとに三部族ずつのグループに分かれました。幕屋の東側の中心はヤコブの正妻のひとりのレアから生まれた四男のユダ族でした。

彼らは十二部族中の最大勢力で軍務につくことができる者が74,600人いました。そしてこの旗のもとに、それを挟んで同じレアの子、ヤコブの九男のイッサカル54,400人と、同じ十男のゼブルン57,400人が宿営しました。そして、イスラエルの移動の際は、このユダが先頭に立ち、他の二部族とともに先頭集団を構成しました。

 

幕屋の南側の中心はレアから生まれたヤコブの長男のルベン族の旗で、彼らは46,500人の勢力でした。そして、それを挟んでレアから生まれたヤコブの次男のシメオン59,300人、レアの女奴隷ジルパから生まれた第七男のガド45,650人が宿営しました。この集団のみ中心部族が最大勢力ではありません。

 

   幕屋の西側の中心は、ヨセフの子、エフライムの旗で、彼らの勢力は40,500人でした。それをはさんで同じヨセフの子のマナセ32,200人、またヨセフと同母十二男のベニヤミン35,400人が宿営しました。この三部族はみなラケルから生まれ、少ないながらも、契約の箱の直後を歩く栄誉に預かっていました。

 

   幕屋の北側の中心はラケルの女奴隷ビルハから生まれたヤコブの五男ダン族の旗で、彼らの勢力は62,700人でした。それを挟んでレアの女奴隷ジルパの子、八男のアシェル41,500人と、ラケルの女奴隷ビルハの子の六男のナフタリ53,400人が宿営しました。そして、これら三部族がしんがりを守りました。

 

   そして、その真ん中に主の幕屋が置かれましたが、それは主ご自身が彼らの真ん中に住むという意味でした。この布陣は、まるでイスラエルの王を十二部族が取り囲んで守っているようにも見えますが、敵が攻めてきたとき、前線に立つのは彼らではなく、主ご自身でした。まさにこの布陣は、民が主を守るのではなく、主が民を守ってくださるしるしであったのです。

なお、「イスラエル人は、すべて主が命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏族ごとに、父祖の家ごとに進んだ(2:34)とあるように、神は、家族、氏族、部族をそのまま軍事組織にまとめるとともに、ガドとアシェルを除き、それぞれ同じ母から生まれたゆかりのある部族を三つ集めて四方の陣とを作っています。

 

イエスが十二弟子をご自身の周りに置かれたのはこれに習ったものです。十二部族の陣形と十二使徒は、黙示録2112-14節では「新しいエルサレム」の姿が、「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には・・イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった・・東・・北・・南・・西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台石があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」と描かれます。それはこの民数記の幕屋を囲む構図と十二使徒を重ねたものです。

それにしてもイエスは、この大切な十二使徒を不思議な選び方をしました。その半分はペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、アルパヨの子のヤコブとヤコブの子(または兄弟)のユダという血縁のペアーでした。しかも、最も身近に仕えた三人のペテロとヤコブとヨハネは幼馴染で同じガリラヤの漁師であり、そこに同じ町の出身のアンデレやピリポが加わります。あまりに地縁と血縁に縛られた人事?といえます。

しかし、イエスは血縁の家族を組み合わせ、土台としながら、そこに取税人マタイや熱心党員のシモン、疑い深いトマス、夢見るナタナエル、そして最後にイスカリオテのユダなどの外れ者のような人々を加えられたのです。

 

   人と人との信頼関係は、様々な緊張関係を経た上で初めて堅くされます。ですから神の軍隊でも同じルーツを持つ交わりが核となるのは自然です。神は、肉の家族を大切にされ、しかもそれが閉鎖的にならず、そこに外部の人が次々と加わることができる開かれた交わりへと成長させてくださいます。

しばしば、教会でも、年月とともに家族や親戚関係が増えてきますが、それは歓迎すべき展開でしょう。

 

3. レビ人はわたしのものでなければならない

   レビ族は上記十二部族とは別枠で、相続地の割り当てもなく、ただ主(ヤハウェ)に仕えることが求められ、その生活は他の十二部族からのささげものによって支えられていました。

モーセとアロンもレビ族の中のケハテ族の出身ですが、その中でもアロンの子孫のみが祭司として幕屋礼拝を導き、他のレビの諸族は祭司に付き添い、仕えることが求められ、三つの氏族に分けられました。

 

ゲルション族は幕屋の西側で、移動の際は、幕屋の天幕一式を運びました。その男子の数は7500人でした(3:21-26)。

ケハテ族は幕屋の南側にあって、契約の箱と聖なる用具一式を運びました。その男子の数は8600人でした(3:27-32)

メラリ族は幕屋の北側にあって、幕屋の板や横木、柱や台座を運びました。その男子の数は6200人でした。

そして、モーセとアロンとその子らは幕屋の正面、すなわち東側にあって、イスラエル全体の代表として「聖所の任務を果たし(3:38)ました。

その合計は22,300人になりますが339節では22,000人と記されています。多くの学者はケハテ族の人数を写本作成者が読み間違えたのではないかと見ていますが、何人もの写本作成者が後にこの計算が合わないことに気づきながら、それを誰も自分の裁量で修正はしないということにも大きな意味を見出すことができます。

 

340-43節ではイスラエルの男子の初子の代わりにレビ人を主に聖別するとして、主(ヤーウェ)は、「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに・・取れ。レビ人はわたしのものでなければならない」(3:45)とモーセに仰せられます。

そして、イスラエルの男子の初子の数が22,273人と記されますが、これは男子の総数60万人余りと比較するとあまりにも少ないと思われます。これでは一家族当たり27人の男子がいる計算になるからです。ですから、これは出エジプト以来の13か月間に生まれた初子の数であろうと見る人もいます。なお、人数がひとりに至るまで正確に繰り返されながら、そこに現代の統計の感覚からするとわからない部分がありますが、それこそ記録に人間的な操作がなされていないというしるしとも言えましょう。

そして44-51節ではイスラエルの男子の初子の数がレビ人の数より273人超過している部分に関して、贖い金をアロンとその子らに渡すことが命じられています。一人当たり五シェケルとありますが、これは羊飼いの一年分の給与に相当する金額です。

奴隷の平均価格はその6倍の30シェケルで、それはユダによってイエスが売り渡された値段です。どちらにしても、数字の正確さが驚きです。

 

   4章にはイスラエルの民の移動の際に、どのように幕屋を運べる状態にたたむかが描かれます。そこではまず祭司であるアロンとその子らが幕屋に入って、仕切りの幕で契約の箱をおおいます。その上に「じゅごんの皮のおおいをかけ、またその上に真っ青の布を延べ」とあるように、契約の箱は三重の幕でおおわれます(4:5,6)

また、供えのパンの机、金の燭台、金の祭壇などをおおって、運べる状態にするための順番が詳しく描かれます。契約の箱以外は外側が「じゅごんの皮で包まれます。これはイルカの皮ともやぎの皮とも訳されることがあり何かが良くわかりませんが、風雨に耐える頑丈な皮であることは確かです。

ここには、神の幕屋の幕屋から木枠、その中の黄金の備品、いけにえを焼く祭壇までをいかに大切に扱いながら短時間で、しかも人の目に触れないように梱包するかの手続きが描かれています。

 

これらすべては祭司たちがなすべき働きですが、その理由が、「ケハテ族が・・聖なるものに触れて死なないためである・・・最も聖なるものに近づくときも、死なずに生きているように・・・・一目でも聖なるものを見て死なないためである(4:151920)と記されます。それは、契約の箱を運ぶ者ですら、箱の外を見ることさえ許されず、ルールを破ると死ぬことになったからです。

また、ゲルション族が幕屋の幕を運ぶ際も「すべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない(4:27)と命じられます。

またメラリ族が幕屋の板や横木等の用具を担う際のことに関しては、「祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある」(4:33)とのみ簡単に記されます。つまり祭司とレビ族の奉仕にも明確な区別があったのです。

 

最近、緊張に満ちた戦いに臨む際のルーティーンのことが話題になっていますが、主への恐れを表現するためのものがここに記されていいます。

私たちの場合もこの礼拝堂や備品を美しい状態に保つためのルーティーンのようなものがあっても良いのかもしれません。自由教会は何でも自由に任され過ぎているとも言えるかもしれません。主への恐れは、ある種の作法を通して表現されるという面もあります。

 

これらの奉仕は、30歳から50歳のレビ人があたりました。そして、三つの氏族ごとに正確な人数が記されます。その総数は他の十二部族よりも格段に少なく8,580人でした。これはレビ人男子の26%に相当します。

彼らが幕屋の任務に専念するのは、イスラエルの民がむやみに幕屋に近づいて死ぬことがないためでしたが(1:51)、同時に彼らはモーセに属する軍隊として神のさばきをイスラエルに執行することもありました(出エジプト32:25-28)。つまり、レビ人は、神と民との仲介者として立てられたのです。

 

   ここに、主の民が荒野を旅する際の組織が示されています。新約でも「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになった(エペソ4:11)と記され、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです(ヘブル13:17)とも命じられます。

神はひとりひとりを等しく愛しておられますが、それは各人を同列に扱うことではありません。それぞれに固有の異なった使命が与えられますが、それは決して優劣を競ったり、比べられるようなものではありません。

 

   私たちはだれしも平穏な生活を望むことでしょう。しかし、サタンは常に脅しをかけ、また誤った教えをふりまいて神の家族を破壊しようと画策します。ですから、私たちは戦いを避けては信仰生活を全うすることはできません。日々、サタンの攻撃に備え、家族の絆を強め、みことばによって武装しなければなりません。

教会の歴史には、真理を求めての数多くの戦いがありました。もちろん、そこには多くの行き過ぎがありましたが、それ以上に、福音は命を賭けて守るに値する宝だったことを忘れてはなりません。

 

   この時のイスラエル共同体は、大旅団で移動する軍事組織に似た面がありましたから、これを現代の教会に当てはめるのには注意が必要です。しかし、それでも、主ご自身がひとりひとりの指導者を立て、構成員ひとりひとりの名を呼び、指導者のもとで働きを定めるという原則は同じです。

また、聖霊に導かれるということと組織化し働きのルーティーンを定めるということは矛盾することではありません。

民数記のタイトルは、「荒野において」です。目の前には「荒野」がありますが、神が私たちを導いてくださいます。

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2016年1月24日 (日)

マタイ28章16-20節他「イエスに倣い神のかたちで生かされ、祝福を分かち合う」

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   私たちはみな小さい頃から、「この地で成功する」ようにと様々な訓練を受けています。そして、キリスト教会でも「弟子訓練」の大切さが説かれてきました。

イエスご自身十二人の弟子を特に選んで身近において訓練しました。しかしその結果はどうでしょう。そのうちの一人は主であるイエスを些細な金額で売り渡します。そればかりか、代表格の弟子ペテロは、「ガリラヤ人イエスの仲間ではないか」と問われたとき、三度にわたって、「そんな人は知らない」と「のろいをかけて誓い」ました。

人間的に見ると、イエスはたった十二人の弟子も満足に育てることができなかった指導者とも言えます。しかし、そこに逆説があります。

 

   私がイエスを主と告白した時、国のお金で留学することができていながら、心の奥底では別の自分になりたいと悩んでいました。また、ドイツで金融の世界に身を置きながら、お金を増やす仕事に空しさを覚え、より多くの人を永遠のいのちへと導くというより生産的と思える仕事への憧れを抱きました。

自分の心の底には、「より品格のある人間に成長すること」「より影響力のある教会を建て上げること」という右肩上がりの成長志向があったように思います。

しかし、現実はどうでしょう。いつまでたっても自分は品格のないまま、教会も目に見える成長ができないまま維持すること自体に汲々としているという現実があります。

 

   しかし、違った見方もできます。自分の足りなさへの自覚を深めること自体が、キリストにある成長とも言えます。

また、バブル経済崩壊以降、多くの会社や組織が消えて行く中で、私たちの群れがまがりなりにも存続でき、人数は増えなくても、多くの人に立ち直るきっかけを与えて送り出し、また聖書の面白さに気づくようにいろんな形で助けることができてきたこと自体が、神のみわざと言えるのかと思います。

 

米国で1955年に映画館を借りて始まった教会が1981年に三千人を収容するクリスタルキャセドラルという世界最大のガラス張りの教会を約22億円の費用で献堂しました。しかし、その教会は後継者問題がこじれたあげく2010年には50億円あまりの負債を抱えて倒産します。教会の倒産というのは前代未聞とも言えますが、「繁栄の神学」の失敗例として話題になりました。

一方、欧米の多くの田舎の教会は様々な風雪に耐え、共同体の中心にあり続けています。そして、多くの古い教会の屋根には、鶏のモチーフが飾られています。それは、復活の象徴とも、三度イエスを否んだペテロの象徴とも言われます。

ペテロはイエスに対して、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語しました。しかし、イエスは彼に向かって、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われ、その通りになりました。それは、キリストの教会は人間的な信念によってではなく、神のあわれみによって立ち続けることを意味しています。

教会が人数的にも成長し続けることは良いことですが、何よりも大切なのは、世代を超えた永続性にあります。世界の会社組織で百年を超える歴史を持ちながら安定して成長しているところは稀です。しかし、キリストの教会という組織は、歴史の荒波に耐えながら、安定的に成長し続けています。それは、人間的な成功概念を超えた共同体であるからです。

 

1.「十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って・・・山に登った」

   マタイ福音書では、復活のイエスが、エルサレムでペテロやヨハネにご自身を現わされたことは省かれ、「ガリラヤ・・で・・会える(10)と伝えられたことに焦点が当てられます。この書の始まりは「the book of genesis of Jesus Christ」(イエス・キリストの系図)とも訳されますが、Genesisはギリシャ語訳聖書の「創世記」のタイトルです。

その上で、モーセの五つの書に習って、五つのイエスの説教が記録されます。最後の申命記では、モーセが「山の上」で語り、イスラエルの民を約束の地へ派遣し、「あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ・・あなたはこれらを占領しよう・・・強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず・・見捨てない」(31:3,6)と語ります。

それと同じように、最後にイエスは、「山の上」から彼らを全世界へと派遣するのです。ただし、その際、旧約のイスラエルは剣を用いた戦いで地を占領しましたが、イエスは「右の頬を打つような者には、左の頬も向ける(5:39)ことで悪に勝つ道を示されました。

 

イエスはエルサレム神殿の崩壊を告げた後、ご自身の血によって「罪の赦し」を与えました。そして、今、ガリラヤにおいて「十一人の弟子たち」の前に立ちます。彼らこそ新しいイスラエルの十二部族でした(19:28)。彼らは異邦人との接点のガリラヤから、全世界に向けて遣わされます。それはイエスが、「心の貧しいものは幸いです」と教えられた山かもしれません。

彼らは謙遜にされ、原点に立ち帰って、新しい神の民として世界へと遣わされます。主自身が、新しい「神の幕屋」として彼らと共に歩むというのです。

 

 「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」(17)とありますが、それは、イエスは「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている」18節)からです。イエスはご自身の復活によって新しい時代を開かれました。今イエスは、「王の王、主の主(黙示19:16)となっておられ、この地の歴史を確かに支配し、ご自身の方法で、完成に導いておられます

ところが、「ある者は疑った(17)と、この期に及んでなお疑っている者たちがいました。イエスはそれをご存知でありながら、なお「あなたがたは行って・・」と命じます。主は不完全な信仰のままの弟子たちをご自身の働きのために用いようとされます。

 

私たちの信仰は、イエスを世の人々に紹介するという行動によって初めて、確かなものとされるという面があります。疑いを意識するのは、信仰があることの証明でもあります。

与えられている恵みを、正直に分ち合うとき、神は次ぎの祝福をお与え下さいます。出口を閉じられた水が腐って行くのと同じです。しかも、信じたばかりの人(知識がない人)こそが、未信者の友を多く教会に連れて来ることができます。

 

2.「あらゆる国の人々からなる弟子たちを作りなさい」

  マタイ281920節には、「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」との命令がありますが、これらはすべて、「弟子としなさい」を修飾することばです。

たとえば、「真理のことば」を行く先々で熱心に伝えながら、人々と衝突を繰り返し、交わりを築けない人がいます。またバプテスマを授けられながらその後の信仰が成長できない人がいます。また、聖書の命令を学ぶことで、かえってうつ病や神経症の傾向を悪化させる人さえいます。

ですから、「キリストの弟子たちとする」という中心線を忘れた伝道は危険です。

  

  たとえば、ペテロが、本当の意味で、キリストの弟子となったのはいつでしょうか?それは、彼が「あなたは、生ける神の御子キリストです」と模範的な信仰告白をしたとき(16:16)というより、イエスのことを三度知らないと言った後で、自分の罪深さとイエスの愛を深く示され、「激しく泣いた(26:75)あとではないでしょうか?

当時のパリサイ人は、日々の立ち居振る舞いを細かく指導し、外面的には非難されない弟子たちを育てました。しかし、イエスは「パリサイ人は、改宗者を、自分よりも倍も悪いゲヘナの子にする(23:15)と非難しました。それに対して、イエスの弟子訓練は人間的に見れば成功とは程遠いとも言えます。

キリストの弟子を育てる働きは、何度も裏切られ、傷つきながらも、その人を赦し、友であり続ける忍耐」が求められます。これは子育てや夫婦関係を築くのと同じような地道な働きです。

しかも、これはすべてのキリスト者への命令です。たとえば、パウロは自分を特別に選ばれた指導者という以前に、「私はその罪人のかしらです(Ⅰテモテ1:15)と呼び、「こんな罪人でも救われる」ということの「見本(1:16)にされたと紹介します。私たちは、だれでも、「模範」にはなれなくても、「見本」になることはできるのではないでしょうか。

 

   それにしても、イエスは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々弟子としなさい」と言われました。この部分は多くの英語訳では、「make disciples of all nations」と訳されます。つまりあらゆる国の人々からなる弟子たち(共同体)を作ること、教会共同体を建てるという命令と理解できます。これは民族、人種を意味することばで「あらゆる種類の人々を」と理解することもできます。

たとえば、日本の会社は、しばしば、能力以上に企業カルチャーに合う人を選びます。ですから、教会の人よりも、会社の人の方が、常識?が通じ易いという面が当然あります。大切なのはその共同体が互いの常識が通じ合うようなモノカルチャーの集まりではないということです。イエスは、私たちが、自分の常識の枠を超えた人々と交わりを築くようにと、確かに命じておられるのです。

そして、イエスは、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と命じられました。父も子も聖霊も、永遠の独自性を保ちながら、同時に、私たちに向かっては唯一の神としてご自身の愛を現わしてくださいます。私たちはこの三位一体の神の愛に包まれながら、多様な兄弟姉妹との愛の交わりを築きつつ、世に遣わされて行くのです。「ひとりが、ひとりの人を」導くというよりは、共同体として、それぞれの異なった賜物を生かしながら、交わりを通して、人を導くのです。

 

  「命じておいたすべてのことを守るように・・教えなさい」とありますが、「守る」とは「注目し続ける」が中心的な意味です。これはイエスが定めた様々な戒律を守るというのではなく「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)(詩篇1:2)とも言い換えられます。

サタンは私たちの目を、福音ではなく禁止規定に向けさせますが、「すべてのこと」とあるように主の命令の全体像を、バランスを持って見る必要があります。しかも、その中心は、全身全霊で主を愛することと、あなたの隣人をあなた自身のように愛するということ、つまり、自分から目を離して神と人とを「愛することこそが命令の核心なのです。

 

  イエスは最後に、「世の終わりまで、いつも・・・ともにいます」と言われましたが、これは「世界の完成の時まで」とも訳すことができます。この世界のゴールは「新しい天と新しい地」です。そこは愛と平和に満ちた世界です。私たちは、この世界をその状態に少しでも近づけるために、召されています。

しかも、この働きには最終的な成功が保証されています。神がイエスの敵を用いて復活の証明をされたように、神はすべてを働かせて益とすることができます。「主のわざ」は決して無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)。

  

3.イエスに倣い、神のかたちとして生かされ

   大宣教命令の核心は、弟子訓練ですが、しばしばこれは有能な影響力のある人間になることと誤解さることがあります。それで、「弟子となる」ということばを、「イエスに倣い、神のかたちとして生かされ」と表現してみました。

すべての人の価値の基本は、「神は人をご自身のかたちとして創造され・・男と女とに創造され・・・地を従えよ」と言われたことに始まります。そして、「御子は見えない神のかたち(コロサイ1:15)とあるように、イエスこそが神のかたちとしての生き方を、見えるように示してくださいました。

神のかたち」は英語で「image of God」と訳されるように、目に見えない神の姿を目に見えるように現す存在です。

 

イエスに倣う」と表現したのは、人間イエスに目を向けるためです。私たちはみな、自分の十字架を負ってイエスに従う歩みへと召されたからです。それは、御子の御霊を受けて、世の悲しみを引き受けながら、同時に復活の喜びに生かされる歩みでもあります。

キリストの弟子を自称しつつ、この世の悪を力で退治し、新秩序を実現しようとするような人もいます。しかし、イエスは、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続する(5:5)と言われ、無抵抗のまま十字架で死なれました。

私たちも、主の忍耐に倣いながら、争いと矛盾に満ちた世界に遣わされ、少しでも多くの人をキリストの弟子へと導かせていただくのです。

 

   たとえば、アリストテレスなどから始まる人格の基本徳目は、勇気(courage)正義(justice)思慮深さ(prudence)節制(temperance)と言われます。新渡戸稲造は日本の武士道の基本徳目を、「正義、勇気、仁(思いやり)、礼、誠、名誉、忠義」としていますが、それにも通じます。

 

それに対して聖書が示す基本徳目は、謙遜(humility)慈しみ(charity)忍耐(patience)純潔(chastity)であると言われます。

たとえばコロサイ人への手紙35節以降に、「不品行、汚れ、情欲・・を殺してしまいなさい」とあるように、性的な純潔こそ、聖書道徳の核心にあります。

その上で9-14節では、「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシャ人とユダヤ人…奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

それゆえ・・・深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い・・互いに赦し合いなさい・・・これらすべての上に、愛をつけなさい」と記され、最後に、愛こそは(からだの各器官を結びつける)完全なじん帯です(私訳)と記されます。

 

ここには先のキリスト教道徳の徳目の「謙遜、慈しみ、忍耐」がすべて含まれますが、先のアリストテレスの徳目と対照的なのは、キリスト教道徳の核心はすべて人と人とを結びつけることに資するものとも言えます。

それに対し、アリストテレスや武士道の徳目は、孤高の英雄をイメージさせ、そこには愚かなプライドという問題があります。特にそこでは、「勇気、正義」が大切にされますが、それは強がり自己正当化につながります。一方、聖書では、自分の欠けや弱さ、無知を認める「謙遜」が何より重んじられます。

 

   このふたつの種類の徳目の違いは、人から非難された時に明らかになります。英雄的な徳目に憧れている人は、プライドを傷つけられて激しく怒り出すことがあります。

しかし、キリストに倣い、謙遜や忍耐を徳目とする人は、それを、十字架を負ったキリストの御跡に従うこととして受け止めることができます。

 

4.祝福を分ち合う

ヨハネ737節は、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」という表現から始まります。その日は、七日間の「仮庵の祭り(2)を締めくくる八日目を指し、それは、世界の歴史のゴール、完成の日を連想させます

神は預言者たちを通し(エゼキエル47章、ヨエル3:18、ゼカリヤ14:8)「その日」エルサレム神殿から水が湧き出ると約束されました。その水は大きな川となって死海に流れ込み、そこに多くの魚が住むようになり、また、川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、あらゆる実をつけるというのです(エゼキエル47:1-12)。それはエデンの園の回復の情景です。黙示録は、それを「新しいエルサレム」として描いています(黙示22:2)

そこで、「イエスは立って、大声で」、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われ、直後に「わたしを信じる者は」と言い換えられながら、イエスを信じる者は、「聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると言われます。

これは前述のエゼキエル預言の成就を示唆します。不思議なのは、まわりの世界を生かす大きな川が、エルサレム神殿からではなく、「その人の心の奥底から流れ出る」という点にあります。

 

神はイザヤを通して「わたしは潤いのない地に水を注ぎ・・・わたしの霊をあなたのすえに・・祝福を・・注ごう(44:3)と、地を潤す水と、人を生かす霊を並行して語りました。

また、「あなたは、潤された園のようになり、水のかれないみなもとのようになる(58:11)と、人が泉となると預言しました。これは、神が多くの預言者を通して約束されたように、終わりの日にご自身の聖霊を人々に注ぐことを意味しました。

 

イエスは、これらをまとめ、「その人の心の奥底から生ける水の川(複数)が流れ出るようになる」と約束されたのです。なお、「これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである(39)と解説されます。

生ける水の川が流れ出る」とは、まるで、エルサレム神殿から湧き出た水が大河となって不毛の地に豊かな果樹を育てるように、私たちがまわりのすべての人々を生かす者になることを意味します。これは、「愛に満ちた人になりなさい」という命令ではなく、「イエスがあなたを愛に満ちた人に造り変える」という約束です。

「自分は人を生かすことも、人の役に立つ事もできない」と思うのは、謙遜ではなく、自己卑下であり、サタンが吹きこむ考え方です。真の信仰とは、神がこのままの私たちを用いて、周りの世界を、エデンの園のように変えて下さると信じることなのです。

イエスはどんな人をもご自身の目的のために用いることができます。その第一歩は、渇いた口を主に向かって開くことです。

 

なお、「心の奥底から」とは、厳密には「腹から」と記されています。私たちの行動を変えるほどの神の愛は、頭よりは腹で感じられるものです。たとえば、「イエスは私の罪を赦すために十字架にかかられた」ということばを腹の底で感じたら、「この罪人のままの私が神様から抱きとめられている」という安心で満たされ、あらゆる自己弁明や自己正当化から自由になれるはずです。

ところが、私たちは、心のどこかでいつも、神は私がどのような成果を出したかに興味を持っておられるに違いないという、根拠のない呪縛にはまっています。

私たちはしばしば、一呼吸置いて祈ってから始める前に、自分の意思で動き出してしまいますが、そのことを戒めるために、「御霊を消してはなりません(Ⅰテサロニケ5:19)と記されます。

イエスはただ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と命じられました。あとは、イエスご自身がしてくださいます。自分の力で神の敵と戦うのではなく、自分の不安を、また弱さを正直に認め、イエスにすがればよいのです。

 

イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)と言われました。私はある意味で、「苦しみ甲斐のある人生」を望んでこの道を歩み出しました。しかし、そこに「この私こそは・・」という囚われがありました。

それが分かるのは、人から批判された時に自分の中に起こる感情です。イエスは「十字架を負い」ながら嘲りを受けていたのに、自分は「良く頑張っているね」という人からの称賛を心で求めていたのです。誤解や批判は辛いですが、そこでこそ人は「神の愛」に「渇き」を覚えることができます。

しかし、その渇きがこの心をイエスに向かわせ、その結果、「生ける水の川」が「心の奥底」から世界に向かって「流れ出る」ようになるのです。

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2016年1月17日 (日)

ガラテヤ6:11-16「新しい創造をここで喜び、その完成を待ち望む」

                                            2016117日 

英国の上流階級に生まれたフローレンス・ナイチンゲールは16183727日に夏の別荘の庭で、神の召しを受けたことを、God spoke to me and called me into His serviceと日記に記しています。

マザー・テレサの場合は36歳の1946910日ヒマラヤ山脈のリトリートセンターに向かう汽車の中でイエスの招きを受けました。ですから、偉大な働きをする方への神からの特別な語りかけがあることは否定できないことです。

そして、私たち自身も人生のどこかで、イエスの招きを受けて、今、礼拝者とされています。そこに共通するのは、それまでの自分にとっての世の常識が変えられるということです。「この世と調子を合わせる」代わりに、「神のみこころは何か・・をわきまえ知る」ことです(ローマ12:2)

 

ナイチンゲールの場合は、後に24歳の時、病院で看護の働きをすることを神の召しと示されますが、それを聞いた母と姉は半狂乱になります。看護婦は身を持ち崩した「社会のくず」と見られており、これほど家名を辱める仕事はないと思われたからです。

当時の貴族の女性は、良い相手と結婚し、子供を育て、夫を支える従順な妻となることが求められましたが、それは彼女にとって、息が詰まるほど退屈な人生と思えました。彼女は密かに学びを続けながら、29歳の時には自分が心から尊敬できた男性との結婚をも断り、その後、ドイツの教会付属の病院で訓練を受けるようになります。

そして33歳の時、ロンドンの「病気の貧しい女性を世話する協会」の指導監督者の地位に着きます。そして間もなく英国がトルコに味方して、クリミア半島のロシア要塞を攻撃します。その際、戦いと同時にコレラの蔓延で多くの兵士が戦地で病床に伏します。

ナイチンゲールは1854年、政府の要請を受け、38人の女性を引き連れて二年間献身的に奉仕します。夜も病人を見回る働きの様子は、「クリミヤの天使」「ランプの貴婦人」などと称されます。

 

彼女はそれまでの病院の常識を決定的に変える衛生管理体制を始め、帰国後は、統計学の知識を生かして英国陸軍の健康管理体制を改め、40歳の時にナイチンゲール看護婦養成学校を開校し、それが全世界に広げられます。

今も、看護学校の戴帽式の際にナイチンゲールの誓いと称して、「私は厳かに神の前に誓います」と唱える慣習になっています。彼女は現代の医療、看護システムを組み立てた最大の功労者であり、また彼女に影響された人々が現代の世界に広がる赤十字社の働きを始めました。彼女は治療以前に予防保険衛生の概念を広め、看護師の働きを聖なる職業にまで引き上げました。

 

神の「新しい創造」からナイチンゲールの働きが始まり、それを通して、神の平和(シャローム)がこの地に広げられました。

私たちもそれぞれ神によって召され、神の平和をこの地で現すことができます。

 

1.聖霊預言と新しい契約

ガラテヤ人への手紙は、新約聖書のなかで最初に記されたもので、旧約と新約をつなぐ鍵とも言えます。これはパウロが第一回目の伝道旅行で現在のトルコの中南部に福音を伝え、多くのギリシャ語を話す異邦人がイエスを救い主と告白した、その翌年に記されたものです。

当時のクリスチャンは圧倒的にユダヤ人が多数派でした。彼らは改心した異邦人に向かって、まずユダヤ人になる儀式としての割礼を受け、食物律法や安息日の様々な規定を守るようにと指導し始めました。それに対してパウロは、異邦人はユダヤ人になるというプロセスを飛ばしてそのままでイスラエルのヤハウェの子とされるということを教えたのです。

それは当時の人々にとっては天地が引っくり返るような革新的な教えでした。イエスご自身でさえ、ほぼユダヤ人だけを対象に「神の国」がご自身とともに始まったと宣べ伝えておられたからです。

 

イエスが語っておられたように旧約聖書の教えの中心は、全身全霊で神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです(マルコ12:28-34)。当時のユダヤ人はみな申命記645節を日々繰り返し暗唱していました。

そこには、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」と記されていました。

それこそが律法の核心でしたが、彼らは度重なる警告を受けながらそれを守ることができず、ついには神のさばきを受け、異教徒たちに服従しながら生きざるを得なくなり、救い主を求めます。

 

イエスはあくまでも、「律法や預言者を・・・成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言っておられました。

そして、申命記306節には、神がイスラエルの民の罪にさばきを下された後の祝福として、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのと、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされると記されています。

つまり、申命記6章の「聞きなさい・・・」の命令を、民が真心から実行できるようにと、神ご自身が彼らの内側から造り変えてくださるというのが、神の約束であり、それを成就するのがキリストであり、聖霊なのです。

 

そのことが、エゼキエル3625節には、まず、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と記されます。これは現代のバプテスマに結びつきます。

その上で、ほとんどの訳では26節から新しい文章が始まり、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と約束されます。つまり、神ご自身が私たちの心を作り変え、新しい霊を授けてくださるというのです。それが第一に、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」と記され、第二に、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる(36:27)と記されます。

イスラエルの民は、「全身全霊で神を愛しなさい。それこそが律法の核心です」と何度も言われながら、それを実行できなかったのですが、終わりの時代には、それをイエス・キリストと聖霊が成し遂げてくださるというのです。

 

そして、エレミヤ3131-34節には、「新しい契約」と古い契約の対比が次のように約束されます。

 

「見よ。その日が来る・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は・・・エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ・・・

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」

 

Ⅱコリント3章では、旧約の律法は「石の板に」記された一方で、「新しい契約」では、「人の心の板に書かれた」と記されます。そして、それをまとめて、「文字は殺し、御霊は生かす(36)と言われます。

聖霊の働きに関して、人々を驚かせる超自然的な現象や神秘体験が話題にされる場合がありますが、聖書を神のことばとして感謝して受け止め、自分の罪を認め、創造主に向かって、「お父様!」と真心からお祈りできるということ自体が、聖霊のみわざなのです。みことばを聴き、祈る中に聖霊が働かれます。

 

2.「割礼を受けているか受けていないかではなく、大事なのは新しい創造です」

ガラテヤ611節には、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」と記されます。これは、ここまでは口述筆記してもらっていた目の悪いパウロが、ここからは大きな字で、熱い思いを自筆で書くという意味です。

続けて、先の旧約の歴史を思い起こさせるように、「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです(1213)と記します。

当時はユダヤ人の信仰はローマ帝国内で公認されていました。そして、当時のクリスチャンの大多数はまだユダヤ人であり、パリサイ人たち宗教指導者から異端視されながら、迫害に耐えていました。そのため彼らの多くは、「私たちは、イエスを預言された救い主と信じる以外には、他のユダヤ人とまったく同じ信仰に立っています」という面を強調していたことでしょう。

 

彼らはそれを意識する余り、ギリシャ語を話す異邦人が入信した場合に、まず割礼を受けさせ、ユダヤ人と同じになったという面を示しました。しかし、それではエゼキエルやエレミヤの預言が成就したという祝福が全く見えなくなります。

残念ながら現在の多くの信仰者も、先の申命記以降の新約につながる大切な預言の成就を理解できていないため、旧約の教えを「古い教え」と受け止めたり、また反対に、信仰を戒律的なものと誤解したりし、このままで聖霊を受け、神の子とされたという喜びを味わえずにいます。

 

続けてパウロは、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです(6:14)と述べています。

それはキリストの十字架がイスラエルの民を、「律法ののろいから贖い出」す、という意味があったからです(3:13)。彼らはそれによって、アブラハム契約の原点に立ち返ることができたのです。

そして、その結果が、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです(3:14)と記されます。まさにキリストの十字架にはそのような圧倒的な神の救いのみわざの現れだったのです。

それによって、この世界の価値観はパウロにとって十字架に付けられて効力を失い、同時に、パウロは世界から「のろい」を受け、十字架にかけられた者のように異端視される存在となってしまいました。

それと同じ価値観の革命が19世紀のナイチンゲールにも起きて、医療システムが劇的に改善されました。

 

パウロは続けて、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です(6:15)と記します。「割礼」は、アブラハムへの神の祝福の契約が自分に受け継がれることを覚える「しるし」でしたが、それがこの新約の時代には、聖霊によってなされることになりました。

そのことが、467節では、「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、です。子ならば、神による相続人です」と記されています。

ここでの「子」ということばは、本来「息子」を意味するヒュイオスということばが使われています。この手紙の読者には多くの女性がいましたが、それでも「息子」と記されるのは、イエスが「アバ、父」と祈っていたと同じように、イエスの弟、妹とされたということ(ヘブル2:11)、また奴隷ではなく、自由な息子の立場、「キリストとの共同相続人(ローマ8:17)とされたという恵みを強調するためです。

 

 そしてパウロは最後に、「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と祈っていますが、ここでの「神のイスラエル」とは、37節に「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」とあるように、イエスを救い主と告白するすべてのユダヤ人と異邦人を含むキリストの教会を指しています。

そしてこのキリストの教会こそが「新しい創造」なのです。

 

コリント人への手紙第二516節以降でパウロは、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません…だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」と告白しています。

私たちがそれぞれイエスを主と告白し、キリストのみからだである教会の一部とされていること自体が、途方もない神による「新しい創造」であるというのです。

そして、その目的がそこでは続けて、「これらのことはすべて神から出ているのです。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」と記されています。

 

私たちは、この世の人々に「和解の福音」を宣べ伝えるために人々に先駆けて「キリストのうちにある者」とされました。神の選びには、いつも神からの使命が伴っていることを決して忘れてはなりません。

 

3.新しい天と新しい地において実現する神のシャローム

新しい創造」は、一人ひとりのうちに完結するものではなく、世界に広げられて行くものです。そしてそのゴールを、使徒ペテロは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:13)と告白しました。

それはイザヤ書6517-25節のみことばがあります。そこで主はまず、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と約束しておられます。

そして、その新しい祝福の世界の特徴は、「彼らは無駄に労することはない」と言われます。パウロはキリストの復活のことを丁寧に語ったのちに、この祝福の約束を思い起こさせるように、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから(Ⅰコリント15:58)と語っています。

 

なお、この「新しい天と新しい地」において実現する神の平和(シャローム)の完成の様子が、「狼と小羊はともに草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を与えず、そこなわない」(同65:25)と描かれます。

同じ116-9節では、エッサイの根株から生まれる救い主が実現する世界が、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、小牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて小さい子供がこれを追って行く。雄牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と描かれます。

それをヘブル語では「シャローム」と表現されます。そこには、平和、平安、繁栄、被造物の回復のすべての意味が含まれます。

 

当教会のステンドグラスは、「天と地がひとつになる」とき、そのようなシャロームの完成のイメージを現わしています。それこそが世界のゴールです。そして、私たちに今与えられている使命とは、何よりも、その来たるべきシャロームの完成の前味をこの交わりの中で現すことです。

イエスは、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです(ヨハネ13:34,35)と言われました。

つまり、私たち神の家族の互いの間に愛があるということ自体が、キリストの愛を全世界に証する最大の伝道になっているというのです。

 

しばしば、教会ではこれを「天国の前味」と呼ばれます。厳密には「新しい天と新しい地の前味」「新しいエルサレムの前味」と呼ぶべきなのでしょうが、私たちに与えられた最大の使命とは、この天国の前味をこの地において真実に体験し、そこに人々を招き入れることです。

神の国はすでにここに始まっています。それは、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです(ルカ17:21)と記されている通りです。

ただ、それはまだ「つぼみ」のような状態で、完成に向かって成長し続けています。やがて全世界が神の平和(シャローム)に満たされる時が保障されています。

私たちに与えられた「永遠のいのち」とは、その「新しい天と新しい地」の「いのち」がすでにここから始まっているという意味です。神の国、新しい天と新しい地、新しいエルサレムでの「いのち」が今から始まっているということを確信できることこそ、御霊の働きです。

 

そのことがまた、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です(エペソ1:14)と言われます。「保証」とはギリシャ語でアラボンと呼ばれ、家や車を購入した時の「頭金」のようなものです。人は、頭金を支払った段階から、まだ支払いが完了していないのに、その家も車も自分のものとして自由に使うことができるようになります。

そのように私たちは、すでに今ここで、神の国」の民とされているという喜びを味わうことができるのです。それは何よりも私たちが「いっしょに集まる(ヘブル10:25)という中に現されます。

 

それと同時に、神が私たちを神の子として召してくださったのは、この世の競争原理とは異なった形で、神のかたちとしての生き方を証しするためです。私たちがことばよりは行いによって、やがて実現する「新しい天と新しい地」の生き方を世界に証しする必要があります。それは私たちがこの世の損得勘定を超えて、「神の国」のつぼみを示すことができることにかかっています。

たとえば、ローマ帝国の中でキリスト者の共同体が爆発的に広がった理由のひとつに、定期的に人々を襲う伝染病の猛威がありました。当時の人々は感染を恐れて病気の人々を家の外に、また城壁の外に追い出して行きました。

しかし、キリスト者の群れは、感染者を次々と自分たちの住まいに招き入れ、手当てをしました。それによって、感染が広がるどころか、反対に多くの人々が癒され、その人々はまたイエスを救い主として信じて行きました。疫病が広がるたびにこの世の人々の人口は激減し、反対にキリスト者の人口は激増したと言われます。

ですから、ナイチンゲールの働きは、彼女個人というよりキリスト教会の伝統のうちに根差していたのです。   

 

現代社会は、かつてキリストの教会が担ってきた福祉の働きを、国家のシステムとして担うようになっています。社会福祉は教会から始まっているのですから、私たちは堂々と、国の福祉政策に意見を述べ、その改善を促すべきでしょう。

ナイチンゲールは、「天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」と言ったとのことです。

私たちも何らかの形でこの世界に神の国の前味を示すことができます。先日天に召されたある姉妹も、聖地旅行に行かれた後の感想に、「苦手な伝道は口達者な人に任したら良いと考えていたのですが・・・イエス様を信じ従い祈るとき、私なりになにかできるような気がしてきました」と記しておられます。

神に召されて神の子となった私たちにできる何かがあります。

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2016年1月 3日 (日)

キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する

「キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する」

                                                      201613

   昨年の紅白歌合戦を見ていて、不思議に心に残った歌がありました。西野カナさんの「トリセツ」です。

この度はこんな私を選んでくれてどうもありがとう・・・この取扱説明書をよく読んでずっと正しく優しく扱ってね・・・急に不機嫌になることがあります。理由(わけ)を聞いても答えないくせに放っとくと怒ります。いつもごめんね。でもそんな時は懲りずにとことん付き合ってあげましょう。定期的に褒めると長持ちします・・・小さな変化にも気づいてあげましょう。ちゃんと見ていて。でも・・余計なことは気づかなくていいからね・・・こんな私だけど笑って許してね。ずっと大切にしてね。永久保証の私だから

「永久保証」とは、「私はずっとあなたから離れない」という結婚の誓約を指すのでしょうが、「立ち入らずに、でも寄り添って欲しい。見ていてもらいたいけど、指摘はされたくない」という多くの人の心の内の揺れ動く気持が美しく描かれています。

人にはみな、そんな繊細で傷つきやすい心が与えられています。それを尊重できるのが愛の交わりでしょう。

 

私たちの教会は、198910月の日本経済のバブル最盛期に礼拝が始まりました。それまでは多くの日本の福音的な教会は人数的にも右肩上がりの成長を続けて来ました。しかし、バブル崩壊と共に多くのクリスチャンにも疲れが出たのか、教勢も低迷し始めます。

私たちは19973月に経済的自立運営に入りますが、その時期に、「キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する」という標語を採択しました。それは、具体的な目標に駆り立てられがちだった教会運営を改め、ひとり一人がキリストとの交わりを深めることを最優先し、その組み合わせとしての優しい神の家族としての教会の成長を目指すという路線でした。

 

それぞれの教会にはある種の個性が生まれます。先日もある方が、「この教会に入ると、何かほっとする、優しい雰囲気が流れているのを感じる、何か、純粋な暖かさを感じる」と言ってくださいました。それは、この標語から生まれた教会の特徴かと思います。

もちろん、私自身も様々な欠けばかりに目が向かって、特に自分自身を責めることの方が多いですが、ときに反省し過ぎると、せっかくの良いものまでも失ってしまうことになりかねません。教会ビジョンを見直すに当たって、まず原点を思い起こしてみましょう。

 

1.キリストの愛に  「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ431-4)

 主はイスラエルの民に向かって、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」(イザヤ43:1)と言われます。彼らは自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を享受できないばかりか、ありとあらゆるわざわいに襲われ、怯えながら生きていました。

そのような彼らを「のろい」の束縛から「贖い出し」、「祝福」へと移してくださる約束を、主は優しく、断固として、あなたは、わたしのもの」と語りかけ、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。海も山も川も火山も創造された全能の神が「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

 

私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから、この詩の初めの「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。

確かに、私たちはこの地で様々なわざわいに出会います。しかし、それらは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。

 

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。それは主が、想像を絶する圧倒的な神であることを示します。彼らは地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

そのことを主は、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆します。バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国が、エルサレム神殿の建設を全面的に応援したのは、イスラエルの心を味方につけてエジプト支配を容易にするためでした。

人の目にはちっぽけな民が、神の目には大国エジプトよりも重い存在とされたのです。

 

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。「高価」とは、「かけがえのない」希少価値を意味します。また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。

これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、そのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。

 

そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。それに対して、主は、エジプトやナイル川上流の国々を犠牲にしてまでイスラエルを守ると言われたのです。

大国のご機嫌を取って自分の身を守ろうとする姑息で卑怯な生き方を捨てるように命じたのです。神の目には、その権力者よりもあなたの方が重く、「尊い」と見られています。ですから、人の奴隷にならずに、ただ自分たちの神、ヤハウェのみを恐れ、すがればよいのです。

 

ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、代わりはいくらでもいることになります。他の人と違った感性を持っているからこそ、神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

 

2. やすらぎ  「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ1128-30)

  この世の組織は、有能な人材を集めようとしますが、イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい(28)と不思議な招きをしました。「疲れる」とは、「くたびれる」という強い疲労感を表し、「重荷を負っている」も、誰かに「重荷を負わされている」という意味です。

律法は本来、罪人に対する神ご自身の愛の語りかけですが、イエスの時代の宗教指導者は、それを脅しの手段にしました。あなたもこの社会で、あなたの個性を無視した画一的な枠や重荷を負わされて苦しんでいないでしょうか。

しかし、イエスは、落ちこぼれ意識を味わっている人々の味方となってくださったのです。

 

   イエスは、「わたしがあなたがたを休ませてあげます(28)と力強く断言されました。この「休み」とは、「そうすればたましいに安らぎが来ます(29)とある「安らぎ」と同じことばで、その前に、主は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言っておられます。つまり、イエスが与える「休み」とは、肉体的な疲れや重荷がまったくなくなるということではありません。

「くびき」とは、苦難や服従を強いる比喩です。初代教会で、異邦人から信仰に導かれた人に「割礼を受けさせ・・律法を守ることを命じるべきである」と主張する人々がいたときに、ペテロは、「なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです」と反論しました(使徒15:5-11)

つまり、イエスの招きの基本は、人間的に解釈された律法のくびきで苦しんでいる人に、イエスご自身のくびきを負わせることにあったのです。ですからイエスは、「わたしから学びなさい」と付け加えています。つまり、イエスのくびきを負うとは、イエスの生き方、働き方に習うということを意味したのです。

 

   人は「休み」を求めながらも、仕事がなくなったとたん、「自分は生きていても何の役にも立たない・・」と自己嫌悪に陥ります。アダムが禁断の実を食べて、「神のようになり、善悪を知るようになった」結果、人は神の基準ではなく、人間的な基準で互いや自分を評価し続けています。その評価には際限がなく、永遠の安らぎはありません。

くびき」をなくすことより、自分に合った「くびき」こそが「救いとなるのです。

 

   その際、イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから(29)と付け加えられました。「心優しく」とは「柔和」とも訳され、人や状況に合わせて揺れることができる柔軟さを意味します。「へりくだっている」とは、イエスが奴隷の姿になって弟子の足を洗う心の自由を持っておられたことを示しています。

イエスは、あらゆる駆り立てから自由に生きておられました。そのような「疲れない生き方」に私たちは倣うのです。

 

人が頑固で傲慢になるのは、心の余裕がないからです。イエスに見られる柔和と謙遜は、「すべてのものが・・わたしに渡されている(27)という、御父による信頼から生まれています。

そして私たちは御子イエスによる「贖い」と「選び」によって、御父を知り、「神の子」とされました。ですから、イエスの「くびき」とは、何よりも「神に愛されている子」としての生き方Sonshipを習うためのものではないでしょうか。

 

3. いやされ 「キリストの打ち傷のゆえにいやされ・・・」(Ⅰペテロ219-25)

 人は、基本的に苦しみを避けたいものです。それなのに、「もし、不当な苦しみを受けながらも・・悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです・・善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです(19-21)と記されます。

あなたは何と、不当な苦しみに耐えるために信仰に導かれたというのです!しかし、「人生の問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である。われわれの多くは、程度の差こそあれ、このような傾向を持つ(スコット・ペック「愛と心理療法」p9)と言われるように、人生に苦しみが不可欠であることを認め、受け入れるなら、かえって心が軽くなるという面もあるのではないでしょうか。

 

   221-23節では、不当な苦しみを受ける中でのキリストの「模範」が、「罪を犯さず」、「偽りを語らず」「ののしり返さず」「おどすことをせず」「正しくさばかれる方にお任せになりました」と記されます。

これは、ローマ12:19にもあるように「神の怒り(さばき)に任せる」ことで正義が全うされることを信じ、自分では復讐せず、自分に関する限りただ善だけを行なうという意味です。それこそが真の「王」としての生き方でした。

 

そして、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた(24)とあります。十字架は、当時は極悪人へのさばきのシンボルでした。しかも、ここでは厳密には、「十字架」ではなく「木の上で」と記され、「木につるされた者は、神にのろわれた者(申命記21:23、ガラテヤ3:13)を思い起こさせます。

つまりイエスは、人々の「ののしり」に耐えたばかりか、「神にのろわれた者」となる道をご自身から選び取られたというのです。それは、私たちすべての罪をその身に負い、神のさばきを身代わりに受けるためでした。

 

その目的は、「私たちが罪を離れ(罪に死に)義のために生きるため(24)だと記されますが、これは、「私たちが自我から自由になり(自分に死に)神のために生きるため」とも解釈できます。

アダムは、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と神から問われたとき、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」(3:11,12)と自己弁護をして、神と女に責任転嫁をしました。

しかし、キリストが「私たちの罪をその身に負われた(24)からには、神の前で自分の正義を主張する必要はありません。世界の悲惨と争いの原因は、アダムが自己防衛にとらわれてしまったことに始まりますから、私たちがこの構えから自由になるなら、へりくだって神と人とを愛する生き方に戻ることができるのです。

 

   「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(24)とは不思議な表現です。「打ち傷」と「いやし」という相容れないものがセットになっているのは、本来、私たちが自分の罪に対する刑罰として負うべき「打ち傷」を、キリストが代わって負われたからです。

ここでの「いやし」とは、「自分のたましいの牧者であり、監督者のもとに帰った(25)という立場の変化を意味します。羊は、極めて臆病、近眼で、恐れに駆りたてられると、とんでもない方向に走り出し、自分の身を滅ぼしてしまいます。

人はときに愚かで弱い自分を受け入れられず、変身願望に囚われますが、「いやし」とは、羊のような弱さがなくなることではなく、「さまよっていた羊」が、信頼できる牧者のもとに帰ったという立場の変化を意味します。

 

この表現は、イザヤ書5356節から生まれていることを忘れてはなりません。そこでは、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和(シャロ-ム)、その打ち傷が私たちのいやしとなった。私たちみなが、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主(ヤハウェ)は、彼に負わせた、私たちみなの咎(とが)を」(私訳)と記されています。

そこには、自分を神としたアダムに対する、キリストの謙遜な生き方が預言的に描かれています。

 

教会ではしばしば、「いやし」が語られますが、それは、問題や生き難さを抱えたままの自分が、神の愛の御手に抱擁されていることに「やすらぎ」を見出し、そのままの姿で、アダムの生き方から離れて、イエスの御跡に従って歩き出すことです。

羊は、牧者に導かれる時、ひ弱なままで、有害な雑草をも消化して、美しい牧草地を残すことができます。私たちもイエスに倣うことでこの地に祝福を残すことができます。

 

4. 成長する 「神の家族として組み合わされ・・(エペソ21922)

  「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(2:19)とは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。

私たちは教会員になる申請をするとき、これからはあらゆる背景の違いを超えて、互いを家族の一員として見るという約束をします。私たちはどのような国籍、どのような出生の経緯があるにしても、イエスをキリスト(救い主)と信じることによって、「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とされているのです。

そこでは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)と言われます。

 

そのことが、また、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と告白されています(2:20)。「救い」とは、一人ひとりが互いとまったく無関係に天国に入れられるというような概念ではありません。

私たち異邦人はそれぞれ、肉の上でのアブラハムの子孫であるイスラエルの群れに接木された存在なのです(ローマ11:17)。イエスはあくまでも旧約聖書に預言された救い主であり、旧約を飛び越えて救い主がどのようなお方かを理解することはできません。

 

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:21、22)とはキリストのみからだである教会の成長のことです。

多くの人々は信仰の成長をあまりにも個人的な次元で考えがちかもしれません。しかし、ここでの「成長」とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに建てられる」ことを指しています。それは時間のかかる面倒なプロセスです。

人によっては、家族関係の中で深い心の傷を負ってきたというケースもありますから、すぐに相手の心の中に土足で入り込むようなことをしてはなりません。しかし、いつまでたっても他人行儀というのは、真の家族としては未成熟です。

私たちは、互いの感性や互いの距離感を尊重しながらも、家族としての親密さをともに求めるべきでしょう。

 

イエスがマリヤからお生まれになった頃、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿を築き上げていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれていましたが、パウロは全世界のキリスト者の交わりこそが「神の御住まい」であると言いました。それは独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会です。

私たちは、地上の教会組織を超えたキリスト者のつながりを決して忘れてはなりません。使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれます。それは本来、固有名詞ではなく、普遍性を表現することばです。自分たちの教会の都合ばかりを優先するような発想は、このみことばに反することです。

 

私たちの群れでは、一人ひとりが心の奥底でキリストとの出会いを体験し、主との交わりを深めることが、何よりも優先されます。そこにおいて、私たちは様々な欠けを持ったままで、「神の子」とされている恵みを味わうことができます。

ただ、私たちが味わう「やすらぎ」とは、この世のくびきの代わりに、「キリストのくびき」を負うことです。「いやし」とは、不安に駆られることから、キリストに倣って不安を引き受けることです。

そして「成長」とは、個人的霊性というより、神の家族という組み合わせ、「愛の交わり」で現されます。

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2016年1月 1日 (金)

ローマ8章12-30節「神の平和(シャローム)をこの地で憧れ」

                                              201611

   新年は希望を新たにするときです。しかし、主にある希望は、世界の痛みや悲しみに目を塞ぐことではなく、ともに「うめく」ことから生まれるものです。

この世界では、ひとつの問題の解決の裏に、しばしば、別の悲劇の始まりがあります。この世界に必要なのは、人間的な解決ではなく、神の解決です。人の励ましではなく、神が私たちの心の奥底に与えてくださる「生きた希望」です。それをともに考えましょう。

 

1. 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません(12)とは、人間的な努力の限界を示すことばで、一見、人間的に真面目な生き方が、「あなたがたは死ぬのです(13)と宣告されます。ときに「お祈りの課題」として分ち合ったはずが、様々なアドバイスを受け過ぎて落ち込むという体験がないでしょうか。その多くは、既にやろうとして挫折したことだったりするからです。それが最初からできるぐらいなら、神が人となり、十字架にかかる必要もありませんでした。

そのような中で、「御霊によって、からだの行ないを殺す(13)とは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。それは何よりも神の語りかけに心を開くことです。

 

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の息子たち(sons of God)です」(8:14私訳)とありますが、ここはテクナ(子供)ではなく、ヒュイオス(息子)が使われています。この手紙の受け手のローマの教会には多くの女性たちがいましたが、イエスと同じ立場が与えられたという面を強調するために敢えてそう記しています。

しかも、それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく(15)とあるように、神のさばきを「恐れ」ながら、善行に励むことではありません。

そうではなく私たちはみな、「子としてくださる御霊を受けたthe Spirit of Sonship (15)と記されます。それによって、イエスが父なる神を呼びかけておられたと同じように、「アバ(お父様、パパ)」と呼ばせてもらえるという意味です。

 

そのことが、「もし、子どもであるなら、相続人でもあります(8:17)と記されています。もし私たちの親が莫大な財産の所有者である場合、時が来たら、相続権は決定的な意味を持ちます。

ただし、まともな親であれば、お金の苦労を若いときに敢えてさせるとともに、最終的にも、財産の管理能力があることを確信できるまでは相続を許しはしません。今、私たちも、神の子どもとされている恵みは、すぐにはわからないこともありましょうが、それは、良い親が愛する子どもに敢えて苦労をさせるのと同じようなものです。

 

そのことが、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります(8:17)と述べられます。それは、私たちがキリストと同じ神の子どもの立場が与えられ、キリストの弟、妹とされたことを意味します。そこには特権とともに、重い責任があります。それは、キリストとともに」この世界を治めることです。

黙示録225節には、「彼らは永遠に王である」と記されますが、これは「統べ治める」と訳すべきでしょう。その5910節ではキリストのみわざが「あらゆる…民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国(王)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」と記されます。

今年の5月、ある超教派の聖会で「天国について」のお話をするようにとお招きいただきました。「舟の右側」というキリスト教月刊誌に、「天国観を聖書から見直しましょう」と書き続けていたからです。

 

当教会では、worship(礼拝)、 fellowship(交わり)と並んで、sonship(神の子として世に遣わされること)が強調されます。イエスは全地に平和を実現する救い主です。主は、そのために私たちを用いてくださいます。アダムはこの地を治める者として創造されながら、責任を放棄し、この地に「のろい」をもたらしました。しかし、私たちは今、神の子どもの立場が回復され、キリストとともにこの地に神の平和を実現するのです。

ただし、それには意外なプロセスがあります。私たちにはアダムの生き方が身についています。それは、「自分を神とする」生き方です。

心のどこかで、「私は正しい!問題の原因は、周りにある・・」と自分を中心に世界を見ます。しかし、それこそが権力闘争を生み出します。そこでは理想を実現するために、反対者を力でねじふせることが正当化されます。それは家庭に始まり、あらゆる組織に及びます。

 

ただし、政治でも企業経営でもリーダの決断が大切です。しかし何よりも大切なのは世論を形成する一人ひとりの心の重なり合いです。そこに、私たちは「神のかたち」としての生き方を示すことができます。

 

たとえば1985年のイランのテヘランで、日本人200名余りをトルコ政府が特別機を派遣して救出してくれたという感動的な物語があります。テヘランがイラクから空爆を受け、期限付きでテヘランからの外国人の脱出が認められましたが、日本政府は何もできませんでした。テヘラン空港で救援機を持っていたトルコ人たちもトルコの世論も、不思議にも、自分たちの危険や利害を後回しにして、日本人を助けることに理解を示しました。

それはその百年前に、日本の和歌山沖の小さな村の人々が、トルコの軍艦が座礁して爆発し、500名余りの乗組員を失った際に、69名の船員を必死に助け、故国に送り返したという日本人の優しさが、トルコの教科書に記され続けていたからです。

政治家は世論に真っ向から反する決断はできません。数百名にも満たない日本の小さな村人たちの愛の行動が、トルコ全体で語り継がれてきたのです。それを思う時、私たち小さな日本の教会にだってできることがあるのではないでしょうか。

 

それ以前に、主イエス・キリストの生きられた姿は、宗教の枠を超えて伝えられています。キリスト教会の独善性を批判する人でも、イエスは真の愛をご自分の生き方で証しされたということを認めています。キリストは、敢えてご自身の力を捨て、仕える者の姿を取り、弟子の足を洗い、ついには私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。

それは自分を神としたアダムの生き方を逆転させた生き方でした。そして、それは苦難を力で退ける代わりに、人の苦難までも引き受けようとする生き方です。そのことが、「キリストと苦難をともにする(17)という生き方です。その心が、人の心を動かすのです。

 

2.「私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになる」

17節後半の文章は、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。それは実に、私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになるからです」と訳すことができます。

私たちがキリストの弟、妹とされていることは、「ともに苦しむ」ということを通して表されます。それこそ、家族とされたということの現れです。

しかもそれは、「ともに相続する」ことと、「ともに栄光を受ける」こととセットです。それは、キリストとともに「地を治める」ことであり、そのとき、目に見える平和が実現されます。

 

ところで、パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18)と告白しますが、彼は何度も投獄され、五回も最高限度の39回の鞭打ちの刑を受け、船が難破して一昼夜、海上を漂い、飢え乾き、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23-28)

そればかりか、自分が開拓した様々な教会からの知らせを受けて心を痛め、特に、コリントの教会などからは、偽使徒で献金泥棒?かのような非難を受けていました。まさに四面楚歌です。

パウロがそのような苦しみに耐えることができたのはキリストとともに栄光を受ける」ことのすばらしさを、いつも目の当たりに見ながら生きていたからです。生きた希望こそが力の源でした。

 

それにしても、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちsonsの現われを待ち望んでいる(19)という表現は不思議です。大地震や火山噴火、日照りや台風、子羊が狼に食い殺され、子牛がライオンに食べられる悲惨を見ながら、パウロはそれをイメージしました。「神の子どもたちの現われ」とは、私たちの復活、救いの完成のときです。

それが全被造物の救いにつながるのは、「被造物が虚無に服した」のが、人間が神に服従することをやめ、責任を放棄したことに始まっていたからです。そして、被造物を人間に「服従させた方」は万物の創造主であるという意味で、全被造物に「望みがある」というのです(20)

 

そして、今、神はご自身の御子を遣わして私たちの罪を赦し、御霊を遣わして私たちを心の底から造り変えようとしてくださいました。

その希望が、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたち(children)の栄光の自由の中に入れられます」21節)と記されます。それは私たちが名実ともに新しい復活の身体を与えられとき、全被造物の世界から自然災害や弱肉強食の不条理がなくなるときです。

 

私たちはこの世界で様々な苦しみを担うように召されていますが、それはキリストと苦難を共にすることによって、キリストとともに栄光を受けるというプロセスの中で起きることです。

多くの人は、この世の様々な矛盾を見ながら、心を痛め、また怒ったりしますが、この世界が完成に向かっているということを確信できるなら、この世界の矛盾に耐えることができるのではないでしょうか。

一方、身近でありすぎる理想は危険です。ヒトラーだってスターリンだって人々の心にアピールできる理想を掲げて権力を握り、短期間のうちに経済を活性化させました。しかし、性急な問題の解決には、恐ろしい破壊力が伴うのが現実です。

 

3. 「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・」

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています(22)とあるように、この世界には、不条理と悲しみがあり「うめき」が満ちています。キリストはそのただ中に住むために二千年前にベツレヘムに生まれました。

そのとき、「うめき」は、希望のない「嘆き」から、期待に満ちた「産みの苦しみ」に変えられたのです。私たちがキリストとの共同相続人にされたのは、このキリストの「うめき」を自分のものとするため、キリストに習い、混乱に満ちた地に派遣されるためなのです。

 

   「そればかりでなく、御霊の初穂(初穂としての御霊)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(23)とあるように、「御霊」は「初穂」として描かれています。「初穂」喜びの始まりを意味します。

パウロは、世界が新しくされる希望を、「神の子どもたち(sons)の現われ」(19)、「神の子どもたちのchildren栄光の自由(21)、「子にしていただくこと(sonship)、すなわち、私たちのからだの贖われること(23)と表現しています。

私たちは既に「神の子ども」とされましたが、それは目に見える形になっていません。しかし、私たちは確実に、キリストと同じ朽ちることのない新しい身体を受け、「栄光の自由」を味わいます。そのことを確信させ、その喜びの「初穂を味わうことを可能にするのが御霊の働きです。

 

    ところが、御霊を受けると反対に、「心の中でうめく(嘆きのため息)」というのです。しばしば、人は、悲しみに蓋をして自分を保ちます。しかし、心が自由にされると涙が出ます。人によっては、幼い時の悲しみを、中年期を過ぎて初めて心の底から泣けるということもありますが、不思議にそこには、表現できないほどの感謝と喜びが伴います。

また、御霊の導きによって、自分が知らずにどれだけ人を傷つけていたかが示され、深く「うめく」こともあります。しかし、同時に、そこには十字架の愛への圧倒的な感謝の喜びが伴います。つまり、「産みの苦しみ」と同じように、「うめき」と「喜び」とは、表裏一体のものとしてあるのです。

この世界の悲惨は、多くの人が、他の人の痛みや、世界の痛みに自分の心の耳を塞いで、それをいっしょに悲しむことができないところから始まります。愛の対極にあるのは、憎しみではなくて、無関心です。

 

私たちは、この望みによって救われているのです(24)とあるように、御霊は、何よりも、救いの完成の「望み」を私たちの心に芽生えさせます。

そして、目に見える現実がどんなに厳しくても、自分のいのちは神の御手に守られているという心の余裕が、人や世界の痛みとともに「うめく」という祈りを可能にします。そして、世界の痛みに合わせてあなたの心が揺れるところから、真実の愛が生まれ、行動が変えられ、世界に愛が満たされます。

そして、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないことを望んでいるなら、私たちは忍耐を持って待ちます(24,25)とは、現在の私たちの苦しみを「産みの苦しみ」と見ることです。それをともに味わうという交わりの中から愛が生まれます。

私たちはみな基本的に、母親の出産の「うめき」によって生まれてきました。ところが、多くの男性は、ともに「うめく」よりも、「分析」をしがちだと言われます。しかし、そこに痛みに共感するという心が感じられなければ、そこから「うらみ」が芽生えるということがしばしばあります。

 

ともにうめく」交わりから、真の家族愛が成長します。私たちはともに苦しみ、ともに希望に生きることを大切にしたいものです。その望みは、人間の努力を超えた神のみわざの完成のときだからです。ともに苦しみに耐え、ともに待ち望むとき、来たるべき栄光の喜びをともに味わうことができます。

  

4.「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・知っています

パウロは「どのように祈ったらよいか分からない(26)と言いながら、同時に、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・知っています(28)と断言します。

多くの人の問題は、自分の願望に囚われすぎながら、最終的な「望み」が見えずに、待つことができないことから生まれます。たとえば、「仕事がうまくさえ行けば、すべて満足できる」と思う人は、仕事に駆りたてられ休むことができなくなることでしょう。理想的な愛に囚われすぎる人は、現実の人と人との生きた交わりに不満を持つかもしれません。

 

   しかし、御霊による祈りは「うめき」から始まります。それは、まず、寂しさや不安、人への恨みや後悔を、そのまま神の御前で沈黙しつつ、深く味わいながら「うめく」ことです。その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによってwith groanings too deep for words(26)とあるように、御霊がその悲しみを味わい「ことばにできないうめき」によって「私たちのためにとりなし」、父なる神の御手に問題を差し出してくださいます。

しかも、「神は、私の悩みを軽蔑されず、ともに味わって下さる」という感動は、私たちのうちに「神を愛する」思いを生み出します。そして、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束の成就を確信させてくれるのです。

実際、この「望み」によって目の前の責任を黙々と果たすなら、神が、しばしば私たちの思いもつかなかった解決を備えてくださいます。

 

私たちは、「何か解決を示してあげなければ・・・」と思うからこそ、人の悩みを聞けないという面もありますから、第一の務めが「ともにうめく」ことであると納得することは、人の悩みに耳を傾ける勇気を起こさせます。

問題の解決は、そこにある御霊ご自身の「うめき」から生まれるのです。それこそ、現実に、神の愛を分かち合う行為です。このような「うめきのミニストリー」に、私たちはもっと目を開くべきでしょう。

 

   なお、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とは、自分個人にとっての「益」ではありません。たとえばその原点の創世記のヨセフ物語では、ヨセフが奴隷として売られ、無実の罪で牢屋に入れられながら、エジプトの総理大臣の地位にまで引き上げられたというサクセスストーリーではありません

そこでは、ヤコブ一族がエジプトにおいて星の数のような民族にまで増やされることが、「」だったのです。

 

   続けて、ここでは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです(29)と記されます。

これは、先の、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受ける」というプロセスの中に招き入れられることを指します。それはこの地において、キリストの生き方に倣うということです。

 

また、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(30)と記されますが、「あらかじめ定められている」とは、小さなキリストとして生きるべくこの世に誕生したこと、「召された」とは、神のみことばを自分への語りかけとして聴いたこと、「義と認め」とは、私たちの心に復活の希望が芽生えることです。

私たちは自分の変化の遅さや惨めさに「うめき」ますが、そこで、御霊ご自身がともに「うめき」、復活の希望を確信させてくださいます

 

栄光をお与えになりました」とは、私たちが文字通り、栄光の身体とされるときを指します。それはまだ先のことでしょうが、「あらかじめ定め」「召し」「義と認め」「栄光を与えられる」とは、神の救いの一連のプロセスを指します。

今、私たちは目の前の問題が全く解決していないと思える中で、「ともにうめき」ながら、それを「産みの苦しみ」のうめきと受け止め、「すべてが益とされる」という確信に満たされることができます。

私たちは今ここで、うめきながら、同時に、喜んでいるのです。それこそ、キリスト者の不思議です。

 

   あなたの周りの具体的な人を思い浮かべ、経済的不安、仕事の重圧、夫婦の争い、離婚、不治の病、心の病、引きこもり、子育ての悩み、失恋、挫折感、老いの痛み、身体の衰え、愛する人の喪失、将来への不安、敗北感などの「悲しみ」を、まずともに味わってみましょう。

また世界中の様々な悲惨を思い浮かべながら、それを自分の「うめき」としましょう。そして、最後に、あなた自身の心の奥底にある不安や孤独感の叫びにも、蓋をすることなく、耳を傾けましょう。そして、御霊のとりなしを待ち望みましょう。

 

世界が平和に向かう変化は、その「御霊のうめき」から始まるのです。そのとき一時的に、心が沈むかもしれませんが、それは自分の問題ばかりで心がいっぱいになる状況と根本的に異なります。

世界の痛みから目を背けるとき、孤独と倦怠感が生まれますが、世界のうめきに心の目と耳を開いてゆくとき、そこには神と世界に対する連帯が生まれ、同時に、神の示す希望に心を躍らせることができることでしょう。 

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