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2016年3月27日 (日)

イザヤ52,53章「見よ。わたしのしもべは栄える」

イザヤ5253章「見よ。わたしのしもべは栄える」

                                                  2016327

   福音書には、「さげすまれ、人々からのけ者にされた」救い主の姿が描かれています。それは人として最悪の苦しみです。人は最もひ弱な生き物であるからこそ、協力関係の中に生きる必要があります。孤立ほど恐ろしいことはなく、人はそこで精神を病むしかありません。

マタイの福音書では、イエスの癒しのみわざは、イザヤが預言した「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というものであったと描きます(マタイ8:17、イザヤ53:4)。つまり、イエスは人々を助けるたびに十字架に近づいて行かれたのです。

それを、子供用のドラマにしたのが「やなせたかし」さんです。アンパンマンは自分の身を削りながら、弱者を助け、悪と戦います。しかし、そこでは十字架の死までは描きようがありません。

 

イスラム教の聖典のコーランでは、イエスは処女マリヤから奇跡的に誕生した最高の預言者の一人とされています。しかし、そこでは、「ユダヤ人たちはイエスを殺したのでもなく、十字架につけたのでもなく・・・神が彼をみもとに引き上げたもうたのである」と描かれます(4-157,158)

それは十字架が神と人から見捨てられた「しるし」であり、預言者の死としてはあまりにふさわしくないものと思えたからでしょう。

 

ある心理学者は、「人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中では、愛することを恐れているのである」と語っています。人の助けになろうなどと思わなければ「傷つく」こともありません。イエスが罪人を愛そうとしなかったら、十字架にかけられることもありませんでした。しかし、人は、面倒に巻き込まれることを避けようとする結果、世界では愛が冷めて行くとも言えます。

人に真に必要なのは、見捨てられる勇気なのかもしれません。それを恐れないところに愛が成長するからです。

 

1.「それは、平和(シャローム)を聴かせ・・・『あなたの神が王となる』と告げる」

預言者イザヤの40章以降は、エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされ、多くの民が捕囚とされるという絶望を前提として記されています。それは、主ご自身が、彼らを懲らしめ、反省させるために行ったことで。

ただし、当時の世界の人々は、エルサレムの滅亡はイスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力であったためだと思いました。それで、神は、ご自身の栄光を表すために今、新しいことをされます。

 

52章7節からは、「なんと美しいことよ、山々の上にあって福音を伝える者の足は」と記され、その働きについては、まず「それは、平和(シャローム)を聴かせ、幸いな福音を伝え、救いを聴かせ、シオンに、『あなたの神が王となる』と告げる」と説明されます。

「あなたの神が王となる」ということが「幸いな福音」と言われるのは、現代の人々には不思議です。それはイスラエルの神がエルサレムからこの世界全体を治めるという意味です。

福音」とは神のご支配が明らかになることです。主はまず神の民にご自身を啓示し、そして神の民を世界に遣わすことによって、ご自身を知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、ご自身の「平和(シャローム)」を必ず実現するという希望です。

 

なお、「それは平和を聴かせ」とありますが、パウロはこのことばを用いて、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:15)と勧めました。私たちは、「平和の福音」を身近な人との関係の中で味わい、またその「平和」を広げるために召されたのです。

マザー・テレサは、「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われたとき、「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」と答えたとのことです。まずは目の前の人に信頼を寄せ、仲間となることの積み重ねが世界平和につながるからです。

 

そして続いて、「彼らは、まのあたりに見るからだ、(ヤハウェ)がシオンに帰られるのを」(52:8)と記されます。それはエルサレムが廃墟とされたのが、主の栄光がエルサレムを立ち去ったからであり(エゼキエル11:23)、その救いは、主の栄光が戻ってくることによって実現すると理解されていたからです。

 

そのことを覚えながら、9節では、「共に大声をあげて歓喜せよ、エルサレムの廃墟よ。主(ヤハウェ)がその民を慰め、エルサレムを贖われたから」とさらに説明されます。エルサレムがバビロン帝国のくびきから解放されるのです。

そのことが改めて10節で、「主(ヤハウェ)は聖なる御腕を現された。すべての国々の目の前に」と記されます。「御腕を現す」とは、主の明確な救いのみわざが見えるようになることです。

 

イエスのエルサレム入城こそは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られたということを現すものでした。エルサレムの人々はそのとき、この預言を成就するかのように、「共に大声をあげて歓喜」しました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖い出す救い主だと思われたからでした。

しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放する」(ヘブル2:14,15)という不思議な「救い」を実現してくださったのです。イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。

そして、「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(52:10)とは、今、信仰者が常に死を乗り越えた希望に生きることができることに現されています。

 

世界は喜びの完成に向かっています。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちは既に新しい世界に足を一歩踏み入れています。私たちの信仰は揺らぎますが、自分の意志の弱さ、無力さを認め、イエスにすがろうとしている限り、最終的な「救い」は確定しています。

それは人知を超える迫害に耐えた使徒パウロが、「私が弱いときにこそ、私は強い(Ⅱコリント12:10)と告白したとおりです。

 

2.「(ヤハウェ)のしもべとしての生き方を全うされたイエス

5213節以降は、「主のしもべの歌」として多くの人々から愛読されてきた所で、旧約聖書しか信じないユダヤ人がイエスを救い主として信じる際に最も多く用いられている不思議な預言です。

 

ただし、不思議にもこの歌は、見よ。わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」(52:13)という「栄光」から始まっています。

ただ、その直後に、「多くの者があなたを見て唖然とするほどに、その見ばえも失われて人のようではなく、その姿も人の子らと違っていたのだが・・・。そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ(52:14、15)と記されていました。

多くの人々は十字架の後で復活を見ますが、ここでは復活預言から始まっています。それは、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右の座に着座されました」(ヘブル12:2)と記されている通りです。イエスは「ご自分の前に置かれた喜び」を見ていたからこそ、苦難に耐えられたというのです。

私たちも、世の不条理に振り回され、敗北者の道を歩むように見えても、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされているのです。人は、希望が見えるときにこそ、苦難に耐えられます。

なお、私たちはこれを最初からキリスト預言として読んでしまいがちですが、もっと原点に立ち返って、私たちと同じ不自由な肉体に縛られていた人間イエスが、このみことばをどのようにお読みになったかを考えるべきでしょう。

イエスは総督ピラトの前で沈黙しておられた時、また、ローマ兵から鞭を打たれていた時、また「いばらの冠」をかぶらされて嘲りを受けておられた時、この「主のしもべの歌」を思い巡らしていたことでしょう。

主はそこに描かれた生き方を全うすることこそが「ユダヤ人の王」としての使命であることを自覚し、またそれによって「神の国」を全世界にもたらすことができると信じておられました。

 

現代のユダヤ人も、ナチスの大迫害を受けながら、自分たちが「(ヤハウェ)のしもべ」として苦難に耐えているという自覚を持っていたとも言われます。

この歌は、不条理な苦しみの中で、そこに積極的な意味を生み出す力を持っています。この歌を生きる者は、苦難に耐える力を受けることができます。

 

私たちは十字架の「暗さ」に、この世の暗やみを圧倒する「光」を見ることができます。N.T.ライトは、「the cross is the victory that overcome the world (十字架は、世を打ち負かす勝利である)」と述べていますが、当時の「十字架」はローマ帝国の最大の「脅し」でした。

イエスの幼児期に何千ものユダヤ人がガリラヤ地方で独立運動に参加し、十字架にかけられました。帝国にとっては法の秩序と平和を守らせるための脅しのシンボルでしたが、イエスはそれを「愛と赦し」のシンボルに変えてくださいました。

 

しかも、その脅しはキリストの弟子には通用しなくなり、ついにはローマ帝国自体が十字架にかけられたイエスを救い主と信じるようになります。

イエスの受難のシーンには、真の王者の姿が描かれています。ハエを殺すように人を殺すことができたローマの百人隊長はそれに気づきました。なぜなら、真の王の権威とは、民を救うためには自分のいのちを差し出すことができるという生き様に現されるからです。

 

イエスの十字架の場面では、ローマの兵士たちがイエスに、「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ」、ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし、「葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた」と、その嘲弄の様子が生々しく描かれます。

イエスは、そのような嘲りを受けながら、イザヤ531-4節のみことばを思い巡らしていたことでしょう。

 

そこでは、「だれが私たちの聞いたことを信じたか」という反語的な問いかけから始まり、「主(ヤハウェ)の御腕は、だれの上に現されたのか」と、先の52章10節のことばに立ち返りながら、「あなたの神が王となる・・・主(ヤハウェ)がシオンに帰られる」ということを実現する「主のしもべ」の生き方が記されます。

 

それは、「彼は御前で若枝のように芽生えたが、乾いた地から出ている根のようだった。見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」というあまりにも弱々しい姿でした。

イエスは、ご自分を「主の御腕の現れ」と意識しながら、主の救いは、人々のあざけりやののしりに耐えることによって実現できると信じておられました。イエスは神によって立てられた真の王としての自覚を持つからこそ、あざけりに耐えられたのです。

私たちは、自分の存在価値を高く評価してくれる方の語りかけを聞き続けることによってのみ、不当な非難に耐えることができます。

 

そして、4節では、「主のしもべ」が、「悲しみの人で、病を知っていた」という苦しみの意味が、「まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ」と記されています。つまり、主の苦しみは、私たちの「」や「悲しみ」を引き受けるためだったというのです。

ところが、当時の人々の反応が、「彼は罰せられたのだと思った。神に打たれ苦しめられたのだと・・・」と描かれます。

しかし、このとき人間としてのイエスは、不当な判決を受け、その直後に厳しい「むち打ち」の刑を受けながら、5節のみことば、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和(シャローム)、その打ち傷が私たちのいやしとなった」を味わっていたのではないでしょうか。

 

イエスは、ご自分が不当な苦しみに耐えることが、すべての人にとっての「平和」「いやし」を生み出すと確信していました。後にペテロはこれを引用しつつ、「キリストは・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(Ⅰペテロ2:24)と主の御苦しみの目的を語りました。

そして「いやし」の意味が続けて、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです(2:25)と記されています。

つまり、「キリストの打ち傷」によってもたらされた「いやし」とは、何かの念願がかなうというより、私たちが創造主のみもとに立ち返り、このままで「神の子」とされるということにあったのです。

そのことがイザヤ536節では、「私たちみなが、羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主(ヤハウェ)は彼に負わせた、私たちみなの咎を」と記されているのです。

 

3.彼を砕き、病とすることは、主(ヤハウェ)のみこころであった」

 イエスに十字架刑を宣告したのはローマ総督ピラトです。彼は裁判の席で、イエスに向かって、「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです(マルコ15:4)と問いかけます。そこには、イエスが弁明さえすれば、この愚かな裁判を終えられるという期待がありました。

ところが、「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた(5)というのです。これはピラトにとって到底理解できないことでしたが、それこそがイザヤ537節に記された主のしもべの姿でした。

そこでは、痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように・・・。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と預言されていました。

エスは、人々が期待する救い主の姿ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿を生きておられたのです。

 

続けてイザヤ53章8,9節では、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。だが、彼の時代のだれが思い巡らしたことだろう。生ける者の地から絶たれた彼は、わたしの民のそむきのために罰せられたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」と記されます。

当時は、十字架で殺された者は、共同墓地に投げ込まれるのが常でしたが、イエスはユダヤ人の貴族であるアリマタヤのヨセフが自分のために用意していた墓に葬られました。それはこの預言の成就であり、神はそのようにしてイエスの復活の舞台を用意してくださったのです。

それは、イエスが神のみこころに従っておられたからです。

 

そのことが、10節では、「彼を砕き、病とすることは、主(ヤハウェ)のみこころであった。もし、彼がそのいのちを罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見ることになる。主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されていました。

イエスはご自分を「罪過(償い)のためのいけにえ」とするのが、「主のみこころ」であると確信していたため、敢えて、ピラトの前で沈黙を守っていたのです。

 

そして本来、エルサレム神殿はイスラエルの民の「罪を贖う」ための神が与えたシステムでした。そこで、イエスはご自分の死を通して、神殿を完成しようとされたのです。

なぜなら、当時の神殿には神の臨在のしるしである「契約の箱」がなかったからです。それは、真の神殿を待ち望むために未完成の神殿に過ぎませんでした。イエスはその矛盾を真っ向から指摘したことで宗教指導者から憎まれました。

 

ただし、イエスは十字架にかけられますが、「三日目によみがえり」ました。そのことが11節では、「そのいのちの苦しみから、彼は見て、満足する」と記されます。そして、主の犠牲によってもたらされたことが、「わたしの義しいしもべは、その知識によって多くの人を義とする。彼らの咎を、彼自身が担う」と記されます。

まさにイエスは神殿の本来の目的を全うしてくださったのです。それはイエスが、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われた通りでした(ヨハネ2:19)。

 

そして12節で主は、「それゆえ、わたしは多くの人々の間で、彼に分け与え、彼は強い者たちに戦利品を分け与える」とは、当時の戦争勝利によって戦利品を自分に従った者たちに分け与える情景です。

イエスは死に至るまで忠実である者たちに、ご自分の勝利の祝福を分ち合ってくださるのです。

 

一方イエスは12節にあるように、「それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから」とあるように、犯罪人の仲間とされることを神のみこころと信じ、ピラトの前で沈黙を守りました。

自分を守るために平気でうそをつく祭司長たちと、ご自分が無罪でありながら、有罪判決を受けることが主のみこころであると確信して沈黙を守るイエスの対比が見られます。

主の沈黙に、王としての威厳が現されています。最後に十字架の意味が、「だが、彼こそが多くの人の罪を負った」と記され、復活し昇天した現在の働きが「そして、そむいた人たちのためにとりなしをする」と記されています。

 

イエスは私たちと同じ人間としての「弱さ」を持ちながら、イザヤ5253章に記された「主のしもべ」の生き方を全うされました。私たちもその模範に倣うように召されています。

創造主への「従順」をアラビヤ語では「イスラーム」と呼びますが、残念ながらクリスチャンであってもイスラム教徒と同じような生真面目さ?で頑張ろうとする人々がときにいます。

マホメッドは処女マリヤから生まれたイエスを信仰の従順の模範と観ましたが、「神の独り子」とは認めませんでした。また、死に打ち勝ったイエスが聖霊によって私たちのうちに住むということも認めませんでした。マホメットは三位一体を否定してしまったからです。

 

私たちは自分の力によって「死の力」に打ち勝つことを目指すのではありません。祈りの始まりは、苦難の中で「神よ、どうして…」と嘆き合い、みこころを示されて「それは無理・・・」と訴えつつ対話を続けることではないでしょうか。

キリストは私たちに問題を解決する力以前に、問題を抱えたまま生きる力を与えてくださいます。そして嘆きつつ、兄弟姉妹と共に祈り合うただ中に、神の平和が広がって行きます。   

   

すべての争いは自分を神とするところから始まっています。神のご支配を見えなくするのは、すべての人が、人を押しのけてでも上に立とうとするからです。私たちは自分自身が罪人ですから、自分の「いのちを罪過のためのいけにえとする」とすることはできませんが、「見よ。わたしのしもべは栄える」という、最終的な復活の栄光を目の当たりに思い浮かべながら、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」るという「嫌われる勇気」を持つことができます。

それは、多くの場合、主のみこころを求めつつ目の前の「煩わしい」ことから目を背けず、損な役割を敢えて引き受けることではないでしょうか。私たちはそれができます。なぜなら、復活のイエスご自身が聖霊によって私たちのうちに生きていてくださるからです。

私たちは「今ここで」、三位一体の神の愛に包まれ、既にイエスの勝利を自分のものとしているからです。

 

イエスはイザヤ書5253章を思い巡らしながら、十字架の苦しみに向かって行かれました。イエスは確かに神の御子であるのでそれができましたが、今、その御霊が私たちのうちに宿っているのです。

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2016年3月20日 (日)

ヨハネ12章27-50節「世をさばくためではなく、救うために」

ヨハネ1227-50節 「世をさばくためではなく、救うために」

                                                   2016320

米国の大統領は世界最強の存在ですが、不思議にも、何らかの依存症の傾向を持つ人がその座についています。しかし、隠されもせず、強がりを押し通すことがないことが、あの国の魅力とも言えましょう。

ケネディー元大統領の一族の中には富、権力、セックス、アルコールへの依存症が見られたと言われ、クリントン元大統領も自分をアルコール依存症の親のもとでのアダルトチャイルドだと公言しましたが、後のスキャンダルで彼自身も依存症であることが明らかになります。

またジョージ・ブッシュ前大統領はかつてアルコール依存症であったことを明らかにしていますが、それは癒されたというより、彼の政治にはその影響が現れていたという見方をする人もいます。

私自身も人間関係依存の傾向があると示されました。

 

実は、すべての人間が、多少ともこの問題を抱えています。しかも、癒されたと思っても、依存の対象が変わるだけだとも言われます。

それに対し、パスカルは「人はエデンの園を失って以来、無限の空虚感を抱き、自分のまわりのものでそれを満たそうと必死になっている。しかし、この無限の深淵は、無限の神によってしか満たされない」という趣旨を語っています(パンセ425)。渇きの中で創造主を求めましょう。

 

1.「わたしが地上から上げられるなら・・・すべての人を自分のもとに引き寄せます」

イエスは、「人の子が栄光を受けるそのときが来ました(12:23)と、ご自分の十字架のときを「栄光を受ける」ときと呼びつつ、「そのとき」がついに「来ました」と言われました。そして続けて、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます(24)と語ります。

この背後にはイザヤ書5310節の「彼を砕いて、痛めることは主(ヤハウェ)のみこころであった。もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ、主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」があります。

イエスは「苦難のしもべ」の姿を生きようとされたのです。それは私たちの生きるべき姿をも指し示しますから、自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです(25)と言われました。自分を忘れて神と人とに仕えることで、かえって真実のいのちの喜びを味わい続けることができるのです。

 

イエスが、「今わたしの心は騒いでいる(27)と言われたのは、目の前に迫る十字架の苦しみに対しての人間としての当然の感情です。この書ではゲッセマネの園の祈りは記されませんが(18:1)、それと基本的に同じ葛藤が、最後の晩餐に先立って表現されていると言えます。

ある人は、「人は生まれながら痛みを避け、快楽を求める者である。それは重力の法則と同じぐらい確実なものだ」と言いましたが、イエスも人として同じ気持ちに動かされそうになりました。

その願いが父よ。この時からわたしをお救いください」ですが、主はそう祈る代わりに、いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです(27)とすぐ告白しました。それはご自身の使命を自覚することによって、うちに働く肉的な思いに勝利することです。

そして、弟子たちの弱さをご存知だからこそ父よ。御名の栄光を現わしてください(28)と祈りました。そのとき、天から声が聞こえ」、「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう(28)と語られます。「すでにとは、御父が御子を人としてこの世に送られ、その生涯を通してこの世への愛を示されたことですし、もう一度とは、十字架を通して、私たちを闇の力から解放することでした。

 

それを聞いた群集は、「雷が鳴ったのだ言った」とあるように、これを理解できませんでしたが、同時にほかの人々が「御使いがあの方に話したのだ」と反応したように、神の側からの何らかの応答があったということは分かったと思われます。しかし、それはイエスを慰める声ではなく、そこにいる人々を励ますためであったというのです(31)

同時に、十字架は当時の人々には敗北のしるしでしたが、イエスはこれこそ、今がこの世のさばきのためにです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」と、サタンの敗北の時となると述べました。

続けて主は、「わたしが地上から上げられるなら(32)と言われますが、これはイエスが十字架にかけられることの婉曲的な表現です。これは既に314節、828節でも用いられました。ここではその目的が、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せますと、あらゆる種類の人々、すべての民族を闇の支配から解放するためと解説されます。

先にギリシャ人がイエスとの面会を願いましたが、彼らがイエスの弟子とされるのは、ご自身の十字架を通してであるということになります。

 

私たちは自分の肉に支配され、自分の殻を抜け出すことができませんが、神の御子は「人となる」ことによってその道を開いて下さいました。もちろんイエスご自身の心が騒がれたほどですから、人にとって「自分のいのちを憎む」ことは容易ではありません。

しかし、十字架自体が私たちをイエスのもとに引き寄せ、私たちを内側から造り変えます。十字架の救いの意味は一生かけても味わい尽くせないほど深く、神秘に満ちています。しかし、それを理解すればするほど、私たちは自分自身から自由にされるのです。

 

2. 「光がある間に歩きなさい・・光の子どもとなるために光を信じなさい」

   福音記者はイエスのことばの意味を、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬのかを示して、このことを言われたのである(33)と解説します。群集はその意味を理解はできないものの、少なくとも、ご自分を救い主と主張する方が、今ご自分の「」を語っておられるということは分かったのだと思われます。

それで彼らは、「私たちは律法で、キリストはいつまでも生きている(原文:永遠に留まる)と聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですが。その人の子とはだれですか」と問いかけます(34)

律法とは、ここでは旧約聖書全体を指していますが、彼らがそう言ったのは、ダビデの子孫としての救い主が、永遠の王座に着かれるということが、詩篇の様々な箇所やⅠサムエル7章のダビデ契約などで記されているからです。

また、「人の子」とはダニエル713節の救い主の姿を指していることは当時の人々にとって明らかでしたが、それをイエスと結びつけることはできませんでした。

 

主はそれに直接答える代わり、まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります(35)と、ご自身が今ここで彼らの間に生きている時を大切に受けとめるように勧めます。

続くことばは、「あなたがたは歩きなさい。光を持っている間に」とも訳すことができ、イエスご自身に道を照らしていただきながら歩くようにという命令です。それは、やみがあなたがたを襲うことのないようにとあるように、光から目を離すと、自分の内側にある闇の力に支配されてしまうからです。

やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかを分かりませんとは、イエスを知らない者の生き方の本質を指します。私はドイツで会社勤めをしている時、あるとき上司に、失礼にも、「どうしてそんなに一生懸命働くのですか」と聞いたことがあります。すると彼は、一瞬ことばを詰まらせながら、「男の意地だよ」と答えてくれました。それは「他の人に軽蔑されたくない。同期に負けたくない」というような思いの集合でした。多くの人は、自分でも良く分からない衝動に駆り立てられて必死に走り続けています。その奥底には、失うことへの恐れがあるように思えます

 

   イエスはさらに、光を持っている間に、光を信じなさい。光の子ども(息子たち)となるために(36節私訳)と、ご自身への信頼を訴えます。ルカ168節では、「この世の子ら(息子たち)」と「光の子ら(息子たち)が対照的に用いられます。

私たちは光であるイエスに照らされて、主と同じ「神の息子」として闇の力に打ち勝つばかりか、イエスと同じように、この世を照らす働きをすることができるのです。それこそが、「神のかたち」としての生き方です。

キリストは確かに「永遠の王座」に留まります。しかし、それはご自身の死によって、死の力を滅ぼすことによってなされるのです。それは、この福音書の1章では「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(1:5)という記述から始まっていることからの帰結です。

 

   「私は自由だ!」と思っている人は、欲望の奴隷になっているに過ぎないのかもしれません。反対に、自分の内側にある闇の力に気づいている人は、光に照らされ、光の中を歩み出しているとも言えます。

 

3. 「彼らはイエスを信じなかった・・・主は彼らの目を盲目にされた」

 「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠されました。この時、イエスの公の宣教が終わりました。13章以降の記事は弟子たちとの会話が中心です。そしてこの書の前半部が、イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった(37)とまとめられます。

イエスが単なる宗教指導者なら、仏陀やマホメット、孔子などとは比較にならないほど無力です。「33年の生涯で、30年間は世に現われずに過ごし、3年間は詐欺師とみなされ、当時教養ある人々から拒絶され、友と近親者からは軽蔑され、ついには仲間のひとりに裏切られ、他のひとりに否認され、すべての人に見捨てられて死んだ」のですから(パスカルのことば)

しかし、それは38節で、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また、主の御腕はだれに現されましたか」と引用されたイザヤ531節のことば通りでした。

そこでは続けて、彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた(53:23)と記されます。それは人々が望んだ救い主のイメージとはかけ離れていたので、彼らは多くのしるしを見たにもかかわらず信じなかったということです。これは彼らが真の強さを知らなかったからです。

 

そして、ここでは、「彼らが信じることができなかったのは」と、彼らの不信仰の理由がイザヤ6章を自由に引用し、「主は彼らの目を盲目にされた。また彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである」(40)と解説されます。

イザヤ6章では、主の誰を遣わそうと語りかけに、イザヤが「ここに私がおります(8)と応答した際に、託されたことばが不思議にも、「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」という「心をかたくなにするメッセージ」として記され、その目的が「この民の心を肥え鈍らせ・・その目を堅く閉ざせ・・・自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように」と解説されていました(910)

これは、彼らがバビロンによって国を奪われ、捕囚とされるまで、イザヤのことばは理解されないという意味です。それは彼らが口先では悔い改めながらいつも同じ罪を犯し続けていたからです。それで神は、彼らがとことん苦しみに会うのを、敢えて見守ることにされました。人は切羽詰まって初めて分かる真理があるからです。

 

これは出エジプトの際に、十のわざわいとともに、主ご自身が「パロの心をかたくなにする(4:21)と繰り返されていたのと同じです。エジプトの支配者パロは、神のみわざが強くなればなるほど、心をかたくなにして行きました。それは彼が自分を現人神と思っていたからです。神がパロの心を自由に動かしたというよりも、神は、わざわいを下すなら、パロは心をかたくなにすると知りながらご計画を進めたという意味でした。

イエスの時代の宗教指導者たちも、主の不思議なみわざを見れば見るほど、心をかたくなにしました。それは彼らが救い主をローマ帝国の支配からの解放者であるはずと思い込んでおり、イエスの働きを放置するとローマ帝国の介入を招くと恐れたからです。

人は自分が自分の人生をコントロールできなくなることを何よりも恐れるために、心の変化を迫られれば迫られるほど、心をかたくなにするのです。

 

あるアルコール依存症の息子を持った母親が、カウンセラーから、「あなたは息子さんの口先の謝罪を受けとめてすぐに助けの手を差し伸ばすことで、かえって彼の依存体質を強めています。毎回、口で回心を迫る代わりに、とことん彼を苦しませ、責任を取らせなさい彼が死の瀬戸際まで落ち込むのを見ながら、助けないのが、あなたの使命です」と言われました。

彼女は、息子の転落をただ見ているだけというのは、助けることよりもはるかにつらいことだったと振り返っています。イエスは、人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません(3:3)と言われましたが、「救い」の大前提は、自分の無力を認めることです。

依存症は「否認の病」と言われます。彼らは自分の力でやり直せると思うことでアリ地獄にはまって行きます。その意味で、自分の力で人生を支配できると信じるすべての人は依存症患者と言えます。

 

4.「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たから」

  41節では不思議にも、イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのであると記されます。これは預言者が見た「主のしもべ」の栄光で、先に引用のイザヤ5213節から始まる「(ヤハウェ)のしもべ」の歌では、見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」と記され、そこからまことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(53:4)という、民全体のために苦しむ姿へと移行します。

彼らはバビロン捕囚の苦難を経ても、悔い改めは不徹底に終わりました。それで神は、イエスを遣わし、イスラエルの民全体の代表者として、その罪のさばきをその身に負わせられたのでした。イザヤは「主のしもべ」の栄光を見て、この歌を記したのです。

 

   ところでユダヤ人の指導者の中にもイエスを信じる者がいました。その代表例はニコデモとアリマタヤのヨセフです。ただ、彼らは、パリサイ人たちをはばかって自分の信仰を隠していました。そのことが、彼らは神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したから(43)と解説されます。

依存症の人は、異常な程の「寂しさ」を感じています。いつも人の愛を求め、それが得られないと恨みと被害者意識で一杯になります。ヘンリ・ナウエンは「最後の日記」で、自分のうちにある「愛情に飢えた亡霊」の心を赤裸々に描いています。彼は逃避せず友人の助けを求め続けました。その「苦しみが、彼の才能を磨いた」と言われます。

 

愛への渇きを覚えるのは恥ずべきことではありません。それがどこに向かうかが分かれ道なのです。イエスは十字架上で、神と人から見捨てられながら、「わたしの神、わたしの神よ」と、神を慕い求めました。

その姿を見たローマの百人隊長は、まるでイエスがローマ皇帝であるかのように、この方は、まことに神の子であったと告白しました。それは、使命に生きる者としての栄光に満ちていたからです。

ニコデモもヨセフもそこに栄光の姿を見たからこそ、人の目から自由にされ、イエスの葬りのために大胆に働き出せるようになったのです。「イエスの栄光」は、愛への渇きに耐え、苦難に向かう力として現されたのです。

 

   44節で、また、イエスは大声で言われた」記されているのは、彼らから身を隠された」前の出来事だと思われますが、福音記者ヨハネは敢えて、自分の信仰を隠した指導者との対比で、ここにイエスの大胆さを現す記事を記しました。これは、これまでのイエスの宣教をまとめたことばでもあります。

 

   イエスは、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」と言われました(44,45)

これはご自分をわたしを遣わした方との関係で位置付け、ご自身を信じることは、御父を信じること、また、ご自身を見ることは、御父を見ることだという大胆な発言で、これは御父をご自分と一体であると主張したことになります。

 

その上でイエスは、36節に続けるように、「わたしは、光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」と言われながら、「だれかがわたしの言うことを聞いてそれも守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」と、改めてご自分がこの世に遣わされた意味を語られました(4647)。それは、当時の宗教指導者たちが、自分たちの正当性や義ばかりを主張していたからです。

ただ同時にイエスを拒絶する者には、わたしが話したことばが、終りの日にその人をさばく(48)とも言われます。これは死刑の恩赦を拒絶して死刑につくようなものです。なお主はご自身のことばが、「父ご自身が・・お命じになった」ことであり(49)、イエスを拒絶する者は御父のことばを退けていることになると言われました。

 

最後に、「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています(50)とは、御父からイエスへの命令が、世の人々に永遠のいのちを与えることであるという意味です。

この福音書では、これまでいのちということばは32回、そのうち永遠のいのち15回も出てきます。いのちとは神との交わりです。つまり、永遠のいのちとは、御国で神の御顔を直接に仰ぎ見る喜びを、今から味わい始めることです。

人は心の奥底で自己嫌悪を感じ、それを隠すため、強がったり自分の正義を主張しますが、もうその必要はありません。神は、私たちの罪や汚れをご存知でありながら、ご自身の側から交わりを求め、御子を遣わしてくだいました。

パウロは後にちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と語りました。

 

   幸福へのあこがれは限りがません。ですから自分の満足のために生きる人は、必ず失望します。薬物依存症のように渇望感は激しさを増し、世界を敵に回さざるを得なくなります。

詩篇作者は地上ではあなたのほかに私はだれをも望みません・・私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです(詩篇73:25,28)と告白しましたが、永遠の幸せは、「生ける神」との「生きた交わり」にしかありません。

 

イエスは、繰り返しわたしを遣わした方(ここまで20回)」という表現を用い、この地で御父から与えられた使命を生きました。私たちもこの地で、イエスから遣わされた者としての使命を生きるのです。自分ではなく、イエスのために生きるところにこそ、「永遠のいのち」の喜びがあるのです。

私たちは、一瞬一瞬、自分のために生きて恨みと不満で一杯になるか、神のために生きて永遠の喜びに満たされるかの選択を迫られています。

最近は百年前のアドラー心理学が見直されていますが、そのもとで訓練を受けドイツの強制収容所を生き延びたフランクルは、「私の使命が分からない」と言う人に、「使命自身があなたを捜している」と答えました。それは、日々の生活の中で自分の心に迫ってくることに応答する生き方です。

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2016年3月13日 (日)

民数記11-14章「誰を恐れて生きるのか」

民数記11-14章 「誰を恐れて生きるのか?」

                                                 2016313

人は心の底で、「もっと良い生活があるはずでは・・・」という期待を持ちます。それは、「神はまた、人の心に永遠を与えられた(伝道者3:11)とあるように、人の心には、失われたエデンの園への憧れがあるからです。それは、エジプトから出たイスラエルの民にとっての「約束の地」への憧れと同じです。

 

しかし、イスラエルの民は、約束の地を目の前にして、恐れに圧倒され、しり込みしました。その思いが私たちにもあるのではないでしょうか。

たとえば、「神様に信頼しても、落胆させられるかも知れない」という「恐れ」があって、「神に信頼して、大胆にチャレンジする」という心の動きにブレーキをかけてはいないでしょうか。

また、自分の差し当たりの居場所を守ることばかりを考え、人の抵抗や拒絶を恐れて、言うべきことを言えなくなってしまい、結果的に、自分の居場所を失うというようなことがないでしょうか。

 

恐れに圧倒されるような人生に、「いのちの喜び」は生まれません。三千数百年前のイスラエルと神との関係は、今の自分と神との関係を表しているようです。

イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7:7)と言われました。目に見える現実に意気消沈する代わりに、神に大胆に期待し、道を開いていただきましょう。

  

1.「主の怒りが・・燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った」

   イスラエルの民はシナイ山を出て荒野に入って間もなく、「ひどく不平を鳴らして主(ヤハウェ)につぶやき(11:1)ました。これは、彼らが、かつて金の子牛を作って拝み、神の怒りを受けて断ち滅ぼされそうになりながら、モーセの執り成しによって罪を赦され、今度はそれに感動した民が、次から次と主に奉納物を持って来て、神の幕屋が出来上がったという感動の時から、それほど時間は経っていません。

そこでは、「(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた」と描かれていましたが、それから間もなくとも言えます。幕屋が建てられたのはイスラエルの民がエジプトを出て第二年目の第一の月で、そのとき民数記7章にあったように、彼らは祭壇奉献のために驚くべき量のささげものを主に進んでささげました。

またこれは、彼らが荒野での最初の過越の祭りを祝い、また民の要望により、死体で身を汚した人のための一月後れの過越の祭りを祝ってからも間もない時のことです。

そこでは、「(ヤハウェ)の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した(10:33)という神のあわれみが描かれていました。

 

彼らの気分の変わりやすさは、まさに幼児と同じです。お母さんに向かって満面の笑みを浮かべて喜んでいた幼児が、ちょっと嫌なことがあると、驚くほどの勢いで、泣きながら不満を訴えます。大人になるとは、目の前に期待外れのできごとがあっても、待つことができるようになることのはずですが、このときの彼らはまるで子供のままです。

しかし、考えてみたら、同じように目の前の出来事に揺れる心が私たちのうちにもあるのではないでしょうか。ただ、正直に感情を表すことを恥じているだけかもしれません。

 

そのとき、「(ヤハウェ)はこれを聞いて怒りを燃やし、主(ヤハウェ)の火が彼らに向かって燃え上がり」と記されます。ここで、原文の「怒り」は、「鼻」と同じ語源で、ここには、主が鼻を赤くして怒りの炎を発するような情景が描かれています。ただし、このとき、「主の火」は「宿営の端をなめ尽くした」だけで留まります。

それで民がモーセに向かってわめきますが、「モーセが主(ヤハウェ)に祈ると、その火は消えた(11:2)というのです。現在も、「神の怒りが天から啓示されている(ローマ1:18)という現実がありますが、同時に、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」てくださいました(Ⅱコリント5:18)

ですから今、十字架の蔭に隠れる者に「神の怒り」は届かないばかりか、神はその者に微笑んでおられるということができます。

 

なおイスラエルの民はかつて、海がふたつに分けられてエジプト軍の追っ手から自由になり、またエリムのオアシスで一息ついて、シンの荒野に出てすぐのとき、それは彼らがエジプトを旅立ってちょうど一か月が経ったばかりのときですが、モーセとアロンに食べ物がないとつぶやきました。

そのときからずっと、毎日、天からマナが降るようになりました。そればかりか夕方にはうずらが飛んできて宿営をおおったと記されていました。民は最初、その天からのマナに感動していました。

ところが、それから一年たって間もなくのこのとき、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ(11:4,5)と、「大声で泣いた」というのです。

ただそこで、マナは煮たり焼いたりと多様な調理法が可能で、「その味は、おいしいクリームの味のようであった(11:8)と敢えて描かれます。それは本来、すぐに食べ飽きてしまうような惨めな食べ物ではありませんでした。もちろん、彼らが望んだような食料の多様性は期待できませんでしたが、荒野の旅という現実の中では、「驚くべき恵み」と言えるものでした。

 

それに対しまた、「(ヤハウェ)の怒りは激しく燃え上がり(11:10)ました。ただここで主は、火を降らす代わりに、まずモーセの訴えに耳を傾けます。

モーセは、「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう・・私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます・・どうか私を殺してください(11:11-15)とまで訴えました。ただし、その訴えは事実に基づくものではありません。神はモーセに、「うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け(11:12)などとは言ってはおられないからです。

それに対し、主はモーセの認識を改めさせる代わりに、モーセが「良く知っている民の長老」の中から「七十人」を選ばせ、「あなたの上にある霊をいくらか取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう」と言ってくださいました(11:1617)

これは、出エジプト記18章で描かれた「千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長(21)とは異なる役割です。彼らはモーセに置かれらと同じ霊の一部を預けられ、モーセの精神的な負担を軽くする霊的な支援者でした。

現在の教会においても、牧師の心の痛みや葛藤を理解するような「神の霊」を授けられている人が必要です。人のたましいの世話に深く関わってきた人には、このモーセの気持ちが理解できるともに、不思議な慰めを味わうことでしょう。

 

同時に主は、一ヶ月分の肉を与えると約束されました。その際、モーセはそれが不可能かのように疑問を述べますが、主は「(ヤハウェ)の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる(11:23)と答えられました。これは私たちにとっても希望のみことばです。

そして、「主(ヤハウェ)のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んできて、宿営の上に落とし(11:31)、その量は最も少なく集めた者でも10ホメル(2,300)にもなりました。ただ、彼らが食べようとするやいなや「(ヤハウェ)の怒りが民に向かって燃え上がり、主(ヤハウェ)は非常に激しい疫病で民を打った(11:33)というのです。それでそこは「欲望の墓」を意味する「キブロテ・ハタアワ」と呼ばれました。それは民の欲望への厳しいさばきでした。

 

不思議にも、神は、彼らの欲望を一時的に満たした上で、さばかれました。神は、あらゆる願望をかなえることができる方ですが、それがさばきの始まりである場合があります。このことは詩篇78:26-31106:13-15でも繰り返し覚えられます。

私たちの現実でも、家庭や職場での願望がかなった直後から悲劇が始まるという例を見ることがあります。私たちは自分の願望から救われなければなりません。祈りは、自分の願いを訴える以前に、主の願いが私たち自身の願いへと変えられるプロセスであるべきでしょう。

 

   原文では、長老に注がれた主の「霊」も、うずらを運んだ主からの「風」も、同じ「ルーァハ」です。すべての自然現象を支配される神は、私たちの心をも変えてくださいます。

それは、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです(ピリピ2:13)とあるとおりです。

 

2.「なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか」

   モーセの姉のミリヤムはアロンとともにやってきて、彼の異邦人の妻のことで非難します。これはモーセの二番目の妻であった可能性があり、その結婚に関して、たしかに彼に非があったのかもしれません。ただ、彼らの真の意図はモーセに与えられた特権への「ねたみ」にあり、その疑問が、「(ヤハウェ)はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか」という表現でした(12:1,2)

 

ただ、「モーセという人は。地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(12:3)ので、彼は自分の立場を弁明しませんでした。

それで主は、アロンとミリヤムを呼び寄せ、モーセが預言者以上の存在であることを「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主(ヤハウェ)の姿を仰ぎ見ている」と説くとともに、「なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか」と叱責しました(12:8)

そして、「主(ヤハウェ)の怒りが彼らに向かって燃え上がり」、「雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた」のでした(12:9,10)

 

今も、しばしば指導者への不満が、指導者の配偶者への不満とセットになっている場合があります。しかし、主は、指導者を批判する人々の心の底にある動機の方にこそ目を向けられます。

 

ミリヤムへのさばきに恐れたアロンは、モーセを「わが主よ・・・」と敢えて呼びながら、「私たちの愚かさのために犯した罪を、どうか負わせないでください(私訳)と、あわれみを乞います。その際、彼女の症状が、「その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のよう」と描かれますが、これはハンセン病に似ています(12:11)。それで以前は「らい病」と訳されたのかもしれません。

それに応じるように、モーセも主に叫んで、「神よ。どうか、彼女をいやしてください」と叫びました(12:13)。しかし、主は七日間ミリヤムを宿営の外に締め出すことを命じました。それはツァラアトが癒された後の規定の隔離期間ですから、彼女の病は、モーセの祈りによって即座に癒されたことを意味します。

その際、「彼女の父が、彼女につばきをする」とは、辱めることを意味しますが、その効果が七日間続くというのは根拠が分かりません。とにかく、民もミリヤムの復帰を七日間待ち続けました。彼らは神が立てた権威に逆らうことの恐ろしさを実感しました。

 

  モーセは、神のみこころを直接受ける者であり、イエス以外の誰も彼に勝りはしません。アロンは祭司の代表、ミリヤムは預言者の代表として特別でしたが、現在のキリスト者もすべて祭司であり預言者です。

しかし、神がモーセの執り成しを受け入れたように、現在のキリスト者のためにも牧者を立てておられます。その働きをモーセと並べて権威づけることは許されませんが、みことばを解き明かし、執り成す働きの基本は同じです。

それでヘブル人への手紙では、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです(13:17)と記されます。

ただし牧師が、みことばの範囲を超えたことを語るなら、服従する必要がないのは当然です。ただ、牧師はひとり一人のために神に祈り、「たましいの見張り」をしているという働きを尊重するなら、当然ながら、自分が礼拝を守っている教会の牧師のことばを注意深く聴くべきでしょう。

 

3.「その地の人々を恐れてはならない・・主が私たちとともにおられるのだ」

   主は、カナンの地を探らせるために各部族の代表を遣わしました(13:2)。その名は1章とはまったく違います。彼らは次世代のリーダーとして立てられていた器かもしれません。

ここで特に注目されるのは、エフライム族の代表ホセアがヨシュアと名づけられ(13:16)、モーセの後継者とされようとしていることです。

 

彼らは、その地の民の勢力と土地の豊かさを調べるため、レボ(入り口)ハマテというヘルモン山の北にまで行き、四十日間カナン全土を偵察し、ふたりが棒で担がなければならないほどに大きなぶどうひとふさを運んできました。彼らは「そこはまことに乳と蜜が流れています(13:27)と、土地の豊かさを報告しました。

ただ同時に、「その地に住む民は力強く、その町は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました(13:28)と言います。「アナク」はヘブル語で「首」という意味があり、背の高さで有名でした。彼らはアナク人を、ノアのときの洪水で滅んだはずのネフィリムの子孫と思いました。彼らは「昔の勇士であり、名のある者たち」で、地に暴虐をもたらした張本人でした(創世記6:4,13)

 

なおその際、彼らは、その地に他の民族、アマレク人、へテ人、エブス人、エモリ人、カナン人が住んでいると報告はしますが、その悪い面ばかりを強調します。

そして、約束の地について、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ」と述べます。それは、その土地の豊かさと当時にその地形のゆえに多くの異なった民族が住み、互いに殺し合っている現実を指したものでしょう。

しかし、それは民族的なまとまりのない征服しやすい土地とも言えるのですが、そのように解釈する代わりに、「私たちがそこで見た民は、みな背の高い者たちだ」とアナク人にばかり目を向けさせ、彼らはそれに比較して「自分がいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と、推測を交えた誇張をしました(13:33)

 

それを聞いた「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かし」、「なぜ主(ヤハウェ)は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子はさらわれてしまうのに」と、悲観的な想像を巡らしたばかりか、「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出します(14:1-4)

それに対しヨシュアとユダ族代表のカレブは、「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と事実を冷静に述べながら、「私たちが主(ヤハウェ)のみこころにかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちにくださる・・ただ主(ヤハウェ)に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない・・彼らの守りは・・取り去られている・・(ヤハウェ)が私たちとともにおられるのだ(14:8,9)と必死に説得しました。

先の109節で、主は、「戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが・・主(ヤハウェ)に覚えられ・・・敵から救われるためである」と言っておられました。勝利は約束されていたのです。

 

しかし、「全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出す(14:10)しまつでした。それで、「(ヤハウェ)の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れます。

そして、モーセに向かって、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか」と、その不信仰を怒ります(14:10,11)

主はエジプト軍の追っ手を海に沈め、マナを天から降らせ、水を岩から湧き上らせてくださいました。主の栄光の雲こそ、全能の主の臨在のしるしでした。

 

彼らの不信仰は、私たちの想像を超えています。救いようのないほどに「愚か」に思えます。ですから主はモーセに向かって、「わたしは彼らを疫病で打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう(14:11,12)と仰せられました。

ところが、モーセは必死に神を説得するかのように訴えます。それは、「あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を進んでおられるのを」、異邦の民」が「聞いている」ので、主がイスラエルの民を殺すなら、彼らは「主(ヤハウェ)はこの民を・・誓った地に導きいれることができなかった」と(ヤハウェ)の無力さをあざ笑うだろうというのです(14:14,16)

そればかりか、そうすれば、主ご自身の「(ヤハウェ)は怒るのにおそく、恵み豊かである・・」との約束を裏切ることになるとさえ訴えました(14:18)。ここでモーセがまるで親友に語るように、率直に自分の意見を述べています。

 

(ヤハウェ)はそれを受け止め、「わたしはあなたのことばどおりに赦そう」と言ってくださいました(14:20)。ただ同時に主は、「このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない(14:22,23)とも言われました。

そして、カレブとヨシュア以外の二十歳以上の男子が荒野で死に絶えるまで荒野をさ迷わせ、カナンを偵察した四十日を四十年に数え直して彼らを荒野に留めるというさばきを下しました(2934)

そしてその目に見える現れとして、偵察に行った他の十人はたちどころに、「(ヤハウェ)の前に、疫病で死んだ」(14:37)のでした。

 

   民はこのさばきを聞いて、悔い改めましたが、今度は無謀にも、主の命令に逆らって、山地の峰のほうに登ってゆきました。しかし、「(ヤハウェ)の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった」(14:44)ので、彼らは徹底的に敗北し、荒野からカナンに北上する最短路は永遠に閉ざされました。

 

   彼らは、目に見える敵の勢力に恐れをなして、神のみわざを忘れました。私たちも臆病のゆえに主に従うことができないで、大きな回り道をすることはがないでしょうか。

私たちの御国への旅路の途中には「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすものを捜し求めながら、歩き回っています(Ⅰペテロ5:8)。しかし、その獰猛なライオンたちは、長く強い鎖で繋がれているのです。

神は、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」と言っておられます。それに応じて、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と告白するのです(ヘブル10:38,39)

 

 

イエスは私たちに平穏な生活を約束してくださったと思いたいところですが、実際には、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と断言してくださいました。ただし、同時に、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16:33)とも言われました。

不思議にも、主の決定的な勝利は、十字架の死を通して初めて与えられたものでした。ですから、目の前の十字架を見て恐れ退く者は、栄光の勝利をともに味わうことができません。私たちのうちに生きておられる主は、死に勝利された方です。

 

しかも、恐れるべき方を恐れる中でこそ、恐れなくてよいものの実態が見えてくるものです。「恐れ」は、大切な感覚ですが、そのために「進むべき道」の決断がゆがめられることはあってはありません。

たとえば、詩篇55篇には、ダビデが恐怖に圧倒されている様子が描かれていますが、彼は恐れに圧倒されて退却することはありませんでした。

彼は恐れの感情を主の前で正直に認めることによって、主からの力を受け、敵に勝利することができました。「勇気とは、祈られた恐れ」(Mut ist Angst,die gebetet hat)だからです。

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2016年3月 6日 (日)

民数記8-10章「主が先立って歩まれる」

民数記810章 「主が先立って歩まれる」

                                                201636

多くの人が落ち込むときの最大の原因は、自分の将来の希望が見えなくなったときです。しかし、そんなときでも、「あなたがたにはあすのことはわからないのです」と断言されると、かえって安心できるかもしれません。

もちろん、信仰者はどんなときにも夢を持つことができます。しかしそれは、この地での数年後の保証というより、この目に見える矛盾に満ちた世界が根本的に造り変えられる希望、「新しい天と新しい地」が実現するときです。

そこは神の喜び、平和(シャローム)が満ちた世界です。それを現実として見るとき、あすが分らない世界に、勇気を持って踏み出すことができるのではないでしょうか。
 

1.「選ばれた種族、王である祭司」としての任職

   神の幕屋は、神が民の真ん中に住んでくださることの象徴でした。そして、81節から4節まで、「七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい(2)と命じられています。

これは祭司が夜を撤して守り続ける最大の奉仕でしたが、その意味は、「(ヤハウェ)の御顔」がイスラエルを「照らし」、また「主(ヤハウェ)の御顔」がイスラエルに「向けられる」ことを指し示すことです(6:25,26)

 

85節から19節までは「レビ人を・・きよめよ」との命令が記されます。11節は英語ESVでは、Aaron shall offer the Levites before the LORD as a wave offering from the people of Israel(アロンはレビ人をイスラエルの民からの揺り動かすささげ物として主の前にささげなさい)と訳されます。

a wave offeringとは、レビ記73031節では牛や羊などの和解のいけにえの「胸を奉献物として主(ヤハウェ)に向かって揺り動かしなさい・・・その胸はアロンとその子らのものとなる」と記されていました。これは、ささげ物が主の所有であることを現わしながら、同時に、祭司の自由に任されることを意味します。

ですから、ここではレビ人が主のものとしてささげられながら、その後、祭司のしもべとなって、幕屋の奉仕に着くことを意味するのだと思われます。そのことが、13節では「あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを主への揺り動かすささげものとしてささげなさい(私訳)と記されます。

 

それは、神がイスラエルを奴隷状態から解放するために、「エジプトの地で・・(過ぎ越しの子羊の血が塗られていない家の)すべての初子を打ち殺した(17)ことを覚えるためです。

神の救いは、犠牲なくしてはあり得ませんでした。それで、レビ人は自分たちを全イスラルの初子の代わりに生きた供え物としてささげる(ローマ12:1)必要があったのです。

そして、21節は、「レビ人は罪から自分自身をきよめ・・アロンは彼らを揺り動かすささげ物としてささげ、彼らのための贖いをし、きよめた」と訳すことができます。

 

レビ人が繰り返し、a wave offering「揺り動かすささげもの」として描かれていることは興味深いことです。私たちも、主にささげられ、また人に仕えるために生かされているのです。

しばしば、信仰が自己実現の手段かのように誤解されます。パウロは、私たちには「罪の奴隷」になるか、「義の奴隷」「神の奴隷」になるかの二者択一しかありえないというようなことを記しながら、「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです」と記しています(ローマ6:16-23)。

 

私たちは無意識のうちに自分の個性や能力を生かすことが神の栄光を現す道だと思ってしまいがちですが、そこから生まれるのは、称賛や名誉や自己満足への憧れです。それはヒーローになりたいという文化の影響を受けています。

しかし、そこからは絶え間のない人と人との比較地獄が生まれます。ごく普通の目立たない生き方がばからしく思えるかもしれません。しかし、神に用いられているという喜びは、人の評価ではなく、神との交わりから生まれます。大切なのは、「神の望み」を生きることです。

事実、私たちのすぐ隣に、慰めやいたわりや援助を必要とする傷ついた人たちが必ずいます。そして私たちのまわりの家族のため、隣人のため、また社会のために「しなければならないこと」が無数にあります

ところが、私たちはヒーローに憧れる文化の中で、そのような小さなことを「つまらない」ことのように誤解しているのです。しかし、神は確かにそのような、目立たない、人から評価されない働きの方に目を向けておられます。

 

ただし、幕屋の奉仕は肉体労働であるため、50歳の定年制が設けられます。その立場は特権ではなく「奉仕の務めを果たすため」だからです(8:25)

ただ、高齢の者は「任務を果たすのを助けることはできる(26)と添えられています。これは高齢化を迎えた現代にもある示唆を与える制度かもしれません。

 

   私たちもエジプトの初子と同じように自分の罪のゆえに神の怒りを受けて滅びるべき存在でしたが、神の御子の尊い犠牲によって救いへと招き入れられます。それで私たちもレビ人と同じように、「選ばれた種族、王である祭司(Ⅰペテロ2:9)と呼ばれ、神を礼拝するための奉仕へと招かれています。

キリスト者は神によって一方的に選ばれましたが、それは特権を享受するためではなく、「あなたがたのからだを、神に受け入られる、聖い、生きた供え物としてささげなさい(ローマ12:1)という献身が命じられているのです。

 

2.過ぎ越しを祝うことは、恵みの特権であるとともに義務

   91-14節は、新改訳では、「過越(すぎこし)のいけにえをささげる(2,4,5,6,10,11,13,14)と八回繰り返されますが、原文では「過越(ペサハ)を行う」と記され、「過越を祝う(守る)」という翻訳が多数あります。

確かに、「(ヤハウェ)へのささげものをささげる」(7,13)ともあるように、祭りの中心はささげることにはあるのですが、ここでは過ぎ越しの「祭りへの参加」こそが問われていると考えるべきではないでしょうか。

私たちはすぐ、何かに貢献できること自体に意味を見出しがちですが、聖書で繰り返されているテーマは、神のみわざを思い起こし続けることに他なりません。過越の祭りを守ること自体が、「神の望み」なのです。

 

   神はイスラエルを救い出すためエジプトに十の災いを下しますが、その最後に当たって彼らに、「家族ごとに羊一頭を用意し」、その血を二本の門柱とかもいにつけ、その肉を食べるように命じました(出エジ12:3)。そして、主が真夜中にエジプトのすべての初子を打ったとき、「主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださった(12:27)のでした。

それを覚えるため、3月から4月にかけての満月の前日(太陰暦の14)に、子羊を用意してほふることが命じられていました。

 

   ところが、近親者の死亡などのため死体に触れた者は一時的に「宿営の外に送り出され(5:2私訳)ました。そのように「身を汚している(7)者たちから、年に一度の過越のいけにえを、「ささげることを禁じられている」こと自体への疑問が出されました。

それで主は、彼らに一ヶ月遅れの同じ日に祭りを祝うことを許し、「遠い旅路にあった」(10)人をも含めさせ、一人でも恵みの食卓から漏れないように配慮くださいました。

ただし、そのような機会を軽蔑する者には、「身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越を守ることをやめたなら、その者は民から断ち切られなければならない」13節)と、死刑を命じられました。

 

   過越のいけにえはイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されるためにたった一度だけ必要だったことです。そして、過越の祭りは、この一度限りの決定的な解放を思い起こすことにあります。彼らはすでにエジプトの奴隷状態から解放されているのですから、過越のいけにえの目的は、神のみわざを家族と共に思い起こし感謝すること自体にあります。

たとえば、あなたに特別な恩恵を施してくれた人は、あなたの物質的なお返しを期待しはしないでしょうが、その恩を忘れたら、とっても悲しむことでしょう。忘恩こそ最大の罪です。

最も大切なことは、私たちの側で神のために何かをすることではありません。神はあなたのささげものを必要とするほど貧しい方ではありません。しかし、神は、私たちがいかに忘れっぽいかをご存知だからこそ、神の救いを思い起こすための具体的な祭りを定期的に定めてくださったのです。

 

   そして、私たちにとっての過越とは、イエスが私たちを罪の奴隷状態から解放するために、イエスが十字架に架かってくださったことです。

バプテスマのヨハネは自分の弟子に向かってイエスを指して、「見よ。神の小羊」(ヨハネ1:36)と言いました。イエスこそが私たちにとっての新しい過越の小羊になってくださったのです。そして、聖餐式とはそれを覚えるための神が設定してくださった祭りです。

 

   聖餐式は新しい過越の祭りです。もちろん、聖餐にあずからないことによって、救いを失うというわけではありませんが、原則は適用できます。

私たちは、人から非難されるような罪を犯すのではないかと自分を吟味する以前に、恵みを味わう機会を自分から拒絶してはいないかを問うべきでしょう。

 

3.「主(ヤハウェ)の命令によって宿営し、主(ヤハウェ)の命令によって旅立った」

   このようにイスラエルのすべての民が、荒野での最初の過越の祭りを祝うことができて初めて、彼らはシナイ山から約束の地に向かって旅立つ準備が整いました。そしてまず、「幕屋を立てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった(9:15)と、出エジプト記最後の描写を思い起されます。これこそイエスの時代の人々が待ち焦がれていた神の臨在のしるしで、人々はそれをシェキナーと呼びました。

そして、「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所でイスラエル人は宿営し」(9:17)たと描かれます。

18節~23節は美しい詩の形になっています。その最初と最後で、厳密には、(ヤハウェ)の口によって・・・旅立ち、主(ヤハウェ)の口によって宿営した・・・主(ヤハウェ)の口によって宿営し、主(ヤハウェ)の口によって旅立った」と記されています。

そのことをもとに、「人はパンだけで生きるのではなく、(ヤハウェ)の口から出るすべての者で生きる(申命記8:3)と言われます。

 

19節では、「長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主(ヤハウェ)の戒めを守って、旅立たなかった」と記されていますが、彼らは急いで約束の地に向かいたがったはずですが、主の導きに忠実でした。

一方、「また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主(ヤハウェ)の命令によって宿営し、主(ヤハウェ)の命令によって旅立った(20)とありますが、神の幕屋を組み立てること、また、各々の宿営のテントを張るには大変な労力が必要でしたが、彼らはどんなに短い滞在でも、長期滞在と同じ宿営の準備をしました。

しかし、「雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った(21)とあるように、本当に短いサイクルで雲が動き出すことがあっても、彼らはすぐに神の幕屋を決められた手順に従ってたたみ、移動しました。

一方、「二日でも、一月でも、もっと長い間でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った(22節下線私訳)と、彼らには主がいつ移動されるかの予想がつかなかったことが強調されています。

 

神の幕屋は、短期の滞在でも長期の滞在でも、まったく同じような建て方、またたたみ方が求められていました。私たちはこの地では旅人であり寄留者であるとも述べられますが、それは同時に、長期滞在にも仮住まいにも、両方に対応できる生活でもあります。

たとえば、あなたの住んでいる地域、また礼拝を守っている教会で、「私はいつ引っ越すか分からないので、奉仕ができません」などと言うことは正しい生き方ではありません。そんなことを言っていたら、どこにおいても中途半端な働きしかできなくなります。

たとえば、よく言われるように、「骨を埋める覚悟で、その地でお仕えするとともに、同時に、主の導きであるならば、すぐにでも自分の働きに固執せずに移動する必要があるということです。その点で、私たちはあまりにも自分の予定や計画にしばられ、柔軟な対応ができなくなりがちではないでしょうか。これは、しばしば、長期的な奉仕が何よりも大切な牧師の働きに当てはめて言われることがあります。

 

なお、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)とある通り、現在の(ヤハウェ)の栄光」は、教会の交わりの真ん中にあります。

ですから、私たちは、教会を離れた生活の中で、神が命じる旅立ちのときもまた宿営のときも知ることはできません。

 

世の人々は、明日のことを知りたいと占いに走ります。それこそサタンの計略です。それは麻薬のように、一時的に人を安心させながら、その後にさらに大きな不安をもたらし、人を依存させてゆきます。しかし、神のみこころは、明日のことを知らせないということです。雲はいつ離れるかわからないのです。 

 

ですから次のヤコブの手紙413-15節のみことばを覚えるべきでしょう。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』という人たち。あなたがたにはあすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、またあのことをしよう』

 

自分の計画に囚われる者は、神を自分の目的の達成の手段に落としてしまいます。しかし私たちは、いつでもどこでも主との交わりを最優先し、その中で柔軟な計画を立て、目の前の働きに誠実を尽くすべきです。

イスラエルの移動の際には、神の幕屋の解体と組み立てが大変な労を要しましたが、たとい一晩の滞在でも一年の滞在と同じ準備が求められていたのですから、私たちもその原則に従うべきです。

 

4.「主の契約の箱は彼らの先頭に立って進み・・休息の場所を捜した」

   101-10節には、会衆の召集と、宿営の出発の合図のためのラッパの吹き方が記されています。それぞれ、二つを長く吹き鳴らす、ひとつを吹き鳴らす、短く吹き鳴らす、二度目に短く吹き鳴らすなどの区別がありました。そして、これは祭司の働きでした。

これはイスラエルが、神ご自身の治める国であることの象徴です。ですから、侵略者との戦いに出る場合は、「ラッパを短く吹き鳴らす・・・敵から救われるためである(9)と、主の召集に従うときの勝利が確実であることが約束されます。

パウロはこのラッパのたとえを用いながら、集会においては、「舌で明瞭なことばを語る」必要を説きました(Ⅰコリント14:8,9)

 

   そしてついに「第二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った」(10:11)のでした。するとユダの宿営の旗の出発に続き、レビのゲルション族、メラリ族が幕屋が取り外して運び、南側のルベンの旗に続いて「聖なるものを運ぶケハテ族が出発。彼らが着くまでに幕屋は建て終えられる」(10:21)と記されます。その後、西側のエフライム、北側のダンの旗のもとに残りが出発します。

 

   興味深いのは、主ご自身が導いてくださるのに、モーセはミデアン人の妻の兄弟を道案内として同行することを求めていることです。それは神の導きを求めることと、人間の道案内を求めることには矛盾はないということです。

信仰という名のもとに人間の様々の経験が軽蔑されることがあってはなりません。なお、士師記116節によると「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫」として同行したと記されています。

 

   こうして、「彼らは主(ヤハウェ)の山を出て、三日の道のりを進んだ」のですが、その際、「主(ヤハウェ)の契約の箱は彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した(10:33)と記されます。

それは、「契約の箱」は主の臨在の現われで、出発の際は民の真ん中にあるのですが、出発後、すぐに先頭に移ったと描かれています。休息の場所を主ご自身が先頭に立って捜してくださるというのは何という慰めでしょう。

 

それでモーセは、契約の箱が出発する際は、「(ヤハウェ)よ。立ち上がってください・・あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように」と祈り、とどまるときは「主(ヤハウェ)よ。お帰りください。イスラエルの幾千幾万の民のもとに(新改訳は「幾千万」と記されているがそれでは多すぎる)」と祈りました(10:35,36)

 

   私たちの場合は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい(ヘブル12:2)と命じられます。それは、イエスが私たちに先立って十字架の苦しみを味わい、栄光を受けられたからです。

私たちは「その足跡に従う(Ⅰペテロ2:21)ように召されました。イスラエルが主に導かれて出て行ったのは、水も食料もない荒野、強大な敵の前でした。それはまるで主ご自身が迷っておられるようにさえ見えたことでしょう。しかし、それこそ、乳と蜜の流れる約束の地への間違いのない道だったのです。

 

   イスラエルの民は、主の雲だけに目を留めながら、「あすのことはわからない」まま、主の契約の箱を先頭に荒野の中を歩みました。私たちも、「きょう一日」を、契約のみことばに信頼して歩みます。

聖書には、「今日」と「永遠」のことは記されていますが、「あす」のことは記されていません。それは、与えられた一日を大切に生きる中から、おのずと「あす」が開かれるからです。

ですからイエスは、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)と言われました。しかも、人生のゴールが栄光に包まれていることを確信できる者にとっては、途上に起きるすべてのことは、驚きと喜びと冒険の機会となるのではないでしょうか。

多くの人は、人生のゴールが見えていないからこそ明日が不安になります。しかし私たちは、「あすがわからないからこそ、人生は退屈しない!」と言うことができるのです。

このときのイスラエルの民の目的地は、「広い良い地、乳と蜜の流れる地」(3:8)、私たちの目的地は、神の平和(シャローム)に満ちた「新しい天と新しい地」です。

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