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2016年4月24日 (日)

民数記19-21章「困難と共存しつつ、主を仰ぎ見る」

民数記19章―21章 「困難と共存しつつ主を仰ぎ見る」

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現代は、しばしば「心地よさ」や「手軽さ」が大切にされます。そして米国の教会などでも一時、「求道者に優しい礼拝」という新しい動きが注目されましたが、最近は、その見直しが起き始めていると言われます。なぜなら、聖書に記された礼拝はそれと正反対とも言えるものだからです。

礼拝は、本来、主の御前に立ち得ない者が、主のあわれみによって招き入れられることから成り立っています。神の圧倒的な「聖さ」の前に跪くことの中に、逆説的に、不思議な平安と歓喜が生まれます。求道者の方は何も分からないようでも、その厳かさに引き寄せられるという面があるのではないでしょうか。

神を自分の都合に合わせるところから、すべての堕落が始まっていることを決して忘れてはなりません。しかも私たちは、楽に生きられるために神の民とされたのではなく、不条理が満ちた世界に遣わされ、神の愛を分ち合うために召されたのです。

 

なお、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された・・」(ヨハネ3:16)は聖書の中の聖書と呼ばれますが、それが民数記との関連で記されていることを知る人は多くはいません。

劣等感」という概念を広めた心理学者アドラーは、それを、人が自分の境遇を改善しようと努力する原因として優しく定義しました。ですから、自分のうちにある劣等感を恥じる必要はありません。ただし、それが歪むと、弱さを隠そうとする傲慢さか、同情を求める自己憐憫に陥るので、それが問題なのです。

今、イスラエルは家族の死を見守るだけの無力な民から、勝利者へと成長しようとしています。彼らはかつて、困難の中で、傲慢と自己憐憫に揺れていました。しかし、神はそれを、「弱さの自覚と祈り」に導いておられるように思えます。

 

1.繰り返し迎える葬式のなかでの「汚れをきよめる水」

   主(ヤハウェ)はイスラエルの民にシナイの荒野から北上する道を示されましたが、彼らは敵の強さを知って怖気づき、エジプトに帰ると言い出しました。

主はご自身の圧倒的な力を示し、信仰を育み続けてこられましたから、この不信仰に対し、20歳以上の男子が死に絶えるまで約束の地への進軍を止めさせるというさばきを下されました。そして彼らは、それからの約四十年間、死体の埋葬ばかりに忙しくなります。

 

19章のきよめの儀式は、それを前提に記されます。その目的は、主が「わたしがその中に住む宿営を汚さないように(5:3)と言っておられたように、神が示す「きよさ」をいつも覚えることにあります。

私たちが神の御前に出ることができるのは決して当たり前のことではありません。その際、モラル(道徳)としてではなく儀式的な面での「汚れ」と「きよさ」を区別する尺度があります。その鍵は、レビ記に繰り返される、「自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい(レビ11:44)という命令にあります。

それは神の「聖さ」に倣うことです。神は死とセックスから無縁であり、特に「死」は、アダムの罪から始まっているので、「汚れ」となるのです。

 

死体に触れた者が宿営の中に戻るには、レビ記1415章にあったような「きよめのいけにえ」をささげる必要があったとも考えられますが、それが明記されてきませんでした。死体に触れること自体は当然ながら「罪」ではないはずですが、それは「汚れ」であるので「きよめ」の手続きが必要でした。

11節では、「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる」と記されていますが、それから「きよめ」られるためのいけにえをささげる余裕は彼らにはありません。彼らは貧しすぎたのです。

それで主は、「赤い雌牛(19:2)を宿営の外でほふらせ、それを焼く際に、「杉の木とヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れ(19:6)、特別なその「」を作らせました。雌牛の「」も、杉の赤みがかった色も、緋色もすべて血の赤をイメージさせます。その「」を集めて保存させ、「汚れをきよめる水」を作らせたのです。

 

それは、「罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水Living waterを加え」て作られます。そして「身のきよい人がヒソプを取ってこの水にひたし・・・汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられ・・衣服を洗い、水を浴びて」宿営の中に戻ることがでたというのです(19:17-19)

そして、これらはすべて、(ヤハウェ)の聖所が汚されず、主がイスラエルの民の真ん中に住むことができるために必要な手続きでした。これは彼らが、主の御前に招かれることを当たり前とは思わず、同時に、主の恵みを感謝できるための、目に見て体で感じることができる恵みの手続きでした。

 

そして、このことを背景に、新約では、「もし・・雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると・・肉体をきよいものにするとすれば、ましてキリストが傷のないご自身を・・神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブル9:14)と記されます。

私たちは汚れに染まった世に遣わされ、身も心も汚れるとしても、キリストの血は私たちを真にきよめることができます。自分の身を守ろうと戦々恐々となる前に、主にあるきよめの力に信頼して世に出るべきです。

今、死体に触れるという「汚れ」の規定が効力を失ったのは、イエス・キリストが死の力に打ち勝ったからです。現在は、「汚れ」から遠ざかること以上に、イエス・キリストに結びつくことが何より大切です。

 

2.岩を打って水を湧き出させたモーセへのさばき

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた(20:1)とは、20章の終わりにアロンの死が報じられることから計算して、「エジプトの国を出てから四十年目(33:38)であることが分かります。

何と、この間の荒野での生活はほとんど描かれないまま、突然、ミリヤムの死が驚くほど簡単に報じられます。

 

ここで彼らはモーセとアロンに、自分たちの兄弟たちが「(ヤハウェ)の前で」次々と死んだことを思い起させながら、「なぜ、あなたがたは主(ヤハウェ)の集会をこの荒野に引き入れて・・・死なせようとするのか・・ここは穀物も・・ぶどうもざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない(20:4)と激しく抗議します。

そのとき「(ヤハウェ)の栄光が・・現れ」、モーセに「杖を取れ・・会衆を集めよ・・彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ」(20:8)と言われます。

この際、彼が「(ヤハウェ)の前から杖を取って・・集会を召集した」まではよかったのですが、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言ってしまいました(20:10)。そこにはモーセとアロン自身が岩から水を出すような傲慢さが表われています。

 

しかも、主は「岩に命じれば・・」と言われたのに、モーセは「杖で岩を二度打」ちました(20:11)。約40年前、シナイ山途上の荒野で、主は「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る(出エジ17:6)と言われましたが、そこには主の命令があったのです。

また、主はこの際、「彼らのために水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ」と命じておられるのに、モーセは、その主のあわれみを彼らに伝えることを怠っているのです。

 

それで主は、モーセとアロンに「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前で聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導きいれることはできない」(20:12)と言われました。そして、これが「メリバ(争い)の水」と呼ばれ、「主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである(20:13)と記されます。

ここには、神の「さ」を犯すことの厳しさが示されます。かつて、アロンのふたりの息子たちが「主が命じなかった異なった火をささげ」て、主から火で焼き尽くされましたが(レビ10:1,2)、モーセへのさばきは、それと同じような意味を持っていると考えられます。

 

それにしても、モーセが「軽率なことを口にした(詩篇106:33)のも無理がないかもしれません。彼は自分の利益を何も求めず、主に従ってひたすら民に仕え続けたのに、民は苦情ばかり言い立てたあげく、彼を殺人者呼ばわりしました。彼は切羽詰った余り、自分の力を見せることで民の不満を抑えたい衝動に駆られたのでしょう。

しかしこれに対し、主はモーセに「あなたがたはわたしを信ぜず・・」と言われました。多くの人は、「信仰」を、可能性を信じる力とか、物事を成し遂げる力かのように誤解していますが、「主を信じる」とは、主のことばにまっすぐ「応答」することに他なりません。

しかも、主はモーセに、「わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」と言われました。それは、彼の使命が、自分の有能さや誠実さを証明して民を導くことではなく、彼らの前で、主ご自身を「聖なる方」として証しすることだったからです。

 

3. 燃える蛇からの救い・・青銅の蛇を見上げる

  このとき彼らは約四十年前の失敗の原点、カデシュ・バルネアにいましたが、死海の東南にある通商路の「王の道」を迂回して約束の地に侵入するルートを取ろうと、その通路にあたるエドムに使者を遣わします。彼らは「あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません・・・水を飲むことがあれば、その代価を払います」とまで言いますが、エドムは領土通過の許可をくれなかったばかりか「強力な大軍勢を率いて彼らを迎えつつために出てきた」というのです(20:17-20)

エドムはヤコブの兄エサウの子孫ですから、彼らは戦いを避けさらに迂回しようとしますが、彼らの歩んだ道はよく分かりません。彼らが次に着いた「ホル山」に関して、新改訳は「エドムの国の領土にあるホル山で(20:23)と訳されますが、「エドムとの国境にある」との訳が一般的です。それは、カデシュから北東に20㎞あまりにある山かもしれません。

とにかく、その山の頂でアロンは死を迎えますが、その前に大祭司の地位が彼の息子のエルアザルに譲られます。

 

   21章では、突然、カデシュの北に広がるネゲブ地方に住む「カナン人アラデの王」がイスラエルの民に襲いかかって来たと記されます。アラデとは死海の西側、マサダの西だと思われます。

イスラエルは約40年前、カナン人の前に怯えましたが、このときは主に信頼して勝利を収めます。「(ヤハウェ)はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡された(21:3)とは、新しい時代の始まりを示す画期的な出来事でした。

 

   ところがここで、不思議にも、「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海(紅海、アカバ湾)の道に旅立った」(21:4)と描かれます。これは、主の臨在を表わす「雲の柱」が、彼らを約束の地とは反対方向の南に導いたことを意味します。彼らにしたら、「ようやくカナン人に打ち勝った。あと一歩で約束の地・・」と思ったであろう矢先のことです。

そのような中で、「民は、途中でがまんができなくなり・・」、モーセにばかりか、「神・・に逆らって」、『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした』とまで言いました(21:5)

失望の余りとは言え、天からの恵みのマナを「このみじめな食物・・」と呼ぶとは何という恩知らずでしょう!

 

 そこで(ヤハウェ)は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ(21:6)というさばきが下されます。そこで、民は慌てて、「蛇を取り去ってくださるよう」願います(21:7)。しかし、主は不思議な解決を与えます。

それは、「青銅の蛇」を作り「旗ざおの上に」つけさせた上で、「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と約束されたことです(21:8)

彼らは恵みを忘れる天才でした。それで主は、彼らに蛇にかまれるという危険と痛みを与えた上で、それとセットに癒しの恵みを与えました。それは彼らが自分たちの罪深さを忘れずに、しかも主に信頼して希望を持つためでした。

 

イエスは、ニコデモとの対話で、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3:1415)と言われました。

ただし主はその直前に、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です(13節)と言われました。これはダニエルが、「見よ。人の子のような方が天の雲によって来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた(ダニエル7:13)と言われたことを思い起こさせます。

イエスは、ご自身を神の右の座に着く方であると示唆し、荒野の蛇のように上げられると言われました。それはご自身の十字架を指します。つまり、イエスはご自身が全能の神の右の座に着く方として、人々が最も忌み嫌う十字架に架けられると言われたのです。十字架上のイエスは、「王の王、主の主」であられました。そのことを信じる者が「永遠のいのちを持つことができる」というのです。

青銅の蛇を仰ぎ見る者が生きることができるなら、まして、十字架に架けられた神の御子を仰ぎ見て救われないわけはありません

 

私たちも彼らのように、自業自得で苦しみに会うことがあります。しかも、自分の罪を悔いたはずなのに、同じ間違いを繰り返してはいないでしょうか。

そんなとき、私たちは「こんないいかげんな信仰では赦されようがないのでは・・・」と思うかもしれません。しかし、ここで明らかなように、「信じる」とは、あなたの信心の力ではなく、「旗ざおの上の青銅の蛇を仰ぎ見る」という心の目の方向に他ならないのです。

 

   それをもとに、ヨハネの福音書では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)と記されます。

私たちは自己嫌悪に陥りそうになるたびに、自分の信仰を自分で励ますというのではなく、ただイエスを見上げるだけでよいのです。そこには、明らかな「罪の赦し」が保証されています。なぜなら、「キリストは・・不敬虔な者のために死んでくださいました(ローマ5:6)と保証されているからです。

 

内村鑑三はかつて、自分を救い難いほどの偽善者と呼び、自分の心の醜さに深く悩み苦しんでいました。そんな中で、アマスト大学総理のシーリーから次のように言われ、平安と歓喜に満たされます。

 

  「君は君の内をのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ、おのれに省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがないたまいしイエスを仰ぎ見ないのか。君のなすところは、小児が植え木を鉢に植えて、その成長を確定(たしか)めんと欲して、毎日その根を抜いて見ると同然である。何ゆえに、これを神と日光とにゆだね奉り、安心して君の成長を待たぬのか

 

内村鑑三は渡米当時のことを、「私の当時の理想は慈善家と成ることであった。貧民救済、醜業婦救済が私の生涯の目的であった。私はこの目的をいだいて、私の理想の国たりし米国に行いた・・・しかしながら私の霊魂の深い所に歓喜と満足とはなかった。私は義務の念にかられ自己にむちうちつつ慈善事業を学んだ。私は苦しいキリスト信者であった」と記しています。

彼はアメリカに感心しながらも同時に深い失望をも味わっていました。彼は、自分を責めると同時に人も社会も責めていました。しかし、シーリー先生に出会って変えられます。

彼はその人柄を、「先生は私の理想とは全然違った人であった。先生において見るべきは、学識でも威厳でも活動でもなかった。嬰児のごとき謙遜であった」と記しています。

 

しばしば、愛や平和という理想に熱くなり、まわりの人々を非難ばかりする人がいます。ある人々の顔を思い浮かべながら、「彼らのような人間がのさばっているから、国がよくならない・・」と思っているかもしれません。しかし、それでは自爆テロと大差がありません。彼らは、人を非難することで、自分自身が愛の交わりを壊しているということに気づきません。愛の交わりは、義務からではなく、謙遜から生まれるのです。

 

4.イスラエルに与えられた決定的な勝利

  彼らはその後、さらに南にくだりアカバ湾岸のエツヨン・ゲベルまで達し(申命記2:8)、そこから北上しエドムの南東部を迂回し、さらにその北のモアブの東側を通ります。そして、モアブの北のアルノン川を渡り、そこから北西に進みエモリ人の地に侵入し、死海の北の約束の地を見下ろすことができる「ピスガの頂」(標高800m)にまで達します(21:20)

しばらく後にモーセはここから約束の地を見渡しつつ息を引き取りますが、この時はエモリ人の王シホンに領土の通過を懇願します(21:22)。しかし彼らはそれを拒み、戦いを仕掛けてきました。

それに対し「イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した」と記されます。ヤボク川はかつてヤコブの格闘で思い出深い地ですが、アルノン川からヤボク川までは約80㎞もあります。

東のアモン人とは戦いを避けて国境を守りますが、その結果、ヨルダン川の東側の地を占領し、「エモリ人のすべての町々、ヘシュボン(首都)とそれに属するすべての村落に住みついた(21:25)と記されます。彼らはついに、「住みつく」ことができる地を与えられたのです。

 

   そればかりか主は彼らをさらにヤボク川を渡らせ、さらに約60㎞北のエデレイにまで達します。そこはガリラヤ湖東側に位置する強国バシャンの地でした。その王オグはイスラエルを迎え撃ちます。つまり、この場合は、イスラエルの民が一方的な侵略者であったのです。

主はモーセに、「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた(21:34)と言われます。これは、主ご自身がその地の住民をイスラエルの民を用いてさばいたという意味です。これによって、イスラエルの民は死海からガリラヤ湖の北に至るヨルダン川東の広大な土地を占領することになりました。

 

   逃亡奴隷の集団が、約束の地を従える強国へと成長しました。彼らは荒野で主のお取り扱いを受け、最後には、燃える蛇の事件を通して、困難と共存しながら主に信頼することを学んだからです。

 

   現在のピスガ山頂には、「青銅の蛇」と十字架をダブらせたイメージのモニュメントが立っています。それは、イエスが荒野の蛇とご自身の十字架をだぶらせて示されたことをリアルに思い浮かべさせます。

私たちの目に無駄な時を過ごしているように思える時も、主は共にいてくださいます。モーセでさえ高慢の罪でさばきを受けました。主は私たちを謙遜にした上で、ご自身の勝利を与えられます。それは、私たちが自分の弱さを示されながら、強がることも、ひるむこともなく、主に信頼することを学ぶためです。

主の「聖さ」を心から恐れ、同時にイエスの十字架によって御前に招かれることを覚えることこそすべての始まりです。  

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2016年4月17日 (日)

ヨハネ13章1-20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」

 

ヨハネ福音書131-20節「究極の愛―弟子の足を洗うー」

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  現代の聖餐式の起源は最後の晩餐ですが、イエスはこの時、弟子たちの足をも洗われながら、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。それを根拠に受難週の木曜日に「洗足の儀式」を守る教会もあります。

私たちはこの命令を象徴的な意味で理解しますが、それにしても、それをどのように具体化したら良いのか、私たちはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか?自分が信じる正義を振り回すプライドではなく、あざけられののしられた私たちの主に倣う真の謙遜な生き方をともに考えましょう。

 

1. 「奴隷の姿となられた世界の王」

   1236節には、「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された」と記されますが、そこでイエスの公の宣教が終わりました。そしてこの書の前半部が、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった」(12:37)とまとめられます。

ただそれは「預言者イザヤのことばが成就するためであった」(12:38)とも記されています。イエスはイザヤ書を心の底から味わいながら、そこに記された「主のしもべ」の姿を生きられました。人々がイエスのことばを受け入れなかったのも、イエスの無力さのためではなく、すべて預言の通りだったのです。

 

13章から17章まではすべて、最後の晩餐での会話です。そこではまず、イエスの思いに関して、さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので(1)と記されます。

6章での五千人のパンの奇跡でも「過越が間近になっていた(4)という記述から始まります。つまり、群衆や弟子たちにパンを与えることは、ご自身を過越の「神の小羊(1:36)として示す行為でもありました。これは、十二弟子に三年間を締めくくる指導をされたという意味とも言えましょう。

 

続く文章を、新共同訳はイエスは・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたと訳していますが(」はギリシャ語のアガペー)、この方が原文をより良く表わしているかもしれません。それを最も劇的に表わしたのが、イエスが奴隷の姿になって弟子の足を洗うことでした。

ヨハネはパンと杯を用いた聖餐式のもととなる最後の晩餐の食事の様子を描く代わりに、この洗足のことを描写しました。どちらにしても、両者ともに、「共同体の創造」という共通テーマがあります。

しかも、そこではすべてイスカリオテのユダの裏切りにも焦点が当てられています。イエスの愛が「残るところなく示される」その時とは、光がこの上なく輝く時でもあります。陰の暗さがあらわになるのは、光が強く照らされたことの必然的結果とも言えましょう。

 

   ギリシャ語の(アガペー)に最も近いことばは「honour(尊敬)welcome(歓迎)」であるとも言われます。主は自業自得で国を失ったイスラエルの民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われましたが(イザヤ43:4)、それこそ神の愛の本質です。

たとえば英語のrespect(尊敬)には、「reもう一度、距離を置いて、spect見る」という意味があり、「親が子供をリスペクトする」「上司が部下をリスペクトする」という表現がしばしば使われます。ここでのギリシャ語のアガペーも同じように、主人がしもべを「高価で尊い」存在としてリスぺクトするという意味が込められています。

その意味で、イエスが弟子を愛しぬかれたことは、その汚れた足の前にひざまずいた姿勢に何よりも表されます。私たちだって、心から尊敬している人の足なら喜んで洗うことができるのかもしれません。しかし、ユダのような者の前にひざまずくことは、想像するだけで心が乱れます。

「援助」なら、自分の敵にも、心の中で軽蔑している人にさえできます。それは自分の自尊心を満足させるからです。しかし、真の意味で人を愛するとは、人の存在自体を自分よりも尊ぶ姿勢に表わされるのです。そしてそれは、父なる神ご自身の姿勢をも現すものでもあります。

 

イエスは夕食の間(2)になってから、急に席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4)ます。これは当時の典型的な奴隷の姿です。この食事はイエスと十二弟子だけの特別な食事でしたから、席に着く前に足を洗ってくれる奴隷がいませんでした。

ルカによるとこの食事の席で、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(22:24)とのことですから、彼らはそれぞれ、「そんな卑しいことができるか!」と互いに思っていたのかもしれません。

しかも、当時の人々はこのようなときに肘をついて上半身を起こしつつ足を投げ出す姿になっていましたから汚れは気になります。イエスは既に食事に入りながら、それに心を痛めておられたことでしょう。

それで何と彼らの主人であるはずのイエスご自身が、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた(5)というのです。これに驚いた弟子たちは、自分たちを恥じたのか、沈黙していました。

 

   ところで、ここでは、イエスがそのような行動をとられる前に、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から出て父に行くことを知られ(3)たからと説明されています。

つまり、イエスは、ご自身がこの地の支配を委ねられた「」であるとの自覚に満たされていたからこそ、「奴隷」の姿を取られたというのです。それは、ピリピ2:6-11に描かれた「キリスト賛歌」の通りです。

そこでは、キリストは神の御姿であられるからこそ・・ご自分を無にして仕える者の姿をとられた」と読まれるべきでしょう。神であられる方の性質は、何よりも、愚かなプライドから自由になっていることに表わされるからです。

 

罪の始まりはアダムとエバが、あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け・・神のようになり、善悪を知るようになる(3:5)という誘惑のことばに従ったことでした。その結果、夫は自分の責任を妻に転嫁し、力で抑えつけるようになりました。

互いが自分の正当性を主張し、最後には腕力で相手を屈服させるというパターンです。それに対しイエスは、真の神のかたちに造られた者としての生き方を示されました。私たちの心に、真に余裕があるなら、奴隷の姿になって人の前にひざまずけるはずです。 

 

2. 「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」

   ユダを含め、ほとんどの弟子たちは、唖然としながらも、何も言えないまま身を任せていたのだと思われます。

ただペテロはそれを余りにも畏れ多いことと捉え、「主よ。あなたが、私の足をあらってくださるのですかと言います。「」である「そのあなたが、私の足を・・」という驚きが強調されます。

それに対しイエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります(7)と言われます。それはイエスが十字架にかかるときに、その意味が初めて理解できるという意味だと思われます。

 

それに対しペテロは、決して、私の足を洗わないでください。永遠に!(8節私訳)と強いことばで遠慮します。「永遠に!」と敢えてつけ加えられるのは、「あとでわかる」ということばへの応答かと思われます。これは、イエスが初めてご自身の十字架を示唆した時に、ペテロが「イエスを引き寄せて、いさめ始めた」と描かれていた情景に似ています(マタイ16:22)。ペテロは、主である方が自分のような者の前にひざまずいて足を洗うなどということが永遠にあってはならないと思ったのです。

しかし、イエスそれに対し、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません(8)と言われます。これは、「わたしに属さない」とも訳せる言葉で、イエスの弟子と呼ばれる資格を失うかのような強い表現です。これはマタイ16章で、イエスがペテロに、「下がれ、サタン」と言われたことにも通じます。しかし、ペテロがイエスに属するとは、主が彼の足を洗うように、彼の罪を洗い流すために十字架にかかるということを示唆したと思われます。

 

すると、ペテロは慌てて、今度は反対に主よ。私の足だけではなく、手も頭も洗ってください(9)と図々しく懇願します。それでイエスは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです(10)とまず言われます。当時のユダヤでは、招待された客は出かける前に自宅で全身を洗い、招待席に着く前に足だけを洗いました(ルカ7:44参照)

ただしここで、興味深いのは、それに加えて、「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」と言われたことです。つまり、イエスが弟子たちの足を洗ったということの中に、彼らはすでに「全身きよい」という宣言が込められていました。

つまり、イエスは弟子たちがこの食事の前に身をきよめていたかどうかということよりも、「イエスに従い、イエスに属する」という思いを明確にしているということにおいて、弟子たちは「全身きよい」と言っておられたのだと思われます。

 

なお、イエスの行為は、弟子たちの傲慢さを正すためばかりではなく、罪を洗いきよめることに結びついていました。ただそこには「みながそうではありません」との例外がありました。それはイスカリオテのユダを指しています。

彼はイエスを裏切る決意を固めていましたから、まさに弟子のふりをしていたに過ぎなかったからです。しかしここでイエスはペテロに向かって語っているようでありながら、ユダに悔い改めを迫っているとも思えます。イエスのきよめのみわざは、私たちの心の応答が伴わなければ完結しないからです。

 

私たちも「イエスを主と告白する」ことで、すでに「きよい」者とされています。しかし、当時の人々が砂ぼこりの道を粗末なサンダルで歩いて足を汚していたのと同じように、この世で生活する中で、日々罪を犯してしまいます。

それで、ペテロがイエスに足を洗ってもらう必要があったように、私たちもイエスに日々と罪を繰り返し赦していただき、「きよさ」において成長させていただく必要があると言えましょう。

  

3. 「このわたしが洗ったのですから、あなたがたもまた互いに洗い合うべきです」

   イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて」から、「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか」と問いかけつつ、その意味を説明されました。

そこではご自身が主であり師であることを敢えて繰り返して強調しながら、主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです(負い目があります)」と強く迫っています(14)これは、「そうできたら良い・・・」という達成目標ではなく、クリスチャンとして生きることの基本姿勢を示します。

 

その上で主は、「それは、模範(実例)をあなたがたに示すためでした。それによって、わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするのです(15節私訳)と、主であり師である方に洗ってもらった者の責任(負い目)を語ります。「模範」ということばが強調されますが、それは私たちが目指すべき「理想」というよりも、真似る責任を負わされている「実例です。

つまり、キリストの弟子として生きることの基本とは、上から目線で人を指導するような生き方ではなく、徹底的に人に仕え、人に寄り添う生き方をすることなのです。

 

ただそれは、自分の足を見せることを嫌がる人に、「あなたの足を洗わせてください」と迫るような態度ではなく、不当な仕打ちをする人に、なおへりくだって仕えることを意味します。それはあなたに不正を働く人を赦すということに現されます。イエスはマタイ18章で、ペテロが主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか(21)と問うたことに対して、「一万タラント(当時の労働者の20万年分の収入)」の借金を赦してもらった者が、「百デナリ(3ヶ月分余りに給与)」に相当する借金を赦せなくて、王からさばかれるたとえを話されました。

つまり、赦された者は、兄弟を赦す「負い目」が生まれるということです。同じようにイエスから足を洗われた者には他の弟子たちの足を洗う責任が生まれるのです。

 

そこで、「私はイエス様から足を洗ってもらった覚えはありません」と思われる方もいることでしょうが、そのような方は、自分の救いのために他の人がどれだけの祈りや献金、労力を傾けられたかを知るべきです。しかも、それはすべてキリストのからだ」としての働きでした。

たとえば、誰かが牧師である私の働きに感謝をするとしても、本来それは、私を支えている教会の働きであることを忘れてはなりません。そしてイエスは何よりも、あなたの日々のわがままな祈りに、しもべのように耳を傾け、それに答えてくださいました。

 

   続けてイエスは、しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません(16)と言われました。私たちの主ご自身が奴隷の仕事をしたのに、そのしもべである私たちが人の尊敬や自分の名誉を求めて良いのでしょうか。

私たちを遣わして下さった主ご自身が、人々からののしられていたのに、遣わされた私たちがののしられないことがあるでしょうか。ですから、人の誤解や中傷を受けながら人に仕えることを、恥と思う必要はありません。それこそが、キリストの弟子としての生き方です。

 

ただし、人間にとって最も大切な宝は「栄誉」だと言われるように、人から嘲られ、ののしられることは、非常につらいことです。その気持ちを、自分で慰めたり、合理化してはなりません。

そこで、ただ、涙を流しながら、「イエス様。私は辛くてたまりません」と、主に向かって嘆くことの方が、自分の感情を大切にする素直な生き方と言えましょう。自分で自分を祝福するのではなく、ただ黙々とイエスの御跡に従うという姿勢が求められています。

ただそこには、イエスご自身からの、「それを行なうときに祝福されるのです」という祝福の約束が伴っています(17)。イエスに習って、互いの汚い足の前にひざまずき、その足を洗うような働きをすることは、まさに、今まで体験しなかったような祝福を味わう道でもあるのです(17)

 

4「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」

18節でイエスは、先の「祝福される」ということばを受けつつ、「わたしは、あなたがた全部の者について言っているわけではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています(18)と、イスカリオテのユダの裏切りを知っていると示唆します。

そして、わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとをあげたという詩篇419節を引用して、ユダの裏切りによって、聖書が成就すると述べました。

後にペテロも、「イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務め(ミニストリー)を受けていました(使徒1:1617)と言っています。

これではまるで、ユダは、神が描かれた物語の中で、悪役として選ばれ、その「務め」を演じさせられ、さばかれるかのように見え、かわいそうにさえ見えます。この疑問はこの引用された詩篇の文脈から解かれて来ます。

 

そこではダビデ自身の体験が歌われています。彼は多くの人々の支持を得てイスラエルの王となりましたが、自分の姦淫の罪を契機に家族の中に混乱を引き起こし、息子アブシャロムの謀反につながりました。ダビデの権力にかげりが見えた時、それまで彼の食卓に招かれていた親しい友までがこの謀反に荷担したのです。

それは私たちの周囲でも起こることです。特に先の夢が見えない状況下では、身を守るために親しい友を裏切る人もいます。力や富に呼び寄せられる人は、その影響力にかげりが見えると離れて行きます。その代表例がユダであり、裏切りは罪人の集まりでは避け難いことでもあります。

聖書は人間がいかに罪深いかを記しており、ユダはその代表者的な働きをして、聖書を成就したのだと思われます。

 

なお、イエスは、「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます19節)と言われました。それは、私たちがイエスの指導力のなさ?につまずきを感じることがないためです。

それどころかイエスは、そのことが起こったとき『わたしはある』ということをあなたがたが信じるためです(19節私訳)と言われました。「わたしはある」とは、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」と記され824節でも用いられたイエスの神性を表すことばで、イエスがすべてのことを把握し、治めておられるという意味です。

決してイエスは、ユダの裏切りのあわれな犠牲者なのではありません。イエスは、ユダのうちに住む罪人の代表者のような心を見抜きながら、それでもなお、その足を洗い、最後まで誠実を尽くし、悔い改めのチャンスをお与えになりました。それは、イエスの愛が、あらゆる悪意にも勝利しておられるしるしでした。

 

   さらにイエスは、わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです(20)と言われました。それは、ご自身が「遣わす」弟子たちと、ご自身とを一体化しているからです。

それは何と、イエスご自身とイエスを遣わされた父なる神との関係と同じだというのです。私たちはイエスの大使としての信任状を受けているのです。

 

これを前提として、イエスは復活の後に弟子たちに向かって、父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(20:21)と言われました。

つまり、私たちがキリストの弟子とされるのは、私たちの生活が楽になるためというよりは、誇りある働きに携わることができるためなのです。

 

イエスの弟子にとって、兄弟の足を洗うというのは選択肢ではなく当然の責任です。人の過ちを指摘するなら誰でもできます。罪や依存症に負けてしまう心の弱さを軽蔑するなら、それは足を洗う働きではありません。私たちが、互いを尊敬(respect)し合うばかりか、「私が正しく、相手が間違っている」などと言い張ったり、自分が無視されたと怒ったり、人の賞賛を求めたりするプライドから自由になるなら、私たちの人間関係ははるかに暖かくなるのではないでしょうか。

イエスは今も、ご自身の「からだ」である教会を建てるために、私たちの「足を洗い」続けておられます。このイエスの姿に習うことが具体的に何を意味するかを、ひとりひとりが考える必要があります。

もちろん、イエスに倣うことは決して簡単にできることではありません。しかし、それを真剣に受け止めようとするとき、聖霊ご自身があなたのうちに意欲と力を与えてくださいます。

 

ただし、目の前の人に徹底的に「仕える」とは、その人が自分でやるべきことを私たちが担うことではありません。「課題の分離」という心理学の原則は極めて大切です。それは、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです(ガラテヤ6:5)とあるように、自分の課題と相手の課題を区分けすることです。

そこで私たちに求められる最大のことは、その人が自分の課題を達成できるように「勇気づける」ことです。大切なのは、相手の気持ちに寄り添い、その人が神の目に「高価で尊い存在である」という「神のかたち」としての「誇り」を思い起こすように助けることです。

気持ちに寄り添うというプロセスの中で、相手の不安や怒りが自分に向けられることがあります。それを受け止めることこそ兄弟の「足を洗う」という生き方でしょう。

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2016年4月10日 (日)

民数記15-18章「父は真の礼拝者を求めておられる」

民数記1518章 「父は真の礼拝者を求めておられる」

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 「ストレス」に関する研究が盛んになっていますが、ついこの前までは、「ストレスは健康に悪いから、なるべく避けたり減らしたりして管理したりする必要がある」という見方が多くありました。しかし最近は、「ストレスは役に立つから、なるべく受け入れて利用し、うまく付き合って行く必要がある」と言われるようになっています。それをテーマにした、「スタンフォードのストレスを力に変える教科書」が多くの書店で売れています。その著者ケリー・マグゴニガルは、「ストレスは健康に悪い」と力説し過ぎたことで人々をかえって病気にしてしまったのではないかと反省し、本書を執筆したとのことです。

しかし、それは目新しいことではなく、今から40年近く前からユダヤ人の学者アーロン・アントノフスキーなどが主張し続けたことでもあります。彼はナチスの強制収容所の生き残りの方々が意外なほどに情緒的な健康が守られていることに驚き、鍵はストレスの大きさよりも、自分の人生をどのように見ているかという「首尾一貫感覚(SOC)」にあると言いました。

 

そして、これは聖書のストーリーと一致します。イスラエルの民は本来、エジプトを出た翌年には約束の地に入れるはずでした。それは、万軍の主がともにいて、どんな強い敵にも勝利を与えてくださると約束されていたからです。しかし、彼らはそれを信じようとはしませんでした。それで主は、イスラエルの民を荒野で四十年間近く訓練することにしました。

彼らは荒野の四十年を通して、人間的には、逃亡奴隷の集団から最強の民族へと成長しました。ただ、神は軍事訓練を施したのではありません。あくまでも、主(ヤハウェ)だけを真心から礼拝する民へと造り変えようとされたのでした。そこには真の礼拝への希望がありました。

                                                

1. 約束の地に入った後のささげものの命令  

  イスラエル人はシナイの荒野で、神の幕屋を完成し、驚くほど多くのいけにえをささげることができ、神の栄光を拝しました。そして、荒野で最初の「過越の祭り」を祝い、約束の地に向かい進軍しました。しかし、カデシュ・バルネアで、約束の地の住民の強さを知って怖気づいて神に逆らい、さばきを受けてしまいます。

この後、彼らは、四十年後にヨルダン川を渡るまで、男子に割礼を施すことも、過ぎ越しの祭りを祝うこともできなくなります(ヨシュア5)。つまり、神の民としての特権が一時停止されたのです。彼らはせっかく完成した幕屋で礼拝しようにも、何もない荒野で、ささげるべきものがほとんどない貧困に陥るのです。

 

そんな絶望の中、主(ヤハウェ)はモーセに「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り・・火によるささげ物を主(ヤハウェ)ささげるときは・・」と、約束の地に入ってからの礼拝を指示されました(15:1-3)。パンも水もない荒野で、そのような多量のささげ物を伴う礼拝を命じることは、主がご自身の民を守り通し、豊かな富を与えるとの確かな保証です。

約束の地では、全焼や和解等のいけにえの方法に応じ、また、子羊や牛等の動物の種類に応じた多様なささげものを、彼らの間の在留異国人さえも隔てなく、同じように豊かにささげることができるというのです(15:3-16)

それは、ヨハネの黙示録で、主が迫害に苦しむ聖徒たちに、天上の礼拝の様子を垣間見させることにも通じます。

 

その際、ささげ物の意味が、「(ヤハウェ)へのなだめのかおり(3,7,10,13,14)と繰り返されます。これは厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJではa sweet aromaESVではa pleasing aroma)と記されています。つまり、主はそこで、主ご自身にお献げしようとする私たちの心自体を喜び受け入れてくださるというのです。

そのことが、詩篇501314節では、主ご自身が、「わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」と命じられています。

 

ここでは特に、それぞれのいけにえに沿える穀物や油、ぶどう酒のささげ物のことが指定されますが、それぞれいけにえの高価さによって量が増えて行きます。

若い牛」を全焼のいけにえにする場合は、穀物が十分の三エパ(6.9リットル)、油二分の一ヒン(1.9リットル)、ぶどう酒二分のヒン(1.9リットル)が指定されましたが、これをささげるのに余りあるだけの収穫が約束されていると理解すべきでしょう。

 

私たちの人生のゴールも、主(ヤハウェ)の御顔を仰ぎ見、全身全霊をもって主を賛美するという礼拝の完成にあります。そして、この地上での礼拝はすべて、新しいエルサレムでの喜びに満ちた礼拝の予行演習のような意味があります。

今たとえ音痴であっても心配ありません。復活の朝には、神はそれぞれを驚くほど豊かな賛美の賜物で飾ってくださるからです。しかし、誰も自分の「信仰深さ」によってそこに達するのではありません。イエスご自身が私たちのうちに信仰を生み出し、暗やみの中で信仰の火が消えそうなときにも信仰の光を灯し、試練に耐える力を与えてくださるのです。

信仰は賜物であり、それは完成に向って成長します。それは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです(ピリピ1:6)と告白されるとおりです。

 

2.約束の地に入った後に、「もしあやまって罪をおかすときは・・」

  主(ヤハウェ)はまたモーセに、「わたしがあなたがたを導いてゆく地に・・はいり、その地のパンを食べるとき・・・初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として・・供えなければならない(15:1920)と言います。

不思議なのはその文脈の中で、「もしあやまって罪をおかし、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも・・行わないときは・・・いけにえとして・・ささげなければならない・・・祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される(15:22-25)と言われ、何と約束の地に入るはるか前から、神がどのように罪の赦しを与えるかを示されたのです。

ただし、それは「過失の罪」に限られていました。27-29節では個人があやまって罪を犯した場合のことが記され、在留異国人と「同一の教え」であると強調されます。

 

そして3031節では血筋に関係なく、「故意に罪を犯す者は、主(ヤハウェ)を冒涜する者であって、その者は民の間から絶たれなければならない。主(ヤハウェ)のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う」(15:30,31)と厳しく命じられます。

ところがその直後、「安息日に、たきぎを集めている男」が発見されます。彼には安息日に煮炊きをしようとの明確な意図が見られました。ただ、イスラエルの民はまだ約束の地に入ってはいませんから、神の赦しもさばきも行われないという解釈もあったのかもしれません。

それを払拭するかのように主は、「全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない(15:35)と命じられました。これは子供のしつけと同じで、最初に安易に赦すと、教えられた善悪の基準が無意味になるからでしょう。これを通してイスラエルは安息日の教えの厳しさを覚えることができました。

 

その上でイスラエルの民の衣服のことが指示されます。それは「着物のすその四隅にふさを作り・・青いひもをつける(15:38)ことでした。「」は至聖所の幕や祭司の服に使われるような尊厳を現す色で、イスラエルの民が「祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:6)というしるしです。

ですからここではその目的が、「あなたがたが・・神の聖なるものとなるため(15:40)と記されます。それこそ律法が与えられた目的であり、彼らはそれを日々思い起すことで、「みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないように」守られるはずでした。

今も、ユダヤ人は礼拝時にタリスという四隅に青いひものふさのついた衣を着ますが、その起源がここに記されます。「長血の女」が触れたイエスの衣の「ふさ」は、この聖なるしるしのことです。

 

神はイスラエルの民を、子供を育てるように具体的なさばき示し、衣服にまで気を配って彼らを導いてくださいました。しかし、彼らはアダム以来の罪の性質を受け継いでいたため、この愛に満ちた教えを守ることができませんでした。

それに対しイエスの十字架の救いは、どんな意識的な罪をも赦してくださるばかりか、聖霊によって人の意思自体を聖めようとするものでした。それでイエスは、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタイ12:31)と言われたのです。

 

 たとえば、「私はイエスを救い主と信じていますが、人との交わりが怖くて礼拝に出られません」というような質問に、あなたならどう答えるでしょう?たしかに、生きた信仰は行いの変化を生み出すはずですが(ヤコブ2:17)、その原則を説いてもかえって落ち込ませるだけでしょう。

人は心の底で、自分の行動パターンを変えること自体を恐れているからです。しかし彼らも、詩篇の祈りの中に、自分が味わう不安、孤独や怒りの気持ちが赤裸々に表現されているのがわかると表情が変わります。

実は、キリスト者であることを「教えに従って自分の意思を変えること」と信じている人は、まだ旧約時代やイスラム教的な信仰に生きているのです。しかし、私たちには、罪人のために死んでくださったイエスの御名によって、解決の方向も見えない心の葛藤を隠すことなく正直にイエスの父なる神に祈るという特権が与えられています。

祈りこそ聖霊の息吹の中で呼吸する原点です。そのような中でふと気づくと、自分の意思自体が聖霊によって導かれ、本来願うことができなかったことを望むように変えられているのがわかるのではないでしょうか。

 

3.主(ヤハウェ)の前から激しい怒りが出てきて、神罰が始まり

16章では、レビ族のコラがヤコブの長子ルベン族の者たちと共謀し、会衆の上に立つ250人のイスラエル人とともにモーセとアロンとに逆らい、「全会衆残らず聖なるものであって、主(ヤハウェ)がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主(ヤハウェ)の集会の上に立つのか(3)と非難したことが描かれます。

これは先の、イスラエル全体が、「神の聖なるもののなるため(15:40)という神のご計画を聞いてのことばとも言えますが、その動機はねたみに過ぎません。

コラは、ケハテ族の者で、幕屋の中の聖なる器具を運ぶ特権に預かっていました。しかし、彼らは、祭司に服従するばかりで、聖具を見ることさえ許されないので不満を持ったのでしょう。それを聞いたモーセは、まず「ひれ伏し」ますが(4節)、それはさばきを主に委ねるという姿勢だと思われます。

その上でモーセは、コラとその仲間たちに、「火皿を取り、あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい」と命じます(67)。これはレビ記10章でアロンのふたりの息子が「異なった火」をささげ、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽く」されたことを思い起こさせることでした。彼らは、主に召された祭司たちが「命がけで主に近づく」必要があることを理解する必要があったのです。

 

12-14節では、モーセがルベン族のダタンとアビラムを呼び寄せようとしたところ、彼らが何とエジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼んで、モーセが無能で横暴であるかのように非難した様子が描かれています。そして、コラが全会衆を集めてモーセとアロンに逆らわせようとしたときになって初めて、「(ヤハウェ)の栄光が全会衆に現れ」ます(19)。主は、全会衆を絶滅すると言われ、モーセの執り成しでそれを思いとどまります。

その上でモーセは会衆をコラとダタンとアビラムの一族から引き離し、主が立てた権威を否定した罪が、「主(ヤハウェ)を侮ったこと(30)になると警告します。その後、「地はその口をあけて、彼らとその家族・・をのみこんだ・・生きながら、よみにくだり・・」という厳しい裁きが下されました(16:31-33)

そればかりか、「(ヤハウェ)のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした(35)というのです。主はさらにモーセに命じて炎の中から焼き殺された者たちの火皿を取り出させて打ち延ばさせ、祭壇のための被金として残すように命じます。

それは「アロンの子孫でないほかの者が、主(ヤハウェ)の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため…コラやその仲間のようなめに会わないため(40)と説明されます。

 

ただ、それを見た全会衆はまた、モーセとアロンに、「あなたがたは主(ヤハウェ)の民を殺した(41)とつぶやきました。それに対し、「(ヤハウェ)の前から激しい怒りが出てきて、神罰が始まり(46)ます。

しかし、アロンが「香をたいて、民の贖いをした」ときに、「神罰はやんだ」というのです(4748)。つまり、コラの仲間が火皿を取ると焼き殺された一方で、アロンが火皿を取ると「民の贖い」が実現したのです。

 

17章では、主ご自身がアロンを祭司として立てたということを、十二部族すべての族長の杖を出させることで示します。そのときアロンの杖だけが一晩のうちに「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた(17:8)からです。

ただこのような不思議を見て、イスラエルの民は「ああ、私たちは死んでしまう・・主の幕屋に近づく者は誰でも死ななければならないとは・・」(17:12,13)とおびえます。

 

4.祭司たちが聖所と祭壇の任務を果たすなら・・再び激しい怒りが下ることはない

 18章で、主は、例外的にアロンに直接語りかけます。そこで主はまず、レビ族全体が「聖所にかかわる咎を負わなければならない」、またアロンとその子たちが「祭司職に関わる咎を負わなければならない」と務めに対するさばきの可能性を示唆しつつ、彼らの責任を明確にします。

そして、他のレビ族はアロンの子孫である祭司に仕えるという立場の違いを明確にし、他のレビ族は「聖所の器具と祭壇とに近づいてはならない(18:3)と警告します。そして、祭司たちが「聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない(18:5)という保証します。

それらをまとめるように、主はアロンに「わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない」(18:7)と言われます。その上で、「イスラエル人のすべての聖なるささげ物について」、祭司たちにとっての「永遠の分け前とする」と言われます(18:8)

穀物のささげ物やいけにえの肉に関しては、「ただ、男子だけが、それを食べることができる」(18:10)と言われます。一方、「イスラエル人の贈り物である奉納物」に関しては祭司の娘たちにも与えて「永遠の分け前とする(18:11)と言われながらそのリストが12-19節まで詳しく記されます。

それらは、収穫の初物、聖絶のもの、初子の贖い金などです。そして、それらをまとめて「永遠の塩の契約(18:19)と呼びつつ、祭司の家族への「永遠の分け前」を保証します。その目的は、祭司たちが約束の地に入っても相続地を持つことなく、主の幕屋の奉仕に専念できるためです(18:20)

 

21節からはレビ族が会見の天幕の奉仕に専念できるために「イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える」と約束します。そして改めて、「レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる・・彼らは相続地を持ってはならない・・・イスラエル人が、奉納物として主(ヤハウェ)に供える十分の一を・・相続財産としてレビ人に与える(18:2324)と命じられます。

そして、25節~31節まではレビ人たちに、イスラエルの民から受け取った十分の一の中の最上の十分の一を祭司たちに与えるように命じられます。

 

このようにイスラエルの民が十分の一のささげ物の命令を守ることによって、祭司やレビ人は、主への奉仕に専念することができるようになります。ただし、彼らが約束の地に入ってからこの命令をごく短期間しか守ることができなかったと思われます。

士師記1718章にはレビ族のひとりが生活に困ってエフライムのミカが勝手に作った神の宮とその家の彫像と鋳像に仕え、後にそれを奪ったダン族をも堕落させる様子が描かれます。イスラエルの民の信仰の堕落は、レビ人たちが生活に困る所から生まれたのです。

 

現在も、教会によっては十分の一献金を誠実にささげられないために、牧師家族が生活に困り、教会奉仕に専念できなくなることがあります。ストレスは確かに人間の成長に役立ちますが、過度になると別の問題を起こします。

ある研究によると調査対象となった米国の金融機関に努めた人の全員が10年以内に何らかの燃え尽き症候群と関連する症状を最低一つは発症していたとのことです。それよりもストレスが多いのが牧師のようです。

牧師の場合は、その20%が燃え尽き症候群自体を体験し、神学校を卒業した者がミニストリーから離れる割合は5年で5割に上るというのです。それでいて貧困にあえいでいる牧師家族がいかに多いことでしょう。

旧約の祭司やレビ人と現代の牧師職を直接に結びつけることは危険ですが、主ご自身が任命し、その働きを聖別されたという原則は同じです。主が立てた権威を敬い、その働きを尊重し支えることは、今、ここで、私たちの礼拝をより豊かにするために何よりも大切です。

 

それにしても、今、荒野にいて明日の生活の見通しも立たない民にささげ物のことを語るのは、無一文の人に献金の恵みを語ることにも似ています。しかし、「幻がなければ、民は欲しいままにふるまう(箴言29:18)とあるように、まだ見ていない約束の地での礼拝生活を指し示すことで、彼らは苦しみの中で信仰の民として守られて行くはずだったのです。

かつてヤコブ(イスラエル)は、石を枕に一夜を過ごす中で神の約束を聞いたとき、「神が・・この旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り・・主(ヤハウェ)が私の神となられるなら・・この石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と誓願を立て(創世記28:20-22)、旅のゴールを、主を礼拝し、主に献げることに定めました。

 

たとえば、仕事の成功や幸せな結婚のために祈るのは当然ですが、それは礼拝の民として整えられ、主を礼拝するための手段に過ぎません。「幸せは持つものではなく、感じるものである」と言われますが、キリスト者の幸せとは、主を礼拝するそのただなかにあるのです。

それはダビデが、「一つのことを私は主に願った。それを私は慕い求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、そのために」(詩篇27:4)と告白したとおりです。

  

  「もし仕事に余裕が生まれたら礼拝を第一にしよう・・・もしお金に余裕が生まれたら献金しよう・・」などと計画するなら、いつまでたっても余裕は生まれないのかもしれません。

私たちひとりひとりに、将来の計画ではなく、今の決断が問われています。しかも、あなたの状況が、今がまさに荒野の生活で、日々の食べ物にも事欠くというなら、ヤコブに習って大胆に約束することも可能ではないでしょうか。

 

人生の目標が主への礼拝に定められるなら、主はその道を開いてくださいます。しかし、人生の目標が自分自身の栄光や幸せにある人は、自分の欲望の奴隷となってしまうのではないでしょうか。

イエスは、人の愛に渇いてむなしい生活をしていたサマリヤの女に、何よりも真の礼拝について語られたのです。イエスは、「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネ4:23)と、今も私たちを招いておられます。

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2016年4月 3日 (日)

神のみことばが歴史を動かす

イザヤ5455章 「神のみことばが歴史を動かす」

                                                     201643

イエスはイザヤ5213節から5312節にある「主のしもべの歌」をご自分の歌としておられました。そこでは、イスラエルの神が「全世界の王となる」と約束されながら、その「(ヤハウェ)の御腕」が「現れた」のは、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」方であると記されていました。

人は誰しも、強く有能な尊敬できるリーダーを求めますが、その正反対の十字架に架けられた敗北者によって世界が救われるというのです。こんなことは聖なる書物に事前に記されていなければ誰も信じられはしません。

そして福音がユダヤ人の枠を超えることを命がけで伝えたパウロも、イザヤの預言から教えられていました。私たちは、イエスがまたパウロがイザヤ書を通して主のみこころを示されたという視点を忘れてはなりません。

初代教会の人々は何よりもイザヤ書40章以降からイエスこそが全世界の王となられということを理解し、世界の歴史を変えて行きました。

 

なお、「終わりの日の予言」などと言われると、戦争や天変地異のような悲観論が注目を集めがちです。しかし、聖書が示す世の終わりの記述は驚くほど希望に満ちています。しかも、そこで描かれる神のさばきとは、あなたの敵がさばかれ、労苦に豊かな報いが与えられるという約束が中心です。

そればかりか、不信仰に悩む人に、神がご自身を現し、安心させてくださいます。キリストにつながっている者の人生のゴールは神の平和(シャローム)で満たされます。

それを自覚しながら生きるとき、私たちは、被害者意識、自己憐憫、悲観主義、人の顔色を伺ってばかりいるなどという奴隷根性から自由にされ、「神の子」としての誇りのうちに、神から与えられた人生を自由に堂々と、大胆に、希望に満ちて生きることができます。

 

1.「あなたの夫はあなたを造った者」

   54章最初の、「歓喜せよ。子を産まない不妊の女よ。歓喜の声をあげて叫べ・・・夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、神の祝福は人間の力がもたらす祝福をはるかに上回るという希望を語ったものです。

当時の妻の豊かさは、徹底的に夫の力に依存していました。無力で怠惰な夫を持つ妻、何よりも夫のいない女性は悲惨でした。今も多くの人々は、自分を保護してくれる権力者を求めています。

しかし、主ご自身こそがすべての祝福の源です。私たちはこの世で自分の立場を守るための様々な方策を考えるよりも、すべての祝福の源である主との関係を深めることに心を集中すべきです。

 

その上で、「あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を張り伸ばせ・・・綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」(2節)と命じられますが、その真ん中に、「惜しんではならない」という命令形が入っています。

多くの人は、力の出し惜しみ、お金の出し惜しみをし、お金を貯め込むことで将来の安心を得ようとしますが、そのような人間的な計算が、神からの祝福の広がりを止めています。現在の日本は資産から負債を差し引いた一人当たりの家計純資産額では世界一です。その中心は土地や預貯金、保険などで、統計に現れないタンス預金も驚くほど多くあります。

対外純資産額ということになれば22年間世界一で、中国の約二倍、ドイツの2.5倍です。簡単にいうと、世界一の富を持っていながら、なお将来に対する不安に囚われ、お金の出し惜しみをして、本当に成長が期待できる分野にお金が回ってこないというのが日本の現実です。

そのような中で、私たちクリスチャンはもっと夢のある生き方をする必要があるのではないでしょうか。もっと今与えられている能力も富も出し切って、神にある冒険をする必要があるのではないでしょうか。

 

「あなたは右と左にふえ広がり、その子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ」(54:3)とは、私たちキリストの教会こそ、この閉塞感に満ちた世界に希望を生み出すことができるという約束です。福音には人々を引き寄せる魅力が満ちています。

その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから(54:4)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で既に徹底的な「はずかしめを受け」たという前提での「救いの約束です。

そして、「まことにあなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、二度と思い出さない」とは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。

 

その理由が、「なぜなら、あなたの夫あなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方、全地の神と呼ばれているのだから。実に、見捨てられ、心に悲しみのある女かのように、主(ヤハウェ)はあなたを呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか(54:56)と記されます。

主は一時的にイスラエルを捨てたかのように見えましたが、彼らは主にとってのかけがえのない「花嫁」であり、「」である方は創造主、「全地の神」であり、彼らを奴隷状態から「贖い出し」てくださいます。

 

 イエスは「ユダヤ人の王(ヨハネ19:19)として十字架にかかることで、「イスラエルの贖い主」として、全世界の民の「祭司の王国(19:6)となる使命を全うし、今、全世界の民からなる「キリストの花嫁」としての教会を導いておられます。

私たちも目先の損得勘定に惑わされ、真の保護者、「夫」である方のもとを愚かにも自分から離れ、苦しみを招くことがありますが、「あなたの夫はあなたを造った者」とあるように、あなたの不信仰や一時的な裏切りは神にとって想定外のことではありません(48:8)

私たちは何度でも、主のもとに立ち返ることができます。主がまず私たちに目を留め、真の保護者、「夫」となってくださったからです。

 

2.「ほんのひととき・・見捨てたが・・・永遠に変わらぬ愛をもって・・あわれむ」

私たちの永遠の「」であられる主ご自身が、「わたしはほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ(54:7,8)と語りかけてくださいます。

ここでは「怒り」が短期間であることと、「」の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセド」で、新改訳ではしばしば「恵み」と訳され、神がご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。

ここにはイスラエルの民がその不信仰のゆえに神のさばきを受け、苦しんだ後で、神がその繁栄を回復させてくださるというプロセスが描かれます。彼らは、主の祝福がどれほど豊かであるかを、それを失うまでは理解できませんでした。

 

そのことが9節では、「ノアの日」の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられ、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」54:10)と言い換えられます。

つまり、この目に見える世界に何が起ころうとも、主の私たちに対する愛は変わることなく、主はこの世界を、平和(シャローム)に満ちた世界へと導いておられるという意味です。

目に見える世界は驚くほどの速度で変化を続けますが、主の「平和の契約」は変わることがありません。ここでの「変わらぬ愛」も先の「ヘセド」と同じで、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。

 

私たちの人生にも、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。

パウロはイスラエルの民の苦しみが無駄にならずに、そこから全世界の民の救いのご計画が始まったことに心から感動していました。そして、その福音を伝える中で想像を絶する苦しみに会いながらも、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす(Ⅱコリント4:17)と語りました。

 

541112節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、サファイヤやルビーなどの美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録2118-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれています。

続けて、「あなたの子どもたちはみな、(ヤハウェ)の教えを受け(54:13)とありますが、これは「(ヤハウェ)の弟子となる」とも訳すことができます。

キリストの弟子としての成長は、人間の努力ではなく、主ご自身のあわれみによるものです。また、「あなたの子らの平和は豊かになる」とありますが、「平和(シャローム)」を豊かにしてくださるのも主ご自身のみわざです。

 

これらの約束は私たちに希望と勇気を与えます。それが見えない時、人は目の前の課題から逃げたり、すぐに成長をあきらめたりします。目の前には大きな障害や強大な敵が立ちふさがっているかもしれませんが、それらは神の御許しなしに、私たちに手を触れることはできません。

神は、ご自身の真実を証するためにこそ適度の「軽い患難」を与え、それを通して「重い栄光」を見られるようにしてくださいます。私たちが遭遇するすべての人生の嵐は、神にある勝利を体験させていただけるための舞台に過ぎないのです。

 

3.「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり・・」

55章は、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」との呼びかけから始まります。54章でのエルサレムへの語りかけが、ここでは全世界への招きとなります。

イエスはこれをもとに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は・・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:3738)明確に約束してくださいました。「みな」の広がりが感動的です。

 

その上で2節では当時の貨幣である「」ということばを繰り返しつつ、この世の富に支配されて労苦することの空しさが語られながら、「わたしによく聴け」と訴えられます。これは原文では、「聴いて、聴け」と、神に心から聴くようにという命令です。それによって、「良い物を食べ・・脂肪で元気づけ」という恵みを体験することができます。

それがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聴け。すると、あなたがたのたましいは生きる(55:3)と言い換えられます。神のみことばに「聴く」ということを疎かにして、この世の富や成功を追い求めても、それはまるで、海の水で喉を潤そうとする事に似ています。飲めば飲むほど渇きが激しくなります。それこそ依存症の罠です。

そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と約束されながら、その契約の内容が、「ダビデへの変わらない愛(ヘセド)の真実を」と言い換えられます。

 

4節ではその「契約」を成就するために、主ご自身が「立てた・・・諸国の民の君主」を「見よ」と命じられますが、その方こそ、5323節で描かれていた「見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」という「主のしもべ」でした。

しかしその方こそが、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)、私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放してくださいました。

その救いが本来、アブラハムとの契約に含まれていなかった異邦人に広がり、「主のしもべ」が彼らを招く様子が、見よ。あなたは知らない国民を呼び寄せる。すると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」(55:5)と描かれます。

 

そして、「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ(55:6)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。

そして、「悪者」や「不法者」に対してさえも、「(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから(55:7)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。

 

89節では、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるということが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と記されます。

 

当時は、イスラエルの神がご自身の神殿を捨てることで、民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できませんでした。

私たちは自分の人生を振り返って、とんでもない回り道をしたと思えることがあります。私も神の導きを必死に求めながら就職したはずなのに、その決断を後悔し続けていました。その思いは神学校に入っても消えませんでした。ギリシャ語やヘブル語の学びについてゆけず、「もっと若く神学校に入っていれば・・・」と思ったこともあります。しかし、そんな私が今、聖書を原文で読みながら、それを解き明かすという仕事を心から楽しむことができています。かつて、毎日のように為替や株式相場の見通しを考えながら、その見通しは毎日のように変わってゆきました。

それに比べて、今、私が取り組んでいる聖書の真理は、二千七百年前から何も変わっていません。そして、その大昔に記されたことばが、現代の人の生き方を変えることができます。これがどれだけ感動的かは、回り道をしたからこそ分かることといえましょう。

人によっては、就職、住まい、結婚さえも後悔の対象となることがあるかもしれません。しかし、神の導きのすばらしさは、二十年、三十年単位で初めてわかることが多いものです。

 

4.「まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く」

551011節には、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ・・・パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる(55:10,11)という驚くべき約束が記されます。

このことばの真実は、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったにも関わらず、その後の歴史を動かしているという事実を通して証明されています。

イザヤは、その預言の前半では、神がエルサレムの罪に厳しいさばきを下すこと、また、その苦難から救い出してくださることを交互に語りました。当時の人々はそれを理解しかなったばかりか、悪王マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したとも言われます。

ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエスご自身がイザヤの記した「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられ、またパウロが異邦人伝道へと導かれました。つまり、イザヤのことばが歴史を動かしたと言えるのです。

 

まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和(シャローム)のうちに導かれて行く(55:12)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。

これは現在、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることと重なります。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(55:12,13)と描かれます。「いばら」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。

これは、のろい」の時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来ることを象徴的に描いた表現です。そしてそのような自然界の変化こそ、「(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるし」となります。

 

これこそ、「新しい天と新しい地」の象徴的な表現です。残念ながら、かつての私も含めて多くの人は、これらのみことばの深みを十分に味わうことができていないように思います。

私たちの救いは全被造物の救いにつながり、アダムの罪によって「のろわれた地」が、神の祝福に満たされることになるのです。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和(シャローム)に満たされるという希望です。

そのことをパウロは、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです…被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます(ローマ8:19,21)と記しています。私たちの救いの完成と被造物の救いとが重なるのです。

 

 

キリストにある信仰とは、この世の暗い現実を、神にある「高い」視点から見直すことができるようになることです。何しろ、この世界の救い主は、当時の人々の目には、「罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと(53:4)しか見えませんでした。

当時の優秀で力ある人々からは「さげすまれ・・のけ者にされ」た方こそが、主が世界を変えるために遣わしてくださった救い主でした。それが可能になったのは、主ご自身がそのみことばを通して、人のこころを動かし、歴史を変えて行かれたからです。

そして、この新約の時代にあっては、イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。また、イエスのことばこそが、ひとりひとりのいのちの尊さを教え、長い時間がかかわりはしましたが、奴隷制度を廃止させ、人種差別をなくしてゆきました。この世界の歴史は、一見、不条理に満ちているようでありながら、神のご計画通りに進んでいるのです。

それは私たちを怠惰にする教えではなく、明日に向かって自分のすべてを差し出す勇気と希望を与えることばです。私たちは、この世界が完成するときの喜びの声を、霊の耳で聞きながら、この世の不条理のただなかに敢えて遣わされ、そこで、この世界を完成に導く神のみわざの一部に参加させていただけます。

 

パウロは、ユダヤ人の律法解釈に立ち返ろうとするクリスチャンに向かって、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です(ガラテヤ6:15)と書きました。それは、聖霊のみわざによる「新しい創造」にこそ目を留めるようにという勧めです。

キリストの十字架と復活によって、世界の歴史は平和の完成に向かって決定的に大きく動きだしました。旧約の民が憧れた救いが、今、世界中に広がり、完成に向かっています。

もちろん、世界にはなお様々な悲惨があります。しかし、それはサタンが自分たちの敗北を知って、最後の悪あがきをしているという「しるし」に過ぎないのです。

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