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2016年5月29日 (日)

ヨハネ13章21-35節「互いに愛し合いなさい」

ヨハネ1321節~35節 「互いに愛し合いなさい」 

                                                   2016529

   海外の外国人中心の教会から日本の教会に入ってきて戸惑うことがあります。それは家族のようにファーストネームや愛称で呼び合う関係から、急に、距離を置いたような呼びかけ合いになることです。

たとえばドイツ語では教会の交わりで互いをDuで呼び合いますが(フランス語ではTu)、神に祈るときにも「Du」ですのでこれを「おまえ」と訳するのは不正確です。一方、仕事関係では、上司が部下に命令する時にも「Sie」(あなた、仏語はVous)と、丁寧というより距離感を保つ呼びかけをします。

日本では親しい牧師仲間でも、互いを「・・先生」と呼び合いますが、それは上下関係を互いに意識しないための知恵とも言えます。

 

日本語の難しさは(韓国語も同じですが)、上下関係によって言葉を使い分けることにあります。たとえば、英語のブラザーを日本語に訳する際に、「」か「」のどちらかということは決定的に重要で、そこには役割の違いさえもイメージされます。

日本では上下関係の明確な小さな村社会の集合として共同体ができますから、そこで上下関係を超えた会話にしようとすると、どうしても丁寧な表現を選ばざるを得なくなるのかと思います。

日本の教会において年齢や社会的な立場の違いを超えた「神の家族」としての交わりを築く際には、まさに言葉の使い方から、文化を超える必要があるのかも知れません。「神の家族」として「互いに愛し合う」ということをどのように日常会話の中に生かすのかにも神の知恵が求められています。

 

1.「イスカリオテのユダが受けていた名誉ある立場」

ヨハネは、聖餐式の元となるパンと杯の代わりに、イエスがユダを含めた十二弟子すべての前にひざまずいてその足を洗う姿を描いています。そこでイエスは、あなたがたも互いに足を洗い合うべき(負い目がある)です・・・それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです(14,17)と言われました。

同時に、「祝福」を受けることができない人について、「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません(18)と言われます。それはイスカリオテのユダを指します。

つまり、私たちには、互いの足を洗い合って「祝福」を体験するか、ユダに習って「のろい」を受けるかの選択を迫られているとも言えます。

 

さらにイエスは、わたしは、わたしが選んだ者を知っています(18)と言われます。それはイエスが、ユダのうちに住む罪人の代表者のような心を見抜きながら、その足を洗い、最後まで誠実を尽くし、悔い改めのチャンスをお与えになったことに現されます。ユダにはイエスの話しの意味がよく分かったはずです。

 

   それにしても、手塩にかけて育ててきた弟子のひとりが裏切るというのは、耐え難い苦しみでしたから、イエスは「霊の激動を感じ(21)られ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言われます。これをマタイ(26:21)もマルコ(14:18)もまったく同じギリシャ語で記録し、「まことに」が一語少ないほか完全に一致しています。

それが語られたのは、みなが食事をしている時でしたが、弟子の誰にとっても忘れられないほどの衝撃のことばだった証拠です。

 

なお、「裏切る」とは厳密には、引き渡す」(新改訳脚注参照)と書いてあります。このとき、金を既に受け取っていた当のユダは、イエスが自分の計画を既に知っておられることに驚いたはずです。

彼はこの時に悔い改めのチャンスがありましたが、しらばっくれていました。そして、その際の様子が、「弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた(22)と描かれますが、このときの弟子たちの当惑と、それを知られまいとするユダの気持ちを思い巡らしてみましょう。

 

 23-26節でヨハネは、このときの食事の席順がわかるような記し方をしています。そこからとっても興味深い事実が浮かび上がります。まず、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた(23)と描かれます。これはヨハネのことですが、彼の席は、原文では新改訳の脚注にあるように御胸のそばでからだを横にしていたと記されています。

当時は左ひじをテーブルにつき、横に寝そべるように足を伸ばし、右手で食事を取るのが一般的でした。つまり、ヨハネはイエスの右側にいたので、その頭がイエスの胸のそばになるのです。

しかも、席はU字型が一般的で、その真ん中の頭にホストであるイエスが座っていますから、パン切れを浸して与えられるなら、ユダはイエスの左側の主賓席にいたことになります。

 

離れた向かい側に座っていたと思われるペテロはヨハネに、裏切り者が誰なのかをイエスにそっと尋ね、自分に知らせるように合図をしたのだと思われます。それでヨハネはイエスに率直に、「主よ。それはだれですか」と尋ねます。

それに対しイエスは、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」と答えます。ただ、このことばは、ヨハネにしか聞こえていなかったのではないでしょうか。

 

それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった(26)と描かれています。ただしイエスは、この時点で、他の弟子たちの前で、ユダを追い込もうとしておられるわけではありません。確かにこの意味を、ヨハネは分かってはいても、他の人には、会計係のユダが特別なもてなしを受けているように見えたことでしょう。

ただ、ユダはイエスのサインがよくわかっていましたが(マタイ26:23-25)、皆の手前、それを平然と受けたと思われます。そのときのことが、彼がパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った(27)と描かれます。

それはユダがサタンの犠牲者になったという意味ではなく、イエスの警告をよく知りながら、自分からイエスの愛を軽蔑してサタンに身を任せた結果でした。ユダは、イエスの警告の意味をよく知りながら、敢えて、サタンに心を開いたのです。

 

   ユダも最初からイエスを裏切るつもりで弟子に加わってきたわけではないでしょうが、与えられた名誉ある立場を、私腹を肥やすために利用してしまいました。ベタニヤのマリヤがナルドの香油をイエスに塗ったとき、ユダが彼女の行為を非難しましたが、それは彼がお金に執着していたためでした。

ヨハネは「彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである(12:6)と描いています。

そして、イエスがマリヤの行為を賞賛し、一方でユダをたしなめたことは、彼に裏切りを決意させる最終的なきっかけとなったのかもしれません。それは、イエスがもはや、ユダにこの世の富と権力を約束する方ではないことを明確にしたことでした。

ユダは自分の期待が裏切られたことに怒りを燃やしたのではないでしょうか。彼は、自分の願望に縛られた結果として、自分こそイエスから裏切られたと思って、イエスを裏切ったとも解釈できます。

 

2.「今こそ人の子は栄光を受けました」

そのときイエスはユダに、あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい(27)と言われました。それはユダに悔い改めの余地が見えないので、彼の裏切りにご自分の身を任せ、翌日金曜日、ご自身が過越のいけにえとなるためでした。

なおこの時点では、「イエスが何のためにユダにそのように言われたのか知っている者は、だれもいなかった(28)と記されています。それぞれ、主はユダに過越の祭りの入用の物の買い物を命じたとか、貧しい人々への施しを命じたとか理解する人もいたとのことです(29)

 

つまり、イエスはまだユダの裏切りを他の弟子たちの目の前から隠しておられたのです。ここにイエスのユダに対する愛が現されていると言えましょう。

その一方で、その後のことが、「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった(30)と記されますが、これは象徴的なことばです。ヨハネは、光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み・・」(3:19,20)と記していますが、ユダはそんな人々の代表者でした。

 

彼は特別な悪人というよりは、自分の欲望の奴隷になっている世の人々のひとりです。つまり、私たちの身の回りに多くのユダがおり、私たちの心の内側にもユダの心が住んでいます

ユダは自分の願望を満足させてくれる救い主を求めていました。私たちもかつてそうだったかも知れません。苦しみたくてイエスのもとに来る人はいないでしょうから・・・。

また同時に、ユダは当時のユダヤ人全体の代表者と呼ぶこともできます。「ユダヤ人」とは本来、イスラエル民族の中のユダ族の人々という意味だったからです。しかし、それはイエスを十字架に架けた責任はユダヤ人にあると、彼らを軽蔑するという意味ではありません。反対に、この世的に最も神に近いと見られる民が、神の御子を裏切るという逆説が描かれているとも言えましょう。

 

しかし、イエスに出会ってからも自分のことばかりを求めているなら、それはユダと同じかもしれません。私たちはイエスによって遣わされるために弟子となるのです。この世的には損な生き方であっても、そこでこそ、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる(詩篇37:4)という真実を体験できます。

私たちは自分の奥底にある心の願いを知っているでしょうか?それは失われたエデンの園の祝福、「愛の交わり」です。お金を愛したユダは孤独に苛まれ、たったひとりで暗闇に飛び出して、首をつって死にました。しかし、私たちは、互いの足を洗い合い、イエスの弟子としての豊かな愛の交わりのうちに生かされるのです。

 

ところで、ユダが出ていったとき(31)とは、イエスにとって最も辛いときでした。特別な十二弟子の一人がご自身を裏切るというのですから・・・。

しかし、イエスは不思議にも、今こそ人の子は栄光を受けました(31)と言われました。それはユダの裏切りによって、ご自身の十字架刑が確定したことを悟られたからです。人は皆、この地に使命をもって生まれましたが、栄光を受けるとは、その使命が果たされる時ではないでしょうか。

イエスはまさに十字架にかかるために人として生まれたので、この人間的には最も悲惨な時が、栄光を受ける時と呼ばれるのです。しかも、それは父なる神にとっても、罪によって腐敗した世界を新しくするという意味で、神は人の子によって栄光を受ける(31)と言われるのでした。

 

その上で、この同じことばが繰り返されながら、神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります(32)と述べられます。これは、任せきることによって救われるという関係を表します。

サーカスの空中ブランコで空中を飛ぶ人は、ブランコを手放したら、自分の腕をただ伸ばして、つかまえてくれる人の強い手が、落下から自分を引き上げてくれるのを待ちます。そこでは、「飛ぶ人は決して、つかまえてくれる人の手を自分からつかんではいけない。完全に信頼して待つのだ(当事者の証し)という原則が守られます。

 

イエスは神のみこころに従ってご自身のいのちを捨てられました。それは神への最高の信頼の表現でした。神はそれにすぐにお答えになり、イエスを三日目に死人の中からよみがえらせます。それが「神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります(32)というみことばの意味です。

ここにはイエスと父なる神との信頼関係、愛の交わりが記されています。私たちは、自分の身が人に左右されることを恐れ、いつも獲得することばかりを望み、失うことを恐れています。しかし、イエスが最も神の子らしくあられたのは、この地で得たすべてのもの、弟子さえも失い、ご自身のいのちを御父にお任せになったときでした。

 

3.「あなたがたに新しい戒めを与えましょう」

  イエスはこれまでユダヤ人たちに二度にわたって、わたしが行くところへは、あなたがたは来ることはできません」と言われました(7:33,348:21)。それを今、愛する弟子たちにも適用され、「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることはできない』とユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」(33)と言われました。

それは、イエスが十字架を通してご自身の父なる神のもとに行くことを指しています。これまではイエスがいつも一緒にいて、パンがなければパンを与え、病んだときには癒してくださいましたが、今は彼らのもとを離れようとしておられます。それを前提としてイエスは、まるで遺言のように、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい(34)と言われました。

 

 「互いに愛し合いなさいとは、別に新しい戒めではありません。ここでの新しさとは、「わたしがあなたがたを愛したようにという点にあります。それは、何よりも、奴隷の姿になられて弟子たちの足を洗ったことに現されています。まさに上下関係を逆転させるような関わり方です。それは弟子たちが自分たちの愚かなプライドに縛られて、誰も進んで奴隷の働きをできなかったからでした。

それどころか彼らは、この中でだれが一番偉いだろうかという議論をしていました(ルカ22:24)。人を助けることは自分の名誉心を満足させることができますが、自分を裏切ると分かっているような人の前にひざまずくことはできません。

 

  しかもイエスは、ユダが自分を売り渡すと分かっておられながら、彼の足をも洗い、最後の晩餐の席で彼をご自分のすぐ横の名誉ある場に座らせたのです。

日本では、枠からはみ出た人間を徹底的に辱めながら、村社会に忠誠を誓わせようとしますが、イエスはまったく逆の愛し方を見せてくださいました。

 

愛を意味するギリシャ語のアガペーに最も近い日本語は「尊敬」です。尊敬に値しない人を、わたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)と言うのが愛の本質です

私たちは心の中で人を軽蔑しながら、その人を助けることによって「私には愛がある」などと自負したいという思いがないでしょうか。人の痛みを聞きながら、「そんなことで悩むほうがおかしい・・・」などと、その人の悩み自体を軽蔑して、「ほんとうにあなたはしょうがない人だ・・・」などと言いながら助けるということがないでしょうか。それは、愛ではありません。

 

   イエスは、その上で、もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(35)と言われました。

私たちはどこかで、「キリストの弟子」と認めてもらえるということを、誰からも尊敬される人格者になることと誤解しているかもしれません。しかし、主は私たちの「互いの間に愛がある」ことこそが、何よりも最大の伝道になると言われたのです。

 

イエスは今、弟子たちの前から姿を消そうとしています。今、私たちは、「イエスは私たちの交わりの真ん中におられるのです」などと、信仰の真理を語ったとしても、だれもイエスご自身を見せることができません。しかし、私たちが互いに愛し合っているなら、世の人々はその愛を導いておられる方を感じることができます。

たとえば、夫婦の場合、ある人に愛があるかどうかは、伴侶との関係に歴然と現されます。多くの人は、依存関係は築いても、真に尊敬する関係は築けてはいません。そこでは、互いにどれだけ相手の気持ちを聞くことができているかが問われます。

キリストにある夫婦愛のすばらしさは、説明されるものではなく、だれが見ても分かります。そしてそのような家庭に招かれたものは誰でも自分が歓迎されていると感じることができます。教会もまさにそれと同じです。開かれた愛の交わりを築くことこそが伝道の中心です。

 

イエスはイスカリオテのユダの裏切りの思いをご存知で最後の悔い改めの機会を与えられました。ユダはその愛を軽蔑するように、サタンに心を開きました。その後で、イエスは弟子たちに向かって、「互いに愛し合う」という交わり自体が、イエスが主であることを最も力強く証しすると言われました。

私たちはどこかで、伝道と兄弟愛を切り離して考える傾向があるかもしれませんが、イエスはそれを一体のものとして提示されました。なぜなら、私たちの互いの間の愛こそが、来るべき「新しい天と新しい地」の「祝福を目に見える形で現すものだからです。互いの間の愛が見られない共同体の伝道ほどむなしいものはありません。

 

日本的な交わりでは、「お前と俺」とか、あだ名で呼び合う関係があっても、教会では意外に互いの距離感を大切にする丁寧な言葉使いがなされます。

しかし、たとい会社の同僚の方が親密な関係があったと思えることがあったとしても、教会の交わりは、日本的な上下関係や排他性を超えようと格闘しているという面にこそ目を向けるべきでしょう。私たちは罪人の集まりであり、この社会では互いに友人とならないような異なった背景から集められてきています。

しかも日本語自体が小さな村社会、縦社会の影響の上に成り立っています。私たちは日本的な村社会の価値観を超えた愛の交わりをどのように築いて行くことができるか、その知恵が求められているのです。

その秘訣は、何よりも互いに自分の弱さを隠すことなく、また、妙に立ち入りすぎることなく、互いの真の必要を見極めて祈り合うことです。それは時間がかかることですが、そこに人間的な共感を超えた「御霊のうめき(ローマ8:26)があるなら「神の家族」としての交わりが生まれます。

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2016年5月15日 (日)

民数記22-24章「主は、のろいを祝福に変えられた」

民数記22-24章「主は、のろいを祝福に変えられた」

                                                2016515日 ペンテコステ

キリスト教世界ではペンテコステを「聖霊降臨日」と理解しますが、本来の意味は五十日目を意味するに過ぎず、イスラエルの民はそれを「七週の祭り(出エジプト34:22)と呼び、春の収穫感謝祭として祝いました(レビ23:15-22)

そこでは、畑の隅まで刈らないことや落ち穂を集めないことが命じられますが、それはルツ記の落ち穂ひろいの物語につながります。ユダヤ人はペンテコステの日にルツ記を読む習慣があります。それは収穫感謝とともに、神の民に受け入れられる物語でもあるからです。私たちも倣うべきでしょう。

 

実は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人は、この日を「律法授与の記念日」として祝うようになりました。それは、彼らが国を失ったのは律法を守らなかったからであり、国の回復は律法を守ることによって実現すると理解したからです。イエスの時代の人々にとってもそれは同じでした。

使徒の働き2章1節で、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた」のは、それを覚えてのことだと思われます。事実、復活のイエスに対して弟子たちは、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」(使徒1:6)と尋ねています。律法が与えられた目的が「神の国」の実現にあったからこそ、弟子たちはこの日に集まっていたのです。

彼らはイスラエル王国の復興を期待していましたが、実際は、聖霊降臨による教会の誕生(神の国)として実現しました。つまり、ペンテコステの最大の意義は、律法授与の記念日が聖霊降臨日へと発展したこと自体にあるのです。

そこにおける「聖霊のみわざ」は、当時の誰もが期待しなかったような不思議でした。主の弟子たちは、異なった言語を話すひとり一人の心の板」に神の御教えを書き記す(エレミヤ31:33)ように、それぞれの異なった言葉で語りかけました。聖霊のみわざは、人の心を変えるのです。

 

日本の文化は、「のろい」「たたり」という「恐れ」に支配されている面があります。多くの人々が今も、「しるしと不思議」に惑わされ、危ない宗教に流れて行きます。また、「幽霊」が話題になることがあります。そこでは、「いるのか?」というより、そこに込められた「のろい」に人々は怯えるのでしょう。

多くの人々は、超自然的な現象にばかり目が奪われ、それが「あるか、ないか」を議論しますが、昔からそのような不思議を行なう偽預言者や「夢見る者」は必ずいると考えるべきで、珍しいことではありません。大切なのは、それがどこから来て、人をどこに導こうとしているかを見極めることです。

主はその背後ですべてを支配され、私たちが「(ヤハウェ)を愛するかどうかを・・試みておられる」とも記されています(申命記13:1-5)

 

今回は、有名なバラムの記事ですが、彼はここだけを見ると立派な人間のようにも思われがちです。しかし、他の箇所では悪人の代表者として描かれます。正しいことを言う人が善人とは限りません。主の御霊は悪人の口を通しても真実を告げられます。

同じように、世の人々が感心する何か偉大な働きができる人が、主に喜ばれているのでもありません。主は、悪人さえも「神の国」ために用いることができます。主は、人の心の内側にある動機を見ておられます。そこに「主への愛」があるかどうかが問われているのです。

 

1.主はバラムに、イスラエルは「祝福されている」と言われた。

イスラエルの民は荒野の四十年の試練を経て、主に信頼することを学び、約束の地に至る国々を圧倒する存在となりました。彼らは今、エリコの対岸のモアブの草原に宿営していましたが(22:1)、その南にはモアブ人が住んでいました。

主はイスラエルに「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない」(申命記2:9)と言われました。それは彼らがアブラハムの甥、ロトの子孫だからです。

 

ところが、モアブの王バラクは、隣のエモリ人の国の滅亡の様子を見て、イスラエル人に恐怖を抱き、ユーフラテス河畔のペトルにいるバラムという有名な占い師を雇ってイスラエルをのろわせようとします。

今の日本でも、わら人形に五寸釘を打ち付けるという「のろい」のセットがインターネットで販売されているほどですが、今から三千数百年前のオリエントでもそのようなまじないが広く信じられていました。

その際、バラクは、バラムに「私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている」(22:6)と伝え、彼を雇ってイスラエルに「のろい」をかけることで戦いに勝てると期待しました。これは、主がアブラハムに与えた約束をもじったパロデイーのような表現です。バラムは見せかけの「まがいもの」で人々の尊敬を勝ち得ていたのです。しかし、本物が現れるとその偽りが暴き出されます。

 

主はアブラハムの子孫のイスラエルや私たちに、「わたしはあなたを祝福し・・・あなたの名は祝福となる(あなたを祝福の基とする)。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:2,3)と言われました。それゆえ、バラムもどんな霊能者も、神の民をのろうことはできないばかりか、のろう者は、かえって自分の身に「のろい」を招くのです。

ここの意味を申命記は、「モアブ人は・・その十代目の子孫さえ、主(ヤハウェ)の集会に加わることはできない・・彼らが・・あなたをのろうためバラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主(ヤハウェ)はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた(23:3-5)と記します。

つまり、モアブはイスラエルを「のろう」ことを願うことによって、自分自身に「のろい」を招いてしまいました。そればかりか、主は、この機会を用いて、イスラエルを祝福するというご意思をモアブに明らかにされました。

 

  ところで不思議にもバラムは、異教の占い師でありながら、イスラエルの神「(ヤハウェ)」との対話が許されていました。その意味は理解しがたいことですが、彼は主(ヤハウェ)と対話ができることで、「祝福」と「のろい」を彼自身が与えることができるかのように振る舞っていたのではないでしょうか。ですから、彼は主(ヤハウェ)にお伺いを立てることなしには何もできません。

それで彼は、モアブの使いを一晩待たせて主のみこころを尋ねます。すると主はバラムに現れ、「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ(22:12)と言われ、彼は彼らを国に帰らせざるを得なくなります。

 

  バラムは不気味な預言者です。何と、神のみことばを取り次ぐとともに、不思議な力が宿っているというのですから・・。しかし、彼には主への愛は見られません。このような人こそが神の民にとって最も恐ろしい敵となります。ただし、全能の主は当然ながら、バラムの悪意を抑えることができました。

実は、未来を的確に予言し、「しるしと不思議」を駆使できる霊能者のような人はいつの時代にもいました。彼らは、私たちに「のろい」の力を見せて脅します。ある意味で日本の祖先崇拝は「のろい」の脅しで家族を結び付けているような面があります。ご先祖様をないがしろにする一人の行動が、家族全体にわざわいをもたらすと恐れられ、未信者の方々の回心を妨げる圧倒的な力になります。

しかし、私たちは恐れる必要がありません。それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(ローマ8:31)とあるからです。

 

2.ろばに教えられるバラム 「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」

ところが、モアブの王バラクはそれに対し、さらに大勢の位の高い大臣たちを遣わし、多くの報酬を約束しながらバラムの心を動かそうとします。それに対し、彼は、「たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主(ヤハウェ)のことばにそむいて・・何もすることはできません(22:18)と言いながら、多額の報酬への未練を隠しつつ、「(ヤハウェ)が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」(22:19)と彼らを翌日までとどめました。

多額の報酬を期待する人に限って「私はお金では動くことはありません」と敢えて強調するものです。事実、主の御心はバラムにはすでに明確に示されていたのですから、彼は即座に招きを断るべきでした。そして、主は、バラムの隠された動機を見ておられました。

 

ところが、主はその夜、彼に現れ、「彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ(22:20)と言われます。何とも不思議ですが、それは、放蕩息子に財産を分けて堕落への旅を許した父親のようなみこころと同じではないでしょうか(ルカ15:12)。

ですから、ペテロは後に彼を「不義の報酬を愛したバラム」と呼びました(Ⅱペテロ2:15)。つまり、主はバラムにやりたいようにさせることで彼の罪を指摘しようとされたのです。そしてそれによって、ご自身の栄光を現そうとされたのです。

 

それで、「彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主(ヤハウェ)の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった」のでした。ろばには、「(ヤハウェ)の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっている」のを見ることができました(22:23)。それでろばは、道をそれたり、石垣に身を押し付けたり、うずくまったりしました。

しかし、バラムには主の御使いが見えませんでした。それで彼はろばを三度も打ちました。その上で主(ヤハウェ)は、ろばの口を開かれ、「私があなたに何をしたというのです。私を三度も打つとは(22:28)と答えさせます。当時の誰からも尊敬されていたバラムは、愚かにも、ろばに教えられる必要があったというのです。

 

そして、その後ようやくバラムの目が開かれて、「(ヤハウェ)の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た(22:31)というのです。彼は恐怖におののき、ひざまずき、御使いを伏し拝みます。

この意味を後にペテロは、「バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことができないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです」と説明します(Ⅱペテロ2:16)

 

バラムは、「(ヤハウェ)の使い」から、自分の命がろばに助けたことを知らされます(22:31-33)。彼は「あなたのお気に召さなければ、私は引き返します(22:34)と言いますが、御使いは、再び彼をバラクのもとに遣わしつつ、「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ(22:35)と警告されます。

これによってバラムは、主(ヤハウェ)のことばに反して語ることの危険を腹の底から知らされます。それで、彼はバラクに会ったとき、「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません(22:38)と念を押します。

 

その上でバラムはバラクに、「私のためにここに七つの祭壇を作り、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください」と願います(23:1)。これは当時の異教徒の最高の礼拝の形だったと思われます。

その際バラムは、「たぶん、主(ヤハウェ)は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう(23:3)と語ります。ここでバラムはあくまでも異教の習慣に従った霊媒師、または占い師として行動しています。そして、バラクに恐れを抱かせて、主のことばを告げます。

 

主も敢えて彼らの習慣を利用し、バラムに「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主(ヤハウェ)が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」(23:8)と言わさせます。これは彼がバラクの期待に応えることができないと知らせるためでした。

そればかりか、主は彼を通して、「だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数え得ようか(23:10)民の繁栄を約束します。これは、主がヤコブにベテルで現れ、「あなたの子孫はちりのように多くなり…地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」(創世記28:14)と言われたことを思い起こさせる、祝福のことばです。

 

占い師バラムはろばに教えられ、「のろい」を金で買い取ろうとしたバラクも、その不可能なことを知らされます。それでも彼らは諦めることなく、占いや霊媒の働きを続けます。

その背後には、自分を人生の主として、将来さえも支配していたいという幻想があるのではないでしょうか。しかし、私たちに与えられた人生の知恵とは、「あなたがたには、あすのことは分からないのです」(ヤコブ4:14)という真理を心の底から受け止め、明日を知ろうとする代わりに、明日を支配する創造主を愛し、主にゆだねることなのです。

 

3.「なんと美しいことよ。ヤコブよ。あなたの天幕は・・・その王国はあがめられる」

さらにバラクは、場を変えることで「のろい」を引き出そうと、バラムを「ピスガの頂」に連れて行きますが(23:14)ピスガとは山脈で、いくつもの山々があります。そこからはイスラエルの一部だけを見下ろすことができ、「のろい」にふさわしいと思ったのでしょう。

今度はバラク自身が七つの祭壇を築き、バラムから「のろい」の言葉を引き出そうとします。バラムはバラクを気遣い、それが不可能と説得する代わりに、霊媒師または占い師としての働きを続けます。彼の動機は不純ですがそれを通してさらに、主の栄光が現されます。

(ヤハウェ)は再びバラムの口にみことばを置き、「バラクよ・・私に耳を傾けよ・・神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない・・彼らの神、主(ヤハウェ)は彼らとともにおり・・ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じて・・イスラエルに告げられる」(23:182023)と語らせます。これは、まじないや占いに頼ってイスラエルと戦うバラクへの回心を訴えることばです。

 

しかし、バラクはなおも別の場所にバラムをつれて行きます。その際、バラクは、「もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかも知れません(23:27)とまで言います。そこは別のピスガの頂の一つの「ペオルの頂上(23:28)で、そこからはイスラエルのキャンプ地全体を見下ろすことができました。

バラクはそこでなお占い師としての行動を取り続け、同じ祭壇を設けさせます。ただし、そこで初めて、「バラムは・・これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向け(24:1)という行動の変化を見せます。

そこで彼が「目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、(ヤハウェ)の霊が彼の上に臨んだと描かれます(24:2)。つまり、今度は、主ご自身がバラムの口をそのまま用いてご自身のみこころをバラクに伝えようとしておられるのです。

私たちは主の霊が私たちの力を補助するかのうように、「慰め励ます」と考えがちですが、主の霊はどんな悪人をも動かすことができる創造主ご自身であり、主の霊が下ることの圧倒的な力を忘れてはなりません。

 

そこで主は、イスラエルの宿営を見下ろすバラムを通して、「なんと美しいことよ。ヤコブよ。あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように川辺の園のように、主(ヤハウェ)が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。・・・その王国はあがめられる(24:5-7)というエデンの園の回復を連想させる最高の祝福が告げられます。アロエは「医者いらず」とも言われる薬用になる植物です。

この情景は後にエゼキエルが、新しいエルサレム神殿から湧き出た水が川となって世界を潤し、そこに生える木の葉が薬となると預言されることに結びつきます(47:1-12)。バラムはイスラエルの繁栄の幻を預言したのです。その上で、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる(24:9)というアブラハムへの祝福が繰り返されます。

 

バラクは、大量のいけにえをささげたにも関わらず、不利なことばばかりを聞いたことで、怒りを燃やしました。それに対し、バラムは今まで同様、自分は主のみこころ以外を語ることができないことを繰り返します。

たしかに、バラムからしたら、霊媒者の取次ぎを依頼した者は、どんな不都合なことを告げられても報酬を支払うのが義務のはずですが、バラクは「(ヤハウェ)が・・もてなしを拒まれた」(24:11)と言い逃れます。彼は「のろい」を求めていたのであって、主のみこころを知りたかったわけではなかったからです。

 

それに対してバラムはバラクに、「この民が後に日にあなたの民に行おうとしていること」までも告げてしまいます。それは、「ヤコブからひとつの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべて騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く(24:17)というモアブへのさばきです。これは将来ダビデがイスラエル王国を確立し、周辺の国々を属国として治めることを意味します。

また20節の「アマレク」はイスラエルの宿敵ですが「その終わりは滅びにいたる」と預言され、22-24節では周辺の国々の将来を語って、「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう」24:23)と主の完全な支配を告げます。

 

バラムは自分のいのちを危険にさらしながら何の報酬も得られませんでした。それどころかこの後、イスラエルに異教の神々を拝ませるきっかけを作ったことで、主のさばきを受け、剣で殺されます(31:816)

バラクも超自然的な「のろい」の力に頼ろうとして、かえって自分の身に「のろい」を招きました。彼らは徹底的に、主(ヤハウェ)と主の民に敵対することはできないと知らされます。少なくとも、主はこれによってモアブの王に戦う気力をなくさせました。主は占いを無益にしたばかりか、無益な争いをも差し止められたのです。

 

    それにしても、バラムほど正確にイスラエルの祝福を告げることができた人はいません。彼は(ヤハウェ)と直接対話することができました。また、人々を「のろい」、それを実現させることもできました。彼が現代の日本に生きていたら、霊能者として人々の尊敬を勝ち得たことでしょう。

ペンテコステを、主の民が様々な「しるしと不思議」を行ない始めた奇跡の記念日?とばかり見る人々がいます。しかし、バラムの例にあるように、主に敵対する者でさえも、主の御許しの中で超自然的な働きができるのです。

ペンテコステは、「神の国」を建てるための主の御教え(律法)が与えられた記念日が、それを実現する聖霊が与えられた日になったことです。聖霊降臨の何よりの目的は、神の愛のご支配(神の国)をこの地に実現し、広げることです。

 

   聖霊の働きは何よりも、人々の心の奥底に、「イエスは主です(Ⅰコリント12:3)という告白を生み出すことにあります。それは、「イエスの生き方に倣う」者とされたいと願うことに他なりません。

それは世の人々から評価される生き方ではない場合も多くあります。目に見える結果ではなく、「愛」こそが問われています。

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2016年5月 8日 (日)

コロサイ1章24節~2章7節「キリストにあって歩むとは?」

コロサイ1:24-2:7 「キリストにあって歩むとは?」

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多くの人は自分の生活が期待通りに進んでいるときは心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスを抱えるたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表に出てきてしまいます。それは、アダム以来の全ての人の心を支配する「恐れ」が芽を出すからです。

そのとき、いつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。

 

あなたは心の底から、あの時、あの町での、あの両親を通しての自分の誕生を「キリストにあって」の恵みと受けとめきれているでしょうか?

意外にも、これは多くの人にとって、何よりも難しいことです。第一の赤ちゃんとしての誕生を心から喜べるなら、あなたの人生はあなたの個性を真に生かす場とされるのではないでしょうか。

 

1. 「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」

パウロは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています(1:24)と不思議なことを記します。彼はかつてキリストの教会を迫害しましたが、今や異邦人教会のために命を賭けています。そこには、異邦人の使徒として召された結果として、イエスの代理として苦しみに会っているという意識があるのだと思われます。

そのことが何と、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている(1:24)と表現されます。それは、罪の贖いのための十字架の苦しみに「欠け」があったというのではなく、「キリストの苦しみ」から始まった「神の国」が、今、完成に向かう中で「産みの苦しみをしているという意味です。

 

出産の苦しみによって新しい命が誕生するように、神の平和に満ちた世界が実現するために「産みの苦しみ(ローマ8:22)があります。そして、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も」その苦しみに共にあずかるように召されています(8:23)。それは私たちがキリストの似姿に変えられるために受けるべき訓練でもあります。誰も訓練なしに成長することはないからです。

パウロはかつてキリストの教会を迫害しました。そのときイエスが彼に現われ、「なぜ、わたしを迫害するのか・・わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4,5)と言われ、教会への迫害をご自身への迫害と同一視されました

その経験からパウロは、教会の苦しみをイエスご自身の苦しみと心から受けとめ、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」のは「キリストのからだのため」であり、それは「教会のことです」と結びます。

実際、キリストは今、教会をご自身の「からだ」としておられますから、私たちが指先の痛みを頭で感じるように、教会の痛みをご自身の痛みとして感じられますし、反対に、私たちが教会を愛することを、ご自身への愛として喜んでくださいます

 

パウロはイエスに捕えられた後、「神は・・この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと望まれた(原語で強調)(1:27)と自分の心で受けとめます。

その上で、確信に満ちて、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです(1:27)と語りました。これはキリスト者の幸いを一言で表わしたようなことばです。「かつては神を離れ、心においては敵となっていた」人が(1:21)、キリストの肉のからだにおける苦しみによって、神と和解させられました。

しかも、その福音は、「私の身をもって・・」と言って、異邦人伝道にいのちをかけたパウロの苦しみを通して伝えられたのです。イエスとその弟子が苦しまれたからこそ、今、キリストが私たちのうちに住むことが可能になりました。

 

私たちの「中におられるキリスト」こそ、「栄光の望み」です。主が十字架で死んで、栄光の身体によみがえったように、私たちにも栄光の復活が待っています

それは、青虫が冬の間、さなぎになることを通して、春には美しいアゲハ蝶に変わるようなものです。私たちは今、青虫のように地に這いつくばって生きています。しかし、私たちにとっての死とは、さなぎになって越冬することに似ています。越冬さなぎの場合は、5カ月間から8ヶ月間にも渡ってさなぎの状態で、まるで死んだように冬眠しています。しかし、春が来るとそれまでとは似てもいつかない姿に変えられ、空に羽ばたいてゆきます。

それゆえ、私たちはどんなに暗い中にも、栄光の望みに満たされることができます。このことをパウロはローマ書81011節で、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます(私訳)と記しています。

 

ところで、パウロの異邦人伝道以前には、神に受け入れられるためには、ギリシャ人も、まず割礼を受け、食物の規定などを守るユダヤ人になる必要がありました。なお、当時は、ユダヤ人にだけは、偶像礼拝を強要されないという特権が与えられていましたから、同じ神を信じるようになった異邦人にとっては、まずユダヤ人の仲間入りをすることには信仰を全うする上では大きな意味がありました。

しかし、パウロはここで、そのような自己保身的な姿勢を忘れさせる大胆な霊的な現実を思い起こさせました。それは、異邦人のままの彼らに、万物の創造主であるキリストが、既に住んでおられ、ご自身の栄光の姿にまで変えてくださるという告白です。

この「栄光の望み」の中で、彼らは異邦人としての自分たちのアイデンティンティーをそのまま喜び、長い霊的な伝統を守り続けているユダヤ人たちと同じ神の民に加えられることになったのです。しかし、その教えがユダヤ人を激しく怒らせ、パウロは牢獄に入れられることになりました。

ただし、イエスが主であることを否定するユダヤ人は、「外見上のユダヤ人」に過ぎないとも言われます(ローマ2:28,29)

  

2.「自分のうちに力強く働くキリストの(働き、エネルギー)によって」

パウロは、「私たちはこのキリストを宣べ伝え(1:28)と言いますが、それは単にキリストの紹介をするというより、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教える」という神経を使う、骨の折れる働きです。しかも、その目的は「すべての人を、キリストにある成人(成熟した者)として立たせるため(1:28)と記されます。

原文では、「あらゆる人」も「すべての人」も同じ言葉で、三度も繰り返されます。パウロは、自分の枠にはまる人ではなく、あらゆる種類の人々を分け隔てなく「戒め」「教え」、キリストにある「成熟した者」または「完全な者」として立たせようとしているのです。「完全」とは、「完璧」ではなく、いけにえとして神に受け入れられる状態、22節にあった「聖く、傷なく、非難されるところのない者」になることです。

そしてパウロは、「このために労苦しながら、奮闘しています(1:29)と言っています。キリスト者の成長を導くというのは、途方もない労苦とエネルギーが必要なことですが、パウロはそれを「自分のうちに力強く働くキリストの(働き、エネルギー)」によって実行していると語ります。

それは、人間の力ではなく、私たちの「死ぬべきからだをも生かす」ことができる復活の力、神ご自身の「働きです。「働く」も「働き」もギリシャ語のエネルゲイヤに由来し、「エネルギー」の語源です。その神の働き(エネルギー)が私たちのうちに宿っているのです。

 

2章初めでパウロは、自分の苦しみが神から理解されていることに満足せずに、「私の顔を見たことのない人たち」が、「私がどんなに苦闘しているか、知ることを望んでいる(原文で強調)」と、敢えて訴えています。ここでの「苦闘」と、129節の「奮闘」は基本的に同じ意味のことばです。それは彼が、自分の「苦闘」を証しすることが若い信仰者に、「恐れ」よりも「勇気」を与えることを確信していたからです。

パウロは彼らを、幼児のように世話される立場から、「キリストにある成人として立たせる(1:28)ことに目標を置いていましたが、そのためには言葉ばかりではなく、自分の生き様を通しても、「キリストを宣べ伝える」(1:28)必要がありました。

人は、基本的に、苦しむことを避けながら、楽に人生を過ごしたいと願いますが、同時に、何かのために苦しむことができる人に尊敬の心を抱きます。それは、苦しみを担う力、真の霊的なエネルギーに憧れるからではないでしょうか。

パウロは、「私たちがキリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しんでいるなら・・・キリストとの共同相続人でもあります(ローマ8:17)と記しています。

 

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地を」相続し、治める者になりますが、それは「キリストと共に苦しむ」というプロセスを通して明らかにされます。私たちが「キリストと共に栄光を受ける」ということがなかなか実感できないのは、この「共に苦しむ」というプロセスを避けているからかもしれません。

神はご自身のみことばの解き明かしを、欠けだらけの器に委ねました。一見、極めて非効率で誤りやすい方法ですが、生身の人間の苦しみを通してしか伝わらない真理があります。

私たちのうちに住んでおられる「キリスト、栄光の望み」のすばらしさは、この世でわざわいに会うという「弱さ」の中にこそ完全に表わされるからです。そのために私たちも、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」という働きへと召されているのです。

 

3. 「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されています」

   22節はパウロの苦闘の意味が、「それは、この人たちが心に励ましを受けるため」と記され、その上で、「愛によって結び合わされながら、理解をもって豊かな全き確信に達し・・キリストを真に知るようになるため」と続きます。

作家の池澤夏樹さんはMinistryVol.17で「プロテスタントに嫌味を言うわけではありませんが、一人ひとりに聖書を配ってしまったのはどうだったのか。ユダヤ教みたいにみんなで朗読するならいいんです。でも一冊の本として個室に入ってしまったために、会衆の中の一人ではなく、神と一対一になってしまった。それによって普通の人が、哲学の課題を負わされてしまったんですよね」(p.53)と記しています。

これは確かに興味深い視点だと思います。信仰の成長とは、ひとりで聖書知識を蓄えることではなくて、「愛によって結び合わされる」という教会の交わりの中で起こるべきことではないでしょうか。

 

その上で、「全き確信」の内容が、「神の奥義であるキリストを真に知ること」と記されています。「キリストを知る」とは、115-20節のキリスト賛歌を心から理解し味わうことです。

キリストは何よりも万物の創造主であり、すべてのものはキリストにあって成り立ち、キリストに向けて保たれています。そして神はキリストのうちにご自身の満ち満ちた本質を宿らせることによって、御子の十字架によって万物をご自身と和解させてくださいました。それによって、私たちはこのままで、「神の子ども」とされたのです。

私たちが神について、世界について、自分の人生について知るべき全てのことは「キリストのうち」に隠されています。彼らの交わりは今、誤った教えによって分裂の危機に瀕していました。しかし、「キリストを真に知る」ということの中に、彼らの交わりと確信のすべての必要が満たされるというのです。

なぜなら「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている(3)からです。これは、「(キリストではなく)律法こそが知恵と知識の宝である」というようなユダヤ主義者の「まことしやかな議論(2:4)に対抗した表現だと思われます。

 

パウロは引き続き、「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいます(2:5)と、御霊によって彼らと自分が結ばれていると強調しています。私たちの霊が祈りのうちに聖霊に結びついているときに、私たちは離れた兄弟姉妹ともいっしょにいることができます。

その状態を彼はさらに「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜びながら」と描きます。「秩序」「堅い」も、軍事用語として戦いの場面で頻繁に用いられる言葉です。パウロはコロサイの教会の人々が、誤った教えで惑わす霊的な戦いに動じることなく「堅く立っている」ことを、御霊によって「見て、喜んでいる」のです。

 

   ところで、キリストを知ることは自分の人生の目的を知ることにつながります。

たとえばパウロは、生粋のユダヤ人であると同時に、ローマ市民としてギリシャ文化の恩恵を受けていました。しかし、彼はそれを神の賜物と見る代わりに、ユダヤ人としてのアイデンティティーばかりに固執し、神の教会を迫害しました。

しかし、キリストを知った時、自分の使命をギリシャ人とユダヤ人の和解にあると心から理解できたのです。

 

私にも自分が何者であるかというアイデンティティーの混乱がありました。自分が北海道の山奥の小学校でさえ落ちこぼれであったことや、神経症的な性格という人間的な「枠」に囚われ過ぎました。その心の葛藤が、牧会方針の揺れとして現れることがありました。

しかしある時、自分の内側にある矛盾する声に優しく耳を傾けることが、この教会に与えられた個性を生かすことになると示され、自分自身の癒しと自分の使命が一体のことだと理解できました。

あなたの中にも様々なアイデンティティーの混乱があるのではないでしょうか。しかしすべてを、「キリストのうちにある」という観点から見られるとき、人間的には矛盾すると思われるアイデンティティーのすべてが調和し、そこに生まれた内的な和解は周囲の世界に及びます。

 

4.「キリストにあって歩みなさい」

  26,7節はこれから46節まで続く具体的な勧めの核心です。「主キリスト・イエスを受け入れた」とは、「キリスト(救い主)であるイエスを自分の主人とする」という意味です。113節では、私たちは「闇の力」から救い出され、「御子のご支配」の中に移されたと記されていました。それは同時に、私たちの人生は、キリストを迎え入れることによって、自分のものではなくキリストのものになったことを意味します。

私たちはどこかで、自分の願望を満たしてくれる救い主を求めてはいないでしょうか。大切なのは、キリストの願望が私たちの願望となり、キリストのみわざが私たちを通して実現されることです。

フーストン先生は。クリスチャンとして生きるとは、「自我の圧政から自由になることFreedom from self-tyranny」と言われました。神に逆らって死の力に支配されたアダムの心は「恐れ」に支配されています。その「恐れ」が私たちを戦いと自己保身へと駆り立てます。「私が、私が」と頑張っている人は、自我という圧政の支配下にいるのです。

 

パウロはキリストを受け入れた者に対し、「(キリスト)にあって歩みなさい」と命じます。「歩む」ことこそ、この文章での唯一の命令形です。信仰は日々の生活の中に現されるからです。7節には四つの現在分詞が記され、すべて「歩みなさい」を修飾します。勧めの中心は「歩み方」です。

最初の「キリストの中に」は「根ざす」と「建てられる」の両方にかかります。

キリストの中に根ざしながら歩む」とは、自分の全生涯を神の賜物として受けとめることです。あなたは「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれ(エペソ1:4)た結果として、欠けだらけの父と母のもとで生まれ、育てられ、時が満ちて、「暗闇の圧制から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(1:14)のです。その神の愛を味わい、その愛に浸りながら歩むのです。

第一の人としての誕生も、第二の霊的な誕生も、両者が「御子のうち」あって起こったことでした。

 

キリストにあって建てられる」とは、根を深く張ることの結果ですが、「愛によって結び合わされ(2)ともあったように、「キリストのからだ」として交わりが築かれるのです。

しかもこれは「建てられ続ける」という現在進行形的な意味です。信仰は、目に見えない心のことのようですが、キリストに根ざした結果は、必ず、人との交わりとして実を結ばせます。主への愛と、主の被造物である者への愛とは表裏一体のことです。

 

 「教えられたとおり信仰を堅くされなが(原文)」では、受動形に注目しましょう。信仰は、自分の身と心を福音に浸すことによって、堅くされるものなのです。しかもここでの「堅くされる」とは、5節にあった「堅い信仰」とはまったく違う言葉です。先のことばは軍隊用語で敵の攻撃に「動じない」という意味でしたが、ここは、信仰の理解において徐々に「堅くされ続けるという、しなやかな成長のイメージがあります。

もともと「信仰」とは「真実」とも訳される言葉で、私たちの信仰とは、キリストの真実への応答なのです。彼らの問題は、既に聞いた福音を不充分かのように思い始めたことでした。キリストがある人を通してあなたに目を留め、個人的に語りかけてくださいました。

信仰が堅くされ続ける鍵は、そのように既に教えられ」、心に響いたみことばを、繰り返し腹の底で味わい続けることにあります。ここでも継続性の意味が込められています。

 

   なお最後に、「感謝に満ち溢れていながら」と敢えて記されるのは、現実の「欠け」にばかり目が奪われ、既に「キリストにある」という祝福を忘れていたからです。

私たちが、目標を達成することばかりに夢中になり、それに至る過程の歩みを喜び楽しむことができないなら、互いを愛し合い、世界にキリストの愛を示して行くという働きの中で、「互いを憎み合う」という皮肉が生まれます。残念ながら、私たちは自分たちの崇高な目標が明確になればなるほど、期待通りに動いてくれない人に対して腹を立てることが多くなります。

しかし、「新しい天と新しい地」に至るまで目の前から問題がなくなることはありません。すべてが一過程に過ぎないのです。私たちの人生は、「今ここにある恵み」を忘れるなら、人生は何と空しいことでしょう。

 

  私たちは、問題に直面した時に、逃げるか戦うかのどちらかの傾向に心が揺れがちです。しかし、キリストにある歩みとは、その問題の中に入りこんで、そこにある対立した声に静かに耳を傾け、それをキリストにあって受けとめ直すことではないでしょうか。

自分の中の対立した声を優しく聴くなら、世界に平和を作る者として用いられます。あなたにとって矛盾が気になる所は、あなたにとっての「キリストの苦しみの欠けたところ」ではないでしょうか。

たとい、苦しみに会っても、そこでキリストのいのちが輝くことができるのです。様々な「苦しみ」は、「自分のうちに力強く働くキリストの力(エネルギー)」を体験する絶好の機会です。

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2016年5月 1日 (日)

コロサイ1章1-20節「イエスの愛に包まれて歩む」

コロサイ1:1-20「イエスの愛に包まれて歩む」

                                                     201651

  私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。

しかしこの地では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自国の安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、格差を生み出しました。

 

   聖書は、世界の完成に至るプロセスを、絶え間のない進歩とは描きません。キリストの再臨が近づくにつれ混乱と争いは増し加わります。ですから本当に必要なのは、問題を解決する能力以前に、問題を抱えたまま生きる力です。

そして福音の核心とは「望み」であり、それは問題を背負い込むようにして、人々を愛する力を生み出します。私たちは自分の心の闇を探索する前に、神がキリストにおいてなしてくださったみわざを心から理解しつつ、生きることを目指すべきです。すべての営みは「キリストのうちにある」ものです。

 

英国の神学者リチャード・ボウカム博士は、次のように語っています。

「教会は、希望の共同体、神様が全世界の被造物に対して持っておられる希望の共同体です・・・キリスト者の希望は、神の約束を信頼する事です。たとえ最悪の状況が起ころうと、神様のご計画は必ず成就すると信頼し続ける事です。

神様はどんな悪よりも大いなる御方であり、悪からでさえ良きものを引き出され、失われたものを回復し、修復し、死人を目覚めさせて下さる御方だからです。この希望こそがクリスチャンを支え、導くのです。」

 

1. 神に感謝できるわけ。福音が、実を結び、成長する

   この手紙は、パウロが、現在のトルコの南西部にあるコロサイという小さな町の教会に向けて記したものです。それが聖書の一部とされるのは、キリストの教会が、時と場所を超えて同じ祝福と同時に共通の問題を抱えているからではないでしょうか。

なお、この手紙を解釈するのは、電話の会話の片方だけを聞いているように困難なものです。コロサイ教会の事情を様々な角度から推測する必要があるからです。

 

   この教会は、エパフラスという人の働きで生まれましたが、その後、様々な誤った教えが入りこんだため、パウロに助けを求めたのだと思われます。この教会は多くの問題を抱えていましたが、パウロは彼らを「聖徒たち」、「忠実な兄弟」と呼びました。それは彼らが、「キリストにある」者とされているからです。

もし彼が私たちに手紙を記しても、「東京にいる聖徒たちキリストにある忠実な兄弟」と呼んでくれることでしょう。

 

「恵みと平安・・」の祈りはパウロの手紙に共通しますが、「平安」はヘブル語にするとシャロームで、心の平安ばかりか、人との平和をも意味します。どの教会も、罪人の集りである以上、具体的に平和のために祈られる必要があります。それは、20節に記された、「十字架によって平和をつくり」につながります。

ときにふと、パウロの手紙を、解釈を加えずに朗読する方が良いのではないかと思うこともあります。しかし、私たちの教会に、直接適用できない部分も多くあります。たとえば、彼らはユダヤ教やギリシャ哲学の影響下にあり、私たちは日本的な多神教や義理と人情の道徳観の影響を受けています。また言語体系も全く異なります。

説教者は、この二つの時代、二つの文化や言語体系の橋渡しをする責任が与えられています。そのため、当時のことばかりか、ここにおられる方々の現実を知っている必要があります。

 

コロサイ人と私たちの置かれた環境は何と違うことでしょう。そして私たちも、それぞれ特殊な環境に遣わされます。サラリーマンと自営業者、主婦と学生、独身と既婚者に、公務員と営業マン、それぞれに異なった文化と言語があります。

しかし、極めて特殊な中にも適用できる普遍の真理があるのです。それは、「キリストにある者」とされるということです。自分がキリストの愛にとらえられ、包まれ、復活のキリストの御手に守られていることを思い起こして見ましょう。それこそ、いつでもどこでもあなたに実現している現実なのです。

 

   ところで、パウロの文章は長く複雑です。3-8節のすべては、「私たちは神に感謝しています(3)にかかります。感謝をされるべき方は、「私たちの主イエス・キリストの父」です。福音は、イエスの父なる神が、私たちの父となられたということに要約できます。

神はイエスを愛するようにあなたを愛し、イエスに聞くようにあなたの祈りに耳を傾けてくださいます。しかも、感謝は、「いつも・・祈る」という中で生まれるというのです。

 

 感謝の根拠としてあげられたのは、「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰(4)と「すべての聖徒たちに対して抱いている愛」の二つです。

しかも「信仰」と「」は、彼らが誇ることができる働きではなく、「天にたくわえられている望みに基づくもの(5)で、それも彼らの心の中に自然に湧き起こったものではなく、「福音の真理のことば」を「聞いた」結果として生まれたものです。

そして、その福音は、自分で把握したものではなく、届けられたものであり、それはエパフラスという具体的な人の働きによってなされたのです。

 

今、コロサイの教会が揺れているのは、エパフラスが語ったことへの疑問が生まれたからです。そこでパウロは、すべてが彼の働きから始まったことを思い起こさせました。彼はパウロから学んだことを忠実に伝えただけで、当時のユダヤ人学者やギリシャ哲学者からは、無教養に見えたかも知れませんが、彼もパウロと同じ「忠実な、キリストの仕え人」だというのです。

そして、そのエパフラスが伝えた単純な福音のことばから、天にたくわえられてある「望み」が、今初めて、明らかにされました。それは、キリストが「新しい天と新しい地」を実現し、この世界を愛と平和で満たしてくださることです。キリストの復活はその保証です。そこから「イエスへの信頼」が生まれます。そして、完成を先取りし、余裕をもって聖徒を愛する」ことができるのです。

 

福音の核心は何より「望み」として描かれます。人が福音を知ることで、急に頭が良くなったり体力がついたり、社会的な立場が良くなったりするわけではありません。つまり、目に見える現実が変えられるというより、「天にたくわえられている望み」が明らかにされることで、生き方が変えられるのです。

ただそれは「死んで天国に行く希望」というより、神のご計画通りこの世界が平和(シャローム)の完成に向かうという「望みです。

 

それは、信仰と愛における変化です。これは、何かの学問や技術を「会得し」、自分を変えるというのではありません。福音自体が、「実を結び、広がり(成長し)続けた」結果です。

私たちは受動的に福音を聞き、福音が身体の内側に働くのに任せることで、望み」が変えられ、その結果、行動が変えられるのです。

 

私はいつも知恵を獲得することに熱心でした。しかし、そこには感謝ではなく空しい誇りが生まれました。誇りが傷つけられると、一層の獲得の努力へと駆立てられました。

しかし力を抜いて、語られた単純なみことばが自分の内側に根を張るのに任せようとした時、福音が、実を結び、成長し始めたように思います。

 

2.「愛する御子の御支配の中に移された」ことを、感謝しながら歩む

   920節もひとつの文章で、すべては、「私たちは・・絶えずあなたがたのために、祈り求めています」にかかります。ここからは、感謝に代わり、祈りの内容が二つの観点から述べられます。

 

それは第一に「神のみこころに関する真の知識に満たされる」ことです。当時の聖書は旧約だけでした。イスラエルの民に向けて書かれたことの中に、すべての民族の救いに関する神のみこころが明らかに啓示されていました。

福音は単純だと述べましたが、旧約も極めて簡潔にまとめて理解することが可能です。それは、創造主がひとりのアブラハムを選んで、彼とその子孫と結んだ契約を守り通すという物語です。

 

第二は、「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(10)という、「歩み方」に関する祈りです。それは「善行のうちに実を結ぶ」「神を知る知識を増し加える」「あらゆる力をもって強くされる」「父なる神に喜びをもって感謝をささげる」の四点からなります。

そして13-20節で、感謝すべき内容として、御子による救いのみわざが説明されます。つまり、「歩み方」も、新しい倫理や道徳を実践でるようになるということよりも、神への感謝を福音から学ぶことなのです。それは生活から遊離した学びではありません。

 

パウロは、「福音が・・実を結んだ(6)と同じことばで、「あらゆる善行のうちに実を結ぶ」(10)と強調しました。福音は、実生活の中に、実を結び成長するのです。

知識と日々の歩みは、車の両輪のようなものです。キリストにあって、具体的に歩みながら、神が御子イエスによってなしてくださったみわざを黙想するなら、実生活の中で、生きて働いておられる神の愛を頭ばかりではなく、身体で体験できるのです。

 

ある人が、「人が自分の人生の物語を語ることができるように助けてあげたい」と言っておられました。人生には、「これを感謝することなどできません!」ということが必ず起こります。しかし、それも、キリストにある人生の一部と捉えられるなら、変化が期待できます。

私たちは、神から遣わされた者として、自分の世界の中に閉じ篭り、窒息しそうな人の傍らに座り、その悲しみや苦しみの告白を聞くことができるなら、それは、神の御前での嘆きに変えるのです。そして、イエスご自身がともに嘆き、感謝を生み出してくださいます。

 

  なお、パウロが先に、「主にかなった、あらゆる点で(主に)喜ばれる歩みができますように(10)と願ったことの中心は、何よりも四点目の「父なる神に、喜びをもって感謝をささげる(12)ことに現されます。

つまり、キリスト者の歩みの核心は、自分の欠けを覚える前に、与えられた救いを感謝することなのです。

 

その感謝の根拠として、第一に、「光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださいました」と記されます。それは、一方的な恵みで与えられた「資格」です。

それを言い換えるようにして第二の感謝の理由が、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出し(13)と記されます。アダム以来、自分が「神のようになる(創世記3:5)ことを願う全ての者は、前向きに生きているようでも、滅びに向かっています。

自分の弱さを克服し、競走に勝つことは、美徳とばかり言いきれるのでしょうか?一人の勝者の背後で99.9%の敗者が生まれ、その一人もやがて敗者になります。この競走原理こそ、まさに暗やみの圧制ではないでしょうか。

 

しかも、救われてなお、「一流のクリスチャンになりたい!」などと駆り立てられないでしょうか?暗闇の支配者であるサタンは、エデンの園で、エバの目を「食べてはならない」という一つの木に釘付けにしました。サタンは今も、現状に不満を持つようにと誘惑し続けているのです。

しかし、私たちは、既に(御父が)愛する()子のご支配の中に移」されています。イエスは、御父が「愛する子」です。そして、私たちも「御子のうちにあって・・あがない、すなわち罪の赦しを得て(14)います。「あがない」とは、奴隷状態から解放され、自由人とされること、「罪の赦し」とは私たちが神の「愛する子」とされることです。

なおイエスがバプテスマを受けられたとき、天が開け、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:22)と言われましたが、これが今、私たちへの語りかけとなりました。この声を聞く歩みこそ、御子のご支配にあることです。

 

確かに、自分の罪深さを認識することと、「こんな私が神の子とされた!」と感謝できることは切り離せない関係にありますが、罪の自覚を深めることばかりに心を集中することは危険です。サタンも自分の罪深さは良く知っているのですから・・・。

ある人は、幼い頃から、道を踏み外さずに生きながらも、人生の意味を捜しあぐねて真の神に出会いました。しかし、その後、「私は自分の罪深さが実感できない・・」などと落ち込みました。しかし、その彼も、「救いのご計画の全体像が分かった時、初めて、この世の栄光を望む自分の罪深さに圧倒された」と言っています。

罪の本質とは、何よりも、神の愛の語りかけに応答しないことなのですから、神の救いのご計画が分かった後で、罪が分かるという方が健全かもしれません。とにかく、感謝が伴わない「歩み」は、冷たい道徳主義です。それも人を駆り立てる「暗やみの圧制」ではないでしょうか?

 

3. 「御子にあって、御子によって、御子のために」

  15-20節は「キリスト賛歌」とも呼ばれ、一つの詩のように整えられていますが、15節の初めは「彼は」という代名詞です。つまり、この箇所は独立しているのでなく、「父なる神に、喜びをもって感謝をささげ」られる根拠としての御子のみわざが述べられます。御子が創造主であることを覚えることは、御父を忘れることではなく、賛美することになるのです。

これは四部に分けられ、1516節と18b-20節が対応し、それに挟まれて、ふたつの短い文があり、前半で御子による創造が、後半で御子による世界の創造が歌われています。

 

   世界は確かに罪に支配されていますが、目に見えるものを軽蔑することは御子による救いを誤解することです。「御子は、見えない神のかたちであり(15)とあるように、見えない神は、目に見える肉体を持つ御子を通してご自身を証しされたからです。

しかも、この方は、世界が存在する前に、父なる神から「生まれた方」なのです。それは、御子が、この世界ばかりか、目に見えない世界や御使いをも創造することができるためでした。

16節では、「万物は」、「御子にあって」「御子によって」「御子のために」、「造られた」と繰り返されます。「王座も主権も支配も権威も」という中に、当時のローマ帝国による圧政も含まれています。この地の制度や営みのすべてが、「御子にあって成り立って(共に保たれて)いるというのです(17)

 

コロサイの信徒は、偶像礼拝に満ちた世界から救われたことの反動で、この世の仕事や知識、政治的な権威などの、見えるものをすべて否定したのだと思われます。それに対して、パウロは、罪に堕落した世界が、それでも滅ぼされずに保たれているのは、創造主である御子のみわざであることを思い起こさせたのです。

この異教社会の日本にも、イエスのみわざの影響を認めることができます。たとえば、一週間のリズム、結婚制度、基本的人権やいのちの尊重、平和主義、「」や「自由」ということば、その他、数え上げたらきりがないほどです。この世界を批判ばかりして、そこにある美しさを見ることを忘れてはなりません。

 

私は昔、証券業務に従事していた頃、自分が「御子にあって」その職場に置かれ、「御子によって」造られた仕事の中で、「御子のために」働くという意味が分かるまでは、仕事が空しく思えました。私たちは仕事ばかりか遊ぶことすら、「御子にあって、御子によって、御子のために」行うのです。

この「万物」の代わりに、「国」「家族」「会社」「仕事」「食物」「スポーツ」「趣味」「配偶者」「子ども」「友人」「東京都」「教会」等と入れて読み替えてみてはいかがでしょうか。イエスは今この時、生きて働いておられます。私たちは、どんな暗やみの中にも、やがて美しく咲く花のつぼみを認めることができます。そこに希望に満ちた喜びが生まれます。

それで当教会のビジョンでは、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」と記すことにしました。

 

   しかし、同時に、目に見えるものに固執せず、「地上では旅人であり寄留者であることを告白する(ヘブル11:13)ことも大切です。私たちは、この世のうちにではなく、その創造主である「御子のうち」あるのですから・・。

それは、具体的には、キリストの「からだである教会(18)交わりのうちにあることを意味します。

 

18節の「御子はそのからだである教会のかしらです」から、キリストにある再創造のみわざが記されますが、それは、教会こそが、「来るべき神の国の先駆け」だからです。

私たちは、神の新しい創造を見ながら生きて行くようにと召し出された者たちの集まりです。それは、神を知らなければ、持つ事のない希望です。

 

   「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18)とあるのは、御子の復活が、私たちがやがて栄光の身体へと復活する「第一のもの」、復活の初穂だからです。

15節の「先に生まれた方」と18節の「最初に生まれた方」は原文では同じことばが用いられています。それは、御子が万物より先に生まれた方として、万物を創造されたのと同じように、御子こそが、死者の中から最初に生まれた方として、この世界を再創造してくださるという意味が込められています。

そして、御子は私たちと同じ弱く惨めな肉体となられましたが、御父は「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(19)ました。それは、「御子によって、万物をご自分と和解させてくださる」ためでした。御子のうちに神の本質が宿っているからこそ、その十字架の死が、神との和解をもたらすことができたというのです。罪ある人間は、全人類の罪を贖うことなどできないからです。

 

その「和解」のことが原文では続けて、「その十字架の血によって平和をつくられた(シャロームのギリシャ語動詞形)」と記され、「御子によって、地にあるものも、天にあるものも」と付け加えられています。

それは、愛と平和と喜び(シャローム)に満ちた「正義の住む新しい天と新しい地(Ⅱペテロ3:13)実現することの保証です。この地での労苦は、主にあって無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)

しかも、その「保証」として「神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊(ガラテヤ4:6)を私たちのうちにも宿らせてくださいました。創造主である聖霊ご自身が、欠けだらけの私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者(22)へと造り変えてくださいます。

 

   八木重吉という大正末期の詩人は、信仰に導かれた後、恵まれた生活の中で、説明し難い寂しさと悲しみを感じます。英語を教えて家族を養うことを、生ぬるい信仰と思えたからです。

しかしやがて、家族を喜び愛し、学校の生徒や同僚に仕えることを、キリストにある、キリストに仕える生き方と受けとめ、現在を感謝できるようになりました。

30歳で死の病(結核)にかかりますが、夢の中で、自分が、天使よりもすぐれた顔になり、栄光の光に包まれていることを見て、不思議な平安に包まれました。そして、小さな歩みしかできない自分を、イエスの眼差しで優しく見守られるようになりました。その心境がつぎの詩にあらわされています。

 

「きりすと われにありと おもうはやすいが

われみずから きりすとにありと  

ほのかにてもかんずるまでの とおかりしみちよ 

 きりすとが わたしをだいてくれる   

わたしのあしもとに わたしが ある」

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