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2016年6月26日 (日)

ヨハネ13章36節から14章14節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

ヨハネ13:36-14:14「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

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   イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、これはときに、他の宗教を否定する独善的な主張と受け止められることがあります。私もそのように誤解していたことがあります。

しかし、それが、奴隷の姿をして弟子の足を洗い、ペテロの隠された弱さを受け入れ、私たちの罪のために十字架に向かう歩みを意味していると分かり、深く感動しました。あなたはどうでしょう?

 

1.「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません」

   イエスはこれまでユダヤ人たちに二度にわたって、わたしが行く所に、あなたがたは来ることはできませんと言われました(7:33,348:21)33節では、それを愛する弟子たちにも言われました。

それに対しペテロは、主よ。どこにおいでになるのですか(36)と聞きますが、主は再び、「わたしが行く所に、あなたは今はついてくることはできません。しかし、後にはついて来ます(36)と言われます。イエスは父なる神のもとに行かれるのですが、ここでは特にそれに至る十字架の道を指しています。

 

ペテロはそれに納得せず、主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」(37)と言いました。

ところが、イエスはペテロの弱さを熟知しておられ、わたしのためにはいのちも捨てる、というのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(38)と予告されました。これは厳密には、「あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して泣くことはない」とも訳すことができます。

つまり、朝の到来を告げる鶏の鳴き声が起こること以上に、ペテロが三度イエスを否認することは確実であるというのです。イエスは、ペテロが恐れの感情を抑圧し、強がっているだけだと分かっておられました。

 

スイスの精神科医のポール・トゥルニエは、幼くして両親を失い、自分の感情を抑圧しつつ教会活動に励んでいました。しかし、妻と黙想をいっしょにするようになったとき、妻から「あなたは私の先生、私の医師、私の牧師ですらあるかも知れません。でも私の夫ではありません」と言われて愕然とします。彼は、妻より優位な立場を保ち、その傍らで妻は劣等感に苛まれ神経症を悪化させていたのでした。

しかし、彼が妻の感性の豊かさを尊敬できるようになった時、初めて、父と母の死に涙を流せるようになります。これを契機に、自分の気持ちや悩みや落胆を人に言えるようになりました。すると多くの人々が堰を切ったように、彼のもとに引き寄せられ、彼の前で自分の内面を打ち明けることができるようになって行きます。

教会の交わりも同じではないでしょうか。私たちは、「自分が誰からも尊敬される人格者になったら、良い証しになる」と考えがちですが、本当にそうでしょうか。多くの人々は、そのままの自分が尊重される場を求めています。私たちも互いのありのままの姿を尊敬し、愛する力をキリストからいただく必要があります。そのとき私たちの交わりは、真に愛に満ちた「関係」として成長するのです。

 

   ところで、イエスはペテロの挫折を預言した後に、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われました。私は本当に良く心を騒がせますから、このみことばを聞くと、そんな自分が責められているように感じたことがあります。

ところが、この前にイエスご自身が心を騒がせられた様子が同じギリシャ語で三度描かれているのを発見して嬉しくなりました。主は、マリヤの嘆きを見て心の動揺を感じ(11:33)、十字架を思いつつ今わたしの心は騒いでいる(12:27)と言われ、霊の激動を感じ(13:21)つつユダの裏切りを予告しました。心が騒ぐのは人間であることの証しとも言えます。

 

しかも、イエスは以前から、「わたしについて来なさい」と招いて来たのに、今になって、「あなたはついて来ることができない」などと言われ、弟子たちの心を敢えて騒がしておられます。それは、彼らが現実を直視できていなかったからです。

私たちも、世界の悲惨に目を閉じ、まわりの痛みの声に耳を閉じ、「わたしは平安です」などと言うことがないでしょうか。それこそ自己中心の罪です。そのような人は、いざ問題が自分に降りかかったとたんにパニックになり、他の人を猛烈に責め始めたりします。

 

実は、イエスはここで、心を騒がせ続けるのを止めて、神に信頼しなさいと、改めて招かれたのです。しかも、ここから16章まで続く告別説教をしておられます。

心のうちに生まれた不安や悲しみを、正直に受けとめ、それを神に向かってささげることこそが、「神を信じる」ということの本質なのです。

反対に、自分で自分の心を静めようとするのは、神への不信の行為です。それは、私たちが、本当に信頼できる人の前では正直になれますが、信頼できないと思う人の前では弱みを見せることができないのと同じです。

しかも、イエスはここで、「神を信じ」なさいという命令と、わたしを信じなさい(1)という命令を並列させています。これはご自身を神と等しい立場に置く驚くべき招きです。

 

2.「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」

イエスは、「わたしの父のには、住まい(room)がたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう14:2)と言われますが、それは当時のエルサレム市内の混雑を前提にしています。当時の町は南北約1.5km、東西1km城壁に囲まれており、通常は人口34万人くらいだったと思われ、過越の祭りの際には人口が10万人ぐらいに膨れ上がったとも言われます。

城壁で守られる一般居住区は驚くほど狭く、当時の都市の平均と同じなら二階~四階建てのアパートがひしめき合い、一家族が一部屋にすし詰状態だったはずです。

しかも、トイレは簡易の器でして外に持ち出すという不衛生で、夜道を歩いていると、上から汚物が落ちて来ることもあったという記録もあるほどです。

 

ゼカリヤ245節には、「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる・・・わたしがその中の栄光となる」と預言されますが、イエスはそれを前提に、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」と言ったのかもしれません。

火の城壁」はa wall of fireと記され、ネットのセキュリティーシステムfirewallとは逆に、燃え立つ炎によって敵の侵入を阻むイメージです。新しいエルサレムでは、神ご自身が町の真ん中に住みご自身の「炎」が民を守るというのです。

それは、魂が肉体から解放され天国で憩うというより、この世の混乱のただ中で、私たちが霊的な「神の家」の中に包まれ、守られ続けることを示唆しています。

 

それを前提にイエスは、「わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです」(3節)と言われます。それは、イエスが私たちの罪を贖い、ひとり一人を「神の子」とし、御父のに安心できる居場所を備えてくださるという意味です。これは当時、イエスが復活の後、弟子たちに現れることで実現しました。

それは、死んで天国に行くという以前に、今、この東京に住みながら、神の家の中にイエスと住み始めることを意味します。それは天と地が重なる領域で、驚くほど広い「父の家」の中にあります。

 

  続けてイエスは、わたしの行く道はあなたがたも知っています(4)と言われます。つまり、弟子たちは既にイエスの行く道を知らされているのです。それは、ご自身が十字架にかかられることを指します

ところが、トマスはそれまでの話しを聞いていなかったかのように、「主よ。どこにいらっしゃるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう」と答えます。

 

それに対して、イエスは、「わたしが道ですと言われました。とは、聖書で「生き方」を示すことばです(申命記5:32,3331:29)。イエスは神であられるのに不自由な人間となり、奴隷の姿になって弟子の足をも洗われました。そして、人々の嘲りを受けて十字架にかかろうとしておられます。それは、山の頂上に立つことを願いながら、ひたすら谷底に向かうようなもので、世の人の目には間違ったにしか見えません。

しかし、最初から上ばかりを目指している人は頂上に辿り着けるのでしょうか?彼らは、少しでも賢く、豊かに、強くなることを願って疲れ果て、迷路に迷い込んではいないでしょうか。

しかし、頂上から降りて来られた方が、わたしについてきなさいと言われるなら、谷底にだって安心して下ることができます。見通しのきかない道だって、イエスが歩んでおられる一歩先の道さえ分かれば安心だからです。

「未来を自分で把握していなければ・・」と思うのは緊張に満ちた歩みです。しかし、信頼できる人に従うなら、まわりの景色を楽しみ、人を気遣う余裕を持ちながら歩むことができます。 

 

続けてイエスは、わたしが真理ですと言われました。多くの知識を得ることによって、人は平安を得られるでしょうか?私たちがこの世で、何よりも知るべきことは、イエスご自身のことです。ですから、イエスは、「真理はあなたがたを自由にします(8:32)と言われました。それはイエスとの交わりに生きる「自由」を意味します。あなたはそこで、どんな災いも、死をも恐れる必要がありません。

ただしイエスは、「わたしについて来たなら、あなたの人生は順風満帆、この世の成功者となれる」と言われたのではありません。ですから、苦しみにあっても「こんなはずではなかった・・・」などと言う必要はありません。

人の誤解や中傷を受けても、人から見捨てられ、いのちを奪われるようなことがあっても、そのただ中でわたしがいのちですといわれるイエスとの愛の交わりを体験し、いのちを喜ぶことができます。

 

イエスは続けて、わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われます。それは他宗教を否定する教えとも言えますが、それが十字架の道を示すと分かるなら、だれも独善的とは言えないでしょう。

しかもそれは、私たちが従う「生き方」でもあるというのです。その不思議を、イエスは他の福音書では、だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:23)のように表現します。

 

私はこのことばが心に響いたとき、「苦しみがいのある人生を生きよう」という逆説に目が開かれました。私たちのまわりには、「心を騒がせる」ことばかりが起き、自分のことで精一杯といった気持ちになることがあります。しかし、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」という方を知るなら、様々な困難に立ち向かう勇気が与えられ、人の足を洗うことさえできるほどの「心の余裕」が生まれます。

誰も明日のことは分かりませんが、私たちには既に、父の家の中に安心で広々とした居場所が与えられています。「永遠のいのち」とは、新しいエルサレムの祝福が、今から始まっていることなのですから。

 

3. 「わたしを見た者は父を見たのです」

   その上でイエスは、あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです(7)と言われました。この時、彼らは真の意味でイエスを知っておらず、その父なる神をも知っていなかったからです。

それに続く、しかし、今や・・」ということばは、今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている(新共同訳)とも訳すことができます。それは、弟子たちがこれからのイエスの十字架を通して、真の意味で御父の愛を身近に体験することになるという意味であり、同時に彼らに今、認識がなくても、既にイエスを見ることによって父なる神を見ているという、不思議な宣言です。

 

   ピリポはこの意味が分からず、主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します(8)と言います。彼は、モーセが神の通り過ぎた「うしろを見(出エジ33:23)、また、イザヤが神の栄光を拝した(イザヤ6:5)と同じように、「神を見たい」と望んだのだと思われます。

これに対しイエスは悲しみを込め、ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか(9)と問い返しました。彼は、イエスが五千人にパンを分かち合い、ラザロをよみがえらせるのを見ながら、そこに父なる神の栄光を認めることができなかったのです。

私たちも、「神を見ることができたら・・昔のような奇跡を体験できれば・・」などと言うなら、イエスから「あなたには聖書があり、日々これだけの恵みを体験していながら、わたしを知らなかったのですか」と悲しまれるかも知れません。

 

   しかし、イエスはピリポを退けることなく、わたしを見た者は、父を見たのです(9)と、決定的に大切な真理を述べられました。聖書には三位一体ということばはありませんが、この宣言ほどに、御父と御子イエスとの一体性を現したことばはありません。

三位一体は、御父と御子と御霊がそれぞれ異なった人格(Person、位格)でありながら、本質と意思において一つであることと定義されます。昔からこの神秘を説明しようと、水、氷、水蒸気は異なって見えるが同じH2Oという本質を持つなどというたとえを用い、かえって混乱を深めたりします。なぜなら、それなら、十字架にかかられたのはイエスの顔をした父なる神だったとも受け取られかねないからです。

ヨハネはそんな理屈を用いることなく、初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた・・・ひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:1,2,14,18)と説明しています。

つまり、イエスは世界の創造の前から父なる神とともにおられ、同じ神としての性質を持ちながら、人となって私たちの間に住まわれ、目に見えない神を、見えるようにして下さったのです。

 

   イエスは続けてピリポに、わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか」(10)と言われました。弟子たちは、イエスご自身の御力や品性に感動はしても、御父との関係に注目しませんでした。しかし、それこそ主が「信じ」て欲しいと望まれたことでした。

わたしが父におり」とは、ご自身が御父の最愛のひとり子であるとの自覚です。主は御父の愛を確信しているからこそ、ご自身のいのちを投げ出すことができたのです。

また、父がわたしにおられるとは、御父のご意思がご自分の意思とされているとの証しです。これは、夫()の愛を深く味わいつつ、夫()の気持ちを何よりも尊重する妻()のようなものです。愛はこのように「相互の関係」として見られるべきものです。

 

   そしてイエスは、ご自分が弟子たちに語ることばをわたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられると説明されました。当時の大使は、王の代理として遣わされ、交渉を任されましたが、これはそれにまさる関係です。つまり、弟子たちの問題は、イエス個人を見ながら、イエスのうちに生きて働いておられる神を見ることに失敗したことにあるのです。

ある宣教師は、「先生のおかげで・・」と自分を賞賛する人に真っ赤な顔をして「私ではありません」と必死に否定し、「私のうちにおられるキリストがご自身のわざをしておられる」という事実を見て欲しいと懇願したとのことです。なぜなら、宣教師の責任はキリストを提示することであって、自分が全面に立つなら、その働きは失敗だと言えるからです。

 

   なお、イエスは繰り返し、わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」(11)と言われました。この関係を信じることこそが、主の願いでした。しかも、それをイエスのことばばかりか、わざによって信じなさいと言われました。

私たちは、あるすばらしい働きを見るとき、その功績を特定の個人にばかり帰し、そこにあった夫婦関係や同僚、友との関係を軽んじる傾向があります。しかし、人が神のかたちに造られたとは、神、人、被造物との「交わり」のうちに生きることを意味します。

ですから、神はご自身のみわざを、常に、交わりを通してなされるということを忘れてはなりません。真の人格(Person)とは、孤立ではなく、神と人とに対しての開かれた関係に生きる存在です。

 

そして、この「関係」を信じることは、私たち自身の働きを変えるものでもあります。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます(12)とは、途方もない約束です。

ところが、私たちの救いが、御父と御子との愛の交わりの中に入れられる関係として理解されるなら、これは当然の帰結です。私たちは既に、神の子ども」とされています。養子も実子と同じ恵みを受けるのですから、イエスを信じる者が、イエスと同じ働きができるのです。

しかも、それよりもさらに大きなわざができることの根拠としてわたしが父のもとに行くからです(12)と言われました。イエスは、十字架と復活の後、父なる神の右の座において、王達の王、主たちの主(黙示録17:14,19:16)となられました。

ですから、ここでは、御父ではなくイエスご自身がわたしは・・何でも、それをしましょう・・わたしはそれをしましょう(13,14)と繰り返されました。私たちを通して働かれるイエスご自身が世界の支配者となられたので、私たちは当時のイエスよりも大きな働きができるのです。

 

実際、パウロはイエスよりもはるかに大きな伝道のわざをしたとも言えます。キリスト教はパウロ宗教だという誤解も生まれたほどです。しかし、パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白したのです。

なお、イエスは、わたしの名によって求めるなら・・と繰り返しています。それは単に、祈りの終わりに「イエス様の御名によって」と付け加えることばかりではありません。それは、イエスご自身の栄光のために、主のみこころに添った願いをするという意味です。

つまり、私たちが何かを願う前に、イエスの願いが私の願いとなっている必要があるのです。それが、何よりもすべての祈りの始まりと言えましょう。イエスは、「父が子によって栄光を受けるためと言われましたが、同じように、御子は私たちによって栄光を受ける必要があるのです。

  

  イエスは常に神のひとり子として生きておられました。私たちは、御父と御子との相互信頼の愛の交わりにこそ注目するように招かれています。

そして、御霊の働きによって私たちも神の子どもとされ、この愛の交わり中に招き入れられています。これが三位一体の神の交わりのうちにある「救い」です。

十字架を負ってイエスに従うという不可能を、創造主ご自身である聖霊が可能にしてくださいます。

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2016年6月19日 (日)

民数記27章12節から30章「あなたがたの霊的な礼拝」

民数記27123016「あなたがたの霊的な礼拝」

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   以前、米国行きの飛行機に一人で乗った時、出発直前に、エコノミーの料金でビジネス・クラスへの変更をしていただけました(重量バランス対策)。そこで初めて受けた待遇はとても気持ちの良いものでした。同時に、エコノミークラスに乗ることが初めて惨めに思えたばかりか、「ファーストクラスに乗ってみたいな・・」とまで思ってしまいました。

お金持ちになると、いろんな場面で、人は特別待遇を受けることができます。ここに、お金の力と誘惑があります。お金があると、世のため人のために様々な良い働きができますが、お金の魅力は何よりも、その持ち主に、「お前は、重要な存在だ」と思わせてくれる力にあるのではないでしょうか。

しかし、それは本来、創造主なる神が、私たちに与えようとしておられるアイデンティティーです。だからこそ、多くの人々にとって、お金は神の代わりになってしまいます。それを前提に、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました(Ⅰテモテ6:10)と記されています。

 

ただ、そのためにお金の大切さを忘れてしまうのも問題と言えましょう。信仰の父アブラハムは、「相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くかを知らないで、出て行きました(ヘブル11:8)とその信仰が称賛されています。確かに彼は、当時の文化の中心地であったカルデヤのウルを離れて旅に出ましたが、それは決して、みすぼらしい家族の移動ではありませんでした。

彼は一度エジプトに下った後にカナンに戻り、そこで甥のロトを救出するために急遽、軍隊を組織したことがありますが、そこでは「彼の家で生まれたしもべども318人を召集して・・追跡した」創世記14:14)と記されています。つまり、それほどの兵士が生まれる集団として、彼は旅を始めていたのです。

鍋谷氏は、これを「使用人だけで500人にはいたであろう大集団による移動で・・・新しく牧畜業を始め、多くの使用人を雇い入れ、また、物々の売買や交換によって財産を増やして行く事業家のイメージにふさわしい」と言われるほどのものと述べます。

また、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた(創世記13:2)という記述から、「彼が神の声に従って行く先を知らないで、出て行った先々で、アブラハムは今日的でいえば『村おこし』をし、財のつくり方のモデルとなっていたかもしれない」と記しています。

 

一方イエスは、公生涯の初めにユダヤ人の会堂でイザヤ書611節を開いて、「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれた」と言われました(ルカ4:18)。その福音とは、貧しい人々を貧困と抑圧から解放するという趣旨のものでした。

主は、私たちがこの地で神からのビジョンを受けて大胆に行動し、成功を収めることを喜んでくださいます。しかし、それは決して、ファーストクラスの特別待遇を受けながら、エコノミークラスの人をあわれむような成功志向ではありません。神が与える祝福は、私たちを謙遜に導きますが、この世の富がもたらす成功は、人々を傲慢にします。その結果、富が争いを引き起こします。

本来、主に財をささげることこそ、謙遜を学ぶための訓練とも言えるかもしれません。

       

1.  「主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください」

モーセは、荒野の四十年の旅路の最終局面で、(ヤハウェ)を「彼らの目の前に・・聖なる者としかなかった」(27:14)ことのため、約束の地に入れないと再度宣告されます。

過ちの根本は、主がモーセに、「岩に命じれば・・岩は水を出す・・会衆と家畜とに飲ませよ」(20:8)あわれみに満ちたみことばを宣べられたのに、それを歪め、「彼の杖で岩を二度打って(20:11)自分の権威を示したことにありました。

 

ここでモーセは「すべての肉なるもののいのち()の神、主(ヤハウェ)よ」(27:16)と呼びかけます。これは、自分のいのちが、主の御許しなしには一瞬ともあり得ないことを謙遜に認めた表現です。

その上で、「ひとりの人を会衆の上に定め、彼が・・先立って出て行き・・また彼らを・・入らせるようにしてください。(ヤハウェ)の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください(27:17)と嘆願します。ここには多くの羊の先頭に立って、羊たちを牧草地に導き、また夜は囲いの中に入れて休ませる羊飼いの仕事が描かれており、モーセはその人に自分に代わって民を導かせてほしいと願った言葉です。

そこには至極当然な「この会衆の頑なさのせいで主のさばきを受け・・・」という恨みは見られません。彼は不信仰な民を「主(ヤハウェ)の会衆」と呼びつつ、今後のことを気遣っています。それは「地上では旅人であり寄留者であることを告白」(ヘブル11:13)する生き方です。

「私の働き」という気持ちが、所有欲に結びつき、主のみわざの障害となります。モーセは「私が・・」と主張して、主を聖なる者としなかった反省を十分にしているのです。

 

しかも、興味深いのは、モーセにとっての後継者はヨシュア以外には考えられなかったはずなのに、あくまでも主(ヤハウェ)に「ひとりの人を・・・定めてください」と願ったことです。

ヨシュアは、イスラエルの民が紅海を通って荒野に入ってすぐ、アマレクとの戦いの指導を委ねられています(出エジ17:9)。またモーセが律法を受けるためにシナイ山に上った時、ヨシュアを従者として同行させています(24:13)。また、カデシュ・バルネアで約束の地を探らせるために十二部族それぞれから代表者を遣わそうとした時、エフライム部族からはヨシュアを選びますが、そのとき、「モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた(民数記13:16)と記されますが、これは明らかに、モーセがヨシュアの新たな名付け親となり、ヨシュアを後継者として育てるという意味が込められています。

つまり、モーセは会衆のただ中でヨシュアを後継者として訓練してきたのですが、最終判断は、あくまでも主ご自身に委ねているのです。

これは教会の後継者人事に関しても適用できます。私たちは誰かを選んで後継者として訓練し育てることができたとしても、その最終的な決断は、最後の最後まで主にお任せして、既成事実としてはならないのです。

 

主(ヤハウェ)はご自身の判断として、ヨシュアを後継者として任命させますが、その際モーセに「あなたは、自分の権威を彼に分け与え。イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ」(27:20)と言います。

「権威を・・」とは、「威光のいくつかを・・」とも訳せる言葉で、ヨシュアとモーセの立場の違いを顕にします。これは、ESVなど多くの英語訳では、You shall invest him with some of your authorityと記されており、ヨシュアはモーセに預けられていた権威または栄光の一部が委ねられるに過ぎません。

 

2721節にあるように、ヨシュアには、アロンの後継者エリアザルがウリム(くじのようなもの)で神のみこころを求めた結果にただ従うことが命じられ、モーセのように顔と顔とをあわせて主と語り、主のことばを取り次ぐ栄誉に浴してはいません。

そこでは、「ヨシュアと彼とともにいる全会衆は、エルアザルの命令によって出、また彼の命令によって、入らなければならない」と命じられます。これ以降、イスラエルの民は、大祭司アロンの子を通して神のみこころを知り、政治、軍事的な指導に関してはヨシュアに従ってカナンの敵と戦うようになるのです。モーセの働きが、大祭司とヨシュアとの間で分けられることになりました。

これを通して、主は、モーセの謙遜な応答に対し、彼に与えた栄誉を思い起こさせたとも言えます。モーセが受けた栄誉は、約束の地を自分の足で踏むヨシュアの栄誉に、はるかにまさるものです。

 

あなたにも、全身全霊を傾けた働きの半ばで、それを他人に譲らざるを得ないことが起こり得ます。しかしその際、その働きを主の救いのみわざの全体像の中での一部分としてとらえ、結果よりも与えられた使命を果たせたことを、しかも後継者に引き継げること自体を喜ぶべきでしょう。

その最たるものは主の教会です。地上のどのような組織も百年以上続くことは稀です。しかし、教会は様々な困難を潜り抜けながら二千年間続き、なおも成長を続けています。それは、教会が単なる人間的な組織ではなく、「キリストのからだ」であることのしるしです。

しばしば、真のキリストの教会か、新興宗教的な組織であるかは、その指導者の謙遜さで判断されます。それがなければ、働きは真の意味で引き継がれないからです。

 

2.  「主へのなだめのかおりの火によるささげもの」

   2829章はひとつのまとまりで、「(ヤハウェ)はモーセに告げて仰せられた」から始まり、「モーセは、主(ヤハウェ)が命じられたとおりを、イスラエル人に告げた」で終わります。ここでは一年を通しての幕屋での礼拝規定が記されます。

これはレビ記23章に対応しますが、レビ記では「いっさいの仕事をしてはならない」などの時間の聖別が強調されているのに対し、ここでは「大量なささげもの」という「財産の聖別」がテーマになっているとも言えます。

また、民数記15章では、イスラエルの民の約束の地への侵入が約40年間も遅らされるというさばきが下された後に、約束の地に入ってからの「穀物、油、ぶどう酒」のささげ物を命じることで、約束の地での豊かな収穫を思い起こさせました。一方ここでは、その時毎にささげられるべき動物のいけにえの量が規定されます。

なお、ヨシュア記56-11節には、イスラエルの民はカデシュ・バルネア以降の荒野の四十年間、割礼も授けられず、過越も祝うことができなかったと記されているので、ここでモーセに命じられたいけのえの規定は、ヨルダン川を渡って後に用いられるものと言えましょう。

これは、主がモーセを通して語る最後の礼拝規定という位置づけになります。

 

ここでは「なだめのかおりの火によるささげもの」(28:2)ということばが繰り返されますが、厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJではa sweet aromaESVではmy pleasing aroma)と記されています。それは「全焼のいけにえ」として全てを焼き尽くすものです。

「主(ヤハウェ)は、そのなだめのかおりをかがれ(創世記8:21)、ご自身の怒りを鎮めて、民の真ん中に住むことができます。そこに想像を絶する祝福が始まるのです。主は、ご自身にお献げしようとする私たちの心自体を喜び受け入れてくださるというのです。

 

約束の地において、彼らは「常供の全焼のいけにえ」(28:3)として、朝夕一頭ずつ「一歳の傷のない雄の子羊」毎日ささげるように命じられました。

それが、安息日には二倍になりました(28:9,10)

 

また、「月の第一日」(新月の祭り)には、「雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭」を、それぞれ「全焼のいけにえ」として(28:11)「常供のいけにえ」に追加されました(28:15)。そして、これらに添えて、規定量の「油を混ぜた小麦粉」、また「注ぎのささげ物」としてのぶどう酒が命じられましたが、それらも全て焼き尽くすもので、供えた後に祭司が食べることができるような供物ではありません(28:13)

そして、主の例祭の「過越の祭り」七日間毎日と、「七週の祭り(ペンテコステ)」の一日にも同量のささげ物と(28:16-31)、そのたびに「罪(きよめ)のためのいけにえ」として「雄やぎ」一頭が命じられました。

 

「第七の月の第一日(29:1-6)は、後の新年の祭りで、ラッパが吹き鳴らされる日でした。そこでは若い雄牛一頭、雄羊一頭、子羊七頭、雄やぎ一頭が、毎月の新月の祭りのいけにえに追加されました。

 

「第七の月の十日」(29:7-11)はレビ記16章の「贖罪の日」ですが、この日のいけにえも先の追加分と同量でした。

ただし、罪のための雄やぎは、レビ記で指定されていた一頭への追加でした(29:11)

 

 

そして、「第七の月の十五日」のことが記されます。その日は、それぞれの祭り同様に「聖なる会合を開かなければならない(礼拝への出席命令)。どんな労役の仕事もしてはならない(職業としての仕事の停止命令)(29:12)と繰り返されます。

これらの日は年間七日間あり、レビ記23章に描かれていました。

 

その日から始まる七日間の祭りは、「仮庵の祭り」と呼ばれ、祭りの第一日目は、何と十三頭もの「若い雄牛」と、それまでの二倍の、雄羊二頭、子羊十四頭が命じられました。雄牛の量は一日毎に減らされ、七日目には七頭になりますが、雄羊と子羊は同数のまま七日間続きます。

そして八日目のきよめの集会になって、「贖罪の日」のいけにえと同数になります。

そしてこれらを合計するとこの八日間で、雄牛71頭、雄羊15頭、子羊105頭、やぎ8になりますが、これらは常供のささげものに加えてのもので、やぎ以外は全て全焼のいけにえです。これは現代の人には、野蛮な無駄?と見られそうな命令です。

 

仮庵の祭りには、収穫感謝の意味がありました。いけにえの量の多さは、神ご自身が余りあるほどの収穫を約束しておられることのしるしであり、同時に神の一方的なあわれみがなければ自分たちが生きることができないことを、全身全霊で覚えさせるためでした。

聖書の原則は、「主を愛する者は豊かに祝福され、主にそむく者はのろいを招く」とまとめることができます(申命記30:15-20)。そして、「愛」は、しばしば私たちの日常生活でも、人間的な目から見た無駄で表現されはしないでしょうか。

それはたとえば、妻に、数日で枯れる満開のバラを贈ることを、「無駄」と感じる夫は、その心が問われるようなものです。

 

主ご自身が、罪人の真ん中に住むことを可能にするために示された手続きを人間的な合理性で判断することこそ不敬虔の極みです。

パウロも神の一方的な恵みを強調した上で、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです・・神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント8:9,9:7)と、貧しくなるほどの大胆な献金を勧めています。

しばしば、その点を通過して始めて、主の祝福が豊かに広がるからです。あり余る物の中から献げることなら、この世の富む者も別の形でいくらでも行なっています

 

3. 「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」

 2939節には、先に述べた「ささげ物」は、会衆全体としての義務であると述べるとともに、一人ひとりの自主的な「ささげ物」のことが記されます。

レビ記に記されている「いけにえ」の多くのものは、個々人によるささげ物です。ここでは特に「誓願」に伴うものに目が向けられます。その他、イスラエルの民は「和解のいけにえ」を初めとして、感謝の気持ちを現すささげ物が教えられていました。

私たちの場合はイエスの十字架によって義務のささげ物はなくなりましたが、自主的な「ささげ物」は何よりも大切です。

 

30章には「主への誓願」「物断ち」のことが記されます。これはたとえば、「主が私を助けてくださるなら、・・・を献げます」とか、「飲食を一時控えます」という約束です。不思議にもここでは、女性の主体的な誓願や物断ちが中心的となっています。

当時の社会では、女性の人格権が認められていませんでしたが、主は女性の口から出た約束の言葉をも取り消すことができないことと受け止め、父や夫にはそれを聞いた当日だけに有効な例外的な拒否権を認めたのでした。これは、男性が戦いに出て家を留守にする必要があるという理由もあるのでしょうが、女性の主体的な献身が描かれているのは画期的です。

 

ところで2829章の大量のいけにえが約束の地で献げられていたかは疑問です。その例として、旧約最後のマラキ書310節には、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ(3:10)と記されています。

聖書中、主ご自身が「わたしをためしてみよ」と言われるのは、ここだけです。ですから、まだ、十分の一献金を実行しておられない方は、この神のチャレンジに答えて見るべきでしょう。

 

ここでは、主が「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福」を与えると約束され、続く11節では、「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする」と描かれます。

これは、現代的には、主があなたの仕事をあらゆる災いから守ってくださるという意味です。そればかりか、「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」(3:12)と閉じられます。

 

ただし現実は、十分の一をささげたら、仕事もすべて順調、病気にもならず、人々から尊敬されるとは限りません。なぜなら、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである(ヘブル12:6)とも記されてもいるからです。

しかし、そこには、「私たちをご自分の聖さにあずからせ・・・平安な義の実を結ばせる」(1011)という主の大きな約束が伴っているのです。

 

 

箴言1124節には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」と記されています。献金を惜しむ人は、必ず、どこかで損をするか、お金を無駄にしてしまっているものです。

一方、献金を後悔している人の話を、聞いたことがあるでしょうか。ただ、十分の一を誠実に献げていた時は、いろんなことが好循環だったのに、それをやめたとたん、いろんなことが悪循環になり、今は、献金の余裕すらなくなったというような例はないわけではありません。

 

パウロは、キリストの救いのみわざの結論として、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と語ります。

それは、キリストの生き方に習うことの勧めで、民数記での大量の献げ物にもまさって途方もない命令です。

 

しかし、「そんなの無理・・」と最初から諦める者には、イスラエルの民と同じような、敗北から敗北という人生しか待っていません。しかし、主は私たちの内にキリストの御霊を授け、不可能を可能にしてくださいました。それは、逆説的に、「私には無理です。でも、主よ、助けてください!」と祈ることから始まります。

大胆に主にお献げし、祝福を受け、さらにお献げするという好循環を体験させていただきましょう。

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2016年6月12日 (日)

ハバクク書「神の真実に応答する者は生きる」

ハバクク書「神の真実に応答する者は生きる」

                                                        2016612日   

 ハバクク書は多くの人に縁遠い箇所かもしれません。世界的なピアニストのイングリッド・フジ子ヘミングは無名だったとき聖路加病院でボランティアとして患者さんたちの前でピアノを演奏していました。その頃、ある教会で、預言者ハバククのみことばの小冊子をもらいます。その23節に、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と記されていました。

それから間もなく、NHKでフジ子さんに関するドキュメンタリー番組が放送されて、19992月にたった一晩で有名になりました。そのときすでに60代後半でした。彼女は非常に個性的な方ですから、その信仰に関してもいろんな評価があるのは当然ですが、彼女の以下の文章には感心しました。これは現代人のためのハバクク書の要約とさえ言えるかもしれません。

 

「私のこれまでの人生には、お金がなくて食べるものが買えなかったり、耳が聞こえなくなったり、みんなにいじめられたり、辛い出来事が本当にいっぱいありました。でもどんな時も決して諦めずに、ピアノだけを弾き続けて来ました・・・でも途中、何度も思いました。『なんで神様は私をこんな目に遭わせて平気でいるのだろう・・』と、だけど、そうではなかった。まるで、私の人生は神様にプログラミングされていたかのように感じます・・・

他の人の生き方についてとやかく言うつもりはないけれど、『神様が自分に与えた役割ってなんだろう』ともう一度立ち止まって、よく考えてみることは大切なのではないかしら。私たち一人一人、それぞれに果たすべき義務や役割が必ずあるはずです」(光文社文庫「天使への扉」p119)

 

新約聖書の核心に、「義人は信仰によって生きる」がありますが。それはハバクク書24節からの引用で、それこそパウロ神学の核心とも言われます(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、他の著者ではヘブル10:38)。これは「信仰義認」という宗教改革の教理の根幹とも呼ばれますが、多くの誤解も生んできました。

たとえば、それはときに、「神を信じればどんなに悪いことをしても、その行いが問われることがない」という、不道徳を許容する教えと思われたことがあります。また反対に、神の救いは、人間の側の信仰への応答として与えられると思うあまり、「こんな弱い信仰で、救われるのだろうか」という疑念を生み出すことさえありました。改めて、その原点の意味に立ち返る必要がありましょう。

 

1.「いつまで、聞いてくださらないのですか・・なぜ・・・ながめておられるのですか」

この書の冒頭は「宣告(重荷)から始まります。それがエルサレムやバビロン帝国の上に重くののしかかり、そのさばきが実現するという意味があります。続けて、「それは、預言者ハバククが見たもの」と記されます。

この書は、ダビデの築いた王国が、約400年後にバビロン帝国によって滅ぼされる少し前に記されたと思われます。当時のエルサレムの政治は混乱を極めていました。2節の原文は「いつまでなのですか。主(ヤハウェ)」というハバククの叫びから始まり、「私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたは聞いてくださらない・・『暴虐』と・・叫んでいますのに、あなたは救ってくださらない」と、主の沈黙を非難するように訴えています。

彼はエルサレムの中に支配者たちの「暴虐」を見て、必死に神の助けを求めて叫んでいるのですが、いつまでたっても答えが無いので絶望的になっています。ただ彼は、それでも諦めることなく主に訴え続けます。それこそが感動的です。残念ながら、多くの人々は、ほんの少し祈っただけで、「神は何も私の訴えを聞いてくださらない・・」と諦めることがあるからです。

 

 ハバククは神の沈黙に耐えつつ、3節では、「なぜ、あなたは・・」と、積極的に神に疑問をぶつけながら、「私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか」と訴えています。神ご自身がわざわいを放置し、「労苦」をただ上から「ながめて」いるだけだというのです。

その上で、「暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています」と訴えます。ここでは先にあった「暴虐」の同義語が、「暴行」「闘争」「争い」と描かれています。

  

引き続き4節で、彼は、「それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません」と訴えます。「暴虐」が放置される結果、「律法」(御教え)が「眠り(麻痺し)」、機能しません。ここでの「さばき」とは、神の正義に従った政治を指し、それが「いつまでも(まったく)行われない(出てこない)」と嘆いているのです。

また、続く文章では、「正しい人」、つまり、神の前に誠実に生きようとする人々のことばが、真の神を忘れた人々(悪者)陰に、完全に隠されていると訴えられています。

神の国の都のエルサレムにおいても、「正直者がバカを見る」ような現実があるため、神の御教えを無視する不法がますますはびこるようになっていました。ハバククの祈りは、不条理な苦しみに悩むヨブの訴えに通じます。これこそ真の祈りです。自分で答えを作ってはいないからです。

 

 15-11節に神からの答えが記されます。主はご自身の計画を知らせる前に、現実の世界の動きを、あるがままに「見よ」、また「目を留めよ」と命じ、その上で「驚き、驚け」と、常識をひっくり返すことが起きると示唆しつつ、「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする」と、ご自身の徹底的な主導権を強調します。

つまり、ハバククの祈りは神に届いていたのですが、神の答えはあまりに意外なので、「告げられても、あなたがたは信じまい」と言われます。

 

そして6節で、主は突然、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」と言われます。これはバビロン帝国の中心部族で、この国は紀元前626年にアッシリヤ帝国からの独立を果たし、14年後にはアッシリヤ帝国の首都ニネベを滅ぼし、6年後の紀元前609年にはカルケミッシュの戦いでアッシリヤとエジプトの連合軍を打ち破ります。

神はそのバビロン軍を動かして、エルサレムの権力構造をひっくり返すというのです。それは、神がかつて日本の軍国主義体制をアメリカの軍隊を用いて転覆させたことに似ているかもしれません。ただし、それは決して、当時のアメリカ軍が正しく、戦前の日本が一方的に間違っていたという意味ではありません。神は善人ばかりか、とんでもない悪人をもご自身の計画のために用いることがあるからです。

ですから6節では続けて、このカルデヤ人の国が、「強暴で激しい国民だ」と描かれ、さらに続けて10節まで、神がご自身のさばきを実現するために立てた国が暴力団のような集団だったということが繰り返し描かれます。彼らは他国を攻め取ることに何の躊躇も感じない、野蛮極まりない国だったのです。

 

しかし同時に、その野蛮な国の危うさが、11節では、「それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罪と定められる(私訳)と描かれます。なお、新改訳の「罰せられる」は、まださばきが見えない段階なので訳し過ぎだと思われます。

さらにここで、「自分の力を自分の神とする者の」危うさが記されている際の「(コーアハ)」とは、しばしば人間的な能力を指します。バビロン帝国が誇る「」は、サムソンが自分の腕力を誇ったのと同じもので、神の前には無に等しいものに過ぎませんでした。

 

112節でハバククはさらに主に向かって、「(ヤハウェ)よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と訴えています。それに続く「私たちは死ぬことはありません」は、「カルデヤ人の手によって私たちが滅びることはないはずでは・・・」(1:17参照)という期待を込めた意味でしょう。

その上で、カルデヤ人を「」と呼びながら、「(ヤハウェ)よ。あなたはさばきのために、彼を立て・・叱責のために、彼を据えられました」と述べます。そこでは、神が、イスラエルの民を滅ぼすためではなく、「叱責する」ためにカルデヤ人を据えられたと解釈しているのです。つまり、カルデヤ人はあくまでも神の道具に過ぎないのです。

 

ところが13節で彼は続けて、「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう」と述べますが、ここには皮肉が込められています。

ハバククの目には、神はこの世の悪にも私たちの労苦にも、正面から向き合おうとしてはいないかのように思えたので、失礼にも、神に向かって、「あなたの目はあまりにもきよいと、言ったのです。神は、ご自身の町エルサレムの現実に心を痛めていたはずですが、それをさばくために、「」の程度にはるかに激しいカルデヤ人を用いることが、ハバククには到底納得が行きません。それは広域暴力団の助けで目先の不正を正すようなものです。

 

2.「幻を板の上に書いて確認せよ・・・正しい人はその信仰によって生きる」

2章の初めでは、突然、ハバククは、「見張所」や「とりで」にしっかりと立ちながら、「見張り」、また「見る」と告白します。これは主の答えを期待し、そのタイミングは主の主権に属することを認め、その上で、ひたすら待ち続けるという意志の表明です。そして、その内容は、「私の訴えに何と答えられるか」ということでした。

 

22節では、「(ヤハウェ)は私に答えて言われた」という大きな転換点が記され、その内容が、「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために」と記されます。「幻」は多くの英語訳ではヴィジョンと訳され、この書の最初で、「ハバククが預言した(見た)」というのと同じ語源のことばで「啓示」とも訳されます。ですからこの「(ヴィジョン)とは、ハバククが主から見せられたこの書の啓示全体を指していると思われます。

それを「書き記して確認する」とは、法手続きの二段階を意味し、誤解のないように明確にすることです。それはこの使信に出会った者が、それを伝えるために、さらに「走る」ことができるためです。

そして3節の最初は、「なぜなら、この啓示はまだ定めの時を待っているのだから」と訳すことができます。これはその内容が、実現まではまだ間があるからこそ、誤解のないように、明確に書き記しておく必要があると強調するためです。

しかも、その内容は、「終わりについて告げる」ものと記されますが、ここにおいては特に、「世の終わり」ということ以前に、旧約で繰り返される「(ヤハウェ)の日」と基本的に同じく、「地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」(2:14)と言われる日を意味します。ここでは、バビロン帝国に対する神のさばきが現されるときを指します。

とにかく、この「(啓示)は、「まやかし」ではなく、その実現を、ひたすら待ち続けるべきものです。そのことがフジ子さんの愛唱聖句であった、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る、遅れることはない(2:3)と記されています。

 

 4節で最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4,13節に記された「悪者」のことです。それは第一にはエルサレムにおける、真の神を忘れた権力者たちを指します。そしてそれは次にバビロン帝国のように、「自分の力を自分の神とする者」のことを指します。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されます。

 

一方、その反対に、「しかし、正しい人はその信仰によって生きると描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することばで、「真実」と訳した方が良いかもしれません。

興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし()の真実によって」と記されています。それは、ヘブル語からの直訳ではありませんが、この文脈における意味を適切に描いているように思えます。とにかく、これは「信仰の力によって」とか「行いではなく信仰によって」などという意味ではありません。

これは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主(ヤハウェ)から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というビジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と記されています。つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の「真実」をみことばを通して示してくださったときに、それを「真実」に受け止めるという、心の応答なのです。

しかも、ここでは先の「私たちは死ぬことはありません(1:12)を言い換えるように、「正しい人は・・生きる」と断言されます。

 

当時のエルサレムの支配者たちは、目先の政治判断の是非ばかりを論じ、神の真実なご支配を忘れていました。私たちも様々な課題に直面する時に、「どのように判断すべきか・・」ということばかりに心を奪われて、今ここにある神のご支配、今ここで求められている誠実さを忘れるようなことがあってはなりません。

実現が遅いと思われ、ときには「まやかし」とさえ言われるような、神のビジョンが必ず実現するということを信頼し、ここで誠実を尽くす者こそが、真の意味で「生きる」ことができるのです。

 

そして、5節では「心がうぬぼれている」人の状態が、まず、「実にぶどう酒は欺くものだ」と描かれます。「足ることを知らない」生き方の基本はアルコール依存症に似ているからです。

その心の状態が、「高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らないと描かれます。これは「正しい人」と対極にある生き方です。

 

 主が現代の私たちに示してくださっている「(ヴィジョン)」とは、神の平和(シャローム)に満ちた世界の実現です。神のひとり子は、ひ弱な人間になることによって、「自分の力を自分の神とする」生き方との対照を示してくださいました。サタンはイエスの十字架を見て、自分たちの勝利を大喜びしたことでしょうが、それこそサタンの大敗北の始まりでした。

この世の権力者や身近な人々が私たちを苦しめる時、それは彼らがまさに墓穴を掘っているときです。神は私たちの労苦に確かに目を留めておられます。主の真実に応答する者は必ず「生きる」のですから。

 

3.「水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされる」

26節以降は、バビロン帝国によって苦しめられた者たちが、そこの「カルデヤ人(1:6)の最後を風刺して、五回に分けて「わざわいだ・・・」と、「あざけりの声をあげ」る様子が記されます。

12節はその第三のもので、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者)というあざけりです。他国民の血の犠牲と略奪した富で都を築き上げた者の滅びは時間の問題です。

13節では「これは、万軍の主(ヤハウェ)によるのではないか」と言いつつ、「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる」と国々の悲劇が描かれます。これはバビロン帝国で起きたことを一般化して述べたものです。創造主を忘れた国々も世の人々も空しい労苦を積み上げますが、バビロン軍にはるかにまさる「万軍のヤハウェ」のみわざによってすべてが無に帰すのです。

 

それによって、「水が海をおおうように、地は、主(ヤハウェ)の栄光を知ることで満たされ(2:14)ます。これは第一義的には、バビロン帝国へのさばきを通して、この地の真の支配者が(ヤハウェ)であると明らかにされるという意味ですが、同時に最終的な救いの完成を示すことばでもあります。

(ヤハウェ)の栄光」は、イスラエルの民が荒野を旅していたときに雲の中に現され、翌朝には宿営の周りにマナが降りていることで現されました(出エジ16:10-15)。またモーセに導かれた民が幕屋を建てたとき、「雲は会見の天幕をおおい、主(ヤハウェ)の栄光が幕屋に満ちた」と描かれています(同40:34)。

そしてイザヤ11:6-9では救い主が実現する世界が、「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さい子どもがこれを追ってゆく・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・(ヤハウェ)を知ることが海をおおう水のように、地を満たすからと描かれます。このとき、全地が主の神殿となり、主のシャローム(平和、繁栄)が全地を満たすことになるのです。

ペテロはこの目に見える「天と地」が過ぎ去ることを述べながら、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:13)と記しています。

 

第五は、1819節で、偶像が「物言わぬ偽りの神々」と呼ばれ、それに向かって「目をさませ」「起きろ」と必死に祈っている姿が「わざわいだ」とあざけられています。

そして最後に、「しかし主(ヤハウェ)は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ(2:20)と描かれます。ここでは偶像礼拝をする者が「物言わぬ偽りの神々」に向かって「目をさませ・・起きろ」と騒ぎ立てることの対比で、「(ヤハウェ)の御前に静まる」ことが勧められています。

なぜなら、主は今、預言者ハバククに明確な言葉で語っておられるからです(2:1)。そして主の語られたことばがそのとおりに実現し、今、この書として残されています。

 

4.「にも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み・・救いの神にあって喜ぼう」

   32節最後の、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」とは、この書の要約のような祈りです。主はエルサレムの中に暴虐をさばくために、ご自身の「怒りの器」として恐ろしいバビロン帝国を用いますが、それを知ったハバククは、エルサレムに対するあわれみを忘れないようにと嘆願しているのです。

   38節~16節にも、神の「怒り」や「憤り」が表現されていますが、それはバビロン帝国を初めとするエルサレムの敵に向けられています。ですから、316節で、ハバククは、「私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう」と告白しますが、これは明らかに、神の「怒り」が、それまでとは反対に、ご自身の「怒りの器」として用いたバビロン帝国自体に向けられることを指します。

 

31718節は、目先の悲劇を覚悟しながら、そのただ中で、私は主にあって喜ぶという、悲惨と喜びの対比が描かれています。ですからここは、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さず、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなるにも関わらず、この私は主(ヤハウェ)にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と訳した方が良いと思われます。

これは目の前にバビロン帝国の攻撃によって農作物が台無しにされ、家畜がいなくなるという悲惨を見ながら、そのただ中で、主の救いのご計画が確実に進んでいることを確信し、「私の救いの神にあって喜ぶ」と告白することです。目に見える悲惨は、神がエルサレムの民をご自身の民として整えるという、神ご自身のご計画の中で起きている一時的な悲惨に過ぎません。それを通して、世界全体に対する神の救いが実現するのです。

最後に、「ヤハウェ、私の主」と告白しながら、「その方が、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と締めくくります(3:19)

   しばしば、「夜明け前が、一番暗い」と言われるように、ハバククは目の前の状況が悪くなればなるほど、神の救いのご計画が進んでいることを信じ、そこで喜ぶことができました。

 

ところで、使徒パウロがローマ人への手紙を書いたとき、何よりもこのハバクク書から教えられているのではないでしょうか。彼はハバクク24節の「正しい人はその信仰によって生きる」を、ローマ人手紙117節で引用し、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と記します。そしてその直後に、「人々のあらゆる不敬虔と不正に対して神の怒りが天から啓示されている」と記します。

そこには、「神の怒りが天から啓示されている」ことと、「福音のうちには神の義が啓示されている」ことがセットで描かれています。確かに、主がエルサレムをさばくためにバビロン帝国を用いるという目の前のエルサレムの悲劇のただ中に、「神の怒りが天から啓示」されていました。しかし、同時に、神はハバククを通して、ご自身がさらにバビロン帝国をさばくことによってエルサレムに祝福をもたらすということを約束してくださいました。それは、「創造的な破壊」とも、「苦難を通しての祝福」とも言えます。

 イエスの十字架は、私たち罪人に対する「神の怒りの啓示」でした。しかし、同時に、それは私たちにとっての最高の「福音」、「罪の赦し」となりました。エルサレムに対するさばきと救いは、イエスの十字架と復活を指し示す最大のしるしです。目に見える圧倒的な悲惨の背後に、神の想像を絶する救いのご計画が隠されていました。それがハバクク書に記されているのです。

 

   それにしても本書のテーマは、わざわいが迫ってくるただ中で、主の真実な救いのご計画が進んでいることをかたく「信じ」、「主にあって喜び勇む」ことです。私たちの喜びは、主との親密な交わりから生まれるものです。

ただそれは、不安や嘆きの気持ちを、押し殺すことではありません。ハバククの祈りは、主への率直な訴えから始まるからです。

讃美歌291番「主に任せよ」は1845年にドイツのレーダーの詩の翻訳です。当時は全ヨーロッパ的に経済が混乱し、貧富の格差が広がり革命運動が盛んになる時期でした。1848年にはマルクスの共産党宣言が生まれます。そのような中で作者は、力づくで世界を変えようとするのではなく、ひたすら神の真実に信頼して、神の道を歩むことを歌います。

 

フジ子ヘミングさんはドイツでデビューしようと思った途端、高熱で耳が不自由になり、その後、30年余り極貧の生活を続けました。彼女は自分の演奏が感動を生む理由を、「私の辿って来た数奇な半生が、音に表れるからじゃないのかな。これは隠せない真実だから。ピアノの前では、すべてをさらけだすことができる。演奏には自分のすべてがでてしまう」と記しています。彼女はコンサート中、一分毎に「イエス様、イエス様」と祈るとのことです。

これは、私たちのすべての働きに適用できる真理ではないでしょうか。労苦は主にあって決して無駄にはなりません。

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2016年6月 5日 (日)

民数記25章空7章11節「ねたむほどに恋い慕われている者として」

民数記25-2711節「ねたむほどに恋い慕われている者として」

                                                    201665

多くの人々は、自分の心の醜さや弱さに失望しながら、もっと輝いた人間に変わりたいと思って神を求めるようになります。また、世の人々も、教会を、高潔な人間になるための修練の場であるかのように期待します。

しかし、聖書の物語の核心は、道徳ではなく、ラブ・ストーリーです。神と人との関係は、何よりも夫婦関係に似ています。そこにおける最大の罪とは、浮気です。健全な夫婦なら、相手の浮気に激しい「ねたみ」を覚えます。ですから、主も私たちの霊的な浮気に「激しくねたむ」と言われるのは当然です。

 

神は、ご自身を何よりも、「わたしは、ねたむ神」(出エジ20:5)と紹介しておられます。そこにこそ十字架の愛の大きさを知る鍵もあります。

私は、モーセ五書の解説書のタイトルを「(ヤハウェ)があなた方を恋い慕って・・・」とさせていただきました。そして、小預言書最初のホセア書の解説に冒頭のことばを記させていただきました。何人もの方々から、それに感動したと言われています。当教会ではいつも語らせていただいていることですが、意外にそれが新鮮に聞こえるというのは、信仰への誤解があるからかもしれません。

 

1. 「ピネハスは、わたしのねたみを・・自分のねたみとした」

  「イスラエルはシティムにとどまって(25:1)いたとありますが、これは死海の北岸に近いヨルダン川東岸の低地だと思われます。その地の支配者はエモリ人でしたが、イスラエルはその王シホンに勝利したばかりか、ヨルダン川東岸北部のバシャンの王オグとの戦いにも勝って、その南のモアブの王バラクに恐怖を起こさせました。

彼は当時の中東全域で有名な占い師バラムを雇ってイスラエルをのろわせようとしましたが、バラムは主(ヤハウェ)の明確な警告を受け、イスラエルへの祝福を語らざるを得ませんでした(22-24)。つまり、このときのイスラエルは、約束の地を前にして、向うところ敵なしの順風満帆の状態でした。

 

ところが、そこで「民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになった」(25:1-3)というのです。

当時のカナンの多くの神殿には、そこで神々に仕える巫女が同時に売春を行なうというみだらな礼拝があったと言われますが、イスラエルの民はその誘惑に巻き込まれたのだと思われます。

彼らはこの約40年前、モーセがシナイ山に上って、主から「十のことば」を刻んだ石の板を受け取っている間に、金の子牛を作って、それにいけにえをささげてしまいましたが、そのときのことが、「民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」と描かれています(出エジプト32:1-6)

 

そのときの民は、指導者のモーセの帰りが遅いということで不安になったことが原因でした。一方、後にダビデも周辺の民族との戦いが一段落したとき、家来を戦いに出しながら、その家来の妻を召し入れて寝るという大きな罪を犯しました。それは気の緩みのためでした。

どちらにしても人は、「まさか、このときのタイミングで・・・」というときに、やってはならないことをしてしまうという傾向があるようです。

 

このとき、「(ヤハウェ)の怒りはイスラエルに対して燃え上がった(25:3)のですが、先のシナイ山でのときは、神はイスラエルの民すべてを滅ぼすとまで言われたのに、このときは「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主(ヤハウェ)の前でさらしものにせよ」と、罪を犯した氏族の責任者を殺して木にかけるという限定的なさばきを下すようにとモーセに命じます。

モーセはそれを少し違ったふうに解釈したのか、「さばきつかさ」たちに、「自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ」と命じます。その結果、「モーセとイスラエルの全会衆が会見の天幕の入り口で泣いている(25:6)という事態になります。

 

ただその最中に、「彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が・・・ひとりのミデアン人の女を連れてやってきて・・・テントの奥の部屋に入り」ます(25:6-8)。何とこのふたりは、神のさばきに無関心に、衝動に動かされ姦淫を続けていたのです。

それを見た「祭司アロンの子エリアザルの子ピネハス」は、「それを見るや・・手に槍を取り、そのあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺し(25:8)ました。何とも残酷なさばき方ですが、「するとイスラエル人への神罰がやんだ」というのです。

そして、「この神罰で死んだ者は、二万四千人であった」と描かれます。つまり、モーセとさばきつかさたちが躊躇している間に、神からの特別なさばきの御手が下され、疫病によるのか、次々と人々が死んでゆく中でピネハスがこのふたりを突き刺したことで、このさばきの御手が差し止められたのです。

 

後にパウロはこの例から、「偶像礼拝者になってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った』と書いてあります。私たちは、彼らの中のある人たちが姦淫したのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました(Ⅰコリント10:8)と、金の子牛を作って拝んだ事件と、モアブの娘たちとのことがセットに記されています。なお、民数記とコリント書での犠牲者数の千人の違いの理由は不明ですが、さほど大きな問題と考える必要はありません。 

 

このとき神は、「ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた(25:11)と評価します。

主は彼の熱い思いを認め、「わたしの平和の契約を与える。これは、彼とその子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる」と言われます(25:12)。この際の「平和」とは、彼が復讐を受けることがないように、神が守ってくださることを意味したのでしょうか。

それと同時に、子孫に祭司職の立場を保証してくださいました。その祝福の理由が改めて、「それは彼がおのれの神のためにねたみを表わし、イスラエル人の贖いをしたからである(25:13)と説明されます。

 

これは詩篇でも、「そのときピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。このことは、代々永遠に、彼の義と認められた(106:30,31)と記されます。ピネハスの行為は残虐に見えても、キリストの十字架の贖いと同様に、神の怒りをなだめるわざとなったのです(十字架の残虐さを忘れてはなりません!)

ピネハスの行為は、神の熱い情熱を、自分の情熱としたことでした。私たちも、罪に対する神の悲しみを、自分の悲しみとすべきです。神の燃えるような愛を、理屈ではなく、心情でとらえましょう。

 

私達も偶像礼拝と姦淫の誘惑を警戒する必要があります。「主を恐れることは知識の初めである(箴言1:7)と記した頭脳明晰なソロモン王でさえ異教の妻たちによって「その心がイスラエルの神、主(ヤハウェ)から移り変わった(Ⅰ列王記11:9)と記されているのですから・・・。

そして、何よりも、ねたみ」は神の愛の激しさの表れです。もし神が私たちのことに無関心であるなら、ねたみによる「憤り」もありません。(ヤハウェ)は、「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ(ゼカリヤ8:2)と言われるのです。

そして今、この新約の時代には、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5)と述べられます。つまり、あなたは、神からねたむほどに恋い慕われている存在なのです。

 

2.「おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない」 

   殺されたイスラエル人は、「シメオン人の父の家の長サルの子ジムリ(25:14)でしたが、それは部族全体の悲劇となり、26章に記されている人口登録ではシメオン族が激減しています。また、相手のミデアン人の女コズビも「氏族のかしらツルの娘(25:15)また「ミデアン人の族長の娘」と描かれます(25:18)

主はこの背後に、ミデアン人による「巧妙な・・たくらみ」(25:18)を見ておられました。それで主はモーセに、「ミデヤン人を襲い、彼らを打て」と命じられます(25:16,17)

この後、民数記318節では、ツルを含む5人のミデアン人の王とペオルの子バラムが、モーセがピネハスと共に送った軍隊によって殺されたことが記され、3116節には、この事件がバラムの助言(ESV Balaam’s advice)によって起こったと記されています。

 

   「この神罰の後」、主(ヤハウェ)はモーセと祭司アロンの後継者エルアザルに、「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で・・軍務につくことができる者すべての人口調査をせよ(26:2)と仰せられました。

これは、約四十年前の調査と同様、約束の地の先住民との戦いへの備えのためでしたが、同時にここでは「大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくし・・・おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない(26:54)と、約束の地の分割が明確な課題とされました。

しかも、ここでは部族ごとに氏族の名ばかりか娘の名(26:33)までが記され、分割への備えとされています。それぞれの部族の約四十年前の人数とこのときの人数を以下に列挙します。

 

幕屋の南 ルベン 46,500 43,730シメオン 59,300 22,200、 ガド45,650 40,500

幕屋の東  ユダ 74,600 ⇒76,500 イッサカル 54,400 64,300、ゼブルン57,400 60,500

幕屋の西 エフライム 40,500 32,500マナセ 32,200 52,700、ベニヤミン35,400 45,600

幕屋の北 ダン 62,700 64,400、アシェル 41,500 53,400、ナフタリ  53,400 45,400

 

民の合計 603,500⇒ 601,730 

 これとは別に幕屋に仕えるレビ(一ヶ月以上の男子) 22,00023,000

 

  ルベン族の減少は、269節にも改めて記されているように、ダタンとアビラムが、レビ族コラの反乱に加担をし、さばかれたからです。

シメオン族の減少は目を覆って余りあるほどですが、それは上記事件の結果です。これを見ると、一部の人の過ちが部族全体に影響を及ぼすことがわかります。同じように、あなた個人の罪もあなたの家族を巻き込みます。

なお、幕屋の南に布陣する部族はそろって減少した一方、ユダ族を頂点に、幕屋の東側に布陣した部族はそろって増加しました。

ユダは最大の勢力のままですが、ヨセフの二部族エフライムとマナセを合わせるとそれを超えます。それは最小部族であったマナセが急増したためです。レビは戦士にはならず土地の相続もないため別枠でした。

 

そして、二十歳以上の男子の数の総計は、約四十年間の荒野の生活でも、ほとんど変わりませんでした。それは、主が不従順な彼らに真実を尽くし、守り続けてくださった証しです。

しかし同時に、1426-29節で記されていた民の「つぶやき」に対する「さばき」のことが266465節で思い起こされます。

 

カデシュ・バルネアで彼らはカナン人を偵察した十人の声に惑わされ、恐怖に圧倒されて、エジプトに帰ろうと言い出し、その結果、彼らは荒野で四十年間もの間さ迷うことになり、「このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主(ヤハウェ)がかつて彼らについて、『彼らは必ず荒野で死ぬ』と言われたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった」と記されます。

 

カレブはユダ族で最大勢力の代表ですが、ヨシュアはエフライム族で、激減したシメオン族の次に小さな部族、ユダ族の半分以下の勢力になっています。これは小さな部族のリーダーをイスラエル全体の指導者にすることによって民全体のまとまりを保とうとする知恵なのかもしれないとも思わされます。

 

3. 「彼女たちにその父の相続地を渡せ」

   相続地は「くじで割り当て」られ、「父祖の部族の名に従って受け継がなければならない」と命じられました(26:55)。土地の分配は神の主権に属し、各部族はそれを誠実に管理するべきだったからです。

 

   27章には、マナセ族の成長の理由が示唆されます。その氏族長のひとりツェロフハデには男子がなく、五人の娘ばかりでした。ここでまず、「ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち」ということばからヨセフ以来の系図が描かれますが、娘たちはヨセフから七代目として描かれています。

また、262834節ではマナセはエフライムより先に記され、イスラエル全体の中で七番目に記されています。つまり、2627章ではマナセ族が特別に注目され、またヨセフから七代目の娘たちに焦点が合っているのです。

 

そこで五人の娘たちは、「私たちの父には・・・男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも・・・所有地を与えてください(27:4)と訴えました。それを受けて、「そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主(ヤハウェ)の前に出し(27:5)ます。

すると、主は「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい(27:7)と、その訴えを評価してくださいました。これは男系社会では画期的です。ただ、その訴えを受け入れると、彼女たちの結婚によって、マナセの一氏族に割り当てられていた土地が他の氏族に移される可能性があります。事実そのことが36章で改めて問題にされます。

一つの訴えを受け入れると、そこから生まれる別の問題の調整が必要になるという例は多々あります。ですから、お役所の例にあるように、「お気持ちは分かりますが、前例がありません」と退けられても仕方がありませんでした。

日本の文化では、「おかみは、きちんと下々のことを配慮してくださるから、黙々と掟に従え」という暗黙の圧力があり、訴えること自体を諦める傾向があります。

しかも、この訴えは、まだ約束の地に入ってもいない段階でのことです。「実際に分配する時になったら、善処するから・・・」と解決が先送りされる正当な理由さえありました。ところが、彼女たちの熱い思いを受け止めたモーセはすぐに(ヤハウェ)に問いかけ、主はまたすぐに「彼女たちの言い分は正しい」と全面肯定してくださったのです。

 

イエスは後に、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7:7)と言われました。

信仰の核心とは、何よりも「(ヤハウェ)を愛し、御声を聴き、主にすがる」ことです(申命記30:20私訳)。「すがる」とは「男は…妻に結び合い」というようなときにも使われる言葉です。信仰とは、何よりも夫と妻の関係に近いものです。夫婦が互いの顔色をうかがい、言いたいことも言えなくなるというのは残念なことです。同じことが主との交わりにも言えます。

 

その上で、(ヤハウェ)はモーセに、「あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ(27:7)と命じたのです。

彼女たちは、シメオン族がモアブの娘たちとの享楽に耽っていたかもしれないときに、まだ見ていない約束の地の分配に思いを馳せていました。それこそ、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)とあるとおりの真の信仰者の姿です。

しかも、彼女たちの訴えがこの段階でなされたことによって、イスラエルの民は約束の地の相続に関する神の愛に満ちた配慮を知ることができました。

 

私たちもまだ見ていない「堅い基礎の上に立てられた都」(ヘブル11:10)新しいエルサレム(黙示21:2)を待ち望みますが、五人の娘のように切実なこととして思いを馳せているでしょうか。

約束の地は、すべて神の所有物であり、それぞれに管理を任せるために分配されていました。そこに責任が生まれます。その原則は私たちにも適用されます。

私たちも、それぞれが固有の使命を受けて、この世界に遣わされ、預けられた賜物を用いて、この世界を美しく保つ責任があるのです。私たちが待ち望む「新しい天と新しい地」とは、「初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)と言われるこの世界の延長にあります。

神はこの世界を、平和に満ちた世界に変えてくださいますが、私たちは終わりの日に、それをどのように管理したかが問われます。目に見える世界に対する責任を放棄して、永遠の都に憧れるという論理はあり得ません。

 

   私は二十年ほど前、自分の心の不安定さ、祈りの生活の貧しさに悩んで、カナダのリージェント・カレッジの初代学長のジェームス・フーストン先生を訪ねました。当時の私の葛藤を遠くから見ておられた方が、すべてをアレンジしてくれたかげで実現したことでした。

先生は私の悩みを自分のことのように優しく受け止め、帰りにはご自分の車で空港まで送ってくださいました。先生は、私が自分の信仰の貧しさに悩み、そのことを相談しにヴァンクーバーまで来たという、「心の渇き」自体を喜んでくださったのです。

空港で先生から暖かく抱擁され、再開を約束された時、私自身が創造主ご自身によって抱擁されていると実感できました。それを通して、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5)というみことばの意味が分かりました。

大切なのは、私たちの心が何ごとにも動じないほどに平安に満たされることではなく、神に渇きを覚え、神との交わりを慕い求め続けているという生きる姿勢なのです。私たちの渇きは、神ご自身がまず私たちを「恋い慕って」くださったということ自体から始まっているからです。

 

イスラエルの民は選ばれるに値しない罪人の代表者でした。これは私たちの現実でもあります。神がこの醜い罪人たちを「恋い慕って」おられるからこそ(申命記7:7)、私たちはこの世の快楽に身をゆだねる浮気をしてはいけないのです。

そして、神が私たちのために「新しい天と新しい地」を用意しておられるからこそ、それに思いを馳せ、その世界の種とされるこの地において、神に誠実に仕える必要があるのです。 

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