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2016年7月24日 (日)

民数記31-33章「主の前で戦い、主の前で生きる」

民数記31章~3349節「主の前で戦い、主の前で生きる」

 2016724

   旧約聖書にある民族絶滅の命令とも思われる記述は多くの人々にとっての最大のつまずきです。しかし、それは、約束の地に「神の国」を建てるための一時的なプロセスだということを決して忘れてはなりません。

同時に、現代の日本人にとっての常識と思われる基本的人権の尊重や広い意味での平和主義は、戦後の日本国憲法に基づいた価値観によって形成されてきたとも言えましょう。そこには、明らかに聖書の教えが反映されています。事実、戦前にあった中国人や朝鮮人に対する差別、男尊女卑の考え方、軍国主義による大東亜共栄圏の実現などを思い起すとき、私たちは決して、世界に広がっている報復戦争を野蛮人の論理として軽蔑することはできません。

多くの日本人の価値観が変えられたのは、間接的にせよ、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)というイエスの教えの影響を受けることができたおかげとも言えましょう。そして、それは基本的に旧約聖書の物語の延長にあるものなのです。

 

それにしても私たちはこの地で、「天国の前味」を見て励まされますが、同時に、「地獄の前味」にも目を開いて、主を恐れ、罪を避けることを学ぶべきでしょう。神のさばきは既に存在する事実であるからです。

ただその際、同時に、神の御子ご自身が、「私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)という神のみわざの神秘をも覚えるべきでしょう。

 

1. 「ミデヤン人に主(ヤハウェ)の復讐をするため」

   25章初めでは、イスラエルの民は約束の地を前にして、「モアブの娘たちとみだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった」と記されていました。

これは彼らが約四十年ぶりに異教徒の国々に勝利してヨルダン川東側の広大な地域を支配し、また、モアブの王バラクが有名な占い師べオルの子バラムを雇ってイスラエルをのろわせようとして失敗した直後のことでした。まさにイスラエルの民が神の圧倒的なあわれみのもとで、すべてが順調に行っていると思えた中での、まさかの背信行為でした。

それに対して厳しい神罰がくだり、祭司ピネハスが神の怒りを鎮めるまで、二万四千人が死んだと記されました(25:9)その背後にミデアン人の計略がありましたから、主はモーセに、「ミデヤン人を襲い、彼らを打て。彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを襲ってペオルの事件を・・引き起こしたからだ」(25:1718)と予め命じておられました。

 

そして31章初めでは、主はモーセに、「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる」と言われます。主はミデヤン人の巧妙な企みに激しく怒っておられ、これをモ-セにとっての地上の最後の戦いとして、「主(ヤハウェ)の復讐」(31:3)をすることが命じられます。

確かに、神は、「復讐してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)と告げられますが、同時に、主の主権で、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(申命記32:35、ローマ12:19とも語っておられます。ですから、この記事は、決してこの世的な報復戦争ではなく、主が召された聖なる戦いです。

では、現代の宗教的な熱狂主義者の言う「聖戦」と、ここでの「主の復讐」とどこが違うのでしょう。

 

   今も昔もこの地では、戦う者が自分の正義を訴え、相手が裁きを受けるにふさわしいと断言します。しかし、ここでは、イスラエルの正義は一言も述べられないばかりか、何よりもまず、彼ら自身が厳しい裁きを受けていました。つまり、彼らは、神の前に徹底的に謙遜にされ、さばきの道具として用いられているに過ぎないのです。

私たちの場合も、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」(Ⅰペテロ3:17,18)と言われます。つまり、主は、すべてに先立って私たちのうちにある偽善をあばき、罪に対するご自身の怒りを見せ、私たちには自分の正義を主張する資格がないことを明らかにされるのです。

しかし、現代、人々を戦いへと招集する指導者たちは、自国の正義を訴えるとともに、敵への憎しみを駆り立てて戦意を高揚させます。それは選挙運動でも同じです。しかし、それでは、子供の喧嘩とどこが違うのでしょう。

 

2.「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか」

   なお、これが「主の戦い」であることを示すために、各イスラエルの部族ごとに一律に千人だけが召集され、祭司ピネハスのラッパの号令によって戦いました。

その結果が極めて簡潔に、「彼らは主が(ヤハウェ)がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した(31:7)と描かれます。それは敵の戦士たちを皆殺しにするものでした。さらに、彼らは計略の首謀者のミデヤンの王たちを打ち、またその背後にいたあの占い師バラムをも殺したと描かれます(31:8)

なお、今から三千数百年前の戦いでは、女と子供を奴隷にし、家畜や財産をことごとく奪い去り、町々を火で焼き、略奪したものを携えて凱旋するというのは言わば常識でしたから(31:9-12)、現代的な感覚でその残酷さを責めてはなりません。

 

現代の私たちがこれを残酷と言えるようになったのは、イエス・キリストの福音が世界の常識を変えたおかげです。たとえば、イスラム教のコーランには、「神の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。しかし、度を越して挑んではならない。神は度を超す者を愛したまわない。おまえたちの出会ったところで彼らを殺せ・・・もし彼らが戦いをしかけるならば、彼らを殺せ。不信者の報いはこうなるのだ」(2:190,191)と記されています。

しかもそこには、神ご自身が、「わたしの道のために痛手をこうむり、戦って殺された人々、このような人々がどんな悪事を働いたとしても、これを赦免し、下を河川が流れる楽園に入れてやる」と、「神の道のために殺される者」の祝福が約束されています(3:169,195)

残念ながら、旧約聖書とイスラム教のコーランしか知らない人は、今も、神のための聖戦を肯定し、そのために死ぬことを祝福と考える解釈が可能になるように思えます。

しかし、私たちの主イエスは、「自分の敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と言われたばかりか、神の敵となって自分を殺す人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです(ルカ23:34)と祈ってくださいました。イエスの教えこそ平和の鍵なのです。

 

   ところで、モーセは、戦いから帰って来た指揮官たちをねぎらう代わりに、「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか。ああこの女たちは、バラムのことばに従って、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主(ヤハウェ)に対する不実を行なわせた」(31:1516下線部私訳)と、裁きの不徹底さを責めました。彼女たちこそはイスラエル人を誘惑し、偶像を拝ませた実行者だからです。

なお、ここで初めて、彼女たちを裏から操ったのがバラムであると明らかにされます。

そして続けて、何と、「子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女をもみな殺せ(31:17)と命じられます。それはミデヤン人の血筋自体を断ち滅ぼそうとされる神のご意志の現れです。神は、それほどまでに、イスラエルの民を偶像礼拝へと誘惑した彼らの責任を問うておられます。

イエスご自身も、「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は災いだ…そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた方がましです」(ルカ17:1,2)と、人を意図的につまずかせる者への厳しいさばきを語っておられます。

 

日本人は個人の責任を曖昧にする文化があります。原発事故の責任も不明なままです。靖国神社では、戦争の責任者までも「愛国の犠牲者?」として祭り上げられています。確かに、第二次大戦後のアメリカを中心とした連合国による一方的な裁判には異論があったとしても、責任は問われるべきでしょう。

ここでは、命令に従っただけかもしれない女たちの責任をも厳しく問われていることを忘れてはなりません。

 

しかも、その上で、主の命令で戦い、人を殺さざるを得なかった軍人たちの功績をたたえる代わりに、「死体によって身を汚した(5:1)ことによる(罪の)身をきよめる」(31:19)ため、七日間も宿営の外に留めます。

彼らは神のみこころに従ってミデヤン人を殺したのですから、それは決して道徳的な意味での「」とは異なります。ただ、死体に触れた汚れをきよめなければ、神の民の宿営に入ることができないからです。

しかも、分捕り物の分配も自由にはさせません。古来、分捕り物に与かるのは、戦闘に参加した戦士にとっての最高特権でしたが、彼らはその半分しか受け取れず、残りの半分は一般会衆に分配されました。

 

主は、この戦いを徹底的なご自身の管理下に置いています。主は、ミデヤン人を残酷に扱っているようでありながら、人間的な憎しみをあおってはいません。そして、これこそ、これからカナンの地で続くイスラエルとカナン人との戦いの模範になるのです。

そして何よりも、これが人と人との戦いではなく、徹底的に「主の戦い」であったしるしとして、イスラエルの戦士のひとりも死ななかったと報告されます(31:49)

私たちも「暗やみの世界の支配者たち」(エペソ6:12)との戦いに召されています。しかし、神は私たちを守り通すことができます。そこには苦しみや危険がありますが、「かろうじて」であれ「救われる」のですから。

 

3. 「主(ヤハウェ)の前でヨルダン川を渡り・・・主(ヤハウェ)の前に戦います」

   32章では、ルベン族とガド族がヨルダン川の東側を予め分割して欲しいと願い出ます。そこは標高700mから800mぐらいの高地が続く、牧畜には好条件の地でした。

ところが、そこは、本来の約束の地の外なのです。彼らは非常に多くの家畜を持っていたため、放牧地としての価値をそこに見出したのですが、それは目先の利益に動かされたものです。

その際、彼らは、「私たちにヨルダン川を渡らせないでください(32:5)と言いましたが、それはモーセを激しく怒らせました。それはこの二つの部族が、十二部族の一致を壊し、「イスラエル人の意気をくじいて、主(ヤハウェ)が彼らに与えた地へ渡らせないようにする」ことであると非難しました(32:7)。それは、約40年前のカデシュ・バルネアから遣わされて約束の地を探索した彼らの父たちが、「イスラエル人の意気をくじいたことと同じだというのです(32:9)。その結果、「主の怒りはイスラエル人に燃え上がった・・・その世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野をさ迷わされ」ることになりました(32:13)

それと同じように、「あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民を見捨てられる。そして・・この民すべてに滅びをもたらすことになる」(32:15)と厳しく非難します。約束の地の占領において、主の民のまとまりは何よりも大切な要素だったからです。

 

   それに対し、彼らはモーセのことばを理解し、「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子供たちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます・・・イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません(32:16-18)と驚くべき応答をします。

これは残された家族を危険にさらす恐ろしいことです。

 

モーセはその約束を受け入れ、さらに念を押すように、「もしあなたがたがそのようにし、もし(ヤハウェ)の前に戦いのための武装をし・・・(ヤハウェ)の前でヨルダン川を渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が(ヤハウェ)の前に征服され、その後あなたがたが帰ってくるのであれば・・・この地は(ヤハウェ)の前であなたがたの所有地となる」(32:20-22)と確認します。

そこでモーセは、「主(ヤハウェ)の前()ということばを四回繰り返し、主の眼差しを明確に意識させます。彼らは、ある意味で無謀な賭けに出ようとしているとも言えますが、何よりも大切なのは、(ヤハウェ)の前に誠実に責任を全うすることなのです。そのとき、主の御顔が、残された家族を守り通してくださいます。

一方、その反対に、「もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主(ヤハウェ)に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰がある罪があなたがたを見つけ出すことを思い知りなさい(32:23)と言いました。それは、約束に背くなら、主ご自身が彼らの敵となり、ヨルダン川東の割り当て地をも失うというのです。

私たちもときに目先の不安や損得勘定に動かされることがあるかもしれませんが、何よりも大切なことは、主の御顔の前で誠実を全うすることなのです。

 

25節~27節までは、ガド族とルベン族が、モーセのことばに従い「(ヤハウェ)の前に戦います」と約束し、2829節ではモーセが他の部族に、この二部族が他のイスラエルの民と共に「ヨルダン川を渡り、(ヤハウェ)の前に戦い、その地が征服されたなら・・・ギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい」と命じています。

また、3132節ではこの二部族が最後に、「私たちは武装して(ヤハウェ)の前にカナンの地に渡って行きます」と保証します。

ここでも「(ヤハウェ)の前()」ということばが三回用いられます。合わせると七回この言葉が繰り返されることになります。

そして33節以降では突然マナセの半部族にもヨルダン川東岸の部分が与えられると約束され、39-42節では不思議にも、彼らの占領のための戦いが記されます。

 

なおその後のヨシュア記を見ると、この東の三部族はその約束を守り通し、後にヨシュアから、「今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒めを守ってきた・・今・・ヨルダン川の向こう側の所有地に・・引き返して行きなさい(ヨシュア22:3,4)と責任を解いてもらうことができました。

 

彼らは、主を恐れ、主の御顔を常に意識し、主の前での約束を守り通しました。これは私たちの場合にも適用できます。主は、少々無謀な選択でも、私たちの主体的な決断を差し止めはしません。それは、主が当初のご計画に反すると思われたルベン族とガド族の要望に応えられたのと同じです。

ただし、その結果に責任を負い続けるように厳しく問い続けられます。私たちは人生の岐路に立ったとき、「どちらが主のみこころでしょう?」と問うことがありますが、しばしば、主のみこころとは、右か左かの選択よりは、いつでもどこでも、主の御顔を意識し、目の前の課題に誠実に向き合うという生き方自体にあるのです。

  

4. 「旅立って・・宿営し・・」

   33章ではイスラエルの民の四十年間の旅程が記されます。出発点はエジプトのラムセスです。興味深いことに、8節で「海の真ん中を通って荒野に向かい」と、ごく簡潔に海を分けた奇跡が述べられ、マラから9節のエリム、15節のレフィデイムと、水を巡ってのことが描かれます。

その直後の「シナイの荒野」は十二番目の宿営地として描かれますが、そこには約二ヵ月後の「第三の月の新月」に到着します(出エジプト19:1)。そして、そこで契約の石の板を受け、過越しの祭りを祝い、第二年目の第二の月の二十日に・・旅立ち」ます(10:11)

1718節のキプロテ・ハタアワ、ハツェロテのことは民数記1112章に記されていますが、18節のリテマから29節のハシュモナに至る12の地名はここにしか登場しない不明の地です。

 

31節のベネ・ヤアカンとモセロテのことは申命記106節では逆の順番に記され、アロンはモセロテで死んだと記録されます。つまり約40年前と同じ地を巡っているのです。

それからすると36節のカデシュへの到着は第二年目のことと理解でき、本来そこからすぐに北上して約束の地に上るはずだったということになります。しかし、神に背いた彼らは、18節~36節の地を40年間近くさ迷って、38節の第四十年目の第五の月の一日・・アロンはホル山で死んだ」という記事に結びつくのかと思われます。

その後彼らは、そこから東に向かい、その後、南下してアカバ湾岸に達し、そこからエドムとモアブの東側を迂回してモアブの北の草原に宿営しているのだと思われます。ただ、この歩みについても、不明な部分があります。

 

   ここには全体として、「旅立って・・宿営し」41回繰り返されますが、それは荒野の四十年の旅の象徴と言えます。しかし、この繰り返しに、主の臨在を覚えることができます。

それは、神の幕屋が完成したとき、栄光の雲が幕屋を覆い、「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた・・彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った(9:1723)とあるからです。

つまり、迷っているようでありながら、主が彼らの真ん中に住んで、彼らを約束の地に導いてくださったのです。私たちも、「一寸先は闇・・」と思えるようなこと、不安に押しつぶされそうになることがあるかも知れません。しかし、主は私たちとともに歩んでくださるのです。

 

   神が私たちに将来のことを隠し、しばしば苦しみを敢えて許されるのは、私たちを謙遜にするためです。ただ、そのような中でも、私たちの最終的な勝利はキリストにあって保証されていることをも決して忘れてはなりません。

先が見えないと思える中で、次のみことばを心から味わってみましょう。

 「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:5-7)。

 

   人生にはときに、「神が愛なら、どうしてこのようなことが・・」と思えることが起きますが、天地万物の創造主の御前に遜り、「主(ヤハウェ)の前に」誠実を尽くすことこそすべての鍵です。

わざわいの理由は分からなくても、神がこの世界を平和の完成(シャローム)へと導いてくださることは分かっているのですから。

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2016年7月17日 (日)

ルカ19章11-27節「誰でも持っている者は、さらに与えられる」

                                             2016717

  現代の多くの人々は、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏の独創的な発想の恩恵を受けて生きています。彼は、「ドグマ(教義)に囚われてはいけないーそれは他の人々が考えた結果に従って生きることだー他の人の意見の雑音によって、内なる声をかき消させてはならない。自分の心と直感に従う勇気を持つことが最も大切なのだ」と言いました。

彼は自分の心の声に素直に耳を傾けた結果、人々が自分でも気づかずに求めている物が何かということに目が開かれ、人の役に立つ製品を次々と生み出してきました。

なお、彼が否定するドグマの中にはキリスト教信仰も含まれていたように思えますが、少なくとも私の場合は、この言葉と自分の信仰に何の矛盾も感じません。私にとっての信仰の原点は、人との比較や人の期待から自由になる道でもあったからです。だからこそ、私は米国で信仰に導かれました。

 

私はずっと、他人の目を意識しながら生きてきました。そして、自分の感性に自信を持てず、「他の人はどう感じるのだろう…」と、いつも気にしていました。性格分析を受けた時なども、異常という結果が出ないかと恐れていました。せっかく信仰に導かれても、「私の信仰はどうしてこうも弱いのか」などと迷っていました。

しかし、自分の信仰は、全宇宙の創造主がこの私に目を留め、ご自身のことを知らせてくださった結果であるということが分かり、自分の存在価値と使命に目が開かれるようになりました。

最近は、聖書から教えられたことを自分の感性で受け止め、文章として公表するようになっていますが、かつては恥じていた自分の感性を表現するときに、驚くほど多くの人が、「私も同じことで悩んでいたので、慰められました」と応答してくださいます。

自分の感性を受け入れられると、不思議な自由を体験できます。

 

1.「人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていた」

19章1-10節では有名なザアカイの救いのことが書いてあります。そこでは、イエスが嫌われ者の取税人ザアカイの家に泊るという当時としては奇想天外なことが強調されています。その結論が、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10節)と記されます。

ザアカイは自分の信仰によって救いを獲得したのではなく、イエスご自身が、失われたザアカイを探し出し、その名を呼び、彼の客となることによって、彼に人生の方向転換をさせたのです。

救いの主導権は徹底的にイエスの側にありました。これは私たちすべてに当てはまる真理です。自分の信仰ではなく、イエスの真実に目を留めましょう。

 

しかも、イエスが、「きょう、救いがこの家に来ました」(9節)という「この家」は、「取税人のかしら」の「家」であり、税金を徴収し、計算する働きの現場、彼の手下たちが指示を受けている現場でした。

ローマ帝国が世界に平和な秩序を保つためには、支配地から税金を集めるのは不可欠でした。それはユダヤ人にとっては汚れた仕事だったとしても、神の目には必要な仕事と見られていたのではないでしょうか。必要なことは、この仕事をなくすことではなく、この働きが公平に正しく行われることでした。

 

   そして不思議なことに、「人々がこれらのことに耳を傾けているとき」、「イエスは、続けて一つのたとえを話された」と話題が転換します(11節)。つまり、ザアカイの物語とこのたとえは全く別のようでも深い関連があるのです。

そこには、「イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていた」ということの誤解を正すという目的があります。その際、イエスがこの話をされたのは、ザアカイの家であるという場面設定が極めて大きな意味を持っています。

当時の人々にとって、「神の国が・・・現れる」とは、ユダヤ人がローマ帝国からの独立を果たしてダビデ王国を再現することを意味しました。イエスの弟子たちは、イエスが「ダビデの子」である「」として即位し、自分たちが大臣になって、権威を発揮できることを期待していたことでしょう。しかし、イエスは今、ローマ帝国の支配の手先である取税人の家でもてなしを受けているのです。彼らには到底理解できないことでした。

 

   その中でイエスのたとえは、当時の政治状況を反映していました。ヘロデ大王の死後の紀元前四年頃、彼の二人の息子アルケラオスとアンテパスがローマに上って、それぞれ自分をヘロデ大王の後継の王にしてくれるように皇帝に訴えるということがありました。その際、アルケラオスの方が優位に立っていました。

ですから、イエスが、「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」(12節)と言われたとき、聴衆の心の中には、そのような具体的なイメージが沸きました。

イエスはこのような生々しいたとえを用いながら、ご自分はエルサレムで人々の期待するような王にすぐになるのではなく、遠い国に行くように、人々から見捨てられて死に、よみがえって天に上った後、神の国を、弟子たちを用いてこの地に広げるということを理解させようとしました。

そこではこの世の権力と衝突する危険が伴っていました。弟子たちには、何が起こるか分からない世界での冒険が求められていたのです。

 

そのような前提で、「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」(13、14節)と描かれます。

ヘロデの息子のアルケラオスは自分の不在中のことをその家臣たちに委ねてローマに行きました。ただ、その間、実際にユダヤ人たちは皇帝に使いを送って、アルケラオスを王として認めないように嘆願していました。なぜなら、彼はエルサレムで三千人のユダヤ人を虐殺するという残虐行為を行っていたからです。

 

つまり、留守中のことを任された「十人のしもべ」は、王とのある意味での信頼関係があったように思われますが、「国民たち」はこの人を王とは認めないというのです。

この点でも、イエスとアルケラオスとには共通点があります。イエスも、まったく異なった理由であるにせよ人々から拒絶されます。そして、イエスの弟子たちは、イエスを王として認めない人々の間で、イエスから任された働きをするように委ねられます

少なくともこの話を聞いていたザアカイとその仲間には、イエスのたとえは極めて現実的な意味を持っていたことでしょう。取税人は、ローマ皇帝によって立てられたユダヤの王(またはローマ総督)から任された仕事を行っていました。しかし、彼らが仕えるその王(または総督)は、ユダヤ人からは憎まれていました。人々から憎まれている王の手下として働くことは、なかなかやる気が湧かないものです。

 

私たちが主と仰ぐイエスは、人々から憎まれてはいないにしても、この世界の王であるとは認められていません。「私は、王であるイエスのために働きます・・・」ということを理解してもらえない人々の間で、イエスの眼差しを意識して、イエスから任された働きをするように私たちは召されているのです。

 

2.「ほんの小さいことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」

   イエスのたとえでは、この高貴な人は、アルケラオスとは異なり、きちんと王位を受けて帰国しました。その上で、「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました』」(15,16節)と話が展開されます。

一ミナとは当時の労働者や兵士の「百日分の労賃」に相当します。ですから、五十万円の元手で五百万円儲けたというようなことです。これは、かなりリスクを伴う投資を、知恵を使って行い、見事に成功したということでしょう。

 

しかも、このしもべは厳密には、「あなたの一ミナが十ミナに増えました」と、自分の努力ではなく王の財産が自動的に増えたかのように表現します。それに対して主人は、『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』(17節)と言います。

それは、まるで一挙に、県知事に取りたてられるようなものです。主人は彼のチャレンジ精神を高く評価しました。

その後、二番目の者が来て、『ご主人さま。あなたの一ミナが五ミナを生みました』(私訳)と、先ほどよりは少ないにしても、五倍に増えたことを、同じように主人のものであると謙遜に申し出ましたが、それに対しても主人は同じように、『あなたも五つの町を治めなさい』という報酬を与えました(18,19節)。

 

 このたとえと似たものが、マタイ福音書25章14-30節で、タラントのたとえとして出てきます。ただ、そこでは、「おのおのその能力に応じて」(15節)と任される財が違っていました。しかも、そこに出てくる「タラント」は労働者20年分の給与に相当し、五タラント任された人は100年分の給与と言う途方もない金額でした(タレントということばはこれに由来します)。

つまり、そこでは、主人はそれぞれの能力をすでに評価した上で、それにふさわしい財産を任せたのです。一方ここでは、それぞれに百日分の給与に相当する一ミナだけが同じように任されています。それは、それぞれの能力を計るための試験のようなものとも解釈できます。ミナの試験に合格した者がさらにタラントをあずけられるようなものとも言えましょう。

 

どちらにしても、共通しているのは、任された資産を積極的に運用することが求められていたということです。このたとえで明らかなように、イエスは商売や投資でお金を増やすことを喜んでおられます。

多くの人は株式市場をお金儲けの場としか考えていませんが、本来は社会全体で自由な発想を励まし、育ててゆくシステムなのです。ジョブズが大学を中退して間もなく、自宅のガレージで友人の技術者ウォズニアックと共に画期的なパソコンを開発し、会社を立ち上げたのは1976年4月のことでした。

彼らはこれでお金持ちになろうなどとは思っていませんでした。ウォズなど、無料で自分の製品を人に分かち合うつもりでした。ジョブズが利益をあげることにある程度の関心を持ったのは、人に妥協せずに自分の作りたいものを作って世に出すために他なりません。

ただそれでも、彼らには製品化をするための資金がありませんでした。そこに当時33歳の資産家マイク・マークラーが現れます。彼はジョブズと意気投合し、三人の共同出資による法人を立ち上げます。1977年1月のことです。当時の会社の資産価値は、たったの5309ドル(43万円)でした。

しかし、新しいパソコンは爆発的に売れ、4年も経たないうちに株式が公開され、1980年12月に株式が公開された時には発行株式の価値が17億9千万ドル(1460億円)に達しました。それから5年後、ジョブズは、余りにも自分の意見を曲げないためか、自分が立ち上げた会社から追放されます。その後、紆余曲折を経ながらも、彼は株式公開で手にした資産を元に新事業を展開することができました。

そして1997年1月には、マイクロソフト社に追い詰められて倒産寸前になっていたアップルに再び招かれ、新製品の開発によって会社を再建しました。iPodiPadiPhonの成功により、20128月にはアップルの時価総額は6千億ドル(約48兆5千億円)に達し、世界最大の企業になります。その後、株価は若干下がったものの20164月末の時価総額の比較では、トヨタ自動車(18兆円)の三倍、三菱UFJ銀行の七倍余りもの時価総額(5130億ドル、554千億円)に達しています。

 

日本でジョブズに相当するのは、孫正義氏でしょう。彼が24歳で日本ソフトバンクを起業する際、当時のシャープ中央研究所長の佐々木正氏がご自分の退職金や自宅を銀行に担保として差し出して、一億円の融資を可能にしてくれました。

佐々木氏は、何よりも孫氏の正直さと宇宙の果てまで見通したいという好奇心が瞳の中に宿っていることに「惚れてしまった」と述べています。

一ミナで、十ミナ儲けるとは、そのような、自分の理想を徹底的に追求しようとする冒険心があって初めて可能になることでしょう。「この世の子ら」(16:8)がこれほど大胆な生き方ができるのに、「光の子ら」である私たちはもっと大胆に、全能の神の御手にあって、チャレンジすることができるはずではないでしょうか。

永遠のいのち」が保障されている私たちこそ、失うこと、失敗する恐れから自由に大胆に生きることができるはずです。

 

3.「持たない者からは、持っている物までも取り上げられる」

 ところが、「もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから』」と、先のふたりとは正反対の態度を取った人が登場します(20,21節)。

彼は失敗を恐れてリスクの伴う投資ができませんでした。それは、主人のことを、決して失敗を許さない、不当な要求を課す横暴な者であるかのように見ていたからです。これは、この主人を、アルケラオスと同じ種類の人間として見ていたということを意味します。またこれは、当時のパリサイ人たちが説いていた神の姿を示してもいます。

 

それに対し、主人は彼に、『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか』(22節)と言います。これは、主人が実際にそのような人間であるという意味ではなく、そのしもべが、主人を、そのように評価していたということを非難したものです。

その上で、主人は、『だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ』と言います。なお、ここで「銀行」というのは意訳で、厳密には、「(両替人や金貸し業者の)テーブル」と記されています。当時はまだ銀行などは存在しません。ただBankということばは、この「テーブル」または「ベンチ」に由来します。

ここには、「悪いしもべ」が主人を、高利貸しと同じ種類の人間と見たことに対して、それなら同類の高利貸しにでも預けておくべきだったと皮肉を言ったものです。しかも彼は、お金の流通を止めることで、お金のもっともすばらしい機能を殺してしまっています。これこそさばきの対象となります。

 

   その上で、主人は、「そばに立っていた者たち」に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい』と言いました(24節)。これは彼が、そのしもべが見ていたと同じ厳しい主人として振舞うことを意味します。

イエスはマルコ4:24,25節で、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」と言われました。

つまり、持っている一ミナまで取り上げられたのは、彼が主人をそのように見ていた、その同じ量りが自分に適用されたという意味です。もし、彼が主人を寛大な人と見ていたとしたら、彼自身も寛大に取り扱ってもらうことができたのです。

 

ですから、ここでも、この様子を見ている人々が、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言ったことに対し、主人は、『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです』と答えています。

それは、主人への「信頼」を持っている者、私たちの場合は「イエスへの信仰」を「持っている者は、さらに与えられ」ということの一方で、主人への「信頼」を持っていない者は、終わりの日には「持っているものまで取り上げられる」というのです。

私たちがイエスをどのように見ているか、そのはかりで、私たちが終わりの日にはかられるのです。

 

   しかも、このたとえの最後では、「ただ、私が王になることを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の前で殺してしまえ」(27節)という厳しいさばきが記されます。それは、イエスを十字架にかけようとしているユダヤ人に対する神のさばきを預言することばでもあります。

これから四十年後のエルサレムに、この警告がそのまま実現しました。イエスを拒絶したユダヤ人は、神殿も国もすべてを失ってしまったのです。ですから、イエスの厳しい警告には、ご自身を憎む者たちへの愛が込められているのです。

イエスのことばを信じた人々は、エルサレムが滅びる前に逃れることができました。世の終わりにも同じことが起こります。その時に後悔しても、イエスを信じなかった者は、救われようがないのです。

 

   これと旧約最後の書マラキ3章3-5節の主のさばきは並行します。そこでは続けて、主に立ち返ることが十分の一を主に献げることとして記され、大胆に主に信頼することの報いが約束されます。

イエスの時代のイスラエルの民は、イエスのエルサレム入城を王としての現れと見ることができず、すべてを失います。一方、それを信じた人々は、主の十字架と復活によって始まった神の国の指導者として用いられます。

イエスの弟子たちはまさに神の国の指導者に取りたてられたのです。それは権力と富が伴う支配権ではありませんでしたが、彼らは確かに偉大な働きを任され、後の世の報酬が保障されたのです。まさに、何も持っていないようでも、イエスとの生きた関係を「持っている者は、さらに与えられ」るのです。

 

ここに登場する王が十人のしもべに等しく一ミナずつ預けたように、イエスは私たちにはひとりひとりに、まったく同じ神の霊、聖霊を与えてくださいました。

その際、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)という命令を聞きます。御霊は私たちに五倍、十倍の実を結ばせてくださいます。御霊は、それぞれの心の内側に、王なるイエスへの信頼を与え、失敗を恐れず、大胆にイエスの父なる神が支配する国のために生きるように励ましてくれます。

そしてマラキ3章10-12節で、主が、「十分の一をことごとく宝物倉に携えて来てわたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ・・・すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる」と招いてくださっているように、与えられた地上の報酬をさらに大胆に献金としてお献げしながら、主とお交わりを深めるという好循環の中に生かされることができます。そこに自由な喜びに満ちた祝福の成長が見られます。

私たちは、預けられた「御霊を消す」ことなく、御霊によって生きるように召されています。それは人間的な尺度を越えた、神のみわざの中に生きることです。

 

あなたは神によって召された結果、この礼拝の場に集っています。神はあなたを通して「神の国」をこの地に広げてくださいます。この世と調和して、人々の期待通りに生きるのではなく、神がご自身の御霊によって示してくださるビジョンに従って大胆にチャレンジして行きましょう。

人々の顔色を見るのではなく、神があなたに与えてくださった感性とビジョンを生かして生きることが何よりも求められています。

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2016年7月10日 (日)

ルカ16章1-15節「まことの富の管理者として生かされるために」

ルカによる福音書161-15節 「まことの富の管理者として生かされるために」

                                             2016710

   私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」などと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。

私は、証券市場は大切だと思っていますし、あの会社にいた多くの人々を今も好きだからです。それでふと思いました。取税人をやっていたマタイも、同じような複雑な思いを味わっていたかもしれないと・・・。

 

そんな彼の気持ちになると、今日の記事の意味がわかるのではないでしょうか。マタイは、「取税所にすわっている」ときにイエスから声をかけられ、すぐに弟子となりました(5:27)。彼は、税金を取り立てる仕事の最中に声をかけられたのです。

イエスはその仕事を軽蔑したというよりは、その働き振りを評価して、ご自分のメッセージを書き留めさせるための弟子として選ばれたと考えることもできるかもしれません。

 

1.「いつ管理の仕事をやめさせられても・・・」

   1節の「この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」という「乱費」とは1513節の放蕩息子が「財産を使ってしまった」というときと同じことばです。この「不正な管理人」は、「ある金持ち」と呼ばれる主人の財産を自分の遊興のために使ったのでしょう。彼は解雇を言い渡され、今までの「会計の報告を出す」ように命じられました。

彼はこの仕事を取り上げられたら生活の目処が立ちません。彼はその絶望的な状況を、心の中で、「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしいし(16:3)と表現します。つまり、彼が生計を立てるためには、この仕事以外の選択肢は考えられなかったのです。

 

彼は、今の自分に何ができるかを真剣に考えました。彼は、奴隷ではなく、大きな裁量権がゆだねられていました。その中で彼は、主人の債務者の債務を合法的に大幅に減らしてあげることを思いつきました。その目的が、「こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう」(16:4)と記されます。

ここでは二人の債務者が描かれ、それぞれ油百バテと小麦百コルの借財があったとのことです。これはかなりの金額に相当します。「油百バテ」とは、注にあるように3,700リットルに相当します。これは、一斗樽では二百樽あまり、146本のオリーブの木を必要とするほどの大きな分量だと言われます。

また「小麦百コル」というのも37千リットル、米俵にすると五百俵あまりです。これは明らかに商業取引の規模です。彼は自分にまだ残されている裁量権を利用して、商売相手を「友」にしたのです。

 

ところで当時、律法によれば、彼らは同胞に貸すとき、利息をとってはならないことになっていましたが、現実には、利息という名前を避けながら、借りた者の商売の果実のある部分を受け取ることを条件に貸していたのが当たり前でした。油の債務を半額にするのはやりすぎとも見えますが、当時は油の貸し借りに関する限り年率100%などは法外な利息ではありませんでした。液体の純粋さを保つことは容易ではなかったからです。

一方、小麦の場合は保存が容易で、二割程度の利息ということもあったことでしょう。つまり、彼は、利息に相当する部分の債務を帳消しにし、債務を元本と同額にまで減らしたとも考えられます。

 

そして、ここには建前と本音の違いがあるのだと思われます。主人は、律法の解釈を超えた商取引の常識にしたがって利息を取って貸すことを期待していました。そしてこの不正な管理人はある意味で主人の暗黙の意を汲むのと引き換えに、この財産管理から得た利益を自分のために用いていたことでしょう。

これは当時の取税人と同じです。取税人は、ローマ帝国から決まった賃金を受け取っていたわけではなく、集めた税金と政府に収めた税金の差額を合法的に自分の財産としていました

つまり、この管理人も取税人も驚くほどの自由裁量が与えられ、厳密な報告などは求められなかったのが普通だったと思います。ただ、この管理人はそれをあまりにも無節操にやり過ぎました。

ですから、この管理人が突然、会計の報告を求められ、「私は今までのやり方を反省し、律法に従って、利息を取ることをやめました。油五十パテ、小麦八十コルが、それぞれ彼らに貸した量です」と言うなら、主人は管理人を責めることができなくなります。

 

もちろん、この管理人が油の証文を半分にしたことには、主人も気を悪くすることは明らかです。しかし、この管理人は自分の生活がかかっていますから、主人の不興を買うことを十分承知の上で、大胆な行動に出ました。

そして、彼がやったことは法律的な見地からは、まったく非難されようがなかったことでした。

 

2.「賢さ」の肯定―「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなく(賢く)やったことをほめた」 

主人は、不正な管理人がこうも抜けなくやったことをほめた」(16:8)とありますが、「抜け目なく」とは原文では「賢さ」を表す良いことばでもあります。そして原文ではその後に、イエスはそれを一般化して、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子よりも賢いのだから」と付け加えています。

つまり主は、「光の子」に、この世における財産管理を「賢く」行うことを命じておられます。そしてこの話の結論として、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」と言われますが、この「不正の富」とは当時のパリサイ人たちの言葉遣いであって、「この世の富」とも言い換えられます。

たとえば日本でも、昔は、生産活動自体ではなく、商業的な取引や金融業から生まれた富を軽蔑した時代があり、それらが「不正な富」とみられることもありましたが、その感覚と似ていることでしょう。それは経済を知らない人が勝手につけたことばです。

 

 残念ながら、今も昔も、キリスト教会には賢さ」を軽蔑する風潮があるのかもしれません。牧師の息子として生まれ五歳で父を亡くしたニーチェは、それに強く反発しました。

そして、キリスト教道徳においては、「善」と「愚かさ」を互いに近づけようとする傾向があり、人に恐れを感じさせるような「強さ」は「悪」と見なされがちであると分析し(「善悪の彼岸」261)、それは、人間の生きる力を失わせ、成長を阻む教えであると強く非難しました。

確かにイエスは「貧しい者は幸いです・・・富む者はあわれです(6:20,24)と不思議なことを言われ、特にルカは、イエスが社会的弱者や軽蔑された取税人にいかに優しく、金持ちや権力者に厳しかったかという面を強調しています。ですから、新約の教えには、人の向上心や賢さ、情熱などをくじき、弱さや怠慢への居直りを助長する恐れがあるという解釈が生まれるのも無理はありません。

 

この「不正な管理人」のたとえは、新約聖書しか知らない人にとっては、「道徳」に反するように見えるかもしれませんが、旧約聖書の流れからすれば、極めて自然な教えだと思われます。

たとえばエリコの遊女ラハブは敵将ヨシュアの二人のスパイを匿い逃がすことで神の民に受け入れられましたが、エリコから見たら国を売った悪女の代表となりかねません。この世の善悪の判断を超えた視点が提示されています。

 

信仰の父アブラハムは、神の御声に従って約束の地に向かった時点で、すでに多くの財産や奴隷を抱えていましたが、彼の生涯の物語の核心とは、非常に裕福であったにも関わらず、神に従うことを第一として歩んだということにあります。

ヤコブの物語においても、父の家から杖だけを持ってひとりぼっちの旅を始め、結果的に多くの財産を与えられた様子が描かれます。彼が神に従うことは、神に訓練されましたが、蓄財や財産管理に関する能力がどのように育まれたかに関しては何の説明もありません。彼は生まれながら計算に秀でていたとも言えましょう。それが、ラバンの家畜を世話することにおいて豊かに現されています。

聖書は、私たちが富の奴隷になることを繰り返し戒めています。その意味で、聖書は私たちに財産の殖やし方を教える代わりに、財産の捨て方、使い方を教えているとさえ言えるかも知れません。

 

アブラハムもヤコブも、神の祝福を受けて、豊かな富を手にしましたが、それは、彼らが既に、財産管理能力を与えられていたことが前提とされています。その意味で、私たちは聖書と同時に、この世の知恵から財産管理能力を学び取る必要があるとも言えるかもしれません。

そのことが8節では、「この世の子ら」の「賢さ」に見習うことを命じるかのような表現になっているのだと思われます。これはたとえば、教会音楽を志す人が、福音を音楽で表現するために聖書を学ぶ必要があるのは当然でも、何よりも多くの時間を演奏技術を磨くことに費やすのと同じです。人は、演奏を学ぶように、お金の管理を学ぶ必要があります。

 

これをもとにイエスは、「不正の富で友をつくる」ことで、「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです(16:9)と不思議なことを言われました。「富がなくなったとき」とは、厳密には「終わったとき」と記され、この地上の命がなくなるときを指すと思われます。

この「不正な管理人」は、解雇された後で、債務を免じられた「人がその家に私を迎えてくれるだろう(16:4)と期待していたのですが、イエスはそれを「永遠の住まいに迎える」という視点に置き換えて話しました。確かに、この不正な管理人は、自分が解雇されたときの就職先という意味でしか考えていなかったかもしれませんが、イエスはその行為を、任された権威を有効に用いて隣人を助けることとして理解してくださったのです。

 

このたとえは1619節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえと対照的です。死後に、物乞いのラザロは「アブラハムのふところ」と呼ばれる天国に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇です。

それはこの「不正な管理人」のたとえを聞いた、「金の好きなパリサイ人たちが・・あざ笑っていた(16:14)ことに対してのたとえでしたが、パリサイ人が「金が好き」と描かれるのは猛烈な皮肉です。彼らは、「不正の富」を軽蔑すると公言しながら、内心はお金が大好きでした。

「金の好きな者」とは原文で「フィラルグロス(金銭愛者)」という言葉が用いられており、友への愛(フィレオー)と比較すると理解しやすい概念です。自分の損得勘定を友情よりも優先する者は、金銭愛者と呼ぶことができます。このたとえでは、お金の話を軽蔑していたパリサイ人こそが、イエスの目からしたら金銭愛に囚われている者であるという皮肉が記されているのです。

 

パリサイ人は、聖書のお話をして人々からお金を受け取るようなことはしませんでした。そこに彼らのプライドがありましたが、心の底では、自分のプライドを守るためにお金のことを考えていたのではないでしょうか。

私たちも、この世の経済活動を「お金儲け」などと軽く見ながら、パリサイ人のようなプライドに囚われ、それを維持するために、無意識のうちにも金銭愛にも囚われていないかが問われています。

 

3.「他人のものに忠実」とは?

そしてイエスは、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(16:10)と言われました。このみことばは、私たちの生活のあらゆる部分に適用できる教えで、「小事は大事」ということわざにも通じますが、ここでは、「小さい事」とは、まず第一に、「不正の富」(16:11)の管理を指しています。

昔から、聖俗二元論という考え方があります。それは、この世の仕事は俗なもの、低級なもので、教会での働きは聖なるものであるという考え方です。

イエスはご自身の弟子たちの中核に、エルサレムで聖書をよく学んでいる人ではなく、ガリラヤ湖で魚をとっている人を置きました。イエスの目には、彼ら漁師こそ、「小さい事に忠実な人」と見えたからこそ、大きな福音を託したのです。

 

また、イエスは取税所に座るという「小さい事」に忠実だったマタイに、とてつもなく「大きい事」、つまり、ご自身の五つの長い説教を書き留めさせることを任されました。それはまさに、「まことの富を任せる(16:11)ということを意味しました。取税人に神のことばの管理を委ねるなど、当時の誰が想像できたでしょう。

そして、「小さい事」とは、第二に「他人のもの(16:12)の管理を指しています。この「不正な管理人」は、主人の財産に対しては「不忠実」であったとも思えますが、事実は、この主人は彼が賢くふるまったこと自体を「ほめた」のです。神は私たちが与えられた能力を生かしてよく考えることを喜んでおられます

 

なお、ここで「他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」というのは、矛盾のように思えます。なぜなら、人は誰でも自分のものを持っており、自分のものを管理できて初めて他人のものまで任せてもらえると思うからです。

しかし、私たちの「富」は、実は、自分のものではなく、神から預けられているものに過ぎません。この地で預けられている富を管理するということは、神が私たちに与えてくださる「神の国の富」を持たせていただけるための訓練期間であるというのです。

 

この世的に考えると、お金に無頓着な人こそが神の働きができると考えられる傾向があるかもしれませんが、主の目からしたら、「お金の管理さえできない人間に、大きな働きをどうして任せることができようか・・・」という問いかけとも解釈できます。

この原則は、この世の富に関しても適用することができます。Time is moneyという格言で有名なベンジャミン・フランクリンは、それに続けて、Credit is money(信用は金なり)と言いつつ、「金銭には元来、繁殖力と結実力のあることを忘れてはならぬ金銭は金銭を生み出すのであり、生み出された金銭はさらに多くの金銭を生み、次々に同じことを繰返して行くのである・・・『支払いの上手な人は万人の財布の主人となる』という諺を忘れてはならぬ。約束の期限までに、日限を違えず、かつ正確に支払うことで定評を得ている人は、友人が差し当たって必要としない金銭を、いつでも借りることができる。信用に影響を及ぼすことなら、どんな些細な行為も注意しなかればならぬ」と記しています。

キリスト者として、神の眼差しを常に意識しながら生きることは、結果的に、周囲の人々の信頼を得ることにつながるはずです。そして、それは、この地においてより多くの富を任せてもらえることにもつながります。

 

   イエスは続けて、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません(16:13)と言われました。お金や能力は、罠となります。それは、自分を世界の中心にし、自分を誇らせ、自分が神と人の助けなしには生きることができないひ弱な存在であることを忘れさせるからです。

お金は、神と人に仕える「手段」に過ぎません。ところがしばしば、「手段」に過ぎないはずのものが「目的」となり、お金を賢く使うことよりも、お金儲けのために神と人とを利用するということになりかねません。そのとき、人は、お金の奴隷になっているのです。

そのような人は、欲望に駆り立てられ、お金が与える豊かさを真の意味では味わってはいません。つまり、自分のものを持っているようで、それを真に自分のものにはできていないのです。

しかし、神のしもべとして生きる人には、最高の自分のものとしての、「永遠のいのち」、すなわち、「神との生きた交わり」を自分のものとして持たせていただくことができます。

 

信仰の目的は決してこの世的な成功ではありませんが、この世的に成功することを軽蔑するようなこともあってはなりません。「成功すること」も「神の恵み」のひとつです。問われているのは、あなたの真の主人は、富でも名声でもなく神であるのかということです。決して「負け犬の遠吠え」のようなこの世を軽蔑した信仰にならないようにしたいものです。

この世に誠実に仕えることは、「小さい事に忠実」であるという証しです。この世の成功は「小さい事」ではありますが、神の栄光のために大きく用いられる宝でもあります。

 

あなたにもこの世で任されている権威があることでしょう。「地上の主人」の上におられる「天の主人」の観点から自分の仕事を見直し、仕事を、神の国の管理者の立場から見直すことが求められています。

パウロは、「堅くたって、揺るがされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と励ましましたが、これは日々の仕事すべてが、主にあっての働きになるという意味です。

いのちを窒息させる生き方ではなく、失敗を恐れず、大胆に、任された富と能力を賢く用いましょう。日陰のもやしのような信仰生活ではなく、光の創造主である方に向かって力強く生かさせていただきましょう。そこには信仰者の真の自由が生まれます。

 

イエスは、「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた(16:14)ことに対して、「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です(15)と言っています。そして彼らの偽善を指摘する意味で、「神は、あなたがたの心をご存知です」と言われた上で、「人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」と驚くべき逆説を言われました。

多くの人の心の内にある最後の願いは人から尊敬されることですが、それが人を偽善に駆り立てます。パリサイ人たちは、この名誉欲の罠にあまりにも無防備なばかりか、自分の評判を正当化していました。

しかし、富と名誉は、人間にとって何よりの偶像となってしまうものです。そして、パリサイ人は、地上における自分の名誉のためにお金を用いていました。それに比べて、この不正な管理人は「他人のもの」である財を、友のために用いることを思いつきました。

私たちも「永遠の住まい」である神のご支配の観点から富を管理することが求められています。

 

私たちには真の富である福音の管理が任されており、それによってこの地に神の平和(シャローム)を広げることができます。そして、お金はそのために極めて有用な手段であり、それは全世界の創造主から一時的に管理を任されている大切なものです。

主から与えられた人生の真の目的を、聖書全体から理解することこそが、お金を賢く管理させていただけるために最も大切なことです。人生の意味も目的も理解しないまま多額のお金を手にする人は、とてつもなく危ない所に立たされていることを忘れてはなりません。

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